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幕末もぎりぎりの段階になると、土佐藩の上士の間にも勤皇側に寄る者も出てくる。後藤象二郎、乾退助などである。乾退助は後に、自由民権運動の中心人物で知られる。藩父山内容堂の側近で、幼い頃から喧嘩退助と言われるぐらいに過激であったが、青年期に中岡慎太郎の感化を受け、急速に勤皇に傾く。中岡は乾退助に軍司令官としての将領を見抜き、官軍の倒幕総司令官に仕立て上げるべく薩摩長州の要人に紹介していく。中岡死後、戊辰の役が始まると乾退助は東山道総督府参謀(事実上の司令官)となり京から江戸に向かって東上していく。新選組局長近藤勇率いる甲府争奪戦が一つのヤマ場であるが、この時、乾退助は先祖が戦国時代の武田軍団の名家、板垣であったため板垣姓に戻っている。江戸占領後は、会津若松城攻略の司令官になり、官軍を勝利に導いた。純粋な軍人であったため、明治後は、薩長が占める陸海軍に座る席がなくなり、下野して自由民権運動を起こしたが、さほどの実績もなく世を終えている。しかし、長州の大村益次郎もそうであるが、幕末のように乱世になると歴史を旋回させる役割としてこういう人物も出てくる。板垣退助が倒幕の総司令官でなくても新しい時代はやってくるが、明治維新はこうも早くやってこなかっただろうとは推察できる。
2005.05.31
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今のところ、幕末土佐のことを書いている。幕末の土佐は、二つに分かれている。もともと土佐は戦国時代に一郡から出た長曽我部元親が土佐一国を切り取り、さらに四国全土の覇王になる寸前、中央に織田、豊臣政権が成立し、土佐一国に押し込められた。長曽我部元親という人物は面白い人で、おそらく日本で初めて国民皆兵制度を考え出した人物である。元親の次の代、盛親の時、関が原で破れ、藩はお取り潰しになる。そこへ進駐軍のように中央から舞い降りてきたのが山内一豊率いる軍隊である。山内一豊は静岡掛川四万石からいきなり土佐二十四万石の国持大名になったが、地元の長曽我部侍を採用せず、弾圧した。これが、土佐が江戸期を通じて二つに分かれた原因である。長曽我部侍は、武士階級で最下級の郷士、足軽になり、あるいは帰農して庄屋になった。やがて幕末になり、徳川に恩義のある山内侍と、弾圧を受け続けた長曽我部侍の対立が一気に爆発する。長曽我部侍が勤皇を支持する根源は、天保庄屋同盟である。これは天保年間、土佐七郡の庄屋が、われわれ百姓は武士ではないので、殿様の家来ではなく天皇の家来だと申し合わせたことに起因する。しかし、幕末においても山内侍は、長曽我部侍を徹底的に弾圧する。ここに間崎哲馬という男がいる。中岡慎太郎の師である。(といっても歳はいくつも離れていなかったが)土佐勤皇党の幹部で、党の首領武市半平太とともに土佐の勤皇化に尽力するが土佐の弾圧にあい、切腹する。かれは、間崎滄浪という詩人でもあった。その絶命の時の詩が残っている。請(こ)う君よ、狂風陰雨の夜飄々(ひょうひょう)として魂魄(こんぱく)長く天を繞(めぐ)らん
2005.05.31
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中岡は薩長同盟の前年(1865年)にかれの著作、時勢論でこう予言している。「爾今以後、天下を興さん者は必ず薩長両藩なるべし。・・・・・天下近日の内に二藩の命に従うこと鏡に掛けて見るが如し」翌年、薩長同盟は成り、1867年大政奉還以降、まさに薩長藩閥の明治がやってくる。かれの思惑はことごとく当たり、一つとして外れたことがないといわれるゆえんである。また、幕末の最晩期に、公武合体で失脚していた岩倉具視を見出し、世に送り出したのもかれである。岩倉は、倒幕の最後の詰めを薩摩の大久保利通と共に行い見事、維新政府を樹立する。かれの故郷、北川村には石碑にはこう刻まれている。中岡慎太郎は常に何かのために献身した。農民のために献身した庄屋。勤皇党のために献身した青年。尊皇倒幕のために献身した志士。薩長連合のために献身した政客として慎太郎は生きた。やりたくない事でもやりたいことをやめてでもやったのである。妻を捨て、家を捨て、生命までも投げ捨てて。
2005.05.30
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竜馬の盟友といえば、中岡慎太郎であろう。土佐北川郷の大庄屋の家に生まれ、剣は武市半平太に学び、学問は間崎哲馬に学んだ。その後、武市を中心とする土佐勤皇党に参加、坂本と知り合う。土佐勤皇党が瓦解後、長州に脱藩、長州において軍師となり、高杉らの信頼を得、島津暗殺、その後、薩摩の西郷、大久保と交誼を交わす。また禁門の変(蛤御門)、四カ国連合艦隊の馬関(下関)攻撃と長州系浪士の盟主となる。さらにこの硝煙の中、かれは土佐の若い佐幕型上士を説き、かれの書いた論文を回覧させ、板垣退助などはこの影響で勤皇になったという。かれは硝煙の中に身をおきながら、薩長同盟が維新回天の要だということを考え、別な道を歩いてきた坂本と合致するというところが面白い。薩長同盟がなければ、あるいは維新は成り立たなかったかもしれず、後の大政奉還も中岡の活躍がなければ成立しなかったのではないか。中岡の活動は、坂本のそれとは違い、地味である。薩長同盟、大政奉還は坂本がやったように見える。しかし、中岡の活躍が大きい。もっと評価されてもよいように思う。
2005.05.28
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竜馬に関しては毀誉褒貶、評価が分かれる。作家の柴田錬三郎氏、はあの細い目つきは悪人だ、という風に評している。また、同じく作家の今東光氏は、だいたい土佐の連中はほら吹きが多く、竜馬もほらを吹きかけたところで暗殺されている、と云っている。両氏は武士道をこよなく愛し、柴田錬三郎氏は、幕臣の小栗上野介を高く買っているし、今東光氏は、津軽出身で維新は幕府側だったからそういう意見を持ったのであろうが、それにしても竜馬に対する評価はかなり手厳しい。竜馬を高く評価しているといえば、司馬遼太郎氏であろう。竜馬は維新史の奇蹟とまでいっている。その理由として、幕末維新に生きた幾千人の志士たちの中で、一人も類型を見ないからだという。竜馬の行動、思想がそういうものなのだろう。ともあれ、いまだに続く竜馬ブーム、天の竜馬は苦笑しているの違いない。
2005.05.27
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坂本竜馬は、北辰一刀流の免許皆伝(この流儀では大目録)である。19の歳、かれは江戸へ出て、北辰一刀流を学んだ。竜馬の師は、千葉貞吉。北辰一刀流の開祖、千葉周作の実弟である。貞吉には、娘が三人いる。さな子、里幾子、幾久子である。この長女、さな子と淡い交流が合ったらしい。この当時の武士は臆病で、特に江戸の町人は気が荒く、旗本などは怒鳴り飛ばされていたらしい。千葉道場免許皆伝のさな子にすれば、そんな武士たちが歯がゆく見えたであろう。その中で、土佐っぽの竜馬は男らしく、頼もしく映ったであろう。若い二人の淡い交情は、竜馬の志士としての活躍と共に終焉する。明治後、さな子が学習院の女学校に勤めていた頃、女学生たちに、坂本竜馬の婚約者だということをいっていたらしい。その後、紆余曲折の果て、孤閨を守って生涯独身のまま、甲府にてその生涯を終える。私は、以前甲府市内にある彼女の墓に行ったことがあるが、その墓碑には「坂本竜馬室」と刻まれていた。竜馬を思うとき、かれが一番輝いていたこの剣術修行時代を思い浮かべる。
2005.05.26
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坂本竜馬の成し遂げた薩長同盟。当時倒幕の実行者は薩摩藩か長州藩といわれていた。薩長は、南にある地理条件を生かし、密貿易で長州などは、公称36万9000石であったが、実際は100万を越えていたであろう。薩摩と長州が手をとれば幕府を倒せる、というのは何も竜馬のオリジナルではなく当時の識者なら誰も思っていた。今、アメリカとイラクが手を組めば世界平和が成る、といったようなもので誰もが思うが現実味がない。それを、一介の浪人が成し遂げたのである。竜馬は、一介の浪人である。その出身も、土佐の郷士(下級武士)あがりで、しかも長男ではないので跡も継げない。むろん脱藩しているので、藩の背景はまったくない。コンビニの前にたむろしているお兄ちゃんが、アメリカのブッシュ大統領とイラクのアルカイダのリーダーに会って手を握らせたようなものではないか。そこに、竜馬の偉さがあると思う。
2005.05.26
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「薩長連合、大政奉還、あれァ、ぜんぶ竜馬一人がやったことさ」竜馬の師である維新随一の英知、勝海舟の云った言葉である。竜馬は日本で初めての日本人といわれる。西郷隆盛や、大久保利通、木戸孝允、高杉晋作など当代一流の人物もその思想は藩単位であり、藩の利害でしか、ものを考えられなかった。竜馬以後、同じ土佐出身の植木枝盛なども竜馬の自由民権の系譜を継ぎ、似たようなことを云っているが現実味がない。具体的に考え、歴史を大きく旋回させたのは竜馬以外いないのではないか。これは、現代におきかえると世界単位でものを考えることと同じであろう。たとえば、アメリカ、イラクも含めた統一世界政府(国際連合ではない)を作るというようなものであろう。そういう観点で竜馬を考えると面白い。
2005.05.25
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