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今、沖縄に来ています。 生まれて初めての沖縄です。ホテルではなく、息子が病院での実習のために借りているアパートに泊まっています。 先程起きて、今、外の駐車場に座り込んでこのブログを書いています。 昨日、沖縄の梅雨が開けたので、雲が少し多いですが一応晴れています。 それにしても沖縄の朝は賑やかです。まだ茅ヶ崎には現れていないセミの声と、無数の鳥の声が聞こえます。 植物も見たことがないものばかりです。 那覇空港の近くの道路には、なにやらパイナップルみたいな大きさと形の実がなっている木の街路樹が並んでいました。即刻調べたら「タコの木」というみたいです。 昨日の夕食は、息子と家内と三人で地元の人しか行かないような食堂で食事をしたのですが、それもまた衝撃的でした。 壁紙はビリビリ破れ、畳はボロボロ、働いているお姉さん達は(オバサン?)は茅ヶ崎では見たこともないような巨漢揃いで、出てきたお料理も、「え!、これで普通盛り?」というくらい大盛りでした。 通りには外人だらけです。 今日はレンタカーで色々回ります。 で、肝心のブログのテーマは「物語」にします。 明日から(ごめんなさい、明日からです)「人の心と物語の関係」について書きます。 「人の心」って、「物語」で出来ているって知ってますか。 人は皆、VRでの体験と同じように、「自分の心が作り出した物語の中の世界」を生きているんですよ。
2019.06.30
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先日も子育ての勉強会で、「子どもを理解出来ないのですが、どうしたら理解出来るようになるのでしょうか?」という質問を受けました。この「子どもを理解出来ない」ということで悩んでいるお母さんは多いです。そのようなお母さんは、「理解出来るようになれば、もっと子どもに合わせた子育てが出来るようになる」と考えているのでしょう。この「理解出来る」、「理解出来ない」という現象の背景には「気質の違い」があります。お母さんと子どもの気質が似ているときは、「大人」と「子ども」という違いはあっても比較的理解しやすいです。「なんでそういうことをするのか」、「なんでそういうことを言うのか」、「次はこういうことをするだろうな」ということがなんとなく分かるのです。ただ、それで優しくなれる場合もありますが、分かるが故にイライラし、腹が立ってしまうこともあります。特に、「自分が嫌いな人」や「自分に自信がない人」の場合、「子どもの姿」の中に「自分が嫌いな自分の姿」を見てしまい、子どもの言葉や行動を過剰に否定してしまうことがあります。でも、当然のことながらそのような場合、子どもには全く責任がありません。とんだとばっちりです。実際、子どものことで相談を受けて、色々と子どもの様子を聞いていると、どうも子どもとそのお母さん本人が似ているように思えることが時々あるのです。それで、「お母さんはお子さんのことを色々と非難していますが、でも、あなたはそのお子さんと似ているように思うのですけど・・・」と言うと、「そうなんです。だからよけいに腹が立つのです」と正直に言って下さる人もいます。また逆に、「全く分からないけど、だから面白い」と言うお母さんもいます。そのようなお母さんは「子どもと自分の違い」を楽しんでいるのです。また、「違うから、子どもを通して色々と新しい発見が出来る」と言う人もいます。結局、「子どもを理解出来るか出来ないか」ということは「楽しい子育て」とはあんまり関係がないのです。大事なことは「理解すること」ではなく、「理解出来ない相手とでも、どう平和的につながり合い、そのつながりを楽しむことが出来るのか」ということなんです。これは大人同士の関係でも、国と国の関係でも同じです。それに「人は理解しようと努力すれば理解し合える」と考えるのは幻想に過ぎません。理解し合えるところもありますが、どんなに「理解し合っている」と思い込んでいる人同士でも、実際には理解し合っている部分は、その人の全体から見たらほんの小さな一部に過ぎないのです。理解し合っていると思い込んで結婚しても、次第にすれ違いが生まれてくるのは良くあることです。でも、すれ違いが生まれてくると言うことは、その理解が表面的だったということに他なりません。単に「理解し合っている」とお互いに勘違いしていただけです。逆に、「理解出来ないところもあるけど、相手の気持ちや考え方を尊重します」という気持ちで結婚した人の方が幸せな結婚生活を送ることが出来るような気がします。人と人が幸せに、平和的に共存するために必要なことは「理解し合う」ことではなく、逆に、「理解出来ない部分」を無理に理解しようとせずに、それを「相手に取って大切なこと」として尊重し、肯定してあげることなんです。更に言えば、人が自分以外の人のことを自分のことのように理解するのは不可能なんです。「相手の痛み」を「自分自身の痛み」として感じるのは不可能なんですじゃあ、子育ての場で、「相手に取って大切なこと」を尊重し、肯定してあげるためにはどうしたらいいのかということです。一番簡単な方法は「待ってあげる」ことです。子どもの行動や成長をせかさないことです。「早くしなさい」と追い立てないことです。これは子どもでも大人でも同じですが、待ってもらえているときには、人は「信じてもらっている」と感じることが出来るのです。「待つこと」は「信じること」なんです。そして、「信じる」ことが「愛」でもあるのです。少なくとも、待ってもらうことが出来た子はそう感じます。「子どもを愛せない」と悩んでいるお母さんは多いですが、そのようなお母さんに私は「愛せなくてもいいんだよ。好き嫌いは自分の努力ではどうにもならないことなんだから。でも、努力すれば待ってあげることは出来るよね。子どもはそれをお母さんの愛として感じるから大丈夫だよ」と言っています。逆に、「こんなに愛しているのに」と愛を押しつけ、追い立て、子どもを支配しようとする人がいますが、そのような人が本当に愛しているのは自分だけです。そして、子どももそのことが分かります。理解出来なくても、愛せなくてもいいのです。子どもは待ってもらえることを通して、お母さんの愛情を感じるのです。でも、自分を肯定できないお母さんにとっては、これが一番難しいことだと思いますけどね。(今日、これから沖縄に行きます。7/1に帰って来ます。で、明日、あさってのブログが短くなるかも知れません。)********5月に「子ども発見」(改訂版)という本を出しました。子どものことが色々と書かれています。詳しいことは5月14日のブログに書いてあります。アマゾンで買えます。講演会やワークショップを企画していただければ、どこへでも行きます。ご連絡下さい。
2019.06.29
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人間にとって「子どもを育てる」ということは、「人間を育てる」ということです。そこで求められるのは、ただ「健康的にからだを大きく育てる」ということではありません。安全で清潔な環境で、食べ物をいっぱい与えて、家の中では一人で遊ばせ、外ではスポーツ教室に通わせていれば、少なくとも子どものからだは、健康的にすくすく育ちます。そして実際、そのような子育てをしてる人が多いです。でもそれは、「ペットの育て方」と基本的に同じです。「人間の育て方」ではありません。なぜなら、見かけだけが立派に育っても、社会に出て「一人の人間」として自立して生きていくことは出来ないからです。また、「様々な知識を学ばせる」ということだけでもありません。確かに、知識の学びも必要ですが、一番大切なのは、「自分の意思や、判断や、思考や、責任で、その知識を使いこなうことが出来る能力」を育てるということの方です。「知識を学ばせる」ことよりも「知識の使い方」を学ばせることの方が遙かに重要なんです。特に今の時代、スマホを持っていれば知識はすぐに検索できてしまうのですから。スマホや辞書や教科書を持ち込めば100点を取ることが出来るような試験で100点を取っても大した意味はないのです。そんな知識、実際の生活の場ではほとんど役に立たないからです。どんなに立派な道具をいっぱい集めても、その道具の使い方を知らなければ、そこで得られるのは自己満足だけですよね。それと同じです。人間の人間らしさは「知識」そのものではなく、「その知識の使い方」の中に現れるのです。でも、学校は知識を覚えさせるばかりで、「知識の使い方」は教えてくれません。「知識の使い方」を教えたとしても、それもまた「知識」として教えます。それは「ノコギリの使い方」を言葉や動画だけで教えるようなものです。でも、それも知識に過ぎません。実際、「ユーチューブで見たから知ってる」というだけの子にノコギリを渡しても使えません。そして、予想と現実の違いに戸惑います。でも、そういう「知識で知っているだけの子」が一番面倒くさいです。やったこともないのに「知ってる知ってる」「出来る出来る」と言うのです。で、実際にやらせるとすぐにケガをして挫折します。そういう子は、「知っていること」と「出来ること」の違いが分からないのです。また、試行錯誤も出来ません。一回失敗したらそこで終わりです。「試行錯誤」や「挫折からの立ち直り」もまた「体験」を通してしか学びようがないからです。体験が少ない子に限って、些細なことで簡単に挫折してしまい、そして、一度挫折したらなかなか立ち直れないのです。(今の子は些細なことで傷つきやすいのです。)そもそも、日本の学校の「先生から生徒へ一方的に教える」という形の授業では「実際に使える使い方」を教えようがないのです。「使い方」を伝えるために「双方向的な関わり合い」が必要になるからです。それと、トライ・アンド・エラーの繰り返しも必要です。失敗の体験も必要です。そしてそのためには時間が必要になります。追い立てずに子どものやり方やペースを尊重する必要もあります。ですからそう簡単に、「やり方」を伝えることは出来ないのです。まただから、「立ち直り能力」も高くなるのです。でも今、家庭の中にも学校の中にも、子どもが体験を通して「使い方」を学べるような環境がありません。失敗できる環境も、トライ・アンド・エラーを繰り返すことが出来るような環境もありません。昔の子どもたちは、自然の中での自由な遊びや、仲間との群れ遊びを通して、様々な「使い方」を学ぶことが出来ましたが、今の子どもたちには実際の体験とつながらない知識だけは山のように学ぶ場はあるのに、体験を通して学ぶ場がないのです。だから、自由に生きることが出来ないのです。「退屈だー」と言うのに、自分の意思で何もやろうとしないのです。大人達は「今時の子はガマンが足らない」「挫折しやすい」と子どもを非難しますが、それは子どもから「体験の場」を奪った大人の責任です。「強制や脅迫に基づくガマン」ではなく、「自分の意思に基づくガマン」は、自分自身の体験を通してしか育てようがないからです。
2019.06.28
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切羽詰まった理由がない無痛分娩や帝王切開は、自分自身のからだや命に対する支配です。でも最近、切羽詰まった理由もないのに無痛分娩や帝王切開を望む人が増えてきているようです。現代人は自分のからだや命を支配することに慣れてしまったのでしょう。また、痛みを嫌い、逃げようとする人も増えてきました。痛みを消してくれる薬も簡単に手に入ります。からだの調子が悪かったり、病気などの時に、その症状を押さえ込むためにサプリを飲んだり、薬を飲んだりするのも同じです。どうやら、現代人は「からだからの声に耳を傾ける」という感性を失ってしまったようです。でも、「目の前の苦しみ」が消えたからといって、本質的な問題が解決したわけではありません。世の中には「無痛症」といって「痛み」を感じない人たちがいますが、彼らの寿命は痛みを感じる人たちよりも短いそうです。骨が折れていても、大きな傷を負って大量の血が出ていても、目で確認するまでは自分のからだの異常に気づかないのですから、当然命の危険は大きくなります。痛みは感じなくても「不死」になったわけではないのですから。現代人は「痛み」を嫌いますが、「痛み」は命の維持にとって非常に大切な働きをしているのです。手術などの時も、完全に無痛にするより、ある程度の痛みを感じた方が治りが早いそうです。痛いところがあると人はそこに意識を向けます。からだはそうやって自分の異常を意識に伝えているのです。そうすることで、からだの異常をかばった動きや生活が出来るようになるからです。また、痛みが脳に異常事態を伝え、脳は治癒活動のためのスイッチをオンにします。その部分の血流も良くなります。「痛み」は「からだの異常」を脳と意識に伝えるために存在しているのです。だから、そんな安易に「痛み」を消してはいけないのです。でも、自分自身のからだを道具として扱っている人にとっては、「痛み」はその「道具としてのからだの活動」を阻害する非常に邪魔なものです。頭が痛いからといってそう簡単に会社を休むことは出来ません。会社という組織自体が人間を道具として扱っているので、その会社に勤めている人も自分のからだを道具として使わざる終えないのです。そのため、薬で痛みを黙らせようとします。でもそれが一時的なものならそんな深刻なことにならないでしょうが、慢性的にそのようなことをしていると、今度は「心の状態」がおかしくなってきます。「心の働き」を支えているのは「からだ」だからです。よく、「心とからだ」というように、「心」と「からだ」を別々のもののように言い表したりしますが、実際には「心」は「からだ」と独立して存在しているのではなく、「からだの働きの一部」として「心」が存在しているのです。「心の働き」と関係しているのは脳だけではありません。腸も非常に強く関係しています。また、他のからだの状態も心に影響しています。足の指が一本痛いだけで、心は平常心を失うのです。マッサージしてもらうと、「からだ」だけでなく「心」も楽になるのもその表れです。だから、「からだ」が異常な状態になれば必然的に「心」も異常な状態になるのです。痛みは感じていなくてもです。その「心の異常」を伝えるために「苦しみ」というものが存在しています。「痛み」は「からだの異常」を、「苦しみ」は「心の異常」を伝えるためのものなんです。(実存的な問いに対する苦しみはまた別です)でも多くの場合、人は「心の苦しみ」の原因が「からだ」にあることを知りません。それで苦しみを感じている脳をだますために、セラピストのところに行ったり、「心に働きかける薬」を飲んだりします。でもその効果は一時的です。そして、「心の異常」はさらなる「からだの異常」を引き起こします。その繰り返しです。また、その原因を子どもや、ご主人や、周囲の人間関係に求めたりもします。でも、子どもを叱っても、ご主人に文句を言っても、周囲の人との人間関係を絶っても、自分の心やからだとの関わり方が変わらない限り、苦しみは消えません。子育て中のお母さんを苦しめている「イライラ」も、「心の問題」ではなく「からだの問題」です。もちろん「人格」や「子どもの問題」でもありません。だから、どんなに頑張って押さえ込もうとしても無理なんです。また、子どもの行動を無理矢理押さえ込もうとすると、今度は子どものからだがおかしくなります。すると、心が苦しみ始め、余計に困った行動をするようになります。子どもの最初の(ジーッとしていないなどの)困った行動は、「成長に伴う生理的な活動」です。ですから放っておいてもしばらくすれば落ち着きます。でも、「それを押さえ込まれることで生まれた心とからだの苦しみ」によって引き起こされる活動は、「苦しみの自己表現」なので、社会的に困った行動になります。そして、その「心とからだの苦しみ」が消えるまで、その困った行動も消えません。以前、「苦しいことからは逃げてもいいんですよ」ということを書きましたが、それは痛みや苦しみの原因が外部にある場合です。痛みや苦しみの原因が自分の内側にある場合は、逃げられないし、逃げてはいけないのです。また、無理に押さえ込もうとしてもいけないのです。なぜならそれは、心やからだからの大切なメッセージだからです。子どもの様々な問題行動もまた、子どもの心やからだの異常を知らせるメッセージです。ですから、力ずくで押さえ込もうとしてはいけないのです。怒鳴ったり叩いたりして押さえ込もうとすれば、ますます状態は悪化するのです。
2019.06.27
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明日、横浜の「Umiの家」で午前、午後とワークをします。午前は「雨の日の室内遊び」です。午後はかめおかさんとコラボで、抱腹絶倒の「遊びのワーク」をします。詳しくはUmiの家のHPをご覧になって下さい。http://uminoie.org/2019/04/15/2019%E5%B9%B46%E6%9C%88%E3%82%B9%E3%82%B1%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AB/************文明は「支配」(コントロール)によって成り立っています。権力者による支配、人間による自然や物質に対する支配、強者による弱者に対する支配、時間と空間の支配、情報の支配、そして命の支配などによって「文明」は支えられています。「便利になる」ということは、一部の利益のために他者を支配することで実現します。その支配を積み上げることで高度な文明は維持されています。カマドでご飯を炊くときには、音や匂いなどを通して、カマドの中のお米と対話しながらご飯を炊きました。でも、炊飯器でご飯を炊くときにはそんな対話は必要がありません。ただお米とお水を入れてスイッチを押すだけです。そこには火やお米に対する支配があります。その支配を可能にしているのがコンピュータです。今、生命科学者達は遺伝子に手を加えて、命の働きを支配しようとしています。自然界にも、脳内に寄生して宿り主を支配し、子孫を増やす手助けをさせてる生き物はいますが、人間は更に大規模に同じようなことをやっています。牛や豚や鶏を狭いところに閉じ込め、遺伝子を操作したり、栄養価の高い食べ物や成長ホルモンを与え、成長を管理し、人間の食料にしています。人間はこの支配によって文明を築き上げてきたのですが、それでも、つい最近までは人々はまだ自然との対話や命との対話を大切にしていました。牧畜でも、朝ドラの「なつぞら」に出てきた北海道の牧場のように、牛や豚との対話がありました。人間による支配はありましたが、同時に「ごめんね」「ありがとう」もありました。命を大切にしようとする気持ちもありました。でも今では、スーパーで売られている安い「肉」の大部分は工場で大量生産されています。その工場にいるのは命を持った牛や豚や鶏ではなく、命を持たない牛や豚や鶏の形をした肉です。(そういう扱いをされていると言うことです))野菜なども同じです。個人の農家では、自然や命と対話しながら野菜を育てていますが、大規模農家はそんな悠長なことやっていません。大量生産の現場で大事にしているのは「量」であって「個」は相手にしないのです。そしてこれが、文明社会の特徴でもあります。文明社会で大事にされているのは「量」であって「個」ではないのです。人間も「数」に過ぎないのです。牛や豚も「量」で扱われています。そこに「命」という概念はありません。このような考え方に慣れてしまっている現代人は何でも支配しようとします。対話ではなく、支配することで問題を解決しようとします。また、対話を必要としない生活をしているせいか、対話能力も悲惨なほど低下しています。子育ての悩み相談でも、「子どもと仲良くする方法」や、「子どもを生き生きとさせる方法」を聞いてくる人は滅多にいません。ほとんどの人が「子どもを思い通りに支配する方法」を聞いてきます。「何遍言っても勉強しないんですけど、どうしたらいいでしょうか」「何回言ってもゲームを止めないんですけど、どうしたらいいでしょうか」「食事の時にウロウロするのを止めさせたいのですが、どうしたらいいでしょうか」「言うことを聞かないんですけど、どうしたらいいでしょうか」、などなどです。そのような人は「子どもを簡単便利に育てる機械」が発売されたら買ってしまうではないでしょうか。皆さんは、「毎朝10分、子どもの頭に装着するだけでお母さんの言うことを素直に聞くよい子になりますよ」という機械が発売されたら、欲しいですか。(10分じゃ長いですか・・・)発達障害の子に薬を飲ませて大人しくさせるのも似たような発想です。でも、どんなに文明が進歩して簡単便利な機械が生まれても、「子育て」に簡単便利を求めてはいけないのです。子どもを支配する方法など求めてはいけないのです。なぜなら、子どもとの面倒くさい関わりによってしか、子どもに「人間らしさ」を伝える術がないからです。子どもは親や周囲の人間との「人間らしい関わり」を通してしか、「人間らしさ」を身につけることは出来ないのです。面倒くさくても、苦しくても、子どもとちゃんと向き合って子育てをすれば、子どもも自分の課題とちゃんと向き合って生きていく能力を育てることが出来ます。でも、お母さんが自分を守るために子どもを支配し管理する子育てをしていると、子どもも相手を支配することで自分を守ろうとするようになります。そこに「人間らしさの学び」はありません。それに、相手を支配しようとする人は、相手から受け入れられません。そのため、生きることが困難になります。子どもにそういう苦しい人生を歩ませたくないのなら、簡単便利を求めず、丁寧に手作り的な子育てをして下さい。
2019.06.26
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人は他者の存在の有無や、意味や価値を判断するとき、自分自身の感覚や価値観を基準にしています。日本人は、日本人の感覚や価値観を基準にして、外国の人が言ったりやったりしていることを評価しています。男性は、男性の感覚や価値観を基準にして、女性が言ったりやったりしていることを評価しています。逆も同じです。人間は、人間の感覚や価値観を基準にして、他の生き物たちがやっていることを評価しています。大人は、大人の感覚や価値観を基準にして、子どもが言っていることややっているを評価しています。そうやって、みんな「自分」を相手に押しつけています。「押しつけている」という意識はなくても、自分の価値観だけで相手の言っていることややっていることを評価し、その評価に合わせて関わろうとしていると言うことは、押しつけているのと同じことです。でも、それをやっていると、国際問題でも、夫婦問題でも、親子問題でも、誤解と対立が生まれます。でもみんな、「自分」を基準にして相手を評価しているので、常に正しいのは自分で、間違っているのは相手の方だと思い込んでいます。でも、大人と大人の関係なら、相手も「正しいのは自分で、間違っているのはおまえの方だ」と言い返してきます。国と国の場合でも同じです。そして、両者とも譲らず、どこまでも相手に「自分」を押しつけ続けたら、時には戦争になってしまいます。いくら「戦争反対」を訴えても、相手に対する理解がなければ戦争は起きてしまうのです。戦争は「正義と悪の戦い」ではなく、常に「正義と正義の戦い」です。だから戦争反対を訴える人は、自国の正義を否定する「非国民」ということになってしまい非難され、排除されます。で、戦争が起きます。でも、お互いに相手のことを知ろうと努力すれば、戦争反対など訴えなくても戦争は起きないのです。ただ、「人間と自然」や、「大人と子ども」の場合は対立にはなりません。「自然」も「子ども」も反抗したり、言い返したりはしないからです。その代わり、「人間の価値基準を押しつけられた自然」も、「大人の価値基準を押しつけられた子ども」も、「自分らしさ」や「自然な姿」を失います。そして、自分で自分を成長させたり、正常な命の状態を維持する能力が低下します。なぜなら、人間と自然とでは「命のシステム」が大きく違うからです。大人と子どもの「命のシステム」も違います。確かに、大人も子どもも同じ人間ですが、でも、その「今」を支えている「命のシステム」は大きく違うのです。子どもはドンドン身長が伸びますが、大人の身長は止まったきりです、それどころか、老人になってくると縮んでさえ来ます。心や、感覚や、知性や、意識や、からだが大きく成長しつつある状態の子どもと、そういうものの成長が止まってしまった大人とでは、「命の状態」が大きく違うのです。そして、その命の働きを支えるために必要なものも違います。大人には必要がないものでも、子どもには必要なものもいっぱいあります。大人には害がないものでも、子どもには害があるものもいっぱいあります。大人には常識でも、子どもには全く理解出来ないこともあります。逆に、子どもには常識でも、大人には全く理解出来ないこともあります。大人にそういう理解がなく、子どもに大人の価値観や生活を押しつけ続けていると、子どもは生き生きと成長できなくなってしまうのです。イジメもなくなりません。
2019.06.25
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私たちは日常的に見たり、聞いたり、感じたりしています。でも、ちゃんと見たり、聞いたり、感じたり出来ている人は多くありません。ほとんどの人が、見て、聞いて、感じて、自分の思い込み(観念、概念)を確認しているだけです。ですから、「知識として知っているもの」はちゃんと見たり聞いたり出来ても、知らないものは見えていないし聞こえてもいません。また、「自動車が走っている」とか「背が高い人が歩いている」とか、「子どもが踊っている」というような「言葉化できるようなこと」は見ることが出来ても、車のエンジン音とか、歩き方とか、踊っている子どものからだの使い方のような、「言葉化できないようなこと」まで見たり、聞いたり出来る人は多くありません。実は、人が見ているのは、その人が持っている言葉によって創られた世界なんです。ですから、自分自身の言葉として「雲」という言葉を持っていない人には「雲」は見えていないのです。「愛」という言葉を持っていない人には「愛」は存在していないのです。泳ぐ生き物に対して「魚」という言葉しか持っていない人には、イワシとかアジは見えません。イワシもアジもみんな「魚」だからです。逆に言うと、自分自身の体験とつながった形で「イワシ」とか「アジ」という言葉を学べば「イワシ」や「アジ」が見えるようになるということです。「ダンゴムシ」が見えるのは、自分自身の体験とつながった形で「ダンゴムシ」という言葉を学んだ子どもだけです。このように、「言葉」が世界を創っているのです。存在しているから見えるのではなく、「自分自身の言葉としてそのことを言い表す言葉」を持っているから見えるのです。ですから、日本語しか知らない人は「日本語が創っている世界」に生きていて、英語しか知らない人は「英語が創っている世界」に生きているのです。そしてそれは同じではありません。また人は、「見たいもの」しか見ないし、「聞きたいこと」や「理解出来ること」しか聞きません。講演会に行っても聞きたいことだけしか聞きません。勉強が嫌いな子は、何時間おイスに座って先生の話を聞いても、何にも心に残りません。先生が何を言ったのか覚えていません。でも人は、「自分が見ている世界」と同じものを、他の人も見ていると思い込んでいます。「自分が聞いている音」と同じ音を、他の人も聞いていると思い込んでいます。そのため、自分が認識できる「それ」を根拠にして相手の考えの間違いを指摘しようとしますが、でも、その根拠としての「それ」が見えない相手にはその論理は全く通用しません。国会での論戦を見ていても、そのすれ違いが非常に多いです。質問する人は自分が見ている世界を根拠にして質問をし、答える方も、自分が見ている世界を根拠にして答えています。だから話がかみ合いません。子どもに「相手の子が困っているから止めなさい」と言っても、相手の子の「困っている」が見えない子はその言葉を理解出来ません。逆に言えば、相手の子が困っている状態がちゃんと見える子は、相手が困るようなことはしないのです。子どもの「悲しい顔」や「苦しい顔」が見える人は子どもを虐待などしないのです。「子どもの表情」ではなく、「出来なかったこと」ばかりを見ているから、虐待してしまうのです。と、ここで疑問が生じます。「その人が持っている言葉」が「その人が生きている世界」を創っているのなら、まだ言葉を持っていない子どもたちはどのような世界に生きているのかということです。実は、まだ大人と同じ言葉を持っていない子どもたちは、大人とは全く違う世界に生きているのです。まず、約束とか、お金とか、清潔とか言うような社会的な価値観とつながった言葉が創り出す世界は全く見えません。子どもに見えたり、聞こえたりするのは直接子どもの五感の働きに響くものだけです。そのため、「色や形を持った物体」としての自動車は見ることが出来ても、「機能を持った乗り物」としての自動車は見ることが出来ません。自分の体験とつながった「リンゴ」という言葉を知らない子は、リンゴを見ても「赤」や「丸」は見えても「リンゴ」は見えません。「リンゴ」は脳が創り出した概念であって、五感では感じ取ることが出来ないからです。また、その「丸」は立体としての「球」ではありません。平面的な○です。それは写真に写ったリンゴと同じものです。立体認識や空間認識といったものを学んだり、リンゴと赤や○とがつながるためには、後天的な学びが必要になるのです。だから子どもの絵は平面的なんです。網膜に映った映像は写真と同じ平面的なものです。これは大人も子どもも同じです。ですから、本当は大人にも世界は平面的に見えているのです。もっと言えば、上下左右も逆さまに見えています。(だから子どもは逆さ文字を書いたりするのです)それが立体的に見えるようになるためには、様々な体験を通して、網膜に写った平面情報を立体情報や空間情報に変換するソフトを脳の中に創り出す必要があるのです。何も体験しないままで世界が立体的に見えたり、空間が見えるようになるわけではないのです。もちろんそこには「言葉」も必要です。また、大人は「色」を「物の表面に付いたもの」とか「物の属性の一部」と考えています。そして、またそのように見えています。でも、その「物」の意味や価値が認識できない子どもには、「色」と「形」だけしか見えません。(音も同じです。子どもは属性の音ではなく、音そのものを体験するのです)そのため、子どもには一万円札と新聞紙の区別が付きません。「家の床」と「野原の地面」の区別が付きません。「家の中」と「外」の区別も付かないので、家の中では裸になってもいいのに、どうして家の外では裸になってはいけないのかも分かりません。これは大人には驚愕の事実かも知れませんが、これが子どもが実際に生きている世界なんです。こういうことを知ると、いかに今まで自分が子どもに対してトンチンカンなこと言い、やってきたのかが分かりますでしょ。
2019.06.24
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人目を気にしていたり、過去のことを後悔していたり、未来のことを心配ばかりしていたら「楽しい子育て」なんか出来ません。「よりよい人間関係を作る能力」も育てることが出来ません。後悔や心配は、子育てにはなんの役にも立たないのです。ただ、失敗から学ぼうとする意識は必要です。「なんであんなことをやってしまったんだろう」と悔やむのではなく、「次はこうしよう」と反省するのです。「出来ないこと」は忘れて「出来ること」を探すのです。でも、「子育て」に苦しんでいる人ほど、「出来なかったこと」を後悔ばかりして、「自分でも出来ること」には目を向けず、「自分には出来ないこと」ばかり求めるのです。もしかしたら、それは「自分への言い訳」かも知れません。「私は立派なお母さんを目指して頑張っているんだ」という言い訳です。でも実際には、「立派なお母さん」を目指す人ほど、子どもにとっては「困ったお母さん」になってしまうのです。なぜなら、そのようなお母さんは自分のことばかり気にして、子どものことを見ようとしないからです。例えば、お母さんは子どもに「早くしなさい」と言います。「子どもにかける言葉の中ではこの言葉が一番多い」と言ったお母さんもいました。それも「しつけ」のつもりなんでしょう。それで多くの講演会の会場でお母さん達に「では、〝早くしなさい〟と言って、早くする子はいますか。いたら、手を上げて下さい」と問いかけているのですが、未だかつて、「うちの子は早くします」と答えてくれてお母さんは一人もいません。今まで、何千人ものお母さんに聞いていますが、一人もいないのです。このブログをお読みいただいている方のお子さんで、「〝早くしなさい〟と言えば、すぐに早くする子」がいたら教えて下さい。どうして「〝早くしなさい〟と言えば、すぐに早くする子」がいないのかと言えば、子どもには「早くする」という価値観がないからです。東大とか、お金とか、出世に、大人と同じ意味で価値を感じる幼稚園児はいません。そういうものを得た人に「すごい」と感じる感性もありません。そして、「早くしなさい」も同じ質の言葉なんです。だから「早くしなさい」と言われても、「何を求められていて、何をしたらいいのか」が分からないのです。ただ、子どもにも「動作の速い遅い」や「かけっこの早い遅い」は分かります。目で見えるからです。でも、大人が子どもに言っている「早くしなさい」は、ただ「早く動け」という意味ではなく「早く行動しろ」ですよね。そこには、「早く靴を履く」とか「早く洋服を着る」といった「目的」が存在しますよね。つまり、大人が言う「早くしなさい」の意味は、「早く結果を出せ」ということですよね。そしてその「結果」は大人にしか価値がないものですよね。だから子どもには分からないのです。こんな理屈を聞かなくても、「早くしなさい」が通じていないことぐらい体験的に分かっているはずなのに、でもなぜかお母さん達はそれでも「早くしなさい」と毎日毎日子どもを追い立てています。そして言うことを聞かない子どもにイライラしています。でもそれは、「ジャンプしろと命令しているのにいっこうにジャンプしないオタマジャクシ」にイライラしているのと同じことです。ばかばかしいと思いませんか。また、幼い子どもには「約束」という言葉の意味も分かりません。なぜなら、まだ、「約束」というものが価値を持つ「社会」というものが理解できないからです。「社会」という観念は抽象的なものなので思春期頃にならないと、大人と同じようには理解できないのです。大人の頭の中には存在していても、子どもの頭の中には存在していないものがいっぱいあるのです。東大とか、お金とか、出世というものに対する価値観も同じです。子どもに「約束よ、分かった!」と言えば、子どもは「分かった」と答えます。でもそれは、お母さんに「分かった」という言葉を求められているからそう答えただけであって、分かったから「分かった」と言っているわけではありません。「オシッコ大丈夫?」も同じです。「大丈夫」という言葉を求められたから「大丈夫」と答えただけです。そもそも、子どもには自分の膀胱の状態を感じ取る能力がないのです。子どもが分かるのは、オシッコが出口付近まで来たときだけです。そういうことは毎日の失敗を繰り返していれば自然と分かるはずなんですが、目の前の子どもの状態を観察せずに、「子どもはこうあるべきだ」、「お母さんはこうあるべきだ」、「ちゃんと言えばちゃんと伝わるはずだ」という思い込みだけで子育てをしているので、毎日毎日子どもに同じことを言い、毎日毎日同じ失敗を繰り返し、毎日毎日イライラし、苦しんでいるのです。日本語も日本の文化も全く知らない人に、日本語で日本の文化の説明をして通じると思いますか。優しい日本語で一生懸命に説明すれば通じると思いますか。無理ですよね。でも、同じことを母さん達はやっているのです。子どもに「出来ないこと」を要求しても何も変わらないどころか、状態は更に悪くなるばかりです。逆に、どんな些細なことでも「出来ること」を積み上げていけば、状態は良くなっていくのです。でもそのためには、思い込みや固定観念を捨てて、目の前の子どもの状態をよく観察するところから始める必要があります。「子育ての苦しみ」の元凶は「子ども」ではなく、子どもや母親というものに対する「思い込み」や「固定観念」なんです。
2019.06.23
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昨日書いたように、子育てで一番大事なのは「よりよい人間関係を作る能力」を育てることです。子どもにもし「幸せな人生」を送ってもらいたいと思うのなら、「将来のために」と英語や、お勉強や、サッカーといった習い事に子どもを追い立てるよりも、「今」を大切にして、家族や仲間との幸せな時間をいっぱい体験させてあげた方がいいです。なぜなら、子どもに「今」必要なのは、「将来のためのもの」ではなく、「今、心とからだが満たされるようなこと」だからです。そして、家族や仲間との幸せな時間をいっぱい体験することで、「よりよい人間関係を作る能力」が育っていくのです。「将来のためのもの」を学ばせようとしても、子どもの中にまだ「受け皿」がありません。だからどんなに追い立てても身につきません。子どもの成長において必要なものには、「それを学ぶために必要な時期」というものが決まっているからです。(ただし、この「時期」は、子どもの年齢に応じて大まかには決まっていますが、具体的には子ども一人一人違います)家づくりでも、しっかりとした基礎を作らなければいけないときに、「そんな悠長なことをしなくても家は建てられる」といきなり柱を立て、壁を作り、耐震性や断熱性を無視して、見かけだけ立派な家を作ってしまったら、すぐに家はゆがみ始めますよね。そういう、見かけだけを繕った住宅を欠陥住宅と言うのですが、みなさんはそんな「見かけだけ立派な欠陥住宅」に住みたいですか。住みたくないですよね。でもなぜか、その欠陥住宅を作るのと同じような考え方で子育てをしている人がすごく多いのです。ちなみに、その家に住人が実際に住み始める時期が、子どもの成長では「思春期」に相当します。自分の家が「欠陥住宅だ」と気づき始めるのもその時期です。そのような考え方の人は、「子どもが今必要としているもの」は与えず、お金をかけ、子どもを追い立て、人よりも早く、人よりも多く、色々なことを学ばせようとしています。子どもの将来のための準備にお金をかけることが「親の愛情」だと思い込んでいる人もいます。子どもが「ダッコ」と言えば「甘えるんじゃありません」と拒否し、遊んでいれば「遊んでばかりいないで勉強しなさい」と追い立て、仲間と遊ぶ時間や場を与えず、毎日のように「○○教室」に追い立て、泣けば「泣くんじゃない」と叱り、走れば「走るんじゃない」と叱り、お母さんが自分の時間を作るために与えたテレビやスマホやゲームで遊んでいると「早く止めなさい」と叱られます。でも、愛情を求めてきた子どもに十分に応えてあげるのは「甘やかし」ではありません。「愛情」は子どもの心とからだの成長に必要な栄養素だからです。これは食事と同じで、お腹が空けば食べ物を求めますが、お腹がいっぱいになればそれ以上は求めないのです。命の働きに必要なものに対する要求は、満たされればそこで止まるように出来ているのです。走りたがる子どもを自由に走らせれば、しばらくすれば落ち着くのです。それに対して、甘いお菓子や、ゲームや、お金といった「快楽」や「欲」につながるものには限界がありません。一度はまってしまうと、際限なく求めるようになってしまうのです。そして、それを止めさせようとすると、イライラしたり、怒り出したり、精神的に不安定になったりします。「快楽」や「欲」につながるものには麻薬性があるからです。(実際に、「快楽」や「欲」が満たされると、脳の中で自家製の麻薬物質が作られるのです。)また、幼児期に「命の働きに必要なもの」が満たされて来なかった子ほど、快楽や欲につながるものを求めます。「成長に必要なものが満たされない心やからだの苦しみ」を、快楽や欲を満たすことで紛らわせようとするのでしょう。でも、麻薬性があるものだからこそ、子どもを思い通りに支配しようとする人には有効な道具になります。「1時間勉強したら1時間ゲームやっていいよ」というようにです。でも、一度「快楽」や「欲」につながるものに中毒になってしまった子どもは、「自分の成長に必要なもの」を求めなくなってしまうのです。「成長する喜び」を知らないからです。そして、「快楽や欲を満たすもの」ばかりを求めるようになってしまいます。また、10才前の子なら、アメとムチの原理が通用しますが、この頃までに親子の信頼関係がしっかりと築けていない子は、親の目を盗んで行動するようになります。平気でウソもつくようになります。「ウソ」は何かに中毒になってしまった人の特徴でもあります。(人は何かに中毒になると道徳的感性が鈍くなるのです。これはゲーム中毒でも同じです。)それで、そのように育てたのは自分だということは忘れて、親は子どものウソを責めます。そして、子どもはさらに苦しくなり、さらに親に隠れて「快楽や欲につながるもの」を求めるようになります。ちなみに「イジメ」や「虐待」は支配欲を満たしてくれます。どうか子どもを追い立てないで下さい。怖い顔や大きな声で子どもを脅迫しないで下さい。アメとムチで子どもをコントロールしようとしないで下さい。子どもの笑顔を奪わないで下さい。子どもの頃「幸せな子ども時代」を与えてもらった子は、大きくなってからお母さんやお父さんの幸せを考えるようになるでしょう。でも、どんなに「子どものために」とお金を使っても、「今」を否定され、「幸せな子ども時代」を奪われてしまった子は、親に恨み辛みを抱くようになります。どっちの親子関係を望みますか。
2019.06.22
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ゲームで遊ぶことで子どもの能力の一部が向上するという研究もありますが、その向上する部分は、AIが得意な部分でもあります。「人らしさとつながる能力」は向上しません。「人間らしさとつながる能力」は、他の人間との「人間らしい関わり合い」を通してしか育たないからです。そして、ゲームで遊ぶことでどんなにAI的な能力が向上しても、絶対に最初からそのために作られたAIに敵うことはありません。そのため、子どもの頃からズーッとゲームで遊んでAI的な能力に優れた大人になったとしても、会社では役に立ちません。どんなにAI的な能力に優れていても、それでも本物のAIには敵わないからです。また、現場の仕事はAI的な能力でこなすことが出来たとしても、会社という組織自体は人間関係によって維持されているので、「人と人の関わり合いにおける能力」が劣っている人は、人を使う立場に立つことが出来ません。どんなにAI的な能力が高くても、それだけの人は末端の仕事しか任せてもらえないのです。そして、一生こき使われるだけです。AIは所詮「人間の道具」に過ぎないのです。ですから、AI的な能力が高くなるからと言って喜んではいけないのです。ではその「人間らしさとつながる能力」とはどのようなものなのか、ということです。まず、一番大事なのは「よりよい人間関係を作る能力」です。子どもの頃はどんなに学校の成績が良かった人でも、学校の外の世界は成績ではなく人間関係で動いているので、この能力に劣っている人は強力なコネがない限り出世できません。(ただし、お役所は別世界のようですけど・・・。それが日本のお役所の様々な問題の原因になっています。)また、「よりよい人間関係を作る能力」を育てることが出来なかった人は、夫婦生活も、子育ても、幸せに生活することも困難になります。そして子どもは、この「よりよい人間関係を作る能力」の基礎をお母さんやお父さんとの関わり合いを通して学んでいます。子どもは3才頃までに言葉の基礎を学びますが、「よりよい人間関係を作る能力」も、言葉の成長と密接につながっているからです。そして、3,4才頃から仲間との関わり合いを通して、次の段階にステップアップしていきます。お母さんやお父さんから学ぶのは主に「一対一の人間関係」ですが、仲間と群れて遊ぶことで「仲間」という人間関係を学ぶのです。それは「集団の中の自分」という人間関係です。ここまでの学びがちゃんと出来ていれば、幸せな子育てや夫婦関係を築くことが出来ます。さらに9、10才頃からは、色々なところに行き、色々な大人と出会い、色々な体験をして、「社会」という人間関係を学びます。この学びがちゃんと出来ていると、自信を持って学校から社会に出て行くことが出来ます。逆に、大人になるまでに「よりよい人間関係を作る能力」を育てることが出来なかった子は、社会に出て行くことに不安を感じるようになります。学生の頃は勉強だけしていれば良かったのですが、社会に出たら、勉強よりも人間関係作りの方が重要になるからです。だから、自分以外の人間との関わり方が分からない子ほど、社会に出て行くことに不安を感じるのです。そして今、そのような「大人になるまでによりよい人間関係を作る能力を育てることが出来なかった子」が増えています。子どもの生活の場から「人と人の関わり合い」が減ってしまったからです。子どもに簡単で便利な機械やオモチャを与えておけば、子どもは一人で遊びます。お母さんにまとわりつきません。色々な体験をさせるために外に連れ出す必要もありません。また、ゲームには子どもの知的な能力を育てる働きもあります。でも、後からやってくるその代償は大きいのです。目先の都合だけを優先させず、子どもの一生を見据えて子育てをして下さい。そうでないと、苦しみが後からやってきます。
2019.06.21
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簡単で便利な機械や、インフラや、オモチャに囲まれ、安全で快適な住まいの中で暮らしている現代の子どもは、まだそういうものがなかった環境の中で暮らしていた昔の子どもに比べて、「他の人と関わる時間」が圧倒的に少なくなってしまっています。家族やお母さんと関わる時間すらも減ってしまっています。赤ちゃんにおっぱいをあげているお母さんも、目や意識はスマホに向けられていることが多いです。また、他の人がいるような状況では、おっぱいを飲んでいる赤ちゃんの顔に覆いを掛けてしまうことも多いです。(3,40年前にはそんなことするお母さんは見たことがありませんでした。)「おっぱいを飲む時間」は、赤ちゃんとお母さんが肌を触れ合い、感覚や感情を共有し、心と心が触れ合う大切な時間のはずなのですが、それが単なる「栄養を取り入れるだけの時間」になってしまっているのです。テレビが付いていれば、それだけ家族の会話は減ります。お手伝いをしなければ、親子の関わり合いも発生しません。そこにあるのは「勉強しなさい」「片付けなさい」というようなお母さんからの一方的な要求ばかりです。子どもにスマホやゲーム機を与えれば、親子の対話も、仲間との対話も、生活の場での関わり合いも、遊びの場での関わり合いも減ります。「減る」というよりも「消えてしまう」というレベルにまで減少します。幼稚園や保育園でも、異年齢のグループによる自由な活動を大切にしているような園なら、子ども同士の関わり合いも密になりますが、先生の指示や指導に従って活動することが多い園の場合は、子どもたちも「ルールの中での関わり合い」がメインになってしまうため、子どもと子どもが自由に関わり合う時間は少なくなります。そのような状態のまま幼児期を過ごした子は他の子との関わり方がよく分かりません。他の大人の人との関わり方も分かりません。そのため、自分自身も子どもなのに、子どもに対して違和感を感じる子どもや、子どもが怖い子どもすらいます。お母さん以外の大人の人を警戒する子もいます。動物もそうですよね。人間との関わり合いが密な状態で育てられた犬や猫は、人間に対して警戒心を持ちませんが、野良状態で育った犬や猫は人間を警戒しますよね。基本的に、人間の子どもでもそれは同じなんです。そして、人間に対する安心感が一番育つのが3才までなんです。3才までの子は全く無防備です。他の人の助けがないと生きていくことが出来ません。その無防備な状態の時に、他の子や他の大人の人から受け入れられたか、拒絶されたかが、「人間」という生き物に対する印象を決めてしまうのです。また、人間らしの基礎もその無防備な状態の時に、他の人との関わり合いを通して学んでいます。まっさらな状態だから、他者を簡単にコピーできるのです。ちなみに、授乳の時に大人の都合で顔に覆いを掛けられてしまった赤ちゃんは、お母さんからの拒絶を感じているかも知れません。赤ちゃんはお母さんの目を見ると安心するのです。だから、おっぱいを飲んでいるときも赤ちゃんは本能的にお母さんの目を見ようとするのです。でも、目の前に見えるのは布だけです。<続きます>
2019.06.20
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子どもたちが大勢遊んでいると、大抵「困った子」が一人か二人はいるものです。「困った子」とは、大人の言うことを聞かない、ルールを無視する、危ないことをする、他の子に乱暴をする、言葉が汚い、みんなと一緒に行動しない、などというような状態の子です。いわゆる「発達障害」の子は、その「困った子」として扱われることが多いです。発達障害でなくても、お母さんとの関係が上手く作れていない子や、一人遊びばかりして他の子や大人との人間的な関わりが少ない子や、一人の人間として大切に扱われていない子も同じような状態になりやすいです。憂鬱質が強い子や、胆汁質が強い子が、その頑固な個性ゆえに「困った子」として扱われることもあります。また、お母さんの育て方に関する価値観の違いで「困った子」として扱われてしまうこともあります。裸足で遊んだり、泥んこで遊ぶことを肯定する子育てを受けた子は、そういうことを避けて子どもを育てているお母さんには「困った子」として扱われます。自然育児を大切に子育てをしているグループの子どもたちの中に、テレビやゲームやジャンクフードが大好きな子が入ってきても、周囲は「困った子」として感じます。そんな「困った子」が我が子の周囲にいる時のお母さん達の反応は様々です。あからさまに「○○ちゃんと遊んではダメよ」と言うお母さんもいます。我が子が影響を受けてしまうからです。その子が近寄ってくるのを見ただけで、我が子を抱きかかえて別のところに連れて行くお母さんもいます。でもその子が「困ったこと」をしても、大抵はその子に直接注意をしません。親同士のトラブルが起きてしまうことを恐れているからです。そーっと我が子をその子から遠ざけたり、陰でその子のお母さんを非難したりするだけです。幼稚園のような場に、そのような困った子がいると、まず親が呼ばれて注意されます。でも、ほとんどの場合注意しても問題は解決しません。注意するぐらいで子どもの状態が良くなるようなら、最初から子どもは「困った子」になどならないからです。上に、「困った子」がそのような状態になる理由をいくつか書きましたが、その全てがお母さんが一人で努力してもどうしようも出来ないことばかりです。また、自分では気づいていないことも多いです。それに、お母さんだって我が子の状態に悩み苦しんでいるのです。そんなお母さんを追い詰めてしまったら、子どもの状態はさらに悪くなるだけです。先生は子どもにも注意します。でも、その「注意」に大人の支配と管理を感じたら、子どもは言うことを聞きません。子どもを排除しようとしても、その子の状態は悪くなるばかりです。非難や、否定や、排除といった方法は見かけだけを取り繕うとする行為なので、本質的な状態はどんどん悪化していくのです。そして、大人が一人の子を、非難、否定、排除している姿を見ている他の子どもたちも、同じような価値観を学んで行きます。そして、イジメが起きやすくなります。また、心優しい子は、そんな大人の姿を見て心が苦しくなり、幼稚園に行けなくなったりします。他の子が叱られているのを見て「ざまーみろ」と感じる子もいますが、自分のことのように感じて苦しくなってしまう子もいるのです。でもその時、その子を排除しようとしたり、そのお母さんを非難否定するのではなく、むしろその子を肯定し、「大切な存在」として扱おうとすると逆の現象が起きるのです。不思議なことに、「困った子」を「大切な子」として受け入れると、その子は次第に「困った子」ではなくなっていくのです。お母さんも同じです。なぜなら、「困った子」や「困ったお母さん」がそのような状態になってしまった原因自体が、「周囲から受け入れられてこなかったから」だからです。そして、人間には「自分を大切にしてくれる人を模倣をしようとする本能」があるのです。だからこそ、子どもはお母さんの影響を一番深く受けるのです。子どもが最初に学ぶ言葉は大好きなお母さんが話している言葉ですよね。それもその本能の表れです。「困った子」が汚い言葉を言うと、周囲の子も面白がってその「汚い言葉」を言い始めます。「困った子」が危ないことをすると、周囲の子も真似して「危ないこと」をし始めます。だからお母さんも先生もその「困った子」を我が子や他の子から離そうとするのですが、でもなぜ、子どもたちは、そんな簡単に「困った子」の真似をしてしまうのでしょうか。裸足の子を見れば自分も裸足になりたがります。裸になった子を見れば、自分も裸になろうとします。だれかが「バーカ」と言えば、みんなで「バーカ」と言い始めます。誰かが走れば他の子も走り出します。でも不思議なことに、「よい子」の真似はしないのです。「よい子」の真似はしないのに「困った子」の真似はするのです。そういうことを不思議に感じたことはありませんか。なぜなら子どもは本能的に不自由を嫌い、自由を求めるからです。子どもは「困った子」に自分が持っていない「自由」を感じるのです。だから簡単に「困った子」の影響を受けてしまうのです。それに対して「よい子」には不自由しか感じません。そして子どもは「不自由」が大嫌いです。でもそれは、子どもを自分のコントロール下に置きたいお母さんにとっては困ることです。だから、我が子を「困った子」から遠ざけようとするのです。でも実際には、我が子が困った子の真似をしてもそんなに心配することはないのです。しばらくは、「困った遊び」にはまるかも知れませんが、その自由を堪能すれば、すぐに別のことに意識が向かっていくからです。「困った子」には困った行為をするだけの原因がありますが、「遊び」として「困ったこと」をやるだけの子にはその原因がないので長続きしないのです。それに、「自由」を体験した子は、一段階成長することが出来ます。また、「困った子ではない子どもたち」が「困った子ども」に刺激されて一緒に遊び始めると、「困った子」は仲間として受け入れられたと感じます。自分と他の子のつながりを感じます。すると、「困った子ではない子どもたち」が「困ったこと」から抜けていくときに、「困った子」も一緒に「困ったこと」から抜けていくのです。キャーキャー悲鳴を上げる子に、「静かにしなさい」「やめなさい」と言っても止めませんが、逆にみんなで「キャーキャー遊び」をすると、みんながキャーキャー遊びを止めると、その子も止めるのです。「よい子」は「困った子」との出会いで自分の世界を広げ、「困った子」はみんなに受け入れられることで困ったことをする原因が消えてしまうのです。「困った子」を大切にしていると、両方にとっていい結果になるのです。ただし、「困った子」が複数いて、仲間を作り始めると、非常にやっかいなことになります。そうなるとこの方法は使えません。「困ったこと」を共有する仲間が出来てしまうと、逆に、抜けられなくなってしまうからです。それに、困ったことをするグループを肯定はしない方がいいです。かといって、一方的に否定しても対立が深まるばかりで何も変わりません。このような場合、どうしたらいいのかは私にも分かりません。
2019.06.19
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昨日、 ですから、「コミュニケーションの質」がダイレクトに「育ちの質」に影響してくるのです。 と書きましたが、この「コミュニケーション」は「双方向コミュニケーション」のことです。 テレビから映像や情報が流れてくるような、学校の授業のような、お母さんがあれこれ言うような「一方的なコミュニケーション」のことではありません。 それは、「伝えること」と「受け取ること」、「話すこと」と「聞くこと」がセットになったコミュニケーションのことです。 子どもたちは、大人と共にあれこれ体験し、そのことについてあれこれやりとりすることで、その「何か」について学ぶのです。 一方的に情報を伝えるだけでは、子どもは自分自身の育ちにつながるような学びは出来ないのです。 なぜなら、「一方通行的な学び」では「身体感覚的な学び」が出来ないからです。 「一方通行的な学び」で学ぶことが出来るのは、「頭に留まる情報」だけです。 でも、その「頭に留まった情報」を使いこなすためには、「身体感覚的な学び」が必要になるのです。 ですから、「身体感覚的な学び」が出来ない子は、どんなにいっぱい知識を蓄えても、その知識を自分の生活や生き方の中で使いこなすことが出来ないのです。 言葉の辞典を全部覚えても、その言葉が自分自身の身体感覚とつながっていなければ、全く使えないのです。 身体感覚的な学びを介さず、大人や、テレビや、ネットが一方的に教えてくれるものだけを学んで育った人は、知識や情報だけで物事を見るようになります。 体験を通して学ぶことが出来なくなります。現実の世界のリアルが分からなくなります。自分の心とからだのことが分からなくなります。他の人との関わり方が分からなくなります。自分と他の人のつながりを感じることができなくなります。 「生きている」という実感を感じることも困難になります。 なぜなら、そういうものは全て身体感覚に基づく双方向のコミュニケーションによって成り立っているものだからです。 いつもテレビをつけっぱなしにされている側に置かれている赤ちゃんは、「音」として言葉を覚えます。でも、テレビの音を聞いてどんなにいっぱい言葉を覚えても、その言葉は、単なる「音」に過ぎません。そのため、その言葉を使って他の人とコミュニケーションすることが出来ません。 自分の考えや、気持ちや、感覚を伝えるために使うことも、他の人の考えや、気持ちや、感覚を理解するために使うことも出来ません。 それは「オウムの言葉」と同じものです。 「辞書の中の言葉」と「会話の中の言葉」は同じではありません。「辞書の中の言葉」の意味は固定されていますが、「会話の中の言葉」の意味は、会話をしている両者の関係性によって決まってしまうものだからです。 会話では「あれ」で通じることでも、辞書で「あれ」を調べても分からないのです。 同じ理由で、「授業で学ぶ言葉」と「実際の人間関係の中で使われている言葉」も違います。 「実際に使われている言葉」や「実際に使うことが出来る言葉」は、実際の場で、双方向コミュニケーションを通してしか学びようがないのです。 ちなみに、ゲームには双方向のコミュニケーションがあります。ですから「学び」があります。 だから子どもたちは夢中になるのですが、ゲームの世界で子どもたちが学んでいるのは、実際に子どもたちが生きている現実世界とは無関係なことばかりです。 身体感覚的な学びや双方向コミュニケーションはそんなにも大事なものなのに、でも、実際には子育ての現場でも、教育の現場でも、全く無視されています。 そして、知識や情報を「教えること」だけで子どもを育てようとしています。 でも、そのような学び方で学んだことは、頭の中に留まるだけで、試験やクイズに答える時にしか使えません。 学校の授業はその最たるものです。 だから「人間としての子ども」が育たないのです。
2019.06.18
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子育ての本質は「親と子の間のコミュニケーション」です。 よく、「褒める子育て」とか、「子どもはしっかり叱った方がいい」などと言う人がいますが、お母さんと子どもの間に「心と心のコミュニケーション」かなければ、褒めても、叱っても、全く無意味です。 夫婦関係の本質も「夫と妻の間のコミュニケーション」です。 教育の本質も「先生と生徒の間のコミュニケーション」です。 政治の本質も「政治家や政府と国民の間のコミュニケーション」です。 人間関係を支えているのも「人と人の間のコミュニケーション」です。 人間が自然と共存するために必要なものも「人間と自然の間のコミュニケーション」です。 「人間が自然の反応を読み取る」という形でのコミュニケーションです。 子どもはお母さんやお父さん、周囲の人や仲間、また自分自身の心やからだ、そして自然などとのコミュニケーションを通して、知性も、心も、からだも、人間らしさも育てています。 一般的に「育つ」と表現されるようなものは全て、「他者とのコミュニケーション」によってその育ちが支えられているのです。 育つためには「栄養」が必要なんですが、その「栄養」を与えてくれるのが「コミュニケーション」だからです。 恋人達が「愛」を育てる場合も同じです ですから、「コミュニケーションの質」がダイレクトに「育ちの質」に影響してくるのです。 それなのに現代人にはその認識がありません。そして、コミュニケーションを大切にしていません。 実際、世の中が簡単便利になるにつて、コミュニケーションがますます減ってきています。増えてきているのは「情報の一方通行」だけです。 でも、一方通行的に流れてくるだけの情報は、脳の中に記録されるだけで子どもを育てる働きは持っていません。むしろ、大量の情報を持っていることで、素直なコミュニケーションが阻害されてしまいます。 子育てにも役に立ちません。 自然の中で、自然と関わりながら遊んでいる子は、草花や、虫や、土や、他の様々なことに対して発見をすることが出来ます。それが子どもの心とからだと知性の育ちの栄養になっていきます。それが「自然とのコミュニケーション」です。 でも、体験の前に知識を与えられた子は、その発見が出来ません。もうすでに知っていることだからです。当然、発見する喜びも、驚きも体験できなくなります。 私は若い頃、一年ぐらいバックパッカーでヨーロッパやインドを歩いていましたが、フランスやスペインの美術館で「絵を確認して歩くだけの日本人観光客」をよく見かけました。 ガイドブックを片手に、「あ、おれこれ知っている。○○が描いたんだぜ」とか言いながら、チラッと見ただけで通り過ぎていくのです。 美術館に来ているのに、知識の確認をするだけで絵の前に立ちどまって絵を味わおうとはしないのです。 ちなみに、この「味わう」というのもコミュニケーションの種類です。 簡単で便利な機械達は、深いコミュニケーションをしなくても使えるようになっています。 ノコギリを使いこなすためには、ノコギリと自分のからだと相手の木との間の深いコミュニケーションが必要になります。 でも、簡単で便利な機械に慣れてしまっている現代の子どもたちは、そのコミュニケーションが出来ません。コミュニケーションを取ろうとせず、一方的に思い通りに動かそうとするので、ノコギリも、相手の木も抵抗するのです。 また、自分のからだとのコミュニケーションも出来ていないので、ケガをしたり、無駄に疲れたりもします。 それで「先生切って」と言ってきたり、「オレ、ノコギリ嫌いだからやらない」などと言ったりします。 「最近の子はガマンが足らない」などと言われますが、それもコミュニケーション能力の低下と関係しています。 子どもだけでなく大人も同じですが、ただガマンするだけでは長続きしないのです。「ガマン」は動物の本能に反するからです。 ガマンする動物なんて人間以外にいないのです。 犬が「待て」と言われて待てるのは、待てばご褒美をもらえるからです。でも、人間の場合はご褒美なしに、一種の「美学」としてガマンだけを求められます。 日本人は「ガマンの美学」が好きなんです。でもそれは「命の本能」に反することなんです。 でも実際には、ガマン強い子も、ガマンが得意なように見える子もいます。 じゃあ、そういう子は何をしているのかというと、心とからだを固めて、ただガマンしているのではなく、頭や心の中を一生懸命に働かせて、自分自身や、周囲との間で感覚的なコミュニケーションを行っているのです。 表面的には動いていなくても、頭と心とからだの中は動いているのです。だから同じ状態を継続できるのです。 それは、自転車が走っているときには倒れないのに、走るのを止めたら、立っていることが出来ないのと同じです。 コマも同じです。 内部が動いているから静止していることが出来るのです。 それを支えているのがコミュニケーションなんです。
2019.06.17
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昨日は、子どもたちに、もっと楽しそうに生きている姿を見せてみませんか。子どもを追い立てるのではなく、子どもと一緒に走り、笑い、遊んでいませんか。そうすれば、子どもは自分の未来に対しても希望を持つことが出来るようになります。そうすれば、大人が追い立てなくても、子どもは自分の意思で成長し始めるのです。と書きましたが、このようなことを言うと「何を甘いこと言っているんだ。この世は、食うか食われるかの弱肉強食の世界だ。楽しいだけじゃ生きていけないのがこの世界の現実なんだ」と言い返してくる人がいると思います。特に男性に多いような気がします。確かに、そのように言う人は、そのような世界に生きているのでしょう。だから、それが実感でもあるのでしょう。でもそれは、「そういう世界もある」というだけのことであって、「それが世界の全てだ」ということではありません。実際、この世界は、オオカミや、ライオンや、クマといった強い動物だけが生き残っているわけではありません。リスやウサギやネズミといった、小さくて弱い生き物が、「強い動物に食われてしまって絶滅しそうだ」ということもなければ、「いつもビクビク怯えて暮らしている」ということもありません。確かに、小さくて弱い生き物は捕食者から姿を隠しながら生きています。それは「強いもの」が好きな人の価値観からすると格好良くないかも知れません。弱い生き物は基本的に戦いは苦手なので、食べるものも「戦わなくても手に入るもの」を食べています。戦わなくても、頑張らなくても生きることが出来るような生き方をしています。それは、「頑張ること」を美しいと感じるような人には「だらしない生き方」かも知れません。また、実際のリスやウサギやネズミは、絵本の世界のように他の生き物と仲良く生きているわけではありませんが、それでも無駄な戦いはしません。リスやウサギやネズミといった弱い動物が戦うのは自分の身を守る時だけです。つまり、非常時だけです。それに対して、オオカミや、ライオンといった肉食獣は、食事のたびに戦っています。戦うこと、殺すことが日常生活なんです。それはまさに、強いものが勝ち、弱いものが食われてしまう弱肉強食の世界です。クマは雑食なので戦うときもあれば戦わないときもあります。でも、でもそれは「自然界の全て」ではありません。自然界が弱肉強食の世界だけだったら、生き物たちはお互いに殺し合い、食い合って、とっくの昔に絶滅してしまっているのです。強いものにあこがれ、勝者になりたい人にとっては、「弱い生き物達の生き方」は「敗者の生き方」に見えるかも知れません。でも、戦って負けたのではなく、自分から望んでそのような生き方をしているのですから「敗者」ではないのです。というか、このような生き方には「敗者」が存在しないのです。それに対して「戦いの中で生きている生き物たち」にとっては「勝つこと」が全てです。勝たなければ食べることも生き延びることも出来ないのですから。「何を甘いこと言っているんだ。この世は、食うか食われるかの弱肉強食の世界だ。楽しいだけじゃ生きていけないのがこの世界の現実なんだ」と言ってくるような人はそのような世界に生きているのでしょう。それは、「弱み」を見せたら食われてしまう世界です。それで馬や牛や羊のような「勝てそうな相手」を見つけて襲います。いくら強い生き物たちでも、自分よりも強そうな相手には戦いを挑まないのです。でも、馬や牛や羊だって黙って食われたりはしません。仲間と助け合いながら身を守ろうとします。だからいつも仲間と一緒にいます。一匹だけでは強い肉食獣に勝てないのですが、仲間で助け合えば、身を守ることが出来るのです。だから絶滅していないのです。それは、強いものにあこがれ、勝者になりたい人にとっては「臆病者の生き方」「卑怯な生き方」かも知れませんが、でも、仲間とのつながりの中で幸せと安心を感じる人にとっては、それは「自分らしい生き方」であって「臆病者の生き方」でも「卑怯な生き方」でもありません。また、群れで生活することで身を守っている牛や馬の世界には「弱者を助け合うシステム」が存在しますが、強さに依存している生き物の世界には、そんなもの存在していません。そのため必死になって強さを維持しようとしています。でも、どんなに強い生き物でも、死ぬまで強さを維持することなど出来ません。で、弱さを見せた時点で仲間から襲われてしまいます。「人間は強くなければいけないんだ」と言って一人で頑張って生きているような人も、老化や、ちょっとした不幸などで弱さを見せたら、仲間から襲われてしまいます。で何を言いたいのかというと、「自分らしい生き方」を大切にして生きていると、同じような仲間が集まってくるので、戦わなくても、子どもを競争に追い立てなくても、無理に頑張らなくても、毎日ニコニコ楽しい子育てをしていても、幸せに生きることが出来ますよ、ということです。類は友を呼ぶのです。そこには、弱肉強食の世界とは異なる世界があるのです。そしてそれは、「自分らしい生き方」であって「敗者の生き方」ではないのです。自分にウソをつき頑張って生きている人の周りには、「自分にウソをついている人」が集まって来ます。そして、お互いに化かし合いながら生きています。それは苦しい世界です。
2019.06.16
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算数が大好きな先生の算数の授業は面白いです。だから、子どもたちも算数が好きになります。同じ理由で、音楽が大好きな先生の音楽の授業を受けている子は音楽が好きになります。歴史が好きな先生の授業を受けている子は、歴史が好きになります。テレビの歴史番組に出てくる「歴史大好き先生」の話は面白いです。話を聞いていると引き込まれていきます。でも、知識だけを教えようとして来る学校の先生の授業は退屈でした。皆さんもそういう体験ありませんか。でも、学校にはそういう「魅力的な授業」をしてくれる先生はあまりいません。それでも私が子どもの頃は、独特な授業のやり方をする名物先生も時々いましたが、今ではそういう先生は少ないと思います。なぜなら、みんな忙しすぎてそんな余裕がないからです。それに、昔は「教師」という仕事は「聖職」と呼ばれていましたが、今では先生自身がこのように呼ばれることを嫌います。そして「私たちは普通のサラリーマンです」と言います。そして、「職業としての授業」や「義務としての授業」をする先生が圧倒的多数になってきました。それは会社での仕事と一緒です。(もちろん、そうでない先生もいることは知っていますけど)学校も先生にそれしか求めていません。そうなると当然「楽しさ」は切り捨てられます。そして勉強が嫌いな子どもが増えていきます。子どもには、「義務だから勉強する」という発想はないからです。以前、学級崩壊をしているクラスを見に行ったことがありますが、子どもたちが遊び回っている中で、先生だけが一人でまじめに授業をしていました。ものすごく、異様な状態でした。子どもたちは先生と無関係に遊び、先生は子どもたちと無関係に授業をしているのです。しかも、その授業は全く退屈なものでした。「こんな授業だったら間違いなく私は寝ちゃうな」というレベルの授業です。先生に悪気はないのでしょうが、先生自身が「自分が教えていること」を楽しんでいないのは明らかでした。今時の子は、楽しければ話を聞きますが、楽しくなければ話を聞きません。それは、テレビやユーチューブの動画を見る感覚と同じです。ですから、「授業の質」が「学級の状態」にそのまま表れます。昔は面白い授業をする先生も時々はいましたが、それでも、大部分の先生は「義務としての授業」しかしない先生達でした。退屈な授業しかしない先生もいました。そのため授業中に密かに自主活動をしている子もいました。教科書を立てて居眠りしている子や、早弁をしている子もいました。それでも学級崩壊は起きませんでした。それは、昔の子は今の子よりも「集団のルールを守る」という意識が強かったからだと思います。その意識は家族のつながりや群れ遊びの中で育ちました。また、昔の子どもたちは今の子どもたちに比べて、もっと大人を尊敬したり、恐れたりしていました。大人に対するあこがれもありました。だから1クラス50人以上の生徒がいて(私が子どもの頃は全クラス50人以上でした)、先生が退屈な授業をしていても、学級崩壊など起きなかったのだと思います。でも、現代の子どもには「集団のルールを守る」という意識自体があまりありません。また、大人を尊敬したり恐れたりするどころか、馬鹿にしている子どももいっぱいいます。大人にあこがれを感じる子も減ってきました。私の印象では、親子の信頼関係が上手く作れていない子ほどそのような傾向が強いような気がします。大人本人はそんなこと思ってもいないかも知れませんが、子どもにとってはお母さんやお父さんは「大人の代表」だからです。また、テレビやユーチューブばかりを見て、本を読まなくなってきたことも大きく関係していると思います。「先生をバカにする子が増えたのは、先生が体罰をしなくなったからだ」と言う人がいますが、それは全くの間違いです。先生が生徒に信頼されなくなったから、先生と生徒の間の信頼関係が失われてきてしまったから生徒は先生を尊敬しなくなったのです。先生が、単なる「授業というお仕事をするだけのサラリーマン」になってしまったから、子どもは先生を尊敬しなくなったのです。これは子どもでも大人でも同じですが、自分のことを信頼し、守ろうとしてくれる人を、人は信頼するのです。指示や命令を出し、管理するだけの人を尊敬するわけがないのです。親子の間でも同じです。また、最近の子どもたちが出会う大人は、疲れた顔をして忙しい忙しいと言いながら子どもを追い立てるお母さんと、家の中ではダラダラしているお父さんと、バカなことをやったり、偉そうなことばかり言っているテレビの中の大人と、ニュースで流れる犯罪者を犯した大人と、子どもを管理しようとする幼稚園や学校の先生ぐらいです。そのような大人しか知らない子どもたちに、大人を尊敬しろと言っても無理です。そして当然のことながら、大人にあこがれを感じない子は、自分の未来に夢や希望を持つことが困難になります。「大人=自分の未来」なんですから。子どもたちに、もっと楽しそうに生きている姿を見せてみませんか。子どもを追い立てるのではなく、子どもと一緒に走り、笑い、遊んでいませんか。そうすれば、子どもは自分の未来に対しても希望を持つことが出来るようになります。そうすれば、大人が追い立てなくても、子どもは自分の意思で成長し始めるのです。
2019.06.15
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現代の子育てや教育の一番大きな問題は、大人達が子どもたちに「楽しさ」を伝えず、「苦しみ」ばかり伝えていることです。でもこれは、子育てや教育の場では絶対にやってはいけないことなんです。なぜなら、「楽しさ」ではなく「苦しみ」を伝えられた子は「やる気」を失ってしまうからです。それでも、脅かし、アメとムチで釣り、大きな声や不安を与えるような作り話で子どもを追い立てれば、「よい子」や「勉強が出来る子」に育てることも出来ます。それで大人は満足するのでしょう。でも、そのような親の働きかけが有効に働くのは思春期頃までのことです。子どもが成長し、大人の権力が相対的に低下し始める思春期頃(小学校高学年頃)になって来ると、押しつけられてきただけの子どもは、それまでの大人からの呪縛をふりほどき始めるからです。自分の意思で「押しつけられたもの」を脱ぎ捨て始めるのです。そして、「親の保護」を「親の束縛」と感じるようになり、「自分らしさ」と「自分の意思に元ずく自由」を求め始めます。親への反抗もその表れです。その結果、お母さんが苦しみと共に押しつけてきた子育ての成果は、あっという間に崩れ去ります。子どもが自分の意思を持ち始めることで、それまでの、10年近いお母さんの努力と苦しみの結果が無駄になってしまうのです。この時点で「どうしたらいいんでしょうか」と相談に来られても、「信じてあげて下さい」としか言い様がありません。お母さんとの間の信頼関係が失われ、お母さんの言葉に耳を傾けなくなってしまっている子どもにお母さんが出来ることはほとんど無いからです。でも、苦しいのはお母さんだけではありません。「押しつけられてきたもの」は子どもの成長を支えてはくれないので、押しつけられることだけで育った子は、からだは思春期でも、中身は幼児期のままだからです。そして今、そのような状態の子がいっぱいいます。今朝(6月14日)のニュースに以下のようなものがありました。 大和ハウス工業は13日、自社が施工した賃貸マンション(福岡県志免町)で、飲料水をためる「受水槽」の中で協力会社の作業員が泳いでいたことを明らかにした。泳ぐ様子を撮影した動画がネットに投稿されていた。大和ハウス工業はおわびの文書を発表した。「自分が犯罪を犯している現場の動画を撮って、ネットにあげる」というようなことを平気で出来るのは幼児の感性です。確かに、昔から、思春期頃の子どもたちは反社会的な行為や暴力行為をすることが多かったですが、最近の子どもたちの行為は、「反○○」ではなく、結果や影響を予想することが出来ない「幼稚なおふざけ」に過ぎません。その「幼稚なおふざけ」の延長に「イジメ」や「学教崩壊」も起きています。だから全く罪悪感がないのです。そのため大人がムキになって怒ってもキョトンとしてしまいます。何で叱られているのか理解できないのです。そのため強く叱ると逆恨みします。また、そのような状態の子は大人の世界にも適応できません。「言われたことだけしか出来ない」という以前に「言われたこと」が理解できないからです。これは学校の成績とは全く関係がありません。東大に行くような成績の子でも幼児レベルの感性しか持っていない子はいっぱいいると思います。先日話題になっていた「戦争をしないと・・・」と言い、卑猥な言葉を連発した議員も東大卒です。反論文は理路整然としているのですが、自分の立場を客観的に認識できないのです。だから周囲の人の言葉が理解できないのです。思春期前の子どもの子育てや教育で一番大切なことは、「楽しさ」を伝えることです。学ぶ楽しさ、人の話を聞く楽しさ、仲間と協力して活動する楽しさ、工夫する楽しさ、からだを使う楽しさ、創造する楽しさ、想像する楽しさ、考える楽しさ、発見する楽しさ、他の人や仲間と仲良くする楽しさ、などを伝えることです。「楽しさ」を伝えられた子は「生まれてきて良かった」とか「生きるって楽しい」と感じるようになるでしょう。その結果、自分の意思で、学び、成長していく喜びも感じることが出来るようになるでしょう。すると、思春期が来て親から離れても、今度は自分の力で自分を成長させることが出来るようになるのです。そしてその成長は一生続きます。ただ問題は、子どもたちに「楽しさ」を伝えるためには、伝える大人が「楽しさ」を知っている必要があると言うことです。自分の仕事や生活を楽しんでいる必要があると言うことです。
2019.06.14
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子どもたちはまず、見て学びます。見ることで興味がわき、見ることで理解し、見ることでやる気が生まれます。実際にやってみたくなるのはその後です。これが子どもの学び方の原則です。ですから、周囲にコマを回して遊んでいる年上の子がいる子は、大人が教えなくても、強制しなくても、コマに興味を持ち、コマにチャレンジし、失敗を繰り返しながらコマが回せるようになります。見ることで「あこがれ」が生まれるので、失敗が気にならなくなるのです。維新の時は欧米に、戦後はアメリカに、追いつけ追い越せと頑張ってものすごい勢いで発展しましたが、それは当時の人々が、欧米の文化や技術を見聞きし、強いあこがれを感じたからです。「あこがれ」には人の成長を促す働きがあるのです。子どもたちを異年齢のグループの中で育てる意味がここにあります。そして、その異年齢には大人も含まれます。大人から赤ちゃんまでがちゃんと支え合いつながっている状態が、子どもの成長には一番効果的に働くのです。現代人は「子どもをどう教育するか」ということばかり考えていますが、実際には、「大人がどういう生活をしているのか」ということの方が、子どもの成長には大きな影響を与えているのです。子どもにとって大人が「あこがれの対象」になっているようなら、子どもは大人が追い立てなくてもちゃんと成長していくのです。でも、現代社会ではその構図が崩れてしまっています。自分に自信が無い大人が増えてきています。目標やあこがれを持っていない大人も増えてきています。当然のことながら、子どもたちはそういう大人に「あこがれ」は感じません。真似をしたいとも思いません。成長することに対する意味も感じないし、意欲も生まれません。ですから、放っておいたら娯楽に浸るばかりで「学び」を始めません。「あこがれの力」は「あこがれる対象」がいなければ発生しないからです。それで大人達は、子どもたちを競争させることで成長させようと考えるようになりました。自らがお手本になることを放棄してしまったのです。でも、競争させることが出来るのは点数や収入などの「量」だけです。創造力や、想像力や、人間性といった「質」に属するようなものは競争させようがありません。ですから必然的に「価値がないもの」として扱われるようになってきました。でも、子どもは量を競い合って競争することに興味がありません。その意味も価値も感じません。そういう価値観は子どもの成長には必要がないものだからです。子どもたちも競い合うことは好きですが(特に男の子達)でもそれは、「遊び」としてであって、相手に勝つことが目的ではありません。「勝ったり負けたり」が楽しいのです。「鬼ごっこ」のようなものです。ですから、結果を数値化することもしません。それで大人達は、「勉強しないと・・・」と言って、子どもたちを脅かすようになりました。すると子どもは余計にやる気を失います。本当は勉強は面白いものなのに、学ぶ楽しさを伝えるのではなく、点数による競争ばかりさせられていたらやる気がなくなるのは当然のことです。子どもたちに学校に行く理由を聞くと「勉強はイヤだけど友達がいるから」と答えます。「勉強が好き」という子にその理由を聞いても、「勉強が面白いから」ではなく、単に「得意だから」と答える子が多いです。子どもの問題は、大人の生き方の問題の現れに過ぎないのです。そのことを無視して、子どもだけを何とかしようとするから調教のような方法を採らざる終えなくなるのです。
2019.06.13
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大分以前、私の親子教室に体験に来た人が、「久しぶりに子どもの笑顔を見ました」と言ったので非常に驚きました。また、親子一緒に作ったり、遊んだりするような会の時に、「我が子がこんなことも出来ないのか」とか、「家で見る様子とは全く違う我が子」の様子に驚く人は多いです。我が子が、思っていた以上にすごいことが出来るので驚く人もいれば、「こんなこと簡単にできるだろう」と思っていたことが全く出来ないので驚く人もいます。多くのお母さん達は、いつも子どもの側にいても「集団の中の我が子」を見たことがありません。ですから、集団の中での我が子の様子を知りません。ですから、目の前の我が子の様子が、家で見ている我が子と全く違うので驚くお母さんもいます。また、造形や自由な遊びの場での我が子を見たことがないお母さんもいっぱいいます。そのようなお母さんは、そのような場で子どもがどういう状態なのかを知りません。我が子が思いっきり走ったり、思いっきり声を出したり、思いっきり笑ったり、思いっきり何かに挑戦している姿を見たことがないお母さんもいっぱいいます。以前、凧を作って遊ぶ会をやったときに、凧のひもを持ったまま立っているだけの子がいたので「何をしているの?」と聞いたら、「この凧上がらないんだけど」と言ってきました。それで「走れ!」と言ったのですが、走ったら走ったで、すぐに「疲れた」と言って止まってしまいます。万華鏡を渡したら、ただのぞき込んで一言「何も起こらないけど」と言った子もいました。それで、「自分で回すんだよ」と言ったら、「なーんだ、つまんない」と言われたこともあります。「わー、きれい」と言って喜ぶのは、大人だけです。カッターの刃がどちら側か分からない子も多いです。これは非常に危険なことです。そもそも、「刃物は切れる」ということ自体を知らない子も多いです。大人にとっては常識であっても、体験したことがない子どもには常識ではないのです。そんな刃物を使ったことがない子が勝手に刃物を使おうとするので、「危ないから」とやめさせようとすると、「大丈夫 大丈夫」と言い返してきます。「やったことあるの?」と聞くと「やったことはないけど大丈夫」などと言います。「ユーチューブで見たから大丈夫」などと言う子もいます。それで、「やったことがないということは、出来ないということなんだよ」と言うのですが、でも、体験が乏しい子にはその言葉の意味自体が通じません。先日も、ハサミでも切れるようなものをカッターで切りたがる子がいたので、「あぶないからハサミでやりな」と言ったのですが、それでも「大丈夫 大丈夫 やったことがあるから」というのでやらせてみたら、案の定、刃ではない方で切ろうとしていました。またこれも先日の出来事ですが、子どもが彫刻刀で自分の手を刺してしまいました。5年生の子が版画を作りたいと言ったので彫刻刀を渡したのですが、それを見ていた3年生の子が勝手に彫刻刀で遊んでいて、自分の手を刺したのです。大人には「当たり前のこと」であっても、子どもには「当たり前のこと」ではなく、ちゃんと体験を通して学ぶしかないのです。それなのに、多くの大人が子どもに体験を与えずに、「なんでそんなことを知らないのか」「なんでそんなことも出来ないんだ」と上から目線で、評価、否定しています。「知識を与えれば体験しなくても出来るようになる」と思っている大人も多いです。それは例えば、「自転車の乗り方を説明すれば自転車に乗れるようになる」と思い込んでいるようなものです。本や講演会などで「子育ての方法」を学べば、上手に子育てが出来るようになると思い込んでいる人も多いです。「体験で学ぶ体験」が乏しい人には、「知っている」と「出来る」は全く別次元のことだということが分からないのです。それに、「知っている」だけで上手く行くのは学校の中だけです、学校の外の世界では知っているだけでは何の意味もありません。学校の外の世界では「知ってる」よりも「出来る」ことの方が重要な意味を持っているからです。でも今、「実際にやってみる」という体験をしないまま大きくなっている子が非常に多いのです。それは非常に危険なことです。で、やったことがないのに、自分の能力を超えることなのに、平気で「大丈夫 大丈夫」と言って安易に取りかかってすぐに挫折してしまう子や、頑張れば出来る程度のことなのに「出来ない 出来ない」と言って尻込みしてしまう子が多いのです。でも、そういう場に立ち会ったことがないお母さんは、我が子のそのような状態を知りません。体験することの大切さも知りません。ただし、その「体験で学ぶ」にも段階があります。何も出来ない子にいきなりナイフを渡して「何事も体験だ」というのは無責任です。まず、コマ回しや、木登りといった簡単なからだ遊びを通して「体験で学ぶ」ことが出来るようになってから少しずつ、危険度が高い体験をさせないと危険だし、何も学べずにすぐに挫折してしまいます。逆に、そういう遊びをいっぱいやってきた子は、他の子がやっているのを見るだけで、教えなくてもすぐにやり方を学んでしまいます。でも問題は、そういう体験がないままある程度年齢が上がってしまった子は、その基礎部分がないのに、いきなり高度なことをやりたがるのです。だから非常に危険なんですが、でも、見守りながらやらせるしかありません。当然、小さなケガは普通に起きます。でも、そのケガから子どもは大切なことを学んでいるのです。子どもたちが大人になって社会に出て行かなければならなくなる前に「体験から学ぶ」という学び方を教えてあげなければならないのです。それが大人の義務だと思っています。それが分からないと、仕事や子育てでも苦しむことになってしまうからです。
2019.06.12
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子どもは、まだ何も描かれていない画用紙(キャンバス)の様な状態です。ただし、この画用紙の質は一人一人違います。ツルツルして絵の具が載りにくい画用紙の子もいれば、表面がザラザラな状態の子もいます。大きさも違えば、色画用紙のように色も一人一人違います。この色はその子の気質とつながっています。憂鬱質の子の画用紙には、最初から青い印象の色が付いています。多血質の子の画用紙にはピンクや黄色などの明るい印象の色が付いています。胆汁質の子の画用紙には赤を感じるような、粘液質の子の画用紙には緑を感じるような印象の色が付いています。そして、気質が混ざっている子は、混ざった色をしています。赤ちゃんは真っ白な状態で生まれてくるわけではないのです。確かにまだ何も描かれてはいませんが、みんな「自分カラー」を持って生まれて来ているのです。色の濃さも人それぞれです。ですから、お母さんが同じことを言っても、同じように関わっても、子どもは自分カラーに合わせてそのお母さんの言葉や行為を受け取るので、反応がそれぞれ違うのです。例えば、同じ赤い色水でも、青い色水の中に垂らせば紫になりますよね、でも、黄色い色水の中に垂らせばオレンジになりますよね、それと同じです。ちなみに、当然のことながらこの色は物理的な色ではなく心証的な色です。それはつまり、憂鬱質の子は、「私たちが青い色を見たときに感じるのと似たような感覚を抱かせる要素を持っている子」ということです。当然のことながら、見た目が青いわけではありません。「憂鬱質」という名前がつけられていますが、憂鬱っぽく見えるわけでもありません。またその色の見え方は、見る人の色にも作用されます。憂鬱質の人が憂鬱質の人を見ればお互いの青い部分は見えません。それは、ニンニクを食べた人が、他の人のニンニクの匂いが分からないのと同じです。でも、黄色い要素を持っている人が青い色の人を見たら緑に見えます。赤い要素を持っている人が青い色の人を見たら紫に見えます。相手は同じ色なのに、勝手に自分の色を相手に投影してしまうため、違う色に見えてしまうのです。だから同じ相手に対する印象でも、人それぞれなんです。実際、憂鬱質のお母さんから見たら「乱暴で言うことを聞かない困った子」が、多血質や胆汁質の母さんには「明るくて元気な子」に見えてしまうことはよくあることです。ですから、もしかしたらお母さんが我が子の「短所」だと思い込んでいることが、学校や仲間の中では「長所」として働いているかも知れません。他の人は短所だと思っていることでもお母さんには長所に見えることもあるかも知れません。でも、この勘違いはOKです。なぜなら、長所を短所だと思い込み、矯正しようとすれば長所は消えていきますが、短所を長所だと思い込み肯定してあげていると、それは本当に長所になっていくからです。それがどんな色であろうと、その色が生きるような使い方を学ぶことが出来ればそれは長所になるのです。逆に、それがどんなにきれいな色でも、その色を生かすような使い方を学ぶことが出来なければ、それは短所になるのです。またここで、色以外の別の要素も関係して来ます。それは「明」と「暗」という要素です。明・暗は色ではないですが、色味を変える働きを持っています。同じ黄色でも、白をちょっと入れれば、軽やかになりますが、黒を入れると重く沈んで茶色になってしまいます。そして、その明暗に関係しているのが感情の状態です。感情が生き生きとしているときには明度が上がります。ですから、同じ青でも明るい青になります。でも、感情が沈んでいるときには明度が下がり、暗い青になります。色は生まれつきですが、感情の働きとつながった明暗は育ち方が強く影響しています。また、日常的にも変化しています。元々は明るい色を持っていた子でも、感情が沈んだ状態の中で育てば、黒が加わったのと同じようにくすんだ色の個性を持った人に育ちます。でも、どんな色の子でも生き生きした感情の状態の中で育てば、軽やかな色を個性に持った人に育ちます。本質的な色自体は変わらないのですが、明暗が変わることで全く異なった印象の色になってしまうのです。青い色を持って生まれた子に対してピンクが大好きなお母さんが、子どもの青を否定し、「なんでおまえはピンクではないんだ」となじっていると、感情が沈み、明度が下がり、どす黒い青になって行きます。それに対して、青い色を肯定してあげていると、明度が上がり、軽やかな青になり、他の色との相性も良くなります。明るく青い空をバックにした薄ピンクの桜はきれいでしょ。また、子どもの頃は明るく素敵なピンク色だった子も、様々な原因で感情が沈んだ状態で育てば、明度が下がり、暗い「ドドメ色」になってしまいます。でも、本質的な色は変わっていないので、自分育てによって感情を肯定してあげていると、次第に明度が上がり、また元の素敵なピンク色が戻ってきます。別の色にはなることが出来ませんが、自分らしい素敵な色を取り戻すことは出来るのです。「気質」とはこのような性質を持ったものです。呼んでいただければ、日本全国どこへでも行ってワークをしますよ。頭で考えても分からないことでも、体験すれば簡単に分かってしまうことも多いですから。
2019.06.11
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子どもには「うたがう」という能力がありません。まだ「裏を読む能力」がないからです。昨日も書いたように、子どもの意識は常に外側に向かって開かれています。ですから、自分の心やからだの中を覗くというようなことは出来ません。そのため、「心の世界」というもの自体が分からないのです。ですから、「自分だってこんなことされたらイヤでしょ」と子どもに反省を促しても無意味なんです。自分がぶたれた痛みは感じることが出来ます。バカと言われれば苦しくなります。なぜならその痛みや苦しみは自分自身に起きたリアルな現実だからです。でも、相手の子の痛みや苦しみは分からないのです。だって、他の人の心なんて見えないし、触れることも出来ないのですから。我が子を虐待してしまうお母さんも同じです。そのような人は、自分のことだけで精一杯になってしまっているため、我が子にも自分と同じ心があることを忘れてしまうのです。まただから、子どもは相手をだますための嘘をつくことが出来ません。子どもはいつも荒唐無稽なことを言います。それに対して、多くの大人が「ウソを言うんじゃありません」と言って責めています。でも子どもはただ自分がそう感じたことをそのまま言っているだけです。お母さんをだまそうなどとしていません。でも、お母さんが子どものその素直な言葉を肯定せず、「ウソを言うんじゃありません」と言っていると、子どもは「自分が感じたこと」ではなく「お母さんが聞きたい言葉」を言うようになります。そうして、「ウソ」を言うようになっていきます。自分を守るための知恵として、「ウソ」という方法を学習するのです。でもそれも、自分の身を守るためのものであって、お母さんをだますことが目的ではありません。人も含めて全ての生き物には「自分の身を守る権利」があるのですから、これは悪いことではないのです。「子どものウソ」は、子どもを「ウソをつかなければならないような状態」に追い詰めてしまった大人の責任なんです。ではなぜ子どもは荒唐無稽なことを言うのかというと、簡単に言えばまだ夢と現実の区別が付いていないからです。心の中で起きていることと、現実に起きていることの区別が付かないのです。その両者に壁がないわけではないのですが、壁が柔らかくて子どもは自由に行き来が出来てしまうのです。それが「ファンタジー」の世界なんです。VR(バーチャルリアリティー)の発明によって可能になった世界を、子どもたちは普通に生きているのです。VRメガネを着ければ、現実世界と、仮想世界を合体させることが出来ます。現実の風景の中にポケモンを出現させることも出来ます。子どもの心の中では、それに似たようなことが普通に起きているのです。ただし、そんな子どもたちでも「心の世界が創り出したもの」と「現実世界の存在」が同じものだとは思っていません。違いは分かっているのです。でも、その違いが絶対的なものでは無いということです。だから「はい、お団子」と出された泥団子を、食べる真似はしても実際には食べないのです。子どもたちに、お菓子の絵が描いてある絵本を見せて、「食べにおいで」と言うとみんな食べに来ます。絵に手を伸ばして「食べる真似」をします。そして「おいしい?」と聞くと「おいしい」と答えてくれます。でも、「本物じゃない」と文句を言う子はいません。まただから「お母さんが喜ぶ言葉」も分かるのです。子どもたちは「心の世界」と「現実の世界」を自由に行き来することで、「心の世界」と「現実の世界」をつなげているのです。その結果、「現実の世界」の中に「心の世界」を感じることが出来るようになるのです。これはなかなか説明が難しいのですが、「青い空」を見て、ただの「青い空」しか見えない人もいますが、「青い空」に自分の心を映すことで「青い空の世界中」に入っていける人もいます。飢餓で苦しんでいる人の写真を見て、ただ「やせ細った人たち」しか見えない人もいれば、その人達の心とからだの苦しみまで見えたり感じたりすることが出来る人もいます。一般的にはこれを「イメージ能力」といいますが、これは人間しか持っていない能力です。この能力があるから他者に優しくしたり、自然を大切にしたり、戦争を避けようとすることが出来るのです。子どもたちは「心の世界」と「現実の世界」を自由に行き来しながらこのような能力を育てているのです。問題はいまこの能力が欠如しているとしか思えない人が増えてきていることです。そのような人は「共感能力」や「イメージ能力」が非常に低いです。そのため、「こういうことを言ったら、こういうことをしたら相手はどう感じるのか」ということが分からないのです。ちなみに、この能力の育ちには「言葉」も大きく関係しています。心の世界は「言葉」によって創られているからです。ですから「心育て」は「言葉育て」から始まるのです。そして「言葉育て」は「からだ育て」とつながっています。
2019.06.10
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大人は、子どもは落ち着きがなく、飽きっぽくて、ジーッとしていなくて、すぐ他の子とケンカして、ルールを守らず、約束を守らず、いたずらばかりして困ると、子どもを非難します。また、手を洗わない、オシッコを教えない、ご飯をちゃんと食べないということも、大人を怒らせる原因の一つです。こういうことは全て、大人の目から見たら「改善すべき短所」です。だから大人は、怒ったり、叩いたり、説明したり、褒めたり、何かでつったりしながら、しつこくそれらを直そうとしています。そして、それが「しつけ」だとも思っています。でも実は、これらは全て子どもの成長という視点から見たら「長所」なんです。大人には短所と見えることが、実は「子どもの成長」という視点に立ってみると長所なんです。「命の働き」に導かれて感じ、考え、行動している子どもには短所なんてないのです。そういう状態が子どもの成長に必要だから、そういう状態になっているのです。大人が頭の中で創り出した「人工」を基準にしてしまうから、命の働きに基づく「自然」が短所だらけになってしまうのです。子どもが大人の言うことに素直に従い、ジーッとしていて、飽きっぽくなかったらどうなると思いますか。子どもは自分の「意思」を育てる機会を失ってしまいます。「大人のような子ども」が出来上がり、大人はそれで満足するかも知れませんが、そのような状態の子は大人になっても精神的に自立できません。また、「教えられたこと」しか学ぶことが出来ません。体験から学ぶことが出来ず、知識としての学びしか出来ません。それが一番問題になるのは「人間関係」です。「人と人のつながり方」や「関わり方」は、100%体験を通して学ぶしか学びようがないからです。自分の心や、感情や、からだとの関わり方も、「自分自身の意思に基づく自由な行動体験」を通してしか学ぶことが出来ません。AIですら、多様な体験を通して学習するように作られているのに、子どもからその多様な体験を奪ったらAI以下になってしまうのです。それは昔の「プログラムされたことしか出来ないコンピュータ」と同じです。子どもたちはまだ脳が柔らかいうちに出来るだけ多様な体験をして多様な脳の回路を作ろうとしているのです。体験によって脳の回路が作られるからです。ですから、単調な体験して与えてもらえなければ、脳は単調な回路しか作ることが出来ないのです。そして、大人の言うことを聞いていたら多様な体験など出来ないのです。ほとんどの大人の人の頭の成長はもう止まってしまっているので、子どものこの感覚が分からないのです。成長が止まってしまっている大人が、成長真っ盛りの子どもを自分の価値観でコントロールしようとしてはいけないのです。それは成長という働きに対する冒涜でもあります。また、子どもたちの意識や感覚は外の世界に向かって開かれています。大人は自分の心やからだの中を覗いたり、心やからだと対話することが出来ますが、意識や感覚が外側に向かった状態になっている子どもたちにはそれが出来ません。だから、自分の心とからだの状態が自分でも分からないのです。オシッコが分からないのもそのためです。「オシッコ大丈夫?」と聞かれて「大丈夫」と答えるのはただの反射行動です。
2019.06.09
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大人を基準にしてみたら、子どもは欠点だらけです。子育ての相談を受けても、落ち着きがない、我慢が足らない、ルールを守らない、静かにしない、言いつけを守らない、何遍言っても同じことをする、何遍約束させても守られない、いたずらばかりする、ちゃんと最後までやらない、手を洗わない、ゲームばかりしている、スマホやテレビばかり見ている、などと、子どもの欠点ばかりをズラズラあげてきます。でも、それが「子どもという生き物」の生態なんですから、どうしようも出来ないのです。それは「猫が芸をしない」とか「犬が木に登らない」というような無茶な要求と同じレベルのものです。どんなにしつけ上手な人でも、猫に「猫らしくないこと」や、犬に「犬らしくないこと」をやらせようとしても出来ませんよね。ぶっても、叩いても、おだてても、お菓子をあげても、出来ないものは出来ないのです。ぶたれたり叩かれれば、ぶつことや叩くことを止めさせるために「もうしません」とか「次はちゃんとやります」などと言いますが、それは、お母さんやお父さんに叩いたりぶつことを止めてもらうために言っているだけで、自分自身の決意を言っているわけではありません。なぜなら、幼い子どもには「約束を守る」という能力自体が無いからです。「えー!」と驚かれる人もいるかも知れませんが、子どもとはそういう生き物なんです。お母さん達は自分の努力の結果が出ないことを子どものせいにして悩んでいますが、子ども自身にも出来ないことを子どもに要求しても結果が出るわけがないのです。「子育ての苦しみ」の多くは、「子どもにも出来ないようなこと」を子どもに要求することで生まれているのです。その時、お母さんも苦しいかも知れませんが、子どもはもっと苦しいのです。本来は優しく愛してくれるはずのお母さんやお父さんから、どんなに頑張っても出来ないような要求ばかりを突きつけられ、存在を否定するような言葉を浴びせられ、愛ではなく痛みや苦しみを与えられているのですから。ではどうして、我が子に「出来もしないこと」を要求してしまうのかというと、周囲を見渡すと出来ている子もいるからです。これは上に書いたことと矛盾しているように思えますが、私が上に書いたのは「子どもという生き物の初期状態」に過ぎません。子どもは成長することで自分の状態を変えていくことが出来るので、実際の成長の状態には個人差があるのです。子どもは大人がやらせようとしても出来ないのですが、成長を支えてあげていれば、自分の力で少しずつ出来るようになっていくのです。赤ちゃんはみんな最初はお話が出来ません。でも、常に大人が話しかけていれば赤ちゃんは言葉を覚え、少しずつ自分の意思で話し始めますよね。それと同じです。でも、子育てに苦しんでいる人ほど、子どもの成長を支えようとせずに、一方的に自分の要求を子どもに押しつけるような子育てをしているのです。だから子どもは成長することが出来ず、いつまでも初期状態に近い状態のままなんです。そしてだから、いつまでも子育てが苦しいのです。それは、まだ言葉を知らない赤ちゃんに対して、自分から話しかけることはしないのに「早く話しなさい」「ちゃんと話しなさい」と話すことを要求しているようなものです。でも、そんなことを繰り返しても子どもは話せるようにならないのは明らかですよね。お母さんがいっぱい話しかけないことには、ぶったり、叩いたり、ののしったりしても子どもは話せるようにはならないのです。それは、食べさせなければ成長しないのと同じです。一方、いっぱい話しかけられている子は自然に自分でお話が出来るようになります。そういう前段階があるのですが、それが分からない人は、話せるようになった他の子と、まだ話せない我が子を比較して、「なんであんたはちゃんとお話が出来ないの!」と子どもをなじるのです。「優しさ」も同じです。優しくされている子は他の子に対しても優しく関わろうとします。それは日本語を伝えられた子は、他の子に対しても日本語で話しかけるのと同じ原理です。子どもは自分自身の体験を通してしか学ぶことが出来ません。いくら叱っても、叩いても、おだてても、説明しても、実際に体験したことがないことは学ぶことが出来ないのです。「約束を守る」ということも、お母さん自身が子どもに対してちゃんと約束を守ることを繰り返すことでしか伝えようがないのです。でもそれは、「子どもに約束を守る能力が身についた」ということではありませんからね。単に「そういう生活習慣が身についた」というだけのことです。そもそも、幼い子どもは「約束」という言葉の意味も分かりません。それが「子ども」という生き物の学び方なんです。その理解がないから子どももお母さんも苦しくなってしまっているのです。
2019.06.08
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大人から見たら子どもは未熟で不完全な存在です。だから、「ちゃんと教え、ちゃんと鍛え、ちゃんと導かなければならない」と考えているのでしょう。でも実際には、子どもは「子どもとして」完全な存在であって、決して「未熟な大人」ではありません。大人が大人を基準にして子どもの状態を判断しているからそう見えてしまうだけのことです。陸上の動物が、陸上の動物を基準にして水の中の生き物を判断したら、陸上で暮らすことが出来ない水の中の生き物はみんな未熟な存在です。でも逆に、水の中の生き物を基準にして陸上の動物を見たら、水の中では生きることが出来ない動物たちは未熟な存在です。ですから、これは「どちらを基準にするか」というだけの問題であって、客観的に見て「どっちの方が優れていて、どっちの方が劣っている」という問題ではないのです。同じような勘違いは男性と女性の間にも、国と国の間にも起きています。日本人を基準にして外国人を見たらみんな「未熟な人間」でしかありません。靴のまま家に入ったり、机に座ったり、箸が使えなかったりするのですから、子どもと同じように、ちゃんとしつけなければなりません。でも、日本人がそのような文化の国に行ったら、日本人の方が未熟な人間になってしまうのです。若者は老人を「自分たちより劣った存在だ」と考え、老人は若者を「自分たちより劣った存在だ」と考えています。そしてお互いに上から目線で相手と関わろうとします。だからトラブルが起きるのです。どんな場合でも、自分を基準にして相手を判定すれば当然そういう結果になってしまうのです。それと同じことが大人と子どもの間にも起きています。大人を基準にしたら何にも知らない、何にも出来ない子どもは未熟な存在です。でも、子どもを基準にしたら、歯も抜け替わらない、からだも成長しない、夢中で遊ぶことも出来ない大人は未熟な存在です。「どっちを基準にするか」というそれだけのことなんですが、大人達は「自分たちの方が子どもたちよりも完璧で、正しくて、偉い」と考えてしまっているのです。そしてその誤解や思い込みが、「子育て」や「教育」をおかしなものにしてしまっているのです。確かに、子どもは大人が創った世界のことは知りません。大人のルールも、大人の技術も、大人の知識も知りません。そして子どもが子どもの世界の中で遊んでいるときにはそういうものは必要ありません。でも、子どもはやがて大人になります。だから、大人になるための準備が必要になります。子どもも本能的にそのことを知っています。だから大人のことをよく見て真似をしようとします。無理に教えようとしなくても、自分の意思で大人の言葉を学び、大人の知識を覚え、大人の技術を身につけようとします。そういう「成長への意欲」という点では、大人は子どもに敵いません。そして、その手助けをするのが子育てや教育の役割でもあります。ただ問題は、大人が子どものことを「未熟な存在」と決めつけ、上から目線で、大人のやり方をそのまま子どもに押しつけてしまっていることです。それは例えば、日本に来た外国人に、「なんで日本語を話さないんだ」「なんで箸をちゃんと持てないんだ」「なんで靴のまま家の中に入ろうとするんだ」「なんで敬語を使わないんだ」と、日本語だけで、しかも上から目線で非難、否定し、一方的に「日本人としての正解」を押しつけるのと同じ行為です。でもそんなことをされたら、せっかく日本が好きで日本に来た外国人でも、日本人に対していい印象は生まれませんよね。日本のことを学びたいという気持ちも萎えてしまいますよね。英語しか話せない人には可能な範囲で英語で説明する必要もあるでしょう。「どっちが上」という意識ではなく、「単なる文化の違い」として、相手の文化を肯定しながらも日本人のやり方を教える必要もあるでしょう。そして、子どもと関わるときにも、同じような意識の使い方が必要になるのです。子育てや教育に関わる人は、子どもの立場に立って子どものことを理解し、子どもの言葉に耳を傾ける必要があるのです。そして、子どもは「子ども」として尊敬される必要があるのです。大人が子どもを尊敬するから子どもは大人を尊敬し、大人の言葉に耳を傾けるのです。そこで、子どもの成長につながるような子育てや教育が成り立つのです。大人でも、自分のことを馬鹿にしている人から学びたいと思う人はいませんよね。それと同じです。
2019.06.07
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子どもたちはまだ「自分のからだの使い方」や「からだとの付き合い方」を知りません。「心の使い方」や「心との付き合い方」も、「思考や感覚や意思の使い方」や、「それらとの付き合い方」も知りません。だからそれらを「遊び」という活動の中で学ぼうとします。子どもたちは「遊び」を通して「自分」と出会い、「自分との関わり方」、「自分の生かし方」、「自分の可能性」、「自分の限界」を知るのです。そしてそれが、「自分に対する安心や自信」につながっていくのです。「生きようとする意欲」も遊びの中で育ちます。ですから「遊び」には多様性と自由が絶対的に必要になります。多様性と自由がない遊びは、単なる暇つぶしであって、子どもが自分と出会うことも、自分を育てることも出来ません。でも大人達は、「子どもたちは遊びの場で育つ」ということを知りません。そのため大人達は、子どに「心やからだ丸ごとを使った自由な遊び」を与えず、引き替えに小手先で遊ぶだけのゲームやスマホを与えています。でも、ゲームやスマホで見るユーチューブの世界には子どもの育ちに必要な多様性も自由もありません。などと言うと、ゲームやユーチューブのような遊びが好きな人は、「ゲームやユーチューブの世界にも多様性や自由はある」と言うかも知れませんが、でもそれは、狭い専門分野の中での多様性と自由に過ぎません。それは例えば、「リカちゃん人形の多様性」や「電車の多様性」と同じようなものです。でもそれらは自然の中での遊びや、仲間との遊びの多様性や自由と比べたら全く問題になりません。子どもたちと話をしていると、みんな、ゲームの話に関してはものすごく詳しいです。遊び方にも詳しいです。そういう意味ではゲームの遊びの中にも多様や自由があります。だから子どもたちはゲームに夢中になるのですが、でも、ゲーム以外の遊びのことはほとんど知りません。また、興味もありません。見たことも、聞いたことも、体験したこともないのですから興味が無いのは当たり前です。自分が生まれ育っている世界の色々なものと出会い、色々なことを体験し、色々なことを学ぶべき時期に、もうすでに子どもたちは「現実の世界とは無関係なゲームの世界の専門家」になってしまっていて、ゲーム以外の世界への興味を失ってしまっているのです。それは、フィールドワークを伴うような基礎研究をすっ飛ばして、いきなり限られた知識だけを使う専門分野の研究を始めたような感じです。だから、知識や、意識や、思考の裾野が狭いのです。確かに、ゲームで遊べば、ゲームで遊ぶことで育つ能力は育つかも知れません。そして「将来「ゲームを作る人やゲーマーになりたい」という夢も生まれるかも知れません。でも、ゲームでしか遊んでいない子は、その夢と引き替えに、それ以外の能力や、それ以外の夢を育てる機会を失ってしまうのです。そのため、大人になって「ゲームを作る人やゲーマーになりたい」という夢が実現した人はいいですが、実現しなかった人は、途方に暮れることになります。他の世界のことを知らないし、他の世界で生きる能力も育っていないからです。でも、子どもの頃に多様な世界と出会い、自分の意思と工夫で自由に遊んで育った子は、一つの夢が実現できなくても、他の道を自分で探すことが出来ます。ですから、人生に行き詰まることがないのです。自分の人生の選択肢が広がるのです。そしてそれこそが、子ども時代に学ぶべきことなんです。でも、その能力は多様性も自由な選択肢も存在していない学校では役に立ちません。かえって邪魔になるかも知れません。でも、社会に出たときには自分の人生を支える大きな力になってくれるのです。ただし、私は「だからゲームをやらせるな」ということを言っているわけではありません。「子どものうちからゲームの専門家にはしないで下さい」と言っているだけです。多様な遊びの中の一つとしてゲームがあるのならそれはそれでOKなんです。ただ問題は、幼い頃にゲームにとりつかれてしまった子は、刺激が弱い他の遊びには魅力を感じなくなってしまうと言うことです。9才頃までは自然の中で仲間と思いっきり遊んで、その楽しさを十分に味わった子なら、それ以降ゲームを始めても、取り憑かれることはありません。ゲームが、「たくさんある楽しい遊び」の中の一つに加わるだけですから。
2019.06.06
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今日からしばらく「子どもについて」書いてみたいと思います。ちなみに先日発行した「子ども発見」という書籍にも、子どものことが色々と書かれています。それと、16日に茅ヶ崎でやる「親子でお絵かき」というお絵かきワークの参加者を募集中です。(最後に案内があります)*************************昨日、なぜなら、「子どもの要求」は、「大人の要求」とは全く違うからです。子どもは、大人にとっては何よりも大切な「お金」にも、「出世」にも、「競争」にも興味が無いのですから。そんな子どもの言葉に耳を傾け、子どもの気持ちにより添って子育てをしていたら、大人を中心に回っている社会の中では浮いてしまうのです。と書きましたが、では子どもたちは何を求め、何を大切にして生きているのかということです。子どもが大人に求めているものの中で一番大切なものは、「大好きだよ」「あなたはあなたのままでいいんだよ」という愛情と、肯定と、承認です。子どもは、親から愛情と、肯定と、承認を与えられることで、精神的に自立していくのです。また、「生まれてきた良かった」と感じることが出来るようにもなります。そして、これが「根拠のない自信」の基礎になって行きます。その逆に、一番嫌いなのは、「言うことを聞いてくれないから嫌い」とか、「○○してくれたら△△してあげる」とか、「なんでこんなことも出来ないの」というような、支配と、管理と、否定です。「お兄ちゃんは出来るのに」とか「○○ちゃんは出来るのに」と、他の子と比較されることも大嫌いです。「比較」は個人の人格の否定そのものですから。大人でもこんなことを言われたら「やる気」を失いますが、子どもは「生きる気力」や「成長する意欲」を失うのです。自己肯定感も失われます。その結果、子どもの頃にこのような支配と、管理と、否定を受け続けて育った子は、精神的な自立が困難になります。大人になっても誰か他の人に愛情と、肯定と、承認を求め続け、他の人にすぐに依存してしまう人も多いようです。でも、求めても求めても満たされません。その人が本当に欲しいのは子どもの頃のお母さんやお父さんからの愛情と、肯定と、承認だからです。その代用品を求め続けるのですが、代用品には「心や命の働きを満たす力」がありません。そのため、いつまで経っても精神的に自立することが困難になります。また逆に、他の人に何も求めなくなる人もいます。他の人とつながることもしなくなります。そのような人は、人間関係も、夫婦関係も、親子関係も、ビジネスライク的にこなします。自分に求められている役割はちゃんとこなそうとしますがそれ以上のことはしません。また、愛情を求めることもしない代わりに、愛情を与えることもしません。そのため、一見自立しているように見えるのですが、でもそれは「機械の自立」であって「人間の自立」ではありません。人間はお互いに支え合うことで文化や文明や人間性を育て、守り、伝えていく生き物ですから、他の人とつながり合うことが出来ず、自分の役割をこなすことしか考えていない人は、「人間として自立している」とは言いがたいのです。また子どもは、親や、周囲の大人や、年上の子に、「目標」や「お手本」を求めます。子どもは見て、聞いて、体験して学ぶように出来ているので、その「見る、聞く、体験する対象」が必要になるのです。子どもは、お母さんやお父さんの言葉に従って成長するのではなく、お母さんやお父さんを真似することで成長しようとするのです。ですから、「優しくしなさい」と叱られても、自分自身が優しくされていなければいつまで経っても優しく出来るようにはなりません。逆に、いつも優しくされている子は、「優しくしなさい」などと叱らなくても、他の子に優しく関わろうとします。肯定されている子は他の子も肯定しようとします。だから仲間作りも簡単にできます。ただ問題は、そのような「子どもの要求」に応えようとすると、「子どもを甘やかしている」と非難してくる人が多いということです。私もさんざん言われました。「成長に必要なもの」を与えるのは決して「甘やかし」ではないのですが、「子どもの育ちに必要なもの」が分からない人には、「子どもの育ちに必要なもの」を与えることまで「甘やかし」に見えてしまうのです。「待ってあげる」もその一つです。待ってあげることは子どもの成長を支える力になります。でも、それを「甘やかし」と考える大人が多いのです。そのため待ってあげているだけで「甘やかしている」などと言われたりします。昨日も書きましたが、文明社会は100%大人の価値観に基づいて作られているので、その中で、「命の働きに従った子どもの育ちに必要なもの」を子どもに与えようとすると、必然的に、社会的な価値観からは外れてしまうのです。だから昨日は「恥を捨てて下さい」と書いたのですが、だから「お母さんの仲間作り」も非常に重要になるのです。我が子と二人だけで公園でドロンコ遊びをしているときは周囲の目が気になりますが、仲間と一緒なら気にならないのです。***************「親子で出来るお絵描き遊び」のワーク(出張ワークもしますよ)日 時: 6月16日(日) 10:00~12:00場 所: JR茅ヶ崎駅隣のビル(市民ギャラリー)参加費: 2000円備 考: 親子での参加が可能ですが、子どももお母さんも洋服が汚れる可能性があります。汚れても良い準備でおいで下さい。お問い合わせはこちらまでお願いします。
2019.06.05
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また、「ひきこもり」の子どもの事件が起きてしまいましたね。違うのは川崎のものは加害者としてですが、今回のものは、加害者になってしまうことを恐れた父親による被害者としてですけど。いずれの場合にも共通しているのは、家族が密閉状態だったという点です。今回の場合だけに限らず、子どもに対する虐待も、また夫婦間のDVも密閉された家族、密閉された人間関係の中で起きます。学校でのイジメも、密閉されたクラスの中で起きます。そして学校も教育委員会も事態が発覚しないように、密閉状態を保とうとします。日本人は、非常に強く「恥」を気にする民族です。それは憂鬱質の強さから来ているのでしょうが、「恥」を気にするあまり、問題が起きるとすぐに隠そうとする傾向があるのです。それどころか、問題が起きる可能性のありそうなものは、実際に問題が起きる前に隠そうとしたりもします。政治の世界でも、将来問題につながりそうな議事録や資料は簡単に廃棄してしまいます。だから、実際に何か起きても検証が出来ず同じことが繰り返されるのですが、密閉された現場にいる人たちは、それはそれでいいと考えています。問題が起きてしまっても、そのことが周囲に知れ渡らなければいいのです。だから、密閉状態にして、何が起きているのかを隠そうとするのです。その現場にいる人たちがやっているのは、前任のやり方を踏襲して「何も起きないこと」をひたすら願うことだけです。前任者と違うことをすれば責任が発生するからです。そして、実際に何か起きていても目を向けずに「なかったこと」にしようとします。その結果さらに泥沼にはまり、最後には破滅してしまいます。そのような人たちは本質的な問題には目を向けません。問題を解決するために行動を起こそうともしません。行動を起こせば自分の状態が周囲に知れ渡ってしまいます。でもそれは周囲に恥を晒すことになります。さらに、行動して失敗したら余計に恥をかくことになります。また、「恥」を恐れる人は人と違うことをしようとはしません。自分の頭で考えようとも、自分の意思と責任で行動しようともしません。失敗して恥をかくことが怖いからです。みんなと同じことをやっているなら、その結果が「困ったこと」になっても自分の責任は免れると思っているのです。そして、多くのお母さん達も子育ての現場では同じようなことをしています。「みんなと同じ子育て」をしていれば大丈夫だろうと考えています。そして、自分がやっていることの意味や子どもの状態には目を向けません。また、「子どもの問題」や「子育ての問題」を「恥ずかしいこと」と考えている人も多いです。ですから、講演会の後の質問の時間には誰も質問しないのに、終わってから大勢列をなして相談に来るのです。でも、子どもは一人一人違います。お母さんも一人一人違います。また「マスコミが言っていること」や「みんながやっていること」が正しいかどうかも分かりません。「普通」が正しいのかどうかも分かりません。だから「我が子の子育て」は、自分の頭で考え、自分の心と感覚で感じ、自分の意思と責任で行うしかないのですが、多くの人が「みんなと同じ様な子育てをしているから大丈夫だろう」と考えています。また、「自分の頭で考え、自分の感覚と心で感じ、自分の意思と責任で行動する能力」を育てるような子育てや教育も受けていません。でも、文明社会は大人のための社会でもあります。全ての価値観や制度が大人を基準にして作られ、運用されているのです。なぜなら、子どもには選挙権も発言権もないからです。あったとしても、子どもには自分の想いを大人に伝える能力がありません。(動物や植物など人間以外の生き物たちに関しても同じです。)だからこそ、大人が「声にならない子どもの声」に耳を傾け、「行動として現れない子どもの想い」を感じ取ることが必要なんですが、それをしてしまうと「みんなと同じ子育て」が出来なくなってしまいます。なぜなら、「子どもの要求」は、「大人の要求」とは全く違うからです。子どもは、大人にとっては何よりも大切な「お金」にも、「出世」にも、「競争」にも興味が無いのですから。そんな子どもの言葉に耳を傾け、子どもの気持ちにより添って子育てをしていたら、大人を中心に回っている社会の中では浮いてしまうのです。非難してくる人もいるでしょう。お節介な忠告をしてくる人もいるでしょう。そして恥意識の強い日本人はそれを「恥ずかしいこと」と感じるでしょう。だから「みんなと一緒」を心がけます。子どものことを全く考えていないやり方を子どもに押しつけます。その結果子どもの状態に問題が生じても、それを人に言うのは「恥ずかしいこと」なので自分だけで、親子だけで解決しようとします。周囲に助けを求めることもしません。そして泥沼にはまっていきます。で、自分ではどうしようも出来なくなってからようやく助けを求めるのですが、それまで積もり積もり、こじれにこじれてしまったものがあるので、そうなってしまってからでは周囲に出来ることに限界があります。でも、まだ周囲の手助けが有効なときに「助けて下さい」が言えれば、そこまでの状態にはならないのです。現代社会では、恥を捨てなければ、子どものことを考えた子育てなんか出来ないのです。
2019.06.04
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昨日は、こんなにも価値観や生き方が違う人たちが一緒に子育て出来るわけがないのです。でも、どっちのタイプの人たちにも支え合うことが出来る仲間は必要です。そうでないと、子育ての方法には関係なく、子育てが苦しくなってしまうからです。子どもも苦しくなります。じゃあどうしたらいいのかということです。ということを書きました。本当に、現代人の価値観はバラバラです。昔は、家庭も、地域も、社会も、「人と人のつながり」によって支えられていたので、人と人との間には、ある程度の価値観の共通性が存在していたのですが、人々の意識や生活が個人化するにつれてますますバラバラになってきてしまったのです。家族の中でさえみんなバラバラの価値観を持っているのに、見も知らない他人とそう簡単に価値観が合うはずがないのですそして、価値観がバラバラな者同士では「子育て」を助け合うことが出来ません。「子どもを育てる」と言うことの中には「価値観を伝える」ということも含まれているからです。でも、近くの人とは価値観が合わなくても、自分と同じ価値観を持った人は必ずどこかにいるものです。だから、そういう人を探し出して、自分の価値観に合わせた仲間作りをすればいいのです。そして昔は自分と同じ生活圏の人としか出会えませんでしたが、ネット環境が整備されている現代社会では遠くの人とも簡単に出会えます。同じ町内でなくても、ちょっと車や自転車で行くことが出来る範囲内なら、現代社会では「ご近所」です。公民館などの企画で自分の価値観にあった講座に参加すれば、そこにいるのは最低限の価値観の共通性を持った人たちだけです。私は、もう20年ぐらい「横浜自然育児の会」という会と関わっていますが、そういう会に参加すれば自分と同じ価値観の人と会うことが出来ます。そういう仲間と助け合って子育てをすると、少なくとも精神的にはすごく楽になると想います。「孤独」に追い詰められることもなくなるでしょう。近くにそういう会や、講座がなければ、自分で企画して、地域の電子掲示板のようなところにアップすればいいのです。公民館に持ち込むことも出来ます。ただここで問題になるのが、そのような活動の前提となる「自分の価値観」が分からない人や、「趣味」や「興味」を持っていない人が非常に多いということです。講座でお母さん達に聞くと、「昔はこういうものに興味がありましたけど・・・」とか「そういえば、昔はこういうものが好きだったです」と言う人は多いですが、多くの人が「忘れていました」とか「今は忙しくてそんなことやっている余裕がありません」などと言うのです。でも、実際には家事や育児をしながらも「自分がやりたいこと」をやっている人もいっぱいいます。それに現代社会には、子育てを楽にしてくれる簡単な機械や、道具や、インフラがいっぱいあります。昔のお母さんは朝暗いうちから起きて家事をしながら4人、5人、下手をすると10人近くの子どもを育てていたのですよ。だから、「便利なもの」に囲まれている現代人が、時間に余裕を作ることが出来ないはずがないのです。ではどうして、それが出来ないのかというと、自分で自分を束縛してしまっているからです。日本人には「お母さんは、子どもが生まれたら子どもや家族のことを一番に考えるべきで、自分のことをやってはいけない」という変な道徳意識というか、強迫観念があります。そのため「自分のこと」をやることに罪悪感を感じてしまう人も多いのです。自分を犠牲にして家事や子育てに専念していないと後ろめたさを感じてしまうのです。また世間も、舅や姑も、それをお母さんに要求します。また、子どもの頃から自由な時間と体験が乏しい生活の中で、比較され競争に追い立てられて育ったため、やりたいことや趣味を持っていない人も多いです。自分が何を大切に生きているのかも分からない人も多いです。そのため、簡単に頭の中が「家事」と「子育て」のことだけに占拠されてしまうのです。だから便利な機械で余裕が生まれても、その時間に子育てや家事を詰め込んでしまうのです。だから、追い詰められてしまって苦しくなってしまうのです。自分のことも分からないわけですから、子どもと向き合っていても、何を伝えたらいいのか、どう育てたらいいのかも分かりません。その結果、心や、からだや、生活といったものから余裕が失われてしまいます。子育てをしていようといまいとにかかわらず、自分自身の価値観や、自分の趣味や興味を持つことは、人が人として生きていく上において非常に大切なことなんです。それがないと子どもに「人間として大切なこと」を伝えようがないからです。でも、日本人には「労働力としての自分」とか、「お父さんやお母さんという役割を演じる自分」という意識しか持っていない人が多いのです。だから子どもとの関わり方も分からないのです。もう一度、子どもの頃のこと、若い頃のことを想い出してみて下さい。自分がやりたかったこと、なりたかったことを想いだしてみて下さい。そして、「自分」を取り戻して下さい。それが出来ないと「仲間作り」も、「楽しい子育て」も出来ないのですから。スポーツであろうと、芸術であろうと、仕事であろうと、研究であろうと、他のどんな分野であろうと、「自分」を大切にしていない人には大した仕事は出来ないのです。まずは「自分の人生」を自分のものとしてしっかり生きる。子育ても仕事もそこからなんです。
2019.06.03
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人間は群れの中に生まれ、群れの中で生活する動物です。そうしないと、子孫も、文化も、文明も、人間性も、生活も途絶えてしまうのです。だから人間は、特に人間らしさを身につける時期の子どもは孤独を嫌うのです。現代人は「個」のことばかりを考えて、「個」ばかりを大切にしようとしていますが、それは人間の未来にとってあまり良い状態ではないのです。確かに私たちは都市のような場で群れて生活しているように見えます。でもそこに「群れ」としてのつながりはありません。実際、都会では隣に住んでいる人の名前すら分からないのですから。引っ越ししても、隣に挨拶など行きません。会えば挨拶する程度のつながりがある人もいますが、近くに住んでいても全く挨拶しない人の方も多いです。顔も家族構成も分かりません。信頼関係も、対話も、何かを共有することもありません。そのような状態の中で、みんな「自分」や「自分の家族」のことばかりを大切にして生きています。「煩わしいから」といって、挨拶を禁止にしたマンションもあります。公園で子どもが遊ぶ声に文句を言ってくる人もいます。上の階でドタドタ音がすれば「ウルサイ」と言って、下から天井をドンドン叩いたり、文句を言いに行ったします。そんな時、「○○ちゃんの走る音だ」と分かれば、笑顔でその音を聞くことが出来るかも知れません。翌日、「昨日は○○ちゃん元気でしたね」と言えば、「嫌な顔で文句を言われなくても、自粛するようになるでしょう。問題は大人だけの社会ならそれでも問題はないのですが、そういう状態の中では子育てが出来ないことなのです。子どもの「人間としての成長」も支えることが出来ません。人間の「人間らしさ」のほとんど全てが、「人と人のつながり」によって伝えられ、育てられてきたものだからです。現代人は知能の育ちにばかり関心がありますが、人間がどんなに頑張ってもAIには敵わないのです。それに、「人間らしさ」とつながっていない知能は非常に危険です。人類を破滅に導く恐れさえあります。だからこそお母さん達だけでもつながり合い、仲間作りをして支え合えばいいのですが、お母さん達から聞くところによれば、「ママ友」と言われる集団の中でも、なぜかお互いに比較し合い、勢力争いをして、お互いの足の引っ張り合いをしているようです。全部がそうではないでしょうが、「だからママ友グループには入らない」と言う人も結構います。あるマンションのママ友グループでは、新しい人が越してきたら、SNSやネットでその人のことを調べ上げ、その人の社会的地位や、知名度に合わせてグループ内での位置を決めるそうです。これは、「うちのマンションのママ友達はそういうことをしています」と、実際に聞いた話です。幼いときから比較され、評価され、競争に追い立てられ、人間性よりも成績の方ばかりを大切に育てられてきたからかも知れません。だから、子どもが小さいときはお互いの支えが必要なはずなのに、いざみんなが集まると支え合うのではなく、比較、評価、競争が始まってしまうのでしょう。でも多分、このブログを読んで下さっている人は、そういうママ友グループからは距離を置いている人が多いと思います。でもそれはそれで、孤独ですよね。仲間が欲しいですよね。実際、そういう相談も受けますから。で、そういう人には、「今の時代、家が近いからという理由だけで仲間作りをしない方がいいですよ」と言っています。現代人は価値観が多様化しているので、「家が近い」という理由だけで集まったグループの場合、メンバーの価値観がバラバラだからです。食べ物も、飲み物も、ケガや病気に対する対処法も、しつけの内容も、しつけ方もみんな違います。スナック菓子をバクバク食べさせ、コカコーラのような飲み物をガブガブ飲ませ、テレビは見放題、ゲームもやり放題の子育てをしている人もいれば、添加物が少ないおやつや、食べ物や、飲み物しか与えていない人もいます。「おやつはニンジン」という人もいます。ケガや病気の時にもすぐに病院に連れて行き、すぐに薬を飲ませる人もいれば、オルタナティブ医療のようなことをやる人もいます。私の友人は、子どもに熱が出たとき、キャベツの葉を頭に乗せていました。ホメオパシーをやっている人も多いです。薬草系に詳しい人もいます。しつけでも、諭す人もいえば怒鳴りつける人もいます。体験を大切にする人もいえば、体験から遠ざける人もいます。こんなにも価値観や生き方が違う人たちが一緒に子育て出来るわけがないのです。でも、どっちのタイプの人たちにも支え合うことが出来る仲間は必要です。そうでないと、子育ての方法には関係なく、子育てが苦しくなってしまうからです。子どもも苦しくなります。じゃあどうしたらいいのかということです。
2019.06.02
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一度「不安」に取り込まれてしまうと、自力でその状態から抜け出すのはなかなか困難です。また、不安に取り込まれやすい人とそうでない人の間には「気質」以外の要因もあります。その両方の問題に関係してくるのが「孤独」です。孤独な人は「不安」に取り込まれやすいし、「不安」から抜け出しにくいのです。まただから、「孤独」が蔓延している現代社会では、同時に「不安」も蔓延しているのです。そして、不安が強い人は自分を守ることばかり考えるようになるので、他の人とちょっとしたボタンの掛け違いが起きただけで、その相手に対して攻撃的になったりします。それは動物が自分の身を守るための本能のようなものなのでしょう。川崎の事件の犯人も似たような状態だったのではないかと思います。ですから、マスコミは「引きこもり」にばかり話題を持って行こうとしていますが、本質的な問題はそこではないのです。引きこもっていなくても孤独な人は同じような状態になるのです。実際、(「不安」ばかりが全ての事件の原因ではないでしょうが)世の中のほとんどの事件は「引きこもっていない人」が起こしているのですから。家から出られず引きこもっていて「社会」からは孤立していても、家族や友人とのつながりは失われず「人と人のつながり」に支えられている人は、そう簡単には「孤独」に取り込まれたりはしないのです。確かに社会からの孤立は「不安」をもたらすでしょうが、「人と人のつながり」が残されているのなら、その「不安」は「目の前を塞ぐ絶望的な壁」にはならないのです。「孤立」と「孤独」は同じではないのです。ですから、「引きこもり」ではなく社会に出て仕事をしている人でも、他の人との間に「人と人のつながり」を持てていない人は孤独です。家族がいて家族と一緒に暮らしていても、家族との間に「人と人のつながり」がなければ孤独です。そして今、そのような孤独な状態の子どもがいっぱいいます。見守りツールを持たされていても、家の中に子どもの状態を見守ることが出来る室内カメラが設置されていても、話しかければ答えてくれるスピーカーがあっても、ゲームで楽しく遊ぶことが出来ても、子どもは「肌のぬくもりを感じることが出来る存在との関わり合い」がなければ孤独を感じるのです。「命と命の共鳴」が子どもの「命の働き」と「命の育ち」を支えているからです。自我がちゃんと成長した大人ならば孤独な状態でも生きていくことが出来ますが、大人でも自我の育ちが未熟な人や、自我が成長過程の子どもは孤独な状態では生きていくことが出来ないのです。「孤独」は妄想を生み出します。「孤独」は痛みや、苦しみや、不幸といった「否定的なこと」を増幅させます。孤独な人は、自由を怖がります。孤独な人は、人を信じません。孤独な人は、平和を信じません。孤独な人は、希望を持つことが出来ません。世の中には孤独でも大丈夫な人がいますが、そのような人は「孤独ではない子ども時代」を過ごした人です。今読んでいる『単純な脳、複雑な「私」』 (池谷裕二 著)に面白い実験が紹介されています。それは「痛み」に関する実験なんですが、ランプをつけると同時に手に痛みを与えていると、ランプが付いただけで恐怖を感じるようになってきます。こういうことってよくありますよね。お母さんにいつも叱られている子は、お母さんが近寄ってきただけで恐怖を感じますから。その実験を結婚している女性にやってもらったのです。しばらくその実験を繰り返していると、女性はランプが付いただけで恐怖を感じるようになります。で、面白いのは、その時旦那さんが奥さんの手を握ると痛みが和らぐのです。そういうことが脳の中を観察していると分かるらしいのです。不思議ですよね。同じ強さの痛みを与えているのに、旦那さんに手を握ってもらっているだけで感じる痛みが減るのです。この時、旦那さん以外の赤の他人に握ってもらっても、痛みは減らなかったそうです。信頼している旦那さんにしかこの魔法は使えないのです。そう考えていくと、幼児に対する虐待が増えてきているのも、もしかしたら夫婦で支え合うことが出来なくなっていることの表れかも知れません。だとしたら、お母さんを孤独にしたままの状態で「虐待を止めよう」というキャンペーンを繰り返すだけでは全く意味が無いということになります。共に子育てが出来るような社会を作っていかないことには虐待は減らないでしょうね。*************単純な脳、複雑な「私」 (ブルーバックス) [ 池谷 裕二 ]価格:1404円(税込、送料無料) (2019/6/1時点)楽天で購入
2019.06.01
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