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大人になると、感覚からの刺激は頭にも送られ、総合的で冷静な判断をすることが出来るようになります。(個人差は大きいですけど)闇は怖くても、「そこにお化けなどいない」という判断も出来るようになります。風の音が人の話し声のように聞こえても、「それは風の音に過ぎない」という判断も出来るようになります。でも、子どもたちの感覚の働きは、頭の働きを通さずにダイレクトに、心や、からだの働きとつながっているので、「感じた通りのことが起きている」と思い込みます。また共感の感覚が強いので、可愛い動物など見ると、その動物に簡単に感情移入してしまいます。お人形やキャラクターにも感情移入してしまいます。すると、本来は心など持っていないものであっても、自分と同じようにそれも心を持っているかのように感じてしまいます。そのため、お花やお人形ともお話しすることが可能になります。そして子どもは、自分が感じたことを物語としてつなげることで理解しようとします。大人は時間軸に沿って、客観的な因果関係をつなげて理解しようとするのですが、子どもは自分が感じたことを物語化することで理解しようとするのです。その際、時間の順序など無視されます。原因と結果が逆転したりもします。客観性などというものは存在しません。とにかく自分が納得できるように物語化していくのです。子どもにとって大事なのは「客観的な事実」ではなく、「自分の心を納得させるための物語」だからです。子どもは物語という形で世界を理解しようとするのです。それは古代人の感性と同じです。(大人でも女性は男性よりもこの傾向が強いです。)それは客観的に世界や自分のことを見る能力がまだ育っていないからなんですが、そのため、子どもは自分自身の状態も自覚できません。自分が何をして、何を言って、何をしていないのか自覚できないのです。そのため、子どもがケンカした時、大人がその時の状況を確認するため色々聞き出そうとしても、みんな違うことを言います。みんな「されたこと」はよく覚えているのですが「やったこと」を覚えていないのです。みんなに迷惑になることをしていたので他の子が怒ってその子をぶったとしても、ぶたれた子は自分がやっていたことに対する自覚がないので、「ぼくは何もしていないのに、急に○○くんがぶった」と言います。私はそういう状況を何回も見ています。また、お母さんは子どもが宿題をしないから、片付けをしないから怒っているのですが、子どもはそれを「自分のこと」として理解することが出来ません。理解出来ないので行動にもつながりません。決してお母さんに反抗して言うことを聞かないのではないのです。確かに、小学生にもなれば、お母さんが言っている言葉の意味は分かります。自分が叱られていることも分かります。宿題をしないと先生に怒られることも分かります。でも、大人目線からの「自分が何をして、何をしていないのか」ということが分からないのです。例えば、あなたの英語の発音をネイティブの人が「おかしい」と指摘してきたとします。それで「こう発音するんです」とやって見せてくれたとします。でも、人は自分が知らない発音を聞いた時でも、自分が知っている発音に置き換えて聞いてしまう癖があるので、自分の発音とネイティブの人の発音の違いが分かりません。だから何回も「ヴ」と言っているのに「ブ」としてしか聞こえないし、「ブ」としてしか発音できないのです。カラスの鳴き声は「カーカー」にしか聞こえません。犬の鳴き声は「ワンワン」にしか聞こえません。でも実際にはカラスは「カーカー」と鳴いているわけではありません。犬も「ワンワン」とは鳴いていません。それと同じようにお母さんの言葉も、子どもはお母さんの意図に従ってではなく、自分の感覚や物語に合わせて聞いてしまうのです。だから理解出来ないのです。踊りや太極拳などを学ぶ時も同じことが起きます。先生がお手本を見せてくれ、真似をしても、多くの場合先生とは全く違う動きになってしまいます。でも本人はそのことに気付きません。人は自分のことは分からないものなんです。ましてや子どもはなおさらです。子どもがお母さんと同じ目線を持つことが出来るようになるのは思春期が過ぎてからです。ただし、大人になっても完全に出来るようになるわけではありません。子育ての講習会に出ても自分の都合の良いようにしか話を聞くことが出来ない人はいっぱいいます。人は一人一人自分が創った物語の世界を生きているので、「新しい物語」に出会っても、自分の物語に合わせて新しい物語を書き換えてしまうのです。書き換えないことには自分の物語の中に取り込むことが出来ないからです。子どもも同じことをしているだけです。しかももっと強力に。そのため、お母さんは片付けや宿題をしないから怒っているだけなのに、「お母さんはぼくが嫌いなんだ、ぼくが嫌いだから怒るんだ」と理解してしまう子もいます。子どもに何かを伝えたいのなら、「早くしなさい」とか「ちゃんとしなさい」というような抽象的な言葉を使うのではなく、物語を超えるような具体的な言葉で、具体的な体験を伴う形で伝えるしかないのです。「ちゃんと片付けなさい」と叱るのではなく、「これはここに置いてね、これはここね」というように具体的に伝え、一緒にやってあげることです。すると子どもは、お母さんが要求していることが分かるようになります。逆に言うと、子ども自身が体験できないようなことは子どもには伝えようがないということでもあります。お勉強でも同じです。(最初は物語のことを書こうと思ったのですが、昨日のワークのお母さんの言葉が頭に残っていて、話がちょっとずれてしまいました。)
2019.09.30
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以前、私の幼児教室を出て、知り合いがやっている幼稚園に入った子がいました。その幼稚園は自宅と幼稚園が一緒になっている小さな園ですが、草木が生え、丘があり、池やツリーハウスがあり、小さな子どもの隠れ家もあります。鬼ごっこやかくれんぼなどの遊びがしやすいような工夫もされています。その子がその園を卒園して小学生に通うようになったある日、お母さんに「学校の運動場は狭くて遊べない」と言ったそうです。それでお母さんが、その意味が分からず私の所に「うちの子が変なこと言ったんですけど・・・」とその意味を聞きに来たのです。皆さんはどういう意味か分かりますか。もちろん大人の目には、学校の運動場は幼稚園の園庭よりも遙かに大きいです。それなのにそっちの方が小さいと言うのです。実はそれは、子どもは「物理的な空間」で遊んでいるのではなく、「心で作り出した空間」で遊んでいるからなんです。狭くてもいっぱい遊びを引き出してくれるような空間の方が、ただ広いだけで遊びを引き出してくれない空間よりもズーッと広いのです。幼い子どもにとっては、多様な感覚刺激があって心が活性化するような空間の方が、ただ物理的に広いだけの空間よりも広いのです。皆さんは「おしいれのぼうけん」(作:ふるたたるひ たばたせいいち)という絵本をご存じですか。保育園で押し入れに閉じ込められた子が、押し入れの中で様々な冒険をする話です。狭い押し入れの中が急に広い空間になってしまい、いっぱいのネズミやねずみばあさんに追いかけられるのです。押し入れは、物理的には狭い空間なんですが、その暗くて狭いという感覚刺激が、逆に心の世界を広げてくれたのです。寝ていてベッドから落ちた人が、その「落ちる」という感覚刺激によって、夢の中で冒険の末、崖から落ちるという物語を創り出すこともあります。幼い子どもはそのような世界で遊んでいるのです。だから時々宙を見つめて固まったり、見えない敵と戦ったり、見えないお友達とお話をしたりするのです。子どもはそのような遊びを通して心の世界を広げているのです。心の自由を遊んでいるのです。ですから、明るい、暗い、高い、低い、広い、狭い、水がある、草花が生えているなどの多様な要素がある環境の方が子どもは遊びやすいし、また、子どもにとっては広い空間なんです。<続きます>***********おしいれのぼうけん (絵本・ぼくたちこどもだ) [ 古田足日 ]価格:1404円(税込、送料無料) (2019/9/29時点)楽天で購入
2019.09.29
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子どもの「感覚育て」をするためには「言葉育て」が欠かせないのですが、他にも「指を使う」「手を使う」というものがあります。幼児期に指や手を使った活動をすることは、子どもの心とからだの成長に非常に大きな意味を持っているのですが、でも実際には、そのような活動はどんどん消えてきてしまっています。基本的に、人間の体は脳によってコントロールされていますが、均一にコントロールされているわけではありません。細かくコントロールされているところもあれば大雑把にコントロールされているところもあります。意識や感覚や思考とのつながりが強いところもあれば、無意識とのつながりが強いところもあります。そして、体の部位の中でも、特に指や手は一番細かくコントロールすることが可能なように出来ています。熟練した職人の手はミクロン単位で違いを感じ分けることが出来るほどです。実際、指や手をコントロールするための脳の部位は、からだの他の部分をコントロールする部位よりもかなり大きく作られています。それは、それだけ指や手の活動が人間にとって大切な意味を持っているということでもあります。指や手の活動は人間の意識の働きと直結しています。そして、意識の働きと直結しているということは、心や、感情や、頭の働き(思考)や、からだとも直結しているということでもあります。簡単な例ですが、指や手の平をマッサージして緩めてあげるだけでからだが全体が緩みます、大好きな人に手を握られるだけで安心します、手を使うことで意識がはっきりとしてきます。指や手を使った活動はそのまま脳トレにもなります。心や体の状態はすぐに指や手の動きに表れます。また、「人間の脳がここまで大きくなって知的な能力を獲得することが出来たのは、手を使ってものを作ることを学習したからだ」という説もあります。ただ問題は、その能力の中味は遺伝しないということです。DNAで保証されているのは、人間らしい高い能力を持つことが出来る「可能性」だけであって、その「中味」ではないのです。その「中味」を満たし、「可能性」を現実のものにするためには、幼児期からの能動的な意思に基づく様々な体験が必要になるのです。その体験がないと、意識や、意思や、言葉や、感覚や、心や、脳や、からだを使いこなす能力が育たないまま大人にならざる終えないのです。ここで、一番重要なポイントは、「能動的な意思に基づく」という点です。子ども自身の能動的な意思に基づかない行為や体験には、子どもを育てる力はないのです。例えば、「自分の意思でやる勉強」は子どもの育ちを支えてくれますが、「大人に追い立てられてやる勉強」には子どもを育てる力はありません。むしろ、子どもの頭や、心や、からだを固くするばかりです。子どもを追い立てて山のように勉強させても、それが本人の意思に基づくものでないのなら、そのような勉強はかえって子どもの育ちを阻害してしまうのです。これは大人も同じなんですが、能動的な意思が働いている時には、頭も、心も、からだも、感覚も全てが統合されます。その統合された状態の中に「自分」が存在しています。そのため、自分の意思で行動している時には心もからだも安定しています。また、頭の働き、心の働き、からだの働きがお互いに補い合い、支え合っています。そういう状態での学びだからこそ、子どもは総合的な「人間としての能力」を育てることが出来るわけです。子ども自身の意思に基づかない訓練的な方法で、頭や、心や、からだを育てても、それらの能力の主としての「自分」が育たなければ無意味なんです。それは高機能ロボットと同じ状態です。そういう状態の人は精神的な自立が困難になってしまうのです。そして、指や手の活動はその子どもの「能動的な意思の育ち」に非常に強く関係しているのです。指や手の活動は「子どもの意思」の表れそのものだからです。そして指や手を使う活動の過程で感覚が育っていくのです。絵を描こうとする意思を実現する過程で絵を描くための感覚が育っていくと言うことです。あと最近の子は、ボールを見ればすぐ蹴りますが。幼児期の子どもに必要なのは手を使って投げる行為であって「蹴る」という行為ではありません。この二つは意識の使い方が全く違うのです。子どもの成長という視点から見たら、蹴る活動は小学生になってからにした方がいいのです。**************最近、自分の絵を描いても手を描かない子が時々いるそうです。頭もからだも足も描いてあるのに手だけがないのです。それはどういうことなのか分かりますか。なぜ、その子供は腕のない絵を描いたか価格:1512円(税込、送料別) (2019/9/28時点)楽天で購入
2019.09.28
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今日は、今朝ある人のFBの記事に対するコメントとして書いたことを、ここでもちょっと書いてみます。それは、子育ての場でも、教育の場でも、子どもと関わる大人には「観察」と「共感」という相反する二つの働きが必要だと言うことです。科学には「観察」はありますが共感がありません。そのため、その方法で得ることが出来るのは「命のぬくもりのない冷たいデータ」だけです。でも科学は元々「命のぬくもりのないもの」を扱うためのものとして生まれたものですからそれはそれで問題はありません。問題はその「命のぬくもりのないものを扱うために生まれた方法」を使って、安易に「命のぬくもりを持つもの」を扱うのは危険だということです。物質のような「命のぬくもりを持たないもの」に対して成功したからといって、その方法が「命のぬくもりを持つもの」にも効果的だという証拠はどこにもないのです。人類が科学という方法を手に入れたのはつい最近のことです。人類の歴史全体を「一日」(24時間)という時間に換算したらほんの数秒前のことです。もしかしたら、1秒にも満たないかも知れません。それまでの大部分、人類は近代的な科学とは全く異なった考え方や方法で、文化を作り、文化を守り、子どもを育て、生活し、生きてきたのです。「科学」が生まれたのはつい最近のことですが、「文化」の方は人類の歴史と共にあったのです。その「文化」を支えてきたのが「共感」という方法です。「共感」があったからこそ「伝承」があったのです。「人間性」と呼ばれるものも、「わらべ歌のような遊び」も、「祭り」も、「言葉」も、「芸術」も、「生活文化」も全て、その「共感に基づく伝承」によって伝えられて来たのです。そして、それらの「伝えられてきたもの」は同時に「共感する心」も伝えてきました。でも今、ものすごい勢いで、「伝承されてきたもの」を失いつつある現代社会では、その「共感する心」も消え始めています。今、老人は子どもに共感しにくくなってしまっています。同時に、子どもは老人に共感しにくくなってしまっています。両者の間から「伝承によるつながり」が消えてしまったからです。同じようなことが、「遊び」を伝承しなくなってしまった子ども同士の間でも起きています。そして今、同じようなことが世界中で起きています。なぜなら、科学はその「共感」を嫌うからです。科学的な方法に於いては「共感」は邪魔者なんです。なぜなら、「共感」は客観性を阻害するからです。人間の感情の影響を受けていない「物の世界」に感情を持ち込むと、冷静な判断が出来なくなってしまうのです。私たちは普通に「みんなの願いが通じて今日はいい天気になった」というようなことを言いますが、科学はこのような考え方を嫌うのです。天気を祈りで操ることが出来るなら科学は必要がないからです。もちろん、「観察」という方法も昔からありましたが、現代の科学で使われているような「自他を分離した観察」ではありません。「共感的な観察」です。赤ちゃんはお母さんが話している声や姿を共感的に観察しています。だから、お母さんの言葉をコピーすることが出来るのです。自他を分離した状態で観察しているのではなく、自他をつなげた状態で観察しているのです。これは科学にはない方法です。ちなみに武術では今でもその方法を使っています。ただ共感するだけでは冷静さを失ってしまい、振り回されてしまうのです。そういう状態のお母さんもいっぱいいます。それで「あんまり子どもに振り回されない方がいいですよ」と言うと、いきなり「あんたはあんた」「私は私」と子どもを放任してしまう人もいます。見ていると振り回されてしまうので見ないようにしてしまうのです。でもそれでは何にも問題は解決しません。必要なのは、「共感的によく観察しながらも振り舞わされない客観的な態度」なんですが、これがなかなか難しいのです。「自分」というものをしっかりと持っていない人にはこれが出来ないのです。そのため、「子ども」と「自分」を分離して、子どもを放任するか束縛する子育てをする人や、子どもの気持ちに合わせすぎて、子どもの言いなりになったり、子どもに振り回される子育てをする人が多いのです。
2019.09.27
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このようなブログを書いていると、色々な方から「子育て相談」が来ますが、名乗りもせず、状況の説明もなく、いきなり「○○する方法を教えて下さい」と、ネットで情報検索するような感覚で質問だけ送ってくる人が多いです。でも、子どもの状態は子どもや親の気質や、親や、周囲の大人や、住環境などの状態や、それらとの関係性によって決まってくることが多いので、いきなり「○○する方法を教えて下さい」と聞かれても、答えようがないのです。そもそも、「方法論を聞けば何とかなるという」という発想では子育てがうまくいくはずがないのです。問題は方法論にあるのではなく、方法論に依存している主体性のなさが原因なのです。Aさんと同じことをBさんがやったからといって、うまく行くとは限りません。最初うまく行った方法でも、二回目も上手く行くとは限りません。Aちゃんにうまく行った方法がBちゃんにも通じるとは限りません。この世の全ての事象も、子どもの心も、からだも、成長も常に動き、変化しているのですから、「固定された方法」でうまく行くはずがないのです。でも、色々な方法を知っていると選択肢が増えるので、子育てが楽になるのも事実です。問題になってくるのは自分の感覚で方法を選択しようとせず、本に書いてあるような方法や、人から聞いた方法に簡単に依存してしまうことなんです。そのような人は「自分」がないのです。方法を選択する主体がないのです。だから簡単に子育てに行き詰まってしまうのです。じゃあ、その「自分」とは何なのかというと、それこそが「感覚の働き」なんです。「自分」は「感覚の働き」によって支えられているのです。だから「感覚の働き」が消えたら「自分」も消えるのです。麻酔は体の感覚を麻痺させます。そのため、全身麻酔をかけられたら「自分」も消えてしまいます。色々な方法を知っていても、今、この状況ではどの方法が使えそうなのかを判断するためには感覚を働かせるしかないのです。世の中には「褒めて育てる子育て」と「厳しく育てる子育て」があるようですが、ある時、一人のお母さんから「子どもは褒めて育てた方がいいのでしょうか。それとも、厳しく育てた方がいいのでしょうか?」と聞かれました。それで私が、「褒める時は褒める、厳しくする時は厳しくする。どちらかに決めることなど出来ません。」と答えたら、「じゃあ、どういう時に褒めて、どういうときに厳しくするのでしょうか。それが分からないんです。だからどっちかに決めて欲しいんです。」と言われました。その判断をするのが「感覚の働き」なんですが、この人は自分の感覚に蓋をして頭だけで子育てをしようとしているのです。だから、迷子になってしまっているのです。だから感覚を働かせればいいのですが、でも今、「自分の感覚の使い方」を知らない人が非常に多いのです。そして、感覚の使い方を学ぶことが出来ないまま成長してしまったので、「感覚を使う主体としての自分」が曖昧になってしまっているのです。ワークなどでも「感じて下さい」と言うと、「感じるってどうやってやるんですか」と聞いてくる人がいます。赤い色を見て赤い色を感じる。風の音を聞いて風の音を感じる。子どもの顔を見て、子どもの心を感じる。自分の心やからだの状態を感じる。秋の気配を感じる。そういうことが出来なくなってしまっている人が多いのです。そのような人はすぐに方法やマニュアルに依存しようとします。それで行き詰まると「どうしたらいいんでしょうか?」と人に聞きます。でも、いくら方法やマニュアルを探しても、本質的な問題は何にも解決しないのです。大事なことは「自分の感覚を取り戻すこと」なんです。子育てはそこからしか始めようがないのです。で、子どもはお母さんに「もっと自分の感覚を働かせて」と色々な課題を与えてくるのです。方法やマニュアルに依存することを止めて、深い呼吸をしながら呼吸と、感覚と、からだに意識を向け、心とからだの感覚を自分の中に取り戻すことを意識してみて下さい。それが「自分らしさを取り戻す」ということであり、子育てはそこから始めるしかないのです。
2019.09.26
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ここしばらく「感覚の話」を書いてきましたが、「感覚の話」の難しいところは、「分かる人には分かるが、分からない人には分からない」ということです。「少し分かる人」ならその「少し」を広げることも出来ますが、世の中には「全く分からない人」もいっぱいいて、そのような人にはどんなに言い方をしても通じません。熱い物に触れたことがない人には「熱いものに触れた時の感覚」を伝えようがありません。どんなに言葉を尽くしても伝わりません。それが「感覚」を扱う時の難しさなんです。ですから、私の文章を読んで「何言っているか分からない」という人もいるかも知れませんが、そのような人は、「世の中には自分が分からない世界を大事にしている人もいるんだ」という発見をしてもらえばそれだけでいいです。意識が外側の世界にばかり向かいがちな人は、自分の内側の世界に意識を向けることが困難です。逆に、意識が内側の世界にばかり向かいがちな人は、外側の世界に意識を向けることが困難です。例えばですが、この両者がどう違うのかというと、意識が外側の世界ばかり向かいがちな人は、花を見て、花の「形」や「色」や「種類」といった社会的、物質的側面を見ることが出来ます。「五感の働き」と「脳の働き」をメインに使うことで世界を見ようとするのです。そのため客観的に物事を見るのも得意です。また、「きれい」という判断も出来ます。お花を見て喜んだり、「心が安らぐ」的なことも感じることも出来ます。モンテッソーリ教育ではこのような感性を大切にしているように感じます。でも、意識が内側の世界に向かいがちな人は、花を見ていると「花」と「自分」が簡単に同化してしまうのです。「見ている対象」と「見ている自分」が一体化しやすいのです。そのため、対象を客観的に見ることが出来なくなります。色や形すら、自分の思い込みで自由に変化します。また、自分の気持ちを相手に投影したり、相手の気持ちが自分の中に入ってきてしまうというようなことも普通に起きます。それは「共感能力」を支える感性でもあります。そのため、物理的には「命のないもの」に、「命を感じる」ということもあります。「心」がないものに「心」を感じることもあります。木々が風に揺れているだけなのに木々が踊っているように見えてしまうこともあります。木が切り倒されるところを見ていると、自分の体が切られるような痛みを心に感じる人もいます。詩人と呼ばれるような人はそのような感性に優れている人だと思います。そして、女性は男性よりもそのような感性に優れています。だから男性は自然を「資源」として見る傾向が高いのに対して、女性は自然に命を感じて自然を守ろうとする傾向が高いのでしょう。まただから、子どもに対して共感する能力も高いのでしょう。似たような違いは大人と子どもの間にもあります。大人は意識が外側に向かう傾向が強いです。だから子どもよりも物事を客観的に判断する能力が高いわけです。でも、子どもの場合は、まだ「自我」という「外側と内側を分離する壁」自体がないので、外側に見たり感じたりしたものが簡単に内側に入ってきてしまうのです。そして「自分」と同一化してしまうのです。だから子どもの言葉はいつも詩人のようなんです。そしてだから、花が踊ったりお話ししているように感じたり、自動車や機械が生き物のように思えるのです。黒い色を怖がる子は、黒い色を見ていると、闇の世界に自分が取り込まれるような感じを受けるのです。大人は目で「色」を見ているのですが、子どもは色の中に入ってしまうのです。大人は耳で「音」を聞いていますが、子どもは音の中に入っていってしまうのです。だから、「色」や「音」に安心や不安を感じる感性も高いのです。大人にとって「色」や「音」は、外側の世界にある物の属性の一つに過ぎませんが、子どもにとっては「色」も「音」も「心の一部」なんです。だからこそ、子どもの育ちにおける色環境、音環境は非常に大きな意味を持っているのです。でも、この子どもの感性は意識が外側に向かいがちな人には分かりません。そして、詩人のような子どもの言葉に対しても「無知だからだそういう表現をするんだ」と思い込みます。ちなみにシュタイナー教育は、このような感性を大切にしています。この感性の中でゆっくりと育つと、子どもの心の世界がより深く、豊かに育つからです。そのことで、子どもは自由に生きることが出来るようになります。そのため、幼児期はあまり内側と外側との間の壁を作らせるような活動はしません。でも、モンテッソーリでは敢えて、この壁を作らせようとします。この壁が出来ると大人と同じような判断が出来るようになるからです。
2019.09.25
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「感覚」を失うことは「心」を失うことと同じです。でも現代人は、いとも簡単に「簡単便利」と引き替えに、自分の感覚を捨ててしまっています。でも、それまでは当たり前にあったものでも、一度失われてしまうと、自分たちが何を失ったのか思い出せません。その感覚があるのが当たり前だったのに、失ってしばらくするとその感覚がないのが当たり前になってしまうからです。人々が自然と共に暮らしていた時にはみんなが当たり前に持っていた感覚も、みんなが人工的な世界の中で、簡単で便利な生活をするようになったら、あっという間に消えてしまいました。でもそのことに気付いている人は多くありません。必要がない感覚の存在に気付く機会などないからです。その結果、「心の世界」がドンドンと狭くなってしまっています。でも、そのことにも気付きません。(そのことに気付くために、異文化との出会いや異文化の人との触れ合いが必要になります。)感覚の世界が消えて来ると、その感覚を表していた言葉が消えます。知識としては残っていても、自分自身との感覚とのつながりは消えてしまっています。それは「剥製」のような言葉です。「生きていない言葉」です。そのため、自分の感覚を表す言葉としては使えません。心は言葉で出来ているのですが、そのような「命のない言葉」には心を支える力がないのです。最近の子どもたちは昔の子どもよりもたくさんの言葉を知っていますが、それらの言葉の大部分は、「自分自身の感覚」とつながっていない単なる情報(知識)に過ぎません。そして、「自分自身の感覚」とつながっていないため「自分の心」ともつながっていません。そのため、情報の交換は出来ても、対話が出来ないのです。対話は「心から出た言葉」を心で受け止め、「心とつながった言葉」で返すことで成り立ちます。そのため、「心とつながった言葉」を持っていない人には対話は出来ないのです。(そこが単なる「話し合い」とは違うところです。)その「心とつながった言葉」が「身体感覚とつながった言葉」なんです。「身体感覚」とつながっているから「心」とつながっているのです。例えば、最近の子どもたちは、「よじる」「ひねる」「払う」「しぼる」「ねじる」などの身体感覚とつながった言葉がよく分かりません。情報(知識)としては知っていたとしても、自分の身体感覚でそれらの言葉を感じることが出来なくなってしまっているのです。そのため、その時、太郎は身をよじって悔しがりましたという文章を読んでも、身体感覚的な実感が分かりません。それは「その時の太郎の心」が分からないということでもあります。ちなみに格闘技の練習で一人の人を大勢で押さえつけて、そこから抜け出すということをやるのですが、それをやると「身をよじる」という感覚がよく分かります。(先日お知らせした「からだの会」でもやることがあります。)「つながる」という言葉は今でも生きていますが、でも、昔と今とでは全く意味が違ってしまいました。今ではネットや電気の関係で使われることが多いですが、「つながる」という言葉は、ネットや電気がない時代からあります。では、そのネットや電気がない時代の人たちは「つながる」という言葉をどのような状況で使っていたか自分の感覚として分かりますか。それらの「身体感覚とつながった言葉」は、「心を振り絞る」というように、心や感情の状態を表す時にも使われます。その時、日常的に雑巾などを絞る体験がある子はすぐにその心の状態が分かるでしょう。また、「木」というような言葉でも、身体感覚的に木を体験したことがある子は「生きている木」の話をすることが出来ますが、テレビや知識でしか「木」を知らない子は、剥製のような木の話しかすることが出来ません。身体感覚的に木を体験したことがある子の心の中には「生きている木」が存在しています。そして、その木の命は、子どもの命と共鳴して、その子の心やからだの一部としてその子の心とからだを支えます。でも、「木」についていくらいっぱい本を読んでも、「命の働きとつながっていない木」についての情報は子どもの心を支えてはくれないのです。そして、最近の子どもたちの会話を聞いていると、言葉に命が通っていない情報交換ばかりです。
2019.09.24
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粘液質の私は、赤緑色弱ということもあるのかも知れませんが、色に対する感受性はあまり高くありません。でもそれは、子どもの頃からのことなので、私は自分が普通だと思っていました。他の人もみんな自分と同じように見えていると思っていたのです。でも学生の頃、大勢の人と山を歩いていた時、一人の人が遠くの方に見える木を指さして、「椿がきれいね」と言った時、私はそれが思い込みに過ぎなかったことに気付きました。私にはその「木いっぱいに咲いている赤い椿」が一つも見えなかったからです。近くによれば見えるのですが、赤系の色に対する感度が悪いので、遠目では見えないのです。また、明るい環境で、近くに寄れば大体の色はちゃんと見えている(と思います)のですが、でも、見えてはいても色に対する感受性は低いです。色は見えていても、色に心が動かされることはあまりありません。多分これは気質のせいです。色は感情に働きかけます。だから、豊かな感情を持っている人は色に対する感受性も高いです。そのため、着ている洋服の色や部屋のインテリアも、カラフルなものを揃えようとします。でも私は、カラフルな色の環境にいると落ち着きません。お花畑のようなカラフルな色も好きですが、長くいるなら、上を見上げれば空の青が見えて、周囲を見れば緑一色で、下を見れば茶色というような森の中の方がいいです。私は暖色系やカラフルな色に対する感受性は低いのですが、青や緑に対する感受性は高いので、色々な青、色々な緑を味わうことが出来るのです。だから、緑しかない森の中でも退屈しないのです。多血質+胆汁質の家内と森を歩いているとき、木漏れ日に光る様々な緑の美しさに惹かれ、家内に「ほら緑がきれいだね」と言っても通じませんでした。憂鬱質系の人は色よりも明暗や光に対する感受性が高いです。青や黒が好きな人も多いですが、それはそれらの色が「色」というよりも「闇」を感じさせるものだからかも知れません。他の気質の人には青は「青い色」に過ぎないですが、憂鬱質が強い人は「青」という色の背景に暗い闇(空間)を感じるのです。そしてそこに落ち着きを感じるのです。胆汁質が強い人は赤や紫といった「刺激が強い色」が好きです。色々な色を取り合わせる時も、敢えて刺激が強くなるような取り合わせを使います。そして、その色に負けないオーラを発しています。でも、粘液質や憂鬱質の人がそんな色の洋服を着たら色負けしてしまいます。そもそも、着たいとも思わないでしょう。気質の違いは、このように感受性の違いとしても表れているのです。音に対する感受性も気質によって異なります。また、音に対する感受性は空間に対する感受性ともつながっています。憂鬱質の人は音に対する感受性が高いです。音を聞き分ける能力も高いです。そのため繊細な音を好みます。強い音は苦手です。逆に胆汁質の人は、自分の意思の働きを鼓舞してくれるような「強い音」が好きです。弱い音とか、繊細な音には興味がありません。そのため、音を聞き分ける能力も低いです。それと同時に、人の感情を感じ分ける能力も低いです。人の感情に対して鈍感です。結果として人を傷つけるようなことも簡単に言います。でも、悪意はありません。多血質の人は「音の質」よりも「音の変化」に反応します。そのため単調な音楽は苦手です。粘液質の人は自然を感じるような素朴な音が好きです。また、ゆっくりとしたテンポの曲が好きです。で、長い間疑問に思っていたことがあるのです。アイドルグループ「嵐」のリーダーである大野君は、粘液質に見えるのにダンスがうまい理由が分からなかったのです。ちなみに粘液質の人は音楽に乗るのが苦手です。速いテンポが苦手です。それが得意なのは多血質の人です。で、ズーッと考えていたのですが、最近一つのことが見えてきたのです。大野君は理解力に優れているのだと思います。また努力家でもあるのでしょう。これらは粘液質の特徴でもあります。だから、単に身体感覚で音楽に合わせて踊っているのではなく、音楽やからだの動きを理解し、ちゃんと解釈して、何回も、何回も繰り返して練習したのだと思います。粘液質の人は外からの刺激に合わせるのは苦手でも、身体能力自体が低いわけではないので、自分なりのやり方でそれを克服したのだと思います。そう考えた時、ようやく納得できました。ちなみに、そういうタイプのスポーツ選手は結構います。以下は、シスレー、ピカソ、グレコ、ルノワールの絵です。それぞれの画家の気質の違いが分かりますか。
2019.09.23
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AI(人工知能)は、人間の五感に相当するような様々なセンサーを組み込んであるので光や音や様々なことを感じることが出来ます。 そしてその「感じたこと」に反応して動くことも出来ます。 さらにはその「感じたこと」を解析して考えることも出来ます。だから碁や将棋も出来るのです。 そして、これらの能力において、人間はAIに敵いません。 将棋や碁の世界チャンピオンにすら勝っています。 でもAIは幼い子どもでも出来る「味わう」ということが出来ません。「感覚」は持っていても「心」を持っていないからです。 AIを含む機械は、味や匂いを成分に分析して、それが何であるか、どういう味であるのかを調べます、そしてビッグデータを使い、そのような成分の食べ物を食べた時、人間がどのように反応する確率が高いのかを調べます。 その結果、人間と似たような反応が出来るわけです。 (そういうロボットがあるかどうかは知りませんが)唐辛子を食べさせれば、その唐辛子の中の辛み成分を感知して辛そうな顔をすることも出来ます。 この「分析した結果によって全体の構成を知る」という方法は科学の常套手段です。というかその手法で科学は作られています。科学はまず分析から始めるのです。 そのため、AIもまた同じ方法を採るのです。 その一番根本の所には数学があります。AIの反応や行動はすべて数学的な計算によって導き出されているのです。 でもそれ故に数学の限界がAIの限界になってしまいます。 それは「分析できないものは扱うことが出来ない」という限界です。 正解があるものは扱えても、正解がないものは扱えないのです。 科学は世界や宇宙の全てを分析することで調べようとしています。でも、この世界には「分析したら消えてしまうもの」も存在しているのです。 でも、科学はその「分析できないもの」の存在を認めていません。科学的にその存在を証明できないからです。(当たり前のことなんですが・・・) でも実際には、「科学的な方法だけでこの宇宙の全てのことが証明できるという証明」は成されていないのです。 なぜなら、その証明を行うためには「現在の我々の科学よりも上位の方法」が必要になるからです。でもまだ人間はその方法を手に入れていません。 「神様」も「分析できない存在」の一つです。「分析できる神様」は「神様」ではありません。 科学では「分析できる神様が存在していないから神様は存在していない」というおかしなことを言っていますが、「神様」が本当に存在しているのか存在していないのかは誰にも証明できないのです。 「神様」だけではありません。「命」や、「音楽」や、「美」や、「味」や、「心」といった身近なものも、科学ではその存在を証明できません。なぜなら、それらのものは分析が出来ないからです。 分析しようとすれば出来ないことはありませんが、分析を始めた途端に全体性が崩れ、元の姿を失ってしまうのです。 人間の感覚では簡単に感じることが出来るのに、どんなに優秀なAIでも、人間が感じているのと同じようには感じることが出来ないのです。 なぜなら、人間が何かを感じる時には分析などしないからです。 人間は共鳴という方法で、丸ごとの状態のまま色々なものを感じているのです。 赤ちゃんが母国語を学習している時は、言葉を分析して学習しているのではありません。脳と、心と、からだの中に「お母さんの言葉」をお母さんの感性と一緒に丸ごとコピーしてしまうのです。 お母さんと子どもは、同じ命の仕組みに支えられているので、それが出来るのです。 そして、お母さんからコピーした言葉と、お母さんや周囲の人の言葉を共鳴させて、周囲の人の言葉を理解しているのです。 うまく共鳴できればちゃんと理解出来るし、共鳴が出来なければ理解出来ません。その場合言葉の分析などしていません。 だから子どもに、子どもが体験したことがないことをいくら説明しても通じないのです。「共鳴する母体」を持っていなければいくら論理的に、易しく説明しても通じないのです。 音楽の場合も同じです。 人は音楽を分析して解釈しているのではなく、「自分の中の音楽」と「耳から聞こえてくる音楽」を共鳴させることで音楽を味わっているのです。 命に対する感性も同じです。自分自身の命に対する感性を持っているから、他の人の命を感じることが出来るのです。 でもそれ故に、人は自分の内側にないものを感じることが出来ないのです。 そして、その「共鳴する母体」は幼児期にその基礎が出来上がります。幼児期を過ぎると、分析せず、解釈せず、感覚を取り込むということが困難になるからです。 母国語は幼児期にしか学ぶことが出来ませんよね。それと同じです。 それ以降に言葉を学ぶ場合は分析や解釈が必要になるのです。 ただ問題は、今、幼児期にその「共鳴する母体」を取り込むことができないまま成長している子どもが非常に多いということです。 言葉をコピーするシステムを持っていても、言葉との出会いがなければどうしようもないからです。 そういう子どもに対して、後からどんなに論理的に、どんなに易しい言葉で説明しても「受け皿」(共鳴する母体)が育っていなければ、それを受け取ることが出来ないのです。 でもその理解がない大人達は、そういう子どもたちに対しても、道徳教育の授業でやっているように論理的に説明する方法で何とかしようとしています。
2019.09.22
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あと、「感覚育て」とは一見関係がなさそうに思えるかも知れませんが、実は「言葉の育ち」が「感覚の育ち」と密接につながっているんです。視覚や聴覚などの「五感」と呼ばれる感覚の機能的な働きを育てるだけなら、それほど「言葉」のことを考えなくても済みますが、その感覚を意識したり、味わったり、自分自身の価値観や思考の中に取り込むためには、その感覚の働きとつながった言葉の学びが絶対的に必要になるのです。例えば、「おいしい」という感覚は、幼い頃に「おいしい体験」と共に「おいしい」という言葉を学んだ人にしか自覚できないのです。「美しい」とか「優しい」ということを感じる感覚も同じです。そして「感覚の育ち」は、そのまま「感情の育ち」とつながっています。日本人は「ワビ・サビ」を感じる民族だと言われますが、それは過去の話です。「ワビ」とか「サビ」という言葉が生活の中から消えると同時に、その感覚も、それに伴う感情も消えてしまったからです。ですから、その民族がどのような感覚や感情を持っている民族なのかは、その民族の言葉を調べれば分かるのです。(ただし翻訳してしまったら分かりません)朝鮮の人たち(北も南も)は「恨(ハン)」という言葉と感情を持っています。これは日本語の「恨み」のことではありません。ウィキペディアには以下のように書かれています。朝鮮民族にとっての「恨」は、単なる恨みや辛みだけでなく、無念さや悲哀や無常観、(虐げる側である優越者に対する)あこがれ[3]や妬み、悲惨な境遇からの解放願望など、様々な感情をあらわすものであり、この文化は「恨の文化」とも呼ばれる。でも、この感情は「恨(ハン)」という言葉を持っていない日本人には理解出来ません。そして朝鮮から「恨(ハン)」という言葉が消えた時、「恨(ハン)」という感覚も感情も消えるでしょう。日本人は日本語の感性で感じ、考えますが、別の言葉を持った人たちは別の言葉で感じ、考えているのです。ですから、「子どもの感覚育て」は「子どもの言葉育て」とセットにして考えないことには何も実現できないのです。毎日美味しいものを食べていても、「美味しい」とつながる言葉を学ぶことが出来なければ、「美味しい」という感覚も感情も育ちません。平和な社会で暮らしていても、「平和」につながる言葉を学べない子は、平和を自覚できません。毎日のように美しいものを見せ、自然の中に連れて行っても、それと同時に美しさや自然とつながる言葉を学ぶことが出来ない子は、「美しさや自然を感じる感性」も、「それらを大切なものとして感じる感性」も育ちません。全ての生き物は「感覚の働き」によって、「自分の周囲の世界」とつながっています。そして、その感覚の働きによって自分の内側が調整されていきます。暑い地方に生まれた子は、その暑さを体験しながら、暑さに適応した心とからだの状態を育てています。うるさい環境の中で育った子は、そのうるささを体験しながら、それに適応した心とからだの状態を育てていきます。そこで働いているのが五感の働きです。でも、人間は「からだ」だけでなく「心」も育てなければなりません。そこで必要になるのが「言葉」なんです。子どもたちが、自分の周囲にいる人間の感覚や、感情や、思考といったものを、自分の内側に取り込むためには、「体験とセットになった言葉の学び」が絶対的に不可欠なんです。そういう視点で現代の子どもの育ちを見てみると、非常に強い不安に襲われます。昔の子は、親や、兄弟や、仲間から、体験と共に言葉を学びました。でも、最近の子はテレビや、ゲームや、ユーチューブから言葉を学んでいます。子どもたちが会話している時も、それらのメディアから学んだ言葉で会話しています。もちろんお母さんからも学んでいますが、その言葉の大部分は指示命令語や詰問語ばかりです。昔は、お手伝いなどを通して「生活を支える言葉」や、「感情や思考や技術を伝達し、共有する言葉」なども学ぶことが出来ましたが、家族の生活がバラバラになり、お手伝いも、一緒にいることも求められなくなった現代の子どもは、そういう言葉を学ぶ場を失ってしまいました。そこで子どもはテレビや、ゲームや、ユーチューブなどで言葉を学ぶようになってしまったのです。でも、そのようなメディアからは、目の前にいる他者と共感し、共有し、伝え、一緒に何かを感じる言葉は絶対に学ぶことが出来ません。上で、ですから、その民族がどのような感覚や感情を持っている民族なのかは、その民族の言葉を調べれば分かるのです。と書きましたが、これは個人にも言えることで、その人が使っている言葉を分析すれば、その人の心や、感覚や、感情の状態がすぐ分かるのです。そういう視点で、最近の子どもの言葉を聞いてみて下さい。特に、ゲーム漬けになってしまっている子の言葉を聞いてみて下さい。その言葉がその子の心と、感覚と、感情と、そしてからだの状態を表しているのです。ただ問題は、子どもと同じ種類の言葉を話しているお母さんやお父さんにはその問題が全く見えないと言うことです。
2019.09.21
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感覚の働きは、自と他、頭と心とからだ、心の中と外、からだの中と外を「つなぐもの」として働いています。自分というものを統合し、自分を「一人の自立した人間」として機能するように支えてくれているのが感覚の働きなんです。そして、特別な障害を持っていない限り、「五感」という「外部の刺激を感じ取る感覚器官」は誰でも生まれつき備わっていますが、その使い方は生まれた後、様々な体験を通して学ぶようになっています。さらには、五感以外にも頭や、心や、からだといったものも、それ自体で「感じる働き」を持っています。もっと言えば、人を構成している細胞の一つ一つが「感じる働き」を持っているのです。「命の働き」はそのまま「感じる働き」だからです。ですから「命を持っているもの」は全て「感じる働き」を持っています。これは例外がありません。生物は皆「感覚の働き」によって命と、その機能を維持しているのです。ただ、これらの感覚は「五感」のように特定の感覚器官に依存していないので、その働きや存在が分かりにくいだけです。五感の働きも含めて、全ての感覚の働きの初期状態は、作られたばかりでまだ何も学習していないAI(人工知能)のような状態です。ものすごい可能性は秘めているのですが、最初はまだ何も出来ない状態です。その可能性が開くこともありますが、上手に学習することが出来なければ、ただのガラクタになったり、危険なロボットになったりします。人間でも感覚を育てることが出来ないまま育った人は、自己を統合することも、他者とつながることも出来ず、頭も、心も、からだも不安定な状態になります。そしてそれは「理由のない漠然とした不安」として表れます。でも、自分でもどうしていいのか分かりません。一生懸命に勉強しても、努力しても、それが感覚の働きを育てることにつながらなければ、本質的な問題の解決にはつながりません。ちなみに、麻薬やアルコールがなぜ人間にとって良くない存在なのかというと、それらが人間の正常な感覚の働きを狂わせてしまうからです。頭の働きも、心の働きも、からだの働きも狂わせます。更に問題なのは、軽度なうちはその本人がその狂った状態に気付かず、「自分は正常だ」と思い込んでいることです。酔っ払ってフラフラしていても「オレは酔っていない」と言い張る人は普通にいますが、顔がちょっと赤くなっている程度でもお酒はその人の感覚を大きく狂わせているのです。それはそういう検査をすればすぐに分かることです。でも、本人にはその狂いが分かりません。麻薬をやっている人も、初期のうちは自分は正常だと思い込んでいます。実際、麻薬をやりながらでもちゃんと社会生活は営めているのですから。でも、周囲はなんとなく違和感を感じています。そして、その狂いを自分でも感じるようになってからでは手遅れです。ちなみにゲームにもその感覚の働きを狂わせる働きがあります。ただ、幼児期に自然の中で、仲間といっぱい遊んで育ったような子は、ゲームをやって一時的には感覚が狂っても、しばらくするとまた元に戻ります。それは、お酒を飲んで一時的に感覚が狂っても、アルコールが消えれば感覚が元に戻るのと同じです。でも、感覚の働き全般が育っている幼児期にゲーム漬けになってしまったような子の場合は、簡単にアル中と同じ状態になり、ゲームをやっていない時でも感覚の働きが正常に働かなくなります。そして、頭や、心や、からだの働きに非常に大きなダメージが残ります。(ただし、幼児期に自然の中で仲間といっぱい遊んだ子でも、あるレベルを超えて日常的にゲームをやり続けると、アル中のような状態になってしまいそう簡単に感覚が元に戻らなくなります。そうなると、止めさせようと思っても止めないばかりか、暴力で抵抗するようになります。生活の中に自分の居場所がない子がそのような状態になりやすいです。)ちなみにここで言う「頭の働き」とは学校の成績のことではありませんからね。もっと総合的な「人間としての頭の働き」のことです。東大を卒業しても犯罪を犯したり、平気で人の迷惑になるようなことをする人は、その「頭の働き」が狂っているのです。でも、学校の成績には直接関係は及ぼさないので、お母さん達はそれほど問題を感じないのでしょう。だから、子育てでも、教育でも、子どもの感覚を育てることが、親にとっても教師にとっても非常に大切な仕事になるのですが、でも、その自覚がある大人は多くありません。また、自覚があったとしても、その方法を知っている人は多くありません。「感覚を育てる」というと、普通の人は、頭は頭で、目は目で、耳は耳で、心は心で、からだはからだで別々に育てようとします。それは欧米的な発想です。でももしそれが成功したとしても、それらが統合されないことには効率的に働かないのです。人間の感覚は全てがつながり合って、支え合って働くように出来ているからです。それは、車を作る時に、最高のエンジンと、最高のタイヤと、最高のパーツと、最高の車体を寄せ集めても、それだけでは最高の車は作れないのと同じです。それらを統合する設計者が必要なんです。その設計者は、感覚を個別に育てていては育たないのです。感覚が統合された状態の中で感覚育てをするから、感覚を統合する能力が育つのです。すると最高のエンジンを積んだだけの車よりも、総合力において素晴らしい能力を持った車を作ることが出来るのです。人生で役に立つのはその「総合力」なんです。
2019.09.20
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鉛筆でも筆でもなんでもいいですから、長くまっすぐな一本の線を引いてみて下さい。水平なまっすぐ、垂直なまっすぐ、斜めのまっすぐ。やってみれば分かりますが、ものすごく難しいものです。きれいな円や螺旋を描くのも難しいです。このような行為を支えているのが「感覚の働き」です。ですから、感覚の働きに歪みを生じている人はこのような行為が苦手です。出来ないか、出来ても非常に疲れます。子どもにやらせてみれば子どもの感覚状態が見えてきます。線を描くという行為は日常的にあまりないかも知れませんが、まっすぐに立つことが出来るのも、歩くことが出来るのも、話すことが出来るのも、考えることが出来るのも、線を描く時と同じ「感覚の働き」のおかげです。ですから、感覚の働きに歪みを生じている人は、楽な姿勢でまっすぐに立ったり、歩いたりすることが苦手です。そのため、特別なことをしなくてもすぐに疲れます。「あなたの考えを教えて下さい」と言われても、考えをまとめることが出来ません。自分の内側を感じる力が弱いからです。疲れやすい人は「自分は体力がないからだ」と考えることが多いかも知れませんが、実際には「感覚の歪み」が疲れやすさの原因であることが多いのです。また、感覚が疲れている人は「ゆっくり継続的に動く」ということが苦手です。なぜなら、感覚を働かせないことにはゆっくり動くことが出来ないからです。太極拳はゆっくり動きます。「あんな練習をしても武術として役に立つわけがない」と考える人も多いですが、ゆっくりと動きながら練習を繰り返すことで感覚やからだ全体が統合されるのです。西洋で生まれたスポーツはスピードとパワーで戦いますが、太極拳は感覚で戦うのです。(もちろん感覚だけではありませんけど・・・)だから練習方法が全く違うのです。また、感覚が疲れている人は待つのも苦手です。待てないのです。待たされるとイライラするのです。そして今、ゆっくりや、待つことが苦手な子どもや、大人や、お母さん達が増えて来ています。というか、そういう子や、大人や、お母さんが普通になってきてしまっています。そのような状態の人の感覚は過度に過敏になるか鈍感になっています。匂いや、音や、感触や、味や、視覚に過敏になっていたり、逆に鈍感になっていたりします。そのため、正常に周囲の状態や自分の状態を感じ取ることが出来ず、周囲の状態や自分自身と適切につながることが出来ないのです。それが不安や自己肯定感の低さの原因になったりします。学習も困難になります。先生の話や思考に集中できないからです。「ゆっくり動き遊び」をすると、発達障害の子はゆっくり動けません。同じように、ゲームでばかり遊んでいる子もゆっくり動けません。感覚の働きが歪んでしまっているからです。幼い時からゲームでばかり遊んでいる子は待つことも、人の話に集中することも、自分の考えをまとめることも苦手です。ゲームには、子どもの感覚の働きの統合性を破壊する働きがあるからです。部分的に過敏にさせ、部分的に鈍感にさせるのです。そのため精神的に不安定になります。ただ、知的な能力には影響を与えません。だから、問題にならないのです。ゲームはストレス発散にも使われますが、そもそも感覚が安定している子はストレス自体がそんなに溜まらないのです。シュタイナー教育では「フォルメン線描」とか「オイリュトミー」という活動を大切にしていますが、これらの活動には子どもの感覚を統合する働きがあります。適当な本が見つからなかったので、どんなものかはネットで調べてみて下さい。
2019.09.19
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キリスト教ではこの世界の全ては神様が「言葉」で創ったことになっています。それはつまり、この世界に「神様の不思議」は存在していても、「自然の不思議」は存在していないということです。「自然の中に神様の不思議を感じる」というようなことはあるでしょうが、「自然の働きそのものの不思議を感じる」という感覚はなかったのではないかと思います。つまり、種から芽が出て花が咲く現象に「神様の働きの不思議」を感じることはあっても、「命の働きの不思議」を感じることはなかったのではないかと言うことです。そして、神様の働きとして理解出来ないことは悪魔の仕業として理解されました。神の子として創られた人間に災いを成すものはすべて悪魔の仕業か、神を裏切った人間の罪によるもの(自業自得)として理解されたのです。「死」も「お産の苦しみ」も、人間の罪として理解されていました。もともとキリスト教文化は、自然や命の現実をありのままの姿で見ようとしない非科学的な文化だったのです。キリスト教の前身のユダヤ教は民族をまとめるための宗教でしたから、客観的な自然や命の現実よりも、「自分たちは神に創られ、神に選ばれた特別な存在なんだ」という主観的な思想の方が大事だったのです。そのユダヤ教の流れの中に生まれたイエス・キリストは、そのユダヤ人限定の宗教を、「ユダヤ人だけでなく全ての人がその救いの対象になるんだよ」と説きました。だから世界宗教になることが出来たのです。でも、その対象はあくまでも「人間」であって、人間以外の生き物や自然はその対象には含まれていませんでした。また、「神様を理解したい」という思いが強かったので、様々な自然現象を観察することで、神様の働きを理解しようとしました。神様がこの世界を創ったのなら、この世界をよく観察することで神様の不思議を理解し、神様に近づけるのではないかと考えたのです。ニュートンやガリレオは科学者として有名ですが、同時に神学者でもあったのです。でも、皮肉にもその「神様のことをよく知りたい」という想いが、神様なんかいないという現実を明らかにしてしまったのです。研究が進むにつれて、この世界を支えているのは、「神様」ではなく単なる「物理学の法則」だということを発見してしまったのです。そして、今度は「科学」が「神様」になりました。その科学で大切にされているのも人間ではありません。科学が、「人間もまた科学的な現象の結果に過ぎない」ということを明らかにしてしまったからです。科学の目的は科学の可能性を探究することだけです。そこには神様も、人間も、自然も存在していません。西洋は、「人間や、命や、自然は、それだけで何にも代えがたい素晴らしい存在なんだ」という価値観が生まれないまま科学中心時代に入ってしまったのです。ただ、1960年代の後半ぐらいから神様を失ってしまったその後を埋めるように、一部の若者達の間に、「人間や、命や、自然は、それだけで何にも代えがたい素晴らしい存在なんだ」「自分は自分だ」という価値観や考え方が広がり始めました。そのきっかけになったのが東洋の思想です。そして、外側の世界に神様を探すのではなく、自分の内側を探り、命の神秘、宇宙の神秘に近づこうと瞑想をする若者も増えました。インドに行く若者も増えました。去年インド最北端の都市ラダックに行きましたが、ラダックのチベット仏教の寺院でも、瞑想をしている欧米の若者を何人も見かけました。世界を創った神様と違って、「仏」は外の世界にはいません。「仏」と会いたいのなら、自分の内側を見つめるしかないのです。自分の内側を通して宇宙と出会うのです。それが仏教です。でも、その東洋で生まれた「自分の内側を見つめるだけの宗教」は、「安心」は与えてくれましたが、「この世界の仕組み」は明らかにしてくれませんでした。科学も生まれませんでした。豊かさももたらしてくれませんでした。で結局、西洋文明の強さと豊かさに負けてしまいました。その結果、東洋では、「人間や、命や、自然は、それだけで何にも代えがたい素晴らしい存在なんだ」とか、「自分を見つめる」という思想を捨ててしまう人たちが増えて来ました。そして、東洋的な価値観を捨てて、追いつけ追い越せと頑張ってようやく、豊かさにおいて西洋文明に追いつきました。その先頭に立っていたのが日本です。でも今、多くの日本人が目標を失い、空っぽになってしまっている自分に気付き始めています。その「空っぽ」は「理由のない不安」として働き、人々を競争に追い立てたり、考え方を保守的にしています。麻薬やゲームのように「自分を忘れさせてくれるもの」に夢中になる人も増えて来ました。その状態から抜け出すためには、もう一度「人間や、命や、自然は、それだけで何にも代えがたい素晴らしい存在なんだ」ということに気付く必要があるのです。そして、自分を見つめ、自然の不思議、命の不思議、「自分」という存在の不思議を感じる感性を取り戻すことです。西洋的な価値観と東洋的な価値観が融合しないことには、ここから先の未来はないのです。ちなみに、多血質や胆汁質の人は、「神様」のような「外側にあるもの」に価値基準を探そうとする傾向があります。それに対して、粘液質や憂鬱質の人は、「仏」のような「内側にあるもの」に価値基準を探そうとする傾向があります。
2019.09.18
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現代人は「感覚」とか「からだ」という視点が分からなくなってしまったため、「心」についても分からなくなりました。そのため、心に何かトラブルがあると、カウンセリングのような形で、相手の心と関わることで何とかしようとしています。コーチングと呼ばれる方法も基本的には同じです。確かに自分以外の誰かに話を聞いてもらったり、人に話をすることで心の交通整理が出来ます。自分の心に対して俯瞰的な視点を持つことも出来ます。そのことで、こんがらがっていた問題がほぐれることもあります。迷路の出口が見つかることもあります。ですから、意味がないことではないのですが、これらの方法で解決できるのは問題意識を持っている人や、自分の悩みを自覚している人の問題だけです。それはつまり、これらの方法では「心の中の問題」は扱えても、「心そのものの問題」は扱えないと言うことです。例えば、気質が違えば心とからだの状態が違います。この違いは本人達も自覚していません。問題意識も持っていないし、また問題でもありません。そのため、その人の心の苦しみがその人の気質に起因している場合、カウンセリングをしてもコーチングをしても無駄です。それはまた、「コマの回し方が分からないんです」という人の悩みは解決できても、「コマが嫌いなんです」という人の問題は解決できないし、また解決する必要もないということです。そもそも、「コマ」が嫌いな人はコマが回せないからと言って悩んだりはしないものです。それが悩みになるのは周囲からコマを回すように強制された時です。でも本人は、コマを回したいのではなく、強制されたくないだけなので、コマの回し方についてカウンセリングやコーチングを受けても意味がないのです。というかそういうものを受けたいとも思いません。また、子育てや教育の場でも、悩みを相談してきた子の問題を解決する場合には、カウンセリングやコーチングという方法は有効ですが、「子どもの心そのものをどう育てたらいいのか」という問題に対しては無力です。それに対して、感覚やからだという視点を持てば、相手がまだ言葉を話すことが出来ない赤ちゃんや幼い子どもであっても、「心をどのように育てたらいいのかと」いうことが分かります。発達障害と呼ばれる「ちょっと変わった子」との関わり方も分かります。鬱病や統合失調症のような状態で苦しんでいる人との関わり方も分かります。ただし、「治せる」ということではありませんからね。そもそも「心の問題」は治す必要がないことも多いです。実際、周囲が理解してあげるだけで問題が問題ではなくなってしまうことも多いのです。でも、心理学や、心理学に基づく方法では、このような問題で苦しんでいる人を扱うことが出来ません。そのため、すぐに「薬を使って、症状を落ち着かせる」という方法を使おうとします。心理学は「心の問題」を「心の中の問題」として扱おうとします。でも慢性的な「心の問題」の本質は、心の外側にある「感覚やからだの問題」なので、心理学では扱いようがないのです。「心」は「感覚やからだの状態を映し出すモニター」として働いているだけだからです。私の周囲にはゲシュタルト心理学にはまっている人が多いですが、ゲシュタルト心理学も部分的にですが、感覚やからだという視点も取り込んでいます。そうしないと説明できないことがあるからです。でも、ゲシュタルト心理学が「心理学」であるかぎり、本当の全体は見えません。心理学では、人間の世界を超えた問題は扱うことは出来ないからです。「人間の中の問題」は扱えても、「人間という存在の問題」は扱えないのです。発達障害という現象を扱う場合も、「人間の中の問題」として扱われることが多いです。だから「みんなと一緒」が出来ない子は、「障害児」として扱われることになってしまうのです。でも、発達障害を「人間という存在そのものの問題」として考えた時には、それは単なる障害ではなく、「警告」や「可能性」として扱うことも可能になります。それと、発達障害の子は独自の感覚を持っています。感覚や思考能力が不良品のように壊れているのではなく、ちゃんと機能している独自の感覚や思考能力を持っているのです。ですから、人間社会の「普通」を「正常」として基準にしたら「障害」になってしまうのですが、でも、その感覚や思考能力の個性を受け入れてしまえば、障害ではなくなってしまうのです。それはまた、人間が自分自身を相対的に理解するきっかけにもなるでしょう。それは、外国に行って始めて、日本のことを客観的に理解出来るようになるのと同じです。
2019.09.17
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当然のことながら、実際に何かを見るためには眼が必要です。何かを聞くためには耳が必要です。つまり、音や光といった「外側にあるものに感応する受容体」(感じるもの)を持っているから、それらを感じることが出来るわけです。実際に目の前に何かが存在していたとしても、それを感じる受容体を持っていなければ、人はその存在に気付かないのです。この受容体は眼や耳などのように生まれつきのものでなくても、様々な経験を通して、神経回路がその刺激を感じやすいように構成されることもあります。生まれつき持っている眼や耳がハード的な受容体だとすると、これは二次的に作られるソフト的な受容体になります。私たちが言葉を理解したり、言葉から何かを感じることが出来るのも、このソフト的な受容体が、幼い頃からの言葉体験によって作られるからです。ただそのため、このソフト的な受容体の特性はそれを形成する際の体験の質に依存しています。日本語を体験しながら育てば、「日本語を理解し感じる能力」(受容体)が育ちます。英語を体験しながら育てば、「英語を理解し感じる能力」(受容体)が育ちます。そして、同じ日本語でも東北弁を体験しながら育った人と、関西弁を体験しながら育った人とでは、受容体の性質が異なるため言葉に対する感受性も異なります。いずれにしても、人は、自分の心やからだの外部にあるものを、内部にある受容体と響かせることで外部の世界を認識しているのです。それはつまり、「自分の内側に日本語があるから、外側にある日本語を理解出来る」ということでもあります。逆に言えば、自分の内側に日本語がない人は、他の人が話す日本語を理解することが出来ないということでもあります。またそれは、自分の中に「優しさ」がない人は、他の人の「優しさ」を感じることは出来ないということであり、自分の中に「美」がない人は、外の世界の「美」を感じることが出来ないということでもあります。言葉で説明されることで言葉で理解することは可能ですが、受容体がないので感覚的にそれらを直接感じることは出来ないのです。そのためそのような人は観念的な優しさや美に囚われやすいです。他の人の感情を感じる時にも同じことが起きています。自分の中に怒りの感情がある人ほど他の人の怒りの感情にも敏感です。そのため、他の人の怒りに敏感に反応して恐がる人は、自分よりも弱い相手には怒りをぶつけることも多いです。よく、「私あの人嫌いなんだよね」という話を聞いていると、その「あの人」と、その話をしている当事者が似ていることを感じることがあります。困ったことに、人は、自分が大嫌いな人と自分が似ている可能性が高いのです。似ているからよく分かるのです。よく分かるから嫌いなんです。「お母さんが大嫌いです」という人の話を聞いていると、その人とお母さんが似ていることを感じることも多いです。だから「嫌いだ」と言って否定するだけでは問題が解決しないのです。逆に、自分の中にある「同じ所」をちゃんと受け入れ否定しないようにすると、お母さんへの怒りも消えるのです。これは気質とも関係しています。多血質の人は多血質特有の受容体を持っています。だから、多血的な出来事やものに対する感受性が高いのです。家内は多血+胆汁的な気質が強いです。だからスポーツ番組を見ていて盛り上がっています。でも、根が多血なので、負けても怒ったりはしません。諦めも早いです。それに対して、粘液+憂鬱の私には、スポーツを見て熱狂する人の気持ちが分かりません。負けて悔しがったり、怒ったりする人の気持ちはさらに分かりません。これは気質の違いに伴う受容体の違いの問題なので、どうしようもないのです。
2019.09.16
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昨日は、意識が心の中に向かいがちな憂鬱質の人でも、感覚の働きを大切に生活していると、不安や悩みに振り回されなくなるのです。と書きましたが、だからといってそう簡単に感覚に意識を向けることが出来るようになるわけではありません。感覚の働きを大切にするといっても、それまで感覚の働きを大切にしてこなかった人はそれがどういうことか分かりません。そもそも、自分の感覚に気付くことすらないかも知れません。人は、それまで見えていたのに見えなくなったり、それまで聞こえていたのに聞こえなくなれば気付きますが、最初から意識したことがないものに気付くことは出来ないのです。そしてそれはその人の心の中の物語と関係しています。人は誰でも、心の中に自分だけの物語を持っています。その物語は人類の歴史とも、自然とも、宇宙ともつながっていますが、幼い頃から見聞きし体験してきたことが、一人一人の物語に個性を与えています。それは同じケヤキの木でも、大地から切り離された後は、ある木は家になり、ある木は食器になり、ある木はイスになり、というような個性です。「ケヤキの木」という原初的な個性(それが気質です)は同じでも、今現在の状態は「どう扱われてきたか」ということに応じて、全く異なったものになるのです。そしてその「どう」扱われてきたのか」ということが、その人の「一人の人間としての物語の状態」を決めています。そして、その人の感覚は、その人の物語に沿って働くように最適化されます。家になった木は「家としての物語」と「家としての感性」を持っています、イスになった木は「イスとしての物語」と「イスとしての感性」を持っています。もちろん姿形は変わっても、素材としての「木としての感性」は変わっていません。でも、その感性は生まれつきのものなのであまり自覚されることはありません。ただし、人間の場合はもっと話が複雑になります。なぜなら、物理的には同じ環境で育った子、同じような状態で育った子でも、その環境との関わり合いの違いによって、子どもは異なった物語を持つようになってしまうからです。同じように、大勢の人間に囲まれて育った子でも、みんなに肯定されながら育った子は人間に対して肯定的な物語を持つようになります。だから、人間を信じることも出来ます。そして人間の肯定的な側面に対する感受性が高くなります。だから、良い人を見分ける能力も高いです。「悪い人」がどのような人なのかはよく分かりませんが、そのような人の近くに行くと違和感を感じます。逆に、周囲から否定されながら育った子は、人間に対して否定的な物語を生きるようになります。そして人間の否定的な側面に対する感受性が高くなり、自分と同じような「人間に対して否定的な感性を持っている仲間」を見分ける能力が高くなります。「良い人」がどのような人なのかはよく分かりませんが、そのような人の近くに行くと違和感を感じます。で、結局両者とも「類は友を呼ぶ」という状態になります。同じ物語を持っているもの同士が集まるのです。同じ物語を持っているもの同士は共通の感覚、価値観、物語を生きているので簡単につながれるからです。スマホやゲームなどの機械でばかり遊んで育った人は、「自分の物語」の中に「機械の物語」も取り込まれているので、機械に対する感受性は高くなります。でも、人との関わり合いによって「人間の物語」が育っていなければ、人間に対する感受性は低くなります。でも、この物語は変えることも出来ます。都会で生まれ育った人をいきなり自然の中に連れて行っても、自然を感じる能力は低いです。でも、「自然の物語」に詳しい人に「自然の物語」を教えてもらい、自然との関わり合いを増やすことで、自分の物語の中に自然の物語も組み込まれるようになり、自然を感じる能力も育っていくのです。この際大切なのは、「自然に対する知識」を学ぶのではなく、「自然を支えている物語」を学ぶということです。「物語」には「自分という人間を支えている物語」を変える力がありますが、「知識」はただ溜め込まれるだけだからです。「物語」とつながらない「知識」には人を変える力はないのです。まただから、本をいっぱい読んでお勉強しただけでは人は変われないのです。
2019.09.15
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現代人は非常に不安が強いですが、それは感覚に意識を向けなくなったことの表れでもあります。感覚に意識を向けるということは、外側の世界に意識を向けるということです。それはつまり、外側の世界とつながるということでもあります。それをしなくなったため、意識がすぐに心の中に向かい、心の中に閉じ込められてしまうようになってしまったのです。だから憂鬱質でもないのに、憂鬱質的な状態が強くなってしまっている人が多いのです。逆に言えば、意識が心の中に向かいがちな憂鬱質の人でも、感覚の働きを大切に生活していると、不安や悩みに振り回されなくなるのです。昔の人は常に感覚に意識を向けて生活していました。感覚に意識を向けていないと生活できなかったからです。ご飯を炊くのだって、現代人はボタンを押すだけですが、昔の人は薪を割り、カマドに火を熾し、匂いと、音と、勘を頼りに炊いていたのです。感覚に意識を向けていないと、ご飯すら炊けなかったのです。お掃除だって、お洗濯だって出来ませんでした。仕事でも、便利な機械がないので、からだを使って仕事をしていました。そして、からだを使うためにはからだや、行為の対象に感覚を向ける必要がありました。人が悩むのは何もしていない時です。そのため、悩みたい人は、手を止めます、足を止めます、からだを動かすことを止めます。とにかく、手や足やからだを動かすことを止めないことには悩めないからです。皆さんは体操をしたり、歌ったり、踊ったりしながら悩めますか。やってみて下さい。多分出来ないと思います。悩もうとするとからだの動きが止まってしまうはずです。ですから、悩みから抜け出すためには、手を動かし、足を動かし、からだを動かし、感覚に意識を向ければいいのですが、そういう人に限って、「悩みから抜け出せない」と悩むばかりで、動こうとしないのです。そのため、いつまで経っても苦しみから抜け出すことが出来ません。簡単で便利な機械のおかげで現代人は、自分のからだや感覚を使わなくても生活できるようになりました。でも、そのせいで、現代人は心が自分の内側に向かいやすくなり、悩みや不安に囚われやすくなってしまったのです。だから、アルコールや、麻薬や、向精神薬や、ギャンブルみたいのものに頼りたくなる人が増えて来ているのです。大麻は昔から日本に自生している普通の草です。江戸時代までは法律で禁止されてもいませんでした。大麻の効果を知っている人もいました。それでも、それにはまって中毒になる人はいなかったようです。(少なくとも、大麻で中毒になった人の記録はないそうです)ゲームも同じ働きをしています。ゲームで遊んでいる時は、バーチャルな世界の中で擬似的にからだを動かすことが出来ます。すると、擬似的に感覚も働きます。だから、その時だけは悩みや苦しみを忘れることが出来るのです。でも、現実の世界の中で実際にからだを動かしているわけではないので、その感覚の働きも実際のからだや現実の世界とは全くつながっていません。ゲームの世界の中で起きていることは全部が「つもり」なんです。「からだを動かしているつもり」、「感覚を働かせているつもり」、「ゾンビと戦っているつもり」、「冒険をしているつもり」です。でも、頭の中はそのつもりでも、「つもり」では、自分と現実の世界をつないでいる「からだ」も「感覚」も育たないのです。そのため、ゲームでばかり遊んでいる子は「自分が生きている世界とのつながり方」が分からないままになってしまうのです。そして、現実の世界での活動が面倒くさくなってしまいます。また、意識が外の世界にではなく、心の中に向かいやすくなり、悩みや苦しみを抱えやすい心とからだの状態になってしまいます。このような状態のまま大人になってしまった人は、子育てをしていても子どもの状態を感じることが出来ません。何かあるとすぐに、外の世界への感覚を閉ざして、意識が心の中に閉じこもってしまいます。9才、10才頃まで自然の中で、仲間と思いっきり遊んで育った子は、感覚もからだも十分に育っています。現実の世界の中に自分の居場所もちゃんとあります。だから、悩みや苦しみに囚われにくくなります。そのような子は、ゲームで遊んでも、ゲームに取り込まれる可能性は低いと思います。でも、幼い頃から、自然の中で仲間と思いっきり遊ぶこともなく、一人でゲーム(簡単で便利な機械)でばかり遊んで育った子は、挫折しやすく、ガマンも出来ず、苦しみや悩みに囚われやすくなってしまうと思います。そのような子は、感覚の働きが鈍いです。感覚が働かないので造形も表現も出来ません。考えることも工夫することも苦手です。そして、何かあるとすぐに、悩みや苦しみの迷路に入り込んでしまいます。悩みや苦しみが脳の中に創り出したバーチャルな世界に閉じ込められてしまうのです。本来は、感覚の働きがその「脳内バーチャル」の世界から、現実の外の世界へ心を連れ出してくれるのですが、その感覚の働きがちゃんと育っていない子はその世界から抜け出せないのです。大人でもそういう状態の人がいっぱいいます。
2019.09.14
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人というより全ての生き物は感覚の働きで、自分以外の他者や、周囲の環境や、自然とつながっています。感覚の働きがなければ、自分自身ともつながることが出来ません。そしてその感覚の働きは、体験によって育つように出来ています。例えば視覚ですが、外部の世界の映像が眼球を通して網膜に映し出され、そのデータが脳に送られるという所までは、特別に機能的な異常がない限り誰でも生まれつき持っている能力です。これは体験によって生まれた能力ではなく、DNAの働きによって生まれた能力だからです。でも、その視覚データがどのように処理され、そのデータの中に何を見て、何を感じるのかを決めているのはDNAではなく、体験です。ですから、体験とつながっていないものは網膜に写っていても見えないのです。以前、子どもたちに小さな公園が写っている1枚の写真を見せて「何が見える」と聞いたことがあります。公園の写真ですから、子どもたちは、ブランコ、滑り台と勢いよく答えてくれました。でも、写真に写っている遊具の名前が一通り出たら、そこで発言は止まってしまいました。公園の上に広がっている青い空や、白い雲、公園の木々、道路の脇の自動車、そういうものは見えないのです。それで、「それだけじゃないでしょ」と更に聞いたら、ようやくそういうものに気付く子が出てきました。小学校に呼ばれて音のワークをした時も、体育館に集まった子どもたちに「何の音が聞こえる」と聞いたら、まず最初に足音や、話し声や、ピアノの音や、自動車の音といった、人工的な音ばかりが出てきました。風の音も聞こえていたのですが、それに気付くまでにはかなり時間がかかりました。でも、同じ質問を日常的に自然の中で自然と共に暮らしている子どもたちにしたら、全く違う答えが返ってくると思います。公園の上を飛んでいる鳥や、緑豊かな木や、道の隅にいる犬には気付いても、ブランコや滑り台には気付かないと思います。遊んだことも、見たこともないものだからです。これは私の推測ではなく、実際に学者達が確認した事実でもあります。人間は、目で見て、耳で聞いているのではなく、体験で見て、体験で聞いているのです。それは言葉を聞くのと同じ仕組みです。全く知らない外国語は単なる「音」としてしか聞こえませんが、日本語なら「音」ではなく言葉として聞こえてきます。それと同時に、言葉の「音」としての側面は聞こえなくなってしまいます。「木」という言葉はみんな知っていますが、木が身近なところにあり、木登りしたり、木の実を取って遊んでいる子と、木との触れ合いがない生活をしている子とでは、「木」という言葉に対する理解が全く違います。「木」という「文字」も、「き」という「音」も、「木についての説明」も知っていても、木との触れ合いがない状態で育った子は、「木についての情報」を知っているだけで、「木」そのものは知らないのです。そのため、「木」についての話や、「木」が出てくる物語を聞いても本質的なところで理解することが出来ません。言葉が「言葉」として正しく機能するためには、その言葉とつながった体験が必要になるのです。そして、その体験を支えているのが感覚の働きなんです。子どもたちに何かを体験させようとして何かをやらせても、感覚を働かせながらやった子はちゃんと体験が出来ますが、マニュアル的に作業しただけの子は体験が出来ないのです。例えば、包丁を使う体験をさせる時も、包丁や、自分が切るものや、手のひらの感覚や、からだの感覚を感じながら切った子は、ちゃんと「包丁」を体験できますが、ただ動作を真似しただけの子は、「包丁」の体験が出来ないのです。それはロボットがやっている「作業」と同じものだからです。ロボットは体験が出来ないのです。だから成長しないのです。ただし、同じロボットでも、AIはその体験が出来るように作られています。だからAIは成長するのです。これは人間も同じで、感覚の使い方を知らない子は体験も出来ないし、学ぶことで成長することも出来ないのです。学んだ知識を吸収する能力がないからです。そのような子は、どんなに学んでもただ知識が増えるだけなんです。その違いが現れ始めるのが中学生頃です。小学校の間の勉強は覚えるだけでも何とかなりますが、中学生ぐらいになると考える能力が育ってない子はついて行くことが困難になってしまうのです。当然、勉強を楽しむことも出来ません。だからといって、東大に入るような子がみんな考える能力に優れているということではありません。受験やお勉強に特化した思考法はパターンが決まっているので、その思考法を単なる技術として覚えてしまえば何とかなってしまうからです。もっといえば、「自由に考える能力」は受験やお勉強には必要がないのです。かえって邪魔になってしまうこともあります。実際、「自由に考える能力」が高いが故に、学校の成績は悪い子もいます。でも、その「自由に考える能力」がないと、自分の人生を自分のものとして生き生きと生きることが出来ないのです。そして、その「自由に考える能力」が育つためには、9才頃までに感覚をいっぱい働かせながら、色々な体験をする必要があるのです。思考力と感覚の働きは一見関係がなさそうに見えますが、実際には感覚が働かないと思考も出来ないのです。「考える」ということは「感じる」ということの延長でしか発生しないからです。そのため、感覚の働きが鈍くなっている時は思考力も低下しているのです。思い当たることがあるのではありませんか。私もこの文章を感じながら書いています。お勉強で必要な思考力はお勉強だけでも育てることが出来ますが、お勉強で育てた思考力は、お勉強という場でしか使えないのです。社会に出たら使えないのです。人間関係の中でも、自分を成長させるためにも使えません。だからこそ、子ども時代、特に幼児期の感覚育てが非常に重要になるのです。
2019.09.13
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「気質」は一休みして、しばらく「感覚」の話を書きます。現代人は感じることが苦手です。すぐ、機械や、道具や、知識に頼ってしまいます。また、感じるのではなく頭で判断しようとします。でも、そのことを指摘しても、そもそも「感じる」というのがどういうことなのか分からない人が多いので、話が伝わりません。便利な機械や、道具や、知識がない時代には、人々は感じる働きを使って、からだを動かし、仕事をし、獲物を得、敵や危険から身を守っていました。今でも、人間以外の生き物たちはみんな「感じる働き」に頼って生きています。人間はお金があれば食べ物を得ることが出来ますが、動物たちは、自分の食べるものは自分のからだを使って手に入れなければなりません。そして、感覚の働きがそのからだの動きを導いているのです。そのため、感覚の働きが鈍くなれば、生きること自体が困難になってしまうのです。これは例外がありません。そして、その感じる働きが、動物たちのからだを統合しているのです。耳を澄まして何かを聴こうとしている時、からだ全体の働きがその目的のために統合されるのです。指の先から呼吸までが、何かを聴くために統合されるのです。何かを聴こうとしている時に働くのは聴覚だけではないのです。無意識的に五感の全てが、意識と、心と、からだの全てが動員されているのです。でもいまでは「耳を澄ます」ということ自体が少なくなりました。聞こえにくければボリュームを上げればいいし、そもそも耳を澄まさなければならないような状況もあまりありません。現代社会では大部分の情報は映像や文字でやってきます。獣が襲ってくることもありません。風の音に耳を澄ますことも、鳥の声に耳を澄ますことも、花の開く音に耳を澄ますこともありません。風や、鳥や、花や、自然とのつながりが切れてしまっているからです。詩人、谷川俊太郎が書いた詩に「みみをすます」という詩がありますが、その詩は みみをすます きのうの あまだれに みみをすますという言葉から始まります。今現在聞こえている「あまだれ」ではないですよ、「きのうのあまだれ」です。人は「きのうのあまだれ」にすら耳を澄ますことが出来るのです。また、詩人、長田弘が書いた絵本(絵・荒井良二)「森の絵本」には どこかで よぶ声が しました でも 見まわしても だれもいません すると また よぶ声が しました こんどは ずっと 近く です でも やっぱり だれもいません 木のうえに ひろがる 青い空 風がはこんでくる 日の光 という言葉で始まります。森の中に入ると声が聞こえてくるのです。その声は「きみの大事なものを忘れてはいけないよ」と、声にならない声で語りかけてきます。それは耳で聞く声ではなく、心で聴く声です。人は、耳を澄ましていると、心に響いてくる何かを音として、声として聴くことが出来るのです。「耳を澄ます」ということは、「心を澄ます」ということでもあるからです。ですから、耳を澄ましていると、海でも、山でも、森でも、単なる音以上の何かを聴くことが出来ます。私は山で聴く「沈黙の音」が好きです。沈黙の音には世界中の人の声や音が含まれているからです。ちなみに、耳という感覚器官で聞くのが「聞く」です。心に響いてくる何かを心で聴くのが「聴く」です。葉っぱがヒラヒラ落ちてくる音は耳では聞くことが出来ませんが、心では聴くことが出来ます。雲がムクムクしている音は耳では聞くことが出来ませんが、心では聴くことが出来ます。子どもの笑顔が発している音も、子どもの心が発している音も聴くことも出来ます。でも、現代社会では「聞く」は大事にされていますが、「聴く」は大事にされていません。というか聴く能力自体がものすごく低下しています。人々の意識が「物」にばかり向かうようになってしまったからです。また、自と他、人間と自然、心とからだのつながりが不安定になってしまっていることも影響しているでしょう。以下は私が大好きな本です。****************みみをすます [ 谷川俊太郎 ]価格:1728円(税込、送料無料) (2019/9/12時点)楽天で購入森の絵本 [ 長田弘 ]価格:1512円(税込、送料無料) (2019/9/12時点)楽天で購入
2019.09.12
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西洋では昔から、物事を分析し、分析したものをさらに分析し、それらの結果を集めて全体を理解しようとしてきました。その結果生まれたのが西洋哲学や、科学や、神学と呼ばれるものです。音楽も音を分析し、再統合することで作られてきました。交響曲と呼ばれるものはその最たるものです。一つの曲を演奏するのに、あんなにも多くの楽器に役割分担をさせているのですから。そしてだから、西洋では「人工的な美」を創り上げる能力が非常に高いのです。ただ、この方法では決して扱うことが出来ないものもあります。それは、その分析を行っている主体としての人間と、その人間が属している命の世界や自然です。なぜなら、どんなに頑張っても自分で自分を客観的に分析することは出来ないからです。だから、デカルトは「我思う故に我あり」などという中途半端なところで思考停止してしまったのです。まただから、いっぱい気質の勉強をしても自分の気質だけが分からないのです。人間は人間の客観的理性で分析可能なものしか扱えないのです。でも、人間はそれが人間の全て、世界の全て、自然の全てだと思い込んでしまっています。そして、その勘違いが人類を間違った方法に進めています。科学や、医学や、文明が進歩すればするほど、人間が人間でいることが困難な状態になって来ています。そう感じることはありませんか。冷静に考えたら、こんなにも科学や、医学や、文明が進歩したのだから、人間はもっと豊かに、幸せに、生き生きと生きることが出来るようになってもいいはずなのに、実際にはその逆の現象が起きています。私は去年、インド最北端の標高3500mの高地にあるラダックという町に行ってきましたが、そこではまさに貧しいけど幸せに暮らしていた人々が、生活の西洋化と共にあっという間に、人と人のつながりが失われ、お金がないと生きることが出来ない貧しいだけの社会になってしまいました。学校も、子どもを苦しめる場になっています。「学校が大好き」と言う子どもにその理由を聞いても「友達がいるから」と答えます。勉強や学校そのものが楽しいからではありません。現代の学校は、目の前にいる子どもと向き合うことなく、子ども丸ごとを受け入れることもなく、「頭で分析した観念的な子ども」を相手に、大人が教え込みたいことを、大人が作ったスケジュールに合わせて覚えさせています。で、勉強が出来ないと生徒や親のせいにされます。勉強を教えるのが先生の役割なのですから、勉強が出来ない子がいるならそれは先生の能力不足や学校というシステムの問題なのに、なぜかそれを生徒個人のせいにするのです。そしてそれが許されているのです。そして、親もまた先生と同じように勉強が出来ないのは勉強しない我が子が悪いと思い込んでいます。でも、子どもの心とからだは、自分の成長に必要なことしか出来ないように出来ているので、成長に害になるようなことは叱られても出来ないのです。なぜなら、自我が未成熟な状態の子どもは、本能的な命の働きに導かれて考え、感じ、行動しているからです。そのため、「もうやりません」と約束させてもまたやってしまうのです。でも、その責任は子どもにはありません。子どもは自分でも自分をコントロールできないのですから。子どもに出来ないことを子どもに求める大人の方が悪いのです。それは子どもを分析するのではなく、ありのままの状態を素直に観察していれば簡単に分かることです。今私たちに必要なのは「分析」ではなく「観察」なんです。ありのままを観察するのです。すると、自分の中にそれに響くものがあることに気付きます。花を見て、花の名前が言えても、色や形や種類を分析しても、命にとっての意味はありません。大事なのは、花を見て何かを感じることなんです。花と共鳴している自分を感じるのです。青い空を見て、青い空と共鳴している自分を感じるのです。子どもを見て、子どもと共鳴している自分を感じるのです。他者の中に自分と共通するもの、共鳴するものを感じるのです。その感覚が育ってくると、分析するのではなく丸ごと受け入れることが出来るようになるのです。
2019.09.11
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よく、「心とからだはつながっている」と言いますが、その「心」と「からだ」をつないでいるものが気質です。それはつまり、「気質」は「心」と「からだ」の両方にまたがって働いていているということです。だからこそ。「気質の状態」は「心とからだの状態」に影響を与え、「心とからだの状態」は「気質」の状態に影響を与えるのです。そしてだから「気質」は不安定で常に動いているのです。現代人は、心は「心育て」で、からだは「からだ育て」でと分けて考えていますが、その両者は気質でつながっていて分離不可能なものなので、別々に育てようとした段階で、気質や、心とからだに歪みを生じさせてしまうのです。さらには、気質は意識や頭の働きともつながっています。心の働き、からだの働き、意識や頭の働きは全て気質の働きを介してつながっているのです。(もっと言えば「命の働き」もです。)だから「頭」だけを育てようとすると「心」や「からだ」に歪みを生じてしまいます。「心」だけ、「からだ」だけを育てようとしても、他の要素に歪みが生じます。というか、それらは本来一つのものなので別々に育てることなど出来ないのです。ゲームの問題も脳や心の問題としてしか考えていない人が多いですが、実際には「ゲームの問題」は「心の問題」でも、「からだの問題」でも、「意識や脳の問題」でも、「気質の問題」でもあるのです。「気質」という視点を持つということは、子どもを、心や、からだや、頭などの部分に分解して考えることを止めて、一人の人間としてその育ちを考えるという視点を持つことでもあるのです。子どもの育ちには、心の働き、からだの働き、意識や頭の働きが一体のものとして働き、一体のものとして成長するような活動が必要になります。これは教育においても同じです。シュタイナー教育はその方法を持っていますが、その他の一般的な教育方法では、これらを別々のものとして育てようとしています。意識や頭のことも、心のことも、からだのことも考えているのですが、それらを「一つのもの」として扱う方法を知らないからです。心の働き、からだの働き、意識や頭の働きが「一つのもの」として働くためには、子どもの「主体的意識」が必要になります。自分の意思で取り組むから、心の働き、からだの働き、意識や頭の働きが一つのものとして働くのです。「意思の働き」が統合を促すのです。ですから当然、遊びの場ではそれらは統合されています。また、勉強などでも、子ども自身が興味を示して、自分の意思で勉強している場合にはそれらは統合されています。でもそういう子は少ないです。また、勉強が好きで自分の意思で勉強を楽しんでいる子は競争を嫌います。あと、効率的にそれらを統合する方法として感覚に働きかけるという方法があります。読み聞かせなどを夢中になって聞いている時の子どもは、心の働き、からだの働き、意識や頭の働きが統合されています。シュタイナー教育では国語、算数、理科、社会などの普通の科目の中にすら芸術的な要素を取り込んでいますが、それは、文字で書かれた無機的な知識であっても、それを芸術的な形に変換することでそこに命が宿り、国語、算数、理科、社会を「頭で暗記するもの」ではなく、「子どもの命に共鳴し体験できるもの」に変えることが出来るからです。また、子どもの自由意志を尊重して、自分で学ぶべきことや自分の課題を自分で決めさせる教育法もあります。その場合も統合されます。子どもの意識や、頭や。心や、からだを、一番バラバラにしてしまうのが、みんなをイスに座らせて身動きが取れないようにして、求められた時だけ発言を許し、知識だけを押し込み、個人としての考えや感想を否定し、正解を覚えさせ、点数や、評価や、競争によって優劣を付けるやり方です。
2019.09.10
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昨日は、これも最初はみんな下を向いて本を読んでいたので、声が外に出てきませんでした。それは粘液質や憂鬱質の人の声の出し方です。で、今度は姿勢を起こして、本を目の位置まで持ち上げて、胸を開いて読んでもらいました。するとそれだけで声に広がりと強さが生まれ、詩の世界が伝わりやすくなったのです。からだの状態を変えることで、意識が外の世界とつながりやすくなったからです。と書きましたが、「気質の状態」は「からだの状態」の表れでもあるので、そういうことが起きるのです。ただし、この変化は一時的なものです。人には自分の気質に合った「楽な姿勢」というものがあるからです。それでもそれが習慣化することで、一時的ではなく、恒久的に気質が変わってしまうこともあります。また、思春期や、妊娠出産や、大病などによって、不可逆的にからだの状態が変わってしまった場合でも気質は変わります。特定のからだの使い方を求められる職業につくことで、からだが変わり、結果として気質が変わってしまうこともあります。小さい時から特定のスポーツばかりをやらされることで、そのスポーツに合ったからだが作られ、そのスポーツに合った気質に変化することもあります。それが出来ない子は苦しくなって止めて行きます。また、日本人のからだ(気質)に合ったスポーツもあれば、合わないスポーツもあります。ただ、現代の子どものからだは、食生活や生活スタイルの欧米化で、昔の日本人のからだとは異なり始めているので、昔の日本人とは気質も変わり始めています。簡単に言うと、いい意味でも悪い意味でも、多血的な要素が強くなってきているように感じるのです。それは、社交的ではあるけど物事を深く考えない、そしてトラブルにぶつかるとすぐに憂鬱質的になってしまう状態です。あと、最近の子どもや若者を見ていて心配なのは、「からだを開いてからだ全体を使って遊ぶ外遊び」が減り、テレビやオモチャなどを使った「足腰やからだ全体を使わない室内遊び」ばかりが増え、「うつむいたままの状態で操作するゲームやスマホ」などが生活の中に浸透してくることで、からだの育ちが不十分になり、気質が不安定になっている子が増えて来ていることです。不安定なからだは、心も不安定にさせます。そして、気質も不安定になります。すると不安が強くなります。感情に振り回されやすくもなります。からだが不安的なるとはそういうことです。憂鬱質ではなくても、不安が強くなるのです。普段は気丈な人でも、病気になってからだの状態が不安定になれば、不安が強くなったりしますよね。それと同じです。するとガマンしたりすることも困難になります。最近の子は、甘やかされて育っているからガマンが出来ないのではなく、ちゃんとからだが育っていないからガマンが出来ないのです。スポーツが好きな人は、子どものそのような状態をスポーツで何とかしようとするのですが、スポーツは「自然の中での自由な外遊び」とは異なり特定のからだの使い方ばかりが求められるので、からだの中にも偏りが生じやすいのです。ケガもしやすいです。そのため、スポーツではからだを総合的に育てることは出来ないのです。自由な状況の中で、自分の意思と判断で能動的に行動しないと「からだ」は育たないのです。なぜなら、自由な状況の中で自分の意思と判断で能動的に行動しないと胸が開かないからです。スポーツでも「肉体」は育てることが出来ますが、「からだ」を育てることは出来ないのです。スポーツは欧米で考え出された活動です。ですから、欧米以外の国では、近代になるまでスポーツという概念はありませんでした。でも、自分たちの生活に合わせたからだの使い方をすることで、自分たちの生活に合わせたからだと気質を育てることが出来ていました。スポーツなどなくても子どもたちは健全に育つことが出来ていたのです。その基礎を育てていたのが「生活」と「遊び」です。「生活」と「遊び」が、子どものからだの基礎を育てるのです。それに対して、スポーツはそのからだの使い方の応用編です。基礎を育てる前に応用的なからだの使い方をさせてしまったら、結局はからだを壊すのです。また、ゲームやスマホをやっている時には、最初に書いた「前を見て胸を開いて」とは逆の状態になります。画面を見ることで視野は狭く、視点は近くになり、下を向き、胸が閉じてきます。すると、意識が外側に向きにくくなります。心とからだが閉じて、すぐに自分のことばかりを考えるようになります。身体は多血的になってきているのに、憂鬱的な気質が強くなってくるのです。
2019.09.09
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以前から書いているように「気質」は「心の状態」を分類したものではなく「からだの状態」を分類したものです。でも、心の状態とも関係しています。なぜなら「心」は今の「からだの状態」と、過去の「からだの記憶」によって作られているからです。「心」は「からだと分離した存在」ではなく、からだの状態の表れとして、からだの中で創られているのです。だからこそ子育てや教育の現場では、「気質」の考え方が大きく役に立つのです。気質の理解がそのまま「からだ育て」にも、「心育て」にもつながってくるからです。性格分類は「性格」を分類しているのですが、子どもは今その「性格」を作っている段階なので、子どもの段階で性格で分類してもあまり教育的な意味はないのです。「気質」は「からだの状態」の表れですから、「からだの状態」を変えると「気質」も変えることが出来ると言うことでもあります。ただし、人にはその人に一番合ったからだの状態というものがありますから、ズーッととか大きくは変化させることは出来ませんが、一時的に、小さな範囲内でなら、からだの状態に意識を向けることで、自分で自分の気質の調整が出来ます。昨日は茅ヶ崎で月一でやっている気質の勉強会でした。昨日のテーマは「詩を読んでみよう」でした。で最初に読んでもらったのが、工藤直子さんの「のはらうたシリーズ」に入っている、「おれはかまきり--かまきりりゅうじ」です。以下は抜粋ですが、こんな風に胆汁質的な詩です。 おう なつだぜ おれは げんきだぜ あまり ちかよるな おれの こころも かまも どきどきするほど ひかってるぜ これを読んでもらうと、粘液質や憂鬱質が強い人はただ読むだけになってしまいます。全然、聞いている人に「かまきりりゅうじ」くんの気持ちが伝わってこないのです。でも、少し多血や胆汁が強い人が読むと、かまきりりゅうじくんの気持ちも少し伝わってきます。(勉強会には強い胆汁の人がいないので)それで、紙を手に持って読むのを止めてもらって、からだを動かしながら詩を語ってもらいました。すると急にかまきりりゅうじくんの気持ちが伝わりやすくなってきたのです。それはつまり、からだを動かしながら語ることで、胆汁質に共鳴しやすいからだに変化したと言うことです。また、谷川俊太郎の「みみをすます」も読みました。これも最初はみんな下を向いて本を読んでいたので、声が外に出てきませんでした。それは粘液質や憂鬱質の人の声の出し方です。で、今度は姿勢を起こして、本を目の位置まで持ち上げて、胸を開いて読んでもらいました。するとそれだけで声に広がりと強さが生まれ、詩の世界が伝わりやすくなったのです。からだの状態を変えることで、意識が外の世界とつながりやすくなったからです。性格はそう簡単には変わりませんが、気質はこのように自分のからだとの関わり方を意識するだけで、ある程度は調整できるようになるのです。その結果、自分の気質に束縛されにくくなるのです。
2019.09.08
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気質を知ると、相手の考えや行動を相手の立場で理解がしやすくなります。そして、自分の考えだけで相手の考えや行動の是非を判断し、一方的に自分の価値観を押しつけても問題は解決しないことが分かるようになります。しつけや教育は、その子の気質に合った能力や特性を伸ばすことには役に立ちますが、その子の気質に合わない能力や特性を求めても無駄だと言うことも分かります。木に鉄のような強度と耐火性を求めて鍛錬したら粉々になるか、燃え尽きてしまいますよね。でもそのようなしつけや教育をやっている人がいっぱいいます。「みんな違ってみんないい」というような無責任な肯定ではなく、「みんなが違うことの意味と大切さ」も分かってきます。また、自分の考えや行動が、他の気質の人にはどのように見えているのかも分かってきます。それは自分が知らない自分の姿でもあります。「胆汁質の人は何もしなくても、ニコニコしていても、ただ胆汁質として存在しているだけで憂鬱質の人には怖い存在なんだ」ということも分かってきます。優しいオオカミでも、オオカミであるだけで羊にとっては怖い存在なんです。多血質の人は、本人は本人なりに落ち着いて、集中して、ガマンしているつもりでも、他の人には落ち着きがない、集中力がない、ガマンが足らないと言われます。でもそう言われても、多血質の人には何を求められているのか分かりません。子どもの頃からそういうことを言われ続けていたら、結局、自己肯定感が低くなっていくだけです。粘液質の人は、反応が弱い、感情表現しない、存在感が薄い、自分の意見を言わないなどと言われますが、でも、心の中には豊かな感情があるので、なんでそういうことを言われるのか理解出来ません。自分ではちゃんと自分の意見を言い、ちゃんと表情を出しているつもりなんです。ただ、他の人にはその意見が聞こえないし、笑っているようには見えないだけです。粘液質の人の言葉は、ちゃんと聞こうとする人にしか聞こえないのです。ちなみに多血質の人は感情表現が得意です。で、相手にも感情表現を求めます。でも、粘液質の人は感情表現ではなく自分の考えを語ります。そして、多血質の人はそれを「価値のないもの」としてスルーします。粘液質の人の方も、多血質の人が言っている言葉が理解出来ません。だからスルーします。そして、その二人が夫婦だった場合はケンカに発展したりします。これは異なる気質同士の間では普通に起きている現象です。その時、「相手が自分に何を求めているのか」が分かれば、すれ違いを減らすことが出来ます。憂鬱質の人は、目立つのが嫌いです。だからいつも目立たないように体を小さくして、目立たないように隅の方にいて、目立たないように静かにしています。でも、それ故に目立ってしまっていることには気付きません。みんなと同じことをしていれば目立たないのに、自分を隠そうとしてしまうことで逆に目立ってしまうのです。また、意見を求められた時も、憂鬱質の人は直接その場の議題とは関係のないことを話したりするので、周囲の人は憂鬱質の人には意見を求めません。今日はあまりゆっくり考えて書く時間がなかったので思いつくまま書きました。
2019.09.07
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現代社会はものすごい勢いで多様性を失っています。子どもの遊びでも、大人の遊びでも、仕事でも、生活でも、食べ物でも、学びでも、言葉でも、身体活動でも、全ての面で多様性を失っています。その結果、人々の考え方からも多様性を許容する価値観が消えてきました。そして、「みんな同じでなければいけない」という価値観が広まってきています。でもその正解は、何にも根拠がない観念的なものであったり、マスコミなどが創り出している「気分」で決められているだけなので、客観性も、普遍性も、根拠もありません。観念的で気分に過ぎないものなのに、多くの人がそれを「正解」としてお互いに押しつけ合っているのです。そして、「みんな」と異なることをしたり、異なることを言うとバッシングを受けることが増えて来ました。とくに有名人がそれをやるとSNSはすぐに炎上します。ちなみにその「みんな」にも根拠はありません。人は皆、自分はその「みんな」に属していると勝手に思い込んでいます。だから「それは当たり前だろう」という言い方をします。子どもの遊びでも、みんながお行儀よく遊んでいる時に、泥だらけになって遊んでいる子やナイフを持って遊んでいる子はバッシングを受けます。ゲームで遊んでいない子は仲間はずれになったりすることもあります。携帯を持っていない人は社会の流れからはじき出されます。スマホを持っていない人は学校や部活の連絡すら受け取ることが出来ません。人間社会だけではありません、人間の影響によって自然界までものすごい勢いで多様性を失って来ています。昔は、自然や、気候風土や、文化や、歴史に合わせて人々の生活スタイルが決まっていました。そのため、自然は基本的にそのままの状態で肯定されていました。でも、今では基本的な生活スタイルは世界共通です。人々が、自然や、気候風土や、文化や、歴史に合わせるよりも、世界の流れに合わせるようになってきたからです。そして、その新しい生活スタイルには電気が必要です。ビルが必要です。エネルギーが必要です。工場が必要です。お金が必要です。資源が必要です。その結果、自然は生活環境としてではなく、資源として扱われるようになりました。森も海も「命のふるさと」ではなく、「木材資源」や「水産資源」を得る場として扱われるようになりました。結果、多様性で成り立っていた命の循環システムが破壊され、森も海もものすごい勢いで悲惨な状態になりつつあります。世界中で昆虫や様々な生き物が絶滅し始めています。人々の生き方も、「楽しく生きる生き方」よりも、「よりお金を稼ぐ生き方」ばかりが推奨されています。そして、気質の多様性も否定されています。競争が大好きな胆汁質的な気質と、娯楽が大好きな多血質的な気質ばかりが肯定され、心の世界を大切にする憂鬱質や、ゆっくりとした時間を大切にする粘液質の世界は否定されています。ちなみに、競争が大好きな胆汁質の人は製造に、娯楽が大好きな多血質的の人は消費に大きく貢献しています。その点、憂鬱質と粘液質の人は製造にも、大量消費にもあまり貢献していません。でも、四つの気質はお互いに支え合い、補い合うような関係になっているので、人間の都合や社会の価値観だけで、気質の価値を決めてしまうと、否定されている気質だけでなく、肯定されている気質の方も狂い始めるのです。胆汁も多血も暴走を始めてしまうのです。一人の個人の中でも、四つの気質の調和が狂い始めます。すると、社会や、人間の心やからだが病み始めます。
2019.09.06
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学校で学ぶお勉強や、人間が創り上げた人工的な世界には「正解」がありますが、自然界にはそんなものありません。自然界は常に動的に変化しながらバランスを取り、調和しようとし、動的な動きを続けることによって循環を止めないようにしているからです。だからこそ、「固定された正解」などというものは存在していないのです。でも人間は、動いているものを動いているまま分析し、理解することが出来ません。止まっている人の絵は描けますが、動いている人の絵は描けません。細胞や心臓や胃や筋肉や骨格を全体から切り離して調べ、理解することは可能ですが、人間として、生きて働いているそのままの状態を調べ、理解することは出来ません。なぜなら、人の「理解する能力」は「言葉の能力」によって支えられているのですが、その「言葉」そのものが線型にしか展開できないからです。人間は自分の言葉が創り出した世界を見て、聞いて、感じています。想像できないかも知れませんが、言葉の中にないものは目の前にあっても見えないのです。それが人間の認識能力の限界なんです。日本人は日本語が創り出した世界を見て、聞いて、感じています。フランス語を母国語とする人は、フランス語が創り出して世界を見て、聞いて、感じています。さらに、言葉は人それぞれ違いますから、同じ日本人同士でも異なった世界を見て、聞いて、感じています。また、気質が違えば使っている言葉も、言葉の使い方も違います。ちなみにゲームでばかり遊んでいると言葉が育たなくなります。それはつまり「理解能力」が育たなくなることを意味しています。だからこそ、子どもの「実際の体験を伴った言葉育て」が非常に重要になるのですが、それはそのうち書きます。「言葉」は線型にしか展開できませんが、現実の世界は多次元的に複雑に絡み合いながら変化しています。だから、そのままの状態では理解出来ないので、便宜的に現実を静止させて、肉体を静止させて、理解しようとするのです。私たちが学校で学んでいる知識はそのようにして得られたものです。死者を解剖して得られた知識で、生きている人間を理解しようとしているのです。でも、知識を得ることで人は「目の前で動き変化している現実」を、そのままの状態で見ることが出来なくなりました。網膜に写ってはいても、意識化することが出来ないのです。目の前にあるのに見えないのです。それに対して、知識に頼らないスポーツや、踊りや、武道と言った「からだで学ぶもの」は、「動き」を「動き」のまま理解して学ぶことができます。「からだ」は自然に属しているものだからです。でもだから、「からだで学んだこと」を言葉化するのは困難なんです。そしてだから、言葉や知識ばかりを大切にする社会ではからだでの学びは大切にされないのです。だからこそ、子どもの育ちでは「言葉での学び」と「からだでの学び」の両方が必要になるのです。このどちらが欠けても自分が生きている世界を正しく理解出来なくなってしまうからです。そして「気質」もその「自然」に属するものですから常に動いています。「気質」の特徴は静止した状態の中にではなく、その動きの中にこそあるのです。でもそれ故に、自分自身の感覚を通して感じ取るしかないのです。知識を学ぶことで、「知識としての気質」は理解することは出来ても、それだけでは「現実の世界で働いている気質」を感じ取ることは出来ないのです。ちなみにゲームでの遊びは、「知識での学び」にも、「からだでの学び」にも「偏り」を生じさせます。IQを高くする効果はあるみたいですが、そんなもの人間としての生き方には関係がありません。IQと人間性に相関関係があるなら、日本の政治はもっともっと素晴らしいものになっているはずです。
2019.09.05
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で、多血質、胆汁質、憂鬱質、粘液質という四つの気質のそれぞれの大まかな特徴の説明は終わったのですが、話しはそこで終わりません。気質は不安定で、常に揺れ動いているからです。その点で、その状態を固定的に考える血液型を使った性格分類や、その他の性格分類とは、本質的に考え方が異なるのです。夏でも、異常に暑い時もあれば、比較的過ごしやすい時もあります。冬でも、すごく寒い時もあれば比較的暖かい時もあります。人工的な現象と違って自然界における現象は常に揺れ動いているのです。同じ花の種を植えても、工場で大量生産しているもののように「全く同じ」ものは一つとしてありません。人間も、みな同じ「人間という種」なのに一人一人違います。もちろん「人間」としての共通点はありますが、でも、異なるところもいっぱいあります。また、同じ人でも、朝昼晩で状態が異なったりします。家にいる時と会社にいる時とで全く異なる状態の人も多いです。PTAの会合に出ている時は小さな声で大人しいのに、家の中で子どもの前にいる時は大きな声を出してうるさい時もあります。いつもは寡黙なのに、大好きな人の側にいるとおしゃべりになることもあります。自然の状態も、人の状態も不安定なんです。その変化は、「自然を支えているエネルギー」や「人間を支えているエネルギー」の変化によって引き起こされています。そして、そのエネルギーの変化は、自分とは異なるエネルギーとの出会いによって発生します。全てが30°の温度の物がいっぱい集まっていてもそこにエネルギーの流れは起きませんが、そこに40°の物や、20°の物が入ってくると、そのエネルギーの落差によって流れと変化が生じます。30°の熱を持ったものが20°の熱のものの中に入れば、20°のグループの中では「熱いもの」として働きます。でも、同じものが40°の熱のものの中に入れば、「冷たいもの」として働きます。気質の場合も同じことが起きるのです。なぜなら「気質」は人間が概念的に創り出したものではなく、自然界の働きを支えるものとして存在しているからです。季節を春・夏・秋・冬という四つに分けるか、12に分けるか24に分けるかは文化の違いですが、その元になっている現象そのものは文化には関係がないですよね。「気質」もそれと似たようなものです。そして、その本体はエネルギーです。そのエネルギーの質が「気質」になるわけです。だから常に動き変化しているのです。そのため、気質を理解するためには固定した視点ではなく、相対的に変化する視点を持つ必要があるのです。まただだから、知識を学ぶだけでは理解が出来ないのです。
2019.09.04
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粘液質の人はマイペースです。人に合わせるのが苦手です。それと何か行動するためには納得が必要になります。「火事だー」という声が聞こえたら胆汁質はまず必要な行動をします。多血質は大騒ぎを始めます。憂鬱質は恐怖心で固まってしまい身動きが取れなくなってしまいます。そんな時、粘液質はまず状況を把握しようとします。そして、状況を把握してなんとなく全体像がつかめたら行動を開始します。ですから、出遅れますが、全体としては正確な判断が出来ます。観察力や分析力も高いです。胆汁質は「今必要なことを判断し、すぐ行動する能力」は高いですが、「全体を理解する能力」はあまり高くありません。また、理論ではなく勘で理解し行動する傾向があります。そのため、思い込みも強いです。だからこそすぐ動けるし、思い切ったことも出来るのですが、でも、「目の前の現実」のことしか考えない傾向があるので、長期的には間違った方向に進んでしまうこともあります。ワークの時に何かを指示すると、まだ説明の途中なのに「わかった!」と言ってすぐに活動を始めるのも胆汁質です。終わるのも一番早いです。でも、勘違いも多いので、終わってから「え! そういうことだったんですか」などというような場面も時々あります。憂鬱質の人は説明が全部終わっても、さらに説明を求めてきます。また、みんなが終わってもなかなか終わりません。子どもでも、胆汁質の子は早く始めて早く終わりますが、憂鬱質の子は始めるのはゆっくりですが、一度始めるとなかなか終わりません。そして、「もう終わりだよ」と言うと泣き出す子もいます。多血質の人は説明なんか聞いていません。自分のやりたいようにしかやりません。粘液質の人は説明をちゃんと聴いて、ちゃんと理解してから活動に取り組みます。だから失敗はしません。でも、退屈で常識的な活動しか出来ません。また、粘液質の人は人だけでなく、音や動きに合わせるのも苦手です。理解してから動こうとするのでワンテンポ遅れてしまうのです。ただし、一度納得してしまえば、次からはスムーズに動くことが出来ます。問題は納得するまでに時間がかかると言うことです。あと、「自分が動く必要がない」と判断した時は動きません。でも、動いてはいなくてもちゃんと全体に意識は向けています。でも、そのことが理解出来ない他の気質の人は「あの人は何もしていない」と言って非難します。一見無反応に見える粘液質ですが、感じる能力自体は高いのです。ただ多血質の人の場合は「感じる」と「行動する」の間に「自分」がないので早いのですが、粘液質の人の場合は「感じる」と「行動する」の間に「自分」が入っているので行動するのが遅くなったり、行動を止めてしまったりするのです。ちなみに一番感じる能力が低いのは胆汁質です。でも、胆汁質本人はそのことを知りません。感じる能力が低いからです。また、粘液質の人の心の内側には「豊かな言葉」や「豊かな感情」があるのですが、それを表現をしないので、周囲の人はその豊かな世界に気付きません。それと、粘液質の子はワガママを言わないので子育てが楽です。大人しいです。過激な行動もしません。みんなと仲良くすることも出来ます。平和的です。お手伝いも嫌がらずにやってくれます。絵本の「ガンピーさん」のような人です。でも、創造性はあまりありません。ただそれ故に、粘液質の子の子育てでは気をつけなければならないことがあります。ワガママを言わず言うことを聴くので、お母さんが色々なことを押しつけてしまいがちなんです。毎日お母さんの愚痴を聞かされている子もいます。また、手がかからないので放っておかれがちです。後回しにされがちです。でも、お母さんがそんな粘液質に甘えていると、粘液質の子は「自分の成長に必要なもの」を得ることが出来なくなってしまうのです。粘液質の子は「ガマンしなさい」と言われればガマンできますが、でもガマンを繰り返すことで、「一人の人間として自立して生きていく能力」を育てることが出来なくなってしまうのです。だから、本人が積極的に求めなくても、「自由に感じ、自由に考え、自由に行動し、様々な人や体験と出会える場」を、お母さんが意識して用意してあげる必要があるのです。
2019.09.03
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で、今日は粘液質の話しです。「粘液質」は色でいうと、緑や茶色のようなアースカラーを感じる気質です。落ち着いていて、目立たなくて、自己主張しない色です。お花や生き物たちを美しく際立たせてくれる色でもあります。見る人の心とからだを落ち着かせてくれる色でもあります。逆に言うと、ただそこにいてみんなを支えてはくれますが、特別なことは何もしない色でもあります。人は美しい花や、鳥や、生き物には意識を向けますが、その背景としての緑にはあまり積極的に意識を向けません。「緑っていいわね」とは言いますが、「葉っぱ」よりも「花」を見ようとします。「花よりも葉っぱの方が好き」と言う人も滅多にいません。それでも、葉っぱは愚痴りません。花(多血質)は「私を見て」オーラを発していますが、葉っぱはそういうオーラを出しません。それどころか花が美しく見えるように支えてあげたりさえします。粘液質の人はいわゆる「いい人」です。穏やかだし、みんなのために働くことを嫌がらず、文句も言いません。寡黙で、自己表現をあまりせず、黙々と「自分がやるべきこと」をやるだけです。「日本人らしさ」は、武士道や茶道といったような「排他的でこだわりが強い憂鬱的な特質」と、農耕民族特有の「大人しくて、自己主張せず、まじめで勤勉」といった粘液質的な特質で出来ています。両者に共通しているのは「自己犠牲を厭わない」ということです。それは、「特攻隊」を「美しい」と感じる感性でもあります。スポーツなどでも、倒れるまで頑張る選手の姿に「美しさ」を感じます。そして、効率よりも頑張る姿にあこがれたりします。胆汁質の人も「頑張る姿」を見るのが好きですが、犠牲までは求めません。勝ち負けにはこだわりますが、負けたら負けたで諦めることも出来ます。でも、憂鬱質の人は「勝ち負け」よりも「頑張る姿」に美学を感じてしまうのです。そのため、負けが明らかになっても倒れるまで頑張ることを強います。先の戦争ではその美学のせいで多くの人が死にました。私は「高校野球や学校の部活にそれを求めたらダメでしょ」と思うのですが、でも、「倒れるまで頑張る姿を見たい人」がいっぱいいるので、その流れは変わりません。(憂鬱質の人は本来は優しく、平和的で、大人しいのですが、「自分の心」や「大切にしている世界」を否定されながら育てられると、他者に対して非常に不寛容になる傾向があるのです。そして、自分よりも弱い相手には胆汁質のように関わろうとします。)効率よく仕事をして定時に帰る人よりも、非効率的な仕事をして夜遅くまで残業している人の方が「立派な人」として扱われます。それは「自己満足」であり「思考停止」状態なんですが、日本人には自己満足や思考停止を是とする価値観があるのです。だから、学校が子どもや親に求めてくるあれこれに疑問を感じても、質問したり、意見を言ったりせず、黙々と従うのです。国がおかしなことを言ったりやったりしても、酒場で愚痴を言うぐらいで結局は素直に従うのです。また、周囲に流されやすいです。一人だけ違うことを言い、違うことをしている人がいると非難されます。だから「良いお母さん」という呪縛に縛られやすいのです。公園でも、みんながルールを守って、大人しく、汚さず、静かに遊んでいる時に、裸足になって、泥だらけになって、大声で叫びながら遊んでいると非難されます。それに対して、胆汁質や多血質の人には「自己犠牲」の価値観が理解出来ません。おかしいと思ったら、すぐに自分の意見を言うか、反抗するか、戦うか、逃げます。憂鬱質が強い人はそういう人を見ると腹を立てたり、文句を言ったりしますが、内心はうらやましいのです。そして、うらやましいからこそ、自分の子や他の人が真似しないように、強くそういう人を非難、否定するのです。見せしめです。そうしてみんな、憂鬱質や粘液質のように自分を主張しなくなります。日本人の「和を以て貴しとなす」という価値観が同調圧力として働くのです。その価値観に異を唱えるような人は「つながり」からはじき出されてしまうのです。そんな時、粘液質の人は穏やかな気質を持っているので、胆汁質や多血質の人を強く非難したり否定したりはしません。でも、積極的に肯定もしません。憂鬱質が強い人が胆汁質や多血質の人を非難や否定しているのを見て心が苦しくなることはありますが、だからといって積極的に止めたりはしません。心の中で悲しむだけです。粘液質の人は、心の中で喜び、心の中で悲しみ、心の中で怒るのです。でも、それを人には見せません。
2019.09.02
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昨日のテーマは、「気質を色として感じる」でしたが、今日のテーマは「気質を音として聴く」です。実は「気質」は聴くことも出来るのです。私たちは「色は色」、「形は形」、「音は音」、「味は味」、「匂いは匂い」、「触覚は触覚」として分けて考えていますが、実際にはそれらの間に明確な違いはありません。ただそれらを感じる感覚器官が異なるだけで、心やからだの中に入ってしまえば似たような働きをするのです。発生学的にも、聴覚、視覚、味覚、嗅覚、触覚といういわゆる「五感」はみな、「皮膚」が変化して得た能力なので、そこに本質的な違いはないのです。そこにあるのは、外部からの情報を「音の振動として受け取るか」、「光の変化として受け取るか」といったような「受け取り方の違い」であって、一度心とからだの内側に取り込まれてしまえば似たような働きをするのです。そこにあるのは、「電話で聞く」か「メールで見るか」の違い程度のものです。実際、人は目だけでものを見ている訳ではありません。柔らかいフワフワしたものを見ている時、ただ「フワフワしたもの」が見えているだけでなく、同時にからだにもフワフワ感を感じますよね。人は手で触れた時と似たような感覚を目で見た時も感じているのです。これは私の感覚ですが、丸いかたちのものにはパステル的な暖色系の色や甘い味を感じ、とがった形のもには原色的な黄色や赤などの色とスパイス的な刺激を感じます。四角は黒くてしょっぱいです。また、ワルツにはパステルカラー的な色と曲線が合い、マーチには原色の強い色と直線が合います。私たちは目だけでものを見ていると思い込んでいますが、実際には目と同時に全ての感覚を働かせて、対象を見ているのです。共感覚者はそれを意識できますが、普通の人も無意識下では同じようなことを感じているのです。まただから、その気になれば気質を「色」として見ることも出来るわけです。そして同時に「音」として聴くことも出来るのです。(私は、学生時代に、第一次世界大戦後にドイツに設立されたバウハウスという美術学校での活動を学ぶ過程でこのような考え方に触れました。この考え方は抽象画の発生に大きく関わっています。)リンゴを見ている時と、バナナを見ている時とでは違う音が聞こえてきませんか。怒っている人を見ている時と、笑っている人を見ている時とでは違う音が聞こえてきませんか。そして、「音」として聞こえてくるからこそ、ダイレクトに見る人の感情に働きかけるのです。人は、「バカ」という文字を見ただけでは怒りを感じないのです。「バカ」と書いてある文字を心の中で「音」化することで怒りを感じるのです。人は、他の人の心とからだの状態を目で見ているだけでなく音としても聴いているのです。だからこそ、他の人の感情がダイレクトに自分の感情にも響いてくるのです。不安を感じている人は「不安の音」を出しています。だから、そういう人の側にいるだけで、自分には不安の原因がないのに、不安の音に共鳴して自分も不安を感じてしまうのです。逆に、「ハッピーな音」を出している人の側にいると、その人が発しているハッピーな音に共鳴して、なんでか分からないまま自分もハッピーになってきます。そして、そのような意識を持つことで「気質」もまた音として聴くことが出来るのです。是非お試しあれ。
2019.09.01
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