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関連 Back numberをラストに追加しました。
初期に、ヴェルサイユ宮殿( Palais de Versailles)シリーズを載せた事があります。マリーアントワネットの人気で未だアクセスが多いようですが、自分としては初期の物は画像も良く無いし、変質しているのでいつか修正したいと思っていました。
しかし、年々内容が濃くなりすぎて長編になっているので、余分な時間はとれません。そんなわけで今回は特別編でマリーアントワネットが生まれた宮殿、幼少期をすごした宮殿、嫁いだ宮殿と絞って紹介する事にしました。1~3回予定ですが、初回はマリア・テレジア中心になってしまいました。
チャチャッと紹介予定が体調不良で大幅に遅れたのです。
※ 「アジアと欧州を結ぶ交易路 」はまた一端休止です。 m(_ _)m
マリー・アントワネットの居城 1 (
ウイーン王宮
)
ハプスブルグ家ルーツ
マリーアントワネットが生まれた宮殿 ウイーン王宮(
Hofburg
)
母マリア・テレジアと
実家ハプスブルグ家の事情
ハプスブルグ家の宮廷画家が描いたマリア・テレジアの家族
ハプスブルグ家ルーツ
13世紀、ハプスプルグ家のルーツは現在のチューリッヒに近いライン川の上流の地から始まる。
選帝侯の1人、ルドルフ1世(Rudolf I)(1218年~1291年)(在位:1273年~1291年)が1273年神聖ローマ帝国(当時のドイツ域)の王に推挙された事からこの家系は発展する
。
7人の選帝侯の中でもルドルフ1世(Rudolf I)は、田舎の弱小貴族にすぎなかった。それがなぜ?
頭も切れて政治手腕もあったようだが、御しやすく無難な人物だと白羽の矢が立ったのかもしれない。
しかし、自分が本命と思っていた7人の選帝侯の1人ボヘミア王オタカル2世(Otakar II)は憤慨し皇帝令よる召還勧告を無視してルドルフ1世を敵視。
これに対して皇帝ルドルフ1世は帝国内での法的権利や財産剥奪にあたる実質の帝国追放皇帝令ライヒスアハト (Reichsacht)をボヘミア王に勧告。
1276年、帝国側ルドルフ1世vsボヘミア王オタカル2世の戦闘が開始
された。
1278年ボヘミア王オタカル2世(Otakar II)は戦死。皇帝
ルドルフ1世側の勝利で終決。
この戦いで敗戦国ボヘミア王に帰属(きぞく)していたバーベンベルク家の所領、上オーストリア、下オーストリア、シュタイアーマルク、ケルンテン等はハプスブルグ家が接収(せっしゅう)
。
※ この領地が後のオーストリア・ハプスブルグ家の誕生に繋がる。
また、この戦闘で優位を得た ルドルフ1世はボヘミア王家との政略結婚を画策
。
ボヘミア王夫人の許可を得、 自分の娘を嫁がせる条件にオタカル2世の遺児ヴァーツラフ2世(Václav II)を即位させボヘミア王国とモラヴィアの継承を許した
。(後々自分の孫が王国を継ぐ事になる。)
ハプスプルグ家はこうした政略結婚により欧州中と縁戚関係になり領地を拡大して行ったのである。
ハプスプルグ家のマリーアントワネットとフランス、ブルボン王家、ルイ16世との結婚もまさに母、マリアテレジアとルイ15世との画策
であった。
この結婚により? ブルボン王家が崩壊するとは母マリア・テレジアは思いもしなかったろうが・・。
ウイーン王宮
(Hofburg) こちら
Heldenplatz(ヘルデンプラッツ)からの新王宮前です。
騎馬像はオイゲン皇太子
(Prinz Eugen)。1865年設置されたのでマリーアントワネットがいた当時はいずれも無く、ただの庭園だった場所。
※ 2017年1月「ウィーンの新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien)」で新王宮は内部も若干紹介しています。現在は
ハプスブルク家の武具のコレクションやエフェソスの遺跡がなどが展示された博物館です。
リンク ウィーンの新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien)
1438年~1583年。1612年~1806年までハプスブルク王と神聖ローマ帝国の皇帝の座す場所。
その後1918年までオーストリアの皇帝の座す場所と、 宮殿は国家元首の座として機能していた事から現在でもオーストリア連邦大統領によって宮殿は使用されている
。
Heldenplatz (former Outer Castle Square)
オーストリア・ハプスブルグ家の公女マリア・アントーニア(1755年 ~1793年)はオーストリアの女帝と言われたマリア・テレジア (Maria Teresia)(1717年~1780年)の11女としてウイーンのホーフブルク宮殿(旧宮殿)で誕生する
。
彼女の誕生日は 1755年11月2日の冬。だから冬の王宮、ウイーンの宮殿であったのだ。
下は19世紀に建築された新王宮の建物部分。現在、王宮と言うとここが紹介されるが・・。 フランスのブルボン王家のヴェルサイユ宮殿(Palais de Versailles)に張り合うべく計画されたが予算の関係で縮小され完成された新王宮。
しかし、
新王宮と呼ぶが、実際はハプスブルク家の終焉により正式に王宮として使用されることはなく終わった建物である。
つまりマリーアントワネットどころか、誰も王族は住んでいない。 宮殿ができた時、すでに時代は一変していた
のである。
マリーアントワネットがいた頃の建物は地図上部の赤い部分
くらいです。
※ 当時の王宮は城壁で囲まれていた。地図を横断する現在のリンクの道は、かつての城壁跡となっている。
地図の下方、新王宮と下の美術史美術館と博物館も19世紀の建立です。
ついでにモーツァルト像の位置とマリアテレジアの座像の場所も書き込みました。
美術史美術館前のマリア・テレジア像が王宮方面を見て座っている。(美術史美術館は手前撮影側)国民には慕われた女王であった。実際、かなり賢く、強く、気配りのできる女性だったようだ。何よりパワフルな女性であったのは間違いない。
最も古い部分で現在残っているのは13世紀に建立された下の地図ベージュの部分
。
建築年代別王宮地図
※ ウィキメディアから借りてきた図に若干書き足しました。
ピンクで古い宮殿部分を囲みました。
旧宮殿の部分へ ブルーの→から
5.Leopoldine Wing(レオポルディン翼)1660年代、皇帝レオポルド1世(Leopold I)(1640年~1705年)によって建てられた。LeopoldinischerFlügel(レオポルディン翼)1946年以降は連邦大統領公邸。
11. Imperial Chancellory Wing(帝国首相府)と A. Inner Castle Square
左方面A. Inner Castle Square
Reichskanzleitrakt(ライヒ首相府) 下の写真はウィキメディアから借りた写真です
1717年から1719年に建設。当初は神聖ローマ帝国の副首相と帝国法廷評議員のオフィスがあったらしいが、 帝国解体後にアパートとなっている。
そこには ライヒシュタット公爵のアパート。その後は
フ
ランツ・ヨーゼフ1世と皇妃エリザベート、こと愛称シシィ(Sissi)のアパートでもあった。
※
ラ
イヒシュタット公爵とはナポレオン・ボナパルトの息子であるナポレオン2世(1811年~1832年)の事。
シシィ・ミュージアムがあったのはここだったか・・。かなり昔見学した時はエリザベートの部屋や美容器具を見た記憶が・・。
現在のオーストリア王宮は皇后エリザベートの人気が観光に寄与している。
以前、シシイが好きだったスミレのお菓子を紹介しています。確かにここからならゲルストナーは近い。
リンク
シシィとゲルストナーのスミレ菓子
像が修復中であった事、また広場(Inner Castle Square)の紹介の為に下の写真もウィキメディアから借りたものです。
像はローマ皇帝に扮したオーストリア皇帝フランツ1世(1708年~1765年)の記念碑
※ フランツ・シュテファン・フォン・ロートリンゲン(Franz Stephan von Lothringen)神聖ローマ帝国皇帝(在位:1745年~1765年)。 マリア・テレジアの夫君
でありハプスブルク・ロートリンゲン朝の最初の皇帝。
左 LeopoldinischerFlügel(レオポルディン翼)
奥 Amalienburg(アマリエンブルク) さまざまな大公や公爵がくらしたアパートである。
右 Imperial Chancellory Wing(帝国首相府)
※ レオポルディン翼とアマリエンブルクの地下はワインセラーになっているとか・・。
フランツ1世の像が見て居る先にスイス宮(スイスの翼)があります。
下はSwiss Gate (Schweizertor)スイス門からSchweizertrakt(スイス翼)フェルディナンド1世の称号が記載されている赤と黒のスイス門。
ホーフブルク礼拝堂を含むホーフブルクのこの部分は、「スイスの翼」と呼ばれている。
その名は、 皇帝夫妻(フランツI世とマリアテレジア)の時代に宮廷を警護をしたスイス兵がいた事に由来する
。
※ スイスが兵隊を輸出し、各国王族の傭兵(ようへい)として働らいていた事は以前紹介しています。現在も唯一残るスイスからの兵隊がヴァチカンのスイスガードです。
リンク バチカンのスイスガード(衛兵)
リンク ルツェルンのライオン慰霊碑とスイス人の国防
16世紀の Schweizerhof(シュバイツァーホフ)絵図 (ウィキメデイアから
これ16世紀頃の城はもともと4つのタレットを備えた正方形の外形で入り口に跳ね橋が付いた堀で囲まれていたと言う。
スイス宮の原点がここだったのかもしれない。
当時の皇帝フェルディナンド1世によって、ルネッサンス様式で再建
スイス宮にはハプスブルク家の宝物館があります。以前紹介。
リンク ハプスブルグ家の三種の神器
スイス宮は13~17世紀の建立と言われてはいるが実は外観だけ。宝物館は全体で金庫になっている。つまり中身は最先端。
Reichskanzleitrakt(ライヒ首相府)を抜け出た外。旧宮殿正面
下はウィキメディアからの借り物写真です。狭いので全景写真は撮りにくいのです最近はこの前の広場からローマ遺跡が出土しているから整備もできないのだ。
下はその向い側。ミハエル広場とルースハウス、ミヒャエル教会
Michaelerkirche(ミヒャエル教会)はウイーンの最古の教会の一つ。1792年以降は現在の姿になっている。地下にはグルフト(墓地)があり、こちらは主に貴族階級の墓所だったようだ。
宮廷教会であったAugustinerkirche(アウグステイーナ教会
)には行ってなかったので写真も無し。
そこは マリーアントワネットがベルサイユに行く前にウイーンで単独の式をあげた教会
です。
Augustinerkirche(アウグステイーナ教会) 下はウィキメディアからの借り物写真です。
ここは旧宮殿内部の教会です。とりたたて外観は目立つ事なくスルーしてしまいましたが実はハプスブルグ家の心臓の墓(Herzgruft)だった事が後から解り書いています。
リンク ハプスブルグ家の分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓
因みにハプスブルグ家納骨堂カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft)は少し離れた所にあります。
リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 1 ハプスブルグ家納骨堂
リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 2 マリアテレジアの柩
リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 3 マリア・テレジア以降
母マリア・テレジアと
実家ハプスブルグ家の事情
下は、11歳のマリア・テレジアの肖像画 1727年 この写真もウィキメディアからです。
マリア・テレジア (Maria Teresia)(1717年5~1780年)
ウイーン美術史美術館所蔵となっていますが、インスブルック郊外の城にあるらしい。
おそらく見合い用に作成された肖像画でしょう。
マリア・テレジア (1717年~1780年)はハプスブルグ家を継承する公女。男子であったなら、神聖ローマ皇帝になっていたはず。彼女は養子を迎え、その夫を神聖ローマ皇帝の地位に就けている
。
※ 女性では神聖ローマ皇帝にはなれなかったからだ。
日本の皇室と同じように、ハプスブルク家でも当初男系相続が定められていたと言う。
ところがマリア・テレジアの兄が夭折し、神聖ローマ皇帝カール6世の子供で成人したのはマリア・テレジアと妹のマリア・アンナのみ。
神聖ローマ皇帝を世襲するハプスブルグ家にとって、長女マリア・テレジアの結婚相手は最大の課題
となった。
侍従や大使など 各方面から縁談が持ちかけられた中にはマリア・テレジアの宿敵となるプロイセン王太子フリードリヒ(フリードリヒ2世)も候補に入っていた
そうだ。
※ フリードリヒ(フリードリヒ2世)もこの肖像画を手にしていたかもしれない。美しい彼女と広大な帝国を手に入れられなかった腹いせに生涯彼女に嫌がらせしたのか? とさえ思う。結局彼は振られたのだから・・。
最終的に候補になったのは、ロレーヌ(ロートリンゲン)家。英雄カール5世(シャルル5世)の末裔でハプスブルク家と縁のある一族。カール5世の孫にあたるらしい。
※ ロートリンゲンの兄弟はマリア・テレジアとはそもそも6親等の傍系親族にあたる又従兄妹らしい。
当初はロレーヌ(ロートリンゲン)公の、長男クレメンスが婚約者候補となったが病没し、次男坊フランツ・シュテファン(フランツ)が繰り上がり候補になる。
実はマリア・テレジアは6歳の時に15歳のフランツと出会い好意を寄せていたらしい。
またフランツは良い人だったのだろう。マリア・テレジアの父カール6世にも気にいられ、 彼らは政略結婚ではなく、恋愛結婚により結ばれた。それはこの当時非常に稀有(けう)な事
であった。
ハプスブルグ家宮廷画家 Martin van Meytensによるフランツ1世肖像 37歳 ウィキメディアから
フランツ・シュテファン・フォン・ロートリンゲン(Franz Stephan von Lothringen)(1708年~1765年)
絵は1745年製作。結婚して9年目。絵は神聖ローマ帝国皇帝の帝位についた記念に描かれたのかもしれない。まだマリーアントワネットは誕生していない。
1736年2月12日、2人はアウグスティーナ教会で挙式する。
※ 夫となったフランツもこの結婚に際してフランスのロレーヌ(ロートリンゲン)領を手ばさなければならなかった。
結婚までの二人は順調であったが、その後の二人はかなり苦労している。
※ 「カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 2 マリアテレジアの柩」でもハプスブルグ家成り立ちとマリア・テレジフについて書いています。
リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 2 マリアテレジアの柩
最終的に父カール6世は、広大な所領を娘に相続させる手はずを整えたが最後まで彼女に帝王学は学ばせなかった
しかし、マリア・テレジアの父、カール6世(Karl VI)が亡くなると父の結んだ条約は反故(ほご)にされた。
マリア・テレジアが皇位継承すると近隣国が途端に攻めてきた。
女と思って侮り、この期に領地をかっさらおうとするのだ。中でもプロイセンのフリードリッヒ2世 (1712年~1786年)は性質(たち)が悪かった。領土も神聖ローマ皇帝の地位もあくどく奪われてしまう。
※ 後に神聖ローマ皇帝の地位は取り返している。
人の良い夫では帝国はまかせられないと、彼女自身が戦い女帝となりプロイセンやバイエルン、またフランスと戦い国を守った 。帝王学を学んでいなかったのに・・だ。
ハプスブルグ家宮廷画家 Martin van Meytensによるマリア・テレジアの肖像画 1759年製作 42歳
こちらの絵はウイーンの造形美術アカデミー (Gemäldegalerie der Akademie der bildenden Künste)で見つけて撮影していた絵画です。これにより、当時のハプスブルグ家の宮廷画家にたどり付きました
ハプスブルグ家の宮廷画家が描いたマリアテレジアの家族
マルティン・ファン・マイテンス(Martin van Meytens)(1695年~1770年)ハプスブルグ家の宮廷画家
彼は皇帝カール6世に迎えられ、マリアテレジアと家族に最も気に入られた画家だったようです。
1759年、彼はこの絵画を所有する造形美術アカデミーの校長となりアカデミーの生徒と共に多くの宮廷の絵を描いたそうだ。
非常に細密な絵で、少し拡大で撮影していました。せっかくなので載せます。
因みに1759年は、宿敵プロイセンのフリードリッヒとの7年戦争の中、クネルスドルフ(Schlacht bei Kunersdorf)の闘いにおいてオーストリア同盟軍がプロイセンに勝利した年である。
※ これはフリードリヒ大王にとって最大の敗北となったらしい。
ウイーンの造形美術アカデミーはボス(Bosch)による「最後の審判」の時に紹介しています。因みにアドルフ・ヒトラーが受験して落ちた学校です。
リンク 造形美術アカデミーのボス(Bosch)最後の審判 1 (楽園)
リンク 造形美術アカデミーのボス(Bosch)最後の審判 2 (反キリスト者の裁き)
国を守る為に彼女は子供をたくさん産んだ。
特に継承者となる男児に期待がかけられた。
戦いと忙しい政務の間に彼女は16人の子供をもうけている。
実際初恋の夫とはラブラブであった。
※ 内6人が成人前に死亡している。ウイーンのカプツィーナ・グルフトにはベビーの棺もある。
ハプスブルグ家宮廷画家 Martin van Meytensによるマリア・テレジア一家 1764~65年製作
こちらはウィキメディアから借りてきた絵です。
下の部分拡大に ピンクで矢印したのがマリーアントワネット
推定9歳
夫は統治には向いていなかったが、財務関係では秀でていた。投資など国の財産を増やしている。マリア・テレジアは夫無き後ずっと喪服を着て過ごしている。また、棺も最終的に2人で入るサルコファガスを特注している。
カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft)にある二人の棺が入っているサルコファガス同時に亡くなったわけではない。二人は死んでも一緒にいたいと願ったのである。
非常に大きいので全景の撮影が大変なのです。
周囲にはどの位置にもすばらしい彫刻が施されている。カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft)で最も大きい。最もゴージャスなサルコファガス(sarcophagus)なのである。手前の鉛棺がヨーゼフ2世の棺。
カプツィーナグルフトでヨーゼフ2世の棺だけが浮いている。非常に質素なのである。
リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 3 マリア・テレジア以降
※ 確認していないが、墓碑銘は「よき意志を持ちながら、何事も果たさざる人ここに眠る」という自身への皮肉を自ら選んだらしい。
先にも触れたが プロイセンのフリードリッヒ2世は一時は婚約者候補の一人であったが、マリア・テレジアの最大の天敵
となった。プロイセンとの長い戦争もある。
が、 にもかかわらず、長男ヨーゼフ2世はフリードリッヒ2世を崇拝し、母をがっかりさせている
。
市民のための改革をたくさん行おうとしたが、結局どれも成功までには至らず終わった? 気持ちだけは立派な啓蒙思想家(けいもうしそうか)だったのだろう。
ウイーン美術史美術館で撮影 喪服を着たマリア・テレジアがシェーンブルン宮殿の図面を見ている所。最愛の夫フランツ・シュテファン(神聖ローマ皇帝フランツ1世)が亡くなってからはずっと喪服で過ごしたと言われている。
今回は、ほぼマリア・テレジアで終わってしまいました。次回マリーアントワネットが幼少期に過ごしたシェーンブルン宮殿から入ります。
Back number
マリー・アントワネットの居城 1 (
ウイーン王宮
)
リンク マリー・アントワネットの居城 2 シェーンブルン宮殿と旅の宿
リンク マリー・アントワネットの居城 3 ヴェルサイユ宮殿の王太子妃
リンク マリー・アントワネットの居城 4 ベルサイユに舞った悲劇の王妃
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