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ぼとり、という耳慣れない重い響きに目覚めてみると、白壁の室内が陽の光に満ちている。音の在り処を追い窓を開けてみれば、実りの重さに耐えかねたオレンジがまた一つ、庭の芝生に落ちたところだった、ぼとり、と。はじめて耳にするその響きの新鮮さに胸が躍り、視線をあげるとあふれる光のそこかしこに、レモンやグレープフルーツが実をつけている。2月のさなかに。もぎとった一つを口にし、異世界に来たのだと、思った。わたしはこうして、サンフランシスコと出会った。
Feb 25, 2005
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冬の移動は嫌いだ。荷物が夏より増えるから。爪とか歯とか末端に異常なこだわりを見せる国へゆくのに、ばたばたしすぎてマニキュアもできていない。おでこが痒く、赤くなり間抜けだ。いい歳しながらにきびができたから。3週間ぶりに恋人に会うというのに。明日からしばらくアメリカだ。西日本の伝統を重んじるカーナちゃんに従って、研究室で西南西に向かい一言も口をきかずに丸かぶり寿司を食べてきたから、すてきな旅行になるに決まっている、きっと。
Feb 4, 2005
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今日のチャットはドイツ語で行ってみた。ビデオチャットが不調だったから。タイピングだと、どうせタイムラグのあるチャットになるから、ここぞとばかりに。語尾変化やスペルがちょこちょこと訂正されてスクリーンに戻ってくる。さすがネイティヴ、ドラちゃん(笑)。ことばが流暢に操られる場面にコロリといく癖のあるあたしは、ドラちゃんのネイティヴっぽい(笑)表現にメロメロ。結構いけるわ・・・と調子にのってドイツ語を書き散らし、そろそろお別れという、締めの言葉のここ一番でぐっと詰まった。甘い言葉が出てこない。プチ遠恋中の愛する相手に'bis morgen'もないだろう。'tschues!'に至っては「ほんじゃまた!」なわけだし。'Gute nacht'?ーオッサンぽい。'ich liebe dich'?ー安売りできない言葉だ。'ich habe dich liebe'?ーワンパターン。'viele kuesse' ?ーもうひとひねり欲しいとこ。ドイツ語の甘い言葉が出てこないのは、なぜと考えてみなくても当たり前。ドイツ語で甘い言葉を言われたことが少ないのだもの。ドラちゃんは、甘い言葉は日本語か英語で言いたがる。ときにはフランス語でさえも。それをドイツ語でどう表現するのかすら、教えてくれるのを渋る。「ひとたびドイツ語にしたとたん、言葉の響きがその甘さを失う」のだと言う。ドイツ語に点の辛いドラちゃんは、ひとり、早口でそのドイツ語をつぶやいてみて、「カワイクナ~イ」と日本語で身悶える。確かにドイツ語の響きは耳にごつごつと届く。映画のラブシーンにおいてすら。とはいえ。ドイツ人だって、愛をささやきあっているに違いなく、愛をささやきあっているからには、そこで使われる甘い言葉が存在するに違いない。あたしはぜひ、それを知りたい。ドラちゃんが教えてくれないのなら、あたしのほうから使ってみせよう。ごつごつとしたドイツ語を甘い響きで使いこなしてみせよう!というわけで、どなたか、「ドイツ語甘い表現集」を伝授していただけませんか?せっかくだからとびきりスイートなやつをひとつ。
Feb 3, 2005
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女性誌の言うことをいちいち本気にしていた日には、こころ安らかに暮らしてゆけないことはわかりきったことだけれど、ジムでマシンを漕ぎながら目を離せなくなった一行がある。「28歳は、ゼロから何かを十分にできるとき」。昨今のお肌の曲がり角は28歳だそうで、化粧品会社の目論見に乗せられて、「28歳」は今、話題のようだ。28歳が手の届くところにある今、私は「ゼロ」の地点にたってしまった。たってみたゼロ地点で、思いもかけない身の軽さがもたらされ、自分のことなどほんとうにわずかなところしかわからないと、改めて知らされる。息詰まるほどに大きな不安と怖れとは、もちろんあるのだけれど。大学院を卒業することがほぼ決まり、そこで数年来受けてきた専門職の訓練を、ともかくも一度終了することにした。つまりは「その職に向かなかった」という一言に尽きるわけだけれど、自分で選んで始めたことなのにその道を全うできなかったという情けなさ、弱くどうしようもない自分の受け入れがたさ、これまで費やしてきたものの諦めがたさ、進路変更の難しさと歩むべき道を失うことへの不安定さ、やめることを決めてからも、こういう気持ちがしんしんと身を浸し、ゼロ地点にたつその時が来ることが怖かった。それなのに今。私のからだはむしろ軽い。背負ってきた重いすべてを降ろすことを、ようやく自分で自分に許すことができ、自由な空間がふわりとひろがりぐるりと私を取り囲む。そうして私には、どこへでもそれを漕いでゆける時間と可能性とが、ほんとうはある。この気持ちは、ドラちゃんに抱きしめられるときの気持ちと同じだと気が付いた。情けなさや受け入れ難さや諦め難さに私が沈む度に、ドラちゃんは言う。「その仕事が向かないと気付くことができて、変更しようと挑戦できることは、ひとつの大きな勇気だ」「君はまだまだ若い。ドイツじゃちょうど大学卒業して初めて就業するくらいだ。これから何でもできるし、やっていいんだ」「ちょうどドイツに行く時期もかぶるし、自由なココロでやりたいことを1年くらい考えればいい。大丈夫、きっとみつかるよ」励まされながらも、その言葉は現実的じゃないと思ってきた。向かないことをやめるにしたって次のことを決める前にやめるなんて浮かれすぎているし、日本じゃあたしはやっぱり何かをゼロから始めるには年とりすぎだし、自由なココロで一年考えてたら履歴書にはなんて書けばいいのだろう?と。それなのに今。ドラちゃんは正しかったと理由なく思う。やってみたいことや楽しそうなことのイメージが、なんだかいろいろ私のなかから生まれてくる。いずれにしても険しい道のりを歩いてゆくための力も一緒に。たってみたゼロ地点には、絶望ではなく希望があった。そんなに悪いものでもないのかもしれない。そして女性誌も、たまにはホントのことを言うのかもしれない。
Feb 2, 2005
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