わたしのこだわりブログ(仮)

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2009年06月13日
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カテゴリ: 歴史の旅
​​​星写真の入れ替えや書き直した所に「新」を入れさせてもらいました。ラストにback numberを入れました

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王は祝典など度々大宴会を催している。王の主催する宴会は食事だけでなく、スペクタクルな音楽劇(宮廷パレ)やコメディ・パレが催される。庭園にはそれらに合う彫像が並べられテーマにあった世界感が造られた。さらに仕掛け噴水や洞窟などアトラクションも庭に敷設され毎回非常に凝った物だったらしい。

その華やかさは、すぐさま欧州中に伝えられ、フランス王の偉大さが伝えられたと言うが、実際どれだけ素晴らしいものであったとしても、それらは一瞬の風説である。

その点、建築物は常にそこにあって消える物ではないので後世に形として残る。そしていつ見てもその偉大さを再認識できるだろう。

建築家ルイ・ル・ヴォー(Louis Le Vau)(1612年~1670年)は元の城館を撤去しない形で新宮殿を増築。それを見事にやってのけたが建築的にはかなりの制約が伴ったと言う。
ベルサイユの窓は最初のルイ13世の小城館のサイズ(3.33m)に合わせられている。
本来この大宮殿のサイズならもう少し大きく無ければならない。だからバランスと言う観点から宮殿を見ると少し微妙らしい。

内部はまた別の問題がある。王宮であるので王宮としての部屋割があるが、元の城館のサイズは決まっているので決められたスペースの中で王の希望と実際に必要な部屋を組み込む作業はかなり苦労した部分だったらしい。

王族のアパルトマンには「衛兵の間、控えの間、寝室」はセットで必要。部屋が3つあれば良いだけではない。衛兵の間には70人ほどの衛兵が詰めるのだ。

また、フランス宮廷は儀礼ずくめ。王は目覚めから着替えまで臣下らに見守られる。最盛期には100人以上の臣下が列を作って見守ったと言う。
王の寝室のところでまた紹介するが、ベッド前に敷かれた不思議な柵。臣下(見学者)らはその柵の向こうから王を見守ったと言う事なのだろう。

かくして1670年、新城館の建物が完成する。
が、それで終わったわけではない。(内装はまだこれから。)さらにプラン変更で改築も続いた。
当初ルイ14世が欲しがったイタリア式のテラスは8年程で取り壊しが決まった。

1678年大ギャラリーの建設が決まる。設計はジュール・アルドゥアン・マンサール(Jules Hardouin-Mansart)(1646年~1708年)に託された。
1679年草案は国王付き首席画家になっていたシャルル・ル・ブラン(Charles Le Brun)(1619年~1690年)に送られ以降画家と建築家の間でプランが詰められて行く。



新 ベルサイユ宮殿 6 (鏡の ギャラリー)

​Galerie des Glaces (鏡のギャラリー、鏡の廻廊、鏡の間 )
天井絵図

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戦争の間から

先に触れたが、鏡の回廊は最初からあったわけではない。下は当初の図面。

改築理由の一つは当初テララスに設置していたファウンテン(fountain)の水漏れが酷かった事らしい。
※ 人口の泉? 噴水だったかはわからない。
1678年から建設が始まり1684年完成
設計主任はジュール・アルドゥアン・マンサール (Jules Hardouin-Mansart)(1646年~1708年)
テラスのファサードだった部分の残骸が屋根裏部屋に残っている。

全長73m、幅10.50 m。ギャラリーは357枚のミラーが使用 されている。

全長73mの鏡の間には17のアーチ持つを窓が作られ明かりを取り込んでいる。
もう一方の壁側には窓のアーチと対になるように鏡をはめ込んだアーチ型の装飾がされている。
その鏡、故にこのギャラリーはGalerie des Glaces(鏡のギャラリー)と呼ばれる。最も日本では「鏡の間」と訳されて紹介されていたが、最近は「鏡の広廊(こうろう)」とするのもある。英語では鏡のホールになる。​​​

天井絵図

​​ テーマは「ルイ14世の治世の歴史」で、1661年に親政を開始してから1678年にニメーグで和平が結ばれるまでの歴史。 ルイ14世の偉大さを示したエピソードなのである。
中央には自ら統治する姿が描かれ、現実の王と古代の神々とが混在し「王権は神から委ねられた。」と、する王権神授説を視覚化した寓意画なのだそうです。


2 敵中、ライン川の渡り
3 王、13日でマースリヒト陥落
4 1672年、王、オランダの堅固な要塞4カ所一斉攻撃命令
5 1672年、王、陸海両軍の戦闘準備
6 1661年、王、自ら統治
7 フランス隣接列強の豪奢
8 フランシュ・コンテ2度目の征服
9 1671年、対オランダ会戦の決断
10 1678年、6日でゲントの街と要塞を陥落
11 ゲントの攻略にうろたえるスペイン人
12 1678年、オランダは和平を受諾。ドイツ及びスペインから離反。

​​​残念ながら天井画の撮影をしていないので載せられませんが、 ​来賓が来るたびに天井画の説明をしていた? 王の功績を知らしめるべく描かれているからね。​

もっとも最初の案は太陽神アポロンを中心とした内容であったらしい。
本来はそれが一番自然。何しろ太陽王であるのだから・・。
しかしこの案は中止された。原因はルイ14世の弟、オルレアン公フィリップⅠ世 (PhilippeⅠ)(1640年~1701年)が自身の城サン・クルー城(Château de Saint-Cloud)でアポロンに捧げた広間を造って公開していた事が原因らしい。王は弟をライバル視していたから同じ物を造くりたくなかったのだろう。

次にヘラクレスの神話を王の偉業に重ねると言う案が出た。欧州では伝統的に君主はヘラクレスに例えられるからからしい。※ ヘラクレス(Hercules)フランスではエルキュール(Hercule)

​しかし神話も、取りやめ、実際の王の功績が描かれるにいたった。それは 王自身が主役である宮殿とはっきり主張しているわけで、ある意味「神話の神にも並ぶオレ様」? 主張なのかも。

上の絵図にはヘルメスがいるけどね。

直接天井に描かれた絵もあれば、画布に描かれた後に天井に貼られた絵もある ようです。

国産の鏡
下の写真はウィキメディアから借りてきた写真です。実際に人も多くこのような撮影は不可能です。

当時、ガラスはベネチアの専売特許 でしたが、 ベルサイユの鏡は全て国産 です。
​​鏡が非常に高価だった時代である。フランスはなんとか自国生産にこぎつける。
しかも並み外れたサイズで、しかも品質が良い。それは 技術的にもベネチアのガラス産業の根幹を揺るがすレベル となったらしい。 ​1672年、 ルイ14世の財務総監 であったジャン・バティスト・コルベール (Jean-Baptiste Colbert,)(1619年~1683年)は ベネチア製品のフランスへの輸入を禁止した という。​​​​​​

​​​​因みに ベルサイユの大理石は南仏に王家専用の採掘場があった らしいが、 大きな良質の大理石はベルギーから輸入 していた。
しかも戦争中でも、特別許可のパスポートを取り付けた荷には戦闘地域の移動が可能であったらしい。
敵対国であってもお金次第で融通がきいたのね。ぽっ

シャンデリアの数は41個。
大燭台(写真左右の金の燭建て)を含む見事な銀の調度品が置かれていたと言う。

エンジェルと女神の2種のタイプがあるようです。
下は同じ燭台です。




ディアーナ(Diāna)狩猟の女神

現在の復元は、1770年に執り行われた16世とマリー・アントワネットの婚礼祭典の飾り だそうです。
もっとも最近はパーティーに貸し出したりするし、美術展もよく開催されているので仕様は時々変わるのかも。

上の写真、左の鏡の壁が開いて人が出入りしています。
最近は分からないが、めったに開かない王の住居部への入り口です。
壁側の鏡にはところでころ蝶つがいがついていて、開閉ができる部分がある。​​​​​​​

​​下は平和の部屋側から戦争の部屋方面を撮影
つまり南から北方面を撮影。
窓は西に位置するのでどちらから撮影するかで色が異なります。また時間次第で光量が違う。
何よりも今は人が多すぎて・・。
下はデジカメになる前のアナログ写真の時代のギャラリーです。フィルムにスライド用を使用しているので割りと綺麗かも。
時間にもよるが昔は人が少なかった。

平和の間の入り口

ランス大理石の柱が並び、その中にルイ14世のお気に入りのコレクションの古代彫刻が置かれています。(現在は数体のみ。)



美しくなったこの廻廊からは、地平線まで見渡せるベルサイユの広大な庭を眺められる上に、窓から差し込む光と反射する鏡により光があふれるような輝きをみせる。
鏡の間は、王室礼拝堂に行くための通路としても利用されていた他、王族の婚礼祝いの宴や、特派全権使節の為の歓迎レセプションも行われた。要するにパーティー会場にもなる「廊下」兼「イベントホール」である。
王族の婚礼に際しては、伝統的に仮面舞踏会が開かれたらしい。

ところで、フランス革命後の1871年プロイセン王がここで戴冠。
そして、1919年6月26日は第一次世界大戦の講和条約として、ヴェルサイユ条約の調印がここでされた。
戦勝国側が、 敗戦国(ドイツ帝国)への報復措置である戦争の賠償責任に関する条件を盛り込んだこのベルサイユ条約 ドイツとその同盟国の戦争責任を問い、莫大な賠償金を課した ものだった。(当時のドイツGNP20年分)
さらに、ここでの調印は、プロイセン王の戴冠に対する1871年の意趣返しも込められていたようです。

​​​​
つづくリンク ​ ベルサイユ宮殿 7 (王妃のアパルトマン)


Back number

削除したり新バージョンで書き換えしたので年月がとんでいます。
リンク ​ 新 ベルサイユ宮殿 1
リンク ​ 新 ベルサイユ宮殿 2 (入城)
リンク ​ 新 ベルサイユ宮殿 3 (バロック芸術とは?)
リンク ​ 新 ベルサイユ宮殿 4 (ルイ14世と王室礼拝堂)
リンク ​ 新 ベルサイユ宮殿 5 (戦争の間と平和の間)
    新 ベルサイユ宮殿 6 (鏡の ギャラリー) 
リンク ​ 新 ベルサイユ宮殿 6 (鏡のギャラリー)
リンク ​ 新 ベルサイユ宮殿 7 (王妃のアパルトマン)
リンク ​ 新 ベルサイユ宮殿 8 (王のアパルトマン)

リンク ​ 新新 マリーアントワネットのトイレとベルサイユ宮殿の事情
リンク ​ ベルサイユ宮殿番外 サロン文化の功罪(サロンと啓蒙思想)

リンク ​ 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)
lリンク ​ 新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里


マリーアントワネットの嫁入りから革命で亡くなるまでがまとまっています。​
リンク ​ マリーアントワネットの居城 1 (ウイーン王宮)
リンク ​ マリー・アントワネットの居城 2 シェーンブルン宮殿と旅の宿
リンク ​ マリー・アントワネットの居城 3 ヴェルサイユ宮殿の王太子妃
リンク ​​ マリー・アントワネットの居城 4 ベルサイユに舞った悲劇の王妃






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Last updated  2022年01月02日 17時36分01秒
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