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『旧東海道を歩く』ブログ 目次
由比宿は、東海道五十三次の16番目の宿場である。現在の静岡県静岡市清水区に位置する。
ズームで。
本陣跡が整備され、由比本陣公園となっている。東海道名主の館(小池家住宅)が、
1998年(平成10年)10月9日に、国の登録有形文化財(建造物)の指定を受けた。
「慶長六年(1601)、江戸幕府は東海道に宿駅伝馬制を設け、由比宿はこの年に
宿場として指定されました。東海道五十三次が確定したのは三代将軍家光のころで、
由比宿は江戸から十六番目の宿駅でした。宿内には大名や高貴な人が宿泊する本陣、
彼らの道中での馬や人足を調達する問屋場、一般旅客の宿泊・休憩する旅籠・茶屋などが
ありました。由比の本陣職、問屋職を勤めた岩辺家は、鎌倉時代より続く由比氏の系統で、
江戸時代は代々「岩辺郷右衛門」を名乗りました。
天保十四年(1843)の「東海道宿村大概帳」によると、由比宿の町並みは東西五町半
(約六〇〇メートル)、宿高は、三四〇石、人口は七〇七人、戸数は一六〇軒あり、
このうち本陣一、脇本陣一、旅籠三二となっています。このように由比宿は小規模であったため、
義務であった百人・百匹の常備の人馬をおくことができず、近隣の村を加宿とし応援をして
もらいました。
宿場の西端にある由比川は仮板橋で、大水が出るときは取り外すので川留め(通行止め)と
なりました。また、宿場の東西の入口には万一の攻撃に備えて街道をカギの手に曲げた
桝形があり、今でもその面影を残しています。
由比宿の中心であった由比本陣は、石垣と木塀で囲まれた遮蔽形の本陣で、本陣館、土蔵、
離れ座敷がありました。惜しくもその多くは失われてしまいましたが、一三〇〇坪
(約四三〇〇平方メートル)の広大な敷地、馬の水飲み場の石垣などが
当時の姿を留めています。」
『由比宿 西木戸』
「天保12年(1841)に江戸幕府が編纂した東海道宿村大概帳によると、由比宿の街並みは
東西5町半(約600m)とあります。その宿場の西の木戸がこの先の桝形の所あたりだったと
思われます。旧東海道は、その桝形を左折して坂道を下って由比川の河原へでると仮の板橋が
架けられていて、それを渡りました。雨が降って水量が増すとこの仮橋は取り外されました。
このように由比川は徒歩で渡りましたので歩行渡りといっています。歌川広重の版の行者版
東海道「由井」にはこの情景がよく活写されています。
狂歌入り東海道には、結城亭雛機(すうき)という人が
『ふみ込めば 草臥(くたびれ)足 直るかや 三里たけなる 由井川の水』
という狂歌を残しています。」
現代の由比川に架かる橋・由比川橋。
この由比川橋を渡ると大名、旅人はこの先にある薩た峠の山越えに挑むのです。
そして我々二人もこの日に。
海側には東海道本線が。
橋の欄干には由比正雪の絵が。
由比川橋に飾られている広重の浮世絵
「東海道五十三次之内由井 かち渡りゆひ川の図」(行書東海道)。
こちらが本物の浮世絵。
かち渡り【徒渡り】とは歩いて川を渡ること。
この由比川には木橋が架かっており、そこをかち渡り【徒渡り】している絵。
由比宿の後ろの山々。
山の中腹には本光寺の姿が。
以前訪れた時には、この店・『玉鉾』で食事をし、店のご主人が車で由比駅まで送って
下さった事を想い出したのであった。
軒先に多くのアルミ缶風車をぶら下げている民家が。
風車の形もいろいろあるようであった。
このアルミ缶風車は旅友Sさんが大のお気に入り。
更に由比駅方面に向かって進む。
桜えびの店『牧野商店』。
体長3~4cmほどの薄ピンク色の輝きが全身に詰まった「桜えび」は、明治27年(1894年)に
由比の漁師が鯵の漁をしている時に網がいつもよりも深く潜ってしまい引き上げてみたら
見たこともないピンク色のエビがかかっていた、というどちらかと言えば事故とも言える様な
偶然によって獲られる様になった深海に棲息するエビ。
国内の水揚げのほぼ100%を駿河湾産が占める。その駿河湾で獲れる桜海老の中でも由比
で水揚げされる桜海老は質・量共に有名で、漁の解禁時期にあたる4月と11月には多くの
食道楽・グルマン達がその味を求めてやってくると。
『せがい造りの家』が左側に。
『せがい造りと下り懸魚』
「せがい造り
軒先を長く出した屋根を支えるために、平軒桁へ腕木を付け足して出桁(だしげた)とし、
棰(たるき)を置いたものです。民家建築の美観を添えたもので、由比の街並みに
特に多く見られます。
下り懸魚(げぎょ)
平軒桁(ひらのきげた)の両端が風雨による腐食を防ぐための装置で、雲版型の板に若葉、
花鳥などを掘り込み装飾も兼ねているます。稲葉家はこの下り懸魚が施された建物です。」
『下り懸魚(げぎょ)』。
『豊積神社』の鳥居が小路の奥に見えた。
ズームで鳥居と社殿を。
『今宿』道標。
歩いて来た通りの名は『桜えび通り』。
巨大な桜えびが水引を咥えて鎮座。
由比駅側から振り返って。
『東海自然歩道(バイパスコース)案内図』。
そして左側にあった由比駅でトイレ休憩。
そして薩埵峠に向けて坂道を上る。
『薩埵峠入口』。
案内板に従って進む。
『由比観光案内板』。
『宗像神社』社標が右手に。
宗像神社は、宗像三女神(田心姫神、湍津姫神、市杵島姫神)を祭神としており、
航海の安全を祈願する神である。
『中の沢2号橋』を渡る。
「ここ寺尾には昔、南方寺という真言宗の寺があり地名の起源となったと伝えられている。
昔の家並みは海ぞいにあったが、たびたび津波の被害をうけ、そのため天和二年(1682)
高台に新道を改さくし東海道とした。」
左には青く染まった駿河湾が拡がっていた。
『日蓮宗 讃徳寺』。
「九思一言」とあったが、私は未だ「一思九言」の体たらくであることをこの場で反省。
低い軒の瓦葺きの外観を持つ明治期に建てられた民家。
『小池邸』。
『国登録有形文化財 小池邸 』
「小池家は江戸時代、代々小池文左衛門を襲名して寺尾村の名主を代々務めていました。
名主は年貢の取立・管理、戸籍事務、他村・領主との折衝等、村政全般を扱い、
村役人の中でももっとも重要な役割を担っていました。
この建物は明治時代の建立ですが、大戸・くぐり戸、ナマコ壁、石垣等に江戸時代の
名主宅の面影を残しており、平成10年に国の登録有形文化財に登録されました。」
小池邸はす向かいにあったのが『由比宿東海道あかりの博物館』。
『由比宿東海道あかりの博物館の定』
「たき火からかがり火へ。ローソクから電灯へ。"あかり"はさまざまに姿を変えながら、
いつの時代も変わることなく暮らしを支えてきました。「由比宿 東海道 あかりの博物館」には、
わが国の古今のあかりに関する物品、文献がいっぱい。その歴史をたどれば、"あかり"を
とおして、その時代の暮らしが見えてくるはず」と。
江戸・明治・大正時代までの灯具や資料などが展示されているのであった。
更に坂道を登っていく。
『薩埵峠』道標。
薩埵峠まで2.3km、55分と。
こから街道は更に急な登り坂になっていったのであった。
由比東倉澤地区の『八阪神社』入口の鳥居。
『中峯神社』参道入口の社標。
『鞍佐里神社』参道入口。
『曹洞宗 倉澤山 宝積寺』の本堂が見えた。
『間の宿本陣跡』。
「ここ西倉沢は、さった峠の東坂登り口に当たる間の宿で十軒ばかりの休み茶屋があって、
旅人はここでお茶を飲み、疲れをいやし、駿河湾の風景を愛で旅立っていった。
ここ川島家は、江戸時代慶長から天保の間凡そ二百三十年間、代々川島助兵衛を名のり、
間の宿の間目改所の中心をなし、大名もここで休憩したので村では本陣と呼ばれ、
西倉沢村名主もつとめた旧家である。」
『明治天皇御小休所跡 間の宿 脇本陣 柏屋 』。
「江戸時代から間の宿にあって、柏屋と称して茶店を営んできた。
明治九年及び十一年、明治天皇ご東幸のみぎりは、ご小休所に当てられた。
明治十五、六年頃、静岡県令大迫貞清が療養のため柏屋に逗留された際、
倉沢の気候風土が郷里の九州ににているところから、田中びわの種子をとりよせ
栽培をすすめ、当地に田中びわが普及するところとなった。」
その7
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・・・ つづく
・・・
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