わたしのこだわりブログ(仮)

わたしのこだわりブログ(仮)

2020年12月22日
XML
カテゴリ: 歴史の旅
タイトルだけで盛り沢山にぽっ

さて、「旧ベルサイユ宮殿」ですが、ルイ14世、ルイ15世と紹介してきたので、やはりルイ16世にも触れなければならないでしょう。スマイル
風貌もさえないし、意思も弱そうでマリー・アントワネットの夫と言う認識しか持っていない人のが多いだろうが、実は彼はアメリカの独立戦争を応援してアメリカに海軍のみならず陸軍まで出して支援した王なのである。
つまり 今のアメリカと言う国はルイ16世のおかげで建国できたと言っても過言ではなかった のです。
ニューヨークのリバティ島(Liberty Island)にある自由の女神像(Statue of Liberty)は自由と民主主義の象徴としてアメリカ独立の100周年にフランスが贈ったというのもなるほど・・なのである。
ベルサイユから遠く離れた感は今回もありますが・・。ぽっ後半しっかり載せてます。


新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里

アメリカ独立戦争参戦のつけ・・財政赤字拡大
​ルイ16世とラ・ペルーズ (La Pérouse) 調査隊​
ルイ16世のコンプレ ックス
トリアノン(Trianon)
大トリアノン宮殿 (Le Grand Trianon)
 小トリアノン宮殿(le Petit Trianon)
トリアノンの庭園造り  ユベール・ロベールの世界感
 ベルヴェデール (Belvédère)
 愛の神殿(Temple Amour)
王妃の村里ル・アモー・ドゥ・ラ・レーヌ(Le hameau de la Reine)

マールボロタワー(Marlborough Tower)
 粉碾きの水車小屋(Mill)

アメリカ独立戦争参戦のつけ・・財政赤字拡大
​1776年7月4日に独立宣言したばかりのアメリカから、その9月、 ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)(1705年~1790年)がパリにやって来た。アメリカ大陸会議の特使としてフランス王(ルイ16世)に支援を要請する為 だ。
アメリカは独立宣言したものの、このままではイギリスにつぶされることは目に見えていた。イギリスに対向できる相手としてフランスが協力してくれれば勝てるかもしれない・・と言う理由だ。
因みにベンジャミン・フランクリンは、この渡航でフランス、スペイン、オランダから1000万ドル以上の戦費の借金をして帰っている。​

ルイ16世の学力は決して悪くはないらしいが、タイプとしては地味な理系?  若い頃は錠前造を趣味としたオタク系だったのかもしれない。
しかもコンブレックスを抱えたルイ16世は自信がないのか? 慎重すぎるからなのか? 決断力が足り無い。肝心な時に決められない。そう言う意味では本来トップの器では無いのだろう。でも、真面目で報われなかったが、頑張ってはいた。(議会に対して・・。)
しかし、押しの強さが足り無い・・以前に「この王には大きな問題点があった。」

バージニアヘンリー岬の戦い  アメリカ独立戦争で戦うフランス海軍の艦隊
Hampton Roads Naval Museum所蔵 ウィキメディアから借りてきました。

​​​​​​​​​​​アメリカの独立をフランスが支援する理由は果たしてあるのか?  財政難なのに・・。
答えはすぐに出なかったが不思議なものでフランス国内でアメリカを助けろ・・と言う声が上ってきていた。7年戦争での仇(かたき)を取りたい臣下の思いもあった。また、アメリカに義勇軍師としてかってに乗り込み軍隊を指揮する青年貴族もいた。
※ 7年戦争ではイギリスvsフランス艦隊のキブロン湾の海戦におけるフランスの大きな敗北。21隻の戦列艦のほとんどが壊滅させられた恨みがあった。

星何よりフランスはアメリカ大陸の植民に遅れをとっていた。それ故、イギリスの領土が減らせれば・・と言う引き算による力の均衡も考えた。それが海軍のみならず、陸軍まで遠い異国に派遣しての大々的参戦となった理由だ。
1778年、フランスのアメリカの独立戦争への参戦はイングランドvsフランスと言う対立の代替え戦争にもなっていた のである。
※ 1778年2月、ルイ16世はベンジャミン・フランクリンと友好条約に調印し、13植民地と正式に同盟を結んだ。これが正式なフランスの参戦である。

フランスとアメリカ連合船隊 vs イギリスのフリゲート鑑 1779年  ウィキメディアから
作者 Richard Paton 1780年

結果、アメリカは勝利して独立を果たした。 フランスはアメリカ、アフリカおよびインドにおける領地を回復し、 勝ち組になったが、得た領土も実は少なく利益はそれほどなかった。
​※ アメリカの交易相手のメイン国は戦前のままイギリスであり、フランス独占にはならなかった。また以前北アメリカにあったフランス領を取り戻す事もできなかった。
結果は徒労(とろう)に終ったと言える。戦士としてフランスは褒めたたえられはしたが・・。

星結果論で言えば、イギリスに一矢報い(いっしむくい)はしたが、むしろ借金が増えた​
この戦いで フランスがアメリカ独立戦争につぎ込んだお金は13億リーヴル (約5600万ポンド)
前の7年戦争の債務と合わせて33億1510万リーブルの借金を抱える事に なってしまった。
※ 現在の価値が解りませんが、イギリスがつぎ込んだ金額は8000万ポンド。フランスより当然多い。
またその借入金には高利が付き返済は利子分だけで消える。 フランスはもはや火の車。増税しか返済の見込みは無かったが、議会の承認がおりなかった。
これもまたフランス革命の大きな要因となった負債 である。

​​ルイ16世とラ・ペルーズ(La Pérouse) 調査隊​
​このアメリカ独立戦争の遠く向こうに フランスには「インドからイギリス人を追い出す」と言う別の目的があったらしい。 だからルイ16世は同時にインドとセイロンにも艦隊を送っていたと言う。

またそれとは別に ルイ16世はフランス海軍士官のペルーズ伯爵を1785年、科学探査の遠征隊として艦船をまかせ世界の海へと調査航海に出している 。​
※ ラ・ペルーズ(La Pérouse)(1741年~1788?年) 海軍士官であると同時に彼は探検家として名が残されている。

ウィキメディアから借りてきました。右がルイ16世。左がラ・ペルーズ。
​​ この遠征の目的は 、ラペルーズが崇敬する ジェームズクック (James Cook)(1728年~1779年) による太平洋の発見。その後の正確な地図の作成と、フランスの新しい植民地及び交易先の確保。また新たな海上交易ルートを開く事がまず任務として与えられていた
星これは、とてつもなく大変な任務であり、全て完了すれば世界から称賛されるべき偉業であった。

彼は大西洋を南下し南米南端のドレーク海峡を通過して太平洋に出るとイースター島によりハワイ諸島も押さえ、アラスカに向かう。アメリカ西岸の沿岸を南下して再びハワイ近海に戻ってから太平洋を横断してアジアへ。フィリピン、マカオと今度は日本海を北上して樺太、カムチャッカ半島そして再び太平洋の中心を通って南下しオーストラリアに到達。​​パプアニューギニア方面に向い ソロモン諸島で消えた
ペローズの艦隊は世界を回ったあと、「 1789年6月までにフランスに戻る予定である」との報告を最後に1788年消息をたった のだ。​​

遠征の114人の乗組員の中には、10人の科学者もいた。
天文学者で数学者、地質学者、植物学者、物理学者、自然主義者、イラストレーターの他、船の牧師(チャプレン)も乗っていた。
​​また、 この航海に応募した者の中に16歳のナポレオンが入っていた と言うのには驚いた。彼は最終的に航海リストには入らなかったのだ。運命とはいかに・・である。

ルイ16世は死刑執行の朝(1793年1月)、「ラ・ペルーズのニュースはありますか?」と尋ねたと記録が残っている そうだ。世間はすでにラ・ペルーズを諦めていたが、ルイ16世は自分が死ぬ寸前までラ・ペルーズの帰還を楽しみに待っていたのだろう。そして航海の話しをたくさん聞きたかったのだろう。​​

寡黙な彼は錠前造りが趣味とずっと言われてきたが、大人になった彼には別の趣味があった?
彼の妻マリーアントワネットは彼がアメリカ問題で苦労している時にトリアノンの庭造りにいそしみ、子供ができてからは田舎暮らしの疑似体験で暇を潰して・・と得たのは自分の満足ばかり。
ルイ16世のささやかな趣味が広い世界を知る事への投資であったのか? 本当は自ら船で航海に出たかったのかもしれない。
地味ではあるが、激動の世の渦中で1人奮闘していたルイ16世。3人の王の中で一番真面目に政治をしていたのではないか?  と思ってしまった。
全ては先王らが造った借金と制度がいけないのに・・。

ルイ16世のコンプレックス
ルイ16世(Louis XVI)(1754年~1793年)
ルイ16世(推定20~22歳) 製作年 1774年~1776年
1774年はルイ15世が亡くなりルイ16世が即位した年。つまりこの絵は王になったばかりのルイ16世か?
※ 雰囲気的には王太子時代に見え無くもないが、金羊毛勲章をさげている事から即位した後に描かれたと推測できる。

1770年に挙式しているので結婚して4年。しかし王と王妃はまだ夫婦になってはいなかった

祖父のルイ15世と対称に、ルイ16世は女性に興味が無かったらしい。かなりの奥手の上に実は肉体的コンプレックスがあった事が後年判明する。

1777年、なかなか子供ができない事を心配したオーストリアの母、マリア・テレジアからの使者としてマリーアントワネットの兄ヨーゼフ2世がフランスを訪問。ルイ16世の相談にのり指導をしている。
後にルイ16世はプチ手術するに至り、1778年12月、やっと長女マリーテレーズをもうけているが、結婚から8年目の快挙である。ぽっ

ここで幾つかの疑問を持った。
ルイ16世にはそんな事を相談できる友も臣下もいなかったのだろうか?
女性に対する扱いや指導を誰も助言してくれなかったのだろうか?
女好きのルイ15世は孫にそう言う指導を一切しなかったのか?
なかなか孫ができない事を不思議に思わなかったのだろうか?

確かに、ルイ16世はルイ15世の孫なので相談するには年が離れていた事もある。また老いても若い愛人を造る女好きのルイ15世の事を、父と同様に嫌悪していたと考えられる。
※ ルイ16世も彼の亡き父も愛人を作る事はなかった。​​​もちろん反面教師がいたからだ。​
​​​​​​​​ ルイ15世とルイ16世の間には血縁以外、本当に何もつながりが無かったのかもしれない。

問題は、祖父よりも回りの臣下である。
将来の王になる王太子に誰も関心を持っていなかったのだろうか?
ルイ15世の時のフルーリー枢機卿のようなすぐれた爺やは彼の側にいなかったのだろうか?
爺やでなくても友でも良い。過去も未来も彼の回りに信頼に足りる人間が見えて来ない。
彼は子供の頃から1人孤高の少年であったのか?
そして王になっても孤高の王であったのではないか? と言う気がしてきた。
アメリカ独立戦争でもしかり、王の煮えきらない態度、誰か彼を真剣に思い、サポートする人材は本当に1人もいなかったのだろうか?

マリーアントワネットがかなり人事や政治に口を挟んできている。ルイ16世は王妃の言葉に弱い?
政治も1人ぼっち? 普通なら王妃の介入は非難されるべき事。
そう言えば、 ルイ15世が亡くなった後、臣下は一新されている 。よりによって、 ルイ15世に追放されたモールパ伯爵を呼び戻し宰相にした事で 戻った彼は、仕返し人事を行ったのである。
つまり 啓蒙派からまた保守派へと逆戻りした のである。
※ モールパ伯爵は、ルイ15世が1739年に取りやめた「王が病人に手を触れて病を治す奇蹟の儀式」も復活させているらしい。もはや啓蒙の時代に即さない古い頭。これもまたブルボン家を崩壊に導いた要因の一つかもしれない。

星要するに ルイ16世は良い臣下にめぐまれなかった 。そればかりか 何でも相談できる友もいなかった 。​​
​これは単純に彼にそれを見極める能力が無かった・・とは言えない気がする。 良い人材が本当に誰もいなかった。と言う「不幸」だったのかもしれない。

もっともルイ14世、ルイ15世と見てきて、確かにフランス王は友人が作れる環境で育てられていない。当然、学友はいなかったであろう。心を打ち解けて話せる人は彼ら(王)にはいなかったのかもしれない。
※ しかし、ルイ14世とルイ15世には良い宰相がいた。
ルイ15世がポンパドゥール夫人と性を越えて友人? ブレーン? 側近としたのはやはり希有(けう)な事だったのだろう。
​​​​​​​​​
​​前述の 「この王には大きな問題点があった。」 とはまさにそこ。 彼の為に真剣に寄り添ってくれる人間が皆無だった事 である。
妻である 妃(マリーアントワネット)は幼くして嫁ぎすぎた。成長してもルイ16世が頼りにできる相手にはなれなかった 。それどころか、先にも触れたが、夫が、フランス国が、アメリカで必死で戦っているさなかも自分の遊びに更けているだけ。自分の都合で人事に介入する事はあっても国家の為に少しでも何かできたか? と言えば誤解を生んで夫(王)の足を引っ張っただけだったかもしれない。

28項目の起訴状をあげられ、1793年1月20日死刑が確定。ルイ16世はそれを平静に受け止めたと言う。

下は、昔、本から持って来た写真なのですが、出典がわからなくなりましたしょんぼり
タンブル塔での家族最後の別れのシーンです。
私が見つけた写真の中で、最も家族らしい写真がこれ。ルイ16世の胸にうなだれるマリーアントワネット。

トリアノン(Trianon)
ベルサイユ全景
メイン宮殿が下方。
トリアノン(Trianons)とはベルサイユの北西部に位置する敷地内に造られた休息用の小宮殿です。
​ルイ14世によって最初に造られたトリアノン宮殿とルイ15世によって造られたトリアノン宮殿。最初のが大トリアノン宮殿(グランド・トリアノン)、後のが少し小さく小トリアノン宮殿(プチ・トリアノン)と呼ばれます。​
​プチトリアノン庭園の奥にマリーアントワネットが建設させたのが造り物の農村。通称マリーアントワネットの村里。王妃の村里ル・アモー・ドゥ・ラ・レーヌ(Le hameau de la Reine)です。

​大トリアノン宮殿 (Le Grand Trianon)​ 1687~88年  ウィキメディアから借りた写真です。建設ジュール・アルドゥアン・マンサール(Jules Hardouin-Mansart)(1646年~1708年)
​​ 最初の宮殿はルイ14世がトリアノン宮殿の建設を指示。愛妾モンテスパン侯爵夫人に建てた離宮でした。
※ルイ14世(Louis XIV)(1638年~1715年) (在位:1643年5月~1715年9月)
​最初の建物は建築家ルイ・ル・ヴォー(Louis Le Vau)(1612年~1670年)が設計。「磁器のトリアノン」(1670年)と呼ばれた。
夏の世、ルイ14世は舞踏会や晩餐会を開催。

損傷がひどくこれは後に建て替えられ、ジュール・アルドゥアン・マンサールJules Hardouin-Mansart)(1646年~1708年)の設計で1687年「大理石のトリアノン」が完成。現在の外観。
高級な大理石をふんだんに使ったギリシャ・ローマが意識された宮殿。
帝政の時代始め、ナポレオンが2番目の妻マリア・ルイーザと住居にしていた時もあり内装はその時に修復改装されている。

広いので全景写真は難しいのです。


小トリアノン宮殿(le Petit Trianon) (1762~68年)​​

写真左が正面ファサード(自分の写真です)
写真右が庭側(ウィキメディアから)
建設アンジュ=ジャック・ガブリエル(Ange-Jacques Gabriel)(1698年~1782年)
ルイ15世が小トリアノン宮殿の建設を指示。
​ポンパドゥール夫人のために建築されたが間に合わず、次の公妾デュ・バリー夫人が最初に使用し、ルイ15世が亡くなる(1774年)と、マリ・アントアネットの所有となった。​
宮殿エントランスなど一部は以前「新 マリー・アントワネットのトイレとベルサイユ宮殿の事情」で紹介。
リンク ​ 新 マリーアントワネットのトイレとベルサイユ宮殿の事情

次回「マリー・アントワネットの居城 3」で多少扱う予定。

トリアノンの庭園造り ユベール・ロベールの世界感
1774 ​年、ルイ16世は即位すると プチトリアノン(le Petit Trianon)宮とその周辺を 自分の好みに合うように改装することを許可して、王妃マリー・アントワネットに与えた​ のである。
※ マリー・アントワネット(Marie-Antoinette)( 1755年~1793年)
以降、マリー・アントワネットは本宮殿での窮屈な儀礼を嫌いプチトリアノンを自分の邸宅として使用する。 しかも限られたお気に入りの側近のみが入る事を許され、ルイ16世でさえ許可無く入れなかったらしい。​

※ 貴族を公平に扱わなかった事もマリー・アントワネットの失敗であった。
​​​​​​​​​​​
プチトリアノン(le Petit Trianon)に住み着くと、マリー・アントワネットは今度は庭園の造作に乗り出した。
それ以前の庭園はトリアノン宮殿の植物園で働いていた植物学者ルイ・クロード・リシャール(Louis Claude Marie Richard)(1754年~1821年)の一家が30年に渡り育てていた観賞と研究用の植物群が植えられていた。パイナップル、アロエ、コーヒー、ゼラニウムなど。
マリー・アントワネットが自分の庭をそんなもので飾りたくなくて、貴重な植物なのに1775年以降全て除去される運命となった。

散々な目にあったリシャール一家であるが、1781年7月、ルイ・クロード・リシャールはフランス領ギアナに派遣され調査研究し革命の年、1789年に4000の植物標本をもって帰国。植物学者となる。ルイ16世はそちらの研究にも力を入れ彼らの研究を応援していた。

新たな庭園の造作はイギリス式の庭園で画家ユベール・ロベール(Hubert Robert)((1733年~1808年)の世界感を 現した景観になるよう建築家リチャード・ミケ(Richard Mique)が手がける。
平坦なフランス式庭園ではなく庭に起伏を持たせ自然を意識。川があったり、小山があったり雑木林や花の咲き乱れる野原,鳥の戯れる池などを庭園に配置。
さらに、そんなランドスケープ(landscape)の中に古代遺跡のような建物が配置され演出された。


上は現在である。マリーアントワネットの時代にはもう少しナチュラル感があってイングリッシュガーデンのように四季様々な花が咲いていたのではないか? と想像する。
現在の整備では、どこかのゴルフ場にありそうな景色ですね。下も18番ホール手前・・って感じしょんぼり




星ところで、 ​ユベール・ロベールの絵画は古代遺跡や架空の遺跡などを描き入れた風景画​ 。それは 時に廃墟の古代神殿跡の姿であったり、廃墟でない物まで敢えて廃墟風に描いて味を出すと言う特異な手法の作風 。故に ノスタルジーを感じる作風 なのである。下は参考に彼の絵画から。

2点、いずれもウィキメディアから借りています。
凱旋門とオレンジ劇場(1787年)  ルーブル美術館所蔵

ちょっとペトラの遺跡に見え無くもない。完全に創造の産物でしょう。

ルーヴル美術館の廃墟としての想像上の眺め、1796年のサロン

敢えてルーブルを廃墟にしてみた・・と言う想像のノスタルジー。発想は斬新。現在でも通用する奇抜な試みです。

星トリアノンの庭では、それを 実際の景観で造ろうと言うちょっと贅沢な庭造りであり、そのノスタルジーな景観の中に自分が居ると言う贅沢な構想?  である。
その為に トリアノン内には古代の神殿のような建物が建造されている。また王妃の村里ル・アモー・ドゥ・ラ・レーヌ(Le hameau de la Reine)も計算され配置された景観絵画 になる。
そう言う意味で、 ランドスケープ・デザイン (Landscape design) が重視された庭園造りがされていた。
※ 過去形にしました。今は違うので。

ル・アモー・ドゥ・ラ・レーヌから絵になりそうなショットのみ選んでみました。

マールボロタワー(Marlborough Tower)
湖を見下ろす為の塔らしい。









王妃の家

水車小屋


下はマリーアントワネットの庭の為に造られたトリアノン庭園の景観のオブジェ的建物であるが、建物はともかく、周囲の景観は当時と全く違うだろうと思う。全く感動が無いから・・。
要するに今の庭園の整備が今一なのです。

ベルヴェデール (Belvédère)    ​ 1777年完成




愛の神殿(Temple Amour)  17 78年完成

製作 リチャード・ミケ(Richard Mique)(1728年~1794年)
ちょっと解りにくいが、川に挟まれた小島の上に建てられている。しかもここは王妃の寝室から見えるのだそうです。
現在のでは風情が無くて残念です。



1746年に造られた天使のオブジエの本物はルーブルに保管されている。

通称 マリーアントワネットの村里
王妃の村里ル・アモー・ドゥ・ラ・レーヌ(Le hameau de la Reine)
庭園の奥に造られたこの一体は、 ​​農村を模した王妃の為の田舎風離宮です。​

建築家
リチャード・ミケ(Richard Mique) が画家のユベール・ロベールのデッサンに着想を受けた村里は、大きな池の湖畔に、農園と花園で囲まれた12軒のわらぶき屋根と、農場、酪農小屋、釣り場の塔、水車小屋 鳩舎等があったが、 あくまで農村を模した物で、実際の農家を建てたわけではなく、外観は素朴なコテージであるが造りはしっかり。

内装はそこそこ豪華にできていて、実際ビリヤード場も付いている。(そんな農家ない)
※ 昔、全く知らないでル・アモーを訪問した。農家風のくせにビリヤード (・_・?) ハテ? ここが一体何なのか全く解らなかった。
最も、現在村里のほとんどはナポレオン帝政下にマリー・ルイーズの為に修復されたり、一新されたもののようです。
※ 大トリアノンにナポレオンが住居していた時がある。

1783年、リチャード・ミケ(Richard Mique)

王妃の家連結してビリヤードの家

左上の螺旋階段上がビリヤード場?
ジョルジュ・ジャコブが豪華な家具をそろえ、家具職人ジャン・アンリ・ケーズナーによって、ビリヤード場が木造廻廊で接続された。
およそ農場には似つかわしくないビリヤード台ですが、ここはサロンの一つ。王妃は農婦を演じていたのではなく、農場での仕事そのものを遊戯として捉えていた。また、子供たちにとっては教育的役割を果たしていた。
何しろ家畜である羊はリボンでつながれていたらしいから・・。びっくり

王妃の家は食堂、番人の部屋、客間、娯楽部屋に図書室まであったそうです。

階段は王妃のイニシャル入りの特注の鉢(サン・クレマンのファイアンス陶器)で飾られていたらしい。
穀物小屋は舞踏会場にされ、(今はない?)釣殿があり、絞られたミルクを飲む時、王妃は磁器の食器を使っていたという。

侍女カンパン夫人によれば、
「村の全ての家を訪れる事、雌牛が乳を搾られているのを見る事、湖で釣りを楽しむ事・・・王妃はそんな事に夢中になっていおいでだった。」

当初、マリー・アントワネットが子供達と田舎での楽しみを味わう為に発案されたものであったと言うが、多くは田舎風サロンとして親しい友人らと利用されていたのかもしれない。

実際に農業で使用されている建物も存在する。
納屋、粉碾きの小屋(Mill)、家畜小屋、漁師の小屋、警備の家。

ろばが粉をひくための小麦を水車小屋に運んだり、女たちが洗濯物を池のまわりで叩いたりするのを王妃は家の廻廊から眺めていたと言う。

マールボロタワー(Marlborough Tower)

粉碾きの水車小屋(Mill)

革命が勃発した時も彼女はここにいた。

トリアノン通りの並木道


​旧ベルサイユ宮殿の11~15まで削除しました。昔のは毎日更新で中身も無かったので・・。
削除した当初のルノートルの庭園部分はいずれどここかで書き加えるかもしれませんが、庭園の写真があまりないので考中です。アナログカメラ時代に車で庭園を一周しているのですが、写真が無いのです。
※ ロココ様式も中途と言えば中途でしたね。

とりあえず年内に「マリー・アントワネットの居城 3」を終えてベルサイユ関連を終了させたいと思いますが、年内に終えられるか? 先に書きましたよう、母が入院して忙しいと言うよりはストレスで睡魔が・・。
また、読んでくれている方もそうでしょうが、少しベルサイユ飽きてきましたぽっ
「アジアと欧州を結ぶ交易路」も、これから大航海の時代に入るわけで、まだ続きます。今の所何も構想ができていませんが・・。
いつも行き当たりばったりで書いている自分が凄い・・。(* v v)。
懲りずに読んでくださる方ありがとうございます。それが原動力です。 ( ^ - ^ )ゝ


Back number
新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里
リンク ​ 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)
ベルサイユ宮殿番外 サロン文化の功罪(サロンと啓蒙思想)
リンク ​ 新新 マリーアントワネットのトイレとベルサイユ宮殿の事情
リンク ​ 新 ベルサイユ宮殿 8 (王のアパルトマン)
新 ベルサイユ宮殿 7 (王妃のアパルトマン)
リンク ​ 新 ベルサイユ宮殿 6 (鏡のギャラリー)
リンク ​ 新 ベルサイユ宮殿 5 (戦争の間と平和の間)
リンク ​ 新 ベルサイユ宮殿 4 (ルイ14世と王室礼拝堂)
リンク ​ 新 ベルサイユ宮殿 3 (バロック芸術とは?)
リンク ​ 新 ベルサイユ宮殿 2 (入城)
リンク ​ 新 ベルサイユ宮殿 1

関連 Back number
リンク ​ マリーアントワネットの居城 1 (ウイーン王宮)
リンク ​ マリー・アントワネットの居城 2 シェーンブルン宮殿と旅の宿
リンク ​ マリー・アントワネットの居城 3 ヴェルサイユ宮殿の王太子妃
リンク ​​ マリー・アントワネットの居城 4 ベルサイユに舞った悲劇の王妃





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2023年06月24日 00時11分29秒
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: