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いずれも 世間では王が負けん気で宮殿建設をしたと考えられているようです。
が、本当の所は?
はっきりとはされていない。
ただ、 ルイ14世がベルサイユに固執し続けて当時ルイ14世の財務総監であったジャン・バティスト・コルベール(Jean-Baptiste Colbert,)(1619年~1683年)を非常に困らせていた事は解っている。
新 ベルサイユ宮殿 4 (ルイ14世と王室礼拝堂)
ルイ14世とベルサイユ宮殿改築
宮殿建設と祝宴
ヘラクレスの間
ルイ14世とベルサイユ宮殿改築
コルベールはパリの王宮であるルーブルの改築を勧めていた。当時のベルサイユは手狭なルイ13世の城館が残っていて、外国からの来賓を迎える迎賓館として利用されているにすぎなかった所。
フランス王宮では、宮殿内に臣下のアバルトマンも用意しなければらない。宮廷儀礼を行う為の部屋など広いスペースも必要であった
。コルベールのルーブル案ではそのへんはぬかりなく設計も進んでいたが、王はさらに娯楽の施設が欲しいと望んだ。もはや ルーブルでは王が望む物を詰め込むには広さが足り無かったのだ。
現実主義のコルベールは頑張ったが、理想ばかり追う王に負けた。フランス王は絶対的権力者である。
ヴィーナスの間の若きルイ14世像 ジャン・ヴァラン作
かくしてベルサイユの大がかりな改築が始まった。
ルイ13世の城館を中央に残し、それに新たに北棟と南棟の館を繋げ、臣下のアパルトマンを造る。
建築家ルイ・ル・ヴォー
(Louis Le Vau)(1612年~1670年)は13世時代の窓枠などスタイルを踏襲して 新旧がわからなくなるようデザインを統一してみせた
のである。
当初、庭園に面したファサードはテラスがもうけられ、イタリア風であったそうだ。
※ 後にファサードのテラスは取り壊しされ、そこにかの有名な鏡の広廊(鏡の間)が1684年、増築誕生する。
ところで、コルベールは相変わらずパリのルーブル宮の改築を勧めていた。何しろ政務はパリでとっていたのだから・・。しかし、結局はルーブルの方が縮小され 1682年5月、王宮はベルサイユに引越し
したのである。
※ ルイ14世の治世だけで4000人が住居していたらしい。
しかし、引越を終えても ベルサイユはルイ14世の治世中ずっと建築中であった
そうだ。
ベルサイユに引越したものの騒音が酷くて王妃も居室を変えている。ルイ14世自身が寝室を13回も移転している。
また、 王の愛人が変われば宮殿内は権力の移動による大移動が行われた
そうだ。
部屋割は基本王の許可であるが、実質の部屋割は王の侍従長が行った。それこそ駆け引きの 政治ゲーム的様相で、皆が良い場所をとりあった
ようだ。
そんな事情で、ベルサイユは改築につぐ改築が絶えず行われ、 当初と変わらないのは宮廷礼拝堂と王の寝室くらい
らしい。
1675年当時のベルサイユ宮殿庭園側のファサードと噴水
当初の王が希望したイタリア風テラスが描かれている。鏡のギャラリーが造られる前。
今、ベルサイユの学芸員たちは過去の図面をデジタルで整理して過去の部屋のデジタル復元などもしているそうだ。今のベルサイユはルイ14世時代はもとより、ルイ15世時代も、ルイ16世時代も、また革命で貴族らの部屋も調度もなくなり全く変わり果ててしまった。特にルイ14世時代の度肝を抜く贅沢さは失われてしまったそうです。
そもそもルイ14世のお金の使い方は非常識。国庫も苦しくなったルイ15世以下、身の丈にあった宮廷生活となり、かつての贅沢は失われているらしい。
それでもルイ14世の造った他に類の無い巨大な城館は今多くの観光客を誘致している。
大陽王の名前の由来
1653年、14歳の少年王であるルイ14世が始めて夜のパレで自身が「登る大陽」の役を演じ踊った
。
この時一編の詩が曙(あけぼの)の女神の言葉として王に捧げられた。
星々は姿を消しましょう。この偉大な国王が進み出ずれば、夜の高貴なる光は、彼の不在のうちに勝利しましたが、もはやその存在の前にあえて輝こうとはいたしません。これらの移り気な光は消えてしまうことでしょう。
私の後に続くのは太陽神。すなわち若きルイの事です。
下は王の内庭の前に敷かれた金の柵の一部
こうした大陽とルイ14世をモチーフにしたデザインはあちこちにある。
宮殿建設と祝宴
1661年、首相マザラン枢機卿の死があり、ルイ14世の治世が始まる。
先にのフーケがヴォー・ル・ヴィコント城で失脚しコルベールが後任の財務総監に就任。
ヴェルサイユ宮殿の壮大な宮殿建設のプロジェクトは先に紹介したように財務総監コルベールの反対があり、すんなり始まったものではない。
最初はオレンジ園や、動物園などの改築。あるいは新しい催し物の会に合わせて庭園内に彫像や噴水、洞窟などを造ったりして遊んでいたようだ。
壮大な宮殿の建設が実際どこから本気になったのかは改築の履歴を見ても良く解らない。
最後のルイ14世の建築物は王室の礼拝堂で、完成は1710年2月。しかし1715年9月ルイ14世は崩御。
そして 次代ルイ15世はなぜかルイ14世の死後ベルサイユを離れている。
※ 再びベルサイユに戻るのは1722年6月の事。
※ ルイ15世の摂政となったオルレアン公フィリップ2世(Philippe II)(1674年~1723年)がパレ・ロワイヤルでサロンを開きたかった? 田舎のベルサイユから友人を集めやすいパリに王宮を移動した可能性がかなりり高い。
前回ふれたが、ベルサイユ建設のプロジェクトは彼らが主導する。
建築家ルイ・ル・ヴォー(Louis Le Vau)(1612年~1670年)
画家兼装飾シャルル・ル・ブラン(Charles Le Brun)(1619年~1690年)
造園家アンドレ・ル・ノートル(André Le Nôtre)(1613年~1700年)
「ベルサイユ宮殿は、太陽王にふさわしい壮麗なものでなければならない。」
さらに、ルイ14世は、目に訴えるだけではこの敷地を飾るのは不十分であると10年間に3度の大祝宴を催して「音楽と芸術の素晴らしさ」を訴えている。
王の元に宮廷音楽に相応しい優雅さを獲得したバレ・ド・クールが盛んに上演。
フランス独特のバレ・ド・クール(宮廷バレ)は
、一つの詩による物語的な総合スペクタクル舞踏で、詩と音楽に舞踏とパントマイムの合わさった舞台劇らしい。 出演は宮廷人である王自らや、その周りの貴族らが時には本人自身の役で出演
。
ベルサイユ1で一度紹介。この絵はルーブル宮殿所蔵です。
上の太陽王ルイ14世の肖像画は、もともとスペインに贈る為に描かせたものらしいが、出来の良さに別のレプリカをスペインに贈ったと言われているルイ14世お気に入り肖像画らしい。この時、王は63歳の晩年期。画家はイアサント・リゴー(ル・ブランの弟子)。
王の前庭の向かって右、ガブルエル棟、隣が王室礼拝堂
王室礼拝堂

入口はガブリエル棟から
礼拝堂の立ち入りはできず、上階から眺めるだけ。
そもそもここが、王の礼拝席である。
2階柱はコリント式で、前に見えるのは祭壇上にしつらえられたクリコ作のパイプオルガン
王室礼拝堂内部の祭壇写真が無いので下の写真はベルサイユの冊子からです。
1699年に着工され、完成は1710年で二人の建築家が携わっています。2階建ての伝統的な宮殿付き礼拝堂ながら、古典主義的な解釈が取り入れられているそうです。
聖王ルイ9世に献堂されたこの礼拝堂は精霊騎士団の儀式の場
として用いられた。
また、王家の子供の誕生や王子達の結婚式もここで行われ 1770年マリー・アントワネットもここでルイ16世と挙式しています。
1683年7月30日にルイ14世の王妃マリー・テレーズ・ドートリッシュが急逝すると1685年から1686年、私的な挙式において王は再婚する。
相手はフランソワーズ・ドービニェ(マントノン侯爵夫人)である。
元々身分が不釣り合いな出身ゆえにほぽ秘密の結婚であったから、愛人と思われていた。
マントノン侯爵夫人は敬虔なるクリスチャンで、王に良い影響を与えたらしい。晩年の王の信心深さや礼拝堂の建設はそれをしめしている。
ヘラクレスの間
ヘラクレスの天井に神格化を描いた この部屋はルイ14世の治世の長く宮殿の礼拝堂として使用されてきた
部屋だそうだ。
天井画フランソワ・ルモアンヌ(François Lemoyne)(1688年~1737年)
ヘラクレス他、アポロンやジュピターなど142人の登場人物が描かれたスペクタクルな寓話作品。この絵に一目惚れしたルイ15世は彼を宮廷画家に任命。
しかし、当の本人はこの大仕事で疲弊し、任命が負担となり自殺してしまうのである。




パリサイ人シモンの家におけるキリストの食事
パオロ・ヴェロネーゼ( Paolo Veronese)(1528年 ~1588年)作
つづく
リンク ベルサイユ宮殿 5 (戦争の間と平和の間)
Back number
削除したり新バージョンで書き換えしたので年月がとんでいます。
リンク 新 ベルサイユ宮殿 1
リンク 新 ベルサイユ宮殿 2 (入城)
リンク 新 ベルサイユ宮殿 3 (バロック芸術とは?)
新 ベルサイユ宮殿 4 (ルイ14世と王室礼拝堂)
リンク 新 ベルサイユ宮殿 5 (戦争の間と平和の間)
リンク 新 ベルサイユ宮殿 6 (鏡のギャラリー)
リンク 新 ベルサイユ宮殿 7 (王妃のアパルトマン)
リンク 新 ベルサイユ宮殿 8 (王のアパルトマン)
リンク 新新 マリーアントワネットのトイレとベルサイユ宮殿の事情
リンク ベルサイユ宮殿番外 サロン文化の功罪(サロンと啓蒙思想)
リンク 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)
lリンク 新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里
マリーアントワネットの嫁入りから革命で亡くなるまでがまとまっています。
リンク マリーアントワネットの居城 1 (ウイーン王宮)
リンク マリー・アントワネットの居城 2 シェーンブルン宮殿と旅の宿
リンク マリー・アントワネットの居城 3 ヴェルサイユ宮殿の王太子妃
リンク マリー・アントワネットの居城 4 ベルサイユに舞った悲劇の王妃
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