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慎太郎・裕次郎兄弟の父潔は昭和26年、51歳で脳溢血のため死去している。慎太郎19歳、裕次郎17歳のときである。裕次郎は慶應農業高校に入ってから名うての不良の多いこの学校でぐれた。家はすぐ路頭にまようほどでないにしても、慎太郎は裕次郎の放蕩のために家計はめちゃめちゃになり、、長男として一家を支えていくために公認会計士の資格をとろうとして一橋大学に入る。当時、大学新卒の給料は1万4千円程度だが、公認会計士なら25万くらい稼げるといわれてその気になったという。しかし、この考えは自分には経理に向かないことをさとってすぐ捨ててしまったという。大学に入って小金井の下宿に引っ越してきた慎太郎はかたわら「一橋文芸」という文芸雑誌の編集に携わり、コクトーやラディゲ、ヘミングウエイなどの翻訳小説を読みふけっていた。日本文学の伝統的な作品を読んだ形跡はない。ただ小樽の出身である作家で文芸評論家でもある伊藤整氏からは影響を受けたらしい。伊藤整といえば「チャタレー夫人」の翻訳者でその訳文がわいせつ性が物議をかもし、裁判にまでなった。「女性に関する十二章」という軽妙なベストセラーを書いてブレークしていた。慎太郎は小樽の縁でこの人を訪ねて雑誌の寄付をたんまりもらった。穴埋めのために慎太郎がこの雑誌に書いたのが「灰色の教室」で、高校時代のあるできごとを小説にした小品である。たまたま文芸評論家の浅見淵がこの作品を評価し、「文学界」の昭和30年4月号の同人誌批評に「今月第一の力作である」とほめた。これを慎太郎は見て、ヘエー、俺にはそういう才能があるのかなと思ったという。他人の新人賞受賞作をみて、こんな程度のものが受賞するのならおれはもっといいものを書けるとむらむらと応募欲がでて「太陽の季節」を書いて芥川賞に応募する。芥川賞選考委員会では石川達三と舟橋聖一がが推し、丹羽文雄、佐藤春夫、宇野浩二、夫がさんざんな評をつけて反対し、川端康成と中村光夫はしぶしぶ賛成した。結果は、昭和31年1月23日、当選作に決まった。さて、この小説は、大いに売れ、27万部というベストセラーになり、社会現象が起こった。日活は5月にすぐ映画化し、弟の裕次郎はたちまちスターとして登場、裕次郎映画は満員の盛況となり、「狂った季節」「処刑の部屋」など立て続けに映画になり、太陽族映画はブームになった。夏に森戸海岸に海水浴にいくと、頭を慎太郎刈りにした太陽族が肌をギラギラさせてワイワイ騒いでいた。「処刑の部屋」にでてくる女性に睡眠薬をお酒に混ぜて飲ませて犯すのをまねる会社重役の子が出てきたりしたので、太陽族映画に批判が集中して、日活の堀社長はもうこういう映画は作らないというまでに追い詰められた。にもかかわらず裕次郎映画は昭和30年代、誰も彼もがうつつをぬかすようにして見に行き、カッコイイ、長い足がステキ、暴力ではり倒すのをみてスカッとする、と言って喜んだ。裕次郎というのは役の上だけでカッコいいだけでなく、存在そのものが桁外れだった。日活のプロジューサーであるターキーこと水之江タキ子は裕次郎が行方不明になっては困るので、自宅に泊まらせてかこうようにした。酒が主食だと言って、飯は食わず、日本酒4升、ウイスキー4,5本を一日で空けたという話がある。章、種は撮影中でものんでいて、監督に遠慮なく物言いをした。こんな俳優は前代未聞だった。「太陽の季節」太陽族映画がこれほどはやったというのはどういう意味があったのだろうか。まだ戦後10年しかたっていない。昭和34年、日本は戦前のGNP最盛期昭和15年に達し、それからは急成長し続けた。戦後10年近く文化は反戦、貧乏との戦い、封建制との戦い、組合闘争、左翼全盛、太宰治的デカダニズムといった風潮に世の中はあきてきたらしい。日本共産党の火焔瓶闘争の失敗で、共産党は選挙で壊滅、徳田球一は北京で客死しており、雪崩のように左翼が崩れ、一方で消費文化が起こってきた。当時、貧乏のために浅草のフランス座でコント」を書いていた井上ひさしは、「太陽の季節」に反感をもち、ヨットを持ったり、女をナンパしてやりとりしたりするこんな小説に登場するような若者は作りものに違いなと思っていたと佐野氏は紹介している。それにしても裕次郎はどうして不良化したのだろうか。家庭が荒れていたわけでなく、愛情が不足していたとは思えない。当時早稲田の学生は新宿で合成酒かドブロク、宝酒造の焼酎を飲んでいたが、金持ちの子が多い慶應ボーイは学生服のままで銀座のバーやキャバレー飲みまくり、ナンパしていた。裕次郎はその手だった。飲んでツケにし、やまのように請求書がきても我関せずだった。不良といってもそういう不良だった。慎太郎の小説にくりかえし出てくることばは「俺はしたいことをするんだ」である。思想やイデオロギーもない。それが主調音である。裕次郎は映像でそのことを身体で表した。(続)
2013/01/29
慎太郎兄弟の父潔は神戸出身、山下汽船のたたき上げで、27歳で樺太の材木運搬など相当な荒仕事もこなした人であることはすでに述べた。昭和11年、40歳くらいで小樽支店長に出世し、ここで子供たちをカトリックの幼稚園に入れ、ゴルフなどをする高級サラリーマン生活をたのしむ。昭和18年、東京の本社に転勤し、逗子にある山下亀三郎社長の別邸を与えられて瀟洒な生活に入った。慎太郎は終戦の年に湘南中学に入学、裕次郎は小学5年生。終戦になって、父潔は息子にヨットを買い与えた。女の子ならピアノを買い与えるところを男の子だからヨットにしたのだという。在留のアメリカ人がつくらせてから2年目のディンギと呼ばれる2人乗りの小型ヨットである。当時の金で2万4千円もしたというから大変贅沢な買物である。兄弟はそれをのりこなし、慎太郎はこのヨットが自分たち兄弟の人生へのスタートだったと熱い思いで書いている。父、潔は神戸の出身で、小僧時代から船会社につとめ、小樽という海の町に過ごしたからまさに海の人であった。北海道そのものが植民地みたいなもので内地とはガラリと変わっていた。海に関わった人間は陸の人間とどこか異なった感覚になる。海は人間を魔性に引きずり込む。あの広い海で暮らしているともの考え方がおおきくなり、こまこましたことから無縁になる。海は怖い。いつ何時人間を死にひきずりこむかわからない。子供の頃、鎌倉の海岸で豪雨に遭い、ボートがひっくり返ってあやふく遭難した経験がある。また逗子の海岸で遠くに泳いだとき、急に足がつっておぼれそうになった。あ、もうだめだ、となったらアップアップしだし、おしまいになる。海岸まで無限に遠く感じてしまう。気をとりなおして岸まで泳いだが、今でもあのときの怖さを思い出す。板子一枚下は地獄ということわざが思い出される。知研で昔、太平洋横断の堀江謙一さんをよんで講演をしたことがあった。このとき、堀江さんはロマンティックな冒険家だと思ったが、実は緻密な計算ができるリアリストだと見直した。彼はひとりで小さなヨットで太平洋を横断する前に実際の距離では日本列島一周したりして距離的には太平洋横断の距離以上の航海をしていた。しかし危険ならいつでも陸地にたどり着ける近海の航海だった。この距離をアメリカの方にのばせば太平洋横断は理屈では可能であると思い自信があった。しかしいざ乗り出していくと、時化に遭うとこのままってアウトになるのではないかと思い、ウイスキーをのんで紛らせ、ナギにあってヨットが動かなくなると、このまま1ヶ月もそれが続いたら食料も水もつきておだぶつだと感じる。また天測ではハワイ列島が見えてくるはずなのにそれがいつまでも見えてこないと進路をまちがったのではないかと恐怖が走る。要するに想像力が一番怖い。それで何も考えないようにしたという。この話は十分理解できた。こういう危険と隣り合わせの海の生活ではおのずから感覚が異なってくるのは首肯できる。漁師の平均寿命は40歳に至らないと言われた時代、荒々しい、気っ風がよい、剛胆、喧嘩早い、きれがよい、やくざ風、おおざっぱ、などなどである。船員、漁業者、魚関係の商人や料理人、板前などまでに共通して見られる非日常的な性格である。魚というものは豊漁の日はあるが、獲れない日もある。日によっても季節によってはまちまちである。魚屋は鮮度がおちない内に売らねばならないから、気っ風よく声をからして売る。売れ残ったら損になる。まったく安定したなりあいができない。魚の売り買いは尺貫法がなかなか守れない。魚自身は大きいのもあれば小さいのもあり、キロいくらだといってもひとつひとつ半端な重量になるから値付けなどはおおざっぱになる。だからといって値切りや駆け引きはしない。私は貫目がたりないと文句を言いにいったら、馬鹿野郎、魚には値がつけられないんだ、といって逆にどやしつけられた。次にいったら、これもってけ、とポーンとでっかいやつを同じすごく安くしてくれた。だいたいそうした世界で、魚のコストというものは定めにくい。 また書くが、この世界に生きている人たちのある部分は制度や慣習から外れ、制度の外にあって、勝手にやれと役所は手をつけず、無視している。制度や国家が面倒見切れない部分を私は行政の歩留まりがおよばない世界だと呼んでいる。(続く)
2013/01/28
石原慎太郎現象3さて、慎太郎の「太陽の季節」は出た後すぐ読んだが、有名になった例の男のイチモツを女に向けて障子につき立てる場面だが、それ以外はあまりピンとした記憶がない。それでもう一度読んでみようと思って、府中の本屋に行ったが、アイウエオ順に作者名でならべた文庫の棚には見あたらなかった。そこで店員に調べてもらったら、{イ}の作者の中に1冊だけまぎれこんでいた。それが「太陽の季節」(新潮文庫)だった。この文庫本にはいっしょに「灰色の教室」「処刑の部屋」「ヨットと少年」「黒い水」が収録されている。これだけではたりないので、新宿の紀伊国屋でまた探してもらったら幻灯舎文庫で「弟」がみつかった。あとは慎太郎が火を吐くといった例の発言集が2冊あった。これは買わずにすます。本屋の棚にもなくなったところをみると石原慎太郎はもはや過去の小説家で、いまでは政治家 都知事というイメージしか若い人は持たないだろう。まず最初の本の5編の短編小説を読む。私が感心したのは「太陽の季節」の中のヨットに愛人を乗せて沖で2人で潜って泳ぐ場面、ヨットの上で抱き合う場面が実によかった。それ以外に「ヨットと少年」「黒い水」の熟練したヨットマンの操船の描写とか、海の描写、刻々と変わる気象の変化の描写は実にリアルに美しく書かれていて、なるほど慎太郎は一流作家だなと感心した。とくに「ヨットと少年」は大人や社会に対して反発している荒々しい10代後半の少年がよくかかれていて、私の好みに合う。ヘミングウエイを思わせる。しかし、「太陽の季節」とか「処刑の部屋」の不良少年たちの喧嘩の出入りや女性をエッチする場面などは私の趣味ではない。だが、ひどくなまなましく書かれている。少年たちの荒々しいやくざ会話が多すぎて叙述がすくないので、読みにくい。佐野氏によれば、不良少年の喧嘩の場面などは、札付きのボスの不良仲間や裕次郎などから慎太郎が彼らの言動を聞いて書いたのだという。このために非常に迫力が生まれ、臨場感がある。慎太郎は帰納法で書いたといえよう。さて、私が会話ばかりで読みにくいといった部分は文字では読みにくいが、これを映像にしたらぴったりする。裕次郎のアクション映画のシナリオを慎太郎が書いたというのは実に頷ける話である。「弟」は裕次郎の少年時代からスターにのし上がり、動脈瘤破裂症になって52歳で死ぬまでの人生を刻銘に書いた話で、冗長と思えるほど長い。慎太郎がいかに裕次郎に入れ込んでいたかがわかる。(続く)
2013/01/26
石原慎太郎現象2石原慎太郎と裕次郎兄弟の父親は山下汽船の重役で、逗子に引っ越してから、子供にヨットを買い与えるほどの余裕のある中産階級の生活だったと聞くと二人はさぞかしいいとこのお坊ちゃんというイメージが湧くが、ではどうしてそういういいとこの坊ちゃんである、特に次男の裕次郎が乱暴で喧嘩ずきの性格、高校時代は不良少年だったというのはひとつのわからなさであった。佐野真一氏の本でこのことがかなりわかった。佐野氏はおそらくそれを探りたくてこの本の取材を始めたのであろう。佐野氏の取材は徹底していて、四国、中国、九州、北海道にわたって聞き知った人物はもれなく聞き歩き、200人以上の関係者に取材している。今は外国になった元樺太にまでわたり、北の端の敷香までおんぼろタクシーを走らせているのには驚いた。というのは兄弟のルーツである父の石原潔がどういう人間だったかを探る旅なのである。石原潔は大正3年、14歳の時に山下汽船に船童、つまり小僧で中学中退で入社し、昭和26年、51歳で死ぬまで勤めている。90キロを超す巨漢で頑固、豪儀、磊落、部下をかわいがる親分肌、といった典型的な明治のタイプであったらしい。この人物が山下汽船でどういう仕事をしていたかを生存者の同僚、上司、関係者をくまなく取材しているが、その前に山下汽船なる会社はそもそもどういう会社だったかから始めている。日本の大手の汽船会社は外国航路をもつ日本郵船と大阪商船が大きいが、山下汽船はいわば貨物専門の社外船、チャーター船だった。しかし、保有船舶に比して運航距離がおどろくほど大きく、もうけにもうけたのは、経営者の辣腕で回転をめまぐるしくスピードアップしたからだという。創業者の山下亀三郎は大変な太っ腹で、毎晩のように社員を一流料亭に集めては、神戸中の芸者をあつめてどんちゃんさわぎ、いくら金を使っても減らないという豪語したほどの人物で日本の近代の夜明けの時代の象徴のひとつだった。中堅社員になった潔はカッとなって大胆無謀な行動をしたため、クビになるところを亀三郎がその短慮を愛したが故にそうならずにすみ、罰として小樽支店にとばして、樺太の材木を山から伐採させて内地にピストン輸送する仕事をさせた。このような荒仕事は荒れくれ者たちをしごいて使わねばならず、やわな人間ではできない。潔はこれを見事にこなして汚名をそそぎ、小樽の支店長になった。このころから潔の生活水準はあがり、慎太郎裕次郎兄弟は瀟洒な家に住み、お坊ちゃん風に育てられ、ハイカラな幼稚園に通う。やがて昭和18年に逗子に転勤することになる。つまり兄弟の父親である潔は単なる真面目サラリーマンではなくたたきあげの凄腕、遊び人でかなりの洒落者だったということで兄弟のDNAにつながるのである。潔には前妻があり、その間に男子が生まれている。佐野氏が訪ねていくと慎太郎そっくりの人物が出てきたという。慎太郎はこの異母兄弟を従兄弟と呼んでいる。慎太郎裕次郎の母は二度目の妻で、大阪の出身、高等女学校を出た当時としては都会的なインテリ女性であった。このインテリ性が慎太郎につながるのではないかと思う(続く)。
2013/01/23
年明けに紀伊国屋書店に行ったら目立つところに佐野真一の「誰も書けなかった石原慎太郎」という講談社文庫の分厚い文庫本が平積みされていた。買って帰り、面白く読んだ。この本が出たのは、2009年であり、書き上げたのは2008年だったであろうから、佐野真一は石原が尖閣諸島買い上げに火をつけたことや、都知事をやめて大阪の橋下市長とくんで維新の会の代表になったことはその後のことである。石原慎太郎は驚異的な300万票もとって知事に当選し、3回当選し、去年の秋に都知事をやめて新党をつくり、それから維新の会と合同して代表になった。12月16日に行われた総選挙では、東京で維新の会が得た小選挙区票は80万票、比例では130万票だった。大阪で維新の会がとった票は小選挙区が121万票、比例146万万票だった。この数字からすると石原慎太郎のかつての300万票は2分の1以下に減ったことになる。ちなみに同日に行われた都知事選で猪瀬知事のとった票は433万票という驚異的な数字である。都民の有権者の約半分が猪瀬知事に入れたことになる。これはどういうことを意味するのだろうかは、おいおい述べる。佐野氏は、慎太郎も老醜に入り、下り坂の花道、もうおしまいであると厳しい採点をしている。私もだいたい佐野氏の意見に同調する。しかし、石原慎太郎は作家としてどのように評価されているか、今は文芸評論家という人が居なくなったので、わからない。政治家として、都知事としてどのような評価をされているかは、公式なものを参考にせざるを得ない。私が興味を感じているのは石原慎太郎という人が芥川賞作家として出てきて、政治家になり、それから都知事を10年以上もやり、まるで帝王のようにすいすいと世の中を渡り、スコットランドの高地人出身の高慢と偏見のかたまりのような貴族みたいな存在でありつづけたことに興味がある。なぜ日本のような狭いみみっちい社会で、一方で石原のような人物が我が世を謳歌できる世界があるという事情をつかめば、日本の社会というものが見えてくると思っている。
2013/01/21
今日で正月3か日目、家で本を読んだり仕事をしてすませた。正月らしいものは簡単な安倍川と雑煮しかつくらなかったので、おせちみたいなものがやはり食べたくなり、スーパーに買いにいった。売れ残ったかまぼことか伊達巻きを半額で買ってきてどうやら正月気分になった。テレビで田原総一朗が学生と歴史について問答する番組や池上彰の時局解説番組を観る。夕べは長時間番組の「白虎隊」を観た。あまり長いので中断して終わりの方の戦闘の場面を観る。白虎隊は曾てみた番組では壮烈無比、尽忠報国の少年隊の物語で美化されていた。しかし、今度の番組ではあの例のいさましい白虎隊の歌はなく、滅び行く者の物語だった。会津武士ときたら薩摩など九州の武士と拮抗するほどの武勇の侍だが、薩摩、長州藩の武器の前にさんざんな敗北を喫する。薩摩、長州がなぜ倒幕にふみきったかは、安い武器を大量に入手できたからだと思う。例の長崎のグラバーから買ったのかどうか知らないが、あのころ、アメリカの南北戦争が終わり、中国での太平天国内乱も終わり、大量の武器が安値で出回っていたからだと思う。東北の武士はやはりそういう近代から遠く、刀で鉄砲に向かっていって死んだ。今年は中国の現代史を勉強する予定だ。毛沢東文集や国民党の領袖たちの回想録を読んでいる。この毛沢東という人は不世出の天才で、マルクスレーニン主義を根拠にしているものの、諸葛孔明の生まれ変わりだといっていいほど柔軟なイノベーションと戦略戦術に秀でている。今も建国の父として天安門に大きく写真が飾られているのはわけがある。毛沢東の革命が成功したのには、日本の侵略戦争が大いに関係しているのは興味あることだ。不思議なことだが、日本軍が中国奥地にまで戦線を広げなかったら、中国革命は起こらなかったか、ずっとあとになってアメリカが介入して大動乱になって実現したかも知れない。日中戦争の記録は日本ではあまりないが、中国には詳しく記録したものが多い。たくさん買っておいたのがよかった。
2013/01/03
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