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八路軍の研究 4 八木哲郎 (前回のつづき)百団大戦(別に詳述)では、日本軍20645人、偽軍5155人を死傷させ、捕虜日本軍281名、偽軍18407人、消滅した敵拠点は2993か所、破壊した鉄道は474キロ、道路1500キロ,橋213か所、駅37箇所、炭鉱5か所、倉庫11か所、偽軍の反乱者1845人、日本軍投降者47人、解放した労働者10120人に達した。 第3 の時期―百団大戦後(1940年末)から抗戦5周年まで(1942年7月7日) (敵の情勢) 岡村寧次大将が後任となり、治安強化運動を強化した。華北を太平洋戦争の兵站基地として、日本軍は治安区(日本軍占領区)、準治安区(敵味方が争う遊撃区)、非治安区(我が方の根拠地)にわけ、それぞれの区域で対応を変えてきた。治安区では清郷、郷村の自衛力の強化、県境に土堤や溝をつくる、保甲制度の強化、連座制、不穏分子の摘発、食糧物資の略奪、など。準治安区では蚕食が主、恐怖と懐柔の両方を用いる。無人区の製造、封鎖線の構築。非治安区にたいしては掃蕩、三光政策の実施、いわゆる“鉄壁合囲”“捕捉奇襲”“縦横掃蕩”“反転電撃”など残酷極まる攻撃をしてきた。中共軍の解放区の縮小を図った。 抗戦4,5年目における中共軍根拠地に対する1000人以上の掃蕩は174回、使用兵力は83.89万人、1万人以上の3か月間掃蕩は15回、抗日根拠地の人民の生産、収穫などをことごとく奪い、我が方の生存条件をおびやかした。 1941年~42年、日本軍が新築、修復した鉄道は752キロ、道路3735キロ、封鎖溝11230キロ、新築拠点トーチカ7801か所で平原地区で増やす。 1942年10月、安達十三武官談話によると、トーチカは7700か所、壕11860キロ、地球の4分の1の距離であると豪語、すべて住民の強制労働と破壊した住民の家屋の材料を使って構築した。 交通建設では高架に変え、路軌にねじ釘を使わず、釘に変えた。重要地点には資材をおいて迅速に修復できるようにした。道路の両側に溝を掘り、深さ2.7メートル、幅4メートルをつくって重要道路の併行路とした。電柱は鉄筋コンクリート製にし、上に電灯をつけた。3.5キロごとに電話機をおき、ふだんに連絡を取った。トーチカの外側に壕をほり、鉄条網で囲い、重要箇所は電流を流した。保甲制度を徹底し、内部不穏分子の摘発、夜間も歩哨を立てる。交通線の拠点の増加でより多くの兵力が必要になり、偽軍を使用した。 1942年偽軍は34万に達した。山東省がいちばん多く15.7万人、ほとんどは国民党地方武装組織が寝返ったもの。 敵に発生した困難と矛盾は 1.治安強化運動で住民の奴役と略奪がふえ、民族矛盾が増大した。敵占区の住民のどの階層も生活が苦しくなり、敵愾心がつのってきた。 2.交通線の復旧と増設で兵力不足の矛盾がますます増え、偽軍依存、分散配置せざるをえなくなった。この結果、後方が空虚になり、偽軍依存もたよりにならなくなった。 3.日本兵の厭戦気分が高まった。普通なら2年で帰郷できるのに3年4年と長引き、いつ帰国できるかわからなくなった。何年たっても進級できず、下級兵は古顔にいじめられた。 (2)友軍情勢 第一次反共熱が高まる。友軍は山西、河北、山東、河南で80万(実際は50万程度)いるが、40万人は反共第一で、敵はその傾向を助長するため、降伏勧誘と威迫の両様の手段で和平会談に誘ってきた。それが不調のときは軍事圧力を用いた。1941年,敵は中条山戦役を発動し、友軍は3日間で壊滅した。俘虜10万、投敵2.2万人、閻錫山との談判は成功せず、日本軍は山西軍騎兵、第51軍を殲滅した。残存兵は2000にすぎず、3000人が投敵した。69軍も3個師5000人が投敵した。冀察戦区では6000人投敵。 これらの偽軍の中には地方情勢にくわしい者がおり、わが軍にとっては不利である。 (3)我が方情勢 1942年春、抗日根拠地は敵の掃蕩により6分の1に縮小した。人口は3分の1縮小した。河北中部、南部平原の遊撃戦では抗日根拠地はたくさんの小さい塊の遊撃根拠地になった。 我が方にとって非常な試練の年であった。敵後の敵後に進軍し、敵の心臓部近くに迫って、封鎖線の裂け目をつくり、こちら側が蚕食してこちらの抗日根拠地を増やす作戦を立てた。 其の方法は下。 (A)われわれが努力して抗日根拠地をつくるのは、闘うのによく、抗日の力がますからである。そのために行う工作は統一戦線を強める、33制の実行で、地主資産階級、小資産階級、無産階級の連合である。金のある階層からの税金をふやすが、過度なことはしない。減租減息(租税を減らし、25%とする、利子は1割)。交租交息(地主の土地所有権、財産権を保証、農民に貸した金が返せないときも土地を没収しない)。農民の負担をへらし、生活水準を高める。生産性の向上を提唱し、経済を発展させる、農業の増産、手工業の振興、必需品の自給、文化教育事業の発展、小中学校の増設、新聞出版を広め、人民の思想水準を高め、反ファシスト戦争の認識を高める。軍区を建設し、武装遊撃隊と民兵を育成するなどである。 反掃蕩作戦では、広範な大衆的遊撃戦争の方針の下、我々の主力の一部と民兵が協同して日夜闘う。民兵は地雷、石雷など巧妙に工夫して敵を殺傷している。 われわれは適宜に転身し、交通破壊、敵の補給線を分断している。 (B)遊撃区 蚕食政策には反蚕食政策で戦う。 正面では防線を築き、正規軍、地方遊撃隊、民兵と三位一体で敵の蚕食を断っている。平原地区では堡塁が林立し、活動が非常に困難でわれわれは黄蜂戦、地道戦、坑道爆破(敵の堡塁の下まで坑道を掘り進め、直下で爆発させる)。作業と遊撃戦を組み合わせている。われわれは敵の占領地深くまで入り、敵を覆す作戦である。 (C)敵占領区 清郷、武装工作隊を敵正面の封鎖溝垣をこえて拠点、道路、敵の格子網内に侵入し、中国人と中国人は闘うのをやめようとスローガンを叫び、闘う。 反掃蕩、反蚕食、反清郷の3つを結合して敵の前進をとめ、解放区の縮小を失敗させる。 われわれは敵の治安強化運動を破産させる。 抗戦4,5年で獲得した俘虜は偽軍33296人、反乱させた者9484人に及んだ。 第4時期―抗戦5周年から現在 敵方情勢 敵は新しい降伏誘導策として対華新政策を発表した。汪精衛政権が発足し、民族形式と地方形式で統治を解し。 抗戦6,7年の2年間 敵1000人以上の掃蕩 77回、使用兵力61.62万 1万人以上の掃蕩 22回 使用兵力29.7万人 掃蕩の特色は鉄壁合囲、駐守清剿の組み合わせ。 偽軍の大規模な寝返り、優秀な農民を青天白日旗の下に偽軍にさそいこみ、その数は47万人。汪精衛は反共を目指し、治安軍を剿共に整編する。
2017/06/05
八路軍の研究(3) 次に彭徳懐が行った抗日戦段階を示す。 第一時期―平型関戦闘(1937年9月25日)から武漢陥落(1938年10月25日)まで 第2時期―武漢陥落から百団大戦(1940年8月20日) 第3時期―百団大戦後(1940年末)から抗戦5周年(1942年7月7日) まで 第4時期―抗戦5周年から現在まで それぞれの時期の特徴を彭は敵方情勢、友軍情勢、我が方情勢にわけてまとめている。 第1時期 (敵方情勢) 日本軍は速戦速決で3か月以内に中国を滅亡させると豪語し、黄河以北を占領して棉花、石炭、鉄の産地を確保した後華中華南南洋まで南下する戦略だった。主要な敵国民党軍隊に対し日本軍は12個半師団合計約30万で正面から攻め、平、津、保定、石家庄、太原を占領し、北寧線、平綏線、正太線、同蒲線および平漢線、津浦線の北半分を占領した。 鉄道沿線と主要な都市にはトーチカを築いて防備した。 作戦の相手は八路軍とその友軍(後述)で日本軍に協力する偽軍は反共地方軍との合計約7万であった。 日本軍の戦術は突貫攻撃、単刀直入式から次第に分進合撃に変えた。 1000人以上の兵力による掃蕩は10回 1万人以上の兵力による掃蕩は5回 行った。 (友軍情勢) 抗戦初期は国民党中央軍、西北軍、東北軍、晉綏軍、河北の楊秀峯、山東の範筑先などの地方軍など75万で士気は一般的に高かった。しかし数度の戦闘、南口の戦、忻口の戦では国民党の勇敢な将兵の殉職が相次ぎ、破れて次第に戦意を消失していった。戦闘方法は正面単純防御で運動戦と陣地戦は結合せず、ゲリラ戦は行わなかった。闘っても局部的な小戦闘だけで、高級将校は死を避け、やがて抵抗せず、闘わずして破れた。大衆の支援というものはなかった。 (我方情勢)八路軍の参加は約8万。このうち4.5人が編成されて給与を受け、115,120,129の名称を授けられた。9月中原を出発し、黄河を渡って北進した。この時の我々の覚悟は長期戦、基本は遊撃戦であると認識していた。 115の師団長は林彪であり、副団長は聶栄臻。平型関(後述)で大勝した。その後は交通線の破壊、忻口会戦、娘子関の闘いで友軍を側面援助し、太原を守り、河北省とチャハル省の失地を回復した。120師 は雁門関で戦った。129師は陽明堡飛行場で敵軍の飛行機20を破壊した。129師は友軍の撤退を援護した。などなど。この時期は国民党軍の補助、側面援護的な役割をした。 1938年、平綏線、平漢線、北寧線、津浦線、同蒲線など2938キロを破壊した。 この頃、友軍との協同から単独作戦になり、敵の後方に抗日根拠地をつくり遊撃戦を行った。抗日根拠地は山岳地帯で、五台山、大行山、呂梁山など、敵が自動車などの機械化部隊で攻められずにすみ、敵の動きをみて集中して攻撃した。国民党中央軍の徐州戦、漢口戦に呼応して敵の生力量(兵力)の消滅につくした。 また偽軍5000を消滅させ、抗日政府管轄下の人民は1000万人以上に達した。 第2時期―武漢陥落から百団大戦まで(1940年8月20日) (敵方情勢) 1938年8,9月、日本軍は国民党側に対しては政治的な降伏勧誘を主にし、軍事進攻の重点を八路軍に移した。日本軍兵力は22個師団、44万である。3分軍事、7分政治方針とし、点(都市)と線(鉄道、道路)を固めたうえ、面に拡大する戦術で、池を乾して魚をとる戦術、区ごとに掃蕩する戦術、牛刀で鶏頭を斬る戦術などと言った。解放区をしめつけて封鎖を厳密にし、無衣無食の状態に追い詰める政策であった。 掃蕩の規模は大規模化し、抗戦2,3年間に 1000人以上兵力による掃蕩 109回、 1万人~2万人兵力による掃蕩 7回 3万人以上兵力による掃蕩 2回 6万人以上兵力による掃蕩 1回 に及んだ。1939年~40年における修復した鉄道は1870キロになった。我々の抗日根拠地を封鎖、きりとり、蚕食、掃蕩を行ったが、敵の弱点は兵力不足で、偽軍(皇協軍、剿共軍)の増強で行った。偽軍は1940年末14.5万人となった。 (友軍情勢)華北の国民党軍隊は抗戦から反共に変わり、解放区を匪区と呼び、1939年冬、第一次反共行動が高まった。日本軍は国民党軍と中共軍が闘っているときは観戦的態度を持し、国民党軍の攻撃を差し止めた。国民党には消極的だが抗日をすてない派と頑固派があり、頑固派は抗日より反共で、日本軍と通じた。 (我が方情勢) この時期はまことに苦しい時期で、遊撃戦と運動戦をおぎあいながら行った。軍民が共同して交通破壊戦を行った。1938年から1939年の間に4回の大掃蕩があり、敵は毒ガスを使用した。1939年7月は6万の兵力で9路から包囲して完全殲滅を期してきた。わが方は狙撃により阿部中将以下幕僚を戦死させる戦果をあげた。機械化部隊で侵攻してきたが、我が方はよくこれを防ぎ、根拠地を固めた。 敵の囚籠政策に対して我が方は交通闘争を発動した。交通闘争とは、軍事闘争ではなく大衆闘争である。軍隊と人民が結び、鉄道の両側に建てた敵の封鎖溝や堤を破壊した。特に敵が物資を運ぶ幹線には5人以上を動員し、抗戦3年目に華北全体で2660キロの鉄道、8200キロの道路を破壊し、電柱42220本を引き抜き、電線10926キロを奪った。4年目にはさらにそれを増やした。 平原地区作戦では、深さメートル、幅1.7メートルを掘り、敵はわが軍を射撃できないようにした。 敵の拠点を取り除く作戦は、6つの方法を使った。常時的な襲撃、強攻、釣魚 敵をおびき出して伏撃する、敵の拠点付近までしのびこみ、敵に対して意想外の襲撃、坑道を使って爆破、地道戦、村と村を坑道でつなぎ、退避や作戦を行う。特に日本軍が井径炭鉱から石炭を運び出す正太線を重点的に攻撃した。
2017/06/02
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