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盛大な食事と、十分なお茶と、それからベスには薬が運ばれてきた。時がたつにつれ窓のないこの部屋は、暑くなりムンムンしてきた。 立ち上がって車に移動せよと言われたときは、みんなほっとした。私たちは別の家に連れて行かれようとしていた。もう暗くなっていて、ファルージャの町の通りを抜けるとき、星がいっぱいの空を何度か目にした。それは驚くほどみごとだった。 着いた家に入る前、できるだけ空を眺めていたくて、ゆっくりゆっくりと歩いた。私の先生から教わった大好きな言葉を想いながら、心の中で微笑んだ。「明日のことを心配するな。明日のことは、明日が心配してくれる。」と言うのだ。「野のユリや、空の生き物のことを考えなさい…」 言葉を変えれば、不安なときには、美しいものを見つめるのです。自然の驚異によく思いを凝らしなさい。 その夜、彼が私に見つめるべき星空の美を与えてくれたのであり、そのことに私は感謝した。 今度の新しい家では、女たちは同じ部屋に入れられたがデービッドだけは別だった。1時間ほどしてドアにノックがあった。男がメッセージを持ってきた。「あなた方は明日解放されてバグダッドに連れて行かれる 「そこまであなた方を連れて行くのに、誰かを手配しないといけない」と彼は言った。「道は危険で誘拐されるかもしれない」 私たちを捕虜にしている人たちがこんな心配をしてくれるのがおかしくて、私たちはニヤッとしてしまった。 彼がドアを閉めたとき、ほかのみんなは歓声を上げ、それから全員で抱き合った。私は、いずれにせよ明日には解放されるだろうと思っていたものの、こうして確証をもらうのはありがたいことだった。 夜明けの最初の祈りのあと出発する、と彼は告げた。夕食が出され、お茶とビスケットもさらに来た。私たちはドアを閉ざされた部屋の中で、その日のことをたくさん話し合い、デービッドのことを案じた。全員銃を抱えた男たちと一人だけで一緒にいるのは楽ではないだろう。デービッドもあとで、自分は男たちに殺されるのではないか、これが「最後の晩餐」になるのかと思っていたと語った。 その夜は眠りづらかった。たんに暑さや、がたがたいう扇風機や、異様な環境のせいばかりではなかった。あたり一面で何時間も続いた爆撃が激しかったからだ。大きな爆音に家が揺れた。私は、その夜の半ばを、胃を締めつけられて過ごした。 朝になって、前夜のことを話し合っていると、奇妙な爆音が聞こえたね、と皆が言った。私たちの経験では、それはクラスター爆弾の音のようだった。この爆弾は、大きな爆音で着弾し、ぐるぐると回るような音をあげ、一連の爆発音とともに子爆弾が拡散して、イラクの子供たちが拾い上げて遊ぶのを待ち受ける。 クラスター爆弾のおかげで、何百人ものイラクの子供が腕や脚を吹き飛ばされた。子供らが草原に転がるこの爆弾を見たとき、子供らの興味を引くように色と形がデザインされている。この爆弾は悪魔の怪奇爆弾である。ただ人類を殺し、不具にするためにだけの設計になっている。 もし私たちが聞いたのがクラスター爆弾なら、ファルージャの戦闘がいつ終わろうとも、1、2年あるいはそれ以上、罪もない人々を殺しつづけることになるのは間違いない。 もう夜明けはとっくに過ぎていたので、私はバグダッドへの旅は本当に始まるのだろうかと密かに訝っていた。 ついにドアにノックがあり、急ぐようにと言われた。私たちは荷物を持って2台の車に乗せられた。私の車を運転したのはイスラム教の導師、後ろの車はその友人だった。 ファルージャ郊外の道に近づくと、何百台もの車が並んで列を作っていて、まったく動いていなかった。私たちの心は沈んだ。アクラはパニックになった。もう一晩、留め置かれるのだろうか? 車の間を縫うようにして行列の先頭まで行ってみた。そこにいた人たちの説明では、アメリカ軍が道路を封鎖していてだれも通さないというのだ。1台が道路を進もうとしたら撃ってきたというのだ。 ひとりの女性が、子どもたちをぎっしり乗せた自分の車を指し示して、言った「子どもたちを、殺されないうちに避難させたいんですよ。どうして通してくれないの?」 ほかの車を見ても、ファルージャの血なまぐさい戦闘から逃げ出そうと必死な家族連ればかりだった。そんな車が数百台も連なっているのだった。 私には、安全圏に逃げようとする人々を米軍が通さないなんて信じがたいことだった。「なんとかしてもらえますか?」と、私たちは聞かれた。 私たちは顔を見合わせ、先日と同じ冒険をまたしなければならないと覚悟を決めた。車を降りて身支度を整えた。車の群と兵士たちの間には、長い空っぽの道が無人地帯のように伸びていた。私たちは手を上げ、拡声器を握り締め、兵士たちがいるコンクリートとレザーワイヤーの場所に向かって、無人地帯となった人のいない道を歩き始めた(訳者註:レザーワイヤー:剃刀状の四角い小鉄片のついた鉄条網) パスポートについている血を見て、私はこの前のときのことを思い出した。今回はもっといい結果になればと私たちは願った。あなたの巡礼者よりドナ追伸:つづく。追追伸:バグダッドからのグッドニュース、聞きたい?? 次は新プロジェクトの報告、それに写真。今、強力に進めています、たくさんの幸せそうな子供たち!!!追追追伸:過去の話は http://groups.yahoo.com/group/thepilgrim でね。追追追追伸:「親切心を示すのに、本当に国境となるようなものはない」――友人、ニルシ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::原文 http://groups.yahoo.com/group/ThePilgrim/message/82
2004年04月30日
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《ドナのファルージャ拘束報告No6》::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ファルージャ6:親切ドナ・マルハーン2004年4月29日―――――――――――――――――――――――――お友達の皆さんへ 質問が終わると、私はクッションの部屋から連れ出され、かわりにジョーが案内された。 ベスとデービッドは、廊下の端の床で敷物の上に座っていた。二人は黙って座っていたが、私も座りながら表情を覗くと、口を利いてはいけないと教えていた(訳者注:以前に出てきたデーブはデービッドの愛称。デーブとデービッドは同一人物)。 デニムのジーンズとジョギングシューズにティーシャツの男が監視していたが、顔中トレードマークのスカーフ(カフィエ)で覆っていたので、見えるのは目だけだった。その風情からは、まだ若者のように見えた――おそらくまだ19歳。 カラシニコフを持っていた。近くに出入口があり、隣の部屋との間は薄いカーテンで隔てられていた。その中からだれかいる音が聞こえ、たぶん台所だろうと思った。 この静けさはありがたかった。今終わったばかりの茶色の服の人の尋問のことと、その意味するところを考えることができた。 私たちが座っている敷物にビスケットが2袋、出されたままになっていた。私は座ったまま考えながら、それをむしゃむしゃと食べ始めた。ところが、どうしても開かない袋があって、私はそれに手をやいた。「何とかならないの!」と袋を開けようと苦労している私を、この男の子は、信じられないという顔で見ていた。ついに彼は、銃を下ろし、優しく袋を取り上げ、開けてくれた。「シュクラン」。私は、きまりは悪かったが、この小さな親切に感謝して、そう言った。 親切は、それで終わらなかった。ベスは気分が悪くて、小さなボールのように縮こまって横たわっていた。これを見た男の子は、毛布を持ってきて彼女にかけてやった。私があくびをして床に体を伸ばすと枕を持ってきてくれた。 しばらくすると私たちは互いにささやき話を始めたが、だれに止められることもなく、ついに普通にしゃべり始めた。ジョーが戻ってきて、デービッドが呼び込まれた。 そしてついに私が待ち焦がれたときが …「チャイ?」とスカーフの男の子がやや遠慮がちに尋ねた。「それそれ」と答えてから私は「お茶が出るって分かってたわ」と得意げにみんなに言った。 イラクでは、有名な中東のもてなしの習わしを守って、お茶を振舞うのは日に20回ほどにものぼる。道でだれかに手を振るだけで、「うちでお茶を飲んでいきなさい」ということになる。 たとえ私たちが見知らぬ人間であったとしても。たとえスパイであるかもしれないとしても。だから、たとえ私たちの国の軍隊が彼らの家族を脅かしているときでも、このスカーフの男の子は自分の文化と作法を忘れてはいないのだ。彼の母親が見たら、誇りに思ったことだろう。 次の数分間、私はカーテンの向こう側のくすくすと笑う声を聞いていた。様子を想像してみた。顔を隠したイラク人ムジャヒディン戦士たちが、カラシニコフを置いて女に茶をいれてやっている。友達などには知られたくないことだろう。 お茶はたいそう美味しくて、私は気持ちが楽になり始めた。それは私にとっては幸運の兆しであり、みんなの顔に浮かぶ不安の気持ちをみてとることはできたものの、自分たちはみんな無事に帰れるという自信があった。あの茶色の服の人はさっき私たちにこう言った。「怖がることはない、私たちはムスリムだ、あなたたちを傷つけたりすることはできない」。私は彼を信じた。彼らが信念に従う人々であることを神に感謝した。そしてまた、常に私の慰めである信仰を神に感謝した。 茶色の服の人がデービッドへの質問を終えると、私たち全員がその居間に呼び戻された。彼は一般的な質問を少しして、それからかばんの中を調べた。これは私たちには好都合だった。私たちのカメラを調べることになったからだ。最近撮った写真やビデオには、私たちがファルージャでしていたことや、バグダッドでしていた子どもたち相手の活動が写っていた。これが終わると彼は出て行ったが、武器を持った見張りの男がひとりでドアの近くに座り、私たちを監視していた。 私たちは床に座り、いつでも前向きであろうと努めながら、日が暮れるまで話をしていた。私はこの仲間たちと一緒だったことに感謝した。みんな成熟していて冷静だった。違う人たちだったら簡単にパニックになったり適切に反応できなかったりしたかもしれない。 しかし、通訳のアクラはこの事態全体の重みを感じていたので、突然泣き出してしまった。彼女はこれから何がおこるのかということだけではなく、家族がどう思うかに怯えていたのだった。 ここの文化では、女性が一晩家を空けるというのはその家族の大変な恥になるのである。この捕虜事件で彼女は2日間も家を空けることになる。私たちが家族はわかってくれると言っても、彼女には説得力はなかった。「もし、あの人たちが返してくれなかったらどうなるの?」と叫び、泣きじゃくりながらアラビア語でお祈りを唱えた。 私は彼女に寄っていってこう言った。「アクラ、私は絶対に神を信じるわ、きっとみんなうまくいくわよ」「そうね、でもあなたは私のママを知らないでしょう!」と彼女は泣き叫んだ。 たとえアクラが真剣でも、みんな大声で笑い出さずにはいられなかった。そのあと私たちは、雰囲気を明るくして、まだ4時間かそこら泣きつづけていたアクラを元気づけるのに、この言葉を持ち出したものだった。 彼女のためにみんなで歌もうたってあげた:アバ(スーパー・トゥルーパー)や、ビートルズナンバー数曲(ウェナイムシクスティフォーなど)や、ウォルツィング・マチルダ(私よりみんなのほうが歌詞をよく知っていた!)など。私がボヘミアン・ラプソディをうたい始めると、歌詞の2行目に入らないうちにやめてくれの声がかかった。しかし歌はアクラの気持ちを落ち着けてくれるので、私たちはもういくつか歌った。 イラクではサーカスのピエロをやっているジョーは、風船を取り出し、動物の形にふたつ作り上げて、ひとつをアクラに、もうひとつを銃を持っている男にあげた。「子供は、いるの?」と彼女は男に聞いた。「ああ」と彼は言った。「あの子らは、バグダッドに連れて行かれた」。彼女が子供たちにと紫のキリンを手渡すと彼は微笑んだ。 それから彼は話し始めた。「あいつらは、俺の兄弟を殺した」と静かに言った。「それから、兄弟の息子と、姉妹の息子も。もう一人の兄弟は刑務所だ。俺だけが残った。どんな気持ちか分かるか?」 彼の表情はおまえたちには分かるまいといっていた。「それに今度は、最大の親友が殺された。足を撃たれてアメリカ兵に首を切られた。あいつは道に倒れて逃げれなかった」「おお神さま」と私は思った。彼の友達もあの診療所に運び込まれた死体の中にあったのだ。 この男の苦悩が体中からあふれ出るにつれ、私は、彼が家族の半分も殺した国々に復讐しようと、手にした銃で私たち全員をぶん殴りたいのではないかと思い巡らした。いや、もしかして彼の痛みをとるにはそれだけでは十分ではないのだろうか? しかし彼は、ペンタゴンにこそぜひ示してほしいような自制心で、そんなことはやらなかった。自分と家族は、自分たちがやりもしないことでこんなにひどい目にあいながら、私たちがやりもしないことでは私たちを罰することはなかった。 まるで私たちの心を見透かすように、彼は私たちに念を押した。「我々はムスリムだ、おまえたちを傷つけたりはしない」 そして、キリンを手に座り、黙り込んだ。
2004年04月29日
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『イスラエルに求められているものは、なにか?』 ??レナト・レデントール・コンスタンティノ フィリピン全国紙ツデー(ABS=CBNニュース・オンライン版提携) 2004年4月26日 ---------------------------------------------------------- モルデハイ・ヴァヌヌは、12年間の独房監禁を含む18年間、囚われていた監獄の門を自由人として歩みでた。自由にしてやるから、釈放をありがたく思えと、かれは投獄した者たちに言い含められている。おまえを釈放するが、イスラエル出国は許さぬ。外国人と口を利くことも、新聞記者に話すことも御法度だ。18年前、かれの良心の声が暴いたイスラエルの汚れた死の秘密を抱えた死の核施設ディモナで、昔やっていた仕事を口外してはならない。 監獄から一歩を踏み出したばかりのヴァヌヌの最初の言動が、世界の人びとの喝采をあびた。ヴァヌヌは新しい人なのだ。18年前、みずからの良心に従う決心をした時と同じ、新しい人なのだ。ヴァヌヌは地元報道陣に歩み寄る。外国報道陣に歩み寄る。指でVサインを示し、マイクとカメラにまっすぐ向かって話しかける。ヴァヌヌは「君たちはわたしを潰せなかった」とイスラエル政府に告げる。わたしを売国奴と呼べばいい、と誘拐者たちをあざける。「わたしの責任は大きくなった」 「わたしは光栄だ。わたしは幸福だ。君たちはわたしの正気を奪えなかった。今でもわたしは、イスラエルの核兵器開発は間違っていると信じている。今でもわたしは、わたしたちが存命中の核兵器廃絶は可能だと信じている」とヴァヌヌは報道機関に語る。「わたしは、モハメド・エルバラダイに、国連の国際核兵器査察団にお願いする。イスラエルに来てほしい。ディモナを査察してほしい。ディモナは閉鎖しなければならない」 外で「ヴァヌヌを殺せ!」と一団のイスラエル人たちが喚いている。イスラエルの法務大臣、つまり間違った呼び方でミニストリー・オブ・ジャスティス [正義大臣]ヨセフ・ラピッドが、「ヴァヌヌは自分の崇拝者である活動仲間たちに取り巻かれているわけでして、じゅうぶんな世話が期待できるでしょう。当局として、身の安全を図るわけではありません」と報道陣に説明する。イスラエルの新聞は、悪意から、ヴァヌヌの住所を公開する。マーリブ・インターナショナルという新聞が世論調査協力を読者に呼びかける。ヴァヌヌは収監されるべき、出国を許されるべき、殺害されるべき??どちらですか? 1日たって、マーリブは抗議の遠吠えを容れて、非を認めて世論調査を撤回し、殺害は不適切な表現でした、もっと“穏やか”な“執行”に替えるべきでした、と弁明する。 入れ替わり立ち代わり、イスラエル当局者たちはヴァヌヌを攻撃する。かれは売国奴だ。イスラエルを丸腰にしたいのだ。万人にとって疑問の余地ない自明のこととされているイスラエル“自衛”の意志、義務、責任。 「今朝、アウシュヴィッツを訪問しました」と、誇らしげにラピッドが、BBC番組『辛口評論』のキャスター、ティム・セバスチャンに言う。セバスチャンは(ヴァヌヌがイスラエルに深刻な被害を与えたとクドクド言っている)イスラエルの大臣に向かって、ヴァヌヌの暴露によって、イスラエルがこうむった被害の例をあげてくれますか、と質問しただけなのだ。ラピッドは、警棒で打ちのめされたなどと、ユダヤ民族が身に受けた恐怖を振りかざす。イスラエル政府が、二枚舌、悪意、特異な人種主義を言いつくろう必要に迫られると、いつでもホロコーストを持ち出して、批判を抑え込む。イスラエルは苦しんだ。イスラエルは悪いことはできない。セバスチャンは正しく対応する。「すみません。アウシュヴィッツに、どんな関係があるのですか? わたしはヴァヌヌについて質問しているのです」とズバリ言う。 たぶんセバスチャンは、別の質問もしたほうがよかった。イスラエルの核兵器で、自爆攻撃を防げるとお考えですか? 「ある国が数億の敵対勢力に包囲され、その一人ひとりがその国家の破壊を誓っている場合、いったい何をすべきだろうか?」と詰問するイスラエル人がいる。イスラエルの核施設の解体論は、この質問をぶつけるだけで封じることができると考えているかのようだ。 この質問は、アラブ諸国政府がイスラエルの生存権を20年以上も前から認めているという事実を無視している。アラブ諸国で実施された世論調査で、イスラエル占領下のパレスチナ人に対する残酷な仕打ちを見て、怒りを感じますかと設問して、YESの回答が増えることがあっても、減るはずがないという周知の事実が、たしかに裏付けられてはいる。だが同じ世論調査が、中東和平の枠組みにイスラエルを組み込むのが妥当であると考えるアラブ人がほとんどであることも明らかにしている。こういう事実も無視しているのだ。 イスラエルが“不倶戴天の敵”から蒙(こうむ)りかねない“火急の壊滅”などと言い立てる人は、荒野に囲まれた小さな文明社会に、イスラエルの生き方の破壊を狙う残忍な数億の未開人を対置する、決まり文句で凝り固まった思考様式を振りかざして、核兵器保有を合理化しているのだとは、実際にはまったく分かっていない、つまり人種主義者なのだ。 “新たなホロコースト”の防止を名目として、イスラエルは、万人、とりわけ非ユダヤ人に、自家製のホロコーストを発動すると脅迫しているが、その動機は必ずしも自衛に限らない。 その動機は、中東地域におけるイスラエルの覇権拡大。非人道的な占領の正当化。ユダヤ人のみに都合のよい、中東における支配体制の維持。イスラエルの無辜の市民を標的にする憎悪テロの連発を引き起こす体制の護持。 反ユダヤ声明だって? たぶん粗雑なフレームアップだろうが、それにしても反ユダヤだって? たぶん、でっちあげ。 「イスラエルの意志として、しばしば持ち出される平和の願いは、わたしが思うに、イスラエル政治の原則ではありません。イスラエルの覇権と影響力の拡大が原則なのです」と、ワルシャワ生まれで強制収容所からの生存者、エルサレム、ヘブライ大学で化学教授だった故イスラエル・シャーハク博士が語った。 ガン治療に貢献した研究で国際的に高く評価されたシャーハク博士は、1948年のイスラエル建国から2001年に亡くなるまで、イスラエルに居住していた。ナチス占領下のゲットーや死の収容所で生き延びる努力のために、幼年時代の大半を費やしたシャーハクは、折に触れ、イスラエル支配下のパレスチナ人の境遇を、ナチスのもとで生きた、みずからの体験になぞらえた。「中東諸国のどこであれ、戦争が勃発した事態において、好ましくない国内社会変動を防ぐために、イスラエルは、必要なら核兵器の使用も辞さない戦争準備をしています……明らかにイスラエルは中東全域の公然たる主導権を握るために準備しているのです……この目的のためには、どのような手段も、核兵器でさえも躊躇せず選ぶのです」 「イスラエルの民主主義は、いまだにユダヤ人にのみ許された特権なのです。イスラエルの問題を追求すれば、広い意味で異民族排斥主義、狭い意味で反アラブ人種主義、どちらにしても、社会階層の上から下まで、隅ずみに染みこんだ人種差別にいきつきます」とシャーハクが語った。かれは、自分を「自己嫌悪のユダヤ人」と中傷したユダヤ人を忘れられない。この雑言の出所は「ナチスなのです。ユダヤ人の人権を擁護するドイツ人がいれば、ナチスは自己嫌悪のドイツ人と嘲(あざけ)りました」 著名な作家であり、イスラエル紙ハーレツの記者アミラ・ハスによれば、「男であれ女であれ、世界のどの国の市民であっても、ユダヤ人でさえあれば誰でも、アラブ系イスラエル市民のだれよりも潜在的に大きな権利を与えられている。ユダヤ人は、就業機会、高級住宅、高等教育就学金、栄達を有利に享受する。西岸地域やガザ地区で、外国籍のユダヤ人であっても、事実上、パレスチナ人よりも大きな権利を持つ」 イスラエルは“諸国を照らす光”を自認したがる。だが、イスラエルが作り上げたみずからの姿を悟るまで、存在するのは暗闇だけだ。 イスラエルの国内公安機関シンベトの前局長ヤーコフ・ペリーによれば、事実として、「イスラエルは準破局状況へ向かって坂道を下っている。剣で切り開く生き方を続ければ、イスラエルはいつまでも泥沼でのたうつだけであり、やがて自滅する」 ユダヤ人庁および世界シオニスト機構の前議長アブラハム・バーグの声に耳傾けてみよう。「パレスチナの子どもたちを気にかけなくなったイスラエルは、かれらが憎悪にかられ、イスラエル人が現実逃避に耽っている只中で自爆しても、驚くことはない。かれらの生活そのものが責め苦であり、わたしたちの寛ぎの場でアラーに身を捧げるのだ。かれらの家では、子どもたちや両親が空腹を抱え、屈辱に沈んでいる。だから、わたしたちの食欲を奪おうと、レストランでみずからの血を流すのだ。「イスラエルはテロ首謀者や工作者を一日に千人殺害できるだろうが、なにも解決などしない。なぜなら、指導者は下から、憎しみと怒りの井戸から、不公正と道徳腐敗の“下部基盤”から現れるのだ……。「パレスチナ民衆をイスラエルの軍靴の下に踏みにじっておいて、中東唯一の民主主義国家を自認してはいるわけにはいかない。イスラエル国内の居住者すべて、ユダヤ人と同じくアラブ人にも、平等な権利を認められなければ、民主主義はありえない。人道的、道徳的、ユダヤ的な方策の外には、イスラエルが領土を保全し、世界で唯一のユダヤ国家に住む多数派ユダヤ人を守る手段はありえない」 イスラエル国防軍少佐であり、兵士たちの選択的拒否運動[兵役のすべてではなく占領軍務のみ拒否]エシュ・グヴル代表イシャイ・メヌチンを紹介しよう。 「毎日のように葬儀があり、イスラエル人が共有する復讐心が、わたしたちイスラエル人が占領者であるという事実を見る目を、ともすれば曇らせています。わたしたちはテロや戦争の恐怖を道連れに生きていますが、占領される側であるために、時間毎の死に苦しみ、もっと大きな恐怖を道連れに生きているのが、パレスチナ人なのです。イスラエルによるパレスチナ占領は、何十年もイスラエルの安全を損なってきましたし、人間性を剥奪しました。…… わたしや(イスラエル)国防軍兵士たちの行動だけでは、政府の方針を変えることはできませんし、いわんや和平交渉も不可能です。だが、占領は政治や戦略の次元だけではすまないと、同胞市民たちに伝えることはできます。占領は道徳の問題でもあるのです。わたしたちは同胞に別の道を示すことができます。かれらは占領にNOと言ってもいいのです」 次は、売れっ子作家でグシュ・シャローム(平和同盟)創立メンバーにして、イスラエル国会3期目の議員ウリ・アヴネリ??「暴力は症状、占領は病気である。……イスラエルが戦争の中心にあり、その真っ只中で、パレスチナ人350万がイスラエルの占領軍に弾圧されている。昨日の犠牲者が今日の加害者になりさがり、世界は震撼している。イスラエルに求められているもの、それは他国民にもまして高い道徳水準なのだ。まさしくそうだ」 たしかにそうだ。 -------------------------------------------------------------- [筆者] レナト・レデントール・コンスタンティノ。フィリピン・ケソン市在 住の作家、画家。フィリピンの全国版日刊紙ツデー(ABS=CBNニュー ス・オンライン版と提携)に週刊連載コラムを執筆。最近、グリーンピース中 国と共同して気候変動とエネルギー問題に専念。家族は、妻カラヤーン・プリ ド、リオ・レナト(男6歳)、ユラ・ルナ(女1歳) HP:http://www.redconstantino.blogspot.com
2004年04月28日
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《ドナのファルージャ拘束報告No5》:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: イラクのファルージャでは、米軍の包囲網作戦が2004年4月5日から、4月の末に米軍が複数の陣地から撤退し始めるまで続いていました。11日には「一時停戦」が成立したとはいわれたものの、実際には激しい戦闘が行われていました。そんな中、オーストラリア人女性ドナ・マルハーンさんは、4月13日に3人の外国人同行者と共に、戦火の中、救援活動のためバグダッドからファルージャに向かいました。その帰り道、ファルージャ郊外で地元ムジャヒディンに20数時間拘束されました。その顛末を、8本のメールにしたためたマルハーンさんの文章を紹介します。本稿は、その5本目です。戦争とはどんなものなのかを知る手がかりになればと思います。 翻訳 TUP/福永克紀 (翻訳・再配布了承済み)::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ファルージャ5:尋問2004年4月27日ドナ・マルハーン―――――――――――――――――――――――――――――― 長い茶色の服に身をつつんだこの人物は、オーストラリアの参戦に強い関心を示した。が同時に深い絶望感もみてとれた。「その男のことを話してくれ、あんたの国の大統領――ハワードだったか?」と彼は訊ねた。「どうしてイラクと戦争を始めたのかね?」「どうして彼はテレビに現れてアメリカ支持を誓ったのかね?」と、最近首相がオーストラリア軍のイラク駐留続行を公に発表したことを訊ねてきた。ハワードの発言は、イラクのテレビやアルジャジーラのようなアラブ衛星放送で大々的に放送されていた。 イラク人の友達はこの放送を見て、何か私に問題が降りかかるかも知れないと気遣ってくれたぐらいだ。 ライドなどは、ある日私の家に飛んできて、こう言った。「ドナ、何やってんだこいつは? こいつに黙るように言ってやれよ! こいつのせいでイラク人みんながオーストラリア人を憎んじゃうよ。君は今は外に出ちゃいかん!」 大半のイラク人は、オーストラリアがどのくらいこの戦争に関与しているかなどほとんど知らないし、オーストラリア兵がこの地にいることさえ知らない人も多いのに、攻撃国の指導者がテレビのプライムタイムに出てきてイラク人の注目を浴びることなんかいらないんだと、彼は説明した。 ライドの警告は理にかなっていた。それ以前は、オーストラリア人だと言えば、常に温かく熱烈に歓迎されたものだった。しかし、ここ数週間、石のように冷たい眼差しを向けられたり、「どうしてあんたの国はアメリカに従うの?」のような質問を受けたり、びっくりしたものだ。 この茶色の服の人物を説得しようとして、私は、オーストラリア外交政策の重みが自分の肩にのしかかっているのを感じた。その荷は重かった。日々の生活で攻撃の矛先を十分に感じているファルージャのイラク戦士によって捕虜となった私にとって、それは何にもまして要らないものだった。私は心の中でジョン・ハワードを呪った。どうして、彼はここにきて、イラク人に、彼らの国の侵略に荷担する理由を説明できないのかと。私は、自分が無謀で、卑劣で、危険で、無責任だと信じる政策を、どうして説明しようと試みることすらできよう。私はそんなことはしなかった。 自分はジョン・ハワードには賛成ではないと私は彼に言った。だからハワードの決定を正当化することなどできないと。 続く数分間、ファルージャにあるこの家の暗い部屋の床に坐ったまま、私は、この戦争についての自分の見解を、あらんかぎりの情熱と明確さで、語った。戦争と暴力への反対を表明し、イラクの人々と連帯してそばにいるために、去年人間の盾としてイラクにやって来たことを説明した。また今回は、いろんな仕残したことをしにきたこと、特にこの戦争の結果ホームレスになりトラウマに苦しむ孤児たちの支援のことを話した。 ジョン・ハワードは保守的な政治家だということを説明した、また自分は彼と対立する党に所属することも説明した。今年の選挙では新しい首相を選んでイラクから撤兵できたらと期待していることも説明した。 彼の顔が輝いた。「新しい首相?」「そう願ってます」と答えた。「インシャラー(神がお望みならば)」と彼は同意した。 ようやく、私が救われる接点ができた。 しかしまだ、苦悩を目の奥に秘めたこの茶色の服の人は、質問を続け、ますます具体的な事を聞いた。「オーストラリア兵はイラクに何人いるのかね? どこにいて、何をしているのかね?「オーストラリア人というのは、イラクのことをどう思っているのかね? イラクと戦争したいと思っているのかね?」 私を見据えて彼はこう言った「イラクの人を傷つけたいのかね?」 この質問には、ほんとうにいたたまれない気持だった。戦争に反対する私の国の友人たちのことを考えると、涙を懸命に飲み込まなければならなかった。私はオーストラリア人は、イラクの人を傷つけたいなんて思ってもいないと説明した。大多数は戦争に反対で、去年のデモでは何十万人もが、街頭に繰り出したことも。「ではなぜ、政府は戦争に踏み出したのかね? みんなが賛成しないのに」 また振り出しに戻ってしまった――自分がいわゆる民主主義国からやってきていて、しかもその国が明らかに民主主義国のいい例ではないことに、私は肩をすくめ、自分が愚かなような気持になった。 泣きたかった。わめきたかった。戦争に反対して行進し行動したすべてのオーストラリアの男や女や子供の切望を、彼に伝えたかった。みんなの平和への願いを感じてほしかった。 これを信じてくれることを、切に願った。できうるかぎり、私は話した。 彼は、座りなおしてしばらく考えていた。静寂のなかに座って、私は苦悶していた。 その静寂は、戸外の銃声と爆発音で破られた。外の、ファルージャの通りでは、女や子供の死体が地面に横たわっているのだ。外では、救急車は撃たれることなく走行もできないのだ。外では、狙撃兵の弾丸に頭を撃ち抜かれる危険を覚悟せずには、誰も歩けないのだ。 私は部屋の中に拘束され、銃を持った男が出口をふさいでいる。しかし、その時、私は、捕虜は自分ではないことに気づいた。捕虜は彼のほうだ。彼の妻や子供やその隣人たちや … 私は、恥じて頭をたれていた。もはや、涙を我慢しようもなく、流れるままに任せた。イラクとオーストラリアのための涙を。あなたの巡礼者よりドナ追伸: このところ、ホームレスになったファルージャの住民のために赤新月社が作った難民キャンプに行ってます。数百家族がテント暮らしをしています。話は悲痛なものばかりです。おもちゃやゲームを配り、子供の遊び時間の相手などをしています。キャンプの話と写真は、間もなくね。追追伸: 新しくメーリングリストに加わった方へ――以前のお話は、www.groups.yahoo.com/group/thepilgrim で追いつけますが、ウェブサイトwww.sydneypeace.com では実にうまくファルージャの話と写真を載せてくれています。追追追伸: 5月6月と7月前半には、講演の予定が入っています――もっといっぱい引き受けますので、予定表に入るように早めに連絡ください。追追追追伸:「祈りの仲間」へのお願い――友人のライドがオーストラリアに来てイラク人の目から見た占領について皆さんにお話をして、ついでに何か技術訓練を受けたいと言っています。彼のビザを取るには、ちょっとした奇蹟が必要です。でも、奇蹟はいつでも見てきました、だれか、奇蹟を起こせる人はいませんか?追追追追追伸:「そして、バンドはウォルツィング・マチルダを演奏した 私たちの死体を埋めるため私たちがやめている間私たちは私たちの、トルコ人はトルコ人の死体を埋めた それからまた繰り返し始まった」 ――バンドはウォルツィング・マチルダを演奏した エリック・ボーグル::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::原文 http://groups.yahoo.com/group/ThePilgrim/message/81同行者のジョー・ワイルディングのファルージャ報告原文 http://www.wildfirejo.org.uk/feature/display/115/index.php訳文 http://www.jca.apc.org/~kmasuoka/places/iraq0404i.html
2004年04月27日
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《ドナのファルージャ拘束報告No4》::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: イラクのファルージャでは、米軍の包囲網作戦が2004年4月5日から、4月の末に米軍が複数の陣地から撤退し始めるまで続いていました。11日には「一時停戦」が成立したとはいわれたものの、実際には激しい戦闘が行われていました。そんな中、オーストラリア人女性ドナ・マルハーンさんは、4月13日に3人の外国人同行者と共に、戦火の中、救援活動のためバグダッドからファルージャに向かいました。その帰り道、ファルージャ郊外で地元ムジャヒディンに20数時間拘束されました。その顛末を、8本のメールにしたためたマルハーンさんの文章を紹介します。本稿は、その4本目です。戦争とはどんなものなのかを知る手がかりになればと思います。 翻訳 TUP/福永克紀 (翻訳・再配布了承済み)――――――――――――――――――――――――――――――ファルージャ4:捕虜になったドナ・マルハーン2004年4月26日―――――――――――――――――――――――――――――― 長老との話が終わったあと、どうやら手伝い用に私たちが使える車は見つかりそうにもないことも分かってきた。時間もおそくなってきたし、通りを走る車も用心深げに走るのが見てとれた。間に合ううちに帰ったほうがいいとも忠告された。 みんな同意した――もし、これ以上できることがないのなら、ファルージャの町の境界外では、危険な難しい旅になりそうだと分かっている以上、早く出発したほうがいい。どのグループがどの道路を支配しているかも分からないので、私たちの運転手エマドは賢明なルート選択をしなければならなかった。 今思えば、彼はそうしなかったようだ。町の端まで行って、それから埃っぽい寂しげな道へと進んだ。一台の車も見えず、怪しげなほど空っぽの道だった。ある建物のかげに狙撃銃で道路を支配下におくアメリカ軍がいると、エマドはにらんだ。車をとめた彼は、車から降りて、両手を上げて兵隊がいると思えるほうに歩いていった。そして、彼らに呼びかけてこう言った。「私たちは、ファルージャから出て行こうとしている報道と救援隊のものですが、ここを通してもらえますか?」 彼が、あまりに遠くまで行ってしまったので、私たちは、少し無防備になったように感じ始めた。4人の外国人――オーストラリア人と2人のイギリス人とアメリカ人が、戦争中の町の郊外で舗装もしてない道に止まった車内に座っている。後ろのもう一台にはイラク人女性通訳のアクラ。 アメリカ兵の返事は銃撃だった。頭をぐっと下げたが、本当にこちらを狙ってきたのかはわからなかった(2度目よ)。それから、更なる銃声が空気を引き裂いた、しかし今度は反対方向からだった。 胃が痛み出した。銃撃戦に巻き込まれたのだ。 頭を下げている以外、どうしようもない、まああまり違いは無いけれど。もし車に当たれば、頭を下げていようがいまいが弾丸は鉄板を打ち抜き私たちをずたずたにしてしまうだろう。このイメージが一瞬頭にちらついたが、それに浸っているわけにはいかない。とにかくここから脱出しようということになったが、一体あのヘボ運転手はどこに行ったのか。デーブが前の助手席からにじり寄ってハンドルをつかんだ、頭は下げたままだ。ともかく彼は車をバックさせ回転させて町のほうにゆっくりと向かいだした。片手運転で、ダッシュボード越しにのぞきながら。私たち女3人は後ろでお互いの膝に顔をうずめて抱き合っていた。 飛び交う弾丸の危険からのがれたかと思う頃、私たちはゆっくりと頭を上げた。 ハロー? 重武装のイラク戦士の一団、ここではいわゆるムジャヒディンが私たちを待ち受けていた。最初、私はほっとした。「神様、おかげで銃撃戦から抜け出せました」と考えた。 しかし、スカーフを巻いているので顔の見えない男が、ロケット発射筒を私にねらいを定めていることに、私は気づいた。私たち全員がねらいをつけられていたのだが、私には自分だけのように思えた。それは、彼の肩から突き出された長いぴかぴかの金属製のものだった――あんまりよろしくはない。それから気付くと、私たちの車は驚くなかれ武器を車内に向けたスカーフを巻いた男たちに完全に取り囲まれていたのだ。 次の瞬間、私たちは本能的な行動をとった――両手を上げて武器を持たないことを示し協力の意思を示すこと。一人が助手席に飛び込んできて、まっすぐ行けと身振りで示した、家の後ろへ、そして止まれと。 車から降りるように身振りで示された。エマドが急いで戻ってきていて、アラビア語で私たちが何者で何をしていたのかを説明しているのが分かった。同時に、さっきのロケット砲の男がまだ私たちの方を狙っていることにも気がついた、やっぱり気が沈むものだわね。 エマドが問題を解決してくれることを期待したが、この兵士団は彼を知らなかったし、私たちが何者かも分からないので調べる必要があった。彼らにとっては、私たちがスパイだということが十分ありうるわけである。 男たちは私たちを別の車に押し込み、人気も無い町を走り出した。この時点では、私は捕虜になったとは思わなかった――私たちにいろいろ聞いたあとには、お茶の一杯も出してくれて、それで私たちは帰り道につけると判断していた。わたしは、パニックに陥りやすいタイプではない。何事にもおびえたり怖がったりしたことはない。私は信仰に基づく楽天主義者である、だから、ロケット筒がもう私を狙っていないことに安堵して、落ち着いて車に乗ったのだった。次に実際何がおこるか定かでない以上、不安定要素はあるものの、それにこだわるのはやめておいた。「お茶が、待ち遠しいわ」、運転手の股にはさまれた手榴弾を無視して、そう考えていた。 家に着いたとき、どう考えたらいいのか分からなくなった。 水をあてがわれると、エマドの声が聞こえた。「飲んでおいたほうがいい、この次いつ飲めるか分からないよ」「どういうこと?」まだお茶を期待していた私はそう思ったが、エマドの言う通りになるといけないので、ともかく水を飲んだ。 床の上に座っていると、ほどなく、この市民軍の指導部とおぼしき重武装の軍人タイプの兵士団が入ってきた。その頭目の男はカーキ軍服に身をつつみ、長くて光るロケットをまるでゴルフクラブのように肩からはね上げていた。いかつい体つきだった。私たちにロケット弾を発射したがっているようには見えなかった――しかし、スカーフの男たちに私たちのポケットから所持品を取り上げるように命令した。私のパスポートはカーゴパンツの脚ポケットに入っていた。こんな脚ポケットなんか不必要な飾りだと前からけなしていた私には信じられないことだったが、ついにそれが役立つ時が来たのだ。彼らはパスポートを発見できず、私もだれかに手渡そうなどとするはずもなかった――彼らが肩にロケットを背負っていようがいまいがである! 私がまだお茶を待ちかねているとき、例のいかつい軍人が長いスカーフを取り出し、それらを巻き始めた。エマドがひざまずき眼鏡をはずした。「おお、神よ」私は慄いた。「目隠しされるのだ」 テレビで見た、その一人は私の友人でもある日本人3人の人質事件、目隠しされて、がたがた揺すられて首にナイフを当てられて泣き叫んでいる、あのイメージで私の頭はいっぱいになった。今回のこの辛い体験を通じて、これほど体中に恐怖心が充満したときはない。ついに私は捕虜になったのだと認めた。この状況はどうしようもないことを認めた。お茶を振舞われる見通しはほぼないことを認めた。 ほかの仲間を見てみると、顔は青ざめ、お互いにささやきあっているのは、私には最後の言葉のような感じだった。 しかし戦士はエマドの向きを変え、後ろ手にしてスカーフで縛った。目隠しはなしだ。他の男性も手を縛られた。私たち、女は、そのままだ。私は息を吹き返した。 見張りつきで別の家に連れて行かれた。「中に入れば、たちまちお茶よね」と思うと、再び元気が出てきた。 典型的なイラク人の居間のような、床にクッションが並べられた大きな部屋に案内されたが、あたかも長期間だれも住んでいないような部屋だった。デーブは手のいましめを解かれ、私たちは床に座って指示を待った。ドアのところに銃を持った男が座っていて、まだ返してもらえないのははっきりしていた。 しばらくすると、もっと年配で、民間人の服装――長い、茶色の、伝統的な衣装――の人が現れた。「古老」といったタイプで、この集落の指導者らしかった。深刻な顔をしていたが、威厳のある顔つきでもあった。私たちが何者か判定を下すのが彼の仕事のようだ。私たちはスパイだと疑われており、彼が結論を出すのだ。 椅子に座って質問をはじめた。同行しているイラク人女性アクラが通訳して、一番近くの私から始まった。「ここで何をしている? 何故イラクにいる?」 私以外の人も黙って聞いていたが、突然思い立った彼は、別々に尋問できるよう、他の者を外に出させた。 それぞれの話を確認しあって、私たちの言うことが本当だと証明できるので、それは私にも結構なことだった。 私は背筋を伸ばして座りなおし、やわらかい語り口の賢明そうな男の質問を待った。 私がオーストラリア人だと言うと、彼の眉が上がった。 おおいに関心を覚えた彼は、身を乗り出して、次から次へと、またその次へと質問してきた。 それに続く30分の尋問のあいだ、私は、じつにさまざまな感情を経験した。体に痛みを覚えるほど悲しみ、恥じ入り、憤り、激情に駆られ、時には泣き出してしまった。 最後には動揺してほとんどしゃべれなくなってしまった。この男やこの一団が怖くてではなく、彼がどんなに深く傷つき裏切られたかを知ったショックからだ。それも、私の国から。あなたの巡礼者よりドナ追伸: 尋問の詳細などは次号。追追伸: 「ザピルグリム」メーリングリストの名で、ウィルスが送られたようで、ごめんなさい。どうしてこんなことになったのか全く分かりません! だれか、分かる人いる? 再発防止はどうしたらいいんでしょう?追追追伸: オーストラリア人の皆さん、ご存知のようにジョン・ハワード首相が日曜日にバグダッドをちょこっと訪問しました。いいえ、私のところに挨拶に立ち寄ることもなく、私のイラク人の友人たちとも会うこともなく、病院も訪れず、いまやテント暮らしのファルージャの難民に会うこともなく、などなど。それでもやはり、ジョン・ハワードが今回の訪問で心を打たれ、彼の心が戦争による苦難にやさしくなれるように、祈るべきだと信じます。追追追追伸: 「どうして彼はあんなに早く帰ってしまったのですか? 私たちと話をしてみたいとか、自分がやった結果を見てみたいと思わないのですか? そうしたら、彼も理解できたかもしれないのに」――ジョン・ハワードによるアンザック・デイのバグダッド空港へのつかの間の訪問について わが友人 マーメド。::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::原文 http://groups.yahoo.com/group/ThePilgrim/message/80同行者のジョー・ワイルディングのファルージャ報告原文 http://www.wildfirejo.org.uk/feature/display/115/index.php訳文 http://www.jca.apc.org/~kmasuoka/places/iraq0404i.html
2004年04月26日
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戦火の中のバグダッド、停電の合間をぬって書きつがれる24才の女性の日記「リバーベンド・ブログ」。イラクのふつうの人の暮らし、女性としての思い・・・といっても、家宅捜索、爆撃、爆発、誘拐、検問が日常、女性は外を出ることもできず、職はなくガソリンの行列と水汲みにあけくれる毎日。‘イラクのアンネ’として世界中で読まれています。すぐ傍らに、リバーベンドの笑い、怒り、涙、ため息が感じられるようなこの日記、ぜひ読んでください。http://www.geocities.jp/riverbendblog/ 4月26日の日記をお届けします。リバーもイラクの人々も心身ともに疲れ切っています。遠いところで決められている「国旗」や「国歌」。重苦しい毎日を生きる人々のユーモアは健在です。(池田真里) ------------------------------------------------------------- 2004年4月26日月曜日 チャラビ、旗、国歌・・・ 過労にはふたつある。ひとつは、肉体の過労。たとえばバケツに水を入れては階段を上ったり降りたりして屋上のタンクをいっぱいにする。これを40回繰り返す??4回めか5回めで、筋肉が皮膚の下でぶるぶる震えているのがわかる。バケツをおくと、腕は頼りなく重さがないみたい??なくなってしまったような感じだ。もうひとつは、こころの過労・・・それは、このバケツ運びを頭の中でやる、40杯分の水が、次々と空けられていく過程を思いえがくとき、また心配や怒りや恐怖がど っとあふれて叩きのめされそうなとき。 まわりの人はみんな、このこころの過労状態だと思う。それは目の中に見てとれ、緊張した声に聞きわけることができる。激しい感情の重荷でいまにもぶっちぎれそうだ。みんな、まわりを用心深く見張りながら、なんとか平常半の生活を送ることに神経を集中しようとしている。つなわたり。南部の状況は悪化するばかりで、毎日何人もの新たな死者の報を聞く。ファルージャでは、再び戦闘が開始された。停戦はいったいどうなったんだろう。いま何が起こっているのかだってわからない。深い 疲労感がわたしたちを被っている。 チャラビが(うまくいけば)ほされかかっているという、記事を読んでいた。チャラビが役立たずだという結論に達するのに、ワシントンはこんな長い時間が必要だったとは、信じられない話だ。チャラビが新時代のリーダーとして歓迎されるだろうって思ってた人、いる? みんな、この1、2週間、ファルージャ攻撃の間、チャラビが何をするか何を言うかと注意深く見ていた。重大局面だった・・・みんな、操り人形評議会のなんらかの動きを期待していた??ともかくなんらかの動きを。非難の言葉・・・殺されていっているまたホームレスに捨ておかれているイラクの人々との連帯の表明を。だが、あるのは奇妙な沈黙だった。評議会のメンバーひとりが、辞任を振りかざして脅した。しかしそれも憤激したイラクの人々が、この事態をなんとかしないと評議会メンバーを叩きのめしてやるという姿勢を見せてのちのことだった・・ チャラビはごく最近になって自分の安全な場所からあえて出てきて(いつものけばいネクタイで)、選挙の可能性を探るためにコフィ(国連事務総長)から送り込まれた国連特使ブラヒミは、全面的に反シーア派で偏向していると叫んでいる。それで、チャラビはいまや自分がイラク中のシーア派の擁護者であると思っているらしい。この構図の愉快な点は、誰もチャラビに、シーア派の間ではおまえはジョークになってるよと教えてやってないらしいことだ。イラク人(スンニ派とシーア派)はこんなふうにからかいあっている。「じゃ、‘シーア派、時の人’、チャラビってわけだ、なるほど」。すると、言われたほうは憤然として、そんなんじゃない、チャラビはたとえばイラクの・・・ブリトニー・スピアーズだ。 テレビで演説しているチャラビをじっと見る。そして、彼がイラク社会のなんらかの党派を代表していると考える人がどこかにいるなんてことがあるんだと思ってつくづくいやになる。チャラビがイラクの知識人と非宗教主義者の旗手だと思われているなんて信じられない。彼はブッシュ株式会社が、民主主義推進のためといって、兵士や戦車と一緒にイラクに送り込んだおもしろくもないジョークだ??17、8の男の子が卒業記念ダンスパーティのためにダンスを練習するときの、プラスチッ ク人形のお相手みたい。 今日はまたこんなニュースもある。操り人形たちが国旗を変えるんだって。前のとはちっとも似ていなくて、初めはすごく不愉快だった。しかし、関係ないんだと気がついた。操り人形評議会には法的根拠はなく、よってそこで制定した憲法は無効で、そこで決定した旗はそこだけのものだ。その旗は、評議会がイラクを代表している程度に、イラクを代表している、その程度のものだ??内側の縫い目にそって“メイド・イン・アメリカ”と縫いとりがしてあるんだろう。あれは操り人形評議会の旗 で、見るたび、その薄青い地色にチャラビたちの顔を見るわけだ。 アメリカにいるメール友だちで同業イラク人のシステム・アナリストは、こんなことを言ってきた。彼女のメール中の傑作。「イラク人のみなさんは、まったく法的根拠のないイラク操り人形評議会の手によって、輝かしい色合いの国家的布きれが制定されたことの著しい重要性にきっとひじょうに興奮していることと思います。もちろん新国旗のデザインは、いつも趣味のよい着こなしの自称対テロ専門家イラク総督、ポール・ブレマーが承認したもので、彼は、手縫いの戦闘用ブーツ、何千ドルの特注スーツ、シルクのデザイナー・タイを着用していることで有名です。次回の大ニュースは、国旗と国旗が代表する帝国に対して斉唱される ’忠誠の誓い’となります。忠誠の誓いのアメリカ人作者の名前はまだ発表されていません。」 近々制定される国歌の歌い手として、イラク版“レディ・ママレード”の豪華メンバー、チャラビ、アラウィ、ハキム、タラバニを提案させてください。リバーによって掲示 午後11時37分 (翻訳:TUP/リバーベンド・プロジェクト、池田真里)
2004年04月25日
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《ドナのファルージャ拘束報告No3》:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: イラクのファルージャでは、米軍の包囲網作戦が2004年4月5日から、4月の末に米軍が複数の陣地から撤退し始めるまで続いていました。11日には「一時停戦」が成立したとはいわれたものの、実際には激しい戦闘が行われていました。そんな中、オーストラリア人女性ドナ・マルハーンさんは、4月13日に3人の外国人同行者と共に、戦火の中、救援活動のためバグダッドからファルージャに向かいました。その帰り道、ファルージャ郊外で地元ムジャヒディンに20数時間拘束されました。その顛末を、8本のメールにしたためたマルハーンさんの文章を紹介します。本稿は、その3本目です。戦争とはどんなものなのかを知る手がかりになればと思います。 翻訳 TUP/福永 克紀 (翻訳・再配布了承済み)::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ファルージャ3:長老からのメッセージドナ・マルハーン2004年4月24日――――――――――――――――――――――――――――― 寝不足で少しかすんだ目をしながら、パンとジャムの朝食を食べてから診療所に向かった。 道や家の中で動けなくなっている負傷者を救い出すのを手伝ってくれと、先生方に頼まれた。しかし、救急車はすべて使用中なので、まず使える車を見つけなければならない。 診療所の外で待っている間にも、散発的な銃声や爆発音がまわりから聞こえてくる。通りで銃撃が始まると「みんな、避難しろ!」とだれかが叫ぶ。身を縮めて頭を下げるか、壁にぴったりと張り付いて数分間、そのあとは次までリラックスできる。 突然キーッとけたたましい音とともに白いバンが通りを上がってくると、まっすぐ側溝沿いに走って診療所ドアの前に着けた。運転していたのは、昨日の10歳のちっちゃなムジャヒディンだった。彼は自分のカラシニコフで後ろの積荷を示した。そこには、血染めの毛布に若者が横たわっていた。服は破れ、お腹の中まで見えた。右腕は肘からちぎれ、残っているのは血まみれの肉のついた骨の端だけだった。出血がひどく、毛布に大きな血の溜まりができ始めていた。 その若者が診療所の中に急いで運び込まれるとき、私は頭をたれて呪った。彼を救えるような基本設備はここにはない。フル装備の病院でなきゃ無理だ。しかし、ファルージャの主要病院はいまアメリカの支配下にあって、イラク戦士の治療など許すはずもない(そうです、信じられないかもしれないけど、事実です!) 私も中に入って、ことの進展を見守りたかったが、邪魔になりたくはなかったし失神したくもなかったので外で待つことにした。 だれかが私たちに、足を負傷して通りで動けなくなった別の若者の話をしてくれた。その若者は喉を切られたので、死んでから病院に運ばれたそうだ。目撃した人たちが言うには、道に倒れている彼に近づいた米兵たちが、家族が窓から見ている目の前で喉をかき切ったという。 このような話を聞く時、たぶん同じような恐ろしい話がもう一方のほうにも――米兵側にも、負傷して殺害されるという話があると思う。実際、4人のアメリカの傭兵がファルージャで殺され焼かれた話も最も恐ろしい話のひとつだ――この話は、メディアがこぞって幾度となく報道しているのを見聞きしていた。 そこが違う――もし白人で西欧側の人間なら、いつでもメディアでやっている。彼らの死にはニュースの「価値」がある。国防総省の広報部門が何百万ドルもかけて、自分達の兵士のことを毎夜のニュース番組で取り上げさせる――イラク兵士はちがう。自分の町の道路に負傷して倒れているときに、窓から家族が見ている前で首を切られても報道されることはない。 そう、あなたはこの話をフォックスニュースで見ることはないだろう。これが私たちがファルージャに行ったひとつの理由でもある。伝えられることのない話を聞いて、みんなに知らせること、ほんのちょっとバランスが取れるようにね。 メディアではファルージャの戦士たちは、「大統領挺身隊の残存分子」とか「スンニ派民兵」とか「テロリスト」とかのレッテルを貼られているのは知っている――しかし、私が知ったのは、彼らはファルージャに住むただの普通の人々だということだ。巨大な軍事機構に対して武器を手にせざるを得なくなったお父さんや、お兄さんや、息子たちに他ならない。そして、人口35万人の町の普通の人たちが組織化されることもなく集まった集団が、6日もたつのに米軍を食い止めているのは、偉業としかいいようがない。 使える車の調達を待つ間に、長老の人と話をしに街角のモスクに行った。ファルージャで何が起こっているのか、地元の人の観点から概要を聞いてみたかった。 穏やかで柔らかな語り口の男性、その人によれば、この5日間の戦闘で500人から600人のイラク人が殺され、少なくとも1200人が負傷したという。この数は病院の記録による控えめのものだし、町の米軍支配下の死傷者数は分かりようもないという。「町に今いちばん必要なものはなんでしょう?」「住民への人道援助の不足だ。特に、医療援助だ。」 住民の感情について、聞いてみた。「ファルージャの人の性質は、平和を好むということだ。しかし、この戦闘で、アメリカ人は、ファルージャで唯一の友人を失ってしまった。いまや、ファルージャの全住民がこの占領と米兵に憎しみを抱いている。「すべての男が戦っている、軍事訓練を受けた者だけではなくてな」と彼は説明した。「アメリカ人に協力していた者もいまや戦っている。「たとえ100年かかろうと、最後の1分まで戦い抜くことをいとわない。「みんな、これまでにない仕方で戦っている」 彼によると、シーア派指導者やクリスチャン指導者からも含めてイラク全土のイラク人から、必要な援助や連帯のメッセージがファルージャに送られてくるそうだ。ファルージャの外の小さな町の女性は、これを売ってお金に替えて用立ててくれと自分の金の結婚指輪を差し出したという。その女性は貧しい人だっただけに、その行為はきわめて象徴的だったという。「これは、ファルージャはイラク、イラクはファルージャになったということなのだよ。この戦いで、すべてのイラク人がひとつになったということなんだよ」 別れる前に、私はこの長老にもうひとつ尋ねてみた。「もし、ジョージ・ブッシュにメッセージを届けられるとすれば、どんなことでしょう?」 彼はしばらく考えてから答えた。「一度でもいいから真実を語ってくれ」がメッセージだった。 彼は、ブッシュがイラク人だけでなくアメリカ人に対してさえ嘘を言っていると思う例を話してくれた――たとえば、イラクでの米軍負傷者の数であり、イラク人の苦難の大きさである。「アメリカの戦略として今、軍事目的ばかりでなく、選挙も近づいており政治目的もあるのは私たちにも分かっているが」と言う。「実際に何が起こっているのか真実を語ってほしいし、ファルージャの人々の苦難について真実を語ってくれる正直なメディアがあってほしい「アメリカは、法についてはよく語る、しかし、法律や条約、特にジュネーブ条約を全く無視する。「ファルージャの戦いのこの3日間で、86人の子供が死んだ。彼らは、この真実を語るかね?「ミサイルが一般家族の家に撃ちこまれて、妊婦が殺された。子宮の赤ん坊は助けることができた。つまり、生まれながらに孤児なのだ。「こんな罪をここで犯されたあとで、どうやってファルージャがアメリカ人を受け入れられるかね?」 話が終わる前に、私は、オーストラリアの多くの人が平和と友好の気持ちを送っていることを、ファルージャの人々に分かってほしいとこの長老に言った。 彼は微笑んで「シュクラン(ありがとう)」といった、しかしなにか途惑っているように見えた。「彼女に聞きたいことがあるんだが」と彼は通訳に言った。「オーストラリアは大きな国だね」と言う。「サイズもハートもどっちも」私はうなずいた。「オーストラリアのほうがアメリカより大きいなら、どうしてアメリカに従うんだね? 理解できないんだが」と彼は言った。「私も理解できないんです」と答えながらも、鋭い質問に私は息を飲んだ。 診療所に帰るとき、白いシーツに包まれている先ほど運ばれてきた若者の死体が見えた。診療所から運び出されてバンの後ろに積み込まれるところだった。 高く掲げあげられた彼の体に、敬意と祈りと祝福がささげられた。間違いなく多くの死者といっしょに、サッカー場のグランドに埋められることになる。 ファルージャの主要病院が米軍によってファルージャの人々から遮断され、この小さな診療所には彼の負傷を処置するのに必要なまっとうな手術器具もないなか、彼は失血によって死亡した。あなたの巡礼者よりドナ追伸: 「捕虜」のエピソードは次のメールで。「ファルージャ」の経験談を、小さく分けても気を悪くしないでください。これが私の逐次報告のやり方なんです。追追伸: 5月20日にシドニーに飛行機で帰ります。追追追伸: 「こんなふうに生きるより殉教者のように死ぬほうがずっといい」―ファルージャで祖父と道を横断していて手と足を吹き飛ばされた4歳の少年アリの父親、アーメド::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::原文 http://groups.yahoo.com/group/ThePilgrim/message/78同行者のジョー・ワイルディングのファルージャ報告原文 http://www.wildfirejo.org.uk/feature/display/115/index.php訳文 http://www.jca.apc.org/~kmasuoka/places/iraq0404i.html
2004年04月24日
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戦火の中のバグダッド、停電の合間をぬって書きつがれる24才の女性の日記「リバーベンド・ブログ」。イラクのふつうの人の暮らし、女性としての思い・・・といっても、家宅捜索、爆撃、爆発、誘拐、 検問が日常、女性は外を出ることもできず、職はなくガソリンの行列と水汲みにあけあけくれる毎日。‘イラクのアンネ’として世界中で読まれています。すぐ傍らに、リバーベンドの笑い、怒り、涙、ため息が感じられるようなこの日記、ぜひ読んでください。(この記事は、TUPとリバーベンド・プロジェクトの連携によるものです)。http://www.geocities.jp/riverbendblog/日本人人質事件に同情を寄せ、ファルージャの暴虐を報告したあとで、約10日書き込みがなく、心配していました。この前2週間書き込みがなかったときは、親戚が誘拐されていたので。何事もなかったようですが、このところリバーに深い疲れが見られます。 (解説 池田真里/TUP) _______________________________________________________________ ◎バグダードバーニング by リバーベンド 友よ、私の心が失われあなたさえ見分けることができなくなったら、どうか私を偉大な文明をはぐくんだ、チグリス・ユーフラテスの胸元に連れて行って欲しい。そこで私は心を癒し、魂を再生させるでしょう。 2004年4月23日 (金) ====================================説明などできない... この一週間くらい書き込みをしなかった。そんな気になれなかったからだ。時に宿題のように重荷に感じたり、書かなかったことに後ろめたさを覚えたりしたことさえある。なぜブロッグしないのか、少なくとも電子メールをチェックしないのか非難するように見返すので、私はコンピューターを見ないようにする。実をいうと、私たちのまわりであまりにも多くのことが起こっているので、ささやかなブロッグに要約し始めることができない。南部の状況とファルージャにおける停戦まがいに、私は苦しみつつ腹を立てていた。現在私の廻りに漂っている感情を的確に表現できるものは何もない...それはモリッシーの歌に似ている:今、私の心はいっぱいで今、私の心はいっぱいで説明などできないだから、説明しようとさえしない ファルージャは一種の休戦状態だが、都市部ではまだ爆撃が続き、どちらの陣営からも死者が出ていると聞く。難民はいぜんバグダッドおよび近隣の都市にいる。この2、3日、軍隊が1日当たり約80組の家族の流入を認めていると聞いたが、今では1日当たり15組の家族に減少したと聞く。難民は家に戻ることに不安そうで、家族を都市部に残す人も多い。 さらに、南部の状況、特にカルバラは気がかりだ。連合軍とアル・サドルの民兵との衝突の話が流れてくる。さらにバスラとバグダッドで爆発があったという。しかし、そんなこともうニュースにもならなくなった。イラク人は、砂塵嵐、停電および蚊と共にそれらをうまく切り抜ける。それは生活の一部になり、ちょうどアメリカ軍による道路封鎖をくぐり抜け、ますます高くなるコンクリート壁の迂回方法を見つけるように、生きるための抜け道を見つけなければならない。 このところ、一種の蒸し暑い、激しい暑さが続く。私たちが慣れている通常の乾燥したイラクの暑さではない。ほとんど固体として感じられるほど、湿気を多く含んでじとじとした暑さだ。電気の状況は、多くの地域で相変わらず大変悪い。3時間の電気供給の後、3時間の暗闇というスケジュールだ。それが涼しい冬の数か月なら耐えられるが、地獄のような夏の数か月は拷問の日々が約束されている。 明日またブログ(訳注:ウェブ上に書き込むこと)するだろう...私を心配するすべての人々に大丈夫だと知らせるために?私は生きていると。それに、もっと言わなければならないことがある。 (翻訳:リバーベンド・プロジェクト 山口陽子)
2004年04月23日
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《ドナのファルージャ拘束報告No2》:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: イラクのファルージャでは、米軍の包囲網作戦が2004年4月5日から、4月の末に米軍が複数の陣地から撤退し始めるまで続いていました。11日には「一時停戦」が成立したとはいわれたものの、実際には激しい戦闘が行われていました。そんな中、オーストラリア人女性ドナ・マルハーンさんは、4月13日に3人の外国人同行者と共に、戦火の中、救援活動のためバグダッドからファルージャに向かいました。その帰り道、ファルージャ郊外で地元ムジャヒディンに20数時間拘束されました。その顛末を、8本のメールにしたためたマルハーンさんの文章を紹介します。本稿は、その2本目です。戦争とはどんなものなのかを知る手がかりになればと思います。 翻訳 TUP/福永克紀 (翻訳・再配布了承済み)::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ファルージャ2:声なき犠牲者/うるさい一時停戦ドナ・マルハーン2004年4月22日――――――――――――――――――――――――――――――――――お友達の皆さんへ 診療所に戻った私たちは、今起こったこと――もし私の両手に擦り傷と出血が残っていなければ到底信じられないことに戸惑いながらも、救急車から荷物を降ろした。 それでも日没までの数時間、そこにいる人たちの手助けをしようとして数時間を過ごした。土地の人からは好奇心たっぷりの目で見られることもあったが、その反応は暖かく親しげだった。 そこで何をしているのかと聞くので説明すると、たちまち顔に笑みがあふれ、穏やかに「シュクラン」(ありがとう)と返ってくる。これが、何にもまして私たちがやるべきことの大半だと思う――孤立し痛みを味わっている人にただ単に連帯を示すこと。ひとりじゃないって、だれかが気遣ってるって伝えること。 援助物資を届けることもそのひとつ、でも平和と友好のメッセージを送るのもやっぱり大切なこと。 その日の午後、診療所の外の歩道で戦争の一番悲しい一面を見た。10歳ぐらいの小さな少年だった。いつも負傷者や死人を運んでくるバンから、彼が飛び出してきたのである。心を乱すのはその子が負傷していたことではなく、その反対だ――その子がバンを運転して負傷者を連れてきたのである! 彼は負傷者たちをおろし、医者や周りの者に事情を報告し、あれこれと指示を与えながらカラシニコフ自動小銃を手に持ち、まるでクリケットのバットのように何気なくあつかっていた。しかし、それは銃なのであって、クリケットのバットではないのである。でも本当はクリケットのバットじゃなきゃいけないと思わずにはいられなかった。首にスカーフを巻き、強靭な顔つきと自信あふれるその態度から、この子は経験豊かな兵士なのだと分かる。ビー球のかわりに弾丸で遊ぶこの小さな少年、今や小さな「ムジャヒディン」のことを思うと心が沈んだ。住民によると、射撃の腕はいいそうだ。 さらに悪いものを見た。おさげ髪で、ピンクのシャツに水玉のスカーフの、やはりカラシニコフを振りかざす10歳ぐらいの小さなかわいい女の子。その銃はその子の背丈ほどもあるものの、難なくあやつっていて、以前にも何回もあつかっていたことがあるのは間違いなかった。実際には使っていないことを願った――ここの絶望的な人たちに団結の証としてポーズを取っているのだと思いたかった。家では人形で遊んでいることを願った。爆撃で負傷しようが殺されようがトラウマを受けようが、それとも成長前に兵士にさせられようが、いつでも子供たちこそが戦争の声なき犠牲者なのである。 ファルージャに夜がおとずれると、無人の通りに反響する散発的な銃声が、無気味な静けさを破るだけである。 しかし、おそくなるといわゆる「一時停戦」から交戦に変わってしまい、夜の半分も寝られなかった。 私たちはモスクの導師の家に泊めてもらっていた。マットレスに寝転んでその日のことを報告しあい、明日の予定を決めた頃には眠りに落ちていた。 最初は夢かと思った――間違いない、前の庭から迫撃弾が撃たれている、いや実は窓のすぐ外からだ、大きくて深い音、「ドーン、ドーン、ドーン」と響く。毎回お腹にこたえる。醜い音だ。身が縮み上がる。 それは長く続いた。ロケット砲の打ち合い:まるでボクサーの打ち合いのように地上から空中へ、空中から地上へと。午前3時頃には、モスクもこの騒音に参加してみんなを勇気づける祈祷をと拡声器から呼びかけた。それで耳について離れない導師の歌声と絡み合った爆弾と迫撃砲の音とで、去年の戦争の時に感じたことと同じことを感じた。「この人たちにとって、戦争が終わったなんてとてもいえないようだ」そう考えた。 外に出てみると、ロケットは前の庭から発射されているのではないことが分かってひと安心した。しかし、ほんの1ブロック先からで、なにか相手側から場所を特定されない方法があるようにと願った。真っ暗な、星の輝く空を見上げて、私は涼しい夜の空気に一息つき、爆音の合間にやはり去年の爆撃の最中に幾度と無くささげた祈りをささやいた。ほかにどんな言葉があろうか …「主よ、あわれみたまえ」 爆撃はその後1時間ほど続いた。神よ、一時停戦中は眠りにくいものです。巡礼者よりドナ追伸: 先週あたりから「The Pilgrim」メーリングリストへの参加者が増えてきました。過去5箇月(それ以前も)私がイラクから書き送った話を読みたい方は、www.groups.yahoo.com/group/thepilgrim でどうぞ。追追伸: 次回はファルージャの写真がもっと。追追追伸:「 すべての銃の鋳造も、すべての戦艦の進水も、すべてのロケットの発射も、最終的にその意味するところは、食べられもせず飢えている人々や、着るものもなく凍えている人々からの盗みでしかない」 アイゼンハワー大統領::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::原文 http://groups.yahoo.com/group/ThePilgrim/message/76同行者のジョー・ワイルディングのファルージャ報告原文 http://www.wildfirejo.org.uk/feature/display/115/index.php訳文 http://www.jca.apc.org/~kmasuoka/places/iraq0404i.html
2004年04月22日
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停戦交渉が始まって数日たったファルージャでは、今日(21日)もまた武装していない市民6人が死亡し、10人が負傷したと、ロイター通信は伝えています。 アメリカで最も公平なラジオ番組のひとつ、「デモクラシー・ナウ」で、イラクの様子を届けてくれるアーロン・グランツの記事が出たので、ラジオのインタビューとともに抄訳しました。 ファルージャからバグダッドに逃れてきた人々の証言から、生々しい「ファルージャの真実」が伝わってくるようです。 (パンタ笛吹/TUP) ・・・・・・・・・ ファルージャの真実 ・・・・・・・・・ アーロン・グランツ 4月21日 インタープレス・サービス 家族とともに、やっとのことでファルージャから逃げ出した11歳の少年ユーセフの話は、他の多くのファルージャ市民の体験を代弁している。「アーメド君は同じクラスの友達なんだ。アーメド君が小学校の前の道を横切ろうとしたら、撃ち殺されたんだ。アメリカ兵から・・・」 米軍司令官は英記者の質問に、「ファルージャの攻撃で殺された六百人のイラク人のうち、95%は武器を持った民兵たちだった」と答えた。 ファルージャの臨時診療所で負傷者の治療にあたってきたイラク人医師に現場の状況を語ってもらった。(ドクター)「私たちは5歳の少年が頭を吹き飛ばされて診療所に連れてこられたのを見ました。頭蓋はあっても脳みそが残っていない子供もいました。 また、母親が赤ちゃんを抱いたまま殺されていたのですが、赤ちゃんの首はなく、母親の体のいたるところに爆弾の破片が突き刺さっていました。これでも、犠牲者の95%は武器を持った民兵と言えるでしょうか?」 米海兵隊によってあまりにも多くのファルージャ市民が殺されたので、サッカー競技場に200人以上の遺体を葬らなければならなかった。(ドクター) 「私たちは多くの遺体を競技場に埋めたので、そこはすでに一杯になっています。しかし問題は、私たちは遺体をちゃんと地中深くに葬ることができなかったことなんです。 競技場でゆっくり埋めていると米兵に撃たれるので、人々はシャベルで急いで穴を掘り、そこに何人もの遺体を重ねて放り込んで、上からすばやく砂をかけて逃げるしかなかったんです」 ファルージャでは、負傷した人々を運んでいた救急車でさえ、何度にもわたって米兵からの攻撃を受けたという。(ドクター) 「米軍によって孤立させられ、白旗を振って助けを求めている家族に水と食料を届けようと、救急車でその家に近づいたのですが、救急車のドアを開けるたびに米兵が狙撃してきたので、家まで入れなかったんです。しかたがないので水と食料を家の前の道路に置いて病院に戻ろうとすると米兵はその水のビンと食料の袋まで撃ちこわしたんです」 米軍の狙撃兵や爆撃機は、家の中に待避していた市民の多くも殺害した。米軍の爆撃にあい、二人の従兄が殺され、五人の家族が負傷したアル・ハムザ氏はこう糾弾する。 「2日間、私の二人の従兄の遺体は、2日間も我が家の居間に寝かせて置かなくてはならなかったんです。というのは、遺体を埋めるために外に出ようとすれば、米兵に撃ち殺されるかもしれないからです。でも二人の遺体が腐り始めたので、裏庭を掘って埋めました。 ブッシュ大統領はすべてのイラク人を敵にまわしたと思います。いまだに電気もろくになく、水道水もありません。おまけにみんな仕事も失ってしまったしね。いまファルージャで有り余っているのは、爆撃機やヘリコプターからの投爆と、米兵からの銃弾の雨だけです」 ファルージャで働いた人道援助活動家、オーストラリア人のドナ・マルバンは、米海兵隊は無差別発砲を繰り返していると、こう語った。「ファルージャで私たちは薬が切れた医院に医薬品を運ぶため、救急車といっしょに米軍が占領している区域を通ろうとしました。車から降りる前に、拡声器で『私たちは青い色の医務服を着ています。いまから医薬品を医院に届けに行くので撃たないでください。パスポートを手に持っていま車から出るところです』と大声で米兵に報せました。そして、両手をあげて道を歩きはじめると、米兵は後ろから私たちを撃ち始めたのです」 ドナ・マルバンたちにとっての問題は、米兵だけではない。彼女たちはファルージャに行く途中、ムジャヒディン(聖なる戦士)に拉致され24時間にわたって拘束されたのだ。その体験をドナはこう語る。「彼らは、最初は私たちが誰なのかを知りたがっていました。私たちの持ち物を検査したり、質問を繰り返すうちに、私たちが人道援助活動家だと分かってくれたのでしょう。それからは、敬意の気持ちをもって接してくれ、ご馳走までしてくれました」 ドナと同じグループにいて拘束されたイギリス人ボランティアのベス・アンジョーンズは、ムジャヒディンと話すうちに、「米軍の攻撃の醜さ」という共通の話題で通じ合うものがあった・・・とこう語った。 「彼らは自分の兄弟がこうして殺されたとか、父親がこう射殺されたとか、 詳しく私たちに語ってくれました。それでムジャヒディンのみんながどれだけ米軍に対して憤りを感じているかが分かりました。 1年前にサダム政権が崩れてアメリカから自由を約束されたのに、いまでは自由どころか米軍に痛めつけられ苦しんでいる現実があるだけなんです」 バグダッドに無事に戻ってきたドナは、自分を拘束したムジャヒディンに対して、もはや怒りを感じてはいなかった。 「ファルージャは海兵隊に包囲された街なんです。いま街から避難しようとしている女性や子供たちでさえ、街を出るのを止められています。そして空からの爆撃はいまでも頻繁に続いています。米軍狙撃手は動くものは何でも撃つので、人々は怖がっていまだに家から外に出られません。ファルージャの人々は、自分たちの国と、自分たちの街に閉じ込められ、捕虜になっているのです」 (抄訳・パンタ笛吹/TUPチーム) http://www.democracynow.org/article.pl?sid=04/04/13/1443247http://www.antiwar.com/ips/glantz.php?articleid=2352・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 米兵捕虜一人に対して、イラク人捕虜が二万人 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ アーロン・グランツ 4月22日 インタープレス・サービス イリノイ州出身のマット・モーピン上等兵は、サダム政権が崩壊して以来はじめての米兵捕虜となった。しかし、この米兵捕虜一人に対して、米軍はすでに二万人のイラク人を拘置している。そのほとんどは、占領軍による乱暴な家宅捜査のおりに拉致されたイラク人たちだ。 去年の夏、ティグリス川のそばにあるアブ・シッファ村では、真夜中に米軍部隊が村を襲い、民家を壊し、若者たちを拉致していった。村の主婦レジャンは、以前は自分の家がそこにあった瓦礫の上に立ち、こう嘆いた。「朝方になると、米兵は私たちを家から連れだし、外に立たせました。彼らにどうしてこんなことをするのか? と尋ねると、米兵は私たち女性を殴り始めたのです。そして戦車二台が来てマシンガンを撃ちまくり、その後ミサイル2発を我が家に向かって撃ち込んだので、家は粉々になりました」 「武器の摘発」を口実に村に侵入した米兵たちは、結局、武器はひとつも見つけることができなかった。それなのに、レジャンの息子たち4人を含む村人73人を捕まえて引き上げたのだ。 村人たちの話では、米兵は村の家々を捜査しながら大量の現金を盗み、引き上げるときには村所有の数台のトラックまで没収していったという。 その事件から9ヶ月がたち、拘束された73人の村人のうち、二人だけが容疑不明のまま釈放された。自由になった一人が、レジャンの息子、15歳のアーメドだ。「捕まえられてから最初の6日間は、有刺鉄線で囲まれた荒れ地に放置されたままだった。テントも毛布もないまま、太陽や雨にさらされ続けた。簡易トイレもないので、ぼくらはみなその場で排泄するしかなかった。夜はまた痛くて、まったく眠れなかった。なぜかって? 米兵が夜を徹して、ぼ くらに石を投げ続けたからだよ」 結局、アーメドはバグダッドのアブ・グライブ刑務所に移された。刑務所で彼は、サダム時代に政治犯罪者が投獄されていた横90センチ、縦120センチの独房に入れられた。そこでアーメドは、屋外での運動もできなかった上に、家族や弁護士に会うことさえ禁じられた。「夜になると、米兵はオオカミみたいな警察犬を独房の中に放り込んで、ぼくを怖がらせた。それも、毎晩だった。もう耐えきれなくて、赤十字の視察員に訴えて、やっと犬をやめさせた」 人権監視グループによると、アブ・シッファ村での拉致・拘束のような事件が米軍占領下のイラクで、あまりにもたくさん起きているという。 人権団体・アムネスティーは、米兵が拘束したイラク人たちを継続的に拷問にかけていると報告している。また囚人たちにズタ袋を頭からかぶせたまま放置したり、故意に明るすぎる照明をつけたままにして眠らせなかったりとのレポートもある。 米政府が指導するイラク人権省で働く弁護士サード・スルタン・フセインは、占領軍から、アブ・グライブ刑務所内に自分の人権相談所を設置する約束をとりつけた。しかしいまのところ、案内人つきの視察しかできないと、こう語った。「刑務所内では、彼ら米兵が私たちに見せたい場面だけしか見ることができません。尋問室などには入れませんし、もちろん尋問の様子を視察するなんて認められません。米占領軍はアブ・グライブ刑務所に15000人の囚人を拘置しているのですが、その大多数が米軍に反抗的なイラク人政治犯です。他にも、イラク南部のウム・カスルに去年建てられた刑務所があって、7500人のイラク人が収監されています」 弁護士スルタン・フセインは、アメリカの占領政策はジュネーブ協定違反だと、こう訴えた。「米軍占領での大きな問題は、米兵が気が向くままにイラク人を捕まえ、苦しめていることです。イラクの同朋たちがある日突然捕まえられ、姿を消しても、なぜ捕らわれたのか、いまどこに収監されているのか、誰も分からないんです。米軍は、イラク人家族との面会も禁じているわけですから、これは明らかにジュネーブ協定に違反しています」 筆者はこれらの訴えについて、アブ・グライブ刑務所を警護していた米兵たちに質問したが、彼らは口々に、「ノーコメントだ。それに答えることができるのは、空港駐留の高官だけだ」と言った。 空港駐留の米軍高官に同じ問い合わせをすると、高官たちは不在だった。 (抄訳・パンタ笛吹/TUPチーム) http://www.antiwar.com/ips/glantz.php?articleid=2362
2004年04月21日
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《ドナのファルージャ拘束報告No1》 イラクのファルージャでは、米軍の包囲網作戦が2004年4月5日から、4月の末に米軍が複数の陣地から撤退し始めるまで続いていました。11日には「一時停戦」が成立したとはいわれたものの、実際には激しい戦闘が行われていました。そんな中、オーストラリア人女性ドナ・マルハーンさんは、4月13日に3人の外国人同行者と共に、戦火の中、救援活動のためバグダッドからファルージャに向かいました。その帰り道、ファルージャ郊外で地元ムジャヒディンに20数時間拘束されました。その顛末を、8本のメールにしたためたマルハーンさんの文章を紹介します。本稿は、その1本目です。戦争とはどんなものなのかを知る手がかりになればと思います。 翻訳 TUP/福永 (翻訳・再配布了承済み)::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ファルージャで:私に向かって撃ってきた!ドナ・マルハーン2004年4月20日――――――――――――――――――――――――――――― ファルージャに到着するや、数日前に友人たちが手伝った病院へと人通りのない道を直行した。 そこは、ファルージャの大きな病院が米軍に爆撃され遮断されてしまったあとに、間に合わせに作り変えられた小さな地域診療所だった。 自家用車やバンや小型貨物の後ろに積まれて絶え間無く運ばれてくる負傷者の殺到に、ここのスタッフはすばらしく順応していた ― 臨時ベッドには車輪がつけられ、清涼飲料水の缶を取り除いた「コーク」の自販機が血液冷蔵袋の代わりだった。 しかし、ひどい負傷者を手術するにも、ここには消毒薬も麻酔薬もほかの必需品も何もなかった。それにここ数日ファルージャ中では、集団的懲罰の一形態として、送電が停止していた。診療所には発電機はあったものの、燃料が切れるとライターや蝋燭やたいまつの明かりで手術しなければならなかった。 先生方に聞いてみた ― 疲れ果てていて、最近のケースを話すときは打ちひしがれているように見えた ― 頭を撃たれた10歳の少年、腹部を撃たれたおばあさん ― 2人とも米軍狙撃兵の犠牲者、またひどい火傷の若者や足を吹き飛ばされたの若者たちなど。でも、新しい患者が運び込まれるたびにすぐに飛び起き、手術用手袋をはめて仕事に取り掛かる。 24時間ぶっ通しで働いている人が多く、やっと数時間眠れるものは少ない。でも、泣き言はいわない。彼らはファルージャのヒーローなのだ。 私たちに何ができるか聞いてみた。数日前の任務では、私たちの友人たちがアメリカ兵と交渉し、路上の負傷者の回収と、交戦地域の数家族を避難させることに成功していた。 食料と医療品を救急車に積んで、町の中にある遮断された病院に行くのに、一緒に行ってもらえないかと医者が尋ねてきた。その病院は米軍支配下の地区にあって、常時狙撃兵が狙っていて支援物資を受け取れないでいた。 先生方の算段では、救急車の安全走行を兵士たちと交渉するのに、私たちの外国人国籍がものをいうのだというのである。 救急車の安全な走行を手助けするというのは、奇妙な不必要な使命に思えるかもしれない ― 世界中ここ以外では常識である、しかし、ジュネーブ条約の保証にもかかわらず、ここはファルージャ、これは戦争、常識など何もない。 最後に救急車がその地区に行った時には、米軍から射撃された。そのとき早産の妊婦を引き取りに行った救急車には、私の友人2人が同乗していたから知っている。結局行き着くことはできなかったけど、救急車に残る弾痕がそれを証明している。 私たちは、補給品を救急車に積み込み、後ろに乗り込んだ。 私のほかに3人の外国人、ジョーとデーブとベス ― イギリス人2人にアメリカ人とオーストラリア人、軍事介入した「有志連合」の、その国々からの愛の介入の若き代表としては、うってつけのバランスである。ブルーの手術着に着替えた私たちは、パスポートを手にした。それと、前の席に運転手、あと病院スタッフも2人。 イラク人戦士勢力支配下のファルージャの街をゆっくりと車を進めると、わき道から幹線道路に出るところで停車した。ここから先は、米軍狙撃兵が監視・支配していて進むことができない。いまや動くものは何でも撃ってしまうのが彼らの習性になってしまっている。 それで、わき道に車を止めて、病院まで救急車が行けるように米兵たちと話をして許可をもらうために、私たち4人が車から降りた。 その地区は、完全な静けさだった。静寂とは気をそぐものである。 拡声器の準備を整え、手を上げて、パスポートを高くかざした。まず幹線道路に飛び出す冒険の前に、わき道から呼びかけてみた。 「はーい、米兵さんたち! 私たちは国際救援団体の者です。武器は持っていません。医療品を満載した救急車を病院まで行かせてほしいのです。聞こえますか?」 冷たい沈黙だけが返ってくる。 メッセージを繰り返す。再び沈黙。 お互い顔を見合わせる。ひょっとして、遠すぎて兵士には聞こえないのだろうか? 武器を持たない市民だとはっきり見えるように両手を上げて兵士に近づくためには、幹線道路に出て行く危険を冒さないといけないことになる。 深く息を吸うと、たぶん人生最大の危険なことをしようとしているんじゃないかとの想いがチラッとよぎった。 息を吐き出すと、心に勇気がみなぎった:みんなの顔を見ると同じことを考えているのが分かった:「私がやらなきゃ、誰がやるの?」 みんなの勇気に奮い立って、道に一歩踏み出したときはみんな同時だった。 両手を上げてゆっくりと歩いた。狙撃兵がいないか建物の屋上をあちこち見た。どこにいるかも分からないので、病院のほうに向かって歩き始めた。 拡声器でメッセージを何回も繰り返した。この静寂の中、数百メートル先でも聞こえるはずである。不気味に周りに反響するだけだった。 私がちょっと首をひねったその時である。遠くで白い閃光がふたつ見えた、それから大きくひびく銃声、後ろから撃ってきたという惨い実感。 突然のことだった:頭を下げ、頭上をビュッと過ぎる弾丸の音が聞こえ、道脇の壁に飛び込む。 しばらく藪のかげに身を潜めていたが、「行こう」と誰かが叫んだ。地面を這いつくばって進んだが、途中で私は背をかがめて歩いた。が、この緊急時に転んでしまった。粗い地面の鋭利な砂利に手でブレーキをかけた。手に鋭利な痛みが走り、血が見えた。何が起こったのか確かめるひまはなかった。 やっと人家の裏庭にたどり着くと、塀を乗り越え門をくぐって救急車のほうに戻った。 手は血だらけで、左足も傷つき、パスポートは赤く血で汚れていて、今後パスポートを見れば永遠にこの事件を思い出すことになるだろう。 全員そろった。しかし、あきらめたくはなかった。もう、兵士がどこにいるかは分かったのだから、そっちに向かって歩いていける。もう一度やろうとみんなで決めた。 お決まりのこと:最初に呼びかけてメッセージを聞かせる、それから道に足を踏み出す、今度は射撃がきたほうに正面向いて。 「はーい、米兵さんたち。私たちは外国人の救援団体の者です ― イギリス人とオーストラリア人とアメリカ人です。武器は持っていません。救急車の通行を許可してほしいのです」 血でじっとり濡れたパスポートを掲げた私の手は、ぶるぶると震えていた。自分の感情を確かめようとしてみた:恐怖、怒り、決意。いまだに分からない。 数メートル歩いてメッセージを2回繰り返しただけで返事があった。 更なる銃弾。この段階で、私はショック状態におちいったと思う。撃たれた、1回じゃない、2回も、アメリカ兵から、病院に救援物資を運ばせてくれと丁寧に頼んでいるだけなのに。 どうやら、答えは「ノー」らしい。 ジョーは激怒した。みんなそうだ。みんな隅に後退したがジョーは拡声器でしゃべり続けた。 「非武装市民を撃つのも救急車を撃つのもジュネーブ条約違反なのよ、分かってんの?」と彼女は叫んだ。 「もしあんたの妹が包囲攻撃にあって、水も食料もない病院に閉じ込められたらどう思うのよ?」 みんなで彼女から拡声器を取り上げた。 「あんたの引き金の指なんか、イボイボになっちゃえ」と彼女は声をひそめてまだ続けていた。 救急車の後ろに集まった。私の手の深い傷と擦り傷の処置にはちょうどいい場所だった。だれかが手当てをしてくれている間、私は頭をたれていた。 私たちは診療所に戻り始めた。頭がくらくらした。怒りが湧いた、鬱憤がこみ上げる、頭痛がした。しかし、不思議なことに精神はすっきりしていた。この非暴力の行為と、使命の「正当性」が守ってくれるという完全無欠の信念に支えられて、まるで無防備な子羊のごとく両手を上げて、私は武装兵士の目の前に歩いていったのである。 確かに医療品を持っていけなかった、が軍隊にきっぱりと言っておくことがある: 「私たちは恐れない。あなた方の兵器には脅されない。 「もし苦しむ人々を救うためにあなた方の暴力に立ち向かわなければならないなら、私たちは敢然と立ち向かう。暴力を使うことなく立ち向かう。 「私たちは、やり続ける」巡礼者よりドナ追伸: 次のメールで、ファルージャの経験談はもっと書きます。追追伸: 「あなたを撃ったのが間違いなくアメリカ兵だとどうして分かるの?」と聞かれます。私たちが行った地区は、その時少なくとも5日間は米軍支配下にあったところです。銃撃があった地区にはイラク人戦士は近づけなかったのです。追追追伸: みなさん、私へのサポートのメッセージと、ハワードとダウナーへの手紙、ありがとう。私へのイーメールが届かない人がいれば、ごめんなさい。我慢できないという方は donnainbaghdad@yahoo.com.au のほうを試してみてください。「あなた方の苦難を課す力には、私たちの苦難を耐え抜く力で立ち向かおう。物理的な力には、魂の力で対抗しよう」 マーチン・ルーサー・キング牧師:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::原文 http://groups.yahoo.com/group/ThePilgrim/message/74同行者のジョー・ワイルディングのファルージャ報告原文 http://www.wildfirejo.org.uk/feature/display/115/index.php訳文 http://www.wildfirejo.org.uk/feature/display/115/index.php
2004年04月20日
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/////////////////////////////////////////////////////////////////// ダール・ジャマイル特派員がバグダッドから報告する 2004年4月19日 -------------------------------------------------------------バグダッドの医師がファルージャでのクラスター爆弾使用を報告、米兵による患者へのいやがらせ ダール・ジャマイル 2004年4月19日午後10時53分(バグダッド時間)に公表 バグダッドにおけるうわさ話はこうだ「自動車爆弾の自爆攻撃中止はその背後にCIAがあったということの証明である。なぜ?なぜならばと一人の男が語る。「(CIAエージェントが)今は戦闘にあまりに忙しいし、彼らが爆弾を使って引き起こそうとしていた不穏な状態は、いままさに達成されているから。」 本当なのか、そうでないかはともかくとして、確かにイラクでは占領者のイメージに良い兆しが示されるようすはない。 一昨日の晩私は、中央バグダッドで非常に大きい爆発と、それに続く3つの小さい爆発によって目覚めさせられた。今朝も私は、再び1つの大きい爆発と、それに続くいくつかのより小さい爆発で目覚めた。 非常に多くのジャーナリストがイラクを立ち去り、残留する大多数の人たちが(宿泊先のホテルの近くに足止めされているという状態におかれているため、地上で起きている出来事について正確な情報を手に入れることがいっそう困難になっている。 我々はここで、言うまでもなく移動をすることは、悪化する治安情勢のためにますます困難に直面することになった。 イラクの首都における毎日の(そして毎晩の)生活を象徴する散発的な砲火と、恒例となった爆撃は別として、少なくともイラクの他の地域と比較して、ここでは比較的静穏であり続ける。私が感じていることは、ここに住む多くのイラク人は(直接軍と戦っている者は別として)、ナジャフとファルージャに対して注目をしつつも静観的な位置に最も近いということである。 けれどもこれは現実の話、おおっぴらに戦闘をしているわけではない中央バグダッドのそれと矛盾していて、暴力と緊張は表面下で沸騰状態にある。アラブ子供病院への最近の取材において、尋ねたときに在籍した人の中で最も高い役職にあったワ-ド・エダン・ルイ博士が述べた「侵略の前に、我々は毎晩300人の患者を診ていた。今、治安がそれほど良くないから、我々は100人しか診ていない。」 一方、アル・アダーミヤのノーマン病院で、私の取材に匿名を条件に応じてくれた医者が述べた「我々は平均1日に1つの銃傷を治療しているが、私たちは占領の前に決して見なかった種類のものだ。これはバグダッドで法の支配が及んでいないことの帰結である。イラクの警察は脆弱な武器しか持っておらず、誰も彼らの権威に敬意を払わない。」 彼は同様に米軍兵士が抵抗戦士についての情報を求めてい病院に来たと述べた。彼は言う「私の方針は、アメリカ人に私の患者を与えないこと、そして少しの情報でも提供しないことだ。私は患者のために、アメリカ人への情報提供を拒否する。私は私の患者が病院の壁の外で何をしたかなど気にしない。私は私の仕事をし、その後患者は出て行くだけだ。」 「10日前にこれは起きた...人々が、大部分が子供たち、女性たちと高齢者であったけれども、ファルージャに入り始めた後、これは起こった。」 米軍がファルージャで文民を爆撃していたかどうか尋ねられて、彼が述べた「もちろんアメリカ人は、革命派とともに文民も爆撃している。1年前にファルージャに革命はなかった。けれども彼らは家を捜索し、人々を侮辱し始め、そして人々を怒らせた。人々は腹を立て、デモをし、その後アメリカ人はデモ参加者を撃った。それがこのファルージャ革命の始まりだった。それはサドル・シティでも同じだ。」 彼が怒って続けた「文民に対する侵略がこのすべてを起こした。占領後の最初の2カ月間は何も起きなかった。人々はサダムがいなくなったことがうれしかった。そして今、もしアメリカ人がナジャフを侵略するなら我々は神のお慈悲を望むだけだ。」 侵略と占領の間にクラスター爆弾が一般のイラク人に使われたと伝えられている。 匿名を条件に取材に応じたもう1人のノーマン病院の医者が、米軍が撤退した12月、アル・ドーラ地域にクラスター爆弾を落としているのを見たと述べた。「私はすべて私自身の目でそれを見た。兵士は自分のヘルメットに集めたクラスター爆弾の子爆弾を入れていた。米軍はそうやって不発弾を取り除いていた。」 負傷したファルージャ市民が述べたことと同じ証言が、現在働いている現場の医師からももたらされていることから、ファルージャでクラスター爆弾が使われていることは間違いないとみられている。 さらに彼は、治療したファルージャの犠牲者は、その多くが「ダムダム弾」で撃たれていたと主張した。その銃弾は撃たれた後に体の組織に最大の損傷を与えるように設計されている「ホローポイント弾」だという。これらは「銃創を拡大して」いると主張している。 ディスカッションの終了間際に、最初に語った医師は「米国は攻撃性を誘発する。もしあなたが私を攻撃しないなら、私は決してあなたを攻撃しないであろう。米国はイラクの人々の攻撃性を刺激している!」 バグダッドのアル・カラム病院で匿名を条件に取材に応じた医者が、彼の同僚の一人がちょうどナジャフから戻ったところだといった。彼女はスペイン軍が病院を占領していたために、そこで働くことは不可能だったと、アル・カラムに言った。ナジャフのアル・サドル大学付属病院の屋根は、スペイン軍の基地を見下ろす位置にあったため、軍が戦略上の目的で病院を接収した。 アル・カラム病院の医師は「アメリカ人は何がイラク人に起こっているか気にもしない。」と述べた。 バグダッドでアル・カー病院に似たような話がある。病院管理部門の一人が匿名を条件に取材に応じて「米軍兵士は常に我々に私たちの負傷者に関する情報を求めてここに来る、しかし我々は彼らに情報を与えない。」と述べた。 フセイン・カリム、サドル・シティのモハンメッド・ベイカー・ハキム病院の管理助手は、兵士が病院を占拠したり訪れたりする以前から、米軍兵士が病院の一台の救急車を撃って、運転士に怪我をさせたと言った。また彼は、2週間前の戦闘が始まった最初の日にサドルシティで女性や子どもばかりの90人の負傷者と32人の遺体を収容したと述べた。 ヤーモーク病院の、筆頭医師がファルージャの状況を語った。 彼はファルージャでの米軍の包囲攻撃最初の日に、傷ついた人たちが数多く彼の病院に搬送されたと語った。彼は「我々は別の病院に兵士を誘導しようとしたけれども、アメリカ人は私の患者に質問するためにここに来た。」と続ける。 彼は、彼が大虐殺と呼ぶファルージャの状況に憤慨しており「アメリカ人は治療支援のためにファルージャに来た我々の医師の何人かにまで発砲した。ミサイルで車が攻撃を受け、我々の医師の1人が負傷した。そのうえファルージャにいる私の医師からの報告では、アメリカ人は、ファルージャの主要な病院に対してと同じように、救急車さえも撃っている。」「ファルージャの私の医者は、アメリカ人がクラスター爆弾を使っていると報告した。私たちが治療したファルージャから来た患者も同じことを言っている。」 クラスター爆弾の使用は国際法上、そうでないとしても少なくとも「法の精神」として戦争犯罪であると言われている。投下された後に残る不発弾が対人地雷と同じ影響を与えるから、クラスター爆弾が(米国がなにがなんでも署名することを拒否した)対人地雷禁止条約に違反する。 彼は続けて「ファルージャで一人の私の医者が、その場にいたアメリカ人に、傷ついた患者を都市から移動させることができるかと尋ねた。兵士は彼に犠牲者を動かすことはできないと言い、そして続けた「我々はここで死んだ兵隊といっしょにいるんだ。ここは戦場だ。」医師は負傷した男を移動させることが許されなかった。そして彼は死んだ。非常に多くの医者と救急車がここのチェックポイントから引き返すのを余儀なくされた。」 この同じ医師の報告によれば、アメリカ軍兵士はファルージャで救急車を撃つだけでは飽きたらず、それに加えて女性たちと子供たちを殺しているのを見たという。 私がその話をした医師は彼の怒りをこう表現した「アメリカが我々にもたらした自由とはいったい何だ。マシンガンの自由か。同じように私が私の銃をとって、そしてあなたたちを撃つことが自由にできるとでもいうのか。」 ---------------------------------------------------------------------- ダール・ジャマイルはニュースタンダードのバグダッド特派員である。アラスカ出身の彼は、占領されているイラクから、語られない物語を記事にすることに専念している。ダールへカンパをすることによって、イラクにおける彼の重要な仕事を支援することができる。もっと多くの情報のために、あるいはダールにカンパするために、ニュースタンダードのサイトを訪問してください。記事の著作権はダール・ジャマイルとニュースタンダードにある。商業目的の出版は禁止される。それ以外の転載許可については、次の条件を満たすこと (1)適切なクレジットが表示されること (2) http://newstandardnews.net/iraqdispatches に戻ることができるリンク表記が原文とともに明示的に表示されること (3)記事の署名が原文通り表示されていること。 これが満たされる場合に限り、非営利目的であれば許諾される。おことわり:上記の記事に表明されたいかなる意見も著者の個人的なものであり、それらは必ずしもニュースタンダードあるいはピープルズネットワークスのスタッフの考えを表わすものではない。この項目は、硬いニュース論文ではなく、ウェッブログの項目であって、そして必ずしも完全に事実をチェックされたものではない。 原文URLhttp://blog.newstandardnews.net/iraqdispatches/archives/000211.html (翻訳 山崎 久隆 TUP/劣化ウラン研究会)
2004年04月19日
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ピックアップが戻ってきたので、できるだけ多くの人を乗せていたときに、どこからか救急車がやってきた。一人の若者が家の残骸のドアのところから手を振っていた。上半身裸で、腕には血で膨れた包帯を巻いていた。恐らくは戦士であろうが、怪我をして非武装のとき、戦士かどうかは関係ない。死者を運ぶことは最重要ではなかった。医者が言ったように、死者は助けを必要としない。運ぶのが簡単だったら、運ぶだろう。海兵隊と話が付いており、救急車が来ていたので、私たちは死体を運び込むためにもう一度急いで道を戻った。イスラムでは、遺体をすぐに埋葬することが重要である。 救急車が私たちの後を付いてきた。海兵隊兵士たちが救急車を止まらせるよう、銃口を向け、私たちに英語で叫んだ。救急車は速い速度で動いていた。救急車を止めようとして皆が叫んでいたが、運転手が私たちの声を聞くのに永遠の時間を要したような気がした。救急車は停止した。兵士たちが発砲する前に。私たちは遺体を担架に乗せ走って、後部に押し込んだ。ラナが前の座席の怪我人の横に滑り込み、デーブと私は後部の遺体の横に乗った。デーブは、子供の頃アレルギーがあって、あまり鼻が利かない、と言った。今になって、私は子供の頃アレルギーだったらと思いながら、顔を窓の外に出していた。 バスが出発しようとしていた。バグダッドに連れていく怪我人を乗せて。やけどした男性、顎と肩を狙撃兵に撃たれた女性の一人、その他数人。ラナは、手助けをするために自分は残ると言った。デーブと私も躊躇しなかった:私たちも残る。「そうしなければ、誰が残るだろう?」というのが、そのときのモット-だった。最後の襲撃の後、どれだけの人々が、どれだけの女性と子供が、家の中に残されただろう? 行く場所がないから、ドアの外に出るのが怖いから、留まることを選んだから……。私はこのことを強く考えていた。 最初、私たちの意見は一致していたが、アッザムが、私たちに立ち去るべきだと言った。彼も、全ての武装グループとコンタクトをとっているわけではない。コンタクトがあるのは一部とだけである。各グループそれぞれについて、話をつけるために別々の問題がある。私たちは、怪我人をできるだけ早くバグダッドに連れて行かなくてはならなかった。私たちが誘拐されたり殺されたりすると、問題はもっと大きくなるので、バスに乗って今はファルージャを去り、できるだけ早くアッザムと一緒に戻ってきた方が良い。 医者たちが、私たちに別の人々をまた避難させに行ってくれとお願いしてきたときにバスに乗るのは辛いことだった。資格を持った医師が救急車で街を回ることができない一方、私は、狙撃兵の姉妹や友人に見えるというだけで街を回ることができるという事実は、忌々しいものだった。けれども、それが今日の状況で、昨日もそういう状況で、私はファルージャを立ち去るにあたり裏切り者のように感じていたけれど、チャンスを使えるかどうかもわからなかった。 ヤスミンは怯えていた。彼はモハメドにずっと話し続け、モハメドを運転席から引っぱり出そうとしていた。銃弾の傷を受けた女性は後部座席に、やけどをした男性はその前に座り、空箱のダンボール紙を団扇にして風をあててもらっていた。熱かった。彼にとっては耐え難かっただろう。 サードがバスの所に来て、旅の無事を祈った。彼はデーブに握手してから私と握手した。私は両手で彼の手を握り、「ディル・バラク」、無事で、と告げた。AK47をもう一方の手に持った13歳にもならないムジャヒディーンにこれ以上馬鹿げた言葉はなかったかも知れない。目と目があって、しばらく見つめ合った。彼の目は、炎と恐怖で一杯だった。 彼を連れていくことは出来ないのだろうか? 彼が子供でいられるようなどこかに連れていくことは、できないのだろうか? 風船のキリンをあげて、色鉛筆をプレゼントし、歯磨きを忘れないように、ということは? この小さな少年の手にライフルを取らしめた人物を捜し出せないだろうか? 子どもにとってそれがどんなことか誰かに伝えられないだろうか? まわり中、重武装した男だらけで、しかもその多くが味方ではないようなこの場所に、彼を置いて行かなくてはならないのだろうか? もちろん、そうなのだ。私は彼を置いて行かなくてはならない。世界中の子ども兵士と同じように。 帰路は緊張したものだった。バスは砂の窪地にはまりかけ、人々はあらゆるものを使ってファルージャから逃げ出していた。トラクターのトレーラの上にさえ、人がぎっしりで、車は列をなし、ピックアップとバスが、人々を、バグダッドという曖昧な避難場所へと連れて言っていた。車に乗って列をなした男たちが、家族を安全な場所に連れ出したあと、ファルージャに戻るために並んでいた。戦うか、あるいはさらに多くの人々を避難させるために。運転手は、アッザムを無視して別の道を選んだ。そのため、私たちは先導車の後ではなくなり、私たちが知っているのとは別の武装グループが制圧する道を通ることとなった。 一群の男たちが銃を振ってバスに止まれと命じた。どうやら、彼らは、米軍兵士が、戦車やヘリにいるのではなく、バスに乗っていると考えていたらしい。別の男たちが車から降りて、「サハファ・アムレーキ?」アメリカ人ジャーナリスト?と叫んだ。バスに乗っていた人たちが、窓から「アナ・ミン・ファルージャ」私はファルージャから来た、と叫び返した。銃を持った男たちはバスに乗り込み、それが本当だということを確認した。病人と怪我人、老人たち……イラク人。彼らは安心して、手を振って我々を通した。 アル・グライブで一端停止し、座席を変えた。外国人を前に、イラク人を見えにくいようにし、私たちは西洋人に見えるように頭のスカーフをとった。米軍兵士たちは西洋人を見て満足する。兵士たちは西洋人と一緒にいるイラク人についてはあまり気にしなかった。兵士たちは男とバスのチェックをしたが、女性兵士がいなかったので女性はチェックされなかった。モハメドは、大丈夫だろうかと私にずっと訊いていた。 「アル-メラーチ・ウィヤナ」と私は彼に言った。天使は私たちの中にいる。彼は笑った。 それからバグダッドについて、彼らを病院に連れていった。うめき声をあげて泣いていたやけどの男をスタッフが降ろしたとき、ヌハは涙を流していた。彼女は私に手を回し、友達になってと言った。私がいると、彼女は孤独が和らぎ、ひとりぼっちではなく感じる、と。 衛星放送ニュースでは、停戦が継続していると伝えており、ジョージ・ブッシュは、兵士たちはイースターの日曜休暇中で、「私はイラクで我々がやっていることが正しいと知っている」とのたまっていた。自宅の前で非武装の人間を後ろから射殺する、というのが正しいというわけだ。 白旗を手にした老母たちを射殺することが正しい? 家から逃げ出そうとしている女性や子供を射殺することが正しい? 救急車をねらい撃ちすることが、正しい? ジョージよ。私も今となってはわかる。あなたが人々にかくも残虐な行為を加えて、失うものが何もなくなるまでにすることが、どのようなものか、私は知っている。病院が破壊され狙撃兵が狙っており街が封鎖され援助が届かない中で、麻酔なしで手術することが、どのようなものか、私は知っている。それがどのように聞こえるかも、知っている。救急車に乗っているにもかかわらず、追跡弾が頭をかすめるのがどのようなことかも、私は知っている。胸の中が無くなってしまった男がどのようなものか、どんな臭いがするか、そして、妻と子供たちが家からその男の所に飛び出してくるシーンがどんなものか、私は知っている。 これは犯罪である。そして、私たち皆にとっての恥辱である。 翻訳:益岡 賢 [訳者より]※ジョー・ウィルディングさんは、イラクの子どもたちにサーカスを見せようという活動をしている外国人のグループ(アーティストと活動家の集まり)である、「Circus2Iraq」というグループのメンバーです。http://www.wildfirejo.org.uk/http://www.wildfirejo.blogspot.com/(ここにはジョーさんによる他の記事もあり)大急ぎで訳したので、細かいタイポや誤訳があるかと思いますが、ご容赦下さい。 ここで描かれている出来事は、「停戦」下でのものです。米軍は「停戦」と称して空爆や大規模攻撃こそ止めましたが、狙撃兵による狙撃と攻撃は続けています。そして、今、空爆を再開するとの情報が入ってきました。 ファルージャで米軍が行なっていることは、被占領下パレスチナでイスラエル軍が日々行なっていることに似ています(両軍は合同訓練も行なっています)。そして、インドネシア軍がアチェで、ロシア軍がチェチェンで行なっていることにも。虐殺。これらの虐殺は、いずれも「テロに屈するな」という美しく勇ましい掛け声のもとで行われているものです。 バグダッド近郊で4人の米国人の遺体が見つかったというニュースがでかでかと新聞に出ています。ファルージャでは600人もの人々が殺されています。子供の犠牲者は100人以上。これらの報道が大見出しになることは、あるのでしょうか。
2004年04月16日
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医者が走り出してきて、私に言った:「女性を一人連れてきてくれないだろうか? 彼女は妊娠しており、早産しかけている」。 アッザムが運転した。アフメドが彼と私の間に座って道を指示した。私は外国人として、私自身とパスポートが外から見えるように、窓側に座った。私の手のところで何かが飛び散った。救急車に銃弾が当たったと同時だった。プラスチックの部品が剥がれ、窓を抜けて飛んでいった。 私たちは車を止め、サイレンを止めた。青いライトはそのままにしておいて、待った。目は、建物の角にいる米軍海兵隊の軍服を着た男たちの影に向けていた。何発かが発砲された。私たちは、できるだけ低く身を伏せた。小さな赤い光が窓と私の頭をすり抜けていくのが見えた。救急車に当たった銃弾もあった。私は歌い出した。誰かが自分に向かって発砲しているとき、他に何ができるだろう? 大きな音を立ててタイヤが破裂し、車がガクンと揺れた。 心底、頭に来ていた。私たちは、何の医療処置もなく、電気もないところで子供を産もうとしている女性のところに行こうとしていたのだ。封鎖された街の中で、はっきり救急車であることを表示しながら。海兵隊は、それに向かって発砲しているのだ。一体、何のために? 一体、何のために? アッザムはギヤを握り、救急車を逆行させた。道の真ん中の分離帯を超えるとき、もう一つのタイヤが破裂した。角を曲がったときにも、銃弾が私たちに向けて発砲されていた。私は歌い続けていた。車輪はキーキーと音をたて、ゴムは路上に焼き付いた。 診療所に戻ると、人々が担架に駆けつけたが、私は頭を振った。彼らは新たについた弾痕に目をとめ、私たちが大丈夫かどうか寄ってきた。彼女の所に行く他の方法は無いのか、知りたかった。ラ、マーク・タリエク。他に方法はない。私たちは正しいことをしたんだ、と彼らは言った。これまでにも4回救急車を修理したのだから、今度もまた修理するさ、と。けれどもラジエータは壊れ、タイヤもひん曲がって、そして彼女は今も暗闇の中、一人っきりで、自分の家にいて、出産しようとしている。私は彼女の期待に背いてしまった。 もう一度行くわけにはいかなかった。救急車がなかったし、さらに、既に暗くなっていたので、私の外国人の顔で、同行者や連れ出した人々を守ることも出来ない状況だった。その場所の所長代理はマキだった。彼は、自分はサダムを憎んでいたが、今はアメリカ人の方がもっと憎い、と言った。 向かいの建物の向こう側のどこかで、空が炸裂しはじめた。私たちは青いガウンを脱いだ。数分後、診療所に一台の車が突進してきた。姿を目にする前に、男の叫び声が耳に入った。彼の体には、皮膚が残っていなかった。頭から足まで焼けただれていた。診療所でできることは何もなかった。彼は、数日のうちに、脱水で死ぬだろう。 もう一人の男性が車から引き出されて担架に乗せられた。クラスター爆弾だ、と医者たちは言った。この犠牲者だけなのか、二人ともがそうなのかははっきりしなかった。私たちは、ヤセル氏の家に向かって歩き始めた。角ごとに、私たちが横切る前に道をチェックしながら。飛行機から火の玉が落下して、明るい白光を発する小さな弾へと分かれていった。それがクラスター爆弾だと、私は思った。クラスター爆弾が心に強くあったからだが、これらの光はそのまま消えていった。驚くほど明るいがすぐに消えるマグネシウムの炎だった。上から街を見るためのものである。 ヤセルは私たち全員に自己紹介を求めた。私は、弁護士になる準備をしていると述べた。別の一人が、私に、国際法について知っているかどうか尋ねてきた。戦争犯罪についての法律、何が戦争犯罪を構成するのか、知りたがっていた。私は彼らに、ジュネーブ条約の一部を知っていると述べ、今度来るときには情報を持ってきて、アラビア語で説明できる人も連れてくると伝えた。 私は菜穂子[高遠氏]のことを話題に出した。目の前にいる戦士たちのグループは日本人捕虜を取っているグループとは無関係だが、人々が、この夕方私たちがしたことに感謝している間に、菜穂子がストリート・チルドレンに対してしていたことを説明した。子どもたちが、どれだけ彼女のことを愛していたかも。彼らは何も約束はできないが、菜穂子がどこにいるか調べて、彼女と他の人質を解放するよう説得を試みると言った。事態がそれで変わるとは思わない。この人たちは、ファルージャでの戦闘に忙しいのだから。他のグループとも無関係なのだから。けれども、試してみて困ることはない。 夜通し、頭上を飛行機が飛んでいたので、私はまどろみの中で長距離フライトの中にいるようだった。無人偵察機の音にジェット機の恐るべき音、そしてヘリコプターの爆音が、爆発音でときおり中断されるという状態だった。 朝、私は、小さな子、アブドゥルやアブーディのために、風船で犬とキリンと象を作った。航空機と爆発の音にも苦しんでいないようだった。私はシャボン玉を飛ばし、彼はそれを目で追いかけた。ようやく、ようやく、私は少し微笑んだ。13歳の双子も笑った。一人は救急車の運転手で、二人ともカラシニコフ銃を扱えるとのことだった。 朝、医者たちはやつれて見えた。この一週間、誰一人、2時間以上寝ていない状態だった。一人は、この一週間でたった8時間しか寝ておらず、病院で必要とされていたので、弟と叔母の葬儀にも出られなかった。 「死人を助けることはできない」とジャシムは言った。「私は怪我人の心配をしなくてはならないんだ」。 デーブとラナと私は、今度はピックアップで再び出発した。海兵隊地帯との境界近くに、病気の人がいて、避難させなくてはならない。海兵隊が建物の屋上で見張っていて、動くものすべてに向かって発砲するので、誰も家から出る勇気はなかった。サードが私たちに白旗を持ってきて、道をチェックして安全を確かめたから心配することはない、ムジャヒディーン側が発砲することはない、我々の側は平和だと伝えた。サードは13歳の子どもで、頭にクーフィーヤをかぶり、明るい茶色の目を見せて、自分の背丈ほどもあるAK47型銃を抱えていた。 私たちは米軍兵士に向かって再び叫び、赤三日月のマークのついた白旗を揚げた。二人が建物から降りてきた。ラナはつぶやいた:「アッラー・アクバル。誰も彼らを撃ちませんように!」。 私たちは飛び降りて、海兵隊員に、家から病人を連れ出さなくてはならないこと、海兵隊が屋根に乗っていた家からラナに家族を連れ出してもらいたいこと、13人の女性と子供がまだ中にいて、一つの部屋に、この24時間食べ物も水もないまま閉じ込められていることを説明した。「我々は、これらの家を全部片付けようとしていたところだ」と年上の方が言った。 「家を片付けるというのは何を意味するのか?」 「一軒一軒に入って武器を探す」。彼は時計をチェックしていた。何がいつ行われるのか、むろん私には告げなかったが、作戦を支援するために空爆が行われることになっていた。「助け出すなら、すぐやった方がよい」。 私たちは、まず、道を行った。白いディッシュダッシャーを来た男性がうつぶせに倒れており、背中に小さなしみがあった。彼のところに駆けつけた。またもや、蠅が先に来ていた。デーブが彼の肩のところに立った。私は膝のところに立ち、彼を転がして担架に乗せたとき、デーブの手が彼の胸の空洞に触れた。背中を小さく突き抜けた弾丸は、心臓を破裂させ胸から飛び出させていた。 彼の手には武器などなかった。私たちがそこに行って、ようやく、息子たちが出てきて、泣き叫んだ。彼は武器を持っていなかった、と息子たちは叫んだ。彼は非武装だった。ただ、門のところに出たとき、海兵隊が彼を撃った、と。それから、誰一人外に出る勇気はなかった。誰も、彼の遺体を取り戻すことはできなかった。怯えてしまい、遺体をすぐに手厚く扱う伝統に反せざるを得ない状態だった。私たちが来ることは知らなかったはずなので、誰かが外に出て、あらかじめ武器だけ取り去ったとは考えにくい。殺されたこの男性は武器を持っておらず、55歳で、背中から撃たれていた。 彼の顔を布で覆い、ピックアップまで運んだ。彼の体を覆うためのものは何もなかった。その後、病気の女性を家から助け出した。彼女のそばにいた小さな女の子たちは、布の袋を抱きしめ、「バーバ、バーバ」と小声でつぶやいていた。ダディー。私たちは震えている彼女らの前を、両手を上に上げて歩き、角を曲がって、それから慌ててピックアップに彼女らを導いた。後ろにいるこわばった男性を見せないように、視線を遮りながら。 私たちが、銃火の中を安全に人々をエスコートするのではないかと期待して、人々が家からあふれ出てきた。子どもも、女性も、男性も、全員行くことができるのか、それとも女性と子どもだけなのか、心配そうに私たちに尋ねた。私たちは、海兵隊に訊いた。若い海兵隊員が、戦闘年齢の男性は立ち去ることを禁ずると述べた。戦闘年齢? 一体いくつのことか知りたかった。海兵隊員は、少し考えたあと、45歳より下は全員、と言った。下限はなかった。 ここにいる男性が全員、破壊されつつある街に閉じ込められる事態は、ぞっとするものだった。彼らの全員が戦士であるわけではなく、武装しているわけでもない。こんな事態が、世界の目から隠されて、メディアの目から隠されて進められている。ファルージャのメディアのほとんどは海兵隊に「軍属」しているか、ファルージャの郊外で追い返されているからである[そして、単に意図的に伝えないことを選んでいるから]。私たちがメッセージを伝える前に、爆発が二度あり、道にいた人々は再び家に駆け込んだ。 ラナは、海兵隊員と一緒に、海兵隊が占拠している家から家族を撤退させようとしていた。ピックアップはまだ戻ってきていなかった。家族は壁の後ろに隠れていた。私たちは、ただ待っていた。ほかにできることはなかった。無人の地で、ただ待っていた。少なくとも海兵隊は、双眼鏡で私たちを観察していた。恐らくは地元の戦士たちも。 私はポケットに、手品用のハンカチを持っていたので、レモンのように座ってどこにも行けず、まわり銃で発砲と爆発が起きている中、ハンカチを出したり隠したりしていた。いつでも、まったく脅威ではないように、そして心配していないように見えることが大切だ、と私は考えた。誰も気にして撃とうなどと考えないように。けれども、あまり長く待つわけにもいかなかった。ラナは随分長いこといなかった。ラナのところに行って急かさなくてはならなかった。グループの中に若者が一人いた。ラナは海兵隊に、彼も一緒に立ち去ることができるよう交渉していた。 一人の男性は、人々の一部──あまり歩けない年寄り二人と一番小さな子ども──を運ぶために自分の警察用車を使いたがった。その車にはドアがなかった。それが本当に警察の車なのか、収奪されてそこに放置されたものか、誰も知らなかった。それでより沢山の人をより早く運べるかどうかは問題ではなかった。人々は家からゆっくりと出てきて壁のそばに集まり、両手をあげて、私たちの後ろについて、赤ん坊とバッグとお互いをしっかりつかみながら、道を歩いた。
2004年04月15日
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「ファルージャの目撃者より:どうか、読んで下さい」Please Read - eyewintess report from Falluja ジョー・ウィルディング Jo Wilding2004年4月13日─ナブルス通信2004.4.15号による─「ナブルス通信」なのに、イラクのことを? 今回はご容赦ください。攻撃されているファルージャに「無謀」にも向かった西洋人のジョーさんが、体験して、持ち帰ったファルージャの現実は2002年春のパレスチナ──ジェニンやナブルス、ベツレヘムがいっぺんに蘇ってくるものでした。読んでいて、震えが起こってきます。 ベトナム戦争の「ソンミ虐殺事件」と同じだ、という声もあがっています。「ファルージャで400人が死亡」という1行ですまされることが、いったい、どういうことなのか。長いですが、ぜひ読んで、他の人にも知らせてください。 イラクで拘束されている高遠菜穂子さんのことも登場します。 この文章は、イラクで反占領の活動を展開している「OccupationWatch」で活動するイギリス人のEwa Jasiewiczさんが受け取り、パレスチナ人のフセインさんがナブルス通信へ送信してくれたものです。14日に受け取ったものを益岡賢さんが数時間で超・特急に訳してくださいました。アラビア語など不明の個所もありますが、スピード優先で送ります。[ナブルス通信] 「ファルージャの目撃者より:どうか、読んで下さい」Please Read - eyewintess report from Falluja Jo Wilding ジョー・ウィルディング 2004年4月13日 長くなってしまいます。お許し下さい。でも、どうか、どうかこれを読んで下さい。そして、できるだけ多くの人に広めて下さい。ファルージャで起きていることの真実を明るみに出す必要があるのです。ハムーディ、私の思いはあなたとともにあります。 2004年4月11日 ファルージャ ファルージャ東部の高速道路で、トラックや石油タンカー、戦車が燃えていた。少年と男たちの流れが、燃えていないローリーを行き来して、ローリーを裸にしていた。私たちは、アブ・グライブ経由の裏道にまわり、持ち物をあまり持たない人々で一杯の自動車が逆方向へ向かうのにすれ違いながら、道沿いにできた急ごしらえの軽食スタンドを通り過ぎた。ヌハとアフラルはアラビア語で歌っていた。スタンドの少年は、バスの窓から、私たちと、そして今もファルージャにいる人々に、食べ物を投げ込んでいた。 バスは、ファルージャの導師の甥が運転する車の後について進んでいた。彼はまた、ムジャヒディーンと接触がある私たちのガイドでもあり、今回のことについてムジャヒディーンと話をつけていた。私がこのバスに乗っていた理由は、と言えば、知人のジャーナリストが夜11時に私のところに来て、ファルージャの状況は絶望的であり、手足が吹き飛ばされた子どもをファルージャから運び出していたと語ったことにある。また、米軍兵士たちは、人々に、夕暮れまでにファルージャを離れよ、さもなくば殺すと言っていた、と。けれども、人々が運べるものをかき集めて逃げ出そうとすると、町はずれにある米軍の検問所で止められ、町を出ることを許されず、ファルージャに閉じ込められたままで、日が沈むのを人々は見ていたと、彼が私に語ったことに。 彼はまた、援助車両とメディアもファルージャに入る前に引き返させられたと私に説明した。医療援助をファルージャに運び入れる必要があり、外国人、西洋人がいると、米国の検問を通過してファルージャに入ることができるチャンスは大きいと。その後の道は、武装グループにより守られているとのことだった。そこで私たちは医薬品を持ち込み、他に何か手伝えることはないか調べて、帰りにはバスでファルージャを離れる必要がある人たちを乗せていこうと考えていた。 どうやって決意したか、自分自身で何を思い、お互いに何を聞いたかについては想像にお任せしよう。私の決断を狂気と言うのも結構。けれども、そのとき思ったのは次のようなことだった:もし私がしないならば、誰がするのだろう? いずれにせよ、私たちは何とか無事到着した。 到着後、私たちは物資をバスから降ろした。荷箱はすぐに引きちぎるように開かれた。最も歓迎されたのは毛布だった。そこは病院と呼べるものではなく、ただの診療所だった。米軍の空襲でファルージャの大病院が破壊されてから、ただで人々を診療している個人医の診療所だった。もう一軒の診療所は、ガレージに臨時で作られたものだった。麻酔薬はなかった。血液バッグは飲み物用の冷蔵庫に入っており、医者たちは、それを非衛生的なトイレのお湯の蛇口の下で暖めていた。 女性たちが叫び声をあげながら入ってきた。胸や顔を手のひらでたたき、祈りながら。ウンミ、お母さん、と一人が叫んでいた。私は彼女を抱きかかえていた。それから、コンサルタント兼診療所の所長代理マキが私をベッドのところに連れていった。そこには、頭に銃による怪我を負った10歳くらいの子どもが横になっていた。隣のベッドでは、もっと小さな子どもが、同じような怪我で治療を受けていた。米軍の狙撃兵が、この子どもたちとその祖母とを撃ったのである。一緒にファルージャから逃れようとしたところを。 明かりが消えた。換気扇も止まり、急に静かになった。その中で、誰かがライターの炎を付けた。医者が手術を続けられるように。町の電気は何日も前から止まっており、発電器の石油が切れたときには、石油を入手するまで、とにかく何とかしなくてはならない状況だった。デーブがすぐに懐中電灯を渡した。二人の子どもたちが生き延びることはなさそうだった。 「こちらへ」。マキが言って、私を一人、ある部屋に案内した。そこには、お腹に受けた銃の傷を縫い上げたばかりの、年老いた女性がいた。足のもう一カ所の傷には包帯がまかれていたが、彼女が乗っているベッドには血が染み込んでいた。彼女は白旗を今も手に握りしめていた。彼女の話も、同じである:「私が米軍の狙撃兵に撃たれたのは、家を出てバグダッドに向かおうとしているときでした」。街の一部は米軍海兵隊に制圧されている。別の一部は地元の戦士たちが統制している。彼女たちの家は、米軍が制圧した地域にある。彼女たちは、狙撃兵が米国海兵隊兵士であるという固い確信を持っている。 米軍の狙撃兵たちは、ただ大虐殺を進めているだけではない。救急車と救助活動も麻痺させている。ファルージャ最大の病院が爆破されたあと残った次に大きな病院は米軍が制圧する地域にあり、狙撃兵たちによって診療所から遮断されている。救急車は、銃弾による損傷を受けて、これまでに4回、修理された。路上には遺体が転がったまま。遺体を取り戻しに道に出ると狙撃されるので、誰も遺体を取り戻すことができない。 イラクに行くなんて、私たちは狂っている、と言った人たちがいた。ファルージャに行くのは、完全に正気の沙汰じゃない、と多くの人たちが言った。そして今、ファルージャでは、ピックアップ・バンの後ろに乗って狙撃兵のところを通り、病いや怪我で倒れた人たちを車で連れてくるなんてことは、これまで見たこともないほど狂ったことだと私に向かって言っていた。私だって、それは分かっている。けれど、私たちがしなければ、誰もしないだろう。 彼は、赤三日月[イスラム世界での「赤十字」にあたる]のマークのついた白旗を手にしていた。私は彼の名前を知らない。運転手が、我々がどこに行こうとしているか通りがかりの人々に告げたとき、皆、私たちに手を振った。ムジャヒディーンの地区のはずれにあるピックアップが最後の角から見えなくなり、次の壁の向こう側からは海兵隊の制圧地になる、そのはざまの地帯は、すさまじいまでの沈黙が支配していた。鳥も音楽もなく、誰一人生きている者の兆しはなかった。そのとき、反対側にある一つの門が開いて、一人の女性が出てきた。彼女はある場所を指さした。 私たちは壁に空いた穴まで壁沿いに歩いた。そこから車が見えた。まわりに迫撃砲の跡があった。側溝には、交差した足が見えた。彼は既に死んでいると思った。狙撃兵の姿も目に入った。二人が建物の角にいたのである。狙撃兵たちにはまだ私たちの姿が見えないと思ったので、私たちの存在を知らせる必要があった。 「ハロー」。できるだけ大声で、私は叫んだ。「聞こえますか?」 聞こえたはずである。私たちから30メートル位しか離れていない所にいたのだから──もっと近かったかも知れない。そして、蠅の飛ぶ音が聞こえていた。何度か繰り返し叫んだが、返事はなかったので、自分についてもう少し説明することにした。 「私たちは医療団だ。この怪我をした男性を運びたい。出ていって彼を運んでいいか?OKだというサインを出してもらえるか?」 私の声は、確実に聞こえたはずであるが、彼らはそれでも応えなかった。まったく私の言葉が分からなかったのかも知れない。そこで、私は同じ言葉を繰り返した。デーブも、アメリカ英語のアクセントで同じように叫んだ。それから、再び私が。ようやく、叫び声が返ってきたように思えた。確かではなかったので、もう一度呼びかけた。 「ハロー」 「ヤー」 「出ていって彼を運び出していいか?」 「ヤー」 ゆっくりと、両手を上に上げて、私たちは出ていった。それにあわせたかのように現れた黒い雲は、熱いすえたような臭いを運んできた。彼の足は硬直していて、重かった。私は足をレナーンド・デーブに任せた。ガイドは腰を持ち上げていた。粘ついた血によって、カラシニコフが彼の髪の毛と手にくっついていた。カラシニコフは御免だったので、私はその上に足をかけ、彼の方を持ち上げた。背中の穴から血が流れ出た。私たちは彼を持ち上げてピックアップまで運び、蠅を追い払おうとした。 彼はサンダルを履いていたのではないかと思う。というのも、そのとき彼は裸足だったから。20歳になっていない感じで、偽のナイキのズボンをはき、大きく28という背番号のついた青と黒の縞模様のサッカーシャツを着ていた。診療所で、この若い戦士をピックアップから降ろしたとき、黄色い液体が彼の口から流れ出た。人々は彼の顔を上向きにしてクリニックに連れて入り、臨時の死体安置所にすぐに運び込んだ。 私たちは、手に着いた血を洗い、救急車に乗った。別の病院に閉じ込められた人々がいた。これらの人々はバグダッドに行く必要があった。サイレンをならし、ライトを点滅させながら、私たちは救急車の床に座って、パスポートとIDカードを窓から外に向けて見せていた。私たちは救急車に人々を詰め込んだ。一人は胸の傷をテープで貼り合わせ、もう一人は担架に乗せて。足がひどく痙攣していたので、彼を運んでステップを昇るとき、私は足を押さえていなくてはならなかった。 診療所よりも病院の方がこうした怪我人を治療するのに有利だが、病院には適切な手当をするに十分な物資が何もなかった。怪我人をバグダッドに運ぶ唯一の方法は、私たちが乗ってきたバスで連れ出すことだが、そのためには、診療所に怪我人を連れて行かなくてはならなかった。私たちは、撃たれたときのために、救急車の床にすし詰めになって乗った。私と同年代の女性医師ニスリーンは、私たちが救急車から降りたとき、涙をこらえきれなかった。
2004年04月14日
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*********************** ファルージャの大量虐殺は、ベトナム戦争のソンミ村の大虐殺に例えられるほど、世界中に衝撃を投げかけています。 ここでは、別の二人の記者からの現地レポートを訳出しました。 (パンタ笛吹/TUP)・・・・・・・・・・・・・・・・・・米軍はファルージャ市民を虐殺している・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ダール・ジャマイル 4月13日 アンチ・ウォー掲載 ファルージャではここ数日間、市全体が米軍により包囲され、水も電気もないまま、一般市民が「集団処罰」を受けているという。なのにマスコミはその惨状をほとんど報道してはいない。 実際、ファルージャ市内で取材している記者は、たった二人しかいないのだ。私は現場で起こっているだろう残虐行為をこの目で見て世界中に報らせるめ、ファルージャに行くことにした。 バグダッドの友人たちの助けもあり、私たち世界各国から集まった小さなグループは、医薬品などの人道支援物資を大型バスに積んでファルージャに向かった。いつまた始まるか分からない次の虐殺の前に、負傷者たちをバグダッドの病院に連れ帰ることも、このバスの目的のひとつだった。 いまとなっては、バグダッドを離れるだけで危険きわまりない。米軍はヨルダンまでの道路を封鎖している。ハイウェーでは爆破されたタンクローリーが道路わきでくすぶっていた。また、抵抗勢力の攻撃を受けたばかりなのか、まだ黒煙をあげている米軍の巨大なMー1戦車の横も通り過ぎた。 途中、道路わきの小さな家から子供が飛び出し、バスに向かって、「ぼくらは死ぬまでムジャヒディン(聖なる戦士)なんだぞ!」と叫んだ。 最初の米軍検問所では、米兵たちはすでに30時間ぶっつづけでそこにいるとぼやいていた。兵士たちから車内検査をされたあと、バスはファルージャに向かった。そこでも道路わきに、破壊され放置された武装軍用車があった。 ちょうど近隣の村人が、その軍用車からたくさんの箱を略奪し、運んでいるところだった。路上には他に車が走っている様子はなく、それはまさに殺伐とした風景だった。 いったんハイウェーの検問所から離れると、もうそこには米軍の姿はまったく見えなかった。私たちは、ムジャヒディンが米軍から奪還した領域にいるのだ。 バスが農道を通過する間、イラク人とすれ違うたびに彼らは、「ファルージャに行くのか? 神の祝福があらんことを!」と叫びかけてきた。すべてのイラク人が私たちのバスに向かって手を振ったりピースサインを出したりした。 町に近づくにつれ、道路わきの子供たちがパンや水を、無料で人々に渡しているのを見た。子供たちは平たいパンのかたまりを、バスの中の私たちにも気前よく投げてよこした。 これらイラク人たちの隣人愛というか親しく接待する気持ちは、信じられないほどだった。彼らはみんな私たちを歓迎してくれているようだった。 ファルージャに到着するなり、市内から巨大な爆煙がのぼるのを見た。米軍が大きな爆弾を投下したのだ。「一時停戦」なんて、あったものではない。 ファルージャ市内は、ムジャヒディン戦士たちがそれぞれの街角で待機している以外は、ほとんどもぬけのからだった。ここは、戦闘中の街なのだ。 私たちのバスは、イタリアのNGOから託された医薬品を届けるために、町中の小さな医院に向かった。 街でいちばん大きな病院は、そこに出入りしようとする人々を米兵が狙撃するので使えないし、もう一つの病院は米軍がすでに爆撃したので使用不能だ。いまファルージャで機能しているのは、二つの小さな医院だけだった。それはこの医院と、もうひとつは車の修理工場内に設置した臨時医療所だ。 私がその小汚い医院にいる間に、米兵に撃たれた女性や子供たちがひっきりなしに運び込まれた。ひとりの女性は首を撃たれ、息をするたびに妙な音をたて、苦しそうにもがいていた。 同じく首を撃たれた小さな子供は、医者が必死で命を救おうとする間も、うつろな目を空に向けて、口から何かを吐き続けた。30分たったころ、医者は二人の命をあきらめざるをえなかった。 外では狙撃の音が断続的に続いていた。米軍の侵略行為で傷ついた犠牲者が次々に運ばれたが、そのほとんどが女性や子供たちだった。 夕方、モスクのスピーカーから「ムジャヒディンは米軍の軍用車隊のひとつを壊滅させた」との放送があった。すると町中から歓声があがり、お祝いの銃声が道々にとどろいた。 そしてモスクから祈りの詠唱がひびきわたると、この町の人々の決意と自信がひしひしと伝わってきた。 11歳の小さな少年は、自分の背丈ほどもあるカラシニコフ銃を手に持ち医院のまわりを警護していた。彼は銃撃戦になるのを恐れてはいなかった。米兵はこの11歳の少年と戦うことをどう感じているのだろう? とふと思った。 次の日も、ファルージャを去るときも、私はいくつかの少年のグループがムジャヒディンとして戦っているのを見た。 医薬品を医院におろしたあと、私は3人の友人といっしょに、まだ動いている救急車で、路上の負傷者を乗せて連れもどることにした。その救急車のフロントガラスには、すでに三つの弾痕があった。米軍狙撃兵が救急車のイラク人運転手の頭を撃ったのだ。 外では爆撃が散発的に爆発し、銃撃の音がしばしば聞こえるなか、今度は私たち外国人が救急車に乗っていれば、米兵も狙撃しないだろう。そうすれば、路上で苦しんでいるイラク人負傷者を助けられると思ったのだ。 夜になると、私たちは地元民の家に泊まった。そこの家主は、自分がここ数日間に撮影したビデオを見せてくれた。次々に出てくる、血まみれになって殺されたファルージャ市民たちの映像・・・中でもひどかったのは、お乳を吸っていた赤ちゃんが、母親の胸から引き剥がされ、海兵隊員によって、無惨に殺されてしまった姿だった。。 私がファルージャにいる間中、ひっきりなしに聞こえてきたのが米軍が放った遠隔制御無人戦闘機のブーンブーンという音だった。夜、私たちがからっぽの街路を宿泊所まで歩いていくときも、無人戦闘機は私たちの上空を飛びながら、いくつかの照明弾を発射した。 私たちは走って近くの壁に身を隠した。クラスター爆弾を落とされるのではないかと恐れたのだ。 地元民の話では、今夕、医院に最後に運びこまれた二人の犠牲者は、クラスター爆弾でやられたそうだ。二人の体は引きちぎられ、恐ろしいくらいに焦げていた。 翌朝、友人の女性は、また救急車に乗って、米軍に狙撃され傷ついた老人を医院まで運び込んだ。この老人は自分の家の前で撃たれて倒れたのだが、その妻と子供は、さらなる狙撃を恐れて外に出られないので、家の中から、外で苦しんでいる老人に向かって泣き叫んでいたという。 病院に着いたときには、老人の体はすでに硬直していて、その傷口にハエがたかっていた。 状況はひどくなるばかりだ。米兵からは「掃討作戦」が始まるので待避せよとの警告も受けた。私たちはバスに乗せられるだけのイラク人負傷者を乗せてバグダッドに向かうことにした。 帰りの路上では、もっと多くの米軍用車が「自由の戦士」たちに撃破されて、黒煙をあげていた。 私がこのレポートで伝えられることは、ファルージャではマスコミが伝えているような「停戦」など履行されていないということだ。イラク人の女性や子供が米狙撃兵によって、撃たれ続けているのだ。 ファルージャではすでに六百人が、アメリカの侵略により殺された。住民は二つのサッカー競技場を集団墓地にして、次々と死体を葬っている。 そしていま、米軍は最大スケールの侵攻を再開しようと準備している。四人の米国人警護員(実際は傭兵であり、住民に憎まれている非公式の戦闘員)が殺されたので、その犯人を捕まえるためにという口実で、これらすべての惨劇が起きているのである。 (抄訳・パンタ笛吹/TUPチーム) http://www.antiwar.com/orig/jamail.php?articleid=2303(訳者注・上記のURLで、記事にそった写真も見られます)・・・・・・・・・・ファルージャ大虐殺・・・・・・・・・・ イーワ・ジェシウィック 4月11日 オキュペーション・ウォチ掲載 米軍はファルージャで、クラスター爆弾や大砲を使って、罪もない女性や子供たちをすでに数百人殺した、と現地の目撃者は告発している。その残虐さは、イスラエル軍によるジェニンの難民キャンプでの大量虐殺よりもひどいと描写する人々もいる。 筆者はこの3日間、ファルージャから負傷者をバグダッドに運び出した友人たちと電話で話した。ここに彼ら3人の証言を書きつづることにする。*イタリア女性、ポーラ・ガスピローリの証言 ファルージャでは大量虐殺が行われています。すでに470人が殺され、1700人以上が負傷しています。停戦など、実際には履行されてはいません。市民の中で、女性や子供たちの多くは街を逃げ出そうとしています。 バグダッドへと向かう橋も、米軍により破壊されました。米軍は救急車にまで発砲するので、路上の負傷者を病院に運ぶことさえできません。 私はもっとイラクにいたいのですが、危なくてこれ以上ここには居られません。すでに外国人が27人も人質にされています。イタリア人の私も誘拐の目標になっているんです。私は飛行機でアンマンに飛びます。*今日、そしてこの数日間、ファルージャにいた友人男性の証言 私たちはこの目で見たんです。ファルージャから逃れた何千人という人々が、13キロメートルにものぼる車列を作ってバグダッドを目指したのですが、砂漠で立ち往生しているんです。そして米軍は、その難民たちに向かって爆撃しているんです。 米兵はイラク人家族たちを攻撃しているんです!子供や老人や女性たちが、砂漠で米軍に痛めつけられているんです。 ファルージャ市内では、米軍はB52爆撃機を使って、爆撃したんです。彼らは病院も爆破しました。別の病院に傷ついた子供がいたのですが、その子の家族25人が全員、爆撃で殺されたんです。 米軍は空からクラスター爆弾を落としています。クラスター爆弾は地上で3ー4メートルジャンプするんです。街の路上では殺されたイラク人がころがっています。米軍は「停戦する」と言いながら、また空から攻撃を仕掛けてきたんです。 これは大量虐殺です。どうか助けてください。世界中の人々に、大使館に抗議するように頼んでください。私たちには外国人が必要なんです。外国人ならここで何かできます。 私たちはこの3-4日間、ほとんど眠っていません。明日は外国人たちで米軍の検問所に抗議に行きます。*イギリス人ジャーナリスト、レイ・ゴードンの証言 ここはもう狂気のさたです。私は自分の命がどうなるかも分かりません。外国人は徐々に殺されて行くでしょう。ファルージャのイラク人たちは、どんどんと絶望の崖っぷちに立たされています。 彼らの母親や父親や家や犬や猫や・・・すべてが爆撃されたら、イラク人たちは外国人を襲いはじめるでしょう。 (抄訳・パンタ笛吹/TUPチーム) http://www.occupationwatch.org/━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
2004年04月13日
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・・・・・・・・・・・・・・一時停戦中のファルージャより・・・・・・・・・・・・・・ ラウル・マハジャン 4月12日 コモン・ドリーム掲載 私たちは一時停戦中のファルージャに行った。そこで私たちが見たことをここでレポートしよう。 ファルージャではいま、治療を行える病院が四軒しかない。そのうちの一軒は、自動車の修理工場を臨時に使っているありさまだ。この町への攻撃が始まったとき、米軍はまず発電所を爆撃したので町中が停電だ。病院では、自家発電でなんとかしのいでいる。 私たちが行った病院は、まさに死にものぐるいの様相をていしていた。医者たちはほとんど眠らずに、昼夜をてっして負傷者の治療にあたっていた。 英語を流ちょうに話す病院の部長、アル・ナザルは、米軍によるファルージャの包囲が始まってからの恐怖のできごとをこう語った。「女性や子供たちがたくさん撃たれたんです。また米軍の狙撃手は、負傷者を運んでいる救急車に向かっても弾をあびせたのです。わたしは47歳のいまになるまで馬鹿でした。これまで米欧の文明を信じていたんですからね」 救急車までが射撃されたなんて、ここに来るまで私は信じていなかった。しかし病院で、フロントガラスに弾痕がついている救急車をこの目で見た。それは運転手の胸を狙って正確に発射された弾痕だった。米軍の狙撃手は、敵兵の胸を的確に射撃するように訓練されているという。 ファルージャの町中が停電で真っ暗な中、この救急車は赤と青のライトを点滅させ、サイレンを鳴らしながら走っていたので、抵抗勢力と間違えられることはありえない。だから、意図的に狙撃されたとしか考えられない。 一時停戦中なので、米軍は重火器を使っての爆撃はひかえている。そのかわり狙撃手を使っての攻撃がいまも続いている。私たちがその小さな病院にいた四時間のあいだに、十数人の負傷者が運ばれてきた。 その中に十八歳の若い女性がいた。彼女は頭を撃たれ、口から泡を吹きながら発作に襲われていた。医者は、彼女の命は今夜いっぱいは持たないだろうと言った。 同じように死にかかって運ばれてきたのは、幼い少年だった。彼の内臓は大量に出血していた。また、上半身のほとんどが焼けただれたまま運び込まれた男性も見た。彼の太ももはギザギザにちぎれており、これはクラスター爆弾にやられたのではないかと思われた。 病院の中は、「アラー・アクバル!」(神は偉大なり)と泣き叫ぶ人々であふれ、錯乱状態だった。そして人々の怒りはすべて、この地獄をもたらしたアメリカ人に向けられていた。 ブッシュ政権は、ファルージャで抵抗しているムジャヒディン(聖なる戦士)は、一部の過激派で、多数の市民から孤立していると断言している。これは笑止千万で、これほど真実から離れた言葉はないだろう。 もちろん、女子供や老人は、ムジャヒディンには加わらないが、地域の住民は全力でムジャヒディンをサポートしているのが現実だ。私が会ったムジャヒディンのひとりがイラク警察の防弾服を着ていたので尋ねたところ、実際に彼はイラク警察の一員だった。 負傷して運び込まれた青年アリに、「君はムジャヒディンなのか?」と聞くと彼は、「今日まではそうじゃなかったけど、でもこれからは・・・」と微笑みながら親指でグーサインを出した。こんな仕打ちのあとでは、彼もカラシニコフ銃を手に取るのだろう。 病院の部長、アル・ナザルは、「もしサダムがファルージャ市民に働けと命令したら、われわれは3日間の連休をとりたがるでしょう。ファルージャの住民はサダムの信望者などではありません。それどころかサダムに抵抗しつづけたんです。なのにアメリカ人はわれわれをサダムの残党なんて、まだ呼んでいるんです」と語った。 また、通訳のアル・アロウビーは、「ファルージャの人々は、素朴でシンプルな人間なんです」と私に言った。これらの人々のほとんどは信仰心の篤い農民なのである。だから、ファルージャの人々の好意的な接待を受けることは、いたって簡単なはずだったのだ。なのに米軍は、無惨な挑発行為で彼らの善意を無茶苦茶にしてしまった。 いまとなってはファルージャは、残忍な集団処罰の処刑場になってしまった。すでに六百人以上の市民が殺されたが、そのうちの二百人が女性で、百人以上が子供たちだったと見積もられている。男性の死者の多くもまた、非戦闘員である一般市民だった。 ベトナム戦争のとき、米特殊部隊の大佐が、「この町を救うために、まずこの町を破壊しなくてはいけない」と言った。いまのイラクでも、米兵は同じことを言うのだろう。ファルージャは破壊されつくさないかぎり、テロリストたちから救うことができないのだと・・・。 (抄訳・パンタ笛吹/TUPチーム) http://www.commondreams.org/views04/0412-01.htm━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
2004年04月12日
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=============================== 以下は、高遠菜穂子さんの友人である細井明美さんの、イラクの友人が、アルジャジーラ、アルアラビアを通して、高遠さんたちを拘束しているレジスタンスに向けて届くよう送った手紙です。また、ファルージャ、ラマディ近辺に10,000枚配られたそうです(原文はアラビア語)。呼びかけ人は、高遠さんと一緒にストリートチルドレンのために働いていた人だそうです。 (池田真里) =============================== 神の名において サラヤ・アル・ムジャヒディーンの兄弟たちへ 神が、わたしたちの国のためのよき計らいを祝福してくださいますように。神が、わたしたちの祈りをお聞きとどけくださって、この国から悲しみが取り除かれますように。 この手紙が、あなたがたのもとに届きますように。神は、この手紙が真実のものであると知っておられます。この手紙があなたがたのもとに届き、あなたがたが読むことは、神の思し召しでもあります。あなたがたの捕らわれ人となっている日本の女性、菜穂子さんについて、神はあなたがたの知らないことを知ってほしいと望んでおられるからです。わたしたちは、アルジャジーラの放送で、彼女が捕らえられている3人のうちの一人であることを知りました。 わたしたちは、菜穂子さんとほかの二人の日本人を、あなたがたが大切に遇してくださっていると信じています。わたしたちの信ずる神がそれを命じておられるからです。それは、わたしたちが偉大な先師たちから学んできたことでもあります。 この手紙は、あなたがたの行いまた企図を裁こうとして書かれたものではありません。そしてまた、わたしたちは、日本の軍隊(それが正規の軍隊であろうと、日本政府がいうように復興支援の防衛軍であろうと)の入国を支持するからこの手紙を書いているのでもありません。 この手紙と添えられた写真は、ただひとつの願いから書かれたものです。菜穂子さんは、(もしあなたがたが人質を必要としているとして)、けっして人質とされてはならない人だということを知ってほしいのです。 この日本女性は、一個の人間として自ら強く望んで2003年5月からバグダッドに来ています。その日から、イラクのホームレスのこどもたちの手に食物を、衣服を、医薬品を届け、長い間働いて貯めたお金をそのためにすっかり使いきってしまうのです。この前、日本に帰ったとき、菜穂子さんは、1カ月半ほど働いてお金を貯めて戻り、イラクのホームレスのこどもたちのために使おうと計画しました。だが、活動はとても困難で、日本のお母さんといって菜穂子さんの帰りを待つこどもたちのために必要な品々を買うお金を十分貯めることができませんでした。あなたがたが、菜穂子さんを捕らえたちょうどその日、バグダッドでは、多くの人々が彼女を待っていたのです。 サラヤ・アル・ムジャヒディーンの兄弟たち、わたしたち自身とイラクの孤児たちのために、3人の日本人の人質たちを解放してほしいという願いを聞きいれてください。中でも、菜穂子さんは、自分はひと切れのパンで満足し、わたしたちのこどものためにはたっぷりとパンを求めてくるような人です。彼女は、イラク国民への深い思いやりをいかに示すか、日本人にとってのよいお手本となっています。 神が望まれ、あなたがたが3人の日本人を解放するなら、あなたがたは、日本人に対し、あなたがたとわたしたちがともに望むことをなす、善きチャンスを与えることになります。日本の人々は、いつもわたしたちに味方しわたしたちの主張を支持していました。信仰と国を同じくするわたしたちの兄弟たちの多くがただ見ていただけのときにも。なすべきは神のために。アル・サラム・アライクム ストリートチルドレン・イラク人活動家グループ 2004年4月9日
2004年04月09日
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3月31日にイラクのファルージャでアメリカ人4人が殺され、その焼死体を住民が引きずまわしたり、鉄橋から逆さ吊りにしたりした悲痛な事件について、日本のマスコミは米国の「民間人」「ビジネスマン」「復興請負業者」などとボカした伝え方をしているようです。けれども、新聞・テレビを含め海外ニュースでは、4人が占領軍暫定当局のブレマー行政官の身辺警護にも当たるブラックウォーター社という特殊警備会社の社員であることをはっきり報じています。4人を単なる「民間人」や「ビジネスマン」ととらえたのでは、問題の本質を見逃してしまいます。被害者の冥福を祈るとともに、自衛隊派遣にも影響する事態をより正確に理解するために、いまわかる範囲で情報提供します。 2004年4月4日 星川 淳/TUP――――――――――――――――――――――――――――――――――――■ブラックウォーター社■ 「ブラックウォーター・セキュリティ・コンサルティング」という名称で、米国ノースカロライナ州に本部を置く広義の警備保障会社「ブラックウォーターUSA」の傘下5社の一つ。要人や重要施設の警護のほか、米軍や警察の特殊部隊、外国民兵組織などに武器と訓練を提供する。年収10~20万ドル(1000~2000万円)の高給により、現役・退役を問わず軍から引き抜かれた幹部・教官・社員が主力で、実態は民間軍事企業。米軍やFBIと連携した特殊任務も多く、イラクではブレマー行政官の警護も担当する。[参考]http://www.blackwatersecurity.com/http://www.cnn.com/2004/US/South/03/31/civilian.deaths.ap/■ファルージャ襲撃■ 公式発表では、襲撃されたときの任務は食料運搬の警護とされるが、車両に大量の武器が積まれていたとの報道もあって、真相は不明。現場で発見されたチラシには、イスラム過激派の名で、イスラエルによるパレスチナのハマス指導者ヤシン師暗殺に対する報復と書かれていたようだ。アメリカ側は海兵隊4000人を投入した強硬な平定作戦を検討中。イラク国民の占領への憎悪は、各地でいっきに高まる可能性がある。[参考]http://www.juancole.com/■民間軍事企業――21世紀の傭兵?■ この事件の背景には、米英が進める“軍事アウトソーシング”ないし“戦争民営化”とも呼ぶべき方針がある。正規軍に同行して兵站・給食・技術サービスなどを提供する民間企業社員は、湾岸戦争時の兵士100人に1人から、今回のイラク戦争では兵士10人に1人まで激増したといわれる。戦闘終了後の占領にともなう警護サービスも、この現代の傭兵ビジネスの一端で、米英のほか南アやチリからも相当数の私兵が参入している。 最大の問題は、正規軍と違って国際条約やROE(交戦規則)に縛られないため、誤った行動などによる被害の責任を問われず、また死傷者が出ても“企業秘密”の名目で正式な犠牲者にカウントされないこと。自国兵士の被害が最大のダメージとなる政府としては、国民に犠牲の少ない戦争と見せかけることができる。もしこうした軍事企業関係者の被害を加えれば、イラクの米側死者数は現時点で600人をはるかに上回っているだろう。 さらに、ブラックウォーター社員の高給が示すとおり、表向きの戦費支出が節約できるように見えて、じつは国庫や国際的な復興援助供出金から民間企業に莫大な資金が流れ、むしろ費用対効果が低下しかねない(燃料や給食で不正請求したハリバートンが好例)。軍からこれら民間軍事企業への人材流出も問題化しつつある。[参考]http://www.zmag.org/content/showarticle.cfm?SectionID=15&ItemID=5256http://www.workingforchange.com/article.cfm?itemid=16701http://www.findarticles.com/cf_0/m1181/1998_Fall/56021075/p1/article.jhtml?term=David+Shearer━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
2004年04月04日
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