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Break Time (一休み) ちょっと加筆修正マレーシア航空機はどこに消えたのか?ニュースによれば、ドップラー効果によりほぼインド洋の南で消息を絶った事が確認されたそうだ。軍により撃墜されたのでは? とか、ハイジャック説、機長の自殺説に結果、燃料が切れて失速、墜落したのでは? など憶測がたくさん出ている。中でもまさか・・と思うのがUFO連れ去り説だが、実際私も最初は「まさか次元の狭間にタイムスリップでもしたか?」 と本気で考えた一人である。実は子供の頃、推理物、冒険物や怪事件物を読破していたのでバミューダ・トライアングルの怪異事件が「ふっ」と頭をよぎったのだ。実際現在ではバミューダ・トライアングルの怪異はほとんど解明されていて、不思議事件・・と言うわけではなかったようだが・・。それにしても地球は狭いようでまだまだ広かったようだ。レーダーの盲点箇所も結構あるらしい。マレーシア航空機は、おそらくは海に沈んだのではないか? と考えるのが妥当なのだろう。が、やはり不思議物おたくだった私としては「フィラデルフィア実験」も脳裏によぎったのだ。1943年に米軍により秘密裏に行われたとされる艦船の消失実験はそもそも実話か? と思える奇っ怪な内容だったが、映画「007」さながら悪の何者かが何かしたか? なーんて事が実際あるわけなかろうが、現代の神隠し・・とも言える事件。謀略説は確かに捨てきれず・・なのかも・・ (_ _ ??)さて、今回は前説と何の関係もないレストランの紹介です デュック・ドゥ・ブルゴーニュ(Duc de Bourgogne)ブルージュの一等地にあると言っても過言ではない高級フレンチ・レストランが今回紹介するデュック・ドゥ・ブルゴーニュ(Duc de Bourgogne)です。ブルージュに行ったら真っ先に立ち寄る運河撮影のベスト・ポジジョン。ローゼンダッカイ(Rozenhoedkaai)から写真中央右に見える塔が前回紹介したマルクト広場の鐘楼である。写真左の橋をわたり真っすく行くとマルクト広場の鐘楼の右脇に出る。今は途絶えてしまっているが、この運河突き当たりがマルクト広場に伸びていた航路である。観光船の乗船場もこのあたりに点在。今回紹介するレストランは調度カーブのコーナーにある白い建物である。運河にせり出したように建つレストラン、バーは運河の景観を臨むには最高のロケーションです。景色も良いし食事も実にお洒落で美味しかったです 実はレストランだけでなくホテルも併設。因みにホテルは3つ星。写真左は市庁舎の裏に続く運河の航路。(現在はこちらにしか船は進めない)参考に鐘楼からの写真を・・。赤い円・・・デュック・ドゥ・ブルゴーニュ(Duc de Bourgogne)黄の円・・最初の写真2枚の撮影場所。水色のライン・・・運河の位置。同時に観光船の航路。(建物で陰になっているが・・。)写真下の斜線部・・・埋め立てられたもと運河の部分。(今は細い水路があるだけ。)デュック・ドゥ・ブルゴーニュ(Duc de Bourgogne)・・ホテル&フレンチ・レストラン店はローゼンダッカイ(Rozenhoedkaai)の一画、入り口はHuidenvetterspleinと言うスクエアから。Huidenvetterspleinは、もとは製皮業者達の集まった広場だったようだ。建物が最初にできたのは1648年。現在のレストラン、ホテルになったのは1947年に再建された時のようだ。ブルージュでは中世読み書きのできる人が少なくて、建物は絵柄によって識別されていた。最初にできた時はやはりパブでオランダ人と言う名が付けられていたようだが、それは後に「La Vache(The Cow)」牛になった。だから建物(戸口の上)には今もそれが残っている。住所 Huidenvettersplein 12, Bruggehttp://www.hotelputje.be/en-us/ducdebourgogne/restaurant.aspxレストランはとてもクラシカルで雰囲気が良い。建物しかり、調度もほぼアンティークかも・・。運河に突出した部分。最初に撮影した場所が窓から見える。オープンして一番に入ったのでコーナーの一番良い席に通されました 鐘楼からの写真では、この部分は明らかに運河の上に突出。本日のお勧めランチを注文 34.50ユーロ 意外に安い。サラダ クレベットクレベット(Crevette)は前にも紹介しましたが、北海で採れた小エビです。5月が旬なのか? この時期どこでもサラダに必ず盛りつけられています。干しエビのように味が濃い。毎日、季節の新鮮な食材(野菜、肉、魚)でメニューは考えられていると言う。魚のスープ(ブイヤベースの濃い感じ)ルイユ(Rouille)ソース・・・トウガラシ、ニンニク、オリーブオイルクルトン、チーズを掛けて。ランチでは上のスープかクレベットはどちらかチョイス。メインの鴨肉マスカットのようなブドウが添えられている。甘みが調度良い。本日のデザートはイチゴシャーベットとフルーツのコンポート量がタップリ。プチフールとコーヒーコーヒーなど飲み物は別料金。コーヒーは4ユーロ。プチフールはコースメニューのサービス。安いし雰囲気は良いのでのんびり味わっていたら2時間半。観光時間が減ってしまった f^^*) ポリポリでもブルージュに行くなら絶対お勧めレストランの一つです ((美^~^味))モグモグ♪
2014年03月27日
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マルクト(Markt)とは、もともとドイツ語由来の語で、市場の意。英語圏ではマーケット(market)と翻訳されるが、現在のマーケットとは別物である。マルクト(Markt)とは中世クラフト職人や農民、漁師に遊牧民等が商品を持ち込み売り買いする場所で、それら取引の市が建つ特定の広場をマルクト(Markt)広場と呼んでいた。だから中世そこそこ大きな街にはたいていマルクト広場があったのである。どんな所か? 簡単に言えば土日に建つ朝市やフリーマーケットのようなものである。しかし、中世の本来のマルクト広場で買い物をするのは一般人よりもむしろ商人である。商人がこの地方の品を買い付け、他国に売りに行ったりと仕入れをしたり、逆に他国の品を持ち込み売ったりする商品取引所の要素の方が大きかったかもしれない。そう言う意味で言えば、そこはマーケット(市場)と言うよりは卸売り市場であり、国際見本市的な要素もあったのである。マルクト広場については、2009年12月「ザルツブルク 4 (マルクト広場) 」でも紹介しているから良かったら見てね それにしてもベルギーは本来フランス語圏なのにフランス語のマルシェ(marché)とは呼ばない。やはりドイツ起源の売り方だからなのだろうか?ブルージュ(Brugge) 4 (マルクト広場)マルクト(Markt)毛織物業のもたらした冨マルクト広場に建つ英雄の像ブルージュのほぼ中心には二つの広場がある。もちろん市民のメインとなるのはマルクト(市)の建つマルクト広場であるが、隣接するようにある元フランドル伯の居城の跡地、ブルグ広場も外せない場所である。マルクト広場北と西・・・切妻屋根のギルドハウスが並ぶ。今はほぼレストラン。東・・・・・・・州庁舎、その右隣は郵便局。南・・・・・・・鐘楼(Belfort)と毛織物ホールブルグ広場南・・・・・・市庁舎西・・・・・・聖血礼拝堂.Vlaming streetからのマルクト広場の鐘楼マルクト(Markt)広場は文字通り、マーケット建つ広場であるが、今回は朝市の写真はありません。朝市は毎週水曜日に市が建つそうだが、これは956年以来の慣習らしい。尚、全体を紹介する前に・・。天気の調子が悪く、雨と晴れの写真が混じっていますのでご了承ください。撮影はほぼ同じ日か翌日です m(_ _)m鐘楼の下ほぼ同じ位置から広場の中心の方を撮影マルクト広場はどこもたいがい広いのであるが、ブルージュのマルクト広場は特に広いように思う。写真1枚に収まらないのです 毛織物業のもたらした冨マルクト広場の回りはギルドハウスが囲むように立ち並んでいる。実は鐘楼自体も毛織物業者のギルドハウスの上に建てられている・・と言う特殊な建物なのだ。前に紹介したが、ブラバントはリンネルを特産に成功した街であるが、フランドルは羊毛産業が盛んな街。共にブルゴーニュ公領になった時代、特にハンザ同盟のおかげでブルージュの街は欧州一の景気のよい街に発展する。リンネルは、高級レースや高級下着などの衣料になる。毛織物業とは、衣類も含まれるが、稼ぎ頭は、フランドル特産と言われるタペストリーの事である。以前(2014年01月)ブリュッセルの所「サンカントネール美術館 2 (フランドルのタペストリー 他)」で紹介したようにフランドルは羊毛を使ったタペストリーで欧州の全てのシェアを握った時代がある。リンク サンカントネール美術館 2 (フランドルのタペストリー 他)上質な高級品の織物のタペストリーは13~14世紀から需要を増し、フランスのゴブラン工場に持って行かれるまでフランドルの特産品であり、外貨かせぎの物品であったのだ。だから今も残るブルージュの立派な建築物はその冨の証である。その為、この街はわずかな大商人が街の自治をにぎっていた。鐘楼のバルコニーからは新しい法律などが発布され読み上げられた。だから「マルクトの法」とも呼ばれたとか・・。現在は州庁舎。実はここも1787年まで織物の屋内市場として使用されていた場所なのだそうだ。その頃は運河もこの広場まで引き込まれていた・・と言う。右のレンガの建物は郵便局になっている。位置的に以前はこの下までが運河であったのだろう。真ん中の建物は19世紀に建てられたネオゴシック様式だと言うので、左の一部建物を除いては後に建て替えられた物のようだ。現在中に観光案内所とちょっとした美術館が併設されている。観光馬車がいると華やか 鐘楼の上から北側 地図でAマルクト広場に建つ英雄の像マルクト広場の中心にはブルージュの英雄ヤン・ブレーデル(Jan Breydel)とピーテル・デ・コーニンク(Pieter de Coninck)の像が建っている。自由都市だったブルージュが完全にフランスの支配下になってしまった時代。1302年フランス支配に逆らうように市民が立ち上がる。(黄金の拍車戦争)この時市民を指揮したのが銅像の二人だそうだ。因みにこの戦いはとりあえず市民が圧勝したが、その後再びフランスに制圧される。.ブルージュが盛況になるのは、ヴァロア・ブルゴーニュの時代に入ってからだ。特にヴァロア・ブルゴーニュ3代目君主、フィリップ3世(Philippe III)こと、フィリップ善良公(Philippe le Bon)(1396年~1467年)の時代は最盛期と言ってよい。毛織物に引っかけて、1430年、金羊毛騎士団が誕生している。創設者はフィリップ善良公である。切妻屋根のハウスはフランドル独自の形式を生んだという。ブリュッセルのグランプラスとは違いこちらはほぼカフェ・レストランです。鐘楼の上から西側 地図でBとにかく広い。地図のB側ここでほぼ360度回ったのでおわります。次回ブルグ広場予定。リンク ブルージュ(Brugge) 5 (ブルグ広場 1)
2014年03月23日
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今回は鐘楼と広場の予定でしたが、カリヨン(carillon)中心になってしまいました。何しろこの鐘楼は1999年に「フランドル地方とワロン地方の鐘楼群(Belfries of Flanders and Walloni)」としてユネスコの世界文化遺産に登録されているからです。(この認定ではベルギーとフランス両国合わせて56の鐘楼が登録。)ブルージュ(Brugge) 3 (鐘楼とカリヨン)鐘楼(Belfort)カリヨン(carillon)ドラム式カリヨン自動演奏装置ブルージュの鐘楼は単一の鐘ではなく、複数の鐘によるカリヨン (carillon)と呼ばれる楽器になっている。遡れば14世紀時を告げる塔の大鐘はその前哨の小さな鐘と対になって役割をになっていた。それは15世紀~16世紀になると小さな前打ちの鐘の方は数を増し、競うように数が増えリズムを刻み、奏者があらわれ音楽になった。そのカリヨン文化は17世紀に全盛を迎える。だからカリヨン(carillon)はフランドル地方(ベルギー、オランダ)の伝統楽器に入るのだそうだ。書き込み忘れだが、大きな鐘はDrumの部屋の下方の窓のあたり前回も紹介したが高さ88mの3層の鐘楼には展望まで366段の螺旋(らせん)階段。大鐘の上にドラム室があり、その上にカリヨン・ルーム、その上にパノラマを楽しむ展望テラスがある。カリヨン (carillon)(株)カリヨン・センターの出している世界の名鐘物語によればこのブルージュの鐘楼は14世紀始めに4鐘。1528年には11鐘となり1603年には20鐘。1631年には26鐘、1673年には39鐘と増えて行くが、1741年に鐘楼自体がは落雷で崩壊しているそうだ。現在のベースは1748年にブルージュで鋳造された26鐘と1969年にオランダで鋳造された21鐘が加わり47鐘のカリヨンになっているらしい。鐘(bell)の打点の玉の部分クラッパー(clapper)には金属線がついている。鐘から続く金属線は音階となる? あるいは増幅器か? とにかくたくさんの金属パイプにつながっているようだし、さらに金属線は階下のドラム室に引き継がれている。カリヨン (carillon)現在のカリヨン (carillon)の定義は23鐘2オクターブ以上で鍵盤で操作演奏する。・・と言う事で楽器とされる。しかしカリヨンの歴史を遡ると最初は人が鐘を押したりぶら下がって鐘をたたいたり・・の完全人力の手動式で始まっている。それが奏者が鍵盤(けんばん)(バトン)を使い、バトンを拳(こぶし)で叩いて、鉄線に繋がれたハンマーを引っ張り打鐘するバトン式カリヨンに発展してカリヨンは楽器となった。(16世紀にバトン式カリヨンはフランダースで急速に普及)さらに時がたつと人が拳(こぶし)でバトンをたたく部分が機械にとって変わる自動演奏型のカリヨンが誕生。原理はオルゴールのシリンダーと同じ。ドラムについた爪がドラムが回転すると同時にレバーを押し上げ、鉄線を引っ張ってクラッパー(clapper)が鐘を打つ・・と言うドラム式カリヨン自動演奏装置である。このドラム式カリヨン自動演奏装置の開発は時計の発展にともなって誕生している。時計と連動して設定時間にドラムが回転して自動演奏するシステムだからである。ちょっとわからないのはその動力源であるが・・。(見てこなかった)時計だけの動力源なら17世紀には分銅(ふんどう)型から振り子(ふりこ)型の時計に変わってきているが、こんな大きな重そうなドラムを回転させる動力源には足り無いような気がするからだ。(まさかドラム自体を手動で回していた? もちろん現在は電気だろうが・・。)いずれにせよこのブルージュの鐘楼はどうやらバトン式カリヨンとドラム式カリヨン自動演奏装置の二つを併せ持っているようだ。それだけ時代が古い・・と言う事と、うまくメンテして今に残されている・・と言う意味で貴重なのである。カリヨン自体の進化で言えばこの後動力が電気に代わり、ロールテープ式自動演奏装置と言う機械に代わり、さらに現在ではコンピューター制御のカリヨン・コンピューターと言う形式が生まれている。ドラム式カリヨン自動演奏装置カーテンか? すだれに見える金属線の先がドラム頭上に・・。それはオルゴールの櫛歯(コーム)にあたる。このドラムはオルゴールのシリンダーにあたる部分と同じである。因みにオルゴールはカリヨンから誕生したそうだ。17世紀頃のスイスの時計職人がカリヨンのドラムを小型化したシリンダーを造り、鐘の代わりに金属片のピン(コーム)に変えた。(動力はゼンマイ。)巨大な歯車は時計と連動時々バトン式カリヨンはカリヨネア(carilloner)により演奏される。昨年撮影分には演奏写真が無かったので数年前の演奏写真を持って来ました。「Schenking」は寄付の意手動演奏のキーボードには手鍵盤(てけんばん)と足鍵盤(あしけんばん)があり、それらはワイヤーで鐘まで繋がっている。ピアノなどの鍵盤と違い1音にかなりの力を込めてたたかなければならないらしい。オランダとベルギーには演奏者、カリヨネア(carilloner)を育てるカリヨン学校もあるそうだ。ところでカリヨンは鐘。金属である。かつては青銅?ナポレオン占領下にはフランスの貨幣鋳造用に鐘を供出(きょうしゅつ)させられ、鐘(かね)が金(かね)になった時代があるそうだ。(その時、フランダース地方の7割近くの鐘が取り上げられ、フランス硬貨300万枚になったとか・・。)侵略戦争などの影響もあり、17世紀に全盛を迎えたカリヨンは幾度も危機が訪れる。特に供出でカリヨンが消えた時代にはカリヨンの鋳造の技術も途絶え、カリヨン文化は絶滅の危機に瀕したと言う。(ただの鐘ではない。音階がそれぞれあるので鋳造の技がいるそうなのだ。)現在あるのは近年のカリヨン文化再興のたまものらしい。Panorama(展望)落下物防止の為? 金網がかかりどうしても撮影のジャマになっている。すぐ真下のマルクト広場は見えないが隣、市庁舎のあるブルグ広場が見える。市庁舎の裏側に運河が流れている。上の写真を少し右に・・。観光船の出ている縁。観光客が真っ先に訪れ写真を撮る場所である。運河はそこから右に曲がっている。(運河についてはまたクルーズで紹介予定。)さらに右。調度南の方角左が聖母教会矢印・・・ペギン会修道院右が救世主教会ブルージュ(Brugge) つづくリンク ブルージュ(Brugge) 4 (マルクト広場)番外、ブルージュ(Brugge)の高級レストランリンク デュック・ドゥ・ブルゴーニュ(Duc de Bourgogne)
2014年03月17日
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Break Time (一休み)帰化の問題アメリカには日本のような公的な健康保険が無いから病気になったらとんてもなくお金がかかる。個人で掛ける医療保険はあるが契約内容によっても、掛け金によっても(支払いの)カバーが違う。何にしてもやはり医療費自体が高いのである。だから最近日本の安い医療費目当てに帰化をもくろむ外国人が多いらしい。とは言え申請には条件がある。5年以上日本に居住。あるいは日本人と結婚した人は3年以上の居住か、結婚して3年以上で日本で1年以上の居住が条件。それだけではない。他にも日本で暮らせるだけの資産があるかは重要だ。(もっとも本人になくても日本人配偶者や親族に資産があれば大丈夫らしい。)他にもいろいろ条件はあるが、日本への帰化にはマイナス面もある。日本人が外国に嫁いだ場合は、二重国籍も可能であるが、日本国側はきっちりしているので、日本に帰化すると同時に元の国に国籍離脱の届けを出されるので確実に元の国籍を失う事になる。(国籍の離脱を認めない国もあるらしいが・・。)条件を全てクリアして申請しても全てが簡単に認可されるわけではなく、どちらかと言えば狭き門。認可されるまでかなりの時間とお金もかかるようです。(申請して十数年しても駄目な人もいるらしい。)でも、国際結婚により日本国籍を捨てた元日本人などは一度に限り居住歴など少し条件が緩和されて簡易帰化申請ができるそうです。ただ、書類を提出しても審査に1年~2年はかかるらしいし全ての人が認められる訳ではないらしい・・。(離婚して戻ってくる人の救済措置にしても両親が生きている間ならいいけれど、身受けしてくれる親族がいなければ「日本に住所を有する」などの条件が満たされなくなります。)外国の人と結婚して国籍を変える。自分が海外ブランド品になるような錯覚があるかもしれない。素敵・・と思う女子は多いだろう。でも安易に国籍を変更するのはどうか? じっくり考えた方がいいのかもしれない。何も国際結婚しても必ず国籍を変える必要は無いのだから・・。(国によっては自国民男性と結婚した外国人女性には自動的にその国の国籍を付与する国もあるようです。その時は理論的には日本国籍を捨てなければならないが・・。)さて、最初に戻って・・。若い頃は元気だから気付きもしないが、老いて病院通い始めると医療費の重要性に気付く。老後入居するかもしれない施設もアメリカではとんでもなく高い。在宅にしても全額自費でヘルパーを頼むのも大変だ。(資産家なら関係ないが・・。)そこに行くと日本には介護保険制度ができたから全額自費でなくても介護度に応じてヘルパーが来てくれる。それは本人にも家族にもありがたい制度である。(ぶっちゃけ年金制度は崩壊しそうだし、介護保険も初期の設定が出し過ぎで崩壊しかけたが・・。)とにかく日本の健康保険制度と、年金制度。そして介護保険制度は国民からしたらものすごいすぐれもののシステムなのだ。中にいるより遠くから・・。海外に出た方が日本の良さがより解る・・と言うもの。帰化したい外国人はしっかり日本を見て研究しているのかもしれない。しかし、税金も介護保険料も払っていない人達が突然やって来てみんなの血税を使われるのは困る。若い世代は払わされるだけ払わされて、自分達の時にはどんどん内容が縮小されてたいした恩恵も受けられなくなっている可能性があるからだ。(何しろそれらはほぼ自転車操業だからね・・。)今後税金をたくさん払らってもらえそうな若者外国人の帰化なら ☆⌒(*^-°)v Welcome です。写真は昨日(13日)の六本木ヒルズから。雨風がひどく天気は非常に残念でした 六本木ヒルズ森タワー52F展望台から東京タワーが小さく見える・・。お台場方面天気悪いから微妙だけどレインボーブリッジとフジテレビも見える。因みに森タワーの隣がテレビ朝日だけど・・。森タワー前ルイーズ・ブルジョワ(Louise Bourgeois)のMamanこの蛛 ビルバオ・グッゲン・ハイム美術館(Bilbao Guggenheim Museum)にもあったと思ったら、ニューヨークのグッゲン・ハイム美術館、オタワのカナダ国立美術館、ロンドンのテート・モダン、サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館、ソウルのサムスン美術館 Leeum、この六本木ヒルズなど、計9か所に設置されているそうだ。ルイーズ・ブルジョワ(Louise Bourgeois)(1911年12月~2010年5月)フランス・パリ出身のアメリカ合衆国の彫刻家。ブロンズ像の名前はMaman青銅の腹に26の大理石の卵を持っている母グモだそうだ。母の強さと保育。彼女の母をイメージにしたものらしい。雨で写真を撮って来なかったのでこの写真はウィキメディアコモンズ「Maman」から借りてきました。今度行ったらもっと詳しく見て来よう 因みにこの日はアンデイ・ウォーホル(Andy Warhol)展に行って来たのでした。5月6日までやっています "( ^ - ^ )ノ~~マタネー☆
2014年03月13日
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今回はブルージュの街を取り巻く運河にかかる中世の城門(Kruispoort)とその界隈で昔使用されていた風車、それにマルクト広場にある鐘楼から街の景色を紹介します。ブルージュ(Brugge) 2 (十字の門と風車)十字の門(Kruispoort)ブルージュの風車前回の地図再び・・ 今回は街の北東からです。B・・十字の門(Kruispoort)とその上の風車群マルクト広場は街の中心。黄色の星のあたりです。B・・十字の門(Kruispoort)の所の橋かつてはブルージュの城壁と共に街を囲んでいた運河。一部跳ね橋になっている。今も残る昔からの4つの城門の一つ。十字の門(Kruispoort)最初に城門が建築されたのは街を囲む城壁と同時1297年~1304年。それから1366年には再建。さらに1382年にゲントから攻め入られフィリップ・ヴァン・アルテベルデ(Philip van Artevelde)(1340年~1382年)率いる市民反乱軍により門は破壊される。3度目の門は1400年~1402年に再建。注 Philip van Arteveldeはゲント出身のフランドル愛国者。当時のフランドル伯ルイ2世に反旗を掲げ市民と進軍。しかしこの橋が壊された1382年にフランス王の前で木に吊され絞首刑になっている。なぜ十字の門(Kruispoort)のネーミングがついたのかは不明。しかしこの城門は神聖ローマ皇帝カール5世、ナポレオン、近年はドイツ軍などこのゲートからブルージュ入場が果たされているそうだ。(残念ながら街の中側の写真しか撮りませんでした )もしかしたら門の外側に敵を撃退する為の塔があり、そこにcrenel(銃眼)がついているからかもしれない。crenel(銃眼)の形状が十字の形だから・・。crenel(銃眼)についてはロンドン塔の東側城壁の所「ロンドン(London) 4 (タワー・ブリッジ 1)」で紹介ずみ。因みに中世よりあった街を囲む城壁は18世紀、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世の命で取り壊された。ブルージュの風車このあたり運河沿いには風車が並んでいる。かつてここで使われていた風車を記念に残したものだ。ボンヌ・シエール風車(Bonne Chieremolen)(1888年東フランドル)写真右に見切れているのが十字の門(Kruispoort)。風車と言うのは何もオランダだけの専売特許ではありません。17世紀、このブルージュにも城壁に沿って30基の風車があったと言う。15世紀、オランダで干拓地の排水用に風車が利用され、今やキンデルダイクで世界遺産に登録されているが、地続きのベルギーも北部平野部は干拓地であり中世から風車を利用した排水がおこなわれていた。聖ヤン・ハイス風車(St.Janshuismolen)(1770年)風車を英語で言うとウィンドミル (windmill)。製粉の為のマシーンに思えますが、中世の北海沿岸では主に水をくみ上げる為の風力原動機(動力タービン)として利用されていたのです。(粉ひきはおまけ)なぜなら北海沿岸は海面より土地が低かったから土地に流れ込む水を排水する必要があったからです。潟地を埋め立てた低地では運河を建設しても水位は上がり続け地盤の沈下を止める事ができなかったようです。(排水との戦いは13世紀から)結局排水の為にたくさんの風車を並べて使用する事で大きな揚力ポンプを作り水を外海に排水するしかなかった。この風車によるシステムは電動力ポンプが現れるまで続いた?今は文化財として保存されているだけ。2009年7月「キンデルダイク(Kinderdijk)の風車群」でオランダの風車については紹介しています。マルクト広場と鐘楼(Belfort)左・・州庁舎風車、広場、鐘楼の上については撮影日時が異なる為に天気がまちまちです。何しろ天気が悪い日が多かったので・・ 鐘楼の右どなりはギルドハウス。鐘楼の高さは88mブルージュの街とフランドル平原が見渡せる。建築は13世紀に遡るそうだ。塔の八角15世紀末。鐘楼へはどこも螺旋階段で上らなければならない。展望台の位置まで階段366段。カリヨンが有名な鐘楼であるがそのあたりは次回に紹介。マルクト広場にある鐘楼の展望台から ブルージュの街北~北北東方面。(鐘楼に登った日は雨でした。)左矢印・・ボードワン運河(Boudewijn Kanaal)右矢印・・風車先ほど紹介した十字の門は矢印のもう少し右側。矢印の位置が風車が並んでいた所。北海に出る・ボードワン運河(Boudewijn Kanaal)には風力発電基がたくさんならんでいるのが見える。結局今も風力を使っているのね ( ̄▽ ̄;)アハハ...ボードワン運河(Boudewijn Kanaal) 10kmも行くと北海に出る。次回鐘楼から リンク ブルージュ(Brugge) 3 (鐘楼とカリヨン)
2014年03月07日
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昨年2013年05月「旅先からのBreak Time(一休み)」でブルージュ(Brugge)の運河の写真を何枚か紹介していましたが今回本格的にブルージュ(Brugge)の紹介です。ブルージュ(Brugge) 1 (街のなりたち)フランドル(Flandre)と亜麻(リンネル・liniere)ブルージュ(Brugge)の栄華盛衰死都から古都ブルージュ(Brugge)へブリュッセルの北西(列車で1時間程)、スヘルデ川を通して北海に近い街ブルージュ(Brugge)はフランク王国分割後に誕生したフランドル伯爵領にある。9世紀にもとは要塞として誕生したブルージュ(Brugge)はフランドル伯爵領の中でも稼ぎ頭となる繁栄をした街なのである。ブルージュ(Brugge)の古地図を絵画にしたもの(一部)楕円に囲われているのが街をとりまく運河。ブルージュ旧市街は運河で囲われている。その昔はさらに城壁で囲われていたことが最初の古地図からうかがえる。(まさに要塞都市)アムステルダムほどではないが、ブルージュ(Brugge)も川や運河により発展した典型的な町なのである。運河はだいぶ消えたが街並みは今もほとんど変わっていない。それがこの街の魅力である。写真下・・Sがブルージュの駅。そこから街の中心まで車で10分程度。地図Aにある南西にある鍛冶屋の門(Smedenpoort) 街側からの門。ブルージュの旧市街に入る城門の一つ。(現在門は4つしか残っていない。)今や信号機もついて車、自転車、歩道とわけられている。鍛冶屋の門(Smedenpoort) 外側から最初にこの門ができたのは1297年。鍛冶屋の門には青銅の頭蓋骨がかざられている・・とウィキペディアにも書かれているがそれらしきものは見当たらなかった。青銅の頭蓋骨は、1691年街のうらぎり者の首を見せしめに門に吊した事から戒めの為に後に青銅の首を飾る事になったと言う。(考えたらちょっと恐ろしい場所でもある。まあ、中世のこうした門の城門外側はどこも罪人の死体を見せしめに野ざらしする場所でもあったのだ。)門、外側から街を見る。12~13世紀に建てられたブルージュ最古の教会である救世主大聖堂の塔が見えている。これでもここはお店が多く並び最も交通量の多い通りかもしれない。全体に街の中は商用車くらいで車は少ないのだ・・。もっとも運河で発展した街なのでかつては道路よりも船で運河から街に入った商人のが多かったろう。今船は観光船だけである。フランドル(Flandre)と亜麻(リンネル・liniere)フランドル(Flandre)が繁栄できたのは周辺で採れる亜麻草を利用したリネンの生産やベルギー・レースの生産があげられる。寒冷地を好む亜麻の栽培にフランドルは適していたからだ。特にブルージュ(Brugge)は地乗りが良かった事もあり亜麻の生産地としてだけでなく、集積から紡績、織物製造までのラインができた。そして製品市場ができ上がり商取引の市場としても街は発展したのである。通気性、吸湿性に優れた上質な繊維を持つ亜麻は肌触りが良い事もあり古来より高級な衣類に使用された。特に中世では亜麻糸で編まれた細密なベルギーのレースは品質も美しさもあり、それを身に付ける事が貴族のステータスになるほど人気で売れたと言う。ボビン・レースは手間がかかる為に今も非常に高価。ブルージュ(Brugge)の栄華盛衰今でこそ内陸に入ってしまったが、10世紀頃より運河伝いに北海の玄関口として街は栄えはじめる。取引の為の商館が次々置かれ欧州の商品取引の巨大マーケットが形成された。さらには商品の取引に伴う為替。世界初の両替所が13世紀にはブルージュに設置され欧州の金融センターに発展したそうだ。その勢いは止まらず、15世紀にはハンザ同盟の主要貿易拠点にまで成長。ブルージュ(Brugge)は欧州より商人が集まる街になり、その集まる冨で美しい街並みが形成されたのである。(今ある古都ブルージュは、そのかつての遺産なのだ。)しかし、フランドルが、ではなく、ブルージュ自体の発展が16世紀末で途絶えてしまう。それはブルージュ(Brugge)の繁栄を支えた物流が途切れてしまった事にある。商取引に必要な物流の要である運河が北海より流入してくる砂で埋まってしまったからだ。船の行き来ができなくなり商人はブルージュを捨てアントワープに移動。16世紀にはアントワープとロッテルダムが欧州の商取引の50%を締める都市に発展して行く。(因みにアントワープはフランドル伯爵領である。)物流どころか交通網の水路自体が途切れて利便の悪くなったブルージュ(Brugge)は衰退。つい近世まで忘れ去られた死都になってしまった・・と言うわけだ。「フランダースの犬」は貧しくなったフランダースの農民の話を象徴した物語だそうですよ 街の中心に向かうほど古い建物が目立つ。死都から古都ブルージュ(Brugge)へ19世紀、産業革命後に成功したイギリスやフランス人の間でレジャー・ブームが起きたそうだ。鉄道の整備や蒸気汽船の発達もあったのであろう。(そう言えばこの頃エジプトなどの遺跡発掘をしに行く金持ちも増えたな。)そんな観光ブームの中、ブルージュ(Brugge)は古戦場ワーテルロー(Waterloo)のついでに足をのばす古都として人気が出たのだそうだ。まさに棚ぼたである ワーテルロー(Waterloo)と言えばナポレオン最後の戦いの場所。1815年6月のワーテルローの戦い(Bataille de Waterloo)で有名な土地である。(当時からやはりナポレオンは人気の武将だったのだろう。)現在もある旅行社トーマス・クックはすでにワーテルローを組み込んだパック旅行を出していた・・と言うから驚きである とにかくこの忘れ去られた中世の見事な街並みはデカダン派の小説家ジョルジュ・ローデンバッハ(Georges Rodenbach)(1855年~1898年)の書いた「死都ブルージュ(Bruges la Morte) (1892年)も後押しをしたようだ。それにしても・・海底や川底の土砂をサルベージするクレーン船は14世紀初頭に現れ、中世欧州では、ほとんどの港や入り江にあったらしい。それでも土砂の堆積が凄すぎてサルベージが間に合わなかったのだろう。さて、今回はざっと雰囲気を紹介しましたが、次回からもう少し細かく・・。写真が多いので選ぶのが大変ですが・・。リンク ブルージュ(Brugge) 2 (十字の門と風車)
2014年03月02日
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