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近藤の死は板橋の官軍の本陣。日は、慶応四年(1868年)4月25日。官軍の岡田藩の剣客、横倉喜三次が首切りをした。近藤は落ち着いて堂々としていたという。本来なら、武士として切腹なのだが、斬首になったのは土佐系の官軍幹部たちの陰謀による。にもかかわらず斬首直前の近藤は泰然自若としていた。さわやかな表情だったともいう。ゆうゆうと髭を剃ると首を落とす穴倉の前へ首を差し出した。このとき、偶然に近藤の婿養子である勇五郎がこの斬首の様子を見ていたという。近藤の首は近くの一里塚でしばらくさらされ、塩漬にした後、京に送られ、三条河原にさらされた。三条河原にさらされた近藤の首のその後については諸説ある。中国地方のさる大名の家老が始末したとか、桂小五郎が当時の恋人だった幾松にひそかに盗ませたとか、面白おかしく噂された。真相は今もわからない。首のない近藤の遺体の方は、養子勇五郎が人を借り、4月28日に引き取りにきた。肌着に下帯の格好でうつぶせに埋められていた近藤を見ると、皆、悔しかったろう悔しかったろうと泣きながら近藤の遺体を掘り返したという。遺体は棺に収められ、東京三鷹の竜源寺に運ばれた。享年35歳である。
2005.08.31
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近藤と対面した有馬、香川は、ともかくも申し開きのため粕壁(現埼玉県春日部市)にある官軍東山道方面軍の本陣に同行を願った。すでに腹を決めている近藤は、一度陣に戻り、準備をして再び有馬のもとに戻った。そして、粕壁の本陣に行く。本陣では、すでに大久保大和が近藤であることは知っている。近藤はあくまで大久保大和で通したが、官軍は幕府の旗本には大久保大和なる者はいないということを調べていて知っている。しかも旧新撰組で今は官軍にいる高台寺党の加納道之助に面通しをさせ、本人に間違いないことも確認している。この官軍の本陣には近藤にとって不幸なことに、谷干城、香川敬三など土佐系の幹部で占められていた。薩摩藩の有馬藤太も幹部であったが、有馬はほかに宇都宮城攻撃のために、転出になった。残るは坂本竜馬と中岡慎太郎を殺された土佐藩と伊東甲子太郎を殺された高台寺党の面々である。この当時、坂本と中岡を暗殺したのは新撰組と信じられていた。土佐の谷にせよ、香川にせよ、坂本、中岡に引き上げられた者である。尋問は執拗を極めた。なにがなんでも詰問し近藤を処刑にしたい。拷問まで用いたかもしれない。やがて近藤が抗弁するまもなく、刑は決まった。斬首の上、晒し首である。これは武士に対する扱いではない。近藤は武士らしく切腹を望んでいたが容れられなかった。近藤は、元の農民に戻ったかのような刑を受ける。悔しかったに違いない。薩摩藩は新撰組とはいい。有馬藤太が後年、俺がいればあんなことをさせなかったものを、近藤を武士として立派に切腹させたものを、といっている。有馬としては、流山で近藤を見て以来、その風貌、身のこなしに堂々たる武士を見たのであろう。薩摩隼人は武士らしい男を愛す。土佐の、特に香川の強引な裁判が近藤の斬首、晒し首を決めた。有馬はこののち明治の間、香川とは一度も口をきいていない。
2005.08.30
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慶応四年4月4日有馬の軍は利根川を挟んで、流山の近藤の隊に対峙した。近藤はこのとき意外な行動に出た。「話し合いをしてくる」というのである。今まさに開戦の時である。土方らは驚いた。「なんの話し合いをするというのだ」土方は、近藤をつかみかからんばかりに怒鳴った。しかし、近藤は聞かない。ついに、土方は泣いた。泣いてとめた。悪がきだった頃からずっと一緒にいた二人は、ここで気持ちが離れる。土方には近藤の気持ちがここへきてわからなくなった。確かにこの年の初めの鳥羽伏見の戦い以来、近藤の元気がなくなっていったの感じていたが、官軍と話し合いするとはどういうことだろう。降伏するようなものではないか。それは近藤の死を意味する。土方は自分たち新撰組が官軍に対して何をしてきたかを知っている。そして官軍に捕縛されたらどうなることかも。さらに土方は官軍が、この流山にいる幕府の部隊がその実、新撰組だということを知っているのではないかと思っていた。このときの近藤の気持ちは今になってもわからない。近藤は土方の制止を振り切り、部下二人を連れ、対岸の官軍の本陣に行った。名を大久保大和と名乗っている。が、官軍ではかれが近藤勇だということはすでに知っている。対面した有馬、香川らは近藤の顔は知らないが、顔が四角で頬骨が出、口が拳骨が入るぐらい大きいということは知っている。ひと目で近藤とわかった。有馬らは大将の突然の訪問に驚きつつも、かつて近藤の同志だった高台寺党の生き残り、加納道之助に障子の影から大久保大和なる人物の顔を確認させた。加納はそっとのぞき、あっとのけぞった。まぎれもなく近藤勇である。
2005.08.29
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香川敬三は狐の香川といわれた。狭量で陰険なところがあり、人に受け入れられるということがなかった。水戸藩を追われるようにして脱藩し、これといった才もなかったが、土佐の中岡慎太郎に拾われた。中岡は大度量の人であったから香川が使えないことを知りながら、自分の手の内に加えた。自分を認めてくれた、と思った香川は大感激であったろう。この点、性狷介なため、人に受け入れられない陸奥陽之助と坂本竜馬の関係に似ている。もっとも、陸奥は才能がありあまるほどあり、明治後、やはり度量のある大久保利通に見出され、のち外務大臣として日本外交史上その名を残した。香川は中岡に拾われたおかげで明治後、何するでもなく立身出世、子爵から、伯爵になっている。中岡の陸援隊にいたことが箔になり、土佐閥として時流に乗ることができた。すべて中岡のおかげといっていいだろう。その中岡を殺したといわれる新撰組が流山にいる。香川は自分を拾ってくれた中岡の恩に報いるべく、流山攻撃軍に志願した。香川は、本来ならば大将でいくぐらいの地位であったが、いかんせん軍才がない。やむなく薩摩の有馬藤太の副将格として流山に向かった。腹の中は近藤をはじめ新撰組の誅滅である。無論、兵は土佐系が多く、かれらにしてみれば近藤、土方などは殺してもあきたらない。
2005.08.28
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慶応四年(1868年)3月15日、近藤は天領流山で兵を募った。近隣の農村の青年たちがたちまち三百人が集まった。どの顔も近藤や土方の若き日の顔である。顔は陽に焼け、黒々とし、手の節くれは鍬を振い、土をいじって出来たものである。しかし、志は将軍のため、ひとえに将軍のために、と純粋に考えている顔である。かつての近藤や土方もそうである。近藤や土方にその感慨がよぎったかどうか。その頃、江戸は官軍に包囲されている。この3月15日は官軍の江戸総攻撃であったが、幕臣の勝海舟と官軍の西郷隆盛の間で3月13、14日の2日間話し合いが行われ、総攻撃は無期延期になった。幕府派そこまで切迫している。甲陽鎮撫隊を追うように江戸に入ってきた東山道方面軍は板橋にいる。この軍は土佐系の軍である。この軍は、流山に布陣している幕府の隊が新撰組であることをすでに知っている。江戸総攻撃が中止になったため、東山道方面軍は兵を割き、薩摩人有馬藤太を主将に、水戸人香川敬三を副将に三百の兵を向かわせた。
2005.08.27
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流山は天領である。近藤が隊をそろえて流山に入った時、地元の町民、百姓が町をあげて大歓待した。やはり天領はいい。近藤は心の中でそう思ったであろう。事実、近藤の出身の南多摩も天領である。天領の人たちだけが共有できる、佐幕の思想。このときすでに関東から西は官軍に制圧されているのに、近藤はつかの間の歓待に酔いしれた。あるいは近藤の胸中に、自分の最期をどう飾るかを考えていたかどうか。近藤は土方のように喧嘩屋ではない。国士だと自認している。すでに天皇の時代だと知っていたかれは、どう自分の生涯を美しく閉じるか、ということばかりを考えていたのではないか。近藤は、土方に言われるがままに、お膳立てをした神輿に乗って滅亡への道を進んでいく。
2005.08.26
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近藤は流山に行くことを幕府に申し出た。すると二千両の軍資金が出た。これは幕府の好意ではない。いかに近藤ら新撰組を江戸から追い出したいかという気持ちのあらわれである。とくに勝海舟は新撰組を嫌った。これから官軍と和平工作をするのに狂犬みたいな新撰組がいたのでは、やりにくくて仕方がない。それよりも、勝のような国際情勢を知っている知識人にとってみれば、京の町で日常的に人殺しをやってきた新撰組は馬鹿に見えてしょうがない。傲然と軽蔑していただろう。幕府が大金を出したので、単純な近藤は喜んだ。幕府はわれわれに期待している、とさえ思った。が、ともかく近藤は、その実、狂犬追い出しの金を持って下総の国流山(現千葉県流山市)を目指した。その中には、新撰組三番隊隊長斉藤一もいる。同郷の松本捨助もいる。
2005.08.25
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今後の新撰組の行く末を決める会合が生き残った幹部によって開かれた。近藤、土方、永倉、原田、いずれも京の町を震撼させた一騎当千の強者である。永倉、原田は幕臣で御書院番の芳賀宜通を盟主に一隊を組織、新撰組もこれに参加しようといった。これには裏がある。およそ策謀家にはほど遠い両人だが、近藤がこれ以前甲陽鎮撫隊を結成した頃、永倉ら同志に向かって家臣呼ばわりしたことがある。永倉らにしてみれば心外だったろう。新撰組は役職の違いこそあれ、志においては同格である。永倉らは近藤を盟主からはずそうとした。それがこの芳賀盟主擁立の一件である。近藤、土方がそこまで感じていたかどうか。ただ単純に戦略として、土方は江戸での戦さは無理だと感じている。すでに帰国している会津藩に合流するほうがいいと言った。東国ならば幕府側の雄藩も多い。十分戦える。近藤は、というと焦点が定まらないほど呆けている。近藤は自分の意見は言わずただ、疲れた、とだけいった。年の初めの鳥羽伏見の戦いに始まって、江戸への敗走、甲府での敗戦、思えば今年に入ってから敗戦続きである。近藤は、時勢の星はすでにかれの頭上から消えているのを知っている。国士たらんとして、なまじっか、教養をもったがために、単純な喧嘩屋の土方や永倉、原田とは違い気弱になっている。結局、話し合いは決裂し、永倉、原田は江戸に残ることになり、土方は天領の流山(千葉)で兵を募り、会津に行くことになった。近藤は、土方に引きずられるまま、流山に行く。
2005.08.24
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得意の剣で砲や銃に向かった近藤ら甲陽鎮撫隊であったが、近代兵器の前に勝てるはずもない。「逃げろ」近藤の一言で甲陽鎮撫隊は、笹子峠に向かって走り始めた。ここで兵をまとめ、いったん八王子まで退却したが、負傷者を多く抱えた敗兵ではどうにもならず、結局江戸に向かって落ち延びるように戻った。一方、土方も神奈川で菜葉隊に援軍要請を断られ、なすすべなくとりあえず江戸に戻った。慶応4年(1868年)3月7日、奇しくも、甲州勝沼で敗戦した近藤と、神奈川で交渉不調に終わった土方は、江戸和泉橋で再会することになる。勝沼で負傷して、医学所のベッドに横たわる近藤の目はうつろである。が、うかうかしていられない。この時点で官軍の先鋒隊はすでに武州深谷(現埼玉県深谷市)にまで来ている。情報によると、3月15日を江戸進撃の日に決めているという。とすればあと一週間ではないか。生き残った新撰組幹部がこの日集まった。今後のことの相談である。顔ぶれは近藤勇、土方歳三、永倉新八、原田左之助である。ここでついに結党以来一枚岩を誇ってきた新撰組は分裂する。
2005.08.23
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勝沼での最初の交戦は、柏尾山にいる近藤のところからもはっきり見えた。といっても砲弾一発で粉砕されてしまったが。無論雨宮らが四散して敗走するのも。こうなっては土方の援軍を待つことは出来ない。近藤は決戦を決意した。かれは京の新撰組以来の同志で配下の尾形俊太郎に陣の前にある数軒の民家を焼かせた。いざ、戦闘になれば民家は官軍の弾よけ場所になる。民家が焼かれて、近藤が戦闘の準備をしている間、江戸で徴募してきた数百名のにわか兵が消えている。かれらは勝沼の前線基地が砲弾によって木っ端微塵になったのを見て逃げ出したのである。残るは新撰組と逃げ遅れたわずかなにわか兵。一方板垣率いる東山道軍の先方隊指揮官谷守部。この男は軍才がある。後に、西南の役の時、熊本城で西郷軍を一手に引き受け、足止めさせ、敗亡させた鎮台司令官である。谷は近藤が焼く民家の白煙を見て甲陽鎮撫隊の位置を知った。谷は隊を三隊に分けた。一隊は片岡を指揮官に、右手の山に進み、もう一隊は、長谷を指揮官煮左手の山に登る。地形を見るに左右の山は近藤のいる柏尾山より高い。二隊は山上から眼下に見える甲陽鎮撫隊に銃を撃ちかける。谷率いる本隊は四斤山砲二門を引いて正面から向かう。やがて戦闘が開始された。左右の山から銃弾の雨を食らった甲陽鎮撫隊は新撰組十数人残して皆、逃げてしまった。残った新撰組は不慣れな銃を放り出し、刀を抜きつれた。やはり新撰組には剣しかない。近藤を先頭に斬り込みをはじめた。
2005.08.21
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勝沼の甲陽鎮撫隊の前線基地は、近藤が駒飼で集めた農家の青年たちが、柵を作って守っている。官軍の板垣は、ここに軍事教練を十分に受けた先方隊を送った。精鋭部隊である。指揮官には谷守部、片岡健吉らをおいた。土佐を代表する軍人である。先方隊の砲兵隊長の北村長兵衛が前線基地の代表雨宮敬次郎(といってもつい先日まで土を耕していた農民であるが)に、柵を除いて解散しろと命じたが雨宮らは聞かない。北村が諭すように雨宮らに話しかけたということはどういうことであろう。双方は臨戦態勢であり、官軍隊幕軍の戦争なのである。官軍としては、通常事務的に解散を布告し聞き入れられない場合、即戦闘となる。北村としては交渉している相手が、頬の赤いまだ十代の若者で、とても職業軍人には見えず、郷里で鍬を振るう農村の青年を思い出したのかもしれない。しかし雨宮らが聞かないので、北村はやむなく砲のところまで戻り、砲兵に指揮した。二門の四斤山砲が火を噴いた。とたんに勝沼を守る二十名の前線軍は四散、代表の雨宮はよほどショックだったのか、その足で、この甲州勝沼から横浜まで逃げている。たった二門の砲が一度炸裂しただけで、甲陽鎮撫隊の前線基地は消滅した。こうして甲州勝沼の戦いは始まった。
2005.08.21
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日野からあわてて甲府ヘ向かう間近藤の下に、板垣率いる官軍の詳細が続々と入ってくる。官軍東山道方面軍は、その兵三千、十分な戦闘準備が出来ている。しかも洋式軍隊である。この東山道方面軍は、土佐藩を主に構成されており、指揮官も総司令官板垣退助の下、谷守部、片岡健吉、小笠原謙吉、長谷重喜、北村長兵衛など土佐系で占められており、坂本竜馬、中岡慎太郎を慕う者が多い。無論眼前の甲陽鎮撫隊の主力が新撰組であることは知る由もないが。板垣などはその際たるもので、かれは中岡慎太郎によって歴史の表舞台に出た。もし、甲陽鎮撫隊がその実、新撰組だとわかっていれば血肉を食らっても飽き足らないだろう。(後に土佐系の水戸浪士香川敬三によって近藤はそういう運命になるが)対する甲陽鎮撫隊は二百、しかも新撰組隊士の十数人以外は江戸を出る時に少しだけ軍事教練を受けた町人である。無論新撰組も白兵戦は得意だが、銃や砲を使った洋式の戦争は鳥羽伏見の戦いで経験しただけである。しかも負けている。勝ち目は万に一つもない。近藤は土方と相談し、神奈川に幕軍の菜葉隊1600人がいることを知り、援軍を頼むことにした。使者は土方歳三、ただ一人吹雪の中を神奈川に向かって馬上の人になった。近藤は笹子峠の甲府寄り、駒飼に駐屯し徴兵した。二十名ほど集まったが焼け石に水である。近藤はこの二十名にミニエー銃を持たせ、甲府盆地の一角である勝沼へ押し出した。ここが甲陽鎮撫隊の前線基地になる。わずか二十名の前線基地である。(一説には十人ともいう)さらに近藤の本隊は柏尾山に移動した。晴れていれば眼下には甲府盆地が見えるはずである。ここは甲府までは二里のところである。あとはここで土方を待つしかない。
2005.08.20
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近藤率いる甲陽鎮撫隊が故郷に錦を飾り、多摩を練り歩くようにあちこちで酒宴を開いている頃、官軍の先発隊は、吹雪の中行軍に次ぐ行軍で甲府に着いた。慶応四年3月4日早暁である。官軍は早速甲府城引渡しを要求した。甲府城には城番の役人がわずかにいるだけである。城代佐藤駿河守は仰天した。新撰組が来るまでなんとか引き伸ばそうとしたが、官軍はその手に乗らない。大軍を背景に引渡しを要求している。やむなく甲府城を引き渡した。これで甲陽鎮撫隊の唯一の勝機は潰えた。この頃、近藤はまだ日野で地元の村人の歓迎を受けている。まもなく酒宴最中の近藤に斥侯からの、官軍の上諏訪駐屯がもたらされた。(この時には官軍はすでに甲府に入っていたが)近藤は絶句した。ともかく、杯を放り投げ、大名駕籠を捨て、馬上甲府に向かった。
2005.08.18
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慶応四年(1868年)3月1日、近藤率いる甲陽鎮撫隊は勇躍、江戸四谷を出発する。近藤は得意の絶頂だったろう。これから戦さに行くのに大名駕籠に乗り、ゆっくりと行軍する。甲陽鎮撫隊の唯一の勝機は官軍より先に甲府城に入ることである。わずか二百の寄せ集めの兵が、三千人からなる洋式の訓練を受けた洋式部隊にまともに戦って勝てるはずがない。名城、甲府城を根城に立てこもって戦うしかない。しかし、近藤はどういうわけか遅々として進まない。その日、つまり出発した3月1日、近藤は新宿で一泊するのである。行軍わずか三キロである。この日は新宿の遊女屋でどんちゃん騒ぎである。2日目はまた少し進んで府中に一泊、ここでもどんちゃん騒ぎ。3日目は昼に日野に着いた。ここはすでに近藤や土方の故郷といっていい。この日野には名主の佐藤家に土方の姉が嫁いでいる。まだ昼だというのに近藤はここで一泊を決める。佐藤家はじめ日野の村人の歓待を受けた近藤は、大喜びだったろう。おりしも日野滞在の時、雪が降ってきた。近藤は隊士らに、雪が降っているので日野にもう一泊するかといい、土方らを驚かせた。歓待を受けることに戦さなどわすれてしまっている。この頃、板垣率いる官軍は上諏訪を出て、甲府に向かって吹雪の中、行軍している。甲府はもうすぐである。
2005.08.18
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大身の旗本佐藤駿河守の背後には、近藤ら新撰組を江戸から追い出したい勢力がある。幕閣と勝海舟である。徳川慶喜はすでに恭順し上野寛永寺に蟄居している。慶喜は官軍と抗戦する気はさらさらなく、これに講和派の勝が命を受けた。勝は火種になる勢力を江戸から追い出したい。その一つが新撰組であった。新撰組はかつて京で尊攘志士をずいぶん斬っている。しかも江戸を根城に徹底抗戦の構えである。勝は近藤に餌をつけ江戸から追い出したい。近藤は百姓だ。大大名の餌をつければ、話に乗るだろう。案の定、近藤は乗った。だが乗った近藤に無理がある。新撰組は新たに徴募した浅草弾左衛門の配下をあわせても二百人余り、三千人の東山道方面軍に敵うはずもない。しかし近藤は50万石の夢に浮かれて、甲府占拠を決意する。それに甲府までの道中では、故郷多摩を通る。故郷に錦を飾るとはこのことではないか。老中に次ぐ若年寄格として多摩に凱旋できるのだ。慶応四年3月1日、近藤率いる甲陽鎮撫隊は江戸四谷を出発する。勝の策略は成功する。そして近藤が甲府で敗亡することも予想していたのではないか。
2005.08.17
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鳥羽伏見の敗戦で江戸に逃げ帰ってから、近藤は傷も徐々に癒え、元気も増してきた。あてがわれた江戸丸の内の鳥居丹後守宅から、せっせと江戸城へ登城する。なにしろ旗本直参である。お殿様になったのである。この江戸城で旗本仲間から耳寄りの情報を聞いた。甲府使番支配佐藤駿河守という大身の旗本である。「実は」と佐藤は近藤に耳打ちをした。「お手前、甲府の大名になる気はないか」近藤にとってこんな魅力的な言葉はないであろう。甲府は戦国時代、武田の領地であったが、今は天領(幕府の直轄領)になっている。佐藤駿河守はその甲府の管理人なのである。今、土佐の乾退助(板垣退助)が三千の東山道方面軍を擁してとして東山道を甲府に向かって進撃している。この甲府を守っているのが下級役人とも言うべき、百数十人の与力、同心なのである。このままでは甲府はやすやすと官軍の手に渡ってしまう。佐藤駿河守はさらにささやく。「近藤殿、甲府をお取りなされ。このことは幕閣のお歴々にも了解を得ています。老中の方々は、近藤殿が甲府を獲ったら、甲府の天領の半分を近藤殿にやってもよいといっておりますぞ」天領の甲府は百万石、半分でも50万石ではないか。近藤は有頂天になった。「兵、金などはこちらで用意いたしましょう。ぜひそうなさい」多摩の百姓が50万石の大名。長州や上杉でも30万石程度なのに、この俺が50万石。近藤は狂喜した。近藤は国士を装っていたが、所詮一個の純情な多摩の百姓であったろう。
2005.08.16
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沖田の死期は近づく。布団に身を横たえたままで沖田は老婆を呼ぶ。沖田が庭で倒れて以来、障子は閉めきっている。沖田はもう起き上がる力もない。ばあさんあの黒猫は来てないかなあ、ちょっと見てくれないか。老婆は沖田の病状の悪化を危惧し、来てませんよ、という。そうかなあ、来ているような気がするんだよ。ばあさん庭に行って見てくれないかな。老婆は庭を見るふりをして、来てませんよ。しばらくすると沖田はまた老婆に尋ねる。あの黒猫来てないかなあ。ばあさんみてきてくれないか。老婆はまた見るふりをして、来てないと答える。なんどかそういうことを繰り返した後、沖田の声は次第に小さくなっていく。沖田総司が死んだのは慶応四年5月30日、沖田は一人で逝くのが似合うのだろう。井上源三郎とは対照的に、誰にも看取られることなく、一人で死んだ。布団から這い出て、縁側でこと切れていたらしい。手には、京で沖田の天才を高からしめた菊一文字を抱いていた。享年25才。墓は、東京元麻布の専称寺にある。沖田の命日には若い女性たちの手向ける香華が絶えない。沖田は冥土で、花を手向ける女性の群れを見て苦笑しているかどうか。沖田の家系は姉お光が林太郎を婿にとり、今も残っている。その沖田家に沖田のことが書かれた文書が残っている。以下、要約。沖田総司房良、幼にして天然理心流近藤周助の門に入り剣を学ぶ。異色あり。十有二歳奥州白河阿部藩指南役と剣を闘はせ、勝を制す。この名、藩中に籍々たり。
2005.08.14
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慶応四年(1868年)1月15日、富士山丸が品川に着いた時、沖田総司はよほどいけなかったらしい。療養先の神田和泉橋の医学所に運ばれた時には、歩くこともままならなくなっていたが、土方ら新撰組隊士が見舞うと、やつれてはいたが、いつもどおりふわっとした様子で明るく笑みを洩らした。「総司の声を聞くと、おらぁ物哀しくなるんだよ」といったのは土方の長兄為次郎である。為次郎は盲目で生まれてきたため、家督を次兄喜六に譲り石翠と号した。幼いころから沖田とそばで接してきて、そう言った。目が見えないだけに、総司に何か感じていたのだろう。総司は、最後までそういう雰囲気を残して死ぬ。病名は労咳、いまでいう結核である。結核は、今はさほど重病とはなっていないが、つい最近までは死病といわれた。無論、私は話でしか聞いたことはない。余談ではあるが、私が若き頃、軽井沢の別荘に作家の故堀辰雄夫人の多恵子さんを訪れた時、風立ちぬの著者、堀辰雄氏が労咳で苦しむさまを見て、奥さんの堀多恵子さんはともに死のうと頼んだと言っていた。多恵子夫人は室生犀星氏が女傑と称した方である。その多恵子夫人が、共に死のうとまで言ったのだから、病気の凄まじさがわかる。沖田は神田和泉橋の医学所から千駄ヶ谷池橋尻の植木屋平五郎の離れに居を移した。最初、庄内藩の武家に嫁いでいた姉のお光が看護していたが、夫の庄内藩移動に伴い、老婆を雇った。沖田には、お手伝いとして、老婆が一人ついているだけである。沖田は日がなふとんの中から狭い庭を見ている。この頃になると沖田は一日中臥せっていた。わずかに首を動かし庭をじっと見ている。あるとき、沖田は老婆を呼んだ。「ばあさんばあさん、刀を持ってきてくれないか」老婆は仰天し、「体をお動かしになってはいけませんよ」「庭に黒猫がいるんだ。あの黒猫がじっと俺を見ているんだ。俺はあの猫を斬ろうと思う。ばあさんはやく刀を持ってきてくれ。」庭には確かに黒猫がいる。その黒猫がじっと沖田を見ている。老婆はやむなく沖田に刀を渡した。沖田は刀を支えに起き上がると裸足で庭に出た。そして剣を抜くと黒猫を見据えた。黒猫は微動だにしない。沖田は剣を構えた。黒猫は微動だにせず沖田をじっと見ている。しばらく対峙が続いたが、やがて沖田は剣を放り出すと倒れこんだ。老婆はあわてて人を呼び、沖田をふとんに担ぎこんだ。黒猫はいつの間にかいない。沖田は布団に運ばれる最中にも、「ばあさん斬れない、ばあさん斬れないよとうめいていた」老婆は子供にかんでふくめるように優しくなだめた。この日を境に沖田は障子を閉め、庭をさえぎった。
2005.08.14
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井上源三郎という男がいる。多摩の百姓の倅で、これといってとりえのない、時代の変革がなければ、おそらく多摩で篤実な農夫として生涯を終えた男である。若い頃に、この地方の農家の若者なら当たり前のようにする田舎剣術の天然理心流を習った。剣はさして伸びず、また才もないが、ただ黙々と修行に励んだ。乱世になった。この田舎剣術の天然理心流も世に出る機会があり、道場主近藤勇は道場をたたみ、丸ごと京へ行くことになった。井上も誘われた。近藤にすれば、剣才のない井上は足手まといであったが、宗家の近藤より天然理心流の剣歴が古い井上に、声をかけずに京に行くことは出来ることではない。ただ井上は断ると思っていたらしい。が、井上は受けた。井上は長男ではない。多摩にいても自分の田は一枚もない。農家の婿の口を待つだけである。井上本人は、自分が足手まといだということは考えず、ただ、この年下の盟主を支えるという純粋な気持ちから受けた。そこには政治性も、名を挙げる気もない。同行の土方歳三も沖田総司も姻戚関係にある。誘われるままについて行った。京では天然理心流は新撰組として名を変え、一大警察集団として重きを成し、天然理心流の当主近藤勇はじめ土方歳三らが幹部に連なった。その関係で井上も郷党の先輩として幹部になった。といっても警察集団として必要な武技の才はない。ただ篤実な、それでいて忠実な気持ちだけがある。井上は稲を刈るように、近藤や土方のいわれるままただ黙々と尊攘志士の首を刈るだけである。やがて鳥羽伏見の戦いが始まり、井上はうまくもない剣を抜いて銃弾の雨の中、突入し、斃れる。怜悧といわれた縁戚の土方が、井上を抱き起こし、井上は土方の腕の中で死ぬ。かれもまた幸せであったと言わねばならない。
2005.08.13
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新撰組が富士山丸で江戸へ向かう途中、山崎烝が死ぬ。新撰組結成直後の第一次募集で入隊、以後監察として精勤してきたこの男は、おそらく新撰組で一番仕事に忠実だった。山崎は鳥羽伏見の戦いで薩軍の銃弾を数発くらい、重傷のまま大阪へ運ばれた。それがこの富士山丸で死ぬ。乗船した時には、傷は化膿しすでに虫の息であった。山崎の圧巻は、池田屋事件だったろう。薬屋に変装して池田屋に潜り込み、尊攘派の刀を隠すなど、動きを鈍くした最大の功労者である。山崎は幸せであったろう。幕府海軍の好意により水葬が決まった。近藤以下新撰組隊士に見守られながら、山崎はその遺骸を日の丸で包まれ、弔銃が撃たれラッパが吹かれる中、海に投じられた。大阪の鍼医の倅が、武士として、幕府海軍によりこれだけ壮大な葬儀を行ってもらえる。乱世の幕末にだけ起こりうる特異な例であろう。
2005.08.12
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鳥羽伏見の敗戦からしばらく経った慶応四年1月12日、大阪にいた新撰組44人は幕艦富士山丸に乗り、江戸へ向けて出航した。新撰組はまだ幸せであったろう。このとき大阪にいた多くの幕軍は取り残された。幕軍は一万数千人である。(一説には3万とも4万ともいわれる)幕艦に乗れるのはわずかでしかない。しかも幕軍に参加している藩の多くは東国諸藩である。かれらは命がけで故郷に帰らなければならない。大阪から江戸に上るのは、京を通るのが通常だが、京は官軍で埋め尽くされている。みながそれぞれ江戸までの帰路を考えた。ある東国の小藩は、奈良に下って、笠置、伊賀を通った。伊賀上野は準譜代ともいうべき藤堂藩である。藩祖藤堂高虎は戦国時代豊臣の譜代であったが機を見るに敏で、秀吉死去前夜、徳川に寝返って32万石を確保した。寝返りがこの藩の得意芸であり、この鳥羽伏見の戦い直後も旗幟鮮明ではない。(この後すぐに官軍に寝返り、維新に家を残したが)その東国の小藩は、いつ藤堂藩に襲い掛かられるか戦々恐々としながら伊賀を通過、紀州徳川家の飛び地松坂を抜け、船で三河へ出た。三河は徳川の勢力圏下であり、江戸まで七十数里、ここまで来るとようやっと安心した。徳川慶喜の遁走はこのように東国の諸藩にまで累を及ぼす。
2005.08.11
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大石鍬次郎は吉村と同役新撰組浪士調役で、新撰組が手を下した人斬りで大石が参加していなかったことはないといわれ、人斬り鍬次郎といわれた。剣技が優れているというよりも、性格の傾斜した殺人嗜好者でありなによりも殺人を好む。この時代こういうただ人を殺したい、という人間があらわれてくる。長州の神代直人などがそうである。口癖は「斬る」である。尊王とか攘夷とか関係なくとにかく人を殺したい。幕末にあっては高杉を付け狙い、維新では大村益次郎を暗殺し、刑場の露と消えている。思想も何もあったものではない。大石は、油小路の血闘では、すでに死んでしまっている高台寺党の隊士をあちこち死体損傷して、土方に咎められている。この大石の末路の行動が吉村に似ている。後年、甲州勝沼の戦いで敗けた新撰組ちりぢりになる。このとき大石は何を思ったか武州板橋の官軍本営に百姓の鍬吉になりすまし、旧高台寺党の加納道之助を訪ねた。黒いラシャの洋服に、白い木綿の帯を締めて、白羅紗の陣羽織の装いで官軍幹部然としている加納を見つけると、黒の脚絆に縞の袷のしりをからげた鍬次郎はすがった。昔のよしみで、官軍にいれてもらえないかという。大石は加納の盟主、伊東を油小路で暗殺、伊東の遺骸を引き取りにきた同志の殺戮を指揮した人間である。その直前にも高台寺党の同志を会津藩邸に誘致して4人を殺している。加納にとっては、いわば不倶戴天の敵である。この大石の神経はどういうことであろう。前回の吉村と通じるところがあるように思える。大石は結局、加納に痛罵され、武州板橋の官軍屯営で拷問の末、首を斬られている。
2005.08.10
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明日から、8月11日(木曜日)ぐらいまで、お休みします。新聞もお休みなので、私も。(笑)
2005.08.08
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吉村は伏見から大阪までの十数里を、刀を杖にして使い、官軍の探索におびえながら、網島の南部藩仮屋敷に着いた。南部藩大阪屋敷の留守居役、大野次郎右衛門は訪ねてきた泥だらけの吉村を卑しむような目で見つめた。大野にしてみれば何をいまさら、という気持ちだったろう。吉村は媚を売るような態度で、大野に帰参を乞うた。「今まで、幕府のために尽くしましたが、時勢がこうなりました以上、これからは勤王のために尽くしたいと思います。つきましては、いったん帰参させてもらえないか」大野はあきれたろう。そもそも脱藩は大罪である。吉村貫一郎は犯罪人ではないか。その吉村は自分に都合のいいことばかりいう。幕威豊かな頃は新撰組として幕府についていたが、鳥羽伏見の戦いで、幕府が一敗地にまみれると勤王に衣替えし、これからは勤王に忠義を尽くすという。しかも勤王で身が立つまでは南部藩においてくれという。吉村のそんな虫のいい話を聞いていた大野は冷酷に言い放つ。南部武士なら恥を知れ、腹を切れ、と。すると吉村は、「私は南部藩や勤王なんてどうでもいいのです。妻子さえ安心して食わせてゆける扶持が貰えるなら」ここまで言い切るのは爽快な気がするが、無論藩の要職にある大野が許すはずもない。結局、吉村は大野によって腹を斬らされる。こんなつまらない吉村を、浅田次郎は創作を膨らまし、見事な壬生義士として描く。似たような例がある。同じく新撰組幹部だった大石鍬次郎のことである。
2005.08.08
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吉村貫一郎が旗本になって、わずか半年で鳥羽伏見の戦いが始まる。鳥羽伏見の戦いでは新撰組はさんざんに敗けちりぢりになって、土方らわずかな隊士が大阪城に逃げてきた。幕府の前線基地があった伏見も官軍に占拠され、いまや幕軍の兵は一人もいない。新撰組の陣地があった、その伏見奉行所に吉村が泥だらけの姿でやってきたのである。吉村は戦闘中に新撰組からはぐれ、どこでどうしていたのかわからない。吉村は、剣は不得手であったので(いくつかの新撰組関係の本を読んで、私はそう考えている)おそらくどこかに潜んでいたのかも知れぬ。吉村は新撰組では諜報を専門にやっていたので、先頭に立っての斬り込みなどはあまりしなかったのではないか。ましてや今回の鳥羽伏見の戦いは戦争である。単なる斬りあいとはわけが違う。今で言えば諜報分析が専門の事務方担当の警察官が、戦争に出るようなものである。吉村は、伏見に戻ってきたのはいいが、伏見には身の置き場がない。官軍が充満しているのである。進退窮まった吉村は、網島(今の大阪市都島区)に南部藩仮屋敷が出来ていて、旧知の大野次郎右衛門が留守居役をしていることを思い出し、もはやこれに頼るしかないと思った。
2005.08.06
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ここで鳥羽伏見の戦いの一情景について述べたいと思う。吉村貫一郎のことである。吉村貫一郎に関しては、作家の浅田次郎氏が名作壬生義士伝で、主人公にしている。タネは、子母澤寛氏の新撰組始末記と思われる。新撰組始末記の中の新撰組始末記の隊士絶命銘々録に、吉村貫一郎のことが、文庫本でいうとおよそ5ページにわたって書かれている。浅田次郎氏の凄みは、このたった5ページの吉村貫一郎の人となりが触れられている文からあれだけの長大な作品を書いたことだろう。隊士絶命銘々録によると吉村貫一郎は南部盛岡の産で、ごくわずかな扶持米取りであった。夜も寝ずに漆掻きや仏師の下職のような内職をしていたが、家族五人ではどうにも食えず、女房と相談して脱藩を決意、一人で文久二年大阪に出てきた。大阪では食い詰めた生活をしていたが翌年夏、新撰組では大阪で隊士募集をしていたのでこれに応募、剣はさほどではなかったが、学問が出来、書も良くしたので剣に覚えのある者はいるが、学が出来るものが少ない新撰組においては貴重扱いされた。故郷にいる家族を養うために、金に吝嗇であった以外は仕事にも熱心であったので、局長近藤勇に非常にかわいがられ、まもなく浪士調役兼監察のお役付になった。幹部である。慶応三年6月10日に局長近藤勇が堀川の屯所の大広間に新撰組隊士を集め、新撰組全員が旗本になったと発表した時、吉村貫一郎は幹部にもかかわらず、周囲を気にせず、泣きながら、局長近藤勇、副長土方歳三にありがとうございます。ありがとうございます。と頭を下げて回った。吉村が喜んだのも無理はない。晴れて旗本、お禄も三十俵二人扶持である。これで南部に残した妻子が暖かそうな暮らしが出来るのである。吉村は何度も何度も頭を下げた。こういう素朴な田舎くささが、近藤ら新撰組幹部に好かれた理由であろう。
2005.08.06
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鳥羽伏見の戦いで破れ、大阪城に退散した土方新撰組は驚愕した。大将がいないのである。大将とは、十五代将軍徳川慶喜である。しかも今の今まで前線で戦ってきた会津、桑名藩の藩主、松平容保、松平定敬もいない。わけはほどなくわかった。幕軍の本拠地である大阪城では鳥羽伏見の劣勢が伝わると、慶喜の出陣をうながす声が出てきた。慶喜が出陣しないと幕府軍の士気が鼓舞しないというのである。当たり前のことである。古来、大将が戦場にいない戦さがあったろうか。慶喜は、「よし、皆、出陣の用意をせよ」と下知した。城内は沸き立ち、勇奮した。いよいよ慶喜公がその気になられたのだ、と思った。しかし、城内で戦さの準備が行われるあいだに、慶喜は大阪城から逃亡したのである。まさに逃亡した、という言葉がふさわしい。慶喜が大阪城を脱出したのは、1月6日夜午後10時ごろ、会津、桑名両藩主、老中板倉伊賀守ら側近数名を連れ、夜の大阪をひた走り、八軒家から小船でこぎ出でて海に出た。天保山沖には幕府艦隊がいる。翌1月7日朝、慶喜は幕府艦開陽丸に乗り込むとさっさと江戸に向かって遁走した。これは、どういうことであろう。水戸勤皇学の影響をうけた慶喜が、朝廷に逆らって逆賊の汚名を着るのを恐れたとはいえ、慶喜のために戦っている家来をおいて、遁走するなど尋常の神経ではない。慶喜は家康公の再来といわれたが、家康ならば敵前逃亡などはしない。おそらく大阪城に拠って朝廷を偽装する薩長軍を見破り、大鉄槌をくらわし、再び天下に覇をとなえたであろう。逆賊の汚名を恐れるというやわな神経は戦国期に生まれた家康にはない。これは信長や秀吉も同様であろう。慶喜は戦国武将の図太さやあくの強さはない。江戸三百年の太平期に慣れた神経質な知識人だったのだろう。とにかく土方ら新撰組は置き去りにされた。
2005.08.05
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新撰組が闇を得て、白兵戦を展開したため形勢が逆転した。銃を主装備にしている朝廷軍は、まさに恐れおののきながら闇夜のざわめきに無差別に銃を撃っている。その音を聞き、新撰組はそっと忍び寄り、次々に敵を斬っていく。朝廷軍は一時パニックに陥った。しかし新撰組に不幸が襲う。本陣である伏見奉行所で火の手が上がったのである。大火事である。朝廷軍の砲弾が原因か、理由はわからない。広壮な伏見奉行所は高く火柱を上げ、中にあった武器庫の火薬に引火し次々に爆発していく。これで伏見市街は、まるで昼間のように明るくなった。はるか西方の鳥羽からもこの火は見えたというからよほどの大火事だったのだろう。朝廷軍の眼前には火の手にあぶりだされた、新撰組や会津兵の姿がくっきり見える。朝廷軍は再び、勢いを取り戻した。狙い撃ちである。新撰組たちは寄る辺の本陣、伏見奉行所を失い撤退をせざるを得なかった。土方率いる新撰組は会津兵とともに最終的には大阪城へ落ちた。ここで再びやり直せばよい。大阪城は天下一の名城だ、と土方は思ったに違いない。しかし土方は大阪城について腰が抜けるほど驚かされることになる。
2005.08.04
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鳥羽での砲声を、新撰組はもう一つの戦場、伏見で聞いた。伏見は幕府の前線基地で、会津藩、新撰組がいる。砲声につづいて西方の鳥羽からしきりに射撃音が聞こえてきた。(はじまった)伏見で臨戦態勢の会津藩や新撰組はただちに開戦した。会津藩砲兵隊は前方、竜雲寺山に陣を構える薩摩藩に大砲を撃ち始めた。新撰組も剣を抜き、次々に陣地である伏見奉行所を飛び出て行く。会津藩も抜刀しながらこれに続く。しかし、薩摩藩は畳で塁を築き、そこから銃を撃ってくる。新撰組隊士は次々と斃れていく。会津藩士も同様である。しかも会津藩士は要領が悪い。敵を倒すと首を斬り落とし、腰にぶら下げるのである。これが会津藩士の働きを鈍くする。首を獲り、殿様に検分して貰い、自分の手柄を証明するのは戦国時代の習いである。中には首を三つも四つもぶら下げふらふらになりながら戦っているものもいる。さすがに新撰組はそういうことはしない。土方や永倉らは会津藩士に首を捨てろ、と怒鳴るが会津藩士はきかない。やがて薩摩藩の近代的装備が会津、新撰組の抜刀戦法を駆逐してゆく。新撰組は土方歳三、永倉新八、原田左之助ら百戦練磨の勇猛な猛者たちが先頭に立ち、指揮するが武器の違いと言うのはどうしょうもない。豊富な銃弾を降り注がせる薩摩軍の前に、体を縮こまらせ、木陰に隠れるほかすべはない。夕刻に始まった伏見市街戦は、まもなく陽が落ち闇が戦場を包んだ。新撰組得意の白兵戦にはもってこいである。木陰に身を潜めていた土方も頭をもたげてきた。
2005.08.03
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鳥羽伏見の戦いというのは、少数だが決死の朝廷軍と、大軍だがやる気のない総大将をいただく幕府軍との戦さである。事実、大将である徳川慶喜はこの鳥羽にはいない。はるか十三里離れた大阪城にいるのである。最初から幕軍には士気がない。幕兵としては、大将自らが出張ってこないのに何で俺が、という気持ちが強い。そういう状況の中、鳥羽伏見の戦いは始まる。一方、薩摩藩長州藩を主力とする朝廷軍は必死である。在京の朝廷軍は圧倒的に少ない。だからこの戦さは九分九厘負けると思っている。そのため、もし敗戦が決まれば天子を連れ、長州に動座願うところまで考えて戦さに望んでいる。戦さに望む気概がそもそも違う。幕軍は徳川慶喜の代理、滝川播磨守が大軍を率いて、大阪から京の鳥羽口に差し掛かったことから始まる。慶応四年(1868年)1月3日午後5時である。ここを少数で守るのは指揮者椎原小弥太らたった二百五十人。滝川播磨守は馬上、椎原に朝廷に行くためここを通せという。滝川が迫る後ろには、後詰めも含め大軍がいる。その数およそ一万数千。椎原は豪胆である。これを拒否した。滝川は後方に伝令を走らせ、力ずくで通るため砲弾の準備をさせた。しかしそれよりも早く、薩摩の大砲が火を噴いた。砲兵指揮官の野津鎮雄が独断で撃ったのである。この頃の大砲の命中度はきわめて低く、どちらかというと音で驚かせるといったふうな使われ方だったが、どういうわけかこの第一砲は幕軍に的中した。この一撃で数名の幕兵が死亡している。これを機に、幕軍は壊乱してしまう。しかし戦場はもう一つある。日本最強の兵と言われた会津藩と新撰組がいる伏見である。
2005.08.02
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大政奉還と王政復古の号令は表裏一体のものであろう。大政奉還が幕府主導に対し、王政復古の大号令は薩長主導である。大政奉還どおりになれば、慶喜は数百万石の領地と徳川旗本らをその手に持ちながら、将軍職を放棄する。それはとりもなおさず、諸藩の中で群を抜いての大大名として残ることになる。これは前田の加賀百万石や薩摩の七十余万石、をはるかに上回る。当然来るべき新政権(明治政権)においては、首座を占めることになる。慶喜の狙いもそれであった。それゆえあっさりと将軍職を放棄した。慶喜としては老朽化した幕藩体制の将軍としているよりも、新体制の首座のほうがいい。しかし、薩摩の西郷、大久保、さらに岩倉はこれを許さない。敵を作らねば革命の大義名分が出来ないのである。かれらはなんとしても敵を作ろうとした。それが徳川慶喜である。敵を明確にし、断罪し、その上で新政権を発足させたい。敵は幕府であり、慶喜である。そのため慶喜にのみ領地没収を命じた。まことに持って理不尽で強引な手法である。もちろん受け入れられなければ即、戦争である。慶喜もそこを知り抜いている。だからこの時期、京の二条城を退去し、大阪城に下った。ひたすら事を構えず、恭順するために。しかし、幕府側の急先鋒、一部の幕閣や会津藩や桑名藩はそうではない。あまりの無理難題に朝廷に強訴することを決めた。慶応三年十二月の暮れ、幕府は老中松平正質を総督として「討薩表」をもち、京に向かった。朝廷に対する陳情である。しかしただの陳情ではない。兵が動く。大軍が動く。その数16400人。対する在京の薩摩長州軍は4000人。その差3倍以上である。
2005.08.01
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