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オヤジが嬉しそうにお銚子を二本持ってきた。「あの兄さんが学生さん達に呑ませてくれって、千円を置いていった。 さあ、どんどん呑んでくれ」友人と私は暖簾を上げて。男の去っていた方向を見つめた。電柱の裸電球の街灯だけがやけに寒そうに立っていた。「オヤジさん、あの人にお礼を言わなくては」と友人がオヤジさんを振り返った。オヤジさんはにやりと笑った。「いいだろうよ。あの人はヤクザなのさ。こんなところで呑む人でない。 今夜はよほどひとりになりたかったのだろうな。 たしか、あの人もムショから出たばかりさ。もうここには来ない」千円も呑まなければならない。ラーメンも食べられる。時間も十分にある。オヤジさんがいろいろ話してくれた。松山では、三年前に、ヤクザ同士の激しい抗争があったらしい。それで主なヤクザは逮捕された。それが、最近、そのヤクザ達が刑期を終えて、ひとりひとり出てきている。出てきているが、温泉地や繁華街の様相がすっかり変わっている。愛媛県警のクリーン作戦もあったが、時代も変わっているらしい。ヤクザにとってはとにかく住みにくくなっていると、オヤジさんは言う。住みにくくなっているというより、古いタイプのヤクザは通用しなくなっている。先程いた男も古いタイプのヤクザだろうと、オヤジさんは言う。「背中にはおそらく入れ墨が入っているはずさ。 あの人も道後温泉を去っていくのだろうな」オヤジさんも酒を呑み始めた。酔うにつれオヤジさんが面白い話をしてくれた。入れ墨をしている人と熱い温泉に入れないそうだ。入れ墨をしている肌は、熱い温泉が凄くシミルらしい。だから浴場で子供たちが暴れると真剣に叱るおじさんがいる。そのおじさんの背中を見ると、おそらく、入れ墨があるはずだ。ふふふ、友人と私は笑った。笑って男の人を思い出した。「あのヤクザさんは道後を去ってどこに行くのだろう。 それにしても道後温泉のお湯はあの人にとっては熱すぎたのだろうな」人気blogランキングへ←ランクアップのために良かったらクリックして下さいな!
2007.01.31
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最近、ヤクザという言葉を聞かない。私の学生時代はヤクザという言葉をよく聞いた。それを言うと、「アンタは道後にいたからさ」と友人から教えられる。ウヌッと構えると、友人はいとも簡単に言った。「温泉街はヤクザにとっては稼ぎ場だったからさ」温泉場はいろいろな面でヤクザにとっては良好な稼ぎ場だったらしい。それが、観光客が温泉場に歓楽よりも保養を求め出した。温泉街にはヤクザの働き場所がなくなったのかもしれない。そして、巧妙な手口の犯罪へと、ヤクザも働き口を変換させたのかもしれない。ヤクザも生きるのに必死なんだよなと、昔ののどかな道後に想いを馳せてしまう。冬、寒い頃の夜、友人と温泉に入った後、屋台に行くのが楽しみだった。ラーメン、ビール、酒、いずれも一杯八十円だった。おでんは一本十円だ。「今夜はどうする」と、友人で相談をする。「呑みたい」「俺も」と、そのふたことで、今夜の方針は決定する。ビール、酒それぞれ一本、そしておでん四本、計二百円、貧乏学生のゆたかな酒宴だ。貧乏というか、国立の大学生のほとんどがみんな貧乏だった。貧乏なのに親は大学によくやってくれたと思う。友人は瀬戸内海の島の出身だった。島がいかに貧乏かということを、友人はよく話してくれた。その話の中に、両親へ対する感謝の気持ちが込められていた。「就職して社会人になったら、まず、両親に道後温泉へ入ってもらう」友人は涙混じりに話した。私も哀しくなった。おでんを各二本ずつ、そしてビールを呑んで、最後に酒を一本頼んだ。「温泉に入ってビールを呑める、幸せだよな。これをオヤジに味わって欲しいんだ」友人はビールをグイッと飲み干すとポツリと言った。屋台には私達のほかにもうひとりの男がいた。端っこでぽつんと呑んでいた。「オヤジ、勘定」男は立ちあがると財布を取り出した。男はオヤジさんと何やらぼそぼそ言って暖簾をくぐって出て行った。(つづく)人気blogランキングへ←ランクアップのために良かったらクリックして下さいな!
2007.01.30
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最近、昔の遊びをよく思い出すとは先日書いた。書いたけれど、またまた、思い出した。これも男の子の遊びだ。屋根に向かってボールを投げる。ボールは屋根に投げられると、一旦、姿を消す。四、五秒後、どこからともなくボールが落ちてくる。それを上手にキャッチできるかという単純な遊びだ。どこから落ちてくるか。わからない。そこに遊びの妙があった。上級生ばかりが勝った。どうしてだろう。上級生には投げる方向でおおかたの落ちてくる位置がわかった。下級生の私達にはわからなかった。投げた位置でじっと待つだけだ。これでは勝てるわけはなかった。自分たちが上級生になってその要領を覚える。下級生に教えたかって?教えなかった。自分で学ぶ。それも遊びだった。屋根にボールを投げる。ボールが姿を消す。青い空、コロコロとボールの転がる音、しばしの沈黙で耳を澄ませる。突然現れるボールに歓声があがる。そうだろう。単純といったらこれほど単純な遊びはない。今の子供達はやっていないのだろうな。遊び友達がいない場合はひとりでやった。ひとりで投げてひとりでボールを待っていると、次第に、ボールの出てくる方向がわかる。それを知った瞬間の喜び、それが「学習」ということだろうね。そして、時たま、ボールが落ちてこない時がある。屋根瓦のどこかに止まったか、雨樋に落ち込んだ場合だ。屋根に昇る。二階建ての建物が少なく、ほとんどの家が平屋だった。屋根から見るその風景にしばし見とれたものだ。それはそれは、瓦屋根の美しい故郷の家並みが広がっていた。人気blogランキングへ←ランクアップのために良かったらクリックして下さいな!
2007.01.29
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鉱石ラジオという文字を本で見た。胸がキューンとなった。鉱石ラジオ、ゲルマニウムラジオとも呼んでいた。何とかの科学や少年雑誌の付録についていたこともあった。電気も電池もいらなかった。コイルをぐるぐる回して木板にセットする。ボリュームなどというものはない。チューニングをしながらイヤフォンで聴く。うん、聴くというよりも、耳を澄ませるといった方がいいかもしれない。針金のアンテナで電波を上手にキャッチできた時にだけ何かが聞こえる。何かが聞こえる。それだけで興奮した。なにかしら不思議な世界に入っていく心境だった。ひとりで部屋の隅で熱中したものだ。ひとりで熱中、そう言えば日光写真というのもあったよな。透明の紙に漫画や写真が白黒反対で印刷されている。その下に表面がツルツルした紙を入れ額にセットする。やはら外へ出て目を細めながら太陽の照り具合を定める。ヨシッ、額を表へ出して太陽に向ける。すると五分程度で、紙に漫画や写真がきれいに写る。今思うに写真のしくみなのだ。紙は感光紙だったのだろうな。でも、子供心には不思議な現象だったよな。鉱石ラジオを聴いていた幼い頃の自分日光写真に夢中になっていた幼い頃の自分その背中に「おい」と声をかけたい心境である。せつない。人気blogランキングへ←ランクアップのために良かったらクリックして下さいな!
2007.01.28
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この長い冬が終わるまでに 何かをみつけて生きよう何かを信じて生きてゆこう この冬が終わるまで ~財津和夫「サボテンの花」最近、車に乗る時には、昔の古いカセットを聴くようにしている。今日はこの「サボテンの花」がテープから流れてきた。最後の歌詞を何度もリフレインしながらせつなくなった。チューリップの歌だ。最近は財津和夫さんがひとりでよく唄っている。昭和四十年代の終わりに聴いた歌だ。当時の、私はまだ二十代だった。若かったということだ。何度も恋をしてはふられていた。恋をして、違う、憧れては勝手に諦めていたということだろう。私だけではない。当時の若者はそういう傾向にあった。そうだろう。今のように携帯もなければメールもなかった。それにね、団塊の世代は不器用だ。ベトナム戦争反対や安保反対と叫ぶけれど恋愛には疎かった。いいや私は違うというシティーボーイの方はおられるだろう。ただね、私は不器用で疎かったというのは事実だった。学生時代に憧れた女性の面影を求めて勝手に惚れて勝手にふられていた。勝手に「ふられ気分」になって酒を呑み町を歩く。吹く風が冷たい。両手を口に持って温める。「失恋って冬にするものではないよな。辛さがより辛くなるものな」そう思っていた時に、この「サボテンの花」を聴いた。最後にリフレインするこの言葉に涙が何度も出そうになった。「そうだよな。春になったら自分にもいいことがあるかもしれない」やがてやってくる春に想いを馳せながらよく口ずさんだものだ。「この長い冬が終わるまでに 何かをみつけて生きよう 何かを信じて生きてゆこう この冬が終わるまで ララララ……」そして三十数年が過ぎた。何かを見つけたかって?うん、わからない。はっきり言えるのは、歳を積み重ねてきたということだけだ。ああ。人気blogランキングへ←ランクアップのために良かったらクリックして下さいな!
2007.01.27
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最近、歳をとったせいか、昔の子供の遊びをよく思い出す。昔の遊びは、男の子用、女の子用と遊びが決まっていた。男の遊びの代表として「クチク」という遊びを思い出す。帽子のかぶり方によって役割が違う。「タイショウ」が正面向き、「クチ」が横向き、「スイ」が後ろ向きとする。クチはスイに勝ち、タイショウはクチに勝ち、スイはタイショウに勝つ。それで、集まった人数を半分に割り敵味方に分かれて戦う。当然、タイショウはひとり、クチとスイは同士で相談して決める。そう、クチとスイの人数割りで勝敗は決まる。だから、戦い開始までは、相手にわからないように、帽子をグルグル回すのだ。さあ、戦闘開始だ。公園や原っぱの両端にお互いの陣地をつくる。クチはスイにタッチするとスイは捕虜として敵の陣地に連れて行かれる。しかし、敵のすき間を突いて、捕虜に仲間がタッチに行くと、捕虜はまた行動ができる。そして入り乱れて、どちらかのタイショウがスイにタッチされるまで戦いは続く。逃げるタイショウ、追うスイ、そのスイを追うクチ、タイショウはそのスイを助けるためにクチを追う。誰が考えたのかスリリングな遊びだった。そう、昔の遊びには、春夏秋冬があった。クチクは冬用で北風の吹く中、陽の暮れるまでやったものだ。大人になって東京の人間にこの「クチ」の遊びの話をしたことがある。「そう、そう、懐かしいいな、俺たちも、幼い頃、よくやったよな」驚いた。東京にも同じ遊びがあった。昔、東京、大分で同じ遊びをしていた。そのことに私は驚いた。そして、クチが「駆逐艦」、スイが「水雷艇」、タイショウが母艦の大将と教わった。エエーーーーエッ、その遊びを東京では「水雷艦長」と呼んでいた。驚きとともにそんな遊びができない大人になったせつなさを覚えた。季節は冬、コートの襟を立てて歩く自分がいる。目の前を、頬を真っ赤にして、鼻水を垂らしている半ズボンの自分が走っている。ああ、歳はとりたくないよな。人気blogランキングへ←ランクアップのために良かったらクリックして下さいな!
2007.01.26
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昔の家には煙突があった。台所や風呂では薪を使った。薪を使うと煙が出る。煙を外に出すために煙突が必要だった。煙突を、長く使っているとススかたまる。ススがたまると煙の出が悪くなる。ススを取り払う必要がある。その時に、登場するのが、煙突掃除のおじさんだ。夫婦とか兄弟でやっていた人が多かった。そうふたり対になって作業する。おやじさんが屋根に上って上から細く切った竹の先にブラシをつけたものを差し入れる。ゴシゴシと押すとドサッと下にススが落ちてくる。下にいる人がそれを外に掻き出すのだ。その作業はなかなか面白い。私達はみんなで並んで眺めた。作業している人の顔が次第に真っ黒になってくる。労働をしているなとひしひしと思った。その煙突掃除屋さんがガスコンロや電気釜の登場で消えていった。消えていったが、私達、地方にはまだ煙突があった。父が兄が私が協力して煙突掃除をしなければならなくなる。「さあ、やるか」日曜日の昼下がり、父のひとことで兄と私は緊張する。タオルでマスクをする。頭にもタオルを被る。完全防備だ。運動神経の発達している兄が屋根に上がる。「ヨシッ、ブラシを入れろ」父の号令により兄がブラシのついた針金を入れる。やがてドサッとすすが落ちてくる。ブラシが上下される。ススがまた落ちてくる。それを台所と風呂の煙突で繰り返す。一時間ほど働いたろうか。父が号令をかける。「ヨシッ終わりだ。お疲れさん」父、兄、私、タオルを取る。目の縁が真っ黒だ。私が父や兄を見て笑う。父も兄も私を見て笑う。みんなで笑っていると母の声がかかる。「みんな、お風呂に入って顔をよく洗って下さいな」水風呂に入ってすっきりする。母と妹がビールと粉末ジュースを持ってくる。父は美味そうにビールを呑む。兄と私は粉末ジュースを飲んでいる。それはささやかであるけれど、穏やかなしあわせなひとときだった。文明が発達すると家族全員で働くことが少なくなったような気がする。「便利になって消える幸せもある」ということを最近よく知らされる。人気blogランキングへ←ランクアップのために良かったらクリックして下さいな!
2007.01.25
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昔、小学校の校門の前にはよく物売りのおじさんがいた。別に高級なものは売っていない。針金細工、知恵の輪、しゃぼん玉などのような小物が多かった。当時、月にまとまった小遣いなど貰っているヤツはいなかった。まずは真剣に走って家に戻る。「今夜、父さんと母さんの肩をもむから五円ちょうだい」母にねこなで声で頼む。給料が出た時や、母の気持ちの良い時はすぐに五円をくれる。問題はくれない時だ。「またガラクタのようなものを買うのでしょう。駄目です」ガラクタのようなもの、それが欲しいのが子供なのだ。貯金箱を割るしかなかった。貯金箱に百円たまったら買うものがあったのに忘れている。とにもかくにも五円を手にして学校に一目散に戻る。おお、みんな来ている。みんな、おじさんを囲んでいる。そう、おじいさんがチューブから何かを出して指でこすると煙が出る。煙が出るのに熱くない。あれを父や母、兄や妹に見せると驚くに違いない。友達もそう思っているのだろう。みんな五円を出して買う。おじさんの面白い話に笑いながら小さなチューブを買うのだ。帰っての夜、父や母、兄や妹に実演して見せる。兄は馬鹿にしたように理屈を言って煙の出る根拠を言って興を冷めさせる。新聞を読んでいた父はちらっと見ただけ、母はせわしそうに家事をしている。「すごーーーイッ」妹だけが感動して驚いてくれる。しかし、煙が出る。ただそれだけだ。すぐに飽きる。飽きると五円が惜しくなってくる。畳に寝ころんで五円をせつなく思い出して悔しがったものだ。昔の女の子は、不思議と、そのような物売りから買わなかった。そう、昔の女の子は幼い頃から大人だったのかもしれない。ああ。 人気blogランキングへ←ランクアップのために良かったらクリックして下さいな!
2007.01.24
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「一番好きな映画は何か?」昨夜、友人、五人で集まって呑んだ時にそんな話で盛り上がった。「『ローマの休日』だ」私は瞬間に答えた。「ヘーエッ、すぐに答えられるんだ」友人のひとりが感心したように私の顔を見た。「なぜだい?」「いや、好きな映画はいっぱいあってどれが一番か悩むもんだよ」「うんにゃ、私は悩まない。絶対に『ローマの休日』だ」私はくり返して言った。「ふーん、次に好きなのは?」友人は私の顔をまじまじと見つめた。「次は『カサブランカ』だ」これまた瞬間に私は答えた。「凄い、またすぐに答えた。次は?」友人は面白そうに質問を続けた。「『初恋の来た道』かな」私は少し躊躇しながら答えた。「ふふふふ、三本とも映画らしい映画だよな。それではこの映画のビデオが三本あったら、まず、どれから見たい」友人は身体を乗り出しながら私を見た。ウヌッ、私は躊躇してしまった。「ローマの休日」を見て、他の映画を見る気がしない。そう、「ローマの休日」を見て他の映画を見るということが想像できなかった。「ローマの休日」の世界に、他の映画の世界を交えてはいけない。私は悩んで悩んでぽつりと言った。「三本を一度に見る気がしない」友人が薄ら笑いをした。クソーッ、私は友人に尋ねた。「ところであんたの好きな映画は?」友人が苦笑いしながら言った。「う~ん、困ったことに、俺も『ローマの休日』なんだ」「あえて聞かないが、あんたの好きな二番、三番の映画と一緒に見ることかできるかい」友人は唸りながら「参った」と頭を下げた。友人と私は顔を見合わせて笑った。笑ってふたりでつぶやきあった。「困ったオジンだよな」 人気blogランキングへ←ランクアップのために良かったらクリックして下さいな!
2007.01.23
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「たまさかには、共に、お前の実家で暮らすのもよいだろう」 小平衛はそういって、おはるをよろこばせた。 なぜなら、女というものは、他家へ嫁いでからも、決して実家を忘れぬものだからである。 ~ 池波正太郎「剣客商売」池波さんの小説を読んでいると、どうしてこんなに女心がわかるのだろうと思うことがある。知人の女性に、よく池波さんの小説について話をする。「そうなのよね。女性というものは確かにそうなのよね」彼女はもっもだという顔をしてぽつりとつぶやく。冒頭の言葉を話した時、彼女は首をひねった。そして、にやりと笑い、大きく頷いた。「そう、実家を忘れない、忘れるということではなく、そう問われるとそうだと言うわね。そして嬉しくなるわね」参った。参った。参った。そして、池波さんの小説では「おれは亡き父上から、このことをつくづくといいきかされ」と男親から教わっているのである。夫婦というものは一緒に暮らしはじめて、男は女の仕草や言葉の中に女の気持ちを探るのかもしれない。もしかしたら、男はずるいのだろうか。奥さんの実家を大切にしていればとにもかくにも奥さんが喜ぶ。後は男が自由気ままに生きられるということだ。そのことを熟知して、男は女心をくすぐるのかもしれない。ただ、池波さんの男中心の小説の中で女心が語られるというところに凄みがある。私はただくり返すのみである。参った。参った。参った。人気blogランキングへ←ランクアップのために良かったらクリックして下さいな!
2007.01.22
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怒る先生の叱り方にはいろいろあった。出席簿の角で頭を叩くオナゴ先生、全然力が入っていないのだがゴチン、これが無性に痛かった。「あらっ、ゴメン、痛かった、痛かったら反省することね」こぶしでゲンコツをつくって頭に置いてぐるぐると回すヤセの先生がいた。そんなに痛くは痛くはないのだが、回しながらの先生のブツブツが胸に刺さった。「先生から叱られているおまえを見て、おまえの両親は泣くだろうな」とか「おまえのおやじさんは真剣に働いている。おまえは叱られている」とかね。今思うに、生徒の弱いところをヤセの先生は知っていたのだろうね。それだけ生徒のことを気にしていてくれたということだろうね。「手を後ろで組め、歯を食いしばれ、両足を広げろ」ヤツにそう言って、横っつらを手でヒシッと張つる先生がいた。兵隊あがりのその先生、時には、ゲンコツでこづくこともあった。そこまでしなくてもいいのにと、私も思ったことがある。そう思いながら先生を見た。先生は泣いていた。涙を頬に浮かべながら泣いていた。夕暮れ、当番で遅くなった私が帰ろうと校門を出た。私の前にふたつの黒いシルエットが歩いていた。先生とヤツだった。夕陽の中にふたりのシルエットがきらめいていた。先生がヤツの頭に手を置いていた。学校一のワルだったヤツに対する叱り方を先生は知っていたのだろうか。卒業式の日、式が終わると、ヤツは先生のところに駆け寄っていた。「先生のおかげで無事卒業できました」ヤツは人目をはばからずに大声で泣いていた。先生も泣いていた。歳をとると、なせか、叱られた先生ばかりを思い出す。そして思う。もう一度叱ってほしいものだと……。褒めてくれる人はいる。おいしいものを奢ればすぐに褒めてくれる。そう、歳をとって何が寂しいかと言うと、叱ってくれる人がいなくなるということだ。最近、どこからかチョークが飛んでこないかとボールペンを鳴らすようになった。ああ。人気blogランキングへ←ランクアップのために良かったらクリックして下さいな!
2007.01.21
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最近、先生の暴力が新聞沙汰になる。昔は、先生からよく叱られたものだ。叱られた先生ほど懐かしく思い出すほどだ。叱り方も先生によって様々だ。そう、チョークをよく投げつける先生がいたよな。先生が黒板に何かを書いている。カチッ、カチッ、ボールペンの針を出したり入れたりする音が響く。先生の背中がピクリと動く。それでも音は止まない。しばらくして、先生が突然振り向く。振り向くと否やチョークを音の方向にピューと投げつける。鳴らしていたヤツも心得ていてさあーっと避ける。「授業中にボールペンの音をチャカチャカ鳴らすな」そうなのだ。ボールペンのボタンを押しながら書くヤツがいた静かな教室ではかなり耳障りなものだ。「俺ではありません」ボールペンを放りながらヤツがふてくされて立つ。「落ち着きのないヤツはおまえしかいないじゃないか」赤い顔になった先生は今度は黒板拭きを投げつける。ヤツはサアーッと避ける。黒板拭きは壁に当たって白い粉をまき散らす。先生は手を叩いて粉をふるいながらぶつぶつ言う。「おまえでなかったらいい。誰なんだ。音を出したヤツは立て」誰も立たない。教室は不気味な静けさを保ったままだ。「ほら、おまえということだ。もういい。壁をぞうきんで拭いておけ」ヤツは後ろのバケツに架かっているぞうきんで壁を拭く。先生はヤツの背中をじーっと見ながら言う。「それにしても、おまえは俺のチョークを避けるのうまいよな。感心した」壁を拭いていたヤツが振り返って笑う。「バカアッ、褒めたんじゃない。拭いたら席に戻れ。授業を続けるぞ」ただそれだけである。ヤツは相変わらずボールペンを鳴らし続けた。先生は相変わらずチョークを投げ続けた。先日催された同窓会、先生とヤツが一番親しそうにしていた。人気blogランキングへ←ランクアップのために良かったらクリックして下さいな!
2007.01.20
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昔の子供はよく笑った。そうほんの小さなことでも笑った。「笑いっこをしよう」といっては無意味に笑った。なんであんなに笑ったのだろうか。今ではその理由がわからないけれどよく笑った。先生に叱られているのに笑った。「笑うな」と叱っていた先生も最後には笑い出す始末だ。「仕方のないヤツらだな」そして頭をゴツン、ゴツン、ゴツンで終わりだ。その反対もある。「にらめっこ」それも遊びのひとつだった。これは顔をにらみあって最初に笑った方が負けなのだ。顔をうつむいてもそらしても駄目だ。とにかく歯を見せてもだめなのだ。「だるまさん、だるまさん、にらめっこしましょ 笑うと負けよ、あっぷっぷ」ふたりでそのような歌を高らかに唄って出してそのゲームは始まる。静かなゲームだ。目をむいたり、頬をふくらましたりへこましたり相手をどのようにして笑わすか工夫をしたものだ。男の子と女の子が勝負すると、男の子がいつも負けた。そうだろう。いつもはおすましの女の子がおかしい顔をするのだからね。五人でやったことがある。丸い輪をつくって始めた。「だるまさん、だるまさん、にらめっこしましょ 笑うと負けよ、あっぷっぷ」 すると普段とは違った。みな、笑わせようではなくいかに笑わないかに気持ちを集中させた。時間は過ぎる。みな、無表情に前を見ている。その時、ひとりがプーと小さなおならをした。みな、笑いそうになった。みな、我慢した。危機を通り抜けたと思ったら、またプーとおならをした。たまらなかった。みんな顔を真っ赤にしてこらえていた。しかし、もう駄目だった。みな笑い出した。笑い続けた。笑って笑って笑って笑い続けた。それは穏やか静かなひとときだった。そう、子供は笑う。それで大きくなる。人気blogランキングへ←ランクアップのために良かったらクリックして下さいな!
2007.01.19
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「月光仮面」のことを語った。ならば「快傑ハリマオ」のことを語らねばならない。実を言うと、私は快傑ハリマオのドラマを見たことがない。大分では放映されなかった。それではどうして懐かしいのか。DVDを買ったのかとおっしゃるのかい。いや、あの主題歌だ。三橋三智也が唄った、あの、そう、あの歌だ。♪まっかな太陽 燃えている 果てない南の 大空に とどろきわたる 雄叫びは 正しい者に 味方する ハリマオ ハリマオ ぼくらの ハリマオ 私達の幼い頃の遊びのひとつに「探検」というものがあった。付近の森や空き家など未知の領域に入り込む場合は「探検」と称して隊を組んで歩く。「探検は厳しい。女の子は付いてきては危険だ」そのようなことを言って男の子だけで組んだものだ。隊を組んで歩く時にはよく歌を唄っただ。月光仮面や赤銅鈴之助の歌もあったがなぜか「快傑ハリマオ」の歌をよく唄った。みんな、テレビは見ていないのに、なぜかハリマオなのだ。探検という言葉の響きにハリマオが似合っていた。そうだろう。マレーの虎、ジャングルの王者なのだからな。そして今回、初めて「快傑ハリマオ」を見た。ジャングルの映像、白い文字が浮かぶ。「ハリマオ?ハリマオとは、マレー語で虎のことである」おう、そうなのか。知っていたが、再び納得すると、バビューと拳銃の音。ひとりの男が倒れる。月光仮面は人を殺さないが、ハリマオはいとも簡単に人を殺すのだ。「おうハリマオだ」「ハリマオ」「ハリマオ」「ハリマオ」人々の叫び声とともに、「連続テレビ映画快傑ハリマオ」という文字が浮かぶ。そして主題歌のイントロが流れて、三橋三智也の声が聞こえる。ああ、これだ。歌の中をハリマオは馬に乗って駆け回る。砂埃が舞う。ああいいよな。エッ、ガードレール、なんでジャングルの道に……。こまかく考えまい。素直に見ればいいのだ。何も考えるな。おっ、現地の人達がハリマオをあがめる。エッ、シャネルズだ。シャネルズが裸で腰に風呂敷のようなものを巻いている。う~ん、シャネルズはこれを真似たのか。登場人物がこれまた凄い。ドンゴロスの松、タドン小僧、う~ん唸ってしまう。それに悪漢が使う機関銃がチャチなのに火を噴く。弾は出ずに火を噴く。しかし、いろいろなことがあっても事件は解決する。そして最後の別れのシーンだ。「ハリマオさん、その仮面は取ってくださらないのですか」「秋江さん、この世から邪悪が消え去るまでこのままでいたのです。お許し下さい」そう、秋江さんは静かに納得するのだ。女性のコーラスが聞こえる。ハリマオは馬に乗り手をたからかに挙げる。「それでは、みなさん、また会いましょう」ハリマオは笑って馬を操りながら走り去っていく。にこやかに笑ってね。そしてね、突然に女性のアナウンスが入る。「明るく希望に満ちた歌声は 再び平和が蘇った南国の青空に高らかに響き渡っていく ハリマオは何処へ、快傑ハリマオ第一部を終わります 次回からは第二部を上映します。どうぞご期待下さい」それでもハリマオは笑っている。笑って笑って馬と共に「何処へ」消えた。一時間半、私は唸りどおしだったよ。そう懐かしさ一杯でね。そしてね、「探検」に行きたくなった。昔の仲間とね。でも、その場所が消えてしまった。仲間もいなくなった。懐かしい想い出は寂しい想い出であることも知らされた。人気blogランキングへ←ランクアップのために良かったらクリックして下さいな!
2007.01.18
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先月、東京に行った際、銀座の本屋で懐かしいテレビドラマのDVDを売っていた。「月光仮面」と「快怪ハリマオ」のシリーズものが並んでいた。これは買わなくてはいけない。ふふふふふ、懐かしいひとときを買うことができる。大分に戻って、100インチの画面でゆっくりと見た。粉末ジュースを飲みながら、うんにゃ、焼酎を呑みながらね。ふふふふ。バミューン、バミューン、拳銃音が二発鳴る。すると「連続テレビドラマ月光仮面」という文字がピロッと現れる。そしてイントロが流れてくる。あああ、懐かしい。月光仮面がオートバイで走ってくる。おお、これだ、これですよ。エッ、スーパーカブのようなやけにちっちゃなバイクだ。こんなものだったのか。そうかな。おっと、ガニ股で乗っている。もっと格好良かったと思っていた。サングラス、白覆面、マント、うん、これだったのかな。五円で買ったサングラス、風呂敷のマントや覆面、白いパッチそうだよな。そして三輪車や自転車に乗っていたものな。バミューン、バミューン、そうか月光仮面は二丁拳銃だったんだ。DVDでよく見るとやけに幼稚な拳銃だ。それもバンドに差しているだけだ。うん、歩きにくかっただろうな。「私に拳銃をどうか撃たせないでくれ」月光仮面が拳銃を構えて犯人に頼む。「今まで、拳銃で人を殺したことはない。頼む。撃たせないでくれ」うん、頼まれた犯人も困るよな。そうなのだ。月光仮面のうたい文句があった。「憎むな、殺すな、赦しましょう」うん、凄い言葉だ。そうだよな。今、起きている事件の当事者に聞かせたい文句だ。このDVDには、月光仮面とサタンの爪との戦いを描いている。パラダイ王国というところに行く。案内するパラダイに詳しい結城博士が言う。「パラダイは日本と風景が似ているから歩きやすい」うん、撮影を日本でしているから、こう言わなくてはならないのだろう。ああ、重箱の隅をつつく大人にはなりたくない。サタンの爪の一味を警官たちは追う。追う。追いつめる。サタンの爪の一味は鉄橋の下に隠れる。「うぬ、逃げ足の速いヤツらめ。どこに行ったのだろうか」前ばかりを見ている警官達、一メートル下の足もとにはっきりと一味が見えている。そうなのか。こんなものをハラハラドキドキ見ていたのだ。「彼らは金やものに目がくらんで、人の心の幸せというものを忘れてしまっていたのです」サタンの爪との戦いに勝利した月光仮面は静かに語る。「月光仮面さんは、これからどうなさるのですか?」博士や良い人達みんなが質問をぶっつける。「また大変な事件が起きている、ほら、風が私を呼んでいる、さようなら」月光仮面はそう言い残して去っていく。おお、それはそれは懐かしくも少し微笑む一時間三十分だった。そして、気持ちはすっかり月光仮面になっていた。「それでは……さようなら」人気blogランキングへ←ランクアップのために良かったらクリックして下さいな!
2007.01.17
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昔の金鱗湖 今の世の中、何から何まで、全部完成品が売られています。 しかも、自分で作るより安い。 それでも私は手作りを放棄してはいけないと思います。 もう年をとってしまった人は別ですが 子どものいる人はとくに、作って食べさせる行為を捨ててはいけない。 ~ 辰巳 芳子鎌倉在住の料理研究家である辰巳芳子さん、由布院によく来られる。「ただいま」辰巳さんは、そう言って、由布院の旅館を訪れるらしい。だから、女将さんや仲居さんたちも自然と言葉が出る。「お帰りなさい」辰巳さんと由布院の人達の話の場に同席させてもらえることが少なくない。辰巳さんのお話を聞いていると、それは料理の話の領域を超えてくる。生活、人生、農業、地球と、広い話で多くの示唆を戴ける。文頭の言葉は「別冊太陽」の中での、辰巳さんのお話だ。そのとおりだと、みんな思っている。思っているけれど、みんな自分で認識したくない。楽をしたい。楽をしたうえにおいしいものが食べられればいい。自分にそう言い聞かせて毎日の食事をごまかしていることが多々ある。だから、辰巳さんからズバリと言われると「参りました」と反省せざるを得ない。由布院に行くと、辰巳さんが指導された料理を戴くことができる。辰巳さんは由布院に来ると、由布院の多くの料理人達に料理指導している。「辰巳さんから教わったスープです。温かいうちにどうぞ」仲居さんが嬉しそうに説明してくれて器をそっと置いてくれる。「おいしいね。気持ちまで嬉しくなっちまう」思わずつぶやいて相手に向かってつい微笑んでしまう。何と表現したらいいのか。ゆたかな味わいだ。そんなスープを味わうと、辰巳さんの次の言葉にも素直に頷いてしまう。 昔はね、それも本当に大昔。 人間は、食べることにかかりきりだっただろうと思うんです。 毎日を無事に食べることにね。 ですから、家族みなで力を合わせてその日食べるものを作り出していたんでしょう。 次の時代というものも、そこのところに戻って 生活にみなでかかわっていくようになるんじゃないかな、という気もしているのです。 ~ 辰巳 芳子人気blogランキングへ←ランクアップのために良かったらクリックして下さいな!
2007.01.16
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東京で働いていた三年間、池波正太郎さんの本を片手によく散策した。その本の名前は「散歩の時に何か食べたくなって」という。そしてね、散策している間に、食べたくなって本の中の店によく入った。そのひとつに「ムルギー」という店がある。渋谷の道玄坂付近の入り組んだ路地の奥の奥にあるカレーの専門店だ。レンガでできたやけに古めかしい玄関を思い出す。中が暗かった。客が多かった。しかし、やけに静かだった。店員のおばちゃんが履いていた運動靴の白が鮮やかだった。おばちゃんはテーブルの間を器用に走り回ってカレーを配っていた。おばちゃんが「ムルギーカレー」を運んできた時には驚いた。ご飯がとんがっていた。ピラミッドというか小さな島のように盛られていた。その周囲を島に寄せる海の波のようにカレーがたっぷりとかけられていた。そして、ゆで卵の輪切りが五、六枚ほどが漂っていた。「オオーーオッ」私はそんな悲鳴をあげたはずである。それから悩んだ。どうスプーンをつければいいのだろうか。スプーンでカレーをすくって島の端にかけて、そこにゆで卵を置く。スプーンでガバッとすくって口に運んだ。エッ、これは何という味なんだろう。豊潤というかとてもゆたかな味なのだ。どう形容したらいいのだろうか。う~ん、むずかしい。ただね、ひと口ごとに幸せな気持ちになっていくんだ。夢中で食べていて気がついたら皿がきれいになっていた。「皿をねぶりたい」本気で思った。最後の最後まで味わいたかった。あれから十年が過ぎた。東京に行っても渋谷に行くことがない。「ムルギーに行きたい」そうつぶやいて、どんどん変化している東京を思った。ムルギーはまだあるのだろうか。レンガ造りの古めかしい玄関はまだ形をとどめているのだろうか。運動靴を履いたおばちゃんはいるのだろうか。食の想い出というものは、食べるものだけではない。最近、そのことをひしひしと思う。人気blogランキングへ←ランクアップのために良かったらクリックして下さいな!
2007.01.15
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耶馬渓の工芸品店「しゃらの木」に行った。昔の子供たちの人形を売っていた。そのあどけなさに懐かしくなった。子供たちがおしくらまんじゅうをしている。懐かしい。そう思う前に、今の子供たちはまだやっているのだろうかと考えた。そうだよな、昔の子供の遊びは季節が決まっていた。おしくらまんじゅうは冬の遊びだった。陣とり、馬のり、だるまさんがころんだなどなど……冬の遊びは沢山あったよな。そう、おしくらまんじゅうだ。思い出してみよう。まずは、地面に棒で丸い輪を描く。昔は舗装されていない道路が多かった。だから、どこででもできた遊びだ。棒きれなどはどこかに落ちていた。うん、棒がなかったらズックの先で描けばいい。遊ぶ人数によって輪の大きさが決まる。これは上級生が判断して、地面に輪を描いていく。輪を一息に描く。これが上手な上級生は頭がいいと尊敬された。さあ輪を描いたら、みんな互いに背中を向けて組む。背中を向けるというよりお尻をつけあうという方が正しいだろう。そしてみんなで一斉に押しくりあうのだ。「おしくらまんじゅう、押されて泣くな」「おしくらまんじゅう、押されて泣くな」押しあいを五分もすると、みんなの額から汗が流れてほっかほかしてくる。「それっ、ホンコだ」上級生の合図でみんなは本気になって押しくりあう。暴れ押しくりあう。最初は下級生が輪より外へ押し出される。押し出されたものは地面に座って勝負の展開に目を凝らす。ひとり減りふたり減り、力の強い上級生が残って押しくりあう。それはそれはなかなか力のこもった展開となる。最後のふたりが尻を押しあってひとりが出されると勝負がつく。勝負がつくと、そこには一瞬の静かさが漂う。土埃が漂っている。子供ながらひとつの試合が終わった満足感を味わう。そう、チャンチャンバラが終わった武士の心境といってもいいだろう。「さあ、またやるか」しばしの休憩の後、誰からともなくかけ声があがる。みんな立ちあがる。前の輪よりも少し小さ目の輪が地面に描かれる。みんな、輪を眺めながら、前回より厳しい戦いになることに思いを馳せる。ズボンのお尻の縫い目が破れるヤツが出てくる。鼻血を出すヤツが出てくる。膝をすりむいてスリキズをつくるヤツが出てくる。それでも遊びは続いた。暗くなるまで遊び続けた。みんな元気だった。そう、みんな風の子だった。「しゃらの木」の人形を見ながら、昭和の子供達の元気が羨ましくなった。人気blogランキングへ←ランクアップのために良かったらクリックして下さいな!
2007.01.14
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ロシアにて ひとりで行くんだ 幸せに背を向けて さらば恋人よ なつかしい歌よ友よ いま ウウウウ 青春の河を越え 青年は青年は 荒野をめざす ~五木寛之「何でも見てやろう」「青年は荒野をめざす」「深夜特急」若者達を世界へ駆り立てた作品だ。その中でも、「青年は荒野をめざす」を、私はリアルに思い出す。私というか団塊の世代が夢中になった週刊誌がある。少年の頃は、「週刊少年サンデー」「週刊少年マガジン」が少年週刊誌だ。青春の頃は、「週刊平凡パンチ」「週刊プレイボーイ」という男性若者向け週刊誌だ。その「週刊プレイボーイ」に連載されていたのが五木寛之さんの「青年は荒野をめざす」という作品だった。私は作品そのものより巻頭にいつも掲げられた四行詩のような言葉に感動して世界の旅に憧れたものだ。世の中は騒然としていた。「ベトナム戦争反対」「安保改定反対」「大学立法反対」などと学園紛争は激化していた。ベンチャーズ、ビートルズ、グループサウンズ、音楽界も新しい動きを見せていた。私、私しゃあ、ぼんやりといつも旅に憧れながら安い酒を呑んでいた。大学受験、就職活動などなど競争相手が、団塊の世代にはいつも周囲に多くいた。そうね、生まれた時から、ずっとね、そう今でも、そしてこれからもね。だからではないけれど、「生きていく」ことにいつも不安がともなっていた。でも、旅に憧れて、なんとなく希望らしきものも抱いていた。「ひとりでゆくんだ、幸せに背を向けて」この言葉は、私の心をゆさぶったね。そうそう、当時はやった「昭和ブルース」という歌の中にこんな歌詞があるんだ。 なんにもせずに 死んで行く おれにはそれが つらいのさ とめてくれるな 可愛い人よ 涙ながれて来るけれどこれには泣かされたよね。砂浜で沈む夕陽を見ながら本当に涙を流しながら唄ったね。幼かったのかもしれない。純だったのかもしれない。十九という歳、学園紛争に縁がなかった平穏な田舎の学園生活だった。アルバイトしては酒を呑んだり周囲の山に登っていた。しかし、心のどこかに「荒野」に対する憧れがあったのだろう。二十一歳、静かな大学にも学園紛争の波が押し寄せてきた。私の周囲も慌ただしくなってきた。慌ただしくなった途端、私は社会という「荒野」に放り出された。そして今、団塊の世代の私達に「定年」というひとつのゴールが見えてきた。私は、その先に「荒野」をもう一度見ようともがいている。そう、ひとつの言葉を懐かしく思い出しながらね。 青年は荒野をめざす人気blogランキングへ←ランクアップのために良かったらクリックして下さいな!
2007.01.13
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大分県の山奥に茶屋「しゃらの木」という創作工芸品店がある。それはそれは小さなほのぼのとしたお店である。「静かだな」午後のある時、「しゃらの木」の客足がぱったりと途絶える時がある。おたかさんが厨房の部屋で帳簿をつけていた。最近、冬の端境期のためか、「しやらの木」の売り上げがなかなか伸びない。頭が痛い。「いらっしゃいませ」その時、お店の方で声があがった。お客様が来たのだろうか。店にはさっちゃんがひとりしかいない。客はひとりらしい。さっちゃんで事足りるだろう。おたかさんは帳簿の作業を続けた。「そうでしょう。いいでしょう。ここのお店は美しい娘さんでやっているの」ふふふ、さっちゃんがまた威張っている。あの娘ったら、すぐ自慢したがるからね。まあ、いいわ、お店の宣伝にもなるのだからね。「そうですか。えっ、歩いてですか。お寒い中、ご苦労様です。 お茶でもお飲みになります。そうてすか。お水ですか。ハイハイわかりましたよ」さっちゃんは厨房へ飛び込んで来ると、水を汲んでまたお店へ出て行った。 あの人、やけに張り切っているわね。お客は若い男性なのかしら。おたかさんはいらぬ妄想を描いて、慌てて打ち消した。「食べるものですか。お焼きしかないのですよ。 とてもおいしいですよ。お茶に合いますけれどね。 そうですか。お客様は甘いものはお食べにならないのですか」どういうお客だろう。でも、さっちゃんは、普段、無口なのにやけに言葉が多いわね。やはり若い男性なのかしら。おたかさんの妄想は萎むどころか膨らんでいった。「あらあら、あまり商品には触れないで下さいね。 見るのは自由ですからね。匂いをかぐのはいいですが、 あまり鼻を近づけないで下さいな」匂いをかぐ。変な客が来ているのかしら。あの人ひとりで大丈夫かしらね。おたかさんは立ちあがろうとした。「駄目です。駄目っ、駄目っ、触ったら駄目、コラーッ!」さっちゃんの悲鳴にも似た叫び声があがった。これは応援に行かなくてはね。でも、行った方がいいのかしら。いらぬお節介ではないだろうか。おたかさんは悩んだ。恐る恐る顔を店へ出した。静かだった。カウンターの前に、さっちゃんが座っているだけだった。「どうしたの。あらっ、誰もいないわね。今いたお客様は?」「エッ、イエネ、別にどうっていうことはないわ。 お客様、ああ、お客様ね、あの辺をのっそりと歩いているわ」さっちゃんが外を指を差した。その向こうに一匹の犬がゆっくりとうろついていた。「お客様は犬だったの」「こうも少なくてはね。お犬様を客としておもてなしの練習をしたけれど駄目だった」おたかさんはさっちゃんを呆れて見つめた。さっちゃんは髪の毛に手をやってため息を吐いていた。それはそれは、「しゃらの木」のほのぼのとした昼下がりだった。人気blogランキングへ←ランクアップのために良かったらクリックして下さいな!
2007.01.12
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人間は、生まれ出た瞬間から、死へ向かって歩みはじめる。 死ぬために、生きはじめる。 そして、生きるために食べなくてはならない。 何という矛盾だろう。 これほどの矛盾はあるまい。 つまり、人間という生きものは、矛盾の象徴である。 ~ 池波 正太郎この文章に出会った時、私はまず姿勢を正した。そしてもう一度読み返した。「そのとおりです、池波さん、参りました」当時の私は、池波さんの作品はあまり読んでなかった。「鬼平犯科帳」「剣客商売」「梅安もの」などは、一冊だに読んでなかった。「池波正太郎作品、藤沢周平作品は面白い。おまうも、一度、読むといいよ」私の父がよく勧めてくれた。しかし、私は読まなかった。父の本棚には、山本周五郎とともに池波正太郎、藤沢周平の本が並んでいた。当時の私は司馬遼太郎に凝っていた。「龍馬が行く」「坂の上の雲」などは何度も読み返していた。ある日曜日、父の本棚を見た。「日曜日の万年筆」という池波さんの本があった。日曜日に読む本としてはいいかもしれない。何気なく読み始めた。そして文頭の文章に出会った。以来、池波さんの作品を読み始めた。「銀座もの」「食べ物」「映画」などのエッセイものばかりだった。「鬼平犯科帳」「剣客商売」「梅安もの」は読まなかった。東京に転勤になった。嬉しかった。池波さんの歩いた町々を喰いながら散歩した。神田の「まつや」銀座の「天國」浅草「ヨシカミ」渋谷の「ムルギー」のカレーライスに出会った時は興奮してしまった。そう、生きるために喰わなければならないのだ。どうせ喰うなら感動して喰おうと決心をしたのもその頃だ。父が亡くなった。父の本棚の池波作品、藤沢作品、山本作品をすべて読破した。後悔した。父が生きている時にこれらの本を読むべきだった。すると、酒を呑みながら父ともっと面白い話をできたものを……。現在、私の本棚には「鬼平犯科帳」と「剣客商売」がきれいに置かれている。入院した時、このふたつの作品を読み返すためだ。ふふふふ。そうそう、そのコラムの中では食べることについて多く書いている。そして、こんな文章も書いている。 だが、人間はうまくつくられている。 生死の矛盾を意識すると共に、生き甲斐をも意識する……というよりも、 これは本能的に感じることができるようにつくられている。ふむふむ、そう書かれると素直に頷いてしまう。だから、続く次の文章などを読むと、昼飯に味噌汁を食べたくなるのだ。 一腕の熱い味噌汁を口にしたとき、 (うまい!) と感じるだけで、生き甲斐をおぼえることもある。 愛する人を得ることもそうだし、わが子を育てることもそうだろう。 だから生き甲斐が絶えぬ人ほど、死を忘れることにもなる。 しかし、その生き甲斐も死にむすびついているのだ。人気blogランキングへ←ランクアップのために良かったらクリックして下さいな!
2007.01.11
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友人が来る。大分駅に迎えに行った。寒かった。構内のトイレに行って、手を拭きながら出ると私の前に見知らぬ男が立ちはだかった。「失礼ですが、あなたの前が開いています」男はにやりと微笑みながら言った。お礼を言う前に、私は下を見てチャックを素早く上げた。頭をあげると、男の姿は消えていた。ああ。「五円ですが……」レジの女性から冷たく言われた。「六百十八円です」女性がそう言ったので、私は千円札と百円玉と二枚の十円玉を出した。我ながら手際が良いと感心していた。技術屋のくせに暗算が弱いとよく言われていた。技術屋を辞めてから計算力が強くなったのかもしれない。ふふふ。それが女性からとがめられるように言われた。レジの箱を見ると千円札、百円玉、十円玉、五円玉が置かれていた。ああ。「ちょっと違いますね」バスの運転手から言われた。バスカードでバスに乗った。窓外の冬景色をぼんやりと眺めていた。自宅近くの停留所に近づいた。バスが停まった。停まる一分前に、私はポケットの中でバスカードを握っていた。そう降り口でバスカードを探すような稚拙な行為はしたくない。私は要領よくカード入り口にカードを差し入れた。「ちょっと違いますね」カードが戻ってくると同時に運転手が無機質な声で言った。病院の診察カードがカード入り口にあった。ああ。「ああ、そうやって、人はぼけていくんだよな」酒を呑みながら、その話をすると、友人から言われた。そして……友人は話を続けた。「うん、困ったことに、俺もよくあるんだわさ、そんなこと、ああ」人気blogランキングへ←ランクアップのために良かったらクリックして下さいな!
2007.01.10
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ジャガイモというと北海道を思い出す。去年、北海道の羊蹄山の麓のフランス料理店で食べたジャガイモは絶品だった。ジャガイモがこんなに甘いとはおいしいとは知らなかった。そのジャガイモの語源を知っているだろうか。肉じゃがの料理本を見ていたら、そのことが書いてあった。なんと長崎が源らしい。ゲエッ!ジャガイモが日本に渡来したのは千六百年頃らしい。オランダ船がジャガタラ(現在のジャカルタ)から長崎に持ち込んだという。だから、「ジャガタライモ」と呼ばれ、いつのまにか「ジャガイモ」となったらしい。 ジャガイモの原産地は南米アンデスの三千から四千メートル級の高地らしい。そう、もともと寒冷地の作物ということだ。ジャガイモは病気に弱かったから寒冷地でしか栽培ができなかったそうだ。ふむふむ、そう考えると、北海道とジャガイモが結びついてくる。料理の本を見ていたのに、私はジャガイモに夢中になった。インターネットでジャガイモを検索した。時間は何の意味もなく過ぎていった。「ジャガイモ畑があるところタマネギ畑あり」これは世界の常識だという。エッ!!常識……ちっとも知らんかったわ。おっととと、人見きよしの古いギャグを使ってしまったわいな。だからジャガイモ畑の横にはタマネギ畑が必ずあるらしい。タマネギがジャガイモの甘味を引き出すということらしい。「らしい」が続いたが、そういうことで「肉じゃが」という料理ができたのかもしれない。私はひとりでその発見をしてひとりで満足した。新ジャガと新タマ、ふふふふ、私はそれを思うだけで狂喜乱舞しそうになった。テヘヘヘヘ、ジャガイモはね、竹串がすーっと通るようになったらね。ふふふふ。いいダシを使ったら肉などなくても、タマネギとジャガイモだけでもおいしいらしい。ああ、春よ来い、早く来い、新ジャガ、新タマ、春よ来いだわいな。人気blogランキングへ←ランクアップのために良かったらクリックして下さいな!
2007.01.09
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思いわずらうな、心のままに進め 星野道夫五年前、会社を辞めようかどうしようかと考えあぐんでいる時に、私はこの星野道夫さんの言葉に出会った。「思いわずらうな、心のままに進め」そうなのだ。思いわずらってくよくよしているよりも、自分のやりたいことをやればいい。たった一度きりの自分の人生なのだ。そう思うと気持ちは楽になった。私の会社を辞めることにした。「辞めるのはいい。しかし、辞めると、寂しくなる。それに耐えることができるか」兄からそのような忠告を受けた。私が寂しがり屋ということを、六歳も年が離れた兄はよく知っていた。「今までも寂しさに耐えてきた。だから、これからも耐えることはできる」私の返事に首をかしげ不服そうだったが、兄は辞めることに反対はしなかった。「辞めて何をするんだ」同僚はじめ多くの人から尋ねられた。何をする。決めていなかった。ただ無性に旅をしたかった。自由に旅をしたかった。自由に生きたかった。「思いわずらうな、心のままに進め」今でも、時々、この言葉を思い出す時がある。星野道夫さんの「長い旅の途上」という文庫本の百八十二頁にはこの言葉の前に、二行の文がある。この文をつなげて読むと、私の気持ちは新たになる。 ある夏の日の夕暮れ、売りに出た森の倒木に腰掛けていると、資金もないのに急に夢 が膨らんできた。ほほをなでてゆく風が、移ろいゆく人の一生の不確かさを告げていた。 思いわずらうな、心のままに進めと……。人気blogランキングへ←ランクアップのために良かったらクリックして下さいな!
2007.01.08
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九州耶馬溪の国道沿いに、「しゃらの木」という店はある。清々しい雰囲気のほのぼのと心やすまる店である。安部さんはなにげなく車を停めた。「しゃらの木」。面白い名前だ。どんな店なんだろう。安部さんは考えようとして考えることをやめた。安部さんは疲れていた。 安部さんは、福岡県内で、電気店を経営していた。三十年前に、東京で働いていた電気店を辞めて、ひとりで故郷の福岡に小さな電気店を開いた。バブル時期などもあったが、安部さんが頑張ったせいもあって、福岡県内に五店舗までをも持つようになった。すべてがうまくいっていた。それが、バブルがはじけるとともに、店の売り上げが減ってきていた。そして、最近になって、大手の電気店が進出して、店は危うくなっていた。「どうしたらいいのだろうな」安部さんの悩みは深くなっていた。悩んでも仕方がない。少し旅をしてみよう。安部さんは思い立ち、昨夜は日田で泊まり温泉に浸かった。今日は中津へ行き小倉を通って、福岡へ帰る予定で国道を走っていた。そして「しゃらの木」という店を見つけた。安部さんは店の中に入った。店の中は、紙に覆われた灯りでほど良い明るさだった。手作りの人形や小物を売る店らしい。古いお盆の上に小物が飾られていた。「これは、うちの物置にあったお盆です。古いものは不器用ですが長持ちするのです」店員の女性が恥ずかしそうにいった。リサイクルということだろう。安部さんはお盆をしげしげと眺めた。そうだよな。うちのばあさんもこんなものを大切に使っていたよな。「これは何ですか」カウンターにお餅のようなものが置かれていた。「お焼きというのです。耶馬溪の子供たちのおやつですよ」女性が説明してくれた。「七転びお八焼き」というらしい。たかな、ふき、シナモンなどが入っている。お茶とお焼きふたつで三百円だという。田舎らしく素朴だよな。安部さんは注文をした。店の中央にある椅子に座った。「この店にあるものは、ほとんどリサイクルですか」安部さんは女性へ語りかけた。「これらがリサイクルかどうかわかりませんが、家にあるもんを持ってきて、きれいに磨いて使っているだけです」女性が恥ずかしそうにいった。「おまたせしました」女性がが微笑みながらお茶とふたつのお焼きをそっと置いた。安部さんはお焼きをひとくち食べてお茶を飲んだ。これで三百円、こんなにおいしいのに、こんなにいい気持ちになるのになと思った。安部さんは店の中をぐるりと見渡した。音楽もかかっていなかった。時折、車の音、鳥のさえずり、女性たちの笑い声が聞こえてくるだけだ。そうだよな。古いものがある。想い出に包まれるということかもしれないな。古いものを大切にしている。そうだ。うちの店も、売るものをもう少し大切に丁寧に扱おう。それに、音楽をガンガン鳴らすのではなく穏やかな気持ちで買い物を楽しんでもらうようにしよう。そうそう、リサイクルではないが、修理部門を充実しよう。安くなったからと買い換えを勧めるのではなく修理を勧めるのだ。そうだよ。長い間、使っていた電気製品には想い出がいっぱい詰まっているものな。「ありがとうございました」お釣りを出しながら女性が恥ずかしそうに微笑んだ。「いいえ、こちらこそありがとうございます。いい気持ちになれましたよ」安部さんはおばちゃんに微笑み返しながら店を出た。「今年はなにかいいことがありそうだ」安部さんは車に乗ろうとして、「しゃらの木」方を見た。すだれが風に吹かれてゆらゆら揺れていた。安部さんは思い出したようにつぶやいた。「そうなのか。このお店は、想い出を売るお店なんだ」人気blogランキングへ←ランクアップのために良かったらクリックして下さいな!
2007.01.07
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夢はでっかく根は深く 相田みつを去年の十二月、東京の「相田みつを美術館」に行った。以前は銀座のビルの一室にあったが、現在は東京フォーラムの中に広いスペースで設けられていた。相田さんの詩は活字で読んでもあの感動はなかなか伝わらない。やはりあの筆字で書かれた作品が人の心をゆさぶるのだろう。静かな館内、私は相田さんの世界に浸っていた。いろいろなテーマの部屋があった。薄暗い部屋の中にひとつの詩を見つけた。 この詩に出会った時、私は由布院を思い出した。「花咲かせるよりも根を肥やせ」由布院の人達がよく使う言葉である。今花を咲かせて華やかな町になるよりも将来の子供達のために根をしっかり育てようということらしい。根がしっかりしていない草木に花をいっぱい咲かせるとその草木は倒れて枯れてしまうのだ。今は辛いだろうが根をみんなでしつかり育てていこう。「花咲かせるよりも根を肥やせ」を合い言葉に昭和四十年代の由布院の人達は頑張ってきたのである。経済効率のよい団体客よりも癒しを求める個人客を大切にしよう。観光の前に、地域を大切にしよう。ゴルフ場や歓楽街よりも、自然や農地を大切にしよう。「私の故郷は由布院です」子ども達が胸を張ってそう言える由布院にしよう。そうやって、由布院の人達は頑張ってきた。「夢はでっかく根は深く」目に見えるものよりも、目に見えない部分を大切にしよう。相田さんの作品を前に、私は由布院に想いを馳せながら静かに佇んでいた。人気blogランキングへ←良かったらクリックして下さい!
2007.01.06
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昔の子供はよく食べた。よく食べたというよりもいつも腹を空かしていた。三時のおやつはちゃんと食べていたのに、とにかく腹を空かしていた。今思うに、体を動かして遊んでいたためかもしれない。遊び疲れて家に戻ると、台所へ直行だ。かまどでのご飯炊きや風呂焚きなどの手伝いをした。そう、昔の子供は家事の手伝いをよくしたものだ。電気釜、自動湯わかしなどは、一般の家庭になかった。エッ、私だけだって、私の家が貧乏だったのだろうか。いやいや、私の同級生はほとんどが同じ体験をしている。でも、家事の手伝いをしているとね、いいこともあったんだ。お袋がてんぷらをあげているとね、揚げたてをすぐさまにつまみ食いができた。そのおいしいこと、大人になって食べているてんぷらの比ではないよね。「親の敵にでも会ったように、揚げるそばから、かぶりつくようにして食べていかなきゃ」そうそう、作家の池波正太郎さんがそう書いていた。だから、てんぷら屋に行くときは腹を空かして行かなければならないそうな。そう、大人になっておいしいと思うようになったゴボウ、イカ、エビ、小イワシ、レンコンなどよりも子供の私にとっておいしかったのは芋のてんぷらだった。揚げたての芋のてんぷら、ほくほくして甘くておいしかったね。アチチチチチッとかなんとか言いながらかぶりつくんだ。たまらなかったね。「つまみ食いしては駄目よ」お袋も何とかかんとか言いながら自分でもぱくついていたものな。「おーい、まだかな」オヤジの声が茶の間からするとお袋は肩を竦めて「お父さんのところに持っていってね」駕籠に盛った天ぷらを慌てて差し出したもんだ。オヤジは卓袱台の前で酒の入ったとっくりを傾けていた。私は駕籠を卓袱台の上に置きながらまたパクリと食べる。「てんぷらは揚げたてが最高だよな」いつもはいかめしいオヤジの顔がほころぶ瞬間だ。当時の私は当たり前だが酒の味を知らなかった。だから、オヤジを見て、私は本気に思ったものだ。水に似た酒など呑みながらてんぷらを食べてもおいしいのだろうかとね。そして大人になった今、酒を呑みながら、ふふふふふと微笑んでてんぷらを食べる。日本人に生まれた幸せをしみじみと覚える。しかし、子供の頃につまみ食いをした芋のてんぷらのおいしさを味わうことはできない。どこの子供も家事の手伝いをしていた。どこも貧乏だった。それになにより、子供は腹をいつも空かしていた。裕福になって贅沢になって忘れるおいしさがあることを知らされる。昔に戻りたいとは思わないけれど、ああ、あの芋のてんぷらのおいしさが忘れられない。とにもかくにも今したいことはひとつ、今夜てんぶら屋に行くことだ。
2007.01.05
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私たちはたがいに助け合おうとするべきです。人間とはそういうものなのです。私たちは他人の不幸によつてではなく他人の幸福によつて生きることを望みます。 チャーりー・チャップリンこの言葉を知った時、私はチャップリンの映画の感動の秘密がわかりました。チャップリンには国境はなかったのです。人類はひとつということをチャップリンは確信していたことと思います。そして他人の不幸ではなく一緒に幸福になっていく。一緒になって生きていく。みんながそう思えば戦争など起こらなかったはずです。チャップリンにはひとつの願いがあったのです。自然とともに、この小さな地球で人が互いに助け合って幸せに生きていきたい。チャップリンの映画を見て、私はいつも大笑いをしていました。笑って笑って笑って……そしてなぜかせつなくなっていました。なぜなのだろう。その祈りにも似た願いは無視されて人々はおろかな戦争をくり返しています。その哀しみが、チャップリンの心の奥に秘められていたのでしょうね。映画の中で、チャップリンが笑うシーンがなかったことが思い出されます。この言葉を知って、私にとってチャップリンの映画の一本一本がより魅力的になりました。
2007.01.04
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初詣の帰途、携帯電話が鳴った。車を道路脇に停めた。受信のボタンを押した。「○○の主人ですが、家内に年賀状を戴いたのですが 家内は十一月二十七日に亡くなりまして……」沈みがちな男の声が、私の耳元で響いた。私は何も言えなかった。「それは……」ボソボソと言って切った。彼女は県庁を三年早めに辞めた。「子供たちの夢の応援をするような仕事をしたいの」退職の際に、彼女は嬉しそうに話してくれた。二十年前、彼女は大学生になったばかりの子供を亡くしていた。一時期、彼女は、毎日、息子さんの墓に参っていた。それだけしか、彼女の気持ちを癒す術がないかのように……。 「彼女が由布岳に登りたいと言っている。ガイドをしてくれない」彼女の友人から頼まれた。息子さんが由布岳によく登っていたらしい。ある休日、彼女たちを連れて、由布岳に登った。彼女は頂上で息子さんの写真を飾り語りかけていた。その日以来、彼女は元気になった。そして、二十年後、県庁を辞めた彼女はボランティア活動で子供達の面倒を見始めた。亡くなった息子さんの姿を追い求めていたのかもしれない。それはそれでいいのだろう。そういう人生もあっていいと、私は思っていた。「精密検査をしたら癌が見つかりました。 身辺整理をしたいので、メールを辞めることにしました」彼女からそのようなメールが入って連絡が途絶えた。五年が過ぎた。彼女から年賀状が届いた。「まだ元気です。ボチボチ生きています」そのような文面に喜んで、私は彼女宛に今年の年賀状を書いた。彼女、あちらで大学生のままの息子さんに会うことができたのだろうか。窓の外を見た。栴檀の枝に雀が留まり枯れた実を突いている。静かな光景だ。寂しくて少しせつない今年の正月が過ぎていく。
2007.01.03
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新年あけましておめでとうございます今時の子供は、正月にはどんなことをして過ごすのだろう。近所を散歩しても、子供の姿が全然見えないのだ。自宅の自分の部屋に籠もりビデオを見ているのだろうか。ゲームセンターに行ってゲームをしているのだろうか。それとも新年早々塾通いをしているのだろか。普段と変わりない生活をしているのだろうか。 昔の子供は違った。今のように塾というものがなかった。今のようにパソコンがなかった。今のように裕福におもちゅなど買えなかった。正月には正月だけの遊びがあった。男の子は凧揚げとコマ回しだ。女の子は羽子板つきだ。家の中ではカルタ取り、双六、福笑いだ。それが毎年続いた。正月になると同じ遊びをした。飽きることなく遊んだ。そして、中学生になるとピタッと辞めた。何故かわからないが不思議と中学生になると辞めた。今思うに、子供と大人の端境期といってもいいのかもしれない。それでは中学生は何をしていたのだろう。何かあると夢中になって走ったものだ。何かあるとがむしゃらに木に登ったものだ。何かあると土手に座って夕陽を眺めたものだ。「考える」ということを学んでいたような気がする。「夢」というものを本気になって考えていたような気がする。「異性」というものを意識しはじめていたような気がする。「俺、高校に行かん、就職する」正月明けのある日、ひとりの友人からぽつりと打ち明けられた。喧嘩が強かった。ガキ大将だった。友人が大人に見えたものだ。あいつ、今頃どうしているのだろう。正月になると思い出す。そして、無性にあの頃に戻りたくなる。 人生、人いろいろなことがある。いろいろなことがあるけれど、人、それぞれに生きていく。生きていく、それだけ、そう生きていかねばならない。 今年もよろしくおねがいします。
2007.01.02
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