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ぼんやり考え込んでいた珠子の耳に、ふと、正樹の不満げな声が聞こえた。 「・・・だったのかあ。 で、珠子、どんなやつよ、そいつ。 同じ高校のヤツ?」 えっ? 正樹ったら、誰の話してるのよ? と、珠子が声に出すより早く、美緒が話に割り込んできた。 「ははっ! ばっかだねえ、正樹兄ちゃん。 嘘に決まってんじゃん。 ミエよミエ。 お姉ちゃんにカレなんかできるわけないでしょ。 妹のあたしより色気ないのにさ。 お姉ちゃんは昔から正樹兄ちゃん一筋。 チラッとよそ見したことすらないんだから。 妹のあたしが言うんだから間違いない」 そういえばあたし今、ひょっとして、正樹のほかに好きな人がいるような、いないような、微妙な言い方しようとした? 正樹の気をひこうとして? 「こ、こらっ! 美緒っ! 余計なこと言わないの!」 急に顔の熱くなったのを隠そうと、珠子は思い切りラーメンをすすり始めた。 ・・・そうよ。 あたしはあたしだもの。 ナナさんとは違う。 あたしはこの街を出て別天地を求めたりはしない。 正樹のいるこの街で、普通の高校生活を送って、普通の仕事をして、普通の結婚をする。 確かに、未来のことなんてわからないけど、少なくとも今は、それがあたしの幸せだという気がする。 遠い空の上から、ミケがにこにこ笑って珠子を見下ろしているような気がした。 そうでございますとも、お嬢さま。 ナナさんはナナさん。 お嬢さまはお嬢さま。 しっかり前を向いて、ご自分の道をまっすぐ歩いていけばそれでいいのでございますよ。 どうぞお幸せになってくださいまし。 にゃあ。 最終回です(〃^∇^)o_彡☆ 長い間あたたかく応援していただき、本当にありがとうございました。 人気ブログランキングへ
2014.08.10
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ちょっと考えてから、正樹が答えた。 「せっかくだけど、今のところまだいいや。 オレ、なんだかあの事件からこっち、世の中を見る目が少し変わった気がするんだ。 なんていうのか、自分の人生自分で切り開いてやる、っていう、意欲っていうか自信っていうか、熱っぽいものが体の内側から沸いてくる感じで。 こういうの、ふっきれた、とかっていうのかな。 もちろん、バイクに乗るのは今も好きだし、乗りたいとも思うけど、それは、いつか、働いて金をためてオレにとって最高のマシンを手に入れてから、って決めたんだ」 夢見るような瞳を上げて、誰に、というより自分自身に話しかけるような、正樹の横顔は、確かに、あのクリスマスの日と比べたら別人のように大人っぽく、たくましくなって、なんだか一回り大きく見える。 その隣でじっと正樹の言葉に聞き入っていた虎雄も、感慨深げにうなずいた。 「・・・そうだよなあ。 オレもあれからちょっと自分が大人になった気がする。 自分でも不思議なんだけど、前みたいにむやみに腹が立たなくなったんだ。 もうこの先どんなことが起きようとオレは絶対大丈夫、必ず乗り切れる、って思うと、なんだか気持ちに余裕ができて、今までみたいにカリカリしないで、たいていのことは笑ってやり過ごせるんだよな」 照れくさそうに笑う虎雄の顔も、なんだか急に大人びて、堂々と落ち着いて見える。 おばさんが目をぱちくりさせながら正樹と虎雄の顔を見比べた。 「あらら、ふたりとも、どうしちゃったの? 急に大人になっちまって。 事件って、何なのさ? ウチが大食いバトルでてんやわんやしてる間に、そっちでも何かあったのかい?」 「別に何も。 オレたちも、いつまでも子どもじゃない。 それだけのことさ」 「大人になるって、人間もきっと、チョウチョの羽化みたいに、ある日突然、ぱあっ、って、劇的に変身するんじゃないの?」 正樹と虎雄が顔を見合わせて笑う。 昇一さんもカウンターのほうに身を乗り出し、にやにや笑いながら二人を見比べ、それから今度は珠子に目を向けた。 「なるほど。 ・・・で、珠子ちゃんは? 正樹とはその後、どうなってんの? 確か、大人になったら正樹とケッコンするんだ、って言ってたよな」 不意打ちを食らって、たまこは思わずラーメンを吹き出しそうになった。 「やだ! 昇一兄ちゃんてば、そんな大昔のこと、あたしも正樹も忘れてたわよ。 今は、正樹にはナナさんがいるし、あたしにだって・・・」 虎雄が横から口をさしはさんだ。 「またまた。 ナナならとっくに家を出てどこか別の大きな街へ行っちまったよ。 この先もっと自分の可能性を試せるような、アグレッシブな生き方がしたいとか言って。 正樹のことなんか見向きもしなかったぜ。 あいつらしいよな」 「・・・へー。 そうだったんだ」 ナナの、気の強そうな大きな瞳を思い出しながら、珠子は考えた。 結局最後まで、きちんと話をする機会はなかったけど、ナナって、猫のときも、人間に戻ったあとも、ビシッと一本筋の通った女の子だったんだ。 あたしは、ナナの、あの迫力にはとうとう勝てなかった、ってことになるのかな。 人気ブログランキングへ
2014.08.09
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にっこりとうなずいて、昇一さんが続ける。 「だから、これも正樹が提案してくれたんだけど、今度店を建て替えるときも、駐車場は整備するけどクロのお墓とその周りの生垣は壊さずにきれいに造り替えて、猫塚という形で残そうと思うんだ。 思えばこの店の前の通りでは、クロだけじゃなくて今までにたくさんの猫が命をなくしてるわけだから、その供養の意味でもね。 そうすると、猫たちの霊も喜んで、この店と俺たち家族を守ってくれる、そういうものなんだって」 もちろん、これは本当は正樹の提案ではない。 正樹がミケに伝授してもらった『猫の知恵』。 小さな森のお寺の、えらい守り猫さまの受け売りだ。 「えーっ! 店、建て替えるの?!」 美緒と珠子が同時に叫んだのを、虎雄がけらけら笑って見比べた。 「なんだよ、二人とも、知らなかったの? 来月からもう店の建て替え工事始まるんだぞ。 いつまでもこの二階のボロ部屋じゃ、昇一さんたちかわいそうだろ?」 「じゃ、この店もう壊しちゃうの? 工事の間、ラーメン食べられないの?」 美緒が情けない声で叫び、おばさんがくすくす笑って応えた。 「この店はまだ壊さないよ。 工事中ずっと店休んでたら干上がっちゃうもの。 ここはしばらくこのままで、まず駐車場のほうに住まいを作るの。 それから、この店の住まい部分を店に改造して、あとは、このカウンターを取っ払って調理場にちょっと手を加えるだけ。 本当に営業できないのは、そうだねえ、一日か二日だけさ。 でも、店は広くなるよ」 正樹が楽しそうに付け加える。 「今度の店には大きな看板をつけて、大きな龍の絵を描くんだって。 目玉がぎらぎら光るようなネオンもつけて、通りを睨むようにするんだってさ。 遠くからでもよく目立つようにね。そして、夜中でもまぶしいほど明るい店にするんだって。 そしたら、通りを横切ろうとした猫だって、びっくりして思わず立ち止まるよな」 「なるほど」 まじめな顔でうなずいた珠子を、くすくす笑って眺めてから、昇一さんが思い出したように言った。 「ところで正樹、おまえ、家をちょっと留守にしてる間におふくろさんにバイク処分されちゃったんだって? ウチの頑固親父ならそのくらい涼しい顔でやってのけるだろうけど、おまえんちの、あの、優しいおふくろさんがそこまでやるとは、正樹、おまえ、相当親不孝したな?」 珠子の隣で正樹が困ったように頭をかき、うーん、まあその、いろいろとね、とかなんとか、口の中でもごもご応えた。 その様子をおかしそうに見て、昇一さんが言う。 「でも、おまえにとっては大事なバイクだったんだろ? じゃ、これから通学のときとか、どうすんのよ? バイク仲間の付き合いもあるだろうし、新しいの買うんだったら知り合いのバイク屋、紹介してやろうか? 中古だけど、俺の知り合いだと言ったら、きっと格安で世話してくれると思うけど?」 「新しいバイク、かあ・・・」 人気ブログランキングへ
2014.08.08
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ラーメンをどんぶりに移した昇一さんが、返事のかわりのように小さくため息をつくと、おばさんが絶妙のタイミングでそのラーメンにスープを注ぎ入れ、後を引き継いだ。 「それがねえ、かわいそうに、ひとりで寂しくなったんだかお腹がすいたんだか、古毛布の寝床からよちよち這い出して、トラックの往来が激しい大通りまで出て行っちゃったらしいんだよ。・・・ありゃちょうど昇一が学校から帰ってくる時間だったねえ、店もそろそろ忙しくなり始めるころだった。 大通りで突然、キーッ、て、すごいブレーキの音がしてねえ、あっ、また事故だと思って出て行ってみたら、ここの駐車場の前にトラックが止まってて、若いドライバーが、『何でもねえよ、猫だ、猫を轢いちまっただけだ。 おばさん悪いけど片付けといてくんない? 俺時間ないから。 ごめんね』とかなんとか、言い残してさっさと行っちまうんだね。 ウチの店だってちょうど忙しくなる時間だし、片付けてくれったって、ゴミじゃあるまいし、ねえ、・・・そうしたら、ちょうどそのとき学校から帰ってきた昇一が、真っ青になってすっ飛んできて猫にすがりついて、クロちゃん、クロちゃん、って、まあ、泣いて泣いて・・・そんな猫のことなんかきれいに忘れてたあたしまで、思わずつられて泣いちまうくらい、そりゃあもう、大変な悲しみようだったんだよ。 あの時は、あたしもお父ちゃんも、心から反省したもんだ。 もっと昇一の気持ちをよく聞いてやらなきゃいけなかった、ってさ。 ねえ、お父ちゃん?」 またしても、はん、とか、あん、とか、おじさんが生返事をしたが、おばさんはそれには目もくれず、ラーメンにナルトを乗せ、チャーシューを乗せ、メンマを乗せ、最後に海苔と刻みネギを乗せて、美緒の前に、トン、と置いた。 「はい、美緒ちゃん、大盛りラーメン、お待ち遠さま」 「・・・きっとクロは、そのとき、昇一さんが帰ってくる時間だとわかっていて、迎えに出ようとしたんだな」 虎雄がひっそりとつぶやいた。 「きっと、早く会いたくて一刻も我慢できなかったんだろう。 いつも兄ちゃんと一緒にいたかったんだろうなあ」 たとえ怨念になっても、と言う言葉を飲み込んで、虎雄がズズズ、とラーメンをすする。 だけどね、と、昇一さんがきをとりなおしたように笑顔に戻って言った。 「あの生垣のところにクロのお墓を作ったとき正樹が手伝ってくれて、そのことを覚えてくれていたおかげで、今度帰って来た時クロの供養をすることができて、とても良かったような気がするんだ。 不思議に身の回りがすっきり、きれいになった感じで、娘たちも、女房も、なんだかとても明るい表情になったような気がするんだよね。 気のせいだと言われりゃそれまでだけどさ」 あら、ウチもだよ、と、おばさんが、ぽん、と両手を打ち合わせた。 「ウチも、なんだか風通しが良くなった感じで、妙に爽やかな感じで仕事ができるんだよね。 お客さんたちまでなんだか前より明るい顔つきに見えるし、・・・あら? そういやここんとこ、お父ちゃんとも口げんかしてないねえ。 これも気のせいかね、お父ちゃん?」 気のせいじゃない、と、珠子は思う。 クロは、長い間、昇一さんに自分を思い出して、話しかけてもらいたかったのだ。 その望みがようやくかなって、今は、クロも幸せな気持ちでこの一家を見守っているのだろう。 だから、みんな気分がいいのだ。 人気ブログランキングへ
2014.08.07
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猫好きの美緒がたちまち身を乗り出した。 「へえ! 昇一さんが猫の子を? どんな猫? かわいかった?」 「もちろん、すっごく可愛かったさ! 全身が輝くように真っ黒で、目はきれいな青緑色。 俺、こんなきれいな生き物は見たことがないと思って、大喜びで家の中に連れて行ったら、」 ここで昇一さんは、ちょっと悔しそうに、あまりがまちに腰掛けたおじさんをちらっと睨んだ。 「いきなり親父に怒鳴りつけられちゃったんだ。 ばかやろう、ウチは食い物商売だ、そんな汚ねえもんを拾ってくるんじゃねえ、飼うのは許さねえ、って。 ・・・いやあ、悔しかったなあ」 美緒も、ぷーっと口を膨らませておじさんを睨んだ。 「そうだよ! 猫は汚くなんかないよ! きれいに洗って飼ってやればよかったのに」 おばさんが、新しいどんぶりをあたためながら口を挟んだ。 「そういうことじゃないんだよ、美緒ちゃん。 どんなにきれいにして飼っていようと、たとえここのお客さんたちの手や顔より清潔だったとしても、ようは、自分が食事しているそばに犬や猫がいるのはいやだ、って言うお客さんが少なくないってことなんだねえ。 美緒ちゃんは猫が好きだから、そういうお客さんの気持ちはわかりにくいかもしれないけど、たとえば、カエルとかクモとかだったら? もし自分の目につくところにそんなものがいたら、たとえ害がなくたって、気になって、落ち着いてご飯を食べていられないよね。 嫌いっていうのはそういうことでね、理屈じゃないんだよ。 ・・・だけどねえ、あのころはおとうちゃんも今よりもっと頑固だったし、あたしも忙しくて、昇一のそういう気持ち、よく考えてやれなかった。 納得できるようにきちんと説明してやる余裕もなくて、ただ頭ごなしに叱りつけてしまっただけ・・・昇一にはかわいそうなことしちゃったよねえ、おとうちゃん?」 相変わらず新聞に目を落としたまま、ふん、とか、へん、とか、生返事をするおじさんを、昇一さんは、今度は優しい表情で眺め、言った。 「それで、俺は二人に黙って、そこの駐車場の生垣の隅でこっそり、その黒い子猫を飼い始めたんだ。 俺の古い毛布で空き箱に寝床を作ってやって、毎日水やえさを運んでやって・・・、そのとき正樹や珠子ちゃんも手伝ってくれたから、あいつのこと覚えてたんだよな」 ラーメンを大鍋から上げ、シュッとお湯を切る昇一さんを、美緒がますます身を乗り出して見上げる。 「それで? その黒いきれいな猫ちゃんは今どこに?」 人気ブログランキングへ
2014.08.06
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カウンターの上に、出来上がったラーメンを3つ並べて、おばさんがくすくす笑った。 「あらまあ、それじゃあ美緒ちゃんがかわいそうだよねえ」 そうでしょ?そうでしょ?とうなずく美緒を、めっ、と睨んで、珠子は椅子から立ち上がり、美緒の襟首から捨吉を引っ張り出そうと手を伸ばした。 「じゃあ、あたしが捨吉のお守りをしててやるから、あなたが先にこのラーメンを食べなさい。ただし、次にあたしのラーメンができるまでの間に、3分以内に食べ終えて出てきてよねっ」 美緒が慌てて捨吉を抱え込む。 「だめーっ! お姉ちゃん、ステちゃんに冷たいんだもん。 ステちゃんを通りの真ん中にほっぽり出すかもしれないもん。 だいたい、捨吉なんて変な名前をつけたのもお姉ちゃんでしょ。 あたしは最初っからこの子の名前はホワイティと決めてたのに」 「・・・ほ、ホワイティ?」 ぷーっ、と吹き出して、正樹が手を伸ばし、美緒の頭をくりくり撫でた。 「じゃ、美緒がラーメン食べてる間だけ、ホワイティ・ステを昇一さんとこの娘さんたちに預かってもらえ。 外の駐車場で遊んでただろ? 二人とも、猫が大好きだって。 今まで住んでたアパートでも、大家さんの猫といつも遊んでたっていうから、猫の扱いにも慣れてるぞ。 ほら、行ってこい」 カウンターの向こうから、おばさんが苦笑しながら声をかけた。 「いいよ、いいよ、じゃ今日だけ特別に、美緒ちゃんのセーターの中にいる限りステちゃんの入店を認めてあげる。 どうせまだ開店前だしね。 さ、いつまでももめてないで、珠子ちゃんも正樹くんも、早くラーメンを食べなさい。 美緒ちゃんのもすぐにできるからね」 ひとりさっさと食べ始めていた虎雄も口をさしはさんだ。 「そうだよ、せっかくのラーメンがのびちゃうぞ。 ばたばた動き回るとよけい猫の毛が飛び散る。 みんな、おとなしく座れ」 珠子に向かってアッカンベーをした美緒が、カウンターのほうへ向き直る。 「おばさん、ありがとう! ・・・ねえ、昇一さんのお嬢ちゃんたち、あそこで何をしてるの? 駐車場の奥の生垣のところで二人でじっと座り込んでるから、どうしたの、って声かけたら、ここに猫のお墓があるから拝んでるの、だって。 どういうこと?」 新しいラーメンの玉を入れた大鍋をかき混ぜながら、昇一さんがちょっとカウンターのほうを振り返った。 「そうなんだ。 あそこには古い猫のお墓があるんだよ。 俺も今度帰ってきて、正樹に言われてやっと思い出したんだけど、実はオレも、子どものころ猫の子を拾ったことがあってさ。 美緒ちゃん、君たちがミケを拾ったのよりずっと前のこと」 人気ブログランキングへ
2014.08.05
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「ああ、おなかすいた! みんな大盛りラーメン頼んだの? じゃ、あたしもね!」 言いながら美緒が珠子の隣に腰を下ろす。 と、そのセーターの胸元がいやにぽっこり膨らんでいるのに気づいて、珠子は慌てて美緒の袖を引き、小声で叱りつけた。 「こら、美緒! ここは食べるところだよ。 猫を連れてきちゃだめ! 今すぐ外に出しておいで!」 その珠子の声を聞きつけて、美緒のセーターの襟元から、捨吉がひょいと顔を出した。 「にゃあ」 珠子にはもう捨吉の言葉は聞き取れない。 でも、捨吉はあのころより少し太って、体全体も大きくしっかりした感じになって、表情も心なしかおっとり、幸せそうに見える。 そして、何よりも驚いたのが、その毛色 ――― くすんだ灰色だとばかり思っていたら、実は、きれいにシャンプーしてみたらシルクのような光沢のある純白だったのだ。 「いやーん」 捨吉と同じような声を張り上げて、美緒が珠子に抗議する。 「だめっ! ステちゃんを一人で表に放り出すなんて、もし車道に出て行っちゃって車にはねられたらどうすんの! あのね、いつも言ってるけど、この子は特別な子なの。 ウチの銀杏の木の上で生まれて、このごろやっと地面に降りてきたばかりの、天使なんだよ。 まだ車の怖さも、他の猫との付き合いかたも知らない、赤ちゃんと同じなんだから、あたしが守ってやらなきゃ生きていけないの。 ぜーったい、ひとりになんかさせられないんだよーだ!」 そう、美緒は捨吉を、あのころのたまこと思い込んでいる。 長い間欲しい欲しいと思い続けて、やっと手に入った宝物が、もう、可愛くて可愛くてたまらない、といった様子で、捨吉に頬ずりし、口移しにおやつを食べさせ、嘗め回さんばかり。 片時も手放そうとしない。 捨吉もまた、すっかり調子に乗って、目を細め、ごろごろ、のどを鳴らして甘えまくっている。 あの厳しい商店街で、もとの色もわからないほど汚れて、あちこちに擦り傷引っかき傷をこしらえて、ひもじさだけを友として、それでも小ずるくしたたかに生き抜いてきた猫にはとても見えない。 吹き出しそうになるのをこらえながら、珠子は意地のわるーい顔をつくって美緒に言った。 「じゃ、あんたもステと一緒に外で、あたしたちがラーメン食べ終わるのを待ってれば?」 「いやーん! お姉ちゃんの意地悪!」 人気ブログランキングへ
2014.08.04
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珠子の気持ちを察したように、正樹が小声でささやいた。 「・・・しかたないよ。 ミケばあさんも、もう年だったしね。 オレたちも、ミケばあさんに助けられたことはいつまでも忘れないし、いつも心の中で手を合わせて冥福を祈ってる。 だから、珠子もあんまり悲しむなよ。 珠子が泣くと、ミケばあさんも悲しいんだぞ」 正樹の向こうで、同じようにカウンター席に座っていた虎雄も、しょんぼり肩を落として珠子を見た。 「・・・ほんとに、厳しくて、でも優しくて、頼りになる、かっこいいばあさんだったよな。 オレも、もっとばあさんに優しくしてやればよかったな」 大鍋の前に戻った昇一さんのそばで、温めたラーメンどんぶりを3つ並べたおばさんが、きょとんとした顔を虎雄に向けた。 「やだよ、虎雄くんたら。 まるでご近所の知り合いでも亡くなったような言い方をして」 だって、ほんとにご近所の親しいお付き合いをしてたんだよな、ついこの間まで、と、虎雄が目だけで珠子に告げ、つられて珠子も小さく笑った時、後ろのガラス戸がガラッと勢いよく開いた。 「あっ、やっぱり、3人ともここにいた!」 元気な声とともに店の中に駆け込んできたのは、珠子の妹、美緒だった。 「おっ、美緒ちゃん、いらっしゃい! 大盛りラーメンひとつ追加かな?」 声をかけながら、昇一さんが、小さな手付きザルで、麺を一人前ずつ鍋から上げる。 シャッ、と小気味よい音を立ててザルを振り、湯を切った麺を目にもとまらぬ速さでどんぶりの中へ移す ――― 一連の動作は、あの、『大食い競争』の、てんてこまいの間にすっかり板について、今ではもうおじさんに負けないくらいよどみなく、自信に満ちている。 「こら、美緒! よその家に入るときは帽子を脱ぎなさい!」 珠子の叱責に肩をすくめて、美緒が真新しい若草色の帽子を脱いだ。 「おおこわ! こないだまで、どんなドジ踏んだんだかあっちこっち怪我して熱出してうーうーうなってた人が。 あの時はほんとに静かで良かったのに、元気になったとたんに、またもとの口うるさいお姉ちゃんに戻っちゃったよ。 あーあ、あたしってば、こんなお姉ちゃんのために死ぬほど心配して損しちゃった。・・・ねえ、あたしだってあの『大食いバトル』のときには、寝込んでるお姉ちゃんの代わりにこの店で正樹お兄ちゃんたちと一緒に一生懸命ラーメン運びを手伝ったんだからね。 ちょっとはあたしに感謝して、ガミガミ言うのは控えてよねっ」 確かに、珠子が長い悲しい夢から覚めたとき、あの汚れくたびれたピンクの帽子を両手でぎゅっと握り締めて珠子を見つめていた美緒の、真っ赤に泣き腫らした目は、たぶん一生忘れられないだろう。 珠子が眠っている間、どれだけ泣いたかわからない、充血したその目から、また、ポロリと涙をこぼして、美緒はかすかに唇を動かし、ああ、お姉ちゃん、目が覚めてよかった、と、絞り出すような声でつぶやいたのだ。 その横で、目に涙をいっぱいためて珠子を見下ろしていたママも、次の瞬間、珠子にすがりついてわっと声を上げて泣き出した。 急に熱を出して倒れるなんて、珠子いったい何があったの?そんなふうに体中あちこちに傷をこさえて、今までどこで何をしてたの?ママはさっきあなたを『龍王』までお使いに送り出したばかりのはずなのに、どうしてこんなに長い間あなたと離れていた気がするの? 矢継ぎ早の質問で、珠子にもようやく、猫から人間に戻れた実感が、しみじみと沸いてきたのだった。 人気ブログランキングへ
2014.08.03
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珠子の隣で、正樹も楽しそうに笑って言った。 「じゃあ昇一さんは、これから奥さんと2人の娘さんと一緒にずっとこの店の二階に住むわけだ。 オレも兄貴が帰ってくれて嬉しいよ。 ・・・でも、あの部屋ってずいぶん長い間空室だったよね? 大丈夫? 雨漏りとか、しない? 妙に風通しが悪いとか、妙に寒いとか」 おばさんが、ネギを刻む手を休め、顔をしかめてうなずいた。 「そりゃあもう、畳も壁もぼろぼろだよ。 手入れしようしようと思いながら、店も休みたくないし、なかなか暇がなくて、ずっとほったらかしてあったからね。 あのままじゃとても住めないさ。 それでね、今度思い切って店ごと・・・」 話し続けようとするおばさんに、急に菜箸を押し付けて、大鍋から離れた昇一さんが、カウンター越しに正樹のほうに身を乗り出した。 「二階といえば、妙なことがあったんだ。 ウチの下の娘が、まだ2歳なんだけど、最初あの部屋に入るのを嫌がってね。 中におばけがいるって言うんだよ。 おばけの部屋に猫ちゃんがひとりで入って行っちゃった、猫ちゃんおばけに食べられちゃう、って、大声で泣くんだ。 親の俺が言うのもなんだけど、あの子は、同じ年頃の子と比べてうんとしっかりした子だと思ってたんだけどねえ。 ・・・まあ、なんとか娘をなだめて、少し時間を置いてから部屋に行ってみたら、驚いたよ、ほんとに猫が倒れてる。 しかも、よく見たらそれは珠子ちゃんちのミケ・・・」 昇一さんが顔を曇らせて珠子を見、つと口ごもり、気の毒そうに目を伏せた。 ――― ミケは、珠子の代わりに、クロを連れて天国へ旅立ってしまった。 そのショックで気を失った珠子は、その後起きたことを何も覚えていない。 が、正樹の話では、あの後すぐにノロ猫の呪いは解けて、三人はその場で人間の姿に戻り、前後不覚の珠子を、正樹がおぶって家まで送り届けてくれたそうだ。 気がついたときには、珠子はもとの人間の姿で、自分の部屋のベッドに寝ていた。 まるで何事もなかったみたいに。 ママのお使いで『龍王』にみかんを届けに行って、普通にお使いをすませて、普通に家に戻って、そのまま寝ちゃった、みたいに。 でも、いつも傍らに寝ていたミケの姿がどこにもないことに気がついたとき、珠子は、あれが悪夢なんかではなく確かに現実に起こったことだったとはっきりと理解した。 そして、同時に、あの深く悲しい眠りの中でミケが、最後のお別れを言いに、珠子に会いに来てくれたことも、ありありと思い出した。 夢の中でミケは、神々しい明るい光に包まれ、生きているときと少しも変わらない、優しい、幸せそうな笑顔を浮かべて、珠子にこう言ったのだった。 『珠子お嬢さま、悲しんではいけませんよ。 お二人のお嬢さまに愛されて、わたくしの一生は幸せでございました。 とりわけ、最後に珠子お嬢さまと親しく言葉を交わすことができ、この命を捧げることができたことは、わたくしにとりまして至上の喜びだったのでございますから、お嬢さまも、どうかわたくしと一緒に喜んでくださいまし』と。 ――― 悲しむな、と言われても無理だ。 ミケのおかげで、珠子も正樹も虎雄も、たぶんその他のノロ猫たちも全員人間に戻ることができて、以前の平穏な日々を取り戻したというのに、たった一人、犠牲になってしまったと思うとミケが哀れで、珠子はいつまでも涙が止まらない。 みんながそんなに簡単にミケを忘れて、めでたしめでたしと言ってしまったら、ミケがかわいそうすぎる。 人気ブログランキングへ
2014.08.02
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「・・・しっかし、不思議だよなあ。 いったい誰が、何の目的で、こんな大がかりなイタズラをウチの店に仕掛けたんだろう。 『緊急開催! ラーメンの大食いバトル ○月○日○時より 中華料理店・龍王にて』って、おやじもおふくろも、本当にぜんぜん知らなかったの? 」 『龍王』の、朱塗りのカウンターの向こうで、ぐらぐら煮立った大鍋の中にラーメンの玉をほぐし入れながら、赤いバンダナをきりりと頭に巻いた昇一さんが首をかしげながら言った。 「・・・あの朝、朝刊と一緒にこの一帯に配られたチラシと同じものが、俺のアパートの郵便受けにも入っていたんだ。 ここからはずいぶん離れた地区だぞ。 しかも、あの地区で入っていたのはウチの郵便受けだけ。 まるで俺に、来いと言ってるようなもんじゃないか。 このイベント、まさか、俺を呼ぶために二人でこっそり企画したんじゃないだろうね?」 と、その後ろの調理台で、トトトトト・・・とリズミカルな音を立ててネギを刻んでいたおばさんも、首をひねって応じた。 「ほんとに、あたしにもお父ちゃんにも、それに常連のお客さんたちにも、ぜんぜん心当たりがないんだよ。 ラーメンの大食い競争なんて、そんな大それたことを、あたしたちが考えつくわけがないじゃないかね。 ・・・だけど、まあいいじゃないか。 イタズラだろうと何だろうと、とにかく昇一はこの店のことを心配して、奥さんと子どもたちを連れて飛んできてくれた。 そして、あのチラシがイタズラだったとわかっても、いやせっかくここまでお膳立てされたイタズラなら、いっそこれを利用して本当にそのイベントを実現してしまおうよ、って、奥さんと二人で走り回って、常連客やご近所、友達、会社の同僚の方たちまで巻き込んで、材料の仕入れから助っ人の手配、店の大掃除、飾り付け、何から何まで、ほんとに一生懸命になってやってくれた。 おかげでその『大食いバトル』は実現して、しかも大成功を収めて、店の知名度も上がったし新しいお客さんも増えた。 そのうえ、これからは昇一たちもここであたしたちと同居してくれることになったんだもの、このうえ言うことなんか何もないやね。 あたしは、あのイタズラに手を合わせて感謝したいくらいだよ。 ねえ、おとうちゃん?」 調理場から奥座敷へと続く狭い出入り口で、あがりがまちに腰掛けて新聞を読んでいたおじさんが、顔も上げずに、ああ、とか、うう、とか、生返事をした。 おばさんが、くすくす笑って包丁の手を休め、カウンターのこちら側に目を移す。 「ふふ。 あれでけっこう喜んでるんだよ、おとうちゃん。 まさか昇一が本気でこの店を継ぐことを考えていてくれたなんて、おとうちゃんもあたしも、今まで考えもしなかったもの」 「そうよね。 あたしも、昇一お兄ちゃんはお店の仕事がきらいなんだとばかり思ってた」 カウンター席で珠子が笑ってうなずくと、長い端で大鍋をかき混ぜる昇一さんの肩も、楽しげに揺れた。 「そうねえ、俺も昔は親父に反発して、意地になってるようなとこ、あったからね。 だけどずっと会社員やってるうちに、なんか違うんじゃないか、俺、無理してるんじゃないか、って、思えてきてね。 つくづく、たった一人でラーメン屋やってがんばってる親父の生き方が、すごいな、うらやましいな、って、思うようになってたのさ。 くやしいけど」 カウンターのほうを振り返った昇一さんの顔は、昔の面影を残しつつも今やすっかりおっさんになって、気取った口髭なんかたくわえている。 人気ブログランキングへ
2014.08.01
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さびしい赤い空の下に、ひとり呆然と立ち尽くすクロ ――― その姿は、あまりにも小さくて、哀しくて、このまま見放すことなんかとうていできないと思った。 混乱して、たまこは誰にともなく叫んだ。 「いや! こんなさびしいところにクロちゃんを一人で置いていっちゃうなんてできない!」 小さな子どものように、大声で泣き出したたまこの涙を、ミケが優しくぬぐって微笑んだ。 その笑みは、まるで、慈愛に満ちた母猫のようだ。 「珠子お嬢さま、・・・お嬢さまならきっとそうおっしゃるのではないかと思いました。 それではお嬢さまの代わりにわたくしがここに残りましょう。 思えば十二年前のあの雨の日、お嬢さまの優しいお手に拾われてから今日まで、わたくしは十分にお嬢さまに慈しんでいただきました。 猫として、本当に幸せな一生でございました。 もうこの世で望むことは何一つありません。 ですから今度はわたくしが、あの無垢な子猫に、慈悲の心を教えてあげましょう。 大丈夫、いえ、むしろわたくしのほうがお嬢さまよりうまくできるかもしれませんよ。 同じモト猫同士。 そして守り猫さまもわたくしにお力添えくださっていますからね」 振り仰げば、守り猫の示す空から、一筋の清らかな光が、地上に向かって差し込んでくる。 いや、単なる光ではない。 よく見ればそれは、光に包まれてゆっくりと地上に伸びてくる、ほそい階段なのだった。 はっとした。 「ミケ、・・・まさか、あたしをおいて、クロと一緒に天国へ行っちゃうつもりじゃないでしょうね?! だめよ! そんなの絶対許さないから!」 たまこは狼狽してミケを捕まえようとしたが、ミケは、たまこの手をするりとすり抜けて、クロのほうへと駆け出してしまった。 「行っちゃだめ! 帰ってきて! ミケ! お願い!」 泣きながら懇願したが、ミケはちょっとたまこのほうを振り向いて微笑んだだけで、立ち止まろうとはしなかった。 嬉しそうに駆け寄ってきた黒い子猫に優しく頬ずりする、その姿はまるで本当の親子のようだ。 仲睦まじげに寄り添って、ミケがクロを光の階段のほうへと導いていく。 並んでゆっくり階段を上り始めた二匹の姿が、だんだん白い光に包まれていく。 白い光が強さを増して、まぶしくてとうとう目を開けていられなくなったとき、たまこは、もう二度とミケの姿を見ることはできないと悟った。 真っ暗な悲しみのふちへとつき落されるような気がして、たまこはそのままマサキの腕の中に倒れこみ、気を失った。 人気ブログランキングへ
2014.07.30
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ミケも、すばやくたまこの前に駆けつけて来て、行く手をさえぎった。 「珠子お嬢さま、お二人のおっしゃるとおりです。 お嬢さまはマサキくんたちとご一緒に、もとの世界にお戻りにならなければいけません。 クロなら大丈夫。 ほら、あれをごらんなさいまし」 ミケの指差すほうを見れば、荒野にたゆたう霧の向こうに、不思議な、淡い光が浮かび上がっていた。 夢かうつつか、よく見ると、その淡い光の中に、幻のように、一匹の猫が座っている。 無残なほど背骨の大きく曲がった、けれどどこか高貴な雰囲気をまとった、不思議な猫だ。 その猫が、宙空に端然と座して、静かに天を指し示している。 超然としたその姿を、伏し拝むようにしてミケが言った。 「あれは、遠い森のお寺におわす三匹の守り猫さまのうちのおひとり。 魔界で苦しむ猫たちに浄土の光をお示しになるために、不自由なお体をいっとき離れてここにお出ましくださったのです」 守り猫の指し示す先、不気味な赤い空の一角には、あれが浄土の光なのだろうか、確かに、明るく荘厳な光が、そこだけ霞がかかったように、ぼうっとうららかに浮かんでいるのが見える。 そして、地上では、その天空の光に呼応するように、龍の体から離れたうろこが、ふわっ、と、やわらかい光に包まれて、ひとつ、またひとつ、ゆっくりと天に向かって上昇しはじめた。 長い間この場所で苦しんでいた猫たちの魂が、今ようやく、成仏の光を見いだし、安らぎを得て、昇天していくのだ。 明るい光跡を残して、たくさんのうろこたちが、昼でもない、夜でもない、薄暗い赤い空を昇って、次々と天上の光に達し、静かに溶け込んでいく。 感涙に目を潤ませながら、ミケが言った。 「ほら、猫たちの魂が、極楽浄土に向かって次々と昇天して行くのが見えるでしょう。 クロもきっと、あの猫たちと一緒に天国へ・・・」 けれどクロは、他の猫たちと一緒に天に昇っては行かなかった。 きらきら輝く光の粒のような魂たちが、守り猫の教示によってみんな空のかなたへ昇っていってしまっても、あまりにも長い間ここで彷徨っていたクロには、もはや守り猫の姿も極楽浄土の光も見えないのだろうか、たった一人で、ぽつんと取り残されているのだった。 人気ブログランキングへ
2014.07.29
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懐かしい鈴の音に誘われるように、たまこの脳裏にもまた、クロと昇一お兄ちゃんとの楽しい思い出が、次から次へとよみがえっていた。 昇一お兄ちゃんが家からこっそり持ち出してきた、温めたミルクの入った哺乳瓶を、正樹と奪い合ってクロに飲ませたこと。 たまには思い切り日光浴をさせなきゃねと三人で話し合い、昇一お兄ちゃんの自転車のかごに古いタオルを何枚も敷きこみ、クロを乗せて出かけたこと。 クロを抱いて正樹と道を歩いていたら、大きな犬につきまとわれて死ぬほど怖い思いをしたこと。 そして、昇一お兄ちゃんが、クロが死んじゃった、と、泣きながら、店の裏の藪の中にお墓を掘っている、胸の痛くなるような悲しい光景。 ――― あれこれ思い出したら、クロが愛しくて、思い出が哀しすぎて、それを今まで忘れていたことが悔やまれて、たまこはぼろぼろ涙をこぼしながら、もう一度あのころに戻ってクロを呼んだ。 「おいで、クロ。 珠子と遊ぼ。 一緒に、昇一お兄ちゃんを迎えに行こ」 その瞬間、龍の体がぐらりと大きく揺れて、それから、うろこの一枚一枚が、龍の体を離れてぼろぼろとはがれ落ち始めた。 鎧のようなうろこがみるみるうちにはがれ、龍の体全体が、ガラガラと大きな音を立てて崩れていく。 「クロちゃん!」 驚いて駆け出そうとしたたまこを、マサキがあわてて抱きとめた。 「行っちゃだめだ、珠子! クロはもうこの世のものではないんだ! おまえまであっちの世界に行っちまう気か?! そんなことはさせないぞ!」 トラオも、それに加勢して叫んだ。 「そうだよ、たまこちゃん、かわいそうなようだけど、俺たちにできるのはここまでだ。 クロは自分で行き先を見つけて、一人で行かなきゃいけないんだ」 人気ブログランキングへ
2014.07.28
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古びたその小さな鈴を、昇一さんがクロの首につけた日のことは、珠子もよく覚えていた。 あの日、昇一お兄ちゃんは、店に迷い込んできた子猫を抱き上げ、愛しそうに頬ずりしながらこう言ったのだった。 『今日からおまえは俺の弟だ。 真っ黒だから、名前はクロにしよう。 いいかクロ、怖いことがあったり、お腹がすいたり、寂しくなったりしたら、すぐに兄ちゃんを呼ぶんだぞ。 この鈴の音が聞こえたら兄ちゃんがすぐに飛んで行ってやるからな。 そうだ、もう2度と迷子にならないように、名札も作ってやろう。 龍王クロ。 どうだ、かっこいいだろ?』 荒ぶる魔物の魂を鎮めるように、マサキがおだやかな声で続ける。 「龍王クロ。 昇一兄ちゃんにつけてもらったその名前を、おまえは忘れてなかったんだな。 だけど、おまえが死んだことで昇一兄ちゃんがどんなに悲しんだか、おまえには見えなかったのか。 かわいそうに、おまえはきっと昇一兄ちゃんに拾われる前にも、母猫や兄弟猫から切り離されて独りぼっちになって、何度も人に裏切られて悲しい目に遭ったんだろうな。 そしてようやく、信じられると思った人間 ――― 昇一兄ちゃんにめぐり会えたのに、それもつかの間、その人にもまた見捨てられたと思い込んでしまったんだろう。 無理もないよな」 小さくため息をもらして、マサキが続ける。 「・・・だけど、そうじゃないんだ。 クロ、兄ちゃんは、決してお前のことを忘れたりしなかったぞ。 あんな形でおまえを死なせてしまったことを、兄ちゃんは長い間、悔やんで、苦しんでいた。 あんなところでこっそりクロを飼ったりしなければよかった、と。 父さんの言うとおり、ちゃんとクロをかわいがってくれる人を捜して、その人にクロを頼めばよかったんだ、と。 なのに、クロが可愛いからってどうしても手放さなかった、そういう自分のわがままのせいで、クロに寂しい思いをさせて、そのあげく死なせてしまった。 クロを殺したのは、トラックじゃない、無責任な飼い方をした自分だ、そう言って、昇一兄ちゃんは、自分を責めて、何日も何日も泣き暮らしていた。 おまえの首につけていたこの鈴も、見るのがつらいと言って泣き出してしまう。 オレそんな兄ちゃんを見たくなかったから、だから鈴を預かって、ずっとそのままになっていたんだ。 なあ、クロ、おまえがいなくなってしまったことで昇一兄ちゃんがどんなにつらい思いをしたか、わかってやってくれ。 今でも昇一兄ちゃんの胸の中では、クロ、おまえはかけがえのない弟のはずだぞ」 マサキの言葉の一つ一つが、あたたかい雨のしずくのように、鎮魂の歌のように、薄明の荒野に降り注ぐ。 人気ブログランキングへ
2014.07.27
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竜巻と炎と雷光に染め上げられ、くすぶる冥界の空の下。 果てしなく続く荒野の只中で、離れ離れになったたまことミケの、まず倒れたミケから焼き殺してやろうと、龍が鎌首を持ち上げ、ミケに狙いを定めて、ふたたび真っ赤な口を開けた。 「ミケ! 立って! 逃げて!」 なすすべもなく絶叫した、たまこの背後で、そのとき、チリーン、と、不思議な音が鳴り響いた。 遠い昔、確かに聞いた覚えのある、懐かしい鈴の音 ――― 龍も、はっとしたように動きを止め、こちらを振り向く。 つられて振り向いた、たまこの後ろに立っていたのは、真一文字に口を引き結び、すっくと立った、黒猫のマサキだった。 その後ろには、すっかり怪我も治って元気を取り戻した様子のトラオ。 そして、相変わらず煤と泥に汚れた体の捨吉も、ぴたりと付き従っている。 三匹とも、忽然と地上に降り立った勇者さながら、怖ろしい龍を前にたじろぐ気配もなく、闘志満々、気迫みなぎる表情だ。 「マサキ! トラオ! それに捨吉も?! 加勢に来てくれたのね!」 息を弾ませて叫んだたまこにちょっと笑顔を向けて、マサキが、小さな鈴のついたキーホルダーを差し出して見せた。 「たまこ、おまえの見た夢の話を捨吉から聞いて、オレもやっと思い出したよ。 あいつは、昔昇一兄ちゃんが可愛がっていた、あの、クロだったんだな」 トラオも元気な笑顔を見せてうなずいた。 「正体のわからない怖ろしい魔物だって、オレたちずっと思ってたけど、そうじゃなかったんだな。 自分を見失ってるだけの、さびしい子猫だったんだ」 捨吉も神妙な顔つきで付け加えた。 「マサキさんのキーホルダーについてるこの鈴は、昔昇一さんがクロにつけてやったもので、クロの死んだ後マサキさんがずっと預かっていたそうですよ。 マサキさんは、この音を聞いたらクロもきっと自分を取り戻すにちがいない、って」 たまこにもよく見覚えのある、その鈴を、マサキが龍に向かって高々と差し上げ、叫んだ。 「クロ、オレを覚えてるか? いや、オレのことは忘れちまったとしても、今オレのキーホルダーについている、この小さな鈴のことは、忘れるはずないよな。 さあ、よく見て、思い出してくれ。 昇一兄ちゃんがこの鈴をおまえの首につけたあの日のことを」 薄明の荒野に、哀しげな鈴の音が、チリーン、と、か細く鳴り響く。 その幽玄な音色に耳を傾けるように、龍がちょっと首をかしげた。 人気ブログランキングへ
2014.07.26
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ふいに、二人を守るバリアーが、ゆらっ、と、目に見えるほど大きく揺れた。 その一瞬を狙って、龍が、かっ、と大きく口を開ける。 次の瞬間、その口から、目もくらむような真っ赤な閃光が放たれた。 いや、単なる光ではなかった。 それは、龍の吐く、怒りの炎 ――― 触れたものすべてを一瞬のうちに灰に変えてしまう、地獄の火炎なのだった。 龍の口から吐き出された、地の底まで焼き尽くすような巨大な火炎が、ゴーッとすさまじい音を立てて二人に襲いかかる。 二人の足もとが、ぐらり、と大きく揺れ、と思ったせつな、バリアーが、ふっ、と消失した。 龍の、長年にわたって積もり、固まり、極度にゆがんだ憎しみのパワーのほうが、愛の力よりも強かったのだ。 無防備になった二人の全身を、焼けつくような熱風が直撃する。 襲いかかってきた地獄の炎を、すんでのところで、右と左に飛びのいてかわした、たまことミケの間に、一瞬、小さな間隙が生じた。 その空隙をついて、二人の間を裂くように、ビシッ、と、深い亀裂が走った。 ゴゴゴ・・・という重い地響きと激しい揺れを伴って、足もとに走った亀裂が、底なしの闇へふたりを飲み込もうと、その入り口を大きく広げる。 「ミケ!」 「お嬢さま!」 激しい揺れに耐え切れず地に伏せたたまこと、地獄の炎にあおられて地面に投げ出されたミケとの距離が、激しい地鳴りとともに一気に引き離される。 その間に龍が、ところどころうろこの剥げ落ちた巨体を、のそり、と割り込ませた。 人気ブログランキングへ
2014.07.25
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ミケを守りたい ――― 珠子お嬢さまを守りたい ――― 二つの思いが、重なり合ったのがはっきり感じられたとき、同時に、その二つの思いが、目には見えない、けれど、明確な流動となって、ブーン、とやわらかな唸りをあげながら二人を押し包んだのが感じられた。 強力な磁場のようなものが、バリアーとなって二人をすっぽりと蔽う。 次の瞬間、生白く不気味に光って飛んでくるうろこの刃が、たまこの目の前で、カン、と、高い金属音をたててはじき返された。 続いて飛んできたうろこも、カン、と、はじき返された。 次々と飛んでくる恨みのうろこを、たまことミケの、互いを思いやる慈愛のバリアーが、カン、カン、と、小気味よい音を立ててはじき返していく。 それは、どんな鋭い刃が束になって襲いかかってこようとびくとも揺るがない、強靭なバリアーだった。 数限りない恨みのうろこ、憎しみのうろこが、二人の前に空しく舞い散り、地に堕ちていく。 龍の体から、うろこの数が徐々に減り、ところどころうろこのはげおちたその体が、しだいに強い光を失いはじめた。 あと一息 ――― たまこがそう思ったとき、バリアーに気づいた龍が、怒りに全身を膨らませ、雷鳴のような咆哮を上げた。 「おのれ! どこまでも俺の邪魔をする、こしゃくな三毛猫! お前から先に地獄へ送ってやるわ!」 龍の怒声が、大気を震わせ、冥界の空に暴風を呼ぶ。 二人の頭上でゆっくりと渦を巻きはじめた暴風が、みるみるうちに勢いを増し、巨大な竜巻に成長した。 真っ黒な竜巻が空を蔽い、重い地響きを立てながらたまことミケに迫ってくる。 二人を守るバリアーが、竜巻のおこす激しい風圧を受けて、ゆらゆら、危うく揺れ始めた。 人気ブログランキングへ
2014.07.24
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思わず目を閉じたたまこに、ミケの叱責が飛んだ。 「目をそらしてはなりません! 思い出してください、珠子お嬢さま、あの冷たい雨の日、お嬢さまが子猫のわたくしにかけてくださった、慈悲のお心を。 わが身を忘れて汚い子猫に手を差し伸べてくださった、あの一途なお気持ちこそ、崇高な愛の心なのです。 一度はこれを疑い、無明の道に踏み出しかけたわたくしが、お嬢さまのたしかな手のぬくもりを思い出し、今一度あのあたたかい優しいお手に触れたいと、その一心から、我を取り戻すことができたのもまた、強く熱い、愛の力。 愛こそが、希望を、喜びを、勇気を生み出し、あの魔物のゆがんだ憎しみを絶つ力となるのです。 それが、あの魔物を救うことにもなるのですよ。 さあ、あの雨の日、ミケのために勇気を奮って、心を砕いて、お母さまを一生懸命説得してくださった、あの珠子お嬢さまに、今、もう一度戻って、今度はあの黒い子猫を救ってください! 珠子お嬢さまとわたくしとの強い愛の槍をもって、あの魔物の体を覆う、憎しみの鎧を打ち砕くのです!」 ミケの確かなぬくもりが、ぴったりと自分に寄り添っているのが感じられた。 そのぬくもりを通して、たまこのために命を懸けて、たった一人、この怖ろしい魔物の巣窟に乗り込んできてくれたミケの、強い、深い愛情が、ひしひしと伝わってきた。 思えば、これまで、珠子の足もとには必ずミケがいてくれた。 一見とりすましたその瞳の奥には必ず、深い、あたたかい光が宿っていて、気がつけばいつも、母猫のように珠子を見守ってくれていた。 ――― ああ、あたし、こんなにも、長く、深く、ミケに愛されていた。 いまさらのようにそのことをさとると、珠子の中にも、これまでには感じたことのない、深い、あたたかい思いがこみ上げてきた。 ミケが愛しくて、その存在が、かけがえのない大きな、大切なものに見えてきた。 この手でミケを守りたい、そのためなら何でもできる! そう思ったら、怖いものなんか何もなくなった。 人気ブログランキングへ
2014.07.23
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気がつくと、かたわらにはミケがぴったり寄り添って、しきりにたまこの注意を促していた。 「お嬢さま、しっかり! 弱気は禁物でございますよ! 今情け心を起こして情に流されては、魔物のエネルギーに飲み込まれてしまいます。 今は心を鬼にして戦わねばならないとき。 さあ、心の準備をなされませ。 来ますよ! あれが魔物の正体でございます!」 ミケの指差す空を見上げれば、ごろごろと低く唸り声をあげる黒雲の間から、めまぐるしく明滅する青緑色の光とともに姿を現したのは、黒い、巨大な龍だった。 不気味な青緑色の目玉をらんらんと光らせ、大きな赤い口をかっと開けて、龍が、たまこを睨み下ろす。 「さあ、たまこよ、おまえもこちらの世界へ来るがいい。 おそれることはないぞ。 何の苦しみも悩みもない、静かな安らぎの世界だ。 仲間も大勢いる」 ぬらり、と、かま首を持ち上げた龍の、長々と伸びた蛇のような体をよく見ると、うろこの一枚一枚すべてが、猫の顔でできているのだった。 憤怒の表情、苦悶の表情、悲嘆の表情、・・・どれも皆怖ろしい表情で、成仏できない苦しみを物語っている。 にやり、と、ほくそ笑むように目を細めて、龍が、その長い爪でうろこの一枚に触れた。 触れられたうろこが、もぞり、と、息を吹き返したように動く。 と、次の瞬間、ぱあっとまばゆい光を発しながら龍の体からはがれ落ちたうろこは、白く光る鋭い刃に姿を変え、まっすぐたまこに向かって飛んできた。 激しく燃えたぎる憎しみの、かみそりのような刃が、2枚、3枚、・・・間を置かず次々と飛んでくる。 「きゃーっ!」 人気ブログランキングへ
2014.07.22
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言い放つと、青緑色の目玉は不意に、二人の頭上からさらにすーっと上昇して、天井にまで達した。 同時に、部屋の中全体がぼうっと薄明るくなる。 ぎょっと見回すと、そこはもうあの『龍王』二階の暗い狭い部屋の中ではなかった。 それは、果てしなく広い、殺伐とした、荒野のようなところ ――― 木も草もない、風も水もない、岩も、石ころすらもない、日の光も、月星の明かりもない、ただ寒々とした薄明がどこまでも広がっているばかりの、奇妙な場所だった。 ああ、ここは、死んだ魂が行くという、幽界というところなのだろうか、と、たまこは思った。 それにしても、なんというさびしい眺めだろう。 ここに一人で立っていると、それだけで、さびしくて、心細くて、涙が止まらなくなるのだ。 こんなさびしいところでクロは、長い間一人ぼっちで、昇一お兄ちゃんを捜して呼んでいたのかと思うと、クロがかわいそうで、大声で泣きたくなった。 そうだよね。 こんなところに一人でいたら、そりゃ、通りかかる人なら誰でもいいからすがりつきたくなるよね。 他の幸せそうな猫を見たら、うらやまずにはいられないよね。 たまこがそう思ったとき、突然、はるか上空で不気味な雷鳴がとどろき、薄明の空に、青緑色の稲妻がぴかっと走った。 まばゆい稲妻の光に、一瞬、見上げるような巨大な、魔物の影が浮かび上がる。 人気ブログランキングへ
2014.07.21
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はっとして、赤いキャットフードのお皿を振り返ってみれば、それは確かにミケの言うとおり、キャットフードとは大違い。 姿かたちといい、匂いといい、どう見ても、小動物の死骸、腐敗物あるいは虫のようなもの、すなわち、猫が野生動物であったころ狩って常食としていた違いない、もろもろの食糧。 「きゃっ! いやーん!」 思わず悲鳴をあげて飛び退ったたまこを見下ろして、青緑色の目玉が、怒りの色にゆらり、と揺れた。 揺れた視線が、不気味な光を放って、すっ、と、ミケに向けられる。 「おのれ、三毛猫、まだ生きていたのか!」 ミケの全身の毛が、針のように逆立った。 「おだまり! お前のような大嘘つきが作り出すめくらましには、もうだまされないよ! たしかに、自分にむごい仕打ちをした人間を、あるいは自分を冷たく見捨てた人間を、憎まずにはいられなかった猫たちの気持ちは、肌身にしみてよくわかったよ。 そりゃあ悲しかったことだろう。 悔しかったことだろう。 どんなにか苦しかったことだろう。 だけど、よく思い出してごらん。 おまえだって、人に愛されたこともあった、と、さっき言っていたじゃないか。 縁もゆかりもないお前を、優しい心で包んで慈しんでくれる、そんな人たちだって、この世にはたくさんいるんだ。 そんな人たちまで恨んだり呪ったりするのは、筋が違うと思わないのか? ときに残忍な行いもするけれど、慈悲の心は決して失わない、人間てそういう生き物だと、おまえだって、ほんとうはよくわかっているはずだよ」 青緑色の目玉が、一瞬、考え込むように不安げに揺れた。 が、それもほんのつかの間、――― 激しい憎しみと不審の色はすぐにもとの勢いを取り戻し、ミケに向かって牙を剥きだした。 「慈悲の心、だと? ふん、そんなものがやつらにあるものか! 俺は人間の言葉など二度と信じぬ! 三毛猫、それにそっちの白猫も、われらの仲間に引きずり込んで、この悔しさを骨の髄まで味わわせてやろうぞ! お前たちも、われらと同様、この憎しみの無間地獄の中で、永遠に苦しみ続けるがいいわ!」 人気ブログランキングへ
2014.07.20
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闇に包まれた部屋の中では、いつものように、青緑色の大きな目玉が二つ、ぽっかりと宙に浮かんで、たまこを待っていた。 「おお、しばらくだったね、たまこ。 おなかがすいてるだろう? さあ、美味しいキャットフードを、おなかいっぱい食べなさい。 これを食べないと、おばかさんになっちゃうよ」 たまこが何か言おうとする前に、また、あの、なんともいえない良い匂いが漂ってきて、たまこの足もとに、すっ、と、赤いキャットフードを山盛りにしたお皿が差し出された。 それを目にしたとたん、どうしたことだろう、たまこは、頭がくらくらするほどの耐え難い空腹感に襲われて、何もかも忘れ、つい、ふらふらと、キャットフードに向かって足を踏み出してしまった。 そのときだ。 たまこの後ろで、聞き覚えのある鋭い怒声が響き渡った。 「だまされてはなりません、珠子お嬢さま!」 はっとわれに返って振り返ると、そこに立っていたのは、金色の瞳をらんらんと光らせ、きびしい表情でたまこを見下ろす、ミケだった。 「ミケ! 無事だったのね!」 深い安堵の思い ――― おかげで赤いキャットフードのことなんかころりと忘れて、駆け寄るたまこに、ミケが母猫のように優しく寄り添って、青緑色の目玉を睨み上げた。 「お嬢さま、だまされてはなりませんよ。 その魔物は、命あるものに夢まぼろしを見せてあやしの世界へと誘い込む大嘘つき。 しっかりと目を開けて、その皿の上のものの正体を見極めなさいませ」 人気ブログランキングへ
2014.07.19
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力いっぱい足を踏ん張って泣き叫ぶ娘の様子に、昇一さんは驚いてドアノブから手を離し、彼女を抱き上げてあやし始めた。 「おばけ? ははは、ノンちゃんは怖がりだなあ。 そんなものいないよ。 ここは昔パパが 使ってた部屋だもん。 おばけなんかいたって、パパがやっつけちゃうから平気さ」 昇一さんの首にしがみついて、女の子のご機嫌が少しだけ良くなった。 「ほんとう? パパはおばけより強いの? 怖くないの?」 「怖くなんかないさ。 パパは強いんだぞ! 今日だって、パパが生まれ育った『龍王』の店存続の危機だと察したから、こうして救出に飛んできたんだ。 パパにまかせておけば大丈夫だよ」 そのすきにたまこは全速力で階段を駆け上り、頼もしげに高笑いする昇一さんの足もとをすり抜け、ドアノブに飛びつくと、渾身の力でこれをぐりっと回した。 昇一さんの娘が、目を丸くしてたまこを指差す。 「あっ、パパ見て! 猫ちゃんがドアを開けるよ! 上手だね」 その声を背中に聞きながら、たまこは、まるで自分を誘い込むように簡単に開いたドアの、細い隙間に半身を滑り込ませた。 「え? 猫ちゃんが、なんだって?」 昇一さんが振り返って、娘の指差すほうを見たとき、たまこはもう、ドアノブから離れて一足飛び、真っ暗な部屋の中にダイブしていた。 たまこの着地と同時に、ばたん、と大きな音を立てて、ドアがひとりでに閉まる。 とたん、部屋の中が真っ黒な闇に沈む。 ドアの向こうでは、まだ、女の子の高ぶった声が響いていた。 「パパ! 今、猫ちゃんが、おばけのいるお部屋の中に入って行っちゃったの。 あの猫ちゃんは大丈夫? おばけに食べられちゃう?」 そして、狐につままれたような昇一さんの声。 「えっ? 今ドアが閉まった? 猫ちゃんが入ったから? ほんと? パパには何にも見えなかったよ?」 つづいてガチャガチャとせわしなくドアノブの回る音。 「・・・あれ? へんだな、開かないぞ。 母さんが鍵をかけたのかなあ。 ・・・だって、今このドア開いたんだよね? ノンちゃん、見てたんだよね?」 人気ブログランキングへ
2014.07.18
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後悔と心配に胸も焼け付くような思いで龍王に駆けつけ、外階段を上りかけて、たまこは息も止まるほどびっくりした。 部屋のドアの前に、さっき夢に見たばかりの、けれど今はすっかり大人になった、昇一さんが立っているのだ。 しかもその横には、おそらく昇一さんの愛娘なのだろう、小さな女の子が、しっかり昇一さんの手を握り締めて立っている。 ―――お父さんに勘当されて、現在は絶縁状態で別居しているはずの昇一さんが、なぜ、今、ここに?! しかし、それをいぶかしむよりもさきにたまこを驚愕させたのは、その昇一さんの片手が、今にも、二階部屋のドアを開けようとして、ノブに伸びていたからだ。 ぞっ、と背筋が凍りつくような気がした。 ――― だめ! 昇一お兄ちゃん、不用意にその部屋に入るのは危険だわ! その部屋に棲みついているのは、あたしたちを忘れて怖ろしい魔物に変わってしまったクロちゃんだったの。 今その部屋に入ったら、お兄ちゃんと、かわいい娘さんまで、猫に変えられてしまう! 慌ててたまこが階段を駆け上がりはじめたとき、上で昇一さんの娘が急に、火のついたように激しく泣きだした。 「だめーっ! パパ、そのお部屋に入っちゃだめ! 中におばけがいるの!」 人気ブログランキングへ
2014.07.17
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それは昇一お兄ちゃんがまだ中学生、珠子や正樹は小学生低学年のころだった。 『龍王』の調理場に、一匹の黒い子猫が迷い込んできたことがあって、一人っ子の昇一お兄ちゃんは、この子猫を本当の弟みたいに可愛がっていた。 それが『クロちゃん』だ。 でも、昇一お兄ちゃんの家はお客さんに料理を出すお店。 店の中や調理場を猫がうろついていたら不衛生に見える、と、どうしても飼うことを許してもらえず、どこかに捨ててこい、とお父さんにきびしく言い渡されてしまったのだった。 それでも昇一お兄ちゃんは、クロが可愛くてどうしても捨てることができず、お父さんにもお母さんにも内緒で、こっそり、古い毛布を敷いた段ボール箱に入れて、店の駐車場裏の藪に隠して、朝に夕に、ご飯を運んでいた。 だけどある日、昇一お兄ちゃんが学校に行ってる間に、クロはさびしくなったのだろうか、ひとりで段ボール箱から這い出して、駐車場から国道に迷い出、事故に遭ってしまったらしい。 お兄ちゃんが、給食の残りをお土産に学校から走って帰って来た時、クロはもう、車道の隅の縁石の横に、ぼろきれみたいに投げ出されて、動かなくなっていたそうだ。 ――― あの、かわいそうなクロちゃんのことを、あたしったら、どうして今まで忘れていたんだろう! クロちゃんの魂はきっと、車に轢かれたあの日のまま、あの場所でずっと昇一お兄ちゃんを待っていたに違いないのに! そう思うと、クロちゃんがかわいそうで、涙がこみ上げてきた。 そんな悲惨な出来事をすっかり忘れていた自分に、どうしようもなく腹が立った。 人気ブログランキングへ
2014.07.16
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――― ミケ、どうか無事でいて! 捨吉から、ミケが一人で龍王に向かったことを聞くと、急に不吉な胸騒ぎに襲われて、たまこは全速力でラーメン屋『龍王』に向かっていた。 どんな怖ろしいものが待ち構えているかわからない魔物の巣窟に、あたしのためにたった一人で乗り込んでいってしまったなんて! ああ、あたしがしっかりしていれば、絶対に、ミケにそんな無茶な真似をさせなかったのに! 銭湯の屋根から落ちて、まったく猫らしくもなく気を失っていた、その時間が惜しまれる。 後悔の念にひりひりと胸が痛む。 だが、たまこの気がかりはそれだけではなかった。 気を失っている間に見た、断片的でおぼろな夢が、さらにたまこの不安に拍車をかけていた。 いつもたまこに『美味しいキャットフード』を提供してくれる、『龍王』二階部屋の魔物の、あの青緑色の目の色だ。 自分をこんな姿に変えてしまった憎むべき敵のはずなのに、なんだか憎む気になれない、どころか、ときに妙な親近感さえ覚えてしまう ――― そのことが以前から気になっていたのだったが、たった今見た短い夢の中で、ようやくその正体に思い当たったのだ。 どうして今まで思い出さなかったのだろう。 あの、透き通った宝石みたいな、きれいな青緑色の目 ――― あれは、『龍王』の一人息子、昇一お兄ちゃんが、むかし可愛がっていた黒い子猫『クロちゃん』の、瞳の色そのものではないか。 人気ブログランキングへ
2014.07.15
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仕事、家のこと、人間関係のあれこれ、なぜか身辺怒涛のごとく忙しく、すっかり凹んでおりましたが、またぞろ、『猫』の続きを書きたい、と、のそのそ起き出してまいりましたふろぷしーもぷしーです。このような私のちゃらんぽらんさにもかかわらず、留守中も応援してくださったみなさま、本当にありがとうございました。恥ずかしくも、感謝の気持ちでいっぱいです。思えば、途中で何度も挫折しかけた『猫』でしたが、こんどこそ、完結を目指します。というわけで、またどうぞよろしくお願いしますね。
2014.07.15
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2014.04.04
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三人に見捨てられた衝撃は、大きかった。 それは、ミケにとって、生みの母よりも確かな命の原点、何よりも大切な、幸せの記憶だったのだ。 それを粉みじんに打ち砕かれてしまっては、残るのは絶望ばかり。 もう生きている意味もない、と思った。 あの時珠子お嬢さまの決断でこの命を救われてこれまで長生きできた、幸せだった記憶すら徐々に薄れ、その幸せの記憶こそが幻、長い長い一夜の夢の中の出来事のように思えた。 雨の中、力尽きた子猫は、本当はあの時死ぬ運命だったのかもしれない。 ふらふらとその場に倒れこんだミケの耳に、幻の声がささやく。 わかったか? 人間とは、みな、かくも頼りない生き物だ。 気まぐれのみで行動する。 お前は、これまで人間に愛され、守られていたと感じていたかもしれないが、それも、相手が信ずるにたりるものだったからなどではない。 見よ、すべてはこやつらの気まぐれの結果、単なる偶然の産物に過ぎぬのだ。 次第に薄れ行く意識の中、そうかもしれない、とミケはしみじみ思った。 幻の声が甘く、優しく、ミケをいざなう。 私にも、人に愛され、自分は幸せだと思い込んでいた、そんな時期があった。 しかし、そんなものはすべてまやかし、私の勝手な思い込みに過ぎなかった。 私がこの世で唯一、信じるに値すると思っていた人間は、私が事故に遭って死ぬや、あっという間に私のことなど忘れ去り、厄介者がいなくなってせいせいしたと言わんばかり。 人恋しさに、声を限りに私がどんなに呼んでも叫んでも、その声が相手に届くことはついになかった。 私がどんなにさびしく、むなしい思いをしたか、今のお前ならわかるだろう。 ここに集まった霊たちはみな、今のお前や私と同じ心の痛み、絶望を味わっているのだ。 わかったら、おまえも、さあ、こちら側に来るがいい。 ここは決してさびしい闇の世界などではないぞ。 同じ苦痛を味わった仲間たちがたくさんいる。 人間などという頼りない生き物のことは忘れて、さあ、こちらへ、私のもとへ、おいで、ミケ。 真っ黒な絶望と、安穏が、静かにミケを押し包んだ。 人気ブログランキングへ
2014.04.03
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必死の思いで、おぼつかない記憶をたぐりよせるミケをその場に取り残し、美緒がしぶしぶ立ち上がった。 その美緒の、もう片方の手を取ったのは、これもまだ子どものころの正樹だった。 「珠子の言うとおりだぞ、美緒。 野良猫なんて汚いんだ。 バイキン、いっぱいついてるぞ。 あんなの触ったら病気になっちゃうぞ」 この言葉に、ミケは心臓も凍りつくようなショックを受けた。 ――― ちがう! あの時は確かに正樹坊ちゃんもお嬢さまたちと一緒にこの場にいらしたけれど、このようなことはおっしゃらなかった。 正樹坊ちゃんは、珠子お嬢さまと私を指差し、からからと明るい笑い声を上げてこうおっしゃったはず。 『ははっ! 珠子も、美緒も、泥んこじゃないか。 その格好で家に帰ったら、おばさんに怒られちゃうぞ。 いっそ、この子猫を家に連れて帰って、飼ってくださいって頼んだらどう? 珠子んちのおばさん優しいから、きっと子猫のほうに気を取られて、お前たちが服を汚したことなんか怒るの忘れちゃうかもよ』 だが、悪霊のもたらす偽の記憶の中の美緒は、急におびえたような目をミケに向け、身震いしながら後退った。 「いや。 バイキン、汚い! 野良猫、あっち行け!」 珠子も笑って、ミケに背を向ける。 「じゃ、早くおうちに帰って手を洗いましょ。 ママがおやつにホットケーキを焼いて待ってるわよ。 今日は正樹お兄ちゃんのママがお留守だから、お兄ちゃんもうちで一緒におやつを食べることになってるの。 楽しいわね」 明るい笑い声を立てながら、小さな傘が三つならんで、ミケの前から遠ざかっていく。 ――― 激しいショックに、ミケの目の前が真っ暗になった。 もはや、この幻が偽の記憶だという判断すらつかなくなるほど、自分を見失っていた。 うそ! こんなの嘘! あのとき、『どうしてもおうちに連れて帰るの』と泣き出した美緒お嬢さまを優しくなだめ、『俺んちの母さんはきっと動物を飼うことは許してくれない』とうなだれた正樹坊ちゃまには明るい笑顔を向けて、『大丈夫、あたしが絶対にママを説得するから二人とも心配しないで。 この子は今日からあたしたち三人の妹になるのよ』と、力強い声で決断を下してくださったのは、他の誰でもない、珠子お嬢さま、あなただったではありませんか! ああ、珠子お嬢さま、ミケをおいていかないで! 降りしきる雨の向こうに消えていく三人に追いすがろうとしても、子猫のミケに、もうそれだけの力は残っていなかった。 人気ブログランキングへ
2014.04.02
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「猫ちゃん、おいで! 美緒のところにおいで!」 差し伸べられた小さな暖かい手。 忘れもしない、優しく懐かしいその手に触ってもらいたい一心で、よたよた、立ち上がったミケが必死で歩き始めたとき、差し伸べられたその手を横合いからさっと押さえた、少し大きな手があった。 「よしなさい、美緒。 汚いわよ」 驚いて顔を上げると、それは、やはり子どもの頃の、珠子なのだった。 ――― おや、珠子お嬢さまは、あの時このようなことをおっしゃっただろうか。 頭の中で、今は大人になったミケが、遠いかすかな記憶を一生懸命たどりながら考える。 いいえ、そんなことはおっしゃらなかったはず。 雨の中、珠子お嬢さまは、美緒お嬢さまと一緒に私の前にお座りあそばして、わあ、ほんとだ、かわいいね、と大きな声でお笑いになって、・・・ しかし、この、偽の記憶の中の珠子は、ただ冷たい目でちらりとミケを見やっただけで、なおも乱暴に美緒の手を引いて立ち上がらせようとしていた。 「ほら、美緒、早く立って。 今日はママの代わりにあたしが、正樹と一緒に、美緒を保育園まで迎えに来たのよ。 途中で泥んこになって帰ったりしたら、あたしがママに怒られちゃうじゃないの」 驚きと、混乱が、頭の中で渦巻き、ミケは激しく頭を振って考えた。 ――― いいえ、いいえ! 珠子お嬢さまは、こんなことはおっしゃらなかった! あのとき珠子お嬢さまは、横合いから手を伸ばして、美緒お嬢さまより先に私を抱き上げ、可愛そうに、こんなに寒がって震えてる、と、御自分のコートの中に優しく包み込んで暖めてくださったのではなかったか。 人気ブログランキングへ
2014.04.01
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さあ、どこからでもかかってくるがいい。 身構えたミケの前に押し寄せてきた、黒い霧のような巨大な塊が、その奥に暗い青緑色の瞳をかすかに光らせ、ミケを押し包む。 静寂を破って、憎しみと怒りに満ちた声が、低く、深く、地鳴りのようにとどろく。 「おろかな三毛猫め、人間を信じ、裏切られた哀れな猫たちの末路を、今その身をもって見届けたであろうに、それでもまだ人を信じるとぬかすか。 人間の気まぐれに振り回され、あるいはそのゆがんだ快楽のために、犠牲となった猫たちの惨めな死に様を、見届けたばかりであろうに、まだ懲りぬのか。 人間のような気まぐれな生き物を信じるなど、どれほどばかげたことか、おまえこそもう一度しっかりと目を見開いて、あやつらの真実の姿を見るがいい」 その言葉と同時に、冷たい霧がミケを押し包んだ。 いや、霧ではない。 体の芯まで凍えるような、冷たい、雨だ。 濡れそぼった体を細かく震わせながら、また一歩、踏み出した足が、ぬかるみに取られて、まだ子猫のミケはよろめき、水たまりの中にべしゃりとしりもちをついた。 ――― それは、ずっと長い間忘れていた、まぎれもなくミケ自身の、遠い遠い記憶だった。 自分が何者なのかもわからない。 どこから来たのかもわからない。 どこへ行けばいいのかもわからない。 ただ、空腹で、寒くて、耐えられず、やみくもに歩き出した、幼いミケだった。 ときどき、正体のわからない巨大な生き物が、轟音と派手な水しぶきをはねかけてミケの横を通り過ぎていった。 が、ミケに目を止める者は誰一人としてなかった。 寒くて、疲れて、もう鳴く力も失い、ぬかるみの中にべったり座り込んだまま、ただ激しく震えるばかりのミケの耳に、そのとき、かすかに、天のしらべのような明るい声が聞こえてきた。 「・・・あっ! お姉ちゃん、見て見て! 猫の赤ちゃんがいるよ!」 おぼつかない雨靴の足音とともに近づいてくるのは、今のミケにはすっかり耳になじんだ、あたたかい、優しい声だった。 ――― 美緒お嬢さま! 人気ブログランキングへ
2014.03.31
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守り猫さま、どうか私にもその方法をお教えください。 この荒ぶる魂たちを鎮める力を、私にもお与えください。 なにとぞ、なにとぞ、今一度お力をお貸しくださいませ! 遠い森の古寺の、守り猫に向かって、声にならない声で叫んだとき、不意に、耳を聾するトラックの轟音が、嘘のように消え失せた。 静寂 ――― あの寺の、耳を失った守り猫さまの見えない手が、そっと自分の耳に触れた、そのときミケには確かにそれが感じられた。 同時に、次々と襲いかかってくる恐ろしいトラックの幻も消え、あたりは、これまでとは明らかに異なる、あたたかくおだやかな闇にすっぽりと包まれた。 無辺の闇 ――― ああ、あの、目を失った守り猫さまも、私にお力添えくださっている! 顔を上げたミケの耳に、永遠のしじまの中、荒ぶる魂を鎮めんと、静かな経文が響いていた。 心が洗われるような、美しい経文。 澄み切った声。 無明の闇に差し込む、やわらかくあたたかい、一条の光。 感動にこみ上げてくる涙をぬぐって、ミケも両手を合わせ、守り猫さまの経文に唱和した。 この場所で、永遠にのたうちまわり、もがき苦しむ魂たちの思いを慰めたいと心から願い、とめどなく流れる涙をぬぐうまもなく一心に祈った。 どれほどの時間がたったのか、ふと気がつくと、あたりにはやわらかな空気が満ちていた。 春の陽ざしにも似た、ふうわりとしたあたたかさ。 広大無辺の闇を満たす、荘厳な時間。 穏やかな幸福感とともに、荒ぶる魂が、ゆっくりとミケから離れていくのが感じられる。 ――― 調伏成就。 と思った次の瞬間、しかし、闇の彼方からさらに真っ黒な、巨大な憎しみの塊が、急速な勢いでこちらに向かってくるのが感じられた。 ずん、と地を震わせるほど重い空気。 突き刺さるような冷気。 これまでにも増して手ごわい敵、と瞬時に予感した。 ここに集まった怨霊たちを総括する首魁の登場だ。 これを打ち破らなければ、呪いは解けない。 人気ブログランキングへ
2014.03.30
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何も考える暇もなく、勢いよく跳ね飛ばされた。 衝撃に息が止まる。 宙空高く投げ出されたミケの体が、硬いアスファルトの路面に激突する。 激しい痛み。 息ができない。 体が動かない。 苦痛にあえぐミケに、後続のトラックの車輪が容赦なく襲いかかる。 またしても、激しい衝撃。 後から後から襲いかかってくる後続車が、次々とミケの体を食いちぎり、踏みつけて、通り過ぎていく。 誰も止まってくれない。 止まって! お願い! 大声で泣いても叫んでも、その声は、通り過ぎていくトラックの轟音にかき消されてしまう。 何度も何度も空に跳ね上げられ、路上にたたきつけられ、混乱と狂気の狭間で、怖ろしい絶望が再びミケをとらえていた。 ああ、無残な! これほどまでに苦しみぬいて、消そうにも消せない深い恨みに身動きのとれなくなった魂を、慰め、鎮めて、成仏にまで導く ――― そんな力が、はたして私にあるのだろうか? 衝撃と苦痛に朦朧とした、ミケの意識の片隅に、そのとき、人間の虐待に遭って体と心に消えない傷を残された守り猫たちの、あのむごたらしい容貌が泡沫のように浮かびあがった。 思わず、その痛々しい姿に手を合わせた。 守り猫さま ――― あなたがたは、いったいどのようにして、自分たちを苦しめた人間を許すことが出来たのですか? どんなにか人間を恨んだにちがいないのに、その憎しみを、どのようにして消し去ったのですか? その恐怖は想像を絶するものであったでしょうに、どのようにしてそれを克服し、再び人間を信ずる気持ちを醸成なさったのですか? その答えを、今、知りたいと切実に思った。 人気ブログランキングへ
2014.03.29
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「紗羅さま! ご加護に感謝いたします!」 が、ミケが歓喜に打ち震えながら手を合わせる、その間も待たず、透き通るような白光は、あっという間に闇に飲み込まれ、再び闇に閉ざされた空間を、また新たな、青緑色の巨大な光が、こちらに向かって猛スピードで近づいてきた。 恐ろしい轟音。 地を揺るがす振動。 大きなトラックだ。 これは、あの魔道で車にひき殺された猫の、恐怖の記憶だろうか。 ――― きたね、新手の悪霊め! もう惑わされはしないよ! 金色の瞳をかっと見開いて、ミケは迫り来るトラックの真正面に四肢を踏ん張り、耳を聾する轟音に逆らって、あらん限りの声を張り上げた。 「お前は車にひき殺されたのか? よくお聞き。 それは事故だよ。 お前をひき殺した人間だって、なにもお前が憎くてやったんじゃないだろう、間違いだったんだよ。 お前をほったらかして走り去ってしまった? そりゃあ、人間は忙しい生き物だからねえ、お前を助ける時間はなかったのかもしれないね。 だけどその人間だってきっと、お前を置き去りにしたことを悔やまなかったはずはないと思うんだよ。 そのことでうんと苦しんだかもしれない。 間違いではすまされない、と言いたいお前の気持ちもわからなくはないけど、そうやって恨みに凝り固まって、わが身を悪霊にまで墜とすなんて、いっそう不幸なことじゃないかね。 お前がそんなふうにだれかれ構わず恨んで呪いをかけたところで、お前を死に至らしめた当の人間には、何も伝わりゃしないんだよ」 心をこめて説得する間にも、迫り来るトラックの轟音は耳を劈き、ミケの声も空しくかき消されてしまう。 巨大なトラックが牙をむいてミケに迫る。 人気ブログランキングへ
2014.03.28
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紗羅さま・・・! あの金色の子猫が、遠くあの寺の境内から、見えない加勢の手をミケに差し伸べてくれている。 邪心のない、あの澄んだ瞳で、一心不乱に悪霊退散を祈願し、正しい道をミケに指し示してくれている。 それに気がついたら、ミケの内に、萎えかけていた気力がたちまち蘇ってきた。 再び人間を信じる心が、奇跡のように湧き起こってきた。 これまで自分を可愛がってくれた人間たちに対する、深い感謝と、篤い信頼と、そして、ゆるぎない愛情が、熱い力となって、体の奥からこみ上げてきた。 その熱い思いが金縛りの鎖を溶かし、一瞬のうちにすべての迷いを断ち切る。 金縛りから抜け出して自由になると、ミケは渾身の思いをこめ、暗闇の怨霊どもに向かって叫んだ。 「お前たち、いつまでもそこにとどまっていちゃいけない、早く目をお覚まし! よく思い出してごらん。 人間たちがお前たちにしたことは、悪いことばかりだったか? そうじゃないだろう? 優しくしてくれた人たちだって、たくさんいたはずだよ。 たとえ、お煮干一尾だって、頭の一撫でだって、お水の一しずくだって、いや、哀れと思って投げかける視線だけだって、そこには、あたたかい人の心がこもっていたんじゃなかったか? それは、人間だけが持つことのできる、慈悲の心というものではないのか? そのことを忘れて、そんなふうに人の暗い面ばかり見ていたら、不幸になるのは自分だけだよ。 あたしたち猫は、野生動物とは少し違う。 飼い猫ばかりじゃなく野良猫だって、みんな、人間の社会で、人間と一緒に暮らしているんだ。 だからこそ、あたしたちも、良くも悪くも人間たちの影響を受けずには生きていけないんだよ。 お前たちも、そのことを早くに学んで、人間社会の猫として、人とともに、賢く生き延びなければいけなかったんだ。 みんな、もう、過ぎたことは忘れて、今度生まれてくるときは、優しい人にめぐり合って、その人を信じ、愛しぬいて、一生をともに、幸せを分かち合ってお暮らし。 ひたむきに愛すれば、人はきっと応えてくれる、そういう生き物なんだよ。 頼むから、このミケの言うことを信じておくれ!」 ミケの発する言霊の一つ一つが、白く輝く熱い光となって、暗闇に迷うビームに向かって飛んでいく。 それを援護するように、紗羅の清らかな金色の炎がそっと寄り添う。 二つ重なって輝きを増した白光が、次々とビームを叩き落とし、怨霊の本体に迫る。 今やおぞましい暗光を失って気味の悪いゼリーのように変わった本体が、一瞬、狼狽したように揺らめき、と思った次の瞬間、金色の炎を上げながら激突した白光が、それをこっぱみじんに打ち砕いた。 砕け散って、宙に舞った青緑のかけらが、ひとつずつ、ふっ、ふっ、と闇の中に消えていく。 陰りのない清らかな光が、部屋の中をいっぱいに満たした。 人気ブログランキングへ
2014.03.27
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底なしの恐怖 ――― そして、己の内に荒れ狂う烈しい感情と、ミケは必死で闘っていた。 すべては悪霊どもの仕掛けた迷妄。 惑わされてはならない。 これは自分自身との戦い、己自身の中に巣食う、負の感情との戦いなのだ。 意識の中ではそれがはっきりわかっている。 なのに、意に反して体のほうは、金縛りにあったようにさっぱり動かない。 心と体の激しく苦しいせめぎ合いの中、いくら気力を振り絞ろうとしても空回りするばかりだ。 むなしい努力に疲労困憊して、ミケはもう心身ともに限界に達しかけていた。 しだいに心は萎え、戦う気力も挫けていく。 ああ、もうだめ・・・ 抗いがたい奔流に飲み込まれるように、その場に崩折れそうになったミケの耳に、そのとき、どこからともなく、シャラシャラ・・・と、澄んだ鈴の音が響いてきた。 はじめはかすかに、そして徐々に力強い確かな音となって、こちらに近づいてくる。 ――― あの鈴の音は・・・? はっと顔を上げると、今しもミケに襲いかかろうとしていた新たなビームに向かって、横合いから小さな手鞠が勢いよく飛んできたところだった。 ――― あれは、紗羅さまの、手鞠!! 胸の中に、ふわっ、と、あたたかい春の花が咲いたような気がした。 シャラララ・・・愛らしい鈴の音を鳴らして飛んできた手鞠が、ふいに、ジャラン!と激しい音を立て、まばゆい金色に燃え上がった。 火の玉と化した手鞠が牙をむいてビームの進路に割り込む。 と思うや、まばゆい火花を散らしながら、一瞬のうちにこれを叩き落とした。 地に落ちたビームが、どろり、と溶けて、崩れて、あとかたもなく闇に消えた。 人気ブログランキングへ
2014.03.26
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一筋のビームと化した怨霊がもたらすその幻は、信じがたく痛ましい光景だった。 誰かが、恐ろしい声で自分を怒鳴りつけている。 ――― 私が何かこの人間を怒らせるようなことをしたのだろうか? と、考える暇もなく、大きな手が伸びていきなりミケの首根っこをひっとらえた。 恐怖に心臓が縮み上がる。 首筋をがっきと捕まえた手が、容赦なくミケの体を宙に振り上げた。 大きく弧を描いたミケの体が、思い切り壁にたたきつけられる。 息も止まるような激しい衝撃。 痛い! ご主人、なぜ私にこんなことを・・・!? 信じていた人間に裏切られた衝撃、そして激しい痛みに、あげかけた抗議の声も思考も悲鳴も凍りつく。 なぜ?! 私が何をしたというの?! わけがわからない! 二度、三度、恐ろしい手が執拗にミケをとらえては壁にたたきつける。 目の前に迫る人間は、確かに、これまで一緒に暮らしていた人、昨日まで優しく寄り添っていた人のはず。 なのに、この豹変はどうしたことだろう。 ――― 私は、この人間の気まぐれ、ただの憂さ晴らしのために殺されたの・・・? 不意にそのことを悟ると、みるみるうちに、真っ黒な憎しみが体の内に膨れ上がった。 ――― くやしい! この理不尽な思い、悔しさを、なんとしても、この人間に思い知らせてやらなければ、死んでも死にきれない! 怨霊の中に渦巻く烈しい憎しみの感情に同調して、己の心をコントロールすることがむずかしくなったミケに、さらに追い討ちをかけようと、新手のビームが迫る。 人気ブログランキングへ
2014.03.25
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その刹那、ミケの脳裏には、剣の光芒にも似た鮮烈な幻影が走り抜けていた。 ――― 見知らぬ人間が、巨大な牙を(それは人間たちが『ナイフ』と呼ぶ、無敵の恐ろしい牙だった)ふりかざして自分に襲い掛かってくる、身の毛もよだつ光景だ。 残忍な、喜悦の表情を浮かべた人間の顔。 腹に、背骨に、顔に、めった刺しにつきたてられる牙。 その凍りつくような恐怖。 耐え難い痛み。 その幻影はまるで自分自身が体験した出来事のようになまなましく、身震いするような現実感を伴っていた。 ――― ちがう! これは現実ではない。 悪霊と化したこの猫が、死の直前に目にした恐怖と苦痛の記憶。 おそらく変質的な人間に捕まって惨殺されたと思われる、憎しみの記憶なのだ。 そのことにはすぐに気づいたが、頭で理解していても、その圧倒的な恐怖と苦痛を、精神の力で押さえ込むことは困難だった。 すさまじい恐怖に、体が硬直する。 動きの止まったミケに、さらに追い討ちをかけるように、第二のビーム、別の怨霊が繰り出す新たな幻影が襲いかかった。 人気ブログランキングへ
2014.03.24
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本能的に身の危険を感じて、ミケは、自分に向かって矢のように降り注いでくる無数のビームの間をすり抜け、駆け出した。 が、さしものミケの俊足も、実体のない光の直線的なスピードにはとうてい及ばない。 いくつもの冷たい光芒が、かみそりのように体のあちこちをかすめていく。 かすめて通り過ぎていったビームが、急転回して再び襲いかかってくる。 ビームが体のどこかに触れるたび、得体の知れない悪寒と恐怖が、ミケの背筋をざあっと走りぬける。 次々と発射されるビームで、あたりの暗闇も、全体がうっすら青緑色に染まりだした。 しだいに逃げ場が狭まっていく。 ビームを避けて、柱を駆け上り、置き去られた古箪笥の上からテレビ台へ飛び移り、椅子の下をすり抜けてテーブルの下にもぐり、右往左往するミケの頭上で、悪霊の忍び笑いが、勝ち誇った哄笑に変わる。 「どうだ三毛猫、いくら逃げようと無駄と知ったか。 もう逃げ場はないわ。 観念して、われらの手に落ちてしまえ!」 はっと気がついたときには、ひとすじのビームがミケの体をぴたりととらえていた。 ミケの全身が、青緑色の冷たい炎に、かっ、と燃え上がる。 人気ブログランキングへ
2014.03.23
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油断なく身構え、そろりと部屋の中に足を踏み入れた、そのとき、奥の闇のどこかで、かすかな空気の乱れが生じた。 すばやくそちらに視線を走らせる。 ――― 何もいない。 ただ、刺すような視線だけが、全身に針をつきたてられたようにちくちくと痛い。 数知れない、邪悪な存在が放つ真っ黒な視線だ。 やはり、敵は一体だけではなかったようだ。 邪気と悪意をはらんだ空気を極力吸い込まないように注意しながら、ミケは呼吸を整え、精神を統一すると、底なしの闇に向かって、地をもゆるがす大音声を張り上げた。 「性悪猫の霊ども! 珠子お嬢さまを猫の姿に変えたのは、お前たちの仕業か?! このミケ婆が、珠子お嬢さまに替わって、おまえたちの言い分をとっくり聞いてやろうじゃないか。 言いたいことがあるなら言ってごらん。 ええ? ねずみみたいにこそこそ隠れていないで堂々と姿を見せたらどうなんだい! それとも、それもできないほど、私がこわいか?!」 猫が相手なら、どのような剛の者であろうと瞬時にその場で屈服させずにはおかない、これだけで立派な武器に匹敵する、ミケの怒声だ。 それに応えるように、闇の奥のかすかな空気の乱れが、ゆらり、と大きく揺れた。 と見る間に、ぼうっ、と、暗い青緑色に発光する霧のようなものが渦を巻いて湧き起こり、不気味な実像を結び始める。 同時に、地の底から滲み出すような、低い忍び笑い ――― 「威勢のいい三毛猫め、人間のかわりにわれらの言い分を聞くとは片腹痛い。 猫として生まれながら、人間どもの肩を持つ裏切り者よ、人間という生き物がどんなに残酷か、われら猫族の真情を踏みにじってどんな残忍非道な仕打ちに及んだか、それでは、望みどおりその身にしっかりたたきこんでやろうぞ!」 その言葉が終わらないうちに、暗い青緑色の霧がみるみるうちに凝縮してその光を増し、一瞬の間に、赫々とした光点に変化した。 ついで、はぜるように爆裂した光点が、目の眩むような無数のビームをあたりに放つ。 闇を切り裂いて走る幾筋ものビームが、縦横無尽に空間を駆け巡る。 まるで、獲物を探し回る獰猛な小動物のようだ。 人気ブログランキングへ
2014.03.22
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横断歩道を渡りきると同時に、信号の色が変わった。 何台も並んだ大きなトラックがいっせいにエンジンをふかし、濃い排気ガスを撒き散らしながら、ミケの脇を次々と通り過ぎていく。 昼夜を問わず車の往来が途絶えることのない国道の、騒音の真っ只中にありながら、まったく人の気配の感じられない【龍王】は、それ自体がまるで、異世界から忽然と姿を現した怪物のようだ。 広い歩道から駐車場へ、店の裏へ回って、雪まじりの冷たい風が吹きつける外階段を、足音も立てず一気に駆け上る。 上りきったところで、ミケは、はっと足を止めた。 ――― 二階部屋のドアが、細く開いている。 中は無人のはずなのに、まるで、通りがかった者を無差別に誘い込む罠のようだ。 注意深くドアに近づき、耳をそばだてた。 室内からは何の音も聞こえない。 ドアの隙間から、そっと中を覗き込んでみた。 中は、飲み込まれるような闇。 猫の目をもってしても何も見えない。 漏れ出てくる空気は、ぞくりとするほど冷たく、湿っぽかった。 その奥には、確かに、なにか得体の知れない、妖気じみた気配がひそんでいるのが感じられた。 しのびやかに息をひそめて自分を待ち構える、正体不明の敵意に、我知らず、首筋の毛がざわっと逆立つ。 人気ブログランキングへ
2014.03.21
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2014.03.11
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若かりしころの狂熱の季節を思い起こして、ミケはしばしうっとり、熱い、甘い、思い出の中にさまよい、それから、なにか急にそわそわし始めたナナに気づいて続けた。 「口では何と言っても、お嬢ちゃんや、あんたも心の奥じゃもう一度人間に戻りたいと思っているんだよ。 商店街の猫たちを巻き込んで、住宅街の猫たちに必要以上の嫌がらせをするのも、本当のところは、商店街の猫たちのためでもなければ性悪な住宅街猫たちを懲らしめるためでもない、ただ、自分の力を誇示したいがためさ。 それは、まだあんたが人間である証拠だよ。 自分がどれだけ優秀か、あんたはうちのお嬢さまに認めさせたくて、そのためだけに必死になっているんだ。 そのことに、あんたも早く気がつかなきゃいけないよ。 そりゃあ、猫のままならたまこお嬢さまに自分の力を見せつけるのはたやすいだろう。 うちのお嬢さまは猫として生きようと頑張ったりはなさらないからね。 ひねりつぶすのは簡単だろう。 猫の世界には法律もないし、人間世界の利害関係も、上下関係も、何にもないものね。 ただ感情のおもむくままに、何をしても、誰にも咎められることもない。 だけど、ただ憎たらしい相手をやっつける、それだけのために、自分の人間としての人生を全部捨てて、残りの人生をずっと猫として生きるなんて、あまりにも不幸なことだとは思わないかね? だって、あんたは人間なんだもの。 うちのお嬢さまを憎らしいと思うのをやめろとは言わないよ。 珠子お嬢さまは、そりゃあ魅力のあるおかただからね。 あんたとは大違い。 でも、他人を憎む気持ちはひとまず脇において、二度と引き返せない道に足を踏み入れる前に、もう一度、自分のことだけをよくよく考えてごらん。うちのお嬢さまをやっつけるのは、人間に戻ってからだってできるじゃないか。 猫が猫をやっつけたって、せいぜい引っかき傷を残す、定位置が高くなる、程度のものだけど、人間同士はそうじゃない。 人間同士の闘いって、もっとレベルが高いもんじゃないか。 自分も相手も、どっちも向上していくような、さ。 だから、人間てすごい、って、私ら猫の目から見たら、そう思うんだけどねえ・・・。 どうだろう、ここはひとつ考え直して、人間に戻ってからもう一度仕切りなおして、人間同士として、うちのお嬢さまと闘ってみちゃあ・・・? そのほうがきっと、猫同士いがみ合ったりするよりずっと楽しいと思うんだよ。 だって、想像してごらんよ。 うちのお嬢さまや、マサキくん、トラオくん、みんな人間に戻っちまったときのことを。 あんたがいくら自分を誇示して見せようと、誰も見てくれる人がいなかったら、そりゃあ味気なくてつまらない人生になっちまうんじゃないかね? ま、それがいやだからあんたはお仲間全員猫のままで自分の周りにはべらせておきたいんだろうけど、そういうわけにはいかないよ。 今ここでお嬢さまが倒れても、マサキくんもトラオくんもすぐに動けるようになる。 みんなまもなく人間に戻るよ。 だからあんたも、悪いことは言わない、みんなと力を合わせて、早く人間に戻って、今度は人間として、自分の優秀さをウチのお嬢さまやマサキくんに見せつけることができるように、自分を磨いたほうがいいんじゃないのかね?」 悔しそうに唇をかんで、ナナがじっと何事か考え始めたが、はたしてナナを説得できたのかどうか、ミケには確かめている時間がなかった。 頭は人間で体は猫 ――― ノロ猫がこんな中途半端な状態でいられる時間も、残りわずかに迫っているのかもしれない、と、ナナと話しているうちに、急に思い至ったのだ。 これ以上猫の姿のままでいると、珠子お嬢さまも人間に戻れなくなってしまうかもしれない。 取り返しのつかない事態になる前に、一刻も早く、珠子お嬢さまをもとのお姿に戻して差し上げなければ。 そのためにも、まずは、人を猫に変える悪霊どもと直接対決して、その中から、中心となって動いている魔物の正体を探し当て、すぐにも人への悪さをやめて成仏するよう、説得するのだ。 じっと考え込んだナナをその場に残したまま、ミケは急いで銭湯の屋根から飛び降り、『龍王』に向かって全速力で走り出した。 人気ブログランキングへ
2014.03.10
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ナナが目玉をひん剥いて叫び返した。 「なっなっなにを言うのよ! あたしは人間になんか戻らないからねっ! 猫のほうがいいんだから! おせっかいはいいから、今みたいにびしっと猫たちを服従させるやり方をあたしに教えなさい! 早く!」 苦笑して、ミケは答えた。 「わからないことを言うもんじゃない。 お嬢ちゃん、あんたもそろそろ気がつき始めているじゃないか。 もうすぐ猫たちは恋の季節に入る。 恋の季節といえば、あたしも若いころさんざん身を焦がした経験があるけど、そりゃあ楽しくて切なくてときめいてめまぐるしくて、心も体も燃え上がるようで、猫にとっては熱病に浮かされたように狂おしいものだ。 飢えも寒さも疲れも忘れて、恋しい相手のこと意外は何も目に入らなくなってしまうのさ。 あんたんとこの『兵隊さん』たちにも、そろそろその兆候が現れているんだよ。 気もそぞろで何も手につかないとか、ぼやーっと放心状態になっていて大声で話しかけても気がつかないとか、それはみんな、恋の季節が近づいているせいだ。 そのせいでそわそわ落ち着かなくなっているんだよ。 物覚えが悪くなったわけでもなければ、あんたに忠実でなくなったわけでもない。 自分の力ではどうにもならない自然の摂理。 猫なら誰でもそういうものなのさ」 「・・・え? それじゃ、このごろみんな急にあたしの言うことを聞かなくなったのも・・・?」 ふと考え込んだナナに、ミケは静かにうなずいて答えた。 「そうさ。 猫たちの注意力散漫なのはこの先ますますひどくなって、本格的な恋の季節になるともう、何も見えないし聞こえなくなってしまうよ。 これをコントロールすることは誰にもできない。 大きな焚き火にスポイトの水で立ち向かうようなものさ。 もっともその焚き火の中央で激しい恋の炎に踊り狂っている猫のほうは、もう喜びの絶頂なんだがね。 体中からぶすぶす煙が上がるかと思うくらいの焦燥感、どうにもじっとしていられない、狂おしい高揚感、幸福感と切なさの入り混じった興奮、欲望のおもむくまま、あるいは火のついたように、あるいは激流のように、わけもなく、ただ走り、飛び、跳ね、愛を歌い、牙をむき、片時も滞ることのない流れに、押し流されるまま身を任せ、いっそもう命もいらない、空っぽになってもいい、そんな、奈落の底まで急降下するような、一種の爽快感、その、目もくらむような喜び ・・・ もと人間のあんたにはわかりにくいことかもしれないけど、でも、ノロ猫もこの季節を一度体験すると、それを境に人間だったころのことはきれいさっぱり忘れてしまって、そのあとは何をどうやってももう二度と再び人間には戻れないっていうから、そのくらい究極の喜び、ってことだね。 そろそろあんたの軍団の中にも、あんたに色目を使いたがる若いのが、ちらほら現れ始めているんじゃないかね?」 人気ブログランキングへ
2014.03.09
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これが、商店街野良猫たちのリーダー、ナナなのだろう。 思わず吹き出しそうになるのをこらえて、ミケは、この思い上がった若猫に言った。 「それでは、今、ここに集まった青二才どもがどのくらいこのおばばの言葉に従うか、その目で試してご覧になりますかえ?」 くすりと笑って、ミケは周囲の若猫たちを見回し、それから、あたりの空気を震わすばかり、気迫のこもった大音声を張り上げた。 「こりゃ! ここの心得違いの野良猫どもめ! おまえたちは、そもそも自分がなぜ野良猫をやっているのか、忘れてしまったのかえ! 寒い思いをしても、ひもじい思いをしても、この首に首輪はつけさせぬ、人の作った檻の中に自ら入ることはせぬ、あるがままに生き、あるがままに死ぬ自由こそわれらの誇り、と、高らかに言い放ち、飼い猫を、人間のおもちゃになりさがった怠け者、犬にも劣るお調子者、猫族の恥、と、見くだしていたのではなかったか? そのおまえたちが、なぜ今になってノロ猫ごときの道具になりさがり、やれご飯はおいしくなきゃいやだの、寒いところで寝るのはシンドイだの、めんどくさいからけんかはしないだの、どういう顔で勝手放題文句を並べられるのじゃ。 楽をしたさに徒党を組むなど飼い猫以下、どころか、飼い猫だってはだしで逃げ出すほどの横着ぶり、恥ずかしいとは思わないか? どんな御褒美をもらえるのか知らないが、こんな屋根のてっぺんでごろごろにゃあにゃあ、わけのわからん唄なんぞ歌ってるヒマがあったらもっとほかにやることがあるだろう。 頭を冷やしてよく考えてごらん、太古の昔から、脈々と引き継がれてきた猫の生き様を。 猫は猫らしく、何も犬族のように徒党を組まなくたってちゃんと一人で生きていけるように、神様は猫に、生まれながらにして孤高のハンターにふさわしい優れた体を下さったのじゃ。 ハンターなら、エサは自分で狩って食べなさい。 ハンターの道を捨てるなら、きちんと人間の飼い主を見つけてその人に養ってもらうことだ。 人間と寝食をともにして、優しく互いをいたわりあって暮らすのもなかなかいいものだよ。 さあ、わかったら、もう兵隊ごっこは終わりだ。 解散、解散! 一人前の猫だったら二度とこんな、猫だか犬だか人間だかわからない、ハンパなまねをするんじゃないよ」 ミケの怒声に、猫たちも急に冷静さを取り戻し、夢から覚めたように互いの顔を見合わせ、すると、どれも急に気恥ずかしそうな表情になって、こそこそ逃げるように、一匹、二匹と屋根から降り始めた。 ナナの顔がたちまち、驚きと怒りの色に染まる。 「ちょ、ちょっと! ばあさん、何すんのよ! あたしの軍団を勝手に解散させないでよ!」 それからナナはあわてて猫たちを引きとめようとした。 「こら! 全員戻れ! 命令だよ、隊長の命令っ! 絶対服従だと教えたでしょ! も・ど・れ・だよ、も・ど・れ! 戻れ! ああ、もう、まだ覚えられないの、バカっ!」 けれど猫たちはまるで憑き物が落ちたみたいに、ナナのほうなど振り向きもせず、次々と屋根の上から姿を消していく。 怒りのあまり全身の毛を逆立てて、ミケを振り返ったナナに、ミケは厳しい声で言った。 「お嬢ちゃん、あんたもそろそろ潮時だ。 ゲームはこのあたりでおしまいにして、人間に戻る準備を始めなさい」 人気ブログランキングへ
2014.03.08
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影虎と子猫の手を借りて、たまこを、ボイラー室の、人目につかない静かな暗がりに運び込むと、ミケは、屋根の上でまだナナとその軍団猫が勝どきの歌を歌い続けているのを睨み上げ、それから、一気にボイラー室の庇の上へ、そこから雨樋を伝って瓦屋根の上へと駆け上がっていった。 屋根の上には、見たこともないほどたくさんの猫たちが集まっていた。 どの猫も、マタタビに酔ったように顔の筋肉をだらしなく緩め、ろれつの回らなくなった口で、意味をなさない歌を繰り返し繰り返し、大声で歌い続けている。 それも無理のないことかもしれない、とミケは思った。 みな、ちょうど、大きなけんかをして完全勝利を収めたときのような、誇らしい気分なのだろう。 これほどの圧倒的な勝利感は、普通の野良猫だったらたぶん、一生に一度あるかないかの稀有な体験だ。 その目くるめくような高揚感にわれを忘れて、いつまでも酔い痴れていたい気持ちはわからなくもない。 こういう、単独で生きている猫にはめったに味わえない歓天喜地の喜びを、ここに集まった猫全員に与えられるという離れ業ができるのは、やはり、ナナというリーダーがまだ人間だから、それにつきるだろう。 それにしてもこの猫たちの、至福の顔つきときたら、まるで、あの狂おしい恋の季節のそれにそっくりだ、とミケは思い、その眺めをゆっくりと見渡してから、その中央で、好奇心むき出しの目を見開いてミケを見つめている若いブチ猫に気がついた。 ブチ猫は、ミケと目が合っても一向に視線をそらそうとせず、道を開けようともせず、どころか、自分よりはるかに年上の猫を無遠慮にただじろじろと見回し、横柄な口調で言った。 「おや、ばあさん、もの欲しそうな顔して、何か言いたそうだね。 おおかたあんたも、今のやり取りを見ていてうちの軍団に入りたくなった手合いでしょう。 そりゃまあ、うちはお手当もはずむしごはんも特別おいしいものを吟味して提供しているから、志願者はいつも行列だけど、残念ながら、入隊には年齢制限があるのよ。 年齢制限といっても、猫は体力的に個体差が大きいから、人間の社会ほど厳密なものじゃないんだけどね」 ここでブチ猫はもう一度、品定めするようにミケの全身を眺め回し、急に何か思いついたように目を光らせて、続けた。 「でも、そうねえ、もし何人か欠員が出て、志願者が一人もいなかったら、あんたにどんな能力があるか試験してあげるのもいいかもしれないわね。 実はあたし、野良猫軍団の指揮なんかしてるけど、本当のこと言うと猫のことよく知らないのよ。 だから、猫についてあれこれ教えてくれる顧問がいたら便利だし、それに、猫ってよく観察してると、みんな年寄りの言うことをとてもよく聞くのよね。 時にはあたしの言うことよりもよく聞くくらい。 それなら、あんたのような立派な見てくれの年寄り猫がいて、あたしの代わりにみんなに命令してくれたら、みんなもっとてきぱきと指示に従うかもしれないじゃない。 ていうのも、ぶっちゃけた話、このごろみんななんだかたるんでて、あたしもちょっと困ってんのよ。 何か命令してもぼやーっとしてることが多いし、叱りつけても、上の空で前のように効き目がないし、ここらでちょっと目先を変えて、エラそうな年寄りが司令塔になると、意外と効果あるかもしれないわ」 人気ブログランキングへ
2014.03.07
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それを聞くと、ミケは思わずにじんできた涙をぬぐって、深くうなだれた。 「・・・ まあ、お嬢さま! お嬢さまがたったお一人でそんなご苦労をなさっていたなんて、わたくしは思ってもみませんでした。 ・・・ああ、いいえ、大切なお友達が二人も重傷を負わせられたこと、そして、新聞広告を利用して人間に戻る計画に情熱を傾けておられたこと、・・・おっとり見えてもびしっと一本筋の通ったお嬢さまのご気性を考えてみれば、たとえお一人になっても計画は変更しない、ナナのような身勝手な猫だって打ち捨ててはおけない、一緒に助けなければ、お嬢さまがこうお考えあそばして、単身、敵地の真っ只中に乗り込んで行かれることは、決して予想できないことではなかったはずなのに、ああ、ゆっくり休んでいただこうと、ついお嬢さまから目を離した、わたくしが馬鹿でした。 こんなことになるのなら、ずっとお嬢さまについていてさしあげるのだった! ああ、おいたわしいこと! 珠子お嬢さま、どうかミケばあを許してくださいましね」 はらはらとこぼれる涙をぬぐって、ミケはかたわらの薄汚れた子猫を見下ろした。 「でも、子猫よ、このおばばに替わって、おまえがよくたまこお嬢さまを守っていてくれたようだね。 心からお礼を言いますよ。 見ればまだ小さいのに、そんじょそこらの大人よりはるかに頼りになりそうな、おまえを見込んでぜひお願いしたいことがあります。 おばばには今、どうしてもやらなければならないことがあって、たまこお嬢さまの看病ができません。 もうしばらくの間、おばばのかわりにおまえがたまこお嬢さまのそばについていてやってはくれませんかえ?」 するとミケの後ろで『たきぎ番の影虎』じいさんが口を出した。 「おお、それだったらわしにまかせなさい。 その娘さんが目を覚ますまで、ボイラー室の隅にかくまってやろう。 あそこなら誰にも見つからずゆっくり眠れるでの。 わしはいつもあそこで昼寝をしておるが、猫にも人にもねずみにも、いっぺんもじゃまされたことはない」 幼なじみの影虎猫の申し出に、ミケはちょっと渋い顔を作り、言った。 「だいじょうぶかねえ、影虎ちゃん、あんた、人に頼まれた仕事を最後までやりとげたためしがないものねえ。 飽きっぽくて忘れっぽくて、どんな仕事の最中でも、いつも途中で眠り込んじゃって、そのまま忘れちまうんだもの。 悪気のないのはわかってるんだけど、大事な仕事を任せるのはちょっと不安だねえ」 子猫がくすくす笑って言った。 「だいじょうぶですよ、おばあさま、ぼくがいますから。 影虎おじいさんのナワバリの中ならめったな猫は入ってこられないし、悪い人間もここには入り込んでこないでしょうから、ぼく一人だって心配ないでしょう。 お姉さんがゆっくり眠れるようにぼくが寝ずの番についていますから、安心なさってください」 それなら安心だねえ、とミケも頬をゆるめ、言った。 「では、たまこお嬢さまが無事お目を覚ますまで、頼みましたよ。 もしかしたら眠っておいでの間にたまこお嬢さまの身に何か異変が起こるかもしれないが、驚かなくていい。 そのときは、たぶん、すべてがもとに戻ったとき。 だから何も心配せず、誰か人間を呼んで、その人にあとをまかせればいいから」 影虎じいさんも、どんと胸をたたいて言った。 「うむ、それもわしが引き受けた。 何かあったらわしがすぐに、なじみの銭湯のお姉さんを呼んできてやるから、安心していなさい」 ――― たまこお嬢さまにはこのままゆっくりと体を休めていただき、その間に私が必ず、お嬢さまをもとのお姿に戻して差し上げよう、と、ミケはこのとき固く心に決めていたのだった。 人気ブログランキングへ
2014.03.06
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三年前、すでにこの街の長老として君臨しつつあった自分にけんかを仕掛けてきた銀二に、今よりまだほんの少しだけ若かったミケは烈火のごとく腹を立て、この、身の程知らずの無礼猫をぐうの音も出ないほど痛めつけて懲らしめて、それでも腹の虫がおさまらずに、イチョウの木の上まで追い上げて、逃げ場のない梢の上でさんざんいたぶって死ぬほど怖い思いをさせ、それでもまだ足りずしまいにはとうとう、その目もくらむようなてっぺんから、地面に向かってまっさかさまに突き落としてやった、あの壮絶な戦いをやっと思い出したか、銀二の大きく逆立った背中の毛が、しぼんだ風船みたいにみるみる小さくなり、その顔からすーっと血の気が引いていった。 「・・・ あっ! これは、あのときのおっかないばあさん、もとへ、きれいな姐さん、・・・ ええと、その、あの、大変ご無沙汰しておりましたがまだ生きて、いや、あのその、お元気そうで何より。それでは、オイラはほかにも用がありますればこれにてごめん!」 おびえた子ねずみのように、しどろもどろの挨拶を述べながら、銀二がそそくさと逃げていってしまうと、ミケは急いでたまこの体を調べ始めた。 声をかけても軽くゆすっても、反応はまったくないが、呼吸は規則的で傷らしい傷もない。 たとえば骨折したとかひどい傷を負ったなら、意識を失うより先にもっと痛がるはずだから、これはやっぱりトラオの場合と同じように、心に受けた傷のせいで深い眠りに落ちてしまったのだろう。 考えてみれば、ある日突然猫になってしまったり、慣れない食べ物を口にしたり、銀二のような性悪猫との衝突を避けながら、ゆっくり体を休める場所もなく、おまけにこの寒空に、徹夜明けの疲れた体で走り回り、このところお嬢さまの心にはただならぬ負担がかかりすぎていたのだ。 おかわいそうに、屋根から落ちてどこか打った拍子に、たまりにたまった今までの疲れが一気に出てしまったのに違いない。 一目散に逃げていく銀二の後姿を小気味よさそうに見送ってから、子猫がミケに熱い尊敬のまなざしを向けた。 「へえ! 昔あのならず者の銀二をこっぴどく痛めつけて、これ以上悪さができないように足をへし折ってやったすごく強い猫がいた、っていう話はぼくも聞いたことがありましたけど、それって、伝説じゃなくて実話だったんですね! じゃあ、その強い猫って、おばあさま、あなただったんですか! すごいな!」 それから子猫はたまこを見下ろし、また、しょんぼりと肩を落とした。 「おばあさま、聞いてくださいよ。 ぼく、このお姉さんが、ナナときちんと話がしたい、それから新聞屋に忍び込んでどうしてもやらなければならないことがある、と言うのでここまで案内してきたんです。 でも、ナナは一向に姿を見せる気配がないし、新聞屋に忍び込むにはちょっと時間が早すぎる。 それで、ここの屋根から様子を探ることにしたんです。 そうしたら、ナナのやつめ、それをどこかで見ていて、子分をつれて、ぼくたちの後からこっそり屋根に上ってきたんです。 なんて卑怯なやつだろう! それでもお姉さんは、ナナと穏やかに話をしようとしたのに、ナナは、ろくに話も聞こうとせず野良猫軍団を使ってお姉さんを脅しつけたんだ。 きっとお姉さんはとてもショックを受けたと思います。 そのショックも、うまく宙返りできなかった原因のひとつかもしれません」 人気ブログランキングへ
2014.03.05
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にらみ合う二匹の後ろでは『たきぎ番の影虎』が、おろおろと歩き回りながらこの仲裁に入ろうとしている。 「これこれ、ふたりとも、けんかはよさんか。 ここはわしのナワバリじゃ。 勝手な真似は許さんぞ。 ナナのような小娘の言うなりになって、つい、フライドチキンとやらにつられて場所を貸したわしも悪かったが、わしが許したのは、銀二が一時間だけこの中庭に入ること、それだけじゃ。 ここでけんかをするようなことを許した覚えは断じてないぞ。 ましてや怪我人を出すなんてもってのほか。 二人とも、けんかをしとるひまがあったら、はよう、その、怪我した猫の手当てをしてやらんかい。 ほれ、そこの娘も、気をしっかり持って、目を覚ませやい。 ・・・ まったく、近頃の猫の軟弱さには呆れたもんじゃ。 たかが三階あたりから飛び降りて目を回すとは、猫の風上にもおけんわい。 実に情けない」 ミケは、ものも言わずに銀二を押しのけ、立ちふさがろうとした子猫を押し飛ばして、たまこにすがりついた。 「もし! お嬢さま! しっかりなさいませ! 目を開けてくださいまし! お嬢さま!」 だが、たまこはかたく目を閉じたまま、身動きもしない。 ミケに押し飛ばされた子猫が、起き上がってきて心配そうにたまこをのぞきこんだ。 「お姉さん、ぼくと一緒に落ちたから、きっとぼくの体が邪魔で、うまく宙返りできなかったんですね。 大丈夫でしょうか?」 その子猫をまた押し飛ばして、何が気に入らないのか背中の毛を逆立てた銀二が、今度はミケの背中に怒りの矛先をぶつけ始めた。 「ええい、なにをごちゃごちゃぬかしていやがるんだ! どいつもこいつも、はらのたつ! ここでうろうろしてたらおいしいものをご馳走してやるだの、ここでけんかをしちゃならんだの、誰が邪魔で宙返りに失敗したの、てんでに勝手なことばかりぬかしやがって、俺には何がなんだかさっぱりわからん! 誰か俺にもわかるように説明しろよ! ええ? フライドチキンがどうしたって? 俺の取り分はどこだよ? 怪我人を出すのはゆるさねえだと? この目障りな新米猫を追っ払っちゃいけねえ、そこの生意気なチビ猫をたたき出すのもいけねえ、だったら俺は何のためにここに呼ばれたんだ? その上今度は挨拶もろくにできねえババアまでしゃしゃり出てきやがって、いったい何のつもりなんだ? 俺様の爪で引き裂いてほしいのか?」 銀二の爪が背中に届くより早く、ミケの鋭い猫パンチが、振り向きざま銀二の横っ面を張り飛ばした。 「お黙り、銀二! 罪もない新入り猫をいじめる悪い癖は、まだ直らないと見えるね。 その目玉をしっかりおっ開いて、あたしの顔をよっくごらん! 忘れたのかえ? 三年前、そういう悪さが二度とできないように、きつーいお仕置きをしてやったつもりだが、まだ懲りなかったのかえ? それとも、もう一度お灸をすえてほしいのか?」 人気ブログランキングへ
2014.03.04
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