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一方、西欧ではルネサンスから科学の応用の実用の時代が始まりました。科学の確実な応用の場として航海者が要求したのが天文学と航海術です。これは古代から、占星術と暦の作製に奉仕して活動してきた分野です。また、機械の発達のなかで力学が要求され、砲術の発達のなかで動力学という科学に要求されました。それ以来科学は確実な地位を得ました。それは最ももうかる事業――商業と戦争――になくてはならないものとなったのです。その後科学は、商工業や農業や、医療に応用されます。ルネサンス全体の重要性は、それが封建制度の中世の経済・政治・思想からの脱出を画したことにあります。建設的な業績の大部分は将来にまたねばなりませんが、過去へ戻ることはありませんでした。
2025年06月30日
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儒学を見れば江戸文明が、健全な日本文明の特色を具備していたのは、明らかです。当時の知識人である武士というものを形づくつてゆく原理となった日本独自の発展を見た儒学は、支那の儒教をもとにつくりあげたものですが儒学も国学も、人生いかに生きるべきか、あるいはこの世はいかにあるべきかを考え、その答えを求める「武士道」の成立でした。江戸文明史の本当に重要な貢献です。日本では、儒学や国学によって、武士道は個人倫理をつくりあげ、指導者にとって不可欠な高い理念を用意し、日本文明の基本的なかたちに沿って、近代社会にも適合する国民道徳の基盤の一つを、民族の原型である侍の姿の中につくりあげたのです。
2025年06月27日
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一七七〇年代前半は、錦絵が流行し、日本文化の百花斉放がくりひろげられます。杉田玄白らが『解体新書』を翻訳・出版して蘭学をおこし、三浦梅園がヘーゲルにさきがけてヘーゲルの弁証哲学と同等の哲学体系を完成し、本居宣長の国学が注目されました。さらに一七八〇年代になると、教育の普及が急速にすすみ、初等教育にあたる寺子屋がふえはじめます。また、武士と庶民が共学する塾という、より高度な学校も出現しました。以前、武士は藩校で教育され、庶民は寺子屋しかいけなかったのですが、土庶共学の学校があらわれその教育内容は、しだいに高度なものになっていきました。このような教育の普及によって、幕末には、日本の初等教育水準(男子と女子の読み書き能力がおのおの四五パーセントと一五パーセント)は、一九世紀の最先進国であるイギリスを追いこしていました。
2025年06月26日
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江戸の人口は、一六三四年(寛永一一年)に約一四万八〇〇〇と記されていますが、一八世紀の.一七二一年(享保六年)には五〇万を突破し、大阪をしのいでいます。ただし当時の人口調査では少年・幼児をかぞえていませんので、この数字には一五歳以下の少年・幼児はふくまれていません。また、当時の汀戸の武家人口も五○万に達すると見つもられており、一八世紀半ばには、江戸の人口は一○○万をはるかに突破していたことになります。それは、そのころのパリやロンドンの人口をしのいでいました。
2025年06月25日
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すでに一七六〇年代末から錦絵が流行し、出版界が活気づいていましたが、一七七一年に本居宣長の『直毘霊』があらわされて、国学が一つの頂点に達し、一七七四年に杉田玄白らが『解体新書』の翻訳をおえ、「蘭学」という新しい学問(近代西洋科学)をはじめました。また、一七七五年には三浦梅園が『玄語』という、日本のほこるべき弁証哲学を完成させています。おなじころに文学も芸術もいっせいに興隆したのです。一七七〇年代は田沼意次が実権を掌握していたときで、年代は安永だったので、この時期の学芸の百花斉放を(安永百花斉放)とよぶことができます
2025年06月24日
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このような江戸を中心とする都市の発展は、じつは一八世紀の日本の商工業が、いちじるしく発達していたことを意味しています。その一つの例ですが、一七五○年代には、すでに日本には初期資本主義の生産様式があらわれていました。たとえば、そのころ関東の桐生地方の絹織物の生産では、一軒で一〇台あまりの織機をもつ織屋がいくつか存在していました。ひとり台の操業ですから、一軒に一〇人あまりの奉公人がはたらいていたことになります。このような生産様式を「マニュファクチャー」といいますが、これは一八世紀はじめのイギリスでよくみられたものです。一七七〇年代になると、商人の勢力がかなりつよくなり、武士の支配というのはしだいに形式的なものになっていきます。そしてそのような経済の繁栄を背景にして、文芸が花ひらきました。
2025年06月23日
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衣類や茶や紙の生産が活発になり、これらの消費がさかんになります。商品流通が発達しはじめたのです。そこで、商品生産と流通をつかさどる新興商人があらわれ、日本の社会は、それ以前の単純な封建社会から脱皮しはじめました。大都市では、商業によって繁栄する豪商があらわれ、都市が発展すると町人の文化がさかえるようになりました。町人文化というと、一七世紀末の元禄時代を連想しますが、元禄時代の町人文化は関西にかぎられ、まだ当時の町人の勢力は、それほどつよくありません。一八世紀半ばから、江戸が人阪をしのいで繁栄するようになり、一八世紀後半(とくに.一七七〇年代前後)に、関東と関西の二つを中心に、元禄時代よりはるかにスケ一ルの大きな町人文化がさかえたのです。
2025年06月20日
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江戸時代の平和な環境のなかに、日本の農業はいちじるしく発展をしていました。まず、一七世紀(江戸時代の最初の百年間)に米の収穫高が約一倍半も増加しています。豊臣時代の文禄元年(一五九二年)には米の収穫高が一八四六万石でしたが、その百年後の元禄年間(一六八八~七〇三年)に、年収二五七七万石に増大していました。一八世紀にはいりますと、米の収穫高はそれほどふえていませんが、より重要なことは、米以外の農作物の生産がいちじるしく増加していったことです。菜種・綿花・茶などの栽培がさかんになり、これらの農作物は商品として売買され、それを加工する工業も(綿から綿織物をつくることなど)、しだいに活発になっていきました。
2025年06月19日
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日本では、江戸時代にはいってから表面的には内戦がなくなり、平和な状態がつづきました。そのため一七世紀に農業はかなり発展し、米・綿・茶などの増産にささえられて、城下町の文化はしだいに発達しました。もっとも注目されるのは江戸と大阪の発展です。一七世紀の元禄時代には、大阪を中心に文化がさかえましたが、一八世紀なかば以後になると、江戸が大阪をおいこしています。そして、一七七〇年代になると、江戸・大阪を中心に町人文化がはなばなしく開花しています。
2025年06月18日
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ナポレオンは一八一一年、ロシアに侵入し敗退します。この敗戦を聞いた西欧の国ぐには、フランス(ナポレオン)に対して反乱をおこしました。そしてナポレオンは戦いにやぶれ、地中海のエルバ島へながされます。ナポレオンは、西欧諸国をせめはしましたが、諸国民に自由への情熱を鼓吹しました。しかしその結果、諸国の人びとは祖国解放のために、逆にナポレオンに抵抗することになったのです。エルバ島へながされて一年後、ナボレオンは再起をはかり、エルバ島を脱出して、パリへすすみ、一時は政権を手にしました。しかし、ワーテルローのたたかいで連合軍にやぶれ、大西洋の孤島セント・ヘレナ島にながされ、そこで波乱の人生をおわりました。
2025年06月17日
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ナポレオンは、一七六九年に地中海のコシカ島で生まれフランスの陸軍上官学校をでて、フランス革命のときは中尉でした。革命後のフランスは、外国軍の侵入により自由・平等の革命理念がつぶされそうになり、革命政府内の勢力争いや、王党派の抵抗など内乱がありみだれていました。ナポレオンは一七九二年と九五年に王党派の反乱を鎮圧した功により、イタリア遠征軍司令官に任命されました。一七九六年北イタリアの侵略に成功し、しだいに権力を獲得していきます。その後、革命理念をつたえるという理由で、西欧の国ぐにをつぎつぎに攻略しました。一九世紀初頭に「ナポレオン法典」を作成し、フランス革命の自由・平等 の諸原則が体系のなかにくりこまれ、革命の理念が実践されるようになりました。
2025年06月16日
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フランス革命は一七八九年におこりました。革命のきっかけは、フランス王室のぜいたくから国家財政が危機にひんしたところへ、一七八八年、凶作に見まわれ、その影響をうけた国民が、不満を爆発させたのです。しかし、イギリスの市民革命より徹底した平等を主張したために、その主張をおそれた西欧各国の政府は(ほとんどが王制でしたが、立憲君主制のイギリスまでもが)、フランス革命に干渉し、軍隊をおくってフランスへせめこみました。これにたいし、フランス軍は反撃にでます。ナポレオンは、フランスが全西欧諸国を相手にたたかわなければならなかったときにあらわれた英雄でした。
2025年06月13日
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ボルテールにつづいて、フランスの最大の知識人はルソーです。ルソーは一七五五年に「人間不平等起源論」を書き、文明の発達にともない人間の自由がうばわれて不平等が生みだされたと主張し、文明の進歩にたいしてはげしく断罪をくだしました。そして、いまのように国王、貴族、僧侶の権力下にある社会は、全面的に変革しなければならないと、はげしい口調で主張しました。ボルテールやルソーをはじめとする、先駆者の変革の思想は、フランス人に大きな影響をあたえ、やがて新興商工業者(ブルジョア)を中心とする革命がおきました。
2025年06月12日
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イギリスで市民革命が成功してのちも、フランスでは国王の力がつよく、国王による独裁政治がつづいていました。しかし、一八世紀に多くのフランスの知識人が、独裁政治にたいしてたたかい、一八世紀末にフランス革命が成功しました。このとき重要な役わりをはたしたのがボルテールで、かれは一七三四年に『イギリス書簡』を書き、イギリスをまねてフランスの社会も改革しなければならないとうったえました。そのなかで「イギリスが政治上の自由を確立するまでには幾多の犠牲がはらわれている。専制政治の偶像を海底にしずめるためには、血の流れの海が必要だった。」と書いております。
2025年06月11日
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アメリカが独立したとき、その国土はまだ東海岸に近い東部十三州のみでしたが、一九世紀のうちに、アメリカ人は西へ西へと進撃をつづけ、一八五○年ごろに、ついに太平洋岸まで到達しました。その拡張は、開拓・戦争・征服によって得られたものです。開拓は、未知の土地をきりひらくアメリカ人のパイオニア精神によるものであり、戦争とはこの場合、他の国(キシコなど)から領土をうばいとる(フランス領、メキシコ領を併合)ことを意味しています。そして征服とは、インディアンを(卑怯な手段をつかって)力で征圧することです。いずれにしても一九世紀に、開拓・戦争・征服によってアメリカが大きく発展したことは事実です。一八世紀(後半)の西欧世界におけるもう一つの大革命はフランス革命です。アメリカの独立革命が(その宣言文からもわかるように)イギリスの市民革命の影響を大きくうけているのとおなじく、フランス革命も一七世紀のイギリス市民革命の波及によるものです。
2025年06月10日
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アメリカの独立宣言文の最初に、つぎのように記されています。「われわれは自明の原理として、すべての人は平等につくられ、造物主によって、一定のうばいがたい諸権利を賦与され、そのなかに生命、自由、および幸福の追求がふくまれていることを信ずる。」 これはその百年前のイギリスの市民革命の精神的根拠となったジョン=ロックのことばを、ほとんどそのまま引用したもので、ロックが「生命・自由および財産」とのべたのを「生命・自由および幸福」となおしたのです。
2025年06月09日
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一八世紀の西欧は、一七世紀のイギリスにおこった市民革命が各国にひろまっていった時期です。注目されるのは、アメリカの独立(1770年代)とフランス革命(一八世紀末)です。アメリカには一七世紀はじめ以来、自由と発展をもとめた多数のイギリス人などが移住し、一八世紀半ばに、すでに数百万のイギリス人がアメリカに居住していました。ところが、当時イギリスはアメリカを自分の植民地のようにとりあつかい、アメリカ人にたいする干渉をつよめ、税金の徴収が多くなっていました。しかし、一七七〇年ごろになると、このイギリスの政策に反抗して、まず少数のアメリカ人が立ちあがりました。最初は情勢が不利でしたが、しだいに多数のアメリカ人が革命側につき、また、フランスなどの援助を得て、一七七六年にアメリカ人はついに独立を勝ちとることに成功しました。一七七六年といえば、いまから約二百年ちょっと前のことです。
2025年06月06日
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大東亜戦争の戦後の時期に、日本の戦争責任の問題もからみ、日本とその他アジア諸国とのあいだに、近代の「共通性」をもとめる力がはたらいて、再度この条約の不平等性が強調されました。その場合、アジアの多くの諸国は植民地となっていたので、理論的には植民地にはならず条約を締結した国(条約国)は支那・朝鮮・シャムの締結した条約との比較が唯一の意味をもちます。ですが、その種の比較論はほとんどなく、植民地と条約国との比較さえありません。しかし、「敗戦条約」と「交渉条約」の区別を強調し、相対的には日本の締結した条約の不平等性は国際政治のなかではいちばん弱かったことはたしかです。
2025年06月05日
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不平等条約説は、これまで述べてきた日米和親条約とその四年後に締結された日米修好通商条約とをあわせて論じられてきました。なお最恵国待遇(条項)がいきていたため、そのほかの列強との条約も上記ふたつの条約以上にはなっていないので、理論的には、この二つの条約を検討すればたりるはずです。条約改正をもとめる明治政府の立場から、過度にその不平等性が強調されましたが、それは現実政治の面ではそれなりの効果を発揮しました。しかし学問上の問題では、なににくらべて、どの程度の不平等性があったか、という検討が必要です。日本では、条約を締結する以前の状態との比較しかありえなくなるが、これは比較のレベルがちがって、比較が不可能です。
2025年06月04日
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日米和親条約の調印は一八五四年三月三一日でしたが、「正文」を何語にするかの話し合いがなかったため、最後の段階で応接掛は外国語文への署名を拒否し、ペリー側をあわてさせました。日本文(応接掛の署名あり)、英文(ペリーの署名あり)、漢文(双方の通訳の署名あり)、オランダ文(双方の通訳の署名あり)の四通の条約文ができましたが、双方の責任者がともに署名する条約文はなにひとつないというかたちで終わったのです。これも応接掛の交渉力のひとつです。ただし、そのままではことは終わりはしません。
2025年06月03日
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ペリーの贈り物にたいして幕府は、米をはじめ反物や漆器類を贈呈し、さらにべリーからの要望により作物の種子や苗も贈りました。贈り物の点では、アメリカ側が、それを条約交渉にうまく利用しました。すぐに、アメリカ側が艦隊に応接掛などを招待して、宴会を催しますが、それは蒸気機関などの見学会の意味ももっていました。料理も最大級のもので、酒も各種ふんだんでした。バンドの演奏もあり、小さな芝居もみせました。この艦隊上の宴会の席で、条約の懸案事項である、どこを開港するかが決まりました。ここでいう「開港」は自由貿易ができる場という意味ではなく、避難港の意味とアメリカ外交官の駐在地という意味で、下田と函館の二港です(いわゆる五港の開港は一八五八年の通商条約によるもので、下田鎖港にかわる横浜開港、そのほか函館、新潟、神戸、長崎の五港です)。
2025年06月02日
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