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西欧科学がなぜ西欧だけに興ったのかという問題に対して易しい問題と難しい問題を切り分けてみましょう。○易しい問題:どのような社会的(あるいはその他の)条件が,科学の発生,興隆を可能にするのか。○難しい問題:科学の思考形式とはどのようなものなのか。それは民族などに依存するのか「易しい問題」に答える「科学が発生する条件」はいろいろと提出されています。
2025年08月29日
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レコンキスタに続く12世紀ルネサンスの後、ポルトガル、スペインの大航海時代15世紀初頭からで、 ほぼ同時代です。西洋一人勝ちの理由を、人種決定論に求めるなどと言う19世紀的言説はさすがにもう見られないが、気候などの環境決定説、大陸の位置関係等(南北アメリカ大陸は太平 洋を渡るより大西洋経由の方が近い)に求める地理決定説、あるいは単にやり直しや実験など出来ない、たまたまそうなった歴史的な事実であるに過ぎないという思考放棄的 意見などいろいろありました。インド-ヨーロッパ語族のように定冠詞を持つ言語は科学的思考を生むという、使用言語に原因を求める説もあります。定冠詞の使用は、そのものであるという高度に抽象的な「そのもの性」すなわちイデアを、日常生活でも無意識的に重点活用しているの で科学の思考に有利だという説です。しかし最近では、西欧がいろいろな意味で東洋を凌駕したのは産業革命後の19世紀に入ってからという意見が多くあります。そういう分析には多方面の知見が関わっているが、ここで科学と西欧ということを考えるために、問題を切り分けてみましょう。
2025年08月28日
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日本人が科学の分野でどれほど重大な貢献をし、新発見をしようとも、そして日本人のノーベル賞受賞者がどんどん増えようとも、さらには各専門領域のグローバルな科学者共同体の中で、日本人の評価が高まろうとも、西欧科学が個人としての日本人にとって自分のものになるの かどうかということです。結果は出せてもその意味が分からないのではないか、という疑念です。これは日本人科学者のみならず、一般の日本人にとっても言えるのです。科学は本質的に文化なので、そういうことを考究するためには、科学がどうして西欧においてのみ興隆したのかという問題を、先ずは考えていかなくてはなりません。それは政治経済を含めた西欧一人勝ち問題でもあるのです。以前よく言われたのは、宦官出身の武将鄭和に1405 年から数度にわたり、ジャワ、インド、アラビア、東アフリ カまで大艦隊で遠洋航海をさせた明の永楽帝の時代まで は、西洋より東洋の方が遙かに進んでいたという話です。
2025年08月27日
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「凡そ科学の目的とするところは叙述にして説明にあらぬとは科学者の白状により明らかなり。語を変えて云えば科学はHowの疑問を解けどもWhyに応える能わず、否これに応ずる権利無しと自認するものなり」漱石もやはり現代の「科学」という言葉とは違った意味でこの言葉を用いているのですが、漱石は自身、長岡と同じようなことを悩んでいました。漱石は1900 年、ヴィクトリア女王の葬儀をその目で見て、ロンドン留学を始めたのですが、1903 年はじめには留学を早期にきりあげて帰朝しています。仲間の留学生からは、漱石は精神状態がおかしくなったなどと言われ、また自室に家庭教師を呼んで英語の勉強をするなど、なんでロンドンまで行ったのかと思うような状態だったらしい。しかし彼は、「日本人である自分が英文学を研究する事」に違和感をもっていたのです。これは音楽演奏家にしても同じではないでしょうか。日本人演奏家が西欧に永住して、コンクールでどんな素晴らしい演奏をして優勝しようとも、音楽になどあまり関心の無い西欧の市民から「なんかちがうんだよね」と言われたら、審査員がどう擁護しようと、返す言葉には説得力ありません。このような事態は、科学においてもあるのではないでしょうか。
2025年08月26日
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長岡は、日本人に科学が出来る か、と悩んでいます。そのため帝国大学の1年生を休学し て、東洋人が科学において劣らないと判断できれば科学をやる。そうでなければ彼にとって本当の学問である漢学か 東洋史をやろうと決めて、その探究をしました。春秋、史記、荘子などを研究して(実際に春秋にある日食や月食の計算もしています)、古代支那は、天文、暦、磁石、エネルギー概念、製鉄、火薬、大砲など西洋に遙かに先んじていたことを確認し、吹っ切れて科学に邁進しました。このエピソードは、科学という言葉を現代の我々が言う 意味とは違う意味で使っていて、技術に当たることを述べ ています。だから東洋人に「技術」はできる、という結論です。技術は文明に属するもので、 科学は文化の範疇です。それなのに、ここを巧みにすり 替えて、普遍的西欧技術というシステムを導入するという建前で劣等感を抱かずに、日本は成功してきました。
2025年08月25日
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西欧の侵略を受けかねない国家非常の時、我々には理解が難しいキリスト教の世界観や感覚を学んでいる余裕は到底ありませんでしたが、この切り離し戦略は明治日本を作るのに対しては成功しました。しかし、本質的理解と感性の共有は到底出来ないのではという苦しみはありました。本当に日本人に西欧起源の事柄が理解できるのであろうか、本質的な何かが生み出せるのであろうかという苦しみです。たとえば、世界的業績を挙げた日本人物理学者で、原子核の土星モデルや磁気ひずみの研究で有名な長岡半太郎がいます。彼はヘルムホルツやボルツマンに師事し、帰朝後、帝国大学教授、理化学研究所物理部長の後、大阪帝国大学初代総長、貴族院議員、学士院長などを歴任しています。本多光太郎、寺田寅彦らの弟子を持ち、さらには湯川秀樹、朝永振一郎 へ続く系譜を拓いた人物です。
2025年08月22日
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近代科学が、なぜ日本では発生しなかったのか。なぜ、支那で、インドで、イスラームで興隆しなかったのか。(イスラームは西欧の一つの源流であるギリシャ思想/科学を、西欧の中世の間保存しそれなりに発展させて、キリスト教徒にとってのイベリア半島回復であるレコンキスタ以降の西欧世界に返したのだが、現代の科学に直接つながるものではありません。)日本では江戸時代の「科学」研究にはいろいろ見るべきものがあるとはいえ、結果的には近代科学を生み出さなかった日本は、明治維新後、西欧科学を、世界観や宗教観、真理を追求する精神性を切り離して、技術だけを導入しました。科学は技術の基礎であるとして導入しました。これを和魂洋才といい、それは殖産興業、富国強兵のための急務であったのです。
2025年08月21日
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ニュートン陣営(クラーク)とライプニッツの間で応酬された、神の立場を巡っての論争もその一部をなすもので、 ニュートンは自身の宇宙論にもそのことを反映させていました。もちろん科学は実証的でなければなりません。G. ガリレイやF.ベーコンの主張したことで、現代でもこれらのことは、「自然を拷問にかけて白状させる(通常の条件ではない極限状態での実験をして真理を発見する)」ことも含め てベーコン科学といわれています。20 世紀によく言われた、自然を支配、制御する科学というイメージの元となる考えです。具体例は、物理学に見られます。たとえば素粒子の標準理論などを思い出してみてください。物質の元であるクォークと力の源泉グルオンで、物質界の存在者を説明します。プラトン的な幾何学的対称性を持ったモデルに対して、量子力学という普遍的でかつ単純な(しかし神以外には真意のわからない)基礎法則を適用して、微視的階層の全てを説明し尽くそうとします。解析力学を見れば、幾何光学のフェルマーの原理とか最小作用の原理など枚挙に暇がありません。量子力 学の経路積分形式もその一種です。
2025年08月20日
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西欧近代科学のこのような思考形式はキリスト教と不可分で、原理とか法則は神が与えたもので法則、すなわち(law)は神によってこの世界に(lay)置かれたものなのです。だからこそ、法則の(積分形 の大域的極大化による)大域的表現が好まれるのです。時間空間を超越した神にとっては、人間にはその場その場での(微分方程式的)局所法則に依存した出たとこ勝負の積み重ねである歴史も、神にとっての価値は、宇宙創世時から最大になるようになっているはずなのです。人間にとってはそれが結果的に予定調和となるように見えるのです。自然法則がそうしたものなら、自然の研究は、それを置いた神の真意を汲み取るという活動です。これが 17 世 紀末~18 世紀の自然神学あるいは理神論です。ちなみ に、神の書かれた二つの書物、その一つが「自然」で、もう一つが聖書です。前者は数学の言葉で書かれていると言われています。
2025年08月19日
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科学は、世界には統一的普遍的法則があり、物事には原因があるという仮説です。そして、法則は数量的に表現され、究極的に幾何学的対称性原理を持つべきであるとの感覚です。また、法則の表現として、局所的表現より、変分原理、極大原理というような大域的な予定調和表現が好まれます。科学の世界認識形式は、世界を階層的に分節化して、さらに諸事は均質化された領域に分節化されますが、その中では上記の単純な原理が支配していると認識されます。これがまさに19世紀の第3四半世紀頃まで科学を支配していた要素還元論です。そもそも「科学」という日本語自体、「科目に分けて学ぶ」という意味です。
2025年08月18日
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「科学」という言葉を広辞苑で引くと「世界と現象の一 部を対象領域とする、経験的に論証できる系統的な合理的 認識」とあります。ちなみに「技術」の方は「科学を実地に応用して自然の事物を改変・加工し、人間生活に利用する技」 とあります。(だがここでは、全く異なった出自、歴史と世界 を持つもので、外国語ならば science and technology のように別物の結合としてしか書けない「科学と技術」を、強いて言えば techno-science とでもなるしかない「科学技術」と、ひと続きで書いて、世界的に見れば特殊な意味をもたせて 用いているという日本の事情については触れないことにします。)
2025年08月08日
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近代科学はなぜ西欧で興ったのか。この問いはこれまで非常に多くの論者によって問われてきました。そしてその確たる答えは未だ得られてません。社会学者 M.ウェーバーが、「プロテスタントの勤勉」が近代科学を生んだと主張した事がよく引用されますが、本当にいろいろな「原因」が 取り沙汰されています。曰く、一神教の考え方、周りに何もない 砂漠では抽象的思考が発達する、古代ギリシャのイデア論 に代表されるヘレニズム的感性とヘブライズムのアマルガム、経済や貿易の諸条件。戦争というインセンティブ、‥‥等々限りがありません。しかし、近代科学の問題は、現代世界に おける西洋の一人勝ち状況の問題と直結する問題であり、等閑視などとうてい出来ない問題です。
2025年08月07日
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当時まではフィロボノスのインピータス説がアラビア人に受けつがれて、パリの唯名論者によって精巧化され、人々に認められはじめていました。大砲を離れた弾丸はインピータス(勢い)或いは活力を与えられて、それがしばらくの問は弾丸が下方へ落ちる自然の性癖を破るとされていました。タルターリャ(一五〇〇-五七年)、ベネデッティ(一五三〇-九〇年)その他が一六世紀にこの説明に手を加えて、弾丸の激しい上昇とその自然の落下との間に円運動を挿入する説を仕上げました。こうしてつくられた混成軌道は、当時の臼砲の弾丸にはある程度の悪くない近似を与えました。しかし、これには、論理的ないし数学的な基づけが全く欠けていました。
2025年08月06日
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ガリレオは、観測によってコペルニクスの方が美的に優れていることが立証されただけでは十分でないと感じました。その正しさを証明するには、そのような体系がいかにして存在しうるかを説明し、哲学と常識が従来それに反対して持ちだした議論を斥けることも必要でした。地球の回転が反対の方向に強い風を起こさずに行なわれることはいかにして可能か、空中に投げた物体がどうして後方にとり残されないのかを説明することが必要でしった。これには自由に運動する物体を本格的に研究することが必要であり、これはすでに大砲の照準の問題と関係して実際上甚だ重要になっていた問題でした。
2025年08月05日
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自分の発見を世に知らせようという試みは、ガリレオにとっては余技にすぎません。彼は新しい観察の真に革命的な面を、これはしまっておくべき知識ではなく、世に広くひろめるべき知識だと感じとりました。一六一○年明らかに科学のべスト・セラーとなる書物『星からの使者』(Sidereus Nuncius)を出版し、その中で彼の観察を簡単明瞭に述べました。それは非常な評判を生みますが、まだ直ちに好ましくない反応にであうことはありません。宗教裁判はその後二四年間起こりません。コペルニクスの見解に対する非難は一六一八年に宣告されたが、それはその見解を天体の運動の数学的表現法としてとりいれることを妨げはしなかった。頑固なアリス上アレス主義者は、天に何があるかは真の理性を使って十分よく知っているからといって、望遠鏡を通して見ることを拒否しました。理性と観測を別々の議論の世界に保っておくことができるかぎり、いざこざは起こりませんでした。
2025年08月04日
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ガリレオは、自分の発見を世に知らせたいと切望し、直ちにこれらの星の領有権を次々とフィレンツェ大公(メディチ家の一員)、フランス王、ローマ教皇へ売ろうとしました。しかしこの三人はいずれも、天上の名誉は高価すぎると思いことわりました。その後、それらの星の運動を海上での経度の決定に利用するというもっと実際的な目的を思いついた時、ガリレオはその秘密をスペイン王とオランダ議会へ売ろうと試みました。この両者はともに経度の発見に賞金をかけていたのですが、まだそれを獲得した者はなかったのです。
2025年08月01日
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