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これら四つの体制上の区別が明白になってくるのは、一九世紀の中ごろ、ちょうどペリーとのあいだで日米和親条約が成立した時期です。日本は、一八三九年からの前哨戦をふくむアヘン戟争の情報を刻々と手にいれ、幕閣がその対応と冷静な判断に全力をかたむけていました。敗戦の結果である南京条約の意味、さらには後続の清米間の望履(ワンシア)条約や清仏間の黄浦(ホアンプー)条約など、国際法でいう最恵国待遇(それが条約に明示されると最恵国条項となる。列強間で条約上の権益が共有でき、条約国にはその喪失する条約上の不平等が加重されるという片務的な条項)が実際に機能していることも知りました。アメリカないしロシアとの条約を先行させるという方法も、当座しのぎの無策な対応ではなかったのです。
2025年04月25日
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まず①列強とはなにか――列強(powers)とは、自国の船により世界のどこへでも到達できる力をもって、それを保護するだけの海軍力を有する「海洋国」です。世界では、「超大国」イギリス、日本と長く親交のある「老大国」オランダ、「新興国」アメリカとロシア、そして日本には直接の意図をもっていなかったフランス(上記の分類でいえば当時のフランスは「老太国」)の五カ国であり、あえて追加すれば過去の栄光をひきずるポルトガルとスペインです。②植民地とは――、列強の対極にあり、立法・司法・行政の三権をすべて喪失した体制です。一八世紀の後半から植民地は急速に拡大し、アジアではインド、インドネシアと広大な領域がくみこまれ、さらに一八一九年からはシンガポール、一八四二年のアヘン戟争の結果の南京条約(一八四二年)により香港が植民地となりました。③条約国の二分類――列強は植民地にできない諸国にたいして、条約によって拘束するという方法をとりました。南京条約が、その最初の事例で立法権はそのまま残り、行政権・司法権の一部を喪失しました。香港を植民地としましたが、清朝のそのほかの広大な領域までを植民地とすることはできず、その領域にたいしては条約の不平等を押しっけることで対処しました。④「条約国」と一括することができない部分は条約の発生根拠で、その根拠の相違により不平等性は明らかに相違します。戦争の敗北に結果した「敗戦条約」と、戦争をともなわないで条約締結にいたった「交渉条約」とに区別する必要があります。常識からみても、敗戦の結果の条約と、なんらの発砲もともなわないで成立した条約とで、その内容(不平等性)が異なるのは当然です。
2025年04月23日
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早急に武備の充実を計るには、一時的にも外国との交易を行って、近代的な艦船や大砲を入手する必要があります。しかし、それが鎖国政策によって禁止されています。自分で自分の手を縛りあげて身動きができない状態をつくりだしていたのです。そのことに、多くの為政者が気付いていないのです。ロシアと本格的交渉に入る前に、阿部正弘は大船建造解禁の問題を、老中首座の責任で決着をつけることを決意しました。大船製造は正弘自身が長年考え続けてきたことでした。正弘は、老中首座になって二年目を迎えた弘化三年(一八四六年)七月に、大型軍艦を製造する儀を老中評議に提出し、軍艦製造の急要を唱える文章を自ら起草しています。
2025年04月22日
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正弘はその頃、鎖国政策の矛盾に一番頭を悩ませていました。鎖国政策は、日本の泰平無事と幕府自身の安泰を願う政策です。そのため、幕府は努めて諸藩の勢力を弱くすることに意を用いてきました。幕府は、長年兵備は無用とする政策をとってきたのです。その結果、幕府の兵備も手薄となり、外夷から江戸表をも満足に防備できない状況なってしまいまし。鎖国政策を行うには、強力な武力が必要だという認識を、幕府がもってこなかったのです。正弘自身にもその認識が不足していたことは反省せざるをえません。その点、水戸藩主徳川斉昭は、若い頃から兵備充実の必要性を主張してました。彼は武備充実を力説するあまり、当時の幕府から嫌疑をかけられ、謹慎の処分を受けています。外国から圧迫を受けるようになって、幕府も諸藩も武備の重要性を認識したが、時すでに遅そしでした。
2025年04月21日
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論議を続けているうちに、海防掛に注目すべき建白書が仙台藩の儒者大槻磐渓(ばんけい)から寄せられました。磐渓は蘭学者だった父玄澤(げんたく)の影響を受け、儒学者にもかかわらず、世界の情勢に明るかった。磐渓は、刮目(かつもく)に値する意見を述べている。「まずはロシアとの交易を許し、ロシアとの交易によって日本の工業を盛んにし、大船製造の禁を解いて、軍艦兵器製造の業をおこすことが大事であります。それには国法を鎖国以前に戻して、天下の耳目を一新すべきことが肝要と存じあげます」正弘は、磐渓の建議を読んで、先般諸大名に諮問した折の彦根藩主井伊直弼の意見を思いだしていた。直弼もジャワとの交易を盛んにし、大船製造の禁を解くべきだと、主張していた。ロシアとの交易を許すとは、老中首座として軽々に言いだすことはできませんが正弘は、大船製造の禁は早急に解くべきことだと判断しました。
2025年04月18日
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正弘は、老中評議と海防掛会議終了後、海防参与の徳川斉昭に対し、ロシア国書受取りに関する公文書翰を認(したた)めさせました。それには、五老中の連署があり、さすがの斉昭も反対はできません。しかし、慎重な正弘は公文書翰に、なにかご意見があれば、明日までにお聞かせくださいと記しておきました。斉昭から別段の反応はなかったので、正弘は、八月三日付で、長崎在勤長崎奉行大澤豊後守乗哲に対し、ロシア国書受領を許可する旨の書状を送りました。当時の幕府としては、異例に早い決定でした。八月十七日に正弘からの書状を受け取った大澤豊後守は、八月十九日に長崎奉行所西役所で、ロシアの使者からロシア首相の親書を無事受領しました
2025年04月17日
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ロシアのネッセルローデ首相兼外相の親書は江戸城に未着だが、八月上旬から海防掛は対ロシア交渉の論議をはじめていました。親書の内容は、長崎奉行の書状で明らかです。議論を重ねていくうちに、幕閣のオロシャ熟も幾分冷め気味になりました。ある日、浦賀奉行の戸田伊豆守の上申書が海防掛会議の席上、披露されました。「あるアメリカの海軍士官が当奉行所の与力香山に打ち明けた話を紹介しておきます。近くロシア艦隊が日本に来航してくる。ロシア艦隊は、アメリカの対日交渉の機に、表向き日本のために応援をする姿勢を見せるかもしれない。実は、それは日本をうまく手に入れようとする謀計である。西洋の格言に、(紅く美しい蓄薇の花には刺がある)というのがある。ロシアと交渉する際、この格言を思いだして、用心することを忠告するという話でありました。念のため、右の件をご報告申し上げて、充分注意なされるようお願い申し上げる次第であります」。この戸田伊豆守の意見も一応検討されましたが、海防掛の空気は、アメリカの話にも刺があるという話になって、本格的な議論には発展しませんでした。
2025年04月16日
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老中評議の後、正弘は海防掛会議を召集しました。そこで正弘は、在府長崎奉行の水野筑後守に命じ、ロシア艦隊の長崎来訪の儀とロシア艦隊司令長官プチャーチン提督の丁重な交渉態度を紹介させました。その後でロシア国書受領の老中評議の決定を伝えた。海防掛の面々から、期せずして「おやおや」と驚くような声があがりました。開国やむなしと考えていた海防掛であっても、ペリーの日本を威嚇する態度には、かなり不愉快な思いをしていた折です。プチャーチンの紳士的な交渉姿勢は海防掛全員に歓迎されました。「これは夷(えびす)をもって夷を制する妙策でありますな」海防掛の面々は、プチャーチンの態度を高く評価しました。中には、「日魯同盟」を口にする者もいたほどでした。ちなみに当時の人はロシアのことを魯西亜と書いて、オロシャと呼んでいました。アメリカは亜墨利加と書いたが、決してオアメリカとは呼びませんでした。心情的にロシア人に好意をいだいていたのです。
2025年04月15日
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老中首座伊勢守阿部正弘は登城すると、すぐに海防掛の川路聖謹(としあきら)を招き、「さきほど、長崎奉行の水野殿がこの書状を届けにこられた。まずお読みいただきたい」「オロシャの提督はペルリとはだいぶ人柄が違いまするな」当時の人は、ロシアのことを一般的にはオロシャと呼んでいました。川路もプチャーチンに好感いだいた様子でした。「伊勢守様、オロシャの国書は速やかに受領したほうがよろしいと存じます」「国書受領後の交渉はいかがいたす」「それは長崎で、相手が根負けするまで長々と行えばよろしいでしょう」「今のところ、オロシャの黒船は羊のようではあるが、怒ればいつ狼に変ずるやもしれず、国書の受理は急ぐことにいたしましょう」正弘は、牧野と相談して、すぐに老中評議にかけ、とりあえずロシア国書の受領だけは速やかに行うことを決めました。
2025年04月14日
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豊後守は、直ちに在府長崎奉行の水野筑後守と老中首座阿部伊勢守に書状を認めました。ロシア艦隊司令長官プチャーチン提督の丁重な申入れに免じ、ロシア首相の親書を受理してほしいと懇願しました。その書状で、大澤は、プチャーチン提督以下ロシア海軍士官の応接態度に感銘を受けたことを、やや誇張して書き、次のような文章までつけ加えています。「ロシアの態度は、日露共同してアメリカと一戦交え、皇国の防衛に助力を惜しまぬようにみえ候」伊勢守阿部正弘は、長崎奉行ほどロシアに甘い期待はいだきませんでしたが、それでもプチャーチンの低姿勢な態度に安堵しました。ロシア艦隊に強硬姿勢をとられると、それこそ幕府は前門の虎と後門の狼に挟み撃ちになるところでした。ロシア艦隊が今のところ狼でないことを聞いて、一安心したわけです。
2025年04月11日
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翌八月十日(嘉永六年七月十八日)朝、プチャーチンは、全艦隊に警戒態勢に入るよう命令し、伊王島沖を抜錨しました。伊王島の西北端の真鼻岬沖を大きく右に迂回して、昼過ぎに長崎湾口に浮かぶ高鉾島の沖合に投錨しました。長崎奉行大澤豊後守は、奉行所の応接掛馬場五郎左衛門を旗艦パルラダ号に派遣して交渉させた。ロシア側の応対は丁重でかつ紳士的でした。馬場と会見した艦隊参謀長のポシエート海軍少佐は、次のような申し出を行った。「ロシア国首相の書翰を持参しましたので、是非この苦翰を江戸の幕府にお届け願いたい。書翰の内容は、1.日露間の国境を定めたいこと、2.日露間の交易と開港を要望することの二点です。鎖国についての日本の法制はよく理解しており、尊重したいと思います。同時にロシア側の要望もお聴きいただきたく、ペテルブルグから遠路はるばる長崎に参上した次第であります」馬場は、ロシア側の低姿勢な応接ぶりに気分をよくし、長崎奉行に好意的な報告をしました。大澤豊後守は、ペリー艦隊の高飛車で強圧的な交渉姿勢を聞いていただけに、プチャーチン艦隊の態度に好感をもちました。
2025年04月10日
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「それは相手の出方を見た上で決めるつもりだ。しかし、レザーノフのように、なんの成果もあげずに長崎を去ることは絶対にしない。アメリカ艦隊はかなり強硬姿勢で対日交渉を行うようだ。ロシアは強硬姿勢をとらずに、紳士的な態度で交渉し、日本人から好感をもたれるようにしたい。しかし、日本からいただくお土産は、アメリカとロシアで平等でなければならない」「それを聞いて安心しました。今夜はゆっくり休むことができると思います」「ペリーが進んで悪玉を買ってでているのに、プチャーチンがそれに輪をかけた悪玉になる必要はないだろう。ロシアはできる限り善玉の役を演じたい」「善玉で悪玉と同じ分け前をもらえるなら、結構な話ですね」。提督と艦長の夕食会は、屈託のない笑い声でお開きになりました。
2025年04月09日
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八月九日の夜、プチャーチン提督は、パルラダ号艦長ウンコフスキー少佐と、水いらずで夕食を共にし、語り合いました。「艦長、十カ月に及ぶ大航海、ほんとうにご苦労だった。無事に長崎に来られたのも、君の巧みな操艦術のおかげだ。改めて感謝する」「いや提督の優れたリーダーシップのおかげですよ。艦長以下四百八十五名の乗組員全員が提督を尊敬申し上げております」「それを聞いて、たいへん嬉しい」「私も提督がお喜びになっているお顔を拝見して、非常に嬉しく思います」「明日から、長い交渉に入ると思うから、今夜はゆっくり休むことにしよう」「提督、休む前に一つ質問させてください。提督の日本との交渉スタンスをお聞かせください」。
2025年04月08日
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ロシア艦隊が父島からそのまま直行して浦賀に向かっていたら、幕府が江戸城で諸大名に意見を聴取していた六月末頃、ロシアの黒船四隻が江戸湾に出現したことになります。しかし、プチャーチン提督の日本に対する姿勢は丁重で、ペリーよりも紳士的でした。プチャーチンは侍従武官長を務めたこともあり、貴族(伯爵)でもあったので控え目に事を処する美徳の持主でした。そして、それがプチャーチンのはじめからの作戦でした。ロシア艦隊は、父島から航路を北にとることなく、西に向かったのです。九州南端の大隅海峡を通過して、八月九日長崎港外の伊王島沖に停泊した。
2025年04月04日
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結局、ロシア艦隊が後になって、パルラダ号はインド洋の玄関口ケープタウンに一八五三年の三月十日に入港しました。先のカラス(黒船)ミシシッピ号の入港は一月二十四日であり、すでに一ヶ月半の遅れです。インド洋に入ると、偏西風の追風を受けて、帆走艦の船足はアップしました。パルラダ号はジャワ島のバタビヤに寄って、日本の情報を入手しその後、シンガポールに五月二十五日に入港しました。ミシシッピ号の入港は三月二十五日なので、二ヶ月の遅れです。その後パルラダ号は香港に向かい、香港から小笠原諸島の父島に航進、七月二十五日カムチャッカ方面から来航した僚艦三隻と合流します。僚艦はイギリスから購入した蒸気艦ヴオストーク号、帆走艦のオリーヴツア号と運送船メンシコフ公号の三隻でした。
2025年04月03日
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メンシコフは、プチャーチンに対し、いかなる交渉も平和的に行い、諸外国との紛争は極力避けるよう命じました。当時のロシアは、トルコ政策をめぐって、英仏両国と外交関係が悪化しており、アジアでロシア艦隊が不必要なトラブルに巻き込まれないよう、注意を与えたのです。プチャーチンを乗せた大型帆走艦パルラダ号は、一八五二年十月七日(嘉永五年九月七日)、晩秋の気配が漂うペテルブルグ郊外のクロンシュタット港に抜錨しました。ペリーは十一月二十四日にノーフォーク港を出航しているので、ペリーより四十八日早い船出でした。しかし、パルラダ号は旧式の帆走艦で、十月三十一日にイギリスのポーツマス港に入港後、長い航海に備えるため、大幅に艦の修繕を行い、二カ月余をポーツマスで過ごしてしまい、同地を出航したのは一八五三年一月六日でした。
2025年04月02日
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ロシア政府は、アメリカの後塵を拝することを恐れ、四月に極東政策特別委員会を結成し、五月にプチャーチン海軍中将を通日全権大使に任命しました。アメリカに対抗できる遠征艦隊を編成、日本との三度目の外交交渉を行うことにしました。当然ニコライ帝は、この政府案決定を歓迎、直ちに裁可しました。プチャーチンは、自分の進言が容れられたことは嬉しかったが、アメリカ艦隊のように近代的な強力艦隊を編成できないことが残念だとおもっていました。しかし、その一方で、長年にわたる対日交渉の経験を活用すれば、対日交渉でアメリカ艦隊に遅れをとることはないという自信もありました。一八五二年八月十三日、メンシコフ海軍総司令長官からプチャーチン提督は訓令を受けました。対日交渉と並んで、アジアとアラスカ方面の情報収集、近年とみに増加してきた北太平洋の外国捕鯨船団の活動状況の報告を命ぜられたのです。当時、北太平洋で操業中のアメリカ捕鯨船は七百隻を超えていました。
2025年04月01日
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