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写真の入れ替えや書き直した所に「新」を入れさせてもらいました。ラストにback numberを入れました。
さて、旧「マリー・アントワネットの寝室」を改め「王妃のアパルトマン」として他の部屋もまとめて紹介します。
ちょうど鏡のギャラリーの左右に左右対象に棟 があり
、北側(右)が王の為のアパルトマン(居室部)。南側(左)が王妃の為のアパルトマン(居室部) になっている。
南側(左)の最初の部屋が「平和の間」。次の部屋はいきなり歴代王妃、ルイ14世妃、ルイ15世妃、ルイ16世妃と王妃の為の寝室である。
それ故、「平和の間」が王妃の間の一部として娯楽室に使われていたらしい。
最も現在の部屋は復元されたもの。革命後には何一つ残っていなかったからだ。
新 ベルサイユ宮殿 7 (王妃のアパルトマン)
王妃の寝室
貴人の間
控えの間(
大会食の間)

右のピンクの矢印が王妃のアパルトマンの位置

年代の参考にのせました。
ルイ14世(Louis XIV)(1638年~1715年) (在位:1643年5月~1715年9月)
ルイ15世(Louis XV)(1710年~1774年) (在位:1715年9月~1774年5月)
ルイ16世(Louis XVI)(1754年~1793年) (在位:1774年5月~1792年8月)
王妃の寝室
王妃の寝室は1671年~1680年に完 成した時はルイ14世の妃、マリー・テレーズ・ドートリッシュ(Marie Thérèse d'Autriche)(1638年~1683年)の為に作られた部屋
です。(調度品は全て銀製で揃えられていた)
最も宮殿は建築が続いていたので騒音がひどく王妃はすぐに他の部屋に引越したらしい。
1729年~1735年、 15世の妃マリー・レクザンスカ(Marie Leszczyńska)(1703年~1768年)の時に内装は一新
される。
天井はフランソワ・ブーシェ(François Boucher)(1703年~1770年)による「愛徳」、「豊穣」、「貞節」、「賢明」を円縁画が4作描かれ高貴な美徳が表現。
1734年に描かれた扉上部の絵は、ナトワールの「青春の女神と美徳の女神」とジャン・フランソワ・ド・トロワの「栄光の女神」も見所だそうです。(写真はありません。)
つまり内装はこの時、当時流行のロココ様式でまとめられた。
現在の部屋はルイ16世の時代に造られているらしい。
人が多いので全景の写真は撮れません。

天井の四隅にあるフランスとナバールの紋章に、オーストリア王家の双頭の鷲を加えるように、彫刻家アントワーヌ・ルソーに命じたと伝えられている。
さらに、王立絨緞工場で夫ルイ16世とオーストリアの母(女帝マリア・テレジア)と兄ヨーゼフ2世(在位1780年~1790年)の肖像入りのゴブラン製のタペストリーを織らせて壁にかけたと言う。
※ 部屋にあった物は全て革命中に紛失。現在の復元でも双頭の鷲(そうとうのわし)はいない。
ベッドの天蓋です。

ルイ16世の時代、最初の10年はロココ様式であるが、マリーアントワネットがトリアノンに行く頃には新古典様式のブームが来ていた。
現在のこの寝室の装飾は、マリー・アントワネットが最後に使用していた「夏の内装」の再現
だそうです。
1787年にリヨンのデファルジュが納品した当時の寝台カヴァーが発見され、リヨンの絹織物製造組合が壁布を再現し、寄贈
してくれる事になり、革命後何一つ残っていなかったこの部屋の復刻再生ができたそうです。
※ リヨンの組合が寄贈したのは「孔雀の尾を絡み合わせた花束模様錦織の入った白地のトゥール絹布」で飾られた部屋とベットと天蓋とカーテンです。

本当にゴージャス極まりない感じですね。ベットのサイドには同じ布が貼られた肘掛け椅子と折りたたみ椅子が置かれています。さらにシュベルト・フェッガー制作のセーブル焼きの磁器とミニアチュールで飾られた装身具用のタンスが戻されています。
暖炉は1782年に金箔青銅の飾り付きのグリオット大理石に替えられています。

彼女は1770年から1789年の10月5~6日の夜中に革命の暴徒から逃げ出すまでこの部屋の主でした。
貴人の間
この部屋は王妃の接見の間で、新たに宮殿に来た貴婦人らのお目通りの場所だそうです
王妃マリー・テレーズ・ドートリッシュ(Marie Thérèse d'Autriche)の為に1671年ミッシェル・コルネイユが描いた天井だけが今も残っている。
1785年まで壁は大理石と化粧漆喰(しっくい)で被われていた。高価な大理石を建築に利用したのはベルサイユが早かったが、部屋の主が変わった時、剥がして持って行く者もいたらしい。
1785年、模様細工の腰板、鏡、及び金糸縁飾り付きの萌黄(もえぎ)色の絹織壁布に替えられた。グーチェール作の青大理石に青銅細工の暖炉もその時置据えられた。
現在はマリー・アントワネットの時代に復元したらしい。
天井は別であるが、内装は新古典様式(neoclassicism)ですね。
ルイ15世の肖像画はゴブラン織りらしい。
下は同じモチーフの絵画のようですが・・。
ウィキメディアから借りてきました。紅いカーテンは色あせたのでしょうか?
控えの間(大会食の間)
天井は戦いを主題とするテーマ。しかも四隅には武器飾り。もとは衛士の間であったかららしい。



衛士の間
(スイスガード)

天井八角形の絵は、神々の長が鷲のひく銀の車で形象化させた正義を従えて空を渡る所が描かれている。
絵はノエル。クラベル。彫刻はル・グロとマウスの作品。

最初、この場所は礼拝堂であったらしい。
1676年に取り壊され壁は大理石で被われた。
衛士の間になると、ここでは日夜衛兵が警護の為に詰めていたと言う。
1789年10月、宮殿になだれ込んできた暴徒からマリーアントワネットは逃げる事ができた。
最後まで忠義を尽くしてくれた衛兵はスイス人の傭兵(ようへい)
である。
以前スイス人の傭兵について書いているが、バチカンのスイスガード(Pontifical Swiss Guard)が今に残る昔からの衛兵です。
最後までフランス王家に尽くして亡くなった兵士等の墓碑がスイスの ルツェルンの街
にあります。
バチカンが今もスイス人の傭兵を雇っているのは、かつてバチカンが襲われた時に、最後まで守ってくれたのがスイス人だけ。イタリア人は真っ先に逃げたそうで、以降バチカンではスイス人のカトリックの信者のみしか雇わない事になった。その信頼があって、あちこちの王室で雇われていたらしい。時に同国人で戦う事も・・。
リンク ルツェルンのライオン慰霊碑とスイス人の国防

絵は「ユピテルへの生け贄」
「コリュバス達の踊り」
ルイ14世(1638年~1715年)がこの宮殿の大改造をした時、建築はバロックが流行。
ベルサイユ宮殿は古典主義的なフランス・バロックで他とは少し違った?
絢爛なハロック建築は公式の場では威厳があるのでふさわしいが、生活の場では落ち着かない。バロックは教会などの内装にも使用されたが、主に建築で用いられたと言って良い
。
また、建築は一度造ったら長らく使用するので内装との一致はなかなか無いのかも。
住居部の様式には落ち着きと安らぎが必要。1700年代に入ると趣が変化し、「軽快で繊細で華やか」「流麗にしてカワイイ」様式美が現れる。それはまだ前章で、それが後にロココ(ロカイユ)様式として確立するのです。
パリ国立図書館では、このロココ(Rococo)様式は装飾様式として分類している
。
また、一 般には18世紀にフランスで始まった様式とされるが、フランス・アカデミーは
「ロココ(Rococo)」と言うジャンルはルイ15世の公妾(こうしょう)であったポンパドゥール夫人(Madame de Pompadour) (1721年~1764年)を中心とした前後の60年間の期間に限られていると明確に示している
そうだ。
ロココ(Rococo)様式とポンパドゥール夫人(Madame de Pompadour) は別の回で改めてやります。
今回は前に紹介していなかった部屋も一気に入れました。
リンク ベルサイユ宮殿 8 (王のアパルトマン)
削除したり新バージョンで書き換えしたので年月がとんでいます。
リンク 新 ベルサイユ宮殿 1
リンク 新 ベルサイユ宮殿 2 (入城)
リンク 新 ベルサイユ宮殿 3 (バロック芸術とは?)
リンク 新 ベルサイユ宮殿 4 (ルイ14世と王室礼拝堂)
リンク 新 ベルサイユ宮殿 5 (戦争の間と平和の間)
リンク 新 ベルサイユ宮殿 6 (鏡のギャラリー)
新 ベルサイユ宮殿 7 (王妃のアパルトマン)
リンク 新 ベルサイユ宮殿 8 (王のアパルトマン)
リンク 新新 マリーアントワネットのトイレとベルサイユ宮殿の事情
リンク ベルサイユ宮殿番外 サロン文化の功罪(サロンと啓蒙思想)
リンク 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)
lリンク 新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里
マリーアントワネットの嫁入りから革命で亡くなるまでがまとまっています。
リンク マリーアントワネットの居城 1 (ウイーン王宮)
リンク マリー・アントワネットの居城 2 シェーンブルン宮殿と旅の宿
リンク マリー・アントワネットの居城 3 ヴェルサイユ宮殿の王太子妃
リンク マリー・アントワネットの居城 4 ベルサイユに舞った悲劇の王妃
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