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御嶽山(おんたけさん)の突然の噴火には驚きましたもともと2万年の間に噴火は4回と少なくこの火山に対する傾向や情報が少なかったようですが、近年(1979年)の爆発以降は小規模な噴気活動が続いていて監視、観測の対象になっていたそうです。(計器もいろいろ設置されていたらしい。)しかも、最近は火山性地震の予兆はかなりあったようで今月11日には80回もの地震が観測されていたとか・・。それなのに警告程度で入山規制は出されていなかった1日に80回の地震なんて尋常ではない。「ちょっとヤバくね?」と気付きそうなものだが、登山者も気象庁も何を優先したのか? 結果、噴火の時に信じられない数の登山者が火口に近い尾根で逃げ惑う・・なんて驚きの事態になったようです。みなさん無事に下山できる事を願っています。さて、そろそろウイーンに行きたい所ですが、ミラノで紹介しておかなければならない教会がもう1つありました。ミラノの教会3部作の最後はミラノ最古の教会です。逆に言えばキリスト教が公認されて初に建てられた教会・・と言う訳なのですが、それ故? 今まで紹介してきたカテドラルとは全く異質の装飾に驚いたのです。サンタンブロージョ聖堂(Basilica di Sant'Ambrogio) 1 (異教的な装飾)ミラノ勅令(Edictum Mediolanense)アトリウム(atrium)エトルリア(Etruria)遡る事ローマ時代。まだキリスト教徒が迫害されていた時代、そこには宮殿があり、異教の神殿の遺構があった場所と言われています。(初期の教会は異教の礼拝所が転用される事が多かったようです。)紀元313年コンスタンティヌス帝によ信教の自由が認めらると(ミラノ勅令)、そこにミラノの最初の教会が建設されました。創設は379年。現在の建物は11~12世紀に再建されたロマネスク様式。建設された時は街外れだったと言うが今はミラノ中心からほど近い。教会前庭には回廊式のアトリウムが付属している。ミラノ勅令(Edictum Mediolanense)学校で習ったのはディオクレティアヌス帝のキリスト教徒大迫害(紀元303年)の後、紀元313年に西のコンスタンティヌス帝と東のリキニウス帝が共同で発令した「信仰の自由を保障する」と言う勅令(ちょくれい)です。しかし、実際に二人は確かにミラノで会談した経緯はあるものの、ここで共同声明を出したわけではなさそうなのです。だからこれは勅令ではない・・と言うのが最近の見解だそうです。因みにミラノ勅令は全ての信仰を認める・・と言う内容で、キリスト教に限ったものではありませんでした。キリスト教がローマ帝国の国教になるのはテオドシウス1世の時代ですが、いつを持って・・と年代を出すのが難しい。一応381年にコンスタンティノポリスで開かれた第2回キリスト教公会議の主催者がローマ皇帝テオドシウス1世だったので、その頃から・・としておきます。この教会はミラノの守護聖人サンタンブロージョ(Sant'Ambrogio)を祀った教会堂(バシリカ)です。そもそも、この聖堂は司教アンブロージョ (Ambrogio)(340年? ~397年) が創設した教会でしたが、彼が亡くなった後に聖人認定され聖アンブロージョ(サンタンブロージョ・Sant'Ambrogio)と呼ばれるようになりました。当初は彼の兄弟(Satirus)が亡くなり、その墓を考えた時に殉教者の遺物と共に小さな礼拝所をもうけたものを造ったのが始まりだったようです。因みに、ガイドブックによればこの土地はマッシミーノ(Massimino)皇帝の宮殿の一部だったようでコンスタンティヌス帝とリキニウス帝の会談が行われた場所がまさにこの場所。しかも10世紀にもまだ皇帝の宮殿が残っていて中世、神聖ローマ皇帝が戴冠に訪れた由緒ある教会でもあるそうです。教会堂の前に中庭がある光景は私は初めてでした。現在の教会堂は8世紀と11~12世紀の改築の姿が濃く出ているようです。ロンバルディア・ロマネスク様式の模範例だそうです。アトリウム(atrium)このバシリカ前の回廊(アトリウム)は初期キリスト教の教会にみられた構造で、現在現存しているのは僅かのようです。そもそもは洗礼志願者の為の空間であったとされていて、ここは9世紀に拡張されているそうです。ミラノ勅令後にできた初期の教会は、もともと秘密だった個人宅の集会所やカタコンベに礼拝堂が建てられできたものもあるそうです。右が3つあるうちの中央の入り口。中央には羊が彫り込まれているのだが、そのまわりの装飾はちょっと独特。。隣の入り口の柄にいたっては、キリスト教とは思えない絵柄(グリフォンとヒョウ?)です。中央入り口の柱にはなぜか牛の彫り物が・・。ミトラ教の装飾か?すでにあった異教のパーツなども建築資材に混ぜられたのか? それとも石細工師が持っている技がこれだったのか?中央祭壇左にある石の箱物に注目ちょっと変わった説教壇とスティリコの石棺ロマネスク・ビザンチン様式で12世紀の作品らしいが、実は1196年に天井が崩れ崩壊したのを以前のように復元したもの。裏側に彫りのない部分が・・。下のはなぜか石棺で389年~390年頃のものであるが、これも当初からここにあったものらしい。後年テオドシウス1世のお気に入りの軍人で義理の息子となったフラウィウス・スティリコ (Flavius Stilicho)(365年~408年)の名が付けられて呼ばれるようになった。実際誰が入っていたかは解らないらしいが、絵柄に夫婦のレリーフがあるのでどこかの貴族夫婦の石棺だったかも・・。スティリコの石棺(sarcophagus of Stilicone)説教壇もスティリコの石棺も、その彫刻が面白いのだ。写真正面の柱にはトラ? ライオン? キメラ? らしき獣が威嚇している。デザインはヘレニズム的。一応装飾はキリスト教のモチーフがメインになっているようだが、ここも異教のテイストである。使徒の集会とおぼしきローマの衣装を着た集団。中央の聖人らしき人はヘビを握りしめている。この教会には他にもヘビのオブジェが乗った柱があるのだがヘビはキリスト教でこそ原罪のシンボルとして嫌われているが、ローマでは薬草を発見してくれる貴重な動物でもあり、幸福のシンボルとしてとしても扱われてきたそうだ。融合美術? キリスト教が国教化された初期の頃は従来のいろいろな信仰のすり合わせがあって、異教の信仰がミツクスされていたのかもしれない。それにしてもどこかで見たような・・と、気が付いたのは、このデザインのテイストの元はエトルリア美術ではないか? と言う事だ。エトルリア(Etruria)エトルリア(Etruria)はBC8世紀~BC3世紀頃に現在のイタリア中北部にあった都市国家であるが、非常に高い文明を誇った伝説の王国であり、ローマの開祖にもエトルリア人が入っている。エトルリア自体はローマに吸収されて消えてしまった。ルーブルやサンカントネールの美術館にまとまったエトルリアの美術品がある。ギリシャともオリエントとも違う独特なスタイルがあり、しかもその1つ1つのクオリティーが高いのが目にと留まる。このあたりの装飾はバビロニア風な気もするけど明らかにエトルリア系の融合ですねちょっと彫りはゆるいけど・・。次回主祭壇とサンタンブロージョ(Sant'Ambrogio)聖櫃です。リンク サンタンブロージョ聖堂(Basilica di Sant'Ambrogio) 2 (聖アンブロージョの聖櫃)
2014年09月28日
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追記 Break Time(一休み)美貌のオーストリア皇妃エリザベート(Elisabeth)こと愛称シシィ(Sissi)が宮殿を抜け出してまで買いに出かけた・・と言う伝説のお菓子を紹介。つまりこれぞ本物のセレブの愛したお菓子・・と言うわけです シシィとゲルストナーのスミレ菓子ゲルストナー(Gerstner)砂糖漬けのスミレ(Kandierte Veilchen)ウィーン美術史美術館のレストラン本店はウィーンのシュテファン寺院の近くケルントナー通りにあります。創業は1847年。ベストリーのお店としてアントンとバーバラ・ゲルストナー(Anton and Barbara Gerstner)によりオープン。1869年にはオペラ座で軽食を始め、1873年には皇室御用達の菓子店に認定されました。現在はオペラ座や美術館にレストラン出店もしていて、カフェレストランとして知られていますが、私達観光客にとってはゲルストナー(Gerstner)と言えばやはりシシィのスミレ菓子でこそ有名なお店です。1個11.90ユーロ (1ユーロ140円として)1670円。20粒くらい。よくよく考えるとかなりお高いシシィ(Sissi)とはエリザベート・アマリエ・オイゲーニエ・フォン・ヴィッテルスバッハ (Elisabeth Amalie Eugenie von Wittelsbach)(1837年~1898年)16歳でオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に嫁いだ彼女は窮屈な宮廷生活を嫌い、(姑と気が合わなかった? とも言われている。)夫に同伴したり極力宮廷にいる事をさけ旅行にもよく出かけていたといいます。(晩年は北アフリカにも出かけている)また宮中にあっては美容に気遣い、彼女の使用した美容の道具なども公開されています。特にウエスト50cm、体重50kg、身長172cmと言うモデル体型は彼女の自慢であり、それを維持する為の努力は惜しまなかったようです。ゲルストナー(Gerstner)の砂糖漬けのスミレ(Kandierte Veilchen)は彼女のお気に入りの1つで(前述私の推測では口臭予防の為? ) 宮殿を抜け出して買いに出かけた・・と伝えられるお菓子ですが、宮殿を抜ける口実もあったかもしれませんね。本当に砂糖付けされただけのスミレの花は甘くてちょっと独特な清涼感がある。はっきり言ってこのまま食べても別に美味しいと言うほとのものではないが・・。ふと閃いた熱湯で溶かしてみよう美しいスミレ色のティーになりました。甘さはそのまま食べるよりもまろやかになり、清涼感が増し、口臭を抑える役目があったのか? と言うお味でした d(-_^)good!!もしかしてシシィもこうして飲んでいたのかも さて、ゲルストナーはウィーン美術史美術館の中にも出店。それも一番素敵な場所に陣取っていました。ウィーン美術史美術館への出店は1989年。場所はちょうど入り口ドームの2階になります。つまりドームの下がレストランなのです。本当に内装はゴージャスだが、椅子やテーブルはたいした事はなかった。2002年にBusiness Magazineにより世界のGreat Gallery Restaurantsトップ10の2位にランクされたとか・・。現在は買収されケイタリングの会社として大企業に発展ています。スミレの砂糖漬けはここ美術館のお土産コーナーでも売っていました。軽食しかありませんでしたが食事をしてきました。Club Sandwich 13.60ユーロLemon & Lime Cake 4.60ユーロ飲み物はりんごジュースの炭酸割りアプフェルザフトショーレ(Apfelsaftschorle) 2.80ユーロ をとりました。ここは意外に値段が安いです。日本のケーキを食べている私達にとってぶっちゃけケーキはそんなに美味しくはない。それなりに・・である。オーストリアは確かに昔はお菓子の国だったかもしれないが、今や繊細さやグレードで言ったら日本が世界一だと思う。でもシシィの砂糖漬けのスミレ(Kandierte Veilchen)は他にないから一度試してみてはどうでしょう
2014年09月21日
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近年イル・モーロの居城であったスフォルツェスコ城 (Castello Sforzesco) では、塗り込められたイル・モーロの部屋の壁からレオナルド・ダ・ヴィンチの新作が発見されたそうです。現在スフォルツェスコ城では作品を復元修復しているようですが、まだフレスコ画が主流だった時代です。他にも塗りつぶされたり破壊された壁画がどこかにあるかもしれません。またレオナルド・ダ・ヴィンチはイル・モーロの依頼で巨大な騎馬像の制作をしていたそうです。しかし原型となる粘土製の像はイタリアに侵攻したフランス軍により射撃練習の的にされて破壊され、材料のブロンズの方は大砲の材料に持って行かれ結局造れなかった。(完成していたら残っていたかも・・。)何しろこの戦争でイル・モーロは囚われミラノ自体の運命が大きく変わるのです。その時(1499年)ダ・ヴィンチは弟子のサライや友人とミラノを離れヴェネツィアに逃げています。ミラノ侵攻がその時に無ければ、ミラノにはもっとダ・ビンチの作品が残っていたに違いありません。さて、今回はミラノの貴族の私邸を改造した美術館の紹介です。偶然にもこの時、一部作品が日本に来ていたようで逆に残念でした。(Bunkamura ザ・ミュージアム と大阪で特別展)所蔵品の質においては前から定評がある美術館でしたが、館の素晴らしい調度品の中でこそより引き立つ絵画やコレクションの鑑賞は来館したからこその有意義な時間でしたポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli)マルティン・ルター夫婦の肖像聖人図ミラノの貴族であった美術収集家ポルディ・ペッツォーリ(Gian Giacomo Poldi Pezzoli )(1822年~1879年)の私邸はモンテ・ナポレオーネ(Monte-napoleone)駅から数分のところです。以前「モンテ・ナポレオーネ(Monte-napoleone)のレストラン」で紹介したジュゼッペ・バガッティ・バルセッキ(Giuseppe Bagatti Valsecchi)美術館と同じようにゲートは狭く中庭に美術館入り口があります。ルネッサンスから19世紀までの美術品のコレクションは、もともとポルディ・ペッツォーリ(Gian Giacomo Poldi Pezzoli )とその母ローザ(Rosa Trivulzio)のコレクションからなっているそうです。ポルディ・ペッツォーリは1879年に57歳で亡くなり、コレクションや屋敷は遺言で芸術財団に寄贈。財団により1881年4月にポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli)は開館しています。エントランス右の螺旋階段は待合室を兼ねた造りになっている。こじんまりしているけど個人の家としてみたらかなり立派。オブジェの池には金魚が・・。コレクションを飾る為の場所にもこだわったと聞く。1階には中世の武具コレクションの部屋とペルシャ絨毯の部屋がありました。2階に上がってすぐに陶器のコレクション・ルームマルティン・ルター夫婦の肖像突然ですが、階段上がって正面の小部屋にはルーカス・クラナッハ(Lucas Cranach il Vecchio)の手によるマルティンルター夫妻のポートレイトがありました。一般に紹介されているのはたいていこの写真です。左・・マルティン・ルター(Martin Lutero)(1483年~1546年)右・・カタリナ・フォン・ボラ(Katharina von Bora)(1499年~1552年)マルティン・ルター(Martin Lutero)は免罪符を非難し、宗教改革の引き金を引いた人で有名ですが、いくつかの改革の中でも聖職者の独身制を否定して自ら結婚していた。と言うのを実は知りませんでした。ルターはもともと聖アウグスチノ修道会系の修道士であり、カタリナも修道女。ルター41歳、カタリナ26歳の時に2人は結婚したそうですが当然カトリック教会からは猛反発。しかしプロテスタント教会においてはルターのおかげで牧師の結婚が認められる事になったのです。ところで、プロテスタントとは、ラテン語のプロテスタリ(prōtestārī)(抗議)が由来。カトリックに抗議した事から来た語と言う訳だ。陶器の間の先ずっと奧に特にスペシャルな部屋があった。そんなに広い空間では無いがその部屋は隅々凝りに凝った装飾がされている。装飾の雰囲気からしてここはプライベート祈祷室だったのかもしれない。向かって左サイド入り口側を振り返った所まるでイスラム教のミフラーブのような造りと装飾はちょっとムデハル様式を思い出す。壁に描かれた絵画からロマン派の要素もうかがえる。これが本当の本場イタリア式のネオ・ルネッサンス(Neo Renaissance)様式なのかもしれない。そう考えてみると建物も気になった。古代ローマを意識したような古典リヴァィバルである。ポルディ・ペッツォーリの時代からしてもおそらく建物自体もネオ・ルネッサンス様式に違いない。ポルディ・ペッツォーリのコレクションで最も感激したものが下である。これは自動時計の開発される前の携帯日時計なのだ。金持ちはこうした象牙でできた方位磁石と日時計を持ち歩いていた・・と言う事実に驚いた 聖人図ポルディ・ペッツォーリの館には沢山の絵画コレクションもある。特に聖人像や聖母の絵画は非常に有名どころがそろっていて質が高い。聖セバスティアヌス(Sebastianus) 日本でも三島由紀夫のおかげでよく知られているセバスティアヌスの絵画がこの家にはかなり多かった。その理由は彼はミラノ市民だったからのようだ。若くて美しい? セバスティアヌスはローマ軍の指揮官で皇帝ディオクレティアヌス(Diocletianus)(在位:284年~305年)とマクシミヌス(Maximinus)(在位:308年~313年)の時代に生きた人である。特に皇帝ディオクレティアヌスにはかなり気に入られていたにもかかわらず、キリスト教徒であることが知れると矢で射られる刑を受けた。その受難の姿が上のような図なのであるが、実際彼は矢では死なず、後に棍棒で打たれて殉教したとされている。(黄金伝説)ミラノではキリスト教が公認されるとわりとすぐに聖人認定されていたようだ。聖母子数多いポルディ・ペッツォーリ美術館の聖母子の中でも特に魅入られたのがこの作品。実に気品あるこの作品はサンドロ・ボッティチェリ(Sandoro Botticelli)の「Madonna of the Book」ボッティチェリと言えばヴィーナスの誕生など異教の女神を描いたものが有名であるが、こんな聖母子も描いていたのが逆に新鮮 他にジョットなど紹介したい作品もあるから続きにすべきか・・次回まだ未定。 ( ̄~ ̄;)ウーン・・・
2014年09月15日
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ウイーンにあるカールス教会(Karlskirche)がペスト撲滅を祈願して建立された教会・・と言う事は以前紹介した事がありますが、そこに祀られていた聖人ポロメーウスの正体が実はカルロ・ボロメオ (Carlo Borromeo)だった・・と言う事が今回わかりました。カルロ・ボロメオを調べている時にカールス教会の天井画の司教(聖人ポロメーウス)図が共に紹介されていたからです。奇しくも今回ミラノに行く前にウイーンでまさにカールス教会に行き上って教会クーポラに描かれた天井画を見て来たばかりだったので・・ (以前調べた時は聖人ポロメーウスは不明のままでした。)ミラノ(Milano) 8 (ミラノ大聖堂 6 福者)守護聖人の認定とは?ジャン・ジャコモ・メディチ(Gian Giacomo Medici)追悼の為の墓碑福者(Beatus)と証聖者(Confessor)聖カルロの十字架の祭壇生前から信徒に崇敬されていたカルロ・ボロメオ (Carlo Borromeo)は彼の祝福を望む者達の所に自ら訪問(旅)したとされている。例えばスイスの谷を訪問した時は奇跡を起こして人命救助。また悪霊から多くの者を解放。そんな風に生前から奇跡をもたらすと呼び声高かったそうで亡くなった後も彼の亡骸を訪問して奇跡の治癒の恩恵を受けた者が後を絶たなかったと言う。(奇跡の伝説)現在に続くガラス張りの柩と遺骸の公開はそこにもあるのか?祭壇真ん中(下の写真)の磔刑姿のキリストの木彫はカルロ・ボロメオ大司教が1576年のペストの時、地域を訪問する時に持ち運んでいたとされるキリスト像だと言われている。(残念ながらその伝説を立証する有力な資料は見つからなかったし、ドゥオーモの公式ガイドブックにも書いて無かった。)守護聖人の認定とは?聖カルロはペスト退治の聖人として、かつてはウィーンの守護聖人としても祀られていたようです。現在のウイーンの守護聖人は別の聖人です。(守護聖人は事情により時々変わるようです。)聖人認定は列聖省が行っていますが地域の守護聖人認定も教皇庁への許可申請が必要だそうです。(今は1つの教会で1人の聖人が望ましいとされている。)中世は地域単位でも聖人があふれるほどいたようです。地域信仰から聖人になった人、中には地域でかってに信仰されて聖人視されていた人や出自の不明な信仰もあったでしょう。また地域での呼び名が異なり複数に数えられていた聖人もいたかも・・。それらを整理すべく? 17世紀、聖人をリスト整理してカテゴリーに分けた教皇がいました。それがウルバヌス8世(Urbanus VIII)( 1568年~1644年)(在位:1623年~1644)年らしいです。彼は教書の中で聖人の仕分けをしてランク付けし、ランクにより典礼の種別を行ったと言います。目的は膨れあがった聖人の整理と典礼の削減。(典礼が重なった時の優先順位など・・)前回ふれましたが、多神教にならないよう、かってに地域で典礼ができないように制限をかけた・・と言う事もあったかもしれません。(その改革後に守護聖人が変わった街もあるようです。)さらに近年も聖人の見直し判定がされているようで、聖人リストからはずされた元聖人もいるようです。(聖者か否か? の判定は時代と共に変わる?)特に今年列福されるパウロ6世(Paul VI)は自身の教皇在位中の教書で何人かの聖人をリストから外していると同時に、枢機卿団の人数や列福者の数は逆に増やしたようです。またヨハネ・パウロ2世も多くの列聖者、列福者を許可。その理由は今後の司祭達の励みになる・・と言う目的が上げられています。ジャン・ジャコモ・メディチ(Gian Giacomo Medici)追悼の為の墓碑製作はレオーネ・レオーニ(Leone Leoni)(1509年~1590年) 制作年は1560年~1563年レオーネ・レオーニは当時欧州でで活躍した彫刻家です。得意顧客はハプスブルク君主チャールズV、神聖ローマ皇帝とスペインのフェリペ2世とセレブ御用達の彫刻家です。この霊廟はジャン・ジャコモ・メディチ(Gian Giacomo Medici)(1498年~1555年)に献げられた・・とされているが・・。実際はジャン・ジャコモ・メディチ(Gian Giacomo Medici)とジョバンニ・アンジェロ・メディチ (Giovanni Angelo Medici)の2人の兄弟の墓碑である。おそらく製作依頼者は弟のジョバンニ・アンジェロ・メディチ (Giovanni Angelo Medici))(1499年~1565年)実は彼がミラノ出身の教皇ピウス4世(Pius IV)(在位:1559年~1565年)なのであるレオーネ・レオーニ(Leone Leoni)のこの霊廟はしばしミケランジェロの影響がある・・と言われているが、ジョルジュ・ヴァザーリ(Giorgio Vasari)(1511年~1574年)によればこれはまぎれもなくミケランジェロによって提供されたデザインに基づいて製作されているそうだ。そしてそれはレオーニにとっても革新的挑戦であったとされている。福者シュスター枢機卿とマティーニ枢機卿の記念日ミラノ大聖堂で特別典礼されていた祭壇が2基ありました。(1基しか撮影していなかった)下はおそらくミラノ大聖堂の大司教であったカルロ・マリア・マルティーニ(Carlo Maria Martini's)枢機卿 (1927年 ~2012年)の柩 2012年8月31日にガッララーテで亡くなったそうで今年がマルティーニ枢機卿の2年目の記念日。もう1基の祭壇には福者シュスター枢機卿が同じようにガラスの柩で公開されていました。アルフレド・イルデフォンソ・シュスター(Alfredo Ildefonso Schuster)枢機卿(1880年~1954年)(ミラノ大司教 在位:1929年~1954年)今年はシュスター枢機卿の死後の還暦記念日だそうです。(聖者は亡くなった日を以て天国に生まれ変わる・・と言う思想なので「死後」とは失礼な表現だが・・。)シュスター枢機卿は1996年にヨハネ・パウロ2世により列福された。福者(Beatus)と証聖者(Confessor)聖人には、殉教者と証聖者がいるそうです。現在殉教者と言うのはほぼ無いでしょうから列福する人のほとんどは証聖者(Confessor)となります。殉教の場合は、説明無く簡単ですが、現代の証聖者の証明はなかなか大変です。キリスト教徒としての信仰の正当性は当然、生き方でゆるぎない信仰を示した人。生前からカリスマ性のあった聖職者など生前の功績や人格が重要です。不思議なのは奇跡の証明です。現在もこれがあるのか解りませんが、時代の科学で証明できない奇跡の認定がされないといけないそうです。また、一般信者からの自発的礼拝がなされているか? と言う事は候補者の人徳の高さなどを見る上で重要な項目のようです。前出のシュスター枢機卿は亡くなって3年目に墓から掘り出されて新しい祭壇が造られ祀られたようです。おそらく、すでに列福の為の候補にあがっていたと考えられます。しかも遺骸は腐敗せずにきれいな姿で残っていたそうで、それも聖人である証明の一つになるようです。 聖人認定の話しが不完全であったので書き直ししています。リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂マルコ・カレッリ(Marco Carelli)の石棺1408年フィリピーノ・デリ・オルガニの造った石棺に彫像はヤコビーノ・ダ・トウラダーテ(Jacopino da Tradate)派の彫刻家により彫られている。マルコ・カレッリ(Marco Carelli)は1390年の記念祭に莫大な金額を寄贈した大商人であり銀行家。彼のおかげで大聖堂の建築は弾みがついたのでミラノ大聖堂の大貢献者と言う事で民間人ながら教会に墓がもうけられている。また大聖堂の最初の尖塔(1395年~1404年)も彼に献げられている。ミラノ大聖堂おわりback numberリンク ミラノ(Milano) 1 (サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 1)リンク ミラノ(Milano) 2 (サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 2 聖堂内部)リンク ミラノ(Milano) 3 (ミラノ大聖堂 1) リンク ミラノ(Milano) 4 (ミラノ大聖堂 2 屋上テラス)リンク ミラノ(Milano) 5 (ミラノ大聖堂 3 外壁の装飾)リンク ミラノ(Milano) 6 (ミラノ大聖堂 4 聖堂身廊から)リンク ミラノ(Milano) 7 (ミラノ大聖堂 5 聖カルロ) ミラノ(Milano) 8 (ミラノ大聖堂 6 福者)リンク サンタンブロージョ聖堂(Basilica di Sant'Ambrogio) 1 (異教的な装飾リンク サンタンブロージョ聖堂(Basilica di Sant'Ambrogio) 2 (聖アンブロージョの聖櫃)
2014年09月09日
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第262代ローマ教皇(在位:1963年~1978年)であったパウロ6世(Paul VI)がこの10月に列福される事が決定されたそうだ。列福とは列聖の前段階。つまり将来聖人認定されるかもしれない「準聖人」あるいは「聖人予備群」に相当する地位である。列聖のための調査が行われ、通常は早くても列福まで本人の死後数十年を要する。(パウロ6世(Paul VI)はなくなってから36年目にあたる。)さらに聖人認定にいたる場合は、死後数百年にも及ぶ厳しい審査が続くそうで、認定はバチカンの列聖省が審査して推挙し、ローマ教皇が許可する・・と言う形で認定される。ノミネートされた尊者(そんしゃ)の中から毎年十数人が選出されるようだが、殉教のなくなった現在にもかかわらず、列福する福者の数は意外にも増えているようだ。今回は聖堂内の祭壇や霊廟を紹介しますミラノ大聖堂はさすが歴史があり聖人認定された司教様や福者の方がたくさんおられるようです。ミラノ(Milano) 7 (ミラノ大聖堂 5 聖カルロ)ミラノ大聖堂(Duomo di Milano)聖者の遺骸への礼拝(らいはい)聖カルロ(Carlo)奧が北翼の祭壇(マドンナ・デッラルベロ祭壇)、右が内陣内陣前と北翼の前が立ち入り禁止区域となっていた為にマドンナ・デッラルベロ祭壇とその前にあるトリヴルツィオの燭台の近景が撮影できなかった 左の翼廊(北翼)の祭壇・・・マドンナ・デッラルベロの祭壇1500年末~1614年製作の祭壇。中央のマリア像は1778年ヴインチェッゾ・プッチの作品。祭壇を遮る燭台がトリヴルツィオの燭台。トリヴルツィオ(Trivulzio)の燭台は、1562年にトリヴルツィオ司教により献上された高さ5mある鋳型の大燭鑞は12世紀頃の中北部ヨーロッパ圏の作品で装飾が素晴らしかったようだ。残念その祭壇上のステンドグラス右の翼廊(南翼)の祭壇・・・聖ジョバンニ・ボーノの祭壇7世紀ミラノを復活させた司教ジョバンニ・ボーノ(聖人)を祀った霊廟で、制作年は1600年代末~1700年初頭。中央の像は1763年エーリウ・ヴィンチェッゾ・プッツィの作品。北翼の廟とこの南翼にある廟は同一人物の作品なのだろう。それ故似ているからどちらがどちらの翼の作品か取り違えそう・・。聖バルトロメオ(Bartolomeo)の像南側翼廊。内陣寄りキリストの使徒の1人であった彼は皮剥ぎの刑で殉教したと言われる聖人である。まとっているのは自身の皮衣なのだ。殉教者の聖人像は高い信仰への模範を示しているのかもしれない。内陣を取り囲む障壁の一部(工事中の為に今回の写真ではありません。)地下礼拝堂の入り口になっている。聖カルロ(Carlo)の小礼拝堂(スクローロ)入り口聖者の遺骸への礼拝(らいはい)神の最もそばに使える聖人に敬意を表すだけでなく、人と神との間の取りなしを願う・・と言う姿勢? は、そもそもキリストの12使徒礼拝? の延長であり、やはり1つの信仰としてとらえられるだろう。それが中世より聖人認定者が増えて一段と増えたようだ。聖人像を置いたり、祭壇を造ったり・・は、なんとなく理解できるが、聖者の遺骸への直接の礼拝(らいはい)は日本人にはちょっと理解できないかもしれない。聖者の遺骸を公に公開し、皆が目にする事で御利益が得られる・・と言う事らしいのだが・・。数が増えてどんどん多神教のようになっている。キリスト教は一神教なのに・・。実は、こうした聖人信仰は地域の守護聖人に限られたり、また、準聖人である福者に対する信心も主に関係の深い地域の教会での典礼においてのみ許されているらしい。ミラノ大聖堂にはミラノの2人の守護聖人のうちの1人、聖カルロ(Carlo)が祀られている。※ もう1人の守護聖人は聖アンブロージョ(Ambrogio) で、彼も4世紀にミラノの司教だった人である。小礼拝堂(スクローロ)と言うよりは、聖カルロの霊廟である。多角形の礼拝堂1606年ニフランチェスカ・マリア・リッキーノがプロジェクト。銀の祭壇とその上に聖カルロのガラスの聖柩が置かれている。聖カルロ(Carlo)・・・ミラノの大司教(1564年~1584年)カルロ・ボロメオ (Carlo Borromeo)(1538年~1584年)1576年、ペストで壊滅的被害をおったミラノで危険を顧みず、市民を助け、埋葬に尽力した事などで1610年11月には早くも列聖されている。中がちょっと透けて見える。聖カルロ(Carlo)の小礼拝堂(スクローロ)反対側に地下聖堂がある。冬用の祈祷席とも呼ばれる地下聖堂は内陣後方のクワイヤ(聖職者祈祷席)の真下にあたる位置。1500年代にティバルディがプロジェクトした円形の礼拝堂で、中心に祭壇が置かれ、木製の聖職者祈祷席が配置。天蓋は漆喰に金メッキされた見事な装飾で、それを8本のカラー大理石が支えている。フラッシュをたいた写真が上。中には入れず戸口から撮影。中心の祭壇は殉教した聖人の遺物が納められていると言う。聖カルロ(Carlo)の墓碑?後陣真後ろにあった聖カルロ(Carlo)の墓碑らしきもの。遺骸は早くに列福、列聖したので祭壇を造る必要がなかったのかもしれない。これは祈念碑のようなものか?実は聖カルロはサラブレットである。パヴィアの大学で法学も学んでいる。若干22歳で枢機卿になり、26歳でミラノ司教になっている。それもこれも教皇ピウス4世が伯父だったからに違いない。そして、ペストのエピソードの後に亡くなりすみやかに列福して、列聖するまで26年。ある意味生き急いで聖人になった人である。しかし、その功績はやはり素晴らしかったようだ。ペストだけではなく教会や修道院の風紀を直し改革。司祭たちの教育の向上や貧者、病人の救済に奔走したそうだ。彼はフランシスコ会、カルメル会の守護聖人にもなっている。聖堂内部2回で終わらなかったので次回につづく。リンク ミラノ(Milano) 8 (ミラノ大聖堂 6 福者)
2014年09月04日
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