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西洋の騎士道に対比される武士道は、日本の近世以降の封建社会における武士階級の倫理及び価値基準の根本をなす、体系化された思想です。明治時代に新渡戸稲造は外国人から日本の学校における宗教教育について質問され、物事の正邪善悪等の道徳観念が武士道によって得られた少年時代を思い出し、外国人に日本人の道徳観念は武士道によるのだと説明する為「BUSHIDOU、THESOULOFJAPAN」を書きました。その中で武士道の淵源・特質・民衆への感化を説明し、武士道が如何にして日本の精神的土壌に開花結実したかを解き明かしたのです。「武士道」という言葉が日本で最初に記された書物は「甲陽軍鑑」ですが、武家諸法度のごとく普遍的に確立されたものはありません。「我が国の武士階層に発達した道徳、鎌倉時代から発達し、江戸時代に儒教的思想に裏付けられて大成、封建支配体制の観念的支柱をなしました。忠誠、犠牲、信義、廉恥、礼儀、潔白、質素、倹約、尚武、名誉、情愛などを重んじる」と広辞苑にも書かれています。現代日本には武士道を支え、武士道を実践する武士階級は存在せず、武士道は消滅したといえますが、武士道の中に流れている精神は日本社会の中に現在も生き残っているのです。
2024年07月31日
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マグナ・カルタの理念は、その後しばらくの間忘れ去られていましたが、国王と議会が対立した17世紀に再度注目されるようになり、エドワード・コーク卿ほか英国の裁判官たちによって憲法原理としてまとめられました。また、清教徒革命やアメリカ独立戦争の根拠ともなり、2009年、マグナ・カルタはユネスコの『世界の記憶』に登録されました。
2024年07月30日
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マグナ・カルタは、イングランド国王の権限を制限したことで憲法史の草分けとなり、また世界に先駆け敵性資産の保護を成文化しました。成立から800年が経過した21世紀の現在でもイギリスの憲法の最も基本的な部分として有効です。ブーヴィーヌの戦いでフランスに敗北したジョンは、戦後さらなる徴兵を必要としましたが、イングランド貴族たちは度重なる軍役に反発し、徴兵に応じるどころか、ジョンに対しそれぞれ抱えていた財政負担や不満を救済するよう強く求めました。1215年6月19日、貴族たちの要求をまとめる形でサリー近郊のラニーミードにおいて制定され、イングランドにおいて法の支配が初めて確認されることになりました。その後マグナ・カルタは、教皇インノケンティウス3世の勅令により無効とされたものの、その後復活し数度改正されます。1225年にヘンリー3世によって改正されたマグナ・カルタの一部は、現在のイギリスにおいても憲法を構成する法典の一つとして効力を有します。
2024年07月29日
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ジョンは、1214年にフランスと対立する神聖ローマ皇帝オットー4世らと共にフランスの北と南から攻撃を行いますが、フランドルのブーヴィーヌの戦いで惨敗し撤退するはめになりました。フランスからイングランドに逃げ帰ったジョンは、不満で爆発寸前の諸侯や民衆に迎えられました。崖っぷちに立たされたジョンは、内戦にもつれこむより、ここはひとつ、諸侯の要求を呑み、マグナ・カルタに署名をした方が得策という結論に達して諸侯が提案した文書に承諾を与えるという要求を呑むことを決意して、1215年6月15日、ロンドン西部にあるテムズ河畔のラニーミードにむかいます。ジョンは諸侯の言い分を受け入れることを約束させられ、マグナ・カルタに国璽(印章)が押されました。
2024年07月26日
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マグナ・カルタ(大憲章、だいけんしょう、ラテン語: Magna Carta / Magna Carta Libertatum、英語: Great Charter of the Liberties、直訳では「自由の大憲章」)は、イギリス(連合王国)の不成典憲法を構成する法律の一つで、イングランド王国においてジョン王の時代に制定された憲章です。当時のヨーロッパでは、イングランド王ヘンリー2世の五男として生まれたジョンが1199年、王座から程遠い存在だったにも関わらず王位につき、ヨーロッパに広大な敷地を有することになりました。しかしカンタベリー大司教の選任をめぐり、ローマ教皇インノケンティウス3世と対立し、1205年にカンタベリー大司教ヒューバート・ウォルターが亡くなると、教皇はジョンが選んだ候補を拒否し、枢機卿のスティーヴ・ラングトンをカンタベリー大司教に任命します。この決断に怒ったジョンは、ローマ教皇を支持する司教たちを追放し教会領を没収しました。それに対してローマ教皇は1209年にジョンの破門を宣告したが、イングランドをローマ教皇に『寄進』することで破門を免れました。
2024年07月25日
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アルプスの北では、新しい人文主義的、自然主義的関心が大胆な主張としてうまく表現にうつされることはありません。西欧の文化遺産の中で調和しない諸要素の対立が抜きさしならぬところまで来た、という感じでした。はなやかな宮廷騎士道は、百年戦争(一三三七―一四五三年)の赤裸々な現実とはほとんど別の世界でした。この戦争では、傭兵たちの集団が、略奪や放火をくりかえしてフランスの沃野を荒らしまわったのです。民衆の不満は、激しい農民の反乱となってあらわれ、またイギリスのウィクリフ派やボヘミアのラス派のような異端連動もおこりました。西欧中世文化の構造は、明らかに行きづまっていました。しかし、それを否定し去るまでには、苦難に満ちた長い道程を経なければならなかったし、そのような変化の口火を切るには、西欧船の大洋航海開始とか、それと時を同じくしておこった宗教改革のような大事件がおこる必要があったのです。
2024年07月24日
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人文主義の文学や芸術の価値は、教会の高位聖職者の力によるもので、そういった人々は、この動向の最も重要な擁護者の中に数えられました。そんなイタリア都市の環境で、新しい芸術スタイルが誕生しました。人文主義者たちのキケロばりのラテン語と同様に、古代の模範に慎重に従っていました。建築の面から言うと、柱壁柱、円形アーチなどの要素から、いわゆるルネサンス・スタイルは構成されました。絵画では、古代の模範はほとんど残存していなかったので、建築の場合よりもずっと根本的な独創性が発揮されました。イタリアの画家は、空気透視画法や一四三〇年ごろから――直線遠近画法を用いて、物体を架空の空間に配列するのに、系統的できわだって合理的で、また視覚的に納得のゆく技法を駆使することができました。その結果、力づよく独特な絵画スタイルが生まれ、一五〇〇年の少し前にそれが成熟の境に達しました。それは、十九世紀の終わりまで、西欧絵画の根本的な枠組みとして持続しました。
2024年07月23日
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朱子学は南宋の朱熹(しゅき)によって再構成された儒学です。朱熹は、「大学」、「中庸」、「論語」、「孟子」を四書と呼んでいます。まず「大学」から始め、次に「論語」、さらに「孟子」、最後に「中庸」を学ぶのです。南宋は1127年から1279年、日本でいえば平安時代の後期から鎌倉時代中期ぐらいに存在した王朝です。江戸時代は、朱子学が幕府御用達の学問とされ林羅山(らざん)をはじめ、林家はみんな朱子学を学びました。山崎闇斎は、元和(げんな)4年(1618年)に生まれ天和(てんな)2年(1682年)に亡くなった江戸前期の朱子学者です。晩年には山崎闇斎は、従来の神道と儒教を統合して垂加神道(すいかしんとう)を提唱し幕末の尊皇攘夷思想に大きな影響を与えました。「先哲叢談(せんてつそうだん)」という儒学者たちの伝記集に「孔子が大将となり、孟子が副将となって数万の支那人が日本に攻めてきたらどうするか」と闇斎が尋ねたが弟子たちは答えられません。闇斎は「国恩に報いるため、これと戦い、孔子・孟子を捕虜にする。これが孔孟の道である」と答えたとあります。孔子だろうが孟子だろうが、我が国領土に攻めてきたら戦って撃退するのは当たり前。できれば敵の大将をつかまえ、のちの交渉を有利に運ぶ。素人にはそれが当然と思われますし、元寇の際の日本の指導者、北条時宗(ときむね)もそう思ったかもしれません。原理主義である儒教を信じていれば、孔子、孟子に逆らうという発想にはなりません。
2024年07月22日
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ルネッサンス以後の西欧では、鉱山や航海などの産業がマニファクチャーを中心に発展しました。そうした産業の要求により、力学や鉱物学、化学などの研究活動がさかんに行われました。特に、市場の拡大競争は、航海術に必要な天体の運動や潮汐時刻の決定、地磁気に関する問題を解決する必要があり、天文学や地球に関する学問を発展させました。また、この時期に産業技術の進歩により、1590年ころオランダで望遠鏡と顕微鏡が発明されました。特に望遠鏡はその後の天文学の発展に寄与しました。17世紀にはいると、温度計や気圧計も発明され、このような研究技術の発展は自然科学の研究により客観的なデータを供給するのに役立ちました。また近代以前の社会では、法律と道徳・慣習的規範の未分化状態が続いていました。日本では、江戸時代に、荻生徂徠が道徳と法の明確な分離を主張し、以後、国学に継承されていきました。日本の道徳は、自然を愛した古代日本人の心情を基調とし、人格形成を重視することが、特徴です。
2024年07月19日
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一三〇〇年以後の時代の西欧文化の特色は、一般に中世文化の総合が、衰えたことです。十四、五世紀にあっては、神聖の理想およびそれと対立関係に立つ現世での人間の満足は、真に人を納得させる決着点にいたることはありませんでした。この期間中、イタリアにおける発展は、アルプス北方の思想的風土とは、重要なちがいを見せていました。イタリアは、古典古代、と言っても、実際上はギリシャよりもローマの過去をさしたが、その古典古代を意識的に再生させる場所でした。多くの教養あるイタリア人は、異教のラテン詩人やキケロの研究が、すぐれた文学的規範ばかりでなく、人間いかに生くべきか、また行うべきか、という問題に、新鮮で価値ある洞察を与えることに気がつきました。これらの問題を開拓した人たちは、誇らしい気持で自分たちのことを人文主義者と呼んだが、彼らははっきりとキリスト教から訣別することは滅多にありません。
2024年07月18日
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東洋では十一世紀において北宋時代に儒学の復興がなされ、文体においても漢以前の古文復興が支配的となり、印刷術や火薬、羅針盤などの科学の発達、そして芸術の発展がなされて、学芸復興がなされました。西洋は西アジア・イスラーム世界から多大の影響を受けて学芸復興を成し遂げただけでなく、約三世紀も早く学芸復興を成し遂げた東洋からの影響を受けています。東洋の文化がイスラームよりも完成の域に達し、折からイスラーム、東洋を支配したモンゴル民族によってその文化が西洋に伝えられたのです。東洋において最初に完成の域に達した絵画の技術は、イスラームと同時に西洋まで入って、その学芸復興に寄与したことは、自由な手振りや動作がなされるようになり、支那人でさえも描かれるようになったことでも明らかです。この東洋から西洋美術への影響をみると「近世」の到来が最も後れたのが西洋であると言えます。
2024年07月16日
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「文化」において、西洋の学者たちは自分たちが古代ギリシャ・ローマを受け継いでいると自負しているため、「古代」と「近代」の問に「中世」を挟んで、いかにも西洋「文化」が一貫して継続しているように考えています。「ルネッサンス」といわれる時代は、「古代」の「再生=ルネッサンス」であるとされていますが、実際には「再生」ではありません。美術史は多様化と変化に向かって急激な動きを見せ、十三世紀のゴシックの大伽藍(がらん)は、キリストの礼拝のために、大きな空間に覆いをかけるという問題に対して、複雑で、微妙で、ひじょうにうまい解答を与えました。しかし、ゴシック・スタイルは、すぐさまどんどん装飾の煩雑(はんざつ)さを増して、ついには上からかぶせたはざま飾りが、せりもちのあばらや、控え壁や、窓開府などの構造的簡素さを覆いつくしました。このあくどさは、後期スコラ哲学の複雑さや、時として見られる瑣末(さまつ)への拘泥と対応しており、厳修派フランチェスコ会士たちの教会の高位者の俗心に対する攻撃に根拠を与えました。キリスト教の確信のゆるみと、大げさな表示や華美に対する好みの増大などと軌を一にしているのです。
2024年07月15日
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北畠顕家の『太平記』は、日本の南北朝時代を舞台にした軍記物語で、全40巻からなります。14世紀(1370年ころまでには現在の40巻からなる太平記が成立)に成立したこの作品は、後醍醐天皇の即位から始まり、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政とその崩壊後の南北朝分裂、観応の擾乱など、約50年間の動乱期を描いています。太平記「新田義貞謀反の事」條には「弓矢の道、死を軽んじて名を重んずるを以って義とせり」と記され、さらに「新田義兵を起こす事」條には「弓矢の道弐心をあるを以って恥とす」ともあります。また平治物語「頼朝義兵を挙げらるる事」條には「武道に血気の勇者、仁義の勇者という事あり。何にも仁義の勇者を本とす」とあります。つまり、特別に経典というものはなかったのですが、武士道というのは忠、義、勇という道徳律をもって勇猛果敢な武名を後世に残さんとしたもので、それは長い日本の歴史の中で培われてきたわけです。そして、いまでも日本人のDNAに刻み込まれているのです。
2024年07月12日
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聖フランチェスコの強烈な聖なるものの追求は、彼を異端の際まで押しやります。弟子たちのある者は、教皇や教会の司教たちが、(托鉢士たちが実行することを原則としているように)貧しい暮らしをしてキリストと使徒にならうことをしないでいる、と批判したが、彼らは、その聖なる師がかならず立ち止まった極点を踏み越えてしまいました。法廷審判のすえ、これらの「厳修派フランチェスコ会士」は、その敬度心の強さにもかかわらず(あるいはその故に)、異端の宣告をうけたのです。十三世紀の文学上の活動は、これらさまざまの思想、感情の諸要素を表現し、しかもその一部をラテン語で、一部を自国語で行いました。民話は、反聖職者的な悪口罵言をこととし、また素朴なほど信心あつい「奇蹟劇」は聖書の物語にもとづいてはいたが、これらは都市生活の多様性を反映していました。貴族階級にとっては、騎士道物語と叙情詩が同じ傾向を表しており,この時代最大の文学者は、フィレンツェの追放者ダンテ(一三二一年没)です。彼の恋愛詩、政治的著作『帝政論』なかんずくキリスト教叙事詩『神曲』は、他の何人にもおよばぬくらい、十三世紀ヨーロッパの多面的な生活をほとんど完全にとらえています。
2024年07月10日
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行動の領域では、合成総合よりも、多様さと矛盾の方がきわだっていました。しかし、対立しあう傾向や思想は互いにバランスをとりあい、結果として人間の衝動の範囲の広さが生かせました。例えば、キリスト教的騎士道は、宮廷的(すなわち結婚外の)愛や、官能におちいる危険までおかして感覚にしたがう慣習などを強調する「ロマンティック」な理想も兼ねそなえていました。または、職工その他の職人集団の間に広くひろがっていた異教は、フランチェスコ派、ドミニコ派の托鉢士の敬慶さと均衡をなしていました。修道士とちがって、托鉢士は俗人の間で生活します。そして説教したり、病人を看護したり、貧しき者、よるべなき者を助けたばかりでなく、ほかの方法でも、キリスト教の理想を実践によって示しました。フランチェスコ教団の創設者である聖フランチェスコ(一一二六年没)や、ドミニコ教団の創始者である聖ドミニクス(一二二一年没)は、新鮮なキリスト教的感情の発露を指導した、最も重要な人々です。
2024年07月09日
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「文化」において、西洋の学者たちは自分たちが古代ギリシャ・ローマを受け継いでいると自負しているため、「古代」と「近代」の問に「中世」を挟んで、いかにも西洋「文化」が一貫して継続しているように考えています。「ルネッサンス」といわれる時代は、「古代」の「再生=ルネッサンス」であるとされていますが、実際には「再生」ではありません。美術史は多様化と変化に向かって急激な動きを見せ、十三世紀のゴシックの大伽藍(がらん)は、キリストの礼拝のために、大きな空間に覆いをかけるという問題に対して、複雑で、微妙で、ひじょうにうまい解答を与えました。しかし、ゴシック・スタイルは、すぐさまどんどん装飾の煩雑(はんざつ)さを増して、ついには上からかぶせたはざま飾りが、せりもちのあばらや、控え壁や、窓開府などの構造的簡素さを覆いつくしました。このあくどさは、後期スコラ哲学の複雑さや、時として見られる瑣末(さまつ)への拘泥と対応しており、厳修派フランチェスコ会士たちの教会の高位者の俗心に対する攻撃に根拠を与えました。キリスト教の確信のゆるみと、大げさな表示や華美に対する好みの増大などと軌を一にしていのです。
2024年07月08日
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アクィナスには批判者がないわけではなかった。そのうちで最も影響力があったのは、論理的証明の長い連鎖に不信を抱いて、神秘的体験により得られる神的なるものの確実性の方を好み、世俗のものの知に関しては感覚の力で与えられる知識を注意深く見ることによって得られるものの方をよしとする態度であった。聖ボナヴユントウラ(一二七四年没)やロジャー・ベーコン(一二九四年没)のような思想家たちは、右の、漠然とではあるがプラトン的(またはフランチェスコ的)な知的伝統を代表し、意識的にそれをドミニコ派のアクィナスやアルベルトウス・マグヌスのアリストテレス思想と対立させました。
2024年07月05日
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中世末期の日本の変化は、社会の発展がその基礎にあり、南蛮人の影響でおこったのではない。その発展を一向宗と法華宗いう二つの宗教がささえました。親鸞のひらいた一向宗(真宗)は、農民ばかりでなく、渡り商人、金掘りや手工業者をふくんでいます。かれらは、身分的には社会の下層でしたが、強い団結力と旺盛な生産活動で、しだいに経済的実権をにぎります。室町時代の都市の発達は、かれらの力によるところが大きいのです。農村では、番頭・名主などの有力農民が、村の中心に道場をたて、本願寺から阿弥陀如来像や名号をもらいうけ、蓮如が本願寺住持となってからは、この勢いはにわかに進み、全国的に農村・浦・山村が本願寺のもとに統合されるようになった。一四八八(長享二)年、教団は加賀守護富樫正親をほろぼし、一国を「百姓ノ持タル国」にしています。これから、北陸・近畿・東海にその動きは大きくうずまいて応仁の乱で焦土となった京都では、町衆が主体となって復興しました。この町衆が土倉衆の富力と公家衆の教養にささえられ、市民的人間に成長しました。日蓮の教えは、その功利主義的傾向と一致して町衆にうけ入れられ、一五三二(天文元)年、町衆の法華一揆は本願寺を焼き、これから五か年の間、京都の支配を実現します。信長や秀吉の天下統一は、これらのもりあがる民衆の力を、あるときは弾圧し、あるときは利用し、ついに国内に平和をもたらしたのです。
2024年07月04日
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西欧における神学の領域では、信仰と理性は、聖トマス・アクィナス(一二七四年没)やアルベルトウス・マグヌス(一二八〇年没)のような神学者の力で、決定的に和解させられました。アクィナスの『神学大全』は、信仰と道徳に関する彪大な数の疑問に対して権威ある意見と、注意深く考えられた答えを列記しています。彼の著書は、まもなくキリスト教教義の、なかば公の説明として認められました。このようにして、アリストテレス論理学と、アリストテレスの結論のあるものは、キリスト教の真理を是認する仕事にたくみに利用されたが、この際守られた一般原理は、信仰と理性は互いに矛盾しあうことはないけれども、神学的真理には、理性ひとりの力では達し得ず、したがって神の啓示によって人類に分かち与えられねばならぬ、という考え方でした。
2024年07月03日
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西欧の中世文化がようやく芽生える準備を始めたころ、日本は後醍醐天皇によって、天皇親政による専制国家という近世の政治様式を目指しました。しかし、この建武の中興は容易に進まず所領問題、恩賞問題の躓きで失政してしまいます。建武の中興は、北畠顕家の「太平記」によると紙幣の発行等の斬新な政策と、皇族による武家の統御をも目指したもので公武二元社会の原型になるものです。
2024年07月02日
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およそ一二〇〇年と一三〇〇年の間に、中世西欧文化の上昇曲線の躍進は、もっと複雑で困難ではありますが、しかし大きな豊かさを持った構造へと発展をとげました。一方においては、キリスト教の信仰、教会の秩序、過去の権威の素朴な受容があり、他方では、人間の合理的、世俗的、批判的能力があって、両者間の緊張は激しくなりました。しかし、さまざまな、意識的やり方で、これらの緊張は、しばらくの間うまく解かれ、その結果、中世文化の大きな極点――十三世紀の文化総合――が生まれるにいたりました。そのとき以来、感受性に富む重要な西欧人たちは、この時代を、郷愁をこめた眼差しで回顧するのです。
2024年07月01日
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