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沖田総司には恋人がいたらしい。当時の新撰組隊士は、金回りも良かったので島原など遊郭で相当遊んだらしい。沖田などは幹部級であったので、妻帯することも、女を囲うということも出来た。沖田の恋らしきものは唯一、子母沢寛氏の新撰組始末記に出てくる近藤勇五郎(近藤勇の甥)の話だけである。それによると、ある医者の娘と相思相愛の恋仲になったが、成就せず別れたという話である。人斬り集団壬生浪と由緒正しい医家の娘の淡い恋、まさにロマンティックな悲恋である。かれらはうぶな中学生みたいに、鴨川を眺め、清水で紅葉を愛(め)で、手さえつながず、日の暮れるまでいつまでもいつまでも歩いたのであろう。この雰囲気は司馬遼太郎氏の新撰組血風録が一番伝えているように思える。殺戮の京に咲いた一つの挿話として、この恋はずっと語りつがれていくに違いない。森満喜子氏が、沖田の恋人の名前が100年以上経った今は、もうわからないということについてこう語っている。「かつては沖田の唇によって幾度、幾十度呼ばれたか知れない愛しい名であるのに」
2005.06.29
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新撰組で一番の人気といえば、沖田総司であろう。奥州白河藩浪人で(これは父がそうであったらしい。この当時は箔をつけるため、父や一族がそうだった場合、権威を借りることが多々あった)伝聞によれば、十二歳で白河藩の剣術指南役を破り、二十歳前には天然理心流の免許皆伝になっている。真偽はともかく、剣が強かったことは間違いない。恐らく実戦では、京随一の使い手だったのではないか。これだけの腕を持っていれば、道場を開くことも出来、一流を開くことも出来たはずである。まさに100年に一度の剣の天才であった。天然理心流道場では、近藤、土方、永倉の錚々たる達人が子供のように手玉に取られた。とくに沖田の突きは、三段突きといわれ、人が一度突く間に、三回突くといわれた。しかも三回目の突きがぐーんと伸びたらしい。速いところにきて、最後の突きは喉もとにぐーんと伸びる、さらに沖田の構えは剣尖が微妙に揺れている。一種の難剣である。以前、アマチュアレスリングで世界王者になった人に、話を聞いたことがあるが巧者は、試合では相手の目の前で自分の手をちらちらと動かすそうである。そうすると相手は眼前の手が気になり、集中力がそがれるそうである。ともかく、沖田はこれだけの天才を持ちながら、欲だけは忘れて生まれてきた。土方歳三の兄で盲目の人がいた。かれは、おらぁ総司の声を聞くと物悲しくなるんだ。といっていたという。総司には、健常者ではない人にだけ感じられる、何かを持っていたのであろう。テロリストには思想はいらない。軍隊と同じで、上司の命令を忠実にこなす、これだけである。沖田は剣の天才を持ちながら、思想が微塵もない。近藤さんが斬れというから斬りました、というだけである。剣士としては完璧であろう。
2005.06.29
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新撰組は慶応元年(1865年)初夏(4月7日に元治2年から慶応元年の改元)に組織の編成替えをしたがその中に山南敬助の名がない。山南は局長近藤勇の下、副局長の土方歳三の上に位置する総長だった人で、当然新編成の中では、土方の上か同等にあってよい。山南敬助は北辰一刀流の免許皆伝で、近藤がまだ江戸で試衛館道場主だった頃からの付き合いである。近藤の天然理心流は、古武術なので実戦には強いが、試合には弱い。道場破り対策として当時流行の試合剣術が出来る者をずいぶん頼んだらしい。近藤はずいぶん気前がよかったので、神道無念流の塾頭であった桂小五郎や渡辺昇(後の勤王の巨魁ら)も酒が飲め、小遣いがもらえるため、ずいぶん近藤の試衛館道場に用心棒としていったらしい。ともかくそういう風であったので、北辰一刀流免許皆伝の山南も用心棒をするうちに試衛館に居つくようになってしまったのだろう。しかし、この当時の大きな道場は尊王の気風があった。江戸三大道場の北辰一刀流の千葉道場は、坂本竜馬、清河八郎、神道無念流の斉藤道場は桂小五郎、高杉晋作、渡辺清、昇の兄弟、鏡心明智流の桃井道場は武市半平太を輩出している。尊王の要素が強い山南は、将軍様第一という天領の多摩の百姓、近藤や土方とはちょっと入れにくい部分があったのだろう。では何故尊王と佐幕が共存していたかというと、攘夷の点で一致していたからである。はっきり勤王といってもいいほどの伊東甲子太郎が前年一派を率いて新撰組に入隊するのも近藤と攘夷の点で一致していたからである。しかし、時代が煮詰まってくると亀裂が生じてくる。元治二年(1865年)ほぼ失脚状態の2月21日総長の山南は新撰組を脱退する。琵琶湖のほとり大津まで来た山南は引止めに来た沖田総司に説諭され、一泊し翌22日京の新撰組屯所へ戻る。脱退は、総長といえども切腹である。翌2月23日夕刻、山南は腹を切る。腹を切るにあたって、山南は試衛館時代からの盟友、二番隊隊長永倉新八に頼みごとをしている。当時遊郭のあった島原の天神というところに深く契った明里という遊女がいる。それにひとめ会いたいと頼んだ。永倉は引き受けたが、明里はその日用事があって連絡がつかなかった。永倉は同志の最後の頼みを果たせないと思い、ずいぶん気をもんで待っていたが、いよいよ水さかづきが終わり、切腹というところで、明里が屯所へ駆け込んできた。明里は屯所の山南が腹を切るであろう部屋の格子戸をたたき、「山南さん山南さん」叫んでいるとやがて格子戸が開き、山南が顔を見せた。明里は格子戸をつかみただ泣き続け、山南は涙を浮かべぼそぼそと話していたが、やがて格子戸は閉められ、明里は隊士によってその場でその場から連れ去られた。山南は沖田総司の介錯のもと、見事切腹した。その後の明里の行方はわからない。
2005.06.28
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単なる京都警備だった新撰組が公的に認められた文久三年(1863年)8月18日、新撰組は芹沢鴨を筆頭に御所へ出陣する。隊旗は赤地に誠の文字を白く染め抜き、浅黄色に袖口を山形にしたダンダラ染羽織、かれらが蛤御門から御所内に入ろうとした時、警備をしていた会津、桑名の藩兵に槍を向けられる。芹沢は胆力がある。藩兵を一瞥するや、大声で「われわれは会津候お預りの新撰組である。会津候の命によりお花畑にまかり通る。道を開けられたい」臨戦態勢の状態では、会津兵は気が立っている。槍を持つ兵たちはいつ刺し殺してもおかしくはない。しかも芹沢らはただの浪士組である。正規の藩兵から見れば、浮浪ぐらいにしか見えなかったろう。が、この時の芹沢の態度は堂々としたもので、会津藩兵たちも槍を降ろして、芹沢らを通した。蛤御門を警備する会津藩兵たちが、このわけのわからない一団を御所内に入れるということは一体どういうことだろう。会津といえば薩摩と並んで、当時最強の軍隊である。それが芹沢の一声でおとなしく槍を下げ、御所内に入れたのである。芹沢というのはよほどの人物であったことがわかる。やはり大将の器だったのであろう。これで、新撰組の士気はいよいよあがったという。
2005.06.27
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文久三年(1863年)3月10日、京都に残留した浪士組は芹沢鴨を筆頭局長に24名が2日後の3月12日、会津藩主松平肥後守容保のお預かりとなる。そして五ヵ月後の8月18日の政変で初めて歴史に登場する。この政変は、敵対関係にあった薩摩、会津両藩が京都政界で主流であった長州を追い落とすといういわばクーデターである。浪士組は長州を中心とした尊攘派志士をかなり斬ったらしい。この頃の長州の桂小五郎の手紙によると「長州藩にゆかりの者とみれば見さかいもなく剣をふるう」とある。この功績により、浪士組は正式に『新選組』拝命と市中取締りの下命をうけた。いよいよ新撰組の華やかな歴史が始まる。
2005.06.26
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文久三年(1863年)2月4日幕府の徴募に対して、350名を越える浪士が集まる。策士清河八郎の計画に踊らされた幕府が京都治安とと将軍家茂上洛に際しての警備のためである。(清河は京に着いたらこれを天皇の直接の軍隊にし、革命軍として幕府を打つ浪士隊にするつもりであったが)当時、新宿区市谷柳町に道場を構えていた近藤勇も師弟ごとこれに参加する。天然理心流という古武術でははやらなかった。今の、ボクシングを考えればいいだろう。ボクシングはもとは喧嘩であり、素手で殴りあうのが練習としても実戦的ではあるが、ボクシングはすでに今は喧嘩ではない。剣術もすでにこの傾向があった。千葉周作の興した北辰一刀流がそうで、今までの剣術練習が木刀を主にしていたのが、周作が竹刀というものを考案した。このため北辰一刀流は爆発的な人気となり、千葉周作一代で江戸三大道場の一つとして数えられるようになった。(無論、千葉周作が当代でも傑出した剣豪であることは間違いない)ともあれ、食い詰めた天然理心流道場の師弟は丸ごと浪士隊に人生を賭けた。四代続いた天然理心流を廃業するなどよほどの決意だったのではないか。
2005.06.25
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新撰組のことに関してはタネ本がある。子母澤寛氏の新撰組始末記である。全ての新撰組関連の史家、作家(たとえば池波正太郎、司馬遼太郎)はこの本から出たといってもよい。子母澤氏の祖父は彰義隊の生き残りで、氏は幼少の頃祖父の膝の上で、維新後逆賊となった幕府側の話をよく聞かされたという。長じて、東京の新聞記者となった氏は、休前日の金曜の夜に京都行きの夜行列車に飛び乗り、新撰組を知る生き残りの人(八木為三郎老人-かれは新撰組が当初宿泊していた家の子で沖田総司などに遊んでもらっていた)に会い、取材し、月曜の朝には再び東京に戻るという生活をしていたという。この聞き書き風小説は、多分に氏の小説家たる虚構の部分を含んでいるが、これにより、新撰組はたんなる悪役グループから、かれらもまた尊王であり、忠義の士であったことが知らされた。しかも、近藤勇、土方歳三、沖田総司や名もなき無名の隊士までがいきいきと書かれ、一人ひとりに青春、人生があったことがわかる。
2005.06.24
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水戸藩は佐幕派(門閥・保守派)、尊王派(尊攘改革派)の壮絶な党争を繰り広げる。その象徴が天狗党の乱であろう。元治元年(1864年)3月28日尊王派である天狗党リーダー藤田小四郎(藤田東湖の四男)は幕府に攘夷実行を迫るため筑波山に仲間と共に挙兵した。その数約四百名。その後、当初は慰撫していた武田耕雲斎が参加、武田耕雲斎を盟主に八百余名、さらに千余名に増えたが、幕軍を中心にした諸藩連合軍に追討されたため、武田らは京にいる尊王派の後見者一橋慶喜を頼るしかないと、京に西上を開始した。天狗党千余名の大嘆願部隊である。無論行く先々には諸藩をたのんだ幕軍が待ち受けている。途中、幕府方の諸藩を打ち破り打ち破りしてきたが、12月敦賀の手前の木ノ芽峠でついに幕軍一万に包囲され投降、天狗党は幕軍の加賀藩お預けになる。武田耕雲斎らは一橋慶喜に嘆願したが、慶喜は自己保身のため見捨てた。慶喜が、百才あって一誠なし、といわれるゆえんであろう。慶喜に見捨てられたとみるや、幕軍は手のひらを返したように態度を変える。天狗党は虫けらのようにあつかわれ、狭く窓もない鰊倉(にしんぐら)にぎゅうぎゅうづめに押し込められた。無論、この劣悪な環境では病死人が多数出た。翌慶応元年(1865年)2月に始まった裁判はすさまじいもので一ヶ月の間に武田耕雲斎、藤田小四郎をはじめ三百五十三名が処刑となるというものであった。武田耕雲斎、藤田小四郎らは斬罪ののち首を水戸に送られ、さらし首。悲しい挿話がある。耕雲斎の妻子もさらし首、孫たちも斬罪に処せられたが、この罪に連座して武田耕雲斎の十七歳になる長女は、藩吏に捕らえられて殺されるとき、刀の下に笑ってくびをさしのべたという。話は続く。天狗党の乱に参加していた武田耕雲斎の孫、武田金次郎は年少(13歳)のため処刑にされず敦賀に幽閉されていたが、慶応4年(1868年)戊辰戦争が起きると事態は一変、武田金次郎は官軍幹部として帰藩、復讐の鬼と化し水戸佐幕派をことごとく虐殺、復讐を果たす。その後の武田金次郎は落魄し、明治28年(1895年)不遇のうちに世を去っている。水戸の政争史は互いに相手の血の一滴が涸れるまで終わらないという、そんなやりきれなさを感じる。
2005.06.23
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幕末、勤王の卸問屋は水戸藩であった。水戸黄門で有名な徳川光圀が家来に命じ、編纂したのが大日本史全397巻である。もっとも編纂開始が光國在世の明暦三年(1657年)で、完成を見たのは1906年(明治39年)であるから気の遠くなるような話である。大日本史は、神武天皇から後小松天皇までの編年体歴史で著したもので、これをもとに日本は勤皇が正統であるとした。水戸藩の勤王たるゆえんである。しかし同時に水戸藩は御三家である。いわば徳川将軍にもっとも近い血統でもある。この矛盾が水戸藩内で、勤王、佐幕の血で血を洗う政争になり、水戸は薩摩、長州、土佐などに影響を与えながらついに埋没する原因になる。水戸の勤王派を天下に知らしめたのはなんといっても桜田門外の変であろう。万延元年(1860年)三月三日、降りしきる雪の中、薩摩藩士有村治左ヱ門一人を含む水戸浪士十八名が、幕府の最高権力者、大老の井伊直弼を討ったのである。この事件の前、井伊直弼は朝廷の許可なしに開国(この時代尊皇派は攘夷、幕府側は開国であった)、将軍継嗣問題で水戸派の徳川慶喜をはずし、水戸藩に対しては反抗する慶喜の父斉昭の幽居(安政の大獄)と専断横行の政治をしている。これに怒ったのが水戸の過激勤王派である。大久保利通らが主宰する薩摩藩の勤王過激派精忠組と手を組み、大老井伊直弼暗殺を謀った。薩摩は藩の事情があって結局参加したのは有村治左ヱ門一人になった。有村治左ヱ門は有村三兄弟の末弟で、次兄にこの事件に連座して切腹した雄助、西郷の盟友とされ、明治後位人臣を極めた長兄俊斎(海江田信次)がいる。治左ヱ門は、この時二十二歳、典型的な薩摩武士で、無口で偉丈夫なすがすがしい青年だったという。無論薩摩藩剣術、示現流の達人だった。治左ヱ門は、薩摩藩からの参加がたった一人だったのを恥じ、井伊の行列に先頭を駆けて突っ込んでゆく。そして井伊の首をとった後、腹を切っている。ともあれ、この桜田門外の変で歴史は旋回する。白昼堂々、時の最高権力者がたった十八名の浪士により殺されたのである。これ以降、幕威は失墜し、草莽の志士たちは新撰組の登場までテロリストの季節をもたらす。(歴史の面白さは水戸浪士の井伊暗殺で全国の志士たちは狂喜し、続々と京に上って殺戮を繰り返すが、これを鎮圧する新撰組の初代局長芹沢鴨はこの水戸浪士の系譜を継ぐ水戸過激派にぞくしているということだろうか)
2005.06.22
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土佐藩郷士、武市半平太は嘉永元年(1848年)土佐城下新町に剣術道場を開く。20歳の時である。この道場は単なる剣術道場ではなく身分の軽いものの社交サロンでもあったため、土佐七郡から郷士、足軽が集まった。坂本竜馬、中岡慎太郎、吉村寅太郎、岡田以蔵などである。まだ十代の彼らは、ここで青春を過ごす。これが後の土佐勤王党の礎になっていく。嘉永六年(1853年)ペリー来航、万延元年(1860年)大老井伊直弼暗殺と内憂外患が続き、文久元年(1861年)8月、武市はついに土佐勤王党を結成する。加盟血判者192名、その中には武市半平太ほか、坂本竜馬、大石弥太郎、河野万寿弥、中岡慎太郎らの名が見える。みな、戦国絵巻から出てきたようなおとこどもである。このときの血盟文は次の言葉から始まる。堂々たる神州戎狄の辱しめをうけ、古より伝はれる大和魂も、今は既に絶えなんと帝は深く歎き給う。-中略-われら一点の私意を挟まず、相謀りて国家興復の万一に裨補せんとす。-後略-踊るような文体である。この野人のような一領具足たちは血盟した時、血沸き肉踊る心境であったろう。ペリー来航と桜田門外の変により戦国の世に戻ったのである。しかも、わが思想の背景は勤王という正義である。この正義の前には、山内侍も幕府でさえも吹っ飛ぶのだから。この土佐勤王党は、慶応元年(1865年)五月十一日、武市が罪を得て、切腹することで終焉を迎える。明治維新までわずか二年余である。その後の一領具足の末裔たち、那須信吾、安岡嘉助、吉村寅太郎は天誅組を組織して玉砕、竜馬は海援隊を作り、薩長同盟実現、大政奉還の立役者になったが維新直前暗殺。中岡は長州において対幕抗戦を続け、竜馬と共に薩長同盟、大政奉還をなしたが暗殺。青雲の頃、志を立てて踊るような気持ちで土佐勤王党結成に参加した青年たちは、累々と屍を築き、明治後、残った者はわずかしかない。
2005.06.21
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遠く戦国の世、土佐の一郡から身を興した長曽我部元親は一領具足という国民皆兵ともいうべき方式をとり、土佐一国を切り取り、さらに四国全土を席捲し、一代で四国の覇王となったが、中央に織田、ついで豊臣政権が興り、長曽我部元親の全国制覇の夢は費えた。土佐一国に押し込められた元親は、隠居、長子信親が後を継いだが、秀吉の九州征伐に参加して戦死、四男盛親が後を継ぐと、元親はまもなく死去。若年の盛親が残された。盛親は生来の田舎貴族なのであろう。中央の政情がわからぬまま、関が原の戦いで石田三成につき、領地没収、盛親は京の寺子屋を開いて暮らしていたが大阪の陣で豊臣方に参加し戦死、ここに長曽我部の家は費えた。しかし、土佐には一万余といわれる兵農兼務の一領具足が残された。ここに新しく入国してきたのが掛川六万石の山内一豊である。山内一豊は、土佐一国統治にあたり、長曽我部侍を採用しなかった。四国最強の兵であり、野人のような長曽我部侍を採用する気にはならなかったのであろう。山内一豊はもともと織田、豊臣傘下である。兵の中核は尾張時代に採用している。尾張は日本でももっとも最弱な兵とされた。しかも掛川六万石ではせいぜい兵は二三千である。土佐二十四万石など統治できるわけがない。山内一豊は長曽我部侍に戦慄したであろう。山内一豊は入国すると長曽我部侍を徹底的に弾圧した。決定的なのは浦戸の相撲大会である。土佐一国にお触れを出し、浦戸の浜にて相撲大会をやるといった。弾圧されているにもかかわらず、力自慢の一領具足たちは人がいいのか、浦戸の浜へ集まってきた。そこへ山内一豊は鉄砲隊を準備させて、皆殺しにしたのである。これ以降、長曽我部侍はおとなしくなる。が積年の恨みは、何百年も続く。私の友人に長曽我部侍の末裔がいる。かれはいまだに山内出身の者のことを、山内侍といい、土佐で偉いのは殿様でなく、竜馬さんじゃ、という。会津ではないが、虐げられた歴史を持つ種族は恨みを容易に忘れない。この考え方は日本に対する中国や韓国などみたいに、多分に政治的利用という酒精分が入ってないだけに凄みを感じる。
2005.06.20
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天保の頃、土佐藩の庄屋が集まりひそかに同盟を結んだ。われわれは百姓である。ゆえに、武士と違い、主君は山内ではない。百姓にとって主君はただ一人京におわす天皇である、というものである。武士ではないので、主君からお禄を頂戴していないということであろう。恐るべき思想である。この思想は天保年間、土佐の庄屋の間で、秘密裡に結ばれた。この頃、庄屋出身の中岡慎太郎、間崎哲馬、吉村寅太郎などが生まれている。かれらは、この思想の中で熟成され育ち、土佐勤王化への大きなエネルギーになっているのではないか。中岡にせよ、吉村にせよ、若くして庄屋を経験している。かれらが他の、たとえば坂本竜馬や武市半平太より民政に重点を置いているのは、小さい頃から子守唄がわりに、この天保秘密庄屋同盟という天皇と直結した思想を親から聞かされていたからではないかと思う。
2005.06.19
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岡田以蔵と坂本竜馬の交渉は、土佐勤王党時代に出来上がる。といっても、竜馬の家は明智光秀の重臣、明智左馬之助の系譜といわれ、しかも同一敷地内の縁戚才谷屋は土佐でも三本指に入る商家。しかもこの頃には竜馬は、剣道場日根野道場でぬきんでた才能を発揮していたので、先祖が武市の郎党であり、貧乏足軽の岡田以蔵とではおそらく対等の付き合いは出来なかったのではないか。岡田以蔵は師匠に当たる武市半平太と対等に付き合っている、おぼっちゃま竜馬を羨望のまなざしで見ていたに違いない。ただ竜馬の性格は決して人を馬鹿にしたり、侮ったりしない。そういう差別意識のなさが、貧乏で身分の低く無教養の暗くて卑屈な性格の岡田以蔵には、土佐勤王党にあって唯一甘えられる存在だったのではないか。後年、天誅華やかなりし頃、竜馬が師の勝海舟の護衛を岡田以蔵に頼んだ時も、逡巡しながらもこれにしたがっている。なにしろ、開国を説く幕臣勝海舟は当時、尊攘浪士たちからみれば、それこそ天誅の親玉みたいなものである。岡田以蔵にしてみれば自分が最も斬りたい相手であったろう。それをあえて護衛をしたのは差別されることに敏感な岡田以蔵が竜馬に親しみを感じていたからであろう。
2005.06.17
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岡田以蔵は、土佐藩の足軽の家に生まれた。身分の厳しい土佐藩にあっては、足軽は庄屋出身の郷士よりもその地位は低い。まして上士などは雲上人だっただろう。以蔵の少年期が卑屈の連続だったのは容易に推測できる。世が太平のままなら、生まれ故郷の岡田村で困窮のまま世を終えたに違いない。以蔵は若いエネルギーを発散するため、少年の頃から、宮本武蔵を私淑し、独学で剣を学んだ。無論この頃、土佐の片田舎は太平である。1853年(嘉永六年)乱世が始まる。ペリーの黒船来航である。15歳の以蔵のもとにもこのニュースは、やってくる。土佐は騒然とし、白札(郷士の上位)武市半平太を中心に土佐中の若い郷士たちが集まり、尊皇攘夷の名の下に続々と参集した。無論以蔵も入っている。桜田門外の変(1860年-万延元年)のあと、武市半平太を中心に土佐勤王党がついに結成される。坂本竜馬、中岡慎太郎ら土佐七郡の郷士、足軽の若者が参加した。その数192人、土佐の一大勢力である。当然以蔵も参加した。国情は尊皇攘夷に傾き、薩摩長州ら尊皇攘夷の有力藩は政治の基盤を京都朝廷におき、活動し始める。土佐も武市が佐幕主義の参政(首相)吉田東洋を暗殺、藩を一変し、勤王藩として京に乗り込んできた。以降京で薩摩、長州、土佐の覇権争いがはじまる。手段は暗殺である。どの藩が佐幕の要人を多く斬るか、競争になった。人斬り三人衆といわれた薩摩の田中新兵衛、肥後の川上彦斎、土佐の岡田以蔵を中心に暗殺が始まった。余談になるが、後の初代総理伊藤博文でさえ、有名な群書類従の著者塙保己一の四男で幕府の学者、塙次郎を暗殺しているのを見るとこの頃がいかに狂騒の時期であることかということがわかる。岡田以蔵は、その性格に暗い影を持ちながら自分の主張できる場をもって狂喜しながら仕事をしただろう。やがて、武市の失脚によりこの季節も終わりを告げる。武市ら党幹部は土佐帰郷を命ぜられ、入牢。一人難を逃れた岡田以蔵は身を持ち崩し、京で無宿者としていたところを、京の役人に捕らえられ、土佐藩に引き渡される。武市の吉田東洋殺しを白状し、武市一派を切腹に追い込み、岡田以蔵のみは武士としての切腹が許されず打ち首になり、その首はさらされた。なお、何の理由かわからないが土佐勤王党の名簿から岡田以蔵の名は削除されている。
2005.06.17
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幕末みたいな乱世になると、不思議な人物が出てくるらしい。清河八郎のことである。清河は東北出羽清川村の富裕な大名主で酒造家の家に生まれた。武士ではないが、実家の斉藤家が戦国の頃まで有力な豪族であったので、郷士というべきであろう。幼少の頃から、抜けるような秀才で、腕も立ち、度胸もある。青年の頃、江戸に上り学問は東条一堂、剣は千葉周作の北辰一刀流を学んだが、どちらもぬきんでたという。特に頭の回転は速く、のちのかれの人生がそれを物語っている。何でも出来る天才的な策謀家、といったところであろうか。この勉学の中でかれは尊皇攘夷に傾いていくがこの頃幕府を倒してやれ、と思っていたのはおそらく彼しかいないのではないか、というより俺が将軍になってやるとまで思っていたふしもある。一介の百姓上がりの浪士がである。まさに怪物である。ただかれは藩の背景がないことが不幸であった。江戸で学んで数年後、かれの機略の人生は始まる。かれは、幕臣松平主税介(時代劇などで有名な松平長七郎の子孫)を知り、その縁で山岡鉄舟ら幕臣と縁を結ぶ。さらに水戸の過激浪士とも交友を始める。その後、老中安藤対馬守暗殺計画、失敗するや武州川越に潜居、しかしこのときもみずからを将軍になぞらえ川越幕府とうそぶいている。川越潜居が幕府に知れると、京に飛び、京都尊攘派の大物田中河内介と獅子王院宮を擁して京の征夷大将軍をつくり、全国の浪士を集めるという計画を立てた。このため、清河は浪士集めのため九州を中心に遊説を始める。この計画は失敗したが、清河の感化を受けた浪士たちは続々京に集まり、尊皇攘夷の名のもとに殺戮を繰り返した。文久の暗殺の季節である。清河は再び江戸に戻り、自らまいた種であるが、殺戮荒れ狂う京の鎮圧のためと称し、幕臣を動かし、将軍上洛の直前ともあって、京都を鎮護する浪士組を結成する。この234人の浪士組の中に道場ごと参加した近藤勇らがいる。清河は京都に着くや、幕軍であるこの浪士組を天皇軍にすりかえ、この浪士組で幕府を討つために、江戸に向かって進軍するという。イラクに派遣された自衛隊が、イラクに着くやいなや、イラク軍になって日本を攻撃するようなものであるまさに清河は機略家である。結局、異を唱えた者数人が京に残り、当初の浪士組の目的どおり新撰組になる。江戸に戻った浪士組も新徴組として将軍護衛の任にあたる。清河は江戸に戻るや、めげずに横浜外人居留地襲撃を計画するが文久三年(1863年)4月13日夕刻、麻布一の橋畔で、さんざん手玉に取った幕府の放った刺客によって暗殺される。暗殺したのは佐々木唯三郎、後に竜馬殺しとされた京都見廻組の組頭になる。なお、清河の暗殺場所が、清河八郎研究第一人者の小山勝一郎氏、作家の司馬遼太郎氏らは麻布赤羽橋とされているが史家の野口達男氏がこれを訂正され、麻布一の橋とされているのでこれを参考にさせていただいた。山岡鉄舟が百世に一人といった清河は背景を持たず、己の才覚のみで乱世を渡り、明治のための肥やしになって消えていった。不思議な人物である。
2005.06.15
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文久年間(1861年~1863年)は暗殺の季節といっていい。文久の前年、万延元年3月3日、江戸城桜田門外において時の最高権力者、大老井伊直弼が水戸浪士(含む薩摩藩士)に殺されて以来、この狂騒の季節は始まった。大老が暗殺されてから幕府の威権は失墜し、政情は幕府から朝廷へ大きく傾き始めた。尊皇攘夷の名の下、薩摩、長州、土佐などの有力各藩は京都に藩邸を置き、食い詰めた地方のにわか志士(をかたる者)たちも、京で殺戮を始める。この無警察状態に幕府はいやがる会津藩を無理やり京都守護職に任命し、新撰組も誕生する。会津の悲劇はここから始まるのだが、それは後に譲る。このときから京都における各藩の朝廷に対する主導権争いが始まる。各藩は覇権を獲得する手段の一つとして、佐幕系の人間(あるいは佐幕に仕立て上げた人間)を片っ端から暗殺する。また、ライバル系の要人も暗殺する。薩摩系の公卿、姉小路公知は長州系の公卿、三条実美とともにこの頃、京都政界においてかなりの力を持っていた。それは京都政界の薩摩の力でもあった。姉小路公知は文久三年(1863年)5月20日、京都御所において会議があり、夜10時ごろ帰宅の途についたが、御所北東隅、通称猿が辻にて暗殺される。現場には、薩摩藩士田中新兵衛(人斬り新兵衛といわれた)の刀が落ちていたため疑われ、新兵衛は沈黙したまま自刃する。当初は姉小路が薩摩系公卿であったため、他藩が疑われたが、前月姉小路が勝海舟に開国の感化を受けたとのうわさが広まり(当時、勤皇は攘夷であった)尊皇攘夷派からは、姉小路は変節したのではないかとうわさされ、薩摩藩が暗殺したともいわれた。犯人はわかっていない。この夜は蒸し暑く、湿気が体にまといつき、粘るような夜だったという。このまだ若いテロリストたちは姉小路を御所の築地塀で息を潜めて姉小路を待った。かれらは今にも雨が降りそうな闇の中で刀を抱いて待つ間、どういう気だったのだろうか。気もそぞろだったに違いない。やがて姉小路の姿が見えると、天誅というなにやら全てが肯定される呪文を唱えながら駆け出していったに違いない。このときを機に薩摩藩は京都政界は一時撤退し、高次元な外交で佐幕主義の会津と組んでクーデターを起こすまで、長州の暴走が始まる。このとき姉小路を暗殺した若者たちはその後、どうなったのだろうか。いずれにせよ、維新回天成立までの累々たる事件の一つとして、歴史に参加したことは間違いない。
2005.06.14
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大久保利通が近代史上最高の宰相であることは間違いないのに、西郷に比して人気がないのは、政治手法に暗さがあるからだろうか。文久二年(1862年)寺田屋事件の際、公卿中山忠能(明治天皇の外祖父)の家臣田中河内介の虐殺、明治七年(1874年)佐賀の乱の首謀者、前参議江藤新平に対し、一方的な裁判による斬罪さらし首など、権力を守るためには手段を選ばないことがかれの後世の評価となっている。かれが無私であり、その権力を近代日本を作るために行使したことは間違いない。しかし、西郷や竜馬に共通する「からっとした」さわやかさがないことが人気のない原因であろうか。
2005.06.13
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大久保利通は西郷隆盛に遅れること数年、同じ鹿児島城下、加治屋町に生まれた。加治屋町は薩摩藩の下級武士の長屋街みたいなところで、ここからはほかに東郷平八郎も生まれている。大久保の祖父の時、「秩父崩れ」、父の時「高崎崩れ」という政変があり、どちらにも参加して、罪を得たため、大久保の青少年期は困窮を極めた。このとき、西郷の家に飯を食いに行っていたのは有名で、同じ貧乏の西郷家でも、だまって大久保に飯を食わせていたらしい。このときの困窮が、大久保に現実の政治を知らしめた大きな要因になる。つまり、政治はきれいごとではなく、祖父や父のように失脚すると、家族は路頭に迷うということを骨の髄から知った。後、西郷らと秘密勤皇グループ「近思録」を結成、薩摩を勤皇の藩政改革に乗り出す。西郷は薩摩の若い武士たちをその人間的魅力で掌握する一方、大久保は薩摩改革のため、政敵である薩摩藩の実力者、藩父島津久光に近づく。久光は佐幕の権化みたいの人物で維新後も、俺は倒幕は考えてなかった。西郷と大久保にだまされたと終生いっていた。この久光に近づく方法がすごい。かれは終生、趣味というものは持たなかったが、久光が囲碁が趣味だと知るや、囲碁を習い、久光に近づき、やがて、政治的才能を認められ、側近になる。西郷が日本史上最強の薩摩軍団を支配し、大久保が薩摩官僚の頂点に立ち、藩論を勤皇に持っていく。まさに遠大な計画としか言いようがない。これをかれが二人がやってのける。大久保の久光コントロールは根気のいったことであろう。しかし、大久保はこれを見事にやってのける。
2005.06.12
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那須信吾は、竜馬と同じく土佐郷士の生まれで、はじめ医術を学んだが、剣術に優れ、浜田家から檮原村の槍師範をしている那須家に乞われて娘婿として養子に来た。足も健脚で馬より速かったという。当時の医者は坊主で、しかも身長六尺(180cm)、馬よりも早く、大力の持ち主であったから、まさに怪物である。かれが土佐城下をゆく姿は、どんなであったろう。やがて、土佐勤皇党に入り、武市の命を受け、当時の宰相、吉田東洋を暗殺する。脱藩後、1863年の天誅組結成に参加し戦死。娘婿に脱藩された那須家では舅の村の槍指南役那須俊平が、娘為代と幼い子を残されて嘆いていたが、翌1864年この那須老人も、婿殿はこんな大望を抱いていたのかと脱藩、蛤御門の変で戦死する。幕末のエネルギーはこんな山深い村の老人まで戦火にたたきこんでゆく。ちなみに、この那須信吾の甥に田中光顕がいる。田中は那須死後、脱藩。長州の高杉晋作についていたが、中岡慎太郎の陸援隊結成に参加。叔父の高名、土佐勤皇党が箔になり、明治後、累進出世。警視総監、宮内大臣を歴任。伯爵になる。那須家の為代とその子についてはわからない。
2005.06.11
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文久当時、長州藩は藩ぐるみで狂騒したことがあった。その急先鋒は高杉晋作である。この高杉が過激派の仲間や、諸藩から脱藩してきた浪士をとりまとめ盟主として、イギリス大使館焼き討ちなどを行っていた頃、またある過激な計画を立てたがこの時は、長州藩士のみでやろうということになった。深い意味はなかったに違いないが、この時肥後脱藩の浪士の一人は、同じ勤皇をいただく同志として疎外されたと憤激し、高杉らの会合所に行き、庭の大木を背に立ち腹を切った。明治という革命が起きるエネルギーは、こんなふうにいとも簡単に命を捨てる人がごろごろいたことである。戦後、安保闘争の時、機動隊が催涙弾を水平に撃ってしまったとき、当たったらあぶないじゃないかと学生が抗議したというが。肥後には宮部鼎蔵という九州勤皇の盟主がいるが、宮部もまた武士としての悲しい挿話がある。宮部は池田屋事件の勤皇側の座長である。かれは脱藩する時、まだ幼かった娘に、「私が志のために脱藩すると、そなたたちにも藩の役人が捕えて首を切りに来るであろう。そのときは泣いたりせず、着物を着替えて、おとなにならなければいけない」宮部の脱藩後、幼い姉妹は表で遊んでいても、ときどき走って戻ってきては、母親に、まだ着物を着替えなくていいですか、ときいたという。肥後(熊本藩)は武士の典型とされた。高杉も常々、肥後を見習えといるのは、武士としての涼やかさがこの藩風にはあるのだろう。ちなみに明治後、この藩は宮崎八郎、滔天など革命家を生み出している。
2005.06.10
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西郷は、幕末西郷吉之助と名乗っていた。正式名称は西郷吉之助隆永である。明治になって名前を一つにすることになり、薩摩出身の戸籍の担当者が西郷は隆盛だと思い、その名で登録した。隆盛は父、吉兵衛の名だったのである。しかし、西郷はそのようなことには頓着しないで、そのまま西郷隆盛のままで通した。ちなみに弟の西郷従道も「おいは、隆道(りゅうどう)じゃ」といったのを担当者がじゅうどう(従道)と聞き違え、西郷従道(つぐみち)で登録したとある。名前などへんぺんたる些末なことにはこだわらないのであろう。従兄弟の大山巌も似たような性格で、日露戦争時、陸軍の総司令官として中国であわや全滅の憂き目にあうさなか昼寝をしていたという。明治後、政府高官が夜話として、大山ほど器の大きい人間はいない、という話をしたら西郷従道を知る人が、従道を前にしたら大山など月の前の星に過ぎないといった。すると、西郷隆盛を知る人が、西郷隆盛を前にしたら従道など太陽の前の月である、といったので西郷隆盛を知らない人は息をのんだという。
2005.06.09
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西郷隆盛にはひとを惹きつける魅力がある。以下はその一つ。西南の役の時、各地の士族が西郷軍に加わったが、その中に豊前中津藩の士族も63人参加した。リーダーは増田宋太郎で、薩軍と中津藩グループの連絡役として唯一西郷と接していた。増田は、敗戦決定の城山籠城戦の時、同志を集め、故郷に帰るように諭した。同志は、お前もいっしょに帰ろうというと増田は首を振り、私のみは西郷と会った。あの人の魅力に出会ってしまえば、もう一緒に生死を共にするしかない、といって城山に残った。増田は西郷との交友は西南戦争の時だけだからその期間は短い。しかし、この短い間に西郷は人をして死に赴かせる魅力があったのだろう。そういえば、福沢諭吉もこの藩出身である。あれだけ近代の文明に触れた福沢が前近代的な西郷のことは褒めている。不思議な人物である。
2005.06.08
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とにかく、西郷隆盛という人はよくわからない。政治家としても、革命家としても、軍人としても第一級であることは間違いない。西郷と同郷の薩摩出身の作家、海音寺潮五郎氏は最初、西郷の小説を書こうとしたが、一生かかっても書ききれないと思い、評伝風のもの書いた。西郷の凄みは、その資質にあると思う。「敬天愛人」は西郷が好んだ言葉であるが、天を敬い、人を愛するということは、言葉では簡単にいえるが、現実化は難しい。人は、天を敬うことはたまにはするが、ずっとは無理だ。人を愛することは何も家族に限らず、愛することはあるが、平等に、巨視的に出来るかというとそうでもない。西郷はこの言葉を忠実に守った稀有な存在であろうか。ようは、純粋なのであろう。といってもこの純度の高さは他に類を見ない。タイプは違うが、よく似た人に吉田松陰がいる。ともかく西郷は私心がなく、人を許す。ある種、宗教者のような気がする。かといって、釈迦やキリストと違うのは、かれは人間だということである。釈迦やキリストは自他共にかれらの位置を神仏に置いたが、西郷は人間の位置のままで、全てを許していく生き方をしていった。無論、自己矛盾がそこに生じ、最終的には私学校の若い生徒に命を捧げ、悲劇的な結末を迎えるが。明治後、佐賀出身の秀才、江藤新平や大隈重信には西郷の茫洋たる風貌が馬鹿に見えたが、実務型のタイプにはついに西郷を捉えられなかったのではないか。竜馬や、その師、勝海舟、幼少からの友、大久保には人を惹きつける巨大な磁石のような西郷の魅力がよくわかっていたに違いない。
2005.06.08
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坂本竜馬は岩倉具視とは中岡慎太郎ほど親しくはない。大政奉還の直前、中岡に紹介されるが、平和革命方式(大政奉還)の竜馬と軍事革命方式の岩倉とは相容れない。むしろ、同じ勤皇派内の敵対関係にあった。岩倉は、大久保利通(西郷隆盛もそうであるが)と共に武力による倒幕を目指し、そのため幼少の明治帝を動かし、倒幕の密勅を謀っていた。竜馬は大政奉還により、将軍徳川慶喜からの平和裡における政権交代を目指していた。結果として、竜馬の大政奉還が成ったが、直後、竜馬暗殺により鳥羽伏見の戦いが起こり、戊辰戦争に突入する。いずれにせよ、明治政権が出来、岩倉は人身位を極める。明治三年、岩倉は幕末に斃れた諸士の霊を慰めるため生き残った者を集め、宴を催した。この時、竜馬と中岡の霊を祀っているのは、累々たる屍の上に自らの富貴があったことへの後ろめたさかもしれない。
2005.06.07
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この拳を煮しめたような顔は、数十年前まで500円札の肖像になっていたので、ご存知の方も多いと思う。およそ、公卿とは思えない顔つきで、やくざの親分みたいな顔である。そして、この顔つきが策謀を次々と生み出す。明治後、征韓論をめぐって西郷と対決するのは、この岩倉と大久保利通である。この顔つきでなければ、日本史上最強の薩摩軍団を相手にすることは出来ないというのもうなずける。中岡慎太郎が竜馬と共に、京都近江屋で斃れた時の遺言は、「維新回天の実行はひとえに卿(岩倉具視)のお力による」であったが、まさに中岡が予言したとおり岩倉は明治維新を具現させた。
2005.06.06
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中岡慎太郎の炯眼は岩倉具視を乱世に担ぎ出したことだろう。岩倉具視は、安政年間の井伊直弼の開国策に賛成し、かつまた文久年間の和宮降嫁にも中心になり、時の帝孝明天皇(この帝は攘夷のかたまりのような方だった)から勅勘をうけ、洛北岩倉村隠棲していた。勤皇側からは「奸物」のレッテルを貼られているのを中岡が目をつけ世に出した。岩倉は、渾身これ策士といったような人物であり、薩摩の大久保とともに幕末のぎりぎりの段階になると次から次へと幕府を追いつめるための策謀を考え出し、最後に、密勅(明治天皇の倒幕命令)を画策し、倒幕にこぎつけた。
2005.06.06
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吉村寅太郎は、坂本竜馬より二才若い。土佐津野山郷の庄屋の長男として生まれ、12歳で庄屋の後を継いだ。いわゆる土佐郷士である。同じく庄屋出身の中岡慎太郎と同様、学問は間崎哲馬に学び、剣は武市半平太に学んだ。武市半平太の土佐勤王党結成の時にも参加し、その幹部になった。まもなく藩内勤王化を目指す武市と袂を分かち、脱藩する。かれは、固陋な土佐藩が勤皇化するとは到底思えず、時代の倒幕の盟主は長州だとし、長州を頼った。この脱藩は、竜馬に影響を与え、まもなく竜馬も吉村を頼って脱藩する。武市道場はいわゆる長曽我部侍といわれる郷士たちのたまり場であり、今でいう高校、大学みたいなもので、ここで若き日のかれらは青春を謳歌していた。竜馬とは、武市道場でかなり仲がよかったらしい。脱藩した吉村は一時、土佐に引き戻され、入牢するが、罪許された後、再び脱藩、天誅組を結成、倒幕の挙兵をあげるが時代まだ早く、敗滅し、吉村もまた戦死する。ある史家は吉村を評して、かれがもう少し長生きしていたらどんな巨人になっていたかわからない、といっている。
2005.06.03
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坂本竜馬には二人の師がいる。勝海舟と横井小楠である。勝海舟こそは、おそらく幕末第一級の人物ではあるまいか。この巨人の前には、西郷隆盛も大久保利通も坂本竜馬も霞む。貧窮御家人の家に生まれ、蘭学を学び、(当時蘭学を学ぶ者は医学がほとんどであったが勝は兵学を学ぶ。これが勝の凄みである)その後、咸臨丸の艦長としてアメリカへ行き、幕府よりも日本中心にモノを考えるようになってゆく。かれは、幕臣という枠の中に囚われながらも、冷徹な目で日本の行く末を見つめ、幕府主体の日本ではこの国が成り立たないことを考え、倒幕のため、西郷や大久保に道筋をつけ、坂本竜馬を育て上げたのではないか。生粋の幕臣としては複雑な思いであったろう。司馬遼太郎氏の著作にこういう場面がある。咸臨丸でアメリカから帰国後、14代将軍徳川家茂に拝謁した時、老中の一人が、「勝、そちは一種の眼光をそなえた人物であるから、さだめし夷国に渡って、とくべつに目をつけたところがあろう。それをつまびらかにせよ」「いや、人間のすることは古今東西同じもので、アメリカ国とて別に異なることはござりませぬ」いやいや、左様ではあるまい。御前じゃ、珍談奇譚などを申し上げい」「左様」勝は、薄ら嗤った。「すこし目につきましたのは、アメリカでは政府でも民間でも、およそ人の上に立つ者はみなその地位相応に利口でございます。この点ばかりは、まったくわが国反対のようにございまする」勝の言動はつねにこれであり、上司の無能を憎むことはなはだしかった。ちなみに勝の姻戚に男谷精一郎(信友)がいる。日本剣術史上最高の剣客で、宮本武蔵と並ぶとされた。一流の剣術家にある性格のひずみがなく温厚で厚実な性格なため小さな道場を細々と開いて生涯を終えたが、当代一流の剣客、千葉周作も敗れている。同じく天才剣客島田虎之助も破れ、男谷の門人になっている。勝は、男谷の紹介で幼少の頃から、島田虎之助に直新陰流を学んでいる。
2005.06.02
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