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Break Time(一休み)ブルージュに入る前に、是非紹介しておきたかったけどブリュッセル(Brussels)シリーズに載せるにはちょっとマイナーな番外編。前回ヴィクトール・オルタ(Victor Horta)のアールヌーボー建築の話をしましたが、今回アール・デコの邸宅です。ダヴィッド&アリス・ヴァン・ビューレン美術館(Musée David et Alice van Buuren)ブリュッセルの高級住宅街ウックル地区にある美術館は、もともとここに住んでいたダヴィッド&アリス・ヴァン・ビューレン夫妻の邸宅を1973年に美術館にしたものです。ガイドブックにもあまり紹介されていないので日本人の訪問者は少なく。そうでなくても地図も看板もなく、ここにたどり着くのはかなり至難な美術館でした。前日に人でごった返したオルタ美術館(Musée Horta)を訪ねていただけに閑静な住宅街の中のこの美術館はいろんな意味で対象的な美術館でした。時間がある人で建築や庭に興味のある方にはお勧めです 住所 41 Léo Errera Avenue, 1180 Brussels写真は昨年5月の中旬。季節には季節の花が咲く。庭園ではちょうどキングサリやライラックの時期でした。残念ながら例年より寒くパラなどはまだこれから。7月頃に行くのがベストかも・・。表札はこれだけトラムを降りてからどの辻に入るのかがわからず場所を特定する為にこのあたりをくるくる回りました。(辻が8叉路くらいあった)しかもオープンは毎日14時~17時30分(火曜日を除く)それまで門は普通に閉ざされているので民家と見分けがつきにくい。1928年に完成したこの建物は外見上アムステルダム派の建築に分類。実はこの建物の設計は施主であるダヴィッド(David)自身が行い建築家の甥が設計図を描いたようだ。オランダ風の赤煉瓦の外観は施主の控えめな性格が現れていると言うが、内装は凝りに凝ったアールデコ様式にデザインされている。しかも、家同様家具も施主であるダヴィッド・ヴァン・ビューレン(David van Buuren)がこだわって造らせたものなのだそうだ。アール・デコ(Art Déco)は幾何学図形をモチーフにした装飾で1925年のパリ万国博覧会で紹介されたスタイル。1930年代のニューヨークのクライスラービル・エンパイアステートビル・ロックフェラーセンター等がアール・デコ建築として有名。ダヴィッド・ヴァン・ビューレン(David van Buuren)(1886年~1955年)はオランダで生まれ1909年ブリュッセルで銀行家になった。1922年結婚してこの土地を購入すると二人は自分達の好みで当時流行していたアールデコ調のデザイン家具や絨毯、テキスタイル、ランプなどを発注。実はここもオルタ同様内部の撮影は禁止されている。そこで奥の手。購入してきたガイドブックから写真を借用しました。玄関ホールと階段木材はブラジル産の紫檀とマホガニー。デザインはパリのデザイナー、ドミニク。リビングの家具も全て彼の作品。ガラスのシャンデリアはウィーン分離派出身のヤン・アイゼンルーフェル。窓やドアのステンドグラスはオランダの装飾家でアムステルダムのアメリカホテルを手がけたヤープ・ヒディング。左に見切れているブロンズはベルギーの芸術家ジョルジュ・ミンヌひざまずく人。ボタニカル・ギャラリーと呼ばれるこのリビングは特製の花柄の絨毯に由来する。デザインは1925年にパリ万博で活躍したフランスのアール・デコのデザイナー、モーリス・デュフレーン。ちょっとなつかしい昭和のにおい。アール・デコ(Art Déco)は日本でも昭和初期に流行ったようで、なんとなくどこかで見たようななつかしさを感じるのかもしれない。品の良いお金持ちのお宅に遊びに来た・・と言う感じ。写真は無いが、カトラリーや食器まで施主のこだわり抜いた趣味が反映。絵画もわざわざダイニグの為に描かれた6点の静物画。(6点で一つの作品)等の他、ブリューゲルの「イカロスの墜落」をはじめ、ペルメーク、ヴァン・ド・ヴェスティーヌ、スピラール、アンソール、藤田、ド・スメト、ゴッホ、エルンストなどの作品がコレクションされている。しかし個人的に思うに実際の所絵画については本物か不明な部分もある。例えばブリューゲルの「イカロスの墜落」はカンヴァス版が王立美術館にあるが、近年それは偽物ではないかと言われているし、メトロポリタンにもイカロスがあった。画商は本物としてダヴィッドに売ったそうだが果たして?まあ、とにかく芸術好きの施主がこだわり抜いて造り上げた家にこだわり抜いて集めたコレクションが当時のまに展示されているわけです。ダヴィッドが亡くなり後にアリス夫人により1970年に財団法人が設立され屋敷とコレクションが寄贈されダヴィッド&アリス・ヴァン・ビューレン美術館ができたそうだ。家側からの庭園ジュール・ビュイッサンスによるアール・デコ様式の薔薇園(1924年)や英国庭園など当時の一流どころが庭園設計家を手がけたそうたで、手の込んだラビリントスなどいろんな種類の庭があり花がある。ラビリントス(迷路1968年)は大人も楽しめる。一度入ったらリタイアできないので注意。ハートの庭(1969年~1970年)アリス夫人が亡きご主人の為に造らせたと言う。とても可愛らしいコーナー。よくよく見ると花はシャベルできている。楽しいオブジエがあちこちに。近所の人なら子供連れで楽しめるコーナーもある。日本人の来訪者などほとんど来ないようで、何を見てここに来たか? と訪ねられた。それでも日本語解説が用意されていたので日本人ウェルカムのようだ。だから少し宣伝してあげたいな・・・と思ったわけです おわり
2014年02月24日
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ブリュッセル(Brussels) 12 (漫画センターとオルタとタンタン)ベルギー漫画センター (Centre Belge de la Bande Dessinée)ヴィクトール・オルタ(Victor Horta)バンド・デシネ(Bande Dessinée)エルジェ(Hergé)(1907年~1983年)タンタンの冒険(Les Aventures de Tintin)旧ウォーケーズデパート(現 ベルギー漫画センター)(1906)建物は1906年にヴィクトール・オルタ(Victor Horta)によって設計されたアールヌーボー(Art Nouveau)様式の建物。それ自体に見るべき価値のある建物です。ヴィクトール・オルタ(Victor Horta)(1861年~1947年)ベルギーの建築家にしてアールヌーボー様式建築の旗手。今まで家具や食器、テキスタイルなどにとどまっていたアールヌーボーの様式を彼は鉄とガラスを組み合わせた建築の世界に広げた。2000年 「建築家ヴィクトール・オルタの主な都市邸宅群」としてタッセル邸、ソルヴェイ邸、ヴァン・エトヴェルド邸、そして現在オルタ美術館となっているオルタ邸の4件がユネスコ世界文化遺産に登録されている。残念ながらこの建物は登録されている物件ではないが、登録されているオルタ邸(Maison & Atelier Horta)は内部の撮影が禁止されているのだ。ベルギーが国家として生まれた1830年以降はちょうど産業革命のまっただ中にあり、新興勢力の富裕層は革新的な物を好んだそうだ。近代化により誕生した鉄とガラスのコラボこそが新しい芸術の創作につながった。生まれるべくして生まれたのが新しいアート「アールヌーボー(Art Nouveau)」だったのだろう。しかしレオポルド2世が都市計画をした頃、ブリュッセルには100を越えるアールヌーボーの様式の邸宅が建設されたと言うが、ブームが去るとオルタの作品でさえ多くが取り壊されてしまい今は数えるほどしかない。オルタ作品はたいてい建物の中央部に大きなガラス天井と吹き抜けの階段が設置されている。それらは暗くなりがちの建物にいかに採光を取り入れるか・・と言う配慮だ。ここでは吹き抜け階段の代わりに各階の回廊で囲われている。いずれにせよこの天井から差し込む光を各階が取り込めるようになっている。エントランスの階段一階から中2階をつなぐこの階段は数々のマンガ作品の中に登場している。タンタン(Tintin)の胸像とエルジェ(Hergé)の写真ここの一番の目玉がエルジェ(Hergé)の創作した「タンタンの冒険(Les Aventures de Tintin)」である事は言うまでもない。エルジェ(Hergé)は日本の「手塚治虫」氏のような存在だ。ベルギー漫画センター (Centre Belge de la Bande Dessinée)はもともと毛織物の卸売店「ウォーケーズデパート(Waucquez Department Store)」だったところ。創業当初は多くの貴婦人で賑わっていたようだ。現在上階はパルネなどでベルギーの主要なコミックを紹介している。日本人からすると、ぶっちゃけどこが漫画センター? なのか? 解説はほぼフランス語。漫画も知らないものばかり。現代のコミックと言うよりは四コマ漫画の活劇のようなものが展示され、それに伴う関連世界観がちょこっと展示されていると言う程度のものだ。日本のガイドブックに解説が載せにくいのがうなづけた。それでも目玉のエルジェ(Hergé)の創作したタンタン(Tintin)の世界にふれるのには良いかもしれない。(知っている人なら・・。もっとも若い世代の人は知らないだろう。)エントランスの階段を使ったマンガバンド・デシネ(Bande Dessinée)略してBD。ベルギー漫画センター(Centre Belge de la Bande Dessinée)にも使われているバンド・デシネとは? 帯上のマンガ、あるいは コマ割りマンガ、英語でコミックの意。タンタンのモデルは軍人だったエルジェの弟ポールらしい・・。フランス語圏で、漫画は「9番目の芸術」(le neuvième art)と言われているらしい。日本人が思う以上にマンガに対する評価は高いようだ。バンド・デシネの発祥は19世紀スイスのロドルフ・テプフェール(Rodolphe Töpffer)と言われるが、とにかくここベルギーにも世界的なマンガの神様がいる。先ほども紹介したエルジェ(Hergé)である。エルジェ(Hergé)(1907年~1983年)本名はジョルジュ・プロスペル・レミ(Georges Prosper Remi)ブリュッセルの中流家庭に生まれた彼は中学生の頃からイラストを描き始め就職した「20世紀新聞」で月刊誌ボーイスカウトの中、「コガネムシ隊長トトールの奇妙な冒険(Les extraordinaires aventures de Totor, C.P. des Hannetons)」を連載。(1926年7月~1930年7月)このトトール(Totor)がタンタンの前身だそうだ。「タンタンの冒険(Les Aventures de Tintin)」1929年1月より連載が始まったタンタン(Tintin)とスノーウィ(Milou)の世界旅行の物語はエルジェの名を一躍有名にした。80か国語以上で翻訳されシリーズ発行部数(全世界)3億5,000万部以上と言うから驚く。第二次大戦中も掲載紙を変えて連載は続きラストは「タンタン・マガジン」で1976年まで続いた。(1986年エルジェの死後に刊行された未完作品あり)タンタン(Tintin)とスノーウィ (Milou)のフィギュア実は私がタンタンの冒険(Les Aventures de Tintin)を知ったの割と近年。ベトナム旅行の時である。ベトナムではあちこちの土産物屋にタンタンの描かれた漆のボードが売られていた。タンタンは知らないが、絵柄が可愛いので漆のボードを3枚購入。これが買ってビックリ。1枚1kg。3枚3kgもしたのだ。ベトナムはフランスが植民地にしていたからなのだろう。タンタンは80ヶ国で翻訳されてもやはりフランス語圏が一番知られている。さて、ブリュッセルまだまだ紹介したいところもありますが、とりあえず次回ブルージュに移ろうかと思います。back numberリンク ブリュッセル(Brussels) 1 (グラン・プラス 1 中世)リンク ブリュッセル(Brussels) 2 (グラン・プラス 2 北東面ギルドハウス)リンク ブリュッセル(Brussels) 3 (グラン・プラス 3 西面ギルドハウス)リンク ブリュッセル(Brussels) 4 (グラン・プラス 4 西面ギルドハウス 2)リンク ブリュッセル(Brussels) 5 (グラン・プラス 5 市庁舎 ガーゴイル)リンク ブリュッセル(Brussels) 6 (グラン・プラス 6 ブラバント公の館)リンク ブリュッセル(Brussels) 7 (EU とサンカントネール公園)リンク ブリュッセル(Brussels) 8 (サンカントネール公園とフェスタ)リンク ブリュッセル(Brussels) 9 (芸術の丘・ Mont des Arts)リンク ブリュッセル(Brussels) 10 (ロワイヤル広場界隈)リンク ブリュッセル(Brussels) 11 (王宮)リンク ブリュッセル(Brussels) 12 (漫画センターとオルタとタンタン)ブリュッセルその他リンク サンカントネール美術館 1 (ローマン・グラス 他)リンク サンカントネール美術館 2 (フランドルのタペストリー 他)リンク ダヴィッド&アリス・ヴァン・ビューレン美術館(Musée David et Alice van Buuren)リンク 小便小僧(Manneken Pis) le Petit Julienリンク イロ・サクレ(Ilot Sacre)のレストラン 1リンク イロ・サクレ(Ilot Sacre)のレストラン 2 (オー・ザルム・ド・ブリュッセル)リンク ブリュッセルのコイン・ランドリー(苦戦物語)リンク ブリュッセル中央駅(Brussels Central)リンク ブリュッセルのメトロとプレメトロ 1 (メトロとプレメトロ)リンク ブリュッセルのメトロとプレメトロ 2 (プレメトロのトラム)
2014年02月20日
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Break Time(一休み)ピーテル・ブリューゲルとヒエロニムス・ボスピーテル・ブリューゲル(Pieter Bruegel)ヒエロニムス・ボス(Hieronymus Bosch)ヒエロニムス・コック(Hieronymus cock)16世紀のブラバント(現ベルギー)を代表する画家にピーテル・ブリューゲル(Pieter Bruegel)がいる。ピーテル・ブリューゲル(Pieter Bruegel de Oude)(1525年or1530年~1569年)現在もフランドル派の画家として代表される彼の作品は、日本では当時のフランドルの街や素朴な農民を描いた風景画家として浸透している。しかし、それらは彼の後期作品の一部で、実は諺(ことわざ)で皮肉った風刺画家としてのブリューゲルの作品の方が彼らしくて面白い。ところで彼はもっと不思議な絵を描いていた時代がある。日本ではほとんど知られていないかも知れないが、それは限りなくヒエロニムス・ボス(Hieronymus Bosch)に近い幻想絵画である。諺の風刺画の延長線にも見えるが、明らかにそれら作品はヒエロニムス・ボスを意識したもの・・いや、完全に真似した作品であった。ヒエロニムス・ボス(Hieronymus Bosch)(1450年頃~1516年)ルネサンス期のネーデルラント(現ベルギー、オランダ国境)の画家で、彼もまたフランドル派の画家として知られている。もっともフランドル派と言っても特殊すぎる彼の絵画はどこにも分類できない絵画であるが・・。ブリューゲルはヒエロニムス・ボスが亡くなったずっと後の画家である。二人にもちろん接点は無かったのだが、1550年代末になってヒエロニムス・ボスのブームが到来するのである。ボスの怪異な絵画は生前からかなりのマニア人気があったようだが、それは死後も続き、実はかなりの模倣作品が市場に現れたそうだ。(現在でもオリジナルか識別できない作品もあるらしい・・。)実際ブリューゲルは雇い主である版画印刷会社のヒエロニムス・コック(Hieronymus cock)に請われてボスの偽物絵画を描かされていたようだ。ヒエロニムス・コック(Hieronymus cock or Wellens de Cock )(1518年~1570年)1548年にアントワープに戻った彼は出版社を立ち上げローマで見てきた巨匠の作品を版画(エッチング)にして頒布。北部ヨーロッパにイタリアのルネサンス絵画を紹介し普及させた立役者だそうだ。二人はヒエロニムス・ボス風のこの世の物ではない奇っ怪な生き物が登場する幻想版画を発行している。コックからすればヒエロニムス・ボスの未発表作・・として売りたかったのが本音だったろう。それだけヒエロニムス・ボスの絵は売れたのだそうだ。よくブリューゲルは「第二のボス」とも称されたそうだが売るために敢えて乗っかった・・と言う所が本当だろう。実際ブリューゲルが幻想画を描いていたのはヒエロニムス・コックと組んでいた数年に限られているらしい。ベルギー王立美術館にはブリューゲルの「叛逆天使の墜落(The Fall of the Rebel Angels)」(1562年)が収蔵されている。大天使ミカエルが率いる天使軍VS 堕天使サタン(ルシファー)をはじめとした魔界軍との戦いもともとサタンも天の住人(天使)だった。それ故にサタンは堕天使と呼ばれている。天の支配者に戦いを挑んだ元天使は異様な姿に身を変えて魔界に落とされ彼らは悪魔になった。この絵画は「善である天使」と「悪である堕天使」の戦いの図である。しかし通常天の方が勝さり美しく描かれるはずの絵画は、この絵ではむしろ異形の怪物の方が目立っている。ちょっとコミカルでさえある不思議な構成だが明らかに足を止めて見入る作品になっている。それにしてもブリューゲルの怪物は怪物であるけれど美しい。ムール貝の羽や虫からインスピレーションを得たと思える甲冑など案外当時の身の回りにあるなじみの物から構成されているように思う。王立美術館にはヒエロニムス・ボスと思われる祭壇画も展示されていた。「聖アントニウスの誘惑(The Temptation of St. Anthony)」実はこの絵は本来リスボン国立美術館所蔵になっている。だから王立美術館のこの作品は本物なのか解らない。奇っ怪な生物はブリューゲルのそれと比べて不気味で怖い。それにしても写真上の魚のボートは流線型で実に未来的だ。当時このような着想が浮かんだヒエロニムス・ボスは何を見ていたのだろう。ブリューゲルについては、2012年03月お知らせの中で「バベルの塔 」の写真を紹介していますが、今年またウィーンに行くので写真撮り直してきます。そしてヒエロニムス・ボスを探してまた紹介できれば・・と思います。(コーティングされた絵画を撮影するのはちょっと難しいのですが・・。)そう言えば二人に共通点がありました。彼らは共に特殊な教義の宗教のfraternity(フラタニティ)に所属していた・・と言う事です。特殊な宗教観が常人が考え着かない異形の世界を発想させたのでしょうか?fraternity(フラタニティ)については2013年09月「2013.9 クイズこのロゴは何? 解答編 秘密結社? フリーメイソン」の中で「(fraternity)とギルド(craft guild)」について書いていますから良かったら見てね。リンク 2013.9 クイズこのロゴは何? 解答編 秘密結社? フリーメイソンヒエロニムス・ボス(Hieronymus Bosch)については、2016年02月ウイーンの造形美術アカデミーで書いています。「造形美術アカデミーのボス(Bosch)最後の審判 1 (楽園)」「造形美術アカデミーのボス(Bosch)最後の審判 2 (反キリスト者の裁き)」そこの目玉がヒエロニムス・ボスの最後の審判(The Last Judgment)なのです。リンク 造形美術アカデミーのボス(Bosch)最後の審判 1 (楽園)リンク 造形美術アカデミーのボス(Bosch)最後の審判 2 (反キリスト者の裁き)おわり
2014年02月16日
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土曜日に降った大雪には驚きました。マンションの外階段はまるでゲレンデのようになだらかに美しい傾斜を見せてスノボーでもできそうな状態でした おかげで階段に25センチ以上積もった雪をどけるのに体力を使い、腰を痛め指にはまめができました 雪国の人からみたら何そのくらい・・と思われるでしょうが、雪よけの道具などなく、素手でサンダル履きでチリトリ片手に奮闘したのですから仕方無いのです。ブリュッセル(Brussels) 11 (王宮)王宮(Palais Royal)ブリュッセル公園(Parc de Bruxelles)さて、ブリュッセル・シリーズ王宮をささっと紹介です。夏の特定の時期になると内部を一般公開しているそうですが今回はその時期では無かったので外側だけです。日本の皇室と親しい事で知られているベルギー王室は案外新しい国です。その歴史は1830年のネーデルラント連合王国からの独立革命から始まり、国王は現在で7代目。(ベルギーの正式な独立承認は1839年)国王一覧レオポルド1世(Léopold I)(1790年~1865年)レオポルド2世(Léopold II)(1835年~1909年)アルベール1世(Albert I)(1875年~1934年)レオポルド3世(Léopold III)(1901年~1983年)ボードゥアン1世( Baudouin I)(1930年~1993年)アルベール2世(Albert II)(1934年~)フィリップ(Philippe Léopold Louis Marie)(1960年~)歴史が浅い・・と言っても初代国王レオポルド1世はザクセン=コーブルク=ゴータ公国出身の家系。中世以来、主にドイツのザクセン地方を納めていたザクセン王の家系であるヴェッティン家(Wettin)の分家に当たる由緒ある家系だそうで、現在のベルギー王家の他ブルガリア国王フェルディナンド1世、ポルトガル国王フェルナンド2世、イギリス王配アルバートなどが輩出されている。王宮は広くて写真一枚には入り切らないのである。クーデンベルク(Koudenberg)の丘に最初に城が建てられたのは11~12世紀。この頃はまだ小さな城で、同じ頃隣接する裁判所も建てられたと言う。15世紀頃、くブルゴーニュ、ブラバン、フランダース、リンブルフナミュールを治めていたFilips de Goede(1396年~1467年)の時代に公が居をここに移すべく大きな宮殿を建設したようです。(Filips de Goedeはネーデルランド(現ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)の歴史に重要な役割を果たした人物だそうで、政治の中心がここに来た・・と言う事。)17世紀の絵画の中に前の宮殿が描かれています。(ウィキメディアより借りてきました)Paleis op de Koudenberg(クーデンベルク宮殿)アルブレヒト・デューラー(Albrecht Dürer)(1471年~1528年)も見ていた・・とされる以前の宮殿は魅力的な庭園と多くのアートコレクションで欧州では有名な宮殿だったそうです。しかし、1731年に、オーストリアの女性知事マリアエリザベスの治世に宮殿は焼失。1775年に地区の再設計で残骸は全て撤去されたようです。左の翼の先現在の王宮(Palais Royal)はベルギーがまだ南ネーデルランドと呼ばれていたハプスブルグ家の支配下にあった時代(1713年~1794年)に再建されたものだそうです。とは言え最初は館が二つ建てられ、後に増築合体。(1784年頃完成?)1815年にはネーデルランド王国国王の宮殿となる。そしてベルギー王国に入ってレオポルド2世(Léopold II)(1835年~1909年)の時に宮殿の改装改築が行われ現在に至っっていると言う。(1862年~1904年)因みにハプスブルク家および神聖ローマ帝国はフランス皇帝となったナポレオン1世の攻勢に屈して解体される。(ハプスブルク家のフランツ2世は1806年に退位。)新古典主義様式(Neoclassical Architecture)で建築された王宮はちょっとルーヴル宮殿に似ている。宮殿ファサードの破風宮殿正面にはブリュッセル公園のゲートがある。本来は宮殿の前庭につながっていた所。さかのぼればブラバント公の狩猟場として使われていた場所だそうだ。今は宮殿と公園は通り抜けできる広い道路になって分断されている。ブリュッセル公園(Parc de Bruxelles)敷地13.1 ha 宮殿の前は1776~1783年に新古典主義派のフランスの建築家Gilles-Barnabé Guimard(1734年~1805年)とJoachim Zinnerにより幾何学様式でデザインされ造園。1830年のベルギー独立時は戦場にもなり、破壊された公園は時間を掛けて復元されたそうです。王宮の南東側にはレオポルド2世(Léopold II)(1835年~1909年)の騎馬像が置かれている。ちょうど真向かいあたりに日本大使館がある。写真右の奧がブリュッセル公園。王宮の塀に飾られているオブジェ?甲冑をモチーフにしたこのような像はめずらしい。何かの意匠か? と思ったが解らなかった。王宮隣の裁判所の窓にも甲冑の兜をモチーフにした窓が・・。これも新古典主義のモチーフなのか?解ったらどこかでお知らせします。おまけ・・裁判所王宮おわり。リンク ブリュッセル(Brussels) 12 (漫画センターとオルタとタンタン)
2014年02月11日
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ルフトハンザから「今月から3月中旬までだったらマイルが半分だから旅行しませんか? 」と言うお知らせがきていた。(閑散期の期間限定である)マイル数半分は破格である。一週間くらい行って来ようか・・と、いろいろ検討したのだが、やはり寒い時期なので保留する事にした。すると今度は「マイルが切れちゃうよ・・」と言うお知らせが来たのだ。かなりのマイル数が残っている。ビジネスで2人楽勝な分のマイルがカットされる。それはやっぱり残念である。しかし、今月中に予約を入れないといけないし、ホテルも・・。さらに航空燃料の差額代金も別途何万かかかる。マイルがあるからお金がかからない・・と思ったら大間違いなのだ。さて、どうする? どうする? と考えていたのは昨日の夕方の事。そして、すでに日程は組まれ、飛行機の予約、ホテルの予約、ついでに現地で落ち合う知り合いと小旅行に出かける手はずまで決まってしまった。さあ、昨年のベルギー、オランダ早く終わらせなきゃね・・ところで詳しく載せすぎて長くなっている部分もありますが、他の人は紹介しない些細な部分にこだわっているのでゴメンネ ブリュッセル(Brussels) 10 (ロワイヤル広場界隈)楽器博物館 Musée des Instruments de Musiqueゴドフロワ・ド・ブイヨン(Godefroy de Bouillon)聖ヤコブ・クーデンベルク教会(Saint Jacques op Koudenberg)引き続きクーデンベルク(Koudenberg)の丘、ロワイヤル広場周辺を紹介。写真が解りやすいように地図の向きをかえました。青い星(芸術の丘)の階段上ピンクの星(ゴドフロワ・ド・ブイヨン)の像水色の星(聖ヤコブ・クーデンベルク教会)青い星(芸術の丘)の階段上から正面に見える建物が聖ヤコブ・クーデンベルク教会Ravenstein通り左手にはギルドハウスのような古い家が並ぶ。(カメラの違いもあるけど撮影した日時の違いもあり空の色が異なります。)日時計の付いた建物遠目にはよく解らない。よほど目が良くないと解らない? 後は感かな?楽器博物館 Musée des Instruments de Musique1898年完成のアールヌーボー建築。当初は百貨店Old Englandの建物であった。ベルギーの建築家 Paul Saintenoy(1862年~1952年)制作。戦後ベルギーのモニュメントや建物など復興の為の王立委員会のメンバーの一人。収容点数7000を越える世界有数の楽器博物館で各国の様々な楽器が展示され、オーディオガイドで実際の音が視聴できる。最上階のテラス付カフェレストラン100年前は展望台だったそうだ。Ravenstein通りつきあたりはロワイヤル(王宮)広場聖ヤコブ・クーデンベルク教会(Saint Jacques op Koudenberg)フランス語ではサン・ジャック(Saint Jacques)ですから本来フランス語圏のここでは聖ジャック・クーデンベルク教会ですが・・。聖ヤコブは2011年05月頃「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼」で紹介したエルサレムで殉教したキリストの12使徒の一人です。中世ブレイクした聖ヤコブのお墓巡礼は今もバチカンと並ぶキリスト教三大巡礼地の一つであり、各地に聖ヤコブの教会が建てられたようです。ロワイヤル広場の騎馬像はゴドフロワ・ド・ブイヨン(Godefroy de Bouillon)。彼は第1回十字軍を指揮し、初代エルサレム王国君主になった下ロレーヌ(Lorraine)公である。(ドイツ語でロートリンゲン(Lothringen))ゴドフロワ・ド・ブイヨン(Godefroy de Bouillon)(1060年頃~1100年)もともとブローニュ伯爵家次男に生まれた彼は母方の叔父から下ロレーヌの爵位を受ける。ゴドフロワは十字軍遠征でエルサレムにたどり着いた武将の一人である。死後に英雄視され、十字軍の騎士として、最高指導者として吟遊詩人により後世、その武勇が語り継がれた。彼は下ロレーヌ(ブラバント地方は下ロレーヌの一部)の英雄と言うわけだ。前に紹介したが、中世の貴族の子弟は、長子のみが家督を相続。次男以下は自力で財産を造らなければならなかった。(特に北フランス、イングランド、ドイツでは)次男のゴドフロワ・ド・ブイヨンに、もし下ロレーヌの爵位がすんなり手に入っていたなら、彼は十字軍に参加しなかった可能性もある。また、爵位を得なかったなら、ウトラメール(十字軍が征服して領地にした外地)で領地を得た騎士の一人として終わっていたかもしれない。ゴドフロワ・ド・ブイヨンについては2013年08月09日「十字軍(The crusade)と聖墳墓教会 2 (キリストの墓)」の中「エルサレム王国」で紹介しているからそちらも見てね 聖ヤコブ・クーデンベルク教会の裏は王宮であり、かつてはハプスブルク家やオランダの知事の公式な教会だったそうです。現在この教会の裏に王宮は残っているものの王の居城はブリュッセル市ラーケンにある。そして現在のベルギー王室の菩提寺はラーケンにある。ノートルダム・ド・ラーケン教会(Église Notre-Dame de Laeken)がそれにあたるようだ。1872年レオポルド1世の妻、ルイーズ=マリー・ドルレアンの霊廟の為に建てられた教会は建設以前のベルギー王室の皇族の遺骸も納められ現ベルギー王室の霊廟になっている。別角度から撮影したこの写真。左の建物がベルヴュ博物館(Belvue Museum)そして、あいにく雨で写真が悪いが、ベルヴュ博物館の窓から撮影した広場の写真。写真右のピンクの矢印が、先ほどのRavenstein通り。写真左上の青い矢印が、王立美術館(Musées Royaux des Beaux-Arts)入り口。(マルグリット・ミュージアムの入り口も同じ)ベルヴュ博物館(Belvue Museum)入り口側先ほどの広場は右の建物の向こう側。ベルヴュ博物館はすでに王宮の一部になっている。写真左の建物は宮殿の翼の一つ。因みにこの撮影している背中側がブリュッセル公園(Parc de Bruxelles)になっている。次回、王宮(Palais Royal)の写真紹介。リンク ブリュッセル(Brussels) 11 (王宮)
2014年02月07日
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各都道府県の特徴を極めて簡略化したざっくり地図が若者の間に流行っているそうです。作者がそれぞれ違うので、統一性は全くありませんし、極めて制作者個人の主観が強く個性的。観光協会は絶対認めないシロモノではありますが、「なんとなく解る解る」と言う所が受けて笑える? そこが人気なのでしょう。さて、地図はほどほどにシンプルな方が解りやすい。目的別に熟考された日本の地図はどれも非常に解りやすくできています。しかし海外では? 必ずしも解りやすい地図ばかりでは無いのです。特に今回旅行したベルギーやオランダでは、国単位で疑問に持つほどレベルが低かった。(理解不能で目的地にたどり着けずあきらめた場所もあったのです)そもそもベルギーは特に街に標識がなさすぎるのが問題でした。たとえ地図を見つけても目印になる現在位置のポイントも書かれていなければ、通りの目印となる建物の表記も無かったりする・・。要するに探す人の身になった地図造りになっていないのです。地図製作のノウハウが無いのかもしれません。結局役に立ったのは日本のガイドブックについている地図です。大ざっぱだけど地元の地図よりまだ信頼できた・・と言う事です ブリュッセル(Brussels) 9 (芸術の丘・ Mont des Arts)芸術の丘(モン・デ・ザール・Mont des Arts)ブリュッセル中央駅の南、ランペール大通りにアルベール1世の騎馬像が置かれた公園広場があります。そこから東方面、王宮のある丘陵地がクーデンベルク(Koudenberg)の丘です。クーデンベルク(Koudenberg)の丘の西斜面が芸術の丘(モン・デ・ザール・Mont des Arts)になります。なぜ芸術の丘と呼ばれるようになったのか?その界隈に美術館や博物館、コンサートホールが点在しているからです。今回は芸術の丘からの写真を紹介します。まずは位置確認でクーデンベルク(Koudenberg)の丘の地図からピンク星・・・王宮(Palais Roya)(王宮前のブリュッセル公園はかつては王室の庭園)王宮より西の方(写真左)が芸術の丘(モン・デ・ザール・Mont des Arts)赤星・・・アルベール1世の騎馬像青星・・・公園高台の階段黄星・・・楽器博物館などのアールヌーボー建築の建物群と奧がコンサートホールA~B・・・ラーベンシュテイン・ギャラリー(Galerie Ravenstein)いわゆるショッピングモール芸術の丘(モン・デ・ザール・Mont des Arts)に絞り込んだ地図写真上の青星から赤星方面の景色写真奧に見える尖塔はグラン・プラスの市役所の尖塔。ちょうど西の方面になるので夕日が綺麗らしい。フランス式庭園の左手がアルベール1世図書館右手スクエアは2009年オープンフランス式の幾何学庭園は造園家ルネ・ブリュール(René Péchère)(1908年~2002年)の作品。1956年から1958年製作。もともと公園は国王レオポルドIIによ19世紀末から土地の買収がされていたようだ。ブリュッセルは王の肝いりのせいでとかく博覧会が多く開催されていた。1897年、1910年、1935年、1958年そして1910年の万国博覧会の体裁を整える為にロワイヤル広場から緩やかな傾斜を利用して今の位置に公園や記念碑的な階段を建設。その後都市再生プロジェクトの中心として再び公園の再編が行われ今の庭園は1958年の博覧会に間に合うように新たに造園されたもののようです。公園下のアルベール1世(Albert I)の騎馬像公園下から王宮広場(ロワイヤル広場)前の聖ヤコブ教会が見える。アルベール1世(Albert I)(1875年~1934年)第3代ベルギー国王(在位:1909年~1934年)第2代ベルギー国王レオポルド2世の甥。ドイツの領内通過の時、永世中立国である事を押して戦った強い意志のある王は一方で趣味が登山と車の運転と言う庶民派。家庭的な人柄もあり国民に特に愛された国王なのだそうだ。ランペール大通りからのアルベール1世の騎馬像今や市民の憩いの場となっている。日本では考えられない・・ただボーっと座っている人が多いです。騎馬像の下からグラン・プラスの方を臨む。公園前ランペール大通りと写真中央がブリュッセル中央駅舎。実は芸術の丘(モン・デ・ザール・Mont des Arts)の地下はブリュッセル国鉄が走っている。このあたりはちょうど地下にもぐっている区間なのだ。最初に紹介した地図のA~B・・ラーベンシュテイン・ギャラリー(Galerie Ravenstein)は丘の上から駅に向かう人の最短通り抜けコースでもある。最初の写真はこの大階段のずっと上から撮影写真中央にちょっと見切れているのが楽器博物館。さらに丘を登ると王宮前広場に出る。次回もクーデンベルク(Koudenberg)の丘の上からリンク ブリュッセル(Brussels) 10 (ロワイヤル広場界隈)
2014年02月02日
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