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大航海時代の西欧の侵略に対する第三の疑問、異教徒の土地を武力占拠し、原住民を奴隷化してもよいという正当性の根拠ですが、ポルトガルのジョアン三世が一五三〇年より前の時点で、異教徒に対して戟争しうる条件について法学者に「いかなる理由で異教徒に対して正当戟争を行うことができるか」と諮問したのに、次のように答えています。①イスラーム教徒やトルコ人はキリスト教徒の国土を不当に占拠し領有しているから、彼らに対して行う戦争は正当である。②東洋各地やブラジルなどについては救世主が末信徒を改宗させ、霊魂の救済を行うように命じ、宣教師を派遣したので、彼らの言に耳を傾けなかったり彼らを迫害したりした者に対する戦争は正当である。③アメリカ大陸の原住民については布教事業を妨害も圧迫もしない人々だが、重大な罪を犯すような野蛮な悪習を守り、やめよぅともしない。こういう者の土地を占拠し、武力で彼らを服従させる戦争は正当である。これは人類が神の名において別の地域の人類を支配し、奴隷化することが許されているという独善的思想です。
2024年11月29日
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第一の疑問ですが高瀬弘一郎は『キリシタン時代の研究』という本で、従来の教会版キリシタン史を排し、ポルトガル人とスペイン人の国家意識を暴き、アジアの状況の全貌を明らかにしました。大航海時代の西欧の侵略に対する第一の疑問にも、この本で述べています。ポルトガル人やスペイン人が、日本と支那の武力征服を企てたが支那の方が征服しやすく、日本は手ごわいとみていたのです。ポルトガルは東半球のデマルカシオン(境界画定)がサラゴサ条約――モルツカ諸島の東十七度の線――に基づくことを主張しました。これによると線は日本列島の東を縦断し、日本も支那も全域がポルトガル領に入ります。しかしスペイン側はあらためてデマルカシオンはマラッカ(クアラルンプールの南)の上を通ると主張しました。これによると日本列島はもとより、支那の大半までがスペイン領ということになります。この点で両者は譲りませんでした。
2024年11月28日
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大航海時代の西欧の侵略に対する第二の疑問の日本が植民地化されなかった理由について言えば、原住民の文化と歴史の厚みの差、宗教発展段階の違い、日本や支那における宗教に対する政治の優位、西欧に届いていた東アジア文明優越の情報、インドから東南アジアへかけてのイスラーム勢力の壁、などなどいろいろ考えられますが、決め手となる答えは軍事的抵抗力です。日本・支那・朝鮮は十九世紀初頭まで西洋を寄せつけなかった理由は多様ですが、最大の理由は、他の地域と異なり西洋に優越しうる軍事的伝統を持っていたことです。青銅や鉄で鋳造された銃砲はまず支那で完成の域に達しそれから西進して、西洋諸国にひろがったという歴史的いきさつがあるのです。
2024年11月27日
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日本人であるわれわれは大航海時代の西欧の侵略に対して、ごく自然に、次のような三つの疑問に思いが及ぶのを禁じえません。第一に、ポルトガルとスペインの取り決めたデマルカシオン(境界画定)によれば、日本はどちらの征服予定地に入っていたのか。第二に、インド、支那、日本などは彼らに寄港地や居留地を許した程度であるのに、なぜアフリカ大陸、南北アメリカ大陸、フィリピンなどはさしたる抵抗もなく武力制圧され、完全支配を許したのか。第三に、ローマ教皇の文書には非常にしばしば異教徒の原住民に対する残忍な措置を許す内容が認められるが、キリスト教徒にとって正当戦争の思想上の根拠は何であるか、以上の三点です。
2024年11月26日
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一五二九年にポルトガル、スペイン両国はサラゴサに会し、条約を結びました。第一に、スペイン国王はモルツカ諸島に関するすべての権利を黄金三十五万ドゥカドでポルトガル国王に売り渡す。ただしこれは、返済すれば全権利は再びスペイン国王に戻ることとする。第二に、モルツカ諸島の十七度東、すなわち赤道上の一度を十七・五レグワ(一レグワは約五・六キロ)として、同諸島から二百九十七・五レグワのところに北極から南極までの線を引く。こうして東半球にもデマルカシオン(境界画定)を示す線が引かれました。一歩出遅れたスペインが金銭的妥協を図ったようにみえますが、条約中にはモルツカ諸島の権利をスペインが買い戻す自由が謳われていて、両国にらみ合いの原因を残しました。
2024年11月25日
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ポルトガル人でありながら、スペイン王朝のために働いたマゼランの世界一周航海は、一五一九年に始まり、グアムやサイパンといった、日本人に身近なマリアナ諸島にまで足跡をとどめ、一五二一年フィリピンで戦死しました。マゼランの航海は、乗組員二百六十五人のうち十八人がスペインに戻ったにすぎませんが、モルツカ諸島の帰属をめぐってあらためて、ポルトガルとスペインの間で激しい論争が起こりました。モルツカ諸島は、胡椴・香辛料の生産地です。西欧人がこの物産に目の色を変えて執着したのはペストという恐るべき疫病のはやった時代の唯一の医薬であったことが最大の理由ですが、肉食生活の西欧人にとって食肉の保存のための防腐剤と脱臭剤という目的もありました。冷凍法のない時代には大変な貴重品で、いくら高くても売れた物産であり輸入すれば莫大な金になります。
2024年11月21日
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ポルトガルはインドのゴアをアジア進出の中心地に定めました。そこにルネサンス様式の壮大な寺院や宮殿を建設し、さらに東進し、マラッカ(マレーシアの首都クアラルンプールの少し南)を占領し、モルツカ諸島を支配下におきました。モルツカ諸島こそ胡椴・香辛料の一大生産地で、西欧人が最大の犠牲を払ってでも手に入れたい島々でした。ポルトガルはここを拠点に展開し、十六世紀中葉には日本と支那に進出しました。一五四九年にはザビエルが日本に渡来し、ポルトガル人が香港の少し西の襖門(マカオ)居住権を得たのは一五五七年です。ポルトガルは、ブラジルに進出し、ここを世界一のサトウキビ生産地とし、大量の奴隷をアフリカから入れて働かせました。南米で主にブラジルだけが今もポルトガル語圏に属する理由はこの時に始まります。一方、スペインによる中南米の破壊と攻略の物語はあまりに過酷です。ピサロによるインカ帝国の征服は一五三三年で、そこから得た富によるスペイン黄金時代、文学や宮廷美術の全盛期は一五五〇年から一六八〇年までの長きに及びました。
2024年11月20日
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ポルトガル、スペイン両国が一四九四年にトルデシリヤス条約を結んだ後の東回りと西回りの地球争奪競争は有名です。一四九七年にリスボンを出たポルトガルのヴアスコ・ダ・ガマ遠征隊は、アフリカ南端の喜望峰を一気にめぐり、インド洋を渡り、一四九八年にはインド西南のカリカットに入港しました。彼らはカリカットの豊かさと商業活動を牛耳っているのがイスラーム教徒であるという情勢に強い印象を受けました。キリスト教徒である彼らは先に、地球に幾何学的領土分割線を引いてローマ教皇の認可と称して異邦に住む人も文化も富も領土も海域も全部自分のものだと勝手に決めました。しかし、いざ実際に異文化にぶつかると、そう簡単でないことに気がつきます。にもかかわらず、自分による「発見」はすなわち「占有」であるという観念を宣教師も探検家も決して変えません。ここにキリスト教という宗教の最大の謎と問題があります。
2024年11月19日
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一六八〇年代前後からイギリスで近代民主主義の原型が確立され、西欧人はアジアにたいする侵攻をすすめます。それ以前の西欧人のアジア進出は、どちらかといえは、貿易と略奪がおもだったのですが、一七世紀末から領土拡大の政策へ転換しているのです。西欧人がアジアにたいしてもっともはやく進攻した地域は、東南アジアですが、東南アジアにたいしてさえも、本格的な侵略は、一七世紀末以後です。従来の世界史では、西欧人の列強が大航海以後まもなく、一六世紀ごろから東南アジアを征服したような印象をあたえていますが、西欧人が東南アジアを征服するのは(長い歴史からみれば一時的ではありますが)一八世紀はじめ以後のことです。ジャワ・モルツカ諸島・フィリピンなどはほんの特殊な例で、そのはかでの西欧人の進出は、東南アジアの植民地化というべきものではありません。東洋と西洋とは意外なほど対等な立場でふれあい、文字どおりギブ・アンド・テェイクの取りひきをしたのです。
2024年11月18日
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このようにすべての人間は平等であり、生命・自由・財産の権利を主張した近代西欧人が、その後、アジアにたいして積極的な侵略にのりだしてきたことは注目すべきです。その最大の原因は、西欧の民主主義が、新興プルジョアによって確立され、先導されたからです。かれら商工業者は、自分たちがつくった製品を売りさばくために、「神の前ではすべての人が平等」という教えをわすれ、他の地域への侵略にのりだしたのです。いや、「わすれた」というよりも、自分たちの利益のために、「西欧人の優位と権利」を正当化しようと考えました。そのもっとも典型的なものは、一九世紀半ばにあらわれた「優勝劣敗」の思想です。元来これは生物学においてダーウィンがとなえた学説ですが、それを西欧人は人頬社会にも利用したのです。西欧の人びとは、みずからを優秀であると勝手にきめ、人種差別や侵略を正当化させたのです。
2024年11月15日
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イギリスにおける「近代科学と近代民主主義の確立」を可能にさせたのはイギリスの初期資本主義の確立(経済の発展)ということができます。市民革命にもっとも貢献したのは、マニュファクチャーの資本家たち(ブルジョアとよばれます)でした。ブルジョアが資本主義の進展によって財力をたくわえたからこそ、国王や貴族、僧侶といった旧勢力に対抗して、勝利をおさめることができたのです。イギリスの市民革命をささえた精神的背景であるジョン=ロックは「すべての人は全能な神によって創造されたもので、したがってすべての人は平等である」と主張しています。また「人間は神によってつくられているから、理性と良心をもっている」ともいっています。このような認識のもとに、ロックは生命・自由・財産を人間の三大権利と主張しています。そして政府は人民の三大権利をまもるためにつくられたもので、もし政府がこのような契約(人民の三大権利をまもるおきて)に違反するなら、すなわち人民をうらぎるなら、人びとは遠慮なく革命をおこして政府をたおすべきだとのべています。ここにおいて、近代西欧の民主主義の原型が確立されたのです。ロックの理論は、以後、市民革命の強力な武器となり、歴史に大きな影響をおよぼしました。とくに、アメリカの独立戦争とフランス革命、日本の明治維新への波及が注目されます。アメリカの独立宣言の最初の部分や福沢諭吉の学問ノススメは、ロックの言葉をほとんどそのままうつしたものです。
2024年11月14日
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一七世紀は、近代科学の発達、近代民主主義の確立とあわせて、イギリスに資本主義が誕生した時期でもあります。本格的な資本主義の発展は産業革命以後ですが、このころの資本主義は「初期資本主義」ということができます。その生産様式は、ふつう「マニュファクチャー」とよばれています。マニユファクチャーは、「資本家が生産道具を用意し、原料をしいれて、労働者をやとい(あつめて)、労働させ、労働者に賃金をはらう」という生産の様式をさしています。これはあきらかに一種の資本主義の生産様式です。マニュファクチャーは、一七世紀ごろのイギリスでさかんになり、一八世紀半ごろの日本にもあらわれています。
2024年11月13日
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当時の西欧はまだジャガイモ、トウモロコシ、トマトなどという、こんにちの西洋料理につきものの野菜を知らず、レモンや砂糖の使用も稀で、コーヒーや紅茶もないという有様だったので、富裕な階級が食味の変化を香辛料に求めたのは当然のことです。しかし香料の用途は食用肉の貯蔵の方が一層重要でした。当時の西欧では冬の間家畜を養う方法が未発達だったために、秋に家畜を大量義に解体して食肉化せねばならなりません。塩漬肉や魚の干物の味の単調さを消し、殺菌力を増すために胡椒やスパイスは不可欠です。この用途に関する需要はかならずしも上流階級のみに限られず、また必要とする分量もかなりのものです。このようにインドネシアの特産物が東西交通に占める役割は極めて大きかったのです。
2024年11月12日
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オランダ東インド会社は香辛料の独占を目的に、セイロンに進出しました。チョウジはモルツカのテルナテ、ティドーレ、マキアン、モティ、バチャンの五つの島を主産地とし、この諸島以外には世界中のどこにも産しません。木は六メートルから九メートルに達し、木全体が芳香を放ち、とくに花のつぼみ、花、果実、花梗などがよく匂い、これを乾燥したものは釘のような形をしているので丁香とか丁子とか呼ぶのです。モルツカ諸島以外では栽培がむずかしく、十九世紀以後でも極めて限られた地域(東アフリカのペンバ島、マダガスカルの一部など)にしか育ちません。この香味を求めて、中世以来の西欧とアジアの食指がモルツカ諸島に動いたのも当然です。
2024年11月11日
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イギリス木綿は印度のオリジナル製品に対するコピー製品でした。コピーには必ずオリジナルがあります。イギリスは印度製オリジナルのコピーをつくるのに優に一世紀を要し、産業革命をまって初めてオリジナルを凌ぐコピーの生産に成功しました。イギリス産業革命は自生的といわれていますが、むしろ産業革命――その定義上、経済と社会の根本的革命をともなう――を必要とするほどにオリジナル製品のもたらした外圧は強烈であったのです。日本産業革命の国際的条件はウェスタン・インパクト(西洋の衝撃)であったといわれますが、イギリス産業革命の国際的条件はインディアン・インパクト(印度の衝撃)――あるいはアジアの衝撃――であったのです。
2024年11月08日
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インドは棉の原産地で、綿織物の生産は紀元前二十五世紀頃から行なわれていまし。とくにべンガル、ビハール、グジェラート、タミールのものが有名です。十九世紀初めにイギリスの機械織りの綿布が手織りのインド綿布を圧倒し去るまで、インド綿布はアジア各地のみならず、西欧にも大量に送られていました。英語のコットンという単語がアラビア語のクトウンに由来することは、その径路と運び手とを物語るものです。香料の方は、香辛料と言えばまず胡椒を連想する人は意外に多いが、西欧においてはしばしば貨幣的用途に用いられていました。
2024年11月07日
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ジャワのマジャパイト王国の王位継承の争いにまき込まれた、パレンバン出身の一王子パラメーシュヴァラが、シンガプーラ(現在のシンガポール)その他の各地に逃れて転々とした後、およそ一四〇〇年頃に、やや北方に移ってマラッカ附近に定着したのが、マラッカ王国の始まりです。王室自体はそれ程貿易に積極的であったわけではなく、マラッカの人々も、東西貿易のを担うほどの財力や能力を持ちあわせず、マラッカの繁栄はもっぱら外国商人達の手に握られていました。船籍も、入港の時期もさまざまでした。三月にはインド方面から船が到着し、五月末に出帆します。ジャワからの船は五月から九月にかけて現われ、一月頃帰っていきます。支那の船は年の替り日頃に来航し六月末頃立ち去ります。一年中船はの絶える時がありません。これらの貿易商人のうちで、最も活躍したのは西方のグジェラート商人と、東方のインドネシア商人です。それは西から東へ動くインド産の綿織物、東から西へ運ばれるインドネシアの香料類という、二つの商品の流れに対応しています。
2024年11月06日
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ポルトガル・スペインについでオランダが東インド会社をつくって、アジア進出をはたしました。一六一九年にバタヴィア(現ジャカルタ)に要塞を築き、その後はインドネシア全域を植民地としました。同じく東インド会社を仕立てたイギリスは十七世紀に入ってアジア進出を敢行し、まずインドに点々と植民地を確保したのち、一八二四年にマレー半島を領有すると、続いて中国にアヘン戦争を仕掛け、一八八六年にはビルマを英領インドに併合しました。フランスはインド支配をめぐってしばらくイギリスと戦ったのち(プラッシーの戦い)、ベンガル湾から南シナ海のほうへ進出すると、メコンデルタ地域を支配し、そこをインドシナと名付けました。インドとシナの間の地域だからです。ついで一八七三年にベトナムのハノイを占領すると、八四年にはグエン王朝を支配下におきました。
2024年11月05日
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アジアが欧米の支配下におかれはじめたのは約五〇〇年前からです。西欧はインド洋へ、東南アジア諸島へ、東シナ海とアジア大陸へ、南アジアからポリネシアへ、アメリカ大陸へ大航海時代の先頭を切って海外進出をします。アジア進出に先んじたのはポルトガルとスペインで、両国はイベリア半島におけるイスラーム勢力に対する国土回復(レコンキスタ)を達成すると、ポルトガルは一四九八年のヴァスコ・ダ・ガマのカリカット到着を皮切りに、インド総督アフォンソ・デ・アルブケルケが一五一一年にマラッカを征服して以降、東南アジア沿岸部に拠点を築いていきます。スペインは一五二一年にマゼランの艦隊がフィリピンに到達して、一五七一年にはマニラを含むフィリピン諸島を征服しました。やがてこれらすべてが植民地化されていきます。日本も蚕食される危機を迎えていたのですが、襲うには航海地理上では遠く、信長や秀吉も警戒を強めて早めにキリシタン禁制にとりくみ、鎖国(海禁)に踏み切ったので植民地化を免れました。
2024年11月01日
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