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室町幕府は、足利氏の将軍による武家政治機構です。足利尊氏は、九州から東上して光明天皇を立てた直後、鎌倉幕府の遺老二階堂是円(ぜえん)らに政治の大綱を諮問しました。その答申が一七条から成る「建武式目」です。建武式目では第一の問題となっている、幕府を元のように鎌倉におくか、それとも他所に遷るかについて以外に諸国守護大名のこと、庶民や寺社の訴訟のことなど、武家政治の核心的な問題もとり上げられていてます。尊氏に幕府開設の意志があったことは、はっきりしています。尊氏は、このとき高師直を執事、太田時連を問注所執事として、政治の局に当るものを定めています。ついで一三三八(暦応元)年、光明天皇から征夷大将軍に任ぜられ、足利氏の幕府は、一応形式を整えられました。しかし、吉野には南朝があり、足利氏内部でも内紛が絶えず、なお全国的政権ということはできませんでした。
2024年04月26日
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南北両朝和平合体の時機が到来しました。これまでも、足利直義や佐々木高氏などが、吉野に和平の働きかけをしたこともありましたが、吉野では、北朝の解消、足利氏の帰順を条件としない限り、交渉に応じない態度を堅持したので、ついにまとまりませんでした。しかし、事態がここに至って、吉野方でも折れざるを得ず、一三九二(元中九)年義満の議を容れて、後亀山天皇は京都に還幸し、北朝の後小松天皇に譲位するという形式で神器を伝え、五七年にわたる対立は解消して、ここに両朝の合体が成立しました。和平の条件として、将来は両朝が交互に皇位につくことが定められましたが、これは実現されませんでした。この南北朝の内乱については、最近、南北両朝の対立、吉野朝廷と足利政権の抗争によって発生したものではなく、地方農村社会における、荘園領主の支配に反抗する農民や、独立した領主に成り上ろうとする地方武士たちの広汎な、革新的な運動によるものであったと考えられています。
2024年04月25日
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楠木正成の子正行(まさつら)が河内四条畷(なわて)の戦いで戦死したことは、吉野方には大打撃であり、天皇は一時吉野を出て大和の賀名生(あのう)に遷られたほどでした。九州では、征西将軍宮懐良(かねなが)親王を奉じて、菊池武光・武朝らが活躍しましたが、親王の薨去後、その勢いはおとろえました。このような頽勢にあって、吉野の朝廷が、後醍醐天皇の後、後村上.長慶・後亀山と五〇年にわたって存続したのは、吉野が要害の地であった上に、伊勢・紀伊を通じて、東国や四国・九州との海上連絡を確保し得たからであり、また吉野の朝廷が正統の天皇であるという、後醍醐天皇以来のかたい信念に支えられていたからです。それとともに、足利氏の内訌も、吉野の朝廷に対する圧力を弱める働きをしています。足利氏の内部では、尊氏.直義兄弟の争い、尊氏.直冬父子の争いに加えて、執事高師直(こうのもろなお)との争いがあり、一時とはいえ、吉野方に京都を回復されるという事態さえ生じました。しかしそれもしだいに解消し、尊氏から義詮を経て三代義満のころには、足利政権の基礎もかたまり、吉野朝廷に対する圧力も圧倒的になりました。
2024年04月24日
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吉野の朝廷では、恒良親王.尊艮親王を奉じて北国に下った新田義貞は、越前金ガ崎城で敗れ、ついで藤島に戦死し、北畠顕家は義良親王を奉じて陸奥から再び西上しましたが、和泉石津の戦に戦死し、頼みとする武将を次々に失いました。天皇は北畠親房・結城宗広らに、義艮親王・宗艮親王を奉じて東国に向わせましたが、途中暴風のため船隊が四散して、親房だけようやく常陸小田城に入ることができました。やがて後醍醐天皇が崩御し、後村上天皇が立たれたが、なお幼少で、吉野朝廷は日とともに頽勢に向いました。指導者としてはただ一人北畠親房で、彼は小田城を失ったのち、関・大宝の二城に移ったのですが、これもおちいったので、ついに吉野に帰り、京都回復に専念しました。
2024年04月23日
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尊氏は九州で菊池武時の子武敏を破り、少弐・大友・島津等の諸豪族をしたがえて東上の準備を整え、海陸両道から大軍を率いて京都に向います。楠木正成はこれを摂津湊川に迎え戦って死に、千種忠顕・名和長年らも京都で戦死したので、天皇は難を叡山にさけられた。尊氏は九州へ敗走の途中持明院統の光厳院の院宣を受けて朝敵の汚名を逃れる方策をとり、京都を回復すると光厳院の弟典仁親王の践詐をはかり、これに神器を譲られんため後醍醐天皇に和睦還幸を請いました。天皇は一且これを容れましたが、尊氏に屈服する意志はなく、一三三六(延元元)年逃れて吉野に遷られ、典仁親王に授けた神器は偽器であったとして、依然在位を主張しました。これに対して、京都には尊氏が立てた持明院統の光明天皇があり、二人の天皇が同時に並立し、二つの朝廷が存在するという異変が生じました。当時吉野方を南方、京都方を北方といったが、南朝.北朝とも併称しました。これから両朝の和平まで五七年間、両朝が対立し、内乱が続いたので、この間を南北朝時代といいます。
2024年04月22日
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尊氏は好機訪れたとみてとり、征夷大将軍に任ぜられて時行を討つことを請うたが、許されなかったので勅許を待たずに東下し、時行を討って鎌倉を回復しました。新政権に不平を抱き、幕府の再興を望む武士たちは、みなこれに従いました。護良親王を除いた尊氏にとり、次の相手は義貞です。義貞も尊氏と同じく源氏の名門で、天皇の信任も篤く、越後守で、上野・播磨介を兼ね、護良親王につぐ有力者です。尊氏は直義の名で義貞追討の檄文を諸国に出し、朝廷にもこれを請いました。朝廷はこの請を退け、尊氏追討のたに護良親王を奉じて義貞を東下させました。義貞の軍は竹下の戦いに敗れ、京都は義貞を迫って西上した尊氏の占領されました。しかし遠く奥羽から馳せ上った北畠顕家が到着して、京都の治安は回復され、尊氏は九州に敗走しました。
2024年04月19日
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中興事業に協力した武士の多くは、幕府に対して不平を抱く人々です。彼らは幕府を倒すことによって、自己の地位を安定させ、さらにそれがよりよくなることを期待したので。天皇の理想を理解し、それに協力しょうとしたわけではあえいません。期待に反して恩賞が少かったことに不平をもらし、訴訟の裁決がおくれることに不満の声をあげたのは、このような人々です。彼らはしだいに中興政権に望みを失い、彼らの要望をみたしてくれる人の出現を望みます。彼らの不平を利用し、それを結集したのが足利尊氏です。足利氏は義家の第三子義国から出た源氏の名門で、下野国足利荘に住んで足利氏を称し、高氏の代には上総・三河両国の守護として重きをなしていました。足利氏は、早くから北条氏に代って政権を握ろうとする野心をもっていたといわれ、それが高氏のときに実現します。建武中興の成功は、幕府に対する彼の寝返りによるもので、天皇は恩賞を授け、従三位に叙し、参議に任じ、武蔵守となし、天皇の譲尊治の一字を与えて尊氏と名乗らせたほどです。したがってその勢威には、断然他を圧するものがありました。これに対抗するものは、征夷大将軍護良親王と新田義貞でした。尊氏と両者との抗争は、まず親王と尊氏との対立となって表面に現われ、これは尊氏の勝利に帰し、親王は鎌倉に幽閉されました。たまたま北条高時の遺子時行が中先代(なかせんだい)の乱をおこし、鎌倉をおとしいれたので、直義は親王を殺して三河に逃れ、これを京都に報じました。
2024年04月18日
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新政権に対する信頼が失われていくときに、朝廷では、大内裏の造営を計画し、安芸・周防を料国に宛て、諸国の地頭にもその費用を課し、夫役を徴した上に、期日におくれるとそれを倍額にして徴収したので、新政に対する不満はさらに高まります。東寺領若狭国太良荘は、鎌倉時代の末、正安年間から関東御内領として北条氏の支配を受けていましたが、建武中興でその地頭職は東寺に返還せられました。太良荘の名主たちはこのような処置に喜悦の思いをしていたところ、その期待ははずれて、前代になかったような新税まで賦課され、農繁期にさえ苛酷な徴収を受けるに至ったので、その免除を東寺に訴えた文書が残っています。これは新政権に対する名字百姓等農民の期待と失望の様を如実に示しています。
2024年04月17日
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中央.地方の行政機構は整備されましたが、その施政には不手際が多く、中興政権はわずか二年で崩壊しました。新政の成否は、恩賞と土地問題の処理にありましたが、恩賞の給源としての土地には限りがあるのに、希望者はあまりにも多く、十分に行きわたらない上に、寺社や公家には厚かったが、武家には薄かったので、公武間に感情の疎隔が生れ、新政に不平を抱く武士も多かったのです。また従来の土地知行をそのまま認めないで、新たに勅裁によって知行権を安堵すると発表したので、従来の権利保持者の間に多大の不安をひき起しました。それで恩賞の申請や権利確認の訴訟のため、全国から京都に上る人々はおびただしい数にのぼったので、一三三三(元弘三)年七月、朝廷では、北条氏の党類のほかは、所領を安堵し、訴訟のための上洛を止める命令を出しました。すなわち北条氏の旧領以外は、原則としてその知行権を変更しないことにし、しかも恩賞方や雑訴決断所の言論は渋滞し、雑訴決断所では、一旦下した裁決を取消すような失態をしばしば演じたので、新政権に対する信頼はしだいに失われました。
2024年04月16日
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後醍醐天皇は伯耆を発し、途中光厳天畠の廃立を宣言し、京都に還幸するや、新政を開始しました。翌年改元した年号をとって、これを建武中興といいます。中興政治の理想は、天皇観政を中核とする公家一統の政治を奨現することです。文武の道は一つであり、公家も武家もともに一体となって、政治を振興すべきだというのです。後醍醐天皇は醍醐天皇の延喜の世の再現を目標として院政を認めず、関白を廃して、みずから記録所で政務を総轄されました。記録所はその権限を拡充して、司法・行政の中枢とし、所領問題処理のために雑訴決断所をおいて、おもに公家を出仕させ、中興事業に功労のあった人々の恩賞を取扱う恩賞方には公家・武家をあて、軍事・警察を担当する武者所には、新田義貞を頭人として、中央機関を整えました。また地方制度としては、従来通り国司と守護を並置し、公家・武家を問わずこれに任じました。さらに皇子も政治に与るべきであるとして、護良親王を征夷大将軍とし、奥羽・関東は京都から遠く離れているので、奥羽には義艮親王を下し、北畠顕家を陸奥守に任じてこれを輔けさせ、関東には成良親王を下し、尊氏の弟足利直義(ただよし)を相模守に任じてこれを輔けさせました。
2024年04月15日
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後醍醐天皇は隠岐に遷っても譲位の意志はなく、光厳天皇の在位を認めず、あくまでも討幕の志をすてません。護良親王も楠木正成も幕府に抑えられることなく、親王は近畿地方で活躍し、叡山の末寺を中心に悪党などの組織的動員をすすめ、さかんに令旨を発して兵を募り、正成も河内の金剛山に千早城を築いて、攻め寄せる関東の大軍を悩ませました。これを聞いて肥後の菊池武時、伊予の土居通増.得能(とくのう)通綱、播磨の赤松則村らも相ついで立ちました。この情勢を見て、ひそかに隠岐を脱出した後醍醐天皇は、伯耆の名和長年に迎えられて船上山に入り、諸国に討幕の輪旨を出しまた。幕府は足利高氏を伯耆に向わせましたが、高氏は輪旨を受けて丹波篠村八幡の社前で幕府に反旗をひるがえして、千種(ちぐさ)忠顕・赤松則村らと六波羅をおとしいれ、関東でも護良親王の令旨を受けた上野の新田義貞が鎌倉に攻め入ったので、北条高時は一族とともに自殺し、幕府はここに滅亡しました。一三三三(元弘三)年のことです。
2024年04月12日
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正中の変により、幕府の天皇に対する瞥或は厳重になり、皇太子邦艮親王薨去後は、天皇の皇子を皇太子に立てることを拒否し、量仁親王を皇太子とします。これで幕府を倒さない限り、天皇が皇子に位を譲って、その理想を実現する望みは全く失われました。正中の変の失敗にもこりず、再挙の計画は俊基を中心に推進された。諸社寺の勢力を利用するため、法勝寺の円観・醍醐寺文観に働きかけ叡山には第一皇子尊雲法親王(護良:もりなが)・第三皇子尊澄親王(宗良)を相ついで座主とし、天皇みずからも日吉社.延暦寺あるいは春日社・東大寺・興福寺に行幸して、僧徒の心を得ようとしました。また近畿の諸荘園の悪党とも連絡をとり、組絨的に動員することも考えました。しかし、この計画も、武力討幕を反対する吉田定房の密告により、一三三一(元弘元)年またもや未然に発覚しました。幕府は文観・俊基を捕えて、ついで天皇をも捕えようとしたが、天皇は京都を出て山城の笠置寺に逃れられた。河内の楠木正成は召に応じて立ち、赤坂城に拠ったが、関東の大軍を受けて、赤坂・笠置ともにおち、天皇は補えられて六波羅に押しこめられました。幕府は、量仁親王を立てて光厳天皇とし、後醍醐天皇の在位を認めず、承久の例にならって天皇を隠岐に遷し、尊雲・尊澄両法親王を土佐・讃岐に移すこととし、関係の公家.僧侶は多く遠流に処し、資朝・俊基を斬りました。これが元弘の変です。
2024年04月11日
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持明院統の花園天畠のあとを受けて皇位についたのは、大覚寺統の後醍醐天皇です。天皇は後宇多天良の第二皇子で、近臣とともに僧玄恵について宋学を学び、革新的思想を身につけられました。即位の初めに、御父後宇多法王が院政をとられたが、三年にしてこれを廃されたので、二百三十年来の慣例はここに絶え、天皇は記録所を復活してみずから政務にはげみ、広く人材を登用しました。ところが天皇即位の際、持明院・大覚寺両統と幕府の協定により、天皇の皇太子には甥の邦艮親王、そのあとには持明院統の量仁親王が決定しました。そこで大覚寺統のなかでも邦艮親王の即位を望むものがあり、持明院統の公家とともに幕府に向って天皇の譲位促進連動をおこしました。これに対抗し、天皇は近臣日野資朝・同俊基らと無礼講に托してひそかに討幕の計画を立て、資朝を関東に、俊基を紀伊にやって同志を募らせました。彼らがねらったのは、弱小御家人の零落にもかかわらず、しだいに強盛になってきた地方の有力御家人層です。一三二四(正中元)年、京都に集った兵で、まず六波羅を襲う計画でしたが、ことが未然に洩れ、関係した武士は殺され、資朝・俊基は捕えられて鎌倉に送られました。これが正中の変です。資朝は責任を問われて佐渡に流されましたが、俊基は許され京都に帰され、累は天皇にまで及びませんでした。
2024年04月10日
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幕府の対朝廷策の失敗も崩壊のきっかけの一つです。承久の乱後公武両政権の関係は一変し、治世の君として院政を担当する上皇の決定は、幕府の手に握られることになりました。朝廷では、後嵯峨天皇は、在位四年ののち一二四六(寛元四)年、第一皇子後深草天皇に譲位して院政をとり、ついで第二皇子亀山天皇を皇位に付けました。そして亀山天皇の皇子を皇太子としたが、院政の後継者は決定せず、それを幕府に一任して崩ぜられました。執権時宗は、後嵯峨法皇の后大宮院に諮って亀山天皇に決定しましたが、これに対する後探草上皇側の不満は、その子孫である持明院統と、亀山天皇の後である大覚寺統との間に、皇位継承をめぐるはげしい対立の糸口をつくります。幕府は一三〇八(延慶元)年両統鼎立の議を申し入れ、この対立を利用して、朝廷を操縦したが、問題の複雑化にしたがい、その立場が窮境におちいることを恐れ、一三一七(文保元)年使を京都に遣わして、幕府は今後皇位継承に関与しないから、践祚・立太子ともに両統の和談によって決せられたいと申し入れました。これが文保の御和談です。しかし紛争が解決されるはずはなく、幕府の案によって、両統交互に良太子を立てることになりました。
2024年04月09日
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御家人の所領を保護する必要に迫られた幕府は、一二九七(永仁五)年徳政令を発布して、御家人所領の質入・売買を禁止し、すでに売却された土地は無償でもとの持主に取戻させ、また金銭貸借に関する訴訟はいっさい受理しないことにしました。しかし、この徳政令も、翌年には廃棄せざるを得ない状態で、幕府の力は、とうてい御家人の窮乏・零落を救済することができないところまできていました。その反面、有力な御家人のなかには、弱小御家人をその支配下に吸収して、幕府との関係においては対等の立場にあるものを、自己の被官とするものが生れてきました。これには、南北朝・室町時代の守護制の出発点としての意義が認められます。
2024年04月08日
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得宗専制の強化と内管領の抬頭は、外様(とざま)と呼ばれた一般御家人との対立を生じ、時宗の死を機として、一二八五(弘安八)年の霜月騒動となって現われました。これは幕府草創以来の名家である安達泰盛と内管領平瀬綱との衝突ですが、泰盛は敗北し、その一族はことごとく滅ぼされました。これは単に泰盛と頼綱との衝突というばかりでなく、得宗勢力の興隆を意味し、他面、得宗が一般御家人から孤立し、その没落を早める一因にもなります。また、幕府存立の基盤をなす御家人の窮乏・零落が、幕府の衰亡をうながす大きな要因でもあります。当時一般に慣行された分割相続制は、代を重ねるごとに御家人の所領を狭小にしたが、蒙古の来襲と戦後の警備の負担は、御家人の経済状態をさらに窮乏に追いやりました。これまでの内乱とちがって戦功の恩賞を幕府に要求しても、没収地がないので幕府は、それに応ずることができません。また貨幣経済の進展は、荘園や名田の領有に基礎をおく御家人の経済生活を動揺させ、父祖伝来の所領を非御家人や高利貸に売却するものが多くなり、御家人の零落は年を追って著しくないました。
2024年04月05日
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1333年7月4日(元弘3年/正慶2年5月22日)に、元弘の乱で鎌倉幕府を打倒した後醍醐天皇が、7月17日(和暦6月5日)に「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始したことにより成立した建武の新政でしたが、鎌倉幕府においては、蒙古の来襲を契機として、北条氏得宗(家督)の独裁専制が強化されていきました。時宗は、外戚や得宗の被官(御内人:みうちぴと)をその私邸に集めて寄合を開き、それを従来の評定衆の合議制に代る奨質的な幕府の政務決裁機関としました。それとともに、評定衆・引付衆あるいは諸国の守護職等の要職を北条氏一門に集中して、得宗の強い統制下におき、また侍所頭人・御恩奉行など、地位は低いが奨質的に重要な機関に得宗の被官を配しました。こうして、得宗専制は時宗から子良時、孫高時に至ってしだいに強化され、幕府の最高権力は、執権の地位よりも、むしろ北条氏の得宗たる地位に附随することになりました。それを背景とする得宗被官たる御内大の頭は、侍所頚人となって内管領と呼ばれ、大きな権勢を扱うようになりました。
2024年04月04日
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元の世祖フビライ・セチェン・ハーンがつくった北モンゴルから南シナ海におよぶ帝国は、元朝の中国に君臨した最後の皇帝である恵宗トゴン・テムル・ハーン(順帝)の治世にその組織が完戊し、一三六八年から元朝にかわって支那を支配するようになった明朝によって、その政治・経済制度が継承されました。明の太祖洪武帝(在位一三六八~一三九八年)は、社会の最下層の貧民、それも乞食坊主から出発して、白蓮教の秘密結社の内部の階段を一歩一歩のぼりつめ、四十一歳でついに皇帝になりました。明時代は、政治制度の発達でも重要な時期ですが、皇帝(国王)の独裁がしだいにつよまっていきまたう。つぎの清の時代には、皇帝の独裁がますますつよまっています。宋時代に生まれた市民社会の芽は、こうして開花することなく現代をむかえるわけですが、この点が、その後の支那を停滞させた一つの要因になっています。
2024年04月03日
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西方では、チンギス=ハーンの孫のフラグ=ハーンが一二五八年にバグダドを略奪し、ついに東部のアッバス王朝にとどめを刺しました。フラグ=ハーンは、タブリーズの南カにあるアゼルバイジャンのマラガに観測所を建て、天文学者だった大臣のナシル=アル=ディンに監督させました。マラガでは、約四〇万巻の蔵書が集められ、支那やスペインのような遠方の各地から天文学者を招聘し支那からは傳穆斎(ふぽくさい)が、アンダルシアからはアル=マグリビがやってきて支那人とウイグル人との暦に関する論文を書きました。一二年問の観測後、イル・ハーン表がナシルーアル=ディンとその輩下の天文学者たちとによって公表されました。タブリーズでは、一二九四年には、支那文字とアラビア文字とのはいった紙幣が印刷され、それからしばらくして、ペルシャ大の医者ラシード=アルーディン(約一ニ四七ー一三一八)は、支那人の印刷法をくわしく説明しました。タタール人の科学の最後の活動は、一四二〇年におき、チムールの孫のウルグ=ぺグ(一三九四-一四四九)によって観測所がサマルカンドに設立されたのです。ここでは、ヒッパルコスが研究した星の位置が新たに図示されたが、これらの観測は、第一六世紀のティコ=ブラーエの時代以前におこなわれたこの種のすべての観測のうちでもっとも正確です。
2024年04月02日
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火薬と火器は、蒙古人の手をへて西欧に達したと考えられます。印刷についても技術的な細目は別としても、この径路で西欧に達したのです。ある時期に支那で印刷されたカルタが、蒙古人の侵入後まもなく西欧にあらわれましたし、カルタが東方起源であることは認められているからです。手押し一輪車と鉄の鋳物もこのころ西欧にあらわれていますが、この場合は、別個に発展したものでしょう。また逆に、蒸溜アルコールと眼鏡とは、一三世紀に西欧から蒙古人をへて支那に達しています。蒙古人は、支那の文明をそっくりそのままうけつぎ、当時おこなわれていた学者による行政制度を利用しましたが、マルコ=ポーロのような外国人も高い地位につかせました。かれらは北京に観測所を設け、その土地の支那人と西方からきた回教徒を職員にしました。使用した器具のいくつか、とくに大きなアーミラリー天球と四分環とは、なお現存しています。パリには、表題のページにアラビア文字と支那文字とを記した一つの論文が保存されていますが、この著作は、サマルカンドのイブン=アラマドが北京で蒙古の後援者のためにつくった一組の太陰表でした。
2024年04月01日
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