2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
全6件 (6件中 1-6件目)
1
日本の政治は二重構造になっている。形としてだけの統治者天皇と実際に政治を行う時の権力者である。神話に属する神武天皇以降まもなくこうなったのではないか。例を挙げると、奈良時代の天皇と僧侶の関係、平安時代の天皇と貴族の関係、鎌倉時代以降は天皇と武士の関係。江戸時代も二元政治である。すなわち、宗教的司祭者要素が強い天皇と実際に政治を行う将軍家。この二元政治の矛盾を激しく批判したのが山縣大弐である。かれは、日本は本来天皇に帰せられるべきであると主張した。弱ったのは幕府である。正論を、紋切り型に批判されたのでは、抗すべくもない。これに待ったをかけたのが松宮主鈴である。松宮は、まあまあ日本は二元政治でやってきたのでうまくいってきた。となだめるような論法を展開する。日本は二元政治がなじむという穏やかな考え方である。しかし、山縣は幕府に激しく噛み付き、やがて獄門の首となる。余談ではあるが、戦後三島事件があった。三島由紀夫は、天皇があいまいな位置である、象徴になっていることに激しく批判する。実際に政治をやっているのは政治家である。これも二重構造ではないか、と。これに対し、昭和の松宮主鈴の立場の人物が出現する。司馬遼太郎である。司馬は松宮と同様、日本の政治構造は長老たるべき天皇がいて、実務者の政治施行者がいて成り立っている。これでいいのだと。三島は山縣同様、批判するマスコミの獄門に首が飛ぶ。山縣の二元政治批判は、かれが死に、その思想の粒がやがて幕末の尊王佐幕となって芽をふく。平田篤胤の国学、水戸勤皇思想の狭間で埋もれているがかれの幕末にもたらした影響は大きい。ただ、明治後、かれの切望していた一元政治は忘れ去られ、また天皇と薩長の二元政治に戻ったが。
2005.10.12
コメント(1)
幕末の沸騰、そして明治維新の直接の原因になったのは、なんといっても嘉永6年(1853年)のペリー来航であろう。しかし、遠因は天保期をはじめとする大飢饉である。徳川の経済体制を維持しているのは農業である。にもかかわらず幕府は農業改良に一切手をつけなかった。というよりそういうことを許さなかった。台風が来ても、飢饉が来てもそのままである。そのため農民は困窮した。とくに米作に向かない東北の大地は大打撃を受ける。東北の農家は一家に一つは必ず大きな甕があったという。それは、飢えで家族から死人が出るとそれを塩漬けにしておいて食うためである。当時の資料には百姓のこういう話もある。「お前のばあさんが死んだら俺にくれ。そのかわり俺の爺さんが死んだらそれをあげる」自分の肉親を食うのは忍びないのでお互いに交換しようというわけである。余談であるが、二二六事件決起は真綿でぬくぬくくるまれたような育ち方をした貴族階級の若い将校が、東北出身の兵が多い部隊の幹部になり、中年の兵卒の部下から、飢饉のため子供を売りに出したとか、そういうことを聞いて、本当の天皇の政治はこんなものではないと昭和維新のためにクーデターをおこしたともいわれている。ともかく、江戸末期の日本、とくに東北は惨状を極めた。江戸後期、幕府は倹約程度の天保の改革で失敗し、東北諸藩も同様のことをし、失敗する。西国の、とくに薩長は農業改良政策ではない密貿易、特産物販売の強化、つまり商業的政策で成功する。天保の改革の成功と失敗、これが、幕府、東北諸藩と薩長、西国諸藩の明暗を分けた。
2005.10.10
コメント(0)
コメントで竜馬か龍馬かという質問があったのでお答えします。司馬遼太郎さんは「竜馬」と書き、津本陽さんは「龍馬」と書いてあります。本人リョウマの書簡などでは「龍馬」を使っています。「龍馬」が正しいのでしょう。司馬遼太郎さんが竜馬を使ったのは、歴史上の人物、龍馬ではなく、自分の作り上げた青年の理想像として書きたかったのであえて字を変えて「竜馬」を書きたかったんだと言っています。 「龍」と「竜」は異体字の関係です。異体字とは、どちらも同じ読み、どちらも同じ意味なのに、字体が違う字のことです。「嶋」と「島」と「嶌」がそうです。「竜」は新字体「龍」は旧字体です。新字体は、戦後の国語改革によって当用漢字が定められた際、採用された、筆画を減らした簡略な字体のことを言います。旧字体はそれ以前に使われていた字体のことをいいます。こう見ると、旧字体の「龍」のほうが古い感じがしますが、「龍・竜」の場合、新字体の「竜」のほうが、漢字の発生の元になった「甲骨文字」やその次に使われた「金文」に形が似ています。つまり「竜」の方が古いんですね。じゃあ、古い時代に何故「龍」が使われたかといいますと、文字の規定には「正字」というのがありまして、現代もそれに倣っていますが、18世紀中国皇帝康熙帝の時、「康煕字典」という漢字の辞典が定められ、標準的に使う言葉は「正字」となりました。たとえば、「島・嶋・嶌」は「島」が「正字」です。どういう経過なのかわかりませんが「龍・竜」は古くから存在し、「龍」と「竜」では、「龍」の方が「正字」になっていました。字体的に見てずっしりとして、かっこよかったからでしょう。しかし、戦後の国語改革で「竜」の方が書きやすいということで、この文字が定着したようです。つまり坂本の時代は「龍馬」が普通だったと思います。
2005.10.07
コメント(0)

この写真は、函館五稜郭戦争の時、土方の遺品の中から出たものといわれている。沖田総司という人は色が青黒く、よく陽だまりの中で子供と遊んでいた。といわれている。真偽はわからない。でも、沖田の風貌はこのような感じだったのではないかと、往時に思いをはせるような写真ではある。
2005.10.06
コメント(0)
新撰組のテーマが終わりました。ここで一ヶ月程度の充電期間をいただき、新たなテーマを書きたいと思います。次は、長州が薩摩か土佐の幕末史を書いていきたと思います。予定は11月1日ごろになります。また、その時々に思いついたことも書きたいと思います。今後ともよろしくお願いします。
2005.10.02
コメント(0)
明治二年(1869年)5月11日の土方の死より後、5月15日新撰組が守っていた弁天台場は降伏し、5月18日ついに本営の五稜郭も降伏する。五稜郭幹部の中で戦死したのはついに土方歳三だけだった。榎本武揚、大鳥圭介、永井尚志などはその後、明治政府に仕え、栄達した。土方歳三の戦死と榎本武揚、大鳥圭介らの降伏、どちらが正しかったのかわからない。榎本武揚は明治後、逓信大臣、文部大臣、外務大臣、子爵とそれこそ位人臣を極める。福沢諭吉が、榎本に対し、旧幕臣が新政府に仕え高位高禄を批判したが榎本は黙殺した。大鳥圭介もまた学習院長、華族女学校長から駐清特命全権公使、朝鮮国公使と栄達する。永井尚志もまた左院議員など新政府の役人になっている。旧幕府の栄達者もまた、尊王の栄達者が累々とした仲間の屍の上に栄達を築いたように、近藤、土方、名もなき草莽の流した、多くの血の上に成り立っている。だが、榎本、大鳥、永井たちはその栄達の時代が過ぎると、その名は忘れ去られてゆく。だが、近藤勇、土方歳三、沖田総司の名は140年過ぎた今でも燦然と輝き続けている。とにかくこれで幕府の最後の抵抗は終わった。と同時に、新撰組の歴史も終わった。文久三年(1863年)新撰組結成以来六年、270年間の徳川幕府時代の最末期に現れた男たちは、生き急ぐように駆け足で去っていった。
2005.10.01
コメント(0)
全6件 (6件中 1-6件目)
1