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私たちは、無意識的に人の雰囲気を「色」として感じています。だからまるで色と色を取り合わせるように、「あの人には○○色がよく似合う」などという判断が出来るのです。これは気質のワークの時によくやるのですが、「○○さんの雰囲気を色で例えると何色だと思いますか?」と聞くと、不思議なことにみんなそれなりに答えてくれるのです。意識的には「雰囲気が色として見える」ということはないはずなのに、無意識的には、私たちは人の雰囲気に何らかの色を感じているようなのです。感情を色として感じることもできます。一般的に私たちは、怒っている人には「赤」を感じ、悲しんでいる人には「青」を感じます。どうやら私たちには、強い感情には「赤」を感じ、沈んでいる感情や深い精神には「青」を感じる感性が備わっているようなのです。安定している感情には緑やオレンジなどのアースカラーを感じます。ハッピーな感情には、ピンクや黄色や虹色のような明るくて、カラフルな色を感じます。そして実は、「その人の気質」はその「その人が発している色」としても現れているのです。だから気質をその人の行動や性格のような「目に見えること」で説明することはありますが、それは話しを分かりやすくするためであって、実際の気質は「目で見るもの」ではなく「感じるもの」なんです。実際、私は人の気質を見る時にはその人の雰囲気が醸し出している「色」を見ます。町で歩いている人を見て、その人の雰囲気から「あの人は○○質だな」と判断することもあります。後ろ姿だけで分かることもあります。性格分類は性格を分類したものですが、具体的な性格が分からなくても、雰囲気が分かれば気質は分かるのです。ただ、実際の色は色々な色が混ざり合っていますから、「何色です」と言い切れない色もいっぱいあります。また、同じ「赤」でも「黒っぽい赤」「オレンジぽい赤」「朱に近い赤」「茶色っぽい赤」など色々とあります。「青」の上に無理矢理「赤」を塗り重ねているような場合もあります。そしてこれは気質でも同じで、同じ赤で表される胆汁質にも色々な胆汁質があるのです。でも、この色味の違いはなかなか言葉では説明できません。直接感じるしかないのです。ですから、気質のことを知識として覚えても、その相手の色を感じる感覚を働かせないことにはあまり実際の生活では役に立たないのです。慣れないことですから最初はよく分からないかも知れませんが、そういう意識で人を見ていると次第に感じることが出来るようになってきます。是非、試してみて下さい。
2019.08.31
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多血質の人は、自分の中に「固定的な価値基準」がないので、色々な人に合わせることが出来ます。でもだからといって、ズーッと同じ状態で居続けることは出来ません。変化がないと苦しくなってしまうからです。そしてそれが多血質の「自分らしさ」でもあります。他の気質の人の「自分らしさ」は固定されていますが、自由に変化できるのが多血質の人の「自分らしさ」なんです。「理想のお母さん」を目指すと、そこで固定されてしまいます。だから最初のうちは何とか出来るのですが、次第に苦しくなってしまうのです。また、多血質の人は「固定された自分らしさ」を持っていないがため、はっきりとした「自分らしさ」を持っている他の気質の人にあこがれたりします。胆汁質にあこがれる人もいます。憂鬱質や粘液質にあこがれる人もいます。「理想のお母さん」にあこがれる人もいます。アイドルや芸能人にあこがれる人もいます。また、多血質の人は、他の人に自分のいいところを見せようとする傾向があるため、「家の外の顔」と「家の中の顔」が大きく違うこともあります。胆汁質と粘液質の人は家の中も外もあまり変化はないのですが、憂鬱質と多血質の人は他の人の影響を受けやすいので、家族しか居ない場と、他の人が居る場では、大きく状態が異なることが多いのです。時々テレビで、「町で会ったきれいにお化粧して、可愛い洋服を着ている子の家に行ったら、家の中はグチャグチャ」という子を見ますが、そういう子も多血質である可能性が高いです。他の人が居る場では、相手の基準に合わせられますが、家の中にはその「合わせる基準」が存在していないので、どうしていいのか分からなくなってしまうのです。また、物がすぐに見つからなくなります。迷子になりやすいです。忘れ物が多いです。人の話を黙って聴けません。子どもが自分から話し出すのを待つことが出来ずに、色々と聞き出そうとします。気分屋さんです。論理的に考えるのが苦手です。機械が苦手です。えこひいきをしやすいです。などと言っていたら、以前「篠先生は多血質に冷たい」と言われてしまったことがありますが、そういうことではありません。現代社会は男性論理で作られています。人間関係よりも規則や規律を重んじる社会です。楽しさよりも便利や効率を求める社会です。また、機械との関わり合いは増えましたが、直接的な人と人の関わり合いは減りました。そういう社会では、多血質の人の能力はあまり役に立たないのです。なぜなら、多血質の能力は人と人の直接的な関わり合いの中で初めて発揮される能力だからです。だからといって、もう役に立たない能力というわけではありません。なぜなら、子どもたちは今でもその多血質的な関わり合いの中で成長していくからです。子どもの成長に必要なものは、便利でも、効率でも、規則でも、規律でもありません。仲間や大人とのもっと直接的な関わり合いです。そしてそれこそが多血質的な世界なんです。全てにおいて冷めた見方をする男性論理の社会は、多血質の人に優しくありませんが、同時に子どもにも優しくないのです。だから、本来は多血質の人にとって子育ては楽しいはずなんですが、小さい時から自分の多血質的な要素を否定され、人間関係を楽しむことよりも規則や規律を守ることを押しつけられて育ってしまっている現代の多血質の人たちは、自分の中の多血質的な要素を肯定できません。子どもの中の多血質的な要素も肯定できません。そして、社会の価値観に合わせた「良いお母さん」を目指します。でもそれは同時に自分らしさの否定でもあるので、苦しくなってしまうのです。多血質のお母さんは「正しい子育て」ではなく「楽しい子育て」を目指せばいいのです。周囲から「お母さんらしくない」と白い目で見られても、その方が子どもも生き生きと育つし、お母さんも育つし、子育てが楽しくなるのです。楽しいことをドンドン発見して、それに子どもを巻き込んでいけばいいのです。ただ問題は、小さい時から多血的な要素を否定され続けてきたことで、楽しく子育てをする、楽しく仕事をする、楽しく家事をする、楽しく勉強する、楽しく生きるということに罪悪感を感じるようになってしまった人が多いと言うことです。
2019.08.30
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多血質の人は気分で行動します。そして、気分が乗ればすごいことも出来ますが、気分が乗らないと簡単なことも出来ません。義務感や、論理や、価値観などというものにはあまり興味がありません。頭ではなく感情で動くのです。そのため、論理の一貫性がありません。言うこともコロコロ変わります。他の気質の人は「昨日言っていたことと違うじゃん」と思いますが、多血質の人はなぜそれが問題にされるのか分かりません。多血質の人にとって一番大事なのは「今の自分の気持ち」だからです。だから、昨日と今日とで気持ちが違えば、昨日と今日とで言うことが違っていても、本人的には何にも問題はないのです。これは子どもの状態によく似ています。そして実際、子どもは多血質が強いのです。気質は個人ごとに違いますが、その個人においても、からだの状態や、周囲の環境や、年齢によって気質が変化しています。一人の人間の一生においても、子ども時代は多血質が強く友達と遊びたがり、思春期が来ると胆汁質が強くなり大人や社会に対する文句を言い始めます。そして、「一人の時間」を大事にし始めます。中年ぐらいになると憂鬱質が強くなり色々とぼやき始め、老人になると粘液質が強くなり、ゆっくりが心地よくなります。それに合わせて好みの音楽も変わります。若い頃はアップテンポの曲が好きだった人でも、年を取ってくるとスローテンポの曲の方が落ち着くようになります。また、気質は性別の影響も受けています。女性の方が男性よりも多血質が強く、男性の方が胆汁質が強い傾向があります。多分これは、「性による役割の違い」の影響なのでしょう。ですから、最初に書いた多血質の特徴は、男性が女性に対してなんとなく感じている特徴でもあります。その「男性と女性の役割の違い」は筋肉や骨格の違いとしても存在しています。一般的に筋肉量が多い方が胆汁質は強いのです。胆汁質は戦いに向いている気質だからです。だから、筋肉や骨格が成長する思春期に、胆汁質が強くなるのです。ただし、今ここに書いたことは「全体として見たらこのような傾向がある」ということであって、個々の人がこのような状態であるかどうかは不明です。ですから、「うちの子は違う」とか、「私は違う」という意見や反論もあるかも知れませんが、もう少し視野を広くしてお読み下さい。ただ、多血質の人は、この「全体として見たら」という見方が苦手です。多血質の人は「部分」を見るのは得意なんですが、「全体」を見るのは苦手なんです。そして、一般的な傾向としてですが、女性も「全体として見たら」という見方が苦手です。そのため男性が「全体」の話をしているのに、女性がそれを「個別」の話として受け取り、話が噛み合わなくなってしまうこともよくあります。それで、男性は「今はその話をしているんじゃないんです」と言うのですが、女性は「いやあなたが話しているのはその話です」と言い返して来ます。また、多血質が強い人は「自分に関係のある話」には強い興味を示しますが、「自分に関係のない話」にはあまり興味を示しません。まただから、「全体」には興味がないのです。男性と女性がケンカした場合も、男性は言葉の論理で相手を責めようとしますが、女性は感情の論理で攻めてきます。その場合、言葉の論理には客観的な正解があるので、男性は女性の論理の不備を攻めます。でも、感情の論理では常に自分が正解なので、男性は女性を論理で言い負かすことが出来ません。ただしこれは、どっちの方が正しくて、どっちの方が正しくないということではありません。「部分を大切にする考え方」も「全体を大切にする考え方」も、「言葉の論理」も「感情の論理」も、両方とも大事だからです。またこの、「部分や感情を大切にする感性」は「共感能力」ともつながっています。一般的に、女性は男性よりも「他者に共感する能力」が高いです。「子ども」や「困っている人」に共感する能力も高いです。だから、子育てや人付き合いの能力も高いのです。そして、共感は「個別の人」や「個別の事象」に対して強く働きます。「この子」には強く共感できても、対象が「この子達」になると話しが抽象的になり、急に共感が難しくなるのです。女性は部分にこだわる傾向があります。でも、だから共感する能力が高いのです。まただから大人数の有機的な集合体を作るのが難しいのです。女の子は、2,3人では仲良く遊べても、それ以上になるとなかなか遊びが困難になります。(3人でも遊べなくなる子が多いです。)それに対して男性は、個別の事象に囚われにくいから「全体」の話が出来ます。だから、大人数でも有機的な集合体を作ることが出来るのです。でもだから共感する能力は低くなるのです。男性が「軍隊」について考えている時、女性は「兵隊」さんのことを考えているのです。これは「どっちの方が正しい」と言うことではなく、だからお互いに話し合って、支え合うことが必要になるのです。部分だけ見て全体が見えなければ危険です。全体だけ見て部分を見なければ、一人一人の幸せは実現できません。
2019.08.29
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多血質の人は柔軟性が高いです。適応能力も高いです。それが多血質の人の長所です。でも、この長所は同時に短所でもあります。これは全ての気質に言えることなんですが、短所は長所であり、同時に、長所は短所なんです。「それ」が長所になるか短所になるかは、「それ」が長所になるような育てられ方をしたか、短所になるような育てられ方をしたかの違いに過ぎません。人付き合いが苦手な子を、みんなと一緒に活動する場に連れて行けば、その性格は短所にしかなりません。でも、一人でじっくりと何かに取り組む活動の場でなら、その性格は長所になるでしょう。そして、親が子どもが持っているその「その子らしさ」が長所になるような育て方をすれば、子どもは長所が多く、自己肯定感の高い子に育つでしょう。でも、それを「短所」と考えてむりやり直そうとすると、子どもは短所だらけで、自己肯定感の低い子に育っていきます。でも、「みんなと一緒」「みんな同じ」を大切にする日本には、そういうように考える大人が多いのです。その時、憂鬱質の子と胆汁質の子は「人に合わせない頑固な子」「扱いにくい子」「しつけでその性格を直さなければならない子」と考えられやすいのです。そのため、「短所の多い子」として扱われやすいです。例えば、欧米ではちゃんと自己を主張する胆汁質の子は肯定されますが、日本では「生意気だ」「反抗的だ」ということで否定されます。欧米の人が書いたシュタイナー関係の気質の本には、「胆汁質の人はリーダーに向いている」というようなことが書いてありますが、否定されながら育った日本の胆汁質の子はリーダーとしての素質を伸ばすことが出来ないまま、自分に自信がない大人に育っていきます。自信家の胆汁質だって、否定され続ければ自信を失うのです。日本ではリーダーとしての能力がある人がリーダーになるのではなく、「偉い人」から「リーダーの資格」を与えられた人がリーダーになるのです。そのため、リーダーとしての素質がなくても、「偉い人」に媚びを売る人や、忖度するような人はリーダーになりやすいのです。政治の世界を見ているとそれがよく分かります。それが日本の悲劇です。そんな時、多血質と粘液質の子はそれほど問題児扱いされません。両方とも「自己」を主張しないし、「みんなと一緒」が出来るからです。さらに多血質の子は積極的にみんなと一緒に行動しようとします。先生に褒められるのが大好きなので、先生が褒め上手なら、積極的に先生の気持ちに合わせようとします。それが多血質の柔軟性でもあります。でも、その柔軟性の背景には強い承認欲求があります。そのため、褒めてくれない人からは簡単に去って行きます。それに対して、粘液質の子は表だって反抗はしませんがマイペースです。いくら褒められても、積極的に先生の価値観に合わせるようなことはしません。家庭でも同じです。多血質の子は、褒めてくれるなら、お母さんやお父さんの要求に合わせてしまうのです。そして「よい子」になります。ちなみに憂鬱質の子は褒めるばかりの人は信用しません。胆汁質の子は褒められるのは好きですが、褒められたからと言って相手の期待に合わせることはしません。粘液質の子は褒められればちょっと嬉しいですが、でも大きな変化はありません。「褒める子育て」が一番効果的に働くのが多血質の子なんです。それをうまく使えば、コントロールしやすいのも多血質の子です。そして、多血質の子は大人になり親になってからも、周囲の人に褒めてもらいたいので「良いお母さん」を目指すことが多いのです。でもその時、肝心の「目の前にいる我が子の気持ち」に気がつかなくなってしまうのです。我が子は自分勝手でワガママを言うばかりで、お母さんに感謝もしないし、褒めてもくれません。話し相手にもなりません。だから、気持ちが向かないのです。関わり方も分かりません。一緒にいても楽しくありません。さらに、自由を束縛してきます。でも、「良いお母さんでいなきゃ」という呪縛があります。そのためどんどん苦しくなって行きます。子どもも、お母さんの気持ちが自分に向いていないことを感じるので寂しく、苦しくなります。そのため、親子の信頼関係も築けません。お母さんも子どもも、一緒にいても楽しくありません。それでも、子どもが多血質ならそんなお母さんに気に入られるために、お母さんに合わせようとしてくるかも知れません。多血質の子はお母さんの気持ちが分かるので、気に入られ方も分かるのです。そしてお母さんがそれに気づき褒めてあげていれば、子どもも喜び「友達親子」になることは出来ます。でも、「良いお母さん」を目指す人にとっては、お母さんや周囲に合わせようとしない胆汁質や、憂鬱質の子は最悪です。お母さんに嫌われる不安を感じた憂鬱質の子も、お母さんに嫌われないようにお母さんに合わせてきますが、褒めても喜びません。また、一生懸命にお母さんに合わせようとしても、お母さんの気持ちが理解出来ないので、すれ違います。「良いお母さん」を求めることを止め、お母さんが「自分らしさ」を取り戻し、目の前の子どもとちゃんと向き合わないことには、胆汁質や憂鬱質の子の子育ては出来ないのです。実際には、多血質や粘液質の子に対しても同じです。多血質の人は、四つの気質の中で一番「どうやったら相手に気に入られるのか」ということが分かるのです。そしてそれが長所であると同時に短所でもあるのです。他の気質の人の信用を得られないのもそのためです。
2019.08.28
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多血質の人は自由が大好きです。まるで風のようです。粘液質の人は水に似ています。そして水もまた自由ですが、水はジーッとしていることも出来ます。それに対して風は、ジーッとしていることが出来ません。ジーッとしていたら風は存在出来ないからです。また風は、色々なものを拡散し、遠くまで運びます。タンポポの種も風に乗って飛んでいきます。雲を動かし、木々を揺らします。時には、群れになって屋根を吹き飛ばすこともします。水の流れは山を下るだけですが、風の流れは軽々と山を越えます。自然界は、風のその「拡散する働き」のおかげで均一性を保つことが出来ています。日本中どこに行ってもタンポポが咲いているのは風の働きの結果です。これは地球規模で起きていることで、ジェット気流は世界中の空気を撹拌しています。世界中どこに行っても空気があるのも風のおかげです。また風は、海に波を起こし、落ち葉を舞上げ、この世界を生き生きとさせてくれます。また、人は風を感じると、心が開きます。風の音に物語を聞くことも出来ます。この世界から風が消えたら、世界はまるで死んだような感じになってしまうでしょう。雲も動かなくなるので、雨も降らなくなるし、川も出来ません。それが風の役割です。そして多血質の人も同じような役割を果たしています。風はこんなにも素敵で、こんなにも大切な役割を果たしてくれているのですが、風には「自分」がありません。止まってしまったら消えてしまうのですから。波を起こす力も太陽からもらっています。というか「自分」がないから自由に動くことが出来るのです。それに対して「憂鬱質」の人は、まるで「石」のように「自分」にこだわります。だから自由に動けないのです。その風のような性質を持った多血質の人は、ジーッとしていることが出来ません。それが風の長所でもあるのですが、それは同時にガマンが出来ない、辛抱が出来ない、落ち着きが足らない、ということにもつながります。見方や考え方も表面的です。水は中まで染み込みますが、風は物の表面をなでるだけです。「外側の情報」は素早く得ることが出来るのですが、「内側の情報」を捉えることは出来ません。また興味もありません。責任感もあまりありません。責任を持ったら自由を失うからです。その場の雰囲気で話し、その場の雰囲気で行動します。常にその場限りです。ですから、一カ所に留まって何かを積み上げるということは苦手です。そういうことをやっている人にあこがれて、そういう人の近くに行くのは好きですが、仲間がいればともかく、自分一人ではやりません。また、人の影響を受けやすいです。人が動けば風が動きます。多血質の人はすぐにその風に巻き込まれてしまうのです。火を熾せば熱は上に上がろうとします。すると、風はそのエネルギーを感じて火と共に上に上がっていきます。その時、風は火と一体になります。そして、火の気分を味わいます。そしてまるで自分が火になったような高揚感を感じます。でも、火が消えると風はどっかに行ってしまいます。ミーハー的で流行に乗りやすいのですが、同時に冷めやすいのです。ちなみに、胆汁質の人は火と似たような働きをしているので、多血質は胆汁質の周りに集まりやすいです。また、似たような仲間と群れて動きたがります。風は群れることでパワーを増すことが出来るからです。その時、群れの動きを活性化させてくれる胆汁質は肯定されますが、「どんくさい粘液質」と「頑固で動きたがらない憂鬱質」はあまり肯定されません。でもその一方で、安定している粘液質や、自分というものをしっかりと持っている憂鬱質にあこがれる多血質の人もいます。「私、多血質なんかじゃないですよね」と言ってくる多血質の人もいます。あと、多血質は自由を失うと一気に、多血質らしさを失います。風を室内に閉じ込めたら、風として存在出来ませんよね。それと同じです。多血質の人が多血質らしさを維持するためには自由が必要なんです。それが問題になるのが、妊娠、出産、子育て中の多血質です。女性は、妊娠、出産、子育て中には一気に自由を失います。すると、多血質の人は「自由」とともに、自分らしさも消えてしまいます。そして「良いお母さん」という型に自分をはめようとします。元々、「こだわるべき自分」がないので、それが出来てしまうのです。でも、短期間ならそれも出来るのですが、もともと自由が大好きな気質なので、長続きしないのです。でも、周囲の目があるので止めることも出来ません。そしてどんどん苦しくなります。風は一見自由なんですが、自らの内側に自分を動かす力を持っていないので、外の世界とのつながりがたたれてしまうと途端に不自由になってしまい、憂鬱質に似た状態になってしまうのです。窓が開けば外に出て行けるのですが、自分で窓を開けることが出来ないのです。
2019.08.27
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「健康法」(病気になりにくいからだを作る方法)と「治療法」(病気の治し方)は基本的に違います。また、「健康法」は誰にでも実践出来ますが、「治療法」を実践するためには専門的な知識と技術が必要になります。だからこそ、普段から、心とからだが病気にならないような生活が必要になるわけです。これは子どもの育ちにおいても同じで、「子どもの心とからだを健康に育てる方法」はそれほど難しくありません。「子どもの心とからだの成長に必要なもの」を、親や周囲が子どもの生活環境の中に整えてあげれば、子どもは自分の力で、「自分の成長に必要なもの」をそこから吸収し、健康に成長していきます。親や先生が、しつけや教育を無理矢理強要しなくても、子どもは自分の成長に必要なものを自分で選んで取り込んでいくから大丈夫なんです。そこで必要になるのは、生活の多様性と、手本と、自由と、見守りと、安心と、仲間です。ところが、それらのものが与えられない状態で育っている子は、いわゆる「栄養失調」状態になってしまいます。そして、心とからだの成長に歪みを生じます。その結果、子どもの心とからだの状態や、行動に様々な問題が表れるようになってきます。そうなってから、様々なところへ相談に行くのですが、その歪んだ状態を、健康な状態に戻すためには、専門的な知識や技術が必要になります。そのため、お母さんやお父さんだけではなかなか手に負えません。時には、お母さんやお父さんが頑張ることで状況をさらに悪化させてしまいます。「子どもの育ちに必要なもの」が分からないため、力ずくで治そうとしてしまうことが多いからです。シュタイナー教育には「治療教育」という分野がありますが、一般的にはそのような発想は全くありません。そのため、タンパク質が足らないから筋肉が育っていないのに、無理矢理「筋肉を付けるための運動」をさせようとします。ひどい時は精神論で何とかしようとします。食べ物が足らないからヨロヨロしているのに、「だらしないぞ、もっとガンバレ!」などと追い立てたりしています。でも、この世界を動かしているのは「因果の法」なので、それを無視して精神論を押しつけても決して状態は良くならないのです。むしろ悪くなります。それなのに、多くの大人が子どもに精神論を押しつけています。そして状態を悪化させています。「学校に行きたくない」という時には、ちゃんとその理由があるのです。単に「怠けたいから」ではないのです。「子どもの成長に必要なもの」が学校にあれば、子どもは学校に行きたがるのです。だから、子どもが学校に行きたくないという時、その原因は親や教師や学校にあるのに、なぜか大人達はその責任を子どもに押しつけようとしています。学校は親を非難し、親は子どもを非難しています。で、末端にいる子どもは、自分で自分を非難するようになります。そして、自己肯定感の低い大人になっていきます。そして、自分の子どもに対しても同じことを繰り返そうとします。それもまた「因果の法」の結果です。その苦しみの繰り返しから逃れるためには、「子どもの心とからだの成長に必要なものは何なのか」、「人間が人間らしく生きるために必要なものは何なのか」ということを知る必要があるのです。「気質の学び」はその中の一つです。なぜなら「気質」によって「心とからだの育ちに必要なもの」が異なるからです。「憂鬱質」の子の育ちに必要なのは、静かで安心できる環境と、追い立てないで見守る関わり方です。「胆汁質」の子の育ちに必要なのは、自由に行動することが出来る、時間と場と、仲間です。「多血質」の子の育ちに必要なのは、一緒に笑い、一緒に行動してくれる仲間です。「粘液質」の子の育ちに必要なのは、静かで多様な環境です。そしていずれの気質の子も、他の気質の子と関わり、一緒に活動する必要があります。そのことで「自分」が見えてくるからです。自然の中での仲間との群れ遊びには、この全ての要素が含まれています。また、「素敵な大人」との出会いも必要です。「素敵な大人との出会い」が、自分の人生の方向性を決めてくれるからです。ただし、お母さんやお父さんが「素敵な大人」でなくても大丈夫です。そういう大人の人と出会わせてあげればいいのです。「自己肯定感が低くなってしまった大人を治す方法」はかなり難しいですが、「子どもを自己肯定感が低い大人にしないように育てる方法」は、それほど難しくはないのです。
2019.08.26
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親子合宿から帰ってきました。この合宿は、普段から一緒に遊んでいる仲間で毎年やっているものですが、いつも夜は表現遊びで盛り上がります。今年は「かぐや姫」をテーマに遊びました。ものすごく盛り上がりました。昼間は川で遊んだり、炊きジャンプをしたり、ドラム缶風呂に入ったり、ダブルダッチで遊んだり、流しそうめんをしたり、盛りだくさんでした。この会にはプログラムがないので、みんな自由に行動しています。食事のメニューも決まっていません。各自で勝手に作って、みんなでバイキング方式で食べます。一般的なこのような合宿では「子どもたちにこのような体験をさせたい」ということが決まっていて、それに沿ってプログラムを考えたり、役割を考えたりするのですが、私は出来るだけ「ゼロからの体験」をさせたいので、敢えてプログラムは決めていません。与えられた自由の中でプログラムに沿って遊ぶのではなく、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の判断で行動することで、自由を創り出して遊ぶことを体験して欲しいのです。でも、そういう遊びは誰にでも出来ることではありません。また信頼できる仲間がいるから出来ることです。ありがたいことに私の周りには、子どもも大人も、そのような仲間がいっぱいいるのです。もっともっと素敵な写真が山のようにあるのですが、みんな顔がばっちり写ってしまっているのでお見せできません。「かぐや姫」普通の合宿と違って色々な種類の料理が並びます。私はパエーリャを作りました。
2019.08.25
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今日はこれから毎年やっている親子合宿に行きます。 それで明日の朝はブログが書けません。帰って来てから書くつもりではいますが、もしかしたらお休みになってしまうかも知れません。ご了承下さい。 ************ 昨日、 また、「憂鬱質的な不安」は「正しい知識」と「正しい考え方」を身につければ消すことが出来ますが(知識だけでは余計に不安が増えます)、「体験によって身につけた不安」は、ちゃんとした体験がその不安の背景にあるので、なかなか抜け出すことが出来ません。 と締めたら、「その後が気になる」という人が何人かいたのでちょっと書かせていただきます。 「体験によって学習した不安」が消えにくいのは、脳と、心と、からだの中にその不安を学習した時の記憶が残っているからです。 憂鬱質の人は、「食わず嫌い」と同じように、先入観で「体験したことがないこと」にも不安を感じますが、気質に関わらず一般的には、実際の痛みや苦しみの体験によって、「それにつながること」に対して不安を感じるようになります。 「痛かった体験や苦しかった体験をした時と共通する何か」を感じた時、人は不安を感じるのです。 部分的な記憶の合致が無意識のうちに記憶の全体を掘り起こしてしまうのです。 例えば、大きな事故に遭った時に何か特別な匂いがしていたような時、匂いと事故は何にも関係がないのに、その匂いを感じると、その事故のことを想い出してしまうというようなことです。 これは「不安」の時だけに起こる現象ではなく、人は「出来事の記憶」と、その時の「感覚的記憶」をセットにして記憶してしまうので、嬉しいことや、懐かしいことを想い出す時にもこの現象は現れます。 私は秋風が吹き始めると、なぜかスペインにいた時のことを瞬間的に想い出します。街の中で、ジャスミンの匂いに触れるとインドのことを想い出します。 虐待を受けていた人の中には、大きな声を聞いた時や、からだに触れられた時に、急に不安を感じて固まってしまう人がいます。 我が子の顔を見るだけで自分の子ども時代のことを想い出してしまう人もいます。 そういう感覚的な体験が、過去の痛みや苦しみを想い出させる「鍵(キー)」になっているのです。 その状態から抜け出すには、「何が過去の苦しみを想い出させるキーになっているのか」ということを冷静に考える必要があります。 苦しくてもちゃんと想い出そうとすることで、「感覚の働き」を感情ではなく、意識の働きで処理するようにするのです。 一般的には、「苦しいことは想い出したくない」でしょうが、想い出さないようにしているからいつまでも消えないのです。 東北の大地震の後、大人達がまだ悲惨な状態の中にいる時、「地震遊び」をする子がいたそうです。 それで大人は、「なんて不謹慎な」と叱っていたそうです。大人はもう想い出したくないのに、子どもは「地震」で遊んでいるのですから。 でもそれは子どもの自己治癒行為なんです。 無意識下に入っている痛みや苦しみの記憶を、意識化に出して遊ぶことで、その記憶に振り回されなくなるのです。 心理学でも、同じような理由で「箱庭療法」という治療法を使ったりします。 それで、そのことを知っている何人かの人たちが現地に入って、子どもたちに自由に地震のことを語らせたり、地震の絵を描いたり、地震遊びをさせたりしたそうです。 (プレイパークの人も行きました) すると、押さえ込んでいた苦しみを吐き出すことが出来たので、次第に子どもが生き生きとしてきたそうです。 「苦しみ」を吐き出すことで「苦しみ」を消すことが出来るのです。 押さえ込んでいるから、いつまでも苦しいのです。 便秘と一緒です。 ただし、その時その「苦しみを吐き出す作業」に寄り添ってくれる、プロの技術を持った介助者が必要になります。吐き出し方にも技術が必要だからです。 また、感情の苦しみはからだの緊張として記憶されているので、からだの緊張を解くことで、不安を消すという方法もあります。でも、その場合も特別な技術が必要になります。 また、自分の人生の目的を持つことで、相対的に苦しみの大きさを小さくすることも出来ます。自分の人生を自分の人生としてちゃんと生きようとせず、苦しみのことばかり考えているから、いつまで経っても苦しみの束縛から抜け出せないのです。 この場合は「苦しみ」を消そうとするのではなく、背負って生きようとするのです。その苦しみから何かを学ぶことが出来る人はさらに強くなることが出来ます。 苦しみから逃げようとするから束縛されてしまうのです。遠ざけようとするからいつまでたっても目の前から消えないのです。 背負ってしまえば、視界からは消えてしまうのです。 重さはありますが、目標があれば、その重さが気にならなくなります。 大事なのは「苦しみを消す」ことではなく、「苦しみに束縛されなくなる」ことなんです。 過去に起きた苦しみのせいで、自分の現在と未来の人生を台無しにしないことです。 そのためには、目の前にある「今の自分にでも出来ること」を見つけてそれを一生懸命にやることです。 多分これが、プロの手助けを必要としない唯一の方法かも知れません。
2019.08.24
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憂鬱質の特徴の一つに「不安が強い」ということがあります。だからといって、「不安が強いから憂鬱質だ」ということではありません。気質とは無関係の「不安」もあるからです。私は「不安」には二種類あるのではないかと思っています。一つは「未来のことを色々と考えることで発生する不安」です。例えば、旅行に行く予定なのに天気が不安蓄えが少ないので老後の生活に不安試合に勝てるかどうか分からない不安あおり運転で車をぶつけられてしまうのではないかという不安勉強しないと落ちこぼれてしまうのではないかという不安ちゃんと手を洗わないと病気になってしまうのではないかという不安のようなものです。そして、憂鬱質の人はこのようなタイプの不安に囚われやすいです。なぜなら、憂鬱質の人は思いがけないことが起きると、心も、からだも、頭も固まってしまって身動きが取れなくなってしまうので、あらかじめ頭の中で色々な状況を設定してシミュレーションしておくことで、「いざというときの不安」を減らそうとするからです。ただ問題は、未来のことをシミュレーションしておくことである程度の安心は得ることが出来るのですが、同時に、「未来に対する不確定要素によって、新しい不安も増えてしまうことが多い」ということです。「安心」を得るために色々と考えるのですが、色々と考えることで新しい「不安」が生まれてしまうのです。だからさらに色々考えるのですが、考えれば考えるほど不安も増えてしまうのです。そのループにはまってしまうと不安だらけになってしまいます。そして憂鬱質の人はこのループにはまりやすいのです。これが「憂鬱質の人の不安」です。もう一つのタイプの「不安」は「経験によって学習した不安」です。つまり、「未来」ではなく「過去」に原因がある不安です。砂浜を裸足で歩いていてガラスを踏んでしまってケガをした人は、砂浜を裸足で歩くことに不安を感じるかも知れません。子どもの頃に父親に虐待された育った人は、男性の声や、男性が近くに寄ってくるだけで不安を感じるかも知れません。電車に乗っていて事故に遭った人は、電車に乗るたびに不安を感じるかも知れません。牡蠣を食べて食中毒を起こした人は、牡蠣を食べることに不安を感じるようになるかも知れません。夜道を歩いていて怖い体験をした人は、夜道を歩くことに強い不安を感じるようになるかも知れません。幼児期に虐待されて育った人は、「自分らしさ」を否定されながら育っているので、自分の気持ちを表現したり、自分らしく行動すること自体に不安を感じるようになってしまうこともあります。子どもの頃、学校で集団的なイジメに遭った人は、人がいっぱいいるだけで不安を感じるようになってしまうかも知れません。これらは、「体験によって学習した不安」です。そして、このような「不安」は、「気質」に無関係に誰でもが持つようになる可能性があります。で、本来は「憂鬱質」ではないのに、こういう不安が強いために「憂鬱質のような状態」になってしまっている人がいっぱいいます。とくに、虐待やイジメのような「生活全般を否定されるような体験で不安を学習してしまった人」は、色々なことに不安を感じるようになってしまう可能性があります。でもそのような人は本来の憂鬱質ではないので、憂鬱質に特徴的な「心に対する感受性」や、「美に対する感受性」や、「光や音に対する感受性」は持っていません。また、「憂鬱質的な不安」は「正しい知識」と「正しい考え方」を身につければ消すことが出来ますが(知識だけでは余計に不安が増えます)、「体験によって身につけた不安」は、ちゃんとした体験がその不安の背景にあるので、なかなか抜け出すことが出来ません。
2019.08.23
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日本語では「気質」を「気の質」と書きます。そして、「気」という言葉は、「気分」、「天気」、「気になる」など様々な使われ方をしています。気功などでは「気」を操っています。それに対して、英語では「temperament」や「disposition」などという言葉が使われているようです。その意味は「temperament」 気質, 気性, 機嫌, 為人, 気色, 気立て「disposition」 気質, 処理, 性質, 配置, 気性ですから、日本語の「気質」という言葉とは大分言葉のニュアンスが違います。シュタイナー教育も含め、ヨーロッパの人たちはこのような感覚で「気質」を理解しているのでしょう。ちなみに語源を調べたら、temper 「混ぜる、調節する」 ラテン語で tempus が「時間」で、それに -are という「反復を示す不定詞語尾」がくっついて、「(適切に)混ぜ合わせる、組み合わせる、調節する」などという意味の動詞 temperare になり、それが語根となったもののようだ。と書いてありました。https://shuminogo.exblog.jp/15587681/ここに「混ぜる」と出てきますが、昔のギリシャ人は気質を人間の中の四種類の体液の割合によって決まると考えていたようです。以下はウィキペディアの「四体液説」の説明からの引用です。「血液・粘液・黄胆汁・黒胆汁」の四体液説と「気・水・火・地」の四大元素との対応、「熱・冷・湿・乾」の4つの基本性質の関係。四体液説(よんたいえきせつ、英: Humorismまたはhumoralism)とは、「血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁」の4種類を人間の基本体液とする体液病理説(英: humoral pathology)である。体液病理説(もしくは液体病理説)とは、人間の身体には数種類の体液(ラテン語: humorは古代ギリシャ語: χυμός、chymosの訳語で、そのまま「体液」を意味する)[1]があり、その調和によって身体と精神の健康が保たれ(Eucrasia)、バランスが崩れると病気になる(Dyscrasia)とする考え方で、古代インド(アーユルヴェーダ)やギリシャで唱えられた。インドからギリシャに伝わったとも言われる。気質を表す「多血質」「胆汁質」「粘液質」「憂鬱質」という言葉も、この体液との関係で付けられた名前です。その四つの体液は黄・赤・緑・青などの「色」で表現されています。黒胆汁が強いと憂鬱質で、黄胆汁が強いと多血質です。ちなみにこのウィキペディアのページには 脾臓の機能が悪い場合には、黄胆汁は煮詰まったように黒胆汁となると書いてあります。つまりこれは調子が悪いと多血質は簡単に憂鬱質のようになってしまうということでもあります。でも、東洋における「気」の考え方はこれとは全く別のものです。西洋の「気質」は体液の組み合わせによって決まるのですから、当然その対象は「人間」だけに限られます。でも、東洋においては「人のからだの中の気は天地の気と共鳴し合っていて、人の気の状態は天地の気の状態と密接につながっている」と考えられて来ました。東洋では、「人間」と「自然」の境目がなかったのです。実際、「天気」の状態が人の「気分」、つまり「気の状態」に影響することは誰でも知っています。明るいところにいる時と暗いところにいる時とでも「気分」(気の状態)は異なります。自然や周囲の状態が人の「気の状態」に強い影響を与えているのです。そしてそれは「一時的な気質」の変化として表れています。これは経験的な事実でもあります。気質を「四つの体液の組み合わせ」として考えているだけでは、こういう現実が見えてこないのです。その場合の「気」とは動的なエネルギーのことです。そして「気」は上昇したり、下降したり、拡散したり、集中したりします。「気が散る」とは「気」が拡散してしまう状態です。そして多血質の人は「気が拡散しやすい」という特徴を持っています。それはその人の「からだの状態」とつながっています。また「気」は、共鳴したり、反発したりもします。「気が合う」という時には共鳴しているのでしょう。「気が合わない」時には反発しているのでしょう。胆汁質と憂鬱質は相性が悪いですが、粘液質と憂鬱質は相性がいいです。ギリシャ人は、体の中で起きているこのような変化の原因を四つの体液の組み合わせによって説明しようとしたのでしょうが、東洋人は、これを「天地の運行を支えている気(エネルギー)の働きの表れ」として考えたのです。ちなみに2000年前の中国にも「気質」の考え方はありました。「体液」が関係しているとしても、その「体液」を「天地の気を受け取るアンテナとして機能している」と考えれば矛盾はありません。もっとも現代医学ではその「四体液説」自体が否定されていますけど。また、「四体液説」に基づく「気質」は、黄・赤・青・緑などの色に例えられていますが、東洋的な「気質」は「色」というよりも「音」(音楽)に近いものです。その人の「気質」は、「その人の命のエネルギーが奏でる音楽」なのです。だから「気が合う」とか「気が合わない」という状態が生まれるのです。そして私が考え、皆さんに伝えている「気質」はその「音」の方です。西洋的な「色」の方ではありません。ただ、「色」は言葉で説明できますが「音」は言葉では説明が出来ないので、便宜的に気質の勉強会などでは「色」で説明したりしています。
2019.08.22
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明日(22日)の横浜(Umiの家)での気質の勉強会への参加者募集です。午前午後と通しです。「専門家向け」と書いてありますが、専門家でなくても大丈夫です。ご興味にある方は是非。詳細はhttps://coubic.com/uminoie/140679?fbclid=IwAR3m4SkY7s_ANYqGmBINRM6PvSdICzDN0ffxXMGFgdh6eqSp5z1PlDQ6z6Iでご覧になって下さい。*************気質には多血(たけつ)質、胆汁(たんじゅう)質、憂鬱(ゆううつ)質、粘液(ねんえき)質の四つがあるとされていますが、私は、胆汁質と憂鬱質の二つが、動物にとってはより根源的な気質なのではないかと思っています。なぜなら、自然界ではこの二つの気質が自分の命を守ってくれるからです。胆汁質は、戦って獲物を得たり、困難を乗り越える時に必要な気質です。生きようとする「意思の力」とも関係しています。それに対して、憂鬱質の方は危険から身を守る時に必要な気質です。相手が自分よりも弱ければ戦ってやっつければいいのですが、自分よりも強い時には逃げるしかありません。そして、自然界には絶対強者などいないのですから、どんな生き物でも、この二つの気質は必要になるのです。ちなみに「弱肉強食」という言葉がありますが、あれはウソです。それは、オオカミやライオンのような「強い生き物」と、ウサギやネズミのような「弱い生き物」の個体数を比べてみればすぐに分かることです。人間がオオカミやライオンを殺さなくても同じ状態だったはずです。弱い生き物の方が圧倒的に多数だったからこそ、強い生き物は食べ物を得ることが出来たのですから。自然界はジャンケンの世界と同じで、絶対強者はいないのです。数学的論理で考えれば、AはBよりも強い。BはCよりも強い。じゃあ、AとCはどちらが強いでしょうかという問題の正解は、「Aの方が強い」になるのですが、自然界では「Cの方がAより強い」ということが普通に起こるのです。ですから、強い動物であろうと、弱い動物であろうと、自分の命を守るためには、この二つの気質が同時に必要になるのです。ただ、強い動物の方が弱い動物よりも胆汁質に優れ、弱い動物の方が強い動物よりも憂鬱質に優れているということはあります。男性と女性を比べたら、筋力的には男性の方が強いです。そのため。(例外もありますが)女性よりも男性の方が胆汁質が強いです。実際、一般的には男性と女性が力ずくで戦えば男性の方が勝ちます。そのため、男性が一方的に女性を支配しようとする時には暴力や威圧が使われます。それしか方法を知らないからです。(女性はもっと多様な「相手を支配する方法」を知っています。その方法を使って子どもや男性を支配しようとしている女性は多いです。)すると女性は憂鬱的な気質を強くして身を守ろうとします。よく、虐待やDVなどのニュースに接すると、「逃げればいいのに」と思うのですが、一度「憂鬱モード」に入ってしまうと、心とからだが固まってしまうので、動けなくなってしまうのです。「逃げればいいのに」というのは憂鬱モードに入っていない人の発想です。でも、そんな男性でも「絶対的に自分の手に負えない相手や状況」と向き合わなければならない時には、憂鬱質が強くなります。そして、保身を考えます。心を病んだり、自殺を考える人もいます。自分よりも弱い相手を支配したり、暴力を振るったりして、自尊心を守ろうとすることも多いです。(ただし、全部の男性がそうなるわけではありません。そこで幼児期の体験が大きな意味を持ってくるのです。)妊娠・出産・子育て中の女性は男性よりももっと日常的に憂鬱質的な状態になりやすいです。妊娠・出産・子育て中の女性は、身を守る能力が低下します。「子ども」という「守るべきもの」を守らなければなりません。そのため、女性は、そのような状態の時には憂鬱質が強くなりやすいのです。でも、女性のみんなが憂鬱質になるわけではありません。「自分と同じような状態の仲間」や「自分を支えてくれる人」に守られていれば、憂鬱質状態にならなくて済むのです。「安心」が人を憂鬱質状態に陥ることから防いでくれるのです。でも、ひとりぼっちで子育てをしている人は簡単に憂鬱質のようになってしまいます。(ただし、この場合も幼児期の体験が大きな意味を持ってきます。)そして身を守ることばかり考えるようになります。子どもを守らなければならない立場なのに、子どもからも身を守ろうとしてしまう人も多いです。すると「虐待」が発生します。ちなみに男性は目的を共有することで群れを作りますが、女性は安心を得るために群れを作ります。そのため時にお互いに束縛し合ったりします。一人の自分勝手な行動がみんなの不安をかき立ててしまうことがあるからです。胆汁質が強い女性は、この「束縛し合う群れ」を嫌い、群れからは適当な距離を取ろうとします。でもそのことで、イジメの対象になってしまうことがあります。
2019.08.21
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最初にちょっと連絡です。茅ヶ崎での気質の勉強会にお問い合わせ下さったAさん。不思議なアドレスのためメールの返信が出来ません。ということで、茅ヶ崎での勉強会の案内をこの最後に載せておきました。********************胆汁質の人は目標を決めてから行動することが多いです。そのため、スポーツのような「目標が立てやすい活動」を好みます。政治家も胆汁質の人が多いです。表現活動のような「結果が曖昧になるような活動」は楽しめません。ただし、表現活動などでもコンクールがあるような活動では燃えます。目標に向かって頑張るのが好きなのでリーダーになったりもします。頑張れば結果を積み重ねることも出来るので、他の人の評価も得やすいです。「成長」より「上達」の方が好きです。というか、「成長」と「上達」の違いがよく分かっていません。また、絵本などでも結果がはっきりとしている絵本が好きです。結果が曖昧な絵本や、感性に訴えるような絵本は苦手です。過程を楽しむとか、味わうという感性が乏しいので、そういう絵本を読んでも何が楽しいのか分からないのです。胆汁質にとって重要なのは、過程ではなく結果なんです。また胆汁質の人は、常に「自分は正しい」と思い込んで、それを疑いません。そのため、人の意見を受け入れません。自分の意見と同じ意見の人はすぐに「仲間」として受け入れますが、自分の意見を否定する人は「敵」として戦いを挑みます。さらに困ったことに、自分の考えや目標を平気で他の人にも押しつけたりもします。その時、もともとあまり自分の考えがない多血質の人は、素直にそれを受け入れます。粘液質の人は自分の感性に従って判断します。表だって抵抗はしませんが言いなりにもなりません。無言でマイペースで行動するのです。ですから、胆汁質の人は粘液質の人が苦手です。粘液質の人は胆汁質の人を「面倒くさい人だな」程度にしか感じていません。一番強く胆汁質の影響を受けるのが憂鬱質です。なぜなら、一見正反対に見える胆汁質と憂鬱質ですが、本質的なところでは似ているからです。写真で言うところのネガとポジのような関係なんです。まず、両者とも頑固で柔軟性がありません。からだも固いです。(頭の固さと、からだの固さはリンクしています。)そのため、両者とも自分の意見と異なる意見の人の話を聞こうとはしません。ただし、胆汁質の人は自分と異なる意見の人がいれば戦いを挑みますが、憂鬱質の人は心を閉ざして寡黙になります。そして、両者とも「自分の世界」を守ろうとするのです。ただ、胆汁質と憂鬱質とでは「守りたいもの」が正反対なので、反応が逆になるのです。胆汁質の人が守りたいのは「行動の自由」です。それは、英語圏の人たちが考えている「自由」でもあります。行動の自由がないことには目標が達成できないからです。それに対して憂鬱質の人が守りたいのは「心の自由」です。「自分らしさ」を守りたいのです。それは、日本語本来の「自由」という言葉の意味に近いものです。でも、結果が全ての胆汁質から見たら、何の結果も生み出さない「自分らしさ」には全く意味がありません。そのため、「そんなことに囚われていないで行動しろ」と追い立ててきます。「自分らしさは行動で創り出せ」、「あなたの行動が、あなたの、あなたらしさを創っていくんだ」ということです。それもそれで事実です。でも、憂鬱質の人は、どうしても、「行動」よりも、「行動の背景にある心」の方に意識が向いてしまうのです。ですから、他の人の行動を見ても、胆汁質の人は「何をしたのか」しか見ませんが、憂鬱質の人は「どういう気持ちでやったのか」ということの方を見てしまうのです。子どもが親の言うことを素直に聞けば、胆汁質の人は素直に褒めます。でも、憂鬱質の人は「子どもの気持ちを否定していないか」「自分の心を大切にする感性を潰してしまったのではないか」などと考えます。だから身動きが取れなくなってしまうのです。また、お母さんが子どもを褒めてもそこに下心があれば、憂鬱質の子はすぐに気付きます。「褒める」という形での価値観の押しつけに違和感を感じるのです。一方、裏を読まない胆汁質の子はすぐに乗せられ喜びます。そしてさらに頑張るかも知れません。多血質の子も喜びますが、喜ぶだけで行動にはつながりません。粘液質の子は褒めてもあまり喜びもしません。嬉しくないことはないのですが、でも、自分がやりたいからやっているだけのことなので、人の評価は関係がないのです。ただし、私がブログで書いていることは、話を分かりやすくするため、それぞれの気質の特徴を強調し、パターン化しています。実際にはもっと多様性があります。***************気質の勉強会は茅ヶ崎で月一でやっています。9月は7日(土)です。<会場> JR茅ヶ崎駅の改札(一つしかありません)を出て、右側に行き、階段を降りずにそのまま外に出て、左に曲がる道をそのまま行き、突き当たったビルです。 壁に「市民ギャラリー」と書いてあるビルの5Fの創作室Aです。部屋は「ポランの広場」という名称で取ってあります。<参加費> 2000円 当日お支払い頂きます。子育ての勉強会は今年はお休みしています。あと、「からだの会」というのも月一でやっています。
2019.08.20
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「気質のワーク」、呼んでいただければどこへでも行きますよ。詳しくはhttp://www002.upp.so-net.ne.jp/nenemunomori/mokuji5.htmをご覧になって下さい。***************気質の本などを読むと、胆汁質の特徴として「怒りやすい」と書いてあります。私が昔読んだシュタイナー系の気質の本にもそう書いてありました。私も、胆汁質の特徴として「怒りやすい」と書くこともあります。そのためか、気質のワークをすると「私は怒りっぽいので胆汁質かも知れない」というようなことを言ってくる人がいます。その一方で、「胆汁質はリーダーに向いている」とも書いてあります。でも、「私は怒りっぽいので胆汁質かも知れない」と言ってくるようなお母さんは、とてもリーダーに向いているようには見えません。そもそも、「怒りっぽいリーダー」なんてイヤでしょ。実は「胆汁質は怒りやすい」というのは誤解なんです。さらに、もう一つの誤解も加わっています。それは「私は怒りっぽいので胆汁質かも知れない」と言ってくるような人の怒りは本当の意味での「怒り」ではないということです。そのような人が「怒り」だと思い込んでいるのは、単なるイライラに過ぎないからです。そしてその「イライラ」の原因は心とからだがいっぱいいっぱいだという状態の現れに過ぎません。ほとんどの人は、心とからだがいっぱいいっぱいになってしまったら、イライラしてくるのです。そしてこれは、動物としての自然な生理現象であって「気質」の表れではありません。そして、イライラしている人はちょっとしたきっかけがあれば「怒り」を爆発させるのです。「子どもにとっては当たり前の行為」であると頭では分かっていても、子どもが言うことを聞かない、子どもが洋服を汚した、子どもがご飯をちゃんと食べないなど、「子どもが自分に対してさらなる負荷を押しつけるような行為」をすると、理性を超えて「もうやめて」という感情が「怒り」として爆発してしまうのです。これは「怒り」ではなく「悲鳴」です。もちろん、胆汁質の特徴としての「怒り」でもありません。胆汁質の特徴としての「怒り」にはちゃんと原因があります。そして、その原因を取り除けば解決することが出来ます。からだがいっぱいいっぱいの時の「イライラ」は子どもが泣いて謝っても収まりませんが、「原因のある怒り」は問題が解決すればスッと収まるのです。それと胆汁質の特徴としての怒りは、「理不尽なこと」に向けられることが多いです。人をいじめる人、社会ルールを守らない人、自分勝手な人、責任感のない人、言い訳をする人、何かを押しつけてくる人、自分の自由を奪おうとしてくる人、に対して強い怒りを感じる傾向があるのです。ですから、子どもが洋服を汚してきてもそれだけでは怒りません。でも、そこで子どもが言い訳をすると怒ります。でも、子どもが素直に謝れば即座に怒りは収まります。ニコッとして、「分かればいいんだと」と言うこともできます。胆汁質の人は感情を引きずらないのです。また、このような特徴があるから、リーダーにも向いているのです。(ただし、だからといって胆汁質の人が「正義の味方」だということではありません。あくまでも自分の価値観を基準にして「理不尽」と感じたことに対して怒るだけだからです。ヤクザの親分だったら警察の理不尽なやり方に腹を立てているかも知れません。)その点、憂鬱質の人は負の感情を引きずります。一度怒ったら、しばらくは「怒った顔」が元に戻りません。そして、胆汁質の人はそんな憂鬱質を見ているだけで腹が立ってきます。胆汁質の人には感情を引きずる感覚が理解出来ないからです。またそれとも関係していますが、憂鬱質の人は失敗した時のことをいつまでも忘れません。そして、また失敗するのではないかといつも不安を感じています。成功したことがあっても、成功した時のことは「まぐれ」として処理してしまい、失敗した時のことだけをちゃんと覚えているのです。それに対して、胆汁質の人は「失敗した時」のことはすぐ忘れて、「成功した時」のことしか覚えていません。だから危機管理能力は低いです。ギャンブルでの「たった一度の勝ちの喜び」を忘れることが出来ずに泥沼にはまってしまうこともあります。一度勝った後はズーッと負け続けているのに、勝った時のことしか覚えていないので止められないのです。
2019.08.19
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一般的に、ものを作る時には、木や鉄や石などを使うことが多いです。そして、それらの特性は全く異なります。でも、それらがどのような形になるのかは作り手次第であって、全く異なった材質なのに、同じものを作ることも出来ます。たとえば、木でも、鉄でも、石でも、イスは作れます。スプーンも、カップも、家も作れます。でも、同じ用途のものであっても、そのものの材質が異なれば扱い方が異なります。使い方も、使い心地も違います。木のスプーンは湿気を吸いやすいです。汚れやすいです。ちゃんと手入れしないとすぐにかびたり腐ったりします。また、強度は弱いです。でも、軽くて、風合いがあって、手になじみやすいです。色を塗ったりもしやすいです。漆を塗れば何百年も持たせることが出来ます。これは「木」という材質自体の持つ特性なので、木が、スプーンでなくて、イスや、カップや、家になっていても同じことが言えます。鉄のスプーンは強いです。水に濡れたままにしておくと木と同じように腐りますが、油を塗ったりして表面を保護すれば、これも何百年も持ちます。強度があるので多少乱暴に扱っても壊れにくいです。ただ、木のように装飾するのはなかなか困難です。色を塗っても塗料を吸い込まないので、すぐに剥がれます。また重いです。一番手入れに気を遣わないでいいのが石のスプーンです。湿気があるところに置いておいても腐りません。でも壊れやすいです。餅つきの臼には木のものと石のものがありますが、木の臼はちゃんと手入れをしておかないとすぐにカビが生えたり腐ったりしてしまいます。でも、石の臼は野ざらしにしておいても、使う時に洗えば大丈夫です。このようにそれぞれの素材にはそれぞれの特性があります。そしてその特性に合わせてそれらの素材を使うのなら、その素材の能力を最大限に生かすことが出来ます。そして、「気質」はこの「素材」のようなものです。生まれつきの心や、感覚や、からだの特性を分類したものです。「素質」や「個性」と呼ばれるものともつながっています。子どもはみな同じ状態で生まれてくるのではないのです。オギャーと産まれた時点で、もっと言えばお腹の中にいる時から、一人一人みんな「特別な個性を持った存在」なんです。それは子育ての結果ではないし、子育てでどうこうできることでもないので、それはそのまま肯定して、受け入れるしかないのです。親の役割は、子どもが自分の気質や、個性や、特性を生かせるような生き方が出来るように支えてあげることです。何人かの職人に同じ木を与えて何かを作ってもらったとしても、実際に何が作られるかは職人さん次第です。家を作る人もいるかも知れませんが、パルプにして紙を作る人もいるかも知れません。そして、その職人さんにあたるのが親や成育環境になります。ですから、親は気質を変えることは出来ませんが親の役割は非常に大きいのです。実際、同じ気質の子でも、親や成育環境が異なれば、見かけ的には全く異なった状態の大人に育ちます。「憂鬱質」という材質の特性を無視して「強い子に育て」と願い、鉄を鍛えるように鍛えようとしたら、簡単に折れてしまうでしょう。でも、同じ憂鬱質の子でも、強さを求めるのではなく、そのデリケートさや優しさを生かすような育て方をすれば、自分に自信があり、思慮深く、優しい人に育つでしょう。素材の特性を無視して「自分が作りたいもの」を無理矢理作ろうとすれば、何かの形になる前に壊れてしまうこともあります。子どもが「どういう大人に育つのか」という点において親の影響はものすごく大きいですが、親がどんな育て方をしても、子どもが持って生まれた材質自体を変えることは出来ないのです。そして変えようとしてはいけないのです。そんなことしたら子どもは「自分が否定された」と感じるだけです。自分が否定されていることを感じながら育った子が自分を肯定できる大人になることが出来るわけがないのです。
2019.08.18
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「憂鬱質の子は臆病だ」という印象がありますが、これは誤解です。「憶病」なのではなく「デリケート」なんです。その背景にあるのは「他の気質の人との感覚の違い」であって、「憶病」というような「性格の違い」ではないのです。人はどの気質の人でも、自分の許容できる範囲内の刺激ならイライラしないし、不安や恐怖も感じません。でも、どの気質の人でも、自分の許容量を超える刺激に対してはイライラしたり、不安や恐怖を感じます。ですから、この点に関しては気質の違いはありません。問題はその許容量が気質によって大きく違うということなんです。一番強い刺激に弱いのが憂鬱質です。そして、一番強いのが胆汁質です。そして、理解して欲しいのは、この「気質の許容量の違い」は「感受性の違い」でもあるということです。憂鬱質の人は単に刺激の許容量が少ないのではなく、かすかな刺激も感じ分けることが出来る感性を持っているのです。私たちは、音などの刺激が変化していった時、その変化を感じ取る能力を持っていますよね。だから、「音が小さくなった」とか、「大きくなった」ということを認識できるわけです。その時、憂鬱質の人は胆汁質の人には感じ分けることが出来ないような小さな刺激の変化でも感じ取ることが出来るのです。なぜなら、感受性のメモリが細かいからです。でも、それを感じ取れない人には「憶病だ」とか「神経質だ」と言われます。また、メモリが細かい故に大きな刺激は量れません。ミリグラムという重さまで正確に測ることが出来る秤では、何トンという重さのものは測れないのです。そんな重さのものを載せたら、秤が壊れてしまいます。重いものを量る時には重いもの用の秤が必要になるのです。そしてそれが、胆汁質の人の感覚です。ですから、この違いは用途(適性)の違いに過ぎません。でも、胆汁質の人は自分の「鈍さ」を「強さ」だと思い込んでいます。そして、自分にとっては大して重くもない物にヒーコラ言っている憂鬱質に、「なんだこれくらいで音を上げて、だらしないぞ、もっとガンバレ」などと発破をかけます。でも、憂鬱質の人には頑張るという能力があまりありません。「頑張らなければ」という気持ちを持っても、実際には胆汁質のように頑張れないのです。なぜなら、感受性がデリケートなので、無理して頑張るとその感受性が傷つくからです。憂鬱質のそのデリケートな感受性は「頑張るためのもの」ではなく「味わうためのもの」なんです。逆に、強い刺激が心地いい胆汁質の人は、頑張ることを楽しむことが出来ます。でも、胆汁質の人も憂鬱質の人もそのようなことを知りません。そして、胆汁質の人も憂鬱質の人も、憂鬱質のデリケートさを「弱さ」だと思い込んでしまっています。そのため、憂鬱質の子を見ると、「もっと鍛えて強くしなければ」と子どもを追い立てます。強い刺激が苦手で恐怖なのに、「慣れなさい」と無理に強い刺激のところに連れ出します。でも、感覚の特性はその子の命の働きと密接につながっているので、叱っても、叩いても、説得しても変えようがありません。でも、そのことを知らない大人は「もっと無理強いすれば・・・」と考え、子どもを追い立て、子どもを変えようとします。その繰り返しで、子どもは憶病に、そして恐がりになっていくのです。憂鬱質だから憶病で恐がりなのではなく、周囲の大人が憂鬱質の子のデリケートさを理解しないから、憶病で恐がりな子に育っていくのです。ですから、憂鬱質の子でも、9~10才頃までそのデリケートな感受性を守られて育った子は憶病でも恐がりでもありません。ちなみに、憂鬱質の子にとっては人工的な機器が作り出す刺激は強すぎます。刺激の強いゲームで遊ぶだけで憂鬱質の子の感受性は傷つくと思います。そして、憂鬱質の子のよさが失われます。
2019.08.17
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私達は、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の5つの感覚を通して世界を認識しています。逆に言うと、この世界に、この5つの感覚では認識できない要素があったとしても、私達にはそれを認識する手段がないということです。生まれつき目が見えない人には色を認識する手段がありませんよね、それと同じです。じゃあ、この5つの感覚を持っている人は皆同じように世界を見て、感じて、認識しているのかと言うと、そういうわけではありません。視覚について言えば、色に対する感度が高い人もいれば、色よりも明暗に対する感度が高い人もいます。また、「形」を認識したり、「動き」を認識したりするのが得意な人もいれば、不得意な人もいます。同じようなことが、視覚以外の感覚の働きにおいても言えます。このように人は皆それぞれ固有の感覚特性を持っていて、その感覚特性に合わせて世界を認識しているのです。多くの人が、他の人も自分と同じように色や形や物を見ていると思いこんでいますが、実際には、自分が見ている世界は自分にしか見えない世界なんです。だから、自分が見ている世界だけを基準にして物事を考えていたり、判断したりしていると、他の人と対立してしまうのです。でも人は、自分の感覚は疑わずに、「相手が間違っている」と言い張ります。お母さんは我が子に、先生は生徒にいつもそれをやっています。そして、「気質」というものは、その感覚特性の違いを分類したものでもあるのです。だから、気質が異なれば異なった世界を見て、異なった音を聞いているのです。だから反応が異なっていても当然なんです。そしてだから、叱っても、叩いても、説得しても、変えることができないのです。まただから、変えようとするのではなく、生かそうとした方がいいのです。
2019.08.16
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最近、芸能人のSNSなどでの炎上騒ぎが多いですよね。有名な人がネットなどで「自分の意見」を言うだけで、直接関係もない人たちが匿名で、罵詈雑言を山のように書き込み、炎上してしまいます。気分が悪くなるので、あまりそのような人の書き込みをちゃんと読んだことはありませんが、ちょっと読んだ感じでは、そのほとんどが「生意気だ!」的な感情論ばかりです。反対意見にもなっていません。ちゃんとした反対意見ならちゃんとした反対理由を書けばいいのですが、「明確な反対理由」などないのに偉そうに文句を言ってくるのです。というかそれもそのはずで、ちゃんとした事情を知りもしない無関係な第三者に明確な反論なんて書けるわけがないのです。本来は、「この人はこういう考えなんだな」程度で受け取ればいいだけなのに、なぜか自分一人の価値観だけを基準にしてその言葉の是非を判断し、それを「天下の正義」のように大きな声で騒ぎ立てるのです。そこにあるのは「憂さ晴らし」(ストレス発散)だけです。反論どころか自己表現にもなっていません。自己表現として何か言いたいのなら匿名ではなく、実名で意見を言うべきです。さらに問題なのは、このような人たちがネットの世界だけでなく、実際の世界にも増えて来ていることです。幼稚園や学校などに対する文句を、匿名で言ってくる人も多いようです。また、バイト先の冷蔵庫などに入り込んでその動画を撮ってアップして捕まった若者もいましたが、そういう人たちの感覚も基本的には匿名で文句を言ってくる人と同じです。「モンスター○○」や「暴走○○」と呼ばれるような人たちも同じです。そういう人に共通しているのは「他者の感覚や価値観を認めないし、受け入れないし、理解しようともしない」ということです。むしろ、「ちゃんと自分の名前を出して、自分の意見を言うやつ」は生意気なんです。今の日本では、自分の意見を言っただけで「生意気なやつ」扱いされてしまうのです。そして、「あいつは生意気だ」というレッテルを貼られただけで、いじめられても文句を言う資格がなくなってしまうのです。文句を言えばさらに「生意気だ」ということになってしまうだけです。「冷静に日本の状況や未来を考えようよ」と言っただけで、反日とか国賊と言われてしまいます。「日本は素晴らしい国だという幻想」を疑う人は、みんな反日で国賊になってしまうのです。戦争中と同じです。と聞くと、「自分はそうではない」と思う人も多いかも知れませんが、子どもが言うことを聞かないと叱ったり叩いたりする親は多いですよね。学校でも、「感想文を書きなさい」と言われて、素直に自分の感想を書いたら先生に指導されてしまいますよね。絵でも、自分の感性に合わせて描いたら指導されてしまうことがありますよね。「感想文」も「絵」も、先生の頭の中にある正解に合わせて書かないと肯定されないのです。子どもも「お母さんの頭の中にある正解」に合わせて行動しないと叱られてしまうのです。それも同じではないですか。子どもがお母さんの言うことに対して「自分の意見」を言ってきた時、頭ごなしにそれを否定せずに、ちゃんと耳を傾けることができますか。それが出来ないと言うことは、「他者の感覚や価値観を認めないし、受け入れないし、理解も出来ない」ということではないですか。今の日本の子どもたちは、幼い頃から正解を与えられ、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意思と判断することを否定されて生きています。昔の子どもたちはそういうものを「遊びの場」で育てていましたが、今の子にはその「遊びの場」すらありません。そして、幼い頃から正解を与えられ、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意思と判断することを否定されて生きて来た子は、自分の意見を言ったり、自分の意思と判断で行動しているやつを見ると、腹が立ってくるのです。子どもに腹を立てている人の話を聞くと、その大部分が「言うことを聞かないから」ということです。子どもが自由に行動しているのを見ているだけで腹が立ってくる人もいます。このように人に自分の価値観を押しつけているくせに、そういう人に限って自己肯定感は低いのです。だから、匿名でしか投稿できないし、子どもにもちゃんと自分の考えや意見を伝えることが出来ないのです。そして、そのような人たちは「多様性」を認めません。自分の「正しい」とは異なる「正しい」があるということが理解出来ないからです。でも、正解は一つではないのです。Aさんの正解と、Bさんの正解は同じではないのです。人間の正解と、人間以外の生き物たちの正解も同じではありません。文明社会で生きている人たちの正解と、自然の中で生きている人たちの正解も同じではありません。子どもの正解と大人の正解も同じではありません。さらには、同じ人であっても、「食前の正解」と「食後の正解」が異なることもあります。そこで現代人は「どれが一番正しいんだ」ということを問題にし始めるのですが、どれも正しいのです。「正解」は状況に応じて発生してくるものですから、実際には常に変化しているものだからです。むしろ、「正解」を固定した時点でそれは「正解」ではなくなってしまうのです。で、気質の学びが、他者の視点や価値観を学ぶきっかけになっていくのです。
2019.08.15
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中南米に住むインディオと呼ばれる人たちの主食はトウモロコシでしたが、その栽培方法には一つの特徴があったそうです。それは出来るだけ多くの種類のトウモロコシを植えるということです。多分、現代の一般的な農家では一種類のトウモロコシを植えることの方が多いのではないかと思います。その方が管理が簡単だし効率的だからです。お米などでも農家ごとに違う種類のものを植えることはあっても、それは個々の農家の判断であって、「みんなで違う種類のお米を分けて植えよう」という地域全体の判断ではないと思います。お米ごとに肥料も扱い方も違うので、効率的ではなくなってしまうからです。ではなぜインディオの人たちはそのような非効率的な栽培方法を採っていたかというと、どんな天候の時でも、病害虫が流行った時でも、色々な種類のトウモロコシを植えておけば、最低限の食料は確保することが出来るからです。同じ種類のトウモロコシは同じ環境の変化に対して同じ反応をします。ですから、暑さに弱いトウモロコシばかりを植えていたら、夏が過度に暑い年には全滅してしまいます。でも、同時に暑さに強い種も植えておけば、暑さに弱い種は枯れても、生き延びる程度の食料は確保出来ます。でもいつも暑いとは限りません。翌年は寒いかも知れません。その時は暑い時に収穫できた種は枯れてしまっても、暑い時に枯れてしまった種が食べるものを与えてくれます。病害虫に対しても同じです。多様な種を植えておけば、その病害虫に弱い種は枯れても、強い種は生き延びます。全部同じ種類のトウモロコシを植えれば、確かに効率的で手間は省けるでしょう、でも、その種類に合わない天候の時や、病害虫が流行った時には一気に全滅してしまい、村が全滅してしまいます。つまり、多様な種の作物を植えておくことで、食に関する安全性が高まるのです。ただし、そのように多様性を大切にすることで生き延びてきたのはインディオの人たちだけではありません。同じような智恵を、昔は世界中の人たちが持っていたのではないかと思います。そうでないと、生き延びる可能性が低くなってしまうからです。昆虫食もその「食の多様性」の一部です。現代人の中には「肉がないと生きていけない」というような人もいますが、そんな人は昔は生きていくことが出来なかったのです。そして、多様性に支えられてきたのは食べ物だけではありません。人間を含めた全ての生き物たちも自らの内側に多様性を組み込むことで生き延びてきたのです。多様性は生物の生存戦略でもあるからです。村(部族)の人材も多様な人がいた方が、村の存続に有利でした。村の中に、戦う能力が高い人がいれば、敵が襲ってきた時に生き延びる可能性が高くなります。でも、敵の中に戦略を練るのが得意な人がいたら、ただ戦いに強いだけの人は女性や子どもにすら負けてしまいます。みんなをまとめ、指揮する人がいなければ、どんなに力が強い人や、戦略を練るのが得意な人がいても、戦いには負けてしまいます。さらには、戦いに強い人たちが戦っている時に、子どもや年寄りの面倒を見て、兵士達の食料や生活の面倒を見る人たちがいなければ、長い戦いは出来ません。「明日、敵が攻めてきて、もしかしたら全滅してしまうかも知れない」という時にでも、目の前の子どもの食事を用意し、泣いている子どもをあやし、戦いで疲れている兵士をいたわる人も必要です。今を大切にすることが、未来への希望をつなぐことになるからです。また、歌や踊りのようなものでみんなの気持ちを鼓舞したり、和ませる人たちも必要でしょう。戦争中にも慰問団という人たちが前線にまで行って兵士の心を癒やしました。このように、一つの村の中に多様な能力の人がいることで、村が生き延びる可能性が高くなるのです。そして「気質」の違いが、その多様性の違いの背景にあるのです。胆汁質が強い人は戦うのが好きです。でも細かいことを考えるのは苦手です。というか、細かいことを考えないから、命の危険も顧みずに戦うことが出来るのです。でもそれ故に、胆汁質だけの人は簡単な戦略に引っかかってしまう可能性が高いです。取り巻きが間違った情報を与えていても気がつきません。そこで粘液質と憂鬱質の出番になります。粘液質の人は個人的な感情に振り回されないで、全体の状況を俯瞰的に見ることが出来ます。でも、俯瞰的に見ることは得意でも、そこから具体的な判断をして、具体的な行動につなげることは苦手です。憂鬱質の人は心配するのが得意なので、「もしかしたらここに罠が仕掛けてあるかも知れない」、「もしかしたら裏側から襲ってくるかも知れない」という可能性を教えてくれます。ただし、粘液質や憂鬱質の人は色々な情報を与えてくれますが、その情報に基づいて判断したり、決断したり、行動するのは苦手です。それに対して、胆汁質の人は自分で情報を見つけ出す能力は高くありませんが、でも、粘液質や憂鬱質が提供してくれる情報を基に判断し、決断し、行動するのは得意です。多血質の人はみんなが深刻になりすぎるのを防いでくれます。子どもや老人の面倒を見るのも得意です。このように「気質」は「人間の命の働き」の生存戦略の一部なんです。このように、「気質」は群れの中でその意味と価値が表れるものなんです。でも、現代人は人間を個人単位で考える癖が付いてしまっています。だから「気質」の意味も、「気質」の大切さも、「自分の気質」も分からなくなってしまっているのです。
2019.08.14
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皆様、夏休みいかがお過ごしですか。私は、おととい、昨日と、孫と一緒にキャンプに行ってきました。ということで、ここいらで気分を変えてまた「気質」の話を始めます。***********社会というものがもたらす価値は全て「相対的な価値」です。美人・不美人も相対的なものです。成績の善し悪しも、人の評価も、お金持ちかそうでないかという価値も全て相対的なものです。「おらが村の神童」も、「東大に入ったらタダの凡人だった」という話は時々聞きます。お金の価値も相対的なものです。お金がない人が宝くじで1000万円当たれば大喜びするでしょう。満足感も得るでしょう。でも、しばらくしたら1000万円じゃ足らなくなってきます。それまでは「資産ゼロ」が「ゼロ基準」だったのに、「1000万円」を手にしてしばらくすると「1000万円」が「ゼロ基準」になってしまうからです。メモリの位置が変わってしまうのです。「成績」も、「清潔」も、「よい子」も同じです。そして、相対的な価値の世界ではその「メモリ位置の変更」は日常的に起きているので、そういうものを求めていると心が振り回されてしまい、不安定になってしまいます。インフレになれば一万円が一円になってしまうようなことだって普通に起きます。革命が起きれば、権力者が簡単に犯罪者になってしまいます。中国の文化大革命の時にも、権力の上下の逆転が起きました。「社会」という共同幻想の中で暮らしていると、「社会が与える価値」が実際に存在しているかのような錯覚に囚われてしまいますが、でも、そういうものは全て比較の中にしか存在していないものであって実体がないのです。だから、「手に入れた」と思い込んでも、しばらくすると蒸発してしまうのです。整形しても整形しても満足できないのもそのためです。まただから、「実体がないもの」を求めるように子どもを追い立ててしまうと、子どもは不安ばかりが強くなり、自分が自分らしく生きる能力を育てることが出来なくなってしまうのです。そして実は、「気質」と呼ばれるものも、「人間関係」の中で生まれる相対的なものなんです。あるグループの中では胆汁質的な人が、別の胆汁質が強い人たちのグループの中では多血質のようになってしまうことはよくあることです。多血質の人には粘液質に見えた人が、胆汁質の人には憂鬱質に見えることもあります。憂鬱質の人でも、安心できる仲間の中では多血質のようになったりします。仕事をしているときには憂鬱質に見えた人が、家の中では胆汁質のように振る舞っていることもあります。だから「私は何質でしょうか」と聞かれてもそう簡単には答えられないのです。「私は資産が3000万円あります。私は金持ちでしょうか?貧乏人でしょうか?」と聞かれても、なんとも答えようがないですよね。お金をあまり使わない生活をしている人にとっての3000万円は大金ですが、一日に何百万円とか何千万円というお金を使う生活をしている人から見たら3000万円は「はした金」です。「気質」もそれと同じで、その人が「どういう人の中でどういう生活をしているのか」ということとセットにして考えないことにはなんとも言えないのです。日本人の中では胆汁質だった人が、アメリカに行ったら多血質になったということもあります。日本の中では多血質だった人が、アメリカに行ったら粘液質として扱われることもあります。「気質」は常に周囲との関係性の中で変化しているからです。「この人は○○質だ」というように固定されたものではないのです。そういう点で、性格を固定的に分類する血液占いや様々な性格分類とは根本的に考え方が違うのです。まただから、私の本を読んだりして、自分で自分の気質を考えても分からないのです。いくら鏡を覗いて自分で自分を観察してみても、自分が美人なのか不美人なのか、頭がいいのか悪いのかなどということは分からないですよね。それと同じです。じゃあ、「気質」なんか無意味なのかというとそんなことはありません。「お金」や「美人不美人」や「学歴」と同じように実体はなくても、人間関係の中では、非常に重要な働きをしているからです。じゃあどうやって「自分の気質」を判別したらいいのかというと、「どの状態が一番居心地がいいのか」ということに意識を向けてみて下さい。それは「自分の置かれた状態」によって異なると思いますが、その「居心地が良い状態」が「自分が置かれた状態の中でのその人の気質」です。「自分は憂鬱質だ」と思い込み苦しんでいる人はいっぱいいますが、憂鬱質的な状態が苦しいのならその人は憂鬱質ではないのです。色々な原因で憂鬱質的な状態に押し込められてしまっているから苦しいのです。そういう人が、別の仲間の中に入って違う自分が引き出されて、「あ、私って多血質だったんだ!」と気付くこともあります。
2019.08.13
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現代人は「社会が与える価値」しか分からなくなってしまっています。「自分には価値がない」と考える人がいるのもその表れです。専業主婦や、子どもや、何らかの生産活動に参加できない人に対して「価値がない存在だ」と考える人もいます。でも、「社会」というものは人間の脳の中にしか存在していない概念的な存在にすぎません。しかも、他人と共有することで初めて価値を持つ存在です。それは「お金」の価値と同じです。「だから大切なんだ」と言えばその通りですが、でも、無人島に流されたら一気に消えてしまう程度の価値です。また、その価値を信じていない人には価値がない価値でもあります。「東大はすごい」と思っている人には「東大卒」はすごい価値ですが、「だからなんなんだ」と思っている人には、「東大卒」は何の価値も持っていません。現代人はそんな不安定な価値にしがみついて生きています。でも、人間は「社会」というものが生まれるずーっと前から、もう一つの異なる「価値」を大切に生きて来ました。子どもたちは今でもその価値の世界を生きています。それは、「社会によって与えられる価値」ではなく、「自分(自分たち)で創り出す価値」です。ピカピカの泥団子は、大人には「価値がないもの」かも知れませんが、それを作った子どもにとっては非常に価値があるものです。それを作れる子も「すごい子」です。自分で見つけた「きれいな小石」も、「大好きなお母さんを描いた絵」も、「お金には換算出来ない特別な価値を持ったもの」です。大人でも、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意思と判断で生きている人にとっては、「自分の人生」も「自分自身」も「価値のあるもの」です。でも、他人の評価を気にしながら生きている人は、「自分の価値」を社会の評価に依存しています。そういう人は、他の人が一生懸命に作ったものにも価値を感じません。そのような人は、自分も何らかの社会的価値のある仕事をしていれば「自分にも価値がある」と感じるのでしょうが、そういう立場にいない人は、「自分には価値がない」と感じて苦しくなります。そして、「自分に価値を感じない人」は、他の人にも価値を感じません。自分に価値を与えてくれない他者に価値を感じるわけが無いのです。むしろ、「他者の価値」を積極的に否定します。「他者」を否定することで「自分の価値」を創り出そうとするのです。人をイジメたり、犯罪を犯すことで「自分の価値」を創ろうとする人もいます。自分には無関係な有名人が、自分には無関係な事件を起こしただけで、口汚くののしることで自分の価値を作ろうとする人は多いです。「自分を否定した社会」を否定することで「自分の価値」を創ろうとします。でも、最初から「社会によって与えられる価値」に依存していない人は、社会を否定する必要がありません。自分の手を使って何かを創り出している人は、「自分が創り出したもの」に価値を感じます。そして、その「価値を創り出した自分」にも価値をかんじます。「山登り」が好きな人は「山」に価値を感じます。そして同時に、「その山に登っている自分」にも価値を感じます。他者を肯定する人は、その他者によって肯定されるのです。木に触れる人は、木によって触れられるのです。赤ちゃんを抱く人は、赤ちゃんによって抱かれるのです。風に触れる人は、風に触れられるのです。アニマルセラピーというものがありますが、動物を抱くことで、動物に抱かれるのです。だから、癒されるのです。だから、自分が大切にされたいのなら、他の人を大切にするのです。自分の価値を創りたいのなら、他の人の価値を認めてあげるのです。このようにして、自分の価値は自分で創ることが出来るのです。それが本当の「自分の価値」です。成績が良いとか、偉いとか、お金持ちだとか、良い子だという「他人の評価によって与えられる価値」は、ビンのラベルの価値であって、中味の価値ではありません。
2019.08.12
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現代社会における「ものの価値」は、社会経済における需要と供給のバランスで決まります。それがそのものの値段となって表れています。物だけでなく、命や自然の価値までも社会経済によって決められ、お金に換算されています。人の命ですら、「生涯いくら稼げるか」ということで量られたりします。実際、それが事故などの補償の時の保証金額の判断の基準にもなったりもします。全く同じように見えるものでも本物は高く、レプリカは安いです。本物と偽物の区別が付かない人には同じだろうと思うのですが、実際には値段が全く違うのです。どんなに頑張って作ったようなものでも、素敵なものでも、需要がないものは値段が安いです。そして値段が安い物には社会的な価値はありません。それに対して、簡単に作ることが出来るようなものでも、特許という社会システムによって守られたものは、値段が高く社会的な価値があります。また、海で拾った流木には社会的な価値はありませんが、それがお店に並べられて値段が付けられると社会的な価値が生まれます。そして大人は、その「社会的価値」によって、「ものの価値」を判断しています。つまり「高いもの」には価値があって、「高くないもの」には価値がないということです。本来は「社会的な価値(値段)」と「そのもの本来の価値」は全く別のもののはずなんですが、それが同一視されるようになってしまったのです。だからお金を稼いでいない「専業主婦」を「価値がない存在だ」と考える人もいるわけです。専業主婦を擁護する人たちも、「専業主婦の価値」を「お金に換算できる社会的な労働」に換算して「専業主婦の労働は社会的にはいくらぐらいの価値を持っている」と主張しています。寝たきりの障害者や子どもを「価値がない存在だ」と言う人がいるのも、寝たきりの障害者や子どもはお金を稼ぐことが出来ないからです。でも本来「お母さん」の役割はお金には換算できないものです。というか、全ての存在の価値はお金には換算できないのです。もちろん、障害を持っていようといまいと、子どもであろうと赤ちゃんであろうと、その存在は唯一無二のものであって、お金には換算できません。大人達は、「社会がものの価値を決める世界」に生きています。それは、お金が価値を決める世界であり、全ての価値が相対的であり「絶対的な価値」が存在しない世界です。価値の基準である「お金の価値」自体も常に変動しています。実際、「お金の価値」にはリアリティーがありません。それは脳内蜃気楼のようなものです。ですから、「お金中毒」になってしまっている人の心は不安定です。自分の脳の中にしか存在していないものを常に追いかけているのですから。また、常に変動していてリアリティーがない世界に生きているので、何かを信じるということもできません。それに対して、まだ自分の感覚に従ってリアルな世界の中で生きている子どもたちは、大人とは全く異なる価値の世界に生きています。子どもは「他人が決めた価値」や「大人が決めた価値」には振り回されません。「自分にとっての価値」は自分が決めます。10万円のダイヤモンドよりも、自分で拾い、自分で磨いてピカピカにしたドングリの方が価値があると思う子もいるでしょう。子どもの場合は、「自分との関係の深さ」がそのものの価値を決めているからです。この状態は思春期が来る頃まで続きます。それは単に、「自分でお金を稼いでいないから」ということではありません。思春期前の子どもには、お金に価値を与えている「社会」という組織自体が理解出来ないからです。科学的な思考も理解出来ません。子どもは古代の人と同じように、「物語」と「科学」を区別できないからです。ですから、今でも「お金が存在しない世界」に生きている人たちは、大人であっても子どもと同じ価値の世界に生きています。それは「自分たちにとっての価値は自分たちで決める」という世界です。「部族の中で共有できるリアリティー」が価値を決めているのです。神様も、「価値があったから大切にした」のではなく、「みんなが大切にしているものだから価値」があったのです。今では「高いものだから大切にしなさい」と言われますが、昔はみんなが大切にしているものだから価値があり、大切にしたのです。そして、本来は人間にとっての価値というものはそのようなものだったのです。自分にとっての価値は自分で決めていたのです。でも今では、社会的な価値がないものは全て「無意味で価値がないもの」になってしまいました。空気も、水も、土も、子どもも、光も、命も、葉っぱも、ドングリも・・・
2019.08.11
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で、問題になるのが、「対話とは何か」「聴くとはどういうことか」ということなんですが、実はこれがなかなか難しいのです。「対話」と似た言葉に「会話」という言葉がありますが、「会話」の方は比較的簡単です。会話とは「人と人が言葉のやりとりすること」というようなことです。対話が苦手な人でも会話は出来ます。でも、「対話」の方は状況も相手も限定されません。もちろん人間相手にも「対話」は可能ですが、他にも、「心との対話」「からだとの対話」「石との対話」「空間との対話」「重力との対話」「神様との対話」など、人間以外のものを相手に対話することも可能です。つまり、「対話」には必ずしも「言葉」は必要ではないのです。相手が人間である必要すらありません。「聴く」という意識があれば、どんな対象とだって対話が出来るのです。まだ言葉が話せない赤ちゃんとだって対話することが出来ます。まだ言葉を話すことが出来ない赤ちゃんは「会話」は出来ませんが、それでも「対話」は出来るのです。なぜなら、赤ちゃんはその「対話」を通して、色々なことを学んでいるからです。「見て、聞いて、体験して、色々なことを学ぶことが出来る」ということが、そのまま「対話が出来る」ということの証拠なんです。赤ちゃんは、自分の指をなめながら、色々とからだを動かしながら、ハイハイをしながら、自分のからだと対話しています。そして自分のからだの使い方などを学んでいます。お母さんのおっぱいを吸い、お母さんに抱かれ、お母さんの声を聴き、お母さんの目を見て、お母さんの心やからだと対話しようともしています。でも、お母さんが別のことばかりを考えていたり、スマホばかり見ていて赤ちゃんのその対話要求に気付かないでいると、赤ちゃんは次第にお母さんに「心とからだの対話」を求めなくなっていきます。さらに、お母さんが言葉に依存した子育てをしていると、子どもも言葉に依存するようになります。すると「会話」は出来ても「対話」が出来なくなっていきます。それはつまり、「見て、聞いて、体験して、色々なことを学ぶことが出来る能力」が低下して行くということを意味しています。ノコギリの使い方をマスターするためにはノコギリや、木材や、自分のからだと対話しなければなりません。いくらマニュアルを読んでも、youtubeで動画を見ても、実際に対話をしないことには「使い方」はマスターできないのです。そして今、子どもの達の「対話能力」が非常に低下しています。ノコギリなど使ったことがない子にノコギリを使わせても、最初はうまく使えません。それは誰でも同じなんですが、対話能力が高い子はしばらく使っているだけで、教えなくても、ちゃんと使えるようになってしまうのです。でも、対話能力が低い子は何回教えても、初心者のままです。そして「ぼく、ノコギリ嫌いだ」などと言い出します。対話能力が高い子は、「体験との対話」を通して成長することが出来るのですが、対話能力が低い子は、いつまでも同じ状態のままなんです。(そういう子に限ってマニュアルを欲しがります)ちなみに、幼児期に自然の中で、仲間と共に、色々な体験をして育った子は「対話能力」が高いです。布一枚でも、棒一本でも遊ぶことが出来ます。「対話能力」があるからオモチャがなくても楽しく遊ぶことが出来るのです。そういう子は、教えなくても、見せるだけで学ぶことが出来ます。そして昔の子はそれが普通でした。だから群れ遊びが伝承されてきたのです。子どもは子どもに丁寧に教えたりしませんよね、でも、対話能力が低い子の場合は、見せるだけでは意味不明です。丁寧に教えても理解出来ません。何回も繰り返しやらせて初めて何とか学ぶことが出来るのですが、でも、そこまで気力が持たない子が多いです。子育てでも「対話能力」が高いお母さんは子どもから学ぶことが出来るので、子どもとの触れ合いを通して「我が子に合った子育て方法」を見つけることが出来ます。でも、「対話能力」が低いお母さんは、目の前にいる我が子と対話をしようとせず、すぐにマニュアルを求めます。そして迷路にはまっていきます。「空間」と対話できる人は、「空間との対話」を通して「空間の持つ情報」を知ることが出来ます。「石」と対話できる人は、「石との対話」を通して「石の持つ情報」を知ることが出来ます。「沈黙」と対話できる人は、「沈黙との対話」を通して「沈黙の持つ情報」を知ることが出来ます。空間を見ているだけ、石を見ているだけの人にはそのような学びは出来ません。どうでしょうか、「会話」と「対話」の違いがお分かりになったでしょうか。
2019.08.10
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私は、コントロールや、支配や、被支配を防ぐ唯一の方法は「対話」だと思っています。子どもへの虐待を防ぐためには「子どもとの対話」が必要です。少数民族への虐待を防ぐのにも、移民への虐待を防ぐのにも、イジメを防ぐのにも、国と国の意地の張り合いを防ぐのにも対話が必要です。夫婦間のDVを防ぐためにも対話が必要です。逆に言うと、だから相手を支配しようとする人は対話を拒否するのです。「対話」を受け入れた時点で、相手との間に対等な関係が生まれてしまうからです。ただ問題は、多くの現代人はその「対話の方法」を知らないということです。国会討論を見ていると絶望的な気持ちになります。お互いに自分の言いたいことを言い合っているだけで、「国民のための対話」がどこにもありません。また、どんな「立派なこと」を言っていても、「対話の能力」がない人にはその「立派なこと」を実現する能力がありません。子どもの頃から比較され、競争に追い立てられ、機械を相手に一人で遊び、お母さんや先生の指示や命令に従い、一方的に話を聞くだけの生活をしていたら、当然のことながら対話の方法を学びようがないのです。それは子どもたちと会話していても強く感じることです。最近の子は自分のことばかりを話そうとするばかりで、人の話を聞こうとしません。というか、「聞く(聴く)」という能力が育っていないのです。友人の「かめおかゆみこ」さんが「聴く」というワークを長いことやっていますが、実は「聴く」というのは結構な訓練を必要とするほどの非常に難しい作業なんです。確かに耳で聞くだけのことなら耳に異常がない限り誰にでも出来ます。そしてみんな、単に「聞こえている」という状態を「聞いている」と理解しています。お母さんが「ちゃんと聞いてるの!!」と子どもに言えば、子どもはブスッとした顔をして「聞いてるよ」と言い返してくるでしょう。でも、ほとんどの場合それは、単に「聞こえている」というだけのことです。ちゃんと聞いているのなら行動にも反映するはずだからです。分からないことや納得が出来ないことがあるなら言ってくるはずです。でも、ほとんどの場合子どもは聞き流しているだけです。そしてそれは、「聞こえている」という状態であって「聴いている」という状態ではありません。「聞こえている」と「聴いている」という状態は全く別物なんです。じゃあ、「聴くとか対話って何なんだ」と聞かれても、聴くことや対話が出来ない人にそれを説明することは困難です。「聴く」とか「対話する」というのは、「概念」や「知識」ではなく、「ダイレクトに感覚の働きとつながったスキル(技術・能力)」ですから言葉化できないのです。「自転車の乗り方」を簡単に説明しようとしたら、「サドルにまたがってペダルを踏めばいいのです」としか言いようがないですよね。じゃあ、その説明で乗ることが出来るようになるかというと、なりませんよね。それは説明が足らないのではなく、「ダイレクトに感覚の働きとつながったスキル(技術・能力)」の世界は、自分の体験によって感じ取る以外に身につけようがないことだからです。でも私たちは、簡単便利な機械を手に入れましたが、それと引き替えに「ダイレクトに感覚の働きとつながったスキル(技術・能力)の世界」を失ってしまったのです。そして、「そういう世界があるんだ」ということ自体が分からなくなり、「マニュアルさえあれば何でも出来る」と勘違いする人が増えて来ました。だから、「子育て書」に依存してしまうのでしょう。子どもの「聴く能力」を育てるためには、お母さんが子どもの言葉や表現に耳と、意識と、心を傾け、ちゃんと聴こうとする必要があります。お母さんにちゃんと聴いてもらう体験をすることで、子どもは「聴く」という能力を育てることが出来るのです。友達や兄弟の関係でも同じです。「ちゃんと話を聞きなさい」と怒鳴ってばかりいたら、聴く能力は育たないのです。幸せな人間関係を築くための能力は、幸せな人間関係の体験を通してしか育てようがないのです。でも今、その人間関係そのものが希薄になってしまっています。唯一「お母さん」だけが子どもにその「幸せな人間関係」を体験させることが出来る存在なんですが、子どもの頃に「幸せな人間関係」の体験がなかったお母さんには、それも出来ません。じゃあどうしようもないのかというと、そこで必要になるのが「待つ」ということなんです。「聴く」ことは「(心を向けて)待つ」ことから始まるのですから。一般的に、対話が出来ない人は待てないし、待てない人は対話が出来ません。でも、ちゃんと自覚と意識を持つことで「待つ」ことは出来るようになっていくのです。すると対話も出来るようになっていきます。
2019.08.09
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現代人は何でもコントロールしたがります。物でも、動物でも、時間でも、空間でも、人でも、機械でも、命でも、子どもでも、コントロールしたがります。自分自身すらコントロールしようとしています。ちょっと具合が悪いとすぐに病院に行ったり、薬を飲んだりして、自分のからだをコントロールしようとします。「子育てマニュアル」などを見て、その通りに子育てしようとするのも「自分自身に対するコントロール」です。お母さん自身が「子育てマニュアル」によってコントロールされているわけですから、当然、子どももコントロールしようとします。コントロール通りに動いてくれないと、マニュアルが使えなくなってしまうので困るのです。従業員などを指導するためのマニュアルも、従業員をコントロールするためのものです。国は学校をコントロールし、学校は先生をコントロールし、先生は生徒をコントロールしようとしています。お母さんも先生にコントロールされ、子どもをコントロールする手伝いをしています。そしてこの「コントロール思想」は社会の隅々まで行き渡っています。お産までコントロールされています。なぜなら、文明はコントロールによって成り立っているからです。ですから、文明に依存している社会ほど、生活の細部までコントロールが行き届いています。ちなみに「掃除」や、「洗濯」や、「片付ける」ということもコントロールの仲間です。「物に対するコントロール」です。ですから「片付けるのが好きな人」は同時に「コントロールするのが好きな人」でもあります。清潔付きな人も「コントロールが好きな人」です。そんな「コントロールが好きな人」は、他者や自分のからだをコントロールすることで、「自分」という存在の価値を創り出そうとしているのだと思います。自己確認でもあります。だからこそ他者をコントロールする時には「自分の価値観」にこだわるのです。掃除好きな人はきれいに片付いた部屋を見て自己確認をしているのです。そんな「コントロール好きな人」の特徴は、「他者の視点に立てない」、「対話が苦手」、「視野が狭い」、「不安が強い」、「人間としての成長には興味がない」ということです。「他者の視点に立てない」これは当然のことです。相手の視点に立っていたら一方的なコントロールなど出来るわけがないからです。「対話が苦手」他者の視点に立てないのですから対話が出来るわけがありません。「視野が狭い」「コントロール好きな人」はコントロールできることにしか関心がありません。コントロールできないようなことには最初から関心がないのです。「子ども」をコントロールしようとしている人も、「子ども」のコントロールできる部分しか見ていません。ですから、成績や行動には関心があっても、表情とか、心とか、からだには関心がありません。「部分」には関心があっても「全体」には関心がないのです。「不安が強い」コントロールする目的自体が不確実性を消すためのものですから、これも当然のことです。「人間としての成長に興味がない」コントロールが好きな人はコントロール能力の向上には興味があります。コントロール技術を上達させたいとも思っています。でも、「技術の向上」には興味があっても、「人間としての成長」にはあまり興味がありません。そもそも、「人間」というもの自体に対する興味が薄いような気がします。また、コントロールが好きな人の子育てでは、子どもを「よい子」に育てることだけが目的になってしまっています。そのような人の世界は「コントロールできること」だけで閉じてしまっているので、世界が非常に狭いし、人間としての成長も困難になってしまいます。人間としての成長には、コントロールではなく対話が必要だからです。コントロールできない相手との出会いが、人を成長させるのです。成長することで相手を理解し、相手とうまくやって行こうとするからです。ですから、子どもをコントロールしようとすることをやめて、理解し、対話しようとすれば、お母さんはどんどん成長していくのです。子どもをコントロールする子育てをしていると、お母さんと子どもの関係が「支配者」と「被支配者」になってしまいます。そのような状態では、子どももお母さんも成長出来ません。成長する必要がないからです。
2019.08.08
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最近の子どもは、人工的に管理された方法によって、人工的に管理された環境の中で産まれ、人工的に管理された環境の中で、人工的に管理された方法によって育てられています。また遊びも、人工的に管理されたオモチャや機械を相手にして、常に大人に監視、管理されながら遊んでいます。子どもの定番であった「ケンカ」や「ケガ」ですら自由に出来ません。そのような環境の中では子どもは常に「客体」、つまり「ゲスト」です。自分の感覚と、思考と、意思と判断で自由に行動する場も、機会も与えられていません。またそのため、自分が生まれてきたリアルな世界と出会うことも、リアルな自分自身の心やからだと出会うことも、リアルな他の子や大人の心やからだと出会うことも困難になってしまっています。「リアルな世界」は、リアルな関わり合いを通してしか出会いようがないからです。そして出会うことがなければ、知ることも出来ません。そんな状態で育っていても、自然について、社会について、心について、からだについて、知識として学ぶことは可能です。そして実際、多くの子どもや大人が、そういうリアルな世界をリアルに体験することなく、知識だけで学び、知ったつもりになっています。でも実際には、「言葉化され、知識化され、観念化された世界」と「リアルな現実の世界」の違いは、「マネキン人形」と「リアルな人間」との違いくらい大きなものなんです。「マネキン人形」と「実際の人間」の違いは見れば分かりますが、「言葉化され、知識化され、観念化された世界」と「リアルな現実の世界」の違いは見ても分からないので、というか目では見ることが出来ないので、違っていることが分からないのです。そして、多くの人が「マネキン人形」に関する知識レベルの「人間に関する理解」で、子どもを育てようとしています。そのため、子どもたちは、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の心とからだの感覚で判断し、自分の意思で能動的に行動する能力が育たなくなってしまっています。そういうものはリアルな世界での体験を通してしか身につかないものだからです。そして、そういうものが育つためには自由と、自然と、仲間が必要なんです。でも、最近の子はこの全てを奪われてしまっています。そして、多くの子が「言葉化され、知識化され、観念化された世界」への理解だけで、現実の世界を生きようとしています。それは「ジャングルについて」という本を読んだりユーチューブを見るだけで、実際のジャングルの中に入っていくようなものです。それは全く無茶な話なんですが、リアルな世界の体験がない子にはそれが無茶な事であること自体が分からないのです。「火を熾せないでしょ」と聞けば「本で読んだし、ユーチューブでも見たから大丈夫」と答えるかも知れません。「獲物の捕り方が分からないでしょ」と聞けば、これも「本で読んだし、ユーチューブでも見たから大丈夫」と答えるかもしれません。「ヒョウに襲われたらどうするの」と聞けば、「この棒でやっつけるから大丈夫」と答えるかも知れません。また、「こう来たら、こう避けて、鼻を蹴っ飛ばせば大丈夫」と武井壮のように答えるかも知れません。実際、子どもたちと話をしていると、最近の子どもたちはこんな感覚で生きているのです。以前、「戦車に乗りたい」「戦争に行って鉄砲を撃ちたい」と言う子がいたので、「戦争に行ったら自分も死んじゃうかも知れないんだよ」と言ったら、「僕は大丈夫」という返事が返ってきました。「ゲームの中の戦争」と「リアルな世界の戦争」の違いが分からないのです。で、私は今の子のこのような状態に非常に強い危機感を持っているのですが、今ではお母さんやお父さん達まで同じ感覚になってしまっているので、子どものこの状態に何の問題も感じていません。説明しても理解されません。確かに、このような感覚のままでも、生活するには何の不自由もありません。仕事も出来ます。人工的な環境の中で、人工的なものと関わり、人工的な仕事をするだけなら、「リアルな現実」に対する「リアルな感覚」が育っていなくても何の問題もありません。だから、その状態に気づき、問題を感じている人もあまりいないのでしょう。でも、このような感覚では「子育て」が出来ないのです。子どもは「リアルな自然」そのものですから。また、「ビジネスライク的な役割分担」は出来ても、助け合ったり、支え合ったりするような「人間らしい人間関係」も築けません。「人と人の間に薄い膜が一枚存在しているような人間関係」は作れるのですが、「肌と肌が直接触れ合うような人間関係」が築けないのです。でも、子どもはお母さんに「肌と肌が直接触れ合うような人間関係」を求めてきます。肌の触れ合いこそが、子どもの安心の原点だからです。ちなみに、この「肌と肌の触れ合い」とは、「物理的な肌と肌の触れ合い」のことではありません。触れ合うことでつながり合うことが出来るような触れ合いです。これは「触れる」というワークをすると分かるのですが、別のことを考えながらや、義務として触れているときの「触れられている感じ」と、相手のことを想ってとか、大好きな人という想いで触れているときとでは「触れられている感覚」が違うのです。物理的には一見同じ状態なんですが、前者の場合は「触れている人」と「触れられている人」の間に薄い膜があるような感じなんです。その膜で自分を守っているのです。でも、子どもはその「膜」を感じ、不安を感じます。だから「子育て」は方法論では扱えないのです。どうか子どもを野に放って下さい。自由と、仲間と、危険と、冒険を与えてあげて下さい。長い目で見れば、それが「幸せな子育て」につながり、「幸せな未来」につながるのです。
2019.08.07
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赤ちゃんは「自分の命を支えるための本能」だけを持った状態で生まれてきます。人間として生きるためのいかなる知識も技術も持っていません。そういうものは全て生まれた後で、「自分を育ててくれる存在」から学ぶように出来ているからです。まただから、日本人に育てられれば日本人らしい人間に育ち、フランス人に育てられればフランス人らしい人間に育つわけです。お母さんは、幼い子どもにとっては人類代表であり、自分が生まれてきた世界への「扉」でもあるのです。などというようなことを言うと、「お母さんばかりにそんな重い責任を負わせないで」と言う人もいるかも知れませんが、それが、「赤ちゃんをこの世界に産み出したお母さん」の役割であり、また「命の世界の現実」なのですから、これはどうしようもないのです。荷が重くても何でも受け入れるしかないのです。拒否してしまったらさらに困った状態になってしまうのですから。子どもが、お母さんとの人間らしい関わり合いを通して「人間らしさ」を身につけ、「人間」として成長していけば、子どもはやがて親から離れていきます。そして親は次第に楽になっていきます。親が老いてきたときには、親を支えてくれるようにもなります。でも、お母さんが子どもとの積極的な関わり合いを拒否していると、子どもは人間として生きて行くための知識や技術や感性を身につけることが出来なくなり、親に対する依存から抜け出せなくなります。だからといって、何か特別なことをする必要はありません。特別なことを教える必要もありません。ただ、衣食住と、安心と、「外の世界に対する気づき」を与えてあげるだけでいいのです。そして、この「外の世界に対する気づき」が子どもの「人間としての成長」には絶対的に欠かせないのです。健康に体だけ大きく育てるだけなら衣食住をちゃんと与えるだけでいいのですが、「人間としての成長」を望むのなら「安心」と「外の世界に対する気づき」も与えてあげる必要があるのです。この「気づき」が、子どもの意識を「自分から他人へ」、「人間から自然へ」、「現在から過去や未来へ」、「自分のいるところから世界中へ」と広げる「扉」として働いてくれるからです。すると子どもは自分の趣味、興味、成長段階に合わせて、その「扉」から外に出て行き、自分で感じ、考え、工夫し、学ぼうとするのです。それが子どもの成長本能だからです。大人が教えなくても、子どもは自分で感じ、考え、工夫し、学ぼうとするのです。ただし、「きっかけ」は必要です。例えば、コマを回している子を見るからコマを回したくなるのです。そうして、大人が教えなくても、他の子のやり方を見てコマを回せるようになります。そうやって「コマ回し」という遊びは子どもの群れの中で伝承されてきたのです。お母さんがお料理を作っているのを見るから、自分も作りたくなるのです。お母さんが本を読んでいるから子どもも本を読みたくなるのです。お母さんが仲間作りをしているから子どもも仲間作りを始めるのです。お母さんが歌を歌っているから自分も歌いたくなるのです。「歌いなさい」と指示命令されたから歌うようになるわけではありません。そして、昔は子どもの周りにこのような「成長のきっかけ」がいっぱいありました。でも、他の子やお母さんとの関わり合いが減り、一人だけで遊ぶことが多くなってしまった最近の子は、「自分を成長させるきっかけ」と出会う機会があまりないのです。だからこそ、子どもを一人にせず、安易にスマホやゲーム機を与えず、一緒に何かをする機会をいっぱい作ってあげて欲しいのです。(テレビがその「きっかけ」になることもあります。アメリカの「セサミストリート」という番組は、親に「きっかけ」を与えてもらえない子に「きっかけ」を与える意図で作られています。)一緒にお散歩している時に、空を見上げ、「ほら雲が動いているよ」と言うだけで、子どもの世界は広がるのです。難しくないでしょ。
2019.08.06
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子どもが大人になるためには教育を受ける必要があります。これは太古の昔から同じです。学校などなくても、子どもたちは大人達から多くのことを教えてもらいながら育っていたのです。アフリカのサバンナで暮らしていても、アマゾンのジャングルで暮らしていても、その暮らしを維持するためには多くの知識と技術が必要になります。また、部族の物語や、言葉や、文化も学ばなければなりません。そういうものをちゃんと子どもに伝えないと、あっという間に部族は消えてしまうのですから、太古の昔から「教育」は大事な作業だったのです。でも、昔は、学校というものがなかったので、その教育は全て「現場」で、その子の能力に合わせて「個別」に行われていました。「狩り」に優れた能力を持っている子は、特に「狩りの知識と技術」を多く教えられたでしょう。「木の実を集める」のに優れた能力を持っている子は、特に「木の実を集める知識と技術」を多く教えられたでしょう。そして、その子の能力に合わせた教育を行うことで、部族の安全や、食料や、文化や、物語や、知識や、技術などが効率的に守られてきたのです。そういう教育が古代からつい最近まで何万年と続いて来ました。でも、物を大量生産する技術が生まれ、大量生産が当たり前になってくると、子どもの教育も大量生産をしようとする考え方が生まれてきました。そして、「学校」という教育組織が生まれ、「子どもの個性や、興味や、能力を無視して、みんなに同じ事を教える」という方法が取り入れられました。「大人が子どもに合わせて教えること」を止めて、「子どもに大人に合わせて学ぶように求める教育」が始まったのです。そして、家庭や地域は「子どもの教育に対する主体性」を失いました。「教育」はみんな学校任せになったのです。だから、家ではちゃんと宿題をやってさえいれば、あとはゲームばかりやっていても問題なくなったのです。まだ子どもに合わせて教育をしていた時代の人には、「子どもの個性や、興味や、能力を無視して、みんなに同じ事を教える」という意味も、必要性も、発想も全く分からないと思います。というか、本当は皆さんだって分かっていないと思います。ただ、それが「当たり前」になってしまっているので、改めて考えようとしないだけです。学校教育では、子どもの個性や、興味や、能力を無視して、みんなに同じ事を教えています。そして、それが子どものためにはなっていないということは明らかなことです。自分らしさを否定されている子どもが、自分らしさを否定してくる相手が教えることを喜んで学ぼうとするわけがないからです。それに、最初から「子どものため」という想いがあったら、子ども一人一人に合わせた教育をするのが自然な発想です。現代の学校教育は「子どものためのもの」ではなく、「大人のためのもの」です。それは歴史的な事実でもあります。ですから、「子どもの視点に立った教え方」ではなく、「大人の視点に立った教え方」をしています。そして、「付いてくることが出来る子」しか相手にしていません。「付いてくることが出来ない子」は、「才能がない子」か「努力が足らない子」として扱われます。そして、親に「家庭で子どもの勉強の面倒を見るよう」に求めます。そして「家」は学校の出先機関になり、親は先生の代理人になり、親は学校からの評価や成績に一喜一憂するようになり、子どもは「家」と「親」を同時に失いました。でも、学校で勉強に後れてしまった子は、親が家で勉強を見てもほとんど成績が上がりません。むしろ、親が追い立てることで親子の関係が崩れるだけです。「宿題は、いくらやっても子どもの学力アップにはつながらない」という科学的な研究もあります。もともと、学校は「子ども」よりも「学校」を守ろうとする場ですから、親はあまり学校に依存しない方がいいのです。もちろん学校のいいところもあります。でもそれは、学校という場の中で子ども同士の関わり合いの中で「子どもが、自分の力で学んでいること」であって、「先生が授業で教えてくれていること」ではありません。で、何が言いたいのかというと、「親や家族の役割や、家庭における教育力をもう一度見直してみませんか」ということです。その際重要になるのは、子どもの趣味や、個性や、能力に合わせた関わり方や教え方をするということです。今では、「子どもに合わせた教育」が出来るのは、親しかいないのです。そういうものを無視して、一方的に、知識や、技術や、価値観を押しつけるだけでは学校と同じになってしまいます。またそのように意識することで、「創造的な子育て」や、「創造的な教育」が出来るようになるのです。と聞くと、なんか難しいことのように感じてしまうかも知れませんが、全くそんなことはありません。お母さんの体験や知識や技術を、子どもの興味や能力に応じて子どもに伝えればいいのです。それだけのことです。ハサミの使い方でも、お花の世話の仕方でも、お料理の作り方でも、お花の名前でも、歌でも、何でもいいのです。その時大事なのは「自分自身の体験とつながった知識や技術を伝える」ということです。そしてこれは「自分自身の体験とはつながらない知識」ばかり教えている学校の先生には出来ないことなんです。教育の基本原則は「伝承行為」です。それをもう一度想い出して下さい。
2019.08.05
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皆さんは落語はお好きですか。私は、聞けば面白いと思いますが、でも、積極的に聞くかと聞かれればそこまでのファンではありません。でも、落語は面白いです。何が面白いかというと、同じ話でも、話し手が変わると全く別のものになってしまうからです。文字で書けば全く同じものなのに、話し手が変わるだけで全く別のものになってしまうのです。「表現」とはそういう世界です。これは文字と意味に依存している現代人には分からない世界です。さらに不思議なのは、同じ噺家が語る同じ話でも、「毎回新しい」ということです。だから、同じ噺家の同じ話でも、何回でも聞けるのです。でも、下手くそな噺家の話は、新しい話でも、話の途中でも飽きてしまいます。これは非常に不思議なことです。同じようなことが、劇団四季の劇とか、映画でも名作といわれるものにはあります。だから何回も、何回も、同じ劇や同じ映画を見に行く人がいるわけです。どうして、もう見たのに、知っている話なのに毎回新しいのかというと、名人と言われるような人は、毎回、毎回、芸を創造しているからです。同じ劇や噺だからといって、ただリピートしているのではなく、毎回毎回新しく創り直しているのです。そして、新しく創り直された芸は、見る人、聞く人の心もまっさらな状態にしてくれるのです。だから、同じ噺なのに、毎回初めて聞く噺のように聴くことが出来るのです。これが「創造の世界」であり、機械には絶対に扱えない世界でもあります。大分以前、友人の日蓮宗の僧侶と一緒に、鎌倉で「南無の会」というのを企画していました。その会では、毎回ゲストをお呼びして「心とからだに関するお話」を聞いていました。お坊さんも、神父さんも、芸術家もお呼びしました。で、ある時、大衆演劇の世界ではちょっと知られた人(私は知りませんでしたけど)をお呼びして、その人が師匠の家に住み込みで修業をしていたときの話を聞きました。住み込みで修業していると言っても、芸を教えてくれるわけではなく、ただ、師匠の身の回りの世話をするだけです。「いつになったら芸を教えてくれるのかな」と思って待っていても、いつまで経っても教えてくれません。ただ、「見て盗め」と言われるだけです。今時の若者なら「なんて理不尽な」と思うかも知れませんが、住み込みでの修行とは昔からそんなもののようでした。まただから、「創造する芸」を学ぶことが出来たのです。丁寧に教えてもらったら、「創造する芸」までたどり着けないのです。その人が師匠から最初に言われたのが、「お風呂の温度はいつも同じにしておくように」ということでした。で、「そんなの簡単だ」と温度計を買い込み、毎回、ちゃんと同じ温度になるように計ってお風呂を用意しました。それなのに、ある時は「今日の風呂は熱い」と叱られ、別の時は「今日の風呂はぬるい」と叱られるのです。でも、温度計では同じ温度です。言われたとおりにやっているのに、叱られるのです。理由を聞いても教えてくれません。それで悩んで悩んでいたのですが、あるときハッと気付いたのです。「自分は温度計を基準にして同じ温度にしていた。でも、ここで基準にしなければいけないのは師匠の体感温度なのではないか」ということにです。お風呂は温度計のためにあるものではありません。入る人間のためのものです。ですから、「同じ温度」というのは、「入る人が同じ温度として感じる温度」のことです。そしてそれは、天気や、時間や、入る人のからだの状態によっても異なります。ですから、それらを観察しなければ同じ温度に設定できないのです。そしてそれは教えようがないのです。私は普通の人よりはちょっと他の人のからだが分かりますが、普通の人に「ほら、あの人のからだはこうだよね」と言っても通じません。知識は伝えることも出来ますが感覚は伝えようがないのです。で、その人は師匠の状態をよく観察するようにしました。そして、「今日はちょっと熱めがいいかな」とか「今日はちょっとぬるめにしておくか」というように案配するようにしました。そうしたら、師匠に褒められたそうです。創造的にお風呂を入れることが出来るようになったのです。「創造的」というのは別に単に「新しいものを創り出す」ということではないのです。ダンサーは創造的に歩き、ヨガをやっている人は創造的に呼吸し、太極拳をやっている人は創造的に動いています。子どもとの毎日の会話も、毎回創造的にお話しすることも出来ます。お掃除や、お洗濯や、お料理なども、創造的にやることも出来ます。作業としてやれば飽きてしまうようなことも、創造的な気持ちでやれば飽きないのです。「創造的に何かを行う」ということは、自分がやっていることに命を吹き込むことなんです。演奏家は音に命を吹き込みます。だから創造的な演奏が出来るのです。それが出来るようになってくると、自分が主人公になることが出来ます。すると、自由に生きることが出来るようになります。
2019.08.04
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造形という場で子どもたちと接していて気になるのは、子どもたちが「作る(創る)」ということを楽しんでいないということです。年々、その傾向が強くなってきています。色々なものを見本で作っておくと、子どもたちがまず言うのは「ちょうだい」です。それで「いやいや、これは見本だから自分で作るんだよ」 と言うと「じゃあいらない」と言います。「作ってみない」と誘っても、「面倒だから作らない」という言葉が返ってきます。「作りたい」と言う子がいても見本通りに作ろうとします。大きさからデザインまで。見本が「正解」になってしまっているのです。だから「見本は見せない」という人もいますが、でも、最近の子は「手作り」をしたことがないどころか、手作りをしているところや、手作りで作ったものを見たことがない子までいます。ハサミやセロテープすら満足に使えません。そういう子に、見本も見せずに「作ってみない」と誘っても、こちらが言っている意味が分からないのでほとんど関心を示さないのです。また、自分で作ったことがない子に限って、お店で売っているのと同じようなものが自分でも作れると思い込んでいます。やったことがない子に限って、自分は何でも出来ると思い込んでいます。でも、実際にやってみると、グチャグチャで下手くそなものしか出来ません。全く技術がない状態で、やったことがないことに挑戦したのですから、それはしょうがないことなんですが、でも子どもは、自分が創り出したその「下手くそなもの」を見て「いらない」といいます。「持って帰らない?」と聞くと「持って帰らない」と言います。作る技術はなくても「評価能力」だけは昔の子以上に高いのです。私はそういう体験を通して、「作る(創る)って楽しい」ということに目覚めて欲しいと思うのですが、でも、多くの子どもは「面倒くさい」と感じるだけのようです。「百均で買っちゃった方がいい」というような反応をする子もいます。作る(創る)こと大好き人間の私からすれば「うまくいかないから楽しい」のですが、最近の子はうまくいかないとすぐに諦めたり、飽きたりしてしまうのです。これは「作業」と「創造」の違いでもあります。「作業」ではあらかじめ決められたことを、同じようにするだけです。ですから、同じ作業をすれば同じ結果になります。工場でやっているのも、学校の工作でやっているのも「作業」です。工場で創造的な活動をしたら怒られてしまいます。学校の工作でも、キットで作るのですから、創造的な工夫のしようがありません。そう考えると、最近の子は創造的な活動と出会う場がないのです。お母さんがお料理やお菓子作りが大好きでいつも手伝っている子もいますが、全体から見たら全く少数です。また、ここが重要なポイントなんですが、子どもは自分のからだの内側で、命の働きが創造的に働いているときほど、人間の創造的な活動や、自然界の創造的な現象に強く反応するのです。内側と外側が共鳴するからです。それは主に7才頃までです。この時期の子どもは、ファンタジーや魔法に対する感応性も高いです。そして、7才頃までに創造的な体験をした子は、それ以降も創造的な感性を持ち続けることが出来ますが、作業の体験しかしたことがない子が、7才を過ぎてから創造的な感性を目覚めさせるのは難しいと思います。ちなみに、自然は常に創造的ですから、森の中や自然の中で、自然と関わりながら遊んで育った子は、それだけである程度は創造的な感性が育ちます。後は関わり方次第です。サグラダ・ファミリアを設計したガウディーの創造性は自然から受け継いだものです。それに対して、ゲームやオモチャ遊びには創造性が乏しいです。その世界しか知らない子にとってはそれでも十分に創造的なのかも知れませんが、ゲーム機やオモチャがないと発揮できないような創造力は、本当の意味での「創造力」ではありません。「創造力」とは、ゲーム機やオモチャで遊ぶ能力ではなく、それらを創り出す能力の方です。その「創造力」が「自由」を創り出すのです。「自由」は与えられるものではなく「創り出すもの」なんです。だからこそ、幼い子どもたちに創造的な体験をさせたり、自然の中で遊ばせることが非常に重要になるのです。そのことで子どもたちは「自由に生きる力」を育てることが出来るからです。
2019.08.03
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昨日、ブログを書いた後、ある人とやりとりしていて気付いたというか、想い出したのは、「日本人はもともと自由が苦手で、不自由が当たり前な民族だ」ということです。ただしこれは、日本人と言うよりも農耕民族一般の特徴なのではないかと思います。動物を狩る狩猟採集文化では、攻撃性と、能動性と、行動力と、工夫力が大切な要素になります。そのような能力がないと獲物を狩ることが出来ないからです。そしてそれらは、「個人としての能力」に属します。獲物が捕れるか捕れないかは、その個人(もしくは数人の個人のグループ)の能力の問題なんです。それに対して、農耕文化では、人々に求められることが全く逆になります。農耕文化で必要になるのは、従順さと、勤勉さと、協調性と、諦めのよさです。それらは「集団の一員としての能力」でもあります。なぜなら、農耕文化では「助け合い」が重要な要素になるからです。自然に対する従順さも必要です。ちょっと暑すぎたり、雨が少なかったり、台風が来たり、病気が流行っただけで、それまでの苦労が全部台無しになることも珍しくありません。そんな時は「諦める能力」と「助け合う能力」で何とか乗り越えるしかありません。一方、狩猟採集文化の人々は常に移動しています。獲物がいなければ獲物がいるところを探して歩きます。諦めてしまったら、そこで終わりです。そのため、あまり大きな群れにはなりません。でも、農耕文化の人たちは移動出来ません。畑や田んぼを捨てて移動出来ないのです。毎日の世話が必要なので、短期の旅行すら出来ません。そうやって、いつも、作物や、集団や、自然に束縛されて生きてきたのです。で、「自由」というのは「個人として生きている人」にとって意味があることですが、「集団の一員として生きている人」にはあまり意味がないのです。むしろ、自由を求めて集団から出てしまうと、安全も、食べ物も得ることが出来なくなり、危険と不安に襲われることになります。そんな農耕文化を基礎とする日本の社会は、「和」とか、「調和」とか、「助け合い」を大切にする社会です。そこで大切にされているのは「集団の一員として生きる能力」であって、「個人として生きる能力」ではありません。実際、明治になるまで日本には現代的な意味での「自由」という概念は存在していませんでした。そのため、日本には「個人として生きる能力」を育てる場がありません。お母さん達もそのようなものを求めません。学校教育でも「個人としての能力を育てる」という要素は全く欠落しています。お母さんは「お母さんの言うことを素直に聞くよい子」を求めますが、それは「個として生きる能力」を否定することで成り立っています。子どもが「学校に行かない」と言い出したら、多くのお母さんやお父さんは大慌てしますが、実際には、学校に行かなくても「個人としての能力」をちゃんと育ててあげれば、何の問題もなく社会の中で仕事をして、生きて行くことが出来ます。でも、「群れから外れる事に対する恐怖心」があるので、なかなか「学校に行かない」という状態を肯定できないのです。(ただし、学校に行かず、家でゲームばかりやっていたら「個人として生きる能力」も育ちません。ゲームは「集団の中で生きる能力の育ち」には影響を与えませんが、「個人として生きる能力の育ち」に対しては否定的に作用するからです。そのため、学校には行かなくても、「様々なことを体験する場」には積極的に出て行く必要があります。)でも、群れの中で助け合って生きていた時代は過ぎました。今ではみんな競争しながら生きています。(助け合いが発生するのは災害の時だけです。)隣近所に住んでいる人の名前も、家族構成も分かりません。学校の同級生ですらお互いの連絡先を知りません。食の自由、住む自由、思考の自由、表現の自由も保障されています。そんな現代社会で生きて行くためには「個人として生きる能力」が必要になるはずなのですが、なぜか、「個人として生きる能力」を育てるための教育が存在していません。教育は、いまだに集団で生きていた頃のままなんです。個人を守ってくれる群れは消滅したのに、個人として生きる能力を育てる場が存在していないのです。(だから選挙や民主主義という制度がうまく機能しないのです。)そのため、多くの人が「生きる」ということに不安を感じています。子どもが生まれてもどうしていいのか分かりません。自分で仲間作りをすればいいのですが、そういうことも出来ません。子どもを観察すればどうすればいいのか自ずと分かってくるはずなのに、観察するという能力もありません。一回やってみてうまくいかなければ色々と工夫してみればいいのですが、その工夫の仕方が分かりません。それでどこかのグループに属することで生き延びようとするのですが、でも今度は、個としての自由が束縛される苦しみに苦しむ事になります。「助け合う能力」も育っていないからです。そのためグループの中で競争が始まるのです。その「個として生きる能力」を育てるのに一番有効なのは、「多様で自由な表現体験」と、「手や心やからだを使った創造体験」です。日本でも、昔は子どもの遊びの中にありました。そしてこれは、大人になってからでも育てることが出来る能力です。
2019.08.02
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現代人は、昔の人に比べて色々なことに対する「こだわり」が強いような気がします。食にこだわる人、洋服にこだわる人、生き方にこだわる人、色にこだわる人、趣味にこだわる人、清潔にこだわる人、勉強にこだわる人、英語にこだわる人、スポーツにこだわる人など色々といます。ちなみに、自己肯定感が低い人はみんな「こだわり」が強いです。というかその「こだわり」が自己肯定感を下げているからです。そもそも「自己肯定感」などというものに対するこだわりを捨ててしまえば、そんなことどうでも良くなってしまうのです。自己肯定感を上げるためには、自己肯定感を上げようとすることを止めてしまえばいいのです。それだけのことです。インナーチャイルドにこだわっている人もいます。「自分らしさ」にこだわっている人もいます。でもそれは、「世の中がそれだけ自由で豊かになってきた」ということの表れなんだと思います。今日を生き延びることだけで精一杯の時代には、そんなこと言ってられませんでした。肉しか食べるものがないときには「菜食」にこだわることが出来なかったし、肉がないときには肉食にこだわることが出来ませんでした。そのような状況では、「こだわり」は「死」を意味していたからです。「今日の食べ物がない」という状態では、「何を食べるか」にこだわるどころではないですよね。「清潔」も、人工物に囲まれた人工的な生活をしているから、「清潔」にこだわることが出来るのです。森の中や自然に近いところで暮らしている人たちは、清潔にこだわろうと思っても出来ないのです。色々な洋服を選ぶことが出来る自由と豊かさがあるから洋服にこだわることが出来るのです。私は、「こだわり」は、そんなあふれるばかりの豊かな社会の中で、現代人が「自分らしさ」を自分で確認するための方法として機能しているのではないかと思っています。ただし、「こだわり」自体は古代からありました。でもそれは「個人のこだわり」ではなく、「部族や民族としてのこだわり」です。それは、「宗教へのこだわり」や、「血へのこだわり」や、「文化や言葉に対するこだわり」などです。その「こだわり」があったからこそ、自分たちの部族と他の部族の違いを明確にし、部族がまとまることが出来たわけです。今でも自然と共に暮らしている人たちは、部族ごとに民族衣装が決まっていますが、それは民族衣装が部族の象徴だからです。「こだわり」が「アイデンティティーを与えてくれるもの」として機能していたのです。ですから、「個人としてのこだわり」は限定されていました。江戸時代には「オレはキリスト教を信仰したいんだ」と言っても許されなかったのです。でも、現代社会では部族とか民族という概念は解体してしまいました。部族とか民族固有のこだわりも消えてしまいました。日本人だからといって、「着物を着なければいけない」ということもなくなりました。「結婚したら歯を黒く染めてお歯黒にしなければいけない」ということもなくなりました。代わりに現れたのが「個人」という概念です。その「個人」という概念では、何を食べても、何を着ても、どんな仕事をしても、どんな趣味を持ってもOKです。そして私たちはそれが可能な自由で豊かな社会に生きています。でも、そんな自由と引き替えに、みんな「根無し草」になってしまいました。アイデンティティーを失ってしまいました。私は、そのアイデンティティー作りのために現れたのが「個人としてのこだわり」なのではないかと思っています。「民族や部族を特徴付けるこだわり」は消えましたが、新しく「個人を特徴付けるこだわり」が生まれたのです。何かにこだわることで、「自分のアイデンティティー」を明確にしようとしているのだと思います。だから「同じこだわり」を持っている人同士で集まろうとします。でも、こだわりを持つことで自分のアイデンティティーは作れますが、それと引き替えに不自由になります。色々な食べ物がある中で、「肉」にこだわれば、他の食べ物が見えなくなり意識の不自由が生まれるのです。「しつけ」や「勉強」にこだわれば子どもの成長の全体が見えなくなり、不自由になります。「清潔」にこだわれば、「子どもの笑顔や、子どもの育ちに必要なもの」が見えなくなり不自由になります。子どもの色々な行動に対してお母さんがイライラするのも、子どもがお母さんのこだわりを無視するからです。お母さんは「子どものこだわり」にイライラしますが、それは「お母さんのこだわり」と「子どものこだわり」がぶつかっているからに過ぎません。「お母さんが頑張って作ったものなのになんで残すの!!」という怒りも「こだわり」から生まれています。こだわっている本人はそれを不自由だとは考えていないでしょうが、いっぱいある中で一つのものにしか意識を向けることが出来ない状態は、不自由そのものなんです。子育てや生き方の苦しみの多くもその「こだわり」から生まれています。でも、ちょっと意識を変えるだけで自由になることが出来るのです。意識を、「こだわる」から「大切にする」に変えればいいのです。こだわっているときにはこだわりの対象によって自分が束縛されてしまっています。でも、「大切にする」という意識の場合には、自分が主人公でいることが出来るのです。「成績へのこだわり」を捨てて「成績を大切にする」という考え方にするだけで大分自由になります。「こうでなければいけないというしつけ」にこだわることを止めて「しつけを大切にする」という考え方に変えると、「しつけ」から自由になることが出来ます。「こだわり」は「正解」を生み出します。だから束縛されてしまうのです。でも、「大切にする」という発想の場合には「正解」は自分の感性です。だから束縛されないのです。ただし、趣味としての「こだわり」はそれはそれでいいと思います。ただ「子育て」には合わないのでは・・・ということです。「子育て」で大切にしなければいけないのは「お母さんのこだわり」ではなく、太古の昔から変わらない「命の働きのこだわり」だからです。
2019.08.01
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