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益田駅に到着しました。10年前、この駅に降りて、そしてこの駅から旅立ったんです。この駅舎、昔とほとんど変わっていなぁ……さて、僕はこれからある場所へ向かいます。駅前でタクシーを拾って、車を走らせます。益田市内は古き良き商店街が軒を連ねていますが、幹線道路を外れると民家が立ち並んでいて、のどかな景色が広がっています。タクシーはひたすら川沿いの細い道を走って行きます。その途中、運転手さん、「この道でよかったかな~ 」と言っています。大丈夫かなぁ~。しばらくすると、小さなお寺の前に止まりました。ここに来たかったんです。10年前、列車の時刻が迫っていて、お寺の中に入らずに外を見ただけで、すぐに帰らざるを得なかったんです。あれから10年後、念願の『萬福寺』にやって来ました。 重要文化財の本堂と重要でないぽんすけ 雪舟萬福寺はかつてはとても大きなお寺で、七堂伽藍を兼ね備えた益田一の大寺院でした。しかし、1026年、大津波によって一瞬にしてそれらの伽藍(お寺の建物)が流出してしまいました。昨日のブログにも書きましたが、柿本人麻呂さんもこの津波により亡くなっています。その後、小さな庵が建てられ、このお寺の復興が始まりました。その津波による被害から400年余り経った後、『雪舟(せっしゅう)』と名乗る水墨画の巨匠がここに現れました。彼の水墨画の腕は天才的で、ウィーンの世界平和評議会で「世界十大文化人」に選ばれた唯一の日本人です(他の9人は、ベンジャミン・フランクリン(科学者)、モーツァルト(音楽家)、ドストイエフスキー(作家)、ハインリッヒ・ハイネ(詩人)、ピエール・キューリー(科学者)、ヘンリング・イプセン(劇作家)、レンブラント(画家)、バーナード・ショウ(作家)、カーリダーサ(詩人)です)。雪舟の逸話として、こういう話があります。『雪舟が幼い頃の話です。雪舟がお経を読むのを嫌がっていたので、住職さんは雪舟をお寺の柱にしばりつけてしまいました。そのため、雪舟は泣き出して、涙が床に落ちました。彼はその涙を足の親指につけ、床にねずみを描いたところ、それを見た住職はびっくりして、涙で描いたねずみを追い払おうとしました。』 彼が幼い頃から、絵の才能に優れていたことがうかがえますね。雪舟は水墨画だけに優れていたわけではありません。それは、この庭を見れば一目瞭然です。 雪舟は造園のアイデアにも優れていて、益田市には3ヶ所の雪舟が造ったとされる庭があります。この庭ですが、中央の小高い山を中央にして、右はやや暗く、左は非常に明るく造られていて、明と暗が巧に使い分けられているのです (この写真では両端が切れていて、その違いが分かりません……すみません )。 石の配置といい、緑豊かな草木といい、全く無駄がなく、何時間眺めていても飽きることがないです。さて、次の列車が発車するまであと30分しかありませんが、もう1ヵ所だけ訪問したい場所があります。つづきは次回にします。ちなみに、ここの受付のおばちゃん、すごい話し好きです。受付で拝観料を払うと、約10分間の説明が受けられます。そして、拝観を終えて挨拶をして、急いで次の目的地に向かおうとすると、引き止められて、さらに10分間のおまけの説明が受けられます(笑)。質問をすれば、さらに5分間の回答が得られます。もう一度言います。もう1ヶ所行きたい場所があって、次の列車は30分後に出ます……ゥゥ…でも、そのおばちゃんのご親切に、大変感謝しています。このブログの内容も、おばちゃんから聞いた事を回想して書きました。萬福寺住所:島根県益田市東町25-33電話:0856-22-0302時間:8~18時 拝観料金:大人300円
October 31, 2007
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こんばんは。昨日までは山口県の旅日記を書いていましたが、今日から島根県の旅日記を書いていきます。今日は、瀬戸内海に面した下関から日本海側の益田(ますだ)までの大移動を書きたいと思います。新下関駅からこだま号に乗り、新山口駅を目指します。お盆の真っ只中にもかかわらずこだま号の自由席は比較的空いています♪。さて、JR西日本のこだま号は本当に乗り心地がいいのです。自由席にもかかわらず、その座席はなんとグリーン車並みです。しかも、のぞみ号やひかり号と比べて、窓が大きく、景色が一段と楽しめてしまうんです。 こだま号 (JR西日本のHPより) 車内の2&2シート列車は新山口駅に到着。ここで、鳥取行きの『特急おき』に乗り換えます。もうすでに特急列車が乗客を乗せて待っていました。いつもなら、指定席1両+自由席1両の2両編成の列車ですが、この日はお盆ということで指定席2両+自由席2両の4両編成で運転されていました。しかし、車内はすでに満席で、立席のお客さんまでいます。でも、小さなお子様連れのご家族に、ご親切にも席を開けてもらい、ゆったり席に座る事ができました。本当にありがとうございました(このブログ見てくださっているかな~。) 特急おき 駅プレート車窓から、「りほごお」と書かれた駅プレートを発見!???? あれぇぇ~???そんなわけないですよね。右から左に読むのが正しいのです(笑)。「おごほり(小郡)」のことです。昔まではこの駅の名前が小郡(おごおり)駅だったのですが、2003年10月1日に新山口駅に改名されました。昔の名残が、ここに残されているんですね。列車は定刻どおり13:02に発車。たくさんのお客さんを乗せて鳥取まで走ります。僕は途中の益田(ますだ)駅で下車しますが、終点の鳥取到着は夕方の18:31です。鳥取までのお客さん、5時間半の長旅ですね……お疲れさまで~す。さて、ディーゼルエンジンをうならせて、いくつもの峠を超え、とうとう益田にやってきました。この駅で降りるのは約10年振り。何がどう変わっているのか、楽しみです。列車を降りて、駅の改札の方へ歩いていると、前方から何やら怪しいオーラがでています|||||||||||||||||||||||||| 柿本人麻呂さん 最初、これを見た時、「ナンじゃ、こりゃ?」と思いました。ここ益田市は『万葉集』第一の歌人である柿本人麻呂さんが亡くなった場所です。益田市の沖合に鴨島があり、津波により水没。それが原因で亡くなったと伝えられています。それにしても、この蝋人形ですが、もう少しカッコよく作れなかったものかと思うところです。次回は益田市を代表する2つのお寺をご紹介したいと思います。
October 30, 2007
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下関の見所は本当にたくさんあるんですよ。名所を1つずつ丁寧に解説していきたいのですが、今日は下関の名所をまとめてお話しすることにします。1.功山寺(こうざんじ)わざわざ下関の長府まで来たのには理由があります。お寺参りの好きな僕にとって一度見ておきたかったものがあるんです。それは功山寺の国宝仏殿です。 功山寺 山門 功山寺 仏殿(国宝)この仏殿が国宝に指定されたのには理由があります。禅宗様建築で唐様仏殿としては、これが我国最古だそうです。今までにたくさんの寺院を訪問してきましたが、このような建築様式のお寺はあまり目にすることはありません。 庭園 書院ここのお寺は曹洞宗で、つまり禅宗のお寺です。一般的に禅宗の寺院は庭が素晴らしいので、早速拝見させていただきました。写真のような緑鮮やかな庭園が魅力的です。『心地池』には鯉が気持ち良さそうに泳いでいました。2.下関南部町郵便局下関南部町郵便局は、下関に現存する洋風建築物の中では最も古く、明治33年(1900年)に建設されました。この建物の特徴は外壁のレンガの厚さで、なんと60 cmもあり、とても堅固です。現役の郵便局舎としては、ここが日本最古です!! 特徴的なのは建築物だけではありません。ここで郵便物を出すと、下のようなふぐの消印を押してくれるのです(ちなみに旅行日は8月14日です。更新が遅くなりすみません。)。あらかじめそのウワサを耳にしていたので、友達と自分に絵葉書を送りました。ちなみに、絵葉書は前のブログで書いた旧英国領事館で購入することができ、また、下関限定発売の記念切手はこの郵便局で買うことができます。 3.ふく寿司(830円)下関では『ふぐ』の事を『ふく』と呼ぶそうです。下関港はフグの水揚げ日本一を誇り、下関まで来たらやっぱこれを食べなくてはと思っていました。1989年に販売をはじめ、それ以来新下関駅の名物駅弁として現在に至ります。中身はちらし寿司になっていて、酢飯の上にフグの身、フグの皮、フグのそぼろがのっていて、まさにフグ尽くしです。さらに、ウニ、エビ、椎茸、錦糸玉子などがのっていて、とても満足です。本当は、これよりもグレードの高い『デラックスふく寿司(1150円)』が欲しかったのですが、残念ながら売り切れでした。 4.唐戸市場唐戸市場にも行きたかったのですが…僕が訪問したのはお盆真っ只中で、残念なことにお盆休みでした。本当は、この市場で朝食を食べる予定だったのです。実は、市場というだけあって、函館の朝市のように、食堂が平日だと朝3時から、日曜祝日だと6時から開いているそうです。そこで、獲れたての鮮魚、フグ、タコなどを格安で食べられるそうです。さて、下関の旅のブログはいかがでしたか?これで、下関の見所のご案内は終了し、次回からいっきに北上して、島根県へ入ります。次回をお楽しみに…。
October 29, 2007
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おはようございます。まず、下の写真を見てください。ここは海外のどこかかな?と思われた方もいらっしゃるでしょうが、実はこの写真ですが、日本のあるところで撮影しました。この建物は『旧秋田商会ビル』と呼ばれ、下関にあります。1915(大正4)年に、秋田商会事務所として建造されました。下関はその当時、韓国、満州、台湾などへ出航する港として栄えていて、秋田商会は主に木材取引を中心とした海運送業を営んでいました。現在は下関観光情報センターが管理運営をしています。1階は事務所で、美しい白壁、一段高くなったカウンター、米国製の掛時計など当時の名残がうかがえます。 1階事務所部分2、3階もこのような素晴らしい洋風の部屋だろうと思うところですが……実は書院造の純和風の部屋なんです!? その理由は、この建物は事務所兼住居として建造されて、2、3階は住居として使われていたそうです。 2階 書院造りの住居外から見た外観とは全く想像もできませんね! この書院造の和室は、とても格調が高く、日本の代表的な武家屋敷に匹敵するほどのものだと感じました。また、部屋の広さにもびっくりします。 2階 書院造りの住居もう一度、一番上の写真を見ていただきたいのですが、屋上に何やら木々が覆い茂っていますね?実は、屋上には日本庭園が造られていて、なんと茶室まで設けられているんです。今では、屋上部分の一般公開はされていませんが、どうしても見てみたい場合は、近くの歩道橋の上から一部を見ることができます。屋上に、青銅色の神社の屋根みたいなのが見えますが、それが茶室であると思われます。旧秋田商会ビルですが、一見の価値は十分にあります。しかも、入場無料です♪ 地下室も設けられているそうですが、それについての情報は不明です。今日で下関のお話は終了です。次回は下関の観光情報を簡単にまとめてみたいと思います。旧秋田商会ビル(下関観光情報センター)住所:山口県下関市南部町23-11電話:0832-31-4141開館時間:9:30~17:00
October 28, 2007
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こんばんは。いつもは山陰の旅のブログを書いていますが、今日は息抜きに別のお話をしたいと思います。この前のブログに、初心者ながらクラシック音楽にはまっているとお伝えしました。今でもその熱意が冷めぬまま、クラシック音楽を聴きながらブログを書いたり、ちょっと調べ物をしたりしています。クラシック音楽初心者の悩みですが、どの作曲者の曲が自分の好みにあっているのかを知るのが大変なんです!!とにかくたくさんCDを買って、聴いてみなければいけないのかなぁって考え込んでしまいます。でも、当たり外れ(自分の好き嫌い)があるから、無駄なお金は掛けたくないものです。あるとき気付いたんです。もともと英語の勉強に使用していた『iTunes』ですが、もしかしたらクラシックも無料で聴けるのでは…と思い、早速いろいろと調べてみました。す・る・と…インターネットラジオの項目があって、それをクリックすると『Classical』の文字がそれをクリックしたら、海外メディアが提供する無料の24時間聴き放題のクラシックサイトがなんと40サイトも出てきました ~♪そのうちの1つをクリックして聴くことにしました。「おぉ~」って感じです。しかも無料♪誰が作曲したのか分かりませんが、すごく静かで、流れるようなメロディーに感動していました。そして、30分ぐらいした時、あるアナウンスが入りました。おや?解説付かな?と最初思いましたが、その英語のアナウンスを聞いていると、どのようやらある商品のCMです。やっぱり、音楽を無料提供するのにも予算的に大変だから、こうやってCMを流すんだな~って思います。ところで、何のCMだろうと思って、よく聴いていると……(゜*゜;;)!!バイアグラのCM絶句さっきまで、心地よいクラシックを堪能してたのに…あの余韻は一瞬で冷めてしまいました。み、皆さんも『iTunes』をダウンロードしてクラッシクを楽しんでみてください。40サイト近くあるうちの1つはバイアグラのCMが流れます。ダウンロードはApple社(iPod)のページからするか、あるいはをクリックしてください。http://www.apple.com/jp/itunes/一応解説しておきますが、バイアグラとは役立たずになったアレに命を吹き込む薬です。 ぺっ
October 24, 2007
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長州砲のブログを書いたときにもお話しましたが、幕末に英・仏・蘭・米国の4ヶ国連合艦隊が長州藩と戦闘を行いました。その時、英国指揮艦ユーリアラス号に乗り込んでいたアーネスト・サトウは通訳として来日しました。長州藩の敗戦後、彼は英国駐日公使となり、下関に領事館が必要なことを報告し、明治34年に全国で三番目の英国領事館が下関に開設されました。 旧下関英国領事館 (写真は歩道橋の上から撮るといいです)レトロな街並みと言えば、函館や門司港を連想するところですが、ここ下関も負けてはいません。このような洋風建築が良い状態で保存されていて、煉瓦の褐色がとても美しいです。さて、旧下関英国領事館は入場料無料で見学できます♪ 建物内部はそれほど広くはありませんが、そこに設置されている家具やインテリの華やかさとゴージャスさには思わず見とれてしまいます。 ちなみにこの旧英国領事館は「領事館として使用することを目的に建設された建物」としては、現存する中で最古のもので、歴史的価値が認められます。このように椅子が並んでいると座り心地を確かめてみたくなるものです。と言うわけで、早速確かめてみました。 ちょっと固めの椅子で、長時間座っていたら疲れると思います。2階は寝室になっていて、その当時の面影が残っています。さて、1階のおみやげ物屋さんで、友達に送るポストカードを見ていました。気に入ったポストカードがあったのですが、8枚セットになっています。数人の人に送るので、8枚もいらないのです。そこで、事務所の方にそれをばら売りしてもらえないかお願いしましたが、それはできないという事でした。仕方なく8枚セットを購入すると、なんと下の写真の旧秋田商会のポストカード(非売品だそうです)1枚と長府庭園のポストカード6枚入りをプレゼントしてくださいました。 どのポストカードもとても素敵でオシャレで、週替りで写真立てに入れて部屋のインテリにすると、あの頃の記憶がよみがえってきます。そして、旧英国領事館の職員の方の善意もこのポストカードに込められていて、なんだか暖かい気持ちにさせてくれます。 旧下関英国領事館住所:下関市唐戸町4-11 電話:0832-31-1238開館時間:午前9時~午後5時
October 21, 2007
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下関から東へ10数キロ行くと、城下町長府(ちょうふ)があります。そこの一番の見所は今日ご紹介する『長府毛利邸』です。長府毛利邸の歴史はそれほど古くはなく、明治36年に毛利元敏(もととし)によって建てられました。ちなみに、この長府毛利邸周辺は、赤土で作られた壁が立ち並び、最も城下町の面影を残す所です。このお屋敷ですが、とにかく庭が素晴らしいです。池泉回遊式で、苔の生えた石、鯉の泳ぐ池、そして灯籠などが配置されていて、とても品格のある日本庭園です。秋になると紅葉が美しいらしいですが、どのように模様替えするのか気になるところです。 毛利長府邸裏庭さて、ここは単なるお屋敷として使用されていただけではありません。明治35年には、明治天皇が熊本で行われた陸軍大演習をご視察の際、ここを宿泊所として使用されて、一部の部屋は当時のまま残されています。もちろん、そのお部屋に入って、ゴロンと寝転がることもできます。 明治天皇 御宿泊の間 もしかしたら、明治天皇も、写真と同じ事をされていたかもしれませんね(笑)。でも、こんな広々とした間に座らされると、思わずゴロンと寝そべりたくなるものです。 和室と言えば、この写真のようでなければいけませんね。つまり、薄暗いのが和室の一番の特徴と僕は考えています。つまり、部屋を暗くすることにより、外の景色や庭の風景が一段と引き立つんです。また、外は蒸し暑くても、室内は全くその暑さを感じさせません。 ここで真夏のひと時を過ごしましたが、まるで実家に帰省してのんびりくつろいでいるような気分になりました。細長い廊下からも別の庭が眺められ、どの部屋にいても飽きを感じることはありません。日本茶の接待も有難かったです。近代建築は室内を明るく美しく見せる傾向があるように思います。それは窓の外があまりにも殺風景だから、そうやってごまかしているんだと思っています。僕はこういう純和風の家に住んでみたいと願っています。しかし、部屋が多く、しかも広いのでお掃除が大変そうなので、先ほどの発言は撤回します......(笑ってやってください)次回は洋風建築を書きたいと思います。もちろん下関発です。長府毛利邸住所:山口県下関市長府惣社町4-10 電話:0832-45-8090料金:200円開家時間:9~17時
October 20, 2007
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関門海峡が歴史的に重要なのは、壇ノ浦の戦いだけではありません。幕末の話ですが、長州藩と英・仏・蘭・米の4カ国連合艦隊との戦闘が、この関門海峡で勃発しました。結果として、長州藩が敗戦してしまいましが、その時に活躍した長州砲のレプリカが展示してありました。レプリカと言っても外観は本物そっくりで、銅製の砲筒と木製の土台から成り、砲身の長さが3.56 mもあり、重量感と力強さが伝わってきます。5門の長州砲がずらりと並んでいると、思わず息を呑んでしまいます。(大砲の数え方は「門」ですよ~。)長州砲についてもう少し詳しく書きます。長州藩の敗戦により、長州砲は戦利品として上記の国外へ運び去られ、日本から一度姿を消してしまいました。それから約100年後に、フランス滞在中の作家・古川薫氏(直木賞作家)がパリにあるアンバリッド軍事博物館を訪れたとき、そこに長州砲が保管されていることを発見しました。これをうけて、日本政府が長州砲の返還依頼をしましたが、その願いは叶いませんでした。発見から20年弱の月日が流れ、元外務大臣の安部晋太郎氏(ちなみに、彼の次男は前総理大臣の安部晋三氏)の努力により、1984年に貸与という形で一時帰国する了解を得ました。この機会に原寸大かつ本物そっくりに模造され、このように展示されるに至ったのです。この長州砲は、元はと言うと萩藩の鋳砲家によるものだそうです。長州藩(日本)が敗戦になったことは残念に思いますが、その反面、この敗戦により長く続いた鎖国が廃止され、西洋文化が積極的に取り入れられ、そして今日のような国際社会を築くきっかけになったことを考えれば、そんなに悔しい思いはないです。さて、NHKの大河ドラマ「義経」はご覧になっていましたか?僕は見ていませんでした。先日のブログでも書いたとおり、義経が活躍したのは、何と言っても壇ノ浦の戦いでしょう。関門橋の下に作られた公園には、この場所で戦いあった2人の指揮官の像が設置してあります。1人は海の上を勢いよくジャンプする源義経と、もう一人は船の上に堂々と立ち、碇をかついだ平知盛です。 源義経 平知盛大河ドラマ「義経」に出演した、義経役の滝沢秀明さん、建礼門院役の中越典子さん、そして平資盛役の小泉純一郎ではなくて小泉孝太郎さんの手形とサインもいっしょに展示してあります。ところで、純一郎さん&孝太郎さんですが、最近テレビで見ませんが、元気にしているのでしょうか?安部晋三氏も…義経役の滝沢秀明さんの手形&サイン(これを欲しい人、たくさんいるでしょうね~)次回は下関からさらに東へ向かい、長府の武家屋敷を探検します。最近、寒くなってきたので、お体にお気をつけてお過ごしください。では、また……
October 14, 2007
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次の目的地は門司港です。関門トンネルをひたすら歩くことによって、本州の最果ての下関から九州の玄関口の門司港まで行けます。(余談ですが、本州最南端は和歌山の潮岬です。)その入り口は下の写真の『関門トンネル人道入り口』で、地下約60 mまで下りなければいけません。この建物の中にエレベーターが設置されていて、地下14階まで降ります。原付二輪車(50 cc以下)と自転車を持参の人は特別料金として20円を支払います。代金はポストの中に入れる仕組みになっていました。トンネル内は二輪車に乗ることは禁止されていて、押して歩かなければいけません。ちなみに深夜の通行は禁止されていて、6:00~22:00まで開通しています。 ここに来る前まで、「まさかこんなところ誰も歩いていないだろう」って予想していましたが、全くそんなことはなかったです。朝のジョギングをしている人や地元の人たちが、ゾロゾロと歩いているんです。これにはちょっとびっくり。トンネル内は緩やかな上りと下りがあり、夏場はクーラーがきいていないので少し蒸し暑かったです。 ここが、県境です。福岡県に歩いて入ると、遠くまで来たんだなぁっていう実感が湧いてきます。下関から門司港まで総長約600 mあります。歩くと13分程度で到着します。意外と近いんですね~。エレベーターに乗り門司港側の地上に出てみました。目の前に広がる関門海峡をしばらく眺めていると、運良く『にっぽん丸』がのんびりと通過して行きました。このにっぽん丸ですが、『済州島と海峡花火・阿波踊りクルーズ(7泊8日)』の特別運行で、はるばる韓国の済州島から戻ってきたところです。これから、徳島港に入港して、乗客の皆さんを下ろして阿波踊りを鑑賞する予定になっています(このブログは8月14日の出来事を書いています。随分昔ですみません…)。そして、横浜港へ引き返し、長~いクルーズの旅が終わるんです。甲板にはあまり人が出ていませんでした。この辺りの景色はとてもいいのに…、きっと長旅で疲れちゃったのかな~。さて、本来なら門司港をゆっくり観光したいところですが、昨年に訪問しているので、今年はパスしました。これから、下関へと引き返し、滝沢秀明さんに会いに行きます(笑)次回をお楽しみに。
October 8, 2007
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関門海峡って言えば、なんだかロマンチックで美味しいものがいっぱい……て言うイメージがありますね。レトロな雰囲気の門司港、フグの美味しい下関、そして美しい海峡には大小の船舶が次から次へと往来していて、多くの観光客を魅了しています。今ではすっかり観光スポットになってしまいましたが、1185年には歴史的な出来事が起きた場所でもあります。それは『壇ノ浦の戦い』です。この関門海峡で、平氏(平宗盛)と源氏(源義経)が争い、最終的に源氏が勝利を収めて平氏が事実上滅亡したと伝えられています。当初は平氏側が優勢で、源氏はその戦いに苦戦していました。でも、その勝負を決定付けたのは、海流です。関門海峡は潮の流れの変化が激しく、当初は平氏側から源氏側へ潮が流れていて、源氏は海流によりどんどん押されていました。ところが、潮の流れが逆になり、これが源氏に優勢を来たして、敗北を予期した平氏は次々と海に身を投じたと言われています。もし、この潮の流れに変化が出なければ、歴史は大きく変わっていたと考えられるところです。赤間神宮・水天門そのような激戦が勃発した関門海峡を見晴らす位置に『赤間神宮』があります。この神宮に祀られているのは安徳天皇です。彼は、壇ノ浦の戦いで平氏の敗北により、幼くして関門海峡へ入水自殺をし、激しい海流にもまれながら命を落としました。享年わずか8歳でした。母の建礼門院(平家物語のヒロイン役)も入水自殺を図りましたが、こちらは引き上げられて一命を取り留めました。その後、京都の大原に移り住み、尼となり、亡き息子の冥福を祈り続けました。さて、赤間神宮の歴史ですがちょっと変わっているんです。明治維新までは、「阿弥陀寺」というお寺だったのです!! 前述の幼くして亡くなった安徳天皇の遺体は旧阿弥陀寺に奉葬されました。ところが、明治維新に入ると廃仏毀釈により阿弥陀寺を廃して、安徳天皇が眠る御影堂を天皇社と改めて、今の赤間神宮となりました。本殿を抜け、さらに奥に行くと『耳なし芳一』の木像が安置されています。芳一は旧阿弥陀寺に住む琵琶法師でした。壇ノ浦の戦いで命を落とした平氏の亡霊が、毎晩芳一の琵琶を聴きにやってきました。そこで、平氏の亡霊から身を守るために、芳一の全身に般若心経(お経)を書いて、夜を迎えました。そして亡霊がいつもどおりやってきましたが、芳一の姿が見えません。いや、芳一の耳だけが見えるのです。実は芳一の耳に般若心経を書くのを忘れていたんです。その耳を見つけた亡霊は、芳一の耳を切り取って持ち帰ったと伝えられています。そして、神社の境内には耳のない芳一の木造が安置されているのです。 耳なし芳一 赤間神宮からは、壇ノ浦、今の関門海峡が見渡せます。そして向こう岸は九州の門司港です。これから歩いて九州の門司港へ渡ります。えっ?海の上を歩くの? まっ、次回をお楽しみに…赤間神宮住所:山口県下関市阿弥陀寺町4-1電話:0832-31-4138URL:http://www.tiki.ne.jp/~akama-jingu/
October 7, 2007
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