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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『伊奈一里塚跡』から100mほどの場所右手にあったのが『速須佐之男神社(すさのおじんじゃ)』参道入口左にあったのが『秋葉山常夜灯』。石鳥居とその先に参道が。扁額にも『速須佐之男神社』と。『拝殿』。明和7年(1770年)10月9日創建という。速須佐之男命を祭神とし、例祭日は旧6月15日。境内には何故か?二宮尊徳像が。豊川市桜町1丁目、右手広場奥にあったのが『冷泉為村卿御歌碑』。案内板。『若宮白鳥神社遥拝所』と刻まれた石柱の横に歌碑が。藤原定家 を祖にもつ江戸中期の歌人・冷泉為村(れいぜい・ためむら、1712~74年)が、延享3年(1746)に徳川第9代家重 が将軍継承の際、為村一行が朝廷の使いとして江戸に下る途中、当時、桜の名所であったという桜町で詠んだ歌碑が旧東海道沿いにあった。この碑は、2007年3月18日に建てられたもの。「 散り残る 花もやあると さくら村 青葉の木かげ 立ちぞやすらふ 」そして豊川市の汚水マンホール蓋。市内を流れる豊川と奥の山は本宮山。市の木「クロマツ」と市の花「サツキ」、それに豊川稲荷を連想させる「キツネ」も描かれている。そして民家の庭に色彩豊かな鶏が数匹放し飼いにされていた。名古屋コーチンではなさそうだが、昔、熊本で見た「天草大王」か?『西古瀬川』を渡る。大型草刈り機で堤防の雑草を一気に除去していた。川沿いには(株)白鳥生コンが。更に旧東海道を進む。可愛らしい『道祖神』、『豊川警察署』の文字も。この後、東三河環状線の下を潜れないため、右折して国道1号線に合流し京次西交差点を渡り進む。名鉄名古屋本線・白鳥路線橋を進む。名鉄名古屋本線。周囲の田園風景を楽しみながら。国道1号線・白鳥交差点を過ぎる。日本橋から305.5kmと300km超えを再確認。国府町薮下交差点から旧東海道は左に分岐して県道374号線に。読みは国府町(こうちょう)と。名鉄駅・国府は「こう」であった記憶があるが。旧東海道に入る。小さな祠が二つ仲良く並んでいた。『半僧坊大権現』と。こちらは『国府天神』。右手に『秋葉山常夜燈』。『秋葉山 常夜燈』「型式は御中堅?高さ205cm、造上寛政12庚申(1800)村中安全。秋葉山秋葉三尺坊大権現はその昔、越後国蔵山より白狐に乗って遠州の秋葉山に飛来したいといわれ火防の霊験あらたかと信ぜられ、江戸時代朝庭(廷)、大名、庶民に至るまで奥深い信仰をあつめられ、国府村民等も村民を火難より守るため秋葉山常夜燈を造りました。」次に右手には『薬師堂瑠璃殿』。熊野へ行く途中、国府の郷を通った行基は二人の姉妹が住む家に投宿した。姉妹が死んだ父母のために仏像を刻んで欲しいと行基に頼み、行基が近くの古木の杉から薬師瑠璃光如来像を刻むと、姉妹はこれを安置した寺を建立したという。瑠璃殿の扁額は文政四年(1828年)八幡山巌禅翁の書。『三河国府中二子寺 薬師如来塁畧縁記』。『薬師如来像』であろうか?『薬師如来』の幟が並んでいた。再び豊川市マンホール蓋。市の木「クロマツ」の間にキツネが鎮座。旧東海道と平行に建っていたのが『大社神社』。愛知県豊川市国府町流霞5に鎮座する神社。明治5年(1872年)には、大社神社は国府村の総氏神となる。ご祭神は大国主命。『御神木』。境内には他に秋葉神社も。御祭神は火之迦具土(ひのかぐつち)大神(秋葉三尺坊)『拝殿』。天元・永観(978~985)の頃、時の国司 大江定基卿が三河守としての在任に際して、三河国の安泰を祈念して、出雲国大社より大国主命を勧請し、合わせて三河国中の諸社の神々をも祀られたとあります。こちらは大社神社忌避期間遙拝所。『戦死者 玉島好彦のために』碑。「子を思う 親の心の悲しさよ 孫なき吾子の 名をば止めん」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.31
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次豊川放水路を渡った先には、善光寺川に架かる『万石橋』が。万石橋の下には、昭和28年改築の旧万石橋が残っていた。昭和40年(1965年)豊川放水路の通水に伴い現『万石橋』を架橋し不要となった旧橋そのまま残っているのは珍しい。さらにその先『豊川放水路』から300m近く歩くと右手にあったのが『子だが橋』の碑。「子断が橋ともいわれ、明治時代には「小田橋」と書いてあった。およそ一千年前莬足神社には、人見御供があり春の大祭の初日にこの街道を最初に通る若い女性を生贄にする習慣があったと伝えられている。ある年のこと、贄狩に奉仕する平井村の人の前を若い女性が故郷の祭礼と父母に逢う楽しさを胸に秘めて、暁の街道を足早に通りかかり橋の上まで来た、見ればわが子である、「ああいかにすべきか」と苦しんだが、神の威光の尊さに「子だが止むを得ん」と、遂に生贄にして神に奉った。それからこの橋を、子だか橋と呼ぶようになったということである。現在、莬足神社では、十二羽の雀を贄に替えて行われている。」そして『才丿木』交差点の先の右手にあったのが『社式内 莬足神社』。『社式内 莬足神社(うたりじんじゃ)』と刻まれた社標。『莬足神社の史跡と伝説』「①石の鳥居 第一鳥居は、元禄四年(一六九一)に吉田城主小笠原長重公が寄進したものである。 高さ四・五m 明神形 銘は次のとおり。 右側 奉献石鳥居 三州宝飯郡小坂井村八幡宮前 左側 元禄辛未九月吉旦 吉田城主従四位下侍従兼佐渡守小笠原長重 肅具 額の文字は、東征大総督 有栖川熾仁親王の御染筆。 ②宿中島太神楽奉納 石灯籠ニ基 小坂井町宿字中島は三河万歳で有名で、また伊勢神楽、獅子神楽の流れをくむ太神楽でも 知られていた。太神楽は江戸時代末期に大流行し、近郷近在の秋祭りはもちろん、遠州方面への 出稼ぎも盛んに行われていた。鳥居両脇の石灯籠は、中島の太神楽惣連中が文化元年 (一八〇四)に奉納したもので、当時の太神楽の隆盛を偲ばせる。灯籠に十九名の 太神楽連中の名が刻まれている。③弁慶松の伝説と歌枕「しかすがの渡し」 弁慶が東行のおり、大雨で対岸へ渡れず渡津に逗留した時に植えた松と伝えられてきた。 奈良時代から平安時代の十世紀頃まで菟足神社前は、大小の洲がある広大な入江であり、 対岸の飽海、坂津方面へは船で渡っていた。枕草子にも書かれた「しかすがの渡し」が どこにあったのかは特定できないが、ある時期にはこの近辺にあったと思われる。 紀行文「いほぬし」 増基法師(天暦十年頃 九五六)の歌 しかすがの渡りにて渡し守のいみじうぬれたるに 旅人のとしも見えねどしかすがにみなれてみゆる渡守哉 現在の松は、平成十八年に植え替えられた。」石の第一鳥居は、元禄四年(一六九一)に吉田城主小笠原長重公が寄進したものである。高さ4.5m。扁額には『内式 莬足神社』と。拝殿前の二の鳥居。『式内 莬足神社』御祭神 菟上足尼命創立 白鳳13年(686)穂の国(東三河の古名)の国造であられた菟上足尼命は、初め平井の柏木浜に祀られたが、間もなく当地に御遷座になった。当社の大般若経55巻は国の重要文化財に指定(昭和36年)されている。僧研意智の書(1176-1179)であるが、長い間弁慶の書と伝えられていた。(弁慶が東下のおり、洪水のため渡航できず、滞在7日の間に書き上げて神前へ奉納したと信じられていた)なお応安3年(1370)の銘のある梵鐘(昭和39年県文化財指定)は本社前の水田から発掘されたものであり、当時は今の手水社の位置に鐘楼があったことが天保時代の三河国名所図絵に出ている。当時のお田祭りの行事は県の文化財に指定(昭和39年)されている。風祭り(平成27年市無形文化財指定)として知られている例祭は4月第2土・日曜日(本来は4月10,11日)に行われ、打上花火、建物花火、手筒花火は特に名高い。 また、祭礼の古面(5面)は昭和40年に県の文化財に指定されている。『莬足神社 案内図』。『莬足神社 拝殿』。『神楽殿』。神輿庫であろうか?『万福招来生木』。『大切な場所』をズームで。『別宮 八幡社』『境内社』は山住神社、金刀比羅宮、津島神社。『菟足神社貝塚』。『菟足神社貝塚』「この貝塚は、神社境内および隣接する川出氏宅の敷地一帯に広がる。故川出直吉氏は明治三十年代から貝塚を発掘し、遺物の採集に努めていた。このため平井稲荷山貝塚とともに早くから学界の注目を集め、大正十一年には京郁帝国大学の故清野謙次博士が発掘調査をされた。また、最近では平成二年に町教育委員会が調査を行っている。出土遺物はほとんとが縄文時代晩期の土器であるが、弥生土器や古墳時代後期の須恵器も見られる。しかし、最も注目されるのは、縄文時代早期(今から一万年から六千年前)の押型文土器と呼ばれる土器の破片である。この種の土器は豊川右岸下流域では本貝塚でしか発見されていない。人骨は乎井稲荷山貝塚のように大量に出土していないが、川出氏の採集品の中には抜歯されたものがあった。貝殻を形成している貝塚は、ほとんどがハマグリとシジミガイであり、場所によっては厚さ一メートル近くも推積している所もあり、町内の貝塚の中で最も保存状況が良い。当時は目の前を流れる川(現在の走川)の水運を利用して浜へ出て貝を採集していたのであろうか。また、遺跡の所在する周辺は南向きの台地で、斜面には天然の湧き水もあり、生活環境としては絶好の場所である。川出氏の収集品は町郷土資料館で見ることができる。」『菟足神社と徐福伝説』今から二千百年ほど前、戦国の中国を統一した秦の始皇帝は、徐福から東方海上に運薬など三つの神山があり、そこには不老不死の霊薬があるということを聞いた。そこで、始皇帝はその霊薬を求めて来るよう徐福に命じ、三千人の童男童女と百工(多くの技術者)を連れ、運薬の島に向かわせた。しかし、出発してからのその後の徐福一行の動向はわかっていない。「ところが、わが国には徐福一行の渡来地といわれている所が二十余箇所もある。しかも、わが小坂井町が徐福渡来地の一箇所として挙げられているのである。それは次のような英足神社に係わることからいわれるようになったと考えられている。- 熊野に渡来した徐福一行は、この地方にも移り住み、その子孫が秦氏を名乗っている。豊橋市日色野町には、「秦氏の先祖は、中国から熊野へ渡来し、熊野からこの地方に来だ」との言い伝えがある。・ 牛窪記(元禄十年(一八九七)頃成立)には、「崇神天皇御宇二紀州手間戸之漠ヨリ徐氏古座侍郎乏府(北国渡六本松ト云浜二来ル。 中略 徐福ガ孫古座侍郎三州二移リ来ル故二本宮山下秦氏者多シ……」とある。| 英足神社の創設者は、「秦氏」ともいわれている。菟足神社県社昇格記念碑(大正十一年十二月二十日昇格)に、「菟足神社は延喜式内の旧社にして祭神菊上足形命は中 昭 雄略天皇の御世、穂の国造に任けられ給ひて治民の功多かりしかば平井なる柏木浜に宮造して流ひまつりしを天武の白鳳十五年四月十一日神の御館のまにまに楽石勝をして今の処に移し祀らしめ給ひしなり………」と記されている。II 英足神社には、昔から中国的な生贄神事が行われている。古来困足神社の察事には、活の生贄を供えていた。三河国の国司大江定基が、その生贄の残忍なありさまを見て出家し、唐に留学し寂照法師となったことが、「今昔物語」(平安後期)に書かれている。生贄神事には人身御供の伝説もあるが、現在では雀十二羽を供えている。以上のほか、三河地方が古来から熊野地方とは海路による往来が行われ、熊野信仰の修験者により熊野に伝わる徐福伝承が伝えられた。また、小坂井町が交通の要地で、東西を往来する人達のなかからも徐福の故事が伝えられたとも考えられる。『奉納 三尺玉』碑。『収蔵庫』。国指定重要文化財『大般若経』を収容すると。 『大般若経』は585巻 で1961年(昭和36年)6月30日指定されたと。『忠魂碑』。御朱印を頂きました。旧東海道・県道496号線を進むとJR飯田線の小坂井踏切が。そしてその先のカーブの場所の山彦精肉店前にあった小坂井町の『秋葉神社』。秋葉神社境内の『常夜灯』は文化5年(1808)建立と。先行した旅友が待っていてくれた。旅友と合流して更に旧東海道を進む。『明光寺』山門前の堂も立派な『常夜灯』。『明光寺山門』。『明光寺 本堂』浄土宗の寺院で、山号は諏訪山、本尊は阿弥陀如来。 『諏訪山』と書かれた扁額。法然上人であろうか。『本堂』脇の石仏群。『地境争いと五輪塔』境内の一角に、上部の欠けた五輪塔があり、こんな言い伝えが残っていると。「今から三百年ほど前の古い絵図をみると、現在の豊川市蔵子町と小坂井町宿とが、野川の川筋のことについて、地境の争いがたびたびあったことがわかります。 当時、その地境に五輪塔があり、両方でうばいあったと言われています。この五輪塔は誰が建てたのか、誰を祀ったものかはっきりわかりません。 現在、塔の上の部分は、豊川市蔵子町の共同墓地にあり、下部は小坂井町宿の明光寺の境内にあります。」『畜魂碑』旧東海道・白鳥豊橋線に戻り進む。左手にあったのが『伊那村立場茶屋 加藤家跡』碑。『伊奈村立場茶屋 加藤家跡(俗称 茶屋本陣跡)』一 茶屋の地名 東海道吉田宿と御油宿の中間にあたり、立場茶屋が設けられたので、茶屋の地名ができた。ニ 加藤家と良香散 茶屋のうち格式の高い加藤家(初代は大林平右衛門)では、「良香散」という腹薬が売られ、 この薬は茶屋の地名よりも有名であった。交通の変遷によって今はこの古井戸(南西30M) 一つ残すのみとなった。三 明治天皇御旧跡 東京遷都の時、明治天皇は、この加藤家で御休憩になられた。その時天皇が使用された箸が、 牧野真一氏宅に保存されている。四 俳人烏巣 烏巣は、加藤家の生まれで、謙斎といい芭蕉と親交があり、京都で医者をつとめていた。五 芭蕉句碑 「かくさぬぞ 宿は菜汁に 唐が羅し」六 烏巣句碑 「ももの花 さかひしまらぬ かきね哉」その先には『迦貝土神社(かぐつちじんじゃ)』が。石鳥居の『扁額』。『本堂』。延宝8年(1680年)11月17日創建という。 迦具土神を祭神とし、例祭日は 10月12日。街中にあり、鬱蒼とした木々に囲まれていないのと、社殿も新しいので、境内が明るく広々と感じる。そして『伊奈 一里塚跡』碑。豊川を渡り、旧東海道を北西に道なりに進むと、山本太鼓店の正面に江戸から数えて七十五番目の一里塚となる伊奈(伊ノ奈)一里塚の碑があった。 伊奈(伊ノ奈)一里塚は碑が立っているのみで当時の面影は残っていない。『江戸日本橋から七五里』。そして慶応年間創業の『山本太鼓店』に立ち寄る。店内には様々な太鼓が陳列されていた。江戸時代、幕府の政策により、東海道の街道筋の約十里毎に太鼓店が配置されたという。東海地区では、浜松、小坂井、知立、名古屋、桑名に太鼓店があったとのこと。この小坂井町の山本太鼓店は、こうした太鼓店の職人の子孫である山本松平氏が明治年代に始めたもので、現在でも6代目の正孝氏が昔どおり、すべて手作業で製作していたのであった。暖簾には『鼓』と。店主が太鼓について説明してくださいました。巨大な太鼓の皮。どこの神社の太鼓の皮なのであろうか? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.30
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次愛知県道496号白鳥豊橋線の豊川に架かる『豊橋』を渡る。もともと東海道は現在と違うところで豊川を渡っていたが、江戸時代に東海道が豊橋(吉田大橋)を渡るルートに定められ、江戸幕府がこの大橋を管理下に置いて天下橋となった。これが船町(下流)側のこの大橋・『豊橋』のルーツである。これが昭和時代になり、国道1号の整備と共にこの大橋・『豊橋』の東の酒井忠次が架けたとされる辺りにもう1つの大橋(吉田大橋)を架けた。これが八町(上流)側の大橋・『豊橋』である。この時点で正式に、この東の八町の橋が吉田大橋(国道1号)、西の下流側の船町の橋が『豊橋』(愛知県道496号白鳥豊橋線)という名になった。『豊橋』から『吉田城』の『鉄櫓』が見えた。手前に見える橋が『吉田大橋』。『豊橋』を渡り終えて、直ぐに左折し豊川に沿って進む。右手にあったのが『豊川稲荷遥拝所碑』。『維持安政二龍次乙卯正月』と刻まれた石灯籠。その後ろに、『豊川稲荷遥拝所』碑。『豊川稲荷遥拝所と大鳥居について』豊川稲荷はここから北方へ直線で5.5km程の所にある。豊川稲荷遥拝所から100mほど先・右手に『真宗 高田派 朝晃山 真光寺』があった。真光寺の創建年代等は不詳であるが、山門脇に豊橋市指定有形文化財の『木造阿弥陀如来立像』の解説があった。『本堂』。『真光寺の皆様へ』、と高田本山へのバス旅行の案内。そして次に訪ねたのが『聖眼寺しょうげんじ』。真光寺の一区画隣にあったのが真宗高田派の『聖霊山聖眼寺』聖眼寺は鎌倉時代に下地に移転したと言われ、永禄7年(1564)徳川家康が、今川勢が支配する対岸の吉田城を攻撃した際、ここに本陣を構えたという。家康は境内にある太子堂で必勝を祈願し、ここで金扇をもらい、それを用いて采配を振るったと伝えられている。山門前には『芭蕉句碑標石』が。この標石には「寺内に芭蕉塚有、宝暦四甲戌年二月十二日東都花傘宜来」と。そしてその後ろには『松葉塚』の解説板が。『松葉塚』聖眼寺境内の松葉塚には、古碑松葉塚、明和6年(1769)の再建松葉塚、および古碑松葉塚の所在を示す宝暦4年(1754)建立の標石があり、当地方の文学史研究上資料的価値の高いものです。「松葉(ご)を焚いて手拭あふる寒さ哉」 古碑松葉塚に刻まれたこの句は貞享4年(1687)冬、松尾芭蕉が愛弟子杜国の身を案じて渥美郡保美の里(現渥美町)を訪れる途中当寺に立ち寄り、一句を詠んだものです。 尖塔型自然石の古碑松葉塚は、芭蕉没後50年忌を記念して建てられたといわれ、句が刻まれて「松葉塚」名称の由来となっています。再建松葉塚は、明和6年に植田古帆、大木巴牛が発起人となり、吉田連衆の協力を得て近江の義仲寺に埋葬された芭蕉の墓の墳土を譲り受けて再建したもので、句は「ごを焼て手拭あふる寒さ哉」とあります。「芭蕉翁」の3字は白隠禅師、句は尾張の横井也有の筆になるものです。この再建を契機に、各地の俳諧師が競って句碑を建立するようになり、東三河の俳壇に黎明期を迎えました。『芭蕉句碑』。古碑松葉塚には松尾芭蕉が愛弟子社国に詠んだ「ごを焼て 手拭あぶる 寒さ哉」という句が刻まれていて、「松葉塚」名称の由来を示している。「ご」は三河方言で、枯れた松葉のこと。焚き付けとして最良の燃料であったと。この境内の松葉塚には、新旧二つの芭蕉の句碑が立っていたのであった。古い句碑には「松葉を焚て手ぬぐひあふる寒さ哉」、新しい句碑には「ごを焼て手拭あぶる寒さ哉」と刻まれていたのであった。一見したとき、なぜ「手」をあぶらずに「手拭」なのかと?。調べたところ、この手拭は湿ったものが道中の寒さで凍ったものだという。それをあぶることで手をあぶるより寒さを余計に表現できるのだろうと。この記念碑は?『本堂』。近くの幼稚園では幼児たちが楽しく遊んでいた。蚊取り装置『モスキートマグネット』。ネットで調べて見ると蚊を磁石のように引き寄せて吸い取る装置であると。どんな仕組みで蚊を駆除するかというと、プロパンガスの燃焼によって発生した二酸化炭素を、特殊スクリーンを通し蚊の嫌う成分を取り除き、地表に向けて放出します。空気より重い二酸化炭素は広範囲に拡散して、蚊をおびき寄せます。そして、バイオ技術で生成した動物のエキス:誘引剤(オクテノール)によって、装置を動物と錯覚させて吸引口へ引き寄せ、内蔵しているファンのバキュームにより本体内部の捕獲ネットに閉じ込め、乾燥させてしまいます。殺虫剤を使用しないため、他の益虫や昆虫にはまったく影響がなく、環境に優しい製品であると。園児が蚊に刺されないように設置されているのであろう。街道の左側は豊川の土手が続く。土手の内側には石垣が数段、積まれている。いつ時代のものであろうか。『下地堤防改修記念碑』が左手に。5分ほど歩いた歩道の街路樹の元に、『下地一里塚跡』の石標を見つけた。『江戸日本橋より七四里』とあった。『下地一里塚跡』の石標を振り返る。(株)ヤマサンは大豆 食用油 米穀 豆腐関連資材 和・洋・中華食材 冷凍食品などを製造。県道387号線・清須下地線を更に進む。『マンデビラ ピンクパフェ』であろうか?県道496号線の右に小さく、『爪郷遺跡(うりごういせき)』の案内板が。ここを右折して進む。『史跡 瓜郷遺跡』石柱。『瓜郷遺跡』「この遺跡は低湿地に囲まれた自然堤防の上に立地する、弥生時代中期から古墳時代前期(2000年前~1700年前)にかけての集落>の跡です。昭和22年11月から昭和27年10月までの間、5回にわたり発掘調査が実施され、土器・石器・骨角器・木製の農具などが出土しました。これらの出土品は東三河地方の弥生文化を知るうえで重要な手がかりとなっています。ここでは農耕(主に稲作)のほかに、漁撈や狩猟などが行われていたことがわかりました。瓜郷遺跡は唐古遺跡(奈良県)・登呂遺跡(静岡県)などとともに弥生時代の低地にある遺跡の一つとして貴重なものです。なお出土品は、豊橋市美術博物館に収蔵されています。」『瓜郷遺跡』正面。「弥生時代の竪穴住居(復元)この復元家屋は。昭和22年~27年の発掘調査で見つかった竪穴住居の遺構をもとに、故明治大学教授後藤守一博士の手により設計がなされたものです。時代はおよそ1,800年前の弥生時代中期のもので、大きさは東西5.8m、南北3.5mの楕円形をしており、中には二本の主柱と炉があります。」竪穴住居の内部。中には二本の主柱と真ん中に炉が。見事な藁葺き屋根、大きさは東西5.8m、南北3.5m。『鹿菅橋』。下は豊川放水路の分岐水路。更に県道496号線の田園地帯を飯田線・小坂井駅方面意向って進む。『豊川放水路』を渡る。橋の名は『高橋』。左手に名鉄名古屋本線と東海道本線。『豊川放水路』。東三河の清流、豊川は、かつてたびたび洪水をおこし、水害で流域に住む人々を苦しめてきた。 その理由としては、川の長さが約77㎞と短いうえに2/3は山地で降水量が多く、上流の降水が3~4時間で平地に達してしまうこと、下流域で川が蛇行し、U型部分が狭く最大流量の半分も疎水力がないことが考えられる。 洪水対策として江戸時代には霞堤(鎧堤)がつくられたが,昭和になってからも10年、12年、19年と大洪水を記録しており、放水路建設が急務となった。工事は、昭和18年度に本格的に着手されたが戦争の拡大によってほとんど進展せず、戦後28年度以降ようやく軌道にのった。そして1965年(昭和40)豊川の下流低地に住む人々の悲願であった放水路(豊川市行明町・柑子町から 豊橋市前芝町へ通じる全長6.6㎞)が完成した。洪水時,遊水池として水害の常習地帯となっていた当古・下条・大村地区などの人々は、永年の水害の苦しみから解放されることとなった。ここを渡った先で豊橋市から豊川市へ入る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.29
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次西八町を左折し、国道259号線を南下して札木交差点を右折すると『吉田宿本陣跡』が。ここには江戸時代、清須屋、東隣に江戸屋の二軒の本陣がありました。本陣とは各宿駅に置かれ街道を往来する大名、幕府役人、宮家、公卿など身分の高かった人々、が宿泊したところ。享和2年の書上によると東海道吉田宿には本陣2軒脇本陣1軒、旅籠65軒がありましたが、ここ札木町あたりは宿の中心部として最もにぎわったところでした。旅友のアドバイスで引き返して路面電車が行き交う大通り『札木交差点』に戻る。交差点を渡った角にあったのが「吉田宿問屋場跡」碑。一人だったら見逃していたのであったが。「宿駅には、必ず道中奉行所支配の問屋場が設けられ、ここで人馬継立ての業務が行われた。吉田宿の問屋場は、札木町のこの地に置かれ、人足百人、馬百疋が貨客のために用意され、問屋を筆頭に、年寄、帳付などの問屋場役人によって支配された。」再び戻り『札木交差点』を渡る。通りを渡った先にある鰻屋「丸よ」。その店先にも少し大きな『吉田宿本陣跡』の碑。つまり大小の『吉田宿本陣跡』碑が少し離れて2箇所に。「ここは江戸時代、清須屋東隣に江戸屋の二軒の本陣がありました。本陣とは各宿駅に置かれ、街道を往来する大名・幕府役人・宮家・公卿など身分の高かった人達が宿泊したところです。享和2年(1802年)の書上によると、東海道吉田宿には、本陣二軒・脇本陣一軒・旅篭六十五軒があり、ここ札木町あたりは宿の中心部として最もにぎわったところでした。」店先にはもう一つの興味深い説明書き。『べっぴん語源発祥の店 丸よ』。「明治初期に田原藩家老渡辺崋山の息子、渡辺小華の発案により「すこぶる別品」の看板を売り出した所、大好評を得、その言葉が全国に広がってゆき極上品はすべて「べっぴん」と呼ぶようになって、そのあとの明治中期には美しい女性(美人)にも使われるようになりました。丸よはその伝統の「べっぴん」の鰻を今も焼き続けております。」その前にあったのが『吉田宿脇本陣跡』。歩道橋から。次に『手筒花火発祥の地』であるとの『吉田神社』を訪ねた。石鳥居の扁額には『正一位吉田神社』と。ここにも『廣重 東海道五十三次 吉田 豊川橋』が。『影降石(ようごうせき)(天降石)』。社史に「延宝元年(1673)6月9日吉田城主小笠原長矩(ながのり)鳥居を建つ 寛永十七年(1640)水野忠清が建つる所のもの 風災に罹(かか)りたるを以てなり 今回従前の木造を改めて石造とし其位置を南方六間に移す」とあります。その際、木鳥居附近の地中深く埋まる巨石が発見されました。御鬮(みくじ)による神託を受け、巨石はそのまま、石鳥居は位置を移して建立されました。石廻りには竹柵を設け注連をおろし、以後、影向石(ようごうせき)として大切にしたと伝わります(影向とは神仏が一時応現するとの意です)。延宝七年(1679)6月8日城主小笠原長祐(ながすけ)は影向石の竹柵を修め、又 貞享四年(1687)6月6日には竹柵を改修して石垣を造ると伝わります。また天降石(てんごうせき)との呼び名もあったようです。それより百五十年以上を経て、吉田上伝馬(かみでんま)の金物商夏目可敬(なつめかけい)が編著した三河国名所図絵には「鳥居より本社の方十歩許にあり 実に奇石にして諸人愛弄すへき面影あり いつの頃にや空かき曇りて霹靂雨雹と共に天より降しかば影降石と号す」と記されています。『伝承三河伝統 手筒花火発祥之地』記念碑。平成5年に手筒花火とその歴史を後世に伝える為に、氏子や手筒花火を愛する方々の協力により標示塔と共に建立されたとのこと。『祇園祭』案内板。豊橋祇園祭は、7月第3週の金曜日、大筒の練り込みと吉田神社での 手筒花火の奉納、"神前放揚(しんぜんほうよう)" に始まります。手筒花火とは、節を抜いた孟宗竹(もうそうちく)の中に火薬を詰めたもので、噴出する花火を脇や腹に抱えて打上げます。東三河の手筒花火の奉納は、現在の花火大会の原型ともいえる歴史ある神事で、手筒の材料となる竹の確保から打ち手たち自らで行うのがならわしです。大筒とは、手筒花火と同じ形状をした大型の花火で、台の上に固定したまま揚げます。18世紀には既に祇園祭に登場していました。各町内で用意された大筒は、氏子衆に担がれ、関屋町交差点で一斉にスタートします。大筒はそれぞれの町で、全ての家の前を通って吉田神社まで担ぎ出されます。吉田天王社祭礼の図。『社務所』。『拝殿』。『吉田神社』案内板。『金柑丸稲荷社』「永正2年(1505)牧野古白が今橋城を築いた当時の本丸であったとされ、 後の吉田城本丸の東側の細長い地形を金柑丸(きんかんまる)といいます。社伝によると金柑丸稲荷社は、今橋城築城の際に創建されたとされ、正徳4年(1714)吉田城主松平信高は社殿を修補し、この時正一位の神階を賜ります。ちなみに吉田天王社が正一位の神階を賜ったのは天保6年(1835)です。明治11年大河内信古は吉田城内五ヶ所の稲荷社を金柑丸に合祀し、吉田神社境内に移しました。明治39年には日露戦役記念として社殿が造立され、明治42年には正徳3年松平信高が城内三之丸に勧請したとされる城守護稲荷社(しろもりごいなりしゃ)が合祀されました。歴代の吉田城主は名君として知られる松平信明をはじめ幕府の要職を務めた事から出世開運の稲荷神として、又、旧城内御丸鬼門守護の神社であることから方除けの神として広く信仰される。」『吉田藩主屋敷図』。蔵であろうか?御朱印を頂きました。そして次に訪ねたのが『西惣門』の復元模型。角度を変えて。自転車が邪魔!!吉田宿西惣門は、江戸時代東海道筋の坂下町と上伝馬の間にありました。惣門の左側に番所があり、十二畳の上番所、八畳の下番所、四坪の勝手があり、さらに駒寄の空き地十七坪がありました。この門は、湖西市の本興寺の惣門を参考にしてつくられたもので、その惣門は吉田城大手門を移築1674年に移築した、とのこと。『西惣門』のある交差点。『豊橋 湊神明社』。白鳳元年(672年)創建と伝えられる伝統のある神社で、元和年間(1615~24)に始まり、かっては吉田城下最大の祭りと云われた伊勢神宮に御衣(絹)を献上する「御衣祭」が現在も行われている。 祭神は天照皇大神、豊宇気毘売神(とようけびめのかみ)。山田宗徧が造ったという弁天池の築島に立つ湊築島弁天社は、平成20年(2008)7月8日に国の登録文化財に。 神社の入口にあったのが『原田圭岳筆『老松図』屏風』。縦226cm、横522cm、紙本墨画、六曲屏風この作品は、慶応元年(1865)圭岳64歳の時、一本の老松の大樹を六曲大屏風の画面いっぱいに描いた大作で、非凡な才能がうかがえる作品です。この屏風は当神明社の祭礼の際、神楽殿の背景として使用したものと言われています。原田圭岳(1803-1885)は、享和3年に三河国西尾(現西尾市)に生まれ、長じて京都で四条派の 岡本豊彦に学び、天保7・8年頃から江戸で画家として活躍しました。その後安政2年(1855)圭岳54歳のときから吉田(現豊橋市)に永住し、吉田の画家として活躍し、明治18年84歳で没しました。『老松図』は、圭岳の作品の中でも稀にみる大作で、圭岳を研究する上でも基準作として貴重なものです。『松尾芭蕉吉田の宿旅籠の記』芭蕉が貞享4年(1678)11月10日 保美(現渥美町)の杜国を訪れる際に、吉田に泊った時に詠んだ芭蕉句碑(旅寝塚) 。「寒けれど 二人旅寝ぞ たのもしき」『船町』交差点。『船町と高札場』。「その昔、この辺りは四ツ家(四ツ屋)と称され、数件の家屋がまばらにある河原同然の土地であったようです。この地に最初に村を築いたのは浅井与次右衛門(浅井長政の重臣)とその一門80名程の人々と言われています。その後、天正18年(1590)に吉田城主・池田照政(輝政)より定住を許され庄屋役を命ぜられ、以後船町と改めて町の開発を行なったようです。近世初頭に開かれた吉田湊は豊川舟運の終点として、」また伊勢や江戸への航路の起点として栄え、当時三河における最大の湊でした。船町はこの湊での船役を命じられ、地子(じし:賦課された地代)免除の特典が与えられなど吉田24町の中で独自の立場があったようです。高札場寛永13年(1633)幕府の命により橋の南たもと(当時の吉田大橋はここより70m下流)に高札場が設けられました。この高札場には河の取り締まり、橋の保護など極めて重要な取り決めが板に書かれて掲げられていました。」そして豊川に架かる『吉田大橋』に到着。橋には『とよはし』と刻まれていた。豊川沿いを下流に向かって進む。吉田大橋跡南詰にある旧豊橋の親柱。明治12年(1879年)吉田大橋に代わり架橋された旧豊橋の親柱で、大正5年(1916年)鋼製トラス橋に架け替えられた際、この親柱だけはそのまま流用されたという。昭和61年(1986年)現在の『豊橋』が竣工、役目を終えたこの親柱と共に鋼製トラス橋の一部が往時を偲びここに残る。鋼製トラス橋の一部が保存されていた。近くに寄って。近くにあった藤波 孝生(ふじなみ たかお)句碑。『初風や 伊勢より船町へ 旅役者』植栽に埋もれながらもあったのが、古市 木朶(ふるいちもくだく)句碑。『豊橋や 城にのこれる 夕かすみ』豊川護岸に石畳を敷き往時を偲ぶ『吉田湊跡』(左)。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.28
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次豊橋市内の豊橋公園の最奥まで歩き豊川下流を見る。吉田城の豊川沿いに石垣の下を歩く。『北御多門跡』。北御多門は本丸の裏手側に設けられていた門。そばには鉄三重櫓が建っていた。鉄櫓の石垣は、池田輝政が築いたといわれる吉田城最古の石垣。そして隅櫓に向かって階段を上る。櫓とは思えない復興三重『鉄櫓(くろがねやぐら)』。本丸跡の一角に三層の『鉄櫓』・入道櫓が昭和29年に再建され、櫓脇の『武具所跡』から眺める豊川の流れが美しかったのであった。吉田城の城主は牧野古白に始まり、徳川家康の三河統一により酒井忠次の配置、家康の関東移封による池田輝政の入城と続き、江戸幕府成立後は9家22代の譜代大名が支配し中期以降は松平(大河内)氏が城主となった。時間は9:52、鉄櫓の開場は10時からと。続日本100名城スタンプを頂くために暫し待つ。『武具所跡』から豊川の流れを楽しむ。鉄櫓と北御多門の間にあった建物。豊川は、愛知県設楽郡設楽町の段戸山・鷹ノ巣山の麓を水源とする、延長77Kmと、そう長くはない川だが、この河口にそして吉田城に近いエリアは、雄大に大きく湾曲して緩やかに流れていた。右奥の方から流れてきた豊川が、大きく左側に湾曲し、写真には写っていませんが、右の方から朝倉川が合流する地点。豊川の下流側。左手に、この後に渡った『吉田大橋』が見えた。豊川では白鷺が羽を休めていた。『鉄櫓』を『武具所跡』から見上げる。そして10時になり『鉄櫓』が開門。正面に『ようこそ吉田城へ』の文字の下に『廣重 東海道五十三次「吉田 豊川橋」』。画面の左側に大きく描かれている吉田大橋は、豊川に架かっている橋で、江戸から京都までの間にある四橋の1つ。豊川から伊勢へ行く早船が出ており、陸路を行くよりも三日も早く着くと、いつも満船だったといわれています。戦国時代に、この地に今橋城が築城されて城下町になり、後に譜代大名の努力もあって栄えました。櫓の改装中の吉田城。足場が組まれ、職人たちが壁を塗っています。入場料無料で資料館を見学できます。スタンプは入り口に置いてありました。続日本100名城のスタンプを頂きました。本丸跡は広場となっており、北西隅に『鉄櫓』が再建されていた。吉田城『本丸御殿』碑。築城当初のこの城の命名について、「牛窪記」には吉田城とあり、後の成立である「牛窪密談記」・「宮嶋伝記」には今橋城となっており、また「今橋物語」には峯野城や歯雑城(おかさわじょう)と古名を紹介していて、今橋城の城名には諸説がある。大永2年(1522年)、城主であった牧野信成(古白の子)によって吉田城と改められたというが、『宗長手記』では、大永4年(1524年)に「十日に今橋牧野田三一宿」、大永6年(1526年)、「三河国今橋牧野田三」とある。また、明治42年(1909年)発行の『豊橋志要』(豊橋市参事会)には、天文年中に、今川義元が、今橋から吉田に改称したとしている。『吉田城復元模型』。手前右側の鉄櫓だけ再建されているのだ。【https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E5%9F%8E_(%E4%B8%89%E6%B2%B3%E5%9B%BD)】より『豊橋公園のイスノキ』。暖地に自生するマンサク科の常緑高木。別名、ユスノキ、ユシノキ、ヒョンノキ。樹高 16m目通り幹囲 3.6m推定樹齢 300年以上樹形が美しく、樹勢も良いのも大したものだが、何と言っても、大きく力強い根張りが素晴らしい。根元回りの姿には、目を釘付けにする魅力があるように思われる。本丸跡広場より『鉄櫓』を再び。『吉田城』案内板。『吉田城略史』吉田城ははじめ今橋城と称し、永正2年(1505)牧野古白によって築城された。以来東三河の要衝として今川・武田・徳川ら戦国武将が攻防を繰り返した後、天正18年(1590)に池田輝政が入封し15万2千石の城地にふさわしい拡張と城下町の整備が行われた。しかし輝政は在城10年で播磨姫路に移封され、のちに入封した大名は譜代ながら少禄のため輝政によって大拡張された城地も未完成のまま明治に至った。この城の縄張りは背後に豊川をひかえ、本丸を中心に、二の丸、三の丸を前面と側面に配した半輪郭式の「後ろ堅固の城」といわれるものである。『石垣と刻印』大規模に拡張された吉田城も、石垣のあるのは本丸とその他数カ所だけで他は土塁であった。本丸石垣の壁面は、内側・外側合わせると約50面になる。野面積み(自然石を砕いて、そのまま積んでいく)である鉄櫓(復興)下北面と西面の石垣は、後世の手直しの跡のない池田輝政時代の石垣だといわれている。さらに、石垣の石のうち花崗岩に色々な印が彫られてるが、これがいわゆる「石垣刻印」と呼ばれているものである。刻印は、大阪城や名古屋城などにもみられ、築城工事を分担した大名と家臣などの印であるといわれ、現在まで50以上確認されている。因みに、吉田城の石垣に使われている花崗岩は名古屋城創設用の石材を使用したものである。『吉田城跡』石碑。『南御多門跡』碑。この先で枡形構造になっていたので、おそらく一の門が冠木門、本丸側の二の門がこの『南御多門』だったのであろう。吉田城は大規模な城郭ではありますが大半は土塁で、石垣が築かれているのは本丸周辺のみとなっているのだと。『城の石垣刻印とは』。『石垣刻印』-1『石垣刻印』-2『空堀』。『冠木門跡』。吉田城を後にして『豊橋市役所』を見る。『カトリック豊橋教会』。そして訪ね忘れていた『豊橋ハリストス正教会』に戻る。戦災で市街の中心が焼けた豊橋において、豊橋市公会堂と共に残る数少ない近代建築である。葱坊主にも玉葱にも例えられる、ロシア正教特有のドーム飾り。『豊橋ハリスト正教会聖使福音者馬太聖堂』豊橋ハリストス正教会聖使徒福音者馬太聖堂は、大正2年12月に竣工した。平面は、西から東へ、玄関、啓蒙所、聖所、至聖所を一直線に並べる、ハリストス正教会聖堂に共通する形式である。豊橋ハリストス正教会聖使徒福音者馬太聖堂は、ハリストス正教会聖堂の定型的な平面構成をもつとともに、我が国における木造ハリストス正教会聖堂の完成型の建築構成と細部意匠をもつことで、高い歴史的価値がある。また本聖堂が、我が国ハリストス正教会の司祭建築家河村伊蔵の設計と推測できる点においても重要である。木造、建築面積182.03m2、一階建、正面八角鐘楼付、銅板葺、聖障付。正面。函館は煉瓦造だが、豊橋は木造である。設計は日本ハリストス正教会の聖職者で建築家の河村伊蔵(1866~1940)。そして豊橋市公会堂前の歩道橋を上って行く。国道1号線に架かる歩道橋。歩道橋より愛知県 豊橋警察署方面を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.27
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次豊橋市の別の絵柄のマンホールを発見。『市電マンホール』公会堂と市電の日常的風景と市花(つつじ)をデザインした下水道マンホール蓋。本屋のガラスには花園幼稚園児の『孫の日』に因んだジジ、ババの顔の絵が所狭しと。孫の日(まごのひ)は、10月第3日曜日の記念日である。1999年に記念日に制定された。よって今年は10月20日。『吉田城 大手門跡』碑。「吉田城の大手門は、はじめ東側の飽海口にあったが、天正18年(1590)池田輝政が吉田城を拡張したとき、この地に移したといわれる。江戸時代には、重層で鯱を備えた堂々たる楼門があったが、明治初年い取り壊されてしまった。」国道1号線の向こう側正面に『豊橋市公会堂』が。豊橋市公会堂は、ロマネスク様式で正面両側のドーム頂上までの高さは、16mもあり市内の鉄筋コンクリート造りの近代的建築物の発祥ともいわれています。また、風格のある雄姿、意匠など建築界においても高く評価されていると。国道1号線を東に戻って行くと左手に『豊橋警察署』。国道1号線を渡り、『豊橋 神明社』を訪ねた。『豊橋神明社の鬼祭り』。豊橋神明社の鬼祭は、八町通の安久美神戸(あくみかんべ)神社で行われる。祭日は旧正月13・14日であったが、後に新暦の2月14・15日となり、現在では2月10・11日に行われている。この祭りには東三河平野部で唯一、田楽が奉納されている。主要な神事は本祭当日の午後から行われる。「五十鈴神楽」、「御的の神事」、「赤鬼と天狗のからかい」、「天狗切祓」「司天師(してんじ)田楽」「ボンテンザラ」「司天師神楽」、「神幸神楽」、「御玉引年占」「御神幸」と続き、すべての行事が終わるのは午後11時頃である。ことに、2時頃から行われる「赤鬼と天狗のからかい」が最も盛り上がり、戦いに負けた赤鬼が境内を出て、町内を駆け回り、袋から米の粉に混ざったタンキリ飴をつかみ出し、観衆に向かってまき散らす。この粉に混じった飴は厄除けになるといわれ、観衆も頭から粉を被り、あたり一面が真っ白になる。赤鬼像。二の鳥居。正式名称は安久美神戸神明社(あくみかんべしんめいしゃ)。『由緒』。『拝殿』。天慶2年(939年)11月、関東において平将門が乱を起こした。京の朝廷は、参議の大伴保平を勅使として東海の伊勢神宮へ派遣し、関東平定を祈願した。この霊験のおかげか、翌年2月関東の承平天慶の乱は直ちに平定することができた。天慶3年(940年)、関東鎮圧を喜んだ時の帝の朱雀天皇は三河国渥美郡北端である豊川左岸の安久美(飽海)荘(豊橋市中心部)を伊勢神宮へ寄進した。そのため、この地は安久美神戸(あくみかんべ)という名の神領地(神戸)となる。その時に伊勢神宮祭主大中臣頼基の庶流・大中臣基守が磯部氏、川野氏、清水氏らを率いて伊勢国より来たり、この新神戸(しんかんべ)の屋代(やしろ)として創建されたのが当社である。『拝殿』内部。安久美神戸神明社(あくみかんべしんめいしゃ)豊橋市八町通3-17(市電豊橋公園前から徒歩2分)祭神:天照皇大神(あまてらすおおみかみ)神徳:無病息災、豊作由緒によれば、第61代朱雀天皇(在位930〜946)が平将門の乱の鎮定の報賽(ほうさい)として伊勢神宮に寄進された神領地に創立された古社で安久美神戸の総社です。こちらにも赤鬼像が。『豊橋鬼祭の由来』「このお祭りは日本建国神話の田楽の舞で豊年と厄除けの祭として約千年前から毎年行われた尊い神事であります。暴ぶる神の赤鬼が悪戯(いたずら)をするので武神天狗が懲らしめようと神の前で秘術を尽くし戦い最後に和解して赤鬼が罪の償いに厄除けのタンキリ飴を撒きながら嵐のごとく境外へ飛び去ります。この飴を食べると厄除けとなり健康になると古来伝えられます。そこで国内が平和に治まったことを喜んで武神をはじめ神々が種々の神楽を舞う古式の田楽をそのまま伝承すしております。」秋祭限定の『八幡神社』ご朱印が10月14日に頂けると。『猿田彦社』祭神は猿田彦命(さるたひこのみこと)。左手の境内社。『外宮社、伊雑社、高宮社』三社合祀。それぞれの祭神は外宮社 – 豊受比売神(とようけひめのかみ)高宮社 – 伊吹戸主神(いぶきどぬしのかみ)伊雑社 – 玉柱屋比売命(たまばしらやひめのかみ)、 伊佐波止美命(いざはとみのみこと)右手の境内社の『護国神社』。国家・公共に尽くしたる人々の神霊例祭日は毎年4月29日。こちらも右手の境内社。『三峯社、稲荷社』二社合祀。それぞれの祭神は三峯社 – 伊佐那岐命(いざなぎのみこと)、伊佐那美命(いざなみのみこと) 稲荷社 – 宇迦御霊命 二柱(うがのみたまのみこと)鬼祭りの顔ハメ看板。『安久美神戸神明社本殿始め5棟』以下の5棟が国の登録有形文化財に登録されている。本殿幣殿及び拝殿神楽殿神庫手水舎『東照宮(家康公)御腰掛松』。徳川家康公は天文23(1554)年、十三歳の時に当社に参詣され、社頭の松の根元に腰を掛けて鬼祭をご覧になったという記録が残っております。慶長8(1603)年、征夷大将軍に任ぜられたのちには、京都伏見城に宮司を呼んで鬼祭の思い出をお話しになり、神領・太刀・盃をご寄進されました。こうした由縁から、家康公が腰を掛けて鬼祭を御覧になった松を「東照宮御腰掛松」と呼称し、江戸時代より丁重に扱ってまいりました。『祭具庫』。秋祭のポスター。『社務所』。御朱印を頂きました。安久美神戸神明社を後にし、『豊橋市公会堂』横を通る。二羽の鷲(わし)の像。建設当時からあった像。そして『豊橋公園』に入る。『豊橋公園案内図』。『吉田城案内図』近づいて。『江戸時代の吉田城と城下町』。 吉田城の歴史は、永正2年(1505)、牧野古白により今橋城が築かれたことに始まります。 戦国時代、東三河の要であった今橋城は、激しい攻防が繰り返されるなか、名称も吉田城と改められました。永禄7年(1564)には松平(徳川)家康が吉田城を攻略し、城主に酒井忠次を置きました。 天正18年(1590)、家康の関東移封によって池田輝政が15万2千石で入城し、城地の拡張や城下町の整備を行いましたが、慶長5年(1600)関ヶ原合戦の後姫路に所替えになりました。 江戸時代には東海道の要衝として譜代大名が在城しましたが、財政的要因のため完全に整備されないまま明治を迎えました。明治初年の本丸付近の写真。『歩兵第十八聯隊』。「歩兵第十八聯隊は、明治17年(1884)6月に名古屋で新設され、吉田城址に兵舎の建設がすすめられ、明治18年(1885)4月には大半が出来上がり、20年までには移転が完了しました。現在の豊橋公園、豊城中学校、豊橋市役所(吉田城址)あたりがその場所になります。戦後施設の多くは取り壊されましたが、戦後には残った兵舎を使い豊橋市役所が開設されました。現在でも豊橋公園の中には、門や哨舎、弾薬庫、灰捨場、碑などが残され、往時を偲ぶことができます。」『此処に歩兵百十八聯隊ありき』。歩兵第118聯隊は出征して不在となった歩兵第18聯隊営舎に編成された部隊です。昭和16年に編成され昭和19年にサイパンへ守備のため派遣されました。その際輸送船が撃沈されて主力を失い、残った将兵は歩兵第135聯隊、第136聯隊とともに突撃し玉砕されています。『中村道太翁碑』。説明碑。中村道太(1836年 - 1921年)は、三河吉田藩出身の財界人。上京して福澤諭吉の弟子となり、のちに第八国立銀行や横浜正金銀行、明治生命保険を創業した。明治11年(1878年)に初代の渥美郡長になる。裏側。『冨田良穂歌碑』。富田良穂(1848年 - 1925年)は、三河吉田藩出身の歌人、弥彦神社(新潟県)神官、愛知県会議員、豊橋町助役、豊橋市収入役。歌碑には、「三河なる二葉の松の生立てる今はときはの色にいづらむ」を刻む。この碑は?? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.26
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次岩屋観音堂を後にして、国道1号線を豊橋に向かって北上する。道路脇には青のアメリカアサガオとピンクの芙蓉の共演が。岩屋病院前を通過し国道1号線から分岐した旧東海道に入り進む。旧街道に架かる『殿田橋(とのだはし)』を渡る。流れる川は『柳生川』。『飯村一里塚跡(いいむらいちりづかあと)』現在の東海道とクロスする殿田橋の交差点にたどり着く。 マクドナルドを右手に歩道はないが、道沿いを歩くと、旧東海道と国道1号線の三角地帯の先端に『飯村一里塚跡』の碑があった。 江戸日本橋から数えて73番目の一里塚となる。漸く東海道の一里塚123ヶ所の6割まで到達。『飯村一里塚跡』の碑のあった旧東海道と国道1号線の三角地帯を振り返ると、旅友の姿が。国道1号線に合流し更に進む。暫く歩くと右手にあったのが『壽泉寺(臨済宗妙心寺派)』綺麗なアーチ状で竜宮城のような楼門・『山門』。『鶴松山壽泉禅師』。『本堂』年代は不明だが、桂昌寺の松山和尚が同村の長松山太平寺(現:老津町東高縄204)の末寺として 開山した。延宝8年(1680)現在地に移転し元禄6年(1693)寿千寺となり正徳5年(1715)瓦町の火災で類焼したのを機に壽泉寺と改めた。扁額には『鶴松山』と書かれていた。本堂と正対して『三重塔』が建っていた。三重塔のたもとには、こんな立看が。境内の石仏群。再びひたすら歩くと前方に『豊橋市瓦町通り1丁目』歩道橋が。『不動院』『瓦町不動院由来記』「本尊不動明王 真言宗中興の祖 覚鎫上人 作宗派 高野山真言宗江戸時代に入り、時の吉田藩主小笠原候 が仁連木村 に菩提寺臨済寺を建立することとなり、境内を確保するため二十軒の農民が移転することとなり、吉田宿 の東の隣接する瓦町に新しい村づくりが始まりました。寛文四年(1664)のことであります。新しい村づくりの中心に、心の拠り所として不動院が安置され、不動院は仁連木村(豊橋市御園町)から瓦町へ移ることとなりました。瓦町不動院は小笠原候をはじめ歴代吉田藩主の尊崇を集め、藩の重要な祈祷を担当する祈願所としてゆるぎない存在を示しておりました。元禄十二年(1699)、時の吉田藩主久世重之侯 から山号、寺号の免許を受け、聖休山任養寺不動院 と名乗ることとなりました。元禄十五年(1702)不動院が新築、この時の鬼瓦は瓦町村で焼成されたもので、寺宝として大切に保存いたしております。」こちらは不動尊幼稚園。そして『願成寺』。『本堂』。大永2年(1522年)創建と。切絵仏であろうか?そして『東八町交差点』の歩道橋を歩く。歩道橋下には、『豊鉄市内線』が。東田本線(あずまだほんせん)は、愛知県豊橋市の駅前停留場から赤岩口停留場までと、井原停留場から分岐し運動公園前停留場までを結ぶ豊橋鉄道の軌道路線である。豊橋鉄道では「豊鉄市内線」と案内している。『豊鉄市内線』の車両。『秋葉常夜灯/東新町交差点』この常夜灯は文化二年(1805)吉田宿東惣門前(現在の東八町交差点付近)に建てられたもの。以来「新町の大燈籠」として吉田の名物の一つとなり、近隣の町民をはじめ市民に親しまれて来たが、三河地震(1944)による倒壊とそれに続く戦火にあって放置されてきた。この状況を憂た常夜灯保存委員会により昭和五十五年豊橋公園内に復元されていたが、平成十三年が「東海道宿駅制度制定四百周年」の節目の年でもあり江戸時代に建てられていたこの付近に再復元したものである。コの字型の大型歩道橋から東方面を見る。歩道橋で国道1号を渡り、さらに右に曲がって階段を降りた豊橋市八町通5丁には『吉田城東惣門跡(ミニ復元)』が。「東惣門は鍛冶町の東側に位置する下モ町の吉田城惣堀西で、東海道にまたがって南向きに建てられていました。門の傍らには12畳の上番所、8畳の下番所、勝手があり門外から西側に駒寄せ場11間がありました。惣門は朝六ッ(午前6時)から夜四ッ(午後10時)まで開けられており、これ以外の時間は一般の通行は禁止されていました。」東八町交差点で左折し国道1号線から離れ旧東海道に入る。東惣門の先が少し複雑であった。惣門を右に見て50mほど歩いたら右に曲がり、最初の四つ辻を左に曲がり、突き当たったら右へ。この先は真っ直ぐな道を「バス停・曲尺手(かねんで)」等を見ながら5~6分歩くと植え込みの有る広い道にぶつかった。右手、道路の中央の植え込みに『曲尺手門跡碑』が。「曲尺手門は吉田城内への入口の一つであった。旧吉田城の巽の方位にあり城門の跡にして曲尺手町発展の礎である。」豊橋市 マンホール蓋。豊橋公園内の吉田城と羽田八幡宮の祭りで行われる「手筒花火」を描いたもの。反対側、左側の植え込みの中に『吉田宿』、『江戸 七十四里』と記された石碑が。この地の住所は『 愛知県豊橋市曲尺手町(かねんてちょう)』。曲尺手町76にある交差点を左折して進む。『龍拈寺(りゅうねんじ)』に立ち寄る。曹洞宗の仏教寺院。山号は吉田山(きちでんさん)。本尊は十一面観音。一色時家の被官で牛窪一色城(同県豊川市牛久保町)主および今橋城(同県豊橋市今橋町)の初代城主であった牧野古白入道(牧野成時)の追善供養のため、子の信成が創建した寺である。神宮寺、悟真寺とともに吉田三ヶ寺の一つとされ、曹洞宗の東三河における中核寺院である。1945年の豊橋空襲で山門を除く全伽藍が炎上し、唯一残った山門が豊橋市の有形文化財に指定されている。『龍拈寺』の指定文化財華陽夫人画像牧野古白母堂画像龍拈寺山門 - 空襲で炎上しなかった唯一の建造物。年元禄年間建立。『龍拈寺観音堂』。『龍拈寺観音堂』には真赤な『聖観世音菩薩』の幟が。『箸塚碑』。様々な石仏、石碑が境内に。『観音像』豊橋工場の女学徒の方々の殉難碑であると。 ここには、「学徒動員令に応じて豊橋市立高等女学 校及愛知實修高等女学校三年生学徒は中島飛行機半 田製作所に挺身報国の至誠を盡す偶此の震禍に遭い 二十六柱の英霊遂に護国の礎石となる」と書いてあった。『山門』『龍拈寺山門』「龍拈寺は吉田山(きちでんさん)と号し、大永年間(1521-27)ごろ休屋宗官和尚の代に吉田城主牧野信成が亡父古白追善のため創立したと伝えられ、吉田三ヶ寺に列せられる当地方屈指の大寺院として栄えました。江戸時代の伽藍は、本堂・御影堂・大庫裏・小庫裏・鐘楼・山門等の堂宇の地に多くの塔頭を擁していました。これらの諸堂宇は宝永4年(1707)の大地震で倒壊したのち再建・修復されましたが、第2次大戦中の空襲で山門だけを残して全焼しました。山門は、元禄6年(1693)住持となった法運義官和尚の代に建立され、その後、宝永の大地震により傾いていたものを修復したと伝え(吉田山龍拈寺記)、昭和の戦火にも類焼を免れた当寺院唯一の江戸時代の遺構です。この山門は、単層・切妻造・桟瓦葺の四脚門で、軸組に欅材を用いた唐様(禅宗様)を主に、随所に配した絵様、軒形の一部には天竺様(大仏様)の手法も折衷されており構造や意匠の奇抜きに特色が見られる市内でも数少ない江戸時代の建造物として貴重なものです。現在、正面虹梁上に月舟宋胡(1618-96)筆の「吉田山」の額が掛けられていますが、この背後の虹梁上の羽目板にも「吉田山」の刻字があり、月舟筆の額は他の宇堂もしくは前身山門に掛けられていたものを後世になって現山門に取り付けたものと解するのが妥当のようです。」『長養院』。『長養院』入口。『悟慶院』。『吉屋山 悟慶院』と刻まれた石塔。扁額には『悟慶院』と。『曹洞禅』と書かれた『豊橋閣日進禅寺(ほうきょうかくにっしんぜんじ)』。豊橋閣日進禅寺は、愛知県豊橋市新吉町9番地にある禅宗系の寺院。通称は「日進禅寺」「日進院」とも呼ばれている。 1945年(昭和20年)6月19日夜半の豊橋空襲で、本尊の勢至菩薩像と本堂を消失しており、現在の伽藍は戦後に再興したもので、本尊仏は釈迦三尊像を祀っていると。『満願石仏(百拝百体)』入口付近には、百体の石仏に百拝すること(百拝×百体=万拝=お参りにすることで願いが叶う=満願)で全ての願いが叶う『満願石仏』が。交差点角にあったのが『金刀比羅神社』。愛知県豊橋市大手町34にあり、祭神は大物主神(おおものぬしのかみ)。『拝殿』。文正元年(1466年)3月、四国象頭山、金刀比羅大権現より勧請とのこと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.25
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次3日目の朝(9月26日)も5時過ぎに早朝起床し6:30からの朝食を済ませ、豊橋駅近くのホテルを出発。豊橋駅前東口のペデストリアンデッキ。この日も晴天で暑くなりそう。そして豊橋駅から二川駅まで前日乗り遅れた6:48の東海道線を利用。降車駅の二川駅改札前ではキリンのステンドグラス風窓が出迎えてくれた。キリンのステンドグラスは、駅近くに豊橋総合動植物公園があるからか?二川駅は1896年(明治29年)4月7日に開業した。二川駅をはさむ、東海道本線の浜松・大府間が開通したのは、駅開設の8年前にあたる1888年(明治21年)のことである。この時、江戸時代に東海道の宿場町(二川宿)として栄えた渥美郡二川村・大岩村の両村には、宿場の町並みのすぐ南側に線路が敷設されたものの、隣の吉田宿(現・豊橋市、豊橋駅を設置)とは異なり駅が設置されなかった。二川周辺には多くの村があり人・物資の利用が見込める、隣の豊橋駅・鷲津駅とは距離があるとの理由で、翌1889年(明治22年)二川では駅設置の請願を行った。この請願は成功しなかったようだが、1893年(明治26年)に再度請願運動が行われ、これは成功したようで駅開業の運びとなった。駅開設時に建設された木造駅舎は100年以上の長きにわたって使用され、東海道本線では最古の駅舎となっていた。しかし老朽化により改修が必要となり、1998年(平成10年)から橋上駅舎・南北自由通路の開設、駅前広場の整備、駅南方にある豊橋総合動植物公園へのアクセス道路新設などが一体となった「二川駅周辺整備事業」が開始された。この事業により2002年(平成14年)2月に橋上駅舎が完成、4月には南北自由通路の供用開始がなった。時計塔の時間は7:00前。『火打坂交差点』まで歩き、旧東海道はここを直進するのであったが、『岩屋観音』を訪ねるために交差点を直進せず左折する。前方に『岩屋緑地』が見えた。 岩屋緑地は弓張山地の大蔵山と岩屋山に造られた公園で大蔵山には展望台、岩屋山には観音像が建てられていた。豊橋市地下資源館(とよはししちかしげんかん)の前を通過。豊橋市地下資源館は、愛知県豊橋市大岩町字火打坂19-16にある、地下資源や鉱石、エネルギーの博物館。視聴覚教育センターにはこのプラネタリウムが。東海道岩屋山古道案内板。右手に『岩屋観音』石碑。『玉糸の元祖 小渕志ち銅像 入口』と刻まれた石碑。この豊橋が蚕都(さんと)と呼ばれ、製糸業がさかんであった頃、質のよい生糸の作り方を発明した人物・「小渕志ち」。二川の本陣資料館の近くには、製糸工場跡の碑が残っているのだと。小渕志ち(おぶちしち、1847年(弘化4年) - 1929年(昭和4年))は、三河地方の絹製糸工業に多大な貢献をしたと伝えられる人物である。1847年に群馬県南勢多郡石井村(現・前橋市富士見町石井)で生まれた。1862年、15歳のころから製糸業に従事し、糸引き座繰りの技術をマスターする。その後、17歳で結婚するが、夫・斉藤米吉は酒や賭け事に明け暮れる男で、15年の結婚生活の末離婚を余儀なくされる。その後再婚したものの、精神を病んで行くあてもなく各地を放浪していたが、糸引き座繰りの技術を見込まれて愛知県二川町(現・豊橋市)に土着。高い技術を生かした仕事で見る見る間に財を成し、1879年に製糸工場を創業した。その後、玉繭という屑繭から玉糸と呼ばれる高品質の糸を作ることに成功し、大きな利益を上げる。また、自社の経営のみならず三河地方の製糸業の発達に尽力し、同業組合の結成を促進するなど、大きな功績をあげた。この先から『岩屋観音堂(岩屋堂)』境内か。正面に『弘法大師・鯖大師(さばだいし)像』。『岩屋山観世音菩薩』と書かれた紅白の幟が立ち並んでいた。奥にあったのが『地蔵堂』。小さな石のお地蔵さんが祀られていた。再び『弘法大師・鯖大師(さばだいし)像』。太子の左手には鯖が。この『鯖大師(さばだいし)』の由来は昔、弘法大師がこの地で野宿をしていた際に通り掛かった馬子(馬に食料を積んで運んでいる商人みたいな者)に塩サバを所望したところ、口汚く罵られ断られた。その後馬子の馬が苦しみ出し動かなくなった。馬子は慌てて「さっきの僧は実は偉い人(空海)だったんじゃね?」と引き返しサバを差し出し馬を治して欲しいと懇願した。空海が加持水(仏様の慈悲と智慧が加わった水)を馬に与えると馬は回復し、サバは加持祈祷し海に放つと生き返り泳いで行った。この馬子は空海の弟子となったのだと。『二番札所 千手 亀見山 岩谷堂』「松かせに 戸ざ々ぬ御代のいはやどう 三河にひとつ 名の高き山」『鐘堂』『鐘堂』の近くには『弘法堂』が。『弘法堂』内部の掛け軸。岩屋観音の石仏群。山頂の青銅製の『聖観音立像』を見上げる。天平2年(730)、行基がこの地に赴いたとき、その風景に見せられて千手観音像を刻んで岩窟に安置したのが起源とされています。以来、東海道を往来する旅人たちの信仰を集めました。岩屋山頂の聖観音立像は明和2年(1765)に建立されましたが太平洋戦争中に供出されてしまい、現在のものは昭和25年(1950)に再建されたものです。岩屋山の南側にある観音堂の天井板には、恩田石峰をはじめ当時の吉田(豊橋の旧名)画人による絵が描かれています。 また、岩屋観音周辺は公園として整備され、春はさくらまつりが開催されにぎわうのだと。写真の如く、山頂の岩の上で風雨に曝され、雨天には濡れて立つため、濡れ仏(ぬれぼとけ)と呼ばれた時期もあったようだが。大正12年(1923年)、ドイツ人の医者のベルツ博士のハナ(花)夫人により、岩を登るための鉄の柱と鎖が寄進されたのだと。残念ながらこの観音像とベルツ夫人の鉄鎖は昭和19年(1944年)、太平洋戦争で供出されてしまったと。『岩屋観音堂』観音堂は、天正13年(1585年)の岩屋山火災で焼失し、元文3年(1738年)に再築されるまでの記録は不明であると。その後は修築や再築を繰り返して文政8年(1825年)に再されたのが現在の『岩屋堂(観音堂)』。寄棟造り、桁行3間、梁間4間の建物である。格天井板32枚は後世のものだが、これには恩田石峰をはじめ、当時の吉田画人による絵が描かれているとのことであったが・・・。「岩屋観音堂は、天平2年(730)行基が諸国巡行の際に千手観音像を刻んで岩穴に安置して開いたといわれます。江戸時代には、街道をゆきかう人々から多くの信仰を集め、ことに備前岡山 藩主池田綱政はこの観音を崇敬し、元禄から宝永(1688~1710)にかけて、観音経・黄金灯籠・ 絵馬などを寄進しました。山上に立つ聖観音像は、吉田大橋の掛け替え工事を担当した江戸下谷の大工茂平と善右衛門の二人が工事の難しさに困り果てて観音堂に参籠し、霊夢によって吉田橋を 完成させることができた恩返しとして、明和2年(1765)下谷講中が建てたもので、現在のもの は昭和25年(1950)に、再建されたものです。当堂を詠んだ和歌、俳句は多く、香川景樹、古市木朶等の歌俳は有名であり、また歌川広重の東海道写生画の中に、当山を描いたものが数点あります。当堂は古来より真言宗の寺院でありましたが、明治維新後は大岩寺の境外仏堂となっています。」扁額には『岩谷堂』と書かれていた。岩屋堂は行基は天平2年(730)諸国巡業中に約33cmの千手観音を刻み祀ったと。『観音堂』内部 正面。右側に賓頭盧様(左)と大黒天(右)が並んでいた。天井。『岩屋観音堂』堂内部。本堂の右側は岩屋になっている。奥は深くなく、見えている部分だけだ。寺の開基は、行基が諸国を巡ったときこの岩屋に千手観音を彫って安置したのが始まりだと。岩山のところどころには僧形の仏が安置されていた。『岩屋観音堂』からの立岩街道方面の眺め。『岩屋堂のスギ』。 豊橋隋一の太さを誇り、同市のシンボルであると。幹周:403cm、高さ:24.1m、推定樹齢300年以上。崖下には五重石塔が。寺務所の下には『瑠璃王龍神堂』。参道には萩の花が。こちらが『岩屋観音堂』への正式なルートなのであろう。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・-----------------------------------------------------------------------------------------------そして今日から、いつもの旅友Sさんと『秋彩ルーマニア・ブルガリア8日間』の旅に行って来ます。カタール航空にて成田➡ドーハ➡ソフィアへの長時間移動の格安ツアー旅行です。ブルガリア・ルーマニア2か国・6つの世界遺産を含むハイライト観光。ルーマニアでは故チャウチェスク大統領が1,500億円を投じて造らせた贅を尽くした「国民の館」も訪ねます。建築物としてはペンタゴンに次ぐ世界第2位の大きさを誇るルーマニア議会の議事堂。久しぶりに10年来の旅友の女性2名も一緒に参加され、賑やかな旅行になりそうです。阪急交通社からの最終書類も受け取りました。今回の女性添乗員からの電話もあり、26名の多人数のツアーであるとのこと。最終旅行日程表も送られてきました。今回のツアーは成田空港出発、羽田空港到着という初めての体験のツアーです。今日は旅友Sさんが愛車で我が自宅に迎えに来てくれ、羽田空港に向かい駐車場に車を駐め、リムジンバスにて成田空港に向かう予定です。そして継続中の『旧東海道を歩く(新居宿~御油宿)』は留守の間も毎日分を予約してアップしていきますので引き続きアクセスをお願いいたします。行って来ま~~~す。
2019.10.24
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次二川宿の旧東海道をJR二川駅方面に更に進む。暫く歩くと右手にあったのが『西問屋場跡』碑。左手にあったこの民家は、現在もお住まいなのであろうか?交差点左角にあったのが『大岩郷蔵跡』。郷蔵は年貢米などを蓄えておいた村の共同の蔵。二川宿内には二川村、大岩村にそれぞれ1ヶ所あったと。そして旧東海道を右に折れ、『大岩神明宮』を訪ねた。『大岩神明宮』由緒 案内板。社伝によると、当神明宮は古く文武天皇2年(698)岩屋山の南山麓 「かささ」 に巌根の庄大岩の里人に依って創建祭祀されたと伝えられている。また、古来より武門武将の崇敬篤く、織田信長は陣太鼓を寄進して戦勝を祈願し、徳川家康は御朱印社嶺三石五斗を安堵した。境内には、文化4年(1807)の秋葉山常夜燈のほか金比羅神社などの境内社があった。一の石鳥居。『手水舎』。『拝殿』。『拝殿』前でお参り。『拝殿』内部。文武天皇二年(698年)岩屋山南に勧請したのが最初で、のち保延元年(1135年)大岩村が本郷に移ったときに遷宮し、天正十一年(1583年)元屋敷に移り、さらに正保元年(1644年)、大岩村が現在地に移村したのとともに移っている。江戸時代には、黒印地二石を受け、その格式はかなり高いものであった。現在では大岩の氏神となっていると。『神馬』。多くの『境内社』が。『大壁神明宮』。『金比羅神社』。『立派なお牛様』そして再び旧東海道に向かう。豊橋市『手筒マンホール』。吉田城と手筒花火をモチーフに華やかな印象をデザインした下水道マンホール蓋。豊橋市『船マンホール』。朝日のなかを船が出港する姿から人・緑・街をデザインした下水道マンホール蓋。左手にあったのが『立場茶屋跡』碑。街道に戻って交差点の先を進むと、左手の化粧品店 「OZAKI」 の前に立場茶屋跡があった。『立場茶屋跡』碑。そして漸く『二川駅前』交差点が前方に見えて来たのであった。左折すると、この日のゴール地点の『二川駅』が。『JR二川駅』。駅前広場の『時計塔』、時間は予定通りの16:30前。『二川宿案内地図』。『東海道 二川宿』案内板。「古来より交通の要所であった二川は、慶長六年(1601)、徳川家康による街道整備にともなって宿駅として設置されました。開設当時は二川村と大岩村の二か村で一宿分の業務をおこなっていましたが、正保元年(1644)に両村は現在地に移転して、二川村と加宿大岩村となり、東海道五十三次中三十三番目の宿駅として業務をおこなうこととなりました。天保十四年(1843)には、本陣・脇本陣がそれぞれ1軒、旅籠屋が38軒、人口は1,468人で、家数は328軒でした。現在も、本陣をはじめとして、江戸時代の宿場町としての景観を残しています。」二川宿『絵図』。江戸時代の「二川宿」の絵図と旅籠配置図。この絵図は実際はもっと西(左)まで続いているのですが、小さくなってしまいますので、大岩寺よりも西側はカットしトリミングしました。宿場の北側には左から『大岩寺』、『松音寺』、『八幡神社』、『妙泉寺』が描かれ南側には宿場に沿って『宇六田川(梅田川)』が描かれている。こちらもトリミングしました。1843年(天保14年)の記録では、二川宿には38軒の旅籠屋があったといわれ、当時の東海道の宿場の平均旅籠屋数56軒に比べて小規模な宿場だったとされる。二川駅 改札口。豊橋駅行きのJRで。時間は16:29。そして豊橋駅に到着。中央通路にあった『羽田祭 大筒台花火』。『羽田八幡宮例大祭(羽田祭)』ポスター。豊橋市の『三大祭』の一つと言われる羽田八幡宮の祭事。 五穀豊穣を祈願して豊橋駅周辺の20ヵ町の氏子達が勇壮な手筒花火約800本を10/5~6の2日間かけて奉納するのだと。東三河地方独特の手筒花火は、火薬を詰めた1本4~5kgの手筒を男衆が、からだの脇に抱えもって行われる花火。 ふりそそぐ火柱と火の粉、すさまじい爆音、大迫力の手筒花火なのだ。『羽田祭 大筒台花火』を正面から。手筒本体は竹齢3年以上の孟宗竹で内径 12~13cmのものをゴザや南京袋を巻きその上から縄を巻きつけていきます。火薬は黒色火薬で硝石、硫黄、炭粉、鉄粉を 焼酎で練って詰め込むが隙間が出来たりすると暴発するのでしっかり慎重につめる。底には底抜き用のハネ薬を詰めると。こちらが『JR、名鉄改札口』。そして豊橋駅ペデストリアンデッキ。人と環境に優しい乗り物である『市内路面電車』は、豊橋の顔としての側面をもつ街のシンボル。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.23
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次商家『駒屋』の『二川宿本陣資料館』に立ち寄る。旧道沿いに主屋そして中央が主屋入口そして右に脇門が。脇門は明治末期から大正期にかけて、離れ座敷や茶室へ客人を招き入れるために建設された。商家『駒屋』の『二川宿本陣資料館』は入場無料。商家「駒屋」は、主屋・土蔵など8棟の建物からなり、二川宿で商家を営むかたわら、問屋役や名主などを勤めた田村家の遺構です。豊橋市内に数少ない江戸時代の建造物で、当時の商家の一般的な形式を良く残していることから、平成15年5月に豊橋市指定有形文化財となりました。豊橋市では、平成24~26年度の3か年で、すべての建物について江戸時代から大正期の姿に改修復原する工事を行いました。商家「駒屋」の公開により、二川宿は本陣・旅籠屋・商家の3か所を見学できる日本で唯一の宿場町となりました。主屋は木造平屋・一部二階 面積179.12㎡建築年代:文化11年(1814)、安政2年(1855) 修繕構 造:木造平屋建て一部二階建て解 説:商家「駒屋」は、江戸時代に米穀商・質屋を営みました。この建物は 間口九間、奥行き七間の大きさで、東側にミセニワ、オクニワ、中通りに ミセ、ナカミセ、ダイドコロ、西側に、オクミセ、ブツマ、オクノマの各 部屋が並んでいます。商家『駒屋』の建造物。『離れ座敷(はなれざしき)』内部。木造平屋 面積95.78㎡明治末期から大正期にかけて、来客用に建設されたものと。主屋と結ぶ渡り廊下も同時に造られ、西側に中庭を、東側に浴室、便所、洗い場を併設。『離れ座敷(はなれざしき)』の前の通路を奥に向かって進む。右手に『茶室』が。左手に『南土蔵(みなみどぞう)』。土蔵造二階 面積71.42㎡記録によれば、田村家では安永3年(1774年)と天明元年(1781年)に土蔵を新築しており、どちらかが南土蔵と考えられます。間口2間1尺、奥行5間で、敷地内の3棟の土蔵のうち、これだけが出入り口を南側に向けているため、間口が3間余であった頃の敷地形状に沿って建設されたものと判断できます。その奥に『中土蔵(なかどぞう)』。土蔵造二階 面積82.70㎡安政3年(1856年)に建設された土蔵。すでに敷地幅が6間余あったので、幅2間半、奥行5間の規模とし、また品物を出し入れしやすいように出入り口を東側に設けたと。右手に『管理棟』。南土蔵ギャラリーにて『ニッポンの前掛け展』を令和元年9月1日(日)~10月4日(金)開催中。『ニッポンの前掛け展』ポスター。日本伝統の仕事着の「帆前掛け」は、昭和30年代から40年代をピークに豊橋から全国に広まったのだと。豊橋伝統の帆前掛け工場【エニシング】が二川に新設されたことを機に、戦前から愛用された物の他ヨーロッパやシンガポールなどで人気があり使われている商品20種類を展示。前掛けとエプロンは何が違うのか?ウェストで紐を締めるエプロンと違い、前掛けは腰骨位置(ベルトの少し下くらい)の位置でしっかりと締めることにより、骨盤が安定し、「重い物を持つときの腰への負担を軽減させる」という【腰を守る】役割があるのが大きな違いであるのだと。そのため、酒屋や米屋、味噌屋など、重い物を持つ職業の人が好んで使っていたのだと。武者絵や中日ドラゴンズの前掛けも。こちらは海外のものか?最奥正面に『北土蔵(きたどぞう)』、そして右に広場。土産物屋にはハチミツも販売されていた。11/3(日)には『第29回 二川宿本陣まつり』の『大名行列』が行われると。江戸時代に二川宿を行き来していた吉田城主松平伊豆守信明の行列をモデルに時代風俗絵巻を再現。市民から選ばれた松平伊豆守、雅姫、琴姫や近(きん)温(じゅ)、奴、腰元などが宿場町の面影が残る二川宿のまちなみ練り歩きくと。そして『茶室』と枯山水の庭。茶室は木造平屋 面積22.86㎡明治期に建設されたと。4畳半の茶室に3畳の水屋2間が付いている。水屋とは、茶室に隣接して設置される設備。茶事の手前に必要となる茶道具や水などを用意するための場所で一般の住宅でいう台所。そして再び商家『駒屋』の『二川宿本陣資料館』を振り返りながら後にする。商家『駒屋』横に延びる瀬小道。東の枡形と交差し、ここから松音寺門前に続く。路面が石畳できれいに舗装され、古道の雰囲気を醸し出していた。右手にあったのが『二川宿まちなか公園』。巨石に『二川宿まちなか公園』と刻まれていた。この付近に『東問屋場』があったのだと。モール化が望まれるのであるが・・・。この民家には『旅籠中村屋』と『和泉屋』の札が。ここに旅籠があったことを示すもので現在住んでいる方とは無縁なのであろう。右手にあったこちらも普通の民家の入口。しかし、塀には『脇本陣』案内板が。「脇本陣は本陣の利用が重なった場合、その補助的な役割を果たしました。その格式は本陣に次ぐものであり、本陣と同様にその経営は宿場の有力者があたり、二川宿の脇本陣は、松坂家がつとめていました。文化4年(1807)以前には、この地に後藤家・紅林家の本陣がありましたが、文化4年本陣職が紅林家から馬場家に移った際に、本陣建築のため、もと街道の南側にあった脇本陣はこの地に移りました。脇本陣の建物は間口7間(約13m)、奥行19間(約35m)、屋敷は93畳でした」本陣、脇本陣は大名など身分の高い武士が宿泊していたのだと。そして左手の『二川宿 馬場本陣』前に。こちらは『旅籠屋清明屋』旅人は草履を脱いで奥へ案内されたのです。道路から写真を撮る。武士や一般庶民を宿泊させた食事付きの宿屋を旅籠屋と呼び、江戸時代に入って発達し、宿場の中央に軒を並べていた。次第に接客用の飯盛女を置く飯盛旅籠と飯盛女を置かない平旅籠とに分かれていたと。二川宿本陣の部屋を道路から覗く。以前2009年にこの場所を訪ねた時は、この部屋で皆でお色直しをして記念撮影したのであったが・・・。この時の『ブログ』👈リンク です。速いもので10年前なのです。『二川宿 馬場本陣』を旧街道から。「本陣とは江戸時代、公家・大名・幕府役人などが旅の途中、宿泊休憩した施設です。宿場の中央に大きな間口を占め、門・玄関・上段の間を備えた堂々たる建物でした。二川宿の本陣は、後藤五左衛門が中町の北側で勤めていましたが、再三の火災のため没落し、寛政五年(1793)以降は紅林権左衛門に本陣職をゆずりました。しかし、文化三年(1806)十二月の火災により紅林も再起すことができず、文化四年以後明治三年(1870)の本陣廃止まで馬場彦十郎が現在地において経営しました。馬場家本陣は、文化年間の間取図によると間口十七間半(約32m)、敷地面積は五二五坪(約1,733m2)、建坪は一八一坪余(約598m2)と宿内一の建物でした。現在も享保年間建築の土蔵、宝暦三年(1753)建築の主屋、文化四年本陣開設時に建築の玄関棟・表門が残り近世交通史上貴重な文化財となっています。豊橋市では、昭和六十年本陣当主の馬場八平三氏より本陣敷地建物の寄付を受けたことを契機とし、本陣の保存と活用を図ることとし、昭和六十二年史跡に指定するとともに、昭和六十三年より三か年事業で、現存部分の改修及び明治以降取り壊されていた書院棟の復元工事を実施し、江戸時代の姿を再現しました。」そしてここが『豊橋市二川宿本陣資料館』駐車場入口。江戸時代の交通路「東海道」にあった、「二川宿」に関する情報を中心に、当時の旅行者の風俗等をまとめた、豊橋市の市営の資料館。資料館掲示板。土蔵の奥にある、土蔵と同じなまこ壁の建物が資料館。本陣にもここから入る。(入館料¥400)。この日は外からのみ。駐車場には『高札場』が復元されていた。時間は15:50過ぎ。高札とは、幕府の法令・禁令といったものを板書したもので、こういった人の集まる場所にこれらを掲げたのだと。ここが『豊橋市二川宿本陣資料館』入口。こちらが旅籠に入る方向。『豊橋市二川宿本陣資料館』前にあったのが国登録有形文化財の『西駒屋』国登録有形文化財の『西駒屋』。西駒屋は、東駒屋の分家で、東駒屋は、駒屋の分家だと。西駒屋田村家住宅主屋( にしこまやたむらけじゅうたくしゅおく)は東海道二川宿に位置する町家で、醸造業を営んでいた。街道に南面して建ち、床上部を二列六室とする。東列は店、中の間、台所、西列は奥店、仏間、奥の間が並んでいたと。床上部正面に出格子をたて、上下階とも軒を出桁造とする。宿場の風情を醸す町家。そしてこの先中村屋前で旧街道はS字にカーブしていた。『高札場跡』と『秋葉山常夜灯』が左手『中原屋』の前に。高札場とは、宿場の入り口や中心の目立つ場所に幕府からの禁制や通達事項などをしるした高札を掲げた場所をいう。日坂宿や二川宿、草津宿には復元された高札場がある。『中原屋』は1918年に創業し、現在に至る和菓子屋。『中原屋』の隣りにあったのが『古美術』と書かれた店。しかしカフェのようでもあったが。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.22
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『二川宿』の散策を始める。『二川宿案内所』の建物・『川口屋』を再び。豊橋市のマンホール。朝日の中を出港していく船と人々や町が描かれている。合流マンホール蓋。右手に『妙泉寺』入口。『南無妙法蓮華経』と刻まれた石塔が右手に。『日蓮宗 妙泉寺』。参道には、桜並木が。参道脇の民家の大きな『てるてるぼうず』。10月12,13日に行われる『二川八幡神社例大祭』のポスター。『山門』。山門は薬医門。左右に袖塀付き。山門を入った境内の左側には1798(寛政10)年建立の『紫陽花嫁』と呼ばれる松尾芭蕉句碑。『阿ちさゐや(あじさいや) 薮を小庭の 別座敷』晩年元禄7年(1694)、芭蕉が生涯最後の旅に出る前、江戸深川の門人の屋敷で開かれた送別の歌会で詠まれた句。 手の込んだ庭ではなく、自然のままにされた別座舗の庭に咲いていた紫陽花の美しさを捉えた一句です。送別の歌会を開いてくれた門人への感謝と、おそらくこれが今生の別れとなるだろうという寂しさを、紫陽花の美しさと儚さに込めた芭蕉の想いが感じられます。台座には、建立世話人9名が刻まれており、当時の二川宿における俳句の隆盛がしのばれると。『本堂』。『妙泉寺』。「妙泉寺は日蓮宗の寺院で、前身は貞和年間(1345~50)に日台上人が建てた小庵でした。その後、衰微していたのを寛永から明暦(1624~58)頃観心院の日意上人が信徒の助力を得て再興し、信龍山妙泉寺と改称したうえ、身延山から離れて遠州吉美村の妙立寺末となり、さらに万治三年(1660)旧地今田中より現在地に移転して、山号を延龍山に改めたといわれます。江戸時代には黒印地二石を受け、その格式はかなり高いものでした。また、寺子屋を開いたり、大通行の際の休泊所にもなっていました。当寺所蔵の鰐口は、永享五年(1433)につくられ、後に半面が慶長二年(1597)に再鋳された珍しいもので、豊橋市有形文化財に指定されています。境内には、寛政十年(1798)に建立された芭蕉句碑である紫陽花塚があります。」『當山歴代之墓』『永代供養塔』『日蓮大菩薩』と刻まれた墓石。『春乙桜(はるおとざくら』。『妙泉寺の鰐口』所蔵の鰐口は永享五年(1433年)鋳造だが半面は慶長二年(1597)に再鋳されており市文化財に指定されている。そして再び二川宿の旧街道を歩く。歴史を感じさせる連子格子窓の民家が右手に。『江戸屋長左エ門』。飲食店の名前としては珍しい 和食、創作料理、居酒屋。東海道『二川宿』案内板。 → 二川宿本陣資料館 350m → 商家「駒屋」 80m右手奥に『二川八幡神社(ふたがわはちまんじんじゃ)』。一の石鳥居、朱の二の鳥居、拝殿が見えた。「社伝によれば、永仁3年(1195)鎌倉の鶴ケ岡八幡宮から勧請したのが創立と伝えられます。毎年8月10日に行われていた例祭の湯立神事は、幕府から薪が下付され、幕府役人をはじめ各所から集まる人々で境内は混雑を極めたといわれます。この例祭は現在では10月10日に、神輿渡御の神事がおこなわれています。江戸時代には黒印地二石を受け、その格式はかなり高いものでした。現在では二川の氏神になっています。境内にある秋葉山常夜燈は、かって二川新橋町の街道桝形南にあったもので、文化6年(1809)に建立されたものです。また、二川宿の人々の寄進による燈籠二対が今に伝わっています」『由緒』。「神社の創立は永仁三年(七〇〇年前)鎌倉鶴ケ岡八幡宮より勧請し奉ると伝えられる。慶長六年(三九四年前)伊那備前守より神領高二石を寄進された名社であり鎮守地が東海道二川宿の要衝となるにつれて諸人の往還頻繁となり公儀役人を始め遠近各地より崇敬賽者が夥しかった。例祭には特殊神事として御輿の渡御に従い氏子中より山車子供御輿などの供奉があり町内神賑を極める。」一の石鳥居。参道両側は白塀と玉砂利。二の朱の鳥居。境内三の鳥居前の1809(文化6)年建立の『秋葉山常夜灯』。『悠仁親王殿下御誕生記念碑』とその後ろに手水舎。悠仁親王殿下(ひさひとしんのうでんか)は秋篠宮文仁親王と同妃紀子様の第1男子。手水舎の巨大な龍。そして『拝殿』。拝殿の屋根の見事な鬼瓦。『二川八幡神社の末社、境内社』。『若宮神社』『稲荷神社』。『津島神社、三峰神社』『護国神社』。『井戸』「その昔、この八幡神社にも「湯立て神事」がありました。境内に湯釜を据え付け、この井戸から厳かに汲み上げられた水を沸かしました。この湯の周りで神主さまが祝詞を一心に唱えました。白装束姿の地区の長老がこの清められた湯を授かり、神殿や境内の各所、それぞれの町内に向って湯を振り掛ける所作を十三回、繰り返したとか。「この湯を飲むと身も心も清めることができる」と集まった人々に釜の湯を配っていた。この神事は、四年に一度の閏年に町内の平穏を願って行われました。」先代の扁額であろうか?そして小川に架かる旧街道の橋を渡る。川の名は『二川』なのであろうか?町には旅籠、商家の東駒屋・駒屋など江戸時代の面影を残していると思われる建物も、所々に見ることができた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.21
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次更に白須賀宿を二川宿に向かって歩を進める。右手に『庚申堂』入口鳥居が。天和元年(1681)に立山長老に建てられましたが、現在の建物は、天保十二年(1841)に再建されたものです。この地方にある庚申堂の中では最も大きく、堂々たる鬼瓦が目を引きます。境内には、見ざる、聞かざる、言わざるの三匹の猿の陶像があります。須弥壇(しゅみだん)の上には厨子が固く扉を閉ざしています。この厨子は六十年に一度開帳される秘仏で、地域では今もこれを守っています。以前は尼僧がいたが、今は無住であると。この地方最大の庚申堂。庚申堂前には庚申信仰による「見ざる、言わざる、聞かざる」の三匹がいたが白須賀の庚申堂には実はもう一匹猿がいるのだと。論語(孔子)の「礼にあらざるもの視るなかれ、聴くなかれ、言うなかれ、行うことなかれ(=せざる)」、または、庚申信仰(庚申の夜は身を慎んで徹夜し女性を避ける)の「同衾せざる」から来ているのだと。『見ざる』。庚申信仰とは、60日又は60年ごとに巡ってくる庚申(かのえさる)の日に営まれる、夜籠もりを中心にする信仰行事。庚申さまといっても、猿と結びついたのは後のこと。『言わざる、聞かざる』。右手にあった『火除け地跡』碑。火除地(ひよけち)とは、火事での延焼防止のために設けられた防火地帯。江戸幕府は多発する火事に悩んだが、1657年の明暦(めいれき)大火後に設置。江戸城用の火除明地、一般市街地には広道(ひろみち)・広小路(ひろこうじ)、広道に土手を築いた火除土手として設置された。町医者『玄斎堂』跡。跡見花蹊の遠い親戚にあたる遠江の医師 「跡見玄山」がこの地で開業医した院であると。民家の美しい『マンビテラ』の花。キョウチクトウ科の花で花色は赤紫やピンク、白などがポピュラー。葉は硬めで鈍い光沢があり、特徴的なシワが。夢舞台東海道道標『境宿』。ここに一軒の茶屋があり、だんごにそてつの餡を入れた餅を柏の葉で包んで売っていた。これを「さるが番場の勝和餅」といい、広重や北斎の浮世絵にも名物として登場すると。売っている店を歩きながら探したが見つからなかった。二川宿の本陣に出ている店で売っているようであったが。『白須賀マップ』を再び。ここが西から来ると『白須賀宿』の入口。『高札建場跡』碑。安藤広重の東海道五拾三次之内・二川『猿ケ馬場』 広重の描いた「猿ケ馬場」は、白須賀宿を西に出たすぐのところ、境川の少し手前にあった。従って、二川宿まではまだかなりある。この地は柏餅が名物で、広重の絵にもあるとおり「名物柏餅」の看板を掲げた店が何軒かあったが、現在は何もない。3人の女性は瞽女(ごぜ)(三味線を弾き、歌を歌うなどして銭を乞う目の不自由な女性)である。『成林寺』入口。『法華宗 久松山 成林寺』の『本堂』。湖西市境宿にある法華宗陣門流の寺院で、開山当初は久成坊と呼ばれていた。境宿村の開創もこのころだろうと。これより『白須賀宿』、二川宿まで5.8km。県道173号線と旧東海道との合流地点。県道173号に合流した所左手に『村社 笠子神社』が。かつては海岸部にあったこの神社も度重なる津波の影響でこの地に移されたと。国道1号と合流し、この先で「愛知県豊橋市」に入る。今年になって箱根西坂を下り三島宿を通って白須賀宿まで静岡県内22の宿場を歩いてきたが静岡は長かった。あと21宿歩くとその先が三条大橋だ。『境橋』かっては遠江(静岡県)と三河(愛知県)の境をなした境川に架かる橋。現在は静岡県と愛知県の県境。長~~~い静岡県の旧東海道歩きを克服し愛知県に漸く入る。この先に国道1号線。畑の中にポツンと一体の仏像が。この場所で交通事故等があったのであろうか?国道1号線と合流。国道1号線を暫く歩くと右側に『一里山の一里塚(東細谷一里塚)』。右には地蔵菩薩が二体と供養塔が。一里塚正面には,秋葉社と地蔵尊の祠があった。豊橋では、一里山の一里塚と言っているが、地名をとって『東細谷一里塚』とも呼ばれている。「豊橋市指定史跡 一里山の一里塚 昭和五十年十一月八日指定慶長九年(1604)徳川家康は、江戸日本橋を起点として東海道・東山道・北陸道に主に榎を植えた一里塚を築かせ、これを全国に普及させた。一里塚は、三十六町を一里とした里程標で、旅人にとっては里程や乗り賃支払いの場合の目安となり、日ざしの強い時には木陰の休所ともなった。江戸時代には、道中奉行の監督下で吉田藩が松並木とともに保護維持にあたったが明治以降その必要性も次第に失われ荒廃にまかせられた。この一里塚は、もと道路を挟んで左右に一里塚があったが、南側のものは破壊されて屋敷の一部となり、僅かに残った痕跡も大正末期頃にはまったく滅失してしまった。現在、幸に保存されて残るこの塚は東西十一米、南北十四米、高さ三米で、旧東海道の面影を残す極めて稀な遺跡の一つである。」『秋葉神社』『津嶋神社』の祠の内部を格子の間から。この写真撮影前に、足元の石に引っかかり、バランスを崩し転倒。左足の脛(すね)を擦りむいたが僅かの出血で大事に至らなかったのであった。まだ小さいがキャベツ畑は拡がっていた。この付近の小石混じりの赤土は、小石に保温効果がありキャベツ栽培に向いているのだと二川宿の土産売り場のオバちゃんからこの後に。畑の中の林の中に『豊清神社』があるのだろう。豊橋市豊清町茶屋ノ下の歩道橋が前方に。この近くに昔は茶屋があったのだろう。歩道が工事中とのことで、一車線規制の車道を歩く。ファミリーマートでトイレ休憩し、アイスクリームを楽しむ。そして負傷した脛の手当を自分で。更に二川宿に向かって進む。右手の新幹線線路と併行して国道1号線を進む。旧東海道はこの先『二川南ガード』を右に曲がるのであった。新幹線ガード下を潜る。新幹線ガードを振り返り、旅友の姿を確認。『梅田川』に架かる『筋違(すじかい)橋』を渡る。『梅田川』。愛知県豊橋市・静岡県湖西市を流れる本流の二級河川。そして梅田川の先に見えるのが山頂に岩肌を晒す奇岩・『立岩』が見えた。再び振り返ると、新幹線の線路が浜名湖に向かて続いていた。そして更に東海道線の線路を渡る。踏切を渡り終わり線路沿いに進むと貨物列車が通過。そして前方に『二川宿』の姿が目に飛び込んで来た。東海道三十三番目の宿場、『二川宿』。見付跡など宿場口を示す建造物は残っていないものの、まっすぐに伸びる旧街道と街道沿いの軒の並びに往時を偲ぶことができるのであった。交差点の角に『二川宿案内所』の建物・『川口屋』が。時間は14:44。ここには地域のイベントに関するパンフレットや二川宿についての案内図などが配布されていた。また、往時の写真なども展示されているので、二川宿に入るとまず立ち寄ってみると良い。川口屋の角に、『二川一里塚跡』が。江戸日本橋から数えて72番目の一里塚である。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.20
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『おんやど白須賀』を出ると直後の左手に「多数の石碑」が並んでいた。『県営圃場整備の碑』湖西市立白須賀小学校近くのプール前の緑地の石碑群であった。宿場の有名の顕彰碑等であると。『白須賀宿マップ』。白須賀宿は、元来、汐見坂下の海岸沿いに町並みがあったが、宝永4年(1707)の地震・津波により大きな被害を受け、この後汐見坂上の台地へ宿場の移転がおこなわれた。移転後の町並みは、十四町十九間の長さがあり、道幅は2間であった。 東から東町・橋町・伝馬町(東・中・西)・高見町・西町があり、この中に本陣1・脇本陣1・旅籠屋27軒、人口は天保14年(1843)の調査では、加宿(かしゅく)境宿新田を含めて2704人、総家数は613軒が軒を連ねていた。宝永5年(1708)に移転したことにより、汐見坂から境宿新田までの限られた地域に宿割をしたためか、間口は平均3.7間であり、元町の4.3間より狭くなっていると。湖西市立白須賀中学校正門前を通過。左手に『潮見坂公園』石碑。夢街道東海道道標『白須賀宿 潮見公園跡』二川宿まであと7.6Kmだ。正面に『白須賀宿石碑群』。大正時代に公園として整備されたが現在は学校が建ち碑だけが残されてしまったようだ。『潮見坂公園跡と石碑群』織田信長が武田勝頼を滅ぼして尾張に帰るとき、徳川家康が信長をもてなした場所だそうだ。ここ潮見坂上には、明治天皇が明治元年10月1日にこの地で休憩されたのを記念に、建てられた明治天皇御聖跡碑をはじめ、白須賀出身の国学者夏目甕麿と、息子加納諸平、正直者の藤屋五平、義僕平八郎らの顕彰碑や忠魂碑が建てられていた。また、ここから旧道を東へ百メートルほどいった所に、元白須賀町長の山本庄次郎、医師で地域の文化振興に尽くした石川榮五郎らの石碑も建てられていた。『明治天皇御遺跡地記念碑』。明治元年9月20日、明治天皇東幸のため京都を出発。木戸孝允も供奉。道中の10月1日、三河国の白須賀にて天皇が初めて海を見られたことを受け、木戸は日記に「今日 輦輿元白須賀に被爲至始て 至尊大洋を 叡覽被爲遊暫御途中に 輦輿を被爲止れ從是皇威の洋外相輝ん始なりと感泣に不堪也」と碑の下に。『遠江八景「潮見晴嵐」』遠江八景は、浜名湖の見事な風光や景観の中でも特に秀でた八景を選び抜いている。「舘山秋月」は舘山寺と内浦、「弁天夕照」は舞阪、「浜名暮雪」は新居の今切口、「潮見晴嵐」は白須賀の潮見坂、「瀬戸夜雨」は猪鼻湖の瀬戸、「五山晩鐘」は大福寺、摩訶耶寺、方広寺、龍潭寺、初山宝林寺の名刹五山、「寸座落雁」は寸座と佐久米、「細江帰帆」は引佐細江、というようにそれぞれに特長的な景勝の地や水面に光を当てており、古代から今に流れている時間の妙も重なっているのだと。『忠魂碑』。他にも白須賀出身の国学者夏目甕麿と息子の加納諸平、正直者の藤屋五平、義僕平八郎らの顕彰碑も建てられているのであった。『潮見晴嵐』。見事な駿河湾の光景。『明治天皇御偉跡』碑。遷都の時立ち寄られた時の様子が木戸孝允によって記述されていると。湖西市立白須賀小学校 正門。道路の右手に小さな神社が。そして白須賀の街並みに入る。天保14年(1843)の東海道宿村大概帳によれば、白須賀宿は、江戸日本橋から70里22町(約275キロメートル)の距離で、町並みの長さは東西 で14町19間(約1.5キロメートル)、宿内の人数及び家数は、加宿境宿村を含めて2,704人、613軒でした。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋が27 軒あり、宿場としては中くらいの規模でした。現在でも、格子戸のある古い民家や、間口の狭い家並みなど、江戸時代の面影を残していた。十数分歩くといよいよ「格子戸のある古民家」(左)が並ぶ、かつての宿場街に入って行く。ここでは当たり前に格子戸の家が並んでおり、たっぷり堪能することができるので、ゆっくり、のんびり歩きたかったが・・・・。曲尺手(かねんて)の東側から鷲津停車場往還が分かれる。分岐点に明治四十五年(1912)建立の鷲津停車場往還道標が。その先に『曲尺手(かねんて)』が現れる。所謂『クランク』。『曲尺手』は、直角に曲げられた道のことで、軍事的な役割を持つほか、大名行列同士が、道中かち合わないようにする役割も持っていた。江戸時代、格式の違う大名がすれ違うときは、格式の低い大名が駕籠から降りて挨拶するしきたりであった。しかし、主君を駕籠から降ろすことは、行列を指揮する供頭にとっては一番の失態である。そこで、斥候(前衛武士)を行列が見えない曲尺手の先に出して、行列がかち合いそうなら休憩を装い、最寄りのお寺に緊急非難をしたのだと。『白須賀郵便局』。更に旧東海道を進む。右手が旧東海道 白須賀宿 『大村本陣跡』。『本陣跡』石碑。『大村本陣跡』。「前略、ここは、本陣の大村庄左衛門家跡で、元治元年(1864)の記録には建坪百八十三坪畳敷ニ百三十一畳、板敷五十一畳とあります。大村家は、江戸時代を通じて白須賀宿の本陣として栄え、その主人は代々庄左衛門を襲名し、白須賀の名主のほとんどの期間を務めた家です。この本陣は、明治元年(1868)の行幸と還幸、翌ニ年(1869)の再幸のときに明治天皇が休憩された所でもあります。」伊能忠敬の測量隊も泊まったそうだ。4~50m先・民家の前にあったのが『脇本陣跡』碑。「桐屋」と称した三浦惣次郎脇本陣だった。そして夢舞台東海道道標『白須賀宿 問屋場跡』。二川宿まであと6.7Km。『酒屋 沢瀉屋(おもだかや)』がこの場所にあったと。脇本陣跡碑先の交差点向こう側に『夏目甕麿(みかまろ)邸跡・加納諸平誕生地碑』が塀の一角に立っていた。 聞いたことが無い名前だが、国学者・歌人として国学の普及に努めた人物と。白須賀生まれの国学者 夏目甕麿 は通称嘉右エ門、萩園と号した。酒造を業とし、国学を内山真龍 に学び、のちに本居宣長 の門に名を連ねた賀茂真淵 の「万葉集遠江歌考」「鈴の屋大人都日記」等を上梓出版して国学の普及につとめた。著書に「古野の若菜」等数編がある。文政五年(一八ニニ)没。子供の加納諸平 は甕麿の長子、柿園と号した。若くして紀州和歌山の本居大平のもとに寄寓。乞われて加納家の養子となり、のちに紀州候に召されて国学を講じ、国学所総裁となる。諸平には「当代類題和歌選集」のほかに柿園詠草拾遺等の家集をはじめ、数多くの著作がある。安政三年(一八五九)没。『夏目甕麿(みかまろ)邸跡・加納諸平誕生地』の全景。右手に『神明宮』入口。階段を上って行く。『拝殿』。不漁で困った漁師に集めた上納金を融資し期限過ぎても漁がなく、困惑する漁師一同に代わって自害し住民を救った代官の話が残されていると。斜めから。『火防の槇』。「東海道白須賀の宿は、津波の難を恐れ、宝永五年(1708年)潮見坂の下から、坂上へ宿替えをした。それまでの坂下の白須賀を、元宿と呼ぶのはこの為である。宿場の移転以来、津波の心配は無くなったが、今度は冬期に西風が強く、たびたび火災が発生し、しかも大火となることが多かった。これは当時、殆どの家の屋根が、わら葺きであったことにもよる。そこでこの火事をくい止める為に、生活の知恵として工夫せられたのが火防で、人々は「火除け」とか「火除け地」とか呼んで大切にしていた。火防の広さは、間口二間(3.6M)奥行四間半(8.2M)で、常緑樹で火に強い槙が十本くらい植えられ、元は宿内に三地点・六場所の火防があった。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.19
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先日、10月14日(火)早朝に、我がブログアクセス数も300万回を超えました。皆様の日々のアクセスに感謝申し上げます。200万回通過時から延べ450日になります。200万回通過時と同様ですが、これからも毎日の出来事を『つれづれなるままに、日くらしパソコンにむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ』 の精神で、あくまでも「備忘録」を主眼として、「継続は力なり」の精神でこのブログを書き続けて行きたいと思っています。文章の表現力も乏しく、誤変換や、内容を理解しにくい表現箇所も多々あると思いますが、我が儘にもあまり「読んで頂く」事を意識せず、あくまでも『自分を表現するツール』として日々のブログを書き続けて行きたいと思っているのです。本日の我がブログへのアクセスありがとうございます。--------------------------------------------------------------------------------------------------『旧東海道を歩く』ブログ 目次『旧東海道を歩く』の白須賀宿の散策を続ける。『郷社 内宮神明神社』石鳥居下から、階段、拝殿を。民家前に『高札場跡碑』と『一里塚跡碑』(右)が並んでいた。 『高札建場跡』(左)幕府・大名が、法令や禁令・通達を板札に墨書した高札を掲示した場所を高札建場または、単に建場といい、宿場・渡船場・問屋場など人の目につきやすい場所に設置されました。白須賀宿にはここ元宿と東長谷に一箇所ずつ設置されていたほか、加宿である境宿村にも一箇所設置されていました。『一里塚跡』(右)一里塚は徳川家康が最初に手掛けた東海道の整備事業のときに設けられたものです。 慶長9年(1604)から江戸日本橋を基点に一里(約4km)ごとにつくられました。 塚は旅人の目印のためにつくられたもので、街道の両側に高さ2mほどの盛土をし、榎・しい・松などが植えられました。この辺りでは一里塚のことを一里山と呼んでおり、石碑にも「一里山旧址」と彫られています。この一里塚は江戸から70番目の「白須賀一里塚」。70里ということは日本橋から275km。旧街道を先に進むと右手の筋角に 「潮見観音 蔵法寺」 の立て看板があり、入って行くと突当りに曹洞宗の龍谷山蔵法寺があった。蔵法寺には「潮見観音」という有りがたい観音様が祀られているのだ。遠州灘を行き交う船は必ず帆を下げ観音様の名前を念じて通り過ぎることになっていたのだと。蔵法寺『山門』扁額には『龍谷山』と。『本堂』。蔵法寺は、西暦790年頃(奈良時代末から平安時代)に、真言宗の寺として開基されたが、江戸開幕前の慶長3年(1598)に曹洞宗の寺として開基され、その後、慶長8年(1603)には家康公から23石を賜り、寺勢は盛んとなりなんと寺領は街道を跨って遠州灘の海岸まで達していたといいます。江戸時代を通じて、将軍代替わりに際しては、寺の住職は朱印状書き換えのため江戸に参府したといいます。本堂には、本尊の地蔵菩薩とともに、10年に1度の御開帳となる潮見観音が安置され、境内には三十三観音が祀られている。『潮見観音』。『潮見観音像』。山上から遠州灘の大海の潮を見るということから、『潮見観音像』と呼ばれています。また海上安全を願う漁民の習わしとして、遠州灘を行きかう船は必ず帆を下げ観音様の名前を念じて通り過ぎることとされていました。そのためまたの名を「帆下げ観音」とも呼ばれています。本尊は明治の末頃まで潮見坂の途中にあった観音堂にありましたが、今は蔵法寺の本堂に安置されています。境内には銅製の潮見観音像が建立されていた。『潮見観音縁起』「承応3年(1654)3月10日当蔵法寺前の、遠州灘の海中より漁師の網にかかって御出現された観音様で、お丈は1尺9寸(57.6cm)でその後堂内に安置され、毎年供養されて居りました。 宝永4年(1707)10月4日遠州灘一円に大地震があり、その時起きた大津波に一瞬にして元町宿は悉く浪に呑まれ大被害を受けました。そのとき坂の上に逃れて、その地に現在も住んでいる子孫も多く居ります。その前夜徳川幕府参勤交代で岡山藩城主池田綱政公当地本陣に宿泊中で、夜半観音様が夢枕にお立ちになり、「この地に大地震あり、早々に立ち去れ」とお告げがあったので、夜半急ぎ一行は本陣を出立し危うく難を免れることが出来ました。綱政公は観音様のご加護に感謝し邸内に潮見観音の御分身を祀り、子々孫々現在の池田牧場まで続いて居ります。又、同地の長泉寺にも白須賀観音として、御分身が祀られて居ります。」『宝篋印塔』。『水子地蔵尊』。『水子地蔵尊』。「六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)で苦しむ衆生を教化、救済されたり流産または堕胎した胎児や、幼くして亡くなった子供が、賽の河原で苦しんでいるのを救われる子供を守る菩薩さまで、慈悲の相をされた阿弥陀如来の分身であられる。」『安産 子安地蔵尊&子育て 三十三観音』。境内の『稲荷神社』。『正一位稲荷大明神』。夢舞台東海道道標『白須賀宿 潮見坂下』。蔵法寺の先の右手の山道が『潮見坂』の入口となる。かなりの急坂を必死に登って行った。それにしても、人通りもない急坂の山道。坂を登りきった先に小・中学校があったが、この坂道を子供達は毎朝登っているのであろうか?それともこちら側は別学区?そして太平洋・駿河湾・遠州灘が眼下に現れた。潮見坂よりの景色は昔と変わっていないようだ。西国から江戸への道程では、初めて太平洋の大海原や富士山が見ることが出来る場所として、古くから旅人の詩情をくすぐった地であり、今でもその眺望は変わらず、訪れる人を楽しませてくれる。 浮世絵で有名な安藤広重もこの絶景には、関心を抱いたようで、遠州灘を背景にその一帯の風景を忠実に描いている。潮見坂は、汐見坂・塩見坂・観潮坂とも書き、東海道屈指の景勝地として数々の紀行文などにその風景が記されています。西国から江戸への道程では、初めて太平洋の大海原や富士山をみることができる場所として古くから旅人の詩情をくすぐった地でした。永享四年(1432)には、富士遊覧に出かけた室町幕府六代将軍足利義教がこの地で休息をとり公卿の飛鳥井雅世らとともに歌会を開きました。江戸時代には、浮世絵師の歌川広重も遠州灘を背景にその一帯風景を鮮やかに描いています。」息急き切って坂を登り切ると左側に『おんやど白須賀』の休憩所があった。冷たいお茶の接待があったので上り坂の疲れをとることが出来たのであった。ここは、東海道宿駅開設400年記念として建設され白須賀宿の歴史文化や旅人の交流休憩施設となっているのだと。白須賀宿の歴史文化に関する知識を広めるとともに、散策する人々の交流休憩ホールとして、新たな文化、交流の発信拠点として活用されています。展示概要1.宝永4年に宿を襲った津波の記録2.白須賀宿の文化人3.和紙人形による潮見坂風景の再現4.白須賀宿昔語り5.企画展示 他10月6日(日)に開催される新居関所の特別見学会・講演会のポスター。『歌川広重作 東海道五拾三次 白須賀』。白須賀という地名の由来は、「白い砂州の上に開けた集落」であるといいます。峠の上から遠州灘を一望できる潮見坂は、富士山が見える西方の限界といわれた景勝地でもあります。この宿場は渥美半島の村々へ通ずる道の出発点でもあり、賑わっていました。大名行列の一行が黙々と坂を下って来る様子が道の勾配を感じさせ立体感を出しています。資料館の中は『ジオラマ』があり和紙人形の潮見坂風景が楽しめた。入り口から中庭を抜け、展示室に入ると正面一面に、津波の記録コーナーが。1498年の明応地震(めいおうじしん)の津波の跡も確認できると。『東栄鑑』には「諸国大地震、遠州前坂ト坂本ノ間ノ川ニ津波入リ、一里余ノ波シトナル、是ヲ今切ト号ス」、『遠江国風土記伝』には「湖水変為潮海矣」とあり、かつて淡水湖であった浜名湖が、津波により太平洋とつながり今切と呼ばれる湾口を形成し、湖が拡大したと伝えられている。宝永4年(1707)に白須賀宿を襲った津波は、宿場を全滅させる深刻な被害をもたらした。翌年には津波の被害を避けるため、幕府の助成金を得て、汐見坂下の元町から台地上の現在地へと宿場を移転した。宿場だけでなく、渥美半島の遠州灘に面した海浜沿いの村々も台地上に移転している。宝永4年の津波は、それまでにない大きな被害をもたらした。そして展示室内をしばし散策。『関札』。関札とは、大名や旗本、公家などが宿泊・休憩する際に、利用月日、名前・官職名、休泊の別を墨書きし、本陣門前や宿場の出入口などに掲げた木製の札のこと。左:閏三月四日 尾張中納言休右:三月廿六日 松平出羽守休『白須賀宿の文化人』。『甲冑(かっちゅう)』。潮見坂付近からの『発掘品』と『浮世絵』。白須賀宿は元々、汐見坂下の海岸沿いにありましたが、宝永4年(1707)の津波被害により翌年に今日の汐見坂上の台地へ移転してきました。近年、大津波以前の宿場や村々の様子が海浜にある遺跡の発掘調査でわかってきたそうです。そして挿絵入りのいろいろな地元『白須賀の昔話』👈リンクが紹介されていた。『潮見観音』👈リンク。承応三年(1654)3月のことでした。白須賀の蔵法寺前の海が突然明るく輝きだしました。村人は、舟をこぎだして海中の光るところを探ってみましたが、何もありません。それからしばらくしたある日、信心深い漁師の網に60cmぐらいの木像の聖観音様があがってきました。喜んだ村人たちは、蔵法寺境内に観音堂をつくってお祭りし、「潮見観音」と申し上げました。海中から出現された観音様というので、遠州灘を通る舟は帆を下げてご加護を祈願しました。別名、「帆さげ観音」とも言いました。50年後の大津 波のあった宝永四年(1707)、10月4日の前日に、備前 岡山の池田綱政公が参勤を終えての帰り、白須賀宿に泊まっておりました。その夜、観音様が綱政の夢枕に立って、「 潮見観音である 。いま、御身に災害が迫っている。早くこの地を去られよ。」とのお告げがあり ました。綱政は早朝出立して坂上にたどり着くと、大津波が押し寄せ白須賀 宿は全滅してしまいました。綱政とそ のお供衆は潮見観音のおかげで一命が助かったそうです。『袈裟切り地蔵』👈リンク。戦国時代の終わりのころのことでした。白須賀の潮見坂の石地蔵が夜な夜な化けて出るそうなという噂が立ち、日が暮れると通る者はありませんでした。ある年の秋の日暮れどき、潮見坂の宿(ある本には二軒茶屋とある)に泊まった若い浪人が、旅籠の主人からこの話を聞いて、「その化け物の正体を見てやろう」と、人々がとめるのも聞かずに出て行きました。やがて、浪人は潮見坂の上の地蔵の前に立って、しばらく地蔵をにらみつけていました。6体並んだ地蔵さまは、いつまでも見つめていても身じろぎひとつせず、静かなものでした。「今宵は、化け物はお休みかな」と、ひとりごとを言いながら、大胆にも浪人はそこの石を枕にして、道ばたに寝ころんでしまいました。およそ、30~40分間も眠ったかなと思われたころ、「アハ、アハ、ハア」と大声で笑う声に、浪人はハッと目をさましました。浪人がとび起きて身構えると、真ん中の石地蔵が一丈余もある一つ目入道になり、真っ赤な舌を出して笑っているではありませんか。「おのれ!ついに現れたか!」と叫んで浪人は抜き手も見せず、化け物のすぐ横ざまの石地蔵にハッシと斬りつけました。「アアーッ」という悲鳴を残して、化け物は消え去り、やがてあたりは元の静けさに戻りました。夜更けて旅籠に帰った浪人から、この様子を聞いた宿の主人が、翌朝早くに、下男や近所の人々と一緒に潮見坂に行ってみると、六地蔵のうちの1体が、ものの見事に肩から胸にかけて袈裟切りになって倒れていました。それからは、こんな化け物の話はなくなりました。人々は倒れた地蔵さまをおこして祭りました。いつのころから「袈裟切り地蔵」と呼ばれるようになり、災難除けの地蔵として信仰を集めるようになりました。『猿ヶ番場の勝和餅』👈リンク。「勝和乃由来」という古記録(白須賀宿三桝屋文書・跡見家所蔵)に、勝和餅の由来譚が掲載されています。ここに読み易い表現に書きかえて誌しておきます。そもそも、この猿のばばの柏餅と申すのは、天正18年(1590)秀吉卿が小田原へ御進発の時に、ここに馬を留められて、御床几(折りたたみ式の簡単な掛け)をお立てになられました。当時、この辺は椎の木山で、家はこの茶屋が一軒だけでした。家には93歳の老爺と82歳の老婆夫婦が住んでいました。生業らしい仕事もなかったので団子にそてつの飴を入れて餅にして、木の葉に包んで売っていました。この餅を秀吉卿に差し上げると、「この餅は何というものか」とお尋ねになられましたので、「これは、せんく開餅と申します。その昔、後醍醐天皇の御時、赤松円心という御方が この餅を戦場へお持ちなされたと承っております。そてつの飴が入っておりますから、腹持ちがよいと、先祖が書き誌しております。私どもも、これによって生命をつなぎ、長く安楽に暮らしております」と申し上げました。秀吉卿は、「めでたい餅であろうぞ。長命のめでたいことはよく判ったが、お前はよくも猿に似ていることよ」と、しきりにお笑いになりました。その時、津田隼人殿と富田左近将監殿が婆に向かって、「今度の合戦に御勝利を得られたならば、御褒美が下されよう」…略…この年八月秀吉卿は勝ち合戦で御帰国の節、またまたこの所に床几を御立てなされて、婆に御褒美をくださいました。そして、「今度は、この餅を『猿がばばの勝和餅』と申せ」と仰せられました。『清正公さま』👈リンク。白須賀の海が荒れ、地引き網の舟が転覆して一人の若者がおぼれてしまいました。町中が大騒ぎしておったところへ、九州の殿様の行列が通りかかりました。話を聞いたお殿様が、一人の家来を介抱につかわしました。家来の侍は、「まだ、助かる。私どもが本陣に着くまでに必ず息を吹き返すから安心しなさい。息を吹き返したら知らせるように。」と 言って、護符を置いて立ち去りました。行列が本陣に着いたころ、若者は侍の言うように息を吹き返しました。家人の一人が侍に知ら せると、侍は自分の手のひらに菜種油を注いで灯芯を立て、火をつけました。そして、「これが命をとりとめた火でござる。」と言われました。若者は命が助かったお礼に、九州にある清正公(加藤清正)の神社に参拝して、その分霊をいただいてお祭りしたということです。『片葉の葦』👈リンク。昔、都で恋仲になったお姫様と男がありました。しかし、しばらくして男は事情があって都を離れてしまいました。お姫様は、男の居所をあれこれ捜しましたがわかりません。そのうち、風の便りで男が新居の関にいることを知りました。居所がわかれば、じっとしていられません。御姫様はどうにもいたたまれず、胸をふくらませてその男を訪ねて行きました。ところが新居に着くと、夢にまで見た愛する男は、すでにこの世の人ではなくなっていました。亡き骸は、新居の橋本というところにある高師山の紅葉寺に葬られていました。お姫様は泣き崩れてしまうのを必死にこらえ、丁重に供養して都へ引き返そうとしましたが、白須賀元町の八幡様の辺りまで来ると、我慢できずにとうとう「帰るのはいや」と言い出しました。お姫様は、お供の者がどんなになだめても聞かず、路傍の葦の葉を固くつかんで離しません。お供の者は、仕方なくお姫様を無理矢理引っ張って連れてきました。そのとき、つかんでいた葉がとれて、片側だけ葉がなくなりました。お姫様はとれた葉を握ったまま、引きずられるように都に帰って行きました。それからというもの、そのあたりの葦の葉は、お姫様の悲しい思い出が通じたのか、それとも八幡様が哀れに思われたのか、なかよく並んで片方ばかりに向いて出るようになったということです。『豆石』👈リンク。昔、東海道での難所の1つといわれた潮見坂に、珍しい豆石というものがありました。そして、これを拾った人には幸福が訪れると伝えられ、街道を往来する多くの旅人は、潮見坂にやってくると、この豆石を探し求めたそうです。ある時、わがままなお姫様が江戸から京への旅に出ました。しかし、東海道の長い道中のため、旅の疲れから途中で駄々をこねてはお供の者は、そのつどいろいろとなだめながら連れてまいりましたが、潮見坂にさしかかると、長くて急な上り坂のため、いよいよ動こうとはしませんでした。そんなお姫様に、「この潮見坂には豆石というものがあります。そして、これを拾った人はみんな幸福になれるといわれています。どうかお姫様もよい人に巡り会って幸福になれますように、豆石をお探しになってみたらいかがでしょうか。」と、お供の者が言うと、お姫様も、「そうか、これはなかなかおもしろい。それでは、わたしもそれを拾って幸福になりたいものだ。」と、早速喜々として豆石を求めて坂を登ったと伝えられております。また、ある時、初老の夫婦連れが京見物のために江戸から上ってきました。二人は長旅の疲れも出て、新居宿からは駕籠に乗って吉田宿(豊橋)まで行くつもりでした。ちょうど、潮見坂ののぼり口に来たところで、2つの駕籠が止まり地面に降ろされました。2人は何事かと思い駕籠かきに尋ねました。すると、「ここは白須賀宿の潮見坂といって、世にも珍しい豆石というものがあります。そして、この豆石を拾うとだれにも幸福がやってくるといわれます。そこで、お客さんにも幸せになっていただくよう、これから歩いて豆石を探していただきたいのです。」と言い、坂上まで歩くことをすすめました。そこで、2人は、「それなら私たちもそれを拾ってもっと幸せになってみたい」と、手を取り合って坂をのぼっていきました。潮見坂は当時難所でしたので、駕籠かきもこのように豆石の話を客にすすめては、この坂で自分たちの疲れをいやしたといわれています。木戸孝允日記銅板。明治元年9月20日、明治天皇東幸のため京都を出発。木戸孝允も供奉。道中の10月1日、三河国の白須賀にて天皇が初めて海を見られたことを受け、木戸は日記に「今日 輦輿元白須賀に被爲至始て 至尊大洋を 叡覽被爲遊暫御途中に 輦輿を被爲止れ從是 皇威の洋外相輝ん始なりと感泣に不堪也」と記している。当時の旧東海道の浜名湖、白須賀宿地図。白須賀凧。冷たいお茶を何杯も頂き、この『おんやど白須賀』を後にしたのでした。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.18
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『浜名旧街道』を進むと夢舞台東海道道標『湖西市 紅葉寺跡』が左手に。橋本宿碑から7~8分、右側の高台に「紅葉寺跡(もみじでらあと)」(左)があった。紅葉寺はもともとは紅葉山本学寺という曹洞宗の寺で、地蔵菩薩を本尊として祀り、白須賀にある蔵法寺の末寺でした。明治期に神社が行った取調べの記録によると、鎌倉幕府四代将軍源頼経が上洛の際にこの地の長者の家に滞在した際に頼経の世話をした長者の娘が、後に鎌倉に召し寄せられ、頼経の死後にこの地に戻って出家し、正嘉二年(1258)に頼経の菩提を弔うために建立した寺が紅葉寺とされています。紅葉寺と本学寺との関係は、江戸時代に書かれた『浜名橋考』によると、「足利義教公橋本の寺に入らせ給ひて風景を愛し、紅葉を賞し給ひしより紅葉寺と云う名あり、其後頽廃せしを本学といふ僧再建して今は本覚寺といふ」と記されています。紅葉寺の前辺りから「松並木」が続くが松並木の左側には田園風景が広がり、なかなか良い雰囲気が出ている。『紅葉寺跡』への階段を上る。『紅葉寺』と刻まれた石碑。『紅葉寺跡』「この寺は紅葉山本学寺といい、室町幕府六代将軍足利義教が永享44(1432)に富士遊覧のときに立ち寄って紅葉を観賞したので紅葉寺 といわれている。 建久元年(1190)の源頼朝上洛のおり、橋本に宿泊した頼朝の寵愛を受けた長者の娘がのちに出家して妙相と名のり、 高野山より毘沙門天立像を勧請して建てた寺といわれている。」紅葉寺と本学寺との関係は、江戸時代に書かれた『浜名橋考』によると、「足利義教公橋本の寺に入らせ給ひて風景を愛し、紅葉を賞し給ひしより紅葉寺と云う名あり、其後頽廃せしを本学といふ僧再建して今は本覚寺といふ」と記されています。現在寺の建物は残っていませんが、石段や供養塔などが整備されています。階段を上がると境内の石仏群、歌碑?が右手に。正面から。そして境内には多くの大粒の銀杏が落ちていたので、足で銀杏の実を取り出し持っていたビニール袋に厳重に密封して持ち帰ったのでした。そして帰宅の翌日に妻が殻を割り焼いてくれました。白須賀に続く松並木を進む。畑にあったこの赤い実は何であろうか?オクラの花に似た薄いピンクの花が咲いていたが。ローゼルであろうか。その実はジャムや塩漬けとしても食用となるとのことであるが。ポーチュラカの花であろうか。和名はハナスベリヒユ(花すべりひゆ)。浜名旧街道の松並木の途中左側にあった石碑は『藤原為家と阿仏尼の歌碑』。★風わたる 濱名の橋の 夕しほに さされてのぼる あまの釣舟 前大納言為家★わがためや 浪もたかしの浜ならん 袖の湊の浪はやすまで 阿佛尼「藤原為家(11198~1275)鎌倉中期の歌人で定家の二男、初め朝廷に仕え父の没後家系と学統を継いだ。承久の乱後「千首和歌」で歌人として認められ「続後撰和歌集」 「続古今和歌集」の勅撰集を始め多くの私家集を編んだ。 歌風は温和、平淡。この歌は「続古今和歌集」巻第十九に収められている。阿佛尼( ? ~1283)朝廷に仕えた後藤原為家の継室となり、夫の没後出家し鎌倉下向の折「十六夜日記」をなした。この歌は同日記にあり、当時のこの辺りを豊かな感性でとらえている。よって為家・阿佛尼の比翼の歌碑とした。」田園地帯をひたすら歩き浜名の街並みに入る。左手にあったのが『立場跡』碑。『立場跡』「旅人や人足、駕籠かきなどが休息する茶屋を立場といって、江戸時代、東海道の各所に設けられていた。この立場は、新居宿と白須賀宿の間に位置し、代々加藤家がつとめてきた。立場では旅人を見ると湯茶をすすめたので、ある殿様が「立場立場と水飲め飲めと鮒や金魚じゃあるまいに」という戯歌(ざれうた)を詠んだという話が残っている。」次の訪問寺・『東新寺』に向かって旧街道を進む。両側に民家が立ち並び、往時の街道を偲ばせていた。『東新寺』入口。『本堂』。山 号■松林山寺 号■東新寺住 所■静岡県湖西市新居町浜名2660宗 派■臨済宗方広寺派本 尊■聖観世音菩薩札 所■浜名湖岸新四国八十八ヶ所霊場第64番札所東新寺の創建年代等は不詳であるが、境内には弘法大師・観音菩薩などの石仏がある。本堂の隣には神社が。石仏群。歴史を感じさせる民家。街道右手の山が迫ったところの段上に新しい秋葉山常夜燈の建つ秋葉神社があった。秋葉神社の創建年代等は不詳であるが、社殿には金刀比羅宮が合祀されているのだと。この先に『明治天皇御野立所阯碑』が左側に立っていた。「明治元年(1868)9月20日、岩倉具視らを従え、東京へ行幸のため京都を出発した明治天皇が10月1日、豊橋から新居へ向かう際に休憩した所である。明治天皇は、その後、新居宿の飯田本陣に宿泊し、10月13日に東京に到着した。」そして右手には巨大ながけ崩れの現場が。怪我人等はなかったのであろうか?右手に『火鎮神社(ほづめじんじゃ)』行信結社の裏山に火鎮神社があり、行信結社の脇から石段の参道がある。火鎮神社の創建年代等は、火災等による史料焼失により不詳であるが、徳川家康の崇敬を厚く受けたと伝えられ、宿場町であった白須賀宿の鎮守といわれている。『山門』。『本堂』。『火鎮神社(ほづめじんじゃ)』 ・鎮座地 湖西市白須賀5942番地 ・御祭神 火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ) 品陀和気命(ほんだわけのみこと) 徳川家康公 ・例祭日 十月十四日 ・由 緒 本神社は三座を祀り、由緒正しき神社なりしが、応永年間(1394~1428) 海瀟及安永年間(1772~81)社家火災の為め、古文書散失し、由緒を 詳に能はざるも、徳川家康の崇敬厚く、除地壱町四方余、丸太船壱双の 御墨付きを賜り、地方一般の崇敬を蒐めて、御隆盛を極む。大正十四年一月九日 村社に列せられ同年同月十四日神饌幣帛料供進社に指定せらる。『白須賀宿マップ』白須賀の須賀とは砂浜を意味します。その名の通り宿場は潮見坂下の海辺にあった。宝永4年(1707)の大地震による津波で主馬の大半が流出してしまい、翌年坂上の現在地に移った。それから坂上が白須賀になり、坂下の宿場跡を元町というようになった。本陣1軒、旅籠27軒、人口2704人。夢舞台東海道道標『白須賀宿 火鎮神社』。二川宿まで10.1kmと。『風力発電』。街道を進むと右手の山に大きな白い風車が回っていた。この風車は、浜名湖カントリークラブ(浜名湖CC)の風力発電である。民家の戸袋も芸術作品。鯉の滝登りの姿であろうか。更に『白須賀宿』を西に進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.17
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次次に訪れたのが近くにあった『池田神社』石鳥居は一部がなくなっていた。長久手で戦った徳川方の武将、永井伝八郎直勝には、荒井(今の新居)の地に笹瀬弥三郎なる懇意の者が在った。大将首を上げた直勝は懇ろに弔うべしとて首実検の後、弥三郎に頼み、その屋敷の一角に地の神と称し首塚を築かせた、これが池田神社の始まりとか。『池田神社 由緒』「天正十二年(1584)小牧・長久手の戦において戦死した池田信輝の首を徳川家康の家臣であった長田伝八郎(後の永井能登守)が浜松城の家康のもとに首実験のために赴く途中に、笹瀬家に逗留し、無事首実験を終えた後に笹瀬家の屋敷内に首を埋葬し首塚を立てました。その後、永井能登守が祠を建立し、笹瀬家にこれを祀るように命じたのが始まりです。延宝八年(1680)の高波や宝永の災害で祠が流出し、現在地に移りました。中略、平成三十年の台風二十四号による、社、鳥居とも倒壊した。その後社、木製鳥居が岡山の池田厚子氏の要請により、令和元年に地元関係者により再築された。」傍にあった『鷲栖院』を訪ねた。『曹洞禅宗 天正山 鷲栖院』と刻まれた石碑。参道を上って行く。『山門』『本堂』。鷲栖院は貞和(1345~1349)以前の創立といわれ、創建時は天台宗の寺であったと。天正元年(1573)に再興して新福寺末寺になった。慶長十九年(1614)に開山堂を建立し宝永六年(1709)に諸堂を改修していると。名 称■鷲栖院(じゅせいいん)山 号■天正山住 所■静岡県湖西市新居町新居1739宗 派■曹洞宗本 尊■聖観世音菩薩札 所■浜名湖岸新四国八十八ヵ所霊場第62番札所扁額には『鷲栖院』と。『本堂』内部。『六地蔵』。『佐橋甚平衛(さはしじんべえ)の墓』。「佐橋甚兵衛吉次は、今切関所が幕府直轄時代の正保4年(1647)から明暦3年(1657)まで、第6代・7代の関所奉行だった人。禄高1270石を知行し、橋本村に屋敷を構えていた。明暦3年74歳で没し、自ら開基となった祐念寺に葬られたが、のちにここ鷲栖院に移された。」祠には多くの石仏が安置されていた。右手に『若宮八幡宮』一の鳥居が。社殿。その横には素朴な『猿田彦神社』。社額には『猿田彦神社』。20mほど先、左にあったのが『新居一里塚跡』。『一里塚碑』。「一里塚は、江戸の日本橋を基点として街道の両側に一里(4㎞)ごとに土を盛り、その上に榎などを植えた塚。 里程の目印として、旅行者にとっては馬や駕篭代の計算などの>目安となった。慶長九年(1604年)二代将軍秀忠が一里塚を築かせたといわれ、東海道では百四ヶ所あった。ここには左(東)に榎、右(西)に松が植えてあった。『新居西町公民館』が右手に。『棒鼻跡』。「ここは新居宿の西境で、一度に大勢の人が通行できないように土塁が突き出て枡形をなしていた。棒鼻とは、駕篭の棒先の意味があるが、大名行列が宿場へ入るとき、この場所で先頭(棒先)を整えたので、棒鼻と呼ぶようになったともいわれている。」棒鼻の先で旧東海道は左に大きく曲がっていた。『棒鼻跡』を振り返る。久々に見る夢舞台東海道道標。『湖西市 橋本 新居宿加宿』。白須賀宿まで3.5kmと。「新居宿加宿」とあるので、このあたりも宿場町が形成されていたのであろう。「国道1号線」をしばらく進み、「橋本西交差点」を右に入って行った。『風炉の井(ふろのい)』「尾崎家所有敷地内にあるこの石積井戸は、深さ2m、口径は最大1.8mあり、既に完全に埋められてしまっていたが、昔はもっと深かったのだと。「この石積井戸は、深さ22m、口径は最大1.8mあり以前はもっと深かった。言い伝えによると建久元年(1190)源頼朝が上洛の折、橋本宿に宿泊した時にこの井戸水を茶の湯に用いたとされる。」次に『教恩寺』を訪ねた。立派な『鐘楼門』が右手に。文明六年(1474)に寄進された梵鐘は明応の津波で流された後、天正年間になって砂浜に埋もれていたものを発見され、火災に遭った寺の再興に役立てるために森町の一宮(現在の周智郡森町)に譲られました。その鐘には「遠州敷知郡橋本村教恩寺 天正十二年甲申二月八日以買得一宮来」と刻まれており、現在は袋井市の正福寺にあり県指定文化財となっています。教恩寺は正安二年(1300)の創立といわれています。文明年中(1469~1486)鎌倉公方足利持氏より寺領を与えられ、天正年中(1573~1591)に火災に遭って焼失しましたが、古い由緒をもつ寺として徳川家光より慶安元年(1648)に朱印地を与えられ、叙位任官色衣勅許の寺格を有し、明治維新まで続きました。現在の本堂は応賀寺の下寺だった堂宇を明治六年(1873)に移築したもので、山門は新居地区では珍しい楼門二階建です。境内には名松「見返りの松」があり東海道を旅する人々が宿を離れて名残を惜しんだ松とされていました。また境内の「大イチョウ」は、根元に大枚の金子が埋められているということで「橋本が困ったらイチョウの下を掘れ」という言い伝えがありました。しかしながら現在は、両木とも枯死しています。山 号■槁本山寺 号■教恩寺住 所■静岡県湖西市新居町浜名1126宗 派■時宗本 尊■釈迦牟尼仏札 所■浜名湖岸新四国八十八ヶ所霊場第63番札所『歴史の道すたんぷぽいんと』道路脇の民家の庭には美しい赤い実の植物が。『トウゴマ』であろう。『トウゴマ』の葉は掌状で亀裂が深く入っています。真赤なトゲトゲのある『トウゴマ』の実。そしてこちらは『酔芙蓉』。八重の酔芙蓉はまだ白く。時間は9:37。この地域の開拓記念碑であろうか?ここからが『浜名旧街道』。道の南側に松並木が点々と続いていた。この「旧東海道」、大正時代からは「国道1号線」として重要な道路として存在していた。しかし、江戸時代からあった松並木は、昭和50年代に発生した全国的な松くい虫の被害によって、この街道の松も全滅した。そこで、昔の面影を再現すべく昭和62年に植栽・復元したものだと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.16
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道に戻ると右手にあったのが『寄馬跡』。『寄馬跡(よせうまあと)』「江戸時代の宿場 には公用荷物や公用旅行者のために人馬を提供する義務があり、東海道の宿場では常に百人の人足と百匹の馬を用意した。しかし、交通量が多い時には助郷 制度といって、近在の村々から人馬を寄せ集めて不足を補った。この場所は、寄せ集められた人馬の溜り場になったところである。」更に旧東海道を南に進む。右側のスーパーに売っていた可愛らしい粒の揃ったジャガイモは「三方原ばれいしょ」。「静岡県西部、三方原台地特有の土地によって、デンプン質が多く、ホクホクとした食感と特有の甘さがある」と側にいたおばあちゃん達から。再び旧東海道を右に入ると『神宮寺』が道路脇右手に。『神宮寺』は、応永二年(1395)仲翁和尚による開山と伝えられる寺。江戸時代後期までは代々の住職がありましたが、嘉永元年(1848)から東福寺が兼務するようになったと。『開所稲荷大明神』も。そして『諏訪神社』への入口へ。右手に大きな石灯籠が。『日露戦役紀念碑』。『諏訪神社の欅(ケヤキ)』「諏訪神社は、建御名方命(たけみなかたのみこと)を祭神とし奉納手筒花火で知られている。この神社は、たびかさなる災害を受け、宝永五年(1708)に現在地へ遷座した。このケヤキは、諏訪神社の御神木といわれ、樹齢は四百五十年を経過する。根廻り7.5m、目通り5.5m、樹高16mの巨木である。」『諏訪神社』の参道の右手の坂を登って行くと右側にあったのが『素盞鳴神社(すさのおじんじゃ)』。通称「お天王さま」と呼ばれているのだと。『諏訪神社』の参道からは新居マリーナ近くの『サンマリンブリッジ』が見えた。『諏訪神社』の一の石鳥居。『諏訪神社』。「由緒:当社は景行天皇19年(約千九百年前)の創立と伝えられる古社である。当初は新居宿の総氏神、猪鼻湖神社として猿田彦大神を奉斎し、浜辺に鎮座していたが、数度の天災により宝永5年(1708)現在地に遷座となる。現神社名は井口嘉末なる者が信州より移り住み、天正年間(1590年頃)諏訪大明神の御分霊を合祀したことから、いつしか諏訪神社と称するようになった。」祭礼の際に建てる幟旗の支柱が左手に格納されていた。参道の『石灯籠』。二の鳥居と拝殿が見えて来た。『手水場』の水は湧水であろうか。『拝殿』。今年の『新居諏訪神社奉納煙火祭礼(遠州新居手筒煙火)』👈リンクは荒天の為中止になってしまったと。『拝殿』に架かる『社額』。左手にあったのが『八所神社』。境内社:市杵島神社(左)と神輿庫?(右)。そして次の訪ねたのが『東湖山 龍谷寺』。起源は貞和元年(1345)気賀の庄、石川氏が開基となり、楠正成公に仕えた後に仏門に入った龍氏(石峰和尚)が遠江国、入野村(現浜松市西区大平台付近)に東に佐鳴湖を望む地を見て、山号を東湖山、寺号を自分の姓一字を入れて龍谷寺としたことに始まる。この地では3代で絶し、その後永正元年(1504)4月、雲谷和尚がこれを産海村(現浜松市西区雄踏宇布見)に移す。この地では6代で絶する。寬文5年(1665)新居宿出身で山崎の安寧寺住職であった萬牛和尚は、大勢の檀信徒の山崎への往来の苦労を考え、東に湖を望む荒井の地(現新居高校東付近)へ嗣ぐの絶えている龍谷寺を再興して開山となった。萬牛和尚は、さらに海を埋め立てて境内地を広げた。その辺りの土地は『龍谷寺堀』と言い、現在でも地名が残っている。その後、寶永4年(1707)10月4日大地震来襲。三度の津波に見舞われ新居宿は全没する。翌年、当山2世 江国和尚が現在の地に再興する。当山は現住職で15世。現在の堂宇は14世 玄雄和尚が再建した。『東湖山 龍谷寺』参道。『南無大神遍照金剛』と書かれた幟が参道両脇に。『山門』。 屋根の上の両端にあった桃の形をした留蓋瓦(とめぶたがわら)を初めて?見ました。扁額には『東湖山』。もともと東に佐鳴湖を見る所にあったことから山号を東湖山と称しているのだと。『本堂』。 山 号:東湖山 寺 号:龍谷寺 宗 派:臨済宗妙心寺派 本 尊:聖観世音菩薩 創 建:貞和元年(1345) 開 山:萬牛紹昌和尚 創建当時は現在の浜松市入野町にあったが、 寛文5年(1665)当地出身で山崎(雄踏町)の 安寧寺住職であった萬牛和尚は、新居から山崎への 信徒の往来の苦労を思い、東に湖を望むこの地へ 嗣の絶えている東湖山龍谷寺を再興し開山。 宝永4年(1707)の大地震で諸堂が崩壊。 翌年、第二世の江国和尚が現在地に再建する。 札 所:浜名湖岸新四国八十八ヶ所霊場第65番札所『本堂』に近づいて。本堂扁額には『龍谷寺』と。『鐘楼』。『法雲閣』。扁額には『法雲閣』。子安弘法大師(四国香園寺子安弘法大師御分身)と延命地蔵菩薩が祀られている堂。『六地蔵』。境内には多くの石仏が。小路(しょうな)脇にあった石灯籠。旧東海道を左手に折れて進むと五叉路の角にあったのが『夫婦井戸』。『愛の井戸ポンプは縁起のいい「夫婦井戸」』。海に近い新居宿で人々が暮らす課題は飲み水の確保。海水が混じらない真水を汲むことができる井戸は、地域で共有されていた生活に欠かせない飲み水は各自で組み上げている家もあったようですが、「夫婦井戸」には2台のポンプが設置され、地域の住民が争うことなく利用する共同井戸。少しでも便利に水を利用できる工夫と思われた。『五叉路』。その前の公園の時計と石灯籠。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.15
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次ここからは、今回の「旧東海道を歩く」の9月25日のブログである。-------------------------------------------------------------------------------------------------続いて歩を進めたのが寺社巡り。『寺道』を進むと新居宿の西端には、寺や神社が林立するエリアがあった。最初に訪ねたのが瑞龍山『新福寺(しんふくじ)』。この後訪ねた『臨海院』と共に天台宗の寺として開山されたが、その後、曹洞宗へと改められたと。『新福寺』はもと天台宗の寺で、創設年代・由来は不詳ですが真達公の開創と伝えられている。天正元年(1573)に三ヶ日金剛寺の直伝竜察和尚がこの地に至り、曹洞宗に改め、草創開山に。慶長元年(1596)三ヶ日金剛寺吉山宗豚和尚を請待して開山と仰ぎ、慶長十八年(1613)初代代官彦坂文右衛門の帰依により、諸堂の改修が行われた。宝永四年(1707)の大地震で諸堂が半壊したが、翌年寺を現在地に移転再興したのだと。『山門』。山門の両側には、多くの石仏がズラッと安置されていた。山門に向かって振り返る。『百観音』石仏とのこと。『鐘楼』。『本堂』。名 称■瑞龍山 新福寺(しんふくじ)住 所■湖西市新居町新居1341宗 派■曹洞宗本 尊■釈迦如来札 所■浜名湖岸新四国八十八ヵ所霊場第68番札所扁額には『瑞龍山』の文字が。本堂前には『鬼瓦』が保存されていた。『六地蔵』。六地蔵とは、釈迦の入滅後から弥勒菩薩が出世するまでの無仏時代に出現し、六道の全てに姿を現すことのできる唯一の菩薩であり、六道の全ての生き物を相手に教えを説き、救いの手を差し伸べてくれると信じられている。亡くなった肉親・知人たちが、六道のどこに生まれ変わっていよううと、その人を救って頂けますようにと願って六地蔵が作られたのだ。本堂の左隣りにあった『瑞龍神社』。朱の鳥居には『瑞龍神社』と書かれた扁額。『三界萬霊塔』。稚児を抱く姿は慈母観音像、子安観音像であろうか?そして槙の生け垣に囲まれた寺道を更に進む。次に訪ねたのが『隣海院』。・宗派 曹洞宗 新居山(しんきょさん)隣海院・本尊 薬師如来・創建 永享8年(1436)・開山 進外能迪和尚・沿革 永享8年(1436)真達将公和尚が日ケ崎村隣海院を開創し、 慶安元年(1848)曹洞宗に改宗すると共に、進外能迪和尚を迎え、 日ケ崎山隣海院となる。 宝永4年(1707)大地震の大津波により、諸堂が流出、翌年当地に移転、 日ケ崎山を新居山と改める。文化7年(1810)の大火災により諸堂が焼失したため、 各所の修理改築を行った。 山門は火災を免れ、最も古い建物として残り、「ジキジキ像」が祭られている。 位牌堂には山岡鉄舟(1836~88)の額、鐘楼堂東には鉄舟の歌碑、観音堂には 三十三観音像がある。『山門』。山門は宝永年間建立の四脚門で、梁上に「ジキジキ様」と呼ぶ憤怒像の彫刻があった。梁を支える真っ赤な健気な姿は参詣者の邪心を祓うと言われているのだと。『ジキジキ様』の名前の由来等はネットで調べましたがよくわかりませんでした。以前にここを訪ねた三宅裕司がテレビ放映された際に、明らかにしていなかったのだろうか?ネット情報によると座像の作者・年代等は不詳。鬼とも猿ともつかぬ異様な形相をしている。元々のジキジキ像は傷みが激しいため、本堂に移され現在は代わりに同院出身の彫刻家見崎泰中氏の複製になるジキジキ像が安置されている。ヒノキの寄木造り、高さ52cm。平成11年町文化財に指定されている。ふんどし姿の後ろ姿を。こちらが本物のようだ。平成11年 旧新居町有形文化財に指定されたと。 【http://sotozen-navi.com/detail/article_221173_1.html】より山門の見事な彫刻。『鐘楼』。『本堂』。『本堂』前には巨大な蘇鉄が対で。『本堂』内部。『本堂』からの渡り廊はアーチ型。『水子地蔵堂』様々な石碑、石仏が。寺道界隈の見事な石垣の上に白い塀が。名前のごとく寺社が密集している地域で、新福寺、隣海院、本果寺、諏訪神社、普門寺…、など、古刹が何軒かを訪ねることが出来た。これも事前予習のお陰。臨海院の南側に法華宗陣門流の『正興山本果寺(しょうこうざんほんかじ)』があった。『本果寺』は、もとは真言宗の寺院であったが、元中7年(1390)本興寺の末寺となり、法華宗に改宗した。徳川家康をはじめ代々の将軍より朱印を下賜され、有栖川宮御祈願所を拝命し、位牌を安置していると。朝の清掃をされていた住職から、『法華宗』とは日蓮を開祖とする宗派のうち、勝劣派の諸門流が形成した宗教法人の多くによって用いられる名称であると教えて頂きました。『南無妙法蓮華経』と刻まれた石碑。脇門奥には人物像が。『?藤慶三翁之像』、判読できません。 ・宗派 法華宗 陣門派 正興山 本果寺 ・本尊 十界互具 大曼荼羅 一塔両尊四士高祖日蓮大聖人 ・創建 元中7年(1390) ・開山 速誠院日才大徳(そくじょういんにっさいだいとく) ・沿革 もとは真言宗のお寺であったが、元中7年(1390)本興寺の末寺となり、 法華宗に改宗した。宝永4年(1707)の大津波により大破、惣町移転となり、 翌年現在地に移転した。 徳川家康(1542~1616在職1603~05)をはじめ代々の将軍より朱印を賜り、 有栖川宮御祈願所を拝命し、位牌を安置。松山新田の開拓者野口休可の墓や無縁供養の 「めぐみ観音」を祀る。俳匠大野林火の句碑があり、「お経に化けた鯛」の伝説もある。 平成12年(2000)「一字一石経」の経塚に、「あけぼののお鐘」が建立された。『山門』。山門は黒塗りの医王門で、乗馬のまま通行できることから武家用門ともいわれていると。『正興山』と書かれた扁額。参道の坂を上る。坂の両側には『南無鬼子母神十羅刹女』と書かれた赤い幟が。鐘楼堂。「あけぼのの鐘」と呼ばれていると。正面から。平成十二年、一字一石経の経塚に建立されたと。天に向かって突き出た見事な相輪がある鐘楼堂(宝珠・竜車・水煙は金色)。あけぼの鐘の天井をズームで。観世音菩薩、毘沙門天王、不動明王、帝釈天王、弥勒菩薩他20体の御絵像が配置されていると。『本堂』。宗派 法華宗 陣門流 正興山 本果寺本尊 十界互具 大曼荼羅 一塔両尊四士高租日蓮大聖人創建 元中七年(1390)開山 日才大徳徳川家康はじめ代々の将軍より朱印を賜り、有栖川宮御祈願所を拝命し、位牌を安置、俳匠、大野林火の句碑があり、「お経に化けた鯛」の伝話もあるとのこと。『本堂』内部。本堂の屋根の最頂部には越屋根が。『正興山 』の文字がここにも。御朱印を頂きました。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.14
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『特別史跡 新居関所』を訪ねたのは、前回の「旧東海道を歩く」の5月24日。このブログは、その時のものである。-------------------------------------------------------------------------------------------------関所前の国道301号線を渡ると、左奥に進むと焼き肉、ホルモン屋の角にあった表示には「ここを水路が通り、関所へ出入りする船が行き交っていました」と。同じ角にあった『味楽酒房 豊水(ほうせん)』の店の入口の壁には『新居関所』の姿が。『東海道 三十一番 新居宿』「東海道は江戸日本橋より大阪高麗橋までです。大津宿追分を右に行き、京都三条までは東海道五十三次。大津宿追分より左に行くと、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿、大阪高麗橋までが東海道五十七宿となります。」東海道五十三次を制覇したら東海道五十七宿まで足を延ばしたいのであるが。『無人島漂流者 不屈精神を伝える』。江戸期 新居人 鳥島に生きた二十一年 享保4年(1719)~元文4年(1739)。生存:三人 死亡:九人この碑は、新居関所と街道をはさんだ反対側の一角にあった。石碑には12名全員の名前が刻まれており、不屈の精神を伝えるとともに鎮魂の願いが込めらているのだと。石碑の『裏面』。筒山五兵衛の船・『鹿丸』の運行・漂流ルートと漂着し21年間生き抜いた『鳥島』が示されていた。「江戸時代中期の享保三年(一七一八)新居宿泉町筒山五兵衛船は、遠州今切湊を出帆した。 翌四年の秋、奥州宮古から房州へ向う途中、銚子沖で嵐にあい遭難、太平洋を南方に流され、絶海の無人島、今の鳥島に漂着した。 乗組員十二人の内九人が死亡、残る三人が都合二十一年を生き抜いて、元文四年(一七三九)救出された。 無人島生活日本最長であった。 八丈島に着いた三人は、江戸城に召し出され、八代将軍吉宗に謁見、異境のアホウドリの島での生活をじかに聞かれてその様子が詳しく語られたことで江戸中の評判になった。 このことが、徳川実記に記されている。 三人は褒美を頂いた後、新居から親族の出迎えを受け、東海道を丁重に駕篭で送られてきた。 関所では、役人や郷里の人々の歓迎を受け、領主松平伊豆守と地元の人々の手厚い保護を受け後々まで安穏に暮らした。 死亡した水主(かこ)九人は、小笠原父島にある咸臨丸墓地に幕府の調査船咸臨丸乗組員西川陪太郎や小笠原島初期の入植者とともに手厚く祀られている。 この建立場所「矢来道」は旧東海道沿い泉町の一角で、昔のお関所構内を仕切る「矢来(柵)」があったとこである。」新居関所の復元された『大御門(おおごもん)』。正面から。「大御門は、明六ツ(午前6時頃)に開き、暮六ツ(午後6時頃)に閉じました。大御門の前には、高札を置く枡形広場があり、東海道へつながります。大御門の大きさは、高さ5.8m、幅4.6mです。城門と同じ屋根付きの堂々とした高麗門です。礎石建ちではなく、地表より2.7m以下に礎石をすえ、柱を埋めた堀立柱(ほったてばしら)の門です。」。新居関所の出入り口に当たる「枡形広場」に江戸時代後期の掲示板「高札場」が復元されていた。高札は、宿場内の住民に定書を告知する「宿高札」と、関所近くの今切湊に出入りする船に向けた「浦高札」の二種類が。絵馬のような五角形で上部に「笠木」が付いたものが。宿札は六枚。浦高札は二枚掲示され、宿高札は新居宿から白須賀宿まで馬で荷を運ぶ際の料金を定めた「駄賃札」や、渡船の重量制限を記した札など。キリシタンを密告した場合の報酬など書かれた札、親子や兄弟の忠孝を呼びかける札など、いずれも正徳元年(1711)に発令されたもの。交差点から『大御門(おおごもん)』を再び振り返る。そして右手奥にあった復元工事中の『女改之長屋』を振り返る。『女改之長屋』とは江戸時代、新居関所では「入り鉄砲に出女」と言って、交通の往来を厳しく取り締まっていた。特に女性の取り調べは厳しく、取り調べを担った「改め女」とその家族が居住した建物が『女改之長屋』。長屋は2家族が住んでいた木造平屋で、こけらぶき屋根、壁は土壁と、江戸時代の庶民の家の造りであるとのこと。現在復元工事を実施中で、2020年に公開予定とのこと。『新居宿まち歩きマップ』。 【http://a-machinet.org/map_annai.htm】より新居宿の幕末期泉町通り(東海道)の軒割。『留万株式会社』は現在は機械工具卸売店。国道301号線を西に進む。『髪結い 時五郎』「関所に程近いこの場所にある髪結いでは関所改めを受けた女性たちの髪を結い直したとも云われています」『紀伊国屋 平兵衛』「疋田弥五助(本陣)の分家で西の新家(紀伊国屋弥左衛門)、東の新家(紀伊国屋平兵衛)と呼ばれていました。」右手に『中山屋』は現在は「カメラのマツミヤ」。『旅籠屋(船割宿) 中山屋孫次郎』江戸後期、孫次郎、和十郎父子二代にわたり今切湊改修に尽力しましたが、彼岸は叶いませんでした。今切りを望む高台にタカボタ地蔵を建立。新居関所から旧東海道(国道301号線)の左側に『旅籠 紀伊国屋 資料館』の看板が。この空き地は『旅籠屋(船割宿)筑後屋 次郎左衛門』「船割宿(ふなわりやど)は、特定の藩の御用を行う旅籠のことで、今切渡船や関所通行の段取りなどを行っていました。」。『旅籠 紀伊国屋 資料館』。江戸時代、徳川御三家の一つ紀州藩の御用宿を務めた縁から紀州屋と名乗った。宿内最大の旅籠屋の一つで、平成13年に再生整備を行い旅籠資料館として開館した。『旅籠屋(船割宿) 紀伊国屋 弥左衛門』「新居名物のうなぎの蒲焼きの味が評判でした。昭和30年代まで旅館業を営み、新居宿と共に歴史を刻んだ旅籠です。」。反対側から。「新居宿旅籠紀伊国屋は紀州の出身で、江戸時代の初めに新居に来て、茶屋を営んだという。はじめは小野田姓を名乗り、後に疋田弥左衛門に改めた。旅籠屋としての創業時期は不明だが、元禄十六年に御三家のひとつ紀州藩の御用宿を勤めるようになり、正徳六年に「紀伊国屋」を名乗ることを許されたという。その後、享保十七年に帯刀御免、延享二年に五人扶持を賜り、江戸時代後期には敷地内に紀州藩の七里飛脚の役所があった。紀伊国屋は、明治七年の泉町大火で焼失し立て替えられ、昭和二十四年まで旅館業を営んでいた建物はその後増築したが、一部に江戸時代後期の旅籠屋の様式を残していたことから、街道文化を伝える施設として活用するため、東海道四〇〇年祭にあわせ、再生整備工事を実施した。」。旅籠 紀伊国屋資料館のセット券で中に入る。正徳6年(1716)紀伊国屋の屋号を掲げ、新居宿の大旅籠として昭和期まで営業。江戸時代の旅籠様式を随所に残しており往時の宿場文化を伝える資料を展示している。入口から奥の部屋を見る。『新居宿旅籠 紀伊国屋』説明板。火鉢のある部屋から裏庭を見る。鎧兜が飾られていた。奥庭の木々も綺麗に手入れがされていた。復元した紀伊国屋の夕食(左)と当時の蒲焼き(右)。『風呂場』。水戸黄門に登場したかげろうお銀(かげろう おぎん)役の由美かおるの写真が。この場所での撮影が行われたのであろうか?『便所』。たたき土間には『釜場』が。1&2階間取り図。江戸時代後期の紀伊国屋は、間口五間(約九メートル)の平屋造りで、部屋数12、裏座敷2、総畳数63と、25軒前後あった新居宿の旅籠の中で最大規模を誇っていた。明治7年(1874)の大火により焼失、二階建てに建て替えられ一部増築されたのだと。階段を上り2階へ。各部屋は障子や襖で仕切られてた部屋割り。『寺みち』と書かれた絵画額。『客の間』。『宿部屋』が続く。部屋の隅には『角まくら』や『箱まくら』が。階段を降ると『裏庭』が。この後に訪ねた『旧芸者置屋 小松桜』案内板。『東海道五十三次宿場名物』この日までに、何箇所のものを味わったのであろうか?宿部屋の前には縁側が。裏庭を別の角度から。様々な展示物が並んでいた。そして『旧芸者置屋 小松桜』を訪ねた。浜松で新聞屋を営んでいた松井米吉が、明治34年頃、旅籠屋紀伊国屋の裏手にあった建物を買収して置屋を開業し、大正初期に現在地に移築した。平屋建てから二階建てに改築後、置屋兼小料理屋として営業を再開し、二階部分は御座敷として遊べる構造としたと。1階の部屋には『寿 令和』と書かれた白の文字板が。男の子のすこやかな成長と健康を願い飾られる五月人形と座敷幟(ざしきのぼり)と呼ばれる五月飾りなども展示されていた。2階の階段上から1階を見る。2階に飾られてあるこの写真は小松楼にいたと思われる芸者さん達。懐かしい桐ダンス?火鉢そして鏡。花鳥風月の水墨画が描かれた屏風。ミシンや丸テーブルや火鉢も。中央にあるのは古い時代の写真焼き付け器でしょうか。東海道五十三次。2階の襖(ふすま)には何やらお経のように文章が沢山書かれていた。小松楼とは大正時代初期から昭和初期にかけて存在した芸者置屋兼料亭だった。新居の地は明治以降、鰻の養殖と製糸業で栄えて、近くに芸者置屋11軒あり芸者も50人以上いて栄えたとか。昭和初期に廃業した小松楼は、建物が残っており交流館として展示施設となっていた。建物には芸者置屋兼料亭として機能した当時に使用していた三味線などの商売道具の楽器が所狭しと並んでいた。当時の芸者さんたちが笑顔で。こちらは新居宿の芸者さんたちの集合写真?そして再び旧東海道に戻ると右手に『肥後屋』。『旅籠屋(船割宿)肥後屋作右衛門』「新居の旅籠の中で最も畳数が多かった肥後屋、全部で115畳ありました。大店らしく家業を継ぐものへの家訓も書き残してあります。」同じく右手に『井筒屋』。『井筒屋清太郎』。「慶応三年、本陣武兵衛に続きここ井桁屋にも「お札降り」があり、「ええじゃないか」騒動は遠州以東へも伝播して行きました。」泉町交差点に向かうと左手、こちらは旅籠伊勢屋長吉跡。今は金松酒店に。新居町で「蓬莱泉」「開運」「おんな泣かせ」や「新居関所」などの地酒や、「魔王」「青酎」「人夢可酒」などの焼酎や各種お酒、各種名産品などを取り揃えているようだ。そして泉町交差点を渡り左折すると、空き地の隅に『疋田八郎兵衛本陣跡』の石碑と説明板。『疋田八郎兵衛本陣跡』「新居宿に三軒あった本陣の一つ。天保年間の記録によると建坪193坪で、門と玄関を備えていた。八郎兵衛本陣には吉田藩のほか、徳川御三家など約120家が利用した。疋田家は、新居宿の庄屋や年寄役を務めた。」『泉町』交差点。そして戻ると泉町交差点正面にあった『飯田武兵衛本陣跡』交差点を渡って『飯田武兵衛本陣跡』。『本陣跡』碑と案内板。『飯田武兵衛本陣跡』「飯田本陣は、天保年間の記録によると建坪196坪で、門構え玄関を備えていた。飯田本陣には小浜、桑名、岸和田藩など約70家が利用した。明治元年(1868)の天皇行幸の際に行在所となり同年の還幸、翌2年の再興、明治11年(1878)の巡幸の際にも利用された。その行在所の建物は明治18年(1885)、奥山方広寺に移築された」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.13
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『特別史跡 新居関所』を訪ねたのは、前回の「旧東海道を歩く」の5月24日。このブログは、その時のものである。次回でも良かったが、早朝の訪問が想定されたため、中に入れない可能性が大なので5月24日の帰路に立ち寄ったのであった。-------------------------------------------------------------------------------------------------新居関所は、正式には今切(いまぎれ)関所といって、慶長5年(1600年)に設置された。創設当初は浜名湖の今切口に近い場所にあったが、地震や津波などの災害で2度も移転をしいられ、現在地は3度目の場所であると。下図が新居関所・新居宿の『移動の歴史』👈リンクです。『関』が新居関所です。上記リンクに丁寧に説明されていました。現存する建物は、嘉永7年(1854年)の大地震で大破し安政2年(1855年)より建て替えられ、同5年に完成した。江戸時代には面番所・書院・番頭勝手・給人勝手・下改勝手・足軽勝手・女改め長屋などの施設があった。このうち現存する建物は面番所・書院・下改勝手・足軽勝手であると。昭和30年(1955年)に国の特別史跡に指定され、さらに昭和46年(1971年)に解体修理工事、平成14年(2002年)に渡船場・護岸整備を行い、全国で唯一現存する関所建物として大切に保存されている。なお、昭和51年(1976年)に新居関所を中心とする江戸時代の交通資料や湖西市(旧新居町)の歴史に関する資料を収集し、調査研究する施設として新居関所史料館が開館し、昭和62年(1987年)に新装オープンしている。現在、大御門、女改め長屋、船会所等の復元整備が進められている。『新居関所 まちあるきマップ』新居関所&関所資料館の入口。入館料金の\310を払って入場。新居関案内図。関所内平面配置図。もっと詳しく。『面番所』を東から。『面番所 書院』。「書院書院とは 本来読書などの学問をするための部屋であった。江戸時代以降には公式の対面などを行う表向きの施設をさすようになった。関所の書院は、八畳間で簡素な造りであった。」建物の中に入ると、まずはじめに目に飛び込んできたのが鎧兜(甲冑)。面番所の上番所(二十畳)。人形などで再現された当時の役人による検問の様子が見られた。関所内に配備された数々の武具は、規則に従わない者を武力で取り締まる為のものであり、通行者を萎縮させる目的もあったとのこと。『関所面番所(おもてばんしょ)』。「この建物は、東海道を往来する旅人を取り調べる関所役人が控えていた建物で、面番所といいます。嘉永7年(1854)の地震により倒壊したため、翌、安政2年(1855)に建て替えられました。構造は、入母屋造り、本瓦葺きで東西に十一間、奥行七間、これに三方三尺のまわり縁側がつき、内部は向かって右の部屋を上の間(十畳)、中の部屋を上番所(二十畳)、左の部屋を下番所(二十五畳)という部屋割りです。明治2年の関所廃止令後、明治6年から大正5年まで小学校として、その後、昭和26年まで新居町役場庁舎として使用されました。全国で唯一現存する関所建物として昭和30年に国の特別史跡に指定されました。」『番頭(ばんがしら) 五味六郎左衛門』。面番所には、関所役人の姿が人形で再現されていた。20畳の面番所にいた『番頭 五味六郎左衛門』。ただ一人、座布団を敷いて座っていた。『番頭 五味六郎左衛門』は、目鼻たちの整った、きりっとした美男の役人。その先は、給人の中山勘太夫と石原幸正。『給人 中山勘太夫』。『関所常備武具』関所常備武具は、関所役人の所定の取り調べに従わない通行人の不法行為を未然に防止する対策として備えられていましたが、幕藩制社会の確立に伴い、関所の権威を通行者に誇示するという役割、いわゆる飾り用として関所に常備されていました。時代によって、この数量は異なるが、基本的には。次の武具が置かれていたと。弓二十五張り ・鉄砲二十五挺 ・矢箱ニ荷 玉薬箱ニ荷 ・長柄十本『給人 石原幸正』『関所 通行手形』『少女壱人乗物壱丁従播州赤穂江戸・・・・・浅野・・・・天和弐壬戌正月二日 船渡 今切 女改中』の文字が。関所には改め女(俗に改め婆)がいて、関所を通る女性を調べた。改め女は、関所勤務の母親が務め、関所構内に住んでいたと。『関所役人』「新居関所創設(1600)より元禄十五年(1702)までは幕府直轄として関所奉行が任務に当たっていましたが、元禄十五年以降、関所の管理は三河国吉田藩へ移管されました。吉田藩管理下としての関所役人は、番頭・給人・下改・賄役・番所足軽・往還女改之女など計四十人前後が交代制で任務にあたっていました。旅人の関所通行は、明六ツ(六時頃)から暮六ツ(十八時頃)までで、原則として夜間は通行できませんでした。」『下改 神田栄次郎』『下改 山本忠佐』は出張中?であった。『足軽 及部藤太夫』。右から刺又(さすまた)、袖搦(そでがらみ)、突棒(つきぼう)が置かれていた。壁には、明治から昭和にかけて政治評論家・史論家などで活躍された墨跡が掲示されていた。『東海古関』は徳富蘇峰(1863~1957)が故郷である熊本に向かう途中、新居関所へ立寄り、この四文字「東海古関」を書き残したのだと。蘇峰90歳の書であると。面番所の下番所(二十五畳)側から。裏庭の松は美しく刈り込まれて。新居関所の関所役人は、40人前後の規模で、交替制であった。具体的な役職は、偉い順に、番頭(ばんがしら)下改(したあらため)賄役(まかないやく)足軽(あしがる)番所勝手足軽(ばんしょかってあしがる)往還女改之女(おうかんおんなあらためのおんな)に分かれており、開け六つから暮れ六つ(今の午前6時から午後6時)迄勤務したのだと。隣接する関所史料館には、江戸時代の交通や新居町の歴史に関する史料が展示されていた。『新居関所資料館』入口。『関所絵図』。舞坂宿から今切の渡しで新居関へ。『諏訪神社奉納 煙火(手筒花火)』。新居宿では、江戸時代より奉納後の手筒花火は家内安全・商売繁盛などを願い、厄除けとして玄関などに飾って来ているのだと。1階には「街道と関所」「海の関所新居」として主要街道と関所の分布、新居関所の変遷と役割等を紹介。2階は「旅と宿場」として旅の様子を描いた浮世絵版画、各地の名物、新居宿の紹介・庶民の暮らしの道具類の展示。しかし写真撮影禁止であった。『面番所』を『新居関所資料館』前から見る。再び『面番所』を正面右から。炭太祇(たんたいぎ=1709~71)の句碑。「木戸しまる音や新居の夕千鳥」。『面番所』を正面から。敷地内にあった『高札場』。ここには、次のように書かれた高札が掲げられていた。 一 関所を出入り輩 乗物の戸を開かせ、笠 頭巾を取って通すべきこと 一 往来の女 つぶさに証文引合わせて通すべきこと 附 乗物にて出女は 番所の女を差出して相改へきこと 一 手負死人 并 不審なるもの証文なくして 通へからさること 一 堂上の人々 諸大名の往来かねてより其聞にあるは沙汰に及はず 若(もし) 不審のことあるにおいてハ 誰人によらず改むへきこと 右の条々 厳密に可相守者也(相守るべきものなり) 仍如件(よってくだんのごとし) 正徳元年五月 日 奉行『荷物石』「これは旅人が関所で取り調べを受けている時に荷物を置いた石です。当時は、二つの荷物石が面番所の西側に並んで置かれていました。」奥から『面番所』を振り返る。夜間はライトアップされるようだ。京都側の『大御門』を『面番所』側から見る。『面番所』の左奥にあるのが『下改、足軽勝手』。『下改、足軽勝手』手前。『面番所』の横には籠が。そして手前には復元された『渡船場』が。渡船場から関所を臨む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.12
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次この日は、今回の『旧東海道を歩く』の2日目の9月25日(水)。5:30過ぎに起床し、出発の準備をし6:30の無料朝食を楽しむ。そして豊橋駅に向かう。豊橋駅東口駅前広場のペデストリアンデッキが前方に。そして豊橋駅からJR東海の各駅停車を利用して新居町駅に到着。新居町駅 駅舎。駅前には『湖西市案内図』が。湖西市(こさいし)は、静岡県の最も西に位置する市。旧浜名郡の一部で、1972年に市制施行。歴史、漁業、自動車工業、農業の町。旧東海道沿いには新居宿は:新居関所、旅籠紀伊国屋、小松楼といった施設があるのだ。この日の新居町駅から二川駅までのルート。新居町駅を出て右に行くと、公園のところに種田山頭火(たねださんとうか)の句碑があった。JR新居町駅から西へ約100メートルの場所。山頭火は、語や五・七・五などの約束ごとにとらわれない『自由律俳句』(じゆうりつはいく)の代表的な俳人。波乱万丈な人生を歩んだことでも知られており、心のあるがままに詠まれた作品は多くの人に親しまれているのだ。『浜名街道 水のまんなかの道がまっすぐ 山頭火』「種田山頭火(1881~1940)は大正・昭和の初期の俳人。明治15年山口県に生まれる。本名は正一。荻原井泉水に師事。俳誌「層雲」に俳句を発表。大正13年、仏門に入る。尾崎放哉に傾倒、妻子を捨て庵を結び、一笠一杖の乞食行脚で各地を遍歴、禅味ある自由律の独自の句を残した。この作品は、二度目の遠州路を旅した昭和14年4月、当時の浜名街道を直截に詠んだものである。句集「草木塔」に所載。」3個の鐘のぶら下がった石碑も。国道301号線を西に進むと、前方に『浜名橋(はまなばし)』が。振り返ると石灯籠には『浜名橋』と。奈良時代の浜名湖。今は汽水湖として豊富な栄養素から養殖などの水産業がさかんな浜名湖であるが、もともとは海と砂州で隔たれた淡水湖あった。 浜名湖の古名は遠津淡海(とおつあわうみ、遠江)といって、都に近い琵琶湖に比べて、「遠い淡水の海」という意味であった。 遠江(浜名湖)からは浜名川が砂州に沿って西流したのち外海に流れ出ていた。862年、浜名川を渡す「浜名の橋」が架けられ、東海道の交通が整備される。 橋が架かっていた場所が「橋本」の地名となり、現在も残っている。右手にはJR東海の線路が。貨物列車が通過。浜名湖から駿河湾への早い流れが。浜名橋の歩道には歌川広重の様々な東海道五十三次の浮世絵が。『歌川広重 東海道五拾三次(隷書)荒井』。1849頃の作品。左手前に新居関所の船着き場が、遠くに関所に向かう舟、そして白き富士山の姿が。『歌川広重 東海道五拾三次(行書)荒井 海上壹リ半舟渡之図 』。『歌川広重 東海道五拾三次 人物東海道 荒井』。『歌川広重 東海道五拾三次(保永堂版)荒井 渡舟ノ図 』舞坂から4キロ海上の渡しを行った浜名湖の西岸の宿場。舞坂の今切の渡しから荒井に向かう、浜名湖の舟渡しの風景です。遠くに見える向こう岸には箱根と並んで厳しい、規模の大きな関所が待っています。ふき流しをはためかせ、二本の毛槍を高々と飾り立てた船は大名一行で、お供の船が続いて渡っていました。遠くに関所の建物が見え、間もなくのんびりとした短い船旅が終わろうとしています。『二代歌川広重 慶応年間(1855~1867) 東海道五拾三驛 阿ら井』隷書東海道と同じ構図、手前に新井関所の船着場の姿が。後ろに富士山の姿も。『安藤広重 東海道五拾三次 荒井(狂歌入り東海道)』狂歌 朝霞帝波音 見渡せば 遠つあふみも なみだたで 名にしあらゐ(い)の 関も戸ざゝず今切(いまぎれ)の渡(わた)しの、荒井側の船着き場を描いています。画面左に見えるのは、今(いま)切(ぎれ)の関所です。今切の関所は箱根の関所と並び、取締りの厳しい関所として知られていました。湖西市消防団第10分団結所。そして新居関所の駐車場前に。正面に『新居関所』が見えた。『新居関所 まちあるきマップ』。『新居関所 船着き場跡』。宝永5年(1708年)現在地に移転したものである。もと浜名湖口に面し、船着場もあったのであるが、いまは埋立てのため、地形は一変して旧観を偲ぶよすがもない。関所の正面の門『大御門』。大御門は木造瓦ぶきで、高さ5.8m、門扉の幅4.6m、奥行き2.9m。本柱2本の後ろに、本柱を支える控柱を1本ずつ立て、切り妻屋根を載せた「高麗門」と呼ばれる様式だ。関所の正門の役割で、発掘調査で分かった史実に基づいて市が1年がかりで復元した。『新居関所周辺事業』案内板現在、女改之長屋が復元工事中であった。旧新居町 マンホール。江戸時代の東海道の関所で、唯一当時のまま残っている関所。関所の門の下に町の木・松と波と千鳥も描かれている。『大御門』の先の交差点を右折して東海道線、新幹線のガードを過ぎ暫く進むと左手にあったのが『北屋敷跡』石碑。元禄9年(1696)に新居関所(東海道の関所、日本4大関所、国指定特別史跡)の役人の役宅がこの地に移されました。当初は幕府直属の与力や同心が居住しましたが、元禄15年(1702)以降は吉田藩(愛知県豊橋市今橋町・藩庁:吉田城)の管理となり、吉田藩から派遣された役人が居するようになります。敷地内には役宅などの建物が12軒、足軽長屋2軒があったとされます。現在、その施設の遺構は失われ石碑だけが建立されていた。折り返すと前方に新幹線ガードが。工事中の『女改之長屋』前には『女改之長屋とは?』の案内板が。「■女改之長屋とは? 江戸時代、新居関所では「入り鉄砲に出女」と言って、交通の往来を厳しく取り締まっていました。特に女性の取り調べは厳しく、取り調べを担った「改め女」とその家族が居住した建物が「女改之長屋」です。 長屋は2家族が住んでいた木造平屋で、こけらぶき屋根、壁は土壁と、江戸時代の庶民の家の造りです。現在復元工事を実施中で、2020年に公開予定です。■新居の関所はいつできたの? 新居関所は、1600年に、現在の新居町港町付近に徳川家康によって創設されました。 新居は渡船の発着点であったことから、重要な交通ポイントとして考えられ、関所が設置されました。 その後、災害により2度移転し、現在の面番所建物は、1854年の地震後に改築が行われた日本で唯一現存する建物です。■新居関所の建物の特徴って? 箱根関所(神奈川)・碓(うすい)氷関所(群馬)・福島関所(長野)と見比べてみると、新居関所だけにある建物があります。それは女改之長屋・船会所(ふなかいしょ)・渡船場(とせんば)です。 こうした違いは関所の機能や立地環境によって、生まれたものです。 箱根関所では女性の取り調べは江戸から出る女性だけでしたが、新居関所では入る女性も取り調べました。そして、渡船で浜名湖を渡ったので、渡船の段取りをする船頭の会所があったのです。■特別史跡とは? 文化財保護法で指定・保護する有形の文化財(本興寺本堂など)は重要文化財。そのうちの「たぐいまれなる国民の宝たるもの」が国宝です。 同じように、記念物という種類に区分される史跡のうち、「学術上の価値が特に高く、わが国の文化の象徴たるもの」が特別史跡に指定されます。 金閣寺の園地や中尊寺境内なども全国62件の特別史跡のうちのひとつです。」工事中の『女改之長屋』。内部はこれから。長屋の工事は2020年3月までに終え、翌4月に一般公開を始める予定だと。尚、『新居関所に関して面白いページ』👈リンクに出会ったので紹介させていただきます。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.11
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次可睡斎を後にして国道1号線(浜松バイパス)を利用して新天竜川橋を渡る。左手には旧東海道に架かる天竜川橋。左手に浜松駅手前にある『浜松アクトタワー』が。そして浜松城公園無料駐車場に車を駐め浜松城に向かう。スターバックスコーヒー浜松城公園店脇を歩く。そして急な坂道を登り浜松城内へ。赤い鳥居は『稲荷神社』。浜松城の本丸には『若き日の徳川家康公の銅像』という徳川家康の像が。そして浜松城天守が現れた。徳川家康は29歳~45歳までの17年間を浜松城で過ごした。有名な姉川、長篠、小牧・長久手の戦いもこの期間中の出来事で、特に元亀3年(1572)の三方ヶ原の合戦は、関ヶ原の合戦以上の激闘であったと伝えられている。家康にとって、浜松在城17年間は、徳川300年の歴史を築くための試練の時代だったと。『天守門』。再び『浜松城 天守』。昭和33年(1958年)に復興天守として天守台の上に鉄筋コンクリートで造られた。天守台より一回り小さくなっている。浜松城には天守台があるが、実際には江戸時代を通じて天守が築かれることはなかったと。天守閣下広場の顔ハメ看板(かおはめかんばん)には、左から徳川家康、井伊直虎、井伊直政が。浜松城の石垣は、ほとんが戦国時代当時のもので、自然石を組み合わせた野面積み(のづらづみ)という工法。天守閣への入場料金は大人200円。但し、70歳以上は無料とのことで、続日本100名城のスタンプを旅友のSさんに依頼する。私は、天守閣下広場で待つ。天守閣下広場からの天守門。浜松城の第二代城主、堀尾吉晴は城の中枢である天守曲輪に天守を建築したと言われているが、この天守は古図などの資料から、江戸初期には喪失していたと考えられる。天守曲輪入口の天守門は幕末まで維持されたが、明治6年(1873)に解体され、払い下げられた。「安政元年(1854)浜松城絵図」には安政地震による浜松城の被害状況が示されており、天守門でも櫓の壁が一部潰れたものの、深刻な被害を免れた事が記載されている。絵図には天守曲輪の外周を土塀が囲んでいる様子も描かれている。天守門は、門の上部に櫓が載る櫓門と呼ばれる形式がとられている。天守門のように櫓が両側の石垣上にのびる渡櫓(わたりやぐら)は、石垣を多用した西日本の城に多く見られる。天守門(復元)の概要は次の通り構造:木造・櫓門・入母屋造り・本瓦葺き建築面積:78.01m2 延床面積 56.74m2門部:正面柱間4.09m、冠木(正面梁)上端高4.12m櫓部:桁行10.91m(36尺)、梁間5.00m(16.5尺)高さ:10.28m(門下から櫓屋根の大棟上まで)土塀:造塀瓦葺き 門の両側約9mずつ天守閣下広場から浜松城公園 本丸南広場を見る。『天守閣』と『天守門』。スタンプを依頼した旅友は天守最上階の展望台に。続日本100名城のスタンプを頂きました。天守閣の下部には石垣の上に張り出した『石落とし』が。登ってきた敵に石を落としたりして攻撃するための仕組み。天守閣の屋根には鯱瓦が。これは本丸に残る銀明水という『井戸』。「この井戸は、銀明水と呼ばれていたという。浜松城には、天守台に一つ、天守曲輪の埋門(うずみもん)のそばに一つ、本丸に一つ、二の丸に三つ、作左曲輪に四つ、計十本の井戸があったという。天守台の井戸は、再建の時に残し、今は天守閣の地下室にある。直径一・三m、深さは現在一mほどになっており水はない。」井戸の中を覗く。天守台そして天守閣を別の角度から。幟には『三つ葉葵』。この日は平日の為か、天守閣の展望台には観光客の姿は少なかった。天守台の石垣にはかなりの隙間が。割れてしまった石も。一見崩れやすいように見えたが、奥が深く内側に小石や砂利を詰めてあるため、水はけもよく堅固であると。算木積みはされておらず、叩き割ったままのゴツゴツした石がそのまま積み上げられた野面積み。かなり独特な雰囲気だ。主要な石材は浜名湖北部産の堆積岩の模様。『八幡台』。天守台の北西隣にある石垣で、天守台よりも高い。かつては城を守る神社が祀られていたと。『ようこそ出世の待ち 浜松へ』今の私には、必要ない文字列。浜松城公園 入口。『浜松市戦災被爆者慰霊碑』。「昭和十六年(一九四一年)十二月八日太平洋戦争に突入したわが国は緒戦に勝利を収めたもののやがて戦況は逆転し同二十年八月十五日遂に降伏のやむなきに至った、この間浜松市は三十回余りに及ぶ空爆艦砲射撃を受け市の大半が廃墟と化し死傷者も八千人を越えた。特に昭和二十年六月十八日の敵機による焼夷弾投下は熾烈を極め市の中心部は一瞬にして紅蓮の炎に包まれた恐怖の一夜が明け死を免れた人々が肉親を求めて彷いあるいはあとかたも無いわが家の跡を茫然と眺める悲惨な姿は言語に絶するものであった、しかし戦争が終わってすでに三十四年戦前をはるかに越える豊かで平和な暮しは人々をしてその念頭から死の街と化した郷土の惨状や往時の苦難やまた戦災死者の方々への痛恨の情を日ごとに稀薄なものにしていく、かかる時市民の間からこれを何らかのかたちで後世に遺そうとの議が興り市各界の方々からも深いご理解による浄財が寄せられここに浜松市戦災被爆者慰霊碑を建立して悲惨な戦争の絶滅を期し三千有余名の戦災死者のご冥福と世界の恒久平和を祈念するものである」『浜松城公園歴史ゾーン 整備計画』浜松城公園歴史ゾーン整備計画が現在進められている最中。井伊直虎、直政と徳川家康についての解説もパネルに展示されていた。そして国道1号線・浜松バイパスを浜名湖に向かって進む。前方左手には雲の間から夕日の光が放射状に。車窓からの夕日を楽しむ。浜名バイパスを『浜名大橋』に向かって進む。『浜松市西部清掃工場』。雲の合間から陽光が刻々姿を変えながら。『浜名大橋』から、浜名湖の海水の出入り口で、遠州灘が繋がっている今切口手前から今切新居堤(今切口東堤)付近を見る。前方に渥美半島の山々の姿が。そして新居弁天ICで浜名バイパスを降り、海浜公園駐車場に車を駐め、徒歩にて浜名バイパス下を潜り海岸まで歩く。西の空は、だんだんとオレンジ色に染まり始めて来た。『浜名大橋』が見える浜名湖方面には未だ青空も。5月24日に旧東海道を歩いた際に、舞阪近くから見た『浜名大橋』構造形式は、PC5径間連続有ヒンジラーメン箱桁橋である。橋梁全長631.8m、有効幅員9.0m。最高地点は海抜31 m。中央支間長は240 mにおよび、桁橋としては建設当時には世界最大支間であり、2004年(平成16年)の鳥取県境港市と島根県松江市との間にかかる、江島大橋開通まで日本最大の支間長を誇った。 浜名湖および遠州灘の海岸線沿いにあるため、工事および耐震の関係上大きな構造になっている。 弁天島からの眺望は非常に雄大で、ライトアップをしようという意見もあったが、近隣で行われているシラス漁の関係、また、アカウミガメの上陸・産卵を妨げるという理由で不可能になっている。波打ち際近くに陣取り西の空の変化を楽しむ。しかし次第に雲の量が多くなり夕日の姿が隠れてしまう。そして更に雲が増え太陽はほぼ姿を隠してしまったのであった。そして豊橋駅前のホテルに18:30過ぎに到着し、初日の大移動は無事終わったのだ。ホテルにチェックイン後に、近くの居酒屋でこの日の反省会を行ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.10
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『潮騒橋』を訪ねた後は静岡県袋井市久能にある曹洞宗の寺院・『可睡斎』に向かう。国道150号線を利用して進み、西同笠交差点を右折し県道241号線、県道41号線、県道413号線をひたすら走る。そして前方の永楽町交差点を左折し県道58号線を『可睡斎』方面に進む。そして『可睡斎』に到着。総門の前には『徳川家康公深きゆかりの禅寺』と刻まれた石碑が。東海道一の禅の修行道場である可睡斎は悠久六百年の歴史を刻む、徳川家康が名づけた古刹。現在は、曹洞宗・専門僧堂として多くの雲水(修行僧)が修行をしている名刹。 山号は萬松山(ばんしょうさん)。総門は新築工事中であった。『秋葉総本殿 可睡斎 総門 新築工事』この日見た時は補修工事である、と思っていたが、写真を見ると『新築工事』と。何故、新築なのかとネットで調べてみると、昨年・2018年の台風24号でこの総門が全壊してしまったのだと。総門は高さと幅が共に10m弱で瓦葺きの木造、伊勢湾台風(1959年)時にも倒壊しその後に再建されたのであったが。上の写真を見ると、いかにもバランスの悪い構造。下の写真のごとく前に倒れても不思議ではないと感じるのであるが。倒壊した総門の姿を静岡新聞から。 【http://blog.livedoor.jp/pom2-pom2/archives/26293757.html】より実は以前訪ねた際に撮影した総門の姿。境内案内図。江戸時代には「東海大僧録」として三河国・遠江国・駿河国・伊豆国の曹洞宗寺院を支配下に収め、中心的な権威を持った遠州三山の1つ。本堂への階段を登る。この寺を訪ねるのは初めてと思っていたが、旅友のSさんから以前訪ねたことがあると。帰宅して、我がブログで探すと、2012年11月末の香嵐渓紅葉ツアーの帰りに立ち寄っていたのであった。しかし未だにハッキリとした記憶がないのである・・・。境内の端の参道横には『酒塚観音』と書かれた紅白の幟が並んでいた。本堂の階段下には大きな石灯籠が両側に。右側には立派な石垣が。階段を上ると正面に『山門』が。禅宗寺院の七堂伽藍の一つで、寺院の正式な入口。古くは寺の南と東西に面して3つ、あるいは参道に沿って3つ設けられたことからも三門または、山門と書かれた。また一つの門でも、空(くう)、無相(むそう)、無作(むさ)の三解脱門(さんげだつもん)の意味で三門(山門)とされた。また可睡斎のこの山門は、昭和10年(1935)に当時、建築界の重鎮、特に寺社建築の泰斗であった伊東忠太博士に設計依頼していたが、完成にまで至らず、76年の歳月を経て、伊東忠太博士の設計図を基に平成22年(2010)に落慶した。扁額には『萬松山』と。「金剛力士は、仏教の護法善神(守護神)である天部の一つ。開口の阿形像と、口を結んだ吽形(うんぎょう)像の二体を一対として、寺院の表門などに安置することが多い。一般には、仁王(本来は二王と書く)の名で親しまれている。彫刻師は岐阜県美濃の大橋祐瑞師。日本では寺院の入口の門の左右に仁王像が立っているのをしばしば見かける。像容は上半身裸形で、筋骨隆々とし、阿形像は怒りの表情を顕にし、吽形像は怒りを内に秘めた表情にするものが多い。こうした造形は、寺院内に仏敵が入り込むことを防ぐ守護神としての性格を表している。」向かって右手に阿形像。左手に吽形像。山門をくぐっていると、天井には鮮やかな方位板が。しかもこれ、方位や干支、そしてその方向にある町や山まで何里あるのか、が書かれていたのであった。『山門』案内板。「禅宗寺院の七堂伽藍の一つで、寺院の正式な入口。古くは寺の南と東西に面して3つ、あるいは参道に沿って3つ設けられたことからも三門または、山門と書かれた。また一つの門でも、空(くう)、無相(むそう)、無作(むさ)の三解脱門(さんげだつもん)の意味で三門(山門)とされた。また可睡斎の山門は、昭和10年(1935)に当時、建築界の重鎮、特に寺社建築の泰斗であった伊東忠太博士に設計依頼していたが、完成にまで至らず、76年の歳月を経てこの度、伊東忠太博士の設計図を基に平成22年(2010)に落慶した。金剛力士は、仏教の護法善神(守護神)である天部の一つ。開口の阿形像と、口を結んだ吽形(うんぎょう)像の二体を一対として、寺院の表門などに安置することが多い。一般には、仁王(本来は二王と書く)の名で親しまれている。彫刻師は岐阜県美濃の大橋祐瑞師。言語は「金剛杵(こんごうしょ、仏敵を退散させる武器)を持つもの」の意。日本では寺院の入口の門の左右に仁王像が立っているのをしばしば見かける。像容は上半身裸形で、筋骨隆々とし、阿形像は怒りの表情を顕にし、吽形像は怒りを内に秘めた表情にするものが多い。こうした造形は、寺院内に仏敵が入り込むことを防ぐ守護神としての性格を表している。」右手にあったのが『瑞龍閣』。木造二階建、妻入り、入母屋造桟瓦葺で下屋を廻らし、正面に唐破風玄関を構える。一階は大振りな座敷飾を備えた六間取、二階は大広間の周囲に畳廊下を廻らし、各室ごとに異なる主題に因む欄間や絵襖で華やかに飾る。規模雄大で優美な内装をもつ迎賓施設。『本堂』が正面に。可睡斎は聖観世音菩薩(しょうかんのんぼさつ)をご本尊とし、高祖承陽大師(こうそじょうようだいし)と太祖常済大師(たいそじょうさいだいし)を両祖とすると。『総受付』。境内左手には『輪蔵』が。現在の秋葉信仰の秋葉三尺坊大権現を祀る。「輪蔵とは、仏教の法宝である経典(総称を「大蔵経」または「一切経」と称す)を収め置く、寺院建築において古来より重要視されてきた堂宇であり、由緒名刹寺院には欠くことのできない大切なものです。可睡斎の輪蔵は、平成18年の伽藍修復工事の一環で移築した際、建築当時の棟札が出てきた。棟札の記述によると、輪蔵建築の発願者は、可睡斎48世日置黙仙禅師、後の大本山永平寺の第66世貫首猊下である。日置禅師の意志を受け継ぎ、大正8年輪蔵を上棟したのは、可睡斎49世秋野孝道禅師、後の大本山総持寺独住7世貫首猊下であります。輪蔵を考案したの傳大士(ふだいし)様(中国南北時代、斉の東陽の人 497年から569年)は、明るい将来には、「大蔵経」に親しむにありとして、当時、文字を知らぬ人、修学する環境にない人々にも、広く仏教と縁を結ばせる為に、輪蔵(8角の書架が中心にある軸で回転できるもの)を考案したと伝わる。扁額には『可睡斎輪蔵堂』と。「輪蔵」を時計回しに1回転させると、「大蔵経」を修学するのと同じ功徳を得られるとされ、経蔵に対する信仰が深まった。」と。再び『本堂』正面に。『本堂』への階段の途中から。扁額には『護国殿』と。ズームで。『坐禅堂』。右手に『五重塔』、左手に『慈母観音』。『坐禅堂』は文殊菩薩を祀る。修行僧の坐禅及び生活の場所。坐禅体験をすることができるのだと。『可睡斎の由来』。11代目の住職仙麟等膳(せんりんとうぜん)和尚は、幼い徳川家康とその父を戦乱の中から救い出しかくまいました。その後、浜松城主になられた徳川家康は、親しく和尚を招いて旧恩を謝し、その席上でコクリコクリと無心にいねむりをする和尚を見て徳川家康はにっこりせられ「和尚我を見ること愛児の如し。故に安心して眠る。われその親密の情を喜ぶ、和尚、眠るべし」と申されました。それ以来仙麟等膳(せんりんとうぜん)和尚は「可睡和尚」と称せられ、後に寺号も東陽軒から「可睡齋」と改められました。また、仙麟等膳和尚の時代、徳川家康公の帰依を受けて、天正11年(1583年)に東海4ケ国(駿河、遠江、三河、伊豆[1部])の僧録司となりました。『位牌堂』。『開運大黒殿』。全国の秋葉信仰の総本山となる『秋葉総本殿』の『御真殿』。秋葉総本殿は、日本で唯一の火防パワースポット。可睡斎(かすいさい)は、多くの雲水(修行僧)たちが修行をする曹洞宗の専門僧堂であるとともに、秋葉三尺坊大権現さまの御身躰を祀る火防(火伏せ)をはじめ、人々の幸せを祈願する一大道場として知られています。『秋葉三尺坊大権現』階段中程の両脇では『天狗像』が睨みをきかせていた。こちらは階段右の烏天狗。今から千三百年の昔、越後蔵王権現堂の十二坊の一つである三尺という僧坊で厳しい修行を重ね、秘密奥義を極めて神通力を得、観世音菩薩三十三化身の一つ。迦褸羅身(カルラシン)を現じられた。こちらは階段左の烏天狗。『御真殿』。扁額は金色に輝く『秋葉総本殿』の文字が。『秋葉総本殿 可睡斎』。『秋葉三尺坊大権現』と書かれた大きな提灯。『威徳殿』と書かれているのであろう。可睡斎御真殿「秋葉總本殿」に祀られている秋葉三尺坊大権現は、大天狗や背に翼を持つ烏天狗の姿で表されることが多く、御真殿内の天井や梁には奉納された天狗や烏天狗の面がたくさん掲げられていた。ズームで。赤い顔に長い(高い)鼻が天狗、嘴がカッパに似ているのが烏天狗。天狗を描いた凧も。天井。『御真殿』前から階段下を見る。こちらが『不動尊奥之院 出世六の字穴』方面入口。秋葉山の御真殿から奥の院へ向かう山道に徳川家康にまつわる「出世六の字穴」があります。戦国時代、徳川家康は武田信玄との戦いにおいて遠江・森・袋井方面へと攻めてきた武田勢に追われ、この寺のほら穴に隠れて命拾いをした。その後、家康は浜松城主となり、やがて駿河城、江戸城などを築き国を平定し、江戸幕府を開いて将軍となった。その出世の故事になぞらえ、当齋のほら穴は、家康公の威徳を称えていつしか「権現洞」と、また「出世六の字穴」とも呼ばれるようになった。『秋葉総本殿三尺坊大権現』と書かれた大きな幟。参道脇には木製の超特大一本歯の下駄が。保存されている『鬼瓦』。『遠州三山紅葉」めぐり』のポスター。三山とは法多山、油山寺、そしてこの可睡斎。山門前の境内にあった『おさすり地蔵』。一さすりで福を招き二さすりで徳を授かり三さすりで満足を戴くと言うことで、どんどんさすらないといけないのである。そして帰路の右手にあったのが『活人剣碑』。碑は東京芸大学長で金工作家の宮田亮平氏が制作。高さ4・4mの銅・ステンレス製で、高さ2.1mの基壇に据え付けられていた。『甦った「活人剣」』『活人剣』は、日清講和条約交渉時に、清国全権大臣李鴻章が暴漢に襲われた事件に由来する記念碑である。この事件は当時、国の威信を揺るがす大事件として知られている。初代の活人剣碑は1898年に可睡斎に完成した。日清戦争集結に向けた下関条約交渉時に暴漢に銃撃された清国全権李鴻章を陸軍軍医総監佐藤進が救った際、李から軍服帯剣の理由を問われた佐藤が「これは人を生かす活人剣だ」と答えた逸話に基づく。戦争犠牲者の慰霊と平和祈願を目的とし、日本を代表する彫刻家の高村光雲が制作したが、第2次世界大戦中の金属供出で失われていた。市民団体「袋井まちそだての会」と、佐藤が第3代堂主を務めた学校法人順天堂、、可睡斎の3者が再建委員会を設立し、市民に募金を呼びかけて再建したのだと。治療にあたった佐藤進陸軍軍医総監と負傷した李鴻章が互いに信頼する間柄となり、親交を深めたことは殆ど伝えられてこなかった。それが、それが今回「活人剣」碑に刻まれていることが分かり、改めて光を当てることができたのだと。そして階段を降りようとすると、下から法螺を吹きながら階段を上る修行僧の一団が。そして山門を潜る。老僧の姿も。『白山堂』。永平寺開祖道元禅師が宋の天童如浄禅師につて開悟され帰朝される前夜、碧巌録を筆写していると、白山妙理大権現が現れ助勢された(一夜碧巌)禅師はその奇瑞を歓び帰朝後終生白山妙理大権現を祀られたと。『弁天堂』。可睡斎の弁天様は、水行池から放生池を経て水が流れる水路のほとりにこの弁天堂が建てられここに祀られているのだと。『酒塚観音』案内板。途中のこの石碑は?『酒塚観音』の紅白の幟。少し登った所にひっそりと、『酒塚観音』。お酒を飲む方は、ぜひお参りをとの事。『酒塚観音』。御朱印をいただきました。帰りに烏蒭沙摩明王を祀る『大東司(トイレ)』の『見学』に行くつもりであったが忘れてしましました・・・・・・・残念!!よってネットから写真を。 【http://www.teradanet.com/blog2/%E5%8F%AF%E7%9D%A1%E6%96%8E%E3%81%AE%E3%80%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B8%80%E3%81%AE%E6%9D%B1%E5%8F%B8%E3%80%8D1280】より ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.09
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次横須賀城を後にし、戻る形になったが『潮騒橋』に向かって進む。車窓から目に入るのが、地域独特の強風「遠州の空っ風」を利用した風力発電の為に設置されている巨大な風車群。『高松川水門』とその後ろに巨大な風車群。菊川左岸支川の高松川の合流点に、菊川本川による洪水や海からの津波・高潮による高松川への逆流防止施設として、平成4年度に高松川水門を建設したのだと。潮騒橋があるのは静岡県掛川市国安。旅友のSさんから静岡県掛川市に「逆アーチ型」の珍しい橋があるとの情報を聞き向かったのであった。静岡県道376号浜松御前崎自転車動線(太平洋岸自転車道)の自転車歩行者専用道路橋で、世界初の連続上路式PC吊床版橋として、1995年(平成7年)に完成し、1994年(平成6年)に土木学会田中賞、PC技術協会賞、静岡新聞社賞を受賞した。吊床版橋として国内最長を誇る。遠州灘が見渡せる眺望で有名。 まさに逆アーチ型!潮騒橋の構造形式は、4径間連続上路式PC吊床版橋という世界的にも例を見ない新しい構造形式の橋で、吊床版橋としては日本国内最長の橋であると。この橋は長さ232m、幅3m、近くのマリーナに出入りする船舶が橋の下を通過する為、航路高は9.5mも確保されていると。ちなみに、上路式吊床版橋は吊床版の上に鉛直材を介して路面となる上床版を載せた構造の『吊床版橋(つりしょうばんきょう)』であると。『橋の概要』。世界で唯一のアーチが4つある『吊床版橋(つりしょうばんきょう)』であると。大東総合運動場手前の風力発電設備。汚水マンホール。2005年、旧大東町は掛川市、小笠郡大須賀町と合併、掛川市の一地区となった。マンホールには、「潮騒橋」と「町の木・松」「町の花「水仙」、それに町章が描かれていた。潮騒橋に近づいて。潮騒橋の特徴。PCとはプレストレスト・コンクリート (Prestressed Concrete) の略称。Pre(プレ)前もって、stress(負荷)をかけるという意味から、直訳すると「あらかじめ応力を与えられたコンクリート」となります。PCの技術を用いることによって、コンクリートの最大の弱点(圧縮には強いが引張には弱い。)を克服することができるのだと。吊床版橋の日本国内実績表。潮騒橋は静岡県建設技術センターにより設計され、住友建設・ピーエス・若杉組JVにより1995年に完成。橋梁として高く評価されており、土木学会より土木学会田中賞作品部門が授与されているのだと。潮騒橋は1級河川『菊川(きくかわ)』に架かる橋。『菊川』は静岡県掛川市東山の粟ヶ岳周辺に源を発し南流。途中菊川市の中心部を縦断し、掛川市国安から遠州灘に注ぐ。24の支川とともに菊川水系を構成している。古代においては大井川は(古大井川)の流路のひとつとして大井川とつながっていたが、その後上流から運ばれた土砂の堆積と地盤の隆起により牧之原台地が形成され、これにより大井川が北に進路を変えたために大井川から分離してできた川であると考えられているのだと。橋は幅3mで歩道橋の如し。潮騒橋は、太平洋岸自転車道の菊川河口に掛かっていて、歩行者と自転車専用の橋。堤防の階段を下りて橋の下から見上げてみると、吊橋は上から吊ってある橋ばかり見て来たので、橋の下側をこの迫力満点のアーチ部分が支えている事に不思議さと違和感を感じてしまったのです。目の前には遠州灘が180度拡がっていた。高い橋の上から眺められる雄大な大海原の景色は実に最高。 橋の上の旅友の姿。高いところは嫌いなはずなのにブログ取材は精力的。それとも「山羊や煙」と仲良しなのであろうか??(笑)晴れた日には、橋のたもとにちょうど太陽が沈んでいくのが見どころであると『ネット』情報から。 【https://co-trip.jp/article/307931/】より菊川の上流側を見る。『高松川水門』をズームで。ところで、この様な橋の構造にどの様なメリットがあるのかは全く理解できない私である。ネットで調べてみると、この様な説明があった。『上路式吊床版橋は、図に示すように、地盤または岩盤上に固定支持された橋台1a,b又は橋脚間に、高張力の鋼材を内包したコンクリートの吊床版2を張架し、その上にほぼ鉛直な支柱3a~fを立設して上路桁4を支持する構造形式であり、この上路桁4の上側が橋面となるものである。上記吊床版2は、支間長に比べて極めて厚さが薄い部材であり、橋の軸線方向に埋め込まれた鋼材の引張抵抗力によって橋台又は橋脚の間にたわみ(サグ)を生じた状態で吊支持される。吊床版橋は、橋台または橋脚間に張架された吊床版の上面を橋面とするものが一般的であるが、このような構造では吊床版のサグによって橋の軸線方向に大きな勾配ができ、車輌等の走行には適さない。このため、このような吊床版橋は主に歩道橋に採用されている。これに対し、上路式吊床版橋は上路桁を有するので縦断勾配を任意に設定することができるとともに、サグを大きくすることができるので吊床版に作用する張力を小さく抑えることができ、吊床版内に配置する鋼材及び吊床版を支持する橋台のアンカー等を低減して橋全体の構築費用を少なくすることが可能となる。また、このような構造形式は、一般的な桁橋等を比べても、断面が小さい部材で構築することができ、支保工、ケーブルクレーン、大型の重機などを使用せずに急速施工ができるため、積雪量の多い寒冷地における渓谷等の施工条件が極めて劣悪な場合にも合理的な構築ができるという特徴を有している。』と。 解ったような、解らないような・・・・・。上側にアーチがある通常のアーチ橋と比較すると、どの様なメリットがあるのでしょうか?鉄骨構造ではなく、外面的にはコンクリート構造で、ただ、重しをぶら下げているだけにしか思えない化学屋??なのです。全くの素人の私が理解できるように、どなたか、もっともっと易しく説明していただける方の書き込み、ご指導をお待ちしています。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.08
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次吐月峰柴屋寺(とげっぽうさいおくじ)を後にし、次の訪問場所の『諏訪原城跡』に向かって進む。国道1号線を進み、島田金谷バイパスの新大井川橋を渡る。そして、途中折れる道を間違ったが何とか『諏訪原城ビジターセンター』に到着。時間は12:08。続日本100名城に選定された国指定史跡諏訪原城跡。今年の3月23日に、ガイダンス施設「諏訪原城ビジターセンター」がオープン。施設には諏訪原城内の杉やヒノキを一部使用している。ところがこの日は『休館日』。続日本100名城スタンプを頂きに訪ねたのだが・・・・。『諏訪原城ビジターセンター』横に『屋外の城内入口にもスタンプあります』の表示板を発見する。あったあ!!スタンプを何とかGET。『国指定史跡 諏訪原城跡』。この場所は今年の4月3日に訪ね『ブログアップ済み』👈リンク。そして次に訪れたのは、これも続日本100名城の『高天神城』のスタンプの置いてある静岡県掛川市下土方267−1にある『大東北公民館』へ。『ようこそ 高天神城へ 続日本100名城 公式スタンプはこちらです』高天神城の絵図。この高天神城跡も今年の5月22日に訪ね『ブログアップ済み』👈リンク。スタンプを押す旅友。スタンプを頂きました。掛川市二の丸美術館にて、展覧会『難攻不落の山城 高天神城と 江戸の華 横須賀城』が行われていると。「掛川市内に古代から近代にかけて作られてきた様々な城のうち、戦国時代から江戸時代にかけて重要な役割を果たした高天神城と横須賀城を紹介します。高天神城は、徳川と武田が雌雄を決するまで攻防が続けられた戦乱の城です。横須賀城は高天神城攻略を目的とした徳川の付城として築城された後、江戸時代には横須賀藩を治める政治の中心として明治時代までその役割を全うした城です。平成30年度展覧会「掛川城と高知城 山内一豊と歴代城主ゆかりの遺品」より継続し、郷土の戦国から江戸時代に焦点を当てた展覧会です。また、駿府城・掛川城・横須賀城出土瓦も特別展示します。」と。そして次に急遽『横須賀城跡』を訪ねることに。県道38号線を進む。掛川市 大須賀浄化センターの風力発電装置であろうか。そして『横須賀城跡』に到着。戦国時代末期、この地方は西の徳川勢力と東の武田勢力との境界地帯となって攻防が続いた。天正6年(1578年)徳川家康は家臣の大須賀康高(初代城主)に命じて高天神城攻略の拠点として横須賀城を築かせた。天正9年(1581年)高天神城は落城と共に廃城となり、横須賀城が遠州南部の拠点として位置づけられた。以後、明治維新で廃城となるまでの288年間20代の城主を数える。明治元年(1868年)20代城主西尾忠篤は明治維新の動乱のなか、安房国花房(現千葉県鴨川市)に移され、横須賀藩は静岡藩に含まれることとなった。横須賀城は明治2年8月に廃城。さらに明治6年には城内の土地、建物、石垣、樹木まで民間に払い下げられたが、城跡消滅の危機に住民から保存の声が上がり、昭和56年5月8日付けで国の史跡に指定された。『国史跡 横須賀城跡』。「初期段階の横須賀城の主郭部分と考えられる松尾山と本丸は、小笠山丘陵の先端部に山城として築かれ、近世中期までに二の丸等の平城部分が拡張付加されて、現在の横須賀城が完成したと考えられている。近世中期までは城の手前まで海が深く入り込み、三方が入江と沼や深田に囲まれた天然の要害の地であった。また、この入り江には横須賀湊(みなと)があり、物流の拠点にもなっていた。築城当時、この入り江は同じ市内にある掛川城の外堀となっている逆川の河口だったと考えられており、当時、横須賀城と掛川城は船で直接行き来することができたと考えられている。掛川城が陸の大動脈東海道の押さえであったのに対し、横須賀城は小笠山の南を通る浜筋道の押えであると同時に海上交通の押えであったと考えられる。」と。横須賀城(別称松尾城)は、平山城として、山城から平城に移る中間期の特徴を備え、中世城郭と近世城郭のふたつを併せ持っている。また、普通ひとつしかない大手門が、この横須賀城には東西にあり「両頭の城」といわれたほか、「玉石積み」とよばれる丸い河原石を用いた石垣も、特徴としてあげられると。天竜川より運ばれた玉石垣を用いた築城法である。見える場所は全て「玉石積み」とよばれる丸い河原石を用いた石垣。『本丸南下門跡推定値の遺構』。「この区域は、天守台方面へ至る玄関のような重要な部分に当たり、自然の尾根や谷を巧みに利用して門や塀などの施設により厳重に固められていた。一帯は平成3年度と4年度に発掘調査が行なわれ、その成果と当時の絵図などの資料を基に、平成7年度から平成8年度にかけて、復元整備工事が行われました。」全て発掘済みの後、埋め戻されたのであろう。西の丸方向。天守台・土塁・城跡碑。再び風力発電をズームで。『本丸跡土坑群』。土坑は様々な用途で使われる穴で、発掘調査では17~18世紀の陶磁器が出土したと。『横須賀城阯』碑。『天守台跡』。江戸時代には三層四階の立派な天守があったようだが、1707年の東海地震で崩落してからは再建されなかったのだと。『天守台の遺構』。「横須賀城の天守は建て坪40坪余、4層の建物と記録されています。ここからは礎石と礎石を抜き取った穴がおおよそ2mの間隔で碁盤目状に27箇所検出され天守跡と考えられます。天守台周囲には低い石垣があり、東南隅には入口と考えられるスロープがあります。建物跡東側には、砂利敷きされた平滑面があり、北側には防御のため土塁がありました。天守台の周囲からは天守に使われた瓦が多量に出土しており、西側からは鯱瓦の頭部が、南側からは尾の部分が出土しました。」『天守台の遺構』。「横須賀城の天守は建坪40坪余、4層の建物と記録されている。ここからは礎石と礎石を抜き取った穴がおおよそ2mの間隔で碁盤目状に27箇所検出され天守跡と考えられます。天守台周囲には低い石垣があり、東南隅には入口と考えられるスロープがあります。建物跡東側には、砂利敷された平坦面があり、北側には防御のため土塁がありました。天守台の周囲からは天守に使われた瓦が多量に出土しており、西側からは鯱瓦の頭部が南側からは尾の部分が出土しました」天守は残っていませんでしたが、天守台から天守の規模を実感できたのであった。史跡・横須賀城跡復原模型。本丸周辺。二の丸、西大手門側。『横須賀湊と横須賀城』。「江戸時代中頃まで、城のすぐ前から北西裏にかけて遠州灘から深く入り込む入江があって、横須賀城を天然の要害としていました。入江には横須賀湊があり、大きな船も寄港し水上交通と物流の拠点となっていました。また、この入江と外堀を区切る形で中土居と呼ばれる土手があり、横須賀から袋井に通じる街道となっていました。小笠山を挟んで立地する掛川城が、陸の大動脈東海道の押さえであったのに対し、横須賀城は海辺の道と海上交通の要衝である遠州灘の押さえとして重要であったと考えられます。城前のこの入江は、宝永4年(1707)の宝永大地震による地盤隆起によって干し上がり横須賀城周辺の様子は一変するとともに湊も使えなくなり、横須賀城と城下町は軍事と経済面で大打撃を受けたと考えられる。湊が使えなくなった以後は西方の太田川河口の福田湊まで運河が造られて小舟が行き来しました。」『演習横須賀城歴代城主』。『横須賀城の大きさなど』、『横須賀城の歴史』。「戦国時代末期この地方は西の徳川勢力と東の武田勢力との境界地帯となって攻防が続いていました。天正2年(1574)遠江国の要である高天神城が武田氏の手に落ちました。天正8年(1580)徳川家康は、家臣の大須賀康高に命じ高天神城を奪還するための拠点として横須賀城を築かせた。康高が初代城主となり、以後、明治維新に廃城となるまで288年20代の城主を数えました。」『本丸南斜面中断の遺構』。遠くに遠州灘が。本丸南下二の門跡を上から。この二の門は城内で最も大きな櫓門であったと推定されている。さらに発掘調査では、門の台座石垣の基礎となる石の列や虎口につながるスローブ状の石段が出土したと。丸石の石垣は他でも見た記憶が無いのではと。黒い石垣の石は発掘されたものであろうか?こちらは天守への階段。彼岸花が咲いて。見事な玉石垣。本丸の東側の斜面。河原石だけで作られている、他の城跡では見られない石垣の形状。日本の城ではないような錯覚を。『三日月池北側中断の遺構』。本丸南側の遺構。虎口に向かって右手の台座石垣には、雨水などで石垣が崩れないようにした排水溝の暗渠(あんきょ)が設けられていた。その上にある赤茶色の石は発掘調査で出土した石らしい。現在は危険防止のため暗渠の口を扁平な石で閉じられていた。それにしても、この『横須賀城』も続日本100名城に選ばれても良かったのではとも。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.07
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次次に訪ねたのが『吐月峰柴屋寺(とげっぽうさいおくじ)』室町時代、連歌の指導者であった禅僧の宗長が草庵を結んだことに始まり、今川氏や徳川氏といった時の有力者に庇護されつつ今に至る歴史ある寺であると。吐月峰の名は、その庭園から見える月が裏山の竹林より急に姿を表す様に見えた為、"峰が月を吐く"ことからその名が付いたのだとか。その名の通り、裏には立派な竹林を配した庭園があり、拝観料を払って見学が出来た。東山、天柱山、丸子富士など美しい自然を取り入れた借景園は国の名勝・史跡に指定「吐月峰紫屋寺は、今川六代当主義忠と七代当主氏親に仕えた連歌師・宗長が、永正元年(1504)五十五歳で草庵を結び余生をおくったところである。この頃は,禅宗の影響で孤独閑寂の生活を楽しむことが流行し、宗長自身もここに京都銀閣寺を模した庭園を築き、四季の風物を眺めて暮らしていたという。風雅な庭園は、本堂の正面はるか南方にある。“丸子富士”や、庭から西方にそびえる“天柱山”などの美しい自然をたくみに取り入れた借景園と、庵の背景となる枯山水の庭園は国の名勝・史跡に指定されている。庵の前庭には、北斗七星をかたちどって配置した“七曜石”や宗長が月の出るのを座って待ったという“月見石”などがある。その月見石の背後に師の宗祇と並んで宗長の墓がある。当寺は、京都の嵯峨から移植したという竹林に囲まれ、宗長の手工に始まるという竹細工が今も民芸品として即売されている。なお、寺宝に後水尾天皇御真筆の短冊、足利義政から賜った芦屋釜(文福茶釜)、頓阿法師作柿本人麿像及び一節切(ひとよしぎり)の笛などの文化財が保存され、公開されている。」名勝及史跡『柴屋寺庭園』。柴屋寺の山門には『文福茶釜の寺』と。昔話によく聞いた「分福茶釜」は群馬県館林市の茂林寺の茶釜。汲んでも汲んでも湯が付きないので不思議に思ったら狸の化身だったと言う話だ。ここ柴屋寺の「文福茶釜」は、足利義政公が茶を点てる時に使った言われる静岡市伝説ですが門外不出であると。山門横には大きなモミジの木があり、紅葉シーズンには風情を感じる光景を楽しめそうであった。句碑。たなびくや 千里もここの 春霞 氏親梅匂ふ かげしたいつつ 柴屋寺 宗長永正元年(1504)9月、今川氏親が関東に出陣の折、三嶋神社に願をかけ、凱旋の後 宗長が千句詠んだ「三嶋千句」の碑にも歴史を偲ぶものが。『山門』。「天柱山 吐月峰柴屋寺 由来静岡市駿河区丸子泉ヶ谷にある柴屋寺は室町時代の中期永正元年(1504年)連歌師柴屋軒宗長が草庵を結んで閑居(かんきょ)した所であって吐月峰の名によって天下に知られた天下の名勝であります。この泉ヶ谷の地は応仁戦乱の頃持舟、宇津山、賤機山などと共に駿府の外城として丸子城があり今川氏親は今川氏の内訌(ないこう;内乱)の難をこの丸子城にさけて十余年を過ごしたのであります。現在の柴屋寺は当時の丸子城内の一部であり、青年連歌師宗長は氏親ともに暫くこの城内にあって自然の風詠に戦塵を忘れたと伝えられています。氏親は駿府城に帰って(長享元年・1487年)国守となった後もしばしば柴屋軒をたずね、なお公財を捨てて堂宇を建て始めて柴屋寺と称えたのであります。 徳川家康はこの寺に朱印地を賜い堂宇の朽ちるを惜しんで懇ろに修復したのであります。その庭園は宗長が自ら禅味と詩魂を打ちこんで築いたものといわれ、本堂の西に小池を造り東北方から湧出する岩清水を引いてこれに注ぎ池畔には樹石を配して西方にそびえる天柱山を巧みに取入れた借景庭園であります。」 『吐月峰柴屋寺由来略記』。以下抜粋。「吐月峰柴屋寺の庭園は宗長法師自作にして京都東山銀閣寺の庭園を擬したるものなり。東方には東山の月、園中、宗長法師の月見石あり、南方丸子富士を望み、西北には天柱山あり。これらはすべて庭園の築山なり。宗長法師閑居以来月の名勝地となる。常に文人墨客の杖を曳かれたる勝地なり。昭和11年9月文部省より静岡県名勝及史蹟庭園に指定せらる。」山門を入ると右手にあったのが『吐月峰柴屋寺 保存顕彰會』記念碑。事務所で拝観料300円を支払う。寺の住職夫人?が宝物拝観所を案内してくれた。史跡庭園宝物拝観所入口。風雅な庭園は本堂の正面はるか南方にある「丸子富士」や庭の西方にそびえる「天柱山」など美しい自然をたくみに取り入れた借景園と、庵の背景となる枯山水の庭園は、国の名勝・史跡に指定されています。庵の前庭には、北斗七星をかたちどって配置した七曜石と、宗長が月を出るのを座って待った月見石などがあります。その月見石の背後に師の宗祇と並んで宗長の墓があります。柴屋寺は京の嵯峨から移植したと言われる竹林に囲まれ、宗長の手工に始まるという竹細工が民芸品として即売されています。寺宝には後水尾天皇御真筆の短冊、足利義政から賜った芦屋釜(文福茶釜)、頓阿法師作柿本人麿像及び一節切の笛などの文化財が保存され、公開されています。左手は北斗七星をかたどった池であるが、書院からだと北斗七星の様子が理解しにくい。こちらの月見石に座り正面の山にある竹林の上から昇る月を愛でたのだそう。竹がワサワサと揺れると、まるで竹が月を吐き出すかのごとく見えることから、吐月鉢柴屋寺(とげっぽうさいおくじ)とも呼ぶのだと。『座禅石』。家康公が手向けた槇の木だと。『常春松』。本堂からの丸子富士が。昔はあの山の頂上までが柴屋寺の領地とされていたのだと。周囲には竹林も。茶室近くにも小さな池が。池の先に茶屋が。『茶室』。内部は撮影禁止と。茶室の名は「待月」と。茶室に面した池泉庭園の奥には、分かりにくいが枯滝があった。庭園では、今でも毎年仲秋の名月を愛でるお茶会が開かれ多くの人が訪れると。 宝物は全てガラスケースに入れられ、これも撮影禁止となっていた。下記の如き宝物が。ネットから足利義政公より賜う「文福茶釜」。「ぶんぶく茶釜物語」は、群馬県館林市にある茂林寺の「分福茶釜」伝説が有名ですが、ここ柴屋寺の「文福茶釜」は静岡市伝説です。漢字は、茂林寺⇒「分福茶釜」、柴屋寺⇒「文福茶釜」と異なるのです。 【https://sakamichi2.exblog.jp/21720802/】よりこれもネットから。武田信玄公からの 高麗茶碗。 【https://sakamichi2.exblog.jp/21720802/】よりヲランダ製古時計。 【https://sakamichi2.exblog.jp/21720802/】より宗長は、この寺で下記の如き歌を詠んだと。そして書院の見学を終え『宝物拝観所』を外から。扁額には青字で『吐月峰』と。残念ながら庭園は散策できず、書院から座って観賞する池泉観賞式庭園の柴屋寺。国指定名勝ではあるが、植栽が豊かになりすぎ?庭園の魅力を感じにくいのは残念。ここが本堂であろうか?仏壇も確認できた。その隣の部屋には床の間らしきものも。本堂全景を見る。本堂の屋根の先にラクダの背中のような形をした天柱山(てんちゅうざん)がみえる。柴屋寺の山号(さんごう)は、この天柱山からきている。ただ、木の生長に借景となる天柱山が見えにくくなっている。御朱印を頂きました。そして、吐月峰柴屋寺より更に奥にあり、山を背にひっそりと佇む寺『歓昌院』に車で向かう。正面に『千手観世音菩薩薬師如来安置』と書かれた柱が。ここが『千手観音院』への入口。800年ほど前、奥大井小猿郷(榛原郡旧 笹間村)にあった菩薩であったが、旅の僧の 夢枕に立ち、泉ケ谷歓昌院に移りたいと切望したと。移動後、再び小猿郷に戻 された時は、様々な災厄がおこったことから、またこの地に戻り今に至るのだと。その手前には、『純粋ハチミツ』と書かれた村本養蜂店の看板が。『歓昌院』参道入口。参道の坂道を上って行く。『地蔵堂』。『うなぎ供養之碑』。静岡市蒲焼業組合が、平成7年(1995)7月に建立したと。参道左側には『五百羅漢』が。知人に似た羅漢様はいないかと。『六地蔵』。『山門』。『本堂』。室町時代に創建された曹洞宗のお寺。駿河国三十三ヶ所観世音菩薩霊場の第13 番札所であり、丸子宿の宿泊が混雑した場 合宿泊を引き受けていたと。ご本尊は千手観世音菩薩。本堂の扁額には『天桂山』書かれていた。曹洞宗 天桂山 歓昌院。右手は寺務所であろうか。この建物も昔は料理店であったのだろうか?静岡丸子の名物とろろ汁が評判の懐石料理店『待月楼』。大正八年創業、森や竹林に囲まれた約1000坪の敷地に建つ数寄屋造りの料亭が待月楼。今から約500年前の室町時代、連歌師宗長が結んだ草庵、吐月峰柴屋寺の茶室の名が「待月」であり、「待月楼」の名はその茶室に由来。贅沢な空間と時間、旬の素材を使った懐石料理と伝統のとろろ汁の組み合わせは、世代をこえて喜ばれていると。日本の伝統を伝えつつ新しい風を取り入れた空間の中で、心行くまで四季の味と、自然のもてなしを楽しめる店と。静岡丸子の名物とろろ汁を楽しみたかったがこの日も残念ながら・・・・。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.06
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次途中、国道1号線・静清バイパスの丸子藁科トンネルを過ぎて静岡市駿河区丸子にある『誓願寺』に立ち寄る。『丸子城跡~歓昌院坂 ハイキングコース』」になっている誓願寺。『戦国時代「今川」「武田」の山城、『丸子城跡(まりこじょうし)。』「この丸子城は今川・武田戦国大名によって標高一三六米の三角山を中心に尾根沿に南北五〇〇米にわたって多くの曲輪を階段状に築いてあります。今川氏の時代に築いた山城を活用し、武田氏の国家的事業をもとに武田流山城を導入し現在の丸子城を完成させたと言われています。東海道の大動脈を抑え駿府方面が見通し駿府の防衛拠点としての要城でした。自然を巧みに利用して築城された丸子城は当時の遺構がそのまま現存することでも有名です。その存度は県内中の山城随一で全国的にもあまり例を見ない貴重な歴史的文化遺産です。国の文化財に価する遺跡であると注目されています。お城といえば天守閣を想像しますが、この城は中世の山城で「砦」としての防衛拠点でした。遺構 本丸跡・木戸口・掘割・竪堀・曲輪・土塁」丸子川に流れ込む小川に架かる木橋の先に誓願寺の山門が見えた。『大鑪山 誓願寺』。山門前の白線は、決してここに車を停駐車させないためか?延命地蔵尊(右端)と太鼓坊地蔵堂(中央)。小さな祠の中の太鼓坊地蔵は、高さ約75cm。当時、誓願寺に太鼓を叩くのが得意な禅粛という修行僧がいた。だが、病弱で若くして亡くなったため、不憫に思った師匠の同寺一三世達源和尚が、世の人々の無病息災と長寿を願って祀ったのがこの地蔵である。以前は村の入り口の丘の上に、この僧の故郷である尾張国(愛知県)の方向を向けて置かれていたという。「此の地蔵尊は天明8年(1788)の建立なり。誓願寺第十三世達源和尚の徒弟禅粛首厘は太鼓坊と云われる太鼓打ちの名主然し病弱で若くして此の世を去った。達源和尚は首厘を不憫に思い世の人々が三悪趣を離れ百病根を断ち長壽であるようにと願いをこめて首厘の故郷の方向に向かって建立せしものなり」誓願寺山門。創建は建久三年(一一九二)。源頼朝が両親の追善菩提のために建立したと伝えられており、祖師堂には「武皇嘯源大禅定門」と記された頼朝の位牌が祀られている。当初は浄土宗の寺だったといい、本尊は今も阿弥陀如来である。ちなみに、現在の本尊仏は元和九年(一六二三)に寄進されたものだと思われる。天文二三年(一五五四)、今川家と武田家による丸子城の争奪戦の飛び火で誓願寺は全焼した。しかし、丸子城を押さえた武田信玄が、甲斐国(山梨県)恵林寺の快川紹喜和尚の進言によって同寺を再興し、宗旨を臨済宗に改めた。中興開山は文益瑞奎和尚。慶長一九年(一六一四)、京都方広寺の梵鐘の銘文をめぐって、豊臣家と徳川家康との間に不和が生じた。この時、申し開きのために駿府を訪れたのが、豊臣家の重臣片桐且元である。だが、家康は且元がすぐに駿府にはいることを許さなかったため、且元はしばらく同寺に滞在したという。結局、豊臣家は且元の努力もむなしく、慶長二〇年(一六一五)五月八日に大阪夏の陣で滅亡した。その二〇日後、且元も自害し、誓願寺に葬られた。現在も誓願寺に残る片桐且元夫妻の墓は、且元の甥の片桐貞昌(石州)によって立てられた。貞昌は四代将軍徳川家綱の茶華道の指南役をつとめた人物で、石州流茶華道の流祖。誓願寺の本堂裏にある回遊式庭園の作者でもある。同寺は、武田家関連の古文書や片桐且元の遺品、石州流の茶華道具などを所蔵しているほか、天然記念物のモリアオガエルの生息地としても知られている。扁額には『大鑪山(おおだたらさん、だいろざん)』と書かれていた。参道には『だるま大師の像』が。『だるま大師の像』を奉納された方の熱い思いが書かれていた。「元気に喝ッ 平和祈願頑張るぞ!!」『七転八起 だるま大師 摩訶般若波羅蜜多心経』。階段の先にあったのが『本堂』。階段上の可愛らしい像。『本堂』。本堂の正面左側の建物には花頭窓が。本堂の扁額には『誓願禅寺』と。ガラス戸の隙間から本堂内部を。本堂右の建物。寺務所内部。御朱印を頂きました。「無量寿佛」と書かれているのであろうか?本堂の先代の大きな鬼瓦。笹竜胆(ささりんどう)の紋が。竜胆は源頼朝の紋とされ、清和源氏のシンボルともされている紋。そして本堂裏の片桐且元(かたぎりかつもと)公の墓』を訪ねた。方広寺大仏鐘銘事件弁明のため、誓願寺に滞在した豊臣家重臣 片桐且元公の墓。豊臣家寄進の方広寺梵鐘に彫られた「国家安康」の文字が家康の名を二つに分断したものであり、「君臣豊楽」は豊臣家の繁栄を願ったものだ、けしからん!と徳川方が難癖をつけたあの「方広寺大仏鐘銘」事件。片桐旦元公の墓石(左)。こちらは(右)は夫人の墓石であろう。徳川家康に申し開きするため駿府を訪れ、1ヶ月近くこの誓願寺に滞在。しかし家康には会わせてもらえず、そうこうしているうちに大阪から淀君の使者として大蔵卿がやって来た。家康は大蔵卿とは面会し、安心するよう言って帰すのであった。結局、片桐は「臣下の礼」「大阪城退去」「秀頼か淀を江戸に人質」と徳川側から無茶難題を出されて大阪に帰るのであったが、大蔵卿の話と真逆の話すぎて裏切り者扱いされ、大阪城から追放されてしまったのであった。豊臣のために頑張ったのに気の毒すぎ。誓願寺の墓地。『近藤 勇之墓』と刻まれた墓石。故海軍・・・の文字があり勿論別人。本堂横から『丸子城跡』のある山を見る。誓願寺から道を隔てて前の遊歩道(東海道自然歩道)を登っていくと約15分で城の南端に出ると。稲荷神社の奥を登っていくと、 城の北東部に出る。丸子城は北部が今川氏時代、南部が武田氏時代に築城された城で、通称「北城」「南城」と呼ばれている。 それぞれの特徴がでている興味深い城であるとのことであったが・・・。境内の観音像。この赤い実の植物は何であろうか?ハマナスの実に似ているが?巨岩も境内に。美しい老松。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.05
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次「旧東海道を歩く」も5月24日に静岡県湖西市新居町新居にある『新居関』まで辿り着いていたが、その後旧満州への海外旅行そして夏場の熱中症を避けるため「旧東海道を歩く」も一時中断していたが、9月24日(火)~26日(木)まで2泊3日で新居宿~御油宿間を歩いて来た。早朝7時に茅ヶ崎に住む旅友のSさん宅をSさんの愛車で出発。空には秋のうろこ雲の姿が。国道134号線の相模川を渡る『湘南大橋』手前。富士山の山頂には小さな笠雲が湘南大橋から見えた。西湘バイパス・西湘二宮IC近くからの二子山と小田原の街そして相模湾。そして富士山の右手には巨大な幾重にも巻かれたような不思議な形の雲『吊るし雲』も出現し、神秘的な景色となっていた。『吊るし雲』は普通の雲と違い、風で流されるものではなく、同じ場所に留まっているように見えた。ネットで調べてみると、この朝は富士山周辺では、湿った西よりの風が強めに吹いていたと。この湿った風が富士山を乗り越えたり回り込んだりして、風下側に空気の波が起こり、その空気の波のところで発生しているのが吊るし雲であると。風が昇る場所で雲が出来て、風が降りる場所では雲が消えていくという現象を絶え間なく繰り返すことによって、同じ場所で雲が止まって見えるのだと。また、その前日は台風17号が日本海を通過していき、日本列島は暖かく湿った空気に覆われたことから、この朝は湿度が高く(水蒸気が多く)より赤く染まる朝焼けが見られたと。この朝の絶景は、台風が残したうれしい置き土産と言えそう。神奈川県立生命の星・地球博物館。46億年にわたる地球の歴史と生命の多様性を展示した自然系博物館。巨大な恐竜や隕石から豆粒ほどの昆虫まで、1万点にのぼる実物標本を楽しめる博物館。箱根新道を進む。七曲りの途中、箱根旧街道の石畳の下を通過。国道1号線、山中城1号トンネル手前。左手には山中城跡がある場所。国道1号線からの三島の街並み。そして奥には伊豆半島の山並み。富士山の笠雲を再び。外部からはなかなか全景を見せてくれない三島スカイウォーク。そして旧東海道に面した静岡県三島市三ツ谷新田7にある『松雲寺』に立ち寄る。この寺からは富士山の勇姿のベストスポット。1644年に本山 玉澤妙法華寺21世日叙の弟子松雲院日明が開山。1656年に創立。徳川尾張家、徳川紀伊家や参勤交代で東海道を往還する西国大名たちの寺本陣となる。幕末には、徳川第14代将軍家茂公・徳川第15代将軍慶喜公も休息する。明治時代には、明治天皇の小休息所として度々御成になられる。この寺は4月にも訪ねてていたので「その時のブログ」👈をリンクで。富士山の裾野には雲が湧き出して来ていた。『参杉明神』「昭和33年9月26日狩野川台風のため、境内の樹齢約400年の大杉3本が折損す。永年の恩に報ゆるの意を以て、神号を捧げてこれを祀る。」樹齢400年の『ナギ(梛)』の木。三島市松並木手前。そして右手に『三嶋大社』。更に国道1号線を進むと、右手の富士山は時間と共に雲に隠れて行った。そして続日本100名城の『興国寺城』に立ち寄る。興国寺城は、根古屋と青野の境にある、篠山という愛鷹山の尾根を利用して築かれている。この城は、戦国時代に関東一円を支配した北条氏の祖である伊勢新九郎盛時(北条早雲)の旗揚げの城として名高い城である。興国寺城跡案内図。この場所は、「5月22に訪ね既にブログアップ」👈リンク を済ませている。『本丸』跡は発掘調査後に埋め戻され広場になっていた。先日の台風17号?の強風で旗は無残な姿に。尾の美しいトカゲを発見。ネットで調べてみると『ニホントカゲ (日本蜥蜴)』。尻尾が青く光るなんとも美しい色合い。『興国寺城跡』「興国寺城跡は愛鷹山の山裾が浮島沼に向かって張り出した低い尾根上に立地しており、山の根を通る根方道と浮島沼を横断して千本浜へ至る江道・竹田道との分岐点にあたり、かつては伊豆・甲斐を結ぶ交通の要衝であった。城郭の遺構をよく残しているのは古城と呼ばれるこの地域で、浮島沼と谷戸に三方を囲まれ、深田足入と呼ばれる天然の泥田堀に守られていた。古城は土塁と空堀によって区切られた本丸、二ノ丸、三ノ丸の3曲輪から成る主郭部と大空堀の北側に付属する外曲輪によって構成されている。本丸北側土塁は一段高く築かれ、中央部の南面には石垣が積まれ、天守台と呼ばれる平坦部になっており、発掘調査によって2棟の建物址が検出され、礎石が残されている。西端も狭い平坦部が設けられ、西櫓台と呼ばれている。本丸は四方を土塁によって囲まれ、南は空堀で区切られていたが、現在南側土塁は崩され、空堀も埋められているが、ほぼ旧状をしのぶことができる。この部分に入口が設けられており、土橋また木橋があったと推定される。本丸の東南には土塁上に平坦部が設けられ、石火矢代と呼ばれていた。ここからは本丸土塁の裾を通って大空堀に抜ける小道が残されている。二ノ丸は土塁がほとんど崩されており、三ノ丸との境界がはっきりしないが、かつては土塁によって囲まれ、空堀によって区切られていた。南側土塁中央に入口があり升形が設けられていた。三ノ丸は南部を県道が横断し、宅地となっているが、南・東の土塁は部分的に残され、ほぼその範囲を知ることができる。かつては東南隅に大手口の虎口が設けられており、西北隅にも入口が設けられていた。周囲の深田足入と呼ばれた泥田堀はほとんどうめられているが、ところどころに小さな池や沼として残され、その思かげをしのぶことができる。」『穂見神社』。伝聞によると、安政4年巳正月に施主15人が山梨県高尾の本社「高尾山穂見神社」から分祀したとされている。安政の大地震が発生し、大津波のため塩害により凶作が続き五穀豊穣を願い、農業神である「高尾山穂見神社」を建立したとされる。『穂見神社』前から本丸跡を見る。高い土塁の上が天守台。本丸跡の遥か先には伊豆半島の山並みが。この城跡は「ぬまづの宝100選」に選ばれており、平成29年4月に日本城郭協会が選ぶ「続日本100名城」に選定されている。「続日本100名城」のスタンプを頂いて来ました。スタンプの右側には『初代城主 北条早雲碑』が。沼津バイパスからの富士山頂の笠雲。富士由比バイパス・新蒲原駅近くからの薩埵峠方面を見る。薩埵峠をズームで。ここ『薩埵峠』👈リンク は3月8日に訪ねたのであった。この日も、富士山が美しく見えれば立ち寄る事も考えたが、振り返ると残念ながら富士山の姿は完全に雲に隠れていた。展望台も見えた。興津川に架かる富士由比バイパス・興津川橋を渡る。 ・・・つづく・・・
2019.10.04
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『寒霞橋』が再び前方に。『三溪園 昔むかし 21 月影の茶屋』。「屋根は杉皮葺きであろうか、隣接した田舎家の風情にあわせた簡素な建物である。詳細は不明であるが、園遊会などの際に茶の接待などに用いられたものと考えられる。明治41(1908)年の新聞(横浜貿易新報)記事によれば障子に”白露の里 月影の茶屋”と記されているとある。今ではこの月影の茶屋も田舎家もその姿はなくなってしまったが、周辺の山里の風情は変わらずにいる。」旧燈明寺本堂の手前にあった石像・『大漁地蔵』。『待春軒』。おそばやうどんをメインに和食弁当や定番甘味等も供されていますが、名物はやはり原三溪考案という、『三溪そば』であると。『三溪園 昔むかし 22 待春軒』。「寒月庵(No.13)と同じく、もと江戸の豪商 川村伝左衛門(迂捜)が所有していたもので、栃木県大嶹(おおしま)製糸場内から移された建物。場内にあった明治12(1879)年には、アメリカ合衆国第18代大統領を務めたユリシーズ・S・グラント(1822-1885)が日光滞在中のある日ここに遊び、昼食をとったという。三溪園に移築後、この建物には”御やすみ、お茶御随意 待春軒”という案内書きがつけられ、初音茶屋(No.14)と同じ湯茶の接待を行っていたほか、さらには句会・歌会や茶会などの席としても場所を提供していたようである。」『三溪園 昔むかし 23 待春軒より横笛庵、六角堂を望む』。『三溪園 昔むかし 13 寒月庵』。「三溪が所有していた製糸場の一つ栃木県大嶹(おおしま)製糸場内から移された建物。かつては江戸の十人衆の一人といわれた赤穂藩出入りの豪商・川村伝左衛門(迂叟)が所有していた草庵で、元禄の頃(18世紀)には忠臣蔵で有名な大石内蔵助がたびたび遊んだといわれる。昭和26(1951)年伊豆山の旅館に移され、現在跡地にこの林洞庵が建てられた。」東屋の『初音茶屋』。『林洞庵(りんどうあん)』『林洞庵』1970年(昭和45年)建築。宗徧流林洞会から寄贈された茶室です。屋内には流祖山田宋宗徧筆”林洞”の板額があります。八畳の広間と四畳の小間からなっています。そして池の先に垣間見えて来たのが『旧燈明寺本堂』。本牧三之谷にある『三溪園茶寮』まで足を延ばす。『月影の茶屋』・『雁ヶ音茶屋』と粋な名前のおやすみ処。『旧燈明寺本堂』。『旧燈明寺本堂』。重要文化財、室町時代建築。燈明寺は現在廃寺となっていますが近年まで京都府相楽郡加茂町に所在した日蓮宗の寺院です。寺伝によりますと聖武天皇の勅願によって天平7年(735)に開創されたといわれています。この建物は、様式上、室町時代初期に建てられたものと推定されます。昭和22年の台風で被害を受けた後解体し保存されていましたが、昭和62年(1987)に三溪園に移築されました。『三溪園 昔むかし 24 皇大神宮』。「寒月庵(No.13)、待春庵(No.22)とともに栃木県大嶹(おおしま)製糸場内から移された建物。三溪園は、梅・桜のほかに秋草の名所としても知られ、秋にはこの皇大神宮の石段の上からフヨウやオミナエシ、ハギ、ススキなどの花野が眼下一面に眺められたという。昭和20(1945)年、空襲の爆撃により消失。現在、鳥居や石段・灯籠の一部が残るのみである。」『三溪園 昔むかし 25 皇大神宮から楠公社への道』。「園路の傍らにベンチ2基が置かれ、その背後の山すそにはススキやノギクなどが咲き乱れる。季節は秋である。三溪園の秋草は、遠く群馬県高崎から取り寄せられたもので、見ごろの季節にはこの風情を味わいに訪れる来園者も少なくなかった。ベンチの脚にデザインされた”丸に花菱”は原家の家紋である。」『三溪園 昔むかし 26 夕日ヶ岡と稲荷社』。「夕日の射す時刻に美しいながめが見られることからの名であろうか。山の斜面の中腹には稲荷社の鳥居が見える。稲荷社は、由緒など不明で空襲により消失したのか、現存しない。」『三溪園 昔むかし 27 杉の茶屋』。「名のとおり、屋根ばかりでなく壁面にも杉皮が張り込まれた建物。柱や梁などの木部も皮付きの杉材が用いられていたようで、写真からも野趣に富んだものであったことが想像される。詳しくは不明であるが、休憩所として、また催事などの際に茶の接待所などとして用いられたものであろう。空襲の爆撃により消失。」『三溪園 天満宮』。この天満宮はもと間門天神といい、三溪園にほど近い間門の旧家高梨家の先祖が本牧の丘の中腹に建てたものです。昭和52年(1977)三溪園に移されました。『天満宮』と書かれた新しい扁額。『天満宮 拝殿』。『観梅俳句大会 入賞句』。『観心橋』。大池の中にある島の四阿(あずまや)、『涵花亭(かんかてい)』。『三溪園 昔むかし 28 楠公社と観心橋』。「楠公とは、南北朝時代の武将・楠 正成のこと。社殿の建物は、もと大坂・観心寺にあったもので、楠 正成が建武元(1334)年に建立、自らの守護神・牛頭明王を祀ったと伝えられた。三溪園へ移築後は、高村光雲門下の彫刻家・米原雲海作の楠公の木彫像が安置されていたが、空襲の爆撃により社殿と楠公像はともに失われた。現在の天満宮の鳥居脇にある欠け落ちた狛犬は、楠公社があった頃からのもので空襲による破壊の痕が生々しく残されている。手前にかかる橋は観心橋で、その名は楠公社の由緒(観心寺)による。」『観心橋』から見た『天満宮』。『旧燈明寺三重塔』も見えた。島の四阿・『涵花亭』。『涵花亭』の木造ベンチには猫がのんびりと。『観心橋』を再び、その先に『天満宮』。。三溪園の入口方面に向かって進む。左手には『大池』が。『八ツ橋』を渡る。『藤棚』に向かう途中『大池』を見る。舟が静かに浮かんでいた。夕日を浴びて光る『大池』。そしてこの日((8月24日(土))の長い一日の『港・ヨコハマ』巡りの予定の全ての行程を終わり、三溪園入口からバスにて桜木町駅に戻り、地下鉄で帰路についたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2019.10.03
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『寒霞橋(かんかきょう)』が前方に。『寒霞橋』寒霞橋を渡るとすぐに現れた建物が『横笛庵(よこぶえあん)』。横笛は、高倉天皇の中宮 建礼門院に仕え、平清盛の従者である斉藤時頼(滝口入道)と悲恋に終わった女性です。 横笛が、他の人々の恋が実ることを願って、時頼から寄せられた千束の恋文で作った己の像は、 「縁結びの像」として知られていました。(2人の悲恋話については、高山樗牛による"滝口入道"という小説が有名です。)『三溪園 昔むかし 16 安置されていた横笛の像』「横笛は今から800年程前、平 清盛の娘・建礼門院徳子(高倉天皇の中宮)に仕えた女官で、平家物語には平 重盛の従者・斉藤時頼(滝口入道)との悲恋が語られている。この像はその横笛が滝口入道から送られた恋文をもって作ったと伝えられたが、現存しない。なお、横笛が出家後に住んだといわれる奈良・法華寺にも同様の像が伝わっているが、関わりなどは不明である。」『三溪園 昔むかし 17 寒霞橋と横笛庵』。「奥に見える茅葺きの建物は、今ではもう失われた待春軒。手前の風景は現在もほぼ変わっていないが、横笛庵の屋根の頭頂部には植物を植え付けた”芝棟”と呼ばれるしゃれた演出が施されている。芝棟は、山梨県から関東・東北地方にかけてみられるもので、三溪園ではアヤメ科のイチハツなどを植えていたようである。横笛庵は、落飾した(尼姿の)横笛像を安置した詫びた草庵風の建物だが、芝棟にイチハツの花が咲く初夏の一時期、あたかも髪飾りをつけた清楚な女性を思わせる装いとなった。」『三溪園 昔むかし 18 松風閣の別景』。「松風閣は当初、原家初代・善三郎が別荘として建て、三溪の代となってさらに増築が重ねられた。その規模は、本邸・鶴翔閣をしのぐものであったといわれるが、惜しくも関東大震災で倒壊、現存しない。ここから見上げるその姿は、和風木造建築が大部分で、No.12のレンガ造の玄関邸とはだいぶ異なっている。この一部に三溪の支援を受けた日本画家・下村観山の障壁画「四季草花図」の描かれた”観山の間”があった。その名のとおり、まさに松林の中にたたずむ建物である。」『旧東慶寺仏殿(きゅうとうけいじぶつでん、重要文化財)』。禅宗様で棟札に1634年(寛永11年)の銘がある建物で、徳川二代将軍秀忠の娘・千姫の寄進と伝えられている。別の角度から。鎌倉の東慶寺にあった仏殿で1907年(明治40年)に移築されました。 明治に入って寺領を失った東慶寺が維持することが困難となって手放したものと考えられている。禅宗様(ぜんしゅうよう)の特色を色濃く残す数少ない建物です。『三溪園 昔むかし 20 田舎家』。「石置き屋根の古民家で、由緒は不明。障子に古い証文や暦、子どもの手習いの反故紙を用い、入口には箕笠や鍬などを掛けるなど建物自体に趣向が凝らされていたばかりでなく、周辺にも季節の野菜を植えた畑や竹林、鶏を入れた籠や井戸などを配し、田舎の生活を疑似体験できるような演出が随所に盛り込まれていた。こうした田舎家の鄙びた風情は、三溪が最も好んだものの一つで、来客があった場合などにその接待に使われ喜ばれた。」『三溪園 昔むかし 19 六角堂』。「正式には”望仙亭”と称されたあずまやで、海や庭園内が見渡せるよう、この付近の高台に建てられた。その形状と崖上に立つ姿は、中国の山水画を思わせる風情である。当時園内には、このほか2ヵ所に同様の建物があったが、いずれも現存していない。」『合掌造・旧矢箆原(やのはら)家住宅』。1750年頃(宝暦年間)の建物。大きな茅葺屋根が印象的な合掌(がっしょう)造という屋根に特徴がある構造の民家。 岐阜県大野郡荘川村岩瀬(白川郷)にありましたが、ダム建設により三溪園に寄贈されることになり、1960年(昭和35年)に移築された。 屋根の妻側にある火灯窓や扇が彫られた欄間は要注目。内部では、古い民具の展示もおこなっていた。屋根の妻部に禅宗寺院によく見受けられる火灯窓が開けられており、格式の高さをよく表しています。さらに同じく格式の高さは軒にも見受けられ、軒の出桁を高い柱で受けて深い庇を造るいわゆる「せがい造り」が施されています。『合掌造・旧矢箆原家住宅(重要文化財)』岩瀬(矢箆原)佐助は、飛騨三長者のひとりで、飛騨地方の民謡に「宮で角助、平湯で与茂作、岩瀬佐助のまねならぬ」 (普通の農民は3人の真似ができない)と歌われるほどでした。『国指定 重要文化財 旧矢箆原家住宅』。建物に向かって右手の、農家出入口から中に入った。右手に土間があって、農作業や運搬に使う馬が体調管理するため、ここで飼われていたと。表側の広い囲炉裏のある部屋「おいえ」は家族のだんらんの部屋で、村の寄り合いも行われました。家族の団欒スペースの囲炉裏。『機織り機』であろうか?旧矢箆原(やのはら)家住宅 間取り図。ズームで。式台玄関上り口に板の間を設けた6畳敷きの玄関です。代官など身分の高い人を送迎するための出入口で、普段は使われませんでした。この奥にある間が広間になり、その広さは12.5畳あります。『ざしき(座敷)』左側の座敷は、広間、中の間、奥座敷が直列に並び、広間と奥座敷は書院造の優雅な空間。また、座敷の境の欄間には、櫂や錨、扇の透かし彫りが見られ、釘隠しにも凝った意匠の彫刻が施されていた。『おくざしき(奥座敷)』の床の間の横。広さ10畳あり、床・付書院・違い棚を置き、数奇屋風の瀟洒な空間としており、代官が泊まるという格式を備えています。右端にある上部が火灯型をした数奇屋風の障子は、付書院のものです。床柱は、正面に意図的に節を出しています。これは元禄時代、幕府が飛騨地方に檜の使用を禁じていたため、禁令を逃れるために傷材を敢えて用いたものと考えられています。『おくざしき(奥座敷)』の床の間の違い棚。扇面散らしの欄間。『櫂の欄間』山奥に建てられた建物ですが、水に所縁のあるモチーフが彫られた欄間。『錨の欄間』であろうか。『中の間』涼やかな出格子造りの窓が設けられ、柔らかな陽光が室内に充満する雅な佇まいです。広さは10畳あり、このように文机と脇息を置き、書き物をしたり本を読んだりした場所。仏間の前堂も兼ねており、中の間の正面(写真の背面)には大きな仏壇を置いています。仏壇は、1800(寛政12)年に鷲見治郎右衛門によって作られたことが判っています。浄土真宗の仏壇、お彼岸とお盆に特別公開するのだと。『ざしき』の書棚。縁側から外を見る。「だいどころ」囲炉裏 こちらには火が入ってました。『うすなわ』では味噌醤油樽、臼、石臼、農具などを保管し、冬は「むしろ」を編んだり縄をなったりしていたと。樽の大きさでその家の裕福さが分かったようです。様々な樽が。『ちょうだ』は長男夫婦の部屋でタンスや大きな長持ちが置いてあった。次男・三男の部屋はこの上の天井の低い中二階であったと。水屋 の『水舟(みずふね)』。説明書きによると、これらの展示物はこの家の生活事情に合致する道具類を飛騨地方から物色し、持ち込んだものだそうです。水舟は、明治~大正時代にブナの大木を2つ割にしてくり抜き、わらび粉を取るための沈殿槽として使っていたものです。そして2階への急な階段を恐る恐る上る。2階の大きな茅葺屋根を見上げる。梁や柱は真っ黒に煤光していた。典型的な合掌造りの光景。2階から1階からの階段付近を覗き見る。2階は昔の日用品の展示コーナーにもなっていた。『たてばた』たて糸を垂直状態に張って織る織機で、現在は「じゅうたん」など、ごく一部のみ使用と。いろいろな部品や道具も。酒樽、盆、皿も。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.02
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先程横から見えた沢に架かる石橋を渡って更に進む。緑に覆われた『十三重石塔』。『聴秋閣(ちょうしゅうかく、旧二条城移築三笠閣)』も重要文化財。緑のモミジ葉が陽光に輝く。「『聴秋閣』は元和9年(1623)三代将軍徳川家光が上洛した際に、佐久間将監に命じて京都二条城内に建立されました。当初は三笠閣という名前でした。その後これを乳母春日局に賜り、局はそれを夫の稲葉候の江戸邸内に移しましたが、明治14年(1881)には更に牛込若松町の二条公邸に移築、大正11年、三溪園に移築されました。」『聴秋閣』は内苑でも一番奥の渓流沿いに建てられ、山間の中にひっそりと現れる洒脱な楼閣といった趣きで、新緑や紅葉の頃には色づく木々とあいまって特に秀麗な姿を見せてくれると。緑のモミジ葉で覆われた楼を見上げて。外観は小さな楼閣を乗せた二層構造で、正面から見た時には中央上部に楼が突き上がり下層が横に広がっていますが、横から見た時には上下とも同じ幅になっています。さらに楼の下の主室を中心に左右非対称の異なる内部構成になっており、それに合わせて屋根の構成も変化をつけるなど、その見る位置によって様々な顔を見せる複雑妙味な建造物です。『春草廬(しゅんそうろ)』。『春草廬』は三畳台目の茶室で、後掲の月華殿と共に宇治三室戸寺の金蔵院にあり、当時は9つの窓があることから、九窓亭と呼ばれていました。有楽斎は利休十哲(りきゅうじってつ)のひとりとされる茶人だ。躍り口脇の刀掛けの踏石は稲葉と名づけ、岐阜県稲葉山より持ち来たもの、庭前の手洗石は京都嵯峨天竜寺にあったもので、夢窓国師が使用されたものだそうです。ガラス戸に映った景色も見事。春草廬からの小道の傍らには苔むした石棺などが置かれ、ここは特に奈良の風情が色濃い場所だ。『石棺』。奈良は海竜寺付近から出土した5~6世紀の石棺。それより100年以上も古い石棺の蓋古代に思いを寄せつつ進んだ先に待つ、窓が多く優しい華やかさを感じさせる小さな空間。更に緑の散策路を進む。『蓮華院』。もとは、現在の春草廬の位置にありましたが、 第二次世界大戦後に竹林にある茶室という構想のもとに現在の位置へ再築されました。 二畳中板(にじょうなかいた)の小間と六畳の広間、土間からなっています。土間の中央にある太い円柱と、その脇の壁にはめ込まれている格子は、宇治平等院鳳凰堂の古材と伝えられています。 蓮華院という名は、三溪が茶会を催した際に広間の琵琶床に、奈良東大寺三月堂の不空羂索観音が手に持っていた 蓮華を飾ったことに由来しています。『横笛庵』草庵風の茶亭で素朴ながら風趣のある建物です。 建物内に横笛の像が安置されていたことから横笛庵と称されています。 横笛の像は、戦争の際に失われました。横笛は、高倉天皇の中宮 建礼門院に仕え、平清盛の従者である斉藤時頼(滝口入道)と悲恋に終わった女性です。 横笛が、他の人々の恋が実ることを願って、時頼から寄せられた千束の恋文で作った己の像は、 「縁結びの像」として知られていました。(2人の悲恋話については、高山樗牛による"滝口入道"という小説が有名です。)『海岸門』を潜る。こちらも御門と同様に京都西方寺から移築されたものである。魔除けの桃瓦が写真左に。鬼瓦は阿吽でこちらは阿形。『松風閣展望台』に向かって進む。狭い山道。『三溪園 昔むかし 9 御谷館』。「御谷館は、もと鎌倉・鶴岡八幡宮境内に併存していた神宮寺の僧房であったといわれる建物。明治41(1908)年に移築され、来園者の休憩用にあてられたようであるが、詳しくは不明。大正4(1915)年に焼失した。」『三溪園 昔むかし 10 造成中の内苑(大正10年頃)』。「当時一般に公開されていたのは、現在の外苑部分で、内苑は原家のプライベート・エリアであった。写真では公開部分との境に仮説の塀が設けられ、その向こうに資材置き場であろうか、簡易な建物が見える。土塁を経て中央の臨春閣から上方にのびる瓦屋根は、源 頼朝の木像(現在は東京国立博物館所蔵・重要文化財)を安置した源公堂と、月華殿までの石段上に設けられた回廊の姿である。いずれも戦時中に取り払われ、現存しない。」秋にはオオスズメバチがいそうな坂道。岩がゴロゴロした場所には、木製階段が。『松風閣跡地』。『三溪園 昔むかし 12 松風閣』。「初代・善三郎が別荘として明治20年ごろに築造した建物で、その名称は伊藤博文によるものである。写真はレンガ造の玄関部分で、窓などに中国風の意匠が見られる。断崖に立ち東京湾の絶景を望むことができる松風閣は、三溪の代となり本邸・鶴翔閣が建てられると、重要な客をもてなす、いわゆるゲストハウスとして増築がなされた。大正5(1916)年には、アジア人初のノーベル賞受賞者であったインドの詩人・思想家のラビンドラナート・タゴールがアメリカへの講演旅行の途中、ここに数ヶ月間滞在し、詩「さまよえる鳥」をのこしている。また、その一室”観山の間”には三渓が支援した中でも最も好んだ日本画家下村観山が描いた「四季草花図」の障壁画があったが、大正12(1923)年の関東大震災により建物とともに消失した。」そして松風閣跡を南側に登ると展望台に着く(展望台に松風閣の名が残る)。階段を上り展望台へ。展望台から東京湾の豊浦町、本牧埠頭の景色を楽しむ。『JXTGエネルギー(株) 根岸製油所』。南本牧ふ頭のコンテナクレーンが並んでいた。手前には『首都高速湾岸線』が。『三溪園 昔むかし 11 聚星軒(じゅせいけん)』竹を編みこんだ壁など、中国風の意匠が特徴の建物。明治20(1827)年ごろ、松風閣とともに原家初代・善三郎が築造したもののようであるが、大正12(1923)年の関東大震災により倒壊し、現存しない。周辺には、中国で産する太湖石の石組みなどが今も残り、善三郎の中国趣味の一端がかいま見える。展望台を後にして、尾根道を下る。大明竹が覆いかぶさるような径を抜けると、樹々の合間から三重塔が見えて来た。三溪園のシンボルともいえる建物。そのちょっと手前、径の左側に石の仏像が置かれていた。名付けて『出世観音』と呼ばれていると。三溪園あるいは三溪と縁の深かった文化人たちの多くが、文化勲章の栄誉を受けているという事実から、なんとなく呼ばれるようになって来たようであった。そして『重文 旧燈明寺三重塔』三溪園のシンボルのように中央の山上に建つ三重塔は、京都府相楽郡加茂町燈明寺にあったものを、大正3年3月に移築したもの。1485年の建立で、関東地方では最古の塔であると同時に、移築されたものとはいえ、横浜市最古の建築物。塔の先端までの高さは24mで、全体が安定感のある優美な姿をしていると評価されています。勿論、国の重要文化財に指定されている。建築様式としては、典型的な和様と呼ばれる形式で、室町時代の特徴をよく備えていると。各層に欄干付の廻縁が設けられ、斗供を始め細部も室町のしきたりに添っている。現在関東地区に所在する木造の塔としては最古のものになるのだと。三溪園の『大池』が下方に見えた。『旧燈明寺三重塔』からの本牧の町並みの眺め。ここ三重塔の丘から大池越しに眺めると、住宅地の先には横浜港のクレーンの先端がずらりと揃って見え、さらにベイブリッジの橋塔がかすかに望むことが出来たのであった。三重塔をズームで見上げる。ところで、この塔の心柱ですが、一層目の屋根裏から立ちあがっていて、一層目は仏像が置かれる空間になっているのだと。実はこの心柱ですが、地面に接した心礎から立ちあがっている場合と、ここの塔のように一層目の天井から立ちあがっている場合があると。これは時代の変化によるもので、古くからの塔は前者のように地面から立ちあがっているのだが、後者の例は、平安末期以降見られるようになった構法であると。 【https://ameblo.jp/sankei-mietaro/entry-12202404368.html】より『初音茶屋(はつねぢゃや)』。その昔『初音茶屋』では、来園する人に麦茶を振る舞う、「麦茶接待」が行われていた。 「ひとはかり浮く香煎や白湯の秋」と、その様子を詠んだのが、芥川龍之介。『三溪園 昔むかし 15 初音茶屋』「開園当時、三渓園には誰もが自由に出入りできたばかりでなく、無料の湯茶サービスもあった。その場所の一つがこの初音茶屋である。中央の炉に煤竹の自在かぎで吊るされた真っ黒な鉄瓶には絶えず湯がたぎり、白湯に米・小麦粉を煎って香ばしくした香煎を入れたものや温かい麦茶がふるまわれたという。大正4(1915)年三溪園を訪れた芥川龍之介は、友人であった三溪の長男への手紙にこの湯茶接待の印象を書き、”ひとはかり浮く香煎や白湯の秋”という句を詠んで締めくくっている。また、別の記録では、屋根を葛が一面に這いまわりその蔓の端が六方の軒に垂れ下がっていたとあるが、写真はまさにその風情である。」更に進むと梅林・『臥竜梅(がりょうばい)』が拡がっていた。三溪園は古くから梅の名所としても有名で2月から3月にかけて、約600本ある白梅・紅梅などが見事な花を咲かせる。竜が地を這うような枝振りの「臥竜梅」、花弁の根元にある萼が緑の「緑萼梅(りょくがくばい)」など、珍しい梅も見ることが出来ると。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.01
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