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新撰組が重傷の近藤に代わって土方が指揮をとることになった頃、体勢はずいぶん変わってきている。朝廷の名を借る岩倉具視、大久保利通(この頃は一蔵)が幕府軍を挑発しているのである。徳川慶喜に幕府の直轄領300万石を返上せよという。慶喜はすでに大政を奉還し将軍職を返上している。朝廷の官位である内大臣も返上している。今は一大名である。他の、例えば長州や、薩摩や、三百諸藩と同じである。領地返上ならば他の大名も同様に返上の命令を出すべきであろう。しかし慶喜のみが返上を強要されている。岩倉、大久保のあざとさであろう。かれらはあくまで慶喜を挑発し、叛旗を翻させ、討伐したいと考えている。慶喜はただひたすら大阪で恭順しているのである。にもかかわらず岩倉、大久保は慶喜を苛め抜いている。しかし慶喜が激怒して兵を挙げた瞬間、岩倉、大久保の思惑通り革命戦が始まる。慶喜はそれを知っている。だからひたすら恭順している。が周辺はそうではない。会津藩、桑名藩は慶喜を促し、ついに兵を挙げた。
2005.07.30
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慶応三年12月18日朝、新撰組局長近藤勇は、新撰組隊士20名を供回りにして竹田街道を京に向かっていた。二条城に行くためである。二条城は、幕府の前線出張所で大目付の永井尚志がいる。いまや、大身の旗本になった近藤は永井と自由に会うことが出来る。ちなみに江戸時代きっての秀才、永井尚志の子孫が天才作家三島由紀夫だといわれている。(三島については日本文学史で書きたいと思うが、話が出たついでにかれの天才性を物語るものとして「酸模」(すかんぽ)がある。かれのデビュー作は16歳で書いた「花ざかりの森」とも19歳で書いた「盗賊」とも言われているが、この酸模はなんと13歳で書いている。今で言うと中学一年生である。今はもう三島由紀夫全集ぐらいにしか載っていないが、図書館あたりでぜひ読んでもらいたいとおもいます。)話がそれた。永井と会見した近藤は、この日も在京している薩長について意見具申をして、二条城を出た。夕刻、近藤勇一行が伏見街道を墨染堤にさしかかった時、一発の銃弾が近藤を襲った。撃ったのは篠原泰之進ら高台寺党の残党。高台寺党は11月18日に新撰組によって七条油小路で騙し討ちにあった首領、伊東甲子太郎の復讐を狙っていたのである。弾は近藤の右背中に的中し、肩甲骨を破壊した。「それっ」とばかり、高台寺党が飛び出てくる。しかし、近藤は気丈にも落馬しない。馬の首にしがみつきながらも一散に駆け、新撰組屯所伏見本陣へ飛び込んだ。結局、高台寺党は近藤の肩を撃ったものの、一太刀も浴びせられず、暗殺することも出来なかった。この怪我により近藤は以降、池田屋事件のように迫力ある剣はふるえなくなり意気消沈していく。新撰組の指揮をとるのは土方になる。
2005.07.30
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小御所会議を境に岩倉、大久保らの奸智で幕府側は窮地に追いつめられてゆく。蛤御門の変で罪を得ていた長州も、朝廷から許され、続々と京に入ってくる。武力倒幕派の岩倉らとしては幕府に無理難題をふっかけなんとか戦争にもっていきたいと考えている。慶喜を激怒させたいのだ。しかし慶喜はひたすら沈黙している。かれの脳裏には足利尊氏や平将門のように朝廷に反逆する逆賊を逃れたいという臆病心があったか、あるいは坂本竜馬のように国家というものを考え、日本が内戦で外国の植民地になる事を防がねばならない、ということを考えていたかどうか。今となってはわからない。ともかく慶喜はひたすら沈黙している。が、慶喜の周辺はそうではない。土佐の山内容堂のいうとおり、一部の佞人が幼い天子をたぶらかしていると思っている。朝廷とは名ばかりでその実態は、一部の公卿と薩長だと思っている。会津藩、桑名藩、奥羽越諸藩がそうである。新撰組はその際たるものであろう。慶喜は大阪城を拠点にして京から、会津藩、桑名藩など親幕府の主力を引き戻す。新撰組も伏見鎮護という名目で伏見奉行所に移した。京から幕府派は一掃されたのである。いまや京は薩摩、そして罪を許された長州に占拠された。伏見奉行所の前を京に向かって続々と上がっていく長州軍を黙ってみている新撰組。数年前まで朝敵といわれた長州軍が、隊列を組んで行進する光景を隊士たちは歯噛みしてただ見過ごすしかない。そんなさなか、新撰組局長近藤勇が狙撃される。慶応三年12月18日夕、やったのは高台寺党。
2005.07.28
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親幕派の土佐藩、藩父山内容堂は、この会議に徳川慶喜を呼ばないことをまず非難した。慶喜は明治維新の最大の功労者である。容堂はこれを岩倉や薩摩藩の陰謀と見た。容堂は殿様らしからぬ鋭い舌鋒で武力倒幕派を非難してゆく。岩倉や薩摩藩代表で出席している大久保利通は一言もない。容堂の言うことは正論なのである。議論は容堂のもっとも得意とするところであったろう。しかし、容堂は口を滑らせた。「お手前方は年端もいかぬ天子を担ぎ上げて、操り人形のようにして陰謀を・・」と発言した。岩倉や大久保は歴史上に残る策士である。岩倉らの反撃が始まった。「年端もいかぬ天子とはなにごとか。年端がいかなくてもやんごとなき天子でござるぞ。天子は未熟だというのか」15歳の天皇を未熟扱いしたことが、岩倉らに言質を取られ、容堂は沈黙する。やがて前半の会議は終わり休憩時間に入った。休憩時間に御所警護をしていた西郷隆盛が岩倉や大久保から形勢不利を聞いた。西郷は短刀一本で片づく、というようなことをいったらしい。短刀で容堂を刺し殺す、ということであろう。薩摩には刺し手はいくらでもいる。西郷の隣には、桐野利秋が刀の柄を撫している。容堂はこれを聞いて、後半の会議は一言も発せず、終始会議は武力倒幕派主導で進められた。結果、幕府領約400万石のうち200万石の返上などが決定されることになった。徳川家は事実上の破産である。これより、幼い天子を擁する武力倒幕派主導の朝廷は、最大の功労者である慶喜を、最大の戦犯に仕立て上げ、追い込んでいく。新撰組もまた、滅びの道を歩み始める。
2005.07.28
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慶応三年(1867年)12月9日王政復古の大号令が出た。過ぐる10月14日徳川慶喜が大政奉還を奏上し、翌15日朝廷より許可されたにもかかわらずである。大政奉還は、無血革命を目指す坂本竜馬が画策し、親幕派の土佐藩参政後藤象二郎が実行した平和革命方式である。幕府が政権を朝廷に返すということで、返した徳川慶喜は革命最大の功労者になる。これに対し、岩倉はじめ薩摩藩、長州藩は、あくまでも武力革命で慶喜の首を斬り落とさないことにはおさまらない。竜馬の大政奉還で武力革命は一時頓挫したが、竜馬が暗殺されたことにより再び武力倒幕派が首をもたげてきた。あくまで薩長は武力革命にこだわった。この日の朝早く、御所において岩倉具視と薩摩藩主導で倒幕のための会議が行われた。(長州は去る蛤御門の変で罪を得て京にはいないが、すでに薩長同盟が出来ているため秘密裡に武力を整えている)岩倉、薩摩藩は共に倒幕の急先鋒である。かれらは強引に王政復古の大号令を決め、明治天皇の名の下に発したのである。これにより将軍職などの役職が廃止され、新政府が発足した。ここまでは通常の政権交代である。徳川慶喜も理解していただろう。しかし問題はこの先である。つまり新体制をどうするかという問題である。慶喜は幕臣西周より三権分立などのヨーロッバの政治体制を聞いていたので、当然自分が参加できると思っていた。なにしろ新体制の大功労者は一滴の血も流さず大政奉還をした自分ではないか。王政復古の大号令が発せられた日の夕刻、勤王派公卿、諸藩が再び集まり会議を開いた。場所は御所内小御所、議題は新体制の人事である。
2005.07.27
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服部武雄は壁を背に二刀流である。その風貌、宮本武蔵のようであったろう。事実武蔵のような働きをした。原田左之助、大石鍬次郎、島田魁など手練れの剣士が取り囲んで、踏み込み踏み込み斬りかかるが、逆に服部の剣により傷を負う。服部一人のために新撰組はついに怪我人が十人を越えたという。それでも、疲れが見えた服部の腹に原田の槍が刺さり、よってたかって刺し殺した。ようやく血闘が終わったのは、午前四時だといわれる。背後で見守る総指揮者、土方はなおも周到だった。伊東の遺体と藤堂、毛内、服部の遺体を打ち捨て、またもや油小路の辻に放置したのである。再び、高台寺党が遺骸を取りにくるかもしれぬ、という土方の考えであった。四人の遺体はこののち、数日間放置された。無論、遺体の周りには、新撰組隊士を伏せてある。やがて遺体は昼の日光にあたって腐敗が進み、死臭を放ち始めたので、町役人によって埋葬された。一方、逃げた篠原らは薩摩藩邸に駆け込み、薩摩藩の庇護を受けている。この直後の、12月9日とうとう王政復古の大号令がおこる。新撰組は時代から取り残された。
2005.07.25
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慶応四年(1867年)11月18日午前零時、月が冴え冴えと天にある。伊東の遺骸は凍りつきはじめた。藤堂平助は、「察したり」というと剣を抜き飛び出してゆく。これがきっかけとなり、死闘が始まった。篠原、富山、鈴木、加納は二三合切り結ぶと、その場を脱出した。かれらにしてみれば、新撰組に臆せず、堂々と伊東の遺骸を引き取りに云ったという名目が重要なのであろう。最初から斬り死にする気はなかったのかもしれない。特に鈴木三樹三郎などは伊藤の実弟である。鈴木は伊東の遺体の引取りの際も渋っている。結局逃げ延びた者と油小路の血闘に不参加の者は、維新になり、若干栄達する。伊東の遺産というべきか。残ったのは藤堂、服部、毛内である。この三人は違った。すでに死を決している。新撰組にとっては藤堂は新撰組結成以前、試衛館以来の同志である。いかに裏切ったとはいえ、近藤や土方としても殺すのに忍びないと思っている。藤堂を落ち延びさせよ、と永倉にその意を含ませ、永倉もまた藤堂を逃そうとした。永倉が藤堂の前に立った。太刀をあわせると、目配せで逃げるように促した。藤堂はうなずき、永倉の剣を受け流しつつその場を離れようとした。が、その時、新撰組隊士三浦常次郎が藤堂の背に斬りつけた。三浦は新人である。手柄をほしくてたまらない。藤堂はかっとした。そのまま走って逃げればよかったが、振り向くなり三浦を横になで斬った。これで藤堂は逃げる機会を失なった。たちまち新撰組隊士たちが取り囲む。藤堂は、大量の新撰組隊士たちの刀の餌食になり討死。この間、学者肌で剣の苦手な毛内は五体がばらばらになるほど切り刻まれている。服部武雄は隊内随一といわれた天才剣である。この場で沖田総司がいれば幕末剣史に残る名勝負になっていただろうが、この頃沖田は労咳がずいぶん悪く、参加していない。服部は宮本武蔵のように二刀をすらりと抜いた。その精悍な顔と、屈強な体躯、二刀を構えた姿は宮本武蔵を髣髴させたろう。
2005.07.25
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伊東甲子太郎の遺骸を引き取るべく、高台寺党の面々が七条油小路に来た。用意した駕籠に遺骸を入れようと、伊東のそばに寄ったとき四十余人の新撰組が取り囲んだ。高台寺党は、篠原泰之進、藤堂平助、服部武雄、鈴木三樹三郎、富山弥兵衛、毛内有之助、加納鷲雄の七人。これ以前、高台寺党は塔中の月真院で町役人の知らせを受けた。生憎、この七人しかいなかった。他の者は所用で不在である。かれらには伊東の遺骸のそばに大量の新撰組隊士を伏せてあることは知っている。それをわずか七人で斬り込むのか。相手は名うての新撰組である。伊東の実弟の鈴木三樹三郎は、「新撰組とて、もとは同志、礼を尽くして話せば遺骸を引き渡してくれるのではないか」と云った。その唇は震えている。鈴木は伊東の弟でありながら、兄とはおよそ違う。臆したのであろう。長老ともいうべき篠原泰之進が口を開いた。「この期に及んで生死をいっている場合ではない。剣あるのみ」これで大勢が決まった。篠原はさらに云った。「甲冑などはつけるな。討死した時に臆病のそしりを受ける。われわれは武士として死のう」「からっといきましょう」といったのは藤堂平助。元新撰組八番隊隊長である。かれは生来陽気でその性格を土方にまで愛された。そういういきさつで伊東の遺骸を囲んだ高台寺党はたった七人、しかも平服である。
2005.07.24
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伊東は右の頚動脈から左に、首を刺し貫かれたまま、ちょうどそれが支えになって立っている。生命が首の根から刻々と抜けてゆく。新撰組隊士武藤勝蔵が背後に回った。勝蔵はかつて伊東の馬丁をやっていたが最近隊士に取り立てられた。伊東には馬丁時代ずいぶん可愛がられたらしい。が隊士になりたての勝蔵は手柄がほしい。背後から斬りかかろうとした瞬間、伊東は振り返りざま抜き打ちで勝蔵を真っぷたつにした。首に槍が刺さったままである。絶妙の剣というべきであろう。が伊東の剣もここまでである。首に槍をつけたまま、二三歩、歩くと生命が潰えた。伊東はどう、と倒れると息絶えた。この夜の指揮者は土方歳三。土方は隊士に命じて伊東の遺骸を近くの七条油小路の四つ角まで引きずっていき、捨てた。いわば伊東はおとりである。まもなく伊東の遺骸を見つけた町役人が高台寺党に知らせるだろう。土方は伊東の遺骸を引き取りに来た高台寺党を殲滅する気でいる。そのためすでに鎖帷子を着た新撰組四十余人をすでに伊東の周りに伏せてある。一体多摩の百姓出身の土方の、遺骸をえさにして相手方の殲滅を狙うという戦法はどういうことだろう。日本史を通じてもこの戦法はない、といわれている。やがて高台寺党の七人が下駄を踏みとどろかして油小路にやってきた。
2005.07.23
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新撰組はついに伊東甲子太郎暗殺を決意した。伊東が新撰組から分かれて半年近く、久しぶりに伊東先生のご高説をうけたまわりたい、という近藤の依頼であった。この間大政奉還が行われ、時勢が急転している。伊東は得手勝手に想像している。近藤ら新撰組の連中も余りの時勢の急転に泡を食っているだろう。近藤らは困極まって、私にかしづいてきたのだ。伊東は近藤からの使いが来た時、得意満面で了解した。篠原泰之進ら高台寺党の面々は、これは近藤らの罠だ、と止めたがおのれの力を過信する伊藤には通じない。慶応三年(1867年)11月18日、七条醒ヶ井興正寺近くの近藤の私邸に呼び出された。伊東は、供も連れず単身近藤の私邸に乗り込んでいる。この時、数日前に坂本竜馬と中岡慎太郎が近江屋で暗殺されたことが頭によぎったかどうか。暗殺の前、伊東は竜馬に会い、新撰組らが暴徒化している。くれぐれも刺客には気をつけられよと忠告している、が竜馬は無用心すぎた。竜馬、慎太郎両人の遺骸が土佐藩邸に運ばれた時、伊東は枕頭で、だからあれほど刺客には気をつけろと口をすっぱくして申したのに、といっている。だがわが事はわからない。近藤の私邸では、酒宴が行われた。近藤をはじめ原田左之助ら幹部がいれかわりたちかわり伊東の高説にうなづき、酒を注ぐ。どうだ、わが弁舌の素晴らしさを、と伊東は思ったに違いない。あまり飲めぬ伊東もあまりの持ち上げられかたに腰の立たぬほど泥酔した。やがて、伊東は帰途に着く。亥の刻(午後10時)である。駕籠も呼ばず一人、近藤の私邸を出た。ふらふらと歩きながら、謡曲竹生島を低く吟じている。伊東は得意の絶頂であったろう。わが弁舌に近藤らはただ頭を下げるだけであった。口には笑みさえ浮かべている。やがて木津屋橋にさしかかり、渡り終えると東本願寺が見えた。瞬間、槍が伊東の首を横から刺しぬいた。
2005.07.22
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伊東の近藤暗殺計画は新撰組の間者、斉藤一に知れ、またたく間に近藤、土方の知るところとなった。近藤暗殺計画とは、手練れの斉藤一が近藤勇を暗殺し、同時に残りの高台寺党を二つに分け一方は新撰組幹部を襲い、一方は隊士を説得し高台寺党に引き入れるというものだった。だがこの近藤暗殺計画がもし実行されても、こんなちゃちな策謀が百戦錬磨の新撰組に通用するかどうか。伊東の腹がわかった以上、今度裏に躊躇はない。斉藤はすぐさま新撰組に帰隊し、伊東暗殺の策を練った。策はこうだ。新撰組幹部が、伊東甲子太郎から講義を聞きたいということで、料亭に呼び出す。そして、散々酒を飲ませ、不明にさせる。その帰路惨殺するという計画である。立案者は土方らしいが、こんなことで伊東がひっかかるかという意見が新撰組幹部から出たが、土方は自信を持っていた。伊東は必ずひっかかると。伊東は文武両道の達人であり、弁舌もさわやか、無論策士でもある。その自信が、新撰組ごとき多摩の百姓上がりの壮士などはたいしたことはない、と思わせたのであろう。
2005.07.21
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伊東甲子太郎は薩摩藩の手を借りて、慶応二年(1866年)12月25日に崩御した孝明天皇の陵墓を守る衛士という名目で慶応三年(1867年)3月20日新撰組を脱退する。このとき、伊東は近藤に、永倉か斉藤を連れて行きたいと申し出る。伊東の御陵衛士は、名目上は新撰組の別働隊である。伊東は、新撰組の別働隊がふがいないのは残念だ。そのため屈強の剣士を一人貰い受けたい、といった。腹の中はどうあれ、正論である。そのため、伊東はこのことが来るのを見越して永倉や斉藤に近づいていた。正月の島原いつづけ事件でつながりを作ろうとした伊東の策略がここにある。伊東は、弁は立つが、自分の一派には剣客といえる人物が少ない。伊東、藤堂、篠原、服部武雄の四人ぐらいである。しかもこのうち実戦経験が豊富なのは藤堂平助ぐらいであった。そのため手練れの剣客を欲した。永倉、斉藤を選んだのは、両人とも天然理心流ではないということであった。伊東は、近藤からは比較的距離があるこの二人にあらかじめ目をつけていたのである。結局、斉藤一が伊東と行動を共にすることになった。伊東はしめた、と思ったろう。わが策略成る、と思ったに違いない。が、土方のほうが役者が一枚上であった。斉藤は土方の命で逐一御陵衛士の事を報告するようになっている。そして伊東一派になにか不穏な動きがあれば新撰組が復讐する手はずである。復讐は新撰組のお得意である。新撰組が会津お預かりという歴とした組織であるにもかかわらず、幕末史に暗い影を落としているのは、その行動の中に私的な復讐が含まれているからであろう。隊内闘争の芹沢暗殺、大阪における与力内山彦次郎殺しなど枚挙にいとまがない。ともあれ、脱退した伊東らは間者の斉藤を抱え、いくつか居を転々とした後、6月に東山の高台寺に落ち着く。かれらが御陵衛士とも高台寺党ともいわれるのはこのことからである。伊東ら高台寺党は新撰組から離れ、勤王になったのはいいが、元新撰組ということで信用されず、いわば東山に打ち捨てられたままである。その間10月14日に大政奉還が行われ、情勢は一気に倒幕に傾いてゆく。新撰組を脱退してからすでに七ヶ月経っている。伊東はあせった。勤王派から信用されるにはよほどのことをやらねばならない。伊東はその後ろ盾の薩摩藩に相談しただろう。われわれは元新撰組ということで勤皇の仲間から信用されない。どうすればいいのか。それに対し、薩摩の中村半次郎あたりが伊東の耳元でささやいたかどうか、新撰組をおやりなさいよ、と。伊東はついに決意した。近藤暗殺である。
2005.07.20
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新撰組から離脱したのは伊東甲子太郎を筆頭とする13人。意外だったのは藤堂平助と斉藤一。二人とも試衛館以来の同志である。これにはいきさつがある。藤堂は、北辰一刀流千葉道場の出身で、かれの中にはいくらかの勤王の酒精分が含まれている。だから伊東についていった。伊東もそうだが、北辰一刀流は勤王の培養器とされた。千葉周作が水戸藩より剣術指導を依頼されてより、水戸藩士の多くがここで学んでいるからである。藤堂も坂本竜馬に剣の技術指導を受けたこともあるらしい。藤堂は素朴ながらもその思想は天皇が一番偉いとひそかに思っている。斉藤一が伊東について新撰組から離れたのにはもう少し複雑な理由がある。新撰組脱退以前の慶応三年の正月元日、伊東は、江戸からつれてきた門弟たちに加え、新撰組幹部永倉新八、斉藤一をつれ、島原の遊郭に繰り出した。やがて、夜も過ぎ新撰組の門限となった。伊東は永倉、斉藤に、今夜はとことん飲もうと誘った。新撰組では理由なく門限を破ると脱走者とみなされる。脱走者は切腹である。伊東は確信犯だった。あえて門限を破った。伊東は、永倉、斉藤らに罪を得れば、一緒に腹を切ればよい、と同志面をしてゆく。伊東一派の、監察篠原泰之進、伊東の実弟鈴木三樹三郎らもしきりと誘い込む。腹のない永倉を誘い込む手立てとして、門限を一緒に破らせたのである。斉藤も先輩の永倉が帰らねば自分ひとりでは帰ることはできない。結局門限を破った。伊東はさらに誘い、4日間いつづけ、4日目に近藤の使いが来て、戻ることになった。近藤は苦い顔をするばかりで不問にした。伊東、永倉、斉藤、鈴木、篠原の幹部など十数人の隊員を切腹させるわけにはいかない。伊東はこの策略で永倉、斉藤とつながりをつけた。この伊東が脱退の時、近藤に依頼して永倉か斉藤のどちらかを連れて行きたいと依頼し、斉藤が伊東についていくことになった。
2005.07.19
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伊東甲子太郎は結局なすところなく新撰組を去る。かれが新撰組にいたのは元治元年(1864年)10月27日から慶応三年(1867年)3月20日まで二年五ヶ月。この間仕事らしい仕事はしていない。逆に勤王側は坂本竜馬、中岡慎太郎による薩長同盟など倒幕が進んでいく。伊東は所詮、才子でしかなかったろう。おのれの弁舌で新撰組を乗っとれると信じていたが、ついに叶わなかった。伊東はやむなく新撰組脱退を決意、慶応三年(1867年)3月10日、薩摩と相謀って御陵衛士を拝命、一朝事にして勤皇側に寝返る。無論新撰組がこれを許すわけはない。近藤と伊東が決裂した理由は恐らく、伊東が薩長同盟を知っていなくても(当時これを知っていたのは薩長のごく一部の者だけであった)雰囲気が倒幕に向かっているのを察知したからだろう。薩長同盟が成れば倒幕は具体的に進む。伊東には水戸藩に知己が多いし、北辰一刀流筋からも情報が入る。一方、近藤は、池田屋事件で勲功を認められ、伊東が新撰組加入以降、いっぱしの議論も出来るようになり国士然とするようになり、老中小笠原長行や一橋慶喜ら幕府幹部に評判もいい。ついに幕府から旗本格として処遇され始めた。近藤の年来の素志、大名になるという願いが叶ったといえよう。このうえは勤王の伊東を新撰組においておくことは幕府の手前、具合が悪い。双方の利害が一致したといえよう。しかし、近藤ら新撰組は平和裡による伊東の脱退を認めるわけにはいかない。粛清である。
2005.07.18
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伊東の入隊を一番敏感に感じていたのは土方歳三であったろう。伊東が勤王思想の水戸学を学び、北辰一刀流を学んでいるという経歴が土方を警戒させた。北辰一刀流にはろくな人間がいない、というのが土方の持論であった。清河八郎、坂本竜馬、みな倒幕論者ではないか。政治好きな近藤と違って土方は技術者であった。いかに最強の組織を作るか、そればかりが念頭にあった。そのため組織を、搾りに搾り、締め上げるように作っていった。確かにこれ以上の組織はあるまい。隊規を局長法度でがちがちにして前にしか進めないようにし、戦法は赤穂浪士の多人数で少数に当たる、という合理的な方法を使い、、かつ規律をフランス軍隊に求めた。土方の思想といえば、ただ単純にかれの出身である天領の百姓にとって将軍のみが主君であり、将軍を守ること以外にない。伊東のように、尊い将軍の上にさらに尊い天皇があるという論法は認められない。土方は伊東加入に反対したらしいが、政治好きの近藤は箔のある伊東に目が眩み、伊東加入を決定した。元治元年(1864年)10月15日伊東は門弟を連れて江戸を出発、10月27日新撰組に入隊した。伊東は新撰組に入隊するなりいきなり参謀という、副長土方に次いでの位置を得た。ひそかに喜んだのは同じ北辰一刀流出身の幹部山南敬助、藤堂平助であったろう。かれらもいくばくかの勤王思想があり、近藤ら試衛館一派とは意を異にする一抹の寂しさと不安があったに違いない。
2005.07.17
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蛤御門の変の後、大物が新撰組に入隊した。伊藤甲子太郎である。伊藤甲子太郎は常陸志筑の出身で、最初水戸で文武の修行している。当然、勤王主義の水戸学の影響を多分にうけている。後、江戸に出て北辰一刀流を学び免許皆伝をとって道場を開いた。まさに文武両道に秀でた秀才といえよう。常陸志筑は八千四百石の旗本の領地で、しかも父の代で浪人している。背景を持たないで文武に優れた秀才という意味では、清河八郎とちょっと似ている。こういう才子肌の男は策を好む。伊東は自らの勤王思想と新撰組の佐幕思想の差を、おのれの才で埋められると思ったのであろう。伊東にしてみれば新撰組は武骨一辺倒の人斬り集団にしか見えない。伊東は、あるいは近藤、土方を抹殺し、新撰組を丸抱えして勤王革命軍に看板を変え、盟主になろうとしたのではないか。背景もなく、いかに高名とはいえたかだか百人程度の道場主でしかない。勢い、清河のように手品みたいなことをせざるを得ない。伊東はただ両者が攘夷という点で一致するという理由で、門弟ごと新撰組に入隊した。無論、通常の入隊ではない。一朝事あれば京都の革命軍になる。
2005.07.16
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蛤御門の変の時、新撰組はなにをやっていたのか。実は何もやっていなかったといっていい。蛤御門の変は歴史上の大事件であり、その因は昨年の新選組結成以来、尊攘志士を切りまくり、池田屋事件の主役となった新撰組であることは間違いない。その新撰組は、禁裏御守護総督一橋慶喜の立てた作戦で、蛤御門のはるか南、伏見に向かって行軍した。一橋慶喜は伏見にいる長州藩の筆頭家老福原越後率いる長州軍が最強だと見たのである。(実際は最弱の隊であったが)伏見に向かう幕軍は先頭が彦根藩、大垣藩で新撰組ははるか後方である。新撰組は開戦となっても、彦根藩、大垣藩ら先陣の後をついていくしかなく福原越後隊が潰走し、伏見からさらに山崎天王山に逃げていくのを彦根藩、大垣藩の後を追うしかない。ようやく山崎天王山で追いつき、一番乗りした時には、長州兵はすでに自刃したあとであった。途中蛤御門に嵯峨天龍寺の長州軍が討ち入ったと聞き、戻るかという話も出たが伏見から蛤御門まで三里(12km)、間に合うものではなかった。結局新撰組は、一度も刀を抜くこともなく、戦闘の終わった戦場を一回り、伏見を経由して山崎天王山をめぐり京に戻って来たに過ぎない。新撰組はがっかりして、7月25日屯所へ戻った。蛤御門の変は薩摩藩、会津藩に名を成さしめただけである。こうして、一週間における京の乱は終わった。新撰組は、また日常の京都見廻りに戻った。
2005.07.14
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山崎天王山の長州軍は御所に着くなり多勢に無勢、御所の南側にある鷹司邸に閉じこもらざるを得なかった。鷹司邸の主人は前太政大臣鷹司政通、かつては長州系の公卿であった。長州軍の久坂玄瑞は鷹司の裾をとり、参内に同行させていただくよう頼んだ。敗戦濃厚の状況ではもはや天子にご動座いただくことがかなわない。あとは天子におすがりするしかない。しかし、鷹司は久坂の手を振りほどきさっさと御所に行ってしまった。形勢が幕府側にある以上、長州に関わることは鷹司にとっては得策ではない。久坂は絶望し、自刃する。久坂玄瑞は高杉晋作、入江九一、そして池田屋事件で死んだ吉田稔麿とともに松下村塾の四天王といわれその筆頭であった。文久の八月十八日の政変までは天子を背後で操り、事実上の京の首相であった。この時、久坂は23歳であったというから驚かされる。明治後、維新のトップになった西郷隆盛が、長州人に、久坂さんが生きておれば私などのうのうと大きな顔をしていられない。というふうなことをいっている。この鷹司邸で、久坂とともに入江九一、寺島忠三郎などその英明をうたわれた者たちも亡くなっている。この長州軍には、中岡慎太郎もいる。中岡は戦闘中太ももを撃ち抜かれ負傷していた。かれは山崎天王山の長州軍が潰走したあともただ一人残っていた。中岡は、西郷を殺そう、と思ったらしい。負傷した足を引きずり、大胆にも単身、西郷のいる薩摩の軍営に乗り込んだ。西郷の周りには、桐野、篠原らが居並んでいる。中岡は西郷の前に出ると、薩摩は何故同じ勤王の長州を討った、と大喝した。この迫力にさしもの桐野ら薩摩隼人の末裔も声がなかったという。中岡の論理は鋭い。舌鋒鋭く西郷を非難したらしい。西郷は一言もなくうなだれていたという。
2005.07.14
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西郷隆盛率いる薩摩軍は、桐野利秋、篠原国幹など西南の役の将星、日清戦争の連合艦隊司令長官伊藤祐亨、日露戦争司令官黒木為とも(くろきためとも-ともは木へんに貞)、野津道貫など明治になって位人臣を極めた者達が、砂埃を上げて駆けてゆく。その先には、来島又兵衛が馬上槍を突き入れして獅子奮迅の働きをしている。来島があれだけの活躍をしていては、いかな薩摩隼人といえども簡単には勝てない。西郷は、薩摩の若者たちが働きやすいように、そばにいた鉄砲を持っている川路正之進という若者に来島を撃つように指図した。この川路もまた、明治後、名を利良と変え初代大警視になっている。川路は銃を構え、来島に照準を合わせて引き金を引いた。瞬間、来島は馬からもんどりうって落ちた。川路の撃った弾は正確に来島の胸を撃ち抜いている。来島が斃れると、長州兵は崩れ、潰走を始めた。その直後に、山崎天王山の真木和泉ら山崎天王山の長州軍が到着したのである。長州の戦略としては、大失敗である。伏見、嵯峨天龍寺、山崎の兵が同時に蛤御門に到着していれば大きな力になっていただろうが、少数の軍が個々に来ても、大量の幕府軍に撃破される。幕軍は五万である。長州の三隊はそれぞれが数百。薩摩、会津としては、来島らを倒したあとで真木和泉らを迎え入れることが出来た。薩摩会津ら幕軍は少数の真木和泉らを包み込むように攻める。いかに長州兵が勇猛でも多勢に無勢である。長州の潰走が始まった。この新着の長州軍に土佐の中岡慎太郎がいる。
2005.07.13
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蛤御門では、来島の隊に児玉、国司信濃の隊が合流し、幕府軍を火のように攻め立てる。会津藩がかろうじて支えているだけであった。長州兵の形相はすさまじく鬼気をおびている。特に槍を突き入れ突き入れして全身に返り血を浴びている来島又兵衛はまさに鬼神であったろう。騎乗の武士たちは兵に向かって、ころせころせと叫ぶ。無論、兵たちも会津兵をこの世に一人も残さない気持ちでいる。「御所内へ」長州兵は口々に叫んだ。御所には天皇がいる。天皇をかっさらって長州に動座していただく。その御所が目の前にある。長州軍の猛攻の前に、さしもの日本屈指の会津兵も崩れ落ちるかと思われたとき、薩摩軍が到着した。この戦闘するために生まれてきた薩摩隼人はわくわくしただろう。薩摩藩では、剣の流儀は示現流である。攻撃方法は、背伸びするように上段に構え、相手を右肩から左に斬り下げるか、左肩から右に斬り下げる袈裟斬りしか技がない。もちろん防御もない。ひたすら全力で走りながら、右左と斬り下げて行く。ただ、たいていの場合、最初の一太刀で相手は体が二つに分かれ、肉塊と化した。すさまじい剣技である。薩摩兵が北側の乾御門から入ってきた時、来島は目をむいて「薩賊」と叫んだ。長州兵全員が総毛立ったといっていい。思えば、一年前の8月18日の政変で長州を京都政界から追い落としたのは薩摩ではないか。しかも、薩摩は長州と同様勤王である。それが京都政界で自分の藩が主導権を握るため佐幕の会津と手を組んだ。これを機に長州は京から撤退し、残った長州系志士も新撰組に見つけ次第殺されてゆく。池田屋はその最たるものであろう。来島又兵衛は馬首を薩摩軍にむけると、大声で呼ばった。「薩摩兵をみなごろしにせよ」
2005.07.12
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蛤御門で長州軍が狂ったように戦っている元治元年7月19日早朝、錦小路近くの薩摩軍は嵯峨天竜寺に向かいつつあった。機先を制すために、夜半に薩摩藩邸を出発していたのである。これは幕軍側の総大将一橋慶喜の読み違えで、慶喜は長州軍との戦闘は7月20日に行われると思っていた。薩摩軍も7月19日の未明に出発していれば、19日朝には嵯峨天竜寺に着くので、準備がまだ出来ていない長州軍を急襲できると思っていた。行軍の途中、西郷隆盛は蛤御門の方面で砲声が聞こえるのを、烏丸通りで聞いた。しまった、と西郷は思ったろう。機先を制すつもりが長州軍に機先を制されてしまったのである。薩摩軍は急いで蛤御門に向かって走り出した。このとき隊列を乱して駆け出す若者が数人いた。軍監が「抜け駆けは軍令違反だ」とそれを制すと、若者の一人が「何が軍令」と鼻で嗤って駆け出す。この若者たちは、薩摩でも勇猛な桐野利秋、篠原国幹らでのちに西南戦争の将星となる。薩摩武士は、戦国以来その士風をそのままに幕末にいたっており、江戸期に流行った「葉隠」という「武士」とはなにかというものを突き詰め、昇華していった哲学は微塵も持っていない。かれらにとって武士道とは相手を戦場で殺すことであり、自分は勇猛に戦場で死ぬことである。そこには形而上化された美学なんてない。まことに単純である。だから切腹などはしない。戦場で死ぬことが本望である。西南の役でも、西郷は政府軍に追い詰められても容易に自刃せず、被弾して初めて首を落としてもらう。桐野利秋にしても包囲された政府軍に突入し、額を打ち抜かれて即死している。要は、死ぬことを何とも思っていない。ただ戦場で死ぬことのみを考えている。そこには勝敗も何もない。薩摩隼人というのは異人種なのであろう。その日本最強の勇猛な薩摩隼人たちが蛤御門に向かって早駆けに駆けてゆく。
2005.07.11
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嵯峨天龍寺の長州隊を率いる国司信濃は御所近くに来ると隊を分けた。来島又兵衛に二百の兵を預け、蛤御門に向かわせ、児玉民部にも二百の兵を分け、下立売門に向かわせ、みずからは本隊を率い、中立売門へ向かった。国司信濃の兵はあっという間に中立売門を護衛していた一橋の兵を蹴散らし、黒田藩の兵も退けた。その先には公卿御門があり、そこには殺しても飽き足らない会津の兵がいる。国司は会津兵を見て「みなごろしにせよ」といったらしい。長州軍の本来の目的は、朝廷に対する陳情であったが、その実、天子を奪うことである。天子に動座いただき、長州に連れ帰る、というものである。そのため、邪魔をする藩は払いのける、というのが基本姿勢であったが、会津、薩摩だけは別である。この二藩だけは「みなごろし」にするつもりでいた。薩摩藩は、昨年の長州追い落としの政変の主謀者であり、会津はその共謀者である。さらに会津藩はその配下に新撰組を持っている。長州にとって新撰組は、京の町で長州系尊攘派志士と見れば、斬り殺している集団であり、さらにほんの一ヶ月前に池田屋で同士を殺されている。その肉を食らっても、飽き足らない藩である。こののち、長州と会津は明治維新まで血を血で洗う凄惨な闘争を繰り返す。ともかく長州兵の眼前にはあの憎き会津兵がいる。
2005.07.10
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幕軍の主力が伏見方面の福原越後隊に集中したため、福原隊はさんざんに打ち負かされた。福原は伏見の長州藩邸に逃げ込んだが、ここでも支えきれず山崎まで潰走している。この隊の大将は、長州の家老福原越後であるが、事実上の軍司令官は太田市之進である。太田市之進は、潰走する長州兵を建て直し、建て直し戦ったが、何しろ多勢に無勢、やむなく退却を余儀なくされた。余談になるが、太田はこの蛤御門で破れた後、長州に戻る。翌年壊滅状態の長州勤王派を建て直し、長州内で高杉晋作がクーデターを起こすと、これを助け、山県有朋とともに長州陸軍のトップに躍り出るが、明治四年病死する。臨終の際で太田は、盟友山県有朋にまだ若年の従兄弟の事を託す。これが乃木希典である。幕軍が福原越後隊を追い落としている頃、嵯峨天竜寺の国司信濃、来島又兵衛の隊はやすやすと御所に着いた。新撰組はというと、長州軍と追い落としている大垣藩、彦根藩のあとを追うように戦地に赴くが、常に戦闘は終わり、長州軍は退却している状態である。運がない。
2005.07.09
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元治元年(1865年)6月19日、長州軍は軍をいくつかに分け、京都御所を目指した。名目は主君毛利候の無実を朝廷に陳情する、ということであるが事実上軍事行動であり、天皇を長州に動座するというのが真の目的である。これに対し、幕府は在京の藩を召集し、天皇をとられまいと死守する構えである。伏見の長州藩邸からは福原越後、山崎の天王山からは真木和泉、嵯峨天龍寺からは国司信濃、来島又兵衛、その数千数百。迎え撃つ幕軍は薩摩、会津を中心に三十余藩四万の兵である。無論新撰組も入っている。幕軍は伏見の福原越後の隊が長州の本隊と見て、この方面を重点的に布陣を敷いた。6月19日未明、北上する福原越後の隊五百名は、藤ノ森付近で、この地に布陣している大垣藩と戦闘を開始した。蛤御門の変の始まりである。新撰組もこの近くの竹田街道勧進橋付近である。新撰組局長近藤勇も副長土方歳三もこのとき初めて甲冑をつけている。しかも、このときの新撰組の軍備は大砲を二門備えている。ゆうに五万石程度の装備である。多摩で百姓相手に田舎剣法を教えていた頃を思うと、かれらの気持ちはどうであったろう。
2005.07.08
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新撰組には組の法律ともいうべき規律がある。「局中法度」である。五ヵ条から成る一、士道に背くまじきこと一、局を脱することを許さず一、勝手に金策すべからず一、勝手に訴訟取り扱うべからず一.私の闘争を許さず罰則はすべて切腹である。しかし、この蛤御門に出兵したときに新撰組はさらに過酷な「陣中法度」を布告している。一部紹介する。一、組頭討死におよび候時、その場において戦死を遂ぐべし。もし臆病を構え、その虎口を逃れくる輩これあるにおいては、斬罪懲罪その品にしたがって申し渡すべきの候。一、烈しき虎口において、組頭のほか、屍骸引き退く事なさず、始終その場を逃げず忠義を抽んずべきこと。自分の所属する組の組頭がもし死んだら、その場で死ななければならないというものだ。逃げたら斬罪である。非常に激しい規律である。死ぬほかない。これに加え、新撰組の軍制は、当時最新だったフランス式の軍隊の制度を取り入れ、また、争闘時の戦法は赤穂浪士を参考にしている。(例えば複数人数で一人に当たるというもの)、これを見ても新撰組がいかに合理的な組織だったかということがわかる。組織の機能性を合理的にし、かつまた精神面でも厳しい規律を置く。これを考案したのは副長の土方歳三である。かれが単なる人斬りではなく、有能な指揮官であり軍政家がわかる。新撰組は土方が作った戦闘的警察としては贅肉のない完璧な組織ではないか。ともかく、この厳しい態度で新撰組は、長州を迎え撃つ。
2005.07.07
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結果として、新撰組の池田屋事件は長州の暴走を生む。池田屋の変を聞いた長州過激派は激怒、事件のあった五日後、すなわち六月十日には来島又兵衛率いる第一軍が長州三田尻を進発している。第二軍、第三軍、第四軍がこれに続く。この中には坂本竜馬の盟友、中岡慎太郎も幹部として混じっている。暴発長州軍の事実上の総帥は真木和泉である。真木和泉五十二歳、久留米水天宮の神職出身で、宮部鼎蔵とともに九州尊攘派の二枚看板といわれた。尊攘志士から見れば神様のような人物である。これより前、尊攘派の重鎮、真木和泉はひそかに神戸海軍操練所に勝海舟を訪ねている。勝の高名を聞き、話を聞くためである。無論、勝は幕臣で真木にとっては敵である。勝つにはそういう魅力があるのだろう。坂本竜馬が師と仰ぎ、西郷、大久保が教示を仰いだ人物である。勝は順を追って、親切に外国情勢を説き、攘夷の愚なるを説いた。真木は聡明な人物である。勝の話を聞いて自らの半生が間違いに気づいた、がかれの後ろには何千何万という攘夷志士がいる。勝のもとを辞するとき、悲しげに首を振った。勝もそこは心得ている。黙って見送った。真木は尊攘志士から、すでに神輿としてかつがれているのである。真木は尊攘過激派の巣窟、長州において藩主からも師父のような扱いを受ける。長州に滞在している時のかれの気持ちは複雑であったろう。とにもかくにも真木和泉は、京に向かって長州を進発する。
2005.07.05
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池田屋に戻った吉田稔麿は、不幸にも、一階の廊下で沖田総司と遭遇する。槍をとっては長州一といわれた吉田の槍ではあるが、沖田の天才剣の前では子ども扱いである。一刀のもとに即死している。師、吉田松陰がもっともその才を愛し、明治に生き残っていたら据え置きの総理大臣といわれた吉田もここに散る。沖田総司はこの時、喀血をして無意識だったという。無意識のまま、槍の使い手吉田稔麿を一撃で斃したということを後世の小説家たちは無想剣と名づけている。ともかくも、池田屋で争闘中、沖田が喀血したのは事実であるし、このことは近藤が国へ送った手紙などでも知れる。一方、駆けつけた吉田稔麿の親友、杉山松助も新撰組の応援で池田屋を取り囲んでいる会津藩に取り囲まれ、惨殺。これ以前に四国屋に向かった土方らは、不在と知ると、取って返し、池田屋に着くや遅れてきた会津、桑名の友隊を池田屋に入れず、周りを警備させた。手柄を後から来た者に取られてはたまらないという気持ちがあったのだろう。土方が到着するまでは、新撰組はかなり危なかったらしい。永倉新八なども土方隊の到着があと少し遅れていたら、負けていたかも知れぬ、と後に語っている。土佐の望月亀弥太は、血だるまになりながらも、会津の重厚な囲みを破り、池田屋を脱出したが、数丁先で力尽き、路上で立腹を斬り自刃。宮部鼎蔵のみは落ち着いていた。踏み込まれた時点で死を覚悟していたのだろう。かれは近藤勇と数合刀を交えたが、敵せず階段の下にもぐりこみ自刃した。この争闘の結果、不思議なことが起こる。朝廷から新撰組に褒美が出たのである。会津藩や幕府はもとよりであるが朝廷が新撰組に金100両出るということはどういうことであろう。幕府の策略か、朝廷のバランス感覚か、ともかく新撰組はこれで晴れて勤皇志士として評価された。池田屋事件により明治維新は一年遅れたといわれている。あるいは、池田屋事件が契機となり、これ以降長州の暴走が始まり、私は逆に一年早くなったのではないか、とも思う。
2005.07.05
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新撰組局長近藤勇以下、手練れの剣士たち数名が池田屋に乗り込んだのは、元治元年6月5日午後10時過ぎ、尊攘志士たちの宴は二時間以上過ぎ、盛り上がりはピークに達している。過激で知られる土佐の藩士たちは、古高俊太郎の奪還に、今すぐ新撰組屯所へ乗り込もうという勢い。怜悧な長州藩士たちは黙って心の内に闘志を燃やす。いずれも胃の臓腑が溶けるほど酒が入っている。そのさなか、池田屋の戸をどんどんと叩く音、「主人はおるか、ご用あらためであるぞ」と局長近藤勇が大声で怒鳴ると、戸を明けて応対に出た池田屋の主人惣兵衛はあっと驚いたが、気を利かせ、二階にいる志士たちに向かって声をかけた。「御用改めでございます」「馬鹿っ」と近藤、惣兵衛を殴りつけ、たちまち階段を駆け上る。惣兵衛の声は騒擾の二階までは届かない。ただ、土佐の北添佶麿が同志が遅れてきたと思い、階段の上に顔を出した。そこには、鬼の形相で駆け上がってくる近藤の姿があった。近藤は抜きつれた佩刀虎徹で一閃、北添は即死、階段を転がり落ちる。それをよけながら永倉新八が階段を駆け上がる。近藤は騒ぐ部屋のふすまを、ぱんっと開け放つと再び大音声で叫んだ。「御用改めである」あっと叫んだのは尊攘派の志士、手元に刀がない。夕刻に、お手伝いとして池田屋にもぐりこんだ、監察部山崎烝があらかじめかれらの刀を隠していたのである。たちまち争闘が始まった。尊攘志士たちは、脇差を抜きつれ、防戦する。二階にいる新撰組は近藤と永倉の二人。部屋の外は廊下があり吹き抜けのようになっている。下は中庭である。尊攘志士たちは次々と中庭へ飛び降りる。階下で守るのは、沖田総司、藤堂平助、原田左之助。吉田稔麿は24才。松下村塾の四天王といわれた男である。槍の名手でもある。かれは新撰組の刀をかいくぐり、池田屋のそばにある長州藩邸に来ると、援軍頼む、とひとこと言い、再び池田屋にとって返した。長州藩邸には、京都留守居役の乃美織江や桂小五郎がいた。かれらは、援軍に飛び出そうとする藩士をなだめ制止した。政治家桂小五郎としては、この事件により、さらに長州の京都政界における政治上の立場が悪くなるのを懸念したのだろう。吉田を見捨てた。吉田はこの後死ぬ。斬ったのは沖田総司といわれている。藩邸から飛び出したものが一人いる。杉山松助である。杉山松助は、池田屋から一足先に藩邸に戻っていたらしい。吉田の声を聞くと、桂らが制止するのも聞かず、藩邸を飛び出した。
2005.07.04
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池田屋に集まった尊攘志士は在京における一流の志士であったが、もう一人いる。桂小五郎である。宮部鼎三と並んでこの会合の首座に座るべき、桂は五ツ刻(午後八時)の集合時間より時間より早く着いた。そのため、近くにあった対馬藩邸に寄り込んだ。これが、桂の命運を分けた。新撰組に襲われた池田屋の志士は一人を残して全て死ぬ。桂という人は不思議な人物で、本能で知るのか、危険を回避する。恐らく、新撰組がもっとも付け狙ったのも桂であろう。しかし暗殺率が100%に近い新撰組でさえ桂をしとめることは出来なかった。不思議な人物である。ともかく定刻をすぎた頃、桂を残して尊攘志士は池田屋で会合を始めた。これより数時間前、古高の自白により京都占拠を知った新撰組は、土方を主に置く監察部が総力を挙げ、とうとう尊攘志士が会合を行うことを突き止めた。これが祇園会宵山(祇園会の前日)6月5日の夕刻である。尊攘志士の会合は午後八時だから猶予はない。あと数時間である。ただ、会合場所が錯綜した。池田屋と四国屋(丹虎)である。どちらでやるのかわからない。ついに新撰組は隊を二つに分ける。この日稼動が利くのは約三十名。百人を越える新撰組としては少ない。百人からいる新撰組が三十名しか使えないのかわからない。ともかく近藤はこの三十数名で襲撃を決断する。午後十時、祇園会の宵山も終わり、静まり返った京の町を新撰組の二隊は、それぞれ進む。池田屋は局長近藤勇が率いる手練れの剣客、沖田総司、永倉新八ら数人。四国屋に向かったのは平隊士二十数人を率いる副長土方歳三。
2005.07.03
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京にいる尊攘派志士が池田屋で会合を行う、ということを知ったのは元治元年(1864年)6月5日の夕方である。その数二十数人、45歳の肥後、宮部鼎三を盟主に長州の吉田稔麿、杉山松助、土佐の北添佶摩、望月亀弥太らである。望月亀弥太はこれ以前、勝海舟が主宰し、坂本竜馬が塾頭をつとめる神戸海軍操練所にいたが京都決起の勧誘に来た北添佶摩についてこの会合に参加した。竜馬はこの決起(京都占拠のクーデター)が粗漏な計画であるとして神戸海軍操練所にいる土佐系の脱藩浪士を止めたが、望月だけは聞かず、竜馬の下を離れた。望月にしてみれば、志士として故郷を出てきたのに、神戸海軍操練所で地道な技術修練をしていることが馬鹿らしく思えて、血沸き肉踊る革命戦に参加するほうが良かったのであろう。宮部鼎三は九州尊攘派の巨魁で、長州の吉田松陰の盟友であり、松陰をして「毅然たる武士なり。僕、常に以って及ばずと為し、毎々往来して資益あるを覚ゆ」と評している。かれはいったん引退したが、清河八郎の九州遊説で触発され、ふたたび尊攘活動を始める。余談ではあるが、清河の影響力がいかに凄いものであるかがわかる。長州の吉田稔麿は池田屋に集まった綺羅星の中でも出色であったろう。足軽の家に生まれ、松下村塾に入塾、高杉晋作、久坂玄瑞、入江九一とともに松下村塾の四天王といわれた。松下村塾の末席にいた品川弥二郎(明治後、内務大臣、子爵)が明治になり、吉田稔麿を評して、明治後に生きていれば据え置きの総理大臣だ、といっている。同じく稔麿の親友、杉山松助は大蔵大臣だともいっている。この二人が池田屋事件で命を落とす。吉田稔麿は24歳、杉山松助は27歳。
2005.07.02
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新撰組の事件の中でもっとも華やかなものが元治元年(1864年)6月におきた池田屋事件であろう。前年の文久三年(1863年)8月18日の政変で(薩摩・会津による京都政界からの長州追い落としのクーデター)正式に京の守護取り締まりになった新撰組は毎日のように長州系尊攘浪士を斬っている。怒ったのは京から追い落とされた長州系過激派である。その際たるものが来島又兵衛であろう。来島は長州の重臣で600の配下を持つ遊撃隊の隊長でもある。その性格はまるで戦国時代の武将のようで、およそ「長州の怜悧」とはかけ離れている。桂や久坂ら過激派リーダーが京での長州復権のための政治工作をしている時に、かれは長州復権のために兵を率いて朝廷に強談判するというのである。翌文久四年(1864年)来島は九州尊攘派の盟主宮部鼎三などと話し合ううちに妄想的な計画になってゆく。風の強い日に風上から火をつけ京じゅうを火の海にし、そこへ長州軍を侵攻させ、孝明天皇を奪い、今日を占拠し、さらに倒幕の軍を上げる、というものである。このとき、京で連絡役として働いていた者に、古高俊太郎(こたかしゅんたろう)という古参の人物がいる。この古高が新撰組によって捕らえられた。古高はこの計画を自白する。しかも参加する尊攘志士の連判状まで出てきた。このときの拷問は惨烈を極めたもので、新撰組副長土方歳三が主になり古高を逆さづりにし、足の甲から五寸釘を打ちたて、突き抜けた足の裏から蝋をたらしたり、指の爪の間に針を突きたてたりするもので、古高はもとより胆力のある志士であったが、恐らく無意識の間にしゃべったのであろう。新撰組は戦慄した。一方、尊攘派は、元治元年(1864年-2月20日に文久四年から元治元年に改元)6月5日九州尊攘派の巨魁、宮部鼎三を盟主に古高奪還を相談するため池田屋に集合した。世に言う池田屋事件である。
2005.07.01
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