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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『梶原稲荷神社 』を後にし第1京浜に向かって進む。途中、急な下り階段が。『犬坂』と書かれた柱が。坂の頂上付近が急勾配なため、階段とスロープが設置されており、階段より下側は曲がりくねった坂となっていた。犬坂の由来は不明だが、俗称の「へびだんだん」は、その曲がりくねった様子から来ていると。また、坂の頂上付近の急斜面地には元芝公園があり、この公園は遊戯施設中心の公園となっていた。そして『東京消防庁 大井消防署』前を通過。消防署の角を左折すると登坂が。周辺案内板。『木の芽の坂(このめのさか)』。立会小学校の南側に位置し、かつての間部下総守下屋敷横通りで、反対側は崖になっており、その奥に泉があったと。若葉のころが美しかったのでこの名が付けられたと。また坂の近くにある大井公園は、幕藩時代には仙台藩の下屋敷となっており、校地には山内容堂の墓所があった。鮫洲駅前の大井公園内にある『山内豊信(容堂)の墓』を訪ねる。『旧・越前鯖江藩間部家下屋敷跡(元・陸奥仙台藩伊達家下屋敷跡)』。第一京浜(国道15号)跨ぐ歩道橋の場所を左折し、大井公園を訪ねた。坂道を挟んで大井公園は左右に分かれている。まず右側の公園に行く。入口前に『旧・越前鯖江藩間部家(さばえまなべけ)下屋敷跡(元:陸奥仙台藩伊達家下屋敷跡)』と書かれた品川区教育委員会案内板が立っていた。この地より高台に向かう一帯には越前国(現・福井県)間部下総の守の下屋敷があった。もともとは、万治元年(1658)に仙台藩伊達家が麻布(現・港区)下屋敷を返上して、新たに大井村に拝領した下屋敷であった。この屋敷内には高尾太夫の器を埋めたという塚があり、その上にはひと株の枝垂梅があったと伝えられている。元文2年(1737)年、鯖江藩大崎屋敷と伊達家品川屋敷の一部を交換し、間部家の下屋敷となった。その後、一部は再び伊達家の所有となったと。安政2年(1855)頃の鯖江藩間部下総守詮勝(あきかつ)は5万石の家禄があり、上屋敷は常盤橋御門内(現・千代田区大手町)にあったと。そして左手には『山内豊信(やまうちとよしげ)(容堂)墓』の案内板。左手の細い道を進むとアルミ製の大きな扉が。ここは午前9時から午後5時まで見学可能と。更に階段を登る。すると右側に墓石群が現われた。山内豊信は土佐高知藩主で幕末から明治のはじめにかけて幕府と朝廷の斡旋に尽力したとある。この場所が大井村の下総山(土佐山)と呼ばれていたことからここに葬られたようである。ここに下屋敷のあった仙台藩や鯖江藩と直接の関係のある人物では無いようである。墓は大きな円墳に墓石を配した珍しい形となっていた。『贈従一位山内豊信公之墓』と刻まれていた。裏には「明治五年六月二十一日薨」と。「山内豊信 は容堂と号した。文政十年(一八ニ七)に分家の山内豊著 の長子として生まれ、嘉永元年(一八四八)に宗家を継いで第十五代の土佐国高知藩主となり、人材を登用して藩政の刷新に努めた。一方、国政についてもいろいろと論議し、策を建てて多難な幕末期の幕政に大きな影響を与えた。進歩的で強力な言動は幕閣に恐れを抱かれ、一時、大井村の下屋敷に蟄居させられたが、文久二年(一八六ニ)に再び政治の場に復し、大政奉還をはじめ幕府と朝廷の間の斡旋に力を尽くした。明治元年(一八六八)に維新後の新政府の内国事務総長となったが、翌年引退し、明治五年に四十五歳の若さで亡くなった。遺言によって大井村の下総山(土佐山)と呼ばれていた現地に葬られた。」と。手前の「島津常侯墓」は島津家から輿入れした13代豊熙の正室の墓。裏面には「従四位下山内豊熈朝臣室 明治十三年十一月十六日逝」と。これは、第13代土佐藩主山内豊熈公の正室・候姫(こうひめ)の墓石。候姫は、薩摩藩主島津斉興公の娘だから、「嶋津常候之墓」とある。山内家合祀の墓も。侯爵山内豊範妻栄子之墓。山内豊範公は第16代藩主で、土佐藩最後の藩主。ここ品川の地に、山内豊信公と、坂本龍馬さんがいたとは…。なかなか興味深い歴史散策となったのであった。「山内豊信(容堂)墓」を参拝した後は鮫洲駅前の歩道橋を渡り、更に品川駅に向かって進む。『鮫洲八幡神社』を訪ねたが、この神社は前回訪ねた(☚リンク)事を思い出す。日本橋まで10kmの表示。『泊船寺』を訪ねた。入口には『泊船禅寺』と。こちらは裏口のようであった。『境内』『本堂』。山号の「天林山」の扁額が。室町時代の永徳2年(1382)に開かれたといわれる。江戸時代の初期、1680年代に住職を勤めた千巌宗億(せんがんそうおく)が俳人、松尾芭蕉と親交が深く、境内に牛耕庵(泊船堂、芭蕉堂)を建てて芭蕉を迎えたと伝えられる。文化年間(1804~18)には、俳人2世とかくさいさんど杜格斎山奴(白牛禅師)がこの寺に住んだことから、たびたび句会が開かれるなど、芭蕉を慕う多くの俳人が集まるようになったと。境内には『いかめしき音やあられの檜傘』の芭蕉の句碑が。そしてこちらが『泊船禅寺』の山門。『六地蔵』。そして次に道路の反対側にある『海晏寺(かいあんじ)』を訪ねた。建長3年(1251年)開山。本尊は聖観音菩薩、山号は補陀落山。この寺は、鎌倉時代幕府5代執権北条時頼が開基となって宋から渡来した禅僧蘭渓道隆の開山により曹洞宗の寺院として創建されたと伝えられる。本尊の観音像は、品川沖でかかった鮫の腹から出た物と伝えられ、一帯の「鮫洲」という地名の由来ともなっている。かつては多くの末寺を有したが衰退し1593年(文禄2年)徳川家康が天叟慶存を招いて再興し、現在の曹洞宗の寺院となった。江戸時代「御殿山の桜」とならび紅葉の名所として知られていたと。寺の名称は、「世の中が安らかで穏やか」という意味の「四海安平(しかいあんぺい)」に依る。岩倉具視(いわくらともみ)、松平春嶽(まつだいらしゅんがく)など歴史的著名人の墓がある。『本堂』。『海晏禅寺』と書かれた扁額。『江戸名所 品川 海晏寺 紅葉見』。『鐘楼』。大木の後ろには『寺務所』が。『牢光堂(ろうこうどう)』。堂内のモニュメントには、「倶會一處(くえいっしょ)」と「天地興我同根 萬物興我一體(天地と我と同根、万物と我と一体)」の文字。「倶会一処」とは、『仏説阿弥陀経』に出てくる「倶(とも)に一つの処(ところ)で会(あ)う」というご文(もん)で、同じ阿弥陀さまのお浄土でまた共に会わせていただくという意味。「天地興我同根 萬物興我一體」は、この世界のあらゆる存在と自分とは根源が同じという意味の禅語。多くの立派な墓石が並ぶ。俳人『白井鳥酔墓』案内版。白井 鳥酔(1701-1769)・江戸時代中期の俳人。『白井鳥酔墓』『石碑・石仏群』鐘楼脇には、たくさんの石碑・石仏などが並んでいた。『出世弁財天』。『富士山元大菩薩』。その他、様々な石仏が。『石碑・石仏群』の手前には「砲弾」も。「砲弾」の隣には閻魔様も。ここにも2個の砲弾が。何故、この場所に?岩倉具視の墓がありますが、お参りは出来ないようであった。 ・・・その1・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.08.31
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『旧東海道を歩く』も日本橋からスタートし既に静岡県・浜名湖の先にある『新居関所』まで5/末に辿り着いています。次回再開はもう少し気温が下がった9/中くらいからでしょうか。ところで、以前、都内を訪ねた折に、以前訪ね残った品川宿周辺を立会川駅から品川駅に向かって逆コースで歩き、これをブログアップしていませんでしたので、今回アップ4させていただきました。----------------------------------------------------------------------------------------------------昨年の10月26日(金)に『旧東海道を歩く(品川~川崎)』を歩いたが、その折には旧東海道の両側「近く」の神社仏閣は訪ねたが、旧東海道の北側を走る国道15号線(第1京浜)の北側は全く訪ねなかったので、今年1月9日(水)に大崎に出かけた折、午前中に自宅を出発し京浜急行・立合川駅から国道15号線(第1京浜)沿いの散策を始めた。訪ねた場所を〇で。『立会川(たちあいがわ)』。東京都目黒区および品川区を流れ東京湾に注ぐ二級河川。全長7.4km。昭和20年代までは魚やザリガニが棲むきれいな小川であり、子供たちの絶好の遊び場であったが、現在では大部分が暗渠となり、道路(立会道路)や、緑の豊富な遊歩道、公園などになっている。まずは立会川駅近くにある、『天祖諏訪神社』を訪ねた。裏門から境内へ入る。左手には『厳島神社』が。そして天祖諏訪神社の境内。『手水舎』。『拝殿』。拝殿正面。お札、お守り販売所。『由緒』。古くより立会川を挟んで並び祀られていたとされる天祖神社と諏訪神社が合祀された神社である。旧天祖神社は建久年間(1190~1198年)の大井郷之図や「神明社」の記述が見られること、旧別当寺の海賞山地蔵院來福寺(現・東大井3-13-1)の創立が990(正暦元)年であることなどから、平安末期から鎌倉初期には創建されていたと推測される。また、旧諏訪神社は1631(寛永8)年以前の創建と見られており、旧松平土佐守下屋敷の海岸寄り(現・立会川駅東側付近)にあったとされる。御祭神は天照大御神・豊受大神・建御名方刀美神・小碓命。こちらが『天祖 諏訪神社の正面 一の鳥居』。昔のこの付近周辺の地名が書かれた提灯であろうか?『東海七福神の福禄寿』。『東海七福神』のポスター。そして『天祖 諏訪神社』を後にし、立会川駅方面に戻ると広場にあったのが品川区立北浜川児童遊園に建つ坂本龍馬のブロンズ像・『坂本龍馬像』。2010年に京浜ロータリークラブより寄贈されたもので、龍馬が立会川にいたと思われる20歳頃の顔を再現。かつてこの辺りには土佐藩の鮫洲抱屋敷があった。この屋敷内には浜川砲台が築かれ、若き坂本龍馬もこの地で守備についたと。龍馬にとって浜川砲台は、人生のターニングポイントとなる大切な場所であったと。立会川駅が前方上方に。そして第1京浜を渡る。そして訪ねたのが『旧・土佐高知藩山内家下屋敷跡』。現在の品川区立浜川中学校を含む広大な地域一帯が、かつて土佐高知藩山内家の下屋敷であったと。上屋敷は現在の千代田区丸の内にあったと説明板に。国道15号線沿 浜川中学校に標識が建っていた。そして、1869年(明治2) 、京急立会川駅近くのこの土佐藩下屋敷で当時の品川縣知事古賀一平が 品川縣ビール醸造の工場(62坪) を設立し醸造開始したと。幕末の殿様、 呑ん兵衛の容堂公は、さぞ喜んだことであろう。明治10年、工場閉鎖。詳細記録なし「幻のビール」であると。これが復活した『品川縣ビール』である。 【http://teishoin.net/blog/003151.html】より更に奥に進み急な坂道の階段を進む。裏側から『大福生寺(だいふくしょうじ、大井聖天)』に入ると右手にあったのが『寶性地蔵菩薩』。説明文が私には難解。正面に廻り山門である山王鳥居。神仏習合の名残りであろうか。別名「大井聖天」と言われ大聖歓喜天を祀っています。本堂には大聖歓喜天と観世音菩薩が祀られている。また東海三十三観音霊場の札所十六番。東海三十三観音霊場は東京都品川区から神奈川県横浜市鶴見区にかけての東海道沿いの寺院で構成される観音霊場。ちなみに札所初番は曹洞宗大本山の鶴見の総持寺。『大福生寺(大井聖天)』の歴史と年中行事。『寺の歴史』「天台宗に属し、比叡山延暦寺を総本山とする。品川区大井関ヶ原町1202番地、俗称土佐山(松平土佐守下屋敷所在)に在る所より土佐山聖天、又は大井聖天と俗称す。当山は東叡山寶観大僧正の法裔、宇賀神寶海和尚の開基にて同師、明治14年日本橋蛎殻町(水天宮の近所)に一寺を建立し、三宝山神護院大福生寺と称す。同19年6月に堂宇の落慶を見、その後同24年当地に移転され、今日に至る。」『本地仏の歴史』「本尊十一面観音(立像3尺6寸8分)大聖歓喜天(5寸5分の金像)2尊を安置す。歓喜天は慈覚大師入唐の尊像にして京都蘆山寺に秘蔵せられしを享保年間、妙法院門跡。円恕大僧正護持となり、明治10年同門跡、藤本道盈師より当寺開山宇賀神寶海和尚が懇願され将来せられしもの也。又十一面観音は聖徳太子の御作にして徳川三代将軍家光公の信仰厚く牛込矢来の長安寺に安置せらるが明治維新廃仏毀釈の際、寶海和尚を受けて当山の本地仏として奉安せり。特に大聖歓喜天は現在まで歴代の住職によって永年、日々祈願されし本尊である。その他、聖観音、薬師如来、愛染明王、妙見菩薩、四天王、鬼子母神、十六善神」。『護摩堂』金色不動明王、五大明王などを祀ると。護摩堂右の『福生稲荷』。大きな『石碑』には、何が書かれているのであろうか?『大福生寺』を後にし、次に向かったのが『来福寺』。正面に『来福寺』山門。真言宗智山派寺院の来福寺は、海賞山地蔵院と号す。来福寺は、正来福寺は正暦元年(990)に智弁阿闍梨が創建したといい、文亀元年(1501)に納経塚から経読地蔵を安置し、これを本尊とすると。御府内八十八ヶ所霊場26番札所、玉川八十八ヶ所霊場74番札所、東海三十三観音霊場2番札所。『御府内八十八ヶ所霊場26番札所』の石柱。山門を潜り境内へ。『宝篋印塔』。「一香一華を供え、塔を礼拝する者は、重罪も消滅し、菩提を得る~」と。遅ればせながら、私も右回りに、三回巡拝しましたが・・・・。『弘法大師像』。『弘法大師像』説明文。境内には俳人 雪中庵蓼太の句碑(左)、饅頭の祖 林浄因の碑(右)が。左の句碑は「世の中は三日見ぬ間に桜かな」と刻まれており、蓼太の死後間もなく弟子たちが建てたもの。饅頭の祖 『林浄因の碑』。林浄因(?~1359)は、室町時代初期に中国から日本に饅頭の製造法をもたらした人で、菓子の塩瀬家の元祖。碑は大正14年(1925)東京丸の内の塩瀬総本家らが発起人になって建立されたと。『本堂』。海賞山地蔵院来福寺は平安時代、正暦元年(990)創建の真言宗の寺。高台にある静かな寺でかつては品川の海が望めたと。本尊は土中の読経を聞いて掘り起されたと伝えられる「延命地蔵」で、別名 経読地蔵とも呼ばれていると。ここ来福寺には阿波商人の墓が。寛永年間(1624~44)から明治までの約200年間に、来福寺に葬られた阿波国(現徳島県)の藍商人の墓66基を、明治2年(1927)に整理して合葬したもの。江戸時代を通じて、品川湊を中心に阿波の藍商人が活躍していたことがわかると。境内にはガラス窓の大きい建物も。こちらは寺務所か?『慈母水子観音像』。『慈母水子観音像建立発願文』。著名人の奉納した桜の木。「安倍晋三」の文字が。境内には多くの石仏、墓石、石碑が。そして次に『梶原稲荷神社』を訪ねた。梶山氏館跡の一部と考えられている土地。狭い参道を進んで行くと、様々な種類の狐の姿が。「今を距たる772年前(建久3年)梶原兵三景時、征夷大将軍源頼朝の命を奉じて、武蔵国大井村鹿島谷に萬福寺を建立し、その境内に守護神として稲荷を勧請して梶原稲荷と尊称した。元応元年10月、萬福寺は兵火により焼失し馬込村に移りたるに依り、焼ヶ残りし稲荷祠は梶原屋敷内に奉遷されて、後、柴村来福寺に奉納され、その追福のため同寺へ松櫻などを植え寄進した。この梶原塚は、桓武天皇5代の裔、常陸少椽良茂より5代の孫、鎌倉權五郎景正の子孫梶原日向守、亦梶原助五郎一族を祀る古墳である。従来、この稲荷祠は南浜川櫻井源兵衛氏の所有なりしが、大正14年1月より地元、元芝、関ヶ原に居住する信仰者に管理を委任され、地元民の協力に依り社務所を建設し維持管理に当って今日に至った。梶原氏は鎌倉權五郎景正、梶原兵三景時、梶原源太景季と代々武勇の誉高く、子孫皆よく栄え、又、古来この地に火災、災難等無きは、梶原稲荷の御守護によるものなりと伝えられ、住民皆襟を正して尊敬し。昭和38年浄財に依り大修理を加え、神徳をたたえて信者集い祭祀を厳修した。昭和39年2月15日初午の日 梶原稲荷講」。 ・・・つづく・・・
2019.08.30
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我が菜園のスナップエンドウの栽培後地に朝顔を植えて、これが毎朝開花し楽しませてくれています。ホームセンターで種を購入し、これを蒔き育てて来ました。スナップエンドウに使ったネットをそのままにし、これに朝顔の蔓が絡みついています。大輪の様々な朝顔の花が毎朝開花しています。自然に成長した小輪の青い朝顔の花とオシロイバナ。ズームで。オシロイバナ。こちらは庭先のジンジャーの花。草丈が80cm~2m近くになる大型の草花。先端の尖ったやや細長い葉を2列に並べて上に伸びて。主な開花期は夏から秋で、黄・白・赤・オレンジ色の花を穂状に咲かせるのです。香味野菜として使うショウガ〔Zingiber officinale〕とは草姿こそ似ていますが違う植物だと(同科ですが属が違う)。既に花のピークは終わっています。和名では「ハナシュクシャ(花縮紗)」と呼ばれています。この花には我がミツバチの姿はありませんでした。
2019.08.29
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この日(8月18日)は我が家から自転車で5分ほどの場所にあるひまわり畑を訪ねました。約2~3反に拡がる国道467号線沿いのひまわり畑です。道路から50cmほど上がった場所にある畑。全ての花が東に向かって。この写真に写っているお宅は2階から毎日花見が。しかし見えるのひまわりの後ろ姿。ひまわり畑の裏が国道467号線。別の場所に移動して。ひまわりが肩を組んでいるが如きに。ミツバチ(おそらく我が家のミツバチ)を追いかけて。1段高い場所からズームで。近くにある日本ミツバチの巣箱を見に行きました。しかし、2群とも日本ミツバチの出入りの姿は全く見られなかった。巣箱の場所が問題か、もう少し日光が当たりにくい木陰が良いのではと。2群とも家出をしてしまったようであった。
2019.08.28
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今年も、我が家の庭の『酔芙蓉』が毎日花を開き楽しませてくれています。遠く平安の頃から観賞され、人々に愛されて来たという芙蓉の花。古くから栽培されているにもかかわらず、ムクゲと違って変異が出にくく、品種はあまり多くないようです。その数少ない園芸品種の一つがこの『酔芙蓉』。『酔芙蓉』は、朝のうちは純白、午後には淡い紅色、夕方から夜にかけては紅色に変わるのです。酒を飲むと顔色がだんだんと赤みを帯びるのに似ていることからこの名がついたといわれています。芙蓉は、全国各地の庭先や公園など、どこででも目にすることができますが、群生している名所となると寺の境内が多いでは。『酔芙蓉』となるとなかなか群生しているところは少なく、千本以上あるところは珍しいようです。『酔芙蓉』の花は短命で、一日花のはかなさに諸行無常の教えを悟り、蓮の花に似て仏教の縁を重ねることが出来るのです。朝の、純白の花です。時間は6:15。葉の上部の脇に花びらが5枚で椀状の10~15cmぐらいの大輪の花を咲かせます。そして既に極淡いピンクに染まり始めている花も。葉は手のひら状に浅く3つから7つに裂け、互い違いに生える(互生)。そして花片全体が淡いピンクに染まり始めました。時間は10:55。昼前になると、ピンクの色が強くなってきました。時間は11:45。チョット出遅れている花も。そしてピンク色が更に濃くなって来ました。時間は13:00。そして15:20、それぞれの花が赤く染まって来ました。花の先端がより赤く染まって。中心の円周上に濃いピンクの点が。そしてすっかり酔った『酔芙蓉』。時間は16:05。そして酔いが回った花たちが夕陽を浴びて。夕日を浴びながら花片も閉じかけて。すっかり酔った『酔芙蓉』の横に酔い潰れている『酔芙蓉』も。そして酔いつぶれてしまった花がところどころに。こちらは前日の花か。そして翌朝には地面に落ちて。秋になると、根本近く(20~30cm)からバッサリと強剪定しますが、翌年には見事に新芽を延ばし毎年2m以上にまで成長し、花を楽しませてくれる『酔芙蓉』なのです。そして酔芙蓉は挿し木で増やすことができます。冬に剪定した枝を保管しておいて、気温がある程度上昇した5月ごろ挿し木をするのです。酔初めは我より早き酔芙蓉 ・・・・詠み人知らず酔芙蓉朝な夕なとカメラ手に ・・・・詠み人知らず酔芙蓉夕映色に花染めて ・・・・詠み人知らず
2019.08.27
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先日、自宅から車で10分ほどの梨・ぶどう園に行って来ました。もちろん目的は秋の味覚そして地場産の梨&ぶどうの購入です。果樹園ときくと、駅から遠い郊外にあるイメージですが、神山果樹園(こうやまかじゅえん)は小田急線・湘南台の駅からも歩いて5分ほどの場所。店の前、横には梨園、ぶどう園が。ところでチョット脱線しますが、先日のテレビで、総務省は、「…自動車のナンバープレートの番号が写り込んでいた場合も、ナンバープレートの番号からその登録名義人を照会することは容易ではないことから、個人識別性を欠き、「個人情報」には該当しない」との見解を以前に示しているのだと。http://www.soumu.go.jp/main_content/000028227.pdfつまり、そもそもナンバープレートは、「個人情報」ではないのだとしかし、悪意がなくても、例えばその写った人物が見られたくない場所や姿で写ってしまっていた場合、プライバシー権が侵害されるはずです。車の場合は肖像権の対象にはならないとの事だが、その車の所有者が見られてはまずい場所で写ってしまっている場合もあり得るわけです。車のナンバープレートをそのままネット上に公開しても、法律上は問題がないのだと。しかし、このようなトラブルを避けるためにも、ネット上にアップする写真のナンバープレートは、一応チェックして識別出来る場合はモザイクしておくことにしています。梨園。幟が。今年も『幸水』がたわわに実っていました。こちらはぶどう園。ぶどうには一房一房丁寧に袋が被されていました。袋が破けて。こちらは『藤稔(ふじみのり)』であろうか?藤稔(ふじみのり)は、我が藤沢市で生成されたブドウ。『藤稔』の幟。店頭には梨の『幸水』がズラッと並んでいました。『幸水』を10個ほど購入しました。まるまると太った『幸水』。ぶどうも2房購入。こちらは『竜宝』。そして早速楽しみました。今年も、果肉は軟らかく、多汁で甘味が強く感じられたのです。ぶどう『竜宝』も。果皮と果肉がつるっと剥けるので「デラウエア」を大粒にしたような感じ。手で皮を剥こうとすると果汁が垂れてしまい身痩せした感じになってしまいます。甘味が強く、適度な酸味とグレープジュースのような甘い香り・フォクシー香?が口に広がったのです。
2019.08.26
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今年も8月11日(日)に、今年の最初の趣味の養蜂のハチミツ絞りを行いました。ところで、働きバチが花から集めた花蜜は、実は、ハチミツではありません。巣へ持ち帰った花蜜が働きバチたちによって熟成・濃縮されて、はじめてハチミツとなるのです。まず、働きバチは、「口吻」と呼ばれるストローのような口で花の蜜を吸い胃のそばにある蜜胃(みつい)というところに花蜜を貯めて巣に持ち帰り、巣の中で待っていた別の働きバチに口移しで花蜜を渡すのです。 【http://www.beekeeping.or.jp/honeybee/partnership】よりミツバチをはじめとするハナバチ類は、いずれもその栄養源のすべてを花蜜と花粉に頼っています。花蜜はハチミツとして、花粉はハチパンとして巣に蓄えられるのです。下の写真の巣の中に白や黄色、ピンクの色の付いている部分が、ミツバチが集めた花粉。光っている部分が貯めたハチミツなのです。この時、持ち帰った働きバチの体内の酵素の働きで、花蜜の成分である「しょ糖」を「果糖」と「ブドウ」糖へと変化させるのです。この日の我がミツバチの巣箱です。この群の群勢は高く、この日までに3段の巣箱としていました。下にある2つの白い容器は、長梅雨のために外に出られないミツバチの為に砂糖水を与えたものがそのままになっていました。巣箱を開けると、箱蓋の裏には多くの働き蜂が。ズームで。そして、ミツバチ達は羽を震わせハチミツの濃縮操作を行い、濃縮が完了すると蜜蝋で蓋(蜜蓋)をするのです。一枚一枚の巣枠で、殆ど全面が蜜蓋で覆われたものを選び、刷毛でミツバチを振い落し採蜜の為に自宅に持ち帰る為の巣箱に移していきました。刷毛でミツバチを振い落したものです。こちらは白い蜜蓋で9割ほど覆われた巣板。今年は天候不順により、ミツバチたちが溜めてくれたハチミツの量は例年の半分くらい?になっていました。蜜蜂と格闘し、巣にいた蜜蜂嬢を刷毛で払った後、蜜のぎっしり溜まった巣碑を巣箱に入れて家に持ち帰りました。この日は3群より8枚の巣枠を家に持ち帰りました。自宅に持ち帰り、早速ハチミツ絞りの実施。今年も妻が事前に遠心分離機や包丁、濾過網、ハチミツ容器等を熱湯消毒しておいてくれました。そして妻が暖めた包丁でこの蜜蓋を剥ぎ取ります。巣蓋を剥ぎ取るとハチミツが溢れて滴り落ちて来たのでした。新しい巣房のものや、ミツバチが何回も貯蜜した巣房のものと、色も様々です。そして熱湯消毒済みの遠心分離機に蜜蓋を剥がしたものを入れて、遠心力でハチミツを容器の壁に飛ばし出します。そしてこの作業を何回か繰り返しました。遠心分離機容器の下部に琥珀色のハチミツが貯まって来ました。容器の外からも貯まって来たハチミツが確認出来ました。じわじわと下部にハチミツが溜まって来ました。そしてハチミツの香りが部屋に拡がって来ました。遠心分離機に巣板を1枚入れて。これを何回か繰り返して行ったのです。そして8枚全ての遠心分離が終了し、ハチミツの濾過の開始です。今年も網目の大きさの異なる2段に重ねた金網で濾過。出口を開けると周囲にハチミツの香りが更に拡がって来ました。 琥珀色の濃度・糖度の高いハチミツがダラーーーと。遠心分離機で剥ぎ取られた巣房の欠片もきちんと濾過。正面から。濾過を待つハチミツ。濾過され容器に貯まったハチミツ。そして一時保存の容器に貯まったハチミツです。今年1回目の採蜜の成果です。数日放置し、更に容器の底に沈んだ不純物らしきものをストローで除去しました。そしてこれも妻がネットで購入したガラス瓶を大きな鍋に入れ熱湯消毒、蓋も同様な方法で。そして自然乾燥させた瓶にハチミツの充填作業をやってくれました。瓶が水道水で濡れていても、雑菌がいる可能性があるからなのです。そして瓶詰め作業も完了。これらパッケージング作業は全て妻がやってくれたのです。ラベルも印刷して瓶に貼り付けて。『Jinさんちのおいし~い蜂蜜』住所、名前も記入してあります。これは内容量600gのもの。もちろん添加物、加熱操作の全く無い100%天然の超濃縮ハチミツ。今年も多くの友人、知人からリピート予約を頂きましたが、趣味の素人養蜂家ですので、毎年採蜜出来る量は安定しないのです。全てがミツバチ嬢の頑張り次第なのです。今回も4本、5本等の予約の御連絡も頂きましたが、出来るだけ多くの方にお分けし、楽しんでいただきたいので、今年もお一人様MAX2本とさせていただきました。秋にはもう1回、量は今回よりは少ないでしょうが絞れるのではと期待している素人養蜂家なのです。そしてお陰様で全て発送、手渡し済みとなりました。ご予約いただいた皆様、どうか100%完熟の天然ハチミツをお楽しみください。今年のハチミツの味はいかがでしょうか?
2019.08.25
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今年も冬野菜の種まきを行いました。今年もネットで種を購入しました。種まきを行ったのは、8月9日(金)。種まき用の培養土はホームセンターでいつものものを購入し準備してありました。そしてまずは『白菜』。種類は『F1大玉白菜』。そして種まき後、8日後の17日の発芽状態です。カリフラワーは2種類の種を巻きました。『F1スノウボール』。発芽状態。『野崎早生花野菜』。発芽状態。ブロッコリーも2種類。『F1あまブロ』。発芽状態。『F1ビューティーブロッコリーEX』。こちらは、側枝の発生が少ないタイプであったことに、今気が付きました。発芽状態。キャベツ。『F1ふゆつよし』。発芽状態。芽キャベツ『F1芽キャベツ』。発芽状態。『葉牡丹』。縮緬葉牡丹の赤。発芽状態。縮緬葉牡丹・赤と白。縮緬葉牡丹の白。発芽状態。その後も順調に成長し、後1週間もすれば苗を1本ずつポットに移植出来るのではと思っています。
2019.08.24
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更に『座間・ひまわりまつり』の会場を散策する。そしてひまわりの種も100円/袋。遊歩道沿いには、マリーゴールドや手前は千日紅であろうか。こちらは後ろ姿。雲行きが怪しくなって来た。ひまわりの花も自分で切って購入可能と。こちらは鳳仙花(ほうせんか)であろう。子供の頃に、指でぎゅっと触ると皮がめくれて種がはじけ、これを楽しんだ記憶が。「ざまりん広場」にはひまわりまつりの本部テントが。遊休地に市の花「ひまわり」を植え、座間市のまちおこし企画の一環にしたと。ひまわりの枝葉の深緑は、たくましく発展を続ける市を、また大輪の花は、市民の皆さんが手を結び合い、明るく健康なまちづくりを目指す姿を象徴していると。開場は9:30~とのことで未だ係の方の姿は殆どなかった。時間は漸く7:20。『ひまわり畑 案内図』。ゴミの『分別ステーション』も色彩豊かに。「ざまりん広場」は今日の準備が漸く開始。『ひまわりまつり臨時路線バス時刻表』。小田急線相武台前駅から臨時バスが12~15分間隔で運転されるようであった。座間駅の方が近そうだが、いろいろと事情があるのであろう。ひまわりの原産地は北アメリカ大陸西部であると考えられているとのこと。既に紀元前からインディアンの食用作物として重要な位置を占めていたと。1510年、スペイン人がヒマワリの種を持ち帰り、マドリード植物園で栽培を開始した。マドリード植物園はダリアやコスモスが最初に栽培されたことでも有名であると。ヒマワリがスペイン国外に持ち出されるまで100年近くを要し、ようやく17世紀に至りフランス、次にロシアに伝わったのだと。ロシアに到達してはじめて、その種子に大きな価値が認められたのだと。現役中に仕事で中国の田舎を何回か訪ねたが、その折、老若男女がヒマワリの種を囲んで、カリカリとハムスターのようにかじる姿は、可愛らしくもあったが、ちょっと不思議に感じた事を想いだしたのであった。そして殻を口から床に向けてペッ、ペッと吐き出し、床を散らかしていたのであったそして、中国人が一番よく食べるおやつといえば、断然ヒマワリの種だろうとの言葉を当時は聞いたのであったが、今回の満州旅行でも同様な姿を幾度か見たのであった。記念撮影用のベンチと額が置かれていた。タクシー乗り場、自転車駐輪場も用意されていた。奥にはもう一つのひまわり畑が見えたが、更に雲行きが怪しくなって来たので引き返す。帰路は全ての花が私を正面から迎えてくれたのであった。多くの西洋ミツバチが訪花中。しばし西洋ミツバチを追いかける。こちらはカップル用の木製ブランコ。再び『ざまりん広場』まで戻る。『ざまりん広場』は座間市マスコットキャラクター「ざまりん」から。『ざまりん』。顔はひまわりの花、顔から下はひまわりの種をイメージしているのか? 【https://013704309081316.at.webry.info/201407/article_5.html】より本日のステージイベントの予定のようだ。「ルドベキア」は黒い目が特徴。宿根草でこぼれ種でも増える花。ひまわり畑の中にはカラフルなパラソル、そして赤いベンチが。展望台にあった帽子。再び展望台を。一方通行の階段。再び展望台から。「まみれ」は漢字で「 塗れ」と書くのだ。私の毎日は汗塗れ、泥塗れ、そして部屋はホコリ塗れ・・・・。ひまわり畑の中の散策路を歩く。青空を背景に。1本だけ太陽に背を向けるひまわりの姿を発見。これも人間社会と同じか?再び西洋ミツバチにレンズを向けて。花弁は大きな1つの花のように見えますが、実際は頭状花序と呼ばれ、多数の花が集まって1つの花の形を形成しているのです。これは、キク科の植物に見られる特徴。外輪に黄色い花びらをつけた花を「舌状花」、内側の花びらがない花を「筒状花」と区別して呼ぶことも。 シャッタースピードを速くして。三匹仲良く。近くに巣箱があるのであろうか?巣箱も見てみたかったが。1時間以上経ったが、花の向きは、なるほど変わっていなかった。いつ頃にこの花々は片付けられてしまうのであろうか?県道42号線が相模川を渡る座架依橋(ざかえばし)の袂近くからひまわりまつり会場を。背中を見せるひまわり達。相模川を渡る座架依橋(ざかえばし)。相模川の対岸には圏央厚木ICが見えた。座架依橋(ざかえばし)のモニュメント。駐車場の車の数はまだまだ少なかった。県道42号線の駐車場側にもひまわり畑が。ひまわりの後ろ姿を見ながら車に戻り、帰路についたのであった。 ・・・その1にもどる・・・
2019.08.23
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今年も、座間で行われている『ひまわりまつり 2019年8月10日(土)~14日(水)』の最終日に車で行って来ました。この日は最終日の8月14日(水)。6:30前に自宅を出発し、車で30分弱で県道42号線が相模川を渡る座架依橋(ざかえばし)の下の相模川河川敷にある『水と緑の風広場』にある駐車場に到着。『ひまわりまつり』の会場に向かって相模川堤防沿いに歩く。途中、角にあったのが『土地改良の碑』。約30年前の功労者像、「本多菊近翁」土地改良の碑。県道42号線之下の通路には『ようこそ ひまわりのまち 座間へ』の横断幕が。『ひまわり畑 ここは座間エリア』。座架依橋(ざかえばし)への坂道の高架下は『休憩所』。日陰の下には休憩用のテーブル、椅子が準備されていた。年配者には優しい常に日陰の場所。今年の『ひまわりまつり』のポスター。毎年約55万本のヒマワリが咲き誇る「座間市ひまわりまつり」。会場は『座間エリア』と『四ッ谷エリア』の二箇所。そして座間エリア・新田宿エリアのひまわり畑へ。朝の陽光を真正面から浴びるひまわり。ひまわりは和名で「向日葵」と書きますが、「日回り」と表記されることもあるのです。英語では「Sunflower(サンフラワー)」、フランス語では太陽を意味する「Soleil(ソレイユ)」と呼ばれます。この様に、太陽の動きを追って花が回るということからそう呼ばれます。またひまわりはそのものが大きな花として認識されている場合がほとんどですが、実際は1000~2000の小さな花が集合してこの形を形成しています。外側の黄色く長い花びらを付けた花”舌状花”と内側の茶褐色の”筒状花”に分かれているのだと。ひまわり(向日葵)は花が咲く前のつぼみの時期は、茎の先端が太陽の方向を向いて動くのだと。これは太陽光が当たらない側の茎が、当たる側の茎よりも成長するため、太陽の方向に曲がってしまう為。つまり太陽に面して前と後ろの伸びの違いにより生じるもの。しかし、花が咲いた後には茎の成長もストップするので、花自体が太陽を追いかけるということはないのだと。よく言われる、「ヒマワリの花が太陽を追いかけて、クルクルまわる」という事はないのです。全ての花が私の方を向いて迎えてくれていました。『2019 Welcome to ZAMA』のアーチゲート。こちらのひまわりは造花。ひまわり畑の中にも遊歩道が。本部、飲食ブースの案内板が。背丈は様々。後ろのひまわりは背伸びして覗き見ているが如し。こちらは通路の反対側のひまわり畑。皆、花は東に向かって咲いているので、こちらは花の後姿が。こちらにも『2019 Welcome to ZAMA』のアーチゲートが。新田宿エリアには展望台が2箇所。展望台からの絶景。多くのひまわりが朝日に向かって満開の姿で。これぞ『黄金の世界』。手前のひまわり畑方向。後ろには、座架依橋(ざかえばし)に上っていく県道42号線が。見事な黄色の絨毯の世界が。記念撮影用の様々なプラカードが置かれていた。これぞ『SNS映え』。プラカードを支柱に差し込んで。しかし、毎日が『夏休み』の」私なのであった。ひまわりのカオスの真っ只中、これぞ『ひまわりまみれ』。もうこの光景を表現する言葉を持ち合わせていません。もう一箇所の展望台下には、SNS映え・記念撮影用の帽子や額も準備されていました。まさに『あちーけど・・・きれいー』。『座間なう。』、『ひまわりは枯れても思い出は枯れない』。でも体は暑すぎて枯れそう。しかしいろいろと考えていますネ。青空を背景に多くのミツバチとチョウチョの姿をカメラモードを変えて ・・・つづく・・・
2019.08.22
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更に片瀬龍口寺の幻想の竹灯篭を楽しむ。刻々と色の変わる本堂のライトアップ。カメラの設定を変えて、本堂屋根、五重塔を再び。本堂前の階段を上がった場所には花燈籠が揺らめく。ズームで。本堂のライトアップの変化と幻想的な竹燈籠をしばし楽しむ。ズームで。撮影モードを変えて。接写で。本堂右脇の白壁にはこれも幻想的な姿が。「令和」や「2019年」の灯籠文字が描かれて、インスタ映えスポットで多くの人が。2019と。写真ではチョット解りにくかったが。日蓮聖人像。ズームで。更に。左手に法華経の巻物、数珠を持つ日蓮上人。竹燈籠の総合芸術。富士山と琵琶を持っている弁財天であろうか?花、葉、並・・・・。ズームで。鐘楼(延寿の鐘)。鐘楼前の竹灯籠を。本堂の屋根の色の変化を楽しむ。日蓮上人も刻々とお色直し?大書院の前には、青竹に施されたアート作品が飾られて、竹美術広場となっていた。正面から。向日葵それとも太陽?多くの大小の孔をドリルで開けている姿を思い浮かべながら。こちらは花燈籠。そして上空には三日月が。周囲には向日葵も。更に近づいて。竹灯籠の螺旋階段の如きアイデア作品。ズームで。設定を変えて接写。竹の中を覗いて。最後に和の美しさを魅せる竹灯篭をズームで。かぐや姫が出てきそうな??幻想的な世界。竹灯篭の火の揺らめきを楽しみながら。そして一方通行で境内を進み、再び仁王門前に戻る。仁王門前の左手の広場は屋台コーナーに。『日蓮大聖人龍ノ口御法難之霊場』。お父さんとフランクフルトに並ぶ子供たち。テーブルではビールを楽しむ人々の姿が。仁王門を拝啓に。そして江ノ電・江ノ島駅への帰路に。歩道には、これも美しい模様の燈籠が。そして江ノ島駅に。駅舎正面もライトアップされて。江ノ電路線図。藤沢駅から鎌倉駅まで15の駅を約35分でと、いまさらながらに。藤沢駅方面のホーム奥の右手にあったのが待合室。江ノ電の前頭部・運転席のカットモデルが展示されていた。303の前頭部は廃車後極楽寺工場で保管されていたもの。ジオラマや展示スペースも。そして鎌倉行きの電車が向かいのホームに。『セーリング日本代表「日の丸セーラーズ」』の文字が。「日の丸セーラーズ」はセーリング競技日本代表の呼称。日本セーリング連盟(JSAF)と共に、ここ江の島で開催される2019年江の島大会(2019年8月25日~9月1日)ワールドカップと、2020年の東京オリンピック・セーリング競技を盛り上げるラッピング車両。 そして仁王門から五重塔までの龍口寺境内に、青竹の竹灯籠が5000基ほども灯されていた幻想的な竹灯籠の光景を十二分に楽しんでの帰路についたのであった。 ・・・もどる・・・
2019.08.21
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この日・8月4日(日)は、自宅から電車で40分ほどの片瀬・龍口寺で行われる『竹燈籠』を見に行って来ました。藤沢駅高架橋通路からの夕焼けの富士山の姿。時間は18:40過ぎ。江ノ電・藤沢駅に向かう。運良く江ノ電電車がホームに入って来ていた。ホーム入り口の花時計。『第9回 龍の口 竹灯籠』のポスター。ポスターの裏側。『龍の口竹燈籠』申込書が裏面に。そして江ノ電で江ノ島駅に向かう。境川の鉄橋を渡る。そして江ノ島駅から徒歩にて龍口寺に向かう。龍口寺前の三叉路を鎌倉方面に向かう江ノ電電車。そして龍口寺仁王門。日蓮上人法難の地、『日蓮宗 霊跡本山 寂光山 龍口寺』この地はかつて刑場跡で、文永8年(1271年)9月12日に日蓮宗の開祖日蓮が処刑されそうになった。この事件を日蓮宗では『龍ノ口法難』と呼ぶ。鎌倉幕府の反感を買った日蓮聖人が捕えられこの場所へ連行された。処刑直前、江の島の方から光の玉が飛んできて斬首役人の目をくらませたとか、処刑に使われた刀に光がかかり三つに折れたとも伝えられる。結局、処刑は中止になった。龍の口刑場で処刑を免れた者は歴史上、日蓮聖人以外誰もいないとされている。境内には連行された折に日蓮聖人が一晩を過ごした土牢が今も残る。日蓮聖人入滅ののちに、直弟子だった日法上人は、この霊蹟を保護する為に寂光山龍口寺と称し草庵を結んだ。延元ニ年(1337)自ら刻んだ日蓮像を安置する寺を創建した。のち六老僧(日朗、日昭、日興、日向、日頂、日持)らが協力して、延文二年(1357)に豪荘な伽藍の大寺を建立したのである。『龍乃口』と書かれた扁額。仁王門の仁王像(阿形像)仁王門の仁王像(吽形像)。竹灯籠 受付。1000円/基で竹灯籠の奉納が出来るようであった。龍口寺 境内図。山門への階段の両脇にも竹灯籠が並ぶ。そして山門へ。山門の扁額は『龍口寺』。山門を潜ると境内には、灯りの灯った竹灯籠が一面に。 仁王門から五重塔までの境内には、青竹で作られた灯籠約5000基が並べられていたのであった。本物のロウソクを使った灯籠が、地面に敷き詰められていたのであった。電気の明かりとは一味、いや二味も違う幻想的な光景。 その先に本堂と五重塔が。まだ上空は薄暗く。幻想的な竹灯籠をカメラで追いかける。亡くなられた方々を偲ぶと共に、私たちの心に灯った明かりを消すことなく未来も照らせるようにと祈る姿が。そして未来への灯火は 決して自ら消すまいとも 。山門の見事な彫刻を振り返る。心休まる光景が拡がっていた。右手に手水舎。階段上の本堂が様々な色にライトアップされて。竹灯籠の灯りをズームで。大書院前の竹灯篭を境内側から。後ろの丸い穴から、それぞれロウソクを入れる事が理解できたのであった。しばし辺りが暗くなるのを待つ。本堂と五重塔と竹灯籠の美。カメラの向きを変えて。本堂への階段の両側には和紙燈籠には奉納者の名前が書かれて。そして本堂前へ。刻々とライトアップされる色が変わって行った。ロウソクの灯りに癒される空間と時間。回り階段の如き竹灯籠と本堂。幻想的なライトアップと 繊細な細工の竹灯籠。そして五重塔に向かう。神奈川県には3つの五重塔がある。他の2つは鉄筋コンクリート造。龍口寺の五重の塔は、木造ケヤキ造で五重塔としては神奈川県で唯一。明治43年(1910年)竣工。一辺4,5m。白木。 総欅造。建造には竹中工務店が携わった。全国的にも数少ない明治期の五重塔和様を基本とし、組物には唐様を取り入れる。5重は扇垂木。中備には近世風な彫刻を置く。法華題目が本尊とのこと。五重塔も微妙に色を変えて。私もいろいろとカメラの設定を変えてみたが。五重塔内部。斜めから。五重塔の後は坂を下り本堂内部へ。本堂内部ではコンサートが行われていた。ケーナ(quena)演奏の山下孝之×ソプラノ鳥井麗香×辻賢のユニットらしい。ケーナ(quena)は、南米ペルー、ボリビアなどが発祥の縦笛(気鳴管楽器)であると。鳥井麗香さん辻賢氏のチャップマン・スティック(Chapman Stick)演奏。 ・・・つづく・・・
2019.08.20
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更にビッグプレミアムスターマインがつづく。時間は20:13そしてオランダ風車「リーフデ」の後ろから水上花火が。下から半円形に広がるのは水上スターマイン。水上スターマインが続く。そして特大スターマイン。特大スターマインが続く。尺玉以上になると、花火の大きさもさることながら音が断然違うのであった。腹に響くようなその音が、花火の広がりから遅れること無く直ぐに聞こえる場所で見れるのは最高なのであった。佐倉のFさんに今年も感謝。フィナーレは県内最大・二尺玉の打ち上げ。 二尺玉は、直径が約60センチで、打ち上がると直径が500メートルほどに広がるのだと。 二尺玉が打ち上げられる花火大会は関東では数少なく、印旛沼湖畔から打ち上がる ダイナミックな花火は圧巻そのものであった。目と耳と腹、身体全体で味わう二尺玉の迫力!オランダ風車に降り注ぐ火花。そして20:30近くになり『佐倉花火フェスタ2019』も終了。混雑を避けるためにしばし、帰りを遅らす為の待機。そして、花火にはつきものの会場帰りの渋滞にハマりながらも臼井駅に向かって歩く。今年も佐倉の花火👈リンク を大いに楽しませていただきました。楽しい時間はあっという間。家族全員でいることの楽しさを感じながら、そして一生懸命に歩く孫たちの姿を見ながらの帰路であった。佐倉の地でF家、K家の絆の「花火」も大いに咲き誇ったのでした。『家族の集い』はこれぞ『幸せの絆』!!Fさん、今年もご準備ありがとうございました。 ・・・完・・・
2019.08.19
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シャッターを押す手を休める暇もなく次々に豪華な花火が、時間は19:48。10号玉(1尺玉)が連続で。冠スターマイン。俗に柳(やなぎ)と呼ばれる打ち上げ花火で、豪華な金色に輝く火の粉が連続で降り注ぐ。そしてビッグプレミアムスターマインのスタート。様々な色の花が今年も開く。夏の風物詩といえば打ち上げ花火。この時期、全国津々浦々で花火大会が開催されており、多くの人々が楽しむイベントとなっている。もっとも歴史の古い隅田川花火大会は、100万人近い観客を動員しているし、そのほか、東京では江戸川のエキサイティング花火大会の人気が高まっている。また、大阪でも天神祭りの奉納花火に130万人もの観客が集まっている。北は北海道の道新納涼花火大会、南は沖縄の浦添てだこまつりと、全国で毎年1000前後の大会が開催されているようだ。現在見つかっている資料から考察して、私たちが見ている打ち上げ花火に近いものを初めて見た日本人は、徳川家康と考えるのが定説らしい。『駿府政事録』の中に「二之丸立花火」の記事があり、英国王ジェームズ1世の使者のジョン・セーリスが、駿府城で披露したと伝えられているのだと。江戸時代になって戦がなくなり、火薬の使い道が激減すると、火薬屋たちは花火を扱うようになる。日本最古の花火大会である、隅田川花火大会が始まったのは、享保18年(1733)。当時は「両国川開き」と呼ばれていた。このときに花火を打ち上げたのは、日本最古の花火業者である鍵屋で、万治2年(1659)に売り出した玩具花火のヒットで、繁盛していたという。約150年後の文化5年(1808)、鍵屋の番頭が独立して始めたのが玉屋。これ以降は、両国の川開きで、両国橋の上流を玉屋、下流を鍵屋が担当するなど、ライバルとして、さらに発展したようだ。しかし、江戸庶民が見ていた花火は、現在のように様々な色のあるものでなく、白っぽいものだったらしい。マグネシウムなどの金属粉を利用した、色鮮やかな花火が登場するのは大正時代になってからで、現在では炭酸ストロンチウム(赤)や硝酸バリウム(緑)、タンサンカルシウム(黄)、酸化銅(青)などを組み合わせ、さらに華やかな花火が生み出され続けているのだと。しかし花火は、ただ美しいだけのものではない。日本人にとって火は、鎮魂の意味を持つのだ。意外に思われるかもしれないが、お盆の迎え火や送り火を思いだせば、納得がいく。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.08.18
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今年も、8/4(土)に長女の嫁ぎ先のご両親から、「佐倉花火フェスタ 2019」へのご招待をいただきました。東海道線、常磐線、京成線を利用して、千葉県佐倉市にあるニュータウン・「ユウカリが丘」駅で下車し妻が予約していたホテルにチェックイン。嫁いだ長女家族もこの日はこのホテルに宿泊。長男は海外出張中のため今年は長男家族は不参加となりました。そして、チェックイン後7Fの部屋で一休みした後、再び「ユウカリが丘」駅から待ち合わせ場所の隣の駅の臼井駅まで向かう。17時過ぎに臼井駅で合流し、総勢13名で花火会場の『佐倉ふるさと広場』に向かう。臼井駅にあった今年の「佐倉花火フェスタ 2019」のポスター。印旛沼湖畔(佐倉ふるさと広場周辺)で19:00~開会。毎年8月の第1土曜日に開催されており、夏の風物詩イベントとして定着。総打上数20,000発ビッグプレミアムスターマイン8,000発、二尺玉4発、尺玉30連発、手筒花火、 水上花火などの花火大会であると。そして準備していただいていた席に到着。本格的オランダ風車「リーフデ」が目の前の座席。準備頂いた私のチケット。佐蘭花 (オランダ風無料休憩所、売店、トイレ)前には貴賓席、招待席が並んでいた。佐倉市民の楽団が演奏中。『花火大会会場まで行けない人集まれ!』のポスターが。ビールを飲みながらCATVで花火フェスタの生中継を見られると。4本のポプラの木の後ろもオレンジ色に染まって来た。佐倉市長・西田三十五氏の姿も。手筒花火用の法被(はっぴ)を纏って待機中。今年4月21日執行の市長選で現職を僅差で破り初当選した佐倉生まれ、佐倉育ちの新市長であるとFさんから。真っ赤な太陽が沈んで行った。ズームで。オランダ風車「リーフデ」も花火を待つ。そして開催セレモニーも間近に。上空には成田空港を離陸した旅客機の姿が。日も沈み、辺りが暗くなり始めた。そいて準備していただいた弁当を楽しむ。様々な巻き寿司が美しく詰め合わせて。あっという間に平らげたのであった。上空には眉月が。そして開催セレモニーも終わり、花火大会のスタート。時間は17:02過ぎ。まずは、恒例の手筒花火のスタート。席を離れて、手筒花火に近づいて。手筒花火は、1メートルほどの竹筒に火薬を詰め、それを人が抱えながら行う花火。打ち上げ式ではなく吹き上げ式の花火で、その火柱は大きいものだと10数mにもなるのであった。5本の手筒花火が一斉に。そして火柱を勢いよく。今度は7本が一斉に。火柱の高さは10m以上にも及び豪快な柱が一瞬で夜空を彩ったのであった。筒の底が抜けて揚げ手の足元で爆発しておこる、轟音と広がる炎は最大の特徴。白煙がモウモウと。風車にも灯りが灯り。そして佐倉市長も手筒花火を。ズームで。市長の勇姿をうまく撮ることが出来ました。そして小スターマインのスタート。カメラにリモコンシャッターを繋げ花火を見ながらシャッターを押し続ける。10号玉(1尺玉)も上がり。芯菊の輝き。シャッターのタイミングが・・・。更に大、中、小のスターマインが次々に。高圧線鉄柱の直線と花火の曲線がBEST MATCHIして。ナイスタイミング!!。 ・・・つづく・・・
2019.08.17
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8月1日のNHKのニュースで、第2次世界大戦中にナチス・ドイツの迫害から逃れるユダヤ人のために、本国日本の指示に背いてビザを発給した杉原千畝の命日に合わせ、功績を紹介する特別展が31日から都内で始まったと。杉原千畝は第2次世界大戦中、ナチス・ドイツの脅威にさらされていたリトアニアに駐在する外交官として、迫害から逃れるユダヤ人のために当時ドイツと同盟を結ぶ直前だった日本政府の指示に背いてビザを発給し、およそ6000人の命を救ったとされています。7月31日は33年前に亡くなった杉原千畝の命日で、これに合わせ東京・中央区の博物館では、杉原のゆかりの品や、同じようにユダヤ人を救うために奔走した各国の外交官の功績を紹介する特別展が開かれていると。この日8月3日は、佐倉で開かれる花火大会に向かうので、早めに家を出て、東京駅で途中下車し、八重洲南口に向かったのであった。八重洲南口のJR長距離バスターミナル。JR高速バスのりばの案内。数寄屋橋方面に歩を進める。東京都道405号外濠環状線の先に東京・八重洲ブックセンターが。スーパーゼネコンのリーディングカンパニー鹿島建設本社跡地に建設された書店。当時の社長鹿島守之助が日本最大の書店を作ろうと鶴の一声で誕生したのであると。横断歩道を渡り、東京駅南口方面を振り返る。グランルーフ=大屋根が見えた。東京駅のノースタワー棟とサウスタワー棟をつなぐ渡り廊下で張り出した屋根を「帆」と表現しているのだと。東京・八重洲ブックセンターの入口横の二宮金次郎像。1978年、JR東京駅八重洲南口に開業した大型書店の入口にある金箔で覆われた銅像。1991年6月設置。台座プレートには、「勤勉にして片時も本を手離さなかった二宮金次郎こそは、真に理想の読書人である。」という株式会社八重洲ブックセンター会長河村金次郎氏の言葉が刻まれていた。そしてブックセンターの横の道を奥に進むと正面には京橋トラストタワーが。『京橋エドグラン』。そして柳通り沿いににあったのが『杉原千畝 SEMPO Museum』が開かれていた相模ビル。相模ビルの入口には『杉原千畝 SEMPO Museum』のプレートが。ドアを開けると杉原千畝の写真が迎えてくれた。会場は2階とのことで階段を上がる。2階会場入り口の写真。『任務を終えて 諸国民の中の正義の人として表彰された外交官ホロコーストと正義の外交官 特別展』。7月31日~9月1日の1ヶ月間の開催であった。チケット代500円を払い、パンフレットを頂き入場。『SEMPO MUSEUM』の文字が。開催会場は、中央区八重洲2丁目7-9 相模ビル2階。「杉浦千畝は第二次世界大戦中、日本領事館領事代理として赴任していたリトアニアのカウナスでナチス・ドイツによって迫害されていた多くのユダヤ人たちにビザを発給し、約6000人のユダヤ人民を救った。杉原の発給したビザは「命のビザ」とよばれ、このビザで救われた人たちはその子孫を合わせて現在25万人以上に及ぶと言われ、世界各国で活躍している。海外では、チウネ・センポ・スギハラとも呼ばれる。「センポ」と音読みで呼ばれた理由は「ちうね」という発音が難しく杉原自身がユダヤ人に「センポ」呼ばせたとされている。」杉原千畝(すぎはらちうね)は第二時世界大戦中にリトアニアで外交官として多くのユダヤ系難民を救った人物。「東洋のシンドラー」とも称されている。「1900年1月1日」に生まれて、「1986年7月31日」に逝去された。現在の岐阜県美濃市に生まれ。父親は税務官で、その仕事の都合で、幼い頃は様々な土地を転勤する生活を送った。その後、早稲田大学へと進学。しかし親の希望に反しての進学だったため、学費が続かず中退することに。その時に、外務省の留学生の試験があることを知り、受験、合格した。留学生として、ロシア語を学び、中華民国、ハルビン総領事館などを経て、満洲の外務事務官となった。そこで、ロシア語のスキルを活かして、ロシアとの交渉を担当。1937年に、フィンランドのヘルシンキの日本領事館、1939年には、リトアニアのカウナス日本領事館へ赴任した。カウナスに赴任したのは、「1939年8月末」のことであった。赴任直後の「1939年9月1日」、ナチスドイツがポーランドの西側に侵攻し、第二次世界大戦が勃発。この時、ナチスドイツとソビエト連邦はこっそり不可侵条約を結んでおり、直後にポーランドの東側にはソビエト連邦が侵攻を開始した。リトアニアを始めとするバルト三国は、ソビエト連邦と相互に援助するという関係で、ソビエト連邦軍の駐屯だけは認めていたが、中立の立場であった。ナチスドイツはユダヤ人を迫害していた。そのため、ポーランドを追われたユダヤ人たちが隣国で中立の立場のリトアニアに殺到することとなったのであった。そんな状況下の「1940年6月」に状況が一変した。ソビエト連邦は相互に援助するという約束を破り、リトアニアに侵攻。中立の立場だったリトアニアは、ソビエト連邦に併合されることになった。この時に、リトアニアに避難していたユダヤ人たちが、併合される前に日本を通して他の国に逃れようと、領事館にビザの発行を求めて押しかけてくる事態に陥ったのだ。そのほとんどの避難民が、政府の定める外国人入国令による通過ビザの要件を満たしていなかった。彼は、人道的な観点から、ビザの発給を認めるよう日本本国へ打診をしたが、認められなかった。「本国の規律」と「人道的な立場」で葛藤し、彼は、ビザを発給することを選んだのであった。戦争の拡大により、領事館からの退去も決まっていましたが、その直前までビザを発給し続けた。その結果、「6000人」ものユダヤ系の人々を救うことになった。戦後、日本へと帰国した彼を待っていたのは、無断でビザを発給したことへの退職通告であった。彼の行動が知られるようになるのは、1969年のことであった。彼のビザにより命を救われたイスラエルの政府高官が、人道的な観点から独断でビザを発給した経緯を知り、その行為を賞賛、イスラエルで表彰された。これにより、彼の行動が広く世間に知られることとなったのであった。日本で彼の名誉が政府により正式に回復されるのは、更に月日を経た2000年のこと。彼の発給したビザは、現在では「命のビザ」と呼ばれている。葛藤の後に、「命のビザ」の発給を宣言したのが「1940年7月29日」だったと。その直後の「1940年8月3日」にリトアニアはソビエト連邦に併合されてしまった。すぐに日本やソビエト連政から退去命令が出たが、無視し、自身が退去する「8月末」までビザを発給し続けたのであった。正面のテレビ画面では杉原千畝の生涯、足跡がビデオで紹介されていた。以下の写真は、『杉原千畝Sempo Museum』👈リンク のホームページから転載させて頂きました。「米IT大手グーグルは7月29日、検索画面トップのロゴマークに日本の外交官、杉原千畝(1900〜86年)をあしらった1日限定の記念デザインを採用した。この日は、40年にリトアニアで領事をしていた杉原が本国の方針に反してユダヤ難民に日本通過ビザの大量発給を決断した日とされ、ナチスドイツの迫害から多くのユダヤ人を救った杉原の行為をたたえたものだ。グーグル本社が作成した今回の記念ロゴは、見開きのパスポートに杉原の顔が描かれたデザインで、「Google」の文字の部分がビザのスタンプ風になっている。また人の形が多く描かれ、杉原が出した「命のビザ」で救われた数千人のユダヤ人を表現している。」と。右下には「LITHUANIA:リトアニア」の文字が記載されていた。イスラエル、ポーランドなどから贈られたメダルや勲章など貴重な品の数々を展示されていた。カウナス(KAUNAS)に赴任したのは、「1939年8月末」。命のビザが発給されたパスポート。杉原千畝略年譜。約6000人の「命のビザ」・「杉原リスト」。「決断のスタンプ」が置かれた机が正面右に置かれていた。「決断のスタンプ」。以上の写真は『杉原千畝Sempo Museum』👈リンク から転載させていただきました。この日の記念に「決断のスタンプ」を頂いたパンフレットに押しました。記念にクリアーファイルを購入しました。ミュージカル『SEMPO』-日本のシンドラー杉原千畝物語 の再公演の予定はあるのだろうか?そして、バルト3国のリトアニアの元日本国在カウナス領事館、現杉原千畝記念館を私が訪ねたのは、2017年4月22日👈リンク。以下の写真は、当時の私がリトアニアの元日本国在カウナス領事館、現杉原千畝記念館で撮った写真です。正門には「希望の門 命のヴィザ」 の文字が。『元日本国在カウナス領事館、現杉原千畝記念館』入口。正面の窓が当時の執務室。門の前に集まるユダヤ人に次々にビザを発給していたと言われているのだ。リトアニア日本領事館前でビザ発給を求めるユダヤ人 1940年7月。「命のビザ」を発行した机。杉原千畝の家族の写真。左から(敬称略)奥様・杉原幸子、長男(弘樹)、次男(千暁)、杉原千畝、奥様の妹(菊池節子)。元日本国在カウナス領事館で働いていた人々と杉原千畝の家族の写真。杉原千畝が領事館から退避し、自ら列車にてリトアニアを避難する寸前に滞在していたホテルこそが、このホテル・メトロポリス。このホテルでもひたすら最後まで通過ビザを書き続けていたと言われる歴史を作ったホテル。プレートには1940年8月28日~9月4日まで滞在し、「命のビザ」を発給し続けたと。そしてカウナスの中心部で、今も当時のままに営業を続けていたのであった。リトアニアの首都ヴィリニウスにも杉原千畝の記念碑が建っていた。更に岐阜県八百津町にある「杉原千畝記念館」👈リンク を訪ねたのは2017年11月23日。こちらは杉浦千畝氏の生まれ故郷なのであった。ここでも入場券(パスポート)に「決断のスタンプ」を押したのであった。そして今年2019年6月20日に訪れたハルビン(哈尔滨)の『旧日本総領事館跡』杉原千畝は外務省に採用され、ハルピンの日本総領事館にロシア係として勤務していたのはこの場所であったと。そしてウィキペディアより『杉原千畝 語録』です。・「私に頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く」。・「私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれない。 しかし、私には頼ってきた何千もの人を見殺しにすることはできなかった」。・”Vaya con Dios!"-- 千畝の激励としてソリー・ガノールが記憶している言葉。・「世界は、大きな車輪のようなものですからね。対立したり、あらそったりせずに、 みんなで手をつなぎあって、まわっていかなければなりません・・・。 では、お元気で、幸運をいのります」 --ビザ発給の際にある難民にかけた 千畝の励ましの言葉。・「全世界に隠然たる勢力を有するユダヤ民族から、永遠の恨みを買ってまで、 旅行書類の不備とか公安上の支障云々を口実に、ビーザを拒否してもかまわない とでもいうのか? それがはたして国益に叶うことだというのか?」・「新聞やテレビで騒がれるようなことではない」・大したことをしたわけではない。当然の事をしただけです」。・「難民たちには、男性だけでなく、女性や老人、子供までいた。みな明らかに 疲労困憊している様子だった」。・「あの人たちを憐れに思うからやっているのだ。彼らは国を出たいという、 だから私はビザを出す。ただそれだけのことだ。」-- モシェ・ズプニックが聞いた言葉。本国の考えに背き、また困難な状況であっても力の限りビザを発給し、ユダヤ人を救おうとした杉原千畝の勇気と人道性は、日本人として、「感謝」 「感動」「感銘」 「感服」 「敬服」。皆さん、一度訪ねてみてください。
2019.08.16
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昨日、8月14日午后に妻と我が実家に帰り、盆参りをしてきました。といっても我が実家は我が家から徒歩にて数分の場所。お盆は地域によっても違いますが、我が実家では今日8月15日を中心として8月13日~16日の4日間、故人を偲び、ご先祖様や精霊が家族のもとに帰って来て一緒に過ごす日なのです。13日の日に夕方早めに迎え火で故人を招き、16日には夜遅くに送り火で見送りをします。お盆は仏教行事としての正式な呼び名は「盂蘭盆会(うらぼんえ)」と言い、「お盆」は盂蘭盆会から変化して現在では親しみやすくそう呼ばれる様になったようです。我が家の周辺では、お盆の迎え火は、家の門の近くの屋敷内に小さな四角の土の盆塚(祭壇)を造り、その周囲にオガラを刺し、盆花を添えて準備をして、この土の盆塚(祭壇)の近くで、藁とオガラを燃やし、お迎え火としています。私が子供の頃は、この盆塚を作るのが私の仕事でした。畑の土を持って来て、土を箱に詰めるのではなく、四角く土を固めここに上る坂道も造った事を今、懐しく想い出しています。オガラとは麻の茎の皮をむいたもので、オガラの火に向かって煙に乗って先祖がやってくると言われています。8月13日のお盆の始まりの夕方に焚くことでこの世に帰ってくる時が来たよ、帰る場所はここだと知らせているのです。迷わず帰ってこれるようにと目印を出しているのです。併せて、この場所に、キュウリとナスで造った精霊馬(しょうりょううま)を置きます。精霊馬とは、お盆に飾られるご先祖様をお迎えしたり、お送りしたりする乗り物のこと。ご先祖様は東から来ると言われているので、迎え火、送り火の時はキュウリは西向き、ナスは東向きに置くというのが我が実家のやり方です。ご先祖様がいち「早く」家にたどり着いてほしい願いを込めて、キュウリを足の速い馬に見立てて作ります。我が家でゆっくりしていただいたあとは、あちらの世界にお戻りいただかなくてはいけません。名残り惜しい気持ちを込めて、「ゆっくり」と帰っていただくために、ナスを牛に見立ててご先祖様をお送りするのです。また、様々なお供え物をあちらの世界に持って行っていただくように、牛に荷物を持たせるという意味合いもあるとの事です。蓮の花の盆花です。蓮の花を供えると、祖先が花びらを舟にして帰ってくるのだと昔、祖母から。そして我が実家のこの日の祭壇です。私が子供の頃には、細い竹を門型に置き、そこに鬼灯(ホオズキ)や稲等を吊るしていました。鬼灯(ホオズキ)はふっくらした形と炎の様なオレンジ色から、お盆に帰ってくる、ご先祖様や精霊が迷わずに帰って来れるように「鬼灯」の文字からもわかるように灯りとしての道しるべになる様に提灯(ちょうちん)に見立てられ、仏壇や盆棚、精霊棚に飾られたのです。我が菜園で収穫したスイカも供えました。反対側から。これがお迎え火に活躍したキュウリの精霊馬です。右のナスの牛は送り火から帰る時にご先祖様が乗るのです。こちらは精霊馬用の餌、ナスの角切りを里芋の葉の上に盛り付けた「水の子」と呼ばれるものも供えます。左は「水の子」に水をかけるのに使われる香の葉(樒(しきみ))で作ったミソハギの代用品。そしてご先祖様にはご飯やオハギを。昨日はご飯と煮しめでした。我が実家の、日蓮宗の掛け軸。「南妙法蓮華経」「明治二十七年」、「龍口寺」の文字が。明治二十七年は1894年ですので、この掛け軸も125年を経ています。仏壇に近づいて。日蓮聖人像。我が実家の念持仏。そして15時過ぎに我が実家の檀家寺の住職が盆供養に来てくださいました。我が実家先祖代々之霊位牌。私の両親の位牌。毎年、この位牌を見て命日を再確認しています。父の命日は中国で天安門事件(1989年)が起きた日なのです。そして今年は父が亡くなってから30年、母は25年経ったのです。合掌そして感謝!!我が祖父母の位牌。祖父が亡くなったのは私が4歳、祖母は16歳の年齢の年でした。明治時代の先祖の位牌。「弘化」の文字の入った位牌。「弘化」とは1844年から1848年までの期間を指す。171~175年前の位牌。「仁孝(にんこう)天皇、孝明(こうめい)天皇の代の元号。前元号は天保(てんぽう)。次元号は嘉永(かえい)。1844年(天保15)12月2日改元。江戸城大火などの凶事を断ち切るために行われた(災異改元)。弘化年間の江戸幕府の将軍は徳川家慶(いえよし)(12代)。1846年(弘化3)に仁孝天皇が崩御し、皇子の孝明天皇が即位した。」と。「文化十三年」の文字のある位牌。「文化十三年」は1816年、203年前の位牌。「文化」は享和の後、文政の前。1804年から1818年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇、仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉。町人文化が顕著に発展した時期であると。我が〇〇家は寛永年間の1630年代からスタートした事が解っているのです。亡き父が檀家寺に通い調べ上げたのです。よって現在までの「過去帳」もあるのです。それによると、私は初代から数えて18代目の次男坊なのです。約400年で18代ですので約22年/代という計算になります。久しぶりに兄妹4人が全員夫婦で元気に集まり、ご先祖に感謝しながら思い出話をご先祖の前でビールを飲みながらしばし語りあったのでした。お盆は祖先、故人だけでなく、身近な人とのかかわりを更に深める機会になっているのです。
2019.08.15
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この旅行の最終日(7月26日)は日本への帰国の日、早朝4:30前には起床する。『大連日航飯店』の部屋からの光景。時間は5:01。早めにフロントに行きチェックアウトし、朝食のサンドイッチをもらい、ロビーで食べる。そして出発の時間6時には全員揃い、大連空港に向けてバスで出発。昨日夜に歩いた『旧日本橋・現勝利橋』を渡る。『俄罗斯风情街』の1本東側の上海路を走ると、ここにも旧ロシア人街風の建物が。こちらにも。『北海公園』を左に見ながら『先进街』に向けてバスは進む。右手に『东联路』。『迎賓路』を大連空港に向かって走る。『大连国际机场宾馆(Dalian Intl Airport Hotel ホテル)』が前方に。『迎賓路』沿いの地球儀の如きモニュメントには中国の姿が。『大連国際空港駐車場入口』が前方に。『大连国际机場集团』ビル。大連国際空港ターミナルが姿を現す。正式名は『大連周水子国際空港(だいれんしゅうすいしこくさいくうこう)』開港時から現在の正式名称にも含まれている「周水子」という名前は、ここが周水子という地名であったことが由来で、近くにも周水子駅ある。市街地の北西に位置し、旅順北路に面していて、街の中心地から車で約20分の場所にある。また、大連空港は軍民共用空港であるため、中国人民解放軍の軍用機も駐機・離着陸している。町に近く、歴史ある空港であるが、その限界に近付いており、大連金州湾国際空港(Dalian Jinzhouwan International Airport)が渤海の金州湾の埋立地に建設中であるとのこと。『大连国际机場』ターミナルビルに到着。『DALIAN』の文字。これは英語名。漢字は『大連』で簡体字・『大连』ではなかった。チェックインカウンターに並ぶ。利用便は中国南方航空 CZ629 8:20発 成田空港行き。しばし空港待合室からの景色を楽しむ。空港横には住宅街がギッシリと。そして定刻に搭乗開始。この飛行機は中国の航空会社の『海南航空』。その後ろに管制塔が。そしてほぼ定刻に離陸。時間は8:40。利用便はエアバス『A321』便。離陸し大連湾海上に出て大きく左に旋回。眼下に『和尚島』が。今回の離陸後の飛行ルート。旋回し再び遼東半島上を飛行。大連の街並みが眼下に。そして飛行機は黄海上空を南下し、ソウル南部から韓国を横断し日本海へ。そして日本海を能登半島方面に向かう。そして離陸後1時間弱で食事が配られた。そして金沢市上空から富山市上空へ。右手眼下には、立山連峰の白き山々が見えて来た。北アルプス北部『白馬岳』、標高: 2,932 mであろうか?北アルプスの山々。そして東北地方を斜めに横断し、いわき市手前で大きく右旋回し南下し成田空港へ。そして成田空港に着陸。時間は日本時間の12:10。飛行時間は予定通り約2時間50分あまり。青空は垣間見えたが、未だ梅雨空。飛行機を下り、利用した中国南方航空便を振り返る。到着ゲートを進む。日本に戻ったことを実感する『迎』の文字が今回も迎えてくれた。武田双雲氏の書であるようだ。そして入国、税関手続きも無事完了し、トランクも受け取る。お世話になった添乗員、旅友に挨拶を済ませ、旅友Sさんの愛車に乗り帰路につく。新空港自動車道・成田料金所を通過。東関東自動車道・幕張を通過。湾岸道路の東京港トンネル。東海JCT手前を通過。渋滞もなく順調に進む。そして横浜新道に入り、無事我が家の駐車場まで送ってもらったのであった。時間は14:30で成田空港から1時間30分で到着したのであった。戦後74年を経た、旧満州:中国・東北地方7名所を8日間で訪ねる旅であった。訪ねた都市は下記の7都市の各名所。★黒龍江省 ハルビン(哈爾浜)★吉林省 長春(旧 新京)★遼寧省 瀋陽(旧 奉天)、本渓、丹東(旧 安東)、大連、旅順★哈爾浜(ハルビン)中国旧満州(現在の東北地方。中国では「偽満州」とよぶ)の哈爾浜市は中国最北の黒龍江省の省都で、人口1060万に達する大都会であった。もともとは旧帝政ロシアによって19世紀末から20世紀初頭にかけて建設された街で、その後の日本統治を経た現在でもロシア風の建物が多く残されるなど、歴史的にも観光地的にも興味深い街なのであった。ロシア正教やユダヤ教などの教会が残り、異国情緒ただよう街並みは、他の中国の都市とは異なる雰囲気を有していたのであった。しかし、今回この街では、ロシア人はほとんど見かけなかったのであった。東方の小パリ・小モスクワとも呼ばれていて、広場や公園の管理も徹底され美しい街並み。冬はマイナス20~30度にもなり、壮麗な氷雪祭りも有名とのことだが、冬の哈爾浜(ハルビン)の街並みそして中国で5番目の大河であり全面凍結する松花江の世界三大氷祭りも訪ねて見たいと思ったのであった。『中央大街』はアジア最大の石畳の目抜き通り。ハルビンを代表する歴史的な大通りで、ロシア語でキタイスカヤと呼ばれ、昔は中国人街であったと。その規模は、全長1450m・幅21.34m(内、車道の幅は10.8m)。ロシア統治時代の建築物が数多く残され、「東方のパリ」とも称される西洋風の街並みが一直線に松花江に向かい、南は経緯街(十字街)から北は松花江防洪記念塔まで伸び、大いに賑わっていたのであった。一つ心残りは『侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館』を訪ねる事が出来なかったこと。★長春(新京)満州国時代の首都で新京と呼ばれていた街。そのため、当時のゆかりの施設が多数あった。代表的なものが「偽満皇宮博物院」で、溥儀の宮廷府を博物館にしたものであった。そして当時の関係資料、写真が多数展示されていたのであった。緝煕楼は中に入ると階段も廊下も皇宮と言うには余りに狭く、部屋も大変質素であった。観光客が多く、廊下ですれ違うのもたいへんなほどで、芥川龍之介が「夢魔」と形容したあの巨大な北京の紫禁城からすれば、溥儀にとっては、まるで物置に住んでるみたいに感じていたのではないであろうかと。★瀋陽(奉天)奉天は清朝の故地であり、郊外には北陵(歴代の皇帝陵墓)があった。市内中央部中街に位置する瀋陽故宮は、清朝の初代皇帝、太祖ヌルハチ(努爾哈斉)と2代皇帝、太宗ホンタイジ(皇太極)により建立された皇城であった。北京の「故宮」の12分の1の大きさではあったが、500以上の部屋を持つ70以上の建物が建ち並び、満州族の威厳と風格が感じられたのであった。そして『大政殿』前での清代の舞踊劇を楽しんだのであった。大都会の中にあったが、この一角だけ昔の中国らしい空間で、時間の流れもゆっくりになるような感覚を味わえたのであった。その他観光ルートには尽きるところがない瀋陽。★本溪本渓水洞(ほんけいすいどう)は遼寧省にある鍾乳洞で、内部のほぼ全体が池になっていて電動船での見学であった。鍾乳洞の長さは2800メートルとのことであったが、内部のライトアップが私にやや興ざめなのであった。私としては『金州観光』に変えて欲しかったのであったが。★丹東丹東は鴨緑江を隔てて朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と接する国境の街であった。朝鮮族が約2万人居住していて、中朝貿易最大の物流拠点であり、その7割以上がここを通過すると言われているとのことであった。朝鮮戦争の際に国連軍の爆撃によって破壊され不通になっている鴨緑江に架かる『鴨緑江断橋』を先端まで歩いて見学し、『鴨緑江』のクルージングも。米朝首脳会談のため、金正恩朝鮮労働党委員長が鉄道で中国に向かって渡った『中朝友誼大橋』など、メディアをにぎわせる話題に事欠かない場所だが、対岸に拡がる北朝鮮の新義州の建物と丹東の高層ビル群の林立する姿を目の当たりにし、国交があり友好国?そして最大の輸出入国である中国との北朝鮮の国境の現実である事もこの旅行で知ったのであった。★大連遼東半島の南端にあり、「北海の真珠」とも呼ばれる港町。黄海と渤海に面し、海を挟んで南側には山東半島がある。坂道の多い街並みには洋館が立ち並び、エチゾチックな雰囲気が漂っていた。19世紀末に帝政ロシアの租借地となり、1904年の日露戦争以降は日本の支配地となったのだ。この時に造られた放射線状に並ぶ道路や大同広場(現中山広場)、大和ホテル(現大連賓館)などが今も残っていたのであった。大連は、ロシアが中国に進出した際、フランスのパリのような街にしようと開発した場所。したがって、中国には珍しいハイカラな街並みが未だの残っていたのであった。日露戦争で勝利した日本は、そのロシアの考え方を受け継ぎ、美しい街の建設に努めたのだと。日露戦争については、司馬遼太郎の渾身の大著『坂の上の雲』が。大連~旅順を訪ねた今、もう一度『坂の上の雲』を読み返して見たいと思っているのである。そして、昨年、2018年5月7、8日に北朝鮮の金正恩委員長の2度目の訪中となった際に中朝首脳会談が行われた『大连棒棰岛』も訪ねることが出来たのであった。★旅順日露戦争の戦跡=「聖地」?をめぐったのであった。激戦地となった203高地、ロシア軍の堅固な要塞がそのまま残る東鶏冠山、乃木大将とステッセルの会見の舞台である水師営など見どころは尽きなかったのであった。戦跡周辺の山の木々は、あえて伐採されて戦争当時の殺伐とした雰囲気を感じるようにされているのではとも。旅順の戦跡を巡ることによって、日露戦争で斃(たお)れた多くの兵士に思いを馳せ、彼らの犠牲の上に現在の日本の発展と満洲の躍進があることを再確認したのであった。そして今回の旅行で一番感じたことは、満洲国時代に日本人によって建てられた建造物が、戦後74年経た現在でも数え切れないほど残っていて、その多くが今も重要な施設として大切に使われ保存されていたこと。中国人にとって見れば、ある意味では『負の遺産』であり、直ぐにでも破壊しても不思議ではなかったと私は感じているのであるが。あくまでも個人的な考え方であるが一つの理由は、この『負の遺産』をナショナリズムの高揚につなげようとする側面があった事は否めないであろう。つまり、植民地支配という負の歴史が刻まれた建造物を憎悪の感情から短絡的に破壊してしまうのではなく、それらを敢えて残すことによって、その負の歴史を乗り越えて、現在の中国の発展があるのだ、という意識を中国国民に植え付けようとしているのではないかと。そしてもう一つは、「歴史的・文化的価値の認識」の側面。満州国時代の建造物の歴史的・文化的価値が中国人にも理解されたということではと。首都・ 新京(現・長春)の官庁街に多く取り入れられた「帝冠様式」は、五族協和という満洲国のイデオロギーを体現した建築様式であったが、戦後の国民党政府、さらには中華人民共和国が成立した後も、同様の様式がそのまま「民族形式」という名の下で採用され、中国ナショナリズムを体現する様式になったのではなかろうか。特に近年では、中国の対外的な開放が進み、多くの観光客が期待できるようになったために、こうした歴史的建造物を積極的に観光資源として活用し、ツーリストマネーに繋げようとする動きが加速しているのも否定できないのではと。そして我々の今回のツアーもこのツーリストマネーに繋がる動きの上にまさしく載っかっているのであった。しかし一方で韓国では、日本による支配は恥ずべき歴史であり、日本の近代建築や敵産家屋は否定性に満ちた「負の遺産」という認識があるため、破壊すべき、との声も多いとのことが以前の報道で。ちなみに日本統治時代の名残は、韓国では「日帝残滓(일제잔재、イルチェジャンジェ)」と呼ばれていると。「残滓」は残りかすという意味。建物に限らず、言葉や文化も同様だと。しかし一方では、京城府庁舎として使われていた建物は、2012年までソウル市庁舎として使われていた。老朽化もあり、その後ろに建てられた新庁舎に機能が移ったが、文化財に指定されるとともに今は図書館としてリニューアルを遂げ、新たな形で活用されていることも事実のようだが。災害や戦争など死や苦しみと結びついた場所を旅する行為は「人類の悲しみの記憶を巡る旅」であり、悲しみを経験した人々に思いを馳せ、悼み、祈る気持ちを抱き、これを子供たちに伝えていくことも我々の義務であるとも考えているのである。そして、私の部屋にあるテレビは今『第2次世界大戦後に旧ソ連・シベリア地域に抑留されて亡くなった日本人の遺骨として厚生労働省の派遣団が5年前に持ち帰った16人分の遺骨について、日本人のものでない可能性が高いことを、厚生省は昨年から把握していたにもかかわらず公表していなかったことが7月29日、明らかになった。』とのニュースが。最後に中国東北部の都市開発、新幹線網の発展のスピードに驚いたのであった。今回訪れた都市は、日本以上にビルの高層化が進み、高速道路網の発展にも驚いたのであった。大都市内での車の過剰に拠る渋滞は更に深刻化していた事は明らかであったが、都市を繋ぐ高速網の発展のスピードは目を見張るものがあった。そして新幹線網の発達にも驚いたのであった。利用した新幹線は、日本国内の新幹線と勘違いするほどのスピードと安定感を有していたのであった。そして新幹線の駅舎は、空港ロビーとこれも勘違いするほどの造りになっていたのであった。中国の新幹線技術の発展は、川崎重工業が東北新幹線「はやて」をベースに技術供与したものであると。中国側はこれを「独自開発した」と主張して国際特許出願にまで踏み切ったのだと。JR東日本と組んで新幹線の車輌(技術)を提供した川崎重工業の契約が杜撰で「技術を盗んでください」といっているようなものだったことが、新幹線技術を中国に盗まれる原因となったのだと。川崎重工業とJR東日本による中国への新幹線技術の売り込みに一貫して反対していた人物は「中国に新幹線のような最先端技術を売ることは国を売るようなものだ」とまで言って反対していたのだと。中国側は「技術供与を受ける際、巨額の特許料を支払っている。合法的な使用は“盗作”にはあたらない」と反論しているのだと。「350kmの技術があるのに、なぜ250kmの技術を盗まなければならないのか」とも。日本国内の鉄道網の整備が飽和状態となる中、海外に活路を求めざるを得なかったのだとも。高速鉄道に加え、地下鉄などの数多くの大型の都市鉄道計画を持つ巨大市場、中国に目がくらんだのだとの指摘も。侃々諤々(かんかんがくがく)の中で真相は如何に??中国高速鉄道網。中国の高速鉄道網は、運行開始から10年の間に猛烈なペースで拡大。営業距離は17年末時点で約2万5,000キロと日本(約3,100キロ)の8倍に達し、世界一の高速鉄道大国に成長しているのだと。 【https://www.nna.jp/news/show/1787778】よりそして最後に、このツアーは参加人数11名の少人数、男性4名、女性7名の賑やかな、いや賑やかすぎる?そして当然ながら女性優位の旅であったのだ。しかも平均年齢は70歳前後であろうか。しかし、年齢的なことも在り、全員が「PUNCTUAL」そのものであった。集合時間の10分前には既に全員が揃っているのが当たり前の中でのツアーであった。しかし、ベテラン添乗員&現地添乗員が、匠の技で女性陣?をコントロールし、途中からは、ツアー仲間同士が毒舌を交えた冗談や会話が出来る、楽しい旅となったのであった。そして今回のベテラン添乗員への感謝と、また何処かで一緒に旅をしたいと思っているのである。さて次回の海外の旅は何処へ?ブルガリア、ルーマニアの5つの世界遺産を訪ねる旅であろうか? ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2019.08.14
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旅順から大連市内にバスは戻り、このツアーの「最後の晩餐」会場に向かう。場所は大連・中山広場の近く、人民路に沿った『天天渔港』。いろろな、受賞銘板が入口に並んでいた。様々な旨そーなメニューが。「最後の晩餐」会場。そしてビールを注文し料理を待つ。青梗菜。そしてポテトスティックと??最後の晩餐?と言うことでカレイ?の刺身も。「えんがわ」をたくさん楽しみました。様々な野菜も。そして「最後の晩餐」を堪能し、店を後にする。店の出口には鮮魚や海鼠類も。貝類、海老、蟹も水槽の中に。そしてまたまたこれを発見。「カイコ」や「サナギ」!!。正確にはカイコ(蚕)といえば桑の葉を食べるあの生き物ですが、中華料理店で出される「カイコ」は、違う生き物。たいていは便宜上カイコと呼んでいるだけで、「サクサン(柞蚕)」というヤママユガ科の蛹(さなぎ)なのだと。そして連泊のホテル、大連・日航飯店に戻る。そしてしばしの休憩後に我々二人は、近くにある夜の『旧ロシア人街』の散策に出掛けたのであった。時間は19:30過ぎ。『旧 日本橋(現 勝利橋)』を渡る。1907年(明治40)に架けられた旧日本橋はロシア街を正面に見て右側。美しいアーチ状の構造をしていることが分かったのであった。1905(明治38)年2月11日にロシア統治時代の「遠い街ダルニー」から「大連」へ名称が変更され、日本の本格的な統治が始まった。日本橋は現在の中山広場(旧、大広場)から西北へ上海路(旧、大山通)を直進した先にあった。この橋は現在は「勝利橋」と呼ばれ、大連港と大連駅とを結ぶ鉄道を跨ぐ陸橋で、今もそのまま残っていた。そのまま渡って、旧ロシア人街(団結街)へ入って行ったのであった。橋の途中から『芙蓉国际酒店』が前方に。橋の下には大連駅に向かうCR(中国国家鉄路集団)の電車が頻繁に。ピンクの『インターコンチネンタルホテル』。そして再び大連駅に向かう電車が。勝利橋を渡るとそこが旧ロシア人街。ここでは新旧のロシア風建物を見ることが出来たのであった。 1898年ロシアは遼東半島南部を99年間の期限で租借し、「遠方」という意味の「ダリーニ」と名付けた。大連の都市構造の基本はロシアによって作られたわけである。1904年に日露戦争が始まると、大連はわずか3ヶ月で日本軍に占領された。日本統治の後、1945年から10年間、大連は再びソ連に接収された。日露戦争までの僅かな期間に完成した建物がここにはある。2000年に古い建物なども活用して復元整備された町並みで、まるでテーマパークのような雰囲気であった。というか、実際にテーマパークの如き施設もあったが、古いのかレプリカなのか、全くの新規建造物なのか、よく解らない建物が並んでいたのであった。橋を渡って直ぐ正面の建物は『东清轮船会社旧址』。旧ロシア人街の入口に建つこの象徴的な建築物は、1900年に東清鉄道汽船会社の社屋として建てられたもので、日本時代は「日本橋図書館」であったと。建物は、ドイツ式の建築となっている。説明によれば、ロシア人がドイツ人技師に設計を依頼したものだという。当時、ロシアよりもドイツの技術が優れていたから、ドイツの技術を積極的に導入しようとしていたのだろう。現在は「大連芸術展示館」という美術館になっていると。大連と北九州は姉妹都市で、これに似た建物が門司港にもあるのだと。日本時代には舞踏場として賑わい夏目漱石も訪れていると。しかし、残念ながら、この建物は再建されたレプリカであるようだ。現在の復元された建物は、取り壊し前に北九州市門司港に作られたレプリカを参考に忠実に復元されたものであると。こんなこともあるのかと驚き!!北九州のレプリカは、姉妹都市である北九州との友好都市締結15周年を記念して1994年にと建築されたものであると。そして、私もその『門司港にある建物』👈リンクを2011年に訪ねたことがあることを、先程思い出したのであった、『东清轮船会社旧址』。『芙蓉国际酒店』が入口左に。旧ロシア人街(俄罗斯风情街)は、19世紀末期、大連に港湾施設を建設し、都市開発を進めたロシア人たちが最初につくったエリア。いわば大連発祥の地下の写真は日本統治時代のもので、鉄道をまたぐ旧日本橋(現・勝利橋)の北側の一帯には、ロシア風の街並みが広がっていたと。 【https://inbound.exblog.jp/24019874/】より転載『露西亚(ロシア)町旧址』『大連・俄罗斯(ロシア)风情街』。1898年ロシアは遼東半島南部を99年間の期限で租借し、「遠方」という意味の「ダリーニ」と名付けた。大連の都市構造の基本はロシアによって作られたわけ。1904年に日露戦争が始まると、大連はわずか3ヶ月で日本軍に占領された。日本統治の後、1945年から10年間、大連は再びソ連に接収された。日露戦争までの僅かな期間に完成した建物がここにはあっのであった。かつてこの通りには壮麗なロシア建築が並んでいたが、新中国建設後は老朽化が進み、2000年代に派手なペイントを塗りたくられ、お色直しして現在に至っていると。現在では、このエリアのメイン通りにあたる街を「俄罗斯风情街」と命名し、再開発されていた。歴史的建築物を保護することを目的に、2000年代初めに大連市政府によって着手されたものだが、正直なところ、土産物屋とエコノミーホテルの並ぶロシア風テーマパークと変わっていたのであった。『旧ロシア人街』の地図をパンフレットから。奥に向かって散策を続ける。『旧満鉄総裁公邸』初代大連市役所の少し手前にあるこの建物は東清鉄道の技師長サハロフの官邸として1900年ごろに建てられ、サハロフが市長を兼ねると市長公邸となったと。満鉄設立後は、満鉄総裁公邸を経て、大和ホテルの新築前は賓客の接待にも使われたと。現在は1階はバー(?)、2階は船舶学校の事務所として使用されているようだ。ロシア風情街入り口からだと左手にあった。カメラの設定が変わってしまっていた?中国を代表するエコノミーホテルチェーンの『錦江之星』などいくつかのホテルが。こちらは『全季酒店』。『新海瑪精品店』。塔のある建物は『珍珠』。『珍珠』の説明板は歴史的建築物の説明であると思っていたがよく見ると宝飾店の商品説明か?『福园』。巨大な『マトリョーシカ』が壁に嵌め込まれていた。そしてマトリョーシカのお土産屋も路の両側に。こちらも。『莫斯科购物广場』は「モスクワ購物広場」の意味の店であったが実は漢方薬屋であったのだろうか?その他様々な商店が並んでいた。巨大な朝鮮人参か?『玖恒精品城』カードゲームを楽しむ大連のオジサン、オバサン。この光景を見ると、やはりここは中国なのであった。歩いて来た旧ロシア人街を振り返る。歩道には多くの出店が。『旧 大連市自然博物館』通りのいちばん奥まった場所に、唯一お色直しされておらず、老朽化にまかせるまま、それゆえに独特の存在感のある建築物が建っていたのであった。夜間の無色(黄色?)の照明であったため一層状態が悪く見えたこともあろうが。この建物は最初、東清鉄道事務所として建てられ、1902年には初代の大連市役所、日本統治時代の1907年に満鉄本社、翌1908年に2代目ヤマトホテル、その後、満州物質参考館、満蒙資源館、満州資源館と名称を変更しながら博物館として使われ、新中国時代は1997年まで大連市自然博物館であったとのこと。1998年に博物館が他所に移転されてからは利用されていないとのことだ。その後、一時期オフィスやホテルにも使われたようだが、結局、この歴史的な建築遺構を再利用することなく、今や廃墟同然の姿で現存していたのであった。このまま朽ち果てていくのであろうか?保護・保存活動の予定は?『金帆賓館(俄羅斯風情街)』は現在もホテルなのであろうか。この建物の周辺の円形広場廻りは、時間が停まっているように見えた。100年前からずっとここに建ち、このまちの変遷を眺めて来たのであるが。道路を隔てた隣の建物。更に隣のビル、反時計回りに。そしてこの円形広場からインターコンチネンタルホテルの姿を。様々な色彩に変わる高層ビル。そして帰路に。途中、石畳に毛筆で字を書くオジサンの姿が。0.5~1mほどの木の棒に、筆先をとりつけ、地面に水で文字を書いていくこの書道は『地書』と呼ぶらしい。腕や手の訓練になるだけでなく、立ち姿全体でバランスをとりながら文字を書くことから、一種の全身運動として、引退後の世代に人気なのだと。金がかからなくて健康によい知的な遊びなのであろう。バケツに溜めた水で、太い筆を使って石畳に文字を書いているのであった。『郷』の字も達筆。人によって、楷書、篆書、隷書など専門があるようだ。中国人は、字が上手な人が多いのだが、公園等で書道の練習をしている人は、とにかく上手。西安や北京を訪ねた際にも同様な光景を公園内で何度か見た。中国人にとっては、見慣れた風景のはずだが、見事な字を書く人のまわりには、人だかりが出来ているのであった。旅友を捕まえ書けと。TRYする旅友の姿。年の功で達筆。そして私もオジサンに捕まり特訓を受ける。そして最後に『中日友好』と書くと大いに喜んでくれ、握手の手を差し出してくれたのであった。これぞ『一期一会』の時間と空間なのであった。そして再び『旧 日本橋』を渡る。そして、刻々と色を変える『インターコンチネンタルホテル』の姿を楽しみながらホテルへと戻ったのであった。時間は21時。部屋に戻り、トランクの整理を行い、暫しの反省会の後に、翌朝6時出発の覚悟をし、床についたのであった。そしてこのブログを書く中で、今年(2019年)1月に名古屋から大連を訪ねたツアー参加者の方の『大連市内観光の動画』👈リンク に寄り道をしましたので、ここに紹介させていただきます。このツアーの現地添乗員は、我々のツアーの現地添乗員と同じ「王さん」であったのでした。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.08.13
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『旅順博物館』を後にし、大連への帰路に。ロータリー中央にあった塔のモニュメント。『友誼路』を進む。『旧 師範学校』多分、解体の運命にあるのだろう『部队招待所』・『旧・旅順大和ホテル』。人が立ち入らないように?か、周囲はフェンスで囲まれていた。『部队招待所』。竣工 1903年。1908年に満鉄が旅順ヤマトホテルとして開業。開業当時は15部屋の小規模ホテルだった。この建物は元々ロシアと関係が深かった豪商紀鳳台の私邸を改良したものだと。大連ヤマトホテルと比べると地味な印象な旅順ヤマトホテルだが、多数の歴史的な人物が関わったり、滞在していると。時系列で紹介すると、1909(明治42)年9月15日夏目漱石。1927(昭和2)年11月川島芳子(愛新覚羅顯㺭/金璧輝)とカンジュルジャップの結婚式。1928(昭和3)年5月与謝野晶子・鉄幹夫妻が2泊。晶子は旅順で旅順博物館、粛親王邸、203高地等を訪れ十一首残す。1931(昭和6)年愛新覚羅溥儀が105日滞在。その後、粛親王邸へ移動。1932(昭和7)年2月24日1階レストランで板垣征四郎と満州国建国を祝って乾杯を交す。この旧旅順ヤマトホテルは現在は軍の招待所(ホテル)となっているため原則外国人は中へ入ることも宿泊も出来ないと。いや今は関係者以外は立入禁止か?『友誼路』沿いにあったサッカー像。『友誼路』を更に進む。前方に『白玉山』。右手は中国海軍の施設の入口か?左手に『旅順 勝利塔』。旅順の新市街に位置し、1955年9月に完成した記念塔。終戦から1955年まで前ソ連軍が旅順に駐在、1955年引き上げる時に建てられた、塔の高さは45mで、1945年の第二次世界大戦の終戦年を意味するのだと。先端をズームで。五芒星と月桂樹であろうか?白玉山の山頂に立つ白玉山塔。白玉山は大連市旅順口区の中心市街地にある山。海抜約130m。もとの名前を西官山といった。山頂に白玉山塔が建っている。日露戦争後、東郷平八郎と乃木希典が発案し、1909年に戦没者追悼のために忠魂塔として建立した。11月の落成式に乃木が夫人とともに参列している。当時は「表忠塔」と命名された。中華人民共和国となってから「白玉山塔」と改名された。高さ66.8m。1909年、東郷平八郎と乃木希典の提案で建てられ、塔の基底部には乃木の故郷である山口県から運んできた花崗岩が使われているのだと。日露戦争の戦死者を慰霊し、遺骨を納めていたとのこと。『龙河』を渡る。旅順港が右側に。この付近は旅順軍港に隣接することから近隣に多数の軍関連施設が所在するため、降車して付近を不用意に歩くことは制限されているのだと。ただし、昨今ではかなり緩和され、駅前のホテルに宿泊するツアーもあるとのこと。この写真に写っている『北勤736』はネット情報に寄ると排水量746t、全長65.0m、速度16kts、航続距離800nm(15kts)、37mm連装機関砲2基、25mm連装機関砲2基を有する『消磁船』であるようだ。この種の船に詳しい高校時代の友人から下記の如きメールが「鋼鉄製の船は、必ず磁気を帯びます。機雷は、この磁気に感応して、爆発します。機雷の上を走る掃海艦艇が、木製であったり、FRP製であるのは、非磁性だからです。一般的に、戦闘艦艇は、機雷原のある海域でも、作戦遂行できるよう、消磁装置を作動させます。しかし消磁装置も完璧ではなく、多くの場合、1年に1回、時期測定を実施し、残留磁気が基準値を越えた場合、消磁を行います。方法は、艦に太い電線を巻き、直流電流を流します。中国海軍の消磁船とは、艦艇の磁気測定と、消磁を行うための船と考えられます。」と。そして、その先の『3113』は『哨戒艇』のようだ。右手の海の奥は砲台のあった黄金山であろう。旅順黄金山電岩砲台近くには『旅順黄金山溥儀楼』があるのだと。溥儀楼はヨーロッパ風の建物で、1931年、ラストエンペラの溥儀が長春に入る前までここで過ごしていた。現在、溥儀楼と妃子楼の二つの建物が残っていて、文化財として保護されていると。購入した写真集からの『旅順湾』。左の黄金山と右の老虎尾半島の間に、幅270mの水道があり、要害となっている事が解る写真なのであった。旅順駅が見えて来た。『龙河』再び渡る。『军港之夜主题公园』内の建物。バスを降り『旅順駅』撮影タイム。大連市旅順口区にある旅順支線の終着駅。瀋陽鉄路局の管轄する2等駅で旅順軍港のすぐそばにあった。竣工 1900年、設計 不詳(ロシア人設計士)1898年占領したロシアが要塞と軍港を拡張。鉄道建設に着手。1900年旅順港のすぐ前の前に旅順駅を建築開始。1903年7月に営業開始。大連でも数少ないロシア風木造建築であると。ロシア時代に建築されたものの多くは設計者がドイツ人であったり、ヨーロッパ式の建築様式を取り入れたためロシア風建築はほとんど見かけることはないのであると。中国東北地方の現存最古の駅で、中国国内でも最も古い歴史を有する駅のひとつ。駅舎の屋根の上には『旅順站』の緑の文字があるが、屋根の色と重なって。購入した写真集からの『旅順駅』。旅順駅舎、そして白玉山、その山頂に『白玉山塔』。ズームで。こちらも現地で購入した写真集からの『白玉山』と『白玉山塔』。山の法面には清朝末期の大砲が残っているようだ。『甲午古砲』の文字が会ったので調べてみると『甲午』とは『日清戦争』の事であり「この大砲は1881年、清朝がドイツより購入したカノン砲で、日露戦争中、ロシア軍隊は旅順口の要塞の防御を固めるため、この大砲を西鶏冠山の砲台から、老鉄山頂まで運んでいたが、戦争終結後に白玉山に置かれた。」との情報あり。再び白玉山、その山頂に『白玉山塔』。日露戦争後、東郷平八郎と乃木希典が発案し、1909年に戦没者追悼のために忠魂塔として建立。11月の落成式に乃木が夫人とともに参列していると。当時は「表忠塔」と命名された。中華人民共和国となってから「白玉山塔」と改名された。高さ66.8m。内部には旋転階段があり、21個の窓を設けている。塔の基盤に使った石は山口県徳山から運んできた花崗岩。山を曲がりくねった南北2本の道路があり、また、山の東坡側に、山頂に直行する496級のセメント石段が1本ある。南麓側には、山頂に直行する空中ロープウエーもあり、山頂で旅順軍港及び市街区の風景を一望出来るのだと。旅順の老鉄山にある『灯台』も。ここは遼東半島の先端、もっとも南側の場所で、黄海と渤海の境目。清の時代(1883年)に造られた灯台が今も現役で活躍しているのだと。フランス人による設計。140年近く、海の安全を守って来た。射光距離は48キロだと。『旅順潜艇博物館』の看板。『海軍試験試航招待所』。『長江路』沿いの『鼎泰海景公寓』はアパートであろうか。『旅顺游客码头服务中心』は旅順市観光ターミナル支援サービスセンター。『旅順南路』を進む。塔河湾港の横を通過。この像は?『隐嶺』建設中のビル。『龙王塘街道綜治中心』中国政府の社会主義方針が。そして『星海湾大橋』を渡る。帰路が下側の道路。往路時は上側を走る。山の上の白き塔のある建物は?『北大橋』が横に。この『北大橋』は、姉妹都市の「北九州市」と「大連市」の友好を記念して1987年に建設されたのだと。『北大橋』を渡る。更に進むと『老虎灘海洋公園』のシンボル『群虎彫像』が。この虎の彫刻は、花崗岩を材料として、中国を代表する彫刻家・韓美林による長さ35mの巨大な6匹の虎のモニュメントであると。一人の青年が人魚を襲撃した虎を退治して死んだという伝説から始まった『老虎灘海洋公園』。『老虎灘海洋公園』は面積118万㎡もあり、途方もなく広い国立風景名勝区。敷地内にはたくさんの見所があり、中国最大規模の水族館(海獣館)もあるのだと。上空にはリフトも。三面が海の小さい半島と三面が低い山で囲まれた海湾が連結して公園を成し遂げている所で向い側海岸まで短距離ケーブルカーで渡っていくことができる。前日に対岸まで訪ねた『棒錘島』に行く遊覧船も出港しているのだと。停泊中の海軍の船。『 大連老虎灘極地海洋動物館』。老虎灘湾の橋を渡る。この踊る?いや抱き合う?像は?女性は人魚?人魚を救っている英雄の彫刻? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.08.12
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『203高地』を後にし、『革新街』をバスは進む。左手には『大連市大五十六中学』が。『新华大街』への入口を通過。『新华大街』を東に進む。『肃亲王府旧址』。清朝八大親王の筆頭 粛親王の旧邸宅であると。1900年にロシア人経営のホテルとして建築。建物面積1058㎡。1904年までホテルとして使用された後、1905~12年までは関東軍民生部長官が使用。1912~1945年まで粛親王一族の邸宅として使用した建物であると。「東洋のマタ・ハリ」「男装の麗人」と呼ばれた川島芳子が5歳から8歳ごろまで暮らした他にも、1932年には新京(長春)移動前の愛新覚羅溥儀が妻の婉容とともに滞在していると。1945~55年前ではソ連軍進駐管理。1955年に中国返還。以降は人民解放軍が管理していると。『肃亲王府旧址』。大連市旅順口区新華大街9号。『钱幣博物馆』『中苏友誼紀念塔』。中ソ友誼記念塔は、旅順の新市街、旅順博物館と旧関東軍司令部の間に建っていた。1957年の竣工で、高さ22.2メートル。旅順といえば、日本人にとっては二〇三高地や白玉山塔が定番の名所であるが、ロシア人にとってはここなのであろうか。塔には、中ソを代表する建築物や両国の人々が友好を深める場面のレリーフが。天安門広場とクレムリン・トロイツカヤ塔そして牡丹の花が。頂上には、ソビエト連邦の国旗に記された鎌と槌そして中国側は「五星紅旗」。大星は中国共産党と人民の団結を、4つの小星はそれぞれ労働者・農民・知識階級・愛国的資本家を表わし、黄色は光明を象徴する。また同時に、大星は中国本土を、4つの小星はそれぞれ満州・モンゴル・ウイグル・チベットを表わすとも言われる。経済学者でもある曾聯松のデザインによるもので、1949年9月に制定された。そしてその上には鶏冠の大きい鶏?が。『中苏友誼紀念塔』。『旅順・旧関東軍司令部』。旅順新市街に位置し、旅順博物館の向かい側にある建物。建物が観光用に開放されていると。日露戦争の時、旧日本軍が遼陽にて関東総督府設置したが、1906年に旅順へ移転した、関東都督府へ改称し、下に陸軍部を設けた。1919年、都督府がなくなり、陸軍部は関東軍司令部となった。当時の司令官は立花小一郎。1932年、旧満州国が長春にて成立されたが、同時に関東軍司令部も長春へ移転した。それまではここが泣く子も黙る関東軍の本拠地だったのだ。関東軍とは陸軍の一部だが、なぜ関東軍は天皇の意思に反してまで、ここまで暴走することが出来たのだろうか。昭和天皇は、張作霖爆殺事件の時、その真相について曖昧な説明で誤魔化そうとした田中義一首相に辞任を求めたり、満州事変からも対米開戦までずっと平和協調主義をとっていた。にもかかわらず関東軍が強気に出られたのは、中国大陸の鉱山の利権や満州の農業・工業に日本経済の命運がかかっていたからなのであろうか。その様な旧関東軍司令部の建物が今は観光用になり、建物内には当時の物と写真などが展示されていると。ここも内部を見たかったが、ツアーコースには入っていなかったのであった。そして『旅順博物館』。浄土真宗本願寺22代法王・大谷光瑞は、若い頃イギリスに留学しすっかり西洋かぶれし、帰国後、門徒にオルガンに合わせて「讃美歌」ならぬ「賛仏歌」を歌わせる傍若無人ぶりを発揮。さすがに皆の反感を買い、法王の座を弟に譲ると、何を思ったのか突然探検家になると言い出し、シルクロードへ発掘の旅に出た。ここ旅順博物館は、その大谷光瑞が1902年から1914年に発掘したお宝をメインに展示している博物館なのだ。もともとはロシア将校クラブとして起工され未完成のままだったが、1917年に日本が考古館としてオープンさせたのだと。近づいて。全国重要文物保存単位の文字とともに『関東庁博物館旧址』の文字があった真新しい石碑.右足の下に球を抑え込んだ雄の狛犬。『旅順博物館』入口。『旅順博物館』の扁額が懸った建物正面光景。郭沫若の揮毫のようです。文化大革命中の1972年からは、一時閉鎖されていたと。斜め横から。無料開放の連絡パネルであろうか。ここ中国遼寧省大連市旅順口区にある1917年開館の旅順博物館は、2006年に全国重点文物保護単位に指定され、2008年に第1期国家1級博物館に選ばれた。同博物館は国家1級文物200点を含む文化財6万点余りを所蔵しているのだと。『旅順博物館平面配置図』。『铜钟』。元代(公元1271年~1368年)。元国は大元元朝とも呼ばれ、中国とモンゴル高原を中心とした領域を支配した。日本への蒙古襲来は、鎌倉時代の1274年の文永の役と、1281年の弘安の役の2度。主に九州北部が戦場となった。モンゴル帝国とその属国の高麗王国の艦隊が押し寄せた。それまでの戦役では、世界史上最大規模の艦隊とされると。『青銅工芸陳列室』。商代の青銅器。『田告罍』。『铜鼓』。大きな戦いなどの時に、戦場に持ち込んだ太鼓であろうか、中国南部からインドシナ半島,インドネシアに分布する青銅製の片面鼓。起源前2世紀頃に始まり、近代まで作製されていたと。『戈』。『陶瓷工芸陳列室』。『唐三彩』コーナー。『唐三彩文官俑』。『唐三彩』の駱駝。『唐三彩』の馬。『三彩印牡丹紋图盘』『緑釉扁身双孔式皮嚢壺』(左)と『緑釉圆身环梁式鸡冠壺(右)』『粉彩福寿紋長顎瓶』(左)と『粉彩八宝紋盘』(右)。『青花錦紋綬帯耳扁壺』。『素三彩双花戏珠紋盘』。『釉里紅花紋長顎壺』。シルクロードで大谷が発掘したミイラの展示室を入口から。内部は撮影禁止。『大雅斋款黄地墨彩四季花卉图缸』『静远堂制粉彩梅雀纹转心瓶』美しい色彩の壺。こちらも。美しい仏像。四天王像。左は琵琶を手にしているから、『東方持国天』右は『北方多聞天』。『南方増長天』。『西方広目天』。『羅漢像』。ズームで。羅漢像(左側)ズームで。羅漢像(右側)。『佛降魔成道座像』。1階に飾ってあった仏像。阿弥陀仏銅立像。余り目にしたことが手印の像。明代(1368〜1644年)の製作。右手は施無畏印、左手は結与愿印と解説されていた。剃髪の姿ですから、螺髪が普通の姿である、仏陀とは違う?。『铜鎏金阿难立像』中国国内外から収集した青銅器、彫刻、磁器、陶器、仏像などの収蔵品を大いに楽しむことが出来たのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.08.11
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『203高地』に向かってバスは新城大街を走る。左手の『世茂寰海城』は別荘案内か?恐竜の像の姿も。更に『春城路』を進む。『ニ〇三景区』と刻まれた石碑を発見。続いて『大連海濱 旅順口』と刻まれた石碑。そして『203高地』 入口門。ピンクの垂れ幕に包まれていた。今年の桜まつりの垂れ幕がそのまま残されているようであった。『203高地』は渤海に突き出た遼東半島の先端部。『旅順港』、『203高地』の位置図。旅順港は細い水路で結ばれた内港と外港から成る地形。旅順港はかねてよりロシアが待望した極東の不凍港であった。ただし、浅水港であり浚渫が不足していたため、喫水の深い戦艦などを内港に停泊させた場合に干潮による着底で艦底を傷めるおそれがあるほか、潮位によって出港不能となった。逆に、浅水であることを利用して、水線下の水雷被害を干潮時に修理することができた。そのため、大型艦船は当初は水深の深い外港に停泊していたが、攻撃が始まると旅順艦隊の主力は内港へ引きこもることが多くなった。また、外港と内港を繋ぐ湾口が狭く浅いことから、湾口に船を自沈させる閉塞作戦が実施されることとなったのだと。しかし、この日露戦争では、日本海軍が旅順のロシア海軍太平洋艦隊を港内に閉じ込める「旅順港閉塞作戦」を実行し、3度に渡って行われた作戦で合計21隻の船舶が閉塞作戦に投入されたが、閉塞は不十分であり艦隊の出港は可能であったと。広場の石には『桜』の文字が刻まれていた。日露戦争の激戦地だった203高地は今、旅順国家級森林公園の一部となっていると。ここにある敷地面積50万平方メートルの旅順新桜花園には、世界各地のおよそ100種類の桜3000本余りが植えられているのだと。中国原産の桜のほか、日本の早咲き桜、八重桜、雪桜、山桜などがあると。この石にも『桜』の文字が。他の二文字は?『中日友好桜花林の石碑』。花の右側が203高地。観光用カート車に乗り暫し坂道を上る。カート車を下りた場所には『ニ〇三景区』と刻まれた岩が。『日俄戦争遺址 二○三高地』「二○三高地は日露戦争の時に日露両軍が争奪し合っていた旅順西部戦線における主な戦場である。旧日本軍が1904年9月19日からロシア軍周り陣地を奪い取った後、二○三高地に向かって総攻撃を行い始め、66日間続いて12月5日にその高地を攻めおとした。当該線役の中に旧日本軍は1万人以上、ロシア軍は5千人以上死傷した。旧日本軍が二○三高地を奪い取った後すぐここに重砲観測所を設け、重砲を指揮しながら旅順口を砲撃した。その結果、港にあるロシア軍艦は砲撃されほとんど全部沈没した。戦後、旧日本軍国主義の頭である乃木希典は二○三の(中国語の)音読みによってそれを[爾霊山]と改名した。日本軍の亡霊を供養するために戦争が残した砲弾の皮と廃棄武器から日本式歩兵銃の銃弾のような形で10.3メートル高さの[爾霊山]記念タワーを作り上げ、日本の国民を騙している。」地図のピンクの部分は桜が植えられているのだ。左の『尔灵山塔(爾霊山塔)』を目指して坂道を上って行った。『尔灵山塔(爾霊山塔)』への案内板。『尔灵山塔(爾霊山塔)』に向かって進むと左手・日本側にあった石碑。『旅順口日俄战争遺址 ニ〇三高地』。ロシア側にあった『市級文物保護単位 ニ〇三高地』。正面にニ◯三高地頂上の『尔灵山塔(爾霊山塔)』が姿を表した。日本式歩兵銃の銃弾のような形で10.3メートル高さの『尔灵山塔(爾霊山塔)』。乃木希典が『爾霊山』の3文字を揮毫したのだと。「爾(なんじ)の霊の山の」意味であると。この漢字を使っているのは、この地で犠牲となった日本兵への慰霊を意味しているからと。建立は乃木希典大将であり、彼こそが日露戦争における旅順攻囲戦の指揮を執った第三軍司令官であったのだ。近づいてよく見ると中国語やロシア語で無数の落書き?が刻まれていた・・・・・・。『尔灵山塔』。そして4km先の旅順港の眺望。旅順港は狭い入り口で囲まれた広い湾で、良い軍港であったと。一方その入口は狭いだけでなく浅かったのだと。そこで海軍は先ずこの狭く浅い湾入り口を封鎖する旅順港閉塞作戦を立てた。古い廃船など海底に沈め,湾を閉塞するというものだ.作戦は三次に渡り実行されたが、入口手前で撃沈されるなどして、港を完全に封鎖するに至らなかったそうだ。ただ航行を幾らか妨害することはできたのだと。『203高地』から望む『旅順港』のロシア艦船の当時の写真。爾霊山塔の裏には大砲が並んでいた。大砲の向いている先こそ旅順港。旅順の街も見渡せた。ここから一発辺り200kgを超える重量の砲弾が、明治37年(1904年)12月5日から5日間に渡り1,000発以上も打ちこまれたのだと。ロシア軍艦は、遡って8月10日の日本海軍との「黄海海戦」での損傷修理を終えていない艦があり、中には弁を開いて自沈したものまであったことが戦後の調査で分かったっと。「ロシア式150ミリメートルカノン砲」「二〇三高地争奪戦で、高地に駐屯するロシア軍は150ミリメートルカノン砲二台と76ミリメートル野戦速射砲二台をもって、人工による散兵塹壕、歩兵塹壕、掩体など防御工事により、日本軍からの進撃を粘り強く阻止した。」こちらにも『ロシア式150ミリキャノン砲』と5カ国語で。『203高地の紹介』。「203高地は1904年の日露戦争の主要戦場の一つである。日露両軍はこの高地を争奪するため、激しい強い奪い合いをし、結果、203高地攻略を含む旅順攻囲戦での戦死者は、日本軍約15,400名、ロシア軍約16,000名。戦後、日本第三軍司令官である乃木希典は戦争で命をなくした兵士たちを記念するため、砲弾の残片でこの高さ10.3メートルの砲弾状の慰霊塔を建て、爾霊山という三文字を揮毫した。今は、この爾霊山はすでに日本軍国主義による対外侵略の罪の証拠と恥の柱となった。」『この爾霊山はすでに日本軍国主義による対外侵略の罪の証拠と恥の柱』との厳しい文字が。『ロシア軍陣地からの203高地』の当時の写真。『放火に包まれる203高地』の当時の写真。帰路に『重砲観測所』に立ち寄る。『重砲兵用探り所』1904年12月、日本軍は二〇三高地を占領した後すぐ、そこに重砲兵用探り所を設置したことにより、重砲を指揮して旅順口港へ猛烈な攻撃を行い、港に停泊したロシア軍艦を殆ど日本軍の砲火に打ち壊された。重砲兵用探り所は日本軍がロシア軍海軍の力に打撃を加え、ロシア軍陸上防御線を粉砕して最終的にロシア軍を打ち負かしたことにおいて、重要な役割を果した。」そして『日本軍 重砲観測所阯』の構造物。日本軍 280mm榴弾砲(レプリカ)日露両軍とも115年以上前の兵器なのであったが。正面から280mm榴弾砲。『日本式280ミリメートル榴弾砲』「二〇三高地争奪戦で、日本軍は口径の異なる大砲を六十台余り使用して、高地に対して狂気じみた無差別爆撃を加え 全部で一万一千発以上の砲弾を撃ったが、そのうちに、280ミリメートル榴弾砲砲弾が2254発あった。当該大砲は本体の重さが10.753トン、砲弾の重さが217キロで、射程距離が7800メートルだった。」今でも残されているロシア軍が作った塹壕の深さは1mもないのであった。当時は無かった木々が生い茂り、ほとんど手入れされている様子は無いのであったがこの斜面において、日ロ両軍の兵士が多く死傷しているのであると。そして再び、観光用電動カートに乗り入口まで戻る。途中、この場所はいつまで観光地として利用されるのであろうかと。この日も、我々以外に観光客の姿はほとんどなく、ここを訪れるのは日本人のみで中国人、ロシア人は殆ど関心がないと。そして東鶏冠山北堡塁や水師営会見所も同じであると。日本人の若者も、日露戦争を知っているのは『坂の上の雲』を読んだ人のみではなかろうかとも。左手にあったのは観光センターであったか?そしてこの地の動画『203高地』👈リンクがあったので紹介させていただきます。『203高地』公園入口を内部から。『旅游巡回法庭』と書かれていたが。今年の春の桜祭りの看板が未だに片付けずにここにも残っていた。日露戦争を教科書で習った我々日本人からすると、たくさんの血が流れた場所で花見をすることそのものに疑問を感じるのであるが、多くの中国人はかつての悲惨な攻防についての知識がほとんどないのだと。また、中国人観光客が山頂に行くことはほとんどなく、裾野で花見を楽しむ人たちで賑わうのだと現地添乗員から。203高地入口門を振り返る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.08.10
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そして次に訪ねたのが、『水师营会见所(水師営会見所)』。水師とは清時代に、各地の海岸などに設立されていた水軍を指し、営とは軍の駐屯地のことであった。日露戦争の旅順要塞攻囲戦は、明治37(1904)年)8月19日〜明治38(1905)年1月1日まで、約4ヶ月半にわたって行われた要塞戦であった。この戦いで、日本は戦死が約1万6千名、ロシア側も約1万人を失ったと。1905年1月5日、水師営会見(旅順停戦条約)が旅順水師営のあるこの農家で締結されたのだ。ここ会見所は、旅順から北西四キロばかりに地点、水師営の一民屋なのであったと。附近の家屋という家屋は、両軍の砲弾のために、影も形もなくなっていたと。この一民屋だけが残っていたのは、日本軍がここを占領してから、直ちに野戦病院として使用し屋根に大きな赤十字旗をひるがえしていたからであるのだと。『水师营会见所』入口。入口の上には「會見所」と書かれた板が。乃木大将(司令官)、ステッセル中将(司令官)を中央に、ロシア人4名、日本人7名の総勢11人の記念写真が撮影されたという場所。角に植えられているのは棗(なつめ)の木の子孫であろうか?文部省唱歌「水師営の会見」の二番には、「庭に一本(ひともと)棗(なつめ)の木 弾丸あともいちじるく・・・」とある。ステッセルが会見場に着いたときに、馬の手綱をかけた木だという。司馬遼太郎は「坂の上の雲」に、「「水師営の会見」の歌の歌詞にあるように、門を入って左の泥塀に沿って棗の木がある。」と書いていると。まさにそのあたりに位置する木である。しかし、重要な場所であるはずが、擁壁の内部には雑草が生い茂り、外にも破れた砂袋が放置されていた。この辺りが、この日露戦争の歴史に対する中国人の感覚なのであろうかと。『水师营会见所』外観。もともとは地元の農民の家を夜戦病院として利用していたものだと。当時の建物は文化大革命で破壊され、今の建物は後に復元されたものだと。屋内には当時の写真と文章が展示され、また会見で使われた机や椅子の復元や満鉄マークのついた懐中時計、李香蘭や川島芳子のポスターなども展示されていた。屋根の一部には草が生えていたが、この建物は1996年に復元されたものであると。これらの場所を見ると、こんな遠いところに当時の日本人の生活があったことが不思議に感じられたのであった。『水师营会见所』案内板。ズームで。何故か日本語での説明文は書かれていなかった。旅順龍河の北岸に位置し、清朝時代には清軍水師の駐泊地であったことから、水師営の故名が付いたことから始まり、1905年1月5日の日露の終戦会見が行われ、戦後の1906年に日本当局により、『水師営会見所』の碑が置かれたことなどが説明されていた。屋根は丸太を使った茅葺。入って右側の203高地の戦場写真の前で、無料で女性ガイドが説明してくれた。水師営の会見は、旅順降伏文書の調印が行われた3日後の1月5日午前11時過ぎから行われた。10時30分、ステッセル将軍は参謀長のレイス大佐、マルチェンコ、レブレスコイ両少尉と6人のコサック騎兵を連れて水師営に到着。一方、乃木将軍ご一行はやや遅れて11時15分に会見場に入った。乃木将軍に同行したのは、伊地知参謀長、津野田、安原、松平の三参謀、それに川上書記官の計5名で、会見は両将軍が双方の軍隊の健闘を称え合い、先日までの激戦が嘘のような和やかな雰囲気の中で行われたという。まさに昨日の敵は今日の友なのであったと。水師営会見の様子は「水師営の会見」👈リンク という文部省唱歌に描かれているのだと。♪♪♪♪♪♪1.旅順開城(かいじょう) 約成(やくな)りて 敵の将軍 ステッセル 乃木大将と会見の 所はいずこ 水師営 2.庭に一本(ひともと) 棗(なつめ)の木 弾丸あとも いちじるく くずれ残れる 民屋(みんおく)に 今ぞ相(あい)見る 二将軍 3.乃木大将は おごそかに、 御(み)めぐみ深き 大君(おおぎみ)の 大(おお)みことのり 伝(つと)うれば 彼(かれ)かしこみて 謝しまつる4.昨日(きのう)の敵は 今日の友 語ることばも うちとけて 我はたたえつ かの防備 かれは称(たた)えつ わが武勇 5.かたち正して 言い出でぬ 『此の方面の戦闘に 二子(にし)を 失い給(たま)いつる 閣下の心如何にぞ』と 6.『二人の我が子それぞれに 死所を得たるを喜べり これぞ武門(ぶもん)の 面目(めんぼく)』と 大将答(こたえ)力あり 7.両将昼食(ひるげ)共にして なおもつきせぬ物語 『我に愛する良馬(りょうば)あり 今日の記念に献ずべし』 8.『厚意謝(こういしゃ)するに余りあり 軍のおきてに従いて 他日我が手に受領せば ながくいたわり養わん』 9.『さらば』と握手ねんごろに 別れて行(ゆ)くや右左(みぎひだり) 砲音(つつおと)絶えし砲台(ほうだい)に ひらめき立てり 日の御旗(みはた)♪♪♪♪♪♪壁には多くの歴史的な写真が展示されていた。『在203高地建子弾形塔』203高地山頂の「爾霊山」と書かれた建立当時の「爾霊山塔」。旅順戦蹟 旅順港口閉塞隊の記念碑。この記念碑が建てられている土地、第3回閉塞作戦時に没した31名をロシア軍が葬っていた場所であったと。『1905年1月5日・乃木希典同斯特塞尓在水師営会見所合彰』のタイトルがあった写真。後列左から、川上外務書記官、安原大尉(参謀)、マルチェンコ中尉(参謀)、松平大尉(副官)、渡辺少佐(管理部長)、中列に、レイス少将(参謀長)、乃木大将(司令官)、ステッセル中将(司令官)、伊地知少将(参謀長)、前列には、ネベルスコーユ中尉(参謀)、津野田大尉(参謀)と、以上、ロシア人4名、日本人7名の総勢11人が写っていると。会見に先立ち、明治天皇は、山縣有朋を通じ、乃木に対し、ステッセルが祖国のため力を尽くしたことを讃え、武人としての名誉を確保するよう命じたのだと。よって従軍記者からの再三の要請があっても、乃木大将はロシア軍人の名誉を重んじ、この写真1枚だけの撮影しか認めなかったのだと。そしてこの時、乃木将軍はロシア軍人としての名誉を重んじてステッセル将軍の帯刀を認めたと。こうした乃木の振る舞いは、旅順要塞を攻略した武功と併せて世界的に報道され賞賛されたのであったと。水師営会見所の外で撮影されたロシア軍兵士と馬。そしてステッセル将軍達に随行した兵士。『水师营会见所』。入口の石垣は大きく崩れて。『东鸡冠山北堡塁』。『东鸡冠山北堡塁』の坑道作業をする日本軍の姿。そして入口の左の部屋に向かう。ドアの上には内部「撮影禁止」の文字が。入口手前からズームで。右手が会見の机。乃木希典の『金州城下の作』の七言絶句は、中国の専門家からも高く評価されている漢詩と紹介されていた。山川草木轉荒涼 十里風腥新戰場征馬不前人不語 金州城外立斜陽現代語訳は、山も川も草も木も、荒れ果てて見る影も無い。戦があったこの場所では、十里にわたって風が血なまぐさく感じられる。軍馬は進まず、将兵たちは押し黙っている。夕陽が傾く金州城外に、私はただ立ちつくす。希典の長男、勝典が戦死した戦いであったとのこと。左手には『乃木希典』像があった。廃屋の如き姿であったが。庭の片隅にあった石碑。展示館内は土産屋の如くであった。中国の人にとっては自分たちの土地で日本とロシアという外国が勝手に戦争をして「取った、取られた」と言っていたのは迷惑至極のこと。この場所は中国人にとって決して愉快な場所ではないはず。特にここ水師営の会見所は日本人しか訪れることのない場所とのことで、地元の方々にもあまり知られていない場所であると中国人の添乗員から。この日の昼食は、会見所の横にある海鮮料理店で。入口には料理メニューの写真がズラッと。中華料理もさすがに飽きてきたが。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.08.09
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『旅順口日俄战争遺址 东鸡冠山北堡垒(とうけいかんざんきたほるい)』と刻まれた日露戦争遺跡碑。帝政ロシアは1898年に旅順を租借し、旅順の東側の半永久的な防御線として1900年に中国人労働者を使役して堡塁を建設。堡塁は周囲496メートル、面積9900平方メートルの不規則な五角形で、天然の岩にコンクリートと石、そして泥土で覆って造られた。内部の構造は複雑で、司令部、兵舎、弾薬庫、治療室、台所などの周りに胸墻、側防窖室が配置された。堡塁の周囲は堀があり、堀の外の斜面には高圧電流が流れる鉄条網が架設されていた。日露戦争において、1904年8月21日の第1回旅順総攻撃の際に日本軍第11師団(四国兵団)による堡塁の攻略が始まった。第11師団は鉄条網の突破に成功して内堀に入ったが、土砂に覆われた側防窖室からの近接攻撃により大損害を受けた。その後、数度に渡って坑道を掘り、堡塁の爆破を試みた。12月15日には日本軍が発射した28センチ榴弾砲弾が命中し、守備隊の指揮官コンドラチェンコ少将が戦死した。その後、12月18日に堡塁の正面で2.3トンのダイナマイトを爆破させ、これに乗じて占領。日本軍は、この堡塁を突破するために約8,000人の死者を出したのだと。東鶏冠山北堡塁入口には『北堡塁』と刻まれた岩が。ここは撮影スポットになっているようであった。現地ガイドの案内に従い堡塁の横を歩いて行く。『暗堡通道入口』碑。岩に覆われたトンネルの如き通路、その先には階段が。しかしこの入口にはネットフェンスが。擁壁が倒れているようであった。そして再び階段を上っていく。暗渠土塁の壁にあった日本の城にある「狭間」のような穴・砲眼が。『暗堡』碑。右手の壁には銃弾の跡が無数に。日本軍の砲撃の弾痕跡であろう。ここからロシア軍は反撃し抵抗したのであろう。反撃用砲眼が大きく外から破壊されていた。女性の横顔の様な形が見えるのだとの説明板。なるほど!!。名前は『玛格丽』・マーガレットと呼ばれているようであった。落ち込んだ表情、大きな波状の髪、深い凹んだ目、尖った鼻、丸いあごは、ヨーロッパの美女のシルエットのように見えるのであった。『側防暗堡』碑。大きく破壊された暗堡の壁。『側防暗堡入口』フェンスに保護されて安全面からか立ち入り禁止に。『側防暗堡入口』碑。『日軍爆破口』東鶏冠山が陥ちたのは203高地占領後の12月18日であったと。第1回攻撃では砲撃の後突撃というという攻撃法であったが、それでは味方の損害が大きい上敵方には損害が殆どなかったのだと。そのため途中より攻撃法が変え、堡塁近くまで密かに坑道を掘り進めて要塞を攻撃するというというものに作戦を変えて行ったのだと添乗員から。『日军爆破口』 ここが日本軍が2.3トンのダイナマイト爆弾を仕掛けて破壊し、突破した場所。この爆破よって日本軍がこの堡塁を陥落させるきっかけになった(突破口となった)のだと。今はのどかで緑深い山に、生々しい弾痕や爆破口がある。百年前の死闘が目に浮かぶ場所。『遊覧通道』碑。 1916年に建立された『東鶏冠山記念碑』が立っていた。正面に「東鶏冠山北堡塁」と刻まれていた、満州戦跡保存会の石銘板台座の碑文には「明治三十七年八月以来第十一師團ノ諸隊及後備歩兵第四旅団ノ一部隊之ヲ攻撃シ 同年十二月十八日占領ス 陸軍大将男爵鮫島重雄碑名ヲ書ス 大正五年十月 満洲戦蹟保存會」と。ロシア軍大砲が並んでいた。『俄军炮阵地(ロシア軍大砲陣地)』「1898年、ロシアが強制的に旅順大連を租借した後、ここに重砲陣地を築き、旅順西北方向に対する火力網となった。1904年10月、日本軍の二個師団が東鶏冠山北堡塁に向かって猛烈な攻撃を行い、19日間の内、重砲砲撃と爆発によってトーチカを落とした。」兵舎のエリアに入って行く。士兵宿舎。電話室指揮部入口が前方に。指揮部指揮部内部。更に進む。兵舎のキッチン、応急処置場所。コントラチェンコ戦死の石碑コントラチェンコ戦死の場所の紹介1904年 日露戦争が勃発後、日本軍は東鶏冠山北堡塁を奪い取るため、129日の攻守戦を展開した。12月15日の20時ごろ、ロシア陸軍防御司令官であるコントラチェインコ少将は堡塁の指揮部に来て軍事会議を行う。日本軍はこの情報を知ると、すぐに重砲(280mm榴弾砲)を激しい攻撃をし、指揮部は一枚の砲弾に命中され、コントラチェンコ少将が殺された。戦後、日本軍はその寛大な度合いと顕著な戦績を誇示するため、ここに「コントラチェンコ少将の戦死の場所」という石碑を建てられた。ロマン・イシドロヴィチ・コンドラチェンコ。日本・ロシア双方から、「日露戦争に於けるロシア軍屈指の名将」と高く評価されている。戦死した場所には日露戦争終戦後その死を惜しんだ日本側によってこの祈念碑が建てられたのだと。下の写真はウィキペディアより。 『堡塁正門』碑。そして坂を下り、先程の入口に向かって戻る。この窪んだ場所は?そして再び『北堡塁』と刻まれた場所に戻ったのであった。バスに乗り、東鶏冠山を下る。前方に見えたのが『白玉山(はくぎょくさん)』であろうか。港を見下ろす標高130mの小山で、山頂にある展望台からは軍港として利用されている旅順港を一望することができる。山頂部に立つ高さ66.8mの白玉山塔は旅順のシンボル的存在で、東郷平八郎と乃木希典により立てられ、当初は表忠塔と名づけられたが後に改名された。そして『鸡冠山路』から『新城大街』への交差点の角にあったのが『东鸡冠山景区』と赤く刻まれた石碑。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.08.08
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8:30に『大連日航飯店』から、この旅行の最後の観光場所『旅順』を目指して『長江路』をバスは進む。そして何度も訪ねた『中山広場』を通過。そして『南山路』を『労働公園』に向かって進む労働公園前の『解放路』沿いの『聯通大廈』ビル。既に交通渋滞が始まっていた。前夜に大連市内の夜景を楽しんだ『大連テレビ塔』が右手に。そして車窓から、道沿いに文字の書かれた札を手前に置き、座っている多くのオジサン達の姿が。日雇い労働者が、この日の仕事を求めているのだと添乗員の王さんから。写真中央の『专业』は『専門職』のこと。中古住宅の修繕業であろうか?『八一路』に入り『八一広場』のロータリーを通過。『名城国際公館』が右手に。四つ星ホテルの『仲夏花園酒店』入口。『大連芸術品交易中心』。そして途中『浜海西路』沿いに会った『珍珠宝石館』に立ち寄る。販売プレゼンに誘われて『真珠クリーム』を土産に購入。レストラン『付家庄海鲜大排档』が右手に。そして前方に海の上を走る『星海湾大橋』が姿を表した。濱海西路と高新園区を結ぶ、海上のバイパス路。この大橋の登場により、市内と高新園区を結ぶ中山路/黄浦路の大渋滞問題が解消されたのだと。この『星海湾大橋』は全長6.8kmで、2階建て構造になっていた。市内から高新園区に向かうルートは上階を、逆は下階を走るのだと。歩行者用の通路も設けられていると添乗員からの説明。我々の往路は2階・上部の道を走る。車窓右手に、昨夜、夜景を楽しんだホテル『大连一方城堡豪华精选酒店』の姿が。『星海広場』の吊橋や『シェル博物館』そしてその奥にマンション群が見えた。マンション群を追いかける。大連が海に囲まれた美しい街であることを再確認したのであった。そして更に『星海湾大橋』からの車窓の風景を楽しみながら進む。一方通行の2階部分の高架橋。前方左手に海を渡り終えた『甘井子区』のビル群が見えて来た。建設も新しい高層ビル群が左手に。巨大なマンションが林立。『万达海公館』。マンション群の入口であろうか?走行しながら緑地帯に散水する作業員の姿。安全帯等は付けていない模様。左手には旅順に向かう電車とトンネル入口が。左手に『塔河湾站(塔河湾駅)』が。大連軌道交通12号線の駅。大連軌道交通12号線は全長は40.38km。起点は1号線との接続駅である河口駅、終点は旅順新港駅。駅数は8駅であり、うち河口駅が地下駅、他の7駅が高架駅である。『新城大街』の道路脇には『旅順歓迎您』の文字とその先に大きな像が。馬に乗ったこの武将像は誰?この先を『东鸡冠山景区』に向かって『新城大街』を左折。右手に『东鸡冠山景区』。そして『东鸡冠山』に到着しバスを降りる。広場にはユニークな形の石のモニュメントが。この日に訪ねた旅順の観光場所。『东鸡冠山景区意图(東鶏冠山景区示意図)』東鶏冠山は日露戦争時の激戦地で、司馬遼太郎の『坂の上の雲』にその激戦の様子が詳細に描かれている。ここには当時のロシア軍の堅固な堡塁が今も残り、壁の無数の弾痕や爆破跡が当時の戦闘の激しさを物語っていたのであった。山が鶏冠に似ているために東鶏冠山と呼ばれたのだと。ここにロシア軍は防御線として「東鶏冠山堡塁」を建造した。堅牢な施設で、士官室や兵舎、食堂、弾薬庫などを設けていたと。すなわち、1900年より設営されたロシア軍トーチカ要塞。関東軍はここを落とさないと、旅順港のロシア海軍を攻撃できないということで、数万人の死傷者を出した日露戦争の激戦地なのであった。1898年帝政ロシアが旅順、大連を強引に借りた後、旅順を長期的に占領するために、1900年より、中国労働者にこの永久的な防御工事を蓄蔵するように強制した。これは帝政ロシアが旅順東側の陸上防衛戦にある重要な工事で有り、北側の階○地の制御に用いられる。1904年日露戦争が始まった後、ここは日露戦争の重要な戦場となった。8月21日に日本軍第11師団は攻撃を始め、なかなか奪い取れないため、坑道発破により堡塁に近づいていった。12月15日に、ロシア軍陸軍防衛司令コトラキン少将が日本軍の重砲で堡塁内の司令部で砲撃に当たり死んだ。12月18日に、日本軍は堡塁の正面に2.3トンダイナマイトを入れて大きい発破で北堡塁を占領した。『东鸡冠山景区 旅順二〇三桜花图』。様々な桜の写真を展示。こちらにも。八重桜であろうか。『旅順日俄戦争陳列館』内部を見学。『旅順口区国防教育基地』と書かれたプレートも。よって日本のことを悪しざまに書いた展示室でもあったのだ。『旅順口』と書かれた石碑のある場所の写真が展示されていた。海を臨む場所で、旅順口が感動的なほど間近に見おろせルバ所。右から伸びる「老虎尾」と左の「黄金山」に挟まれた隙間(写真中央の石碑の後方)。まさにそこが、日本海軍による旅順口閉塞作戦の現場なのであった。その内側には、ロシア旅順艦隊が引きこもっていた湾が見えた。『坂の上の雲』ファンには絶対に見て欲しい光景なのであった。『旅順口 風伝展覧館』の文字が。遼東半島先端部の地図。『旅順口行政区划图(区分地図)』&『旅順口区干路交通示意图』。『旅順绿色经济区”五城一都”发展規划图』新石器時代からの中国の歴史のパネル展示。『交后戦争』(日清戦争)のパネル展示。『苏联紅軍出兵東北』はソ連軍の中国東北部進出の歴史説明。関東軍の進出とソ連軍の旅順撤退までの歴史説明。日露戦争の『戦争結果』。ポーツマス会議。向こう側・ロシア側:左からコロストウェツ、ナボコフ、ウィッテ、ローゼン、プランソン、手前・日本側:左から安達、落合、小村、高平、佐藤。会議で使われた写真中のテーブルは博物館明治村にて展示されていると。ポーツマス条約(アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋によって、日本とロシア帝国との間で結ばれた日露戦争の講和条約。日露講和条約とも称する。)の調印メンバー。1905年(明治38年)9月4日(日本時間では9月5日15時47分)、アメリカ・ニューハンプシャー州ポーツマス近郊[注釈 1]のポーツマス海軍造船所において、日本全権小村寿太郎(外務大臣)とロシア帝国全権セルゲイ・Y・ウィッテの間で調印された。小村壽太郎(右から2番め)と高平小五郎(一番右)、随員2名および米国人外交顧問ヘンリー・ウィラード・デニソン(中央)。『一个旅順口半部近代史』(左)『一个旅順口半部近代史』(右)ズームで『日露戦争』を。1945年8月19日、偽満州国皇帝・溥儀は日本へ亡命する途中でソ連軍に抑留される。瀋陽飛行場での写真のようだ。1945年8月20日、最後の関東軍司令官山田乙三(やまだおとぞう)がソビエト軍に投降し、降伏文書に調印した。第二次世界大戦の終結。1945年9月2日、USSミズーリ艦上での降伏文書調印式。座ってサインをするのは、マッカーサーであろう。『公共施設:留下的歴史記憶』。関東軍支配下での記憶に留めておくべき様々な建築物が。『旅順景区(点)遊覧示意図』。『露天博』。関東軍が建設、利用した数々の建築物。こちらにも。『来未诉合历史让』の石版彫刻。そしてその前に展示品が。明治37年(1904年)2月8日、日本艦隊は、朝鮮半島西部の仁川港のロシア艦隊を攻撃すると同時に、遼東半島南端にある旅順港においてもロシア艦隊への奇襲攻撃を行った。 またその一方で、日本陸軍の先遣部隊が仁川に上陸したのであった。東郷平八郎は、日本の幕末から昭和時代初めの武士(薩摩藩士)、海軍軍人。最終階級は元帥海軍大将。日清戦争では「浪速」艦長として高陞号事件に対処。日露戦争では連合艦隊司令長官として指揮を執り日本海海戦での完勝により国内外で英雄視され、「陸の大山、海の東郷」、「アドミラル・トーゴー」「東洋のネルソン」と呼ばれた人物。ロシアの機関銃であろうか?中央には2砲弾も。280㎜榴弾砲弾 重量217㎏ 最大射程7.8㎞。日中戦争、第二次世界大戦で使用した『高射機関砲』か?大きな地図で日露戦争の戦況を説明する別のグループの添乗員。もう少しこの場所の見学を続けたかったが、添乗員に呼ばれて外に出たのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.08.07
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この旅行も7日目、観光の最終日の6月25日(火)となる。ホテル『大連日航飯店』の我が部屋からの光景。右側が大連駅方面。この日もほぼ快晴、朝の陽光がビルに反射し黄金色に輝く。『長江路』沿いのビル群を我が部屋から。道路沿いにはマッサージ店やサウナがずらりと並ぶ。写真左端のレンガ色が「泰殿養生会館」。日本人経営のマッサージサロンで、技術うまいから好評と。泰式マッサージ、全身マッサージ、足裏マッサージとオイルマッサージなどがあると。そしてその右側はサウナで、どうやら怪しい?サービスの店か?そしてこの日もホテル廻りの早朝散歩に向かう。時間は6:10過ぎ。ホテルのロビーは朝の清掃中。長江路にある大連日航ホテルの斜め向かいの、民生街へ入ってすぐ左にある『宏済大舞台(こうさいだいぶたい』。京劇の公演場所で、大連京劇院による演出が行われているのだと。ここは日本が大連を租借していた時代にはもともと「天福茶園」があった場所で演劇も行われていて、1911年には保善茶園と名称を変えて、後に永善茶園と名称を変えた。当時様々な演劇がおもに日本語で行われた中に、京劇の『人面桃花』の北京語による演出もあった。1931年には大規模な改築を開始して、1933年には竣工、1934年には「宏済大舞台」として開業した。『秋田温泉』は2015年6月の新しく大連日航ホテルのすぐ横にできた24時間営業のサウナであると。しかし、秋田温泉は大連日航ホテルとは何も関係ないらしいが、なぜ「秋田」?。大連駅方面に歩を進める。火災にあった建物が。『長江路』と『天津街』の交差点。右手に大連のCRに架かる『現 勝利橋』が見えた。大連駅の東方向1キロ、ロシア風情街手前の橋、今は『勝利橋』と呼ばれている。昔の名は『日本橋』。1899年、帝政ロシアが建て、当初の名前が『ロシア橋』であったと。橋の北にはロシア官庁街(今はロシア風情街)。1905年、日露戦争勃発し、橋は一度壊されたと。そして、1907年、日本当局がこれを造り直し名前も日本橋と改名した。改造後の橋は鉄筋構造のアーチ橋で、長さは108.6m、広さは16.4m。第二次世界大戦終戦後、ここを『勝利橋』と改名された。現在は歩行者通路も別途作られ、旧橋の西側に新しい橋も作られた。『上海路』の先にある『大连艺术展览馆』をズームで。旧東清鉄道汽船本社ここは夜の散策で訪ねたのであった。高層ビル群も姿を表した。宏孚商旅酒店(手前)、摩天大楼中心(裏側)そして大連中心·裕景(右)であろう。なかなかビル名を特定するのが難しいのだ。そして『大連駅』大連駅は満州国時代に建てられた駅だが、正面から見ると東京の「上野駅」の正面玄関口にそっくり。大連駅の方が上野駅より大きいものの、建築物全体のデザインは両駅ともに非常に酷似。日露戦争で大きな損傷を受けた大連駅を新たに建造したのが日本人だと。大連駅は満州鉄道の太田宗太郎氏が上野駅を参考に設計したもの。大連駅の立地は平坦ではなく、高低差があったことから、太田宗太郎はこの高低差を活かし、自動車で駅の2階部分に直接乗り入れることができるように設計。現代の空港でも見られる設計だが、2階部分は出発、1階部分は到着と階層を分けることでスムーズな利用を実現したのだと。こうした設計が取り入れられたのは「当時の中国では大連駅が初だった」と。時間は6:30過ぎ。大連駅前から中山広場方面の高層ビル群。右に『天安国際大厦』『天安国際大厦』は地下52階、地下3階、最上階は202m。左に『インターコンチネンタル大連 (大連遠洋洲際酒店)』。大連駅のチケット売り場。『栾雪莲窗口』。切符販売・発券の速さで匠の技を持つ大連駅員「栾雪莲」さんの専用コーナーであるようだ。『南一桜进站口』は一階南駅入口。『中山路』を『中山広場』に向かって歩く。『友好広場』が前方に。ロータリーの中央の巨大な球形のモニュメントを前日に続き再び。広場のシンボルであるこの球形のオブジェは1996年に当時の大連市長の発案で作られた。これはサッカーボールではなく真珠をかたどったものであると。3120枚のガラスで構成されており、直径は15メートル、重さは117トン。この球体を支える台座は世界の人種の色(黄・白・黒・赤・茶肌)を表現し、また5大陸の友好を表しているのだと。ロータリーをグルッと廻り進む。後方に『友好大廈』『大連市内案内図』。大連市の総面積は12,574km2であり、うち旧市街区の面積は2,415km2。山地や丘陵が多く、平野や低地が少なく、地形は北から南へ傾き、北は広く、南は狭くなっている。地勢は中央から南東と北西部にある黄海と渤海へ傾き、黄海への斜面は長く緩やかである。長白山のある千山山脈は旧市街区を貫いており、地形のほとんどは山地や緩やかな低い丘陵であり、平野と低地は河川の水が海へ流れ込むところ及び山裾の谷地に点在するだけで、至るところでカルスト地形が目に付き、カルスト地形と海食地形が比較的に多いのだと。そして中山路を進み『中山広場』に到着。『旧 朝鮮銀行』。建物の歴史、詳細については『8月1日のブログ』👈リンクにアクセス願います。『中山路 1』のプレートが。中山広場の歴史建築物には『中山広場1号~10号』まで番号が付けられているのであった。下図はウィキペディアより。『朝鮮銀行 大連支店旧址』現在は『中国工商銀行中山広場支行』。ネオクラシック様式、大きなコリント式の神殿風オーダー(円柱)が目を引いたのであった。『关东银行旧址』「关东银行旧跡」とは1947年から1950年まで存在した地方銀行のことで紙幣も発行していたようです。『全国重点文物保护单位 大连中山广场近代建筑群 一 朝鲜银行大连支店旧址』ロータリーの歩道を歩く。『旧 関東逓信局』。『关东都督府 邮便电信局旧址』。『市级文物保护单位 关东都府邮便电信局旧址』。現在は大連市郵政局が使用。『武装押运』と書かれた黒、そして白の車両が2台駐車中。それにしても『武装』の文字は物騒!!民間の警備車両のようだ。中国では現金輸送車や各種護送車には武装した押运员(ヤァァ ユゥィン ユゥァン)と呼ばれる警備員が同乗し運搬物を守っていると。しかも警備員は防弾ベストにショットガン(散弾銃)やアサルトライフル(自動小銃)まで装備が許されているのだと。中山路を隔てて、『大连远洋洲际酒店(大連遠洋洲際酒店)』(左)と『大连国貿中心大廈(大連国貿中心大廈)』(右)。『旧横浜正金銀行大連支店 (中国銀行遼寧省分行)』。石碑が2つ。中山広場の向こうに『大連賓館・旧ヤマトホテル』が。『大連人民文化倶楽部』を横から。『旧 清国大清銀行』。『大連人民文化倶楽部』。英国バース合唱室内楽団のコンサートが行われるようであった。『大連人民文化倶楽部』。『旧 清国大清銀行』を振り返る。『旧大連市役所(現 中国工商銀行)』。更にロータリーを進む。『旧横浜正金銀行大連支店 (中国銀行遼寧省分行)』。『中山広場』を半周する。帰路は『民生街』を進む。左手に『独門衝烤魚(民生街)』。右手に『金逸国际电影城』は映画館であろうか。この付近は『浪速町』と呼ばれ、大連のなかでもっとも古い商店街であり、随一の繁華街であったと。日本人住民は浪速町を散策することを東京の銀ブラをもじって「なに(浪)ブラ」と言っていたと。正面の高層ビルは、我々が宿泊している36階建ての「大連日航飯店」。女性が『燜子』を焼いて、それを婦人と子供が食べている像。燜子(menzi)は中国東北地方は大連名物の小吃のひとつ。キャッサバ澱粉を「燜」=蓋をしてとろ火で煮込んで固めたもので、食感はワラビ餅よりすこし固め。その澱粉の塊を一口大にぶつ切りにしてから熱々の鉄板で炒め、ニンニク、醤油、酢、ごま油などで調味したスープをかけて食べるのだと。鉄板で炒める時に表面の水分が抜けるので、やらかいこんにゃくでも食べてるかのよう。 葱に香菜、ニンニク、おこげ、ごま油と香りの良いおやつだと。子供が美味しそうに。『燜子』と書かれた旗。『大連老街』と書かれているのであろうか。『悦泰街里』という大連にしてはモダンな一角。ただし、この時間の人の数は少なかった。この巨大な置物は??。『鼎(かなえ、てい)』の如きものが上部に。中国古代に使用された肉を煮る礼器。3足ないし4足 (方鼎) で,青銅製と陶製のものがあるのだと。象の背中に載っているものは船?これも舟そしてベンチ?『天津街古玩城』天津街はもともと古道具、偽物チックな真珠、安い洋服や雑貨、ちゃちなおもちゃなどが露店スタイルで売っている場所でありようだ。はんこ屋、水墨画屋、中華風の壷屋、お茶屋、茶道具屋、筆屋、珠玉屋、紅木家具屋、古切手屋、中華風雑貨屋等々・・・・・があるようだ。『民生街』と『天津街』の交差点。左手の「玉荷池 荷池湯泉」は温浴施設(スーパー銭湯・サウナ・スパ施設)。『LONGXI(龍熙) CLUB』は?重厚な銅製の扉。そして『日航ホテル大連 (大連日航飯店)』に戻る。36階、総部屋数372室、148 m の高層ホテル。中国民生銀行(大連勝利橋支行)の文字も横に。時間は7:11。『日航ホテル大連 (大連日航飯店)』のフロアー配置図。そしてホテルレストランでの食事に。調理品コーナー。さすが五つ星の日航ホテルだけあって、料理の種類が豊富なのであった。いろいろ取りました。そして目玉焼きと牛ステーキも焼いてもらいました。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.08.06
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大連都心部の緑山に位置する標高360mの大連テレビ塔からの大連の街並みの夜景を堪能した後は、緑山の坂をバスで下る。『劳动公园』の大きなサッカーボールのモニュメント。『解放路』を左折し『五恵路』沿いの『大連瑞詩酒店』(手前)と『大連国際商貿大廈』(奥)。そして頂部が黄色の照明の建物は『大連希望大厦』。『中山路』を進み『人民広場』の前を走ると大連市オリンピック広場が。オリンピック広場(奥林匹克広場)の奥には体育場、サッカー場等があると。『西岗体育館』。大連人民スタジアムとも呼ばれる。歴史南満州鉄道(満鉄)が1925年(民国14年)に建設を開始し、1928年に完成した大連運動場がその起源であると。『大连奥利加尔大酒店』。『星海広場』に到着。『星海広場』はアジア最大の面積を誇る広場(天安門広場よりも広いと言われる)で1997年に完成、『星海広場』全体は、敷地面積が110万m2あり、アジア最大の都市広場。楕円形の形をした近代的な公園部分は一番長いところで直径約240m、広さは4.5万m2もあります。巨大な真っ白なスポーツをテーマにしたモニュメントが広場の楕円外周に沿って並んでいた。大きな通りと近代的な高層ビルだらけ。巨大な「Sheraton」が目に飛び込んで来た。星海広場の外周道路の一角で、中洋折衷のような建物が並んでいた。マンション群の最頂部をズームで。更に移動しながら同じ頂部をズームで。前方の海の上の『星海湾大橋』をズームで。濱海西路と高新園区を結ぶ、海上のバイパス路。この大橋の登場により、市内と高新園区を結ぶ中山路/黄浦路の大渋滞問題が解消されたと。この星海湾大橋は全長6.8kmで、2階建て構造になっていた。市内から高新園区に向かうルートは上階を、逆は下階を走っているのであった。様々な色に刻々と変化。『星海湾大橋』と右手にホテル『 グランド ハイアット ダーリェン(大连君悦酒店)』。昔は風光明媚な星海湾の広大な敷地を埋め立てて出来たところで、広場の向こうで海が見えるエリアには多くの高級な高層マンションが連なっていた。その金額は約3万元/平米もするそうで大連の一等地だと。別のマンション群。こちらにも。棒高跳びであろうか?『秋田竿燈まつり』の如き照明灯。再びマンション群を見る。こちらにも。大連市市制百周年(1899年~1999年)を記念するために建設した百周年記念彫刻広場は1999年9月19日に完成したものである。当彫刻は開いた本の形と羽ばたく翼の形にしている。巨大スケールのスケボー広場のような左右が湾曲している広場の端。星海広場の横の運河に架かる橋を渡る。ズームで。『大連シェル博物館(貝殻博物館)』。2009年4月に貝殻の形をモチーフにした銀色の建物に生まれ変わったとのことであるがなぜかその後もずっとOPENせず、貝殻博物館という名前だけが残っているとのネット情報も。巨大なシンデレラ城の様な建物は『大连一方城堡豪华精选酒店ザ キャッスルホテル ア ラグジュアリー コレクションホテル ダリアン』。星海広場が一望でき、中国にいることを忘れ、ヨーロッパの城に滞在するという優雅な雰囲気を満喫出来るホテルであると。1泊2~3万円であろうか?そして星海広場を後にし、帰路につく。『星河街』を進む。右手に『大連市游泳館』が。50m、25mのコースプールと飛び込みプールがあるほか、バドミントンや卓球ができる体育室をはじめ、トレーニング室やテニスコートなど各種施設もあると。途中、しばし夜市を訪ねる。場所は『中原街小吃街』。約100mにわたり羊肉の串焼きや焼餅などの屋台が連なり、地元客で連日賑わっていた。その場で素材を選んで調理してもらうスタイルの海鮮料理店や屋台も。アメリカンチェリーが。巨大なアメリカザリガニの如き・・・。中国語では「小龍蝦」(ミニロブスター)と呼ばれ、最近ブームになっていると。いろいろな蟹が水槽に。月曜日の夜の為か人の数は比較的少なかった。こちらにも多くの種類のサクランボの山が。しかしこの辺は多くの人の姿が。『中原小吃街』の東門。ヒマワリの種が大量に。様々な唐揚げも。中国式ファーストフードの店が並ぶ商店街を目のみで楽しんだのであった。そしてこの日の観光の全てを終え、ホテルへの帰路に。友好広場の中心にあった球形モニュメントのライトアップは刻々と模様を変えて。そしてホテルに戻り、この夜も二人で反省会を。〆には、日本から持参した『揖保乃糸』を楽しんだのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.08.05
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ホテルを19:40び出発して大連市内夜景鑑賞に向かう。中山広場に向かってバスは進む。『旧 朝鮮銀行』。『旧 大連民政署/大連警察署』。ライトアップされた『大連金融大廈』。『大連賓館』。『大連賓館』正面。結婚前の記念撮影のカップルがここにも。ライトアップされた『旧大連市役所(現 中国工商銀行)』。様々に色が変わって。『旧 東洋拓殖大連支店』。『世界貿易ビル(大连世界贸易大厦)』。『インターコンチネンタルホテル』は様々なカラーに次々に変わっていった。『大連市(人民)政府旧址』。再び『旧大連市役所(現 中国工商銀行)』。『旧横浜正金銀行大連支店 (中国銀行遼寧省分行)』。『旧横浜正金銀行大連支店 (中国銀行遼寧省分行)』そして後ろに『中銀大廈』。『人民路』と左に『世界貿易ビル(大连世界贸易大厦)』。『南山路』を『劳动公园』に向かって進む。遠くに『大連テレビ塔』が見えて来た。そして『劳动公园』のテレビ塔下に到着。地上高さ: 190 m建設: 1987年8月8日12角形のすっきりしたデザインのテレビ塔。塔の高さは190m、東京タワーの333mと比べると高さが足りないように思うかもしれないが、小高い山の上に立っているので、海抜は360mあるのだと。総合的な高さと展望視界については、東京タワーに勝るとも劣らないと感じられたのであった。テレビ塔下の『緑山展望台』から大連の街並みを見下ろす。中央に青の『インターコンチネンタルホテル』。左に『希望大厦营销中心』、その右に『大連国際商貿大廈』、『大連瑞詩酒店』と一番右に『インターコンチネンタルホテル』。色の変化を追いかける。眼下の『劳动公园』の大きなサッカーボールのモニュメント。これぞサッカーの町・大連のシンボルなのであると。大連には、昔は、大連実徳という有名なサッカーチームがあり、全国レベルで活躍していて、ワールドカップの中国代表チームにもメンバーを送り込んでいるのだと。よって、大連ではサッカーが大変人気があり、サッカーボールをかたどったモニュメントが方々にあるのだと。しかし多くの負債を抱え、2012年に解散してしまったと。『希望大厦营销中心』をズームで。大連テレビ塔ビル前から見上げる。『大连观光塔(大連観光塔)』の文字が。1階からエレベータで上に上がり手荷物検査をしてから専用エレベータに乗って展望台に行くのだと。ケーブルカーで『劳动公园』からこの緑山頂上のテレビ塔まで来ることも出来るようであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.08.04
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『日本人街』の散策を終え、バスに乗り、この日の最後の観光の渤海湾の隅に浮かぶ『棒棰岛(棒槌島・ぼうすいとう)眺望』に向かう。『仲南路』を利用してバスは進む。左手にあったのは『亲宝贝海澜幼稚园』。安全色・黄色のスクールバス。『山峦路(さんらんろ)』を走る。『峦』は「えんえんと連なる山々、くねくねと続く山並み」の意と。亦山(またやま)そして亦山ということか?信号停止線が車線ごとに中央に向かって、少しずつ後方に下がっているのであった。理由は??道路の法面には巨大なキノコが。『绿水青山就是金山银山(緑水青山就是金山銀山)』と書かれた石碑。2005年、当時浙江省党委員会書記だった習近平総書記が初めて「緑の山河は金山・銀山にほかならない」という理念を提起したのだと。第18回党大会以降、習近平総書記はさらに繰り返しこの理念を強調した。例えば、2013年にカザフスタンを訪問した際、次のように述べたと。「われわれは緑の山河を必要とし、金山・銀山も必要としなければならない。金山・銀山より緑の山河を必要としなければならず、しかも緑の山河は金山・銀山にほかならない。」「緑の山河は金山・銀山にほかならない」とは人間本位の民生思想を体現し、人間と自然の調和的共生の法則を順守し、党と政府が大いに推進するエコ文明建設の鮮明な態度と確固たる決意を生き生きと表しているのだと。ここが『濱海北路』からの入口。遠くに『大连棒棰岛宾馆(バンチュイアイランドホテル)』が見えて来た。『大连棒棰岛宾馆(旧東山ホテル)』があり、国賓館として、中央政府の要人が 来る時に、いつもここに宿泊していたらしく、周恩来も鄧小平もよく来ていたのだと。昨年、2018年5月7、8日に北朝鮮の金正恩委員長の2度目の訪中となった際に中朝首脳会談を行い、宿泊しているのがこのホテル・『大连棒棰岛宾馆(旧東山ホテル)』。面白い形状の石のモニュメント。そして黄海が眼下に見えて来た。黄河から運ばれる黄土により黄濁している部分があることから黄海と呼ばれている。黄海は太平洋の縁海であり、広義の東シナ海の一部である。北西側では、山東半島と遼東半島の間の渤海海峡を通じて渤海とつながっている。北東は遼東半島と朝鮮半島の間に西朝鮮湾(西韓湾)が入り込んでおり、その湾奥に鴨緑江が河口を作っている。水深は平均44mと浅く、大陸棚となっている。北は遼東半島から、南は揚子江河口までにまたがっている。中国は昔から「黄」の文字が大切にされて来ているのだと。中国の最初の皇帝は「黄帝」と呼ばれ、文化の発祥地が「黄土高原」であり、中華民族のゆりかごの地が「黄河」であり、黄帝の子孫の肌色は「黄色」であるなど、黄色の色は古くから中国伝統文化とは切り離せない縁があるとのこと。宋代(960年 – 1279年)から清代(1644年 – 1912年)までの中国では、黄色は皇帝・皇位を表す色として尊ばれ、皇帝以外の使用が制限されたと。黄色が皇帝を表す理由に、「黄」と「皇」の発音(huáng)が同じだからとのこと。白い帆のヨットが静かに。『棒捶岛』周辺の地図。海岸から500mのところに、切立った小島があり、遠くから見ると、農家で使われる衣服を叩く棒のように見えることから、『棒捶岛』と呼ばれていると。棒棰島は大連市の東南部海浜に位置し、市街区より少し離れた国賓館リゾート地。海に面して別荘が多い静かな所で、海の正面近くに小さい島があり、名前が『棒捶岛』。この島に関して美しい伝説が残っていると。棒棰というのが朝鮮人参の意味、島の形が朝鮮人参に似ているからこの名前が付けられたと。又は農作物を叩く道具に似ているからという由来もあるのだと。春にはアカシアが咲き乱れ、夏には美しい砂浜と緑地が共存。中国の要人たちの避暑地としても知られている。中国中央政府の重要会議もここで開催されると。園内にはホテルと別荘(一戸建て)があり、9ホールのゴルフ場もあるのだと。山、海、島、礁の自然景観に恵まれた場。棒棰島ホテルが三つ星クラスで、1959年に出来た古いホテル。始めは東山ホテルと言い、政府が投資したホテルであったと。国賓館として、中央政府の要人が来たらここに宿泊、かつて周恩来、鄧小平もよく来ていたと。本館以外に13棟の別荘があり、毛沢東と周恩来それぞれ使った別荘が残っていると。1977年から”棒棰島ホテル”と名づけたと。島の先端をズームで。十数m?の断崖絶壁。眼下の陸側には釣り場も造られていた。ズームで。遠く黄海に浮かぶ左から『ニ山島』、『三山島』、『大山島』が微かに見えた。見学を終え帰路に。道路脇の見事な植栽。『濱海北路』からの入口前を再び。『迎賓路』を走る。往路と同じ『山峦路』を戻る。『仲南路』を右に行くと『朝阳路』。『ニ七広場』のロータリーを右折する。バスが路面電車を追い抜く。いろいろな型式、色の路面電車をバスの車窓から。懐かしい型式のマイクロバスが再び。『王府学校』の文字があったので、学童の送迎用であろう。『華東街』の201路の『華東広場駅』から路面電車の一部区間体験乗車に。大連には現在2系統(201路・202路)の路線があり、市街を東西に走る201路(201系統)は、日本車輌製の戦前型電車が走る路線として有名で、沿線には旧満鉄本社をはじめ戦前からの建物も多く、昔日の面影を感じられる路線。料金は乗車するときに支払う方式なのであった。幸い、乗った電車はかなりの旧式型の電車。大連は路面電車以外にも、BRT(bus rapid transit、バス高速輸送システム)あり、トロリーバスあり、郊外電車あり、かつ地下鉄もと、バラエティに富んだ交通網が楽しめる街であるようだ。それほどの混雑もなく。旅友もカメラを持ってお疲れで居眠りモードに。『三八広場』で路面電車を下り、再びバスに乗る。そして大連駅北口に近い『大連日航ホテル』に到着。時間は17:20過ぎ。ホテルのフロントロビー。我々の部屋。ベッド。もちろんダブルではなくツゥイン。部屋の窓からの眺め。そしてしばしの休憩後、バスにてこの日の夕食会場に向かう。大連北口駅前の『長江路』を進む。『新开路』沿いの夕食会場に到着。美しいボタン(牡丹)?の刺繍。こちらにも。夕食は四川料理。山盛りで皆さん食べきれずに。長いあご髯がトレードマークの三国志の『関羽(かんう)』であろうか?見事な鬚髯(鬚=あごひげ、髯=ほほひげ)をたくわえていたため、諸葛亮からは「髯」殿と呼ばれ、『三国志演義』などでは「美髯公」などとも呼ばれた武将。そしてこの日のホテルに向かってバスは進む。前方に『大连站』が見えて来た。『长江路』から見た『大连站』。『大连站』は瀋陽鉄路局の大連鉄路支局が管轄する一等駅。瀋大線、哈大線が乗り入れている旅客列車の始発駅。毎日、約80本の旅客列車が発着する。また、大連快軌3号線や大連市電201系統、トロリーバス101系統も当駅に接続している。満州国時代に建てられた駅で、日本の上野駅がモデル。南側には広大な勝利広場があり、2階が出発、1階が到着と空港のようなつくりになっている。北口も作られ、そこは凱旋広場と呼ばれ、開発区へ行く大連快軌3号線の出発駅もある。そして一旦ホテルに戻り、この日のオプショナルツアーの『大連夜景鑑賞』に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.08.03
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中山広場を後にし、魯迅路沿いを走ると左手にあったのが雅楽軒酒店(右)と万達影城(大連一方広場店)(左)。『大連大学 魯人路校区』。『大连车务段』前には三種類の旗がはためいていた。中央に中国国旗、左に安全旗、右に车务段旗が。『大连车务段』は「大連電車管理課」であろうか。『大連満鉄本社旧址』。日露戦後、満洲への日本の覇権拡張の原動力となった旧満鉄本社/大連満鉄旧址陳列館の建物を訪れた。この建物は、『満鉄』👈リンクが、帝政ロシア植民地時代の中心地であったロシア人街から、日本植民地時代の中心地とする大広場/中山広場の近くに業務を早く移動させるため、建設中の建物を引き継いだものである。こちらは大連満鉄旧跡陳列館と同じ旧満鉄本社ビルの中央棟の正面。現在は瀋陽鉄道局大連鉄道事務所ととして使用されているようであった。この前方左に私たちが訪れた『満鉄旧址陳列館』と満鉄会社の資料室があった。左側の『大連満鉄舊(旧)址陳列館』。ここは『南满洲鉄道株式会社旧址』。『市級文物保護単位 ”満鉄”旧址』。南満州鉄道本社の歴史がこの中に。『大連満鐵舊址陳列館(大連満鉄旧址陳列館』。『大连故事一历史建筑 南满洲铁道株式会社旧址』。本社内の『廊下』。そして次に目に飛び込んできたのがこの豪華な部屋。白い壁に金色の装飾と当時を彷彿させる豪華なインテリアで、シャンデリアも。ロシア帝国が建設中だった2棟の洋館を改修し、1908年に満鉄本社が置かれた歴史スポット。現在では瀋陽鉄路局の大連事務所として使用されており、そのうち1棟が満鉄旧跡陳列館として公開されていた。建物一階は事務所として使用されている様子で立ち入り禁止。展示物は2階にあり、階段を上がって行った、赤い絨毯の階段を上ると、2階も白の世界。当時の満鉄グッズや写真資料など興味深い品を展示しているほか、旧総裁室も復元して公開していた。『大連満鐵舊址陳列館』。日本人のノスタルジーツーリズム客を目当てとしていることは、資料室に入る手前の最も目立つところに置かれている石碑に書かれた説明文が、中国語表記の真下に日本語を併記していることからも明らかだ。そこでは、文の締めくくりに、中国と日本との友好関係を強調していた。「日露戦争終結後、日本は1906年11月東京において「南満洲鉄道株式会社(略称、満鉄)を創設、1907年4月大連にて開業した。「満鉄」は、経済、軍事、文化、外交の各分野に及ぶ独占的な組織で有り、日本政府に代わり満洲における植民統治を38年の長きにわたり担った。「満鉄旧跡陳列館」の設立の目的は、我々が歴史を鑑とし未来に臨み・友好の新たな一章を切り拓くことにある。」ここにも『満鐵舊址陳列館』日露戦争後の1906年11月に国策会社「南満洲鉄道株式会社(満鉄)」が設立され、翌年1907年にこの地に本社が移転された。この建物は、ちょうど100年周年にあたる2007年に旧本社建物の一部が「大連満鉄旧跡陳列館」として再整備されることになり、一般に見学可能となった。現在、旧満鉄総裁室と会議室などが復元され、公開されていた。当時のこの建築物の写真も展示されていた。二階に上がり廊下の奥にある扉は総裁室や陳列棚などがある部屋で部屋の内部や展示品は写真撮影禁止と。そのうちに、歴史を語りながらの案内の男性から陳列品?を手にして「これは購入できますよ」と勧めて来たのであったが・・・。見事な天井の飾り。その下には、当時の歴史を語る様々な写真が展示さていた。そして、『大連満鉄舊址陳列館』を後にし、バスに乗り込み、次の観光場所の『日本人街』に向かって進む。車窓から『世紀街』を走る路面電車の姿が。『日本人街』に向かって『魯迅路』を走る。『尚品槐花』は中華料理の店。道路脇には住宅街の雰囲気が。日本人街入口近くには火災にあった住宅の姿が生々しく。『枫林街』と『明泽街』のロータリーでバスを降り、日本人街の散策を始める。日本統治時代(1905~1945)の大連には多くの日本人が住んでいたと。 終戦後、大連から日本に引き揚げた 人の数は20万人以上と。大連にあった日本人街の大部分はすでに壊されて跡形もないが、 ここ大連外国語学院のそばに旧日本人街としてわずかに残っていた。ここ中山区・南山の北麓、海を望む楓林街、南山路、七七街、五五路、望海街の一帯は、日本統治時代の1910年~20年代に多くの和風モダン住宅が建設された高級住宅街であったと。 旧日本人街は、人もまばらで閑静な 住宅街といった感じであった。可愛らしい対の人形が迎えてくれた。日本料理店『京和』の招き人形。羽衣をヒラヒラさせ、空を舞う白き天女の像も。ズームで。かつて高級住宅街だった南山地区でで以前の街並みを残す再開発がはじまり、日本風情一条街(または南山風情一条街)と呼ばれている。このあたりには、家屋の大きさ、門構え、庭のこぢんまりとした雰囲気など、日本人が暮らしていた形跡がところどころにある。ここに、満鉄や関東軍のお偉方も住んでいたのだと。例えば、1928年の張作霖爆殺事件の犯人・河本大作の邸宅もここにあったと。南山の丘の上には塔が。ネットで調べてみると南山の「気象塔」のようだ。「サッカーボール」は毎日ではないものの、夜はライトアップされ七色に「七変化」すると。大連のシンボルとしてのサッカーボールがここにも。ここ南山風情街には1999年3月18日付けの碑が。当時の党総書記兼国家主席であった江沢民の手によるものであると。それにはこう書かれていた。「百年風雨洗礼 北方明珠生輝」。大連の街ができて100年。『ロシアや日本による風雨にもさらされたが、今では中国は北方の珠のように光り輝いていると』いう意味であろうか??像をズームで。『枫林街』を歩く。『枫林街』は長くはなく、両側に小さなヨーロッパ風の建物がたくさんあり、最上階は3階しかなく、家の数はわずか100程度でで、静かな落ち着いた通りであった。『南山歴史建築』案内図。三角屋根の建物。『原徳国(ドイツ)領事館』。1925年頃に建てられた建築面積約600平方メートルの大連で最初の鍵の保護された建物である鳳林通りの西洋風の建物。日本の占領期は大連のドイツ領事館であった。日本料理店。立派なバルコニーを持つ石造りの建物。『中国金?』ロケットを思い浮かべる建物。花に囲まれた『水&元素漂浮』。Uターンして。この街は結婚前の記念写真の舞台となっているようだ。長~~い煙管(きせる)を持って。こちらにも。いろいろなポーズで。一番良い時間と空間。日本風の家屋も。3階建てのコンクリートの家。ギターを奏でながら。『柒七(VIP)商务会所』。パーティーや宴会の会場なのであろうか?煙突付きの2階建ての民家。車窓から。『元・日本陸軍奉天特務機関大連派出所(現共青団大連市委事務所)』。旧帝国陸軍の暗部の1つ、戦前に中国大陸で情報収集・謀略工作を担った奉天特務機関の大連派出所。人影もまばらな『南山風情街』なのであった。そして周りの住宅地では古い住宅を取り壊し新しい住宅に建て直していたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・
2019.08.02
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昼食後は、バスにて『黄河路』を東に進む。西安路駅のすぐ上にある百貨店で、昼食レストランの近くの『鹤辉购物广場』。『大连市沙河口区教师进修学校』は教員養成学校。『大連中山公園南門』入口。大連中山公園(だいれんちゅうざんこうえん、簡体字: 大连中山公园)は中国・大連市の沙河口区にある区立公園で、日本が大連を租借中は「聖徳公園」となっていたところで、現在は「労働公園」などとともに、大連の観光地のひとつになっている。東北路沿いにある『大九頻道』ビルをズームで。『大连广播电视台』ビル。『大連テレビ塔』が見えた。大連都心部の緑山に位置する大連テレビ塔は標高360m。エレベータで上に行くと展望台がある、ここから大連市内を展望には最適と。1990年に竣工、2005年に最度改造され、上にはレストラン、喫茶店、回転展望室、観光ホールなどあり、大連観光名所の一つとなっていると。山へは車で登れるが、労働公園方面からロープウェーもあると。夕方となればライトアップし、大連の一夜景となると。『爱政书店』と『大连时尚百盛』の両ビルを繋ぐ連絡橋。『长春路』を見る。『大連医科大学附属第一医院』。『大连医科大学第一临床学院』。一見、大学のような雰囲気の建物が、『遼寧省大連市中級人民法院』。大連市中級人民法院とは、大連市の裁判所のこと。1930年に日本人の設計者によって建てられた建物は、日本統治下時代には関東地方法院として使用されていたのだと。『大連市人民政府』と人民政府前の『人民広場』。大連市人民政府は大連の行政機関。購入した「大連 写真集」には『人民広場』の全景が。大連の有名な観光スポットの一つである、『人民広場』。人民広場は大連中心部に近くにある大きな公園で、きれいに整備されていることから多くの地元の人の憩いの場となっていると。もともと満州国時代には、関東州の庁舎があったため州庁前広場と呼ばれていたが、戦後、スターリン広場と変更された。その後1994年に人民広場となったのだと。広さは12.5万m2もあり、緑鮮やかな芝生は4万m2にも及び、星海広場が登場するまでは大連で最も広い広場であったとのこと。『大連市人民政府』をズームで。大連市の行政の中心。戦前は関東州庁の役割を果たした建物。1937年竣工設計:小園貞助鉄筋コンクリート造4階、地下1階。『大連市公安局(旧警察訓練所)』。『大連市公安局』は、市の公安業務を担当する市政府部門で、12の区、市(郡)の副支局と30以上の事業部があると。戦前は警察訓練所として使われていた建物。この建物のモデルといわれているのは東京大学安田講堂だと。中山路をさらに進む。大連市審計局か?右の高層ビルは『大連希望大厦』。地上40階、地下3階のオフィスビル。全高: 170.6m『中国人民保险集团股份有限公司』。『中山路』を走る。『大商电器交电公司』。中山広場に向かってバスは進む。中央分離帯には花々が咲いて。交差点角の『国美电器』の前には巨大なサックスホーンが。右手に『胜利广场』。『インターコンチネンタルホテル(大連遠洋洲際酒店)』中山広場から約200m、友好広場に面して建つホテル。高さ112.4m、48階建ての近代的な高層ホテル。『友好広場』大連の都心部、中山広場と大連駅の間に位置、昔は『西広場』と呼ばれていた。1950年代、中国と前ソ連同盟友好記念するため、友好広場と名づけた。東側には中山広場、西へ行くと大連駅、北に繁華街ー天津街と繋がっている。友好広場あたりはショッピング街、映画館、飲食街及び文化娯楽の中心地で、広場中央に巨大な水晶球があり、1996年に造られ、吉祥と幸運をもたらす願いが込められていると。大連市街の各所にある特徴的な円形ロータリーの一つで、1950年に中国とソビエト連邦の友好を記念して命名された。水晶球が5本の柱にて支えられ、世界5大洲が支える意味を有すると。重さは117トン、直径は15メートル、モニュメントの中にカラーライトが7852個。夕方となるとライトアップされ、ネオンが非常に美しいと。バスは『友好広場』のロータリーをグルッと。『中山広場』の先に『世界貿易ビル(大连世界贸易大厦)』が見えた。60階建て、全高260m。祇園祭の山車をモチーフにした塔を載せた中国工商銀行(旧大連市役所)。日本統治時代の遺産。『大和旅館旧址』をバスの車窓から。再び『中国工商銀行(旧大連市役所)』をバスの車窓から。バスを降り『中山広場(旧大広場)』の見学に出発。中山広場の歴史建築配置図を作って見ました。そしてこちらは、中山広場にあった『歴史建築 案内板』。購入した写真集より中山広場の全景。まずは『大连宾馆(大和旅館旧址)』。『大连宾馆 百年歴史酒店联盟』。『全国重点文物保護単位 大连中山広場近代建築群 一大和旅館旧址』。『大連賓館』「大連賓館はもと大和(ヤマト)ホテルと言い、日本人建築家の太田毅と吉田宗太郎によって設計されました。建設工事は1909年の着工1914年の竣工です。ヨーロッパのルネッサンス様式の建築様式で、近代保護建築物に指定された名所です。」『大連賓館』の正面左側。『大連賓館』の正面左端。再び『大連賓館』を中山広場から。『旧大連市役所(現 中国工商銀行)』を中山広場から。玄関の唐破風など日本建築の意匠が取り入れられており、塔屋のデザインは京都祇園祭の山車をイメージしたとされる。設計者の松室重光は関東都督府土木課の課長で、大連民政署を設計した前田松韻の後任にあたる。松室は京都府技師時代に社寺建築の保存修復にも業績を残しており、建物のデザインにもその見識が反映されている。戦後も1947年~1950年は大連市人民政府庁舎(市役所相当)として使用され、その後は市政府各部局の分庁舎となった。現在は中国工商銀行大連市分行が使用している。設計 - 松室重光(関東都督府民政部土木課)施工 - 清水組竣工 -1919年8月延床面積 -9,870m2中央の花壇。『旧 東洋拓殖大連支店』。東洋拓殖株式会社は植民地事業のための国策会社。植民地事業のための国策会社である東洋拓殖株式会社の大連支店。設計者の宗像主一は、広場の対面に立つ朝鮮銀行大連支店を設計した中村與資平の弟子にあたる。下層に連なるアーチ窓にアメリカ商業建築の影響が見られる。設計 - 宗像主一竣工 - 1936年延床面積 -8,105m2戦後の1951年から1957年まで中国共産党大連市委員会庁舎として、その後は市政府の分庁舎として使用された。現在は交通銀行大連市分行が使用している。『旧 清国大清銀行』1910年6月竣工。延床面積は1,762m2清国大清銀行大連支店として1910年に建てられたルネサンス様式の建物。中央の塔屋はフランス風のマンサール屋根。1912年の中華民国成立に伴い中国銀行へ改称された。戦後は大連市教育局庁舎として使用された。現在は中信銀行中山支行(旧・中信実業銀行)が使用している。1912年の中華民国成立に伴い中国銀行へ改称された。戦後は大連市教育局庁舎として使用された。現在は中信銀行中山支行(旧・中信実業銀行)が使用している。竣工 - 1910年6月延床面積 -1,762m2『大連人民文化倶楽部』。第二次世界大戦後、新中国成立の間もない頃、ソ連軍がまだ旅順・大連に駐屯していた時期である1950年に、コンサートホール兼劇場として大連人民文化倶楽部が建設された。日本が大連租借中にも映画館・小劇場はあったそうだが、これほど大規模な文化施設は建設されていなかったと。『大連人民文化倶楽部』をズームで。現在も大連市の主要な文化施設として、内外の演奏家・演劇家に利用されている。設計はソ連。 1995年、2008年の2回にわたる全面改修を経て、現在の収容人員は一階が600席、二階が400席。広場中央の花壇と『旧横浜正金銀行大連支店 (中国銀行遼寧省分行)』中国銀行遼寧省分行は、1909年に日本の外国為替銀行だった横浜正金銀行の大連支店として建てられた。終戦後、一時、ソビエト連邦の極東銀行として使用されていたが、現在では中国銀行が使用している。『旧横浜正金銀行大連支店 (中国銀行遼寧省分行)』の近づいて。3連のバロックドームを持つタイル貼りの建物。基本設計は日本で妻木頼黄が行い、弟子にあたる満鉄技師の太田毅が妻木の図面を元に実質設計を行った(太田は臨時煙草製造局技師兼司法技師として妻木の指導下で実績を積み、在官のまま満鉄に招かれていた)。1945年より極東銀行(ソヴィエト連邦)が使用。現在は中国銀行遼寧省分行が置かれている。設計 - 妻木頼黄、太田毅竣工 -1909年延床面積 - 2,805m2『辽宁省第九批省级文物保护単位 横滨正金银行大连支店旧址』。『大连市重点保护建筑 中国银行旧址』『旧 関東逓信局』。旧 関東逓信局関東州での郵政事業を担当した逓信省関東逓信局の庁舎だった建物。大連市役所の対面に位置します。戦後はソビエト連邦軍大連警備司令部が接収。現在は大連市郵政局が使用しています。同じ設計者の建物が向き合うのは異例だが、当時の松室が関東都督府でただ一人の建築技師として設計業務を一手に引き受けていた事実の証左とも言える。設計 - 松室重光(関東都督府民政部土木課)竣工 -1917年延床面積 -2,556m2『市级文物保护单位 关东都督府邮便电信局旧址』。『旧 朝鮮銀行』。日本統治下で中央銀行としての機能を持っていた朝鮮銀行。その大連支店の業務拡大に伴って1920年に建物を新築した。戦後、朝鮮銀行が解散した後も建物は銀行として使用され、現在は中国工商銀行中山広場支行が使用している。『旧 朝鮮銀行』に近づいて。コリント式オーダーが並ぶルネサンス様式の建物。設計者は朝鮮銀行の建築顧問として多くの銀行建築を手がけていた中村與資平。京城に建築事務所を構えていた中村は、この新築工事のために1917年に大連出張所を開設した。なお、1922年に中村が活動拠点を日本に移した際に、同出張所を部下の宗像主一に譲っている(中村宗像建築事務所)。設計 - 中村與資平(中村建築事務所)施行 - 中村建築事務所竣工 - 1920年構造 - 鉄筋煉瓦造3階建延床面積 - 5,278m2『全国重点文物保护单位 大连中山广场近代建筑群 一 朝鲜银行大连支店旧址』『旧 大連民政署/大連警察署』1908年に大連民生署の庁舎として建築されました。日本統治下の大連で最初に建てられた庁舎。中央に時計塔を持つスタイルはヨーロッパの市庁舎風ゴシック様式の建物。1922年より大連警察署の庁舎となり、戦後は大広場警察局と中国海軍後勤部が使用した。現在は、遼陽銀行大連分行が入居しています。設計者は関東都督府土木課の前田松韻。前田は中国東北地方に渡った最初の日本人建築家である。日露戦争下の1904年に軍倉庫の建設に携わり、1905年2月に大連軍政署の嘱託技師となった。しかし2年後の1907年10月には東京高等工業学校の教授に抜擢され、民政署庁舎の完成を待たず帰国した。在任機関は短かったが、大連の民間建築に一定の規模と耐火構造を求めた建築規則の草案作成にも参画するなど、大連の都市建設に大きな影響を残した。設計 - 前田松韻(関東都督府民政部土木課)施工 - 荒川工務局着工 - 1907年8月1日竣工 - 1908年3月25日構造 - 煉瓦造2階建、塔屋付建坪 - 234坪延床面積 - 約2,000m2『大連金融大廈』。この場所にもともとあった建物は、1914年に竣工したイギリスの在大連領事館。設計はイギリス工務局の上海事務所技師長補佐だったH.アシェッド氏。大広場に面した唯一の在外公館であった。1952年以降は大連市六一幼稚園(※)が使用していましたが、1995年に取り壊されて、2000年には大連金融大廈として建てられた。したがって、この建物は現在では歴史的建物ではないと。※「六一」とは六月一日のことで、その日は中国の儿童节(児童節=こどもの日)であると。一度は泊まってみたい『大連賓館・旧ヤマトホテル』を。 そしてこちらは私が購入した写真集より。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.08.01
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