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コインブラの観光を終え、バスに乗り込み昼食会場のポサーダに向かう。バスの車窓から、モンデゴ川沿いにあるコインブラ駅が見えた。時間は12:20。国土を南北に縦断する幹線鉄道路線を走る列車、例えばリスボンからポルトへ向かうアルファ・ペンドゥラール(AP:Alfa Pendular)やインターシティ(IC:Intercidades)などは、市街地の北西郊外にあるコインブラB駅(Coimbra-B)に停車する。そこから市街地中心部のここコインブラ駅(Coimbra)へは、盲腸線が作られており、一部列車はコインブラ駅を始発あるいは終着駅とする近郊線(Urbanos de Coimbra)とポルトやAveiroから来る普通列車に接続している。盲腸線とは、公共交通機関において営業距離が短く、かつ起点もしくは終点のどちらかが他の路線に接続していない行き止まりの路線を指す。モンデゴ川の向こう側の丘の上に見えたのが新サンタ・クララ修道院(Mosteiro de Santa Clara-a-Velha )。新サンタ・クララ修道院は、17~18世紀にかけて、モンデゴ川の洪水を避けるために、川沿いの修道院の代わりに新しく建てられた修道院。修道院内には、教会や庭園など、いくつかの見どころがあると。前方右側に再びサンタ・クララ橋(Ponte de Santa Clara)が。サンタ・クララ橋にはポルトガル国旗とコインブラの市旗が。モンデゴ川の下流方面。ウニヴェルシターリオ・デ・コインブラ競技場をズームで。このスタジアムはユーロ2004の一次リーグ、イングランド対スイス、フランス対スイスが行なわれたと4。このスタジアムでジダンやベッカムがプレーした。サッカーの世界ではなかなか話題に上らないコインブラが、世界中から注目される瞬間であったと。サンタ・クララ橋を渡りラウンド・アバウトをイネス・デ・カストロ通り方面に進む。道路沿いにあったモニュメント。その先にも。Hotel D. Luís - Coimbra。昼食会場のポサーダ デ コンデイシャ コインブラ( Restaurante da pousada de Condeixa a Nova。)『ポサーダ デ コンデイシャ コインブラ』は コニンブリガの遺跡から 2.6 km 、コインブラ大学から16.5 kmのファミリー向けの 4 つ星ポサーダ。このポサーダ(POUSADA)には43室の部屋と、レストラン、屋外プール、およびフィットネスセンターがあるとのこと。ポサーダとはかつて国の重要なものだった建物などを改装したポルトガルを代表するホテル。ヨーロッパの国営ホテルといえばスペインのパラドールが有名だが、ここポルトガルでは【ポサーダ】と呼ばれている。ポルトガルに点在しており、その数30軒以上に及ぶ。古城や王宮、修道院を利用したヒストリックや、それをさらに現代風に改装したヒストリック・デザインなど建物のデザインも多種多様であると。フロント。フロントの置物。まずは黒ビールを注文。ポルトガルのパンはどこも美味しかった。スープ。アサリと豚肉の料理・カルネ・デ・ボルコ・ア・アレンテジャーナ。(Carne de porco á Alentejana)。デザート。そしてレストランの前庭の像。こちらにも。前庭からポサーダを見る。前庭からの眺め。「BAR」と書かれた建物。前庭にはプールも。そして出発時間まで周囲を散策。歴史を感じさせる壁。ここも、今は使われていない修道院の建物?建物の中庭に入ってみると大きな犬三匹が小屋に。そして大声で私に向かって吠えまくったのであった。入口にはこの看板が。運転手に聞くと「犬に注意」と書いてあると。この樹は?枝垂れ桜のごとし。どんな花を咲かせるのであろうか?やはり修道院であったのだろうか?ポルトガルのコインブラという街は、古い大学街で、坂が多く、川があり、陶器店も多く、何となく京都のような印象を受けた。動物柄の細かな絵付けが特徴の陶器であると。壁には掛け軸のごとく絵画も。そして昼食後はトマールに向けてバスは走る。A13高速を利用し南下。リオ・デ・ガリーニャスの村。ペネラ城(Castle of Penela)が右手の山の上に。ポルトガルの第三都市コインブラから南に50kmほどのペネラの町にある城。ペネラ城は、Lusitaniaの時代に建てられた。その城跡にローマ人が建てなおした。12~13世紀にかけ改装したり増築されたりして今の姿になった。町の歴史も古く、創設1137年。初代国王の Afonso Henriques の時代である。ポルトガルの国の中でもっとも古い町のひとつである。山の上には風力発電が並んでいた。車窓からの丘陵、街並みを楽しみながら進む。風見鶏型小型風力発電か?軍事基地の前を通過。ホセ・サルバドール闘牛場(Praça de Touros José Salvador - Tomar)。スペインの闘牛場では牛を殺すが、ここポルトガルでは殺さないのだと。ナバン川を渡る。トマールの街並み。中央に見えるのが街の中心広場に建つサン・ジョアン教会。時計塔には16世紀の時計が埋め込まれているのだと。 ・・・つづく・・・
2019.02.28
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芸術学部/文学部の校舎の前には高い台座の上に4つの彫像が。ネット情報(翻訳情報)では「古典的な作家Sappho、Thucydides、Aristotle、Demosthenesの彫像で構成されたBarata Feyoによる彫刻」とあったのでこれを信じて。Demosthenes(デモステネス)像。雄弁有名な政治家であり、古代ギリシャの演説者。Aristotle(アリストテレス)像。もちろん有名な哲学者。Thucydides(トゥキュディデス)像。古代ギリシャの歴史家、「ペロポネソス戦争の歴史」の著者。Sappho(サッポー)像。19世紀に住んでいたギリシャの詩人。Leopoldo de Almeida(レオポルド・デ・アルメイダ)による彫刻。Aesculapiusの娘の像?持っている棒には蛇?が巻き付いていた。右側には16世紀のギリシャの賢人、ヒポクラテスだと。そして再びサン・ジョアン通りの坂道を徒歩で下る。右手前方に「New Cathedral(新カテドラル)」。バロックのファザードが美しかった。有名な「天正少年使節団」がこの街を尋ねる前の1550年代に、フランシスコ・ザビエルから鹿児島で洗礼を受けた日本人(洗礼名ベルナルド)がポルトガルまで旅をし、コインブラのイエズス会修道院で修行し、ここで逝去したことが、同会の記録に残っているのだと。イエズス会の初代総長であったイグナチオ・デ・ロヨラからバチカンにも招かれ、教皇にも拝謁していると。そしてこのベルナルドの墓がこのNew Cathedral(新カテドラル)にあるとの事で中に入りたかったがツアーコースには入っていなかった。東洋から来たベルナルドの深い信仰と清い生き方は、ヨーロッパのイエズス会員たちにその死に至るまで大きな感銘を与えたのだと。しかしながら日本名は知られていないのだと。そして1999年にザビエル来日450周年を記念して鹿児島のザビエル公園内に新しいザビエル像が建立されたが、ザビエルの隣りに建てられたのが、ザビエルに愛された青年、このベルナルドの像であったと。右にザビエル、中央にベルナルドの像、左にヤジロー。ヤジロウ(弥次郎)は、史料上確かな最初の日本人キリスト教徒と目される人物と。 【https://4travel.jp/travelogue/11281816】より「greja de Sao Joao de Almedina(サンジョアンデアルメディナ)教会。」その横手前にあるのは城壁の名残であると。城壁の名残をズームで。横たわる塀はNational Museum Machado de Castro(国立博物館)を囲む城壁の一部であると。更に続く。城壁の一部の上に建つ現在の建築物。狭い路地の坂道を降っていくと左手にあったのが「Sé Velha - Coimbra(旧カテドラル)」。外から眺めると、旧大聖堂は狭い窓と銃眼付き胸壁をもち高さがあるため、小さな要塞に似た姿であった。これは、ムーア人と交戦中の時代に建てられたことを意味しているのだと。東ファサード。翼廊交差部の上部は細部にバロック要素を持つロマネスク様式のドームが存在感を。最も重要なロマネスク様式の建築物の一つ。1139年のオーリッケの戦い後、ポルトゥカーレ伯アフォンソ・エンリケスが初代ポルトガル王アフォンソ1世として即位し、首都と定めたコインブラに建設された大聖堂である。初代コインブラ伯でモサラベ(アラブ領に住んでいたキリスト教徒)でもあったシスナンド・ダヴィデスはこの大聖堂に葬られたと。北ファサードレコンキスタの時代には要塞としての役割も担っていた堅固な造り。 胸壁には銃眼も。入口は1530年頃に造られたもので、ルネサンスの影響が見られる初期のものだと。そして、1580年代にリスボンを経てバチカンを訪ねた「天正少年使節団」は有名であるが、彼らもバチカンからリスボンに戻った後、このコインブラを訪ねているのだと。ズームで入口横の像を。 西ファサード。こちらが見学用の出入口であるようだが、内部見学はこれもコースに入っていなかった。西ファサードの中ほどに扉口と、扉口に似た窓を上部に持つ塔のような建物。扉口も窓もどっしりとした、アラビア風・ロマネスク前派の影響を受けたモチーフで飾られていた。大聖堂は丘を下る場所に建てられているため、ファサードは角の厚い控え壁で補強されているのだと。西ファサード前の小広場。ケーブラ・コスタス通りと呼ばれる狭い階段路を下って行った。落書きは何処も同じ。狭い道の両脇には食堂や土産物屋が並んでいた。「ポルトガルの洗濯女」の像かつてはモンデゴ川で洗濯をする女性たちの姿が見られたと。シャンソンで歌われ、「ポルトガルの洗濯女⬅リンク」は一躍有名になったのだとか。別の角度から。説明板。ポルトガルギター(コインブラタイプ)を弾く人形。「FADを聴きませんか?」7世紀のBarbican Gate(バービカンゲート)と呼ばれる門。コインブラ城の城壁の一部のようだ。市立博物館の説明板?アズレージョのお土産。"コインブラ・ファド" を象徴するかのようなポルトガルギターをかたどった女性像。ポルトガルギターはポルトガルの民族楽器でファドの演奏などに使用されるのだ。リスボンの下町で生まれたファドは、人生の歓びや悲しみ、哀愁など主に女性の心情を歌うのに対し、"コインブラ・ファド" はもともとは男子学生が愛する女性に捧げたセレナーデで、歌い手は男性のみで演奏者も含めほとんどはコインブラ大学の出身者なのだと。フェレイラ・ボルディス通りを歩く。コルク製のバッグ。様々な缶詰を売っている店。遊園地の如き缶詰専門店。日本語のパンフレットで説明してくれたが・・・。アコーディオンを奏でるオジサン。国民的おやつ「Pastel de Nata/パステル ・デ・ナタ」。ポルトガルの「コンフェイト」。日本の金平糖とは違って、ポルトガルのコンフェイトは透明感が無く、凹凸も浅く控えめ。そしてボルタジェン広場近くでしばしの自由行動に。元首相のジョアキン・アントニオ・アギアル像(Monument to Joaquim António de Aguiar)。ズームで。モンテゴ川(Rio Mondego )に架かるサンタ・クラーラ橋(Ponte de Santa Clara)。ポルトガル銀行。左手は狭い敷地にホテル アストリア(Hotel Astória)。サンタ・クラーラ橋側からボルタジェン広場方面を見る。サンタ・クラーラ橋とモンテゴ川。ポルトガル近代主義の代表的作家で,詩,短編,長編小説,戯曲,評論などさまざまなジャンルで活躍した「TORGA」の名が。モンテゴ川の上流側。下流側。再びボルタジェン広場を。BS放送から、コインブラの街並みの上空からの映像です。モンテゴ川への斜面に拡がるコインブラの街並み。中央上にコインブラ大学の時計塔が。 ・・・つづく・・・
2019.02.27
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4日目の朝は何と4時に目覚ましが鳴り起床。前日はスペインにいたために時差が1時間ずれていて、二人のスマホの時間が自動で切り替わっていなかったのであった。スペインでは、フランス、ドイツなどと同じヨーロッパ中央時間を、 ポルトガルは、イギリスと同じ西ヨーロッパ時間(グリニッジ標準時間)を使っているので、2国の間には1時間の時差があるのであった。現在、中央ヨーロッパ時間を使用している国の中には、実際の経度がUTC+1のタイムゾーンから外れている国もあり、スペイン、フランスなどは、国土のほとんどがUTC+0のタイムゾーンにあたる経度に位置しているのではあるが・・・。現在スペインでは、中央ヨーロッパ標準時(CET)によって時が刻まれているが、イベリア半島の隣国、ポルトガルや経度の近いイギリス、地中海を挟んだお向かいのモロッコでは、1時間遅いグリニッジ標準時(GMT)を採択しています。実は、もともとスペインもこのグリニッジ標準時だったものの、1942年に当時のフランコ独裁政権が同盟国だったドイツに合わせて変更したのだと。なるほど、経度的にはスペインはグリニッジ標準時(GMT)が適当ではと。この朝は、モーニングコーヒー替わりに日本から持ち込んだソーメン(揖保乃糸)を部屋内で楽しむ。麺つゆも日本から持って来た液体濃縮タイプ。そして我が部屋からの日の出。ホテル(AXIS PORT)のロビー。ホテルの玄関。ホテルを見上げて。そしてバイキング式の朝食後、9時にホテルを出発して116km離れたコインブラへ向かう。横断歩道で信号待ちするポルトの人々。この日は快晴。高速道路には既に多くの車両が。国鉄(CP)のCONTUMIL駅横を通過。ドラガン競技場が車窓から。ポルトガル・ポルトにあるサッカースタジアム。スーペル・リーガに所属するFCポルトのホームスタジアムである。雨が多い土地柄を考慮し、透明な素材の開閉型屋根を持つ。 スタジアム名は、FCポルトのロゴマークの上にあるドラゴンの存在に由来すると。高速A20をドェロ川に向かって南下する。あっという間に濃霧に包まれる。渡っているドェロ川の影響と添乗員から。霧も晴れ、車窓にブドウ畑が拡がる。牛が草を喰む牧場も。ポルトガルの田園風景を楽しみながら進む。A1高速からイグレージャのSanta Maria da Feiraの村の風景。IP3インターチェンジ(IC)近くで再び霧が。コインブラ郊外のインターチェンジ(IC)。コインブラの街に入りサン・ジョアン通りを進む。コインブラはポルトガルの学問の町、因みにリスボンは政治、ポルトは商業の町と呼ばれていると。コインブラ大学の角を左折しラルガ通りへ。コインブラ大学の校舎の壁には3体の像が。バスが停車すると、黒のマントを着た女学生がバスに近づいてきた。ボランティアで鉛筆を売り寄付金を集めているのではと添乗員から。想いを寄せた男子学生のマントの裾を、女子学生が歯で噛み切るという習慣が今も残っていると。ディニス王の時代から続くならわしで、裂け目の多い学生ほど「人気がある」という証拠なのだと。日本でいう制服の第2ボタン!!。なんと甘酸っぱい(笑)、しかし今、日本では???そしてコインブラ大学の散策開始し「鉄の門」に向かう。ポルトガルで最古のこのコインブラ大学は、ヨーロッパでも4番目に古い。大学の前身は、ディニス王が1290年にリスボンに創立した大学で、何度か移転した後の1537年、ジョアン3世がコインブラの宮殿内に、大学を設置した。当時から、ボローニャ・パリ・サマランカ・その他から教授が招聘され、国際的に重要な研究機関だったという。特に、人文学は伝統を誇ったとか。現在は、医学部・法学部・科学技術でも、優秀な学生が育っていると。因みに、リスボン大学は1911年創立されたが、これがポルトガルで2番目の大学だ。コインブラ大学が、如何に重要な学問の担い手だったかがわかるのであった。大学が街の中心とみなされ、黒いマントを着たコインブラ大学の学生が行き交うと。約2万2千人が学んでいる。8つの学部が存在し、その学部ごとにシンボルカラーがあると。右手には芸術学部/文学部の校舎。石像が校舎の前に並ぶ。対面の総合図書館の壁にも3体の像が。「鉄の門」の右横の建物。ここにも。歩いて来たラルガ通りを振り返ると大学創設者のディニス王の像(Estatua de D. Dinis)の後ろ姿が。鉄の門(ポルタ・フェレラPorta Ferrea)、別名「無情の門」。無情の門とは、この大学の学生はこの門を入ったら学問以外のことを考えてはならないとの教えであると。女子学生が噛み切ったマントの切れ端?ここに縛り付けておくのは、「私のこと以外は考えてはならない」とのアピールか?白の切れ端は他の意味が?「無情の門」の上部。門の上にはディニス1世の像、最上部には知の神ミネルバが飾られているのだと。「無情の門」の右横の石像。「無情の門」の左横の石像。ラテン回廊(Via Latina)、左は時計塔で「カブラ(山羊)」と呼ばれている。ラテン回廊と呼ばれるのはここではラテン語しか話してはいけないからだと。先日のBS放送の上空からの写真も紹介します。時計塔。時間は10:45。1733年に建てられたこの時計塔は、コインブラ大学のシンボル的存在として親しまれているのだと。そして時計台は今でも現役で時を刻み続けているのだ。コインブラ大学の敷地をぐるりと望むラテン回廊(Via Latina)ジョアン3世(1502 - 1557)像。1537年、コインブラ大学を創設する。ジョアン3世は、前世紀にイタリアで生まれた新しい理念を導入することを試みた。彼はポルトガル人が留学するための奨学金を創設し、ポルトガルの人文主義者で当時パリにいた博識のアンドレ・デ・ゴウヴェイアをコインブラ大学のコレジオ・ダス・アルテス (Real Colégio das Artes e Humanidades / Colégio das Artes,1542-1837) の学寮長に任命した。ゴウヴェイアは、神学のエリ・ヴィネ、数学のペドロ・ヌネシュ、法学や古典学のディオゴ・デ・テイヴェなど、多くの教授たちを招聘したのだと。別の角度から。マヌエル様式の門・ファサード(Portal Manuelino)。サン・ミゲル・チャペルや聖ミカエル教会とも呼ばれる礼拝堂が内部にあると。旧大学の中心部にあるのが、10世紀に造られたこの広大な広場。1255年までポルトガル王国の首都であった古都コインブラ。レコンキスタを推進し、ポルトガル王国の独立を達成した初代国王アフォンソ・エンリケシュ(Afonso Henriques)が住んでいた王宮があったのがまさにこの場所。その後首都はリスボンに移され、この王宮があった場所はコインブラ大学の敷地となった。礼拝堂に対面する建物が下の写真。建物の入口門の上の彫像。ここでトイレタイムで建物の中へ。女性陣は土産物売り場の前に長蛇の列が。通路の壁にはアズレージョが。私もトイレを済ませしばし土産物屋を散策。大学のカフェ。一般観光客も利用することが可能なのではと。旧校舎内の回廊。ここにもアズレージョが。そして再び土産物売り場へ。店内。可愛らしい人形。この椅子で旅友が私の写真を撮ってくれた。黒いマントを着た人形。そして広場に出て再び時計塔を。中庭。左にラテン回廊、中央に鉄の門。中庭には多くの観光客が。時計塔に向かって一番左にあったのが、ジョアン5世治下の1724年に建てられたジョアニア図書館(Biblioteca Joanina)。正面から。このジョアニナ図書館は1724年、ジョアン5世によって、このコインブラ大学の敷地内に設立された。バロック調の外観はこの図書館の重厚な歴史を物語るべく、訪れる者だれもを圧倒するに充分な迫力を持っており、図書館というよりクラシックな大聖堂を連想させる造りが見るものを魅了して来たと。16世紀から18世紀の印刷本3万冊が保管されている。手書きの貴重本は別室で保護されていると。この建物の下にさらに2階あり、合わせて30万冊の蔵書が収められている。虫に本を食べられないように館内にコウモリが飼われていて、糞で汚れないよう夜間はテーブルにシートが敷かれる。この図書館は1910年まで使われており、自然光だけで使用されたので閲覧時間は10時から15時までだったようだ。図書館入口の上部の彫像。残念ながら時間切れで内部には入れなかったが入口の隙間からシャッターを。正面の壁にはジョアン5世の肖像画が飾られていた。BS放送で紹介された図書館内部の写真も紹介します。そして図書館の先からモンデゴ川(Rio Mondego)を。正面にペドロ・イネス橋(Pedro e Inês bridge)。丘の斜面に立つコインブラの街並み。再びコインブラ大学の中庭。そして旅友集団の後ろ姿を追いかけて行ったのであった。最後にもう一度、『無情の門』そしてその前のタイル模様を。 ・・・つづく・・・
2019.02.26
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添乗員に案内されて大聖堂を1周することに。オブラドイロ広場を挟んでパラドール デ ソス デル レイ カトリコ ホテル (Parador de Sos del Rey Catolico)の向かいの建物。コレシオ・デ・サン・シェローメ(現在はサンティアゴ大学の学長オフィス)であると。カテドラド前の「オブラドイロ広場」には白の観光用ミニトレインが。カテドラルの横ではバグパイプでガリシア地方の音楽を演奏していた。裏側の広場に面したカテドラルの北側の門。18世紀にネオクラシック様式で建てられたのだと。正面近くから。目を布で塞ぎ十字架を持つ女性像。インマクラーダ広場から見た修道院。巨大な修道院がたくさんあることに驚かされる。修道院はよほど裕福だったのだろう。サンティアゴ・デ・コンポステーラ大学(Escola Universitaria de Traballo Social - USC)の建物にもなっていると。屋上の騎馬像。裏口はこの時は内部が改修工事中のために閉鎖中のようであった。移動台車の乗った懐かしい写真機で白黒の写真を撮ってくれる店が。土産物売り場。オニキスのアクセサリーを売っている店は聖堂の裏手にあった。オニキス(黒水晶)は悪霊を祓う石として使われてきた魔除けの石であると。教会にぴったりの土産なのであったが。キンターナ広場(Praza da Quintana de Vivos)。カテドラル裏側にある広場は、静かな雰囲気が漂っていた。キンターナ広場のサンパイオ・デ・アンテアルターレス修道院。小さな窓は48個あり鉄格子に囲まれていた。真ん中の白い十字架は半島戦争(ナポレオンとの戦い)の戦死者を祀ったものであると。キンターナ広場に面した聖なる門(Puerta Santa)・・免罪の門。聖なる門はこの日は閉鎖中。門の上部。中央が聖ヤコブ、左右が弟子のテオドロとアタナシウス。下部には門の両脇に12世紀頃のロマネスク様式の24人の像が。聖なる門1。聖なる扉2。プラテリアス広場からのベレンゲラ(Berenguela)の時計塔。カバロスの泉(Fonte dos Cabalos)。馬の噴水で4頭の馬の口から水が出る仕掛け。そしてアーチを抜けてオブラドイロ広場に出る。そして聖堂内に。聖堂内の配置図。青色部分がロマネスク様式で、最も古い部分であると。【https://blog.goo.ne.jp/aqacompass/e/65747797c3972c74dd32f768fd756441】よりサンティアゴ・デ・コンポステーラの別の配置図 【http://nobuko.sakura.ne.jp/santyago/santyago1.html】より添乗員の外での説明に従い中央祭壇の横から、狭い階段を少し登り、ヤコブの背中に。聖ヤコブの像に後ろから抱きつく旅友。「聖ヤコブ像に抱きつけば、巡礼は終わる」とも。この後、私も旅の安全と・・・・をお願いして聖ヤコブのマントにキスを。そして階段を下り中央祭壇の反対側に行くと地下に安置された「聖ヤコブの棺」が。キリスト教信者たちはこぞってこの聖堂を訪れ、この聖ヤコブの棺に礼拝するのである。それにより自分自身の負うすべての罪が許されると、ヨーロッパ各地からぞくぞくと信者が”巡礼者”として訪れるのであると。中世においてサンティアゴ巡礼は苦行であったと。ヨーロッパ各地を出発した人々は、数ヶ月かけてピレネー山脈の麓にたどり着く。フランス側から峠を越えると、そこからイベリア半島内陸部を横断する約800キロの道のりが始まったのであったと。隙間からズームで。ややピンぼけ。ローマ教皇のパウロ2世の来サンティアゴの記念プレートが。主祭壇は17世紀後半に造られたチュリゲラ様式で、中央に聖ヤコブの像が祀られていた。左右にはヤコブの弟子の聖アタナシオと聖テオシドロがいると。残念ながら、正面祭壇右側には改修工事中のパイプ足場が。ズームで聖ヤコブ像を。ズームすると後ろから抱きついている人の右手が確認できた。聖ヤコブ像の手前?の上の天使?像が気になりました。(向かって左側)大聖堂に存在する著名な巨大振り香炉・ボタフメイロ(botafumeiro)の姿が写真左のものであろうか。この香炉は焚いた香を入れた後、聖堂内を振り子のように振る儀式に使われているのだと。向かって右側。そして大香炉・「ボタフメイロ」。大聖堂に存在する著名な巨大振り香炉。この香炉は焚いた香を入れた後、聖堂内を振り子のように振る儀式に使われている。「ボタフメイロ」👈リンク とはガリシア語で「煙を吐き出すもの」を意味していると。中央祭壇手前のパイプオルガン。別の角度から。身廊の真ん中から。大聖堂にあった懺悔室であると。中央祭壇の横から裏には、様々なの祭壇が取り囲んでいた。多くの祭壇に安置されている像の写真を撮りましたが、説明できる知識を持ち合わせていませんし、ネットで調べてもわかりませんでした。身廊上部の天井。工事中のため、身廊に置かれている礼拝用の椅子は全て撤去されていたのであっった。やはり礼拝用の椅子がないと違和感が。騎馬像。マリア像。ズームで。銀細工の門 。キリスト受難の様子が彫刻されているようです。再び銀細工の広場には4頭の馬の噴水が。銀細工師の店があったことからこのような名前になったのだと。再びベレンゲラ(Berenguela)の時計塔。世界遺産に関する記念のプレート。そして巡礼の終着地点を示すホタテガイが。ホタテガイを踏むと幸運がもたらされるようで多くの観光客が。よって私も。オブラドイロ広場中央にある、サンティアゴの道終点の標識。巡礼者であろうか?そしてバスの待つ場所まで徒歩で向かう。再びサンティアゴ・サン・フランシスコ修道院が正面に。そして往路とほぼ同じ道を230kmあるポルトへと向かう。時間は17時。途中、夕日に光る大西洋の海を楽しむ。葉のない広葉樹の間から夕日がバスに射し込む。そして19:30前に連泊のホテルに到着。この日はホテル内のレスイトランでの夕食。長い往復約500kmの移動を終え、部屋に戻り旅友のSさんと慌ただしく反省会を行いベッドに入ったのであった。 ・・・つづく・・・
2019.02.25
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バスを降りサンティアゴ・デ・コンポステーラの散策開始。サンティアゴ・サン・フランシスコ修道院(Convento de San Francisco de Santiago)が前方右に見えて来た。別名は「サン・フランシスコ・デ・バルデデオス修道院と教会」と。13世紀はじめにゴシック様式で建てられたが、18世紀にバロック様式で建替えられたと。ドーム付きの鐘塔が2塔。正面(ファサード)。柱はエンタシス。古代建築で、柱の中ほどに持たせた、わずかなふくらみ。ギリシア、ローマ、ルネッサンスの建築に行われ、わが国でも飛鳥(あすか)時代の建築に見られる。聖フランシスコの像(Monumento a San Francisco de Asís)。ガリシアの彫刻家フランシスコアソレイの作品。スペイン内の「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路」は数多くあると。しかしポルトガルからの道はただ1~2つであったと。 【http://tabing.hatenablog.com/entry/2014/05/23/004047】よりサン・フランシスコ通りを進む。オブラドイロ広場(Praza do Obradoiro)に出る。正面に市役所を含む官公庁の建物(旧ラジョイ宮殿)。現在では、こういう公共の建物を、巡礼者の人たちが泊まれる施設にもしていると。左手に後に訪ねるサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂。パラドール デ ソス デル レイ カトリコ ホテル (Parador de Sos del Rey Catolico)。パラドール(スペイン語: Parador)は、スペイン、プエルトリコなどスペイン語圏にある比較的高級なホテル・チェーンを指す。このパラドールうは5星と。1499年にアラゴンのフェルナンドとカスティーリャのイサベルのカトリック両王によって建造された、王立病院兼巡礼者の宿泊施設。ゴシック、ルネサンス、バロック美術に彩られた歴史的な建物であると。スペインでは古城などを改装したり、景勝地に新しく建てた半官半民の宿泊施設網。見事なホテルの入口の造景。馬車が置かれていた。前方にサンティアゴ・デ・コンポステーラのカトリック教会(Church of San Fructuoso)。ズームで。ホルタス通り(Rúa das Hortas)を下る。カトリック教会を振り返る。石畳の路。汚水用マンホールであろうか?巡礼道にはホタテ貝のマークが至る所に。ホタテ貝のマークには諸説あるようだが①エルサレムで殉教した聖ヤコブの遺体を弟子が船に乗せて海をさまよい、辿り着いたのが サンティアゴ・デ・コンポステーラ。その時に船の裏に沢山の帆立貝が着いていたという説。②ヤコブが布教の旅で帆立貝を首から下げていて、水を汲んで飲んでいたという説③サンティアゴ・デ・コンポステーラに巡礼した人が記念に現地名物の帆立貝を食べて持ち帰った。 無事に帰還した印なので縁起もののお守りとして身につける他にも諸説あるそうですが。スペインの郵便ポストは黄色。昼食レストランへ。野菜スープ。野菜は何?ガリシア料理とのこと。鮭のステーキ?とサラダ。デザートはアーモンド味。オレンジの屋根に白壁の家屋が続く。白壁が多いように見えますが、規制はなく、ピンクやイエローの濃い色に塗っているものもあるが、陽光が強いので、色が褪せてパステル調になり、だんだん白っぽくなるのだと。正面の路の隙間に大聖堂が。ポムバ通り(Rúa do Pomba)を歩くと、民家の壁にも歴史を感じさせる造景が。サンタ・スザンナ公園(Carballeira de Santa Susana)のある丘の細道を上っていくと先物の建物が同じレベルで。ポルトガル、スペイン全体に言えることですが、大体どの屋根も半筒状のレンガ色の瓦。これは国が色や素材を指定したり、規制しているわけではなく、ポルトガルで瓦と言えば土管のような筒状の素焼きのものしかなく、それを縦半分に切って屋根瓦として使用していると。修理する時もこれしかないので、自然と統一感が出るのだと。大聖堂の撮影ポイントであると。樫の並木道から見るカテドラルの美しさは、絵ハガキになるほど有名なのだと。目の前の低地を挟んで少し高台に位置する大聖堂の姿は素晴らしい全体像を見せてくれたのであった。大聖堂には4種の旗がはためいていた。スペイン国旗、EU旗、ガリシア フラグ、・・・・・?????。青空も姿を現してくれた。工事中のネットも覚悟していたのであったが。散策路の脇で大聖堂を見ていたこの人は誰?ネットで調べてみると1906年にゴルジと共にノーベル生理学・医学賞を受賞したスペイン人のサンティアゴ・ラモン・イ・カハル氏との書き込みも。公園の樹木を大切に屋根を設計した温室であると。アルメダ公園の広場の水場が右手に。日本から持ち込んだ椿であると。アラメダ公園のこのオバアチャン像は?これもネットで調べてみるとこの変な像?は、以前毎日ここに現れたオバアチャン姉妹だと。だれが造ったのであろうか・・。今では有名とのこと。「二人のマリア」と呼ばれ、スペイン内乱の時代に政治的見解が左翼寄りであると迫害されたこの姉妹は、派手な服装で毎日午後 2 時から公園を散歩していたと。公園をこうした人目を引く姿で散歩することは、当時のスペイン社会を抑圧していた保守的文化に対する静かな抵抗として今も語り継がれているのだと。 時々、衣装の色が変わっているようだと現地ガイドから。サン・クレメントの泉(Fuente San Clemente)。後ろの建物は高等学校(IES Rosalía de Castro)。フランコ通り(Rúa do Flanco)の商店街をオブラドイロ広場に向かって歩く。イベリコ豚のハム売り場。イベリコ豚の何年熟成物であろうか?買って食べてみたかったが・・・・。そして正面にサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂の尖塔が見えてきた。再びオブラドイド広場に。正面の市庁舎(ラジョイ宮殿・Rajoy Palace)、その他「旧ラクソン宮殿」、「ラクソイ宮殿」、「ラショイ館」、ガイドブックやサイトによって呼び方があるようだ。18世紀中頃にフランスのシャルル・レモーの設計によるもの。長さ90mの正面は、半円アーチのアーケードの上にあり、中央の円柱に支えられた柱廊の上には馬に跨った勇ましい像が。中央の屋根に聖ヤコブが馬に乗りモーロ人を征服している姿の像が。中世以来、ヨーロッパ随一の巡礼聖堂として知られるサンティアゴ‐デ‐コンポステラ大聖堂の西側正面に位置するオブラドイド広場。17世紀の王立救護院(現在はホテル)、16世紀初頭のサンヘロニモ修道院、18世紀のラジョイ宮殿(現在は市庁舎)など、四方を歴史的建造物に囲まれる。名称は大聖堂の建設中石切り場(オブラドレス)だったことに由来する。1985年、サンティアゴ旧市街が世界遺産(文化遺産)に登録されたと。大聖堂。ウィキペディアによると「9世紀頃、エルサレムで殉教した聖ヤコブの遺骸が埋葬されたという伝説が誕生した。1075年にアルフォンソ6世の治世の下、大司教ディエゴ・ペラエスの指示で、「尊敬すべき親方」大ベルナルドとロベルトが建築を開始した。1100年にディエゴ・ヘルミレスによって親方エステバンに委託された。また大司教ヘルミレスは12世紀初頭、ヤコブの聖遺物の一部をピストイアに送ることを了承した。1168年には彫刻家マテオに西側の封鎖と主身廊の聖歌隊席を含め、完成させるよう委託された。マテオは聖堂正面「栄光の門」やスペインバロック様式の主祭壇を作り上げた。1211年、大聖堂はアルフォンソ9世に奉献された。その後基礎的な構造は守られつつも建築は続き、その後数世紀のルネサンスからバロックが流行した時期に、回廊の増設や併合が行われた。その間に主祭壇やオルガン、オブラドイロ門などが増築された。新古典主義の時代にはアサバチェリア門が増築された」と。中央の尖塔。ズームで。正面左側の尖塔。塔の高さは高さ75~80mであり、左側がラチェト塔(鐘の塔を模して1738年に建設)。ズームで。聖ヤコブの父であるセベダイの像が飾られていると。正面右側の尖塔。右側が「鐘つき塔(12世紀起源、17世紀に補強して今の形に完成)。ズームで。聖ヤコブの母であるマリア・サロメ像が飾られていると。 ・・・つづく・・・
2019.02.24
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3日目のこの日も早朝起床し朝食へ。このホテルには野菜類が準備されてなかったのであった。そしてこの日は、ポルトから約230km離れたスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラに向けてひたすら高速道路を走るのであった。朝から風も強く、雨の中の北上であった。バスの前方に席が廻って来たが、フロントガラスにカメラがフォーカスされてしまい中々外の写真はうまく撮れなかったのであっった。雨も小降りになり、空も明るくなって来た。高速A3を走り、スペインとの国境手前にあるESPANHA(スペイン) Valenca を目指す。Valenca手前の料金所を通過。そして国境を通過しスペインに入る。右手に「ESPANIA」の表示板が。ミーミョ川を渡る。レレス川近くのPontevedraを目指す。前方の空は青空に。そして左手に大西洋が見えてきた。この大西洋のビーゴ(VIGO)湾は植物プランクトンが豊富で、そのことがこの海域に魚介類の豊かさをもたらしており、バテアと呼ばれる養殖いかだによるムール貝の養殖で世界的な産地となっていると。また漁獲高も豊富なことで知られると。湾には多くの養殖用に筏が浮かんでいた。ビーゴ湾に架かるロンデ橋が前方に。ロンデ橋を渡る。高速道路脇のレストランでトイレ休憩。この地方特有の高床式の穀物倉庫であった建物が残っていた。オレオ(Horreo)と呼ばれる、この地方独特の、高床式の穀物倉庫。夏のガリシアは、あまり雨が降らないのだが、この地方は、その他の季節はよく雨が降り、それゆえ、湿気も高く、高床式の穀物倉庫があちこちに、今もあると。立派な倉庫をもつことは、その家の名誉でもあり、だいたいは、目に付くところに置くようで、道路沿いを走っていても、あちこちで目に止まったのであった。レギュラーガソリンの値段は日本よりやや高く160円/L程度。前夜の強風で?表示パネルが飛んでいた。上空には飛行機雲が。ビーゴ湾はロンデ橋の奥5km程入り込んでいた。高速道路脇には真っ黄色のミモザの花が開花していた。満開のミモザも。しばらく走るとコンポステーラ(Compostela)の表示板が現れた。料金所。そして車窓にサンティアゴ デ コンポステーラ大聖堂の尖塔が左手奥に見えて来た。一般道に降り、サンティアゴ デ コンポステーラの「歓喜の丘」を目指す。そして「歓喜の丘 (Monte do Gozo)」に到着しバスを降り観光開始。時間は12:24。スペインのサンチャゴ巡礼路は800kmで、巡礼者たちは約1ヶ月ほど歩き、目的地を目指します。そして、聖地サンチャゴ・デ・コンポステラの5km手前の丘、モンテ・ド・ゴソ(歓喜の丘)に差し掛かるとカテドラルの尖塔が小さいけれどはっきりと見えるのです。丘に建つ巡礼者の像を見ていると、目指す聖地を見つけた時の喜びがひしひしと伝わって来たのであった。巡礼者の視線の先がサンチャゴ・デ・コンポステラ。巡礼者の場所からサンチャゴ・デ・コンポステラ大聖堂をズームで。カテドラルまであと5km。巡礼者は近くに宿をとり、体を清めてから聖ヤコブに礼拝するのだと。聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラへと至る中世の巡礼の道。旧市街の由緒ある建物が歴史を偲ばせるキリスト教の三大聖地のひとつで、9世紀にキリストの12使徒のひとり聖ヤコブ(スペイン語でサンティアゴ)の墓が発見され、多くの巡礼者がこの地を目指すようになったのだ。巡礼の旅の苦労が顔に滲み出ていた。そして大聖堂をこの目で確認できた喜びの姿も。涙ぐんでいるようにも。巡礼者の後ろ姿。マントには巡礼の証の帆立貝が。ローマ法王ヨハネ・パウロ2世の来訪を記念する記念碑が別の丘の上に。ここにも帆立貝が十字架の中央に。日本スペインの交流400週年記念碑。1613年、スペインに対する我が国最初の公式使節である慶長遣欧使節団(仙台藩主伊達政宗の命によりフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロを正使、支倉常長を副使として)スペイン国王フェリペ3世の下に派遣されてから400周年を記念して建てられたのだと。そして歓喜の丘からの帰路に再度振り返って。サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂を目指して我々は「バス」にて「歓喜の丘」を下ったのであった。 ・・・つづく・・・
2019.02.23
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世界遺産に登録された歴史的な街並みが郷愁を誘うポルトガル第2の都市、ポルト。ポルト観光で見逃せないスポットのひとつが、サン・ベント駅( Estação São Bento )。サン・ベント駅は、鉄道を利用しない観光客もわざわざ足を運ぶほどの人気スポットとなっているのだと。そのワケは、駅構内を彩るおよそ2万枚のアズレージョ。アズレージョ は、ポルトガル・スペインで生産される、典型的な上薬をかけて焼かれたタイル。製法は、陶器に類似しており、粘土板を正方形状に裁断し、1000度の高温で60時間焼く。その後、絵付けを施し、再度900度で30時間焼いて完成すると。途絶えることなしに5世紀もの間生産され続け、ポルトガル文化の典型的な要素となった。今回の旅行でも、アズレージョは教会、宮殿、一般の家の外や、鉄道駅でも見られたのだ。1900年、修道院の跡地に建てられたサン・ベント駅は、重厚感漂うクラシカルな外観が特徴。ポルトガル人建築家ジョゼ・マルケシュ・ダ・シルバによって、フランスのボザール様式の影響を受けて設計されたのであった。駅構内に足を踏み入れると、壁一面にアズレージョの世界が広がったのであった。サン・ベント駅構内のアズレージョは、ポルトガルを代表するアズレージョ画家、ジョルジュ・コラコによって1930年に制作されたもの。ジョアン1世のポルト入城やセウタ攻略など、ポルトガルにおける歴史的な出来事が描かれていたのであった。正面から入って右手の壁にあったアズレージョ。「ジョアン一世のポルト入場」。ズームでジョアン一世を。「セウタを征服したエンリケ航海王子」 セウタは北アフリカに位置する戦略的な港であり、サハラからの貿易ルートの終点。1415年にエンリケ航海王子がセウタを奪取し、セウタはポルトガル王国領となった。この攻撃の目的は、この地域一帯からイスラム勢力を駆逐し、キリスト教を振興することにあった。ポルトガル領だった名残は、セウタの紋章がポルトガル王国の国章に酷似している点に表れている。「セウタを征服したエンリケ航海王子」 の上、最上部左側には「開通した汽車の通過を待機している農夫達」の姿が。ズームすると、天井に近い部分には色彩豊かなアズレージョが。正面最右側のホーム入口部。中央ホーム入口部右側上部の牛飼いと農家の風景。入口左側は物売りの女性たちであろうか。右側は仔牛を連れている女性。中央入口右側。下部は中世の庶民の生活の情景も描かれていた。中央時計、時間は17:40。中央の左側入口部。果実を収穫し、壺に入れ肩に担いでいる女性の姿のようであるが。船に乗る女性たち。正面に向かって左側の壁。「アルコス・デ・バルデベスの戦い」。この戦いは、アフォンソ・エンリケとアルフォンソ7世の軍隊の戦い。このアズレージョに描かれているように、戦いは馬に乗って騎士によって行われた。アフォンソ・エンリケが勝利者となり、後にザモーレ条約(1143)となり、ポルトガルの独立とアフォンソ・エンリケがポルトガルのアフォンソ1世王となることが認められたのだと。「レオン王に謁見する家族」。ズームで。ホーム入口最左側。近づいて。正面最左側のホーム入口部上部は祭典のパレードであろうか?水汲みの光景であろうか?急ぎ足?それとも躓いている?オバアチャン。サン・ベント駅の3番線ホーム。サン・ベント駅からは、ポルト近郊に行く電車が発着するとのこと。ブラガやアヴェイロなど、ガイドブックで名前を知っている町へ向かう電車も止まっていた。右側が4,5番線ホーム。ホームには黄色い電車が何本も止まっていた。ホームの直ぐ先にはトンネルの入口が。天井部は馬に乗る戦士の姿。馬の躍動感も見事。添乗員の説明を聞く旅友。このサン・ベント駅は北部のミーニョ(MINHO)地方の玄関口であり、そして反対側のドウロ(DOVRO)地方への玄関口にもなっているので白い天井に地方の方向を示すMINHOとDOVROの文字が黒字で書かれているのだと。時間は17:45。駅構内は広すぎてカメラに入りきりませんでした。そしてサン・ベント駅を出て再び斜め右前にあるサン・アントニオ・コングレガドス教会(Igreja de Santo António dos Congregados)のアズレージョをカメラのレンズ越しに。この教会も訪ねたかったが、残念がら今回の観光コースには入っていなかった。サン・ベント駅前の6差路。横断歩道を渡りサン・ベント駅とサン・アントニオ・コングレガドス教会を振り返る。モウジーニョ・ダ・シルヴェイラ通りを夕食のレストランンに向かって歩く。モウジーニョ・ダ・シルヴェイラ噴水(Fonte Mouzinho da Silveira)は 巨大な花崗岩の噴水。赤い建物・Mercado Ferreira Borgosには相変わらず長蛇の列が。再びポルト宮前を歩く。時計は18:00を示していた。ドェロ川沿いの建物には明かりが灯り始めていた。そしてこの夜のレストラン会場に到着。「POSTIGO DO CARVAO」.。店の前からドン・ルイス1世橋も垣間見えた。サラダ。バカリャウ(Bacalhau)。デザート。そして再びライトアップしたドン・ルイス1世橋の光景を楽しむ。街の灯りがドェロ川の川面に映り込んで。ノッサ・セニョーラ・ド・ピラール修道院もライトアップされて。時間は19:13。そしてバスに乗り込みこの日のホテルに向かう。この日に訪れたサン・フランシスコ教会(Igreja de São Francisco)もライトアップされていた。対岸には、この日に訪ねたサンデマンワイナリー工場も見えた。そしてこの日のホテル:Axis Portoに到着。時間は20時前。我々の部屋は405号室。早速ベッドを離す操作を行ったのであった。トイレ、シャワー室。テレビ。 ・・・つづく・・・
2019.02.22
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再び左手にエンリケ航海王子の像を見る。足元に地球儀を置き若きエンリケ航海王子がとある方向を示している。王子が指差している先は南のアフリカ方面。ポルトガルが制覇したいと望む地中海の制海権はすでにイスラムやイタリアなどの手中にあり、カスティリャ王国やアラゴン王国(後のスペイン王国)も進出を計っていた当時、ポルトガルはそこに入り込む余地がなかったのだ。当時、天動説をとっていたキリスト教世界だが、それでもポルトガル人は地球が球体であることを知っており、アフリカ沿岸を下っていけば、アジアに到達できるであろうと言う漠然とした考えを持っていたのであったと。再びポルサ宮とエンリケ航海王子公園に立つエンリケ航海王子像。「ポルサ」とは、ポルトガル語で証券取引のことであると。火災で消失したサン・フランシスコ修道院の跡地にポルト商業組合の建物として1834年に造られ、ごく最近まで証券取引所として使われていたのだと。正面右手にサン・ベント駅の横にあるサン・アントニオ・コングレガドス教会(Igreja de Santo António dos Congregados)が見えた。ここも壁にはアズレージョが。そして更に歩を進めドン・ルイス1世橋方面に坂道を下る。現在上層は歩行者とメトロ用に、下層は自動車と歩行者用になっている。メトロは橋を挟んでポルトで最も大きい病院の一つ、サン・ジョアン病院(Hospital de São João)とヴィラ・ノヴァ・デ・ガイアの役所を結んでいる。同区間のメトロは2005年9月に開業したが、それ以前は上段も道路橋となっていた。橋梁の上段を転用した事によって上段の道路交通が阻害されることとなったため、メトロの建設に先立ってドウロ川上流側に別に道路橋を建設し、上段を通っていた道路交通を迂回移転させる方策を採っているとのこと。ドェロ川が見えて来た。歩道を歩くが、両側の歩道には多くの観光客が。前後にメトロの姿が見えないことを確認し、慌ててシャッターを。ドェロ川の下流側。こちらは上流側。インファンテ橋が見えた。橋上をゆっくりと歩き絶景を楽しむ。ノッサ・セニョーラ・ド・ピラール修道院を振り返る。橋の中央からインファンテ橋を見る。メトロが横を通過。遠くにサン・ジョアン橋(Ponte de São João)。ドン・ルイス1世橋を徒歩で渡りきり、添乗員が勧める撮影ポイントから。上流側とポルトの街並み。再び徒歩で橋を渡りバスの待つ場所へと向かう。ポルト大聖堂を見る。右手の対岸にはケーブルカーが見えた。ケーブルカーはドンルイス1世橋(下層部)の北詰付近から北東側の高台を結んでいる。車両自体は新しくシンプルなデザインで綺麗であった。高低差60m程度の急坂を通っていくが、ドウロ川周辺の景色が良く見えるのだと。蛇腹の如き台車の上に乗車車両が。メトロは、ドン・ルイス1世橋を渡り切ると地下トンネルに入って行く。クレリゴス教会の尖塔。クレリゴス教会 は、ポルトガル・ポルトにあるバロック様式の教会。鐘塔は『クレリゴスの塔』と呼ばれ、ポルト市内各所から眺められる、市の象徴となっている 教会は、18世紀にポルトガル北部で優れた作品を残したイタリア人芸術家ニッコロ・ナッソーニが、クレリゴスの修道士らの依頼で建てたものである。ポルト大聖堂(Sé do Porto)が左手に。市内で最も古い建造物であり、ポルトガル国内で最も重要なロマネスク様式建築の一つである。現在のポルト大聖堂はフーゴ司教の後援のもとで1110年頃に建立が開始されて13世紀に完成したが、司教座自体はスエビ王国支配下の5世紀から6世紀には既にポルト市にあったと記録されている。大聖堂は平面が四角形の双塔を備えている。いずれも控え壁で支えられ、ドームを頂いている。ファサードには装飾が施されておらず、しかも異種建築様式の混合となっている。バロック様式の張り出し玄関と、銃眼模様のアーチの下に美しいロマネスク様式のバラ窓があり、要塞化された教会だという印象を与えると。 ・・・つづく・・・
2019.02.21
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ドン・ルイス1世橋をバスで渡り、橋の袂で下車する。ドェロ川越しに丘の中央のミセリコーディア教会の塔、その右に聖ローレンス教会の2本の塔が見えた。ドェロ川の下流側を見る。ここから5km程で大西洋に流れ着くのだ。ドン・ルイス1世橋を再び見上げる。下の橋は上のアーチ部分から懸架されている構造であることが解った。一番高い場所に立つのがポルト大聖堂。ドェロ川沿いを上流に向かって徒歩で進む。上空には観光用ロープウェイが頻繁に。ディオゴ・レイテ通りの両側には土産物屋やオープンテラスレストランが並んでいた。かつては、ラベーロ(RABELO)というこの帆船でここからポルト・ワインは運ばれていたのだと。 今は鉄道やトラックの時代なので、ラベーロは観光用の飾りであると。ポルトの街とドェロ川を見下ろすカトリック教会。再びラベーロという帆船と右手にクレリゴス教会 (Igreja dos Clérigos)。ラベーロとドン・ルイス1世橋。ここはローマ時代に「カレ」と呼ばれていた南岸の港『ヴィラ・ノーヴァ・デ・ガイア地区』。ラベーロが浮かんだ河岸には、30を超すワイン工場が並んでいると。英語の名前が多いのは、17世紀にスペインに対抗する手段として関税特権を与えられたイギリスの企業が進出した為、以後ここポルトでのワイン醸造が盛んになったのだと。そしてサンデマン(SANDEMAN)ワイン工場を訪ねる。1790年にジョージ・サンデマンによって設立された、ポートワインとシェリーの老舗メーカー。工場は1811年からの歴史であると。入口脇に年号の書かれた黒いプレートが貼ってあり、過去にあった洪水の水位を表したものであろう。なんといちばん上は、3m近くはあろうかという入口の天井際に印があった。工場入口で見学の順番を待つ。サンデマン社のロゴは黒帽子に黒マントを羽織った男の姿。多くの種類のサンデマン社のポルトワイン(SANDEMAN PORTO WINE)が陳列棚に。昔のワイン抜きやボトルラベルが展示されていた。中に入るとサンデマン社のロゴと同じ黒帽子・ソンブレロに黒マントを羽織った優しい面差しのおねえさんが現れ、工場内の案内をしてくれた。ここにもサンデマン社のロゴマークが。工場内に案内されると多くの樽が迎えてくれた。「ポルトは働き、リスボンは楽しみ、コインブラは歌い、ブラガは祈る」という言葉があり、その言葉どおりポルトはポルトガルの商工業の中心地でもあった。中でも、ワインの生産と輸出が街の繁栄を支えてきた。ドウロ側上流の丘陵地帯に広がるブドウ畑から世界的に有名なポート(ポルト)ワインが生まれたのだと。今でも世界第8位の年間約100万キロリットルを生産し、農業人口の25%がワインに携わっていると。ポルトワインは発酵の途中でブランデーを加え発酵を停止させて糖分の分解を抑えるというアルコール強化ワインで、アルコール分は20%ある。当時ワインは輸出に弱く、大西洋の厳しい航海に耐えるようにブランデーを入れたのが始まりで、独特の甘味にブランデーとワインの熟成過程で生まれる芳醇な薫りやコクと深みのある味が人気だ。種類は赤ブドウから造り大きな樽で熟成後さまざまな年数のワインをブレンドするルビー(テイント)ポート、白ブドウから造りルビーポートのようにブレンドしてから3~4年熟成させるホワイト(ブランコ)ポート、琥珀色になるまで最低でも7年樽熟成させるトーニー(アロウラド)の3種類。ルビーポートは普段遣いとして、ホワイトポートは食前に飲まれることが多い。もう1つ、別格扱いであるヴィンテージポートと呼ばれるポートワインがあるが、これは良質のブドウがとれた収穫年の最高ワインから選び抜かれ、それを樽熟成2年後に試飲したうえでヴィンテージか否かが決定される。さらにその後、瓶詰めされて10~50年熟成させる究極のポートワインなのだと。多くの樽がこれでもかと積まれていた。液面計の付いた樽も。樽に付いたサニタリー仕様のバルブ。『ポートワインができるまで』を紹介した感じのビデオ上映を見た。ポートワインのブドウは、山の斜面のブドウ畑から籠を背負ってすべて手摘みで収穫される。畑が傾斜しているため機械が使用できないそうだ。けっこうな重労働に違いない。上映が終わると、いよいよ試飲である。入口を入ってすぐ左側にあった直売兼試飲場所に戻り、長テーブル席につく。ルビー、ヴィンテージをそれぞれ小さなワイングラスに少量ずつ飲ませてくれた。そしてサンデマン工場見学、試飲を終え店を出てバスの待つ場所へと戻る。頭上にはロープウェイが。絵になる光景、青空であれば更に映えるのではあったが。上流の遠くにアハビダ橋の姿も確認できた。右手高台にあるのが、ノッサ・セニョーラ・ド・ピラール修道院。晴れていればドン・ルイス橋と旧市街の絶景が楽しめる場所であると。ドン・ルイス1世橋の上層橋を渡る観光客の姿が。ノッサ・セニョーラ・ド・ピラール修道院の下にケーブルカーの駅があるようだ。対岸のセント ローレンス教会の尖塔をズームで。ミセリコーディア教会。橋の袂まで戻りバスに乗り込む。バスにて再びドン・ルイス1世橋を渡る。写真左手には石の塔が門のごとく2塔が。ボルサ宮の前にはインファンテ・ドン・エンヒーケ庭園⇒「エンリケ航海王子公園」が。ボルサ宮は19世紀に建造されたネオ・クラシック様式の建物。現在はポルト商工会のオフィスになっていると。「エンリケ航海王子公園」のすぐ北側にある赤い建物・Mercado Ferreira Borgosは、現在はイベント会場などに利用されているようで、この日は長い行列が。 フェルナンド通りの坂道。そしてバスを降りフェレイラ・ボルジェス通りの坂道をドェロ川に向かって下る。左手にはインファンテ・ドン・エンヒーケ庭園があり、中央に大航海時代の英雄、エンリケ航海王子の像があった。近くにはエンリケ航海王子の家もあるとのこと。エンリケ航海王子の像。指差す先は喜望峰であろうか?坂を下った正面にあったのがパロキアル・デ・サン・ニコラウ教会。右に曲がると右手にあったのがサン・フランシスコ教会。サン・フランシスコ教会(Igreja de São Francisco)を見学。中は撮影できませんでしたが豪華な聖堂。写真はファサード。壺?を抱える女性像。子羊を抱く女性像。世界遺産のマークが。サン・フランシスコ教会は、ポルトガル・ポルトにある重要なゴシック様式の教会。バロック様式の内部装飾で知られている。教会は市内の歴史地区にあり、ユネスコの世界遺産に登録されている。サン・フランシスコ教会は、1383年にゴシック様式で建てられ、その後、17~18世紀にバロック様式に増改築された。外観は、質素な造りになっていたが、内部に入ると装いは一変。ファサード正面。質素な外観に比べ、内装は当時植民地だったブラジルから運んできた200kgもの金で彫刻を覆い尽くしていて贅沢。これはターリャ・ドゥラーダと呼ばれる、バロック様式の金泥細工による内部装飾。長い身廊は、ゴシック建築末期の傑作といわれているのだと。 【https://www.travelbook.co.jp/topic/913】よりこちらはBS放送からの写真です。慶長元年に長崎で殉教した長崎26聖人の祭壇。キリストの家系図 「ジェッセの家系樹」この多彩色の木工細工は、フィリペ・ダ・シルヴァとアントニオ・ゴメスの手で彫られた。ユダヤ王国の12人の王たちとイエスの家系図は、イサイ(ダビデ王の父親)の横臥像とつながる。木のてっぺんには聖ヨセフがおり、下に聖母子の彫刻がある。壁のくぼみには聖アンナと聖ジョアキン(聖母マリアの両親)、『無原罰の御宿り』について記した4人のフランチェスコ会士の像が収められている。 【https://4travel.jp/travelogue/10951139】より樹の枝、一段目右には巨人ダビデ王、左にはその息子ソロモン王、トップに立つのはヤコブの子、聖ジュゼ(ヨセフ)、その両脇には聖母マリアの父ジョアキン(ヨアキン)その左は聖母マリアの母、サンタ・アナ。頂上には聖母マリアと幼いキリストがいます。正面から下部を。サン・フランシスコ教会の見学を終え、坂道を下る。ドェロ川沿いのインファンテ・ドン・エンヒーゲ通りを走る2階建て観光バス。パロキアル・デ・サン・ニコラウ教会の手前のビルのこの壁絵は何を表現していたのであろうか?レストランのようであったが。そしてポルサ宮殿下のT字路まで戻る。 ・・・つづく・・・
2019.02.20
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ショップ?に向かう階段も豪華な造り。誰の像であったのだろうか?アフォン5世??「アフォン5世の回廊」を東側に降り、一旦外に出て「未完の礼拝堂 」に向かう。教会の主祭壇の外側に作られた未完の礼拝堂へ向かう。あの煙突のようなものは、屋根がない柱だったのであった。1437年にジョアン1世の息子ドゥアルテ1世により建築が始まったが1521年にジョアン3世がジェロニモス修道院(リスボン)の建築に力を入れたため、バターリャ修道院の建築をやめてしまい、ついに未完に終わった礼拝堂。外から見た「未完の礼拝堂 」はややうす汚く、どんな立派な建て物であっても、500年も経った未完成の建て物の様はこんなもので当然であろうか。周囲に大きな建物がないだけに、近づくとその大きさ、古さ、歴史が感じられるのであった。「未完の礼拝堂(Capelas Imperfeitas)」入口部。入口上部の練ロープの如き造形美。内部から。八角形の建て物の中庭の入り口からは、確かに天井は無いものの、予め天井が無い建物だと云われたとしても決して矛盾を感じないのではなかろうか。「未完」のまま現在も存続しているのがなんとも深みがあるのであった。歴史の風雪に耐えてきた、歴史の証人として存在しているというのが魅力的だった。柱の頂部も見事な彫刻美。この「未完の礼拝堂」には、ドゥアルテ1世と妻レオノールの二人が眠っていた。 写真のようにこの二人も手を重ねていた。ドゥアルテ1世というのは、ジョアン1世と王妃フィリッパの間に生まれた息子である。弟がエンリケ航海王子なのであると。天井からは白き雨雲が。天井がポッカリと開いたままの「未完の礼拝堂」。ジョアン1世の息子、ドゥアルテ1世と彼の子孫が埋葬されるための王室の第2の霊廟として造られる筈であったが、ドゥアルテ1世とその妻であるレオノール・デ・アラゴンの2人のみが埋葬されているのであった。石棺はこちらにも・・・・・。未完の礼拝堂の見事な彫刻。未完の礼拝堂の見事な彫刻。未完の礼拝堂の見事な彫刻。未完の礼拝堂の見事な彫刻。未完の礼拝堂の見事な彫刻。未完の礼拝堂の見事な彫刻。未完の礼拝堂の見事なそして精細な彫刻。出口。入口=出口。そして再び屋外へ。右手に教会への南側入口(ポータル)が。こちらの入口上部の彫刻。広場のたわわに実ったオレンジの木。昼食のレストランへ。まずはビールを。スーパーボック(SUPER BOCK)は、ポルトガルでシェアNo1のポルトガルビール。野菜サラダ。鶏肉?のトマト煮とライス。デザートはプディン・フラン(Pudim Fran)。そして最後にもう一度バターリャ修道院を。そして再び高速道路を北上しポルトを目指す。ポルトガルの高速道路はかなり良く整備さていると感じたのであった。そして路面の整備もしっかり行われている模様。我々のバスはメルセデス・ベンツ製。高速道路の料金所はETCで通過可能。ドェロ川(Rio Douro)に架かるFreixo Bridgeを渡る。渡って来たFreixo Bridgeの下を潜りドェロ川沿いを走る。ドン・ルイス1世橋が見えて来た。遊覧船がドェロ川を走る。そして正面にドン・ルイス1世橋の全景が姿を現す。リベイラと反対方向のAvenida de Gustavo Eiffle(エッフェル通り)から見た橋の姿。下の写真はBS放送のドン・ルイス1世橋の上空からの写真です。その先にはドェロ川に沿ってポルトの美しい景観を、高い位置から観光出来るスキー場にあるゴンドラリフトの如き乗り物が稼働していた.ガイア側にあるセラ・ド・ピラール修道院はその一部が一般に公開されており、そこから橋、ドウロ川、旧市街の全景を一望できるとのこと。エッフェル(エッフェル塔の建築家)の弟子テオフィロ・セイリングの建築デザインで建てられたルイス一世橋は、1881年11月に建設が始まり1886年10月に開通したと。見上げると、上層をトラムが走り抜けていた。上層橋は長さ385m、幅8m、地上45m。下層の長さは174mとのこと。二重橋になったのは、ポルトとガイア市との両岸の高低差のゆえだと言われていると。かつては、上下ともに人と車の通行路であったが、現在は下段を人と車が、上段はメトロが通り両脇に歩行者用の1.25mの歩道があった。橋の入口には「PONTE LUIZ 1」と書かれた銘板が。左折して橋を渡って向こう岸ガイアへ向かう。ルイス一世橋の前身は「ペンシル橋=Ponte Pensil」というつり橋であったと。 美しいトラス構造はパリのエッフェル塔と同じ構造でリベットにより組み立てられている。この三角トラス構造のリベット結合は鉄の使用量が少なくても強度を出せる割安な構造として当時使われていたと。下層の橋の途中からインファンテ橋を見る。 ・・・つづく・・・
2019.02.19
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左上からアフォンソ王子、ジョアン1世の剣、ジョアン2世の兜、剣そして中央にはジョアン2世の盾(たて) 。説明板。再び教会正面。更に近寄って。内陣奥のステンドグラスには聖母マリアとキリストの生涯が描かれていた。それぞれをズームで。中央にキリスト像。崇高で神秘的な磔刑像。十字架には「I.N.R.I.」の銘板が架けられていた。「I.N.R.I .」はラテン語の「IESUS NAZARENUS REX IUDAEORUM」の頭字語で、日本語では「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と訳され、「イエスが自らを神の子でありユダヤ人の王であると称し、神を冒涜した」という罪状を意味しているのだと。古代の磔刑では、処刑場に引かれていく罪人の首には罪状を書いた銘板がぶら下げられ、その銘板は磔刑時に十字架上に架けられたのだと。聖フランシスコ(S.Francisco)聖人像。聖ドミンゴス(S.Domingos)聖人像。???像。骸骨を持っているので「マグダラのマリア」だろうか?こちらは?ジョアン1世の回廊に出る。ジョアン1世の回廊は、初代建築家によってつくられたゴシック様式の回廊に、その100年後マヌエル様式の装飾が付加されたものであると。まるでレースのような狭間飾りには、天球儀やエンリケ航海王子の十字の紋章が刻まれ、ポルトガルを代表する様式の誕生につながっていくのであるが、それはジョアン1世の曾孫の代まで時代が下るのだと。ジョアン1世の回廊中庭。反対側には前衛芸術品?も。中庭と回廊。ジョアン1世の回廊は、当初は簡素な回廊だったが、後にマヌエル様式の装飾を施したと。回廊のコーナー部。美しい柱の模様。右側は胡椒の模様であると。左はパイナップル?美しい空間。尖塔を中庭から。回廊の狭間飾り天球儀をズームで。回廊の狭間飾り。中央にエンリケ航海王子の十字の紋章が刻まれていた。美しいステンドガラスが参事会室のここにも。ズームで。教会の北側にあるジョアン1世の回廊の東側に続いている参事会室は、現在、第1次世界大戦とアフリカの植民地争いで命を落とした無名戦士の墓が置かれていて、衛兵によって守られていた。1時間ごとに衛兵の交代が行われ、タイミングよく見ることが出来たのであった。柱のない空間。建設された当時、天井が落ちるのではないかと騒がれたのだと。キリスト像。目が動いて。オレ、チョット疲れたので早く交代衛兵が来ないかと?交代の衛兵3人が回廊から現れた。そして参事会室中央に向かう。両側の2名が交代。そして交代完了。交代した衛兵を横から。ロープが編み込まれた模様も。祈る少女。フレスコ画?も。食堂の入り口の手洗い場を下から。近づいて。そしてアフォンソ5世の回廊。天井のリブヴォールト交差部分に取り付けられている紋章はドゥアルテ1世とアフォンソ5世のものであると。15世紀に造られたゴシック様式のアフォンソ5世の回廊とその中庭。回廊は簡素なデザインのアーチが並んでいた。 ・・・つづく・・・
2019.02.18
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2日目の朝も元気に早朝起床し7時からの朝食へ。ホテルフロント。朝食後は、ホテルの前を散策。リスボンのVIP イン ベルナ ホテル(VIP Inn Berna Hotel)入口。リスボン空港から4~5kmにあるホテル。開業年 :1983年、建物階数 :10階、総部屋数 :240部屋。2019/1/1より、ホテルの宿泊料金とは別に、1泊1名あたりEUR2.00の市税が必要となっていた。ホテルの前のアントニオ・セルバ通り。近くの交差点の角には青いドームの闘牛場が。そして8:30にバスにてホテルを出発し約123kmの場所にあるバターリャ観光に出発。リスボン市内から高速道路を利用して北上。高速道路の料金所。石油・ガス貯留施設。高速道路の脇にはブドウ畑も拡がっていた。起伏の多い高速道路が続く。風力発電の姿も車窓の両側に。そして10時前にバターリャ修道院の姿が車窓から見えて来た。バスを降りると現地添乗員が待ってくれていた。ポルトガルの世界遺産観光にはワーキングシェア制度があり、必ず現地添乗員が説明してくれるのであった。バターリャの歴史は、ジョアン1世が1385年8月14日にアルジュバロータの戦いでカスティーリャ王国軍を破ったことを祝して建設したバターリャ修道院とともに始まった。バターリャとは、ポルトガル語で「戦い」を意味すると。このバターリャ修道院は、ポルトガルの独立を象徴する建築物であり、1983年、ユネスコの世界遺産に登録ているのだ。バターリャ修道院は、ドミニコ修道会の修道院であり、ポルトガル・レイリア地方の都市であるバターリャにある。ポルトガルにおける後期ゴシック建築の傑作であり、マヌエル様式も用いられている。バターリャ修道院の、切妻屋根、尖塔と小尖塔、控え壁が迎えてくれた。正式名は聖母マリア修道院。(ポルトガル語表記でMosteirode Santa Mariada Vitória)で知られるバターリャ修道院は、1385年8月14日、バターリャ近郊で行われたアルジュバロータの戦いで、カスティーリャ王国軍をジョアン1世が打ち破ったことを聖母マリアに感謝するために建設が開始され、完成したのは16世紀で、その間7人もの王が在位したと現地添乗員から再び。アルジュバロータの戦いは、1383年からカスティーリャ王国とポルトガルとの間で展開された戦争において、ポルトガルの勝利を決定付けた戦いとして知られているのだと。ドン・ジョアン1世広場には勝利の聖母マリア修道院の前に立つ、アルジュバロッタの戦いを率いた英雄ヌーノ・アルヴァレス・ペレイラの騎馬像が。若いジョアン1世の下、全軍を指揮した司令官であると。王も若かったが、司令官も、当時、若干25歳であったのだ。その若さで、戦史に残る戦いをやってのけたのだから、ポルトガルの正に英雄である。晩年には、妻に先立たれた後、財産をリスボンのカルモ教会に寄贈し、自らも僧籍に入ったと。もともと敬虔なキリスト教徒であったのであろう。世代を越えたポルトガル・ゴシックとマヌエル様式が混在し、独特の調和を生み出す建築物。ゴシック様式の尖塔。外壁の石灰岩が時の経過と共に黄土色に変色し、更に雨風に晒される事で黒ずみ、外観からだけでも歴史の重みが感じられ、威容な雰囲気のあるこの修道院。2世紀にかけて、15人の建築家が携わり、国内では未知であった様々な建築技術、芸術様式が導入さた事が理解できたのであった。正面の窓は幾何学模様のゴシックウィンドウ。先日のBS放送のドローンによる上空からの写真2枚です。勝利の聖母マリア修道院、中央扉口。西側の広場に面している勝利の聖母マリア修道院の中央扉口上部はアーチ・ヴォールトと言う形を成していて「キリストの戴冠」と旧約聖書に登場する王、天使、預言者、聖者ら78体の聖像が天蓋の下に刻まれていた。勝利の聖母マリア修道院、中央扉口左側。使徒と鎖で縛られた悪魔の彫像。勝利の聖母マリア修道院、中央扉口右側の使徒。修道院入り口のアーチ・ヴォールトの上部。各像をズームで。各像をズームで。各像をズームで。各像をズームで。各像をズームで。再び人のいない瞬間にシャッターを。最上部をズームで。12使徒もズームで。12使徒もズームで。12使徒もズームで。12使徒もズームで。78体の聖像も再びズームで。修道院礼拝堂の内部に入る。修道院は入り口、身廊、創設者の礼拝堂、元参事官室、王の回廊、洗盤、未完の礼拝堂などで構成されていた。入口を入るといきなり、目の前に教会の美しい光景が広がった。奥行き約80m、天井高さは」約32mもあり、ポルトガル最大の大きさを誇ってはいるものの、均整を保つ為に横幅は約22mと狭い設計。また、彫像や装飾物が少ない為、とてもシンプルな造りに見えたが、正面には、キリストや聖母マリアの涯を描いたステンドグラスがあり、簡素な雰囲気に彩りを添えていたのであった。光は10枚あるステンドグラスからだけなのでかなり薄暗かったが。このステンドグラスは、15世紀半ばにドイツ人の芸術家が持ち込んだ最古のもので、ポルトガルで最初にステンドグラスを備えた教会建築との事。入ってすぐの所にマテウス・フェルナンデスの墓が。彼はこの修道院の建築指揮をとっていた人物だと。入口方向を振り返って。入口上部のステンドグラスの窓。左右の壁にもステンドグラスが。幾何学模様。なんといってもこの支柱が大きくその先に天井が。ここはジョアン1世が最初に作らせたパンテオンであることから、創設者の礼拝堂(Capela do Fundador)という名がついていると。ステンドグラスの上部。入って右手には創始者の礼拝堂があり、ジョアン1世とその妻が眠っていた。創設者の礼拝堂への入口右側には隣接する他の2つの墓が。Martim Gonçalves de Macedo、Diogo Gonçalves de Travassosの墓と。創設者の礼拝堂の中には、15世紀に造られたジョアン1世の家族の」墓が。中央にはジョアン1世と王妃フィリッパ・デ・ランカスターの棺が置かれていた。ジョアン1世。ジョアン1世と王妃フィリッパ・デ・ランカスターの棺を正面から。この部屋は、1426年から1434年にかけて指揮を取った、フュゲットが建設したポルトガルで最初のパンテオン(偉人たちを祀る建造物)。教会内とは違い、華やかなクロケットと呼ばれるゴシック建築特有の装飾が施されていた。説明板。棺の下部。何か由緒あるライオンであると添乗員から・・・忘れました。ズームで。壁には写真が。ジョアン1世像の写真。ジョアン1世と王妃フィリッパ・デ・ランカスターは仲良く手を繋いで。八角形の空間になっていて、天井は星形のリブ・ヴォールトになっていた。その中心にジョアン1世と王妃のフィリパ・デ・ランカスターの棺が。リブ・ヴォールト天井部分は1755年のリスボン大地震で崩壊しその後再建されたものだと。周りには息子のペドロ王子、エンリケ航海王子などの棺も置かれていた。墓の説明板。エンリケ航海王子の棺。両手を併せて。頭のところの被り物が異なっていた。和辻哲郎の「鎖国」という本を学生時代に読んだ記憶が。その中でエンリケを取り上げ、日本が太平洋戦争に負けたのはエンリケ航海王子のような精神がなかったからだと主張していた・・・??。フェルナンド聖王子(Fernando, o Infante Santo, 1402年9月29日 - 1443年6月5日)の墓。ポルトガル王国アヴィス王朝の人物。国王ジョアン1世と王妃フィリパの間の第6王子である。ドゥアルテ1世、エンリケ航海王子の実弟。カトリック教会の福者。 そしてここにも美しいステンドガラスが。ステンドグラスには王家の紋章も。ズームで。 ・・・つづく・・・
2019.02.17
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【海外旅行 ブログリスト】👈リンク2月8日(金)から2月15日(金)までいつもの旅友のSさんとポルトガルそして北スペインの聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラに旅行に行って来ました。参加ツアーは阪急交通社(TRAPICS)の【ブリティッシュエアウェイズ航空利用<北スペインの聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラ観光付!決定版ポルトガル8日間】朝7時に何時もの様に、茅ヶ崎から我が家に迎えに来ていただき、Sさんの愛車で成田空港に向かう。国道1号線を横浜新道に向かって走る。横浜新道戸塚料金所を通過。時間は7:18。そして首都高速神奈川3号狩場線を進むと左手前方に横浜ベイブリッジが姿を現す。首都高速湾岸線に架かる横浜ベイブリッジは、1989年(平成元年)9月27日に開通した神奈川県横浜市にある長さ860m(中央支間長460m)の斜張橋(吊り橋)。本牧埠頭A突堤(中区)と大黒埠頭(鶴見区)とを結んでおり、上層部は首都高速湾岸線で、下層部は国道357号となっている。そして次には鶴見つばさ橋を通過。鶴見つばさ橋は、神奈川県横浜市鶴見区にある橋。首都高速湾岸線の扇島と大黒埠頭とを結んでいる。横浜ベイブリッジと並び、横浜を代表する橋。中央径間長(510m)は多々羅大橋、名港中央大橋に次いで斜張橋として日本国内3位、また全長(1020m)は一面吊りの斜張橋としては世界一の長さである。首都高速湾岸線を進むと前方に東京国際空港管制塔が。航空機の発着数日本一。空の玄関口、東京国際空港に建っている日本一高い115.7メートルの管制塔。羽田空港下のトンネルに入る。首都高速湾岸線を更に進み、東関東自動車道へ。習志野本線料金所を通過。成田空港出口手前。第2・3ターミナル方面に向かう。成田空港第2ゲートに向かう。成田空港Terminal2に到着。時間は9:02。British Airways のチェックインカウターJに向かう。我々のフライトBA6便のチェックイン開始時間は9:35。そしてこの旅行仲間のKさん姉妹と合流し、チェックイン。航空会社チェックインカウンターでパスポートを提示し、搭乗券(ボーディングパス)を2枚受け取る。機内持ち込み手荷物以外の荷物はカウンターへ預け、手荷物引換証も受け取る。フライトBA6便はイギリス・ロンドンヒースロー空港行き。その後別のBA便に乗り換えポルトガルのリスボン空港に向かうのであったよって荷物は最終目的地のリスボン空港まで自動的に運ばれ、荷物の預け直しは無かった。円をユーロに替えた後は2F喫茶店で4人で一休み。そして10:35に阪急交通社受付カウンターに向かうと既に今回の添乗員のSさんは既に別の旅友に説明中であった。この後のセキュリティチェック、出国審査の説明、搭乗ゲート集合時間の説明を受け説明書類&ガイドレシーバを受け取り出国手続きに向かう。セキュリティチェック、出国審査を無事通過する。顔認証ゲート及び自動化ゲートを利用した場合には、パスポートにスタンプ(証印)されないと思っていたが、スタンプを希望すれば職員に伝えると押してくれるとのこと。ゲート通過後は時間に余裕があるので「AKIHABARA」等の免税店をブラブラと。ゲートは72番、12:35発 ロンドン行きBA6便。JL7081との共同運航便。私のボーディングパス。そして12:08に登場。利用便はBoeing787-9便。乗客数は216人(4クラス)、最大速度954km/h、航続距離15,400km。エコノミークラスの座席配列は3+3+3の1列9座席でほぼ満席。ほぼ定刻の12:35に出発。出発時刻は飛行機が動き始めた時刻のこと。そして離陸し飛行機は新潟市上空を通過し日本海へ。約1時間後の13:37にビールと赤ワインを楽しむ。日本海上空を横断しロシアの太平洋岸のハバロフスク地域のに向かう。そして最初の機内食を楽しむ。時間は14:40。機窓からの景色を楽しむ。ロシアのサハ共和国西部の山々が白く輝いていた。そして機窓には雲が広がり、私も眠りにつく。しばらくして目を覚ますと、時間は離陸後約7.5時間後の20:00。飛行機は白海上空に。そして2回目の機内食はパスタ。そして北海上空を南下し、ロンドン・ヒースロウ空港を目指す。そしてロンドン・ヒースロー空港に着陸体制に。時間は15:55。そして飛行機を降り全員集合し、ヒースロー空港の内での移動に関する説明を添乗員から。ターミナル5からターミナル3への移動用のバスを待つ。ヒースロー空港のターミナル別は下記。ターミナル1:閉鎖中ターミナル2:スターアライアンスターミナル3:ワンワールド(ブリティシュ・エアウェイズ(BA)一部を除く)ターミナル4:スカイチームおよび航空連合非加盟航空会社ターミナル5:ブリティッシュ・エアウェイズ(BA)およびワンワールド専用バスにてターミナル3へ移動。そしてポルトガル・リスボン空港への便はBA504便、19:15発。リスボンへのボーディングパス。定刻に出発し順調に飛行。窓側座席よりリスボンの街の灯りを楽しむ。ナトリウムランプのオレンジ色の世界が街中に拡がっていた。リスボン空港到着時間は22:19。今回初めて使うWIFIも電波を受信し一安心。ポルトガルにも通信会社が何社かありる。最大手がMEO、二番手は定番のボーダフォン三番手がこのNOSで、この3社が主要な通信会社。リスボン空港内の店を見ながら移動。美しく彩られた店。リスボンはポルトガル語:LISBOA、英語:LISBON 仏語:LISBONNE独語:LISSABON、ロシア語:Лиссабон、中国語:里斯本延べ15時間近くの飛行機であったが皆さん元気。そして現地添乗員の待つ場所に到着し、人数確認後説明受け。リスボン空港内ロビー。リスボン空港の別称はウンベルト・デルガード空港そして待っていたバスにてホテルに向かう。総勢33人のツアー仲間。時間は既に0時直前の23:40過ぎ。深夜であるが多くの車が走っていた。15分程走るとこの日のホテルへ到着。時間は23:55。VIP イン ベルナ ホテル(VIP Inn Berna Hotel)。そして翌日の集合時間、出発時間の説明を受け部屋に。部屋のトイレ。そして、旅とものSさんが、ヒースロー空港で購入してくれたウィスキーを飲みながらこれもSさんが準備してくれていたカップヌードルで腹ごしらえをして、急ぎシャワーを浴びてあっという間に爆睡したのであった。時間は1時過ぎ。 ・・・つづく・・・
2019.02.16
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次更にこの日の最終目的地である三枚橋に向かって歩く。旧東海道の右手に『寶泉寺』の山門が現われた。「永禄山宝泉寺は、永禄元年(1558)北条時長(宝泉寺大年用公)によって創建された臨済宗大徳寺派の古刹である。寺は創建間もない、天正八年(1590)豊臣秀吉による小田原合戦の兵火に罹って堂宇は焼失し、その際数多くの寺宝が焼失してしまった。その後三世の僧菊経によって再建されたが、のちに衰微し、十二世僧仁渓によって、安政元年(1854)再建された。兵火の難を逃れて現在寺に残されている文書が二点ある。一つは、小田原北条氏が宝泉寺に与えた禁制状で、寺の取締りについて保証したもの。他は宝泉寺の寺領の範囲を示したもので、元亀3年(1572)卯(4)月12日に北条幻庵が裏書をしたもので、いずれも小田原市の重要文化財に指定されている。また本堂屋根瓦の三つ鱗紋や、寺の文書に見られるようにこの寺は北条氏との深いつながりをもつものと思われる。従来から開基北条時長については出生不明とされ、小田原北条氏の系譜にも見ることは出来ないが、おそらく小田原北条氏の一門と考えられている。」寶泉寺『本堂』。寳泉寺の永代供養墓『風里廟』。次に訪れたのは『長興山 紹太寺』参道。右手にあったのが『長興山紹太寺総門(大門)跡』。「紹太寺の総門は、東海道に面したこの場所にありました。元禄四年(1691)ドイツ人博物学者ケンペルは、江戸に向う途中、この総門をみて彼の著書「江戸参府紀行」に次のように記しています。「入生田村は、小さな村で、その左手の四角の石を敷き詰めた所に紹太寺という立派な寺がある。この寺の一方側には、見事な噴水があり、もう一方の側には、金の文字で書かれた額があり、しかも前方には、金張りの文字のついた石造りの門が立っている。」この長興山の扁額は、黄檗宗の開祖隠元禅師の書き下ろしたもので現在子院清雲院(現・長興山紹太寺)の本堂正面に掲げられています。なお、現在道路の左側に積み上げてある加工された石は、この総門に使われていたと考えられます。」『黄檗宗 長興山 紹太寺』案内図。長興山 紹太寺『山門』が前方に。『子院・清雲院(現・長興山紹太寺)』「清雲院は、長興山紹太寺の参道沿いにある子院の一つです。紹太寺の七堂伽藍は、弘化四年(一八四七)安政年間(一八五四〜五九)、さらに明治の火災で焼失しましたが、この清雲院は難を逃れ、本寺である紹太寺の法灯を守り現在に至っています。山門前にある「松樹王」の刻銘石は、東海道の風祭と入生田の境にあった境界石です。この刻銘石の左側面を見ると「長興山境」と刻まれていることからも分かります。紹太寺の広大な寺領には、7箇所あったと伝えられ「長興山の七つ石」(五基確認)といわれています。山門を入って本堂正面に掲げられている「長興山」の扁額は、黄檗宗の開祖隠元禅師が書き下ろしたもので、紹太寺の総門(大門)にあったものです。」『長興山「母の里石段公苑」』「三代将軍徳川家光の母春日局と小田原藩主(城主)稲葉一族が眠る幽邃の地、母の里石段公苑。三百六十段の石段を登るとそこには奥津城が静かに佇み遥か相模灘を望み古の歴史が彷彿として蘇ってまいります。<神奈川県名木百選、小田原市指定天然記念物「しだれ桜」そして県下でも数少ない樹叢の中に黄檗宗の高僧「鉄牛禅師」の寿塔があります。この由緒ある石段公園にご先祖さまの化身として、釈迦如来・観音菩薩・地蔵菩薩・七福神等の石仏を石段左右に建立し崇拝する人、知人友人の霊を追善供養、商売繁盛祈願、家内安全祈願等を念じれば心の安らぎが得られるものと存じます。」『山門』。『本堂』。『長奥山』と書かれた扁額。黄檗宗の開祖・隠元法師の書き下ろしであると。紹太寺は、江戸時代の初期(寛永9年1632〜貞享2年1585)小田原藩主であった稲葉氏一族の菩提寺で黄檗宗大本山萬福寺の末寺である。はじめ小田原城下山角町(現・南町)に建立された臨済宗の寺院であったが、寛文9年(1669年)稲葉正則は寺を入生田牛臥山のこの地に移し、黄檗宗長興山紹太寺と号して、父母及び祖母春日局(徳川三代将軍家光の乳母)の霊を弔った。往時は寺域方10町(1092m四方)に及ぶ広大な地に七堂伽藍の整った大寺院であった。元禄4年(1691年)この地を通過したオランダ商館医師ドイツ人ケンベルの紀行文にも、その壮麗な姿が描かれている。しかし幕末と明治初年の火災で焼失してしまった。現在の紹太寺は、その折、難を逃れた子院の清雲院がその法灯を継いでいる。境内には開花した桜の花が。『長興山の枝垂桜』「シダレザクラは、本州中部以西に生えるエドヒガン(ウバヒガン、アズマヒガン)の変種で、枝が垂れ下がる点が特徴です。また、サクラの種類のうちでも寿命が長く、大木になり、特異な樹形となることから、神社や寺院の境内によく植えられ、市内でも早川の真福寺、下大井の保安寺、城内の二宮神社などに見られます。この木は、枝を八方へ平均に広げ、シダレザクラの基本的な形を整えています。3月下旬から4月上旬にかけて濃い緑の樹叢を背景に開花する姿はまことに美しく、県下にも比類のない名木です。このサクラは、稲葉氏が紹太寺を建立した頃、その境内に植えられたもので樹齢三三〇年以上と推察されます。」4月になるとこの様にと。 【https://blogs.yahoo.co.jp/ryoma_with_t/32294990.html】 長興山紹太寺の外壁も美しく。そして再び旧東海道に戻る。沢水の流れも激しく。民家の壁も美しく。『山神神社』への階段が右手に。民家の庭先の『しだれもみじ』も美しく紅葉。そして再び箱根登山鉄道の入生田駅の先の踏切を渡る。『日本初の有料道路』碑。小田原の外れから、箱根湯本までの4.1キロの東海道を、幅員5メートルに広げ、勾配を緩くして、人力車が通れるようにし、人力車1銭 大八車7厘 小車3厘の通行料(道銭)を、5年間徴収した。明治8年(1875年)9月のことだと。『駒ノ爪橋跡』「天保年間に書かれた『新編相模国風土記稿』の、入生田村(小田原市)の項には、「駒留橋 東海道中湯本村界の清水に架す。石橋なり。長3尺(90センチ)幅2間(3.6m)、両村の持。橋上に頼朝郷馬蹄の跡と云あり。旅人此橋に足痛の立願す。」と載っています。これには、往時源頼朝が富士の巻き狩りから帰る際、この橋まで来ると馬が暴れてしまい、その際に橋の上に馬のひずめの跡が残ってしまったという逸話が残っています。そこで、旅人は「石に足跡をつけた頼朝の馬の頑強な脚にあやかりたい」と道中足が痛まないよう祈願したということです。後に小田原市板橋の山県有朋公の別荘古希庵の庭園に使われていたようです」現国道1号線と合流し振り返る。国道1号線の法面には達磨大師像の『交通安全の碑』が。日本橋から88.5km。箱根町の『交通安全』モニュメント。小田原市と箱根町の境界のようで交通安全箱根町の三日月型のモニュメントがあった。右側に箱根登山鉄道の下をくぐる道が現れてきます。そこをくぐり、山を登るとそこが『牛頭天王神社(ごずてんのうじんじゃ)』。「古来部落の境には天王神社が祀られる事が多い。祭神は午頭天皇(スサノオ)を祭神とする祇園信仰の神社であり、京都八坂神社の祭礼が全国に広まった一ツである。牛頭天王はインドでは武塔大師と呼ばれ、祇園精舎の守護神とされている。名前の由来は諸説あり古くはヘブライ語の「ゴゼー」がなまって「牛頭」になったという説もあるようだ。典型的な神仏合祀の一例である。スサノウノミコトは大変、力の強い暴れん坊の神様だったので、霊力が強く、これを祀れば疫病神を除いてくれる、という信仰から多くの村境に祀られたと思われる。山崎も入生田(小田原市)と、湯本村(箱根町)との村境にあり、湯本村の人達が村に疫病神が入ってこないようにと祀ったものである。旧湯本村の氏神だった頃、明治二十六年に神社の石段を作った時の記録によると世話人は湯本の湯場・神明町・仲宿・三枚橋・山崎の代表が名を連ね、全村七十五人が工事費を寄付している。石段の数は百十八段あり、神社境内にある碑には世話人、発起人の名前が刻まれている。天王社の紋章は五ッ木瓜(イツツモツコウ)で、キュウリを輪切りにすると、同じような紋様になる為は、祭礼には必ずキュウリを上げる。山崎では、昔は初物のキュウリを天王さんに上げてからでなければ、食べなかった。また、キュウリを切る時は輪切りにしないで、必ず斜めに切る、という風習があったようだ。」『山崎の古戦場』江戸時代末期、勤皇派と佐幕派が戦った場所。小田原藩の度重なる寝がえりの末、最終的にここが激戦地になりました。結局、小田原藩と官軍が勝って、遊撃隊は敗走しています。小雨が降りだしていたが、目的地もだんだんと近づいて来た。小田原箱根道路との合流点。『山崎ノ古戦場』碑。山崎は、箱根戊辰の役の戦場だった場所。「山崎ノ古戦場 明治維新ノ際官軍東上ノ途此地ニ於テ伊庭八郎等ノ殉幕浪士ト遭遇激戦ノ後是ヲ撃破セリ」佐幕派から勤皇派に立場を変えた小田原藩軍と、旧幕府遊撃隊とが、湯本の山崎に於いて激しい戦いを行った。伊庭八郎は重傷を負い、数で圧倒する小田原藩と新政府軍とが勝ち、遊撃軍は敗走したのだと。国道1号線と西湘バイパス・小田原厚木道路の分岐場所を振り返る。『湯本歩道橋』下を通過。そして左側に見えて来たのがこの日の最終目的地『三枚橋』。『三枚橋』木橋の頃より両岸の幅が狭まり、橋はやや湯本寄りに架かっている。早川に架かる三枚橋は江戸時代の東海道と湯本路との分岐点にあたり、橋を渡らず温泉場へ向かう道は「湯場道(ゆばみち)」と呼ばれた。小田原北条氏時代は川幅が広く、中州が2つあり地獄橋・極楽橋・三昧(さんまい)橋の3枚の橋が架かっていて、橋を渡り切ると北条氏の菩提寺・早雲寺の総門だった。早雲寺に駆けこめば犯罪人も罪を免れて極楽橋まで逃げると助かったので、次の橋を「これからは仏三昧に生きよ」という意味で「三昧橋」と名付け、その名が今は「三枚橋」として残ったという。早川の流れ。そしてこの日の旧東海道歩きは完了し、箱根湯本駅に向かいながら三枚橋を振り返る。早川の向こう側にが『湯本富士屋ホテル』と赤い欄干の橋・『あじさい橋』。この後の『天下の難所 箱根八里 箱根旧街道 石畳』(☚リンク)は既に以前に完歩済みであるので、次回は箱根関所からの山下りなのであった。よって次回の箱根関所方面へのバスの時刻表を念のためカメラに収める。小田急線『箱根湯本駅』。駅構内。クリスマスツリーが。そして小田原駅でJRに乗り換え。駅構内にあった巨大な『小田原ちょうちん』。小田原駅のJR東日本改札口の上には、直径2.5m、全長5mにも及ぶ巨大な小田原ちょうちんが旅人を出迎えていた。そして駅構内の壁には『東海道五拾三次 小田原』が。酒匂川は、富士山の東側から小田原を経て相模湾に注ぎます。春から夏にかけて増水する酒匂川には、客や荷物を担いで渡る人足(にんそく)がいました。対岸には北条氏の居城であった三層四階の小田原城が見え、遠くには箱根連山が描かれています。川を渡る旅人の苦労も大自然のなかに埋没してしまうほど雄大な風景が広がっています。『東海道五拾三次 小田原』の絵のそれぞれの部分の説明。そしてJR東海道線にてこの日は反省会なしで帰宅したのであった。 ・・・その8・・・に戻る ・・・旧東海道を歩く(国府津~小田原) 完・・・
2019.02.16
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更に歩を進めると右手にあったのが『板橋地蔵堂』。『板橋 延命子育 地蔵尊』と刻まれた石柱。『板橋の地蔵尊』1月と8月の板橋地蔵尊の大祭には、旧東海道の町並みの両側に多数の露店が軒を連ね、善男善女のお参りで賑わうのだと。また、この日に詣でると、亡くなった身内の人と瓜二つの顔の人に会えるのだと。境内の本堂前の大銀杏の木の黄葉はこれから。『明治維新官軍慰霊碑』境内入口左にあるのは中井範五郎始め、13名の墓碑であると。中井範五郎は1840-1868 幕末の武士。 天保(てんぽう)11年生まれ。因幡(いなば)鳥取藩士。文久3年兄永見明久らとともに藩重臣の暗殺(本圀(ほんこく)寺事件)にくわわる。戊辰(ぼしん)戦争では大総督府監軍となる。慶応4年5月20日小田原藩兵に箱根で殺されたのだと。『伊藤一刀斎末裔の墓』寛政7年(1795)に建てられた一刀流6代目の横田常右衛門豊房と7代名坂四郎治政宣の供養碑。『本堂』板橋地蔵堂は、曹洞宗に属し正しくは金竜山宗福院と称し、本寺南谷山香林寺が主管していると。ご本尊は弘法大師の御作「延命子育地蔵大菩薩」で、身丈8尺の大坐像の腹中に鎮座。ゆえに、〝腹籠(はらごもり)のお地蔵さま″(胎内仏)とも呼ばれていると。創建は1598年、現地蔵堂は1715年建築の、城山にある慈眼寺の本堂を明治初期に移築。敷地内に1868(明治元)年建立の、戊辰戦争官軍戦没者慰霊塔があると。『六地蔵』。『地蔵菩薩像』。『福興大黒尊天』。福興大黒尊天は、「関東大震災」の翌年、樹齢1,500年の大楠の生木に、「関東大震災」からの復興と信徒の福徳招来を祈念して彫られたと。境内より隣にある『常光寺』を見る。常光寺は1648年創建。本尊は阿弥陀如来、足柄第二十七番観音霊場。境内の至るところに住職のお言葉が散りばめられているのだと。墓地の中にある常光寺の鐘楼。板橋地蔵堂の本堂内部。延命子育地蔵大菩薩(本尊)。本堂の天井。本堂前から境内を振り返る。『神奈川県指定重要文化財 宋福院地蔵堂』格子窓の奥にも多くの地蔵様が鎮座。円光の向背そして先に輪のついた錫杖を持つ地蔵菩薩像。『忠魂碑』。小田原市大窪地区出身戦没者慰霊碑。「忠魂碑」の字は山縣有朋 書。そして板橋地蔵尊を後にし進むと箱根登山鉄道のガードを潜る。左手、旧東海道の反対側に見えた石碑。石碑は『頌徳碑』と題され明治期の板橋地区、大窪村の村長市川文二郎を讃えるもの。市川文次郎が村長の時、明治21(1888)年の小田原町との分水事件、明治29(1896)年の静岡県の深良用水との芦ノ湖の水利権を争った逆川事件、これら2つの事件の解決に尽力した功績が認められたと。『小田原用水取入口』。『小田原用水(早川上水)取入口』。小田原用水は戦国時代に北条氏が城下町を潤す為に施設した日本最古の上水道と言われます。記録として最古のものは天文14(1545)年連歌師谷宋牧の東国紀行に、『水上は箱根の水海よりなどきき侍りて驚ばかりなり』とあり、北条氏康・幻庵の誘いで屋敷に招かれた際に、池の水が箱根芦ノ湖を水源とした早川より引いたと聞いて驚いたと。左手に『アネスト岩田ターンパーク箱根』が見えた。2018年3月1日よりネーミングライツ(命名権)を取得し、アネスト岩田ターンパーク箱根と命名。 神奈川県小田原市から足柄下郡箱根町を経由し、同県足柄下郡湯河原町に至る、15.782Kmの観光有料道路。西湘バイパスと小田原厚木道路が交わる小田原西ICが左斜め前方に。久しぶりに、日本橋から86.7Kmの表示が。箱根登山鉄道の踏切を再び渡る。小田原厚木道路のコンクリート橋脚には蔦の葉が赤く染まっていた。『象ヶ鼻』入口。「小田原厚木道路」の高架下から、「旧東海道」は、国道1号線から右手に分かれて、「箱根登山鉄道」の踏切を渡ります。踏切を渡ってすぐに右へ線路に沿って登る小道がありそこを上っていく。『日蓮上人霊跡』。「文永11年(1274)日蓮聖人が鎌倉から身延山に赴く途中、5月13日、当所を通り巨石象ヶ鼻(石の形が象の鼻に似ている処からそう呼んでいた)の上に登られ、遠く房総の諸岳を望んで故郷忘れ難く、遙かに亡くなられた両親を偲ばれ、回向して冥福を祈られ、お曼陀羅本尊を書かれ、石の宝塔を建て、首題釋迦牟尼佛多宝如来四菩薩を刻し、衆生済度の病即消滅を祈願された。その後この地をお塔のふた親さんと呼ばれ里人信仰をあつめた。永仁元年(1293)僧朗慶日蓮の弟子がこの地に来て師の旧跡であるこの地に寺を建て象鼻山妙福寺と命名、下総国葛飾郡中山村大本山法華経寺(末寺)同宗の人々はもとより一般里人から礼拝されていた。おしくも大正二年廃寺となり同村蓮正寺に合併され、現在は同市板橋に移り御塔山生福寺となっております。」奥には古びた門が。行ける場所まで行ったが石碑等見つけられなかったので、引き返す。脇道があったのでそちらを再び上っていくと石碑が。南無妙法蓮華経と刻まれていた。もう一つの石碑も同様に。帰路の坂の途中からの端や川の流れ。その先に西湘バイパス。坂の脇にあった鬼瓦?。そして更に旧東海道を進むと右手に『妙覚寺』山門が見えた。日蓮宗寺院の妙覚寺は、玉山と号す。妙覚寺の創建年代は不詳だが、当所真言宗寺院として創建、日蓮上人の弟子日辨上人が当寺へ寄宿した際に、当寺住職林覚が宗法に感服して日意と改め、日蓮宗に改めたと。当初日辨上人を開祖としたものの、その後日忍上人(文永5年1268年卒)を開山としたと。2016年4月6日に現本堂落慶式が執り行われたと。左手に箱根登山鉄道の『風祭駅(かざまつりえき)』。箱根駅伝開催時には、山越えに挑む直前である小田原中継所の最寄り駅になる。この中継所、いわゆる「見どころ」のひとつなもので、当然当日は見物客でごった返すのだ。今年もさぞ混んだのであろう。風祭の地名は鎌倉時代のこの地の地頭・風祭氏に由来するとされると。右手の高台に『国立病院機構 箱根病院』。独立行政法人国立病院機構が運営する病院である。旧国立療養所箱根病院。政策医療分野における神経・筋疾患の専門医療施設である。戦前は、日中戦争により負傷した戦傷脊損患者を収容した歴史をもち、戦傷脊損療養所としては全国唯一の施設だった。旧箱根療養所時代の歴史資料については、日本傷痍軍人会が運営する「しょうけい館」(戦傷病者史料館)」(東京都千代田区)に展示されている。敷地内には社会福祉法人風祭の森太陽の門福祉医療センターおよび、学校法人湘南ライナス学園がある他、現在使用されていない施設も複数ある。風祭の集落に入ると,急に静かな町並みになる。風祭の集落のはずれに『小田原の道祖神』があった。道祖神は石祠の稲荷型(70cm)と、赤い涎掛けと帽子の合掌座像の伊豆型(58cm)の2つで、小田原の道祖神の一つとして市指定文化財になっている。『東海道風祭の一里塚』「ここは、旧東海道に設置された江戸から21番目の一里塚があった場所である。 慶長9年(1604)江戸幕府将軍徳川家康は、息子秀忠に命じて、東海道、東山道、北陸道に、江戸日本橋を起点として一里(36町・約4キロ)ごとに塚を造らせた。塚は男塚、女塚と、街道の左右に対で置かれ、広さは通常5間(約9メートル)四方であった。塚には榎を植え、旅人の1里ごとの目印とするとともに、夏季における木陰の休憩場所とした。 風祭の一里塚については、天保年中の相模国風土記稿に「東海道側に双塚あり、高各一丈、塚上に榎樹あり。囲各八九尺、東方小田原宿、西方湯本茶屋の里塚に続けり」とある。」 ・・・その7・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.02.15
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『対潮閣(山下亀三郎別邸)跡《秋山真之終焉の地》』。明治時代から、小田原には、伊藤博文、山縣有朋、益田孝(鈍翁)、田中光顕、北原白秋など多くの政財界人や文人が居を構えたり、訪れたりしていた。山下汽船(現・商船三井)の創業者山下亀三郎(1867~1944)の別邸「対潮閣」の正面入口がこの辺りにあった。対潮閣には、山下と愛媛の同郷であった海軍中将秋山真之(1868~1918)がたびたび訪れ、山縣の別邸「古稀庵」(現・あいおいニッセイ同和損保小田原研修所)を訪ね「国防論」について相談していたが、患っていた盲腸炎が悪化し、大正7(1918)年2月4日未明に対潮閣内で亡くなった(享年49歳)。写真右に『瓜生外吉(うりうそときち)海軍大将之像』瓜生外吉は加賀藩支藩の大聖寺藩士、瓜生吟弥の次男として安政4(1857)年に生まれ、明治8(1875)年から14年まで米国アナポリス海軍兵学校に留学します。海軍提督として日露戦争に参加、仁川沖の海戦で最初の号砲を鳴らし戦功により海軍大将、男爵までのぼりつめます。南町歩道橋の階段下には石柱が。『人車鉄道 軽便鉄道 小田原駅跡』。東海道本線が走る前まで小田原ー熱海間を走っていた鉄道です。人車鉄道は豆相人車鉄道。人車鉄道(人車軌道)とは、明治中期から大正期にかけて存在した人が客車や貨車を押す鉄道。軽便鉄道は熱海鉄道。軽便鉄道(けいべんてつどう)というのは規格の低い鉄道のことで「軽便鉄道法」による森林鉄道や鉱山軌道などをいいます。東海道線は国府津駅から静岡が1889年に延伸しました。ただし沼津までは御殿場線が使われていました。熱海の住民運動から1888年国府津から小田原まで小田原馬車鉄道(現在の箱根登山鉄道)に鉄道を繋ごうとしましたが資金が集まらず、甲州財閥の雨宮敬次郎の案で人車軌道に変更し、雨宮と地元有志が共同で豆相人車鉄道を設立して1895年~1900年に漸次開通させました。1907年に社名を熱海鉄道と改めて蒸気機関車が引くタイプの軽便鉄道に切り替えました。この切り替え工事からヒントを得たのが芥川龍之介の「トロツコ」です。小田原市消防本部 小田原消防署南町分署前の石碑『都市計画道路 小田原-早川線の完成によせて』。早川口 交差点。前方に東海道本線&箱根登山鉄道のガードが。ガードを潜ると左手にあった『大久寺』を訪ねる。天正十九年(1591年)、徳川家康の忠臣であった小田原城主大久保忠世公が建立した寺。忠世公は三河出身の戦国武将でしたが、秀吉の小田原征伐の後に家康が関東を任されるにあたり、遠州二俣から相州小田原へ移封せられました。その際、二俣時代に帰依していた僧の自得院日英上人を請招し、大久保家の菩提寺として大久寺を開基しました。その後、二代忠隣公が政治の謀略によって小田原城を改易されると、小田原大久寺の法灯は一旦途絶えてしまいます。しかし、忠世公の伯父の玄孫の大久保新八郎康任が箱根入湯の道中、大久寺が廃れていることを惜しみ、同地に再興し、今日に至るまで前期大久保家の廟墓を守り続けています。寺務所か?大久寺『本堂』。道路の反対側には『居神神社』が。旧小田原宿 板橋口(上方口)近くに鎮座する三浦荒次郎義意公を主祭神に祀る神社。そしてその隣にあった『光圓寺』。浄土真宗本願寺派寺院の光円寺は、釋浄山と号す。光円寺は、覚圓が実相寺と号して慶安4年(1651)創建、明暦元年(1655)現寺号に改めたと。『本堂』。『板橋(上方)口』「戦国時代の末期、小田原北条氏は東海道をも取り込み、城下の外周を土塁や空堀で囲んで防御する壮大な総構(大外郭)を築きました。この辺りは、東海道に対応する小田原城外郭の西側の出入り口が設けられていた場所。江戸時代においても、この口から内側は 城下府内の山角町、外側は板橋村で、遠くは京都に通じたので、板橋口または上方口と呼ばれ、東に設けられた山王(江戸)口と並ぶ 最も主要な出入り口として、厳重な構造をもっていました。現在の国道1号線はそのまま直進していますが、かつての東海道は板橋口をでると一度北に折れて、再び西に曲がっており、 その地形は旧道としてよく残されています。」『板橋見付』交差点。右手に折れた道が旧東海道。新幹線下を潜り旧東海道を進む。右手奥にあったのが『本応寺』。法華宗陣門流寺院の本応寺は、法雨山と号す。本応寺は、稲葉美濃守正則の家臣だった羽原新右衛門忠次夫婦(忠次の法名法雨院道樹日行、妻の法名本成院妙感日壽)が開基となり、是真院日雄(寛文11年卒)が法雨山本乗寺と号して開山、本寺本成寺と読みが同じことから本応寺と改号したと。旧東海道『層雲台(そううんだい)入口跡』三井物産の初代社長益田孝の別荘掃雲台入口跡。鈍翁は明治39年この地に別荘を造り始め、約2万5千坪の敷地に屋敷、流水庭園、茶室、蔵、農園迄造ったと。現在は宅地化され、昔を偲ぶものは何も残っていないと。更に旧東海道を箱根方面に進む。右手に朝倉邸。コリント式柱頭飾り、アールデコ風。下田豆腐店。創業明治39年。現在は4代目の息子さんが豆腐造りをされていると。豆腐作りには丹沢水系の深い井戸水が使われていのだと。旧道を右手に折れるとあったのが『栄善寺』。対の石柱の山門の奥の境内。本堂が間近に見えます。『六地蔵』。小田原板橋・内野邸・武功庵。明治36年(1903)に建築された板橋・内野家(元醤油醸造業経営)の住宅は、当時流行していた土蔵造り風の町屋で、「なまこ壁」や「石造アーチ」など、和洋折衷の特徴ある意匠が取り入れられた貴重な歴史的建造物。現在、施設の有料公開や各種イベントの開催など、市や地元板橋の地域住民組織による活用等が進められていると。先日のBS朝日のテレビの『百年名家』で紹介されていた。再び旧東海道を右に折れ赤い幟のある参道を進む。『量覚院』の山門。秋葉山量覚院は小田原藩主大久保忠世が遠州秋葉大権現を勧進したもの。『秋葉山』と書かれた扁額。境内の紅葉を楽しむ。紅葉の木の下方ズームで。境内は清掃中で落ち葉が焼かれていた。『秋葉山神社』社殿への参道石段下に立つ神明鳥居。左に石造の九重層塔が立つ。石鳥居横の真っ赤な紅葉。階段を上ると右手に手水舎が。秋葉山量覚院は本山修験宗の末寺(総本山は京都聖護院)で修験道(山伏)の寺院。安土桃山時代の天正18年(1590)、徳川家康が小田原城主大久保忠世に管理を命じ、一月坊法印によって遠州の秋葉山大権現を新しい所領の小田原に奉遷して創建されたので、秋葉山神社は同時代の建立だろう。 秋葉山量覚院の本尊である「秋葉山大権現」の本地仏は観音菩薩で、神仏習合の神として祀られている。現代的で簡素な向拝..梁上に龍の彫刻の大きな蟇股がある。「秋葉山」ではなく「大徳山」の額が掲げられていた。黄葉も真っ盛り。階段上から。落ち葉もほぼ燃え尽くし。サツマイモが欲しいのであった。 ・・・その6・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.02.14
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次明治天皇宮ノ前行在所跡の先を右に入り、『松原神社』を訪ねる。小田原宿総鎮守。一の鳥居(伊勢鳥居型)とその先に二の鳥居が。ガラス窓を設置した『御神庫』。松原神社例大祭は、漁師の祭を起源とする「小田原担ぎ」という独特の神輿の担ぎかたが特徴で、漁場での作業を陸地で再現した形になっています。神輿を船に見立て、まず神輿を静止した状態で、木遣り(きやり)を唄います。木遣りとは、漁師が船を砂地に陸揚げする時や、漁網を一気に揚げる時など、集中して力仕事を行う時に、船頭が音頭を取って、息を合わせながら作業をするために唄う浜唄で、正式には「浜木遣り」といいます。小田原流の特徴として、平担ぎの時左右にゆっくりと練る動作は、船が沖合で波に揺られゆっくりと左右に動くそれを模しており、見ているものを幻想的な雰囲気にさせるのも他に見ない特徴といえる。全国的にも珍しい点は、民家・商店・祭礼事務所・山車・神社などに木遣り唄の一種である「浜木遣り」と共に神輿を担いだまま走って突っ込む(跳ぶ|突っ駆ける)事である。この「浜木遣り」は漁師の掛け声が元であり、鳶などの木遣師のそれとは異なる。祭礼においてはどっこい担ぎで言えば甚句に相当する。 なお、全国的に“走る神輿”は瀬戸内海の真鍋島や、千葉県の大原はだか祭りなどがあるなど少数ながら存在するが、神輿の合体は全国でも他所では見られないと。二の鳥居(明神鳥居型)その先に拝殿が。記録として残るのは新編相模風土記にある天保年間の記述が最も古いと思われ、主に漁師の祭りとして千度小路、古新宿(こしんしゅく)の漁師を中心に行われてきた歴史を持つ。今では漁業関係者は激減したが、神輿は小田原担ぎ(小田原流)と呼ばれる漁船に見立てた独特な担ぎ方で渡御されるなど、現在でも漁師の祭りとしての名残を見ることができると。『吉兆の大亀』。「天文十四年(一五四五年)三月、小田原の海岸に現れた大亀を土地の者が当社の池に持参したところ、小田原北条三代当主氏康は、これを聞き、吉兆なりとて参詣し舞を奉納した。果たして翌天文十五年、関東管領上杉軍八万の兵を、わずか八千の兵で見事に破り【河越夜戦】、念願の関八州の平定に成功した。この石亀像はその話に由来して作られた(制作年不明・頭部欠損)ものと思われ、現在でも大亀の甲羅を撫でると、社運隆昌・心願成就・開運・勝利(転じて試験合格)にご利益があるとされております。また、亀は長寿を象徴する生き物であることから、賽銭を十円納めると十日、百円納めると百日、千円納めると千日寿命が伸びると言われております。」『境内社』。境内に古くは十二社があったが、現在は住吉神社、鹿島神社、手置神社、叶稲荷神社、佐々木八幡神社の五社が祀られている。左から置神社、叶稲荷神社、佐々木八幡神社。鹿島神社。『小田原宿』と『周辺案内図』交流館の前に掲げられた、旧東海道小田原宿の案内板。 拡大版 案内板に採用されている道中図は「東海道分間延絵図(とうかいどうぶんけんのべえず)」。小田原の町人の町は、主として東海道に沿って宿場町を形成する(通り町)。西から順に山角町(やまがくちょう)、筋違橋町(すじかいばしちょう)、欄干橋町(らんかんばしちょう)、中宿町(なかじゅくちょう)、本町(ほんちょう)、宮ノ前町(みやのまえちょう)、高梨町(たかなしちょう)、万町(よろつちょう)、新宿町(しんしゅくちょう)の九町という、かなり細かい町割りから成った。小田原宿は上方からは箱根を越えてきた旅人の、江戸からは箱根越えを控えた旅人の宿泊地として大いに賑わった。本陣(計4軒)、脇本陣(計4軒)は東海道の宿場町の中ではきわめて多く、宿場の中心である欄干橋町から宮ノ前町までの四町に集中した。町人の町はこれに加えて高梨町からの甲州道(こうしゅうみち)に沿った町(脇町)がある。分岐から順に青物町(あおものちょう)、壱丁田町(いっちょうだちょう)、台宿町(だいじゅくちょう)、大工町(だいくちょう)、須藤町(すどうちょう)、竹の花町(たけのはなちょう)の六町が続く。さらに、通り町に平行する形で茶畑町(ちゃばたけちょう)、代官町(だいかんちょう)、千度小路(せんどこうじ)、古新宿町(こしんしゅくちょう)の四町があった。『江戸時代の小田原の城下町の構成』。ここは東海道沿いの通町で、江戸時代は本町と共に宿場町の中心で、本陣一、脇本陣二、旅籠が二十二あったという。元治慶應年間の宿割帖によると、御本陣一軒、相本陣三軒(清水屋彦十郎・久保田甚四郎・片岡永左衛門)、脇本陣四軒(とらや三四郎・福住や吉助・小清水屋伊兵衛・嶋や太郎三郎)、旅籠宿屋は百余軒あった。小田原なりあい交流館前からの旧東海道。『小田原なりあい交流館』。この施設は、1932(昭和7)年に建設された旧網問屋を再整備し、市民や観光客の皆様の「憩いの場」として2001(平成13)年に開館。ここの建物は、関東大震災(大正十二年)により被害を受けた建物を、再建したもので、小田原の典型的な商屋の造りである「出桁造り」という建築方法が用いられていると。また、2階正面は出格子窓になっていて昔の旅籠の雰囲気を醸し出していた。『本町』。本町は後北条時代には通小路とよばれていました。江戸時代になると、小田原城のちょうど南側にあたり、小田原の街の中心として、街割りもここを基点に割り振られていました。東海道の小田原宿としても本陣が2、脇本陣が2、幕末には旅籠が26軒ほどあったそうです。『久保田本陣跡』。小田原宿に4軒あった本陣の一つ「久保田本陣跡」の碑『御幸の浜』交差点。正面を進んでいくと小田原城の堀に。『薬博物館((株)済生堂薬局小西本店)』。寛永10年(1633年)創業、400年近い歴史を誇る老舗の薬局が所蔵品を公開するミニ博物館。年期の入った百味たんす、薬剤をすりつぶす乳鉢や秤など、薬関係の貴重な骨董品が展示されています。明治時代のかわらぶきの建物(大正時代に復元)が、小田原の歴史を物語ります 。『中宿町』。この町は、「貞享三年御引渡記録」(1686年)に初めて町名が見られます。「新編相模国風土記稿」(1841年)には、この町に小田原北条氏時代(北条早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の北条氏5代(1495~1590年))、この町は、「上の問屋場」が置かれ、高梨町の「下の問屋場」と10日交代で勤めたとあります。 町内には、御用商人の「小西家」があり、嘉永年間(1848~53年)には、脇本陣(わきほんじん:本陣の予備にあてられた街道の宿舎で、本陣にあきのない時に大名などが利用した旅館)1軒、旅篭が11軒ほどありました。 なお、天保初期(1830年代)、町内の戸数は30軒でした。『清水彦十郎本陣跡』「小田原宿には4軒の本陣があり、清 水彦十郎本陣もその一つです。出雲 (島根県)松江の松平家や美濃(岐阜 県)大垣の戸田家などの大名家が定宿としていました。 」。ここは薬と和菓子の『ういろう』。当主は1500年代の初頭、北条早雲に招かれて京から小田原に移り住んだ外郎(ういろう)家。以来、伝統を絶やすことなく小田原の地で生業が続けられてきた。店舗にはういろう博物館も併設されている。『欄干橋町』。北は三の丸の掘、南は茶畑町、西は筋違橋町、東は中宿町・東海道沿いの町人町]この町は、「北条家朱印状」(1572年)に初めて町名が見られます。町名の由来は、この町から城内にかけられていた橋の名前によりついたといわれています。町内には小田原北条氏時代からの旧家「外郎家」があり、江戸時代末期には本陣1、旅籠が10軒ほどありました。天保初期(1830年代)、町内の戸数は39軒でした。外郎家は、永正元年(1504)、北条早雲の招きに応じて京都から小田原に移り住み祖先伝来の秘薬「透項香(とうちんこう)」を製造販売しました。江戸時代には町の名誉職である宿老の地位にありました。また、同家の八棟造は有名で、浮世絵などにも描かれてしますが、大正12年の関東大震災により崩壊してしまいました。『箱根口』交差点。歩いて来た旧東海道を振り返る。箱根口を右折し小田原城の堀を目指す。『 小田原城 箱根口門跡 』江戸時代の櫓門の石垣の一部と土塁が残されていた。戦国時代から江戸時代初期まで大手門として使われたと。『小田原市立三の丸小学校』。小田原城址公園に隣接して建つ三の丸小学校は、幾層も重ねた屋根と白くて広い壁が城の如し。その名の通り城内三の丸にあり、「箱根口門跡」に置かれた校門には立派な屋根も付いている。ここは文成5年(1822)に建てられた藩校・集成館の跡地で、明治5年(1872)の学制発布に伴って小学校「日新館」となったあと尋常小学校などを経て城内小学校となり、平成4年(1992)本町小学校と統合して三の丸小学校となったという歴史のある小学校。ここでは銀杏の古木が黄色の葉を増やしていた。ぐるりを囲む武家屋敷風の塀に沿ってせせらぎが流れ、周囲の景観にも工夫がある。設計は松田平田設計。「三の丸小学校周辺地区」として、平成9年度都市景観大賞を受賞している。小田原市立三の丸小学校の見事な正門。『国指定史跡 小田原城址』神奈川県小田原市小田原町にある平城。その草創は詳細に知られていないが,鎌倉時代に土肥一族の小早川氏が築いたものと伝えられている。応永 23 (1416) 年上杉禅秀の乱が起り,土肥氏もこれに加担し敗れ,戦功により上杉憲方の家臣大森頼明が,足利氏からこの地を賜わった。そののち,明応4 (95) 年藤頼のとき,北条早雲に取られ,以後北条氏5代相継ぎ,この城を本拠にして関東に威をふるった。北条氏は大規模な拡張工事を行い,その結果,防備のすぐれた城として,小田原城の名が知られるようになった。天正 18 (1590) 年,豊臣秀吉のために滅ぼされ,続いて関八州を領有した徳川家康が,譜代の臣大久保忠世を小田原城に封じたが,大久保家は次の代に失脚し,以後,城は江戸幕府の直轄地となり城番がおかれた。そののち,元和5 (1619) 年阿部氏,寛永9 (32) 年に稲葉氏が,貞享3 (86) 年には再び大久保氏が城主に封じられ,10代 182年間続いて明治維新にいたった。現在,城跡には復興天守閣があり,公園となっている。しかしこの場所から天守の姿は見えなかった。二宮尊徳を祀る神社『報徳二宮神社』入口が前方に。二宮尊徳は報徳社を設立して農村の救済・教化運動を行っていたが、尊徳が安政3年(1856年)に亡くなった後も報徳社は存続し、関東・東海地方を中心に活動を行っていた。明治24年(1891年)に尊徳に従四位が贈られると、報徳社員の間で尊徳を祀る神社創建の動きが起き、明治27年(1894年)4月15日、尊徳の生地である小田原の小田原城址内に鎮座した。更に進むと『報徳博物館』が左手に。幕末の疲弊した社会の再建人・尊徳二宮金次郎(1787〜1856)の、「報徳」と呼ばれる人づくり、国づくりの思想とその業績を伝える博物館。『二宮尊徳就学の地』。「二宮尊徳(金次郎)は、若いころ小田原藩家老の服部家(ここから200mほど上った所)に若党(中間(ちゅうげん))奉公をしていました。そして漢学塾へ通う同家の若様のお供をして、小峰坂と呼ぶこの前の道をいつも通っていました。また、この博物館のある場所は、当時、近藤某という書物好きな藩士の屋敷があり尊徳は、時々ここに寄って書物を借りて読んだということです。こうして、尊徳は学問の幅を広げていきましたが、報徳博物館はこうした縁の場所に建っております。」『二宮尊徳像』。坂を上っていくと杉の木の間から小田原城の天守閣の姿が。その先に『清閑邸(せいかんてい)』が。『清閑邸(黒田長成別邸)』。清閑亭は明治39(1906)年黒田長成侯爵の別邸として造られた。黒田長成は豊臣秀吉に仕えた軍師、黒田官兵衛の子孫にあたり、慶応3(1867)年、福岡藩主黒田長知の長男として福岡に生まれ。明治21(1888)年に英国ケンブリッジ大学に留学、帰国して明治26(1893)年から30年間貴族院副議長を務めた。漢詩集『桜谷集』の遺した他、菅原道真や豊臣秀吉の旧跡を保存する、菅公会、豊国会の活動にも尽力した。前方、高台にあるのが『カフェ清閑亭』。ここまで坂を上ると天守閣が良く見えた。『清閑邸周辺の縄文時代の遺跡』。『天神山(てんじんやま)』。坂のピークを越え、民家の中を抜けて下りに差し掛かると、遺跡の跡が。このあたりの丘陵は天神山と呼ばれている。『山角天神社』。地元の人から「天神さん」と呼ばれ、親しまれている山角天神社は、「菅原道真」を祭神とする神社で、創建年代は古く 不明であるが、小田原北条氏時代と伝える城下町図には、すでに当天神社が記されている。 この天神社には、別当威光山長教院三光寺(古義真言宗、蓮上院末、永禄4年中興)があったが、明治初年廃寺となった。 天神社のご神体は木像で、高さ32センチ、台座6センチ。裏に「永禄4年極月吉日」とある。 『山角天神社の菅原道真画像』。この天神社には別当三光寺の什宝「菅原道真画像」がある。この画像は俗にいう「いかり天神」といわれる姿で、北条氏康 から奉納されたという優秀な作品であり、小田原市の重要文化財に指定されている。 また、境内には「紀軽人(きのかるんど)狂歌碑」や「芭蕉句碑」がある。すべて漢字で書かれているが、芭蕉が元禄7年(1694)に詠んだ「梅が香に のつと日の出る 山路かな」である。江戸時代の小田原の人たちも「天神様といえば梅」というわけで、文政3年(1820)に建てられた句碑である。紀軽人(きのかるんど)の狂歌碑もある。「月はさす 花はいたたく 酒宴を 雪より外に つもり人はなし」こちらが山角天神社の参道の階段。 ・・・その5・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.02.13
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『小田原城』の道路標識も見えて来た。右手に『東海道 小田原宿』の標柱。東海道小田原宿は江戸見附近くの山王神社からスタートする。そして『小田原城址江戸口見付跡』。この江戸口見付は江戸からの東海道の外郭入口として位置しており、現在は史跡標柱と小さな公園だけとなっていた。当時は土塁と矢来によってで喰違が形成され江戸から入る場合、まず右手に折れ曲がり木戸をくぐって左に折れ曲ると右手には番所が置かれていたのだと。江戸日本橋を出発しておよそ80km(20里)、9番目の宿場がここ小田原宿。旅人にとっては箱根越えを控えた2泊目の宿でもあった。最盛期には約100余軒の旅籠屋が軒を並べたという。また、参勤交代で往来する大名行列も同様に休泊し、利用した本陣4、脇本陣4の計8軒にのぼり、東海道随一を誇っていたと。『江戸口見付跡』「小田原北条氏は、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めに対し、総構といわれる周囲約9kmの堀や土塁を構築し、 城のみならず城下町までを取り込んだ戦国期最大級の城郭を築きました。この付近は、その総構の最も南部分に当たり、小田原合戦のときには徳川家康隊が山王川の対岸に陣取っていました。江戸時代には、小田原城下に入る東海道の東の出入口として、西の板橋口及び甲州道の井細田口とあわせて、城下を警護する 重要な門としての役割を担っていました。江戸方面から来た場合、上図(文久図)のように門の土塁を一旦右に曲がりさらに左に折れてから城下に入る形になっています。また、入るとすぐ右手(北側)には番所があり、通行人の監視などに 当っていました。なお、ここは江戸日本橋から20里(80km)に位置し、それを示す一里塚が海寄りに設けられていました。」公園内には老松が存在感を。『江戸口見付跡』。江戸時代末期の小田原城の地図。現在地と小田原城の総構といわれる周囲約9kmの堀や土塁の様子が理解できるのであった。浜町歩道橋上より旧東海道国府津方面を振り返る。浜町歩道橋上より旧東海道小田原方面を見る。そして歩道橋の反対側には『江戸口見付並びに一里塚』。「見附とは、城の枡形門に設けられた見張番所であって、武器を用意し昼夜番士が詰めて警戒にあたる場所であるが、本城より外濠城門を示す場合が多い。小田原城は、天正18年(1590)の豊臣秀吉との小田原合戦の際には、町ぐるみ堀や土塁で囲まれていたが、江戸初期にこの構造を壊して東海道を 通す際に、枡形が作られた。小田原城から江戸に向かう出口であったため、江戸口見附と名づけられた。また、ここは江戸から20番目の一里塚があった場所でもある。慶長9年(1604)江戸幕府将軍徳川家康は、息子秀忠に命じて、東海道、東山道、北陸道に、江戸日本橋を起点として一里(36町・約4キロ)ごとに 塚を造らせた。塚は男塚、女塚と、街道の左右に対で置かれ、広さは通常5間(約9メートル)四方であった。塚には榎を植え、旅人の1里ごとの目印とする とともに、夏季における木陰の休息場所とした。天保年中の相模国風土記稿には、「江戸口の外南側にあり、高六尺五寸、幅五間ばかり、塚上榎樹あり しが、中古槁れ、今は松の小樹を植ゆ、古は双コウとなりしに、今隻コウとなれり。けだし街道の革(あらた)まりし頃、一コウは海中に入しならん。これより東は小八幡村、西は風祭 村の里コウに続けり」とされている。」『江戸口見付並一里塚址』。『善照寺』を訪ねる。大きな松の向うに本堂の屋根が見えた。『本堂』。真宗大谷派の寺。銅板丸瓦棒葺き、入母屋造り屋根平入り、流れ向拝。そして更に奥の『蓮上院土塁』を訪ねる。説明板には『天正18(1590)年秀吉の小田原攻めの際に築かれた総構の一部、この土塁に対峙したのは徳川家康・・・。』と書かれていた。『蓮上院土塁』の間にあった窪地。『太平洋戦争の爆弾着弾跡』。太平洋戦争中の空襲による爆弾の着弾跡が残っているのだと。旧東海道・国道1号線に戻る途中の交差点は『七枚橋(しちまいばし)』。この地名は、「文化十四丑年類焼録」(1817年)に初めて見られると。橋は、抹香町から大新馬場に通づる道路と護摩堂川(ごまどうがわ:小田原城三の丸の水を排水するために設けられた水路で、現在ではみられない)とが交差するところに、7枚の切石を並べてかけられていたそうです。この橋の名が、後にはこの付近の地名になったのだと。『十王町・抹香町』十王町は、小田原城絵図の一つである「万治図」(1660年)に初めて地名が見られると。この地名の由来は、この地が教徳寺の門前で同寺に十王像(死者のさまよい行く世界でその者の生前の罪を裁く10人の王をいい、その像)が安置されていたからと。 また、この付近の武家地を含んで「抹香町」ともいったと。この地名は、小田原城絵図に表示がなく、明治以後の記録にはじめて見られると。 この地名の由来は、近くに十王堂(閻魔堂(えんまどう))や寺が多く、線香のけむりが絶えなかったことによると。旧東海道の名所案内表示板。『鍋町』。鍋町は、その範囲がはっきりしていませんが、古新宿町と新宿町の一部を含む小町です。小田原北条氏時代(北条早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の北条氏5代(1495~1590年))から、町には鋳物師が数多く住んでいたと。そのため、鍋町と呼ばれるようになったと。旧東海道・国道1号線の新宿(しんしく)交差点を横切り直進すると旧東海道は右に曲がっていた。新宿町は江戸時代前期、城の大手口変更によって東海道が北に付け替えられた時にできた新町。町は、藩主帰城の時の出迎場であったほか、郷宿(ごうやど-藩役所などへ村人が泊まる宿屋)や茶店があり、小田原提灯(ちょうちん)づくりの家もあった。『小田原 かまぼこ通り』に入る。海からの恵みと箱根丹沢水系の良質な水が、小田原名物のかまぼこを生みました。船方村と呼ばれた旧街道筋には、かまぼこの本店が軒をかまえ「小田原かまぼこ通り」と呼ばれています。通りには、かまぼこだけでなく干物屋や鰹節屋、料亭、飲食店など、約30店舗が軒を連ねています。多くの蒲鉾屋が並ぶ。『万町(よろっちょう)』。町名は古くから「よろっちょう」とよばれた。町内には、七里役所という紀州(和歌山)藩の飛脚継所(ひきゃくつぎたてじょ)があった。江戸時代末期には、旅籠(はたご)が五軒あり、小田原提灯(ちょうちん)づくりの家もあった。右手に『小田原おでん本店』。茶室を備える上品な店内で、小田原の食材を使用した各種のおでんを提供している。おでん会席やランチメニューもあるとのこと。再び小田原名所の案内板。青物町に向かって旧東海道を進む。『下の問屋場跡』。この町には上(かみ)の問屋場(人足や馬による輸送の取継ぎ所)が置かれ、高梨町の下(しも)の問屋場と十日交代で勤めていた。町内には御用商人の小西家があり、江戸時代末期には脇本陣一、旅籠(はたご)が十一軒ほどあった。『高梨町』この歴史がありそうな食堂で昼食。レバニラ炒め定食を注文。『小田原宿 脇本陣古清水旅館』小田原宿の清水本陣では、代々弟が脇本陣を経営していた。明治維新後も旅館業を経営し、近年まで古清水旅館を営んでいたが、宿泊者数の減少から店をしまい、現在は高齢者住宅を経営している。その高齢者住宅「プラージュ古清水」の2階には、「古清水旅館資料館」がある。古清水旅館は第二次大戦の小田原空襲により焼けてしまったと。「8月15日の小田原空襲1945(昭和20)年8月15日、まさに敗戦当日、深夜1時か2時頃、小田原市はアメリカ軍の戦略爆撃機B29一機による焼夷弾空襲を受けました。小田原空襲の直前には、埼玉県熊谷市と群馬県伊勢崎市が空襲を受けており、その二都市を攻撃した編隊の内の一機が、マリアナ諸島の米軍基地へ帰還する途中に小田原を空襲したものと考えられます。アメリカ軍のその日の作戦任務報告書には、小田原空襲の記載は一切なく、計画されたものではありませんでした。しかしながら、アメリカ軍の日本都市空襲の候補地が記された「180都市の表」の96番目に小田原が挙げられており、本格的な小田原市街地への焼夷弾空襲がなされ、壊滅的な被害を受けた可能性がありました。8月15日の小田原空襲で被災し炎上した地区は、現在の浜町一・三丁目、本町ニ・三丁目にまたがり国道1号線をはさんで国際通りの両側にあたります。焼失した家屋は約400軒、死者は本会の調査によれば12名です。被災した古清水旅館には、小田原空襲を伝える写真が保存されています。建物がすっかり焼け落ちた古清水旅館の後方に焼き尽くされた小田原の町並みが映っています。当時の館主、清水専吉郎氏が写真屋を呼んで撮影したものです。今から62年前にあった小田原空襲の記した説明板を、被災した古清水旅館の敷地に設置することで、戦争の愚かさや悲惨さ、平和の尊さを少しでも語りつぐことができればと思います。 2007 (平成19) 年8月15日 戦時下の小田原地方を記録する会 古清水旅館 館主 清水伊十良」『宮前町(みやのまえちょう』。小田原北条氏時代には上町・下町に分かれていたと伝えられている。町の中央に城主専用の入口、浜手門口と高札場(幕府の法令などを掲示する場所)があり、江戸時代末期、町内には本陣一、脇本陣二、旅籠(はたご)が二十三軒あって、本町とともに宿場町の中心であった。『小田原宿 清水金左ヱ門本陣跡』清水金左衛門本陣は、江戸時代は大名の宿泊所として役目を果たし、明治になっても明治天皇が5回も泊まられたと。「小田原宿 清水金左ヱ門本陣跡小田原宿は、東海道五十三次のうち江戸から20里(約80km)の距離にある、品川宿から数えて9番目の宿です。箱根越えを控えたことなどから、多くの大名や旅行者が宿泊し、東海道中でも大変規模が大きく、本陣、脇本陣、高札場、問屋場など、宿としての機能が整えられていました。天保年間(1830~1844)当時、小田原宿には4軒の本陣、4軒の脇本陣、95軒の旅籠があった。このうち、清水金左ヱ門本陣跡と片岡永左ヱ門本陣跡は、明治天皇が全国巡幸のおり宿泊していたことから、それぞれ「宮の前行在所」、「本町行在所」として小田原市の指定史跡となっています。清水金左ヱ門本陣は、尾張徳川家や薩摩の島津家、熊本の細川家など、西国の有力な大名が定宿としていました。また、明治元年(1868)の東京遷都や全国巡幸の折、明治天皇も5回にわたり宿泊しています。清水氏は、戦国大名北条氏の家臣で、伊豆下田城主を務めた家の子孫と伝わっており、江戸時代にも小田原宿の町年寄など重要な役割を担いました。 平成29年3月 小田原市教育委員会 」『明治天皇宮ノ前行在所跡』明治天皇宮ノ前行在所跡は、明治天皇が宿泊した清水金左衛門本陣のあった場所で、この事蹟を記念し、本陣跡の土地365.92m2を整備した上、石碑が建てられた。正碑は高さ2.73mの小松石の総磨で、碑面「明治天皇小田原行在所址」と刻んであります。副碑は小松自然石で、明治天皇が宿泊した由来が刻まれ、事業碑は本小松石で明治天皇聖跡小田原保存会の事業が刻んであります。「小田原市指定史跡 (昭和32年3月30日指定)明治天皇宮ノ前行在所跡 (旧清水金左衛門本陣跡) (所在地) 小田原市本町3-5-25明治天皇宮ノ前行在所跡は、明治天皇が宿泊した清水金左衛門本陣のあった場所です。正碑は高さ2.73mの小松石の総磨で、碑面に「明治天皇小田原行在所址」と刻んであります。副碑には由来が刻まれています。清水金左衛門本陣は、小田原宿に四軒あった本陣のうちの筆頭で、清水金左衛門家は江戸時代に町年寄も勤め、宿場町全体の掌握を行っていました。本陣の敷地面積は、およそ240坪で、大名、宮家などの宿泊にあてられました。明治天皇が宿泊したのは、明治元年(1868)十月八日の御東行を際を初めとして五回を数えます。明治天皇聖跡小田原町保存会は、この土地を買収して、昭和十五年二月に整備工事を着手し、昭和十五年十月に落成しました。 小田原市教育委員会」 ・・・その4・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.02.12
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道・国道1号線を小田原城に向かってすすむ。小田原市東町1丁目の右奥にある『心光寺』を訪ねる。『山門』。間口の広いすっきりとした意匠の山門。本柱が棟木に達し、腕木が軒桁を支える高麗門形式。通常、無骨な内法貫が本柱を貫通しているが、ここでは装飾的な虹梁+禅宗様木鼻の組み合わせ。『浄土宗 月密山 護年院 心光寺(しんこうじ)』 『本堂』コンクリート造の本堂。寄棟造り屋根妻入り、流れ向拝。コンクリート造の特性を生かし、薄い屋根が深々と持ち出され、さらに、先端で反り上っていた。中央両脇の、大きなスチールサッシが寺院の本堂にしては珍しかった。。『鐘楼』。『水子供養像』。多くの鯉が泳ぐ池の先にあったのが『薬師堂』。『無縁仏塚』。『六地蔵』。本堂を横から。そして再び国道1号線を歩く。右手に『浄土宗 道場院』。『本堂』寛正元年(1460)転蓮社乗譽道場弘尊の建立と伝えられのみで、開基並びにその背景については記録を欠き詳らかでない。当所新宿町建立されたが、寛永10年(1634)新馬場に移され、正保元年(1644)更に山王原に転じたと。松原山宗福寺と号す。浄土宗の寺で江戸芝増上寺末。本尊は阿弥陀如来。 足柄観音十八番札所。『阿弥陀如来像』。『松原山』と書かれた扁額なのですが・・・。吉川弘二 の詩 『心』「幾歳世末の末まで忘れめや 尊き父母の 愛の広さを春夏秋冬 善樂あり 老境思えば 夢のまた夢我事を成し得て 祖先にまみえん此の身は土に 換えるとも」『観世音 お慈悲を 松に母を 見ん』か?そして山王橋交差点へ。流れる川は山王川。山王橋を渡って右側にあったのが『山王神社』。小田原城の山王曲輪(くるわ)であった場所。境内の『忠魂碑』。『旧山王原村の図』山王原村(東町1丁目)は1830~44年(天保年間)で31戸、1887年頃は50戸。『新編相模國風土記稿』では「長吏、道場院の北、見捨地七段十四歩に住す。家数三十一、長を太郎左衛門と稱す。外に非人一軒あり。白山社、長吏の持なり」と記載があると。山王原村太郎左衛門は、後北条氏の支配圏内における長吏の触頭であったが、同氏の滅亡と江戸幕府~弾左衛門体制の確立に伴う下古沢太郎右衛門の台頭により、支配域を酒匂川以西の地に限定されていった。明治中期には横浜に200軒の借家を所有していたとのこと。1910~40年頃まで存在した麻撚り工場(小西家)は元小頭一族の家。『星月夜の社 山王神社』。神社の由緒は明応4年(1495年)、北条早雲が当時の小田原城主の大森藤頼を破り、城を手中に納めた頃はこの神社は海辺にあったのだと。高波で崩壊したため、慶長18年(1613年)に、ここに移されたと。神社が海辺にあったときに星月夜ノ井戸があり「星月夜の社」と呼ばれていたと。ちなみに井戸もここに移されたと。小田原のお祭、例大祭は毎年5月3日から5日にここ山王神社でも行われるのだと。『拝殿』。御祭神は大山咋命 ( おおやまくいのみこと ) 大山祇命 ( おおやまつみのみこと ) 少彦名命 ( すくなひこなのみこと ) 。そして山王神社の隣にあったのが『宋福寺』。『本堂』。『犬渕山宗福寺』と書かれた扁額。門を入って右側に寛文7年(1667年)、正徳6年(1716年)などの庚申塔3基や石塔が並ぶ。何基かの海難漁師の供養塔も建てられていた。『山王大権現』。山王大権現は宗福寺の鎮守だったのだと。『水子地蔵尊』歴史を感じさせてくれた宝塔。そして、日本橋まで(から)83Km。 ・・・その3・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.02.11
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次日蓮宗の『法船寺』に向かう。この酒匂地区には法船寺の外に法秀寺、法善寺、本典寺、妙蓮寺などの多くの日蓮宗寺院があった。『済度山 法船寺 山門』。寺であったが山門には注連縄を張ってあった。そして本堂にも。境内にあった『常守稲荷』『六地蔵』。『日蓮聖人像』。日蓮上人と地蔵堂。『日蓮聖人御開眼 御手引地蔵尊天』と書かれた札が。「文永十一年五月十二日、日蓮大聖人は、鎌倉より身延山御入山の途中、酒匂川増水の為、渡る事不得口却せられる時この境内の大きな松の木に龍燈の霊光あり不思議に思ってお入りになるとその折、一老翁出現、宗祖と御弟子一行に御一泊乞う。当時お地蔵尊お守りせしお堂にお泊めいたし、お出迎の老翁は、お地蔵尊化身である事を知り堂守飯山入道夫婦日蓮大聖人に深く教化せられ改宗して済度法船居士蓮慶妙船大姉の法名を頂く。翌朝十三日船を出し御一行無事にお渡し致し後、法孫朗慶上人一寺を創立、済度山法船寺と号す。龍燈の松の枝にて、宗祖の御尊像を刻み本堂に安置す。この地は龍燈の松の木の旧地なりこのお地蔵様は、日蓮大聖人お手引きして無事向岸へお渡しせし不思議なお地蔵様ですお手引き地蔵として参詣の人たちがたえません。毎年五月十二日(母の日)小田原寺院総出仕稚児行列にて交通安全、家内安全大祈祷会大祭が行われております。日蓮大聖人、自ら足をお運びになった霊跡なり。」『水子地蔵尊』。『鐘楼』。『法泉寺 五重塔』1994年には立教開宗750年の記念事業として五重塔のミニチュアを完工。総高6.8m、総檜本瓦葺きの本格建築で、横浜日吉天野工務店施工。総工費約7500万円、とのこと。木造で瓦も本物!全部に紋が入っていた。1300人からの浄財で建てられたと。そして旧東海道を更に進み連歌橋交差点前まで来た。「鬼柳排水路」に架かる「下菊川橋」を渡る。更に進むと酒匂橋東側交差点が目の前に。酒匂川(さかわがわ)に架かる『酒匂橋』を渡る。酒匂川の土手には記念の石碑として広重の絵がはめ込まれていたのでズームで。「酒匂川の渡しは、東海道五十三次道中の難所の一つで、古くは船渡しが行われていたが、延宝二年(1674)船渡しが禁止され徒渉(かちわたり)制が施行され、冬の時期を冬川と言い仮橋を架けて往来したが、夏の時期は夏川と称し橋を架けないので必ず手引・肩車・輦台(れんだい)など有料で川越人足の力を借りて渡らなければならなかった。この制度は明治四年(1871)に廃止された。」『東海道五拾三次 小田原 酒匂川』小田原は9番目の宿で、日本橋より二十里半(約82キロ)・徒歩二十時間である。小田原宿は江戸を出て初めての城下町である。また東海道最大の難所、箱根峠越えを前にして、多くの旅人が江戸を出て二日目に宿泊する場所でもあり、宿泊客が多く、東海道有数の大きな宿場として栄えた。広重は、小田原の手前の酒匂川から箱根の峯々を望み、その手前に小田原城と小田原の宿を描いている。酒匂川では蓮台渡し、水切り人足に先導された十数人で担ぐ大名駕籠をのせた大高欄蓮台、槍持ちの肩車などの川越の様子を描いている。江戸時代には江戸防衛政策の一環から大井川をはじめ橋が作られなかった川の一つが酒匂川。増水すると川止めになったようです現在の国道一号線の橋の少し上流側を渡ったようですが、雨が続き増水すると江戸時代の旅人は、足止めを食っていたのでしょう。左手に西湘バイパス、そして酒匂海岸と相模湾。酒匂橋から富士山の白き頂上下が僅かに見えた。正面に箱根~湯河原方面の山々の姿が。白鷺の姿も。酒匂川、相模湾の水面が輝く。渡って来た酒匂橋を振り返る。酒匂橋を渡り終わり暫くしてから左折し『新田義貞の首塚』を探す。ようやく見つけたがここの立て札のみしか見つけることが出来なかった。「建武の中興の柱石であった新田義貞は、北陸を転戦中、延元3年(1338)、越前国(福井県)藤島で討死し、 足利尊氏によってその首級を晒されていた。義貞の家臣宇都宮泰藤(小田原城主、大久保氏の先祖)は、 主君義貞の晒首を奪い返して領国三河に往き、妻子に暇を告げ、主君義貞の本国、上野国(群馬県)に首級を葬るため東海道を下った。しかし、酒匂川のほとり、ここ網一色村に達したとき、病にかかり再起できなくなってしまったという。 そこでやむなく義貞の首をこの地に埋葬して、自身もこの地で歿したと伝えられている。その後、新田義貞の首塚として地元の人々に尊信されていたが、戦後一時荒廃してしまった。しかし、近年地元有志によって 復興整備され、新田義貞の首塚の碑も建立された。なお北方八幡神社境内に、新田神社の祠がある。そして住宅街の狭い道を戻り再び国道1号線に戻る。そして『常顕寺(じょうけんじ)』を訪ねる。『本堂』。そして次に訪ねたのが『呑海寺』。住宅街の狭い参道を進む。『本堂』。臨済宗大徳寺派の寺。寄棟造り屋根、平入り、流れ向拝。祠の中の石仏。御本尊の『南無釈迦如来』。『六地蔵』。『南無妙法蓮華経』と刻まれた石碑の先にも寺が。太い石柱の山門の先に境内、奥に本堂。境内社。『本堂』。銅板丸瓦棒葺き、入母屋造り屋根平入り、流れ向拝。向拝の軒樋の雨水が大きな水甕に排水されていた。本堂のガラス戸のお印は黄金色。この辺りは寺町であったのだろうか?次に訪ねたのが『昌福禅院』。風情ある白壁の参道。参道の白壁沿いの『六地蔵』。『山門』『本堂』。『無縁仏塚』白壁の前には様々な石碑が立っていた。 ・・・その2・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.02.10
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次三寶寺を後にし進むと日本橋まで(から)80Kmと標柱が。松並木が再び始まり、前方に「酒匂歩道橋」が。『道祖神』。右手に『長楽寺』。国道1号線、酒匂県営住宅交差点から東約30m、北約100mに御影石の門が。勧学山修行院と号し、開山は応永十五年(1408)、浄土宗の寺。奥に『本堂』。門を入ると正面、ツツジの参道の先にマキの木を配した入母屋造の本堂が。棟に二つの浄土宗の宗紋・月影杏葉が輝き、向拝は欅の柱、梁、虹梁、海老虹梁で構成。虹梁は唐草のレリーフが彫られ、欄間には大胆な彫りの飛竜がしつらえられていた。また、海老虹梁にも唐草のレリーフが彫られ、両側を獅子鼻が支えていた。『上輩寺』上輩寺は品山浄土院と号し、開山は他阿真教、開基は酒勾右馬頭、永仁五年(1294)起立。法然上人像か?『本堂』。境内横に銀杏の巨木は。『小田原市指定天然記念物 上輩寺の乳イチョウ』。垂れ下がったものは乳柱と呼ばれているらしい。イチョウは乳柱が多く独特な樹形で飯泉の勝福寺、城山の光円寺と並ぶ小田原三大イチョウの一つでもある。高さ 15m 胸高周囲 5m、樹齢約600年、室町時代の生まれと。『かながわの名木100選』プレート。このイチョウの傍(写真右)に三基の五輪塔が並んでいた。地元の豪族、酒勾一族の墓と伝わると。コンビニの店頭にはサンタと雪だるまが。次に浄土宗光明院『大見寺』を訪ねる。新編相模風土記によると大見寺は「光明山無量院と号す、天文三年(1534)僧退堂、小菴の古跡に就て起立す、境内に小島氏の墳三あり、各五輪なり」という。『山門』背の高い石仏像。『六地蔵』生前の行為の善悪のいかんによって,人は死後に,地獄,畜生,餓鬼,修羅,人,天という六道の境涯を輪廻,転生するといわれるが,そのそれぞれに,衆生救済のために配されていると。写真右から檀陀,宝印,宝珠,持地,除蓋障,日光の6地蔵をいうと。『本堂』境内の植木の手入れ中であった。大見寺境内の本堂前には川辺氏代々の墓が並び、おくに円柱の上に仏様が蓮華座の上に腰掛けたような石柱が。これは川辺家当主川辺清兵衛家次墓で当時の繁栄ぶりが残されていた。『小島家の宝経印塔・五輪塔』中央の白い塔の左が宝経印塔のようだ。『小島家の宝経印塔・五輪塔』説明板。「小嶋家は酒匂の旧家で、江戸時代は名主や組頭もつとめた家柄。右側の宝篋(ほうきょう)印塔は、徳治三年(1308年)銘の墓石で、小嶋家の祖先である左衛門入道の墓。なんと今から700年前、鎌倉時代初期の墓だという。左の宝篋印塔は、天文二十一年(1552年)銘の墓石。小嶋家の中興の祖である小嶋行西(ゆきにし)の墓。戦国時代の墓ということになる。向かって左の墓地の五輪塔は、天正二年(1574年)銘の墓石で、小嶋行西の子、左衛門太郎正吉の墓と考えられるもの。後北条氏治下の時代になる。」『五輪塔』。横から。『小嶋家由来』本陣を営んでいた『川邉家』と刻まれた石碑も。「ゆりかご園」と表札のかかった古い長屋門。川辺家の門。児童養護施設「ゆりかご園」の敷地になっていた。『酒匂不動尊』。不動堂の右側には『酒匂不動延命水』があった。「ここは明治二十一年行者海老原師により酒匂水行堂水修行道場として開かれました。この延命水は地下より湧き純粋清冽にして霊験有。どなた様も自由にお使い下さいませ。」そして日本橋まで(から)81Km。次に右側奥に日蓮宗 神力山『法善寺』。日蓮宗の寺であるが、元は真言宗の寺であったと。『本堂』。寺縁起に永享十一年(1439)、法善入道と云われる中野禅門がここに真言の庵を結び、十九年後、伯父にあたる本法院日敬聖人の教えにより号を神力山として日蓮宗に改宗したと。『浄行菩薩(じょうぎょうぼさつ)さま』。水をかけて「南無妙法蓮華経」と唱えると、ケガレを除き病を治してくださると。見事な『宝経印塔』?と『神力山法善寺縁起』。『扁額』の文字は?日本橋から81Km。左手に日蓮宗『妙蓮寺』。本堂は明治43年に火災により焼失。縁のあった善行寺(横浜市)が本堂建替えを行うとのことで、旧本堂を譲り受け移築した。大正12年の関東大震災で倒壊したが、昭和2年に再建された。そして一昨年10月、本堂新築落慶法要が執り行われた。「高祖日蓮大聖人降誕八百年」「妙善寺開創四百五十年」という節目を迎える大事業にて新築されたと。左手にあったのが『栄柳山 本典寺』。享禄年間(1528年‐1531年)より 法燈継承する歴史ある寺。境内の墓地。樹齢500年を超える大きな御神木(タブの木)。『南無妙法蓮華経』と刻まれた2つの石碑。 ・・・その1・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.02.09
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次昨年12月4日に旧東海道の国府津から箱根旧街道の始点の『三枚橋』まで旅友のSさんと二人で歩いて来ました。この日の旧東海道のルートです。JR国府津駅から海沿いを歩き、酒匂川を渡り」小田原城近くの小田原宿を通過し、小田急線に沿って箱根湯本駅手前の三枚橋までのルート。JR国府津駅を9時にスタート。旧東海道の国道1号線には『国府津・曽我の里散策コース』と書かれた支柱が。国府津駅から曽我丘陵を尾根づたいに「曽我の里」へ。菅原道真. 公を祀った「菅原神社」や「中河原梅林」の中にある曽我兄弟ゆ. かりの「瑞雲寺」などを通ります。天気の良い日は、富士山や足柄. 平野が一望でき、爽快な気分を味わえるコースであると。『国府津駅前』交差点を右折して小田原方面に。左側に相模湾が姿を現す。左手に『御勧堂(おすすめどう)』南側は全部太平洋。ここは親鸞聖人草庵の旧跡で聖人が7年間、民衆を教化されその後 弟子の顕智坊に譲り上洛されたのだ。石碑の裏側。親鸞聖人が、布教のために、ここ国府津にとどまっていた時に、民衆を教化した庵室跡親鸞聖人御草庵之旧跡『親鸞聖人7ヵ年御旧跡真宗大谷派真楽寺』の石碑。もともとは天台宗のお寺でしたが、親鸞聖人の教えにより真宗に改修しました。「真楽寺」という名前も親鸞聖人がつけました。切支丹禁制下に、観音像だと偽っていたマリア像がある。『帰命堂』。中には親鸞が指で字をなぞった帰命石があるそうです。『本堂』。『鐘楼』。細い木の奥にあるのが『真樂寺のボダイジュ』。新編相模国風土記稿(1830~1841年編纂)にも当時の菩提樹の記述があり《親鸞手植のものと云、囲7尺》とあり、当時は幹回り2.1mの大樹で、単幹であった事が分かるが、幕末の頃、真楽寺で火災があり損傷しその後、蘖(ひこばえ)が生え、成長したものが現在の菩提樹だとのこと。この木が親鸞上人の植えたものかどうかはっきりしないが、樹齢370年位と推定されており、植え継がれたものと考えられる。次に釼持山(けんじさん)『法秀寺(ほうしゅうじ)』を訪ねる。小田原市国府津2-9-4にある日蓮宗の寺。境内にある神社。『本堂』。開創は永禄7年(1564)。開基壇徒釼持佐右門の父大蔵(法号法秀)が深く法華経を信仰し、別邸を挙げて寺を建立しようとし、永昌院日運上人に願い開山したと。本尊は一塔両尊四士。『水子供養』『永昌院日運上人像』。洞に安置された石仏。日蓮宗の寺ですが火灯窓・花頭窓(かとうまど)が。『森戸川』に架かる『親木橋』『森戸川』と奥に『西湘バイパス』が。曽我梅林方面への道には東海道本線が。西湘バイパス『国府津IC』。そしてその奥に相模湾が拡がる。日本橋から79Km。左手に『山近記念総合病院』。「一里塚」というバス停。続いて「ガスト」を過ぎた所に、民家の塀前に説明板のみ立っている『東海道小八幡の一里塚』このあたりは、旧東海道に設置された江戸から19番目の一里塚があった場所です。慶長9年・・・小八幡の一里塚について、天保年中の相模国風土記稿に「東海道中の東にあり、左右相対せり、高二間、舗六七間、塚上に松樹あり上は小田原宿入口一里塚、下は淘綾郡山西村小名梅沢の一里塚に続けり」とあると。『八幡神社』入口。次の「宮の前バス停」の傍に三寶寺があった。街道際に『弘法大師筆跡 利劔名号 安置』と刻まれた大きな石碑が建っていた。八幡山神明院『三寶寺』境内の銀杏の大木は全て葉を落としていた。三寶寺『本堂』。三つの寶とは、一つは「佛」、一つは「法」、一つは「僧」の「ぶつぽうそう」のこと。佛教の信仰の基本はこの三つの寶に帰依することから始まると。「佛とは明るく・法とは正しく・僧とは仲良く」みんなで明るく、正しく、仲良く日々を生きていこうという教えの寺なのだと。見事な彫刻。破風の彫刻も見事。『茶枳尼天(だきにてん)』吒枳尼信仰は、空海によって、日本に持ち込まれたと。日本においては、吒枳尼天(だきにてん)と呼ばれ、密教の教主である大日如来 (だいにちにょら い)の化身とまで呼ばれるまで崇(あが)めら、白い霊狐(れいこ)に乗った天女の姿として描かれ、稲荷神(御饌津神 (みけつかみ))と同一視されていると。『六地蔵』。手水舎。蓮の花の中に水場が。『鐘楼』。『三寶寺梵鐘 黄鐘』。平成の本堂大改築への礎となった建造物(棟梁、内田定春氏)。昭和六十二年春落慶、鐘の音調は129ヘルツの黄鐘調、重量:二百貫、外口:二尺八寸、鋳造:昭和六十二年二月二十日京都唐渡町鋳匠岩澤宗徹師、形態は井上三綱画伯の作品「黄鐘調」のレリーフが鋳込まれた美術梵鐘。徒然草に「およそ鐘の音は黄鐘の調べなるべし、其の無常の調子祇園舎の無常院の声なり」とあると。母親が低い声で子守歌を唱いながら赤ん坊を寝かしつけるあの音程を黄鐘調といい、元々東洋の雅楽の音程で「すべての生きとし生けるものが平和に幸せになりますように」との願いを込め銘文「諸行無常 諸法無我 涅槃寂静」が鋳込まれ制作されたものであると。『南無阿弥陀仏』と刻まれた石碑。『小田原邪宗門』道路脇の看板にあった、「てらカフェ」、11時からOPENと。銀杏の大木の乳根も見事な大きさ。 ・・・旧東海道を歩く(大磯~国府津)・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.02.08
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1月11日(金)に都内に行った折、足を延ばして東京駅そして丸の内のイルミネーションを楽しんで来ました。2012年に赤レンガ作りの東京駅の復元工事が終了し、2013年にKITTEが開業してから丸の内周辺はますます賑わいを見せているのです。東京駅へと到着して丸の内中央口からロータリーへと出てみると、工事中だったスペースが開放されて広場になっていました。東京駅正面広場から。KITTE(キッテ)は、日本郵便が展開する商業施設である。日本郵政が初めて展開する商業施設である。「KITTE」というネーミングは、「切手」を貼ると郵便として大切な人に想いが届くのと同じように、商品やサービスに「KITTE」という付加価値を加えることで、それらに込められた想いまでもきちんと届けることができる施設でありたいという気持ちを込めて名付けられた。また「KITTE」には“来て”という意味も込められており、商業施設にとって大切な“賑わい”をつくることと、“多くの人に来ていただきたい”という想いを楽しく伝えることを目標に名付けられたのだと。丸の内の三菱ビル(左)と丸の内ビルディング(丸ビル)(右)。2014年から駅前の整備の工事が続いていて、ロータリーの整備が進んでいましたが、元々ロータリーだった部分を広場にして、歩行者が自由に往来できるスペースに。これによって、皇居前の「和田倉門」交差点からはじまる行幸通りと東京駅前の広場が繋がったことになったのです。東京駅・丸の内・南側。丸の内・中央出口。日本国旗が。再び丸ビル側を。ビルの間に月の姿を発見。駅前広場を更に進んで振り返る。東京駅越しに八重洲口側のビル群の姿も。グランドトウキョウサウスタワー(左)とパシフィックセンチュリープレイス丸の内(右)。そして丸の内エリアの冬の風物詩として街を彩る恒例のイベント「丸の内イルミネーション2018」を今年も開催中。2018/11/08~2019/02/17 17:30~23:00。 ブランドショップが並ぶ約1.2kmにおよぶ丸の内仲通りの、200本を越える街路樹が上品に輝く丸の内オリジナルカラー「シャンパンゴールド」のLED約100万球で彩られていたのです。丸の内仲通りのイルミネーションを楽しむ。丸の内仲通りの200本を越える木々がLED約100万球で彩られていると。「丸の内イルミネーション」は17年目を迎えると。どの様なやり方で木々にLEDを取り付けて行ったのであろうかと。白い虎?もイルミネーションを楽しんでいた。正面から。三沢厚彦氏のアニマルアートのようだ。1986年より東京藝術大学美術学部彫刻科で教鞭をとられていた木戸修氏の作品と。ズームで。ウエディング姿の女性が記念撮影中。桑田卓郎氏の作品 「つくしんぼう 2018」。近づいて。鹿田淳史氏の作品「コズミック・アーチ '89」更に丸の内仲通りを進む。店のショッピングウィンドウの景色も美しかった。桜の花も。加藤 泉氏の作品「無題 2018」。様々な工夫がアクセントに。ステンドグラスの如き造形を楽しむ。色も刻々と変わり。そして晴海通りを渡る。「TOKYO MIDTOWN HIBIYA」。東京ミッドタウン日比谷香取慎吾作品『フリーダムガンネン』。日比谷シャンテ。添好運 (Tim Ho Wan / ティム・ホー・ワン)。香港に本店を構える手作り点心専門店。アジアンモダンで広々とした店内で、餃子、ライスロール、蒸しご飯を提供。デザートもあると。東京ミッドタウン日比谷は、約60店舗に及ぶショップ&レストラン、オフィス、映画館、空中庭園や広場空間が集約された複合施設。芸術文化・エンターテインメントの街「東京ミッドタウン日比谷」。そして有楽町駅から五反田駅に向かったのであった。
2019.02.08
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今年も、いつもの旅友Sさんとポルトガル旅行に行く予定を立てています。参加ツアーは阪急交通社(TRAPICS)の【ブリティッシュエアウェイズ航空利用<北スペインの聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラ観光付!決定版ポルトガル8日間】当初に申し込んでいたツアーは、催行が危ういと判断し、既に催行が決定していたツアーに急遽変更しました。やはり最初に申し込んだツアーは催行中止になったようです。今回は、昨年ウズベキスタン旅行でご一緒し、お世話になったKさん姉妹も参加されるとのことで賑やかな楽しい旅になりそうです。最終旅行日程表も送られて来ました。今回のツアーは総勢33名、男性14名、女性19名とのこと。札幌出発、仙台出発の方も成田まで来て合流されるとのこと。予習用にブックオフで購入しました。地球の歩き方はやや古いですが。スペインには10年以上前の2008年6月に行きましたがポルトガルは今回が初めてとなります。ポルトガル共和国・通称ポルトガルは、南ヨーロッパのイベリア半島に位置する共和制国家。北と東にスペインと国境を接し、国境線の総延長は1,214kmに及ぶ。西と南は大西洋に面す。ヨーロッパ大陸部以外にも、大西洋上にアソーレス諸島とマデイラ諸島を領有している。首都はリスボン。ポルトガルはユーラシア大陸最西端の国家。ヨーロッパで最初に海路で中国や日本など東アジアとの接触を持った国なのです。(以下の写真の多くは、ツアー会社やネット写真を転載させていただきました。)ポルトガルの国旗は旗竿側5分の2に緑、旗尾側5分の3に赤の縦二色に盾など国章の主要部分を配した旗。一説に、緑は希望を、赤は共和国成立の革命を表すとされる。また、緑は希望と誠実さを表すとともに勇敢なるアヴィス騎士団(ポルトガルアヴィス朝建国に関わる)のシンボルカラーであり、赤は大航海時代、新しい発見や未知なる大地を目指し、大洋と闘った輝けるポルトガル人の先人たちの犠牲の血を表している、とする説もある。金色(黄色)の球状の物体は、大航海時代の航海用具・天測儀である。ポルトガルの先人による測量術発展と、それによる新規航路の発見を表し、つまりはポルトガル海上帝国の輝かしい歴史を表していると。盾の中の七つの黄色い城はルコンキシュタ(レコンキスタ、国土回復運動)の終わりにアフォンソ3世がベルベル人(ムーア人)から奪い返した城砦を、五つの青い盾はオーリッケの戦い(1139年)をめぐる初代ポルトガル王アフォンソ1世の伝説にある敵の五人の王を、青い盾の中にある五つの白い円はキリストの五つの聖痕を表すとされている。14世紀に入りポルトガルは積極的に海上交易に進出し,1385年ジョアン1世 (名王) は海商ブルジョアジーの支持を得てカスティリアから独立を守り,アビス朝を開いた。その子エンリケ (航海王子) は西アフリカ探検を推進して大航海時代を準備した。バスコ・ダ・ガマは海路インドに達して,海上の香料交易ルートを確立し,ポルトガルは黄金時代を迎えた。しかし,その繁栄は長く続かず,16世紀後半には没落の道をたどりはじめ,1580年ポルトガルはスペインに併合された。 1640年ジョアン4世 (再興王)は,スペインの勢力衰退に乗じて独立を回復し,ブラガンサ朝を開いた。以後,植民地ブラジルの砂糖産業,金鉱開発に努めたが,経済的,軍事的に対イギリス従属を強めていった。 18世紀後半ポンバル侯の改革によってポルトガル経済は若干立直りをみせたが,1807年ナポレオン軍の侵入を受けて王室はブラジルに亡命し,国土は半島戦争により荒廃した。 20年自由主義革命の勃発によりジョアン6世 (温厚王)は立憲王政を承認し,22年植民地ブラジルは独立した。彼の死後王位継承をめぐって国内はマリア2世を支持する自由主義派とドン・ミゲルを擁護する保守反動派に分れ,19世紀前半内乱が続いた。 51年サルダニャ公の内乱平定によりポルトガルは革新党,進歩党の二大政党による安定期を迎え,産業革命が進行した。 19世紀末には共和主義が台頭し,王政の財政危機,政局不安定から 1910年 10月共和国が樹立したのであった。1410年から1999年までにポルトガルが領有したことのある領域(赤)、ピンクは領有権を主張したことのある領域、水色は大航海時代に探索、交易、影響が及んだ主な海域である。そしてポルトガル語を話す国はどんな国?ポルトガル語を母国語とする人口は、世界で約2億5000万人である。そのうちポルトガルの人口は1000万人程度、約2億人のブラジルがポルトガル語を公用語にしているため、話者人口が多い。ポルトガル語の話者の80%以上がポルトガルではなくブラジル国内という珍しい言語である。世界的にみると、7~8番目に大きな話者人口である。現在ポルトガル語を公用語としているのは、以下の諸国と地域である。ポルトガル、ブラジル、アンゴラ、モザンビーク、カーボ・ベルデ、ギニア・ビサウ、サントメ・イ・ブリンシペ(他にマカオ、東チモール、インドのゴア等)の国である。そして旅行で覚えて行きたいポルトガル語。[こんにちは!] [Olá]オラ[元気ですか?] [Como está?]コモ(エ)スタ?[元気?] [Como estás?]コモ(エ)シタス?[元気だよ、ありがとう] [Estou bem, obrigado/a]シュトウバイン、 オブリガード(男性) オブリガーダ(女性)[元気です!] [Estou ó[p]timo/a]シュトウ オッティモ(男性)オッティマ(女性)[うまくいってる? 調子はどう?] [Tudo bem?]トゥドバイン?トゥドベイン?[ハイ!順調] [Tudo [bem]トゥド!(上の質問に対する答えかたです。)[まぁまぁだね] [Mais ou menos]マイゾメノシュ (手のひらを下に向けてヒラヒラさせて、まぁまぁ、という表現をする)[お会いできて嬉しいです。] [Prazer]プラゼール[お会いできて光栄です!] [Muito prazer]ムイントプラゼール! [おはよう] [Bom dia]ボンディーア[こんにちは] [Boa tarde]ボアタールデ[こんばんは] [Boa noite]ボアノイト(ボアノイテ)[さようなら] [Adeus]アデウシュ[またね〜] [Tchau/Chau]チャウ![また後でね!] [Até logo]アテロゴ。[また明日ね] [Até amanhã]アテアマニャ[では また!] [Até já]アテジャ(テジャ)[次回までね!次会う時まで] [Até a próxima]アテアプロッシマ[ハイ] [Sim]シン スィン[いいえ] [Não]ナウ ナォゥ[お願いします] [Se faz favor]ス ファスファボール[ありがとう] [Obrigado/a] オブリガード 男性/オブリガーダ 女性[本当にありがとう。感謝します。] [Muito obrigado/a] ムイントオブリガード 男性/ ムイントオブリガーダ 女性そしてポルトガルの気温。平均気温は東京より7℃ほど高く2~3月の首都リスボンの平均気温は12~15℃と。ポルトガルは、南西から押し寄せる大西洋の暖流のおかげで、緯度から考えればとても温暖な地なのです。首都リスボンは北緯38度でほぼ仙台と同じ緯度なのですが。そして時差は日本より9時間マイナス。今回のツアーでは成田空港からブリティッシュ・エアウェイズでロンドン・ヒースロー空港経由でポルトガルの首都リスボンに向かう。イギリスはシェンゲン条約に加入していません。シェンゲン条約とはヨーロッパの加入国を大きく1つの国としてみなすような条約なのです。もしイギリスが加入していればロンドン・ヒースロー空港で入国し、ロンドン→リスボンを国内線のような感覚で搭乗することになります。しかしイギリスはシェンゲン条約に加入していないので、入国審査の必要はなく入国審査はポルトガルのリスボンで受けることになるのです。そして成田で預けた荷物もそのままリスボンまで。そしてポルトガル・リスボンに到着し、深夜にリスボン市内のホテルに到着そして宿泊。そして翌朝からの5日間で7つの世界遺産を含む、11の観光地を訪ねるのだ。【世界遺産1】バターリャ観光【世界遺産2】ポルト歴史地区【世界遺産3】サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼の道(歓喜の丘) 【世界遺産4】サンティアゴ・デ・コンポステーラ(旧市街)【世界遺産5】コインブラ大学【世界遺産6】トマールのキリスト修道院【世界遺産7】リスボンのジェロニモス修道院とベレンの塔2日目の朝は8:30にホテルを出発し、バスにて北上しこの旅行での最初の観光場所バターリャへ。[約123KM、約2時間]着後、バターリャ観光(1時間)。世界遺産の『バターリヤ修道院』を訪ねるのです。『バターリヤ修道院』バターリャ修道院は、ドミニコ修道会の修道院であり、ポルトガル・レイリア地方の都市であるバターリャにある。ポルトガルにおける後期ゴシック建築の傑作であり、マヌエル様式も用いられている。バターリャ修道院は、切妻屋根、尖塔と小尖塔、控え壁によって多くの人々を驚嘆させる。バターリャ修道院は、ポルトガルの独立を象徴する建築物であり、1983年、ユネスコの世界遺産に登録されたと。観光後、更にバスにて北上しポルトへ。[約186KM、約2時間30分]。ポルトは工業が盛んなポルトガル第二の都市。【世界遺産2】ポルト歴史地区観光(3時間)◎サンフランシスコ教会、◎ポートワイン工場(見学と試飲)、○ドン・ルイス1世橋(橋の上を歩きます!)、○サン・ベント駅(ポルトガルの伝統的なタイル装飾「アズレージョ」を鑑賞。『サンフランシスコ教会』。ボルサ宮の隣り、ドウロ川沿岸に偉容を誇るバロック式教会。1233年に第4代ポルトガル王サンチョ2世(Sancho Ⅱ,在位1223~1248年)により建てられ、17~18世紀に改修が施された。内部はターリャ・ドゥラーダと呼ばれる金泥を塗った木彫りの彫刻で装飾されている。キリストの家系図「ジェッセの家系樹」も必見。『ポートワイン工場(見学と試飲)』。1790年に創設者ジョージ・サンデマンがポルトガルワインのセラーを購入したのが始まり。ポートワインはドウロ地域の中心、シマ・コルゴ地域にあるキンタ・ド・セイショで生産されたブドウを使用している。“ドン"の愛称で知られる、学生マントとソンブレロ(騎士帽)のシルエットは1928年に登場した。『ドン・ルイス1世橋』。ドン・ルイス1世橋はポルトガルのポルトにある道路・鉄道併用橋で、ドウロ川に架かっている。世界遺産「ポルト歴史地区」に含まれ、2016年からは「ポルト歴史地区、ルイス1世橋およびセラ・ド・ピラール修道院」として、登録名にも明記された。 ポルトの中心部とヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア地区を結んでいる。サン・ベント駅の『アズレージョ』。駅構内に足を踏み入れると、壁一面にアズレージョの世界が広がります。アズレージョとは、ポルトガル伝統の装飾タイルのこと。サン・ベント駅構内のアズレージョは、ポルトガルを代表するアズレージョ画家、ジョルジュ・コラコによって1930年に制作されたものです。ジョアン1世のポルト入城やセウタ攻略など、ポルトガルにおける歴史的な出来事が描かれています。そして2日目はポルトに宿泊。3日目は8:30はホテル発。国境を超えスペインにあるサンティアゴ・デ・コンポステーラへ。[約230KM、約3時間]サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路は、キリスト教の聖地であるガリシア州のサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路・フランス人の道 (Camino Francés)。おもにフランス各地からピレネー山脈を経由しスペイン北部を通る道を指すと。フランス人の道 (Camino Francés)はフランスとスペインの国境にあるサン・ジャン・ピエ・ド・ポーの街からサンティアゴ・デ・コンポステーラまでの約780kmであり、サンティアゴ巡礼路のうちで最も多くの巡礼者が歩いている道。パリ→サンティアゴ・デ・コンポステラは何と約1,700キロの巡礼路であると。【世界遺産3】サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼の道にある○歓喜の丘へ。『歓喜の丘』。千年以上も前から、巡礼者たちはヨーロッパ西の果てにある「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」を目指して歩き続けました。なぜイベリア半島の端にある「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」が、エルサレムやローマに並ぶ『キリスト教の三大聖地』の一つとされたのでしょうか?それは、1世紀頃にエルサレムで殉教したキリスト十二使徒のひとり聖ヤコブ(スペイン語名・サンティアゴ)の墓が、約800年の時を経て遠く離れたこの地で発見されたからなのです。聖ヤコブの遺骸を祀る聖堂が建てられたサンティアゴ・デ・コンポステーラは聖地となり、祈りに向かう信者が各地から訪れました。特に『聖遺物崇敬』が盛んだった中世、巡礼者の列は絶え間なく続いたと言われています。サンティアゴ・デ・コンポステーラの街を見渡す近郊の丘まで辿り着いた者たちは、巡礼の最終地点となる大聖堂の尖塔を眼下に望み、喜びの声を上げたと言われています。後に「歓喜の丘」と名付けられたこの丘に立つと、巡礼者たちが聖なる地を初めて目にした瞬間の喜びの想いが胸に伝わってきます。キリスト教の聖地【世界遺産4】サンティアゴ・デ・コンポステーラ観光(2時間30分)そして、聖地を目指し長旅を続けた巡礼者が憧れの大聖堂を訪ねるのだ。『サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂』。11世紀に建造が開始された「サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂」は、その荘厳さ内部装飾の豪華さを含め、キリスト教三大聖地の一角に相応しい『壮大なモニュメント』。巨大なカテドラルの内部には、「聖ヤコブの墓」の上に主祭壇が造られ、祈りを捧げる礼拝者を厳かに迎えます。そして、金色に輝く彫刻装飾が施された祭壇の中央には、これこそが巡礼の象徴に他ならない『聖ヤコブ像』が鎮座。巡礼の終着点○オブラドイロ広場を訪ねる。『オブラドイロ広場』。オブラドイロ広場はガリシア州最大級の広場で、サンティアゴ デ コンポステーラの重要なシンボル。広場に面してそびえ立っているのは、11 世紀初頭に建築されたサンティアゴ デ コンポステーラ大聖堂。外観は美しいバロック様式ですが、館内の 12 世紀に建造された栄光の門に施された彫刻はロマネスク芸術を代表する傑作。そしてこの日はポルトまで[約230KM、約3時間]戻り前日のホテルに連泊。そして4日目からは最終日までひたすらバスにてリスボンまで南下しながらの観光。4日目は9:00にホテル発。コインブラへ。[約116KM、約1時間30分]ポルトガル最古の大学で有名なコインブラ観光(1時間30分)。ヨーロッパ屈指の伝統を持つ【世界遺産5】○コインブラ大学、○カテドラルを訪ねる。『コインブラ大学』。13世紀に設立された世界最古の大学のひとつである。ポルトガル屈指の名門国立大学とされる。大学が街の中心とみなされ、黒いマントを着たコインブラ大学の学生が行き交う。約2万2千人が学んでいる。8つの学部が存在し、その学部ごとにシンボルカラーがある。2018年のQS世界大学ランキングでは総合401位。 『コインブラ・カテドラル』。コインブラの旧大聖堂は、ポルトガルのコインブラにある、同国で最も重要なロマネスク様式の建築物の一つ。1139年のオーリッケの戦い後、ポルトゥカーレ伯アフォンソ・エンリケスが初代ポルトガル王アフォンソ1世として即位し、首都と定めたコインブラに建設された大聖堂。昼食後、トマールへ。[約69KM、約1時間15分]着後、昔の面影が色濃く残るトマール市内観光(1時間)ポルトガル最大の修道院【世界遺産6】◎キリスト修道院を訪ねる。『トマール・キリスト修道院』。ロマネスク建築、ゴシック建築、マヌエル建築、ルネサンス建築といった様々な建築様式が融合した建築物で、1160年にテンプル騎士団によって建設が開始されました。建設当初は勃興したばかりのポルトガル王国の対ムーア人への防波堤の役割を果たしていました。14世紀にテンプル騎士団に対して解散命令が出た後は、その名をキリスト騎士団へと改編し、その後もこの修道院を守り続けています。テンプル騎士団の教会らしくエルサレムにあるオマール・モスクをモデルとした円堂が有名です。その他、墓の回廊と沐浴の回廊、サンタ・バルバラの回廊、ジョアン3世の回廊が見られます。観光後、ナザレへ。[約80KM、約1時間30分]でホテルに到着予定。5日目は8:15にホテル出発。ナザレのシティオ地区にて写真ストップ。『ナザレのシティオ地区』。ナザレと言えばここ,というほど有名な風景が,シティオ地区の展望台から臨めます。映画のワンシーンでも有名な,美しく伸びた海岸線に,スペイン瓦の建物が並んだ風景は,ポルトガルを訪れたら一度は是非見ておきたい美しさ。その後、カルダス・ダ・ライーニャへ[約29KM、約30分]着後、王妃の湯治場として有名なカルダス・ダ・ライーニャで○朝市を見学(30分)。『カルダス・ダ・ライーニャの朝市』。カルダス・ダ・ライーニャは、『王妃の温泉』または『王妃の鉱泉』という意味である。市のみで人口25,316人。温泉と陶器産地として知られている。街の中心にあるレプブリカ広場で開かれる朝市では、特産の陶器も売られている。ポルタ・ダ・ヴィラと呼ばれる朝市はこの街の台所だ。近郊の村々から運ばれてきた野菜や果物を中心に、チーズやナッツ、手づくりのお菓子なども売られている。ここでおみやげを探すのもいいし、売り手と買い手のやりとりを見ているだけでも楽しい。その後、谷間の真珠と言われるオビドスへ。[約7KM、約15分]着後、城壁に囲まれた白い小さな町○オビドスで散策<『オビドスの白き壁の街並み』。13世紀、新婚旅行でこの地を訪れたポルトガルのディニス王とイサベル王妃。美しい景色を気に入った王妃に、このオビドスをプレゼントしたのだと。以来、革命によって王室が滅びるまで代々”王妃の村”として栄えるた。城門をくぐると、白い壁の家と石畳でできた細い道。迷路のような中世の美しい街並みは保存状態が良く観光地として人気。各自昼食後、ロカ岬へ。[約132KM、約2時間]ユーラシア大陸の最西端○ロカ岬観光(30分)。『ロカ岬』。ユーラシア大陸最西端の岬である。位置、北緯38度47分、西経9度30分。西には大西洋が広がり、その遥か先にはポルトガル領のアゾレス諸島がある。6日目は9:00にホテル出発。リスボン市内観光(1時間30分)【世界遺産7】○ジェロニモス修道院、○ベレンの塔、○発見のモニュメント)観光後、旧市街散策(1時間)(○ロシオ広場、○アウグスタ通り)『ジェロニモス修道院』。16世紀のポルトガルの栄光を今に伝える白亜の大寺院。マニュエル1世(Manuel I/1469~1521年)が、ヴァスコ・ダ・ガマの海外遠征で得た巨万の富を費して建てたもの。16世紀初頭の着工から300年以上の期間をかけて19世紀に完成した。その完成度の高さからポルトガル建築の最高峰と讃えられる。1983年、世界遺産に登録された。『ベレンの塔』。16世紀初めに建てられたマヌエル様式の塔。白く優美な外観は、純白のドレスをまとった貴婦人に喩えられる。テージョ川を監視し、リスボン港を守る要塞として建設されたもので、長く厳しい航海から帰り着いた船乗りたちを迎え入れる故国ポルトガルのシンボル的存在だった。1983年、世界遺産に登録された。『発見のモニュメント』。テージョ川岬に立つ一大モニュメント。ヴァスコ・ダ・ガマがインド航路へ旅立った際の船出の地として知られ、1960年にエンリケ航海王子の没後500年を記念して建てられた。高さ52mの巨大モニュメントの先端には、ヴァスコ・ダ・ガマをはじめとする33人の偉人像を従えて王子の像が立つ。『サン・ペドロ・デ・アルカンタラ展望台』。グロリア線ケーブルカー終点のすぐ右手、緑豊かな小さな公園のなかにある展望台。赤レンガ屋根の連なりと青いテージョ川、遥か前方に佇むリスボンの象徴サン・ジョルジェ城が一望できる。特に西日に輝く夕刻の眺めが美しい。休憩に最適なカフェもある。昼食は、リスボンの台所○リベイラ市場にて各自で楽しむ。『リベイラ市場』。カイス・ド・ソドレ駅の前にある市民の台所、リベイラ市場内にオープンしたフードコート。リスボンの有名店が軒を連ね、いろいろなものを少しずつ食べることができるから旅行者にも最適だ。昼食後は【世界遺産】シントラ王宮観光とシントラの街散策のオプショナルツアーに参加予定。『シントラ王宮観光とシントラの街散策』。1910年の共和制宣言まで王家の夏の離宮として使われていた。13世紀に原型が築かれて以来趣向を凝らした改築が繰り返され、中でも16世紀にマニュエル1世が増築した一画が圧巻。中心部にあたる礼拝堂と「白鳥の間」は14世紀末に改築されたもの。夜もオプショナルツアーに参加予定。『ファドディナーショー』ポルトガルといえば哀愁漂うファドは必見。イタリアにカンツォーネ、フランスにシャンソン、アルゼンチンにタンゴ、ブラジルにサンバがあるように、ポルトガルにはファドがある。主に「Casa de Fado」と呼ばれる。ポルトガルの夜をいざなうファドショーとディナーを楽しめる。そして7日目は5時前の早朝にホテル発、空港へ。〔07:15~07:20〕リスボン発『リスボン空港』。ウンベルト・デルガード空港は、ポルトガルの首都リスボンにある国際空港。TAP ポルトガル航空及びポルトガリア航空の本拠地である。正式名称は「リスボン空港」。 この空港は1942年10月15日に開業し、第二次大戦中、ドイツとイギリスの航空会社両方に使用されていた。2007年8月1日にターミナル2が作られた。各ターミナル間は無料のシャトルバスが運行されている。 2016年5月15日に反サラザール派の将軍であったウンベルト・デルガードに因んで、リスボン・ウンベルト・デルガード空港に改称した。空路、ブリティッシュ・エアウェイズにてロンドン経由で帰国の途へ『ヒースロー空港』。イギリスの首都ロンドンの西部にある最大規模の空港で、国際線利用者数では2013年まで世界一の空港だった。所有・運営は、民間会社のイギリス空港会社 (BAA) である。空港コードはLHR (IATA) /EGLL (ICAO) 。ブリティッシュ・エアウェイズ、ヴァージン・アトランティック航空のハブ空港になっている。滑走路は並行に2本あり、それぞれ3,902m、3,658mの長さを持ち、パリのシャルル・ド・ゴール空港、フランクフルトのフランクフルト空港と並び、ヨーロッパの大規模空港である。旅客ターミナル4つと貨物ターミナル1つを持つ。ロンドン市内などとのアクセスは比較的便利なものの、周辺を住宅地に囲まれていることから騒音規制が厳しいことでも有名である。パスポートも残有効期限を確認。今回も、いつもと同様に下の写真の如く、トランクとリュックで準備を始めています。そして今回もいつもの様に、旅友のSさんが愛車で我が家まで迎えに来てくれる予定。今回もやや忙しい旅になりそうですが、元気に楽しんで来たいと思っているのです。
2019.02.07
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熱海サンビーチからバスにてJR熱海駅まで戻り、バスを乗り換えてJR熱海駅の北東約1.5kmにある『伊豆山神社(いずさんじんじゃ)』に向かう。ひたすら坂を上って行き、途中MOA美術館への分岐を反対に伊豆山神社方面へ。そして伊豆山神社前バス停で下車。バス停の反対側には参道の階段がひたすら続いていた。伊豆山神社の参道はほとんどが階段であり、出発地点の伊豆山浜から本殿に到着するまで837段をのぼることになるのだと。この日の私の如く、バスでなら階段を登らずに神社前まで行くことが可能なのです。伊豆山浜の参道には、日本でも珍しい横穴式源泉「走り湯」があり、古来より伊豆山神社の神湯として信仰されて来たと。発見は約1200年前、奈良時代の養老年間(717年~724年)で、日本三大古泉の一つに数えられていると。神社前の仲道公民館横の道祖神。神社の一の鳥居と向かい合うところに三体の道祖神が祀られていた。単体・座像だが、像は瓶子(ヘイシ)・酒器を持っている珍しい道祖神。三体とも毛糸のマフラーを首に巻いて。『伊豆山神社 案内図』。そして一の鳥居から189段の階段を登って行った。『伊豆山神社』と書かれた扁額。『祖霊社』が階段右手に。「祖霊社とは、先祖の御霊(みたま)をまつる社です。 この社は、古来、関八州総鎮護と称えられた伊豆大権現(伊豆山神社)に仕えた氏人の祖霊をお祀りしています。 この祖霊社は、伊豆山の人々の守護神として景仰されており、例祭は、毎年春分の日・秋分の日の年二回斎行されています。」『足立権現社』も右手に。役小角(えんのおづの)が祀られている堂。足立権現社(あしだてさん)とも呼ばれている。役小角は、634年(舒明天皇6年)、大和国葛城上郡茅原で生まれた。飛鳥・奈良時代の呪術者で、修験道の基礎を築いた人物とされる。699年(文武天皇3年)に人々を惑わしたとして伊豆大島に流罪となるが、夜は飛行の術で伊豆山権現に飛来し修行を重ねたと伝えられ、毎晩海上を歩き富士山に登っていたとも伝えられている。2年後の701年(大宝元年)に赦されて故郷に還るが、その年に入寂した。古くから足の病に悩める者が祈願すれば神の加護が受けられると伝わると。役小角は、平安時代には「役行者」(えんのぎょうじゃ)と呼ばれるようになり、亡くなってから千百余年後の1799年(寛政11年)には、その神徳を讃えられ「神変大菩薩」(じんべんだいぼさつ)の神号を賜った。「役行者本記」によれば、役小角は、その飛行術で江の島にも飛来したという。そして、江の島岩屋で最初に修行したのは役小角だという伝承があり、江島神社には自作という像が伝えられているのだと。左手には『結明神社』が。結明神社は既に私には無縁の縁結びの神様。そして階段を登り終えると、伊豆山神社の境内へ。手水舎には『紅白二龍(せきびゃくにりゅう)』が。「伊豆山神社」のシンボルである「紅白二龍」は、温泉の街・熱海の最強の「守護神」とされており、その頭を伊豆山の地下に、その尾を箱根の芦ノ湖に付けていると言われていると。二頭の内、赤龍は火を操り、白龍は水の力を操る事により二頭が力を合わせ熱海に有難い温泉の源泉を生み出していると伝えられているのだと。『雷電社』。御祭神は「伊豆大神荒魂・雷電童子(瓊瓊杵尊・ににぎのみこと)」であり、事業・経営・商売繁盛・心願成就・良縁成就・家内安全・夫婦円満・子孫繁栄など数多くのご利益がある強力なパワースポットとなっています。政治などの行動力のパワースポットとして、源頼朝などの歴代の将軍家に深く信仰されて来たと。そして『拝殿』。伊豆山神社は、静岡県熱海市伊豆山上野地、JR熱海駅の北東約1.5kmにある神社。全国各地に点在する伊豆山神社や伊豆神社(いずじんじゃ)、走湯神社(そうとうじんじゃ、はしりゆじんじゃ)などの起源となった事実上の総本社格である。江戸時代以前には、伊豆山権現(いずさんごんげん)、伊豆大権現(いずだいごんげん)、走湯権現(そうとうごんげん、はしりゆごんげん)等とも呼ばれた。源頼朝は平治の乱の後伊豆国に配流されたとき、当社に源氏再興を祈願した。この間有力豪族の伊東祐親に追われて当社に身を寄せたり、小豪族の娘であった北条政子との逢瀬の場にするなど関わりが深く、後に鎌倉幕府を開くと箱根神社(箱根権現)と共に当社を「二所権現」(にしょごんげん)とし、「二所詣」(にしょもうで)が行われた(三嶋大社も入れて「三社詣」(さんしゃもうで)とする場合もある)。また幕府の最高の崇敬を示す「関八州鎮護」として、多くの社領を寄進した。南北朝時代の「寺領知行地注文」によれば、遠くは越州に至るまで数多くの知行地を所有したとされるなど、この時期、当社が最盛期を迎えていたことがうかがわれる。戦国時代、小田原の北条氏の篤い崇敬を受けたが、豊臣秀吉の小田原征伐で焼失したと。御祭神は伊豆山神(天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)、拷幡千千姫尊(たくはたちぢひめのみこと)、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)。見事な色彩の彫刻。見上げると龍がにらみをきかせていた。極彩色の龍が今にも動き出しそう。横に廻って『本殿』を。『伊豆山郷土資料館』。建立年代が定かではない「伊豆山神社」は、社伝の記録だと孝昭天皇の時代の紀元前4世紀から5世紀頃の物と見られており、かつては「伊豆大権現(いずだいごんげん)」「伊豆御宮(いずおんみや)」等と呼ばれていた。「伊豆山郷土資料館」には、「伊豆山神社」や伊豆山地区についての興味深い資料が展示してあり詳しく知る事が出来るのだと。『白山神社』入口。「伊豆山神社」の本殿を右側に登ると「白山神社」の遥拝殿があるので更に上に登ると「白山神社」に着くのだと。「白山神社」の御祭神は「菊理媛命」で病気平癒、厄難消除のご利益があるパワースポットとなっていると。伊豆山記や走湯山記によると、夏の猛暑の時期に疫病が流行った為に「白山神社」の神様に祈願すると夏なのに雪が降ったのだと。この日は時間が無かったため、白山神社はここまでであった。そして拝殿の反対側にあったのが、『頼朝・政子腰掛け石』。「伊豆山神社」は鎌倉幕府初代将軍となった源頼朝と北条政子が崇敬した神社であり、周りに反対されても密かに恋を成就させた場所であり最後に結ばれた事でも有名。「伊豆山神社」にあるこの「頼朝・政子腰掛け石」には源頼朝と北条政子が腰掛けて美しい相模灘を眺めながら愛を語ったと伝えられ、強力な縁結びのパワースポットとなっているのだと。私もつかの間に腰かけて・・・・。そしてその奥に駐車場入り口にもなっている朱の鳥居が。『奉納 小泉今日子』の文字が。ネットで調べてみると、お年寄りや足が不自由な方は、長い石段を登るのは難しいので車で登る。車道から境内に入るのですが、そこには鳥居がなかったと。参拝者も結界を通らずに裏口から入っているような後ろめたさがあったのだと。神社としても鳥居を設置したかったのですが、当時は不景気の中、簡単に寄付は集まらなかった。そこで伊豆山の神職さんと交流のあった小泉今日子さんが、快く寄付をしたのだと。平成22年に小泉今日子が仕事がないときに、伊豆山神社に鳥居を奉納したら、途端に運気アップしてあまちゃんの仕事他次々と仕事が増えたのだと。そしてそれ以来人気のスポットになっていると。『龍神湯社』。駐車場奥、小泉今日子の奉納の鳥居向かって右にひっそりとあった「龍神湯社」。まだとても真新しく、看板など出ていなかった。そして境内からの『初島』。『大島』も。そして伊豆半島方面に大室山の姿も。社務所。御朱印を頂きました。そして階段を下り帰路に。帰路はバスでなく徒歩にて熱海駅まで向かう。途中左手にあったのが『逢初橋(旧)(あいぞめばし)』。その昔、伊豆半島で船が難破し、姫が漂着しました。姫が焚き火をして対岸の初島に合図を送ったところ、伊豆山の一男神がこれに応じました。ふたりが出逢った場所が逢初橋だと言われていると。また、源頼朝と北条政子が出逢った場所との言い伝えも。そして『逢初橋』の近くにあったのが無料の足湯。三叉路の右正面角に境内に入る入口があり、その下、国道に沿うように駐車場に入る入口が。足湯の向かい側に源泉があり、以前はここに共同浴場があったのだが、老朽化で取り壊す際に、『般若院』のご厚意で足湯ができたのだと。5人ほどが座れるベンチがあり、源泉かけ流しで、無料の足拭きタオルまで置いてあった。毎朝、お寺の方(?)が掃除されているそうで、きれいであった。正面に熱海の街並みや初島が見えて絶景。『般若院』山門。走湯山(はしりゆさん)般若院(はんにゃいん)。高野山真言宗の寺で御本尊は阿弥陀如来。伊豆山神社の別当寺であった走湯山東明寺が前身であると。 徳川家の厚い崇敬を受け、寺号を改めた際も徳川家康によって命名されたと云われていると。大師堂には、弘法大師自ら刻んだとされる等身大の大師像が安置されていると。 そして更に坂を登って、下って行くと左手の高台にあったのが『池田満寿夫・佐藤陽子創作の家』。創作の家では、池田満寿夫の版画や油絵、陶などの芸術作品を始め、佐藤陽子が演奏活動で使用したドレスや楽譜、そして、池田満寿夫が芥川賞を受賞した小説「エーゲ海に捧ぐ」の直筆原稿も展示していると。そして漸くJR熱海駅まで戻る。折しもこの日は旅友のSさんは、旧東海道の箱根峠、接待茶屋跡、山中城跡を車で散策中。メールをしてみると熱海駅まで車で来て私を拾ってくれると嬉しい返事。それまでは、私は駅前の無料足湯を楽しみながら到着を待ったのであった。そして暫く経つと私の足も赤く染まり逆上せ状態に。そしてSさんの車に合流し海岸沿いの真鶴通りを走り帰路に。小田原城の姿も車窓から。そして西湘バイパスを利用して茅ケ崎駅まで送っていただいたのであった。そして無事帰宅してのこの夜は今年最初の満月の日。そしてこの日の満月は「スーパームーン」と呼ばれ、1年で最も小さい満月に比べて最大で約14%も大きく、約30%ほども明るく見えたのであった。
2019.02.07
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今月、ポルトガルへの旅行を計画しており、これまでは海外訪問国で使えるWIFIをネットでレンタルし、これを持参し現地で使用していました。レンタル料は国、期間によって勿論異なりますが、今まで平均して1万円前後/回の支払いをして来たと思います。現地ホテル周辺での早朝散歩のナビ用や、訪問先情報や旅行のルートの後日確認にはWIFI機が有効なのです。無線LANアクセス・ポイントには、位置情報のデータベースが構築されています。無線LANアクセス・ポイントから送信される電波から取得した位置情報と、携帯電話基地局からの位置情報を組み合わせることで、より精度の高い位置検出が可能となります。WIFIに接続していなくても、WIFIをオンにするだけで無線LANアクセス・ポイントから送信される位置情報が取得はできるのです。Googleマップのような位置情報認識アプリを使うときや、現在地が正しく取得されない場合は、「Wi-Fiを有効」にすることで、より正確な現在地情報を得ることができるのです。今回購入したのはa2network社の『Skyberry GiRa』というWIFI端末機。ネットで購入、手続き後4日ほどで到着。ポケットWi-Fiは簡単に言えばモバイルWi-FiルーターポケットWi-Fiの最大のメリットは、なんといっても外でインターネットが使えること。外出先でパソコンやタブレットで高速なネットを利用できるのです。ポケットWi-Fiは主に外出時にモバイルノートパソコンやタブレット等をインターネット接続したいという人に適しているのです。そういう機会がほとんどないという人はポケットWIFIなしでも十分な場合が多いのですが。箱の蓋を開け『Skyberry GiRa』というWIFI端末機を取り出しました。今回購入した色は「GOLD」。テザリングという機能を使えば、スマホを無線ルーター化させて、スマホで受けているLTEなどの電波でパソコンやタブレットでネットをする事も可能です。良さそうに聞こえるテザリングですが、実は大きな落とし穴がいくつか存在するようです。・スマホのパケットを大量に食う・バッテリ―消費が2倍になるただし外でパソコンやタブレットなど使わないのであれば、ポケットWi-Fiを使う意味はあまりないのも事実ですが。端末機(右)と取扱説明書(左)以下の写真はa2network社の『Skyberry GiRa』の案内ページから転載させて頂きました。日本含め、世界120の国・地域に対応しているとのこと。日本国内ではソフトバンクの電波を使用しているようです。海外でが、最適なローカルSIMの電波を自動的に選択し、通信機能を確立すると。ローミングではなく、各国のローカルSIMをリモート適用しているので、ローミングよりも高速・快適・サクサクと。速度制限も無く、4G LTE対応地域ではストレスない高速通信を実現出来るのだと。サポート体制も確立していると。海外に到着後のスマホ&タブレット操作方法も丁寧に。端末の基本情報。内部の各部の名称や機能も説明してくれています。ネットにつなげて、接続状況も確認でき、契約容量までの残容量がON-TIMEで確認出来ます。SIMが自動で切り替わらない場合の対処法も説明されています。WIFI接続時のパスワードも変更可能であると。この端末を購入した為、今まで契約していたソフトバンクのポケットWIFI契約は解約しました。2年契約の更新時であった為、解約料金は発生せず、この『Skyberry GiRa』の月額使用料はソフトバンクのポケットWIFI契約とほぼ同等で使用できるのです。既に自宅周辺で3週間ほど使用していますが、何の問題もなく働いてくれています。さてさて、ロンドン・ヒースロー空港そしてポルトガル国内では自動で旨く立ち上がり一生懸命働いてくれるか楽しみでもあり心配でもあるのですが。ネットでポルトガル国内のネットワーク状況を調べてみました。スペインの北西端にある都市「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」を含めて訪問予定場所の全ての地域が「LTE=4G」の環境下にあるようですが。ポルトガルのホテル室内にはWIFI環境があるようですので、最悪、この『Skyberry GiRa』がうまく繋がらなくてもなんとかなりそうですが・・・・・さてさて。
2019.02.06
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二宮・吾妻山の菜の花そして山頂からの富士山の雄姿を楽しんだの後は熱海駅へ。月曜日にもかかわらず、駅前商店街には多くの観光客そして中国語が。この日は平和通り商店街を進む。暫く歩くと道の左下にあったのが『熱海四等郵便取扱所開設旧跡』。1871年の郵便制度発足時の「三等郵便局」制度に由来する。三等郵便局とは明治時代に公費で郵便局を全国に設置することが財政的に難しかった中、全国にいち早く郵便制度を浸透させるため地域の名士や大地主に土地と建物を無償で提供させ郵便の取り扱い事業を委託する形で設置された郵便局。1875年(明治8年)1月に郵便役所及び郵便取扱所は郵便局と呼称し、一等から五等までに区別されたと。そして『清左衛門湯』。熱海駅から徒歩15分、老舗旅館「古屋」の前に湧くのが「清左衛門の湯」。昔、清左衛門という農民が、馬を走らせている際、この湯壷に落ちて焼け死んだことから、その名が付いたという。人が清左衛門の名を大きな声で呼べば大いに湧き、小さな声で呼べば小さく湧き出たと今に伝わる。明治時代まで、昼夜湧き続け絶えることがなかったこの湯は、現在も所有する旅館「古屋」で湯船に使用。温泉井添削時、地下で出土した貴重な円柱形の石や江戸城の築城石として用いられた熱海市下多賀のくさびの形が残る石なども展示している。そして次に訪ねたのが『風呂の湯』&『水の湯』。熱海七湯の一つ、「風呂の湯・水の湯」。風呂の湯は外傷に良いといわれ、また、湯気の上騰が盛んでまんじゅうを蒸したり酒を温めたりして販売していたと。またこの湯の傍らに塩分の無い温泉が湧き出し、明治時代には淡白無味常水を温めるもののごとしとして「水の湯」と名付けられたと。「熱海 本家ときわぎ」。大正7年(1918年)、初代が熱海銀座に「熱海 本家ときわぎ」を開店して以来、和菓子作りひとすじの老舗であると。「常盤木羊羹店 總本店」。こちらの店は、「総本店」を名乗っている。「本家」と「総本店」は別の店のようで、こちらには伊豆山神社御用菓子の看板も。本家に比べると、新しい商品を積極的に出しているのだと。そして『NEW FUJIYA HOTEL』前を通過。前方にあったのが『大湯間歇泉』。熱海七湯の一つ「大湯間歇泉」は、古くからの間歇泉で世界的にも有名な自噴泉であった。「大湯」の噴出は昼夜6回あり、湯と蒸気を交互に激しい勢いで吹き出し、地面が揺れるようであったと。明治中頃から次第に減少し1923年(大正12年)に止まってしまったが(大地震の際に再び噴出したこともあった)、1962年(昭和37年)に市の文化財として保存し、現在に至っている。かつては地面が揺れるほど湯と蒸気が激しく吹き出したと。『オールコックの碑』(左)と『愛犬トピーの墓』(右)。初代駐日英国公使ラザフォード・オールコックが1859(安政6)年、総領事兼外交代表として来日。日英修好通商条約の批准など多忙な中でも、名峰・富士山に外国人で初めて、登頂を果たしたことでも知られている。富士登山の帰りに立ち寄った熱海温泉。「熱海七湯」の一つ大湯間欠泉の熱湯により、大火傷(やけど)をおった愛犬トビー(スコッチテリア)が亡くなってしまう。その悲しみに触れ、宿の主人が僧侶を呼び寄せ、人と変わらない葬儀でトビーを大切に弔った。熱海の人たちの“おもてなしの心”に感動したオールコックは、当時、生麦事件や在日英国大使館襲撃事件などで印象の悪かった日本人に対して、英国に戻ったあとも、日本人に対する偏見に弁明。著書「大君の都・幕末日本滞在記」にも「日本人を敵視すべきではない。誠に親切な国民である」と記し、英国世論は親日へと傾いたという。そして『湯前神社』を訪ねる。湯前神社と名がついているとおり、湯、つまり“熱海温泉”と深い関係のある神社。創建時期は749年とされていますが、熱海の地に温泉が湧出したとき(約1500年前)には、すでにお祀りされていたものと考えられている歴史のある古社。『拝殿』湯前神社にお祀りされているご祭神は、少彦名神(すくなひこなのかみ)。大国主神(おおくにぬしのかみ)とともに全国を回って国土を開拓した神様。“医薬の神”として馴染みが深いが、穀物の神、酒造の神、温泉の神などの顔ももっています。いずれにしても、人間の体・健康について霊力を発揮する神さまとなります。そのご利益は、国土の平和、産業の開発、漁業・航海の守護といった全体に関わるものから、個人レベルでは、病気平癒、縁結び、安産・育児の守護などです。拝殿の向かって右側にあるのが、「源実朝(鎌倉幕府第3代征夷大将軍)の歌碑」。「都より 巽にあたり 出湯あり 名はあづま路の 熱海といふ」と詠んでいますが、源実朝公が箱根権現から三島社を経て伊豆山権現に向かう途中に、熱海の大湯を見て、崇めたたえて詠んだものと言われています。そして湯汲坂を下り『糸川』へ。熱海市内中心部を流れる糸川。毎年この1月には、糸川遊歩道の58本の早咲きの「あたみ桜」を楽しむことができるのだ。「あたみ桜」はもともとは日本の桜ではなくて、沖縄原産のカンヒザクラと関西以西の暖地帯に自然分布するヤマザクラとの自然雑種と推定されていると。チョット早く五分咲き程度か?“海のアートがある歩道”、タコ。デレーンと垂れ下がって花見の真っ最中か? 対岸には目が頭の左側にあるからヒラメ?御成(おなり)橋から糸川沿いの300m程の遊歩道を下って行き、最終的に海沿いの国道135号線(下り)へ向かうことにする。その間、御成橋 → 新柳橋 → ドラゴン橋 → 桜橋 → 糸川橋 → 柳橋 → 渚橋 と糸川に架かる橋を経ていくことに。橋のデザインはそれぞれ違い、個性的で見ていて楽しい橋が続いているのであった。この「あたみ桜」は明治4年(1871年)頃、イタリア人によって熱海にもたらされたと伝えられており、少し濃いめのピンク色が特徴。今回も動き回るメジロを何枚かピントが合って撮影出来ていました。花の蜜を吸っているようです。残念ながらミツバチの姿は見かけませんでした。仲良くつがい?で。糸川には濃いピンクのブーゲンビリアも。濃いピンクの「あたみ桜」と青空は似合うのであった。亀、マンボウの姿も。桜橋の手前には「坪内逍遥 歌碑」が。明治の文豪、坪内逍遥(つぼうち しょうよう 1895-1935)は、水口町の双柿舎に移るまでの約9年間、この糸川べりの荒宿(現在の中央町)に別荘を新築して住んでいたのだと。碑文には、「ちかき山に ゆきはふれヽと 常春日 あたみのさとに ゆけたちわたる せいえう」 と。桜橋からの熱海桜、これぞ熱海桜!! 花弁が濃いピンク色で花が大きいのが特長。桜橋の欄干にも。ブーゲンビリアが陽光に輝く。海の方に向かって開花が進んでいた。『あたみ桜』説明板。その先には渚橋。糸川遊歩道終点の、国道135号線に架かっていた。こちらも波をイメージした橋で最も海に近い橋。 渚橋の手前には渚橋歩道橋が。そして熱海サンビーチの散策に。青い海と白い砂浜、立ち並ぶホテル郡、ヤシの並木通り・・・外国の高級リゾートに似た雰囲気のビーチ。夏は海水浴場として、また、砂浜を歩いたり波と戯れたりできる場所として、ファミリーやカップルにも人気の場所。サンビーチのヨットハーバーに浮かぶヨットとその奥の山の上には熱海城が。熱海城は熱海市の錦ヶ浦山頂にある観光施設。城郭は歴史的に実在したものではない。東洋のモナコをイメージした熱海のヨットハーバー。ムーンテラス。テラス尖端の噴水は恋人達が愛を誓い合う事の出来るモニュメント。階段横の壁では魚たちが泳いでいた。「あたみ桜」と『釜鳴屋平七夫婦像』。上半身ハダカでマゲがゆってある男性と彼に寄り添う女性の銅像。頭上のあたみ桜。この像は、文化勲章を受章した熱海市名誉市民である澤田政廣先生の作「釜鳴屋平七夫妻像」。安政時代の義人、平七と妻の像。不況で網元が漁民に賃金を払わなくなり、平七たちは一揆を起こし、代官所へ命がけの直訴。平七は首謀者として八丈島流しとなるが、虐待により途中の大島で死去。35歳だったと。平七夫婦は現代の海を見ながら何を思っているであろうか。桜越しに八丈島、大島を見つめているのであろうか?『熱海サンビーチ』夏は海水浴場として、また、砂浜を歩いたり波と戯れたりできる場所として、ファミリーやカップルにも人気の場所。早朝には水平線からのぼる朝日がビーチや街を染める美しい景色を見ることができる場所。その後ろに立ち並ぶホテル・マンション群。毎年見る度に白き高層ビルが増えていくのである。 白き高層ビルの先にダイヤモンドヘッドの如き山が見えれば、これぞハワイ・ホノルル・ワイキキビーチ。真鶴半島の先端・真鶴岬は、浜辺から約200mに渡って続く岩礁になっており、その先っちょに3つの巨大な岩が顔を出している。椰子並木。遠く大島の姿も。こちらは初島。人口243人で、熱海市本土から南東に約10キロメートルの位置にある島。古くから人が住む有人島であるが、1960年頃からリゾート開発が進み、現在ではプールやスパ、食事はもちろん、様々なレジャーを楽しむ事ができると。『貫一・お宮の像』。明治時代から多くの文豪たちが居を構え、名作を執筆した熱海。その中でもひときわ有名なのが、 明治30年より6年間「読売新聞」「新小説」に断続的に掲載された 尾崎紅葉の小説「金色夜叉」(こんじきやしゃ)。この小説にちなむ「お宮の松」と、「熱海の海岸散歩する・・・」で始まる歌謡が一体となり、爆発的に流布し、主人公「貫一・お宮」はあたかも実在の人物のように 国民の心をとらえて離さない存在となったと。2代目・「お宮の松」。初代・「お宮の松」の切り株。自動車の普及により、排ガスや舗装の影響で衰えたため、1966年末に地元のホテルの寄贈により2代目の松が植えられたのだと。そしてバスにて熱海駅に戻ったのであった。
2019.02.06
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旧東海道歩きのブログアップで、アップが遅れてしまいましたが、今年も1月21日(月)に単独で二宮・吾妻山(あづまやま)の水仙、菜の花、富士山を見に行って来ました。JRで二宮駅に到着。時間は7:46.駅構内の「吾妻山 菜の花ウォッチング」のポスター。二宮駅・北口(西側)にも横断幕が。吾妻山に向かう道路脇には多くの仮設テントが。前日の日曜日には、土産物売り場等で賑わっていたのであろうが、この時には人の姿は皆無。そいて坂を上り吾妻山公園入口へ。そして急な階段を登り始める。振り返ると朝の陽光に相模湾が輝く。参道脇には町の花の椿(つばき)か、それとも山茶花?そして一面の日本水仙。ズームで。副花冠が黄色、そして白の花片が反り返って咲く日本水仙。別の日本水仙?も。園内一の人気の施設が、地形を巧みに活用した「ローラー滑り台」。全長は102メートル、傾斜は約10度。 相模湾を見下ろしながら、一気に下って来るのだと。そして吾妻山山頂に到着。時間は8:05.吾妻山山頂は標高136.2m。展望台までは約20分。そして富士山は前面に雲があるものの雄姿が確認できた。・関東の富士見百景 ・かながわ花の名所100選 コスモス(神奈川県観光協会) ・かながわの美林50選 吾妻山公園の森(神奈川県)そして大山。吾妻山公園は360度の大パノラマ。箱根、丹沢、富士山が手に取るような近さに感じらるのだ。南に広がる相模湾は、晴れたこの日には大島や初島も見ることが出来た。小田原の街並みそして山の上には白き雲が湧き上がって来ていた。そして満開の菜の花畑。豊かな自然あふれる吾妻山公園の「早咲きの菜の花」が一足早く春の薫りを。展望台からは周囲360度の景色が望め、青くそびえる富士と、斜面いっぱいに広がる6万株の黄色い菜の花との見事なコントラストが毎年見事に。光る海を再び。『吾妻山公園の由来』【『相模路(さがむじ)の 淘綾(よろぎ)の浜の 真砂(まなご)なす 児らは愛(かな)しく 思はるるかも』の歌碑。(万葉集 第十四巻 東歌)「相模の淘綾(よろぎ)の浜の美しい砂のように、あの娘が可愛く思われることです。」 吾妻山公園の由来の碑に、この淘綾の浜の歌が刻まれていた。吾妻山の名は、中腹に吾妻神社があることからこう呼ばれています。吾妻神社の主神は弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)で日本武尊(やまとたけるのみこと)が配祀(はいし)されています。伝承では、日本武尊が東征の途中、三浦半島の走水から海路上総に渡る際、突然海が荒れたため、妻である弟橘媛命が 海神の怒りを静めるため、夫の武運を祈願しながら海中に身を投じると、たちまち海は穏やかになりました。7日後に命の櫛が海辺に流れつき、これを埋めて墓とし、又磯辺に漂う命の小袖を取り上げて山頂に祭りました。日本武尊は東征の帰路、この地の峠ではるか東方の海をながめ、海路を開くために犠牲になってくれた妻を偲んで「吾妻はや」(ああ、わが妻よ)と嘆かれたと云ういうことから吾妻神社の名がつき、小袖が漂着した海岸を袖ヶ浦と云うようになりました。このような由来から、縁結びの御利益もあるようです。】富士山の手前に矢倉岳(やぐらだけ)が。神奈川県西部の箱根山地と丹沢山地の間に広がる足柄山地にある標高870mの山で、金太郎伝説で知られる金時山(1,213m)の北側に位置する。おにぎりを立てたような特徴的な山容をしており、足柄平野から足柄山地の山々を眺めた際にひときわ目立つため、一目でそれと分かる山。再び小田原市街、相模湾を菜の花越しに。展望台方面を。ズームで。早朝の為か、西洋ミツバチの姿は確認できなかったが・・・。立派なカメラを三脚にセットし、ひたすら富士山の前の雲がなくなるのを待っているカメラマン。しかし雲は緩やかに移動し。ピンクのマユミの木の実と後ろに富士山を。私も富士山の前の雲の晴れるのを待ちながらしばしシャッターを。榎の大木も存在感を示していた。そして山頂の雲が一瞬晴れる。撮影モードを変えてTRY。朝早くから、公園管理のオジサンの姿も。いつまで待っても雲は存在感を主張していたので、この辺で下山の路に。公園管理事務所には菜の花畑を上空から撮影した写真も。綺麗なトイレも出来上がっていた。吾妻神社に立ち寄る。拝殿。浅間神社。下山途中の展望台からJR二宮駅を。そして遠く江の島の姿も。JR二宮駅から吾妻山の展望台下の植栽で形どった町章を。「宮」を図案化したに図案化した「二」を配し、円型と翼型とにまとめ、融和団結と飛躍伸長を象徴するのだと。そして再びJRに乗り熱海駅を目指したのであった。
2019.02.06
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次二宮町から小田原市に入る。小田原市の市章(シンボルマーク)は、梅の花と、海の波形をうまくデザインしたもので、これは70年前の市制施行に際し、広く公募した中から選ばれたものであると。押切橋交差点の先から押切坂を振り返る。押切橋を超えて進むと右手にあったのが『三宝神社』。比較的小さな社殿。そして進むと『再び二宮町の道標』が目の前に。先ほど小田原市に入ったが再び小田原市を出て二宮町に入るのであった。帰宅して調べてみると、この辺りは市境が入り組んでいる事を下記ブログから理解したのです。「小田原市-二宮町/市町村境界の謎 」(☚リンク)この市境の経緯についても書かれていますので興味のある方はアクセスしてみてください。すなわち坂を上ると塔台橋でまた二宮町に戻り、その後道路の中央が市境となっており、中央の分離線の右側は小田原市、左側は二宮町になるのです。そして坂を上り切った橘インター入口でその先は道路の両側が再び小田原市に入るのです。この付近かなり複雑に境界が入り組んでいたのであった。『塔台橋』。下を流れる塔台川。マンホールも「小田原」から「二宮町」にしっかり戻るので、下も向いて歩くと面白いのであった。再び二宮町の汚水マンホール蓋。MY TOWN NINOMIYA の文字と、中央に町の木・椿の花のデザイン。カラーマンホールであれば椿の花は真っ赤なのであろう。そして再び小田原市へ。西湘バイパス・橘IC入口が左手に。日本橋から76Km。浅間神社信号があり右手にあったのが『(前川)浅間神社(まえかわあさまじんじゃ)』。(前川)浅間神社の『石鳥居』。『拝殿』。御祭神は木花咲耶姫命 ( このはなさくやひめのみこと )。拝殿脇の土盛りの場所にあった石碑には何と書いてあるのだろうか?富士塚に立つ『富士講?大神』であろうか。こちらは『震災復興紀念碑』。『境内社』そして更に進んでいくと相模湾が前方に見えて来た。『光る海』。真鶴半島そしてその先に三ツ石が見えた。『史跡 車坂』東前川あたりの右手にある碑で、太田道灌、源実朝詠歌の記念碑。太田道灌が車坂で夕立に出合ったとき詠んだものであると。源実朝は洪水で渡河できないときに詠んだ歌。阿仏尼の歌もある。『鳴神の 声もしきりに車坂 とどろかしふる ゆふ立の空』 太田道灌戦国兵乱の世の和歌集に「平安紀行」があります。「平安紀行」の作者は、太田道灌とする説と異説とする説がありますが、その前文に「車坂という里にてゆう立しきりに降りそいえば」とあり、この時に詠んだものです。『浜辺なる 前川瀬を逝く水の 早くも今日の 暮れにけるかも』 源実朝「吾妻鏡」建保元年の条に記録があり、源実朝が鎌倉を出て箱根、伊豆の二権現に参拝する際、前川まで来た時、正月でも洪水があったとみえ河を渡ることができず、日暮れまで待つ間に詠んだものです。『浦路行く こころぼそさを 浪間より 出でて知らする 有明の月』 北林禅尼(阿仏尼)「十六夜日記」は、阿仏尼が夫の逝後、先妻の子為氏と我が子為相との相続争いの訴訟のため、京を発ち鎌倉に下る紀行文です。その前文に酒匂に泊り、あす鎌倉へ入るとあり、この時に詠んだものです。そして100m程の右手に『従是大山道』と刻まれた石碑が。奥に秋葉常夜灯と小さな石の祠が並んでいた。羽根尾、井ノ口、秦野と山の中をぬって蓑毛へと向かう大山詣の西からの参道口らしい。不動明王が乗っているのでよく目立つ道標。顔が何となく可愛らしいのであった。少し先の信号の所に、双体道祖神と坂下(文字)道祖神(下・左)が並んでいた。坂下道祖神碑は最近のものの様であるが、双体道祖神は風化の具合から考えて、かなり年代を経ているのではと。右手に『近戸神社(ちかとじんじゃ)』と書かれた石碑があったが、調べてみると線路の向こう側の神社であったので今回は訪ねなかった。道路脇のミカン売り場。日本橋まで(から)77Km。坂を上り切った右手、中宿公民館前にも双体道祖神(下・中)?があったがこれも風化が激しく年代不詳。そして予定になかった右手『清正公堂』。石材店の裏にある戦国武将の加藤清正を祀るお堂。「加藤清正」は何故か見過ごせなかったので立ち寄って見た。建物・堂?もあったが中には入らず。『日蓮上人像』。『法徳地神』何となくあやしい場所なのであったが・・・・。そして再び海岸線に。右手に『カトリック国府津教会』の看板があった。『國府津カトリック教會』。『カトリック国府津教会(教会堂名:七つの悲しみの聖母)』創立は1951年 で住所は「神奈川県小田原市国府津4-5-57」国府津教会はアイルランドの聖コロンバン会によって創立されたのだと。敷地は松の古木で囲まれていた。カトリック国府津教会の聖母像。聖母像の光背には、“Je suis l'Immaculee Conception (私は無原罪の御宿りです)”の文字が並んでいる。なかなか凝った意匠なのだと。 無原罪の御宿り(むげんざいのおんやどり)とは、聖母マリアが、神の恵みの特別なはからいによって、原罪の汚れと咎(とが)を存在のはじめから一切受けていなかったとする、カトリック教会における教義であるのだと。教会からの相模湾の眺め。電線が多すぎて・・・・。『のんき停』。昭和15年創業の人気の和食堂。海のそばで分かりやすい場所にありうなぎ・地アジ・とん汁・・・が好評。私も何回か利用した店。日本橋まで(から)78Km。そして右に曲がると直ぐ正面にJR国府津駅が。『国府津駅開業100周年記念碑』「国府津駅は1887年7月東海道線が横浜から国府津まで延長されたのに伴い、開業した。 1889年には東海道線が現在の御殿場線経由で静岡まで延長され、1920年には国府津-小田原間が開業した。1925年には横浜から国府津まで電化され、国府津駅はELからSLへの交換基地となった。 1934年には丹那トンネルが開通して、沼津まで電化されると、国府津駅は御殿場線への乗り換え駅となった。 1987年4月国鉄の民営分割化により御殿場線はJR東海の所属となり、国府津駅はJR東日本とJR東海の境界駅となった。」と。東海道線で活躍していたD5270 蒸気機関車のレリーフ、そしてレリーフには♫国府津おるれば馬車ありて 酒匂小田原とをからず 箱根八里の山道も あれ見よ雲の間より ♫ -鉄道唱歌より-~ と彫られていた。『国府津周辺案内図』。そしてこの日の『旧東海道を歩く(大磯~国府津)』の単独歩行を完了し帰路に就いたのであった。 ・・・その6・・・に戻る ・・・旧東海道を歩く(大磯~国府津) 完・・・
2019.02.05
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そして今日、2月4日(月)は『立春(りっしゅん)』。立春は寒さが1番ピークの時期で、 立春を超えると寒さが段々和らいで来るのです。日照時間が1番短く、 南中高度(1日で太陽が最も高い位置にある時の地平線からの角度)が最も低いのは、 冬至(12月22日頃)。しかし、太陽からの光で地球が温まるのには約1ヶ月程の時差があるのだと。そのため、一年で一番寒くなるのは冬至(昨年12月22日)の約1か月後の、 大寒(1月20日)~立春(2月4日)なのです。昨年の熱海・糸川桜に戯れていたメジロの写真に『立春』と入れてみました。毎年だいたい2月4日頃が立春となります。頃というのは2月4日に固定されているわけではなく、2月3日や2月5日の時もあります。立春というのは、二十四節気の一つ。二十四節気というのは、1年(約365日)を24等分にして、季節の名称が付けられたもの。24個あるうちの一番目で、冬至と春分のちょうど中間が「立春」と定められています。立春は、その日一日だけが立春と呼ばれることもありますが、2月4日頃次の二十四節気の「雨水」(2月18日頃)の前日までの期間を立春と呼ぶこともあります。また、八十八夜、二百十日、二百二十日と聞いたことがあると思いますが、これらの日にちは起算日の第一日目として立春から数えての日数となっています。立春の文字を見ると、春が始まるようなイメージですが、立春から立夏(5月5日頃)の前日までが、春となります。立春を過ぎると暦の上では春。少し日が長くなり、季節が動いていることを感じますが、寒さはもうしばらく続くのです。今年はインフルエンザが猛威を振るっています。1月31日~2月1日は、南岸低気圧の影響で関東地方などでも雨や雪となりました。ただ、お湿りは限定的で、昨日正午の東京都心の湿度は38%。関東甲信地方を中心に空気のカラカラが復活しているのだと。この先も関東甲信地方を中心に晴れる日が多く、空気の乾燥が続きそうです。手洗いや人混みでのマスクの着用、十分な睡眠をとるなど、インフルエンザ対策が欠かせません。そしてバランスのよい 食事を心がけ寒さを乗り切りましょう。 【http://chugokugo-script.net/koyomi/risshun.html】より『旧東海道を歩く』ブログ 目次そして今日も『旧東海道を歩く(大磯~国府津)』のブログアップを続けます。二宮町・吾妻山を右手に見ながら国府津方面に向かって進む。陽射しも強く12月とは思えない天気の中を歩く。日本橋まで(から)74Km。吾妻山入口交差点から吾妻山を見る。旧東海道はこの先右手を。『旧東海道の名残り』、『約100m先左折 梅沢海岸』と書かれた標柱。ここが吾妻山山頂近くにある「吾妻神社」の参道。この「吾妻神社」の創建年代等については不詳であるが、言い伝えでは日本武尊が東征の折り浦賀水道で暴風にあいそれをおさめるためその妃である弟橘姫命が入水し、その後弟橘姫命の櫛が流れ着き、それを祀ったのがこの神社とされていると。奥には一の石鳥居が。宮戸醤油漬物醸造と書かれた銘板のある入口門の前には大きな釜が。ここ二宮町山西のヤマニ醤油は、この町に1軒だけあった醤油醸造所。天保13年(1842年)に二宮で創業し残念ながら2005年に閉じてしまったとのことだが、町内には峯尾醤油という老舗蔵も存在していたと。江戸時代以降の二宮は、ちょっとした"醤油どころ"だったようだ。坂を上って行く。『真言宗 梅沢山 藤巻寺 等覺院』が右手に。旧東海道、梅澤川に架かっていた梅澤橋跡の袂から見上げる坂を登ったところに梅沢山等覚院、別名藤巻寺という古義真言宗の寺が。本尊は不動明王および両脇侍像で、その他にも多数の仏像が置かれていた。『本堂』。宗派は古義真言宗。小田原市国府津町宝金剛寺の末寺。本尊、不動明王および両脇侍像。『六地蔵』。『水子地蔵尊』。『鐘楼』は二宮町重要文化財。寛永八年(1631)の銘があり、町内に現存する最古の鐘楼であると。『正徳地蔵尊』。『無縁墓地』。『観音堂』推定樹齢約400年を超えるといわれる『白藤』。元和九年(1623)、徳川3代将軍家光が上洛した際、駕籠を止めて白藤を見物したとの言い伝えが残ると。また、寺の名前に関しては、寛文(1661~72)の頃、仁和寺の宮が、関東下向の時、藤の木の根元を見て、『藤巻寺』の別号を与えたと伝えられていると。南無薬師如来の赤い幟。『相模新西国三十三ヶ所観音霊場 第壱番藤巻寺』国道1号線と交差する近くに道祖神の古い石碑があった。『越地の辻の地神塔』。1802(享和2)年の物と。「金目の煮付」の赤い旗も存在感を。旧東海道と国道1号線の合流点を振り返る。この後にふれるオジサンが、ここでも旧東海道ではなく現国道1号線を歩いているのが写真に写っていたのであった。暫くすると、白装束、杖、編笠を被り足早に抜いて行く旧東海道巡りのオジサンの姿が。リュックには『東海道五十三次 徒歩の旅 江戸(日本橋)⇒京都(三条大橋)』と書かれたプレートを取り付け、気合が入っているのであった。日本橋まで(から)75Km。遥か前方に、先程の白装束の男性の姿が。『押切坂上』のバス停。川匂神社交差点に架かる歩道橋が前方に。川匂神社交差点を右折したところにあったのが『茶屋薬師堂』。かつては川勾神社の本地仏であったが、明治時代の神が仏分離令により別管理となったと。木造の『薬師如来坐像 (もくぞうやくしにょらいざぞう)』が安置されていると。像高は261.5センチとかなり大きく、寄木造り・彫眼・漆箔で、江戸時代の作で二宮町指定 重要有形文化財。毎月1日と12日にはお年寄りたちが薬師堂に集まり、念仏を唱えていると。『三界萬霊塔』。三界とは我々が生まれかわり死にかわりするこの世界のことで、欲界、色界、無色界の3種の世界があり、欲界というのは、食欲、性欲、睡眠欲などの欲望の世界で、色界は欲望が無くなった世界、無色界は形のあるものからはなれた純粋な世界を指すと。萬霊とは、欲界、色界、無色界などのそれらすべてを指すのだと。よって、三界萬霊塔とは、この世のあらゆる生命あるものの霊を宿らせ、供養することが目的に建立され、我が家の先祖だけでなく、すべての精霊に供養することの大切さを教えるものだと。多くの石仏も。そして歩道橋から前方の押切坂を見ると先ほどの白装束のオジサンの姿が。実はこの歩道橋の袂から旧東海道は脇道となっているのだが、そのままここでも現在の国道1号線を歩いていたのであった。装束こそは素晴らしいが、甚だ予習不足のオジサンなのであった。リュックの「東海道五十三次 徒歩の旅」のプレートは「現東海道1号線 徒歩の旅」に変更した方が良さそうなのであったが・・・・。『史跡 東海道一里塚の跡 江戸より十八里』。「ここ二宮の一里塚は、江戸日本橋から18番目の一里塚で、大磯宿と小田原宿の中間に位置しています。塚は街道を挟んで両側に築かれ、北側の塚は高さ約3.6m、上には欅(けやき)が植えられ、南側の塚は高さ約3.3m、上には榎(えのき)が植えられていました。周辺には、旅人目当ての茶屋や商店が軒を並べ、「梅沢の立場」と呼ばれて、大変賑わっていました。」私はしっかりと旧東海道を押切坂に向かって歩く。『松屋本陣の跡』。『松屋本陣の跡』は完全に一般住居の庭に立っていたのであった。「江戸幕府の交通政策によって東海道が整備されたことや、参勤交代制などにより、江戸~上方間を往来する人々は増え、旅人の宿泊所、休憩所も街道の随所に設けられました。このあたりは、大磯宿と小田原宿の中間に位置し、大磯宿~小田原宿の距離が16キロメートルと長い上、押切坂、酒匂川を手前に控えていることから、 間の宿(あいのしゅく)として休憩所が設けられ、大友屋・蔦屋・釜成屋など多くの茶屋や商店が軒を並べ、「梅沢の立場」と呼ばれて、大変賑わっていました。その中心的存在となっていたのが「松屋本陣」であり、参勤交代の諸大名・宮家・幕府役人など、特権階級にあたる人達の休憩所に指定されていました。 「松屋」であった和田家には、本陣を利用した人々の記録である「御休帳」が保存されていて、二宮町指定重要文化財になっています。」そして旧東海道『押切坂』の下りが始まる。今は住宅街の中の旧東海道。旧押切坂の途中の右手には可愛らしい道祖神が祀られていた。そして旧&新押切坂の合流点に。合流場所から振り返る。右側が旧東海道。中村川(なかむらがわ)に架かる押切橋が前方に。押切橋は幾度となく架け直された過去があると。流失と架け替えが繰り返された理由として、押切の名が示す通りこの地域は大水(洪水)の常襲地帯で、堤を押し破ることからこの名がつけられたのだとも。『押切橋』と書かれた銘板が欄干手摺に。中村川は、神奈川県足柄上郡中井町および小田原市、中郡二宮町を流れ相模湾に注ぐ二級河川。中村川水系の本流である。延長は10.3km(二級河川部分は9.00km)、流域面積は29.47km2。河口付近では流域の字名に由来して押切川とも呼ばれていると。左手には西湘バイパスとその先に相模湾が。川には多くの鯉が大きな口を開けて。そして小田原市に入る。小田原市のマンホール蓋。【http://sky.geocities.jp/usagigasi1j/kanagawa/odawara/odawara.html】には「歌川広重の浮世絵、東海道五十三次のうち「小田原・酒匂川」をモチーフにしたマンホール蓋です。 江戸時代の酒匂川には橋がなく、特に増水期は、旅人にとって大変な難所でした。 右下のふんどし姿の人影は、当時、旅人や荷物を担いで渡った「人足」と呼ばれる労働者たち。 また、背景にあるのは、酒匂川から望む「小田原城」と「箱根連山」、そしてその奥にそびえる「霊峰富士」です。 小田原市は昭和34年に下水道整備に着手し、現在は酒匂川流域の市町と連携して流域下水道事業を進めています。 「酒匂川から見た雄大な風景を歴史とともに後世に残したい」。 そんな想いが詰まったデザイン蓋です」と。 ・・・その5・・・に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.02.04
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今日は2月3日(日)、そして2019年の『節分』。本来、節分とは季節の節目である「立春、立夏、立秋、立冬の前日」のことをいい、年に4回あります。ところが、旧暦では春から新しい年が始まったため、立春の前日の節分(2月3日頃)は、大晦日に相当する大事な日でした。そこで、立春の前日の節分が重要視され、節分といえばこの日をさすようになったのだと。鬼は邪気や厄の象徴とされ、形の見えない災害、病、飢饉など、人間の想像力を越えた恐ろしい出来事は鬼の仕業と考えられて来たのだと。鬼を追い払う豆は、五穀の中でも穀霊が宿るといわれる大豆。豆が「魔滅」、豆を煎ることで「魔の目を射る」ことに通じるため、煎った大豆を使い、これを「福豆」といいうのだと。炒った豆を枡に入れ、神棚にお供えする。神棚がない場合は南の方角に置くのだと。夜になってから、戸口や窓、ベランダなどで豆まき開始。大きな声で「鬼は外!福は内!」と。豆をまくのは、家長の役目とされ、その年の干支の年男、年女も吉とされています。家中の戸を開け放して「鬼は外!福は内!」と大きな声で唱えながら家の外と内に豆をまく。豆をまいたら、鬼が入ってこないようすぐに戸を閉めます。そのあと1年間無病息災で過ごせるよう、年の数だけ福豆を食べる風習があります。食べる豆の数は、新しい年の厄祓いなので満年齢よりも1つ多く食べる、いわゆる 数え年として1つ多く食べる、もともとが数え年と考え新年の分を加えて2つ多く食べる、満年齢のまま食べるなど、地方によって様々ですが、全部食べきれないという方は、梅干し、塩昆布、豆3粒を入れた「福茶」を飲む方法など、いろいろあるようです。今年も妻がスーパーから購入して来ました。我が家も今晩、私が大きな声で「鬼は外!福は内!」と。そして数え年分食べるのは無理ですので、「還暦でリセット」し9個としたいと思っていますが・・・・・。そしてテレビのニュースでは、節分には「福豆」に並んで「恵方巻」を食べる習慣が定着し、あちこちで巻き寿司が売られるようになっている。それだけに大量に売れ残り、破棄されることが社会問題になっているのだと。しかし、我が実家そして我が家では「恵方巻」を食べる習慣は全く無く、「恵方巻」の存在を知ったのは10年程前なのです。因みに今年の「恵方」は「東北東」とのこと。2月の消費を盛り上げるために導入されたバレンタインデーのチョコレートやこの節分の恵方巻は商業目的で導入され定着していった代表的なイベントなのです。『旧東海道を歩く』ブログ 目次そして今日も『旧東海道を歩く(大磯~国府津)』のブログアップを続けます。県立大磯城山公園を後にし、国道1号線に戻り、『旧吉田茂邸』に向かう。『県立大磯城山公園 旧吉田茂邸地区』この場所も昨年の一月に訪ねブログアップ(☚リンク)しましたので、そちらもご笑覧ください。『バラ園』。色とりどりのバラが競うように花を咲かせていた。吉田茂はバラの愛好家として知られ、存命時に植えられていた品種が今でも同邸内のバラ園で栽培されている。皇后美智子様ゆかりの「プリンセスミチコ」を始め、17品種約280本のバラが来場者を出迎えるように甘い香りを放っているのだ。バラ園内を散策。様々な種類の秋バラが香りを放っていた。旧吉田邸内に入る『内門(兜門)』。この日は12月1日でここ旧吉田茂邸も休館日であったが、庭園には入れたのであった。『日本庭園』『管理休憩棟』も人の数は少なく。再びバラ園へ。様々なポスターが。前回訪ねた『明治記念 大磯庭園』のポスターも。『旧吉田茂邸 駐車場』には休館にもかかわらず大型観光バスが2台も。駐車場隅にも美しいバラが。そして再び国道1号線を超え旧東海道に戻り進む。ユニークな欄干の『本郷橋』を渡る。昭和2年に建設されたアーチ状の道路橋。構造は、鉄筋コンクリート変断面ラーメン橋で、高欄、親柱、橋側面のデザインが重厚。橋長16.8m、幅員6.8mのこの小橋は、建設後、既に60年以上も経ているはずだが、 よく維持管理されていた。不動川(ふどうがわ)に架かるかながわの橋100選の『本郷橋』。昭和2年に建設されたアーチ状の道路橋。構造は、鉄筋コンクリート変断面ラーメン橋で、高欄、親柱、橋側面のデザインが重厚である。橋長16.8m、幅員6.8mのこの小橋は、建設後、既に60年以上も経ているが、 よく維持管理されているのであった。そして、この橋の親柱は常夜灯になっているようであった。そして暫く歩くとカーブの左側にあったのが『宝前院』。『本堂』。「国府山 宝前院」は真言宗の寺。更に旧東海道を進む。この土盛りと並木のある直線の道路の雰囲気がかつての東海道だったという雰囲気を残していたのであった。そして進むと左手の樹木の下に柱と説明板が。『国府本郷の一里塚』。1604(慶長9)年に徳川家康の命で築かれた東海道の17番目の一里塚。現在説明板のあるものは2002年に復原された一里塚で、実際は江戸方向に200mの位置にあったとのこと。『江戸から十七里』。更に松並木を楽しみながら歩く。国道1号線に合流すると、『六所神社』の案内柱が。『六所神社』の大鳥居。東海道線のガードを潜り本堂に向かう。『本堂』。718年に現鎮座地に遷座。 櫛稲田姫命が祖神。その時より一之宮寒川神社 ( 寒川 ) 、二之宮川勾神社 ( 二宮 ) 、三之宮比々多神社 ( 伊勢原 ) 、四之宮前鳥神社 ( 平塚 ) 、平塚八幡宮 ( 平塚 ) の分霊を合わせ祀り、相模国総社六所神社と称されるようになった。毎年、5月5日には「相模国府祭」が行われる。湯津爪櫛御守り(ゆつつまぐしおまもり)は、男性から女性に贈ると「かけがえのない女性の証」。縁結びスポットとしても有名。この神社には、昨年の一月末にも訪ねているので、そのブログ(☚リンク)も参照ください。二宮に近づいていくと右手に『蓮花院』入口の案内が。蓮花院は、1192年(建久3年)、源頼朝が妻北条政子の御産加持を命じたという祈願所の一つ。日吉山王大権現(日吉山王社)の別当寺として祭祀を司って来たと。『本堂』創建は詳ではないが、慶長年中尊慶の中興されたと伝えられていると。「木造聖観世音菩薩及び二天立像」が安置され、町の文化財に指定。相模新西国三十三観音めぐり第五番霊場。そして大磯町から二宮町に入る。二宮町の汚水マンホール蓋。MY TOWN NINOMIYA の文字と、中央に町の木・椿の花のデザイン。「おすい」の文字入り。 この後国道一号線沿いに歩いていたら、何度も何度も遭遇。カラーマンホールの椿の花は真っ赤な色であると。葛川(くずかわ)に架かる塩海橋が前方に。道路脇の建物の壁一面に紅葉した蔦?の葉が。『塩見の名残り』と書かれた標柱を見つける。この付近で明治初期頃まで海で塩を作っていたのだと。新編武蔵風土記稿にも塩海(しぼみ)について書いてあり、古くからこの海岸で塩を作っていたと。近世になってからも揚浜法を用いて川匂・山西の3箇所で塩を作って年貢も塩であったと。現在の葛川では、その名残は全く見られなかった。「二宮」交差点に架かる歩道橋の中央付近から、海岸にある西湘バイパス「西湘二宮IC」に続く道路を見る。二宮交差点の右前方に早咲きの名の花が咲く人気のスポット「吾妻山」が見えた。更に進むと右手にあったのが『守宮神社』。小さな社殿。明治二十二年十月、神社を再建。「大地主命」(おおとこぬしのみこと)を祀っていると。そしてJR二宮駅南口に到着。カラーマンホールを発見。南口ロータリーには少女の像が。防空頭巾を纏ってウサギを抱きながら遠くを見つめる少女像。『ガラスのうさぎ』像であると。「太平洋戦争終結直前の昭和20年8月5日、ここJR二宮駅(当時国鉄)周辺には艦載機P51の機銃掃射を受け、幾人かの尊い生命がその犠牲となりました。この時、目の前で父を失った12歳の少女が、その悲しみを乗り越え、けなげに生き抜く姿を描いた戦争体験記「ガラスのうさぎ」(高木敏子さん著)は国民の心に深い感動を呼び起こし、戦争の悲惨さを強く印象づけました。この像は、私たち二宮町民が平和の尊さを後世に伝えるために、また少女を優しく励ました人たちの友情をたたえるために、多くの方々のご協力をいただき建てたものです。少女が胸に抱えているのは、父の形見となったガラスのうさぎです。」『ガラスのうさぎ』の裏には『伊達時彰徳碑 (だてときしょうとくのひ)』が建っていた。伊達時は二宮駅の開設や秦野―二宮間の交通網の整備、郷土の子どもたちの教育に尽くした。この碑は昭和26年に伊達の功績を永く後世に伝えるため、町民有志により建てられたと。 ・・・その4・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.02.03
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次更に二宮方面に向かって歩く。滄浪閣(そうろうかく)前交差点。右手には東海道線跨線橋が見えた。日本橋から69Km。『滄浪閣』入口。滄浪閣は、1890年(明治23年)に、足柄下郡小田原町(現:神奈川県小田原市)に建てられた、政治家・伊藤博文の別邸。1897年(明治30年)に中郡大磯町に同名の邸宅を建てて移転し、本籍も同町に移したことから、本邸となったと。『滄浪閣』の名の由来は、楚辞の漁父第七「滄浪之水清兮 可以濯吾纓 滄浪之水濁兮 可以濯吾足」(滄浪の水清まば、もってわが纓を濯うべく、滄浪の水濁らば、もってわが足を濯うべし)と。「滄浪」は「あおあおとした波」又は「漢水」の意味で、滄浪の水の流れが綺麗なときは冠の紐を洗い、濁っているときは足を洗う、という意味から、何事も自然の成り行きにまかせて身を処する意味を表しているのだと。1890年(明治23年)頃、伊藤が小田原の滄浪閣へ行く途中、大磯に立ち寄り、その白砂松林の大磯が気に入り、梅子夫人の病気療養のためにも、この地に別荘を建築することに決めたと。1954年から大磯プリンスホテルの別館として営業していたが、2007年頃に経営不振により閉業。その後は使用されていないが、歴史的価値のある建築であり、管理されている。『伊藤公滄浪閣之舊(旧)蹟』電器屋さんの店頭には早くもサンタクロースが。この日は12月1日(土)。前方に白岩大門交差点が。右手に折れ、東海道線ガードをくぐり『白岩神社』へ。階段を上る。神社の後ろの山が、海の方から眺めると白く光って見え、白岩山と呼んでいたので白岩神社と称えたとの事。『本堂』。毎年3月上旬の日曜日に、豊作や豊漁を祈願して行われます。流鏑馬(やぶさめ)とは異なり、社人が歩いて的をを射るという大変に珍しい神事。白岩神社の境内には、大磯に居を構えた伊藤博文公小祠、曽我物語の曽我五郎足跡石なども。そして東海道に戻り更に進む。『大磯松韻』と刻まれた石碑。大磯松韻住宅街は2003年1月に三菱商事と 清水建設が「歴史ある大磯らしい住環境を将来にわたって 維持したい」という開発プロジェクトの構想で開発されたと。こゆるぎの浜は古代から「よろぎ(ゆるぎ、こゆるぎ、こよろぎ)の磯」と呼ばれ、万葉・古今・新古今などの歌にも多く詠まれている。明治期以降は政財界の重鎮や文豪たちがこの浜沿いに別荘を構えたほどのやすらぎの浜になっている。北浜海岸とは対照的に静かで素朴な風景が広がっている。 さざれ石の産地としても有名。『八坂神社』。日本橋から70Km。手前に大磯町西小磯を流れる血洗川に架かる切通橋『切通橋』が見えて来た。『血洗川(ちあらいがわ)』血洗川の近く、切通しの岩窟中に行基作と伝えられる地蔵があった(現在は大磯町国府本郷の西長院にあり「身代わり地蔵」と呼ばれている)。縁起によれば、源頼朝が鶴岡八幡宮に参拝した際、狼藉をはたらいた者がおり、梶原景時の子悪太郎景義が疑いをかけられた。この地蔵に帰依していた悪太郎はお参りに来た際に畠山重忠によって討たれた。だが、悪太郎の身体には傷はなく、代わりにこの地蔵が血を流し、その腕も刀傷を受けたかのようであった。その時に地蔵が流した血を洗ったことにより、この名がついたと言われている。血洗川は、現在は住宅地の間に。切通橋袂にあった『道祖神(右)と水神さま(左)』。「大磯町西小磯を流れる血洗川に架かる切通橋の袂には道祖神がある。ここの小字は西町というようで、西町の道祖神と呼ばれているようだ。ここの石塔にも「道祖神」と彫られており、屋根が付いている。まるで石廟のようだ。この道祖神の石塔の側面には世話人の名と建立年(明治16年(1883年))の銘がある。明治期の道祖神であり、この頃には石塔に屋根を上げたのであろうか?また、五輪塔も安置されている。傍らの石碑は「水神」(大正11年(1922年)銘)であり、関東大震災(大正12年(1923年))の前年に建てられ、水神さまを祀っている。この血洗川に由来するものであろう。」『関東ふれあい道』。ここからは「大磯高麗山の道」があると。切通が見えて来た。そして手前に「県立大磯城山公園」と書かれた道路標識が。『神揃山(かみそろいやま)』は右手にと。神揃山は相模国総社(六所神社)及び五社の神体石が 鎮まる場所、神の力が導く場所であったと。毎年5月5日の相模 国府祭 ( こうのまち ) の際には一之宮から総社六所神社が一同に集まる、平安時代後期に相模国の国府が置かれたといわれる場所。国府祭は国家安泰・五 穀豊穣・民業繁栄を祈る相模国最大の祭典で、一千年以上の伝統と歴史を持つ、別名「天下祭」とも言われていると。一之宮~総社六所神社の6つの神体石が厳かに鎮座していると。一之宮…寒川神社 ( 寒川町 )二之宮…川勾神社 ( 二宮町 )三之宮…比々多神社 ( 伊勢原市 )四之宮…前鳥神社 ( 平塚市 )平塚八幡宮 ( 平塚市 )総社六所神社 ( 大磯町 )現在位置は国道1号線から旧東海道が分岐する場所。旧東海道を進むと正面に『県立大磯城山公園』と刻まれた石碑が。県立大磯城山公園の入口。『県立大磯城山公園』案内図。県立大磯城山公園は、湘南地域の西、大磯町の海辺に位置する公園で、旧三井財閥本家の別荘地跡を利用した「旧三井別邸地区」と、宰相・吉田茂が暮らした邸宅を活用した「旧吉田茂邸地区」の二つの地区がある。ここ旧三井別邸地区には、三井財閥別荘跡地の宅地開発計画が契機となり1980年代に公園とすることが決まり、三井家の茶室として置かれていた国宝「如庵」にちなんで建てられた茶室「城山庵」、大磯町郷土資料館や横穴式古墳群などがある。かつて小磯城と呼ばれる山城が築かれていた場所で、園内には掘割の跡や鎌倉古道などが残されている。また、ゆるやかな丘陵につくられた展望台に登れば、相模湾をはじめ遠く富士、箱根、伊豆半島の山々などの雄大な自然が一望できると。坂を上っていくと大磯城山公園の南門が現われた。『中門(海會門(かいえざん))』「薬師寺(奈良)、菅原寺(奈良)、浅草寺(東京)などの古材を用いて作られています。柱は薬師寺の鐘楼の柱を使い門扉は当麻寺(大和)の講堂扉、鬼瓦および棟瓦は菅原寺金堂瓦、肘木は浅草寺肘木を使用するなど、多数の寺の古材を用いて建立されました。場所は現在の南門にあたります。」更に坂を上っていくと右に折れる階段が現われた。『流雲橋と仙遊門』。[37min階段の上にかけられていました。橋げたの礎石の一部が現在でも残っています。階段の昇り口には仙遊門が設置されていました。場所は現在の横穴古墳群への道になります。」更に坂を上っていく。左側にあったのが『亀蔵門』。現在の展望台。展望台の八角東屋の屋根には鶴が。『城山荘本館車寄』「中門から北に向かって坂を登ってゆくと本館が姿を現します。玄関前で大きく曲がり車寄として三井家の方々が車の乗り降りをされました。場所は現在の南門から展望台へ登ったところです。」展望台からのこの日の眺望。右手に富士山の雄姿も。『展望台からの眺望』。この展望台は「関東の富士見百景」に指定されていた。船のオブジェ。『城山荘本館』「建築家久米権九郎設計の木造建築物で、昭和9年暮れに完成しました。 本館中央には「養老閣」と呼ばれる四層の塔屋があり、最上階は展望室となっており、屋根には鶴の飾りが取り付けられていました。 この建物は全国の寺社の古材を使用して建設され歴史的にも非常に価値の高い建物でしたが、昭和45年に名古屋鉄道株式会社の所有となり、解体され京都に運ばれました。場所は現在の展望台あたりです。」高台にあったのが『北蔵ギャラリー』。昭和16年頃に建てられたという蔵。当時がしのばれる数少ない建物。東蔵も同時代に建てられたと。『北蔵ギャラリー』『SHODOH(書道)展』が行われていた。『通雲門』。通雲門の脇の「こうの橋」の案内標識もあった。見事な紅葉。細い坂道を下る。『大磯町郷土資料館』『外国人遊歩規定測量の測点』明治の初期に、居留外国人の移動範囲を横浜から測量した測点に置かれた標石は、神奈川県内に約60ヶ所あると。大磯町黒岩の第36号測点標石は2017年(平成29)に大磯町郷土資料館に再移設された。資料館本館の前庭にある郵便ポスト前に展示されていた。 懐かしいポストも。『1号丸型ポスト 昭和25~60年(1950~85)年』「大磯町内で使用されていたポスト。近年、郵便物が大畑化することにより、差し入れ口や容量が大きい角形ポストに替えられるようになった」。※このポストは使用できません。郵便物などはいれないようにしてください。『大磯町郷土資料館』はこの日は12月1日であったために月に1度の休館日であった。この資料館は大磯周辺地域の歴史、風土、民俗を紹介しているのであった。『大磯町郷土資料館』前の芝生広場。広場の紅葉を楽しみながら散策を続ける。『大磯町郷土資料館』が眼下に。竹林も美しかった。『横穴古墳群』。水たまりができた遊歩道をしばらく進むと木柵に囲まれた場所があった。古墳時代後期の横穴古墳群です。横穴が3つ確認できたのであった。横穴墓郡の前に『城山荘温故の碑』園内には32箇所 この一角には12箇所の横穴が。防空壕のような横穴が。急な傾斜地に木道が設置されていた。そして更に進み駐車場まで下り、次の目的地・「旧吉田茂邸」に向かったのであった。 ・・・その3・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.02.02
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年が明けてあっという間に時は流れ…もう2月になってしまいました。こうやって歳をとっていくのですね。私と同様に多くの方が今現在よりも、若い頃の方が時間が経つのがゆっくりだったと感じているのではと。以前にも書いた記憶がありますが、実はこの現象についてフランスの哲学者・ポール・ジャネ(1823年~1899年)が発案した「ジャネーの法則」というものがあるのです。Wikipediaによると『ジャネーの法則(ジャネーのほうそく)は、19世紀のフランスの哲学者・ポール・ジャネが発案し、甥の心理学者・ピエール・ジャネの著書において紹介された法則。主観的に記憶される年月の長さは年少者にはより長く、年長者にはより短く評価されるという現象を心理学的に説明した。簡単に言えば生涯のある時期における時間の心理的長さは年齢の逆数に比例する(年齢に反比例する)。 【https://ameblo.jp/psymiki1109/entry-12173738670.html】より例えば、50歳の人間にとって1年の長さは人生の50分の1ほどであるが、5歳の人間にとっては5分の1に相当する。よって、50歳の人間にとっての10年間は5歳の人間にとっての1年間に当たり、5歳の人間の1日が50歳の人間の10日に当たることになる。 』と。よって、年齢を重ねるに従い1年の長さの比率が小さくなっていくことで、時間がより早く感じるようになるのだと。よって、日々多くの事を経験して充実した日常を送れるのであれば、密度が高い時間を過ごすことになり、人生における時間の経過を引き延ばす事になるのではと。時間を無駄にせず人生を充実させ為に、毎日をしっかりと生きて、充実感や満足感をしっかりと実感できる、そんな生活を毎日送ることが出来るように「今、この瞬間を生きる」を意識して日々、生活したいと思っているのですが。元旦に片瀬海岸で迎えた初日の出の写真に、文字を入れてみました。『旧東海道を歩く』ブログ 目次そして今日も『旧東海道を歩く(大磯~国府津)』のブログアップを続けます。国道1号線(旧東海道)を平塚方面に戻り「大隈邸」、「陸奥邸」入口から入園する。中に入って進むと「大隈邸」の姿が見えて来た。庭園内には松や紅葉樹、竹林が。旧大隈重信邸(きゅうおおくましげのぶてい)玄関。残念ながら、この日は予約しておらず見学は外部からのみ。『旧大隈重信別邸』「大隈重信は、明治 15 年(1882)に立憲改進党を結成すると共に、東京専門学校(現在の早稲田大学) を創設しました。明治 31 年(1898)、自由党の板垣退助と日本で最初の政党内閣を組織し、総理大臣 に就任しました。その前年に、大磯の地に別荘を構えました。 現在は、東に隣接する旧陸奥宗光邸と合わせて庭園を含めた敷地面積は約 8,000 坪、家屋は一部増改 築がなされていますが、庭に面する居室部分はほぼ往時のままで保存されています。 社交家の大隈重信は、2 間の和室、計 26 帖の大広間「富士の間」でよく宴会を開いていました。書院 風の部屋で、1 間の床の間と付書院があり、床柱は面取のサルスベリが用いられています。 建物東側の宝形屋根の棟は、大隈が書斎として使っていた部屋で、「神代杉(じんだいすぎ)」をふんだんに使った「神代の間」と呼ばれており、床の間には欅の一枚板や竹の床柱が用いられています。」 『富士の間 』外観。『五右衛門風呂』。大隈重信は風呂が好きだったと。この釜に入っていたと。杉戸絵(左)をガラス越しに。杉戸絵「静香御前の舞」。杉戸絵(右)。太田道灌。天皇から送られた物だとか。屋外から撮ったためガラスの反射で光ってしまいました。『旧大隈庭園』大隈邸前の丘陵はなだらかに下り、海岸につながっていました。明治30年の創建当時は樹木も低く、海との間に道もないため邸の前庭から海を眺めることができました。大隈公は大磯邸で暮らした4年ほどの間に、防風・砂防のための松を植えたと伝えられています。『旧大隈重信別邸』説明パネル。『富士の間 』外観を振り返る。26帖の二間続きの大広間は書院風。「富士の間」と呼ばれ、大隈はここでよく宴会を開いていたという。神大の間 外観。神代の間の和室は、神代杉(※千年以上もの長い間地中(火山灰)や湖底に埋もれていた杉を神代杉と呼ぶ)をふんだんに使用し、床の間には欅の一枚板と竹の床柱がある。神代の間のガラスは、明治の頃、板ガラスは西欧で行われていた大型手吹き円筒法という製造方法が用いられていた。平らな板ガラスに歪みができ、内外の景色がゆがんで見えると。屋根には避雷針が。前庭も見事に手入れがされていた。そしてバラ園。『バラ園』説明パネル。バラ園の様々な色のバラを楽しむ。可憐な黄色。赤も輝いて。『果樹園』説明パネル。「宇賀大神」と刻まれた『宇賀大神の碑』。『宇賀大神の碑』説明パネル。古河財閥の時代に建碑されたと。宇賀神は白蛇を祀る信仰の神。水神信仰と結びつくことから七福神の弁財天とも同一視され、商売繁盛の福の神として祀られている。ちなみに鎌倉・銭洗弁天の祭神も宇賀福神。そして旧陸奥宗光別邸(きゅうむつむねみつべってい)。『旧陸奥宗光別邸』説明パネル。右側は母屋(応接室兼主人室) 外観。陸奥宗光は天保15年(1844)、紀州藩藩士の六男に生まれる。15歳のとき江戸に出て学ぶ。坂本龍馬とは神戸海軍操練所、亀山社中、海援隊と行動を共にした。明治維新後は外国専務局御用掛や兵庫・神奈川県知掌、大蔵省租税頭、元老院議官などを歴任した。『旧陸奥邸庭園』説明パネル。『母屋(応接室兼主人室)』 外観。ここにも『旧陸奥宗光別邸』パネル。『玄関』玄関に掛けられている額の文字は?『聴漁荘』。「漁の声を聴く荘」の意味であると。邸内にあった『龍頭の大島桜』。左の枝が頭でやや下がった枝が前足?庭の中には小さな神社も。今回は外部からの見学であったが、内部の様子は『まちへ、森へ。』のブログに詳細に説明されているのでリンクを貼らせていただきましたので、ご参照ください。そして見学を終わり東海道に向かい入口を振り返る。そして再び二宮方面に歩を進める。受付場所には多くの人の姿が。 ・・・その2・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.02.01
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