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『旧東海道を歩く』ブログ 目次
由比宿すぐそこ0.6Kmの案内標識。
JR蒲原駅から1km、JR由比駅まで2.8km。
由比駅よりも蒲原駅の方が由比宿に近いのです。
そして『静岡県清水市 由比』道標。
右手に『はちみつ ヤマヒデ養蜂場』が。
『神沢川(かんざわがわ)酒造場』。
「正雪」という名の酒が有名であるようだ。
一年を通して温暖な気候の静岡にも三十数件の酒蔵があるのだと。
そして静岡は地酒ファン必涎の蔵が多い事でも知られていると。
そんな静岡のほぼ中央、東海道の十七番目の宿場町今なお古い町並みを残す由比町に
「正雪」の蔵元、神沢川酒造場が。
民家の横に、江戸から39番目の『由比一里塚跡』。
「一里塚は慶長九年(1604)江戸幕府により、行旅の便をはかるため、
東海道・東山道・北陸道に設けられ、一里が三十六町、一町が六十間と定められ、
塚には榎や松の木が植えられた。
由比の新町の一里塚は江戸から三十九番目で松が植えられていたが、寛文年間(1661~73)
山側の松が枯れたので、良用軒清心という僧がここに十王堂を建立し、延命寺境外堂とした。
十王堂は明治の廃仏毀釈で廃寺となり、祀られていた閻魔像は延命寺本堂に移されています。」
小さな祠に2体の石仏が。
『桝形跡』手前右の古き木造の建物・旧商家「志田邸」。
『桝形跡』。
この場所は、なるほどと納得がいく枡形(鍵型)構造であった。
ここから由比宿の街並みが始まるのだ。
『由比宿東枡形跡』
「宿場の出入り口は桝型(かぎの手)に折れ曲がり、木戸が作られ、万一の攻撃を防ぐなどの
治安維持とともに、宿の出入り口の道標にもなっていました。
ここを通り過ぎると町並みが始まり、本陣、脇本陣、問屋、旅籠、茶屋などが置かれていました。
由比宿も東西の出入り口は桝型に折れており、現在も面影が残されています」。
『昔の商家(志田氏宅)』
「江戸から京へ上る旅人が、蒲原から由比へ入る時、ここは当初の由比宿の東木戸で、
桝型道路の形態をとどめている。志田宅は家歴も古く、屋号「こめや」を名乗り、
家のたたずまいも昔の商家の面影を残している。入口(どまぐち)を入ると帳場、
箱階段等を見ることができる。
枡形道の先の塀にはめ込まれた碑は『御七里役所の趾』。
「江戸時代、西国の大名には江戸屋敷と領国の居城との連絡に七里飛脚という直属の
通信機関を持つ者があった。此処は紀州徳川家の七里飛脚の役所跡である。
同家では江戸・和歌山間(584キロ)に約七里(28キロ)ごとの宿場に中継ぎ役所を置き、
五人一組の飛脚を配置した。主役をお七里役、飛脚をお七里衆といった。
これには剣道、弁舌にすぐれたお中間が選ばれ、昇り竜、下り竜の模様の伊達半天を来て
「七里飛脚」の看板を持ち、腰に刀と十手を差し、御三家の威光を示しながら往来した。
普通便は毎月三回、江戸は五の日、和歌山は十の日に出発、道中八日を要した。
特急便は四日足らずで到着した。幕末の古文書に中村久太夫役所、中村八太夫役所などと
あるのは由比駅における紀州家お七里役所のことである。この裏手に大正末年まで
お七里衆の長屋があった。」
そして『由比本陣公園』に到着。
東海道由比宿交流館、御幸亭、東海道広重美術館が内部に在る公園。
『表門』が中央に。
『明治天皇由比御小休所』と『天皇陛下 皇后陛下 行幸啓記念碑』。
『案内図』。
東海道広重美術館では『江戸のそら 広重の浮世絵に見る機構表現』が開催されていた。
『東海道由比宿交流館』、『観光案内所』。
カルチャー、観光、レストの3つのエリアから成り立っており、由比の歴史に触れたり、
観光情報の発信、地域のふれあいの場として多目的に利用できる施設。
『由比本陣』の立札。
『東海道広重美術館』。
ズームで。
この美術館は2017年6月にも訪ね ブログアップ
⬅リンク していますので、
アクセスしてみて下さい。
『物見塔』。
『東海道由比宿交流館』、『観光案内所』に入る。
扁額ではないが。
内部には、なぜか山口の瑠璃光寺五重塔の模型が。由比との関係は?
『名所江戸百景浮き絵展』。
何故か「浮世絵」ではなく「浮き絵」と。
あまり見学者がいない?
東海道スタート地点の日本橋の絵も。
法被を着て記念撮影が出来るようであったが・・・・。
交流館内には由比宿街並み模型が展示されており由比宿が再現されていた。
由比宿全体。
『東海道由比宿交流館』前にあった井戸。
「この井戸は、江戸時代に本陣で使われていた井戸です。
深さは約三間(5.5m位)で、周りの井筒は切り岩が積み上げられています。
現在の水量はあまり多くありませんが、物見塔に引き込まれ壁泉から徒渉池の
流れの水となっています。
芝生広場。
この場所には母屋があったそうだが、明治初年に解体されたと。
由比本陣公園前の水路は馬のための水飲み場であったと。
『馬の水呑場』
「この横の長い水路状の濠(幅1m、東西20m)は馬の水呑場といって、大名行列の馬に
水を呑ませたり、身体を洗ったりした所です。
したがって水深も元は60cmもありました。屋敷の南の道路にこのような施設があるのは、
他の宿場の本陣にはあまり類例を見ない珍しいものです。」
今では亀が甲羅干ししていました。
『正雪紺屋(しょうせつこうや)』
「この紺屋(染物屋)は、江戸時代初期より続くといわれ、屋内には土間に埋められた
藍甕等の染物用具や、天井に吊られた用心籠は火事等の時に貴重品を運び出すもので
昔の紺屋の様子を偲ぶことができます。
慶安事件で有名な由比正雪は、この紺屋の生まれといわれているところから正雪紺屋の
屋号がつけられています。」
『明治の郵便局舎(平野氏宅)』
「江戸時代、文書の送達は飛脚便によって行われ、由比宿では現在の由比薬局の位置で
朝日麟一氏によってその業が行われ、飛脚屋と呼ばれていた。明治四年三月、郵便制度の
創設により、飛脚屋は由比郵便取扱所となり、さらに明治八年一月由比郵便局と改称された。
明治三十九年五月、平野義命氏が局長となり自宅に洋風の局舎を新築し、明治四十一年一月より
郵便局を移転した。この局舎は昭和二年七月まで使用され、現在は平野氏私宅となっている 。
『脇本陣饂飩屋(わきほんじんうどんや)』。
「由比宿には脇本陣をつとめた家が三軒ありました。
そのうち江戸時代後期から幕末にいたるまでつとめたのが、この饂飩屋です。
東海道宿村大概帳(天保十二年、1841、幕府編集)に、脇本陣壱軒、凡そ建坪九十坪、
門構え、玄関付と記載があります。」
『日蓮宗 光栄山 正法寺』。
「源頼朝から由比郷の地頭に任ぜられた由比大五郎光高の曾孫五郎光時(後に入道して浄円)を
開基檀越とする。その屋敷を割いて法華の道場とし、同族の縁につながる六老僧日興を仰いで
開山とした。
一子正法院日守を2世としたのが文保元(1317)年のことであったが、由比氏は
天正7(1579)年に如何なる理由か浄土宗の一寺を建立し、法華信仰を捨てた。
身延山33世遠沾院日亨の代に身延直末となる。」
『加宿問屋場跡』
「ここは江戸時代に加宿十一カ村(北田、町屋原、今宿など)が共同で問屋場を
設営したところです。
問屋場とは、幕府の命令で街道通行者のために人足と駄馬(百人・百匹)を用意した役所で、
由比宿の場合は本宿と加宿が一カ月交代でこの負担を努めました。 」
『脇本陣羽根ノ屋跡』。
この辺りが正に宿場の中心地。
由比駅方面に向かうと左手にあったのが『東海道由比宿 おもしろ宿場館』。
由比出身の画家・松永宝蔵氏がデザインした人形によって、旅籠や桶屋、寺子屋など、
旅人でにぎわった江戸時代の宿場町をユーモラスに再現した展示館。江戸時代の由比宿に
タイムスリップした気分で楽しめる空間。
2017年6月に、この『東海道由比宿 おもしろ宿場館』も訪ね、 ブログアップ
⬅リンク
していますのでアクセスしてみてください。
おもしろ宿場館から30mほど先の右手には3軒目の『脇本陣徳田屋』が。
現在は文房具屋になっている様です。
この学校の如き建物は?
『清水銀行由比支店本町出張所』
国の登録有形文化財に指定されています。この建物は、1900(明治33)年に完成し、
今でも現役。
奥にあったのが『浄土宗 松石山 延命寺』。
『山門』。
『本堂』。
「鎌倉幕府の御家人高橋光延は、奥州攻略の恩賞として、源頼朝から由比の地を与えられた。
その子光高が由比姓を名乗ったが、由比氏の始まりである。
戦国時代、由比家は今川家の家臣となり、由比宿北の山に由比城を構えていたが、
桶狭間合戦において当主の正信が戦死し、その子正純は今川氏真の籠もる掛川城を
徳川家康が攻めたときに戦死してしまった。
主のいなくなった由比は、分家して志太に居を構えていた由比光教の子岩辺郷右衛門寧広が
治めることとなった。彼が江戸時代になり由比が宿場に指定されたときに、本陣を営む
こととなり、子孫代々本陣は岩辺家が務めていた。
この岩辺寧広が開基となった寺がこの延命寺。」
本尊の地蔵菩薩像は、室町時代末期に造られた高さ2m20㎝の大きなもので、
静岡市の文化財に指定されている。
その6
に戻る。
・・・ つづく
・・・
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