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写真の入れ替えや書き直した所に「新」を入れさせてもらいました。ラストにback numberを入れました
今回はバロックを追求しなおしました。そして
、これがバロック(baroque)であると言う写真をたくさん入れました。
新 ベルサイユ宮殿 3 (バロック芸術とは?)
バロックの語源
バロック(baroque)とは?
フランス・バロック様式の誕生
ヴォー・ル・ヴィコント城の因縁
バロックの語源
バロック(baroque)という語は ポルトガル語の「いびつな真珠(barocco)」が由来とされ18世紀に登場したワード
らしい。
一般に 17世紀から18世紀に流行った様式についてのワードであり、建築、美術、音楽など芸術全般で使用される。
が、当初のポルトガル語の「barocco」はまさしく「いびつな真珠」その物をさした言葉だったはずだ。
16世紀の大航海時代に、ポルトガルはオリエントから真珠を欧州に持ち込んだ。真円のパールだけでなく、変形した真珠が多かったのかもしれない
。
その後スペインが新大陸で真珠貝の産地を見つけ運ぶと欧州に真珠の一大ブームが至来したと言われている。
















フランス・バロック様式の誕生
1650年代、欧州では建築、絵画、彫刻、演劇、音楽と、文化の潮流がいわゆるバロックへと移行?
※ もともと
バロック(baroque)は後世付けられたネーミング。
要するに変革の過渡期(かとき)。一般には、まだ石造りの恒久建築の世界では、まだルネッサンス様式が主流。
バロック様式発祥? イタリアでは(1590年頃)導入していた? すでにローマ・バロック建築を代表する二人の芸術家(ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ、フランチェスコ・ボッロミーニ)がいた。
フランスでもイタリア出身の宰相マザランにより、1640年代からイタリア・バロックの導入が計られたと言うが当時の建築家フランソワ・マンサールは、古典的なバロック建築を好んだ為にパロックと言うよりはルネッサンス的だったようです。
17世紀から18世紀に流行った様式、バロック様式は、ルネサンス様式からマニエリスムを経て発展した様式
とされているが・・。
フランスではフランソワ1世(François I)(1494年~1547年)が16世紀にはルネサンス様式からマニエリスム取り入れフォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)の改築をしていた。
フランソワ1世の回廊(Galerie de François)はまさにバロックの前章と言える作品
である。
フフォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)フランソワ1世の回廊
フレスコ(fresco)画とスタッコ(stucco)による壁絵と天井画
下は回廊の天井ではありません。
イタリアより招いたマニエリスムの芸術家や職人により完成されたフォンテーヌブローの宮殿装飾(フランス・ルネッサンス?)が第一期フォンテーヌブロー派と 呼ばれているが、これはルネッサンスよりもバロックに近い。イタリアよりも早いのではないか?
1664年ルーブル宮殿の改築工事の為に、最も偉大な芸術家としてベルニーニをイタリアから呼び、ルーヴル宮殿の東ファサードの設計を依頼しますが、ルイ14世がベルサイユ宮殿に関心を向けたため、ルーヴル宮殿の計画は縮小され最終的にフランス人建築家のルイ・ル・ヴォー、クロード・ペローらによって代案が考えられ、ベルニーニ案からのモティーフを借りつつ彼のデザインとは全く印象が異なる東面ファサードが建設。(1667年~74年)
それは、フランス古典主義建築の最も完成された姿とされ、ルイ14世様式と評されたようです。
下は、現在美術館となっているルーブル宮殿シュリー翼
外観は増改築やデザイン変更があるのでわかりにくい。新古典様式とも言えるが、
下はバロックのファサード 
ルネッサンスの意匠が感じられるデザインです。
ルーブルはかなりチャンポンなのである。だからガラスのピラミッドも造れたのかも。
中の廊下にはバロックの豪奢な天井画や装飾もある。元は宮殿であったのだから
ルイ14世が1681年に王宮をヴェルサイユに遷すまではルーブルが王宮であった。
ローマ・バロック建築の影響をもっとも受けたのが建築家ルイ・ル・ヴォー
(Louis Le Vau)
で、ニコラ・フーケの居城 ヴォー・ル・ヴィコント城は限りなくローマ・バロックの様式を盛り込まれてている
そうだ。
庭園を中央に置き、入り口は楕円の吹き抜けの広間を持ち、入り口は三角破風(ペディメント)を戴いた4本のドリス式円柱で飾るなど、ローマのベルベリーニ宮に着想を得たローマ・バロック特有の意匠を好んで取り入れたようです。
下は参考の為にウィキメディアより借りてきました。
ヴォー・ル・ヴィコント城(Château de Vaux-le-Vicomte)の北のファサード
建物自体にそんなにバロック感はないが、三角破風がローマなのだろう。
庭園は完全にバロック。庭は造園家アンドレ・ル・ノートル(André Le Nôtre)の作品
ヴォー・ル・ヴィコント城の因縁
ルイ14世の宰相マザランの側近で
法律家にして財務官でもあり 大蔵卿にまで登りつめたニコラ・フーケ(Nicolas Fouquet)(1615年~1680年)。彼が若き芸術家を結集させてヴォー・ル・ヴィコント城(Château de Vaux-le-Vicomte)を建設。
建築家
ルイ・ル・ヴォー(Louis Le Vau)(1612年~1670年)
画家シャルル・ル・ブラン(Charles Le Brun)(1619年~1690年)
造園家アンドレ・ル・ノートル(André Le Nôtre)(1613年~1700年)
買い占めた土地に自分の身分にあった広大なバロックの城館であった。
そこまでは良かったが王を招いて自慢。
王(ルイ14世)さえ持っていない城館のあまりの豪華さに王は嫉妬と怒りでニコラ・フーケを失脚させ(国費の私的流用の罪)財産没収と投獄監禁の刑にしたと言う。
この3人の芸術家が後のベルサイユ建設のプロジェクト・チームのメイン・メンバーになる
のです。
ローマに留学していた画家ルイ・ル・ブランは内装を担当。彼もまたローマ・バロック様式を取り入れ、天井装飾は、スタッコ装飾またはトロンプ・ルイユ(だまし絵)の技法による額縁に縁取られた天井画が描いているそうだ。
トロンプ・ルイユを駆使した立体彫刻に見えるだまし絵、時には空が描かれ天を舞うミューズや天使がいたり、神話の世界観が展開されていたりと官能的な美しい空間を演出。
実際に見ていないが、ルイ・ル・ブランの仕事はフォンテーヌブロー宮殿のスタッコ(stucco)とフレスコを使用したフォンテーヌブロー派に似ている気がする。しかし第1期フォンテーヌブロー派は100年も早くバロックに近づいている。
建物には技術的な事が関係してくるが、内装などデザインは、そこそこ流行に左右されたのではないかと思う。 建物と内装の様式は必ずしも一致していない事は解った。
また 派手になるバロックも、経済事情や好みで相当に違いがあった
と思う。
ベルサイユに見るバロックは、まさにフランスの国力と王の力を対外に示すゴージャスさが必要であったの確か。外装にまで金をふんだんに使用したベルサイユは最初に言った通り本当にバロック様式は 「ゴージャスで派手な成金趣味」 そのものでしたね。
今回は全面改装になってしまいました。
「ベルサイユ宮殿 4」に
つづく
リンク ベルサイユ宮殿 4 (ルイ14世と王室礼拝堂)
Back number
削除したり新バージョンで書き換えしたので年月がとんでいます。
リンク 新 ベルサイユ宮殿 1
リンク 新 ベルサイユ宮殿 2 (入城)
ベルサイユ宮殿 3 (バロック芸術とは?)
リンク 新 ベルサイユ宮殿 4 (ルイ14世と王室礼拝堂)
リンク 新 ベルサイユ宮殿 5 (戦争の間と平和の間)
リンク 新 ベルサイユ宮殿 6 (鏡のギャラリー)
リンク 新 ベルサイユ宮殿 7 (王妃のアパルトマン)
リンク 新 ベルサイユ宮殿 8 (王のアパルトマン)
リンク 新新 マリーアントワネットのトイレとベルサイユ宮殿の事情
リンク ベルサイユ宮殿番外 サロン文化の功罪(サロンと啓蒙思想)
リンク 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)
lリンク 新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里
マリーアントワネットの嫁入りから革命で亡くなるまでがまとまっています。
リンク マリーアントワネットの居城 1 (ウイーン王宮)
リンク マリー・アントワネットの居城 2 シェーンブルン宮殿と旅の宿
リンク マリー・アントワネットの居城 3 ヴェルサイユ宮殿の王太子妃
リンク マリー・アントワネットの居城 4 ベルサイユに舞った悲劇の王妃
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