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十四世紀の危機は西欧だけでなく、中東でもユーラシア大陸の他の地域においても未曾有の危機に直面していました。疫病のもたらした影響は大きく、西欧では人口の三分の一が死亡しました。信心深き若者も神に仕える老人も無差別に襲った疫病は中世の権威であった宗教に対する懐疑を生み、その原因を求めるなかから近代の科学精神の土台がつくりだされました。しかし、近代医学の成立には時間がかかり、差し迫った死の恐怖に対処するため、人々は中世の医療に頼らざるをえませんでした。中世医療の薬剤では、胡椒やさまざまな種類の香辛料が中心でした。これらは薬局(Apothecary)で売られていました。西洋人が危険をもかえりみず、香辛料を探し回った理由は、むろん食料の保存剤、薬味として珍重されるという事情もありましたが、身分の上下を問わず無差別に人々を死に導いた疫病のはびこった時期に医療品として用いられたという事実を知れば、納得できます。いくら高くても売れたのです。貨幣の代わりに使われたこともある、莫大な利益をもたらした物産です。高くても買わざるをえなかったのです。砂糖、茶、コーヒー、いずれも最初は薬として西欧に入ったのです。
2024年08月30日
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こうして西欧人がアフリカをまわってアジアへでる、新しい東西貿易ルートがひらかれたのです。以後、ポルトガル人はぞくぞくとアジアへきて、大量のコショウを買いつけてかえり、ポルトガルの港から西欧にコショウを販売するようになりました。ポルトガル人の開拓したこの貿易ルートは、イスラーム商人のつくった貿易ルートに、西欧がわりこんできたわけで、その後の西欧の発展に大きく寄与しました。しかし、この新ルートそのものは、航路も長く、波あらい外洋を航海しなければならないので、大きな犠件をともなうものでした。
2024年08月29日
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ポルトガルは、一二世紀にイベリア半島の西端に建国された小さな国ですが、一五世紀はじめから、アフリカをまわってアジアへでるルートをめざし、ちゃくちゃくと計画をすすめていました。イスラームの天文学・地理学・航海術を吸収し、いくたびにもわたる西北アフリカへの出航、西アフリカや南アフリカへの試験的航海を経て、ようやく一四九八年に、有名なパスコ=ダ=ガマが、アフリカの南端をまわり、東アフリカ沿岸まで到達することができました。つぎに、インドへの航路ですが、さいわいにケニア沿岸のモンバサという港で、アラブ人のイブン=マージという水先案内人の援助を得て、ついにインド南端の貿易港カリカットへ到着できました。ガマの一行は、カリカットにしばらく滞在し、いろいろ苦労しましたが、ようやく売買の協定をむすぶことができ、大量のコショウを積んでポルトガルに帰還しました。
2024年08月28日
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スペインとポルトガルによる征服活動は、もちろん平和的ではありません。コロンブスやヴァスコ・ダ・ガマ、マゼランなどは、大航海時代を代表する海洋探検家として歴史の教科書にも紹介されていますが、到達地では多数の地元民たちを殺害しました。多くの住民を拉致し奴隷として連れ帰りました。こうした事実をみると、これら探検家たちの事績は、冒険譚として語れるほど、きれいなものではありません。まさに侵略者です。コロンブスは、最初に到達したカリブ海諸島において、一説に五万人以上ともいわれる先住民の大虐殺をおこなったています。その後、スペイン人たちはメキシコを征服し、その地域をヌエバ・エスパーニャ(新しいスペイン)と呼びました。さらに中央アメリカに進出したスペイン人たちは、一五二〇年代にはアステカ王国やマヤ系諸王国を滅ぼして一気に中米地域を征服し、勢いをかってコロンビア、ペルーなど南米にも侵攻しました。一五三三年にはインカ帝国を滅ぼし、植民地としました。アメリカ大陸でのスペイン人による無慈悲で残虐な征服行為を告発・非難したのが、修道士のスペイン人ラス・カサスです。
2024年08月27日
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西欧人は、長いあいだ牧畜に依存して生活してきた関係から、大量の肉をたべる習慣が今日までつづいてきています。そのために、西欧人は殺した家畜の肉を保存することについて、大きな関心をもっていましたが、当時肉の保存にもっとも有効な方法は、コショウをつかうことでした。そこで、西欧人は血まなこになってこのコショウをもとめました。一四~一五世紀には、世界最大のコショウの産地は、フィリピン南方のモルツカ諸島でした。イスラーム商人がモルツカで買いつけたコショウは、マレー半島のマラッカとインド南端のカリカットを経て、アラビア半島の南端のアデンへ行き、ほそ長い紅海を北上して、地中海南岸のカイロとアレクサンドリアへはこばれました。そこから北イタリアの諸都市の商人によって、ヨーロッパ各地へ売られていったのです。ほば地球を半周する大貿易ルートだったわけです。この貿易ルートによって、インド、エジプト、イタリアの商人がもうけていましたが、一六世紀はじめから、これにわりこんできたのがポルトガルとスペインでした。
2024年08月26日
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15世紀後半から16世紀にかけて西欧人の活躍は西欧のわくをこえて、文字どおり東西の世界へ広がっていきました。その先頭をきったのはポルトガルとスペインで、ポルトガルは半世紀以上にわたる探検航海の成果をつみ重ねて1498年バスコ=ダ=ガマによるアフリカ南端迂回のインド新航路を完成し、スペインはコロンブスの西航してインドにいたる計画を後援して、幸運にもアメリカ新大陸を発見しました。この二大発見を軸として西欧人の探検航海は世界の各地におよび、1519年から22年にはマゼランが世界一周を行いました。このような「地理上の発見」によって西欧人による新地域の資源開発、新市場の開拓、植民事業の展開、世界貿易の発展がみられ、西欧は経済の大発展の機会と条件をつかみ、資本主義の発達がうながされたのです。同時に西欧の文化も世界的に広がり、スペインなど西欧列強の植民地支配のもとに、それまでの社会体制と文化を急速に崩壊させていく新大陸(アメリカ)も、西欧人の進出に対してそれぞれ独自の対応をしめすアジア諸地域も、このような情勢のもとに新しい世界史の舞台におかれるのです。
2024年08月23日
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学問としての「数学」と原理としての「数学」を分離して捉えることが重要です。両者の混同を避けるために、前者を単に「数学」といい、後者を「数学的原理」と呼びます。学問としての「数学」は、人間の歴史とともに発展し、その時代や地域のニーズに依存して、姿を変えてきました。例えば、多くの冒険家たちが地球上を隈なく探検していた大航海時代には、天球や地球を対象とする球面幾何学が活躍しました。そして、望遠鏡の精度が上がり、星の運行に関するデータが集積されてくると、それを統一的に扱うための解析学や微積分学が発展しました。日本の算額に刻まれている円の複合体は、実利的な目的というよりも、当時の卓越した和算家たちの美意識の現れです。一方、原理としての数学、すなわち「数学的原理」は時代を越えて不変です。天才たちの発見によって、数学的原理は定理や公式という形を借りて表されます。しかし、それはあくまで人間の目に触れる表現を得たにすぎません。人間の目に触れようと触れまいと、また、人間が無視しようとしまいと、その原理は普遍的に存在するのです。
2024年08月22日
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ガリレオは、一五六四年ピサで、音楽理論の研究者ヴインチエンツォ・ガリレイの息子として生まれました。望遠鏡の導入と使用によって観測天文学革命をおこし、太陽中心の太陽系モデルを断然有利にする証拠を初めて観測によってもたらしました。彼の惑星の運動の研究は現代実験物理学の模範となっただけでなく物体の落下運動の研究も始め『運動について』という著作にまとめたが、出版はしませんでした。彼は、「重い落体の速度は、感知できるほどにはその重さに左右されない」という、アリストテレスとは逆の結論に達したのです。しかし彼がピサの斜塔から重さの異なるさまざまな物体を落として実験したという話が事実だという証拠はありません。一六〇九年に望遠鏡の話を聞いたガリレオは、すぐにその改良版を製作した。自作の望遠鏡を使って、六つの歴史的な天文学上の発見をおこないました。一つは月表面が滑らかでも平らでも完全な球面でもないこと。二つは天の川はおびただしい数の星々でできていること。三つは恒星の形を見極めることができなかったので、恒星は惑星よりもずっと遠くにあると結論づけた結論づけたこと。四つは木星には(地球の月のような)四つの衛星があり、これらは地球の月と同じように、惑星の公転軌道面上で公転していこと。五つは、金星も月と同じように満ち欠けすることを発見したこと。六つは望遠鏡を使って太陽像をスクリーンに投影するという方法で太陽表面を横切っていく黒点を発見したことです。
2024年08月21日
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第三法則はもっと現実的なものです。惑星が太陽の周りを完全に一周するのにかかる時間と、太陽とその惑星の平均距離のあいだには特別な関係が存在するというものです。この法則によって、天文学者は太陽から惑星までの距離を計算することができるようになり、私たちの太陽系の大きさがどれほどなのか、そして恒星との途力もない距離と比較すると太陽系がいかに小さいのかを漠然とながらも理解できるようになりました。ありがたいことにちょうどこの頃、さらに遠くを見ることができる科学機器が発明されました。この機器を最大限に活用した人物は、史上最も有名な天文学者、ガリレオ・ガリレイです。
2024年08月20日
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最初のふたつの法則は密接に関連しており、これらの法則が発見されたのは、ブラーエが遺した火星の動きに関する注意深い観測記録のおかげです。ケプラーは観測記録を研究し、やがて惑星がかならずしも一定の速度で動いていないことに気づきます。惑星は太陽に近ければ近いほど速く、太陽から遠くなれはなるほどゆっくりと動くのです。太陽から惑星まで直線を引くとわかるのですが、一定しているのは惑星が動くにつれてできる弧の曲線であって、惑星の速度ではありません。これがケプラーの第二法則です。この法則から導き出されたのが第一法則で、惑星は、円が潰れたような楕円を揃いているというものです。重力についてはまだ意識されていませんが、ケプラーは惑星の連動にある種の力が働いていることに気づいていました。また、太陽の周りを回る惑星のように、中心点の周囲を回転する物体の自然軌道は楕円であると理解していたのです。このふたつの法則は、天体が完璧な円運動をするという古代から信じられてきた考え方がまちがっていることを明らかにしたのです。
2024年08月14日
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ケプラーは波乱万丈の生涯を送りました。妻と娘は亡くなり、母親は魔女裁判にかけられたのです。彼自身は熱心なプロテスタントだったのですが、宗教改革の嵐が吹き荒れ、支配層のほとんどがカトリック教徒で占められていたこの時代、彼は慎重に行動する必要がありました。天空の秩序は、彼なりに信仰心にのっとって理解した〝神による創造〟を裏づけるものだと彼自身は考えましたが、彼が天文学に永遠に遺した功績は冷徹なまでに現実的なものでした。彼の著作は難解な部分も多いのですが、その著作には今でも「ケプラーの法則」として知られるきわめて重要な三つの概念が詳しく説明されています。
2024年08月13日
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やがてブラーエは島の天文台を閉鎖し、一五九七年にはプラハに新たに天文台を建て、プラハに移ることになりましたが、恒星と感星の位置と動きについて、多くの重要な発見をしています。その三年後にはヨハネス・ケプラー(一五七一-一六三〇)を助手にしました。ブラーエはコペルニクスの太陽中心説を認めたことはありませんが、ケプラーは宇宙に対して帥とは異なる見方をしていました。一六〇一年、ブラーエが亡くなり、すべての記録と原稿がケプラーに遺されました。ケプラーは亡き師に忠義を尽くして、出版用にとプラーエの著作の一部の編集も手がけています。しかしその一方で、天文学をまったく新しい方向へと導いていく考えをもっていました。
2024年08月09日
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多くの人々がコペルニクスの『天球の回転について』の本を読み、その内容は彼の死後、何十年にもわたって天文学に影響を与えます。特に重要なふたりの天文学者が彼の研究をさらに先へと進めました。そのひとり、ティコ・ブラーエ(一五四六ー一六〇一)は、宇宙は非常に広大で、恒星は遠く離れた位置にあるというコペルニクスの主張に触発を受けました。デンマークの貴族だった家族はブラーエに法学を学んでほしいと願っていたが、一五六○年の日食を観測してから、天空の研究にすっかり心を奪われ、天文学の道に進みます。一五七二年、ティコはひときわ明るく輝く新しい星「新星〔通称〝ティコの新星″。現在では超新星に分類される〕」を発見すると、それが天空は完璧でも変化しないわけでもないことを示している、と主張しました。彼はデンマークの沖にある島に精巧な天文台を建設し、当時最先端だった道具を置きました(まだ望遠鏡は発明されていなかった)。一五七七年、彼は彗星の軌道を観測しました。一般的に彗星が天球を横切っていたから彗星は不吉な予兆と見なされていましたが、ブラーエにとっては天体が天球に固定されていない証拠でした。
2024年08月08日
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コペルニクスは自分の研究が人々に衝撃を与えることは承知していましたが、年老いて身体が弱っていく中で、自説を発表することを決断し、一五四二年、大著『天球の回転について』の執筆を終えました。すでに自分の説を知っていた、レテイクスという、友人に出版を託しました。レテイクスはその仕事に取りかかったが、ドイツの大学で教職に就くことになったため、友人のアンドレアス・オジアンダーに仕事を託した。そうして一五四三年、ついに『天球の回転について』が出版されました。しかし、オジアンダーはコペルニクスの説を危険だと考え、自分で序文を付け加えました。その序文に、コペルニクスの考えは、ほんとうは正しくはなく、この本は天文学者たちが古くから認めていた地球中心説の問題点のつじつまを合わせる方法を示したにすぎない、と書きました。序文には署名がなかったため、読者は序文をコペルニクスがかいたことなのだと思い込みました。コペルニクスは死期が迫っており、序文が与えるまちがった印象を訂正することはできませんでした。その結果、ほぼ一〇〇年にわたって、この名著の読者は――コペルニクスは毎晩夜空に見える現象を説明できる方法を軽い気持ちで提示しているだけであって、地球が太陽の周りを回っていると本気で思っているわけではないのだ――と考えておりました。
2024年08月07日
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コペルニクスの説は、このほかにも重要な影響を与えました。彼の説によれば、恒星の位置が、アリストテレスや古代の思想家が考えていたよりも地球からはるかに遠く離れていることになります。アリストテレスは時間が無限だと考えていましたが、空間は固定されているととらえていました。しかし、教会は、時間は固定されており(数千年前に神がすべてを創造したときに決定された)、空間も同じく固定されていると教えていました。コペルニクスは時間と天地創造についての教会の考え力を受け入れていたました。しかし、彼は太陽とほかの惑星のだいたいの距離や月と地球の距離も計算しました。割り出した数字は、地球と太陽の距離が太陽とほかの恒星の距離よりもずっと短いことを告げていたのです。宇宙はそれまで考えられていた以上にずっと広かったのです。
2024年08月06日
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コペルニクスは、天空と(今の呼び名で言う)太陽系について、自分の仮説のほうが観察結果をうまく説明できると確信しました。一五一四年に「地球の中心は宇宙の中心ではない」ことと「ほかの惑星と同じく、地球も太陽の周りを回っている」ことを短い原稿に書き、信頼できる友人数人に見せたことがありますが、コペルニクスにはそれを発表する勇気はありませんでした。それから三〇年にわたって、コペルニクスは地球ではなく太陽が宇宙の中心であるという自説の完成に静かに取り組みます。天体観測に多くの時間を費やし、ほかの天文学者たちの観察結果についても考察しました。そうして、太陽を中心に置き、その周りを惑星が回転していると仮定することで、惑星が行きつ戻りつする不思議な現象や食などの先人たちの抱えていた問題点を解決に導く方法を考え出したのです。それだけではありません。太陽を中心に据えるということは、太陽なしでは地球上に生命が存在しえないことを理解することでもあったのです。
2024年08月05日
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古代の天文学者は、地球が中心にあり、天体はその周りを回っているのだと信じていました。では、地球の代わりに太陽を中心に据え、感星(地球もそのひとつ)が太陽の周りを回っていると仮定すると、どうなるでしょう。私たち現代人は、この見方に慣れてしまっているから、この発想の転換がどれほど劇的なものだったのかは想像しにくいでしょう。地動説は毎日眼に見える現象とは逆のことを言い、アリストテレスの教えと(さらに大胆なことに)教会の教えに異を唱えることになるのです。旧約聖書のヨシュア記では、ヨシュアが太陽の動きを静止させてほしいと神に頼んだとされているというのに。そんな時代にありながら、勇敢にも太陽を中心に据えた説を唱えたのが、コペルニクスという名のポーランド人聖職者でした。
2024年08月02日
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1452年にフィレンツェに生まれたレオナルド・ダ・ビンチは、ルネッサンスの代表のような人にされていますが、19世紀末まではほとんど知られていなかったそうです。彼は、ルネッサンスの中心的存在だったフィレンツェのメジチ家の保護のもと、芸術や科学、技術の多方面にわたり、活動をおこないました。彼は、建築家・彫刻家・画家として有名ですが、自然科学の面でも力学、工学、生理学、解剖学などに重要な業績を残しています。また、湾曲した川の両側における流速のちがいと堆積物との関係や、礫や地層の研究についてもきちんとした考察をおこなっていました。特に、化石については、正確な記載をおこない、それまでいわれていた「ノアの洪水」説を否定しています。彼は、「常に実践は正しい理論の上に構築されなければならない」と考え、実証的で合理的な精神につらぬかれていたために、多くの分野ですばらしい業績を残したと考えられます。
2024年08月01日
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