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古い話で恐縮です、昨年2020/2/20~21東京おのぼりさんツアーに行ったのですが。その中で大概の参拝ヶ所はここに書いてきたつもりだったけれど、浅草の浅草寺と浅草神社を掲載していなかったのに気が付く。1年前の画像ですが今更ながら纏める事にしました。この東京行きは、当時、得体の知れないcovid-19が確実に東京に広まり始めた頃だったのでとても悩んで行った事だけは覚えています。かみさんの熱い希望を踏まえ、個人で出来る対策をしたうえで向かったのですが、マスク着用や密に対して今ほど敏感ではなく、大陸からの入国制限はなかった時期だと記憶しています。滞在中は耳に入ってくる言語に妙にピリピリしていた事だけが印象に残っています。あの時このタイミングで掲載していいものか、だでさえ遅い掲載に尚更拍車がかかったのは間違いない。印象は1年も過ぎると忘れてしまいますが、今回は「浅草神社」と「被官稲荷神社」の記憶を呼び戻したい。浅草と云えば浅草寺だろう?とい云われるかもしれない、浅草寺は大きな本堂や五重塔などインパクトのある寺なんですが、おやじには「浅草神社」と「被官稲荷神社」が妙に温かみがあり印象に残っている。写真データから浅草神社へは二日目の昼頃に訪れ、浅草でもつ煮を食べ、ホッピーを飲むのが主目的だったような気がします。その経由地として浅草寺と浅草神社に参拝した。上は浅草寺の二天門、本堂の東側に建つ朱塗りの門で1649年(慶安2)に浅草寺の東門として建立されたもの。江戸時代初期の貴重な建築物で国の重要文化財に指定されている。2010年(平成22)に修復されたものが現在の姿。二天門額。建立当初は随身門といわれ、随神に豊岩間戸命、櫛岩間戸命を左右に祀っていたそうですが、1884年(明治17)、神仏分離に随身像はこれから向かう浅草神社に遷座された。その代わりに鎌倉の鶴岡八幡宮から広目天と持国天の像が奉納され、これを機に名称が随身門から二天門に改められたという。しかし鶴岡八幡宮からやってきた像は、1945年(昭和20)に修復先で戦災にあって焼失してしまったようです。二天門解説。現在の持国・増長の二天像は、1957年(昭和32)に上野寛永寺の厳有院から拝領されたもので江戸時代前期に作られたと云う。向かって左が増長天の右利きで南を守護する、右が左利きで東を守護する持国天だそうだ。二天門から浅草寺境内の眺め、右手に浅草寺本堂と左に五重塔が聳える。「浅草神社」と「被官稲荷神社」へは右手の石畳の参道の先になります。二天門をくぐってすぐ右側に浅草神社の石の神明鳥居と社標が建っています。この石の鳥居は1886年(明治18)に建立されたものです。浅草神社境内で最初に目に入るのがこの朱塗りの神楽殿かもしれない。浅草神社の境内伽藍はこの神楽殿と神輿庫、そして正面に拝殿と渡廊で繋がる幣殿、本殿の権現造り。1649年(慶安2)第三代将軍徳川家光により建立された社殿、幾度も火災や戦災、震災などに見舞われたが、被災を免れ現在も当時の姿を留めている。 おでこが発達し毛並みの良さそうそうなた狛犬です。確定申告? この狛犬の様にきっちり仕事をしていればこんな気はおこらないだろうが、昨今の出来事や対応、親方様のコメントを聞いていると年貢は納めたくなくなる。夫婦狛犬境内右の石碑群の中、二天門の脇に建っています。江戸時代初期に作られたものと云われますが、詳細はよく分からないようです。普段見かける狛犬は参道を挟み阿形と吽形の一対が向き合う様に建てられるものですが、この夫婦狛犬は見ての通り二体並んで建てられています。絶妙な傾斜により、いかにも寄り添っている様に見え、その表情もにこやかに微笑んでいて、とても微笑ましい狛犬です。その様子から「良縁」「夫婦和合」「恋愛成就」のご利益があるとされ、相合傘を模した御籤かけには多くの御籤が結ばれています。元来狛犬は外からの厄災を退け、守護する勇猛な役割なんでしょうが、ここではこうして二天門の脇で相合傘の下に建てられています。どちらも幸せそうにニシャッと笑みを浮かべている。参道左に手水舎と手水鉢、この頃は柄杓も置かれていた。浅草神社の三社様として親しまれ、三社祭で知られるところ。社伝ではその起こりを以下のように伝えています。626年(推古天皇36)、漁師の檜前浜成、檜前武成の兄弟が現在の隅田川で漁をしていたところ、網に同じ人形の像が繰り返し掛かったという。兄弟はこの地の物知りだった土師真中知に相談した所、これは「聖観音菩薩像」だと教えられ、それを知ってから二人は毎日観音像に祈念したと云う。その後、土師真中知は僧となり、自宅を寺にしたのが浅草寺の始まりだとされる。土師真中知の没後、真中知の子の夢に観音菩薩が現れ、そのお告げに従って真中知、浜成、武成を神として祀ったのが起源とされる」三社様と呼ばれる由縁。現在の社殿は1649年(慶安2)第三代将軍徳川家光により建立され、幾度も火災や戦災、震災などに見舞われるも都度被災を免れ当時の姿を今に留めている。 1868年に明治政府の神仏分離令にともない浅草寺と分離され三社明神社となり、1873年(明治6)に現在の浅草神社に改称した。拝殿前を守護する狛犬は胸板が厚く筋骨隆々とし、羨ましいプロポーションをしている。拝殿を斜めから眺める。入母屋瓦葺の平入に向拝が付けられた拝殿は朱で彩られ、各所に鮮やかな彩色の霊獣が描かれています。木鼻や蟇股などの彫飾りも手が掛けられ、東照宮を思わせる華麗な佇まいをしている。祭神は土師真中知命、檜前浜成命、檜前武成命。ご利益は家庭円満、交通安全、商売繁盛、無病息災、合格祈願などなんでも願いを叶えもらえるようです。この鮮やかな彩、1996年に天井画を含め漆や彩色の修復が行われた賜物で、麒麟や鳳凰、飛龍が色鮮やかに描かれています。拝殿内。薄暗い拝殿内で金色の御幣が鈍く輝き、右大臣、左大臣の随身が守護しています。拝殿から右に続く参道を進むと左に石の明神鳥居があり、境内奥の浅草神社の末社、「被官稲荷神社」へ続いています。被官稲荷神社の起こりは浅草神社の解説によると以下。1854年(安政元年)新門辰五郎の妻が重病で床に伏したとき、京都の伏見稲荷神社に祈願したところ、その効果あって病気は全快したと云う。そして、同二年、町の人が伏見稲荷神社から勧請し小社を創建し、被官稲荷神社と名付けたという。一つ上の写真の明神鳥居の左の柱には、辰五郎の名と安政2と刻まれています。被官稲荷神社解説。被官稲荷神社の狛狐達。肉付きが良く色黒で太い尾がピンと上がっている。狐が稲荷神社の使いとされる理由の一つに、御祭神の宇迦之御魂神の別名、御饌津神(みけつかみ)のその文字に、狐(ケツネ=キツネの古語)を使い、三狐神(みけつかみ)と記したためとか、秋の収穫の際、黄金に実った稲穂を稲荷神社にお供えすると、垂れ下がった稲穂が狐のしっぽに見えるなど諸説あるようです。この本殿は1855年(安政2)に創建されたもので、杉皮葺の流造で創建以来のものだと云う。覆屋を構えて保護しています。正面は切妻瓦葺の平入で奥に本殿を収める妻入りの覆屋が一体となったもので、建立時期は大正時代ではないかと云われています。この社殿も震災や戦災にあいながらも被災を免れたものだと云う。祭神の宇迦之御魂神は食料や稲の成育をつかさどる神様で、稲が成育することを意味していると言われ、農業や衣食住、諸産業の神様として崇敬されています。被官稲荷神社の側面からの眺め、大きなビルか背景に入ってくるのも東京ならではかもしれない。人は少ないとはいえ浅草寺の表参道に比べると、訪れる参拝客は意外にすくないこともあり、警戒心から解放されるリラックス出来る空間かも知れない。あの夫婦狛犬のような自然な笑みが出てくる場所です。2020/2/21「浅草神社」創建 / 626年(推古天皇36)祭神 / 土師真中知命、檜前浜成命、檜前武成命「被官稲荷神社」創建 / 1855年(安政2)祭神 / 宇迦之御魂神住所 / 東京都台東区浅草2-3-1公共交通機関アクセス / 東京メトロ銀座線浅草駅から徒歩7分関連記事 / 東京に行って来た
2021.02.27
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小牧市南外山『南外山八幡社』以前掲載した外山神社から東に歩いても5分程の場所に鎮座する。ここは南外山城址の一画に鎮座し、境内西側には稲荷社もある。上南外山八幡社には二つの鳥居があります。一ノ鳥居は南外山公園の北側にあり、社号標が右側にあります。下参道の途中に公道が横切っていて、そこに辿り着くと赤い両部鳥居が参道だと勘違いするかもしれない。一ノ鳥居から眺める参道は郊外の神社らしく、真っすぐな長い参道が杜に続いていきます。両部鳥居はこの辺りでは意外に見かけないかもしれない。参道は二ノ鳥居から更に続き、その先に蕃塀と社殿が見えてきます。「南外山城址」ニノ鳥居から蕃塀に続く参道右に南外山城址の解説板と石標があります。「南外山城は、堀尾孫助の居城で、この八幡社を含む範囲にあったが、正中年間(1324~1325)にはすでに廃城となっていた城と伝わる。その規模、構造などについては伝わっておらず不明であったが、近年、この周辺で行われた区画整理事業に伴う発掘調査により、徐々に明らかになってきている。調査では、城の北辺、南辺、西辺にあたる堀が部分的ではあるが確認されている。堀は幅4㍍程で、その内側では敷地を区画する溝、掘立柱建物を構成していたとみられる多くの柱穴、井戸などが見つかっている。また、山茶碗、すり鉢、壷などの陶器、素焼きの皿や鍋、漆椀、木製の下駄など城があった当時に使われていた生活品が出土している。」現在、境内で城の痕跡を期待してもそれらしい遺構は見当たらない、強いて言うなら境内東側の土手が土塁の遺構にあたるのかも知れない。木造のシックな蕃塀と拝殿の眺め。蕃塀左に手水舎があります。鉢の後方には安政5年(1858)と刻まれています。『南外山八幡社』の創建を自分では調べきれませんでしたが、小牧市の当社の解説によれば、1318年(文保2)と伝えられるとあった。日蓮宗の僧侶日澄がすぐ東隣の妙楽寺建立の際、寺の鎮守として社を勧請したのが始まりだという。伽藍は入母屋瓦葺で妻入りの四方吹き抜け拝殿から渡廊が入母屋瓦葺の平入の本殿に繋がっている。拝殿前の狛犬。奉納年度は見忘れたので定かではないけれど、色褪せた石に刻まれたいかつい表情は風格を感じる。拝殿妻側の龍の透かし彫り、それ以外に懸魚の鰭に彫られた雲飾り等に作り手の細やかな拘りが現れている。賽銭箱には神紋の丸に橘が描かれている。上拝殿内に掲げられるシンプルな扁額。下拝殿から本殿方向を眺める。廊下が真っすぐに本殿に繋がっている。1318年建立と伝わるようなので、現在の社殿の再建など分からないものか、目に付く範囲で棟札を探して見るも見当たらない。渡廊と本殿。格子扉の先に複数の社があるが、祭神まではとても分からない。どこかに由緒書きがあり、それを見落としているかもしれない。中央の大きな社に誉田別命(応神天皇)が祀られていると思われます。「稲荷社」本殿西の境内に赤い幟と鳥居が目に止まる。ここが正面だと思っていると、少し左に奉納鳥居と幟が連なっている。こちらはひょっとすると脇参道かも知れない。正参道と思われる側に回り込む。趣きからこちらが正参道の様な気がする、正面に社が見えないのは少し引っかかる。「お前さっきもきたやろ、お参りするの?しないの?」小さな狐がこちらを窺っているのに気付く。参拝させてもらうかね。ところで君達はいつから此処にいるのか教えてくれない?無駄な問いかけだわなぁ。ここも詳細は分からない。小さな狐には相手にされず、分からない事ばかりですが南外山八幡社を後にしよう。蕃塀から一ノ鳥居方向を眺める。駐車場は両部鳥居の右に用意されています、車でも駐車場の心配はしなくてもいいでしょう。南外山八幡社創建 / 1318年(文保2)祭神 / 誉田別命(応神天皇)稲荷大明神創建・祭神 / 不明南外山城址築城・廃城 / 不明住所 / 小牧市南外山404関連記事 / 外山神社
2021.02.26
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先日熊野三山巡りに出かけてきましたが、晩御飯の食材と酒のつまみを買い出しに地元のスーパー「エーコープなち」に立ち寄りました。地方に行くと地元のスーパーで地のものを探しに行くのが定番になっているけれど、熊野は魚好きの自分にとっては天国の様なところ。鮪等の魚介類は価格も安く、鮮度もいい。食文化の違いもありクジラやイルカなど普通に切り身で売られている。そんななか、目に止まったのが「うつぼ揚煮」、これは食べたらいかんやろ、手にしたものの買うのを躊躇した。とはいえ、中を見ると佃煮のような状態の「うつぼ」は妙にそそられるものがあり。大と小のパッケージがあったけれど、お試しで小を買ってみた。「うつぼ」は海のギャングとも呼ばれ、夜釣りなんかしていると外道として連れてきたりする。強烈な牙と大嫌いな蛇を思わせるあの容姿はとても食べようとは思わない。ここ和歌山や三重県では「小明石煮」とも云われ珍味として珍重されている。「うつぼ」の切り身をカリカリに揚げ、甘辛いタレにまぶしたもの。過去に釣り宿で黙って出されているかもしれないが、この歳まで食べた事はなかった。今晩の酒のつまみで「うつぼ揚煮」を食べて見た。これが臭みもなく、カリカリに揚げられた切り身を、甘辛たれにくぐらせた「うつぼ揚煮」は絶品だった。かみさんも抵抗なく食べられる。カルシウムやたんぱく質も豊富らしく、地元では御婦人や子供も好んで食べていると云う。確かに骨粗しょう症が気になる方や育ちざかりの子供にはいいかもしれない。酒飲みには酒が進む一品だ、これまで食わず嫌いだったようだ。粉砕にしてふりかけも有りかも知れない。「うつぼ」美味しいです、たいしたもんだ。小なんて言わず大を買っておけば良かった。たまに食べたくなる味わいだ。という事で取り寄せできないか調べて見た。南紀珍味 うつぼ揚煮 45g×2袋 (合計 90g)【全国送料無料】【珍味/おつまみ/和歌山】海のギャング ウツボ揚げ煮 桝悦商店 」。また恋しくなったら次は取り寄せだ。今夜の酒は美味しいわい。
2021.02.25
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ずつと見送っていた熊野三山巡り、車中泊で2/21~22の二日間で回ってきました。天候と気温を見ながらこの日に予定、コロナの状況を見ながらの熊野詣。昔は道路事情も悪く一晩かかりで出かけたものです。高速も伸び、国道は整備され道路事情は格段に良くなり、印象としては日帰りでも行けない事はない。コロナで悉く遠出が出来なくなり、おやじの車で遠出は久し振り、車検後初めてかも?名古屋発6時でひたすら高速を使ってのドライブ、車もご機嫌はいいようだ。途中、朝食休憩を取りつつ法定速度+10㌔でのんびり走る。それでも9:30には三重県熊野市紀和町の「道の駅 熊野・板屋九郎兵衛の里 」に到着小休止。道の駅からは「紀州鉱山選鉱所」の建物の骨格が良く見える。昭和中期から後期にかけて、ここで採掘した銅などの鉱石を選別する施設が24時間操業で稼働していたそうで一時は東洋一の選鉱量を誇ったそうです。それも衰退し現在は建物を支えていたコンクリートの骨格がこうして残るのみ、古代の遺跡か水路のようでもある。紀和鉱山資料館もあり面白そうなところ。道の駅 熊野・板屋九郎兵衛の里 住所 / 三重県熊野市紀和町休憩を終え30分程で全国に多々ある熊野大社の総本宮熊野本宮大社に到着。写真は大斎原。 杉並木に囲まれた神域は神武天皇とヤタガラスの出会いの地です。この場所は熊野川と支流の音無川・岩田川が交わる洲にあたり、1889年(明治22)の夏に熊野川の大洪水で上、中、下社の各4社の内、上四社を除き被災。大きな禍の後、人は学ぶものです、これを機に1891年(明治24)、ここから約700㍍上流の高台の地に遷座した。大斎原には中4社、下4社と摂社の御神霊が二つの石の祠に祀られています。左の堤防の先は熊野川だ、川は時に荒れ狂い、人や物を奪い去るけれど、反面土壌を更新し肥沃なものになる。こうして人と自然が身近に接する風景に被災時の面影はないけれど、力任せでコンクリートの護岸堤防や3面コンクリートにして自然に対抗しても自然の力は計り知れない。神社が遷座した様に、引く所は引き、上手く共生するのが本来の姿なのかも知れない。復興の象徴として建てられた巨大な約34㍍のコンクリートの大鳥居、大きさでは日本一の鳥居だと云う。確かに大きい、けれどこの光景に果たして必要だったのか疑問が残る。熊野本宮大社住所 / 和歌山県田辺市本宮町本宮お昼は熊野本宮大社の前を走る国道168号線沿いの「三軒茶屋」でかみさんはめはり寿司、おやじは「秋刀魚寿司」。以前熊野のホテルバイキングで出た秋刀魚寿司は大外しだった。今回は美味しく頂けた、やはり秋刀魚寿司は美味しいものだ。リベンジを果たしたところで次の目的地まで小一時間のドライブ。熊野新宮 熊野速玉大社熊野本宮大社、熊野那智大社とともに熊野三山をなす大社でこの北側には熊野川が流れている。神倉神社のゴトビキ岩に降臨した熊野権現を勧進するため、景行天皇の時代に社殿を造営したのが始まりという。創建は伝承では景行天皇58年、主祭神は熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)と熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)の夫婦神を祀る。朱塗りの神門から境内に入ると、朱塗りの瑞垣に囲まれた本殿域には朱塗りの社殿が横に5棟並んで鎮座しています。左から第一殿、第二殿、摂社の奥御前三神殿、第三殿、第四殿、神倉宮の三社相殿。第五殿から第十二殿までの八社相殿と5棟が並んでいます。向かって左の礼殿礼殿の前には第一本社と第二本社が建つています。第一本社は「結宮」と呼ばれ、熊野結大神(くまのむすびのおおかみ)を祀り、第二本社は「速玉宮」と呼ぶ、熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)が祀られています。社殿は昭和に入り再建された事もあり、年月を感じるものではないかもしれないけれど、檜皮葺で朱塗りの社殿が並ぶさまは見応えがある。熊野新宮 熊野速玉大社住所 / 和歌山県新宮市新宮1熊野新宮熊野速玉大社から熊野三山始まりの地、「神蔵神社」は新宮から車で10分もあれば駐車場に辿り着け、とってもお手軽に始まりの地に行ける。狭い道で駐車場の間口も狭く、駐車場自体も狭い印象、大きなSUVや四駆ではとっても厄介な場所。しかしそれさえ我慢すれば、熊野三山に祀られる熊野権現が初めて地上に降臨した伝承をもつ古社「神蔵神社」はとっても近く、たった120㍍程の神蔵山の中腹に鎮座する社までは、熊野古道の一部で500段ほどの石段を上るだけだ・・・・・嘘ばっかりです。ここからはマジで書きます。・ヒールなんて絶対に無理です。・最低でも滑り止め加工されたソールの靴がいいでしょう。・できれば飲み物があるといいでしょう。・入口に杖があります、その心遣いには甘えて下さい。手摺はありません。・調子こいて直登すると膝に来ること間違いなし、ゆっくりと途中休憩を入れ登ってください。・人の目は気にすることなく手も使いましょう。・登ったら最後、エスカレーターはないので必ず自分で降りるしかありません。・山と一緒です、登りの方に道を譲りましょう。鳥居から御神体のゴトビキ岩まで、2回程休憩を取り30分程かかりました。天ノ磐盾(あまのいわたて)という険しい崖の上にあり、絶妙のバランスで安定したゴトビキ岩、ここに熊野権現が降臨したとされ、その下に石垣が積まれ社が鎮座します。この不思議な空間と空気感は、自然の奇跡では語れない特別なものを感じる。そこから眺める市街地と熊野灘の眺めはここまでの道のりを忘れさせてくれるでしょう。始まりの地へは近いようで過酷な急登の石段が続く道のりです、自分の足で駐車場に戻りましょう。神蔵神社(熊野元宮)住所 / 和歌山県新宮市神倉1-13-8補陀洛(ふだらく)山寺本来は明日予定していた寺だ、意外に移動に費やす時間が少なくて寄っていく事にした。この寺は補陀落渡海の住僧を出した寺として知られる。こんな小さな小舟で遥か南方海上にあるとされた補陀落浄土を目指す。それは自らの死を覚悟して漕ぎ出す究極の修行のことで、9世紀から18世紀までの間に20数回も帰らぬ旅へと船出を試みたとされる。この境内左に「那智山宮曼荼羅」に描かれた「渡海船」を基に復元モデルが展示されています。全長は6㍍程の入母屋造の帆船で、四方に発心門、修行門、菩提門、涅槃門の殯の鳥居がある。凡人からみるとこれはもはや修行ではない。補陀洛山寺住所 / 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町大字浜の宮348今日一日予報通りの温かい一日だった、結構汗もかき地元の天然温泉「きよもん湯」でひとっ風呂。約1,500年の歴史を持つ紀州の名湯。地元から親しまれる源泉流しっぱなしの湯。その昔は熊野詣での旅人の疲れを癒した温泉、今は仕事終わりの地元の方が一日の疲れを癒しに訪れる。露天風呂がある訳でもなく、大浴場があるだけのシンプルな施設だけれど、入浴料500円を買い求め施設に入ると直ぐに硫黄のにおいが漂い期待が高まる。泉質は無色透明、最初は硫黄臭が感じられたが徐々に慣れてくる、その湯は肌に優しく纏わりついてきてすべすべ感が半端じゃない。それは源泉を使用したシャワーも同じで乾ききった肌はすべすべになる。湯上り後も体の芯がホカホカ温かく気持ちのいい温泉だ。かみさんの50肩も随分改善されたけれど、身近にこの湯があれば強張った筋肉の蘇りは早いだろう。天然流しっぱなしの湯「きよもん湯」いい湯頂きました。きよもん湯住所 / 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町湯川さて時間も17:30を過ぎて来た、地元のスーパーで新鮮な生マグロの握りやらなんやら買い込んで、本州最南端の酒蔵「尾崎酒造」の「太平洋」を何本か買い求め、今夜は「道の駅たいじ」で宿泊体制を整える、布団にポータブル電源、電気式毛布に湯沸かし器、そしてシュラフこれで完璧だ。後は宴会場を作り利き酒会スタート、地元では考えられない値段で新鮮なネタの握りが食べられる幸せな場所だ、くじらもイルカもウツボだって店頭に並んでいる。そして初めて口にする「太平洋 生貯蔵酒」はすっきりとして喉越しで寿司にあう、もう一本の「山廃仕込特別純米酒」こちらは少し濃厚な風味で香りも主張している。こちらは肉系の摘みにあいそうだ。何を飲んでも基本美味しいのだが、買って帰ろうと思う酒はそんなにない。 今回は一本買っていこう。酒蔵の近くまで行ったけれど日曜日はお休みという事で行くのは諦めた。この辺りはTVの受信状況がよろしくないかも知れない、きっと「TVなんか見とらんと星空でも見てろ」ということかな、普段見えない様な星空が広がり、こんなに視力が良かったかと疑うくらいに空は星で溢れている。爆睡。道の駅もトイレがとにかく綺麗、かみさんの評価は上々。朝も7:30にはモーニングも食べれる、また釣り好きな方もここはいいかもしれない。明け方にはキビレが群れを成して悠々と回遊していた、欲がない時は意外な光景に巡り合うものだ。海辺近くの宿泊時はワームかルアーは持っていたい。さて朝飯も済ませ宴会場を片付け出発準備を整える、まだ神蔵山の石段の後遺症が残っている。かみさん曰く「今日は昨日より歩くから」とのこと。昨日より歩く・・・・・本日の目的地「熊野那智大社」に向かう、しかも大門駐車場から徒歩で熊野古道の雰囲気を味わうそうだ。石の鳥居と小橋「振ヶ瀬橋」を渡るとそこからは那智の聖域だ。熊野那智大社へはこうした杉の巨木に包まれた石段を上っていく、とても石段を数える気にはならない。唯一、町石の数が増えていくのを心待ちにするくらいか。途中幾つか見所もあり退屈はしない、水とトレッキングポールがあるといいだろう、車にはあるのだが持ってくるのを忘れた、先を眺めてはいけない、辛くなるだけだ。ひたすら足元の石段をクリアしていけば必ず辿り着く、バスで行けば10分もかからない距離だ。ただ、「マムシ注意」の看板はいただけない、陽気もいいし、いない訳がない。長いものは嫌いだ。大門駐車場から休憩を交えて1時間、「熊野那智大社」鳥居が見えてきた。古道を歩いている時は出逢う人は少なかったが、ここまで来ると車やバスで訪れる参拝客は多くなる。過去に訪れた事があるけれど、以前は大みくじがあったが見当たらない、子供と一緒に大楠の根をくぐった「胎内くぐり」もここまで狭かったかナ、随分と印象は変わっていた。朱塗りの拝殿や熊野造りの本殿は相変わらず鮮やかで優雅な佇まい。熊野那智大社住所 / 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山1西国第一番札所 那智山 青岸渡寺「補陀洛や岸打つ波は三熊野の那智のお山にひびく滝つ瀬」と御詠歌で知られる西国一番礼所。縁起によると開基は仁徳天皇の頃(4世紀)、印度天竺の僧、裸形上人が那智大滝で修行を積みその暁に瀧壷で八寸の観音菩薩を感得し、ここに草庵を営んで安置したのが最初とされる。 那智山に映える鮮やかな熊野那智大社に対し、山に溶け込むシックな趣は安らぎのようなものを感じる。如意輪観音を本尊とする住所 / 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山8番地参拝を終えて「茶房珍重庵」のもうで餅と抹茶のセットで一息いれる。当然ながら、かみさんのリクエスト、以前もどうしようか迷ったようだが息子達もいて諦めたようだ。今回漸く目的を果たせたようだ。古道を登ってきて疲れた体、この甘味を求めていたようだ、とても美味しく感じた。次は小さく見えている那智の滝まで再び歩くか。看板は要らない、奴は事前に旗降ってここにいるとは教えてくれない。いつも黙って突然現れる。長いものは嫌いだ。熊野那智大社別宮飛瀧神社珍重庵からここまでの下りの石段は割愛です、どこに行くにも登るか、下るか石段しかありません。大雲取連山は那智48滝と云われる様に多くの滝があります、その中で一番の落差を誇るのが「那智御瀧」。高さは133㍍で滝口の幅は13㍍、滝壺の深さは10㍍以上あるという。御瀧そのものが大己貴命が現れた御神体としてお祀りし、熊野の神様は元々ここでお祀りされてたという。神蔵神社もそうですが、自ら我慢して極めたからこそ、こうして見る光景に特別なものを感じる。熊野那智大社別宮飛瀧神社住所 / 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山1なんだかんだと大門の駐車場を9:00に出発し再び戻ってきたのが12:30、じっくり回ると1日がかりだね。因みに飛瀧神社からはバスで降りてきました。昼ご飯は怪しい店に行くらしい。国道42号線沿いに広い駐車場を持ち、そこにポツンと簡素な店舗と写真の手作り感満載の看板が目に付く。そういえば昨日も運転中にあの店構えと看板の前を通り過ぎた。とあるTV番組では手作り看板のある店は安くて美味しい法則なんだそうな。このヤマキも外観とは裏腹に天然クロマグロの海鮮丼が売りの店だ。毎朝市場で仕入れた新鮮なマグロを使用した丼を主として提供しいる。大トロも混じっているらしい中とろ丼1,600円を注文。秘伝のタレを「御飯が黒くなるまでタップリかけてくれ」、普段はかみさんから「醤油かけ過ぎ」とお叱りを受けているが、云われるままに御飯が黒くなるまでかけた、いくらなんでかけ過ぎやろ。一口食べてみる、意外に醤油辛くない風味のあるもの。生のクロマグロの丼がこの価格、安いと感じるかどうかはあなた次第。入店した時は待ちはなかったけれど、他府県から訪れる方も多く会計を済ませる頃には待ちが出来ていました。コロナ対策でテーブル席を減らしている事もあります。美味しかったか? 昨日の握りに比べると有難さはそれほどでもなかったような・・・・・マグロのヤマキ住所 / 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町天満1熊野予定も全てコンプリート。多少時間もあり、帰り道でもう一社参拝する事にした。国道311号線の海岸線沿いに鎮座する「花窟(はなのいわや)神社」。道の駅「熊野・花の窟」に隣接していて、駐車は道の駅で問題なし。伊弉冉尊、軻遇突智尊を祀る神社で創建は不明。伊弉冉尊は火の神軻遇突智の出産時にからだを焼かれて死に、「紀伊国の熊野の有馬村」に葬られた。以来近隣の住人たちは、季節の花を供えて伊弉冉尊を祭ったとされ、それが花窟神社が鎮座するこの地であるという。社名も「花を供えて祀った岩屋」からきているという。御神体は大きな巨岩でそこに開いた穴は伊弉冉尊の女陰とされる「陰石」、昨日見たゴトビキ岩は「陽石」とされ、それらで一対をなすものだそうだ。見あげるような巨岩の対面には軻遇突智の神霊を祀る岩もある。社殿を持たない神社で、それらの拝所では素足となり拝む。熊野、豊な自然と空には八咫烏が飛んでいそうな神秘に満ちた土地柄です。さあ後は無事に帰るたげだ、それにしても暑い、エアコン入れるか。・・・・・ン? 全然冷えないじゃん。機嫌が良かった15年選手もご機嫌斜めなようだ。構ってほしいのだろう、帰って点検してやろう。総走行距離580㌔、使用燃料75liter、2トンを超える四駆にしては上出来だ。このままおとなしく名古屋に連れて行って欲しいものだ。そういえばポータブル電源、100%で出かけて電気毛布、湯沸かし器、携帯バッテリーなど結構使って残量67%でした。ひょっとしてホームベーカリーもいけるかも。
2021.02.24
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覚王山日泰寺タイ王国から寄贈された釈迦の遺骨を安置するために1904年(明治37)に創建され、どの宗派にも属さない超宗派の寺。山号の「覚王」とは釈迦の別名を指す様で、寺号の「日泰」とは日本とタイ王国を表しています。 毎月21日の縁日は参道に多くの店が並び、昔は訪れる方の年齢層は高かったけれど、最近は若い世代をターゲットにした店も増え若い世代も訪れて賑わう。日泰寺参道、境内脇には覚王山日泰寺の八十八ヶ所霊場があり、当日は各札所には世話人の方がいてお茶やお菓子を振舞ってくれたりする。そうして世話をされている方の年齢も高齢化を辿り、後継者がなく朽ち果てた札所も目に付く。縁日に若者が訪れる様になったことを考えると覚王山日泰寺八十八ヶ所霊場も変化が必要なのかもしれない。写真は山門の右手の1番、2番札所の眺め。石仏の種類を見て覚えるにはいい場所かもしれないけれど、なかなか区別が付けれない所にもどかしさがある。覚王山日泰寺に鳥居があるのを御存知だろうか。写真は五重塔の東側の通りから北に方向の眺め、桜の頃には花見しながらの散歩にはいい道筋。今回の目的地「真清田弘法大師」はこの通りの先の日泰寺境内に鎮座しています。通りを進むとやがて右に道は曲がっていきますが、そこから日泰寺東参道の右をよく見ると東を向いて立つ鳥居が見えるはずです。鳥居の先には馬頭観音が向かい合う様に安置されています。ここの石仏は他の札所とは少し趣が違い、この一画だけ単独となっています。真清田弘法大師全景、社名と明神鳥居はしっくりこない。小さな境内の先に板宮造の社が2社、鳥居左に由緒書きが掲げられています。この2社には社名札は掲げられていない、どちらの社にどなたが祀られているのか分かりません。真清田弘法大師縁記「御神殿に奉安せるは昔弘法大師巡錫の砌り尾張一の宮真清田神社に崇納し奉る念持石にして真清田神社の御神体なり。明治維新廃仏毀釈の際、神社より分離し爾来竊に護持し其の縁由により真清田弘法と称すれども、本地には難陀跋難陀の二大竜王也経に曰く、此の二大竜王は首上に七頭竜あり通力自在にして我を念ずる者は願いに応じて衆生を利益し給う其の誓願に曰く。一には命欲を離れて我を祈念する者は福を受くること佛に等し二には瞋恚を離れて我を念ずる者は寿を迎えて保つこと佛の如く成らむ三には愚癡を離れて我を祈念する者は楽を受くること佛の願に等し」雨を掌る龍を祀るようです、恐らく大きい方の社に祀られているものと思います。話は昔弘法大師が真清田神社(一宮市)を訪れた時から始まるようです。干ばつに見舞われていた当地、困窮した人々を救うため、弘法大師は雨乞いするも効果がなかったという。そこへ一頭の龍が現れ、雨を降らせるためには、自分か他の龍の命が必要になると弘法大師に伝えたそうです。 弘法大師はその龍に人々のためにその命を差し出してほしいと懇願し、引き換えに真清田神社にあなたを祀ると約束をしたところ、龍は承諾した。やがて激しい雨が降りだし、黒雲の中からバラバラになった龍の体が落ちてきたそうです。弘法大師はバラバラの死骸を纏めて、約束通りその龍を神として真清田神社に祀り、一時は境内の神池に鎮座する厳島神社に祀られてていたようです。それが龍神石だという。そのことは真清田神社境内社「八龍神社」の解説に「もと厳島社内に奉祀されていたが、明治初年神仏分離の際御神体の龍神石が名古屋の日泰寺に流出、近年当社に還り改めて奉祀した」とあります。1869年(明治2)廃仏毀釈により真清田神社から龍神石は流出し、その後さまざまな経緯を経て人の手を点々としたという。点々としたのも訳があったようで、それを所有すると禍が起ったと云う。廃仏毀釈以降から1930年(昭和5)に日泰寺に「真清田弘法大師」と名を変え祀られるまでの所在はっきりしないようです。真清田弘法大師縁記には真清田神社に崇納された御神体の龍神石(念持石)が奉安、その本来の姿は二大竜王であるとも書かれている。しかしそれを真清田神社に戻したことまでは記されていません。この二社の内のどちらかに御神体が奉安されていて、真清田神社境内社「八龍神社」に返還されたとなると、一つの社から御神体はない事になってしまう。そしてもう一つの社はなんだろう。日泰寺の創建は1904年(明治37)、覚王山日泰寺の八十八ヶ所霊場の起こりが1909年(明治42)に数人の発起人から始まったと云われています。八十八ヶ所霊場がそうである様に一部の信者により真清田弘法大師が維持管理されているのかもしれない。それとて毎月21日の縁日や、それ以外でも扉が開けられているのを見たことがない、扉が開けられるのはいつなのか知りたいところ。日泰寺のHPで真清田弘法大師について紹介はされていない。分からない事の多い「真清田弘法大師」、龍神は今もいるのだろうか。2021/2/20覚王山 真清田弘法大師創建 / 不明祭神 / 不明住所 / 名古屋市千種区法王町1-1関連記事 / 雪の日泰寺
2021.02.22
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「幡頭神社」西尾市の南端、三河湾に突出するように岬がある、以前掲載した蛭子社が鎮座する蛭子岬です。幡頭神社は蛭子社から海岸沿いに2~3分も歩けば参道口に至ります。車は恵比寿海水浴場の駐車場に駐車すると近隣の迷惑にならないかと思います。目印になるのは右手の郵便局「吉良宮崎郵便局」と後方の大きな松。参道口はその左にあり、そこから正面に見える小高い山の頂に参道が伸びています。右手には幡頭神社の石標も立っています。参道は途中から石段に変り、その先に一ノ鳥居が見えてきます。一ノ鳥居までくれば坂はこれで終わり、右手に「式内幡頭神社」の大きな社号標があり、そこからニノ鳥居まで石畳が真っすぐに続きます。社号標の影に隠れる様に古い「延喜式官社 羽豆神社」の社号標。「幡豆」「幡頭」「羽豆」・・・・・やっかいだ。変換がうまくいかない。ここまで登り南に視線を向ければ手前に吉良宮崎港と三河湾、その先に西浦方向を一望できる。スカーンと晴れれば対岸もクッキリと見えるのだろう、生憎当日はこんな感じで霞んでいました。鳥居から先の境内です。参道は二手に分かれ、左に稲荷社、右にニノ鳥居。大きな注連縄が吊るされたニノ鳥居をくぐれば境内。正面に入母屋瓦葺の拝殿、右手は社務所。ニノ鳥居「正一位幡頭神社」扁額。境内左に神馬舎と手水舎、その奥は稲荷社。幡頭神社拝殿。左右に由緒碑や解説板が置かれ、石灯籠から先の拝殿、本殿は玉垣に囲われ、拝殿前に狛犬の姿もあります。上幡頭神社社伝抜粋下幡頭神社本殿、神明社本殿、熊野社本殿解説。どれも重要文化財に指定され、ここではそれらを遮るものなく間近で見ることができる。拝殿前を守護する狛犬。一部に薄化粧され、阿形の歯並びの良さは羨ましい限りだ。拝殿を斜めから眺める。素木で彩色や彫飾り、飾り金具を排した素朴で落ち着いた外観。右手の社務所から廻廊で結ばれている。拝殿に掲げられた額は「幡豆神社」祭神は建稲種命、合祀は大物主命・誉田別尊を祀る。由緒は古く、702年(大宝2)の創建と伝えられる式内社。祭神の建稲種命は東征の勅使を受けた日本武尊の旛頭の役を勤めたが、東征の帰路駿河湾で遭難、蛭子岬に遺体となって宮崎海岸に漂着したという、遺体は村人によりこの地に葬られたという。それが神社の始まりとされるようです。以来この地は幡頭といい、幡豆と書くようになったそうです。足利尊氏、今川義元が参拝したとも伝わる。参拝を済ませ、拝殿左側に回り込むとそこに檜皮葺の本殿が並んでいます。写真の左が熊野社本殿。入母屋檜皮葺の妻入で正面に向拝、両側面に脇障子が付けられた春日造りに似た造り、八咫烏の姿は見かけなかった。建立時期は定かではないようですが、幡頭神社本殿と懸魚などのデザインが似ている事から同時期と云われているようです。祭神 / 伊邪那美神、速玉之男神、事解之男神熊野社本殿の右が幡頭神社本殿で右に見えているのは神明社本殿。幡頭神社本殿は1580年(天正8)に再建されたものとされ、桃山時代の優れた建築として国の重要文化財に指定されている。屋根は大きく反り返った曲線が美しい桧皮葺きで、丸柱とそれを結ぶ長押、虹梁などは太くて力強さがあり、直線的な虹梁の絵様が小さく、蟇股の内部の彫飾りも素朴な作り、シックな佇まいをしている。正面から側面に擬宝珠高欄(ぎぼしこうらん)が施された廻縁があり、両側面に脇障子が施されている。祭神 / 建稲種命合祀 / 大物主命・誉田別尊普段は本殿の蟇股の彫や虹梁などなかなか近くで見られないものですが、ここは間近に見ることができる。幡頭神社本殿右にある神明社本殿。こちらへは熊野社の裏からか、社務所側から回り込むことが出来ます。拝殿右手の社務所、ここから左に進むと本殿右の神域に続きます。幡頭神社本殿と両脇の三社が横一列に佇む姿は落ち着いて調和がとれた美しい趣がある。この他に境内社として二社が祀られています。一番右手に銅葺屋根の「山住社」大山積命を祀っているのか?詳細は分かりませんでした。「神明社本殿」檜皮葺の流造で各部の装飾は幡頭神社本殿と通じるものがあり、こちらも建立時期は同じ時期とみられる。祭神 / 天照大御神神明社本殿の左奥に「伊勢神宮」拝殿左の銅葺屋根の社は龍神社、瓦葺の建物内には複数の社と祭礼で使われる神輿が保管されています。上内部正面右から秋葉神社、津島神社、金刀比羅宮、石清水八幡宮の四社が祀られています。下大きさは子供神輿だろうか、飾り金具は手が掛けられている。境内の稲荷神社、入母屋瓦葺の堂までは多くの奉納幟と鳥居が連なる。奉納鳥居が続く朱色の空間を進みこちらにも参拝。太からず細からず、適度な容姿の狛狐が堂を守護しています。こうして纏めている時に気が付いた、正面の写真を撮り忘れていたようだ。これで境内はひと回りした・・・・・はず。檜皮葺のシックな本殿を間近で見ることも出来、十分に満足できた。上は社務所から南の眺め、建稲種命の終焉の地となった宮崎海岸と三河湾が一望できる、鳥居の先は進発の地となった知多半島、目と鼻の先です。2021/1/15幡頭神社創建 / 702年(大宝2)祭神 / 建稲種命合祀 / 大物主命、誉田別尊熊野社創建 / 不明祭神 / 伊邪那美神、速玉之男神、事解之男神神明社創建 / 不明祭神 / 天照大御神境内社 / 山住社、伊勢神宮、龍神社、秋葉神社、津島神社、金刀比羅宮、石清水八幡、稲荷神社住所 / 西尾市吉良町宮崎宮前60-1名古屋から車でのアクセス / 国道23号線⇒西尾東IC県道383号線⇒高河原交差点左折県道310号線⇒善明交差点右折国道42号線⇒新木田交差点左折県道317号線⇒鳥羽橋交差点左折国道247号線⇒鳥羽交差点右折県道316号線⇒吉良観光ホテル手前を左折⇒恵比寿海水浴場方向、 所要時間1時間45分 関連記事 / 蛭子社
2021.02.20
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先日の地震、今も余震が続いているけれど、今回の事とその後の和歌山の地震でずっと考えていたバッテリーの購入に踏み切った。目的は明日は我が身と考えた時、最低2日くらいは何とか自助で対応できるようにはておきたい。実際2日では不足だろうが言い出せばキリがない。そこで一番重要になるのは水、幸いそれに関して心配はしていない、いざとなればエコキュートのタンクから2日分くらいの容量は確保できている。となると、こんな時期では暖も欲しい、明りが欲しい、携帯の充電は必須だ。とはいえ非常用として買うにはハードルが高い、オートキャンプ(車中泊)の用途を加味すれば少しは敷居も下がる。結構寒い時期でも車中泊はするので無駄にはなるまい。webで買ったのが以下の「Jackeryポータブル電源700wh/500w」、79,800円。価格は定期セールを利用すると63,840円で手に入る事ができました。Jackery ポータブル電源 700 大容量192000mAh/700Wh 家庭用蓄電池 PSE認証済 純正弦波 AC(500W)/DC/USB出力 四つの充電方法 液晶大画面表示 車中泊 キャンプ アウトドア 防災グッズ 24ヶ月保証 冒険に限りないパワーをこの下のグレードに240W仕様もあり、更に金額は下がるけれど当然利用できる時間も短くなる。Jackery ポータブル電源 240 大容量67200mAh/240Wh 家庭・アウトドア両用蓄電池 小型軽量 PSE認証済 純正弦波 三つの充電方法 AC(200W 瞬間最大400W)/DC/USB出力 車中泊 キャンプ アウトドア 防災グッズ 停電時用 24ヶ月保証容量が少ないよりはこのくらいは必要と見込み700whにしてみました。心待ちにしていたポータブル電源が手元に届いたので掲載します。バッテリーはこのように結構立派な箱に納められ納品されました。この箱自体をキャリングケースにしてもいいくらい。メーカー仕様を抜粋し纏めて見ました。55Wの電気毛布が9.5時間、50W照明で11時間は使えるとのうたい文句ですが、こうしたメーカースペックより10%は低く見ておいた方がいいのかもしれない。この機種が気に入ったのは4種の充電が可能なところ。コンセントからの充電、車のアクセサリーソケットから充電、ソーラーパネル(別売り)から、ジェネレーターからの充電と多様な充電が可能なところ。車で移動しながら充電ができるところがありがたい。開梱した製品のメインパネル。納品時には86%の充電状態、早速ACアダプターから充電をしてみる。側面の放熱パネル、それ程ファンの音や熱は気にならない。ACコンセント(家庭用器具)が2個とUSBポートが3個、DC(車のアクセサリーソケット)が出力として装備されていて、特に家庭用コンセントが2つあると助かりそう、電気毛布に電気ケトルとか一時的に使いたいときに重宝しそうです。操作は其々のボタンを押せば給電される、仕様では純正弦波とあるのでPCの使用には問題ないと思われるけれど、満充電で一度試してみます。マイコンの入っていない単純な機器であれば定格容量さえ超えていなければ心配はないでしょう。大きさは縦193×横300奥行192㎜と意外にコンパクトなので車のセカンドシートの下に納まりそうです。重さもかみさんが両手で持てるほどの6.3kgと米に比べれば軽いものです。取り敢えず、満充電後に色々と使用する器具を変えて使用可能時間など調べて結果を追記していきます。ひとまず今まさに停電したとしても我が家には明りが灯る。これが何よりありがたいかもしれない。天災が来ない事を願うけれど、願ってばかりでは始まらない、今やれることはやっておこう。仕舞い込んだキャンプ用品も今一度点検しておこう、備えあれば憂いなしだ。
2021.02.18
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以前掲載した『元城 東照宮』その鳥居前から通りを右に眺めると、少し下った交差点角の石垣に小さなお堂と左脇に『日限地蔵尊』の石標が見えます。東照宮の参拝を終えこのお堂を訪ねてみました。東照宮から道路を隔てた東側に位置する『日限地蔵尊』。丘陵地に積まれた高い石垣、その一部を新たに四畳半程の敷地とするため整地されたようです。交差点の角地に建てられた地蔵堂は、行き交う人を見守るには絶好かも知れない。西側に手水鉢が置かれているけれど、道路からだと正面に手摺はあるが石垣と石標もあり難儀かもしれない。お堂の中を通り利用する意図かもしれない。堂内は無人で扉の施錠はかけられていないようで、こうした場合扉を開け拝みたい反面、逆に躊躇するものです。ガラス張りの堂は道路から中の様子も良く見えるので堂前から拝ませてもらいました。堂内は日限地蔵尊の提灯が吊るされ、正面の切妻で妻入りの小さな堂内にお地蔵さんが祀られています。ガラスの反射でよく分からないけれど、左脇にも3~4体の地蔵様が祀られているようです。日限地蔵尊は、もとは江戸時代1818~1830年の文政年間、浜松宿の呉服屋だった小野江家建替えの際に出土した二体の石像を祀ったものだと伝わり、明治初年に現在の場所の高みに移されたと云う。その後、太平洋戦争でこの地は戦禍に見舞われ、西隣の元城東照宮は戦禍で焼失、唯一鳥居だけは被災を免れたそうですが、日限地蔵尊も鳥居同様に被害を免れ無傷だったそうです。何かを持っている。そうした事から日限(ひかぎり)地蔵尊は日を限って願掛け参りをすれば願いが叶うとして崇敬されていったようです。戦後、高みから現在の通りの角に移され、願掛けに訪れやすく、更に身近な存在になったようです。綺麗に手入れされた堂内を見れば、地元の方からどれだけ慕われているか良く伝わってきます。ピンポイントで日を限って願掛すると叶えてくれるという日限地蔵尊、時期的には受験だろうか。何かを前に努力しても尚不安な気持ちを抱える方、こちらでお参りし精神的に落ち着きを得ることで、自分に眠る秘めた力を導き出してくれるかもしれない。2020/12/24『日限(ひかぎり)地蔵尊』創建 / 不明本尊 / 地蔵菩薩住所 / 静岡県浜松市中区元城町119関連記事 / 『元城 東照宮』
2021.02.17
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瀬戸市上之山町当時青少年公園だったものが2005年の愛・地球博開催に伴い、この辺りも大きく変貌した。名古屋と足助方向を結ぶ猿投グリーンロード、その八草ICから南北に続く国道155号線を瀬戸方向に進むと上之山方向に至ります。国道の右手(東)は新たに区画整理されたお洒落な住宅地、左手(西)は里山に住宅が点在する昔ながらの原風景と随分と差がある。東方向の山は万博会場ともなった海上の森、更に東は猿投山へと続いていきます。冨士浅間神社は国道の上之山町信号を過ぎで1~2分程先を左に入った標高約150㍍程の山の頂に鎮座します。国道から左に入ってからは細い上り坂を上へ〃と登っていきます。細い上り坂は、やがて今は使われていないと思われるプレハブの事務所や社宅のある場所に辿り着く。そこから先は車では進めない。幅員も狭く空き地があったので気を利かせてそこに止めると私有地なのでお叱りを受けます。車道の幅員がある場所に駐車して欲しいと教えられる。頂きにある神社へはここから整備された参道(山道)を徒歩で登る事になります。参道途中から東方には整然と住宅が並ぶ瀬戸万博記念公園方向の眺め。山は適度に樹々が伐採され、日差しも良く入り、開けた明るい道が続きます。写真の百度石が現れれば富士浅間神社も目と鼻の先。百度石を過ぎると参道脇に霊神碑と右手に堂が見えてきます。富士と名の付く冨士山信仰の神社は近隣にも結構あり、冨士浅間神社という事で霊峰富士を信仰する山をイメージしていたけれど、御嶽信仰の山でもあるようです。参道の石鳥居、その右の堂は御嶽神社。堂内部をガラス越しに覗いてみると、見慣れた山丸三の紋の下に心が書かれた神幕が見て取れます。御嶽講は大きく黒沢口を開いた覚明系と王滝口を開いた晋覚(ふかん)系に分かれ、そこから地域ごとに誕生講や心願講等が下に広がるようです。自信はないけれど「山丸三に心」の紋は心願講をさし示しているものかもしれない。堂から上に進むと、両脇に大きな石碑と山肌に埋め込まれる様に祠があり、素朴な姿の不動明王像が安置されている。最後の石段を登るとそこが山頂。正面に社殿と右に立山神社と白山??神社と彫られた一つの石標がある。想像していた境内のイメージは樹々が鬱蒼と生い茂る狭い空間をだったけれど、綺麗に整地され閉塞感を感じるものではありません。石垣が高く積まれ、玉垣で囲われた神殿域に覆屋があり、本殿はその中に祀られています。左右にも社があるようです。境内左に一際大きな霊神碑と右手に手水鉢がありますが清水は満たされていませんでした。蛇口がある訳でもなし、どうやって清水を満たすものなのか。境内の鳥居や玉垣の奉納年が1918年(大正7)、燈籠なども大正時代のものが主のようです。社殿全景。中央が富士浅間神社、両脇の社の一つを御嶽神社と仮定して、もう一つはなんだろう。社名札はなく創建など詳細は分かりません。小高い山の頂に山岳信仰の冨士や御嶽などの社が纏まっているのかなぁ。大正時代といえども、登拝登山など気軽に出かけられる環境ではなかっただろう、日々崇める目的で身近な山の頂に社を祀りお山に見立てたのだろう。玉垣の陰になり存在に気付かなかった本殿前の狛犬(奉納年不明)。小柄ですがこちらを睨む眼差しなど勇ましいものがある。浅間神社という事で、祭神は小授け・安産に御神徳があるとされる木花咲耶姫命をお祀りしていると思われます。社殿側面。城壁の様な石垣の上の玉垣は大正7年とあるけれど、1933年(昭和8)に改築されているようで、正面の石段脇に刻まれています、そこには山口硝子組合と記されています。硝子?瀬戸は焼物の街の印象が強いけれど、ガラスの原料となる珪砂の産出地として知られ、八草地域も珪砂の産出地で露天掘りの鉱山があります。この辺りの山間を走っていると、荷台に砂を積んで走るダンプの姿をよく目にしますがそれが珪砂です。余談ですが、若かりし頃に未舗装路を好んで走り回っていた時期があり、良く走らせてもらったものです。神社の継続的な維持には地元に勢いのある企業があるか否かで大きな差が出てくるものです。山の頂にあって、富士浅間神社が荒廃する事もなく維持できているのはそうした背景もあるのか。上本殿域の西側に開けた場所があります。見落としているかもしれませんが、ここを切り開くだけの重機が入れる道はなかったように思います。こうして見るとその昔は城でも建っていたような雰囲気が漂います。下広場から見た社殿域、まさに山のテッペンです。参拝を終え参道を5分も下れば車に辿り着けます。斜度は緩く、ちょっとした低山ハイク気分が味わえ、足拵えもスニーカーで問題ないでしょう。ただし地面に落ちた枯れ葉は気を抜くと滑りやすいので、標高は低いけれどそこだけは要注意かもしれません。行きは景色を楽しむ余裕が無かったけれど、こうして見ると猿投山も良く見えます。ハスキーを飼っていた頃はよく一緒に上ったものです、一人で心細くなかったのは彼がいたおかげかも知れない。最近はこうして一人で歩いていると、先から得体のしれない黒い物体が走ってくるような気がしてならない。走ってくるのは相棒の彼じゃない事だけは確かだ。2021/2/3「富士浅間神社」創建 / 不明祭神 / 木花咲耶姫命境内社 / 不明社2社住所 / 瀬戸市上之山町1車でのアクセス / 猿投グリーンロード八草ICから国道155号線を瀬戸方向に3分程北上し左折
2021.02.15
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代えがたいか・・・・・不通は後継者を作るものなんだろうが・・・・・代えがたい者が堕ちた時、それでこの国は終焉を迎えるとでもいう事か。将来に向け、若手の人材育成、経験を積ます事も出来ない方々はごそっと入れ替えられないものか。我ら高齢者とされる年代、担い手が道をそれた時に声をかけてやればいいのでは。思う存分やらせ、失敗を経験しなければ、周りの視線ばかり気を使い、信念をもって動ける人材は出て来ない。とても換気の悪いどんよりとした密室の閉塞感しか感じない、こうした閉ざされた体質の組織を選択したのも我々だ。やれ巨額予算の支援金だ、オリンピックだ、なんだと金まみれのお祭りごと、形ばかりで死に金になり必要な人に配分されているか使途も明確にすることなくばら撒きにご執心、そこで徳を得ている者にはありがたいものだ。打出の小槌に際限はある、昨晩の大きな地鳴りはそうした驕りを戒める声なのかもしれない。我らにできる事は投票で態度を示し、世論の声(方向性)を絶やさない事しかないのだろうか。昨晩の大きな地震で被害を受けた方々には心よりお見舞い申し上げます。明日は我が身、自助努力にも限界がある、我慢せず声にして伝えて下さい。10年ひと昔で終わらせていてはいけないね、昨晩の不気味な揺れ方は10年前を呼び戻す。あの時学んだことを忘れ、浮かれた日々を過ごしてきたのかもしれない。今一度当時に戻り、家族を守るための装備とあの時の気持ちを呼び戻す機会を得た。
2021.02.14
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かみさんの緊急事態解除が発出され、思い出したように知多四国霊場巡り(コストコ巡り)に行くことになった。朝9時、出勤ラッシュも過ぎた頃を見計らい家を出る、その時間帯の幹線道はいつもの「隙あらば」、「我先に」と闇雲に右往左往して先を急ぐ車の流れとは違い落ち着きを見せる時間帯の様だ、下道を走り知多半島に向け2時間程の快適なドライブ。名鉄河和線「河和口」駅前を海岸沿いに続く国道247号線。海岸に迫る丘陵地の頂に知多新四国霊場 番外札所 「慈雲山 影現寺」が鎮座します。ここが今日のかみさんのスタートとなる寺、かみさんはここから徒歩で巡る。国道からだと陸側に「時志観音」と書かれた案内板と海岸から丘陵地の頂に続く石段、「時志観音」の石標が目印となるのでしょう。この石段を見てここは一緒にお参りする事にした。写真の石標の右側に駐車場があります。「石段登らずに本堂の近くまで車でいけないの」という方向けに、そこから狭くて急な上り坂が上に続いており、途中の中腹にも駐車場、上り切ると境内の広い駐車場とお手軽に辿り着けます。狭くて急な坂道は一方通行ではありません、対向車が来ることを前提に上ってください。運よく対向車に出逢わなかったとしても、この石段を見るには自らの足で下り、再度上る事になります。この石段何段あるのか数えていたが、途中でそれも怪しくなり数えるのはやめた、100段は確実に超えていたと思います。石段も間もなく終わり、その先に境内が広がる。慈雲山 影現寺伽藍全景。正面が観音堂、右手に本堂と庫裡、弘法堂が連なる。観音堂左に巨大な観音像、参道手前に仁王像と右手に鐘楼の伽藍。丘陵地の頂とは思えない程広い境内です。境内から石段方向を振り返ると、目の前には三河湾を見下ろす事が出来る。右手の入母屋瓦葺のお堂は手水舎も兼ねているようで、その奥には地蔵と不動明王の石像が安置されている。境内左には石塔や石地蔵などが纏められています。参道両脇の仁王像はなかなかいいスタイルのイケメンかも知れない。入母屋瓦葺の鐘楼は大きなものではない、視線を釘付けにする巧みな飾りが施されているわけではないけれど、斜め下から見上げた垂木の並びと軒の反りが綺麗だと感じました。1922年(大正11)に建立されたこの鐘楼、戦時下は梵鐘は供出され、現在の釣鐘は昭和24年朝鮮の古梵鐘の流れを受け継ぎ鋳造されたものだそうだ。参道正面から観音堂全景、永正十一年(1514)開創の影現寺。観音堂に祀られているのは十一面観世音菩薩で「時志観音」と呼ばれます。十一面観音像は1574年(天正4)、佐久島の漁夫が出漁中に網にかかって現れたとされるそうです。佐久島の草庵に祀られたその尊像は、ある夜、島守の夢枕に立ち以下のように告げたという。「我は観音菩薩の化身なり。衆生救済の為に中国より渡れども。時を得ずして海中の藻屑になること幾星霜、願わくば対岸の地に移し祀られよ」こうして尊像はお示しのとおり対岸の戸岸(現在の時志)へ移されたのだという。こうした「流れ着いた」とか「網にかかった」等の話は耳にするけれど、「どこから来たの」となると明確に語られないもので、それを考えだすと眠れなくなるものかも知れない。手前の八角形の屋根の香炉は観音堂内の内陣の厨子の八角形の屋根にちなんで作られている。ご詠歌に「引綱に召され浮かびし観世音、慈雲と共に影現の寺」、「時しらぬ利益はいつも有明の月の光の至らぬはなし」とある。ここは南知多観音一番、知多西国八番札所。観音堂に掲げられた額、達筆すぎてもはや読めない。賽銭箱には三つ葉葵の紋。1605年( 慶長10)、尾張徳川初代藩主の徳川義直は尾張一円を巡察の途中、当時荒廃していたこの観音堂を訪れ、安産祈願の霊験があらたかで、その由来に感銘し200両を与えて荒廃していた堂宇の修復を命じたとされます。それは義直自らが子供を授かるタイミングだったからかも知れない。義直は無事に男子を授かり、それ以降、尾張徳川藩から厚く崇敬され庇護されたようです。そうした事から、三つ葉葵を寺紋にすることを許されたようで、境内の至る所に三ツ葉葵の紋を目にします。境内左から見た伽藍全景。この観音堂、入母屋瓦葺の妻入りですが、常道であれば妻の部分に向拝が作られるものでしょう。この建物には向拝はなく、建屋の妻部分の一部を吹き抜けにした造り。しかも、大棟には横から寄棟の建物が一体となる手が込んだ造りで、外観上のアクセントになっているように思えます。山の頂は日差しを遮るものが無いので、境内は暖かな日差しで満ち溢れています。鐘楼の後方の一画には重興仙嶺大隣和尚の座像と左に猿の座像「座禅猿」がある。左側には複数の観音像が安置されている。1900年(明治33)伊藤萬藏氏が奉納されたもので、石の観音像は三十三体あるのだそうだ。灯篭や狛犬、手水鉢などは名前をよく見かけるけれど、こうした石像も寄進していたようです。観音堂の右が本堂。内陣に釈迦牟尼仏の座像が安置され、両脇には権現様と達磨大師が祀られているという。先のある巡礼、かみさんは観音堂と下の弘法堂をお参りし本堂はあっさりスルー、全部見て参っていたのでは先に進めない、分かる気がする。おやじがここを撮り終えた頃、かみさんは手を振って今回のゴール誓海寺に向け石段を下りて行った。本堂の手前に建つ入母屋瓦葺で妻入りの弘法堂。知多八十八カ所霊場の番外札所であり、直伝弘法霊場の三十六番札所でもある。よく考えると二人で一緒に八十八カ所巡り踏破した事がないかも。一度は歩かないといけないが、最初の寺からこの差が出ると足手纏いかもしれない。「大観音像」慈雲山 影現寺十二世の重興仙嶺大隣和尚により1981年(昭和51)に建立されたもので、御影石の一枚石から作られた像としては、日本一の大きさとされる。像の高さは6㍍あるという、影現寺境内で最初に視線が行くのがこの観音像かもしれない。観音像の両脇の狛犬は顔つきが勇ましく、正面から見る姿は今にも飛び掛からんばかりのもの。青い空を背景に白い大きな観音像と狛犬を仰ぎ見る、視線の先は三河湾に浮かぶ佐久島を眺めているのかな。観音堂から石段方向の眺め。海が綺麗に眺められる寺だ、石段を見下ろすとこの高低差。前の道路が国道247号線、左へ行けば名鉄河和線の河和口駅方向、右に行くと河和駅に繋がります。陽射し同様に穏やかな海だ、佐久島は・・・・・どれだぁ。2021/2/8慈雲山 影現寺宗派 / 曹洞宗本尊 / 釈迦牟尼仏 開基 / 永正十一年(1514)札所 / 知多四国霊場 番外札所 / 南知多観音霊場 一番札所 / 南知多七福神 毘沙門尊天住所 / 知多郡美浜町大字時志字南平井八十六番地公共交通機関 アクセス名鉄河和口駅から南へ約1km、車アクセス / 知多半島道路美浜ICから車で10分程
2021.02.13
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「秋葉山本宮秋葉神社」は、静岡県浜松市の標高約866mの秋葉山の山頂付近に鎮座する。上社と麓の下社を構え、日本各地の秋葉神社の総本宮。赤石山脈の遠州平野に突出した南端に位置し、先に掲載した秋葉山南東麓を流れる気田川の畔にある下社、そこから通じる古い参道を徒歩で1時間半から2時間かけて標高差約750㍍を山頂まで上ると上社がある。往古はその参道を登り山頂まで詣でていて、麓には参拝者(秋葉道者)の旅籠が軒を連ねたという。下社周辺にもそうした名残を感じる。時間に余裕があれば下社から徒歩で訪れたいところです。現在は車で西側山麓の天竜川沿いを国道152号線(工事が多い)と県道285号線を経由し、狭くて曲がりくねり、傾斜はきついが舗装された天竜スーパー林道を上れば20分ほど上っていけば大鳥居のある第一駐車場まで容易にアクセスができる。写真は県道285号線から上社参道口に向かう天竜スーパー林道入口の石標。ここから上りが始まります、白黒の人慣れした猫が出迎えてくれた。軽自動車で来たけれど、きつい上り坂にエンジンも悲鳴を上げる。それも20分程の辛抱で第一駐車場に到着。駐車場から大きな狛犬が守護する大鳥居と山頂に石段が続く。大鳥居の額、秋葉神社と云えば「七葉もみじ」。ここから上社までは、秋葉杉の生い茂る山肌に作られた新しめの石段が続く。「秋葉山本宮秋葉神社」境内案内図と由緒。祭神火之迦具土大神。伊弉諾、伊弉冉の御子で火の主宰神。創建秋葉山は赤石山脈の遠州平野に突出した最南端、天竜川上流に位置し、山頂に秋葉山本宮秋葉神社を祀る。上古より火の神様を鎮る御神体山として崇敬され、初めて社殿が建ったのは和銅2年(709年)。社号上古は岐陛保神ノ社」と称し、中世は「秋葉大権現」と称した、明治初年権現の号を改め「秋葉神社」へ。昭和27年全国の秋葉神社総本宮である事から「秋葉山本宮秋葉神社」に改称。神徳火防、開運の神として火災削除・家内安全・厄除け開運・商売繁盛・工業発展の霊験があらたか。身近で見かける社はこちらで授かった御札が祀られる。参道の秋葉杉の木立からは遠州平野を一望できる。秋葉山の豊かな杜は人の手により作られ、そこには普段お目にかからない草花や野鳥達を育んでいる。紅葉坂を過ぎると正面に「西ノ闇の神門 」が現れる。2005年、鎮座1300年を記念し参道と共に建築された新しいもの。上社伽藍は火災により焼失を経験していますが、下社から続く参道には唯一火災を免れた古い神門が残っています。それ以外は本殿の1986年(昭和61)の再建始め近代再建されたもの。長い年月を経た趣を求めてはいけない、建物の歴史はこれから積み重ねて行く。「西ノ闇の神門 」二層入母屋の地元の天竜杉を使用し丁寧に作られた木造建築。築後年数を経ていないけれどコンクリートにはない素木の温もりが伝わってくる。左右の間には白鮮やかな髄神像が安置されている。神門には四方を司る四神の大きな彫が施されている、正面の北の玄武(左)と西の白虎(右)。後方には南の朱雀と東の青龍が施されている。築後年数は浅いけれど既に風格すら備えた見事な門です。神門から右に進み秋葉茶屋を過ぎると天狗みくじと札所がある。左の樹はジャニーズアイドルの参拝記念植樹だそうな。その左手に手水舎。ここからの眺めも絶景、あと少しで頂きに建つ本殿だ。手水舎の先には石垣の積まれた境内があり、そこには黄金色の明神鳥居が光り輝いている。キンピカの鳥居。赤があるのだから金もあってもいいのだろう。作法は茅の輪くぐりの要領、左廻り、右廻り、左廻りと願いをかけつつ8の字を書くように三度くぐり抜ける。目の前に本殿が見えなければ回りが足りないという事です。幸福の鳥居と呼ばれるこの鳥居、受け狙いで建てたものではなく、再建される以前より勅額を掲げた金銅の鳥居があったようだ。鳥居をくぐった境内の眺め。正面の本殿に続く石段の右手に神楽殿(1992年竣工)とその奥の石垣の下に七社の社が祀られている。左は授与所とこちらにも三社の社が祀られている。石段左手前の岩は神恵岩。秋葉山系から産出した巨大な火打石でここから切火をして厄除け、清め、大願成就を記念するそうだ。手前賽銭箱にある打ち金で神恵岩を打ち付け、火花が飛び散れば切火完了。滅菌用のアルコールは引火するのでくれぐれもお気をつけて。後方の三社は左から祓戸社、内宮社、外宮社。千木に外削ぎ内削ぎの違いはあるけれど、鰹木5本の神明造の社殿。石段前の狛犬。阿形の右奥に見える社殿は手前から天神社、水神社、山姥社、小國社、風神社、白山社、山神社と並ぶ。秋葉山山頂の神域を背にして建つ社殿。入母屋造の拝殿には唐破風向拝が施され、拝殿は幣殿に繋がる権現造。この社殿も1986年(昭和61)に再建された総ヒノキ造り。屋根の反りは羽ばたく鳥の翼の様で優雅な佇まい。向拝下の彫飾りは干支。右から左に毎年彫飾りが付け替えられて行き、中央がその年の干支。既に来年に向け配置が変えられているようです。それでは参拝、いつものように僅かな賽銭大きな祈願。社殿左からの斜景。本殿は流造、屋根は折り重なるように連なり、正面とは違い複雑な造形を魅せてくれる。秋葉山本宮秋葉神社は江戸時代までは秋葉権現を祀る秋葉権現社と、観世音菩薩を本尊とする秋葉寺が境内にある神仏混淆として成り立っていたようです。1872年(明治5)の神仏分離により秋葉神社に改め祭神を火之迦具土大神として、三尺坊を仏教の秋葉寺に分離した。1943年(昭和18)、麓から発生した火災の延焼により上社本殿東側にある山門を除き全ての建物を焼失したようです。上社再建まで祭祀を継続するため麓に作られたのが秋葉神社下社だといいます。上本殿域から幸福の鳥居と天竜川方向の眺め、持ってないな・・・下幸福の鳥居、帰りの作法はどうなんだろう。嘗ては下社から1日がかりで参拝した火を司る神の山、当時を思えばお手軽に訪れることが出来る。しかし見逃した神門もあるだけに、次回は足ごしらえして下から登って訪れたいものだ。そうして眺める山頂から景色はきっと別物だろう。「秋葉山本宮秋葉神社」祭神 / 火之迦具土大神創建 / 709年(和銅2)境内社 / 祓戸社、内宮社、外宮社、天神社、水神社、山姥社、小國社、風神社、白山社、山神社住所 / 静岡県浜松市天竜区春野町領家841車アクセス / 下社から県道286号線、天竜スーパー林道経由約50分程関連記事 / 秋葉山本宮秋葉神社 下社
2021.02.11
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次から次に・・・・・コロナはワクチン接種で収まるかもしれない深刻な状態、こうしたのも我々か、これじゃ麒麟も来たくはないだろうに
2021.02.09
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鹿児島県霧島市霧島田口桜島を中心に左回りで2泊3日の鹿児島県の神社巡りもここ「霧島神宮」で最後となります。火山が連なり形成されている霧島連山、今もなお活動が続く活火山でもあります。霧島神宮は高天原を統治する天照大御神の孫とされる瓊瓊杵尊は、天照の命を受け、鏡、勾玉、剣の3種の神器と稲穂を持って高千穂峰に降臨した地とされ、山頂では、天の逆鉾を見ることができる。その高千穂峰の麓に、瓊瓊杵尊と妻の木花咲耶姫をはじめとする祭神を祀るため創建されたのが霧島神宮の始まり。黒松埋没鳥居から黒酢の郷「桷志田」を経由して移動時間80分程で霧島神宮の大鳥居(一の鳥居)到着。既にこの辺りは、霧島連山の一画となる。桜島で感じた自然の計り知れない脅威を感じる。霧島神宮参拝駐車場に掲げられている境内案内図。これに従い参拝に向かいます。広大な駐車場はガラガラ、例によって一番遠い場所に車を停め、二の鳥居まで戻る。コロナ禍でなければ駐車場は観光バスが連なるのだろう、空しく空いた広大な駐車場が早く埋まる時が訪れるといいのだが、取り敢えず密を避け参拝に向かう事に。霧島神宮社号標、写真では小さく見えますが大きなものです。そこから石段を踏みしめ、表参道の二の鳥居に向かいます。石段を上り詰めると二の鳥居が間近に迫り、長い参道はまっ直ぐに奥へと続く。樹齢を重ねた杉木立が参道を包み、静寂な空間が広がっています。やがて参道先に社務所(昭和5年竣工)が現れます。ここから左側に行くと霧島神宮展望台があり、持っていれば素晴らしい眺望を眺められるそうです。展望所からの眺め。雲一つない晴天だと鹿児島湾、噴煙を上げる桜島や開聞岳、鹿児島市街地などの眺望がきくようです。どうやら私達は持っていなかったようです。社務所から参道は右に続き、三の鳥居と遥か先に朱塗りの社殿が見えてきました。訪れたのは2020年11月26日、燃えるような紅葉を少し期待したけれどこの時期はこんな感じでした。コロナ禍でツアーバスは止まり、団体の参拝客はなく家族連れやカップルの参拝客が主ですが、それでもこの石段を登る人出は途切れることはありません。石段右の朱塗りの手水舎。龍口から清水は絶え間なく注がれていますが、写真の様にコロナ感染防止対策が施されています。神社も配慮してくれています、訪れる側の感染防止の意識が問われているのかもしれない。手水舎左のさざれ石。小石が集まり固まって岩となったもので、岐阜県で産出したもので昭和62年に奉納されたもの。こちらの鳥居は全て朱塗りの明神系鳥居で笠木には屋根が葺かれている。霧島神宮本宮はもとは後方に聳える高千穂峰と御鉢と呼ばれる噴火口の中間、脊門丘に奉斎されていたというが、噴火により被災焼失するが950年(天暦年間)に天台宗の僧侶、性空上人により高千穂河原に再興される事になる。その後、1234年(文暦元年)の大噴火により、社殿、僧坊寺が被災した、その後1484年(文明16)に真言宗の僧侶、兼慶上人が藩主の島津忠昌の命をうけ伽藍を再興。しかしその後も別当寺 華林寺からの失火が原因で焼失するが、第21代藩主島津吉貴の寄進により1715年(正徳5)に重建されたのが現在の社殿で約300年前のもの。災いにより幾度も神社は灰となるけれど、常に島津藩の厚遇を受け蘇ってきた。現在の朱塗りの門守神社や絢爛豪華な勅使殿、登廊下、拝殿、本殿等の伽藍は「西の日光」とも呼ばれることもあるそうだ。参道を抜けると門守神社の先に勅使殿、拝殿、本殿が一列に並ぶ社殿の全景が広がる。境内右手の御神木は樹齢800年を超えると云われる霧島杉、南九州一帯の杉の祖とされるようだ。写真からその大きさは伝わらないけれど、境内の杜の中で絶対的な存在感があり、自然が持つ生命の息吹を感じられる。境内右に霧島神宮由緒が掲げられています。1715年(正徳5)に重建された社殿は国指定重要文化財の指定を受けている。主祭神は瓊瓊杵尊。相殿神は木花開姫尊、彦火火出見尊、豊玉姫尊、玉依姫尊、神倭磐余彦尊、鵜葺草葺不合命。左右の門守神社とその先に朱塗りの勅使殿、その左右には長庁と呼ばれる廻廊が左右に繋がっています。勅使殿の先は登廊下を経て入母屋造の拝殿、本殿が一直線に並びます。上が門守神社の右社殿、下が左社殿(国指定重要文化財)門の守り神、櫛磐間戸神と豊磐間戸神を祀る。勅使殿。入母屋造の建屋に唐破風向拝が設けられたもの。薩摩國 一之宮の枚聞神社の伽藍と似ている、妻入りの建屋配置の枚聞神社に対し、霧島神宮は平入として配置されているようです。勅使殿唐破風。木鼻飾りや透かし彫りなど手が込んだ装飾と、色鮮やかに彩色が施され視線は自ずと上に行く。「これでもか」と云わんばかりの派手さではなく、嫌みのない豪華さとでも云えばいいのか。一般の参拝はここ勅使殿からの参拝となります。1781年(天明元年)に奉納された賽銭箱には、十六葉の大きな菊の紋章が施されています。正面の登廊下はこの先の拝殿、本殿に繋がっています。残念ながら見る事は出来ないけれど、本殿は外部のみならず内部も煌びやかに装飾されているようで、柱、梁などは朱が施されて、壁や羽目板には彩色や飾り金具が施されていると云う。勅使殿右側から望む拝殿右に鎮座する税所神社の眺め。後一条天皇の命によりこの地を治めた藤原篤如命を祀る神社。流造の社殿に唐破風向拝が付けられているようで、社殿は素木で朱や飾りはなく落ち着いた佇まい。勅使殿左の長庁から社殿域の眺め。手前が神饌所、左が本殿、右が幣拝殿、社殿全容が見れる場所はないようです。本殿には5本の鰹木が施され、各々に内削ぎの千木が付く。右の長庁から勅使殿拝殿の眺め。境内はこの場所から右に参道が続きます。その先の建物は神楽殿で2005年(平成17)に建立されたもの。新しい建物ではあるけれどこうして見ると安定感のある優雅な建物。もう少し時間があれば境内左方向の山神社、鎮守神社や若宮神社にも足を向けたいところ。慣れない土地故に空港までの時間を考えるとこれ以上は回れそうにありません。次回訪れる機会があれば古宮跡を含め再び回りたいものだ。霧島神宮 創建 / 510年~571年 主祭神 / 瓊瓊杵尊 相殿神 / 木花開姫尊、彦火火出見尊、豊玉姫尊、玉依姫尊、神倭磐余彦尊、鵜葺草葺不合命境内社 税所神社 / 藤原篤如命、門守神社 / 櫛磐間戸神、豊磐間戸神住所 / 鹿児島県霧島市霧島田口2608-5車アクセス / 鹿児島空港から国道504号線⇒県道56号線⇒国道223号線牧園町宿窪田で右折 約40分関連記事 / 黒神埋没鳥居「腹五社神社」、薩摩国一之宮「枚聞神社」
2021.02.08
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一宮市浅野八剱8国道22号線を岐阜に向け「浅野」交差点を右折、浅野公園を左に見て歩道橋のある「浅野東」交差点を目指す。この辺り何度も通過した事はあるものの、参拝目的で訪れた事はなかった。息子を迎えに行く動機がなければ存在すら知る事はなかっただろう。交差点の北側に鎮座する八釼社を訪れた。道路沿いに南向きの社地があり、社号標と石の神明鳥居、参道の先には蕃塀もあるようだ。上は明治の頃とほぼ現在を比較してみた、当然ながら周囲は田畑が広がり点々と集落が点在する状況。集落の北外れに「八釼社」の鳥居が記されています。当時は淺淵村だったこのあたり、尾張浅野氏発祥の地とされ、信長に弓衆として仕えていた浅野長勝の屋敷(浅野城)があった。浅野城(赤丸)は現在の浅野公園に築かれていて、曲輪、堀など遺構が残るようだ。サツキが綺麗な公園らしいのでその頃訪れてみよう、今回は八釼社の参拝だ。鳥居から参道を進むと常夜灯が立ち並ぶ、狛犬もいるようだ、左は社務所の様だ。境内はここから右にも広がり鳥居と複数の社が祀られている。蕃塀前で社殿を守護する狛犬。背筋を伸ばし姿勢がいい狛犬だ、胸板は厚く、どちらも口を開け、目線はやや上を見据えている。石の蕃塀から鳥居方向の境内の眺め。訪れたのが2020/12/31、あと数時間で新年を迎え、焚き上げの前準備も万端。瓦葺きの手水舎。こちらの神社の由緒は境内では見つけられなかった、後で調べればいいかと安直に考えていたがなかなか情報は得られなかった。今思えば見過ごしてしまった左の石碑に由緒が書かれていたのかも知れない。八釼社拝殿から社殿全景。ここにも狛犬がいた。子犬の様に丸々とした小さくて可愛い面々だ、こちらは口を閉じているな。拝殿は切妻瓦葺で妻入り、屋根は軒に向かい緩やかに反っていく。額はなく、飾りを避けた落ち着いた佇まい。では参拝させてもらいます。本殿から幣殿、拝殿方向の眺め。切妻の縦拝殿から幣殿が一直線に繋がる。本殿は流造で5本の鰹木で千木は縦に削がれていて、良く男の神が祀られているといい、男千木とも呼ばれるようだ。周囲を塀で囲われていないので全体の見通しがきく。ここで本当ならば由緒を書きたいところだけれど、何も手掛かりがないので分からない。分かっているのは明治には既に鎮座している事くらいです。時間を見て記録を調べています、分かり次第追記しておきます。創建 / 祭神 / 本殿の左に東を向いて鎮座する熱田社。こちらも由緒は分からないけれど2016年に修復の手を受けたようです。参拝を終えて蕃塀から鳥居方向の境内を眺める。ここから左に見える神社幟へ向かいます。八釼社の右に並ぶように鎮座する神社。更に右は境内から側道に出る脇参道のようです。明神鳥居の先に社殿が祀られている。鳥居の先に石垣が高く積まれた本殿域に5社が祀られている。手水は先程のものと共用のようです。本殿域全景。正面の大きな社殿は八雲社、その左右にそれぞれ二社が鎮座。右の二社、奥から青石天神社、手前は秋葉社。左の二社は奥から八幡社、手前は唯一、鰹木と内削ぎの千木が施された神明社。何れも板宮造り。纏めて賽銭投入、参拝。本殿から鳥居方向の眺め。こちらでどなたかにお逢いする事が出来ればもう少し分かったのだろうが、初詣を前に訪れる方は見かけなかった。まあ、宿題としておこう、さてお迎え〃。「八剱社」創建 / 不明祭神 / 不明境内社 / 熱田社、青石天神社、秋葉社、八幡社、神明社住所 / 一宮市浅野八剱8車アクセス / 名古屋市役所から国道22号線経由約40分
2021.02.06
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2021.02.05
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長久手市岩作五反田 以前掲載した「石作神社」の境外摂社「直會神社」。石作神社から南西に徒歩10分程の田んぼの中に鎮座する小さな神社。田んぼの先の小高い丘が「石作神社」の鎮座地で「石作神社」を訪れた際にこちらの「直會神社」を探したのですがその時は携帯もなく、ポンコツナビには知らないと云われ、辿り着くことができず、そのまま忘れさろうとしてしていた。かみさんの「イケヤに連れてけ」とのことで、もう一度探して参拝する事を思い出した。田んぼの中だから目立ちそうなものだが、こうした区画は小島のように点在するので以外に分かりにくかったりする。神社全景。田んぼの中の小さな交差点の角に玉垣で囲われた神域がある。車の駐車場所には意外と気を遣う、何せ道路の幅員はさほどなく強引に停めるには気が引ける場所。主な建物は石の神明鳥居と拝所、手水舎、本殿のようです。社頭全景。長閑な田園風景の中にポツンと鎮座しています。社頭の厄除祈願の赤い幟と神社幟のお陰で今回はすぐに場所が分かった。境内右の「直會神社造営記念碑」そこには以下のように記されている。「石作神社の摂社で岩作字久手田32番地(現五反田9番地)に鎮座。大正初期の社地は現在の半分程度で、古墳上の塚地に二・三本の杉の木立があり、樹の根元に四方が二尺五寸(概ね80㌢)ほどの神殿が祭祀してあり、五穀豊穣の神を祀る。祭神は神道毘命、大道毘命大祭日は毎年3月、12月の第一日曜日創建は古く詳細は不明なれど岩作神社の直會の神としてこの地の古墳の上に祀られた。岩作神社の摂社で同神社大祭終了の際に、御神饌を下げてこちらで「直會の儀」を行い、宮司、氏子総代、村長、区長などが会食をする場であった。大正15年神社再建に伴い、社地を拡大した。再建後の3月、12月の大祭には露店も並び、弓道大会等開かれ戦後まで多くの参拝客で賑わった。」直會(ナオライ)は、祭事の後で神前の供物を下げ、祭祀に関わった者が一同に会し、神さまと共に頂く「ナムリアイ」から来ているようでこうしたイベントが「直會の儀」というようだ。神さまと同じものを口にすることで、神さまの力を少しでも授かろうというのが狙いのようです。社頭から拝所を通し本殿が見通せる。ここに古墳が存在したようですが、現在の姿から古墳の面影は全く見られない。上は境内右手の手水舎。下は境内左側の石碑と小さな狛犬。奥から浅井菊寿の詠んだ「直会社夜雨」の歌碑があり「枝かはつなき暮らしつつ みやしろの 木々さわがせて 夜雨ふりきぬ」と記されている。岩作八景とは直會社夜雨、色金山秋月、安昌寺晩鐘、石作社晴嵐、立石池落雁、下田流蛍、平子橋夕照、高根山暮雪を指すようだ。中央には浅井菊寿の顕彰碑もある。この地の庄屋の家系で生まれた浅井菊寿(1859~1938)は郷土の歴史を自費で「岩作里誌」と「長久手村誌」等に纏め後世に残した人物。拝所前の狛犬。左手の顕彰碑と本殿前に小さな狛犬がいるけれど、それに比べるとまだまだ新しいようです。板宮造りの本殿全景。その前に小柄な狛犬が一対、賽銭箱がここにあるという事は、手前の建物は拝所ではないようだ。ここで直会の儀が行われるという事だから、直会殿なのか?良く分からない。まずは参拝しよう、賽銭投入「僅かな賽銭、多くの願い、コロナ退散・菜園豊作・・・・・」一面平坦な田んぼの中で五穀豊穣を掌る「直会神社」、以前に比べると随分田んぼも少なくなったのではないかな。この辺りは1584年長久手の合戦の舞台でもあり、この周辺には寺社以外にも「首塚」や「耳塚」などが点在し見どころは多い。直會(ナオライ)神社創建 / 不明祭神 / 神道毘命 大道毘命住所 / 長久手市岩作五反田9車アクセス / 田籾名古屋線 県道215号線岩作方面へ、「藪田」信号を超えて左折直進関連記事 / 石作神社、 首塚、 耳塚、 安昌寺
2021.02.05
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2021.02.03
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小牧市春日寺西に県営名古屋空港があり、周辺は住宅が広がる、そこに県道102号線(犬山街道(稲置街道))が南北に伸びています。この街並みの中からどこにいても視界に入る小高い山が小牧山、その頂に建つ小牧城は山と共に市のシンボル。こうした風景を見ていると想像できないけれど、太古にはこの辺りまで海が迫っていたという。その当時はこの辺りまで船の往来があったという、船乗り達にとって目の前に見える山は帆を巻き上げる絶好の目印となっていたそうだ。それが故にこの山は帆巻山と呼ばれるようになり、ここから小牧となったとも云われる。春日寺は「かすがんじ」と呼ぶそうだ、空港建設に伴いそこから移転した民家も多いと聞く。空港を背にして県道沿いに鎮座する春日寺の「神明社」。県道を走っていると、右に社号標と正面に神明鳥居、その先に拝殿が望めるこの社頭は良く目にしていたが、なかなか車では入りにくかった。拝殿右に春日寺会館があり、そちらに車を停めさせていただき参拝。創建は1667年(寛文7)とされるようですがそれ以外よく分からなかった。切妻瓦葺の素朴で落ち着いた佇まいの拝殿。神明社境内に左の春日寺会館や公園があり、神社を中心に住民が集える場に整備されたようです。神明社本殿域。本殿右手の小山に御嶽神社、左手には小さな社が祀られています。御嶽社と覚明霊神碑。覚明行者は春日井市出身ということから周辺では良く祀られている。本殿左の社、周囲の堀は水は張られていないけれど、手前の反り橋から察するに弁天社だと思います。本殿を守護する狛犬。表情はよく分からないけれど、丸々した大正9年に奉納された狛犬です。本殿全景。高い石垣の上に祀られた神明造の本殿は6本の鰹木と内削ぎの千木が付く。祭神は天照皇大神。本殿後方の壁の向こうは県営名古屋空港になります。本殿や末社は全てが東の稲置街道を向いて鎮座。年を越す時期に春日寺を通りがかると、街道に神社幟が立ち、氏子総出で迎春準備をする姿をよく見かける。この時ばかりは車で前を通り過ぎても一目でそれと分かる。拝殿から社頭の眺め。訪れたのが年を越した2021/1/19、しばらく経つと静かな神明社に戻る。毎年正月にかみさんの実家を訪れる際、必ず前を通りはするけれど、なかなか縁がなかった神明社も漸く参拝、気になっていたものが一つクリアできた。春日寺「神明社」創建 / 1667年(寛文7)祭神 / 天照大御神境内社 弁財天、御嶽社住所 / 小牧市春日寺1-138公共交通機関アクセス / 名鉄小牧線春日井駅徒歩10分
2021.02.02
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