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メルク修道院(Stift Melk)のバロック庭園とパビリオン前々回に紹介したメルクの十字架ですが、通常は公開されていないものだったようです。バーベンベルグ家(Haus Babenberg)のハインリッヒ1世が殉教者、聖コロマン(St.Koloman)(不詳~1012)の遺骸をメルクに運び入れたのが1014年、それから今年が1000年目の記念年の為に公開されていたらしいです。いつも不運続きなのにめずらしくラッキーな事・・ でも1つ疑問が・・。私が資料にしたメルク修道院の資料本(1998年版)に載っているメルクの十字架と実際に見て撮影した十字架と微妙に違う箇所がある。中央クロス部分のサファイア? の向きが明らかに異なってます。(・_・?)さて、今回修道院横に付属している庭園(修道院と別料金)とパビリオンの写真もおまけで紹介しておく事にしました。ツアーの観光客は時間的に立ち寄らない場所ですし、パビリオンの室内装飾(フレスコの壁画)が素晴らしかったので・・。本当に修道院とは思えない華やかさです もしかしたら・・。マリーアントワネットがフランスにと嫁ぐ旅の宿として1770年4月22日メルク修道院に滞在しているのですが、その為に整備された可能性があります。バロックの庭園とパビリオン入り口は一度修道院を出てから左手。ハビリオンの向こうはドナウ川です。1747年~1748年に造園された公園デザインはウイーンの建築家で画家のフランツ・セバスチャン・ローゼンスティングル(Franz Sebastian Rosenstingl)(1702年~1785年)パビリオンはオーストリアのバロック建築家フランツ・ムンゲナスト(Franz Munggenast)(1724年~1748年)パビリオン内のフレスコ画は1763年~1764年に描かれたようだ。ヨハン・バプティスト・ヴェンツェル・ベルグル(Johann Baptist Wenzel Bergl)(1718年~1789年)ウイーンで活躍したバロックの画家で女帝マリア・テレジア(1717年~1780年)のお気に入りの絵師によるものらしい。エキゾチックなバロックである。明らかに北アフリカがテーマになっていて見ていて楽しい これもバロックなんだ・・と驚嘆です。最近の作家の作品かと思いきやマリア・テレジアのお気に入り・・と聞いて尚驚く。これが250年前の作品だなんて・・。これを見るとヴェルサイユなどの装飾とは全く違う。オーストリアの趣味の高さがうかがえる・・と言うものです。現在はガーデンパビリオン・カフェになっていて、ここでコンサートなども行われるらしい。パビリオンからのメルク修道院ドナウ川の向こう岸かつてのメルク修道院(絵葉書から撮影)クルーズ船 メルクの乗り場の1つ次回は年明けになりそうです。良い新年をお迎えください (*∩_∩)ノ”リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 1 (メルク)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 2 (メルク修道院)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 3 (メルクの十字架)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 4 (メルク修道院教会)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 5 (ドナウ川クルーズ船)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 6 (シュピッツ界隈)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 7 (デュルンシュタイン)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 8 (リチャード1世)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 9 (クレムス)
2014年12月29日
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さて、メルクで回が増えてヴァッハウ渓谷、押しています m(_ _)m ゴメンナサイ 今回教会の中をさっと? 紹介して修道院終わります。ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 4 (メルク修道院教会)メルク修道院教会(Stift Melk Kirche)ペテロとパウロ(Peter and Paul)初期の修道院はキリストの禁欲思想に由来すると言われています。キリストと同じ境地にたどり着きたい? とでも言う所なのでしょう。つまり修道士は現世の儚(はかな)さやこの世の価値を体現する事で得られるかもしれない究極の精神世界を求めた。己がまさに使徒的な立ち位置にいる・・と言う事も重要だったろうし、二元論(天国と地獄)の存在が広まると今度は緊迫感を持って禁欲はより広まったようです。あくまで初期の禁欲的修行はそれぞれが己の為に・・と言う所に端(たん)を発していたと思います。(たぶん傍(はた)から見たら彼らはちょっと? かなり? 変わり者だったかも・・ )しかし、時代は取り巻く環境を大きく変えます。まさにメルクができた頃の中世の修道院の主眼は布教です。だから敢えて辺境地に作られ始めます。前にドナウ川は異教徒との国教・・と書きましたが、この時代の修道士は己の精神世界を追求するよりもやらねばならない仕事(宣教活動、復興、文化活動など)がたくさんあったのです。強いて言えば彼らは学校の先生・・と言う存在だったかも・・。そう言う修道士らの生活や仕事、守るべき、あるいはこうあるべき模範となる戒律を作ったのが聖ベネデイクトゥス(Benedictus)です。メルク修道院教会大理石の間と図書室の間はテラスでつながれていて、その間にコロマンの庭と教会があります。間の悪い事に現在修復中で工事中でした バロックのこれだけ凝った立派な装飾が現存しているのが凄い。教会内部の装飾はイタリアの建築家アントニオ・ベトウィッチ。ベルトルド・ディートマイヤー(Berthold Dietmayr)院長は本当は一部ゴシック教会からの改修工事だった所を全面改築にしてこの教会を建立。一時は、教会の豪華さや贅沢さは非難されもしましたが、当時も、今日も、観光の目玉になっているのですから結果的には元がとれているかも・・円蓋の下、市民祭壇から祭壇左に聖コロマンの祭壇が置かれている。円蓋アントニオ・ベトウィッチのデザインを元にザルツブルグの画家ヨハン・ミヒャエル・ロットマイヤが描1716年~1717年に完成。聖コロマン(St.Koloman)の祭壇聖コロマンについては前々回紹介していまいすが、メルクに最初に祀られた聖人です。主祭壇左手に聖コロマン、右手には聖ベネディクトゥス祭壇があり、双方シンメトリーにデザインされている。聖櫃の上方のオベリスクの前で跪くのが聖コロマン。主祭壇ザルツブルグの大理石と金箔をほどこした木造でつくられているこの祭壇のコンセプトは教会の戦いと凱旋らしい。祭壇後陣の像 中央はこの教会の守護聖人である、パウロ(右)とペテロ(左)別れを惜しみ、二人はこれから最後の戦いに出かける・・図らしい。ペテロとパウロ(Peter and Paul)伝説によれば、二人はネロ帝の時代、同じ日にローマのフォロ・ロマーノにあったマメルティヌスの牢獄から引き出されて処刑されているそうだ。ペテロ外伝では逆さ十字架にかけられている。パウロについての聖書に記載は無いが、エルサレムで捕らえられ、ローマに送られ64年か67年にローマ市民として斬首されたらしい。それ故パウロは殉教の印から剣が象徴される事もある。因みにペテロはとりわけ天国の鍵が象徴される事が多い。キリストより天国の鍵を預かった人物だからである。それによりカトリック教会はペテロを初代のローマ教皇とみなしていて、初期の教皇はペテロの後継者を名乗っていたようだ。大きな王冠は、勝利の王冠らしい。つまり聖ペトロと聖パウロの為の勝利の王冠。布教は殉教との戦いであったが、二人は天に 凱旋した?教会の思想らしいが、資料の説明からは今いち、意図している事が読み解けないです 身廊側面には祭壇のブースがたくさん・・。これだけ見たら教会と言うよりはやはり豪華な宮殿です。Michael Altar(ミカエル 祭壇)ミカエルに献げられたこの祭壇の下、聖櫃にいるのはクレーメンスと名付けられた殉教者の遺骨だそうだ。そのお骨自体が、寄贈品だそうで、昔は殉教者のお骨は神的に崇められていたのだろう。Johannes der Täufer Altar(洗礼者ヨハネ 祭壇)こちらのお骨はローマのカタコンベから運ばれた身元不明者のもの。寄贈したのはマリア・テレジアだそうだ。※ それぞれ祭壇にかかげられている絵画から区別できる。殉教者=聖人 の考えがまだあったからなのだろうが、身元不明まで持ってくる意味がちょっと解りませんね (・_・?) ハテ?メルク修道院(Stift Melk)おわり いよいよ次回船に乗りますメルク back numberリンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 1 (メルク)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 2 (メルク修道院) リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 3 (メルクの十字架)ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 4 (メルク修道院教会)メルク修道院おまけリンク メルク修道院(Stift Melk)のバロック庭園とパビリオンヴァッハウ渓谷のクルーズリンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 5 (ドナウ川クルーズ船)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 6 (シュピッツ界隈)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 7 (デュルンシュタイン)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 8 (リチャード1世)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 9 (クレムス)
2014年12月27日
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「聖ベネディクトゥスがめざしたもの」再度書き換えさせていただきました。この修道院は私が今まで見てきた修道院の中で一番華やかです。外装こそ少しチープに思えるバロック様式ですが、教会内部の贅を尽くした装飾や教会の聖具のお宝とも言える装飾性の高さには驚かされました ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 3 (メルクの十字架)メルク修道院(Stift Melk)メルクの十字架(The Melk Cross)失われたマウリティウスの槍の謎聖ベネディクトゥスがめざしたものメルクのベネディクト会の全盛は17世紀末のバロック時代。修道院をバロック様式で建設を指揮したのは1700年に当時30歳で修道院長に就任したベルトルド・ディートマイヤー(Berthold Dietmayr)(1670年~1739年)。建築士はヤコブ・プランタウアー。1702年に礎石。教会の内装には最高の芸術家をそろえたそうです。当時、国内の高位聖職者の中でも、メルクの院長の地位はかなり高かったらしい・・。オーストリアの近代的歴史学の起点になる・・と言われる程、ここの芸術性は高くベルトルド・ディートマイヤーのこだわりのもと、教会聖具なども極まったハイレベルな逸品が産み出されたようです。特にバロック時代に高まったと言う聖遺物崇拝のせいでしょうか? 司教様? あるいは聖人? の遺骸を装飾として飾り立てた祭壇が並んでいて、ちょっと驚きでした。メルクの十字架(The Melk Cross)バーベンベルク家のアダルベルト伯(1018年~1055年)がメルクにもたらしたと言うキリスト磔刑の時の十字架木片。それに大公ルドルフ4世(Rudolf IV)が1362年にフレームを作らせたらしい。(しかし、その年はこの十字架が2度目の盗難に遭った年。何か因果関係でもあるのかな?)選帝侯時代には、こうした格のあるお宝が地位の証明や名誉になったと言う。メルク修道院はメルクの十字架、そして失われたマウリティウスの槍と聖人達の墓所としても選ばれ、オーストリア公やハプスブルグ家からも留意される特別な場所として存在していた場所だったそうだ。ところで十字架の木片は、以前ウイーンの王宮宝物館で紹介した「皇帝の十字架(Imperial Cross)」にもありましたが、気になったのは失われたマウリティウスの槍。もしかして、同じくウィーンの宝物館で紹介した金の衣をまとった聖槍がそうだったんじゃないの? と言う気がしてきました 照明の関係で色が少し違いますが・・。表面・・・4福音書記の印が人の姿に逆アレンジされている。失われたマウリティウスの槍の謎実はこの十字架は度々盗難にあっているそうです。記録では1362年に2度目の盗難に遭う。犯人はすぐに解り、追って途中ヤンウェルリングの教会で祭壇に隠されている十字架を見つけ無事に戻されたようですが、当初、犯人はプラハに行きカール4世(Karl IV)にこれを売る予定だったそうです。(メルク修道院の資料本より)犯人はすぐに死刑になったそうですが、もしかしたら犯人はこの時にマウリティウスの槍も盗んだのではないか? そして槍はカール4世(Karl IV)の元に渡ったのではないか? と言う疑惑が浮かびました。なぜなら、2014年12月「聖槍(Heilige Lanze)(Holy Lance)」で、ウイーンの聖槍の謎を紹介していますが、本来マウリティウスの槍だったものをロンギヌスの槍に仕上げた本人がカール4世(Karl IV)(Karl IV)と思われるからです。たまたま同時期に扱かったので気が付いた訳ですが、カール4世(Karl IV)は盗難品と解ると不味いので、素性を隠す意味で黄金のカバーを取り付け「主の槍と釘」と刻印し別物に仕上げたのではないか? ・・と、考えるに至った次第です。(@_@)(@_@)(@_@)(@_@)(@_@)因みにカール4世はルドルフ4世の義理父だそうです。12世紀のローマン十字架大理石の間を抜けるとテラスに出られる。テラスからのメルクの街右に流れるのがメルク川図書室図書室内は撮影禁止でしたが、知らずに撮影してしまった1枚のみ載せました。下は全て図書です。ここには1800の手書き本が収納されていて、古い物は9世紀に遡るそうです。しかも神学文献だけでなく、最古のドイツ語による文学作品や、数々の写本に古版の図書が10万冊を越え、そのうち16000点が図書室にあるそうです。ベネデイクト会派の修道院では、勉学は最重要の課題。修道士達は祈りと収蔵されている多くの本を読み勉強していました。その蔵書がここにある事でメルクは文化的にも高い位置にいた事は間違いありません。修道院の館から教会に至る螺旋階段聖ベネディクトゥスがめざしたもの西欧修道制の父と言われた聖ベネデイクトゥス(Benedictus)(480年頃~547年)はローマ帝国が崩壊し荒廃した世の混沌の中(暗黒の時代)で福音を述べ、大地を耕し、破壊され、葬られた文明を取り戻すべく修道士を育てた。彼らの仕事は古典哲学、芸術、薬学、神学書の保存と研究。それに伴う学校や図書館の建設だったとされる。聖ベネデイクトゥスの戒律は73章からなる。「清貧」「従順」「貞潔」を遵守し、「定住」の誓願をたて、修道院においてキリスト教徒としての規律正しい共同生活を送りながら、祈りと市民の為に労働にいそしむ。修道士のあるべき姿の基本が記されている。「戒律」と訳すよりは「教則」と言う方が近いかもしれない。荒廃した中世社会を立て直すべく、ベネデイクトゥスはたくさんの修道士を育て社会に放った。修道士には、まずは読み書き。そして本を読み学ぶ事を奨励。暗黒の時代にまず、教える者を育てる必要があったから、初期のベネディクトゥスの修道会は、その為の教育機関として存在していたと言える。彼らは失われた書物の写本もしたが、大多数は荒廃した村落の立て直しに回されたのではないか? と思われる。何しろ、西ローマ帝国が消え、ローマ兵がいなくなってからの西欧州は蛮族(イスラム海賊やロンゴバルト人など)の侵入と略奪がありローマの街でさえ、ひどい有様だった。※ 当時の社会状況は以下のへんで書いてます。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人ベネディクトゥスは、彼ら市民の生活や教育はもとより村落の立て直しをまず優先したと思われる。※ 場所により文明は完全に消えて原始生活していた所もあったらしい。それ自体は教会の文化活動ですが、当時のそれは文化活動にくくるには、遙かに超えていた活動であったと思われる。また、修道士達は自由時間には聖書を読むだけで無く、天文や、薬学などあらゆる書物を読み知識を磨く事も求められていた・・。そうする事で物を多方面から考察する事ができる。と言う事でしょう。たぶん。また、修道士が守る事として、清貧と貞潔、祈り、写本もあります。特にベネディクト会の「清貧(せいひん)」は有名ですが、同時に「貞潔(ていけつ)」である事は修道士としての絶対条件です。「祈り」は神の僕としての義務だそうです。これに関しては、信者でないのでわかりませんが、祈りと言う時間の中で日々を反省し、心を保ち、あるいはリセットさせて前に進む? そんな効果もあったのではないでしょうか?「労働」は、社会への貢献活動です。平和な現在では修道士の労働とは何? と思うかもしれませんが、ベネデイクトゥスが当時修道会を立ち上げたのは荒廃した社会の立て直しが目的。※ メルクのような上位の修道院では写本も重要な仕事。かつての本(古代ローマやギリシャ由来の書物など)は蛮族の侵略によりほとんど失われていたので、彼らはそれら残された良書を写本して各地に送った。メルクの蔵書は有名だったらしい。修道士の活動は、未開の地に迫って行く。布教と言う目的もあるから当然言語も通じない野蛮な世界の中で彼らのほとんどは活動した。彼らは未開の地で師となり、畑を無から耕し、食物を育てる事。人らしい生活を教える事から入った者もいただろう。「読み書きを教える」は次の段階でしょう。彼らが受け入れられる前に殉教(じゅんきょう)者も多く出した事だろう。誰かが殉教すれば、また次の修道士が派遣された。だからベネデイクトゥスの立ち上げた修道会は、それ以前の個人の修行を目的とした陰修士(いんしゅうし)とは全く別物です。彼らは社会の為に貢献する活動化のような存在? 蛮族に侵略され、荒廃した中世の社会を一から作り直さなければならなかったから彼らは修道士であると同時に師となるべく育てられた。中世のベネディクトゥスが創設した当時の修道会はそんな師となる修道士を育てる為の学校だったと言える。彼らの生活に関する基本は、後々創設される他の宗派の修道会でも模範にされる。暗黒の中世の未来に大いに貢献した会派だったのです。メルクでは特に多くのラテン語の書物を翻訳したり、写本が行われていた。ところで、社会が平穏になり始めると当然修道会や教会の役割も変化を余儀なくされる。特に安定しだす中世、「神に近い」教会や修道院には特別な特権が与えられるのてです。王や貴族からの寄進、税の免除や多数の土地が寄贈され、潤う所は潤う。メルクに並ぶ宝飾品ともいえる黄金の聖具を見ると、ここがいかに権力を持った修道会であったかわかります。全てがそうではないが、時世が安定しだす中世後期は俗な修道士や修道院も現れるのです。「貞潔の教え」にもかかわらず、多数の愛人を抱える聖職者も現れたりしています。ここ、メルクには陰と陽があからさまに見える気がします。最も、メルク前のドナウ川をはさんで対岸は中世後期まで蛮族が攻め入る前線でした。※ メルク修道院の場所はかつて城塞があった場所。その前線には、ベネディクトゥスの教えを遵守した修道士が命をかけて派遣されていたのは間違いないでしょう。リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 1 (メルク)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 2 (メルク修道院) ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 3 (メルクの十字架)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 4 (メルク修道院教会)リンク メルク修道院(Stift Melk)のバロック庭園とパビリオン
2014年12月22日
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ウンベルト・エーコ(Umberto Eco)の「薔薇の名前(Il Nome della Rosa)」を読んでいる方なら気が付いたかも知れませんが、語り手であるメルクのアドソが在籍していた僧院がこのメルク修道院です。(事件の舞台はこの修道院ではありませんが・・。)記号論哲学者で、中世研究者でもあるエーコの小説は中世の僧院を舞台にした推理サスペンスで、ショーン・コネリー出演で映画化もされている有名な作品です。しかし、非常に難解な作品なのです。小説冒頭に語り手であるメルクのアドソが時代を理解してもらいたい・・。と言う断りがあるよう、その時代背景諸々を共に理解しないと解らない部分が多く、私もなかなか手が出ない作品でした。(映画は見ていたけど)時代がちょうどアヴィニヨンに教皇庁が置かれていたアヴィニヨン捕囚時代(フランス王フィリップ4世のいいなりの時代)で同時に異端審問が厳しくなっていた時代でもあります。特にアドソが非難するアヴィニヨン時代の初代教皇クレメンス5世はテンプル騎士団を異端審問にかけ、火あぶりにした教皇ですし、教皇ヨハネ22世は自ら清貧を心理としたフランシスコ会を異端的と断罪した教皇です。そんな理不尽がまかり通されたアヴィニヨン時代の教皇庁は異常そのもの。そんな時代をからめたサスペンスは史実を理解していたらより楽しめる作品と言う事で長らく棚上げしてきましたが、そろそろいけそうなので年内読破を目論んでいますヴァッハウ渓谷 (Wachau) 2 (メルク修道院)メルク修道院(Stift Melk)マルク(Mark)聖コロマン(St.Koloman)ドナウ川分流のメルク川からのメルク修道院(撮影は川下、ドナウ川合流地点から)船で攻めて来たらすぐわかるような丘に要塞(マルク)は築かれ、それはやがてベネディクト会修道院になった。別の回で紹介しますが、テラスからの景色は絶景でしたメルクの街のハウプト広場から小説の語り手、アドソの父はバイエルン王、ルードヴッヒ4世の随身貴族だったが・・。実際、ここはバイエルンの高位貴族出身のバーベンベルグ家(Haus Babenberg)、レオポルドが976年に辺境伯として赴任し拡大した土地である。マルク(Mark)10世紀頃、ドナウ川流域は守備の為のマルク(Mark)が建設。マルクとは軍事的な砦の事である。エンス、イップス、メルク、クレムス、トゥルンと川の名前がそのままつけられたマルク(Mark)は辺境地にあるから辺境区であり、その辺境区を治め指揮管理する地方長官が辺境伯(Markgraf)である。後に「辺境伯(Markgraf)」の称号は世襲化されて、一種の爵位称号に変わってしまったが・・。メルクはこのあたりのマルクの中でも最も重要な1つだったようです。駅前広場を下ってくると・・ところで修道院の成り立ちについては、いろいろあるのですが・・。7世紀以降の西部フランクあたりでは、ベネディクトゥス戒律が採用されたと言う。779年に発布されたカール大帝の最初の勅令の中では修道士のあり方まで言及されているらしいし・・。そんな事情もあったのか? 11世紀にはバーベンベルグ家より土地を贈与され、1089年3月21日修道院長ジギボルトに率いられた修道士達がメルクに入りベネディクト戒律に基づいた共同生活に入った。城塞はメルク修道院(Stift Melk)となり、ベネディクト会(Ordo Sancti Benedicti)の修道院になった。メルク修道院図建物の部分のみ拡大したが、修道院の右の見切れている方に倍以上の荘園を持っているようです。修道院の畑にはワインに使われるブドウの栽培もあります。なぜワイン? と思う方もいるでしょうが、聖体拝領に必要だからです。ワインはキリストの血にみたてられパンはキリストの体にみたてられる聖体。最後の晩餐に由来する典礼で使用。修道院の門修道院にしては本当に豪華な建物である。現在の建物は1702年礎石。1736年頃完成していたらしいが、直後に火災に遭いかなり焼けたそうだ。ベネデイクトの間と呼ばれる建物は中庭へのゲート聖コロマン(St.Koloman)もとは要塞の傍ら、バーベンベルグ家(Haus Babenberg)の墓所だった教会にハインリッヒ1世は箔を付ける為に1014年、殉教者、聖コロマン(St.Koloman)(不詳~1012)の遺骸を運ばせ、ここに祀った。アイルランドの異人、聖コロマン(St.Koloman)はスパイ容疑で処刑されたそうだが、死後にStockerauの墓所で不思議な現象が続き、神聖視される。聖コロマンは17世紀までオーストリアの聖人であり、その信仰はハンガリー、バイエルンに広がっているそうです。高位聖職者の庭幅42m。奥行き84m。実際、奧の方が少し狭まっているのでこのような写真に・・。皇帝階段皇帝回廊西の皇帝回廊の方の部屋は美術館として修道院の宝物が展示されています。その中には聖遺物の納められたメルクの十字架があり、それは「聖槍(Heilige Lanze)(Holy Lance)」の時に紹介した皇帝の十字架(Imperial Cross)に匹敵するお宝です。(次回紹介)窓越しに見えるメルクの街大理石の間つづくリンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 3 (メルクの十字架)
2014年12月15日
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一年は早いものです。もう12月。初夏の旅行の報告が冬になってしまいましたが、今回はウイーンを離れて、夏のヴァッハウ渓谷ドナウ川クルーズから紹介です。(このクルーズは5月から10月初旬まで運行。)クルーズはウイーンより上流にあるメルク(Melk)まで行って乗船。途中デュルンシュタイン(Durnstein)で下船して観光して最後はクレムス(Krems)で下船して列車でウイーンに戻りました。風光明媚なヴァッハウ渓谷 (Wachau)はワインの産地でもあり、そのドナウ川両岸にはブドウ畑と古城が点在。クルーズの景観は2000年にユネスコ世界文化遺産に登録されています。メルク(Melk)では崖の上に立つメルク修道院が目玉。デュルンシュタイン(Durnstein)ではイングランド王リチャード1世が幽閉されていた場所を探して山の城塞まで登ってしまいました。今回はイントロ。 全4回くらいになりそうです ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 1 (メルク)列車でメルク(Melk)へメルク(Melk)の街メルク修道院(Stift Melk)ドナウ川はドイツ南部から始まり、現在は東欧諸国を10ヶ国ほど通過して黒海にそそぐ国際河川ですが、ローマ帝国時代、ドナウ川は侵入してくる蛮族(ゲルマン人)との攻防ラインだったそうです。そしてこの河川は内陸より黒海へ、そして地中海に出る事が出来たので古来より交易には欠かせない経済航路。中世に入ると帝国の国境は川を越えて広がって行きますが、やはり東は異教徒の領域。ドナウ川の沿岸には防衛の為の城塞がたくさん建てられたようです。半分廃墟になった城塞跡含めて古城がこのヴァッハウ渓谷 (Wachau)にはあちこち見られるのです。左下が上流通常乗船場所のメルクまではツアー・バスで行く方の方が多いと思いますが、個人旅行向けに列車での行き方を紹介。列車でメルク(Melk)へウィーン西駅からオーストリア連邦鉄道(OBB)のレールジェット(railjet)で出発。途中ポルテン中央駅(St.Polten Hbf)でローカル線に乗り換えメルク(Melk)駅まで列車で約1時間ほど。チケットは往復列車代とクルーズ船の乗船代。それにメルク修道院の入場圏付きのお得キップがあるのでネットで予約をしてから行くのがお勧め。(但し、クルーズの運行は5月から10月初旬までなのでキップもこの時期だけかも・・。)西駅の券売機or発券機下がお得チケット(上 列車往復チケット 中 クルーズ乗船チケット 下 メルク修道院観覧チケット)一人48ユーロ※ マシン以外に窓口で発券してもらえますが、1ユーロかかります。7:30発のレールジェット(railjet) Bregenz 行きポルテン中央駅(St.Polten Hbf)でローカル線のCity Shuttleに乗り換えポルテンから先、車窓は小麦畑 (写真撮影できるほど窓は綺麗 )メルク(Melk)駅オーストリアでの鉄道旅行はとても快適です日本とほとんど変わらなく清潔でサービスが行き届いているからです。これがドイツだとまあまあ・・になり、イギリス、フランスだと掃除は一日1回らしくゴミだらけ、窓もキズだらけでバッチイ感じ ※ レールジェット(railjet)については2014年8月「オーストリア国鉄レールジェット(railjet) 1・・2」で紹介しているから見てね。リンク オーストリア国鉄レールジェット(railjet) 1 (機関車と制御車)リンク オーストリア国鉄レールジェット(railjet) 2 (列車レストランのメニュー)ザルツブルグの所でQBBの発券機を紹介しています。リンク ザルツブルグ中央駅(Salzburg Hauptbahnhof)メルク(Melk)駅外観一応駅前ロータリーになっているが店は喫茶店1件のみ。何も無い。例えるなら私鉄のローカル駅。でもとても新しく綺麗でトイレもありましたメルク駅の正面からメルクの修道院が見える。一見近く見えるが実は谷があり、そこにメルクの街が広がっています。メルクの街に入るまで5分くらい。メルク(Melk)の市内とても綺麗な街ですこの当たりが街の広場らしいのだが、工事中で残念な状態 スラブ語でメルクとは「ゆるやかな川」を意味するそうだ。ローマ帝国の手が及ばなくなってからこの地に6世紀頃スラブ人やアヴァール(Avars)人がやってきたと言う。当時スラブ人はアヴァール王国の支配にあったそうだがアヴァール(Avars)人についてはよくわかっていない。中央アジアか、あるいは東ヨーロッパから渡来してきた新しい民族で、現在のハンガリー中心に遊牧国家を建設していたらしい。(彼らもゲルマン系かも・・。)もちろん宗教が異なるのでローマ帝国側からすると彼らは蛮族なのである。アヴァール(Avars)王国は804年頃にはドナウ川を征服してきたフランク王国のカール大帝に討伐されて滅亡。以来、ここはフランク王国の土地としてそこそこ重要ポイントになったようだ。メルクは修道院を中心に栄えた門前町と言うよりは城下町のような所。このあたりは修道院につながる路地がいくつかあるので観光客向けの土産物屋さんやカフェが建ちならんでいます。一番賑やかな通りです。パステルの色彩が可愛らしい。なんとなくアウトレット・モールにありそうな景観の建物が並ぶ・・修道院は小高い丘の上にある。こんな路地が幾つもあり道は修道院まで続く。次回メルク修道院からリンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 2 (メルク修道院)他列車ICE インターシティエクスプレス(Intercity Express)リンク アウグスブルク 1 (Intercity Express)国際列車ユーロスター(Eurostar)リンク ユーロスター(Eurostar)ミュンヘン中央駅(München Hauptbahnhof)リンク ミュンヘン中央駅(München Hauptbahnhof)少し古いですが、スペインのレンフェ (RENFE)ですRENFE (Red Nacional de los Ferrocarriles Españoles)AVE (Alta Velocidad Española)リンク RENFE AVE (スペイン高速鉄道) 1リンク RENFE AVE (スペイン高速鉄道) 2
2014年12月08日
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関連カ所のリンク先追加しました。今回もウイーンの王宮宝物館(Kaiserliche Schatzkammer Wien)からの紹介です 聖遺物については度々紹介していますが・・・。キリスト教においては、イエス・キリストを筆頭に聖母マリア、12使徒、キリストに関係した人々、他にバチカンで公認された聖人列伝に叙せられた諸々の聖人に関するお骨や彼らにまつわる品物などを総称して聖遺物と呼ばれています。聖遺物は当然カトリック関係者からみればそれ自体が信仰の対象物となり、どんな高価な宝石にもまさるお宝なのです。※ 2014年4月「ブルージュ(Brugge) 7 (ブルグ広場 3 聖血礼拝堂と聖遺物の話) の中、聖遺物(聖遺物収集、聖遺物産業、聖遺物の略奪)で書いています。リンク ブルージュ(Brugge) 7 (ブルグ広場 3 聖血礼拝堂と聖遺物の話)※ 2021年8月「聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂」で聖人や聖遺物信仰についてかなり詳しくまとめてあります。リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂聖槍(Heilige Lanze)(Holy Lance)皇帝の十字架(Imperial Cross)キリストの聖遺物・・・十字架の破片聖槍ロンギヌスの槍(Lance of Longinus)聖マウリティウスの槍(Lance of St. Mauritiusu)ハプスブルグ家か所有していた神聖ローマ皇帝の表章(レガリア・regalia)は前回紹介した帝冠(ていかん)、王笏(おうじゃく)、宝珠(ほうじゅ)、以外にもたまだたくさんあります。その中でも特にパワーがあり最重要のお宝がハプスブルグ家が所蔵する皇帝の十字架の中に納められていた聖槍(Heilige Lanze)です。皇帝の十字架(Imperial Cross)この宝石で装飾された皇帝の十字架は、実は本来の用途は遺宝容器なのだそうです。つまりこれは皇帝の所蔵する聖遺物を収納する為の入れ物。1024年~25年頃の品?その中に納められていたのが(上の写真)十字架の下に置かれている槍の穂先と十字架の木片です。左・・聖槍 右・・十字架の破片聖遺物の中でもキリストに直接かかわるこれらは最も位の高い聖遺物。裏側にはエッチングで福音書記者の印や使徒達が描かれていて、その裏板ははずせるようになっている。中央のヒツジはキリスト自身? 信徒だけでなく、イエス自身も人の罪を取り除き神の犠牲となる神の小羊に例えられる。左・・マルコ・・ライオンがシンボル右・・ルカ・・牛がシンボル上・・ヨハネ・・鷲がシンボル下・・マタイ・・人がシンボルちょっとマンガちっくな絵ですねキリストの聖遺物・・・十字架の破片ゴルゴダの丘でキリストが磔にされた・・と言う十字架の木片・・・らしい。血の浸った釘穴がある・・と信じられているとか・・。キリスト受難の象徴の1つだけにキリストが持ち主を守護してくれる・・と信じられている特に神聖な遺物。出自についてはよくわかっていない。宝物館の資料に入手の解説もない。コンスタンティノープルに保管されていたものが12世紀頃に散逸して欧州にでまわった・・と言う説もあるが、そもそも磔にされていた十字架が残されていたとは思えない。(張り付け板は使い回しされていた可能性だってあるし・・。)12世紀頃に散逸して欧州に・・とは、まさに十字軍の遠征後に世にそう言うものが出回った・・と言う事なのだろう。以前紹介した聖遺物産業が頭をよぎる  ̄ ̄∇ ̄ ̄ウーン・・・本来は木片のみ支柱に納められていたのものを後にカール4世(Karl IV)(1316年~1378年)により1350年頃十字の枠が作られたそうだ。聖槍宝物館の資料によれば、この槍はローマ教皇ハドリアヌス1世(生年不明~795年)からカール大帝(742年~814年)に贈られた品とされている。カロリング時代の槍の中央は鉄のピンが入れる様に削られていて、3つの真鍮製の十字架がついている。槍の中に組み込まれた鉄のピンはいつしかキリスト磔刑の十字架に打ち込まれた釘と考えられるようになったらしい。金の被いは、カール4世(Karl IV)(1316年~1378年)時代に欠けた部分を被うようにかぶせられたもので、「主の槍と釘」と刻印されている。(それによりこれはロンギヌスの槍と釘・・と言う解釈になったらしい。)しかし、近年クリーニングした時に金の被いの下から別の刻印が出てきているそうだ。287年に殉教した聖マウリティウス(St. Mauritiusu)の名前が・・。これは以前は聖マウリティウスの槍(Lance of St. Mauritiusu)と解釈されていた・・と言う事だ。聖槍は、金の被い以降にロンギヌスの槍(Lance of Longinus)になってしまったと言うのだからおそらくその犯人はそれらを施したカール4世(Karl IV)であろう。カール4世は政治的にも様々な工作をして家権強化を図った人だ。特に位の高い聖遺物を所有している・・と言う事はただのステータスだけではない。他の諸侯より神聖ローマの皇帝はずば抜けた聖遺物を所持していなれば笑いものである。だからもっともらしい話で正当性を強調したのだろう・・と推測できる。現在の宝物館の資料によれば槍は8世紀、フランク王国時代のカロリング朝・・と表示されている。つまり聖マウリティウスの槍(Lance of St. Mauritiusu)でもないかもしれない・・と言う事だ。オットー1世の伝説がある。オットー1世がこの槍を持ち、侵略する異教徒よりキリスト教国を守ったレフィフェルト(Lechfeld)の戦い。勝利した事によりローマ教皇より正式に神聖ローマ帝国の帝冠を戴いた。そんな奇跡の勝利をもたらした無敵の力備わったこの槍は王者の絶対的シンボルとなり皇帝のレガリア(regalia)になった・・と言う事だ。※ レガリア(regalia)・・それを持つ事でことによって正統な王、君主であると認めさせる象徴となる物品。因みに聖釘はハプスブルグ家に所蔵されている他の聖体顕示台の中にも存在している。ロンギヌスの槍(Lance of Longinus)キリストの脇腹を刺した聖槍はそれを刺したローマの兵隊、ロンギヌスの名に由来していると言うが、それ自体が実は後世の創作で実在の人物ではないらしい。そもそもキリストを刺した槍の存在はヨハネの福音書のみに記載されている話。(しかも生きている時に槍でつかれたわけではないから血が噴き出す・・と言う事も物理的にありえない。)※ ロンギヌスの槍については、2013年8月「十字軍(The crusade)と聖墳墓教会 2 (キリストの墓)」の中、キリストの墓 で少し触れています。リンク 十字軍(The crusade)と聖墳墓教会 2 (キリストの墓)聖マウリティウスの槍(Lance of St. Mauritiusu)キリスト教徒が迫害されていたローマ帝国時代。ローマ帝国の軍隊の指揮官だったマウリティウスはガリアに進軍。しかし皇帝との宗教的トラブルで兵は皇帝に従わない者は異教徒として殺害。287年に殉教した。槍は彼が持っていたものか? 打たれたものかは不明であるが、件の槍は聖マウリティウス(St. Mauritiusu)の槍(Lance of St. Mauritiusu)とされている。ローマ皇帝マクシミアヌス帝(Maximianus)の時代に迫害された・・と書いているものもあるが、彼はそんなにキリスト教徒の迫害には荷担していないそうだ。もしかしたら聖マウリティウスの殉教にかかわったのは当時ローマ帝国を東西に分けて共同統治していたディオクレティアヌス帝(Diocletianus)による迫害によるものかもしれない。それにしても希少なはずの聖遺物は世にたくさん存在している。実際ロンギヌスの槍は他にも存在するし、釘や十字架の破片などもあちこちに存在。その3点に限って言えば、本物は1つもないのではないか? と思うのは私だけだろうか?
2014年12月01日
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