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土方歳三は死を恐れぬ兵二百をつれ絶望的な戦いに挑む。土方が戦場を見るに、明治新政府軍はわずかに左翼に隙が見えた。ここを攻めていくしかない。無論万に一つも勝機はない。土方隊は一丸となって敵の左翼に突入した。土方の耳を銃弾がかすめる、が馬上の土方は進む。土方のまわりでは配下の兵がばたばたと倒れるが土方は表情を変えない。土方は刀を抜くと、敵兵に飛び込み飛び込み、なできっていった。一時、明治新政府軍はたじろいだが、応援部隊が増援され盛り返した。再び敵兵の銃弾が猛撃してくる。ばたばたと倒れる配下の兵。ふと気づくと土方は一人。それでも馬上の土方は硝煙に包まれ、ひとりいく。さすがの明治新政府軍も、土方の迫力に押され手を出しかねた。その中を土方はゆく。やがて栄国橋にさしかかった時、長州藩で構成されている部隊に遭遇する。長州隊は他の隊とは違い、筋金入りの実戦部隊である。土方を認めると、射撃姿勢をとった。轟(ごう)っと数百の銃がいっせいに火を噴いた。硝煙につつまれ、それが晴れると、倒れている土方の遺体があった。それでも、敵兵は恐る恐る遠巻きにし、やがてそろそろと近づき、黒い羅紗服がどす黒く血で染まった頃、土方の死を確認した。享年35歳。天下に名を知らしめた、百姓上がりの一人の漢(おとこ)は死んだ。漢とは、何の地位も権力も持たず裸足で戦っているもののことをいう。坂本竜馬の永遠のライバルといわれた土方歳三はまさに、漢であったろう。
2005.09.30
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函館郊外の一本木関門は、多勢の明治新政府軍の大量の銃弾の猛攻に、寡少の土方隊、松平隊、中島隊などはある者は伏せ、ある者は木陰に隠れ、顔も上げられない状況である。このままいれば、いつかは銃弾の餌食になるだろう。土方は決意する。こうなれば、刀を抜いて斬り込むだけだ。土方は味方に大声をかけた。防戦一方に必死な兵は土方の最後の言葉を聞く。「私はこれから函館に行く。見てのとおり敵は大勢で、函館本営までも敵で埋め尽くされているだろう。幸い、敵の左翼だけがわずかに空いている。私はこの隙をついて一間でも二間でも前は進む。命を捨ててもよいと思う者は私に続いてほしい」各隊の兵は感動し、たちまち二百人が集結した。
2005.09.29
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土方隊、それに続く松平隊、中島隊らは林の中で明治政府軍の先鋒と遭遇する。皆、白刃を抜きつれた。白兵戦はかれらの真骨頂であろう。たちまち明治新政府軍の先鋒を蹴散らすと、さらに進んだ。途中、新手の明治新政府軍に遭うが、これは銃と砲で撃退する。そしてついに函館郊外の一本木関門に到達する。陽は天にある。ここに明治新政府軍の主力がある。土方の眼前には、重厚に、銃陣を敷いた明治新政府軍がいる。その銃陣がいっせいに火を噴いた。間断なく降り注ぐ銃弾の雨に、寡少な松平隊の銃隊も応射するが話にならない。その激戦の凄まじさは、後年、その激闘、古今に類なし。といわれたぐらいであったらしい。戦勢は土方ら北海道政府軍に徐々に不利になっていく。
2005.09.28
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明治二年(1869年)5月11日ついに明治新政府軍の函館総攻撃が始まる。夜も明けきれぬうち、土方歳三は仙台藩精鋭の額兵隊と旧幕軍伝習士官隊のそれぞれ1小隊ずつ合計80名(一説には50名)をひきつれ絶望的な出陣をする。土方は馬上、威風堂々である。めざすは函館山にいる明治新政府の本陣。無論、たどりつけるはずもない。土方と函館山の間には無数の明治新政府軍がひしめいている。土方はゆく。途中陽が昇り始めた、と同時に明治新政府軍の四斤山砲、艦船からの艦砲が火を噴く。その中をゆうゆうと土方隊はいく。あとに続くは、松平太郎、中島三郎助らの諸隊、これらも悠然と進む。砲弾が当たり、仲間の兵士らは吹っ飛び、あるいは倒れるがかれらは表情を変えない。ただ前へ前へと黙々と進む。やがて、林に出た。ここには明治新政府軍の先方がひしめいている。
2005.09.27
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北海道政府の残る陣地は五稜郭、函館港弁天崎砲台、千代ヶ岡砲台の三ヶ所である。この千代ヶ岡砲台の台長は中島三郎助という老人である。浦賀奉行所の与力出身で、いわば幕臣である。与力時代、ペリー来航があり、小船に乗ってペリーに尋問交渉をしている。その後、幕命で長崎海軍伝習所において射撃、砲台築城、軍艦操練法などを学んでいる。この千代ヶ岡砲台長の当時は齢49、当時では老人に入る。中島は、榎本武揚の上司だったこともあるが、病身でしばらく幕府の中枢から遠ざかっていた。幕府崩壊の時、病身を押して、長男恒太郎、次男英次郎をつれ、榎本と共に五稜郭に拠った。幕臣としては気骨の男である。こういう古武士然とした中島三郎助は土方とは気があったらしい。中島は千代ヶ岡にいるため、明治二年(1869年)5月7日の降伏が濃厚な会議には出席していない。が、この報を聞き、目をむいた。この男も、土方と同じ死所を求めてきたのであろう。こののち榎本ら幹部が降伏してもなお戦闘をやめず、子供らと共に戦死している。が、この男が戦死したときには、土方はこの世にいない。かつて長州の木戸孝允に砲術を教えたことがあり、木戸は中島の死を聞き、悼んだという。
2005.09.26
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五稜郭維持は絶望的になった。明治二年(1869年)5月7日、北海道新政府の幹部が集まり、会議が行われた。みなそれぞれに、降伏を腹に持ちながらの軍議である。土方のみは、死ぬことを考えている。籠城か出戦かで意見は二つに割れた。大鳥は籠城、榎本は出戦である。が双方とも降伏を見据えての意見である。大鳥、榎本とも五稜郭でひと戦さして、降伏を有利に持って生きたい、ただそれだけである。土方は終始黙っていた。土方は、すでに少数の兵を率いて出戦する気でいた。土方は降伏する気はない。死ぬ気である。せめてこの最後の戦さで華々しく戦い、後世に名を知らしめたい。それに近藤勇も沖田総司も井上源三郎も、多摩の仲間はすでに逝っている。(この世に一緒に遊ぶ仲間はいねえよ)
2005.09.25
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五稜郭に戻った土方は、榎本に心変わりが見えるのを感じる。榎本は降伏を考えている。大鳥圭介など幹部も同様であった。理由はある。ひとつには土方は明治政府軍の五稜郭侵攻のとき、二股口を受け持って見事に撃退したが、苦もなく破られた木古内口は大鳥圭介が受け持っていた。このとき北海道新政府の敗戦が決定的なことをうすうす気づいていた北海道新政府の兵が数百人脱走している。大鳥圭介の人望のなさであろう。もうひとつは北海道新政府にとって存続の要であった艦船がほとんど使い物にならなったのである。千代田形艦は座礁し、回天は数百の砲弾を受け、蟠竜も機関故障。海軍は全滅した。海軍全滅は海軍総帥の榎本にとって相当ショックであったようで、これを機に榎本は降伏を考えるようになる。榎本は所詮、幕臣二代目の知識人であったろう。自分のもっとも得意とする分野が駄目になると、すべて悲観的に考える。大鳥やほか幹部も同様であったに違いない。ひとり土方のみは知識人が持つ繊細な神経はない。かれにとって勝敗は問題ではなく、いかに喧嘩をし続けるかのみしか頭にない。
2005.09.24
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市村鉄之助は兄剛蔵とともに京における最晩年の新撰組に身を投じたが、兄剛造が鳥羽伏見の敗戦のあと、江戸でさっさと脱退したのに対し、鉄之助は残った。土方が沖田に似ているといったからだといわれている。憧れの剣士、沖田総司に似ているといわれた鉄之助はそれだけで感涙した。それだけで、新撰組のためならばと思った。16歳の多感な少年である。鉄之助が江戸にいた時期、沖田総司を介護する機会があった。鉄之助は沖田に接するにつれ、沖田や土方や新撰組に親しみを感じていったのだろう。その親しみがかれを五稜郭まで行かせる。新撰組が江戸から離れた後は、鉄之助は土方の小姓として五稜郭までついていく。鉄之助は土方に離隊を命じられ、遺品を手にすると泣く泣く、日野の佐藤彦五郎の下に向かった。鉄之助は、土方の義兄、佐藤彦五郎を訪ねるとき、乞食に身をやつしていた。官軍の厳しい目があったからである。佐藤彦五郎は鉄之助を数年間、かくまいほとぼりが冷めた頃、大垣まで送り届けている。その後、かれは西南の役の、警視庁隊に応募し戦死している。この当時、会津をはじめ賊軍と汚名を着せられた旧幕軍が西南の役の征伐に応募している。かれらは、幕末の仇だと声を上げて参加したが、市村鉄之助の場合はわからない。市村鉄之助は新撰組の最後の募集に応じたものであり、明治新政府ともさしたる怨恨もない。あるいは沖田や土方との短くはあったが濃い思い出が、薩軍討伐に参加させたのかもしれない。沖田に似ている、ただそれだけで市村鉄之助は最後の殉死した新撰組隊士となったのではないか。
2005.09.23
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明治二年(1869年)4月23・24日の台場山で明治政府軍に勝った土方であったが明治政府軍の別働隊が4月29日木古内口を突破した。土方がいくら台場山を守っていても、別道の木古内口を進む本営五稜郭に到達する。土方はやむなく台場山から撤退することを決意、五稜郭に戻ることにした。土方は死を予感していたのだろう。五稜郭に戻った後の5月5日、かれは小姓の市村鉄之助を呼ぶ。市村鉄之助は16歳、大垣藩士の子であったが、幕府に殉じたいということで年を年長に偽って幕末の最末期、新撰組に参加した。土方について五稜郭まで共に転戦してきたが、土方はこの沖田総司に似たまだ童臭のある少年を戦死させるのは忍びなかったのであろう。かれに自分の遺品を郷里、佐藤彦五郎に渡すように命じた。市村は当然嫌がったが、土方は、「これは隊命である。そむくとこの場で斬る」土方に斬られる事は、市村にとっては無論異論はないが、再三の土方の命令が懇願に変わる頃、力なくうなずいた。
2005.09.22
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土方が兵士から軍神と崇められたゆえんは豊富な戦争経験のほか、もう一つある。かれは戦闘中必ず先頭に立ち、しかも相手の銃弾が当たらなかった。まさに偶然であろうが、この運の強さもまたかれの実力のうちなのであろう。似たような武将に、徳川家康配下の武将に本多平八郎がいる。かれは家康がまだ今川の侍大将格の頃、少年期から戦争に参加し、桶狭間の戦い、関ヶ原の戦い、大阪冬、夏の陣など年寄るまで幾多の戦争に参加したが一度も怪我をしたことがなかった。もっとも、徳川泰平の世になり、平八郎も大名として平穏な暮らしをしていた時、ささいな怪我をしてしまう。このとき、平八郎は自分の死期を悟る。幾多の戦争で無傷のまま、過ごせたのに、ここに来て怪我をするのは、私の死期は近い、と天命に感じるのである。はからずも予感は的中し、平八郎はほどなく亡くなる。土方も平八郎と似たような、人間の力では考えられない強運がついていたのだろう。
2005.09.21
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明治二年(1869年)4月14日、明治政府軍はひとまず稲倉石まで撤退し、兵を600人から800人に増強した。一方、土方率いる北海道政府軍は多少兵を増強したものの200人に過ぎない。その数三倍である。土方の戦法は、胸壁を楯にただひたすら敵が撤退するのを待つしかない。強靭な意志で、はねのける精神力だけが武器である。充分な準備を整えた明治政府軍は、4月23日夕、再び台場山へ兵を進める。明治政府軍はこの戦闘でなんとか台場山を攻略したい。そのため前よりも増して猛攻を加えた。その銃撃戦の苛烈さは、土方隊の兵の旧式の銃が加熱して手に持てないぐらいになり、桶に水を汲んで、そこに銃身をつけて冷やすといった具合のものであった。明治新政府軍は猛烈に攻めたが、土方隊はよく耐え、24時間後の4月24夕、ついに台場山をあきらめ撤退した。この頃から、土方歳三は兵士から軍神のように思われている。軍神の指揮下においては、負けはない、と兵士たちはほとんど信仰に近い形で土方を思っていた。土方の京での活躍はこのころの若い兵士には伝説になっており、宇都宮城攻略をはじめ東日本転戦の常勝、松前城陥落も土方に厚みをつけた。明治政府軍を撤退させた土方はこの直後、兵士たちに酒を振舞った。よほど嬉しかったのであろう。
2005.09.20
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明治二年(1869年)4月13日夕、二股口の戦いは始まった。土方は前線陣地の天狗岳の兵を適当に退却させ、明治政府軍の兵を本陣地である台場山に誘い込んだ。土方は、この台場山をあらかじめ決戦地として考えている。そのため以前から強固な胸壁を20近くも作っている。この胸壁を楯に、明治政府軍の火を噴くような攻撃を、土方隊は寡兵で戦った。すさまじい銃撃戦である。この戦さの前、すなわち台場山に布陣する前、土方は兵士に有名な訓戒を残している。「わが兵は寡少であるが、敵は大軍である。しかもこれからも続々と敵の援軍は増してくる。一時の戦闘には勝ったとしても、いつかは負ける。これは明らかなことだ。しかし、負けることはどんな理由があれ、武士として恥なことだ。だから自分は身をもって殉ずるだけだ」土方は、このたびの対明治政府軍戦に敗北を予想し、死を覚悟していた。その気持ちが兵士に伝わったのであろう。土方隊は少ない兵士が必死に大軍を敵に回し、果敢に戦った。結果、この猛攻に土方軍はよく耐え、翌14日朝についに明治政府軍を撤退させた。その戦闘時間なんと16時間にも及んだ。
2005.09.19
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明治二年(1969年)4月9日、明治政府軍はついに北海道(蝦夷地)に上陸する。上陸地は江差の北にある乙部。北海道政府はなすすべもない。戦力の差はいかんとも仕方ない。明治政府軍は上陸すると兵を三方にわけ、松前口、木古内口、二股口の3道から函館五稜郭を目指した。二股口から進撃する兵は600人。同日、明治政府軍の上陸を察知した北海道政府は土方に兵を持たせ二股口から進軍する。その数130人。ほとんど勝てる希望はない。4月11日土方は二股口途中の台場山に本陣を置いた。そしてあくる12日に天狗岳に前線を置く。いよいよ、道内における土方の戦さのはじまりである。
2005.09.18
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蟠龍、高雄の予期せぬアクシデントにより、回天ただ一隻で奇襲した宮古湾海戦は失敗した。土方らを乗せた、回天は追いすがる明治新政府の春日を振り切りほうほうの態で函館に戻る。船上での土方は覚悟を決めていた。事ここにいたっては、北海道政府の敗北は必死である。北海道政府を存続させる要素が一つもないのである。かといって降伏もかれの頭の中には無論ない。仮に降伏しても、京で幾多の尊攘志士に血の雨を降らした元締めである。明治政府幹部は土方を切り刻んでも飽き足らないであろう。土方は五稜郭に戻ると、早速明治政府軍を迎え撃つ準備をした。
2005.09.17
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明治二年(1869年)3月20日深夜、北海道新政府の艦隊は明治新政府を迎撃するため一路宮古に向かう。船は回天、蟠龍、高尾。この艦隊には陸軍大臣ともいうべき土方歳三が乗っている。そして、およそ海戦をするにふさわしくない剣の手練れが多く乗っている。かれらの宮古行きは、交戦にあるのではなく甲鉄艦乗っ取りである。これ以前、主力艦開陽丸を座礁させて沈没させてしまったため、北海道政府の海軍力はかなり落ちている。明治政府の甲鉄艦を奪い取ってしまえばそれは即、北海道政府の戦力となる。それも明治政府が太刀打ちできないくらいの。土方の先鋒は宮古湾に浮かぶ甲鉄艦を横付けし、新撰組はじめ剣に覚えのある者を甲鉄艦に乗り移させ、白兵戦で甲鉄艦を乗っ取ろうという考えである。
2005.09.16
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大隈八太郎、のち重信。肥前鍋島藩の上士の家に生まれた。鍋島藩は藩主の方針が藩内鎖国であったので、勤王活動、他国との交流は一切認められず大隈は数少ない勤王志士の一人だった。幕末のぎりぎりの段階になると、藩内鎖国で富国強兵に勤めてきた佐賀藩は抜群の軍備技術力で官軍に加担しかろうじて明治新政府の果実を与えられる。大隈はそんなとき、数少ない勤王の一人として新政府に送り込まれ、外交を切り盛りし欧米と堂々と渡り合い評価される。大隈は粘り強い交渉で、甲鉄艦を手に入れる。その甲鉄艦を伴った明治新政府がいよいよ北海道新政府を討滅に北上する。
2005.09.15
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明治政府が旧幕府国征伐をする艦隊には、恐るべき船が入っている。甲鉄艦である甲鉄艦とはアメリカの南北戦争(1861年~1865年)のとき北軍が南軍撃滅のため製造されたもので、その威力は甲鉄艦一隻で南軍を滅ぼすといわれた。甲鉄艦は、製造している最中に南北戦争が終わったため幕府が買い付ける予定でいた。ところが甲鉄艦が日本に来た頃は幕府はすでに瓦解していた。新政府軍と旧幕府軍との間で、甲鉄艦の購入を要求したが、アメリカは中立に立ち、どちらにも渡さなかった。しかし、明治政府が上野で彰義隊を破り、会津を破り、日本のほとんどを占有したため、アメリカはついに明治政府に甲鉄艦を明治政府に譲ることを決め、明治政府が購入した。この折衝には明治政府側からは大隈八太郎があたった。
2005.09.14
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北海道から完全に官軍を追い出した旧幕軍は、新政府を建国した。総裁は榎本武揚、副総裁は松平太郎、海軍奉行荒井郁之助、陸軍奉行大鳥圭介、陸軍奉行並土方歳三。函館市長永井尚志。しかし、明治政府も黙ってはいない。それはそうであろう。明治政府を建国早々日本にもうひとつの国を作られてしまえば、明治政府の面目丸つぶれである。信用がなくなってしまう。明治政府は、明治二年(1869年)早々、旧幕府国撃滅に準備を始めた。この報は、すでに榎本ら旧幕府国には伝わっている。その情報の詳細を聞いて榎本は顔色を変えた。明治政府の来襲する艦隊には恐るべき新兵器が入っているという。
2005.09.13
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すでに冬に入っている。これから攻略する、松前福山城は安政期(1854年)に出来た新築の城である。ペリー来航以降に出来たため、この海沿いの城は、艦隊からの砲にも対処できるように築城されている。この時期雪が降っている。土方ら幕軍700は驚いたであろう。およそ関東に育った人間には想像できない雪の厳しさである。凍てつく銃、体。北海道では、松前藩が敵というよりも、冬が敵である。松前城を攻めるには、川を渡らねばならない。城内から撃ってくる弾をよけながら、幕軍は川に入った。ようやく川を渡ると、城門に迫った。松前藩は旧式の銃で、しかも藩士は三百年の太平の中、実戦経験はない。たちまち逃げた。これで、旧幕軍は北海道から官軍を全て追い出した。
2005.09.12
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北海道噴火湾に上陸した旧幕軍はまず函館に駐屯している官軍を攻めた。そして攻略に成功すると、ここに始めて独立国を樹立した。函館内五稜郭に政府を置くと、永井尚志を市長にした。そして日本内外に独立国を知らしめたのである。とりあえず形は整ったが、まだ、敵はいる。北海道に完全な独立国を建国するには、北海道にいる大名をたたき出さねばならない。松前藩である。松前藩は特異な藩である。石高をもっていないのである。この藩は北海道が米が取れないため、北海道の特産物を収入の糧としている。蝦夷(アイヌ)に対する交易独占権が収入の主であった。家格は一万石格とされていたが、幕末になって格が上がり三万石格とされた。藩主は、松前志摩守徳廣。前藩主松前志摩守崇廣は寺社奉行から老中にまで出世した名君であったが1865年病死した。現藩主は病気がちで乱世の幕末を切り盛りする器量はない。宇都宮城を陥落させた土方の名が上がり、兵700を率いて松前福山城を攻めることになった。
2005.09.11
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明治元年(1868年)10月13日、伊達仙台藩から追われるようにして北上する榎本の旧幕府艦隊は、土方らを乗せて南部領宮古湾に入る。薪水補給のためである。補給している間、榎本はこのリアス式海岸を測量している。将来、官軍が北海道に艦隊で目指してくる時、榎本らと同じようにこの宮古湾で薪水補給をする。その時、榎本の艦隊は南下してここで官軍を迎え討とうというのだ。そのため、この宮古湾を研究し尽くしておこうというわけである。やがて榎本は入念な測量を終えると、物資を積み、北海道を目指した。海原を白い波頭を立てて威風堂々と、旧幕艦隊は進む。開陽丸、回天丸、蟠流丸、神速丸、長鯨丸、大江丸、鳳凰丸の七隻の堂々たる艦隊である。土方は甲板に出て、頬に潮風をうけながら、まだ見ぬ北海道での新たな戦いを夢見ていた。
2005.09.10
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土方や榎本の拠る伊達仙台藩は、慶応四年(1868年)9月(9月8日から明治に改元)に入り情勢が一変する。奥羽列藩同盟が敗北するに及び、佐幕主導だった伊達藩は仰天し、すぐさま勤王色に変節した。その結果、逼塞していた藩内勤王派の遠藤文七郎允信が主導権を握り、旧幕軍を追い出しにかけたのである。やむなく、土方は旧幕府艦隊とともに北海道に向かう。この間、歴史的な出来事が起こる。明治元年(1868年)9月22日、会津藩がついに降伏する。会津藩は新撰組の親ともいうべき存在で、土方はこの報を聞いたとき、会津の敗北は予想していたとはいえ、相当ショックだったろう。ともかく土方は本州には居場所がない。追いつめられていくとみるか、新天地を求めて進みと見るか。土方は北海道を目指す。
2005.09.09
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土方歳三と榎本武揚は最初から気が合ったらしい。共に百姓の出身で、気骨がある。それに双方にないものをお互いに持ち合わせていた。土方は、榎本の洋式技術に敬意を表し、榎本は土方の豊富な戦闘経験に敬意を表していた。土方は、この仙台で榎本に驚くべきことを聞かされる。蝦夷地(現北海道)に独立国を作るというのだ。土方は息が止まるぐらい驚いたろう。国を作るというのは、徳川家康、豊臣秀吉、織田信長など古来、英雄がなすべき事業ではないか。これより少し前の5月、長岡藩の家老河井継之助がわずか七万八千石で長岡独立共和国を宣言したが、官軍の手により、8月には潰されている。むろん、河井も英雄の器であるし、実際軍事力も経済力も作り上げた。しかし、もったのは3ヶ月である。それを榎本武揚はやるという。(面白くなった)土方は、榎本に夢を託した。
2005.09.08
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榎本釜次郎武揚はもともとは幕臣ではない。武揚の父、円兵衛は備前国の庄屋出身である。円兵衛は学才優秀であったため出世、やがて三河以来の幕臣榎本家の株を買って武士になった。つまり父の代で幕臣になった。それゆえ武揚は、江戸御徒町で幕臣の子として生まれた。代々の幕臣ではない。百姓の野性味と気骨、二代目幕臣の忠義というそれぞれのいいところをあわせもって生まれた男といっていい。幼少の頃から学才も豊富で、弘化四年(1847年)昌平坂学問所(現在の東京大学)に入校し、文久三年(1863年)幕府留学生15人のうちの1人としてオランダに渡っている。榎本は最新のヨーロッパの軍事技術を身につけて帰ってきたのは慶応三年(1867年)3月で、その頃は、幕府の屋台骨が揺らぎはじめた頃である。その年の11月、大政奉還が行われ、幕府が瓦解すると、榎本は反官軍の急先鋒となり、オランダで購入してきた開陽丸船将となったが、慶応四年(1868年)1月、鳥羽伏見の戦いで幕府が一敗地にまみれ、徳川慶喜が恭順すると、ついに艦隊を率い江戸を脱走した。そして仙台で土方と出会う。
2005.09.07
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土方歳三が東北の伊達仙台藩に拠った慶応四年8月、旧幕府海軍副総裁榎本武揚が旧幕府艦隊を率いて仙台、寒風沢港、東名浜に入港してきた。艦隊の威容は、旗艦開陽丸をはじめとして、回天丸、幡龍丸、千代田丸、輸送船として神速丸、長鯨丸、美嘉保丸、咸臨丸、日本最大の艦隊である。この軍事力は1853年ペリーが浦賀に連れてきた艦隊に匹敵する。それに江戸から千人を超える兵を連れてきている。これを率いる榎本武揚はこの軍事力を背景に北海道に徳川の独立国を作ろうと構想していた。無論その実力も才能も胆力もある。この地で土方に会うとたちまち肝胆あい照らす中になってしまった。土方は榎本の将器に近藤を見出したのかもしれない。
2005.09.06
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慶応四年(1868年)4月19日、土方歳三は宇都宮城を占領するが、その数日後の、4月25日近藤は板橋で斬首され、原田左之助も一ヵ月後の5月15日の彰義隊に参加して、上野の戦いで負傷し、2日後の17日死ぬ。5月30日には沖田が麻布で一人死ぬ。土方は宇都宮城撤退後、その後、日光など転戦、その間、かれらの死を聞く。(泣いている暇はない)と思ったかどうか。あるいは人のいないところで泣いていたのであろうか。北へ向かう土方は行く先々で、兵を募り、会津に入る頃には千人以上に増えていた。(人はいつか死ぬ)土方は思ったろう。近藤、沖田、原田、さかのぼれば井上源三郎、山崎烝。盟友、同志はことごとく死んだ。生き残っているのは斉藤一など数人しかいない。(俺もいつか死ぬ)しかし、その時が来るまで官軍に徹底的に反抗してやる。それが、かれの生き様だと思っている。
2005.09.05
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慶応四年4月19日午後、土方率いる幕軍300は突如宇都宮に姿を現した。土方はその先頭にいる。その隣には猛士、副将の会津藩士秋月登之助。宇都宮城に拠る、官軍の将、有馬藤太は典型的な薩摩隼人ではあったが、戦慄したに違いない。幕兵は民家に隠れながら撃ち、また進み、城に近づいた。やがて、城内から覗く官軍の顔が見えるようになると、土方は、「かかれい」と声をかけた。みなそれぞれ銃を放り出し、刀を抜きつれると城内に突撃した。お得意の白兵戦である。土方らの背後からは、砲が二門援助している。やがて、城の門が砲弾によって打ち砕かれると、幕軍はなだれのように城内に殺到した。無論先頭に土方がいる。官軍の彦根兵は城内を逃げまわっているばかりである。土方は宇都宮官軍の幹部が流山で近藤を捕らえた有馬、香川であることを知っている。(すでに殺されていることはまだ知らないが)いわば、仇である。「有馬と香川を探せ」探し出して、殺さなければ土方の気がすまない。午後に始まった戦さは、夜八時になり官軍の退却となった。松明をかざしながら官軍の群れは城内を引いて北の明神山に向かう。しかし、土方は兵の中から旧新撰組を集め、執拗にこれを追った。このとき、土方は逃げる有馬に一太刀つけたといわれるが、命をとるところまで至っていない。とにかく、土方の宇都宮攻略はひとまず成功した。
2005.09.04
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官軍の有馬藤太らは宇都宮城に拠って、小山の大鳥幕軍を遠望している。小山からそのまま日光に向かうか、それともこの宇都宮城に攻めてくるか。いごこちは悪かっただろう。大鳥幕軍は名にしおう幕軍最強の軍隊である。それに対し、有馬率いる官軍はわずか三百、しかも日本最弱といわれた彦根兵である。有馬がいかに勇猛な薩摩隼人であっても、一人ではどうにもならない。井伊の彦根兵はかつて日本最強といわれた。徳川四天王の一つ井伊家は、武田家廃滅後、当時最強の軍団だった武田兵を多く召抱え、武田信玄の下、赤い鎧で身を固めた武田の赤備えをそのまま採用し、井伊の赤備えとされた。関が原以後は、井伊の赤備えと藤堂高虎の藤堂藩が徳川家の先陣とされ、大阪冬、夏の陣でも戦功を上げた。それが三百年の太平で、最弱の軍になっている。しかも、藤堂藩同様、恩顧の徳川を裏切り、いち早く官軍についている。ほんの10年ほど前まで藩主井伊直弼が大老になって、官軍の先輩たちを安政の大獄によって大量処刑せしめている藩が、官軍のお先棒を担いでいる。井伊藩はどういう神経をしているのであるか。やがて有馬の不安は的中した。大鳥圭介幕軍の兵が一部を割き、土方を隊長に宇都宮城に向かってきたのである。慶応四年(1868年)4月19日、土方は宇都宮城を攻めた。
2005.09.03
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大鳥圭介を司令官とする旧幕軍は、日光を目指している。日光は天然要害の地で、日光東照宮は城郭として作られている。日光東照宮は、徳川家康が天下を取った時、いずれ朝廷と手切れになることもあるかもしれないということを見越して、家康の墓所がある東照宮を根城にして戦うために作られている。フランス式洋式軍隊の訓練を受けた大鳥圭介と、経験豊富な土方歳三、2000人からなる最新鋭の軍隊、天然要害の地日光、堅牢な城郭東照宮、官軍を相手に十分に戦えるのではないか。かれらはそう思った。日本最強の大鳥幕軍は日光に向かう各地で官軍を撃破していく。途中、下野小山の宿(栃木県小山市)で土方は300人の隊を分け宇都宮城に向かう。宇都宮城には、土方個人の遺恨がいる。近藤を捕らえた有馬藤太と香川敬三が駐屯しているのである。(かたきをとってやる)と土方は思ったであろう。だが、このとき近藤がすでに斬首されていることを土方は知らない。慶応四年(1868年)4月19日土方は小山から七里先の宇都宮城を攻めた。迎え撃つ官軍も300人、しかもこの時代最弱といわれた彦根兵である。
2005.09.02
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土方は近藤と別れた後、一度江戸に戻ってきたが、小人数の幕府系諸隊が千葉市原に団結し結集すると聞き、ここに寄った。ここで大鳥圭介という人物に出会う。播州赤穂の村医者の倅で、大阪の蘭医緒方洪庵の塾で蘭学を学んだ。同窓に村田蔵六(大村益次郎)、福沢諭吉がいる。大鳥はここでオランダ陸軍の軍学を学び、やがて幕臣に取り立てられ、フランス陸軍の軍学の訓練を受け、今は幕府の歩兵頭になっている。率いるのは500人の当時最新鋭のフランス式歩兵である。500人といっても近代装備に、近代軍隊訓練をつんだ、日本では最強の軍隊といってもいい。この大鳥率いる幕軍が、恭順派の慶喜に異を唱え、市原に来ている。旧幕軍はたちまち2000人を越え、大鳥を盟主に、土方を副将格に軍が構成された。
2005.09.01
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