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写真の入れ替えや書き直した所に「新」を入れさせてもらいました。ラストにback numberを入れました。ベルサイユ宮殿1~2はイントロです。
新 ベルサイユ宮殿 1
思い出
造営の簡略史
ルイ14世の狩猟館から宮殿に
造営工事
パリの南西22キロに位置するヴェルサイユには、かつてフランスに存在したブルボン王家の200年の歴史を刻んだ壮大な宮殿と庭園が今も壮大なスケールで残っています。
「ベルサイユのバラ」を知っている方からすると、ルイ16世の王妃マリー・アントワネットのいた宮殿と言うイメージがあるかもしれませんが、ベルサイユ宮殿はやはり、太陽王ルイ14世の宮殿と呼ぶ方がふさわしいでしょう。
下にベルサイユの地図をのせました。その規模に驚きます。

左下のブルーの部分が宮殿になります。大抵の場合、観光客はその宮殿とその近くの庭を少し散策するくらいです。
庭園が見られない日もあるようですし、ゆくゆくは、宮殿と庭園は別料金になるようです。宮殿観光は1時間くらいで、人が多すぎて押し出されるようです。
宮殿の庭をまっすく登ると十字架の形をした池(グランド・キャナル)があり、キャナルの右手のあたりに展開する部分がトリアノンになります。
トリアノン宮殿には大トリアノン(ルイ14世の愛妾モンテスパン侯爵夫人の為の宮殿)と小トリアノン宮殿(ルイ15世の愛妾ポンパドール侯爵夫人の為の宮殿)と、ル・アモー(マリーアントワネットが作らせた農家)があります。
※ 時間があるツアーのみ。一般観光ではほとんど行かない所です。
広大なこの庭園には、部分的に車が乗り入れでき(正面宮殿からは入れない。)、ピクニック気分でお弁当を持って休日を過ごす事もできます
十字の池に沿って走る道があり、かなり昔ですが、友人の車でキャナルを一周走った時、時速30キロくらいで30分以上かかったような気がします。
ベルサイユの思出・・芸術家のおにぎりは、真っ黒の球体型
グランド・キャナルの淵でランチした思出があります。
友人の彼女(パリ在住の日本人の画家)が作ってくれたお弁当のおにぎりが今も忘れられません。
まん丸で(直径10cm以上) なぜ丸? なぜこんなに大きいの? しかも(回りは海苔で一部の隙間もなくしっかりコーティング。完璧な黒い球体をしていた。
めちゃくちゃ食べにくくて、印象に残りすぎ。これはおにぎりではない。と突っ込みたかったが、できなかった。彼女が始めて造ったおにぎりだったらしい。ご飯2合炊いておにぎり2玉。
一個1合の球体でした。
「ベルサイユ」と聞くと、あの「衝撃のおにぎり」が蘇ってきます。完全に脳裏に焼き付いています。![]()
1668年頃の城館
革命後に破壊されている建物もあるようで、現在は全てが残っているわけではないようです。
ルイ14世の狩猟館から宮殿に
ここはもともと、 1624年にルイ13世(1601年~1643年、在位1610年~1643年)が狩猟用の休憩用に建てさせた質素な城(別荘)だった
そうです。(1631年~1634年少し豪華に改装)
1634年にルイ13世が亡くなると、僅か4歳の長男がルイ14世(1638年~1715年、在位1643年~1715年)として即位。
彼の少年時代は内乱が多く、パリを脱出し、地方を転々と回らなければならないような治世で、それ故に、彼は揺るぎない王権の確立をめざしたものと思われます。
ルイ14世(Louis XIV)(1638年~1715年)(在位1643年~1715年)
ルイ14世が22歳の年、宰相であったマザランが死去。忌まわしい思い出のパリを捨て、父王の小さな別荘であったベルサイユの地に遷り住み、新しい王宮を建てる決心をしたようです。
※ その当たりは「 ベルサイユ宮殿 4 (ルイ14世と王室礼拝堂)」で書いています。
リンク ベルサイユ宮殿 4 (ルイ14世と王室礼拝堂)
以降、ブルボン王家のベルサイユの時代が始るのです。
造営工事
ところで、 王宮が建てられる以前のベルサイユは、「やせて貧弱な土地であり、水もなく土もない砂地か沼」だった
ようです。ベルサイユ宮殿の建設工事が始まったのは1662年。
当代随一のメンバーによるプロジェクト・チーム
ができた。
宮殿は建築家 ル・ボー
(Louis Le Vau)(1612年~1670)
装飾は画家 ル・ブラン
(Charles le Brun)(1619年~1690年)
庭園は造園家 ル・ノートル
(André Le Nostre)(1613年~1700年)
とりわけ、 水のない庭園に水を引くための造園工事は難工事
だったようです。(庭園の時に紹介します。)
1682年公式にパリのルーブル宮からベルサイユに移りすんでも尚、工事は進められていた。
1685年時点で、36000人の職人と馬6000頭が従事
。
ルイ14世の治世が最大規模。お金を使いすぎて財政難に。
ルイ15世の時はかなり縮小されますが、ルイ16世の治世まで改築、増設がされている。
最盛期に宮殿には大貴族1000人とその従者4000人が住み、さらにベルサイユの街には数千人の貴族が移り住んだと言われている
。
メイン宮殿は建築は壮大なバロック建築で建立。
ルイ15世の時代になると様式は女性的なロココ様式が誕生。
さらにルイ16世の時代になると遺跡発掘のブームから古典様式が再考され、新古典様式が流行。
ちょっと近代的なモダンなものに・・。
マリーアントワネットが住んでいたプチトリアノンは新古典様式の建物です。
彼女は暇つぶしの趣味で田舎生活を思いつく。宮殿敷地内に彼女の村を建設。
それがマリーアントワネットの村里です。
それは当時流行のイギリス式の景観が絵になる庭園であった。
もっぱら近しい友人を招いては、遊ぶサロンとして利用していたと思われる。
リンク 新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里

しかし、時の事情はだんだん悪くなり革命の足音が・・。
つづく
リンク ベルサイユ宮殿 2 (入城)
以下、ほぼ全面書き直しです。書き直しに関しては頭に「新」をつけておきます。
革命にいたる理由は以下のあたりで書いています。
リンク ベルサイユ宮殿番外 サロン文化の功罪(サロンと啓蒙思想)
lリンク 新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里
リンク マリー・アントワネットの居城 4 ベルサイユに舞った悲劇の王妃
Back number
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