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聖書の原典はギリシャ語で書かれていましたが、15~16世紀にはもはやギリシャ語を知る人もなく、原典復元のためエラスムスはギリシャ語教師を探して南欧の果てまで放浪しました。西欧には古代に根源的不安があるのです。日本も仏教は漢訳仏典を唯一の頼りにしたので、原語サンスクリットは明治になってやっと知ったのです。ユーラシアの東西の端にあった西欧と日本にとって、この不安の克服こそが「近代」なのです。西欧人には大航海時代の冒険とともに人文主義の歴史があり、ギリシャ・ローマをアラビア人に学んで自分の歴史に奪い取るルネサンスがあって、やっと「近代」の戸口に立ったのです。
2024年10月31日
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西欧はイスラーム世界から、また日本は支那大陸(半島はその一部)から長い期間、制縛されていました。そこからの「解放」がいわば「近代」です。「解放」は古代像の先取り争いであり、奪い合いです。つまり、西欧も日本も強大なイスラーム文明や中華文明から解放されて近代の進歩と自由を獲得し、歴史の第一線に躍り出たのです。自分の方が優越していると信じていたイスラームと支那はこの逆転が許せません。今まで下に見ていた相手の優勢を認めたくない。それがしつこい歴史戦になり、過激テロになっています。彼らはいま「近代」を踏みつぶしゼロに戻そうとしています。一方、西欧はももともと「近代」に本当の自信を持っていなません。西欧には古代がないのです。西欧の歴史は12~13世紀の中世から始まるのです。それ以前はアラビア世界にも属しており、ギリシャ・ローマはまっすぐに彼らにつながる歴史とはいえません。
2024年10月30日
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科学革命の名にふさわしい宇宙観の根本的変革は地動説です。しかし地動説の樹立にいたる天文学の発展には、社会での実際的問題も関係しています。それは航海において方位を知るために惑星の位置を予測して記載した惑星表が必要であり、遠方への航海がさかんになるにしたがい正確な惑星表が要求されるようになったのです。15世紀にレギオモンタヌス(Regiomontanus1436-1476ドイツ)が当時の惑星表にいろいろの誤りを発見したことは、やがてコペルニクスの地動説を出現させる伏線となりました。コペルニクスは若いとき、学術の中心であったイタリアに留学し、そこで古代のアリスタルコスの地動説を知りました。コペルニクスは、それに示唆をえて、中世をつうじて権威づけられてきたプトレマイオスの宇宙系において、いわば地球と太陽をいれかえ、太陽を宇宙の中心とし地球を太陽の衛星にしたのです。
2024年10月29日
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科学革命の名にふさわしい宇宙観の根本的変革は地動説です。しかし地動説の樹立にいたらしめた天文学の発展には、社会での実際的問題も関係しています。それは航海において方位を知るために惑星の位置を予測して記載した惑星表が必要であり、遠方への航海がさかんになるにしたがい正確な惑星表が要求されるようになったのです。15世紀にレギオモンタヌス(Regiomontanus1436-1476ドイツ)が当時の惑星表にいろいろの誤りを発見したことは、やがてコペルニクスの地動説を出現させる伏線となりました。コペルニクスは若いとき、学術の中心であったイタリアに留学し、そこで古代のアリスタルコスの地動説を知りました。コペルニクスは、それに動機をえて、中世をつうじて権威づけられてきたプトレマイオスの宇宙系において、いわば地球と太陽をいれかえ、太陽を宇宙の中心とし地球を太陽の衛星にしたのです。
2024年10月28日
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科学革命における天体の幾何学の大きな礎石は、コペルニクス(N.COpernicus1473-1543ポーランド)の地動説によってすえられました。ケプラー(J.Kepler1571―1630ドイツ)およびガリレオ(GalileoGalilei1564-1642イタリア)がそれを発展させました。ガリレオは、他方で物体の運動の力学つまり動力学を創始しましたが、それは地上の物体の運動を扱うにとどまります。ただしガリレオはその力学研究で、個々の自然現象を研究する方法の原則を確立しました。ニュートン(p.38)は、それらの学者のあとをうけて動力学を天体に適用して発展させ、地上の物体と天体と、この自然界のすべてのものが統一的な力学の法則にしたがうことを明らかにしました。ここにおいて、古代からの天界と地界の区別は完全に消去されました。科学の方法という面では、ガリレオが示した研究の原則をさらにしあげ、加えて科学の1分野(力学など)の知識を統一的な体系にまとめました――なお、実験が科学研究の方法として定着することにかんしても、ガリレオとニュートンは重要な役割を果たしました。
2024年10月25日
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近代科学の時代区分の(1)、いわゆる科学革命の時代において近代科学の方法と体系の基盤がすえられたのです。では、その経過の中軸となったのはどの科学分野だったのでしょう。科学革命の中軸を「天体の幾何学から天体の力学へ」という言葉でいいあらわすことがあります。それは天文学ですが、その天文学は最初は天体がどういう原因で、つまりどういう力の作用で運動するのかという問題までは進みませんでした。天体の運動がどんな図形をえがくかというような、つまり天体の幾何学だったのです。しかし、科学革命が天文学ではじまったということには、重要な意味があります。その1つは、天文学は人間の世界観の柱をなす宇宙像を与えるものだということです。もう1つは、天文観測は古代からなされてきて、数値を扱い、自然現象を数量的に研究する学問の代表であったということです。近代科学は自然現象の数量的な取扱いを重要な柱としており、天文学はその科学の先導者となる資格をそなえていたのです。
2024年10月24日
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(5)1940年ごろ、すなわち第2次世界大戦(1939-1945)にはいる前後から、技術および科学はさらに目ざましく発展をとげました。技術にかんしては、技術革新という言葉でよばれる飛躍的な発展がおこり、その技術を中心とした産業形態の変化は、ときに第3次産業革命の名でよばれています。その時代から現代まで、諸科学の発展はますます加速されてきているのです。これは、私たちが眼前にしている、近代科学の大きな山です。
2024年10月23日
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(4)19世紀の第4四半世紀にはいるころは、科学の歴史における重大な転機です。科学の発展自体が、科学の本質についてのむずかしい問題を投じました。それまで絶対の真理だと信じられてきたニュートン力学が、絶対的に正しいのではないかもしれない、という疑問です。ニュートン力学は諸科学の土台におかれてきたものですだから、これは容易ならぬ問題です――科学上の真理とは何かについて、考えなおさねばならなくなった――それで、科学の本質や方法についての哲学的議論も、おこりました。しかしこの時期は産業的技術の新たな発展期でもあって、それによる産業形態の変化は第2次産業革命とよばれており、それと関係し、あるいは並行して、科学のいっそうの発展がおこりました。たとえば物理学では、量子論や相対性理論が提唱されるようになり、やがて第1次世界大戦(1914-1918)の時代となり、大戦は技術の進歩のためには大きな意味をもちました。戦後、1920年代は、また科学の新たな飛躍的発展の時代であった。ふたたび物理学についていうと、量子力学が成り立ったなどである。この時期は、科学哲学にかんしても重大な発展期であった。これはだいたい20世紀第1四半世紀の終りです。そのころを中心に新たな山ができていると見ることもできるが、19世紀最後の四半世紀から継続しているという見かたも成り立つ――少なくとも、あいだを区切らずに説明するほうが分りよいから、その見かたをとっておくことにします。
2024年10月22日
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(3)いまのべたように(2)の山に含めてもよいが、それと切り離すほうが分りやすいでしょ。(2)の山に区切りをつけたその時期から、19世紀の終り近くまでです。この場合にも、19世紀の第3四半世紀と第4四半世紀の境を目安にとると、簡明になります。この(3)の時代は、確定された軌道のうえでの発展と見ることができます。その点では、18世紀前半などと同様に山とはいえませんが、しかし科学が巨大な発展をとげ、19世紀の人たちに自分たちの時代が科学の世紀であると確信させるにいたった点では、やはり山です。
2024年10月18日
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つぎの山は18世紀の第3四半世紀と第4四半世紀の境(1775年)あたりから生じているのです。1775年という年が大きな意味をもっているわけではなく、1世紀を四半世紀で区切るのは時代区分を簡明にするのに役だつので、そうするだけです――その前後の時期という意味です。以後の世紀の時代区分も、同じ考えかたにしたがいます。18世紀のはじめの3つの四半世紀ほどは、ニュートン力学の展開を中心にした発展の時代と見ることができます。この時期、あるいはその少しまえから、とくにイギリスではじまった産業革命を背景として、科学は新たに大きな発展をとげるようになり――それから19世紀のかなりの期間までをこの2番目の山に含めます。しかし19世紀の最初の四半世紀の終りあるいは1830年ごろで、いちおう区切ることも可能ではあります。
2024年10月17日
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近代科学の歴史において、大きく時代を分ける山として、5つの時代をあげることができます。近代科学の成立の時代の第一の山は、その方法および知識(学問)体系の基盤がつくられた時代です。中世科学から革命的な変化を経て成り立ったという意味で近代科学の基盤ができるその過程は、しばしば科学革命とよばれています。科学革命の時代は、近代科学の皮切りから17世紀末までで、だいたいルネサンス後期と見ることもできます。なお17世紀後半はニュートン(Ⅰ.Newton1643-1727イギリス)の時代であり、まさにかれによって近代科学の基礎が完成され確立されたのです。
2024年10月16日
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現在の宗教学は一神教の枠組みから脱却できていません。山川草木に仏性の宿りをみる日本人の宗教観は当然にアニミズムとされます。「死後の永世を信じてもいないのに墓参りだけは行う」「仏教の教理はわからなくとも仏壇を拝む」などの行動はフェティシズムの一種で、欧米人の目にはそれは無宗教か、低級な信仰のようにみえたのです。日本人の宗教心を一言で言い表せば確かに「自然宗教」といえます。しかしそれは外的な流動性、本居宣長に倣えば「なる」ことを軸とする感性と論理に基づいているのです。これを宗教でないとか、程度の低いものと捉(とら)えるのは不当です。翻って、キリスト教自身はいかにも宗教を定義できているようにみえますが、実は「宗教とは何か」に答えていません。どんなに言葉を尽くした定義を案出しても、宗教には本質的な規定不能性が残るのです。そうである以上、他の宗教をあるがままに理解するためには「類比的、共感的」な姿勢を採るしかありません。
2024年10月15日
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欧米のクリスチャンが「君の宗教は何か」と問わずにはいられないのは、キリスト教が歴史的に孕(はら)んだ固有の問題性に深く根差しているからです。彼等はまず、自らの都合のよいように宗教と宗教ならざるものとを区別しました。初期における最大のライバルである、ギリシャ思想を「哲学」として封じたのです。ギリシャ思想の本来の宗教性をギリシャ哲学ということで、キリスト教にとって脅威となる牙を抜き去ったのです。そのやり口は、大航海時代以降、世界各地でキリスト教などの一神教ヘブライズムのかたちとはかけ離れた信仰形態を見出(みいだ)したときにも「適用」されました。欧米は、それらを俗信や風習に過ぎず、キリスト教のような上等な宗教と同列には扱えないと裁断しました。そこで用いられたのが、アニミズムやフェティシズムといった「理解」の枠組です。彼等はそれらを原始的な信仰形態と決めつけました。
2024年10月11日
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鉄鋼軍艦が大坂湾にはいれば、本願寺の危機です。本願寺方はこれを湾内にはいる前に撃沈しょうと、雑賀から無数の小舟を出し、矢・鉄砲を乱射して四方から攻めたてましたが、大鉄砲のいっせい射撃で小舟はうちくずされ、そばへも寄せられません。ついに海上権は織田信長のものになり、戦艦は七月からずっと木津川口にあり、本願寺に対して海上封鎖をおこないました。十一月には毛利の軍船六百余艘が、兵糧を積んで木津に着いたが、たちまち撃滅されました。風前のともしびとなった本願寺の命をつないだものは、一五七八(天正六)年十月の荒木村重の挙兵です。村重は摂津の池田勝政に従っていた郷衆でしたが、伊丹城を奪って居城とし、有岡と改め、摂津きっての武将となりました。彼が播磨三木城の別所長治に応じて信長にそむくと、同じ摂津の高槻城主高山右近・茨木城主中川清秀も義理を重んじて荒木に味方しました。石山本願寺を包囲している背後で、摂津と播磨が、とつぜん敵にまわったのです。信長はまたも朝廷をうごかして本願寺と講和しようとし、顕如は毛利氏とともに講和すると返答しました。
2024年10月10日
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本願寺の旗色はしだいに悪くなってきました。一五七八(天正六)年三月十三日、上杉謙信も脳出血でなくなりました。信長は、大坂湾・紀伊水道・瀬戸内海の制海権を奪うため、伊勢の九鬼嘉隆・滝川一益に命じて戦艦六隻をつくらせました。この戦艦は大艦巨砲主義でつくられ、五千人ほども乗れる鉄船です。鉄砲の弾丸をはね返す装備もほどこされ、大鉄砲をたくさんすえつけてありました。これが七月、堺の港に雄姿を現わしたときのことを、キリシタン宣教師オルガンチノはつぎのようにしるしました。「信長が伊勢で建造させた、日本国で最大の、そしてまた華麗なものであって、わがポルトガル王国の船に似ている。予は港にでかけて見物したが、日本でこんなものができるということに驚いた。」
2024年10月09日
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四月一日からは天守台の石垣が築きはじめられました。高さは十二間(約二十二メートル)、その上に近江平野と大潮をみはるかす天守閣をたてるのです。天守閣とはなんでしょうか。安土城の天守の七層の天井には、三皇五帝、孔子の十高弟、七賢らがえがかれていたので、あきらかに儒教的世界観による「天」をあらわすものです。つまり天主とは天下の中心なのです。安土は京都から一日でいける距離で、北陸・東海から京都にはいる要点にあります。このころ敵対関係にはいった上杉謙信に備える意味もあります。そのころ安土にいた外人宣教師は、「信長は壮麗堅固な城を築いて、栄華を誇り示そうとした。」「最上の一層は内面全部金でぬられ、屋上には厚い金の冠を置いた。窓も金でかざられたため、朝夕の日がこれにあたると、さんぜんと光華(こうげ)を発した。」といっています。信長は「天下布武」の象徴として、領国の中心である城を、新しい姿で実現しょうとしたのです。
2024年10月08日
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越前一揆を平定し、岐阜から京都にのぼってきた信長は、はればれとした心で、新しい瀬田橋(せたばし)をわたりました。この橋は、かれが越前出兵の直前の七月に着手したものです。信長の軍政下にある地域について目立つことは、道がつくられ、橋がかけられ、関所が廃止されて、交通の便がはかられていることです。道や橋をこわして敵を防ぐのはもはや時代おくれで、軍隊の機動力や物資の輸送力が戦局を決定することに気づいていたのです。嫡男信忠に一月二十八日、家督をゆずり、岐阜城を明けわたして佐久間信盛の邸宅に移った信長の胸中には、近江安土に新しい城と都市を建設する構想がありました。一五七六(天正四)年正月のなかばごろから、琵琶湖のほとりの安土山に、大規模な築城工事がはじめられました。総監督は丹羽長秀、二月二十三日には信長も安土にやってきました。東海・北陸・近畿の武士・人夫・職人が召され、莫大な石材が集められ、昼夜山も谷も動くばかりの大動員で仕事が進められました。
2024年10月07日
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武田方は、1575年五月二十日早朝、長篠の囲みを解き、織田・徳川軍と七町はかりをへだてて陣をとりました。その夜の雨は、翌二十一日の明けがたにはすっかりあがっていました。戦闘は午前五時ごろ始まりました。いままでの合戦とはまるでようすがちがっていました。まっしぐらに織田軍に向かった武田の騎馬隊は、木柵にはばまれ、鉄砲に悩まされ、ばたばたたおれ、甲州の騎馬隊はその真価を発揮するまもなく、突撃のたびに名ある武将が戦死しました。晴れた空の下で、鉄砲は思う存分に威力を発揮しました。それは、著名の古い騎馬・長槍部隊と、無名兵士集団の新しい技術との戦いで、甲州勢は総くずれしました。奥平定昌も城門を開いて甲州の敗兵を追撃し、甲州軍は川にはばまれ谷に落ちて甚大な損害をうけました。無事本国へ帰りついたものは、わずかに三千ばかり、武田の戦力はここで急低下しました。
2024年10月04日
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山国の甲斐では、山のふもとに牧場が設けられ、良馬が多かった。そこで精鋭をほこる武田軍は、騎馬隊を中心に、長槍隊が敵陣をつきくずすという戦法をとりました。信長はこの長槍・騎馬隊と正面衝突することを避け、密集部隊を鉄砲でいっせいに射撃するという戦術を採用しました。このため陣地の前面に、二十余町の間に二重三重の空堀を掘り、土手を築き、木柵を 三重にはりめぐらし、甲州勢の突進を阻止しようとしました。もともと鉄砲をいちばん早く手に入れたのは武田信玄ですが、かれは、火縄銃は雨の日には使用できないし、一発うってから、つぎの一発を打つまでに時間がかかる鉄砲は実戦にはあまり役に立たないと考えていました。しかし信長は、鉄砲隊を三段に配置し,第一列が発射したあとは、第二列が前に出て発射し、ついで第三列が発射し終わったときは、第一列の玉込めが完了しているという、一発目と二発目との間の時間を短縮を考えました。これには多数の鉄砲を必要ですが、国友村(滋賀県)や根来(和歌山県)のような鉄砲の産地を手に入れた信長にはそれができたのです。
2024年10月03日
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キリスト教の布教許可は、僧侶はもちろん、朝廷も不満でした。四月二十日、フロイスが信長に面会した席上には、法華宗の怪僧朝山日乗もおり、フロイスが都にいたため、前将軍義輝が暗殺された、などという理屈でフロイスの追放を求め、従者のロレンソに切ってかかったりしました。そののちも、日乗は天皇の権威をふりかざしてフロイスを圧迫したのでフロイスとロレンソは、和田惟政の紹介状をもち、小西陸佐(行長の父、堺の豪商)のせわで、岐阜にいきました。途中で頭のない石仏をたくさん見たましが、これは信長の命令で頭をとらせたのだ、とフロイスはしるしています。信長は佐久間盛政と柴田勝家に、フロイスを保護し、都から追放してはならないといい、木下秀吉のとりなしで、宮廷と幕府に対してフロイスらの保護を求める手紙を書いてフロイスにあたえています。のち日乗は和田惟政を讒言したので処罰されましたが、朝廷のあっせんで死罪をまぬがれ、一五七七(天正五)年九月になくなりました。
2024年10月02日
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松永久秀は、フロイスが信長に面会する直前に、信長に宣教師を追放するように懇願しました。しかし信長は、たったひとりのキリシタンが都にいて、それで一国が乱れるというのは、久秀の心がせまい、といって笑いました。信長はフロイスに帽子、こんペいとうをいれたガラスびん、砂時計、だちょうの卵など南蛮の珍品をおくられて喜びましたが、目覚まし時計は構造が複雑だから、手もとにおいてもむだであるといって受けとりませんでした。また、信長はフロイスとの面談で仏教僧侶らの「忌むべき生活と悪しき習慣」をながながと説き、「坊主らは金銭を得、肉体を喜ばす以外に望むものがない。」といいました。そして、その日づけでフロイスの京都居住と布教を公認する朱印状を出しました。異国への好奇心もありましたが、僧侶の堕落をにくみ、それへ対抗する役割をキリスト教に求めたのです。
2024年10月01日
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