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これまで出版されてきた数々のネット関連書物と 同じような内容だろうと思って読み始めたら、全く違った。 まさに、今年一番の衝撃の一冊。 さすが、岡田尊司さんというところか。 なぜ、この本が、もっと話題にならないのか不思議に思う。 しかし、それがマスコミの実態ということなのだろう。 スポンサーにとって不都合なこと(つまり自身の不利益に繋がること)は、 決して積極的に発信なんかしない。 *** スマホに依存するケースが急増しているが、 男性では、オンラインゲームや動画への依存が多く、 女性では、LINEやフェイスブック、ツイッターといった SNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)や ソーシャル・ゲームに依存する人が多い。(p.34)まぁ、そうだろう。これぐらいなら、驚かない。 ところが、中学生もスマートフォンをもつ子が増えている。 親が子どもにスマホを買い与えるとき、 ちょっと進んだ携帯電話を与えるというくらいの感覚ではないだろうか。 だが、それはあまりにも甘い考えだ。 携帯のメール機能だけでも、はまってしまってなかなか寝ない中学生が続出した。 あらゆる情報通信機能を備えたスマートフォンは、 コンピュータと劇場と通信ネットワークとスロットマシーンが、 掌に与えられたようなものだ。 それを寝床までもっていくのは、ニューヨークのタイムズスクエアかラスベガスで、 煌々と光る電飾看板に照らされながら寝ようとしているようなものだ。(p.37)例えが、これ以上ないくらいにとても上手いが(特にスロットマシーン、ラスベガス)、実態としては、驚くようなものではなく、当たり前のことだ。それを知らないのは、逆に無知としかいいようがない。 線状体は快感の中枢であり、その領域でのドーパミンの放出増加は快感をもたらす。 人であれ、サルであれ、快感をもたらした行為を、繰り返すようになる。 それが依存を生むことにもつながっていく。 わずか50分間のゲームが、 覚醒剤の静脈注射にも匹敵する状態を脳内に引き起こしていたのである。(p.39)精神科医である筆者に脳内画像診断データを提示され、初めて読者は気付くのである。「これは、ひょっとすると凄いことになっているのではないか……」と。 重度のギャンブル依存症では、勝負に勝とうが負けようが、 変動する確率にワクワクする興奮そのものが刺激であり快感となっているのである。 依存症に陥った人の行動を周囲からみると、どうしてそんな行動に、 時間とお金と健康を無駄にしているのかと、ばかばかしく思えるに違いない。 パチンコ依存の人は、平均で年間150万円くらい損をしていると言われている。 20年続ければ、3,000万円だ。 競馬にしても、その期待値(平均的な回収率)は、0.75であり、 100円の馬券を買えば75円しか戻ってこない。 つまり、やればやるほど損が膨らむ運命にある。 それが数学的な真実であり、勝ったり負けたりしながら 最終的には負けが膨らんでいく。 だが、ギャンブル依存の人は、負けてもドーパミンが出続けてしまい、 金銭的な損得よりも、賭けること自体が報酬になっているのである。 そのことを理解すれば、損が膨らもうと賭けつづけることにも納得がゆく。(p.45)ここへ来て、スマホをスロットマシーンやラスベガスに例えた理由が見えてくる。 前述の通り、2013年5月に、アメリカ精神医学会より出された最新診断基準であるDSM-5に、 インターネット・ゲーム依存症が初めて、 「インターネットゲーム障害」として採用されたのである。 異議を唱える勢力の執拗な抵抗に遭いながらも、どうにか多数派を占め、 一定の同意をみるに至ったのである。 最初のゲーム依存の報告から、30年かかったことになる。(p.60)私も、DSM-5関連の書物は、『精神医療・診断の手引き』や 『<正常>を救え』等、何冊か読んでいたが、そのものをしっかりと読んではいないので、「インターネットゲーム障害」については、見過ごしていた。 さらに2012年から、16歳未満の児童に対して、 深夜零時から朝6時までインターネット・ゲームへのアクセスを規制している。 こうした姿勢と取り組みによって、 韓国のインターネット依存症の有病率は低下傾向にある。(p.188)韓国は、相当酷い状態だというのは知っていたが、規制により、何とか最悪の事態は食い止めたようである。 事態を重くみた中国当局は、2007年4月から、 オンラインゲーム依存防止システムを試験的に導入した。 これは、18歳未満の児童が1日に3時間以上プレイした場合は、 それまで稼いでいたクレジット(ゲームをする権利)が半分になってしまい、 5時間以上だとゼロになってしまうという仕組みである。 18歳未満の児童であるかどうかを把握するため、中国ではオンラインゲームをする場合、 本名での登録が義務付けられ、身分を証明する住民登録番号も必要となる。 こうした規制にゲーム会社も協力し、2011年から全面的に実施されている。 また、治療の面でも、中国は世界で最初にインターネット依存を臨床的な障害、 つまり病気として捉え、積極的な対策に乗り出している。 また、インターネット・ゲーム依存となった若者の治療のための 軍隊式の教育キャンプが設置され、そこで多くの若者が実際に治療を受けている。(p.189)中国でも、相当思い切ったことを実施している。まぁ、中国だから出来るのだとも、言えるかもしれないが。 繰り返すが、インターネット依存、インターネット・ゲーム依存を防ぐうえで重要なのは、 親子の関係や、それと直結する愛着の安定性である。 親子関係が不安定で、愛着も不安定な場合には、 家庭内の居場所や家族からのサポートが乏しくなるだけでなく、 家庭外での対人関係にも問題を抱えやすく、 インターネットやゲームの世界にしか逃げ場所が見出せなくなってしまう。(p.210)岡田さんの近著には「愛着」や「家族関係」に関するものが多く見られるが、本著では、それらが見事に一体となって、融合している感じがした。 依存が重度で理性的なコントロールがまったく利かないケースや、 発達に課題を抱えているようなケースでは、 無理に取り上げるとパニックになり、危険な行動を誘発しやすい。 こうした対応は、お勧めしない。 むしろ、依存するという行為には、 そうせざるを得ない理由があるのだと理解した方が良い。(p.230)そして、どのように治療しサポートするかを、豊富な症例を交えながら、段階的に説明している。この部分は、まさに臨床の精神科医にしか書けない部分であり、本著のクライマックスである。(1)関係を作り、安心感を取り戻す段階(2)自覚を芽生えさせる段階(3)背景にある問題を吐露し、整理する段階(4)変化への決意を引き出す段階(5)決意を行動に移す段階(6)現実の活動をサポートする段階親子関係や家庭外での対人関係に問題を抱えている人たちはとても多い。そして、その逃げ場所にインターネットやゲームの世界はなっている。巻末の「インターネット・ゲーム依存症 チェックリスト」では当てはまらなくても、「スマートフォン(スマホ)依存症 チェックリスト」で当てはまる人は、相当数いるだろう。 一旦依存症になると、そこから得られる報酬によってだけでなく、 やらないと生じる離脱症状によって、文字通りにやめることを困難にする。 飴と鞭で二重に縛られてしまうのだ。 それが、「デジタル・ヘロイン」と呼ばれるゆえんだ。(p.282)「デジタル・ヘロイン」何とも物騒な言葉だが、これがもっと世間に認知される必要がある。 韓国、中国、タイ、ベトナムでは、すでに児童の利用には一定の規制が行われ、 効果を上げている。 一方日本は、対応の遅れから、 小学生にまでインターネット・ゲーム依存が広がっている状況だ。 阿片が蔓延し亡国の道を歩んだ清朝中国の二の舞にならないためにも、 国が主体性をもって国民の未来を守るという姿勢を、 危機感を持った決意と行動で示して欲しいものである。(p.286)この筆者の叫びにも似た警告の言葉を、日本に住む住民は、きちんと受け止めることが出来るのだろうか。それなしには、決して国は動かない。
2015.07.26
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『図解 行動科学を使ってできる人が育つ! 教える技術』を読んで、 やっぱり、こっちも読んどかなきゃいけないかなと思って、読みました。 結論から言うと、こっちを読んだ人は『図解』も読んだら良いと思うけど、 『図解』を読んだ人は、こっちを読まなくても、まぁ事足りるかなという感じ。 もちろん、「技術」については、こちらの方が詳しく丁寧に、 さらに、実例も多く挙げながら説明してくれているので、 とても分かりやすいと思います。 でも『図解』を読んだ後だと、おさらいをしているという感じ。それに比べて、『図解』には本著にはない、インタビュー記事や企業実例があり、これが実践的でなかなか良いのです。だから、一番良いのは、両方とも読むことだけれど、どちらか一冊だけ読むなら、『図解』の方だけで良いんじゃないかと思いました。 *** つまり「教える」とは、 ・学び手に身につけてほしいのに、できていない行動 <たとえば、球の体積を求める公式を記憶し、必要に応じて使いこなすこと> ができるようにする あるいは、 ・学び手の間違った行為 <たとえば、玉ねぎ強火で炒めること(玉ねぎは焦げてしまう)>を、 正しい行動<弱火でじっくり炒めること>へ変える のように、「望ましい行動を身につけさせる/望ましい行動を実践させる/ 間違った行動を正しい行動へ変える」行為だと私は考えています。(p.025)これが、本著における基本、「教える」ということ。 行動を具体的に言語化しようとするとき、大いに参考になるのが、 行動分析学で行動を定義するときに用いられる 「MORSの法則(具体性の法則)」です。 MORSの法則は次の4つの条件から成り立っています。 MORSの法則 ・Measured 計測できる ・Observable 観察できる ・Reliable 信頼できる ・Spesific 明確化されている この4つの条件を満たしていないものは「行動」ではないということなんです。 念のために補足すると、”計測できる”=カウントできる、あるいは数値化できる。 ”観察できる”=誰が見ても、どんな行動をしているのかわかる。 ”信頼できる”=どんな人が見ても、それが同じ行動だと認識できる。 ”明確化されている”=文字通り何をどうするか明確になっている、 ということを意味しています。(p.072)これが、本著における「行動」の定義。 教える技術20で「社内で頻繁に使う用語ほど配慮が必要」ということに関連して、 私は課長クラスなどいわゆる中間管理職と呼ばれる人たちにとって 欠かすことができない重要なスキルに翻訳作業があると考えています。 ここで言う翻訳とは、社長を始めとする上層部から発せられる 抽象的なメッセージや指令を、具体的な行動に置き換えて 現場の部下たちに伝えるということです。(p.078)これが、本著のなかで、私が一番心に残ったところ。「なるほどな」という感じです。
2015.07.26
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『教える技術』の図解版です。 『教える技術』を先に読んだほうがよさそうな気がしたのですが、 すでに手元に本書があったので、取り敢えず読んでみました。 いわゆる「ムック本」です。 まず、いろんな人たちへのインタビューが多数掲載されています。 『教える技術』の著者・石田さん等々5名分。 そして、行動科学を取り入れて劇的に変わった企業の実例。 池の平ホテル等々3社分。そして『教える技術』の内容を、パートに分けて紹介。「教えるための心得」「教えるべきことは?」「どう伝えれば届くのか?」「ほめる技術/叱る技術」「石田式 大人に教えるセミナーの法則」の5つ。 ある会社で「ちゃんとした挨拶」を分析したところ、 ”5m先に届くくらいの大きな声” ”相手の目を見ること” ”口角を上げてほほえむこと” ”体の正面を相手に向けること” という4つの要素が不可欠だということがわかりました。 それなのに、その会社の上司たちは 「挨拶は大きな声で!」という指導しかしていなかった。 そのため「いいつまで経っても、ちゃんとした挨拶ができない」 と怒り続けなければいけなかったのです。(p.4)本著で一貫しているのは、具体的な行動を提示しようということ。行動に焦点を当て、行動を言語化し、指示・指導しようということです。 仕事のできない部下がいたら、 「この社員は、やり方がわからないのか、 継続の仕方がわからないのか、 どちらだろう?」 「不足しているのは知識なのか?技能なのか?」 と順に見ていけば、必ず解決策が見つかります。(p.5)そして、教える内容を「知識」と「技能」に分類し、行動を継続させるために「ほめる/認める」ことが重要。やっぱり『教える技術』を読まないといけないようです。早速、手配しました。
2015.07.22
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いつか読もう読もうと思って、 まだ手にしていなかった『ビジョナリーカンパニー』。 そして、やっと手にしたのは「3」。 しかも扱っているテーマは「衰退」。 まぁ、このご時世ですから、 「成功」より「失敗」に学ぼうとする意識が強くなっても、その方が自然体かも…… ということで、不朽の名著を読まずして、いきなり本著を読み始めました。 でも、「1」「2」を読んでいないことで、不都合なことは全くなかったです。第一段階 成功から生まれる傲慢第二段階 規律なき拡大路線第三段階 リスクと問題の否認第四段階 一発逆転の追求第五段階 屈服と凡庸な企業への転落か消滅これが、衰退の五段階。本著では、それぞれの段階について、一つの章を費やして解説し、章末に、要約を掲載してくれているので、とても分かりやすいです。例えば、第二段階については、次のような記述がなされています。 偉大な企業が成長を担う適切な人材を集められるよりも 速いペースで売上高を増やし続けた場合、 停滞に陥るだけではない。衰退していくのである。 異例なほど偉大な企業はいずれも、何よりも、 みずから自分を管理する人材、みずから動機をもつ人材に依存している。 これが規律の文化で第一の構成要素になる点である。(p.101)やはり、「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」なんですね。次に、第四段階に掲載されている図表には、次のようにあります。 第四段階の典型であり、一層の衰退をもたらす行動 救世主になる指導者を求め、外部から乗り込んでビジョンを示し、 会社を強化してくれる経営者を選ぼうとする。 第四段階の悪循環を反転させうる行動 規律ある経営幹部を求め、 社内で実績をあげてきた人材を選ぼうとする(p.154)「餅は餅屋」ということでしょうか。でも、最近は専門家をないがいしろにする傾向が、あちこちで……。それが、一層の衰退をもたらすことにならないと良いのですが……心配です。 衰退への道を歩む企業をみていくと、わたしはこの教訓をあらためて痛感する。 第四段階の企業は恐怖にかられて必死に動き、転落を早めている。 もちろん、指導者は後にこう主張できる。 「われわれがとった行動の全体をみてほしい。われわれはすべてを変えた。 考えられるかぎりのことはすべて行った。 もっている弾は撃ちつくしたが、会社を救うことはできなかった。 だから、必要なことをしなかったと非難されるいわれはない」。 こう語るのは、IBMのガースナーとは違って、 衰退の後期段階にある企業の指導者には冷静で、明晰で、 焦点を絞った方法に戻る必要があることを理解していないからだ。 転落を食い止め、反転させたいのなら、すべきでないことは行わないよう、 厳格な姿勢をとるべきだ。(中略) 深呼吸をする。冷静になる。考える。的を絞る。狙いを定める。弾は一発ずつ撃つ。 そうしなければ、かつてオフィス用の宛名印刷機と複写機で最大手だった アドレソグラフが陥ったのと同じ惨状を、違う形で繰り返すことになる。(p.163)そう、どの段階でも、その状況を反転させうる行動はある。たとえ、それが第四段階まで来ていたとしても、「回復と再生」はありうるのです。上記のような言い訳を聞きたくないのなら、私たちも「変化」ばかりを求める態度を改める必要があるのでは? 真に偉大な組織がそこそこ成功をおさめているにすぎない組織と違う点は、 困難にぶつからないことではない。 一時は後退しても、壊滅的な破局にぶつかったときですら、 回復して以前より強くなる能力をもっていることである。 偉大な国は後退しても回復しうる。 偉大な企業は後退しても回復しうる。 社会セクターの偉大な組織は後退しても回復しうる。 そして偉大な人物は後退しても回復しうる。 完全に打ちのめされて退場するのでないかぎり、つねに希望がある。(p.200)著者にとって、人生や仕事で避けがたい後退に陥って苦闘しているとき、指針になる光は、ウィンストン・チャーチルであることが多いといいます。機会があれば、チャーチル伝も読んでみようと思いました。そうそう、本著は「付録」とされている部分も重要、必読です。
2015.07.20
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著者の作品は、これまでに読んだことがなかった。 でも、名前は知っていた。 それは、内田先生との共著が出版されているから。 でも、その共著を私はまだ読んでいない。 だから、著者がどんな人かは、全然知らないまま本著を読んだ。 「なるほど」と思った。 内田先生との共通点は、確かにあった。 今度、共著を読んでみようと思う。書かれている事柄は、私がイメージしていたものとは随分違った。本著は、朝日新聞の「論壇時評」として、2011年4月から2015年3月まで、月一で掲載されたものを、まとめたもの。最近、朝日新聞読んでなかったけど、こんな感じなんだ。 「戦後」という時代は、「戦争の体験」を持つ人たちが作り出した。 だとするなら、その後に来るのは、受け売りの「戦争の体験」ではなく、 自分の、かけがえのない「平和の体験」を持つ人たちが作る時代であるべきだ、 という考え方に、ぼくは共感する。(p.152)「そうですね」と思える部分が、そんなになかった本著だが、この部分については、「そうですね」と、素直に思った。「戦争の体験」をもつ人たちは、(今後戦争が起こらなければ)やがていなくなるのだから、「平和の体験」しかもたない人たちが、自らの手で作り上げるしかない。 高橋秀実は「どんな制度でも悪用したり、甘える人はいるものです。 だからといってその制度自体が悪いわけではありません」と書いた。 在日、生活保護受給者、公務員、等々。 彼らへの糾弾は、その中の少数の「違反」者を取り出し、 まるで全員に問題があるかの如く装ってなされる。 そこでは、彼らの「特権」(があることになっている)が怨嗟の的となり、 やがて、およそ権利というものを主張すること自体が敵視されることになるんだ。 こんなヘイトスピーチやバッシングを行う当事者の多くが、 実は、社会的な弱者に分類される人たちであることはよく知られている。 妬ましいのだ。 すぐ近くの誰かが、自分より恵まれている(らしい)のが。 悲しいことだが、彼らの気持ちは理解できないことはない。 でも、曽野さんのような恵まれた立場の人が、 後輩である若い、働く母親たちを後ろから撃つような真似をすることは、 僕には理解できない。(p.156)カッコ付きになっている「があることになっている」や「らしい」という情報は、誰が、どんなことを狙って、流したものなのかについては、様々な予測が可能。その情報発信源にとって、社会的な弱者に分類される人たちに、それが真実であると思い込ませることは、とてもメリットがあることのはずだから。 新自由主義の最先進国アメリカで、 教育の市場化によって崩壊するアメリカ公教育の現場をつぶさに見てきた鈴木大裕は、 いつの間にか「豊かなビジネスの土壌」になってしまった学校の新しいモデル、 としてチャータースクールを紹介している。 だだっ広い部屋に無数の衝立で区切られたボックスがあり、 子どもたちがヘッドホンをして、目の前のパソコンに向かっている。 「学校側は正規教員を減らし、時給15ドル(約1500円)の無免許のインストラクターが、 一度に最高130人の生徒をモニターすることによって、 1年間で役50万ドルを節約できるという。 教員の半分は教員経験2年未満、75%は、たった5週間のトレーニングで 非正規教員免許を得られるティーチ・フォー・アメリカ出身だ」 「この学校を熱心に支援するシリコンバレーの社長たち」は、 もちろん、自分の子どもたちは、この「庶民の学校」には入れないのである。 これは、わたしたちの、遠くない未来の風景なのだろうか。(p.192)様々な教育改革が、上記の風景を目指して進められていることは、想像に難くない。そのことについて、世間の圧倒的多数の人たちが、気付くことができていないのは、先の例における「社会的な弱者に分類される人たち」と、まったく同じ状況である。自分たちで、自分たちの首を絞め続け、そのことに気付く前に絶命してしまうのだろうか。まぁ、こんな感じで、色々考えさせられ、自分の考えをまとめることができたので、本著を読んだ価値は、十分にあったと言える。
2015.07.20
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『きいろいゾウ』に続く、三冊目の西加奈子さん。 これまでに読んだ二冊とは、随分趣が違う。 ボリュームも少なめで、西さんの文章にも慣れたからか、 スイスイと読み進めることができた。 『きいろいゾウ』と同様、二人の視点でお話しが進んで行く。 中年親父と若い独身女性。 繋がりなんかなさそうな二人だけれど、 まぁ、これが繋がっているわけで……でも、繋がってるなら繋がってるようにして欲しいところだけれど、何にも繋がらないで終わってしまうわけで……その辺が、良いのか悪いのか……村上さんに放置された時とは、また違った居心地の悪さ。西さんの作品を三作連続で読んだけれど、読後の充実感が、いまひとつ。私には、ちょっと合わなかった感じ。でも、『サラバ!』くらいは、読まないといけないかな。
2015.07.12
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『さくら』に続く、二冊目の西加奈子。 『さくら』に比べると、随分読みやすかった。 特に後半は、どんどんページを捲っていった。 そして、一気に最終ページまで辿り着いた。 映画は見ていない。 だから、ツマが「動物や虫などの声が聞こえる」ことに、最初暫く気付かなかった。 ところで、ムコさんの日記、ツマは読んでたの? なんて疑問が残ったままだから、あまり集中して読書できていなかったのかも……ムコさんが東京に行ったあたりから、随分盛り上がっていったけれど、最後は、ちょっと消化不良かな。「よかったぁ~」という安堵感に包まれるでもなし、村上さんのように「えっ?」で放置されることもなし、という感じ。それでも、あと一冊、西加奈子さんを読みます。
2015.07.12
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副題は「社会的選択理論とは何か」。 本題を見て、民主主義の有り様についての内容かと思って読み始めたが、 副題の通り、「社会的選択理論」についての内容だった。 初めての内容だったが、とても興味深く、面白いものだった。 「多数決は本当に国民の意思を適切に反映しているのか?」 つまり、選挙制度に関する問題点について、本著は述べている。 それは、小選挙区制や大選挙区制といったレベルのものではなく、 「多数決」から脱却するするには、どうすればよいかというものである。 有権者の無力感は、多数決という 「自分たちの意志を細かく表明できない・適切に反映してくれない」 集約ルールに少なからず起因するのではないだろうか。 であればそれは集約ルールの変更により改善できるはずだ。(p.10)そして、多数決以外の集約ルールとして、ボルダルール、コンドルセ・ヤングの最尤法、決選投票付き多数決、さらに、繰り返し最下位消去ルールが示される。そして、 どの集約ルールを使うかで結果がすべて変わるわけだ。 「民意」という言葉はよく使われるが、 この反例を見るとそんなものが本当にあるのか疑わしく思えてくる。 結局のところ存在するのは民意というより集約ルールが与えた結果にほかならない。 選挙で勝った政治家のなかには、 自分を「民意」の反映と位置付け、自分の政策がすべて信任されたように振る舞う者もいる。 だが選挙結果はあくまで選挙結果であり、 必ずしも民意と呼ぶに相応しい何かであるというわけではない。 そして選挙結果はどの集約ルールを使うかで大きく変わりうる。 言ってしまえば、私たちにできるのは民意を明らかにすることではなく、 適切な集約ルールを選んで使うことだけなのだ。(p.49)なかなか意味深長で、示唆に富んだ指摘だと思う。次は、「判断」そのものについての記述。 人民とは構成員たちからなる一個の分割不能な共同体であり、 一人ひとりの構成員ではない。 そして一般意志とは、 個々の人間が自らの特殊性をいったん離れて意志を一般化したものだ。 意志を一般化するとは、自己利益の追求に何が必要かをひとまず脇に置いて、 自分を含む多様な人間がともに必要とするものは何かをさぐろうとすることである。(p.76)ルソーも、なかなか奥深い。「自己利益の追求に何が必要かをひとまず脇に置いて」などという視点が示されることは、現在では、なかなかないのではなかろうか。すべてが「自己利益の追求」最優先になっているようにさえ感じられる。 人々の利害対立が鋭く意志が一般化できない対象は、 そもそも投票の対象にはならない。 典型的には自由や権利の侵害に関する事柄、 例えば少数民族の排除や性的少数派の抑圧を、投票で決めることはできない。(p.81)ここで著者は、多数決による侵害の可能性を押さえこむため、1.多数決より上位の審級を、防波堤として事前に立てておく2.複数の機関での多数決にかける(二院制など)3.多数決で物事を決めるハードルを過半数より高くすること、の三つを挙げている。 しかし、そもそも多数決は、人間が判断を間違わなくとも、暴走しなくとも、 サイクルという構造的難点を抱えており、 その解消には三分の二に近い値の64%が必要なのだ。 そしてまた小選挙区制のもとでは、半数にも満たない有権者が、 衆参両院に三分の二以上の議員を送り込むことさえできる。 つまり第96条は見かけより遙かに弱く、より改憲しにくくなるよう改憲すべきなのだ。 具体的には、国民投票における改憲可決ラインを、 現行の過半数ではなく、64%程度まで高めるのがよい。(p.135)その他、代表制と直接制が正反対の結果を生み出しうる「オストロゴルスキーのパラドックス」や、二項独立性と満場一致制を満たす集約ルールのうち、独裁的でないものは存在しないという「アローの一般可能性定理」などが興味深かった。
2015.07.12
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著者の名古屋大学大学院・内田准教授のことは、 組体操ピラミッドの危険性を指摘されている方ということで知っていた。 本著は、その組体操の他、柔道事故や運動部活動における「体罰」と「事故」、 さらには「2分の1成人式」にまで言及している。 こうして、一冊を読み通してみると、 内田准教授の関心がどこに向いており、どんな研究を進めているのかが、よく分かる。 特に学校安全についての捉え方、考え方については、 今後の現場における取り組みの方向性を定めていく上で、重要なものがある。 不審者の侵入を「教育」という人は誰もいない。 だが、巨大な組体操は立派な「教育」活動とされる。 「教育」というお墨付きがあるだけで、 私たちは途端に、子どもの身体に迫り来る危険を見過ごしてしまう。 子どもから教員に目を転じてみよう。 土日も出勤させて若い社員を使い潰していく企業を、 私たちは「ブラック企業」と呼んで、問題視する。 だが、部活動の指導のために若手教員が無給に近い状況で毎週土日に出勤していても、 それはブラックとは呼ばれず、いっこうに社会問題にはならない。 それどころか、土日の部活動をやめにしようものなら、保護者からクレームがくる。 こうした事態が生まれるのも、部活動とはすなわち「教育」だからであった。 企業に使い潰されるのは問題だが、学校に使い潰されるのは、 子どもの「教育」のためだから仕方がないのだ。 こうして、教員の心身に迫り来る危機は見過ごされていく。 教育が善きものであるばかりに、そこで子どもや教員のリスクが見落とされてしまう。 しかもそのリスクは、教育関係者のみならず、 保護者を含めた私たち市民全体が見落としているものであった。(p.256)「教育」に携わる「教員」という職業を、「聖職」と位置づけ、「教育」が行われる「学校」という場を、一般社会とは異なる特別な空間・社会として、今もなお捉え続け、そうであることを期待している人々は、思いの外多い。そのことが、学校や教員に、一般社会を超えたものを要求する根本原因となっている。しかし実際には、学校も社会の一部であり、その社会の有り様を大いに反映したものになる。現実の社会から切り離された、別世界や楽園には決して成り得ない。 また、教員も労働者であり、社会人であり、家庭人であり、一個の人間である。その他の多くの公務員同様、それ以上のものでも、それ以下のものでもない。 未経験であることがとりわけ深刻な状況をもたらすのは、異動があったときである。 前任者がその競技を得意とし、指導経験も豊富であった場合、 その後を未経験の教員が引き継ぐというのは、後任者にとってあまりに厳しい。 顧問は異動で替わることがあったとしても、 生徒はそのほとんどが3年間、同じ学校、同じ部活動に所属する。 4月になってまったくド素人の顧問が、指導にあたるというのは、 在校生にとっても教員にとっても、けっして好ましい状況ではない。(p.191)部活動についても、市民が求めているところと、学校・教員の実態には乖離が見られる。それを埋めるためには、学校が実態を正確に世間にアナウンスせねばならない。(実際、このような部活動の実態がメディアで紹介されることすら稀である)教員が採用されるのは、どの教科が指導できるかであり、どの部活動が指導できるかではない。教員は、世間の常識を知らないとよく言われる。もっと一般社会の感覚を持たないとダメだとよく言われる。さらに、「学校の常識は、世間の非常識」とまで言われる。しかし、学校に対する市民の意識も、同じことが言えるのではないだろうか。
2015.07.12
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「西加奈子って知ってる?」 この問いかけが、本著を読む切っ掛けになった。 テレビで又吉さんが、この作家の本がどうのこうのと言ってたらしい。 読んだことはもちろん、直木賞受賞者の名前さえ知らなかった私…… 「これは、ひょっとして、かなりマズイのかも……」 と、感じた私は、西加奈子さんの本を三冊チョイスして入手、 今、机の上にあるそれらを、まとめて読むことにしたのだった。 そして、まず最初に読んだのが、本著。最初は、何故か読みにくいなと感じたけれど、だんだん慣れてきた。冒頭、長谷川家の現状が語られる。父は家を出ていたが、久し振りに戻ってきたこと。そして、兄は4年前、20歳で亡くなったこと。それから、話は遡り、父・昭夫と母の出会いから、兄・一の誕生、僕・薫の誕生、そして妹・ミキの誕生、さらに、サクラが家にやってきたこと等々が綴られる。平和な、ほのぼのとした時間が流れていった。それでも、やがて兄は亡くなってしまう。それを機に、妹の感情と行為が明らかになる。そして、父は家を出てしまい、母は体型が変わってしまう。やがて、お話しは冒頭部の時点に辿り着き、それを追い越していく。まぁ、最後の方はページを捲る手が止まらなくなり、どんどん読み進めていくことになったのだが、父親が妹のランドセルを持って、家を出ていったのは、未だによく分からない。このお話の中では、やはりミキが一番魅力的なキャラだとは思うけれど。
2015.07.05
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表紙を見ると、サンジとナミとチョッパーがいない。 そして、今巻を読むと、この3人(二人と一匹?)は登場しない。 一冊を通して、全く登場しないというのも珍しいのではないか? と、そんなことを思った最新刊。 さて今回は、お話しがサクサクと進んで、爽快な気分。 フランキーがセニョール・ピンクを倒したところから始まって、 キュロスがディアマンテを「雷の破壊剣」で倒し、 ゾロがピーカを「三・千・世・界」で斬る!そしてルフィーは、真意に反しながらベラミーを倒し、瀕死のローと共に、ドフラミンゴと相対する。ローがトレーボルの正体を「死の刀」で暴くと、いよいよルフィーとドミンゴの一騎打ち。そして、ルフィーは「筋肉風船・ギア4」で、ドミンゴを圧倒。さらに、「獅子・バズーカ」を放つと……さて、これで一体どうなったのか!?続きは次巻で!!
2015.07.04
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表題作を含め、7つの作品が掲載された、村上さんの短編集。 「あとがき」にあるように、『めくらやなぎと眠る女』以外の作品は、 『七番目の男』と『レキシントンの幽霊』は、『ねじまき鳥クロニクル』後に、 それ以外は、『ダンス・ダンス・ダンス』『TVピープル』後に書かれたもの。 なので、『中国行きのスロウ・ボート』に比べると、 私も、取り敢えず分かったような気分になることができたし、 「まさに、村上ワールドだなぁ」とも思った。 中でも、一番近年に書かれた『めくらやなぎと眠る女』は、良かった。さて、本著を手にしたのは、次の一文が切っ掛けだ。 溶接工時代、まとめて読んだ作家は三島由紀夫と村上春樹だった。 彼らの短編、長編を片っ端から買い揃えた。(中略) 村上春樹は短編か長編かで好みが分かれやすい作家だが、 僕はどちらかというと短編派だ。 いちばん好きなのは『トニー滝谷』。(中略) 余計な説明はいっさい省き、 雰囲気だけで「人を喪うってこういうことなのか……」と生理的に触知させ、 極限の孤独をポップに描ききった唯一無二の傑作だ。(p.252)今なお話題となっている『絶歌』に記されたもの。私は、村上さんの長編は全て読んでいて、短編はほどほどにしか読んでいない。ただ、トニー滝谷は『ねじまき鳥クロニクル』に、名前だけ登場していたので、私の記憶の中には、鮮明に残っていた。それで、気になって、今回短編を読んでみたのだが、この作品が好きというAの深層心理に、思いを馳せることが出来た。
2015.07.04
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これまでとはちょっと違った視点から、 タレーランにまつわる人たちを描いた短編集。 結構、スッキリ軽めで読みやすかったけれど、 ミステリー色は、控えめか。 5つのお話しの中では、 帯や表紙裏で紹介されている「純喫茶タレーランの庭で」が、 やっぱり、一番よかったです。 まぁ、このお話しだけが、美星メインで、本筋のお話しなんだけど。でも、こんな感じの一冊を作るには、まだ、このお話自体が定着しきっていないと思うので、やや時期尚早かと。もっと、本筋のお話しを、深めていって欲しいところだけれど、ひょっとして、目指すべきところ(このお話しの核となる謎)なんて、最初からないのかも。
2015.07.04
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