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牧野ヶ池緑地名古屋市名東区にあり灌漑用の牧野池を中心に公園と森が残されている。前日の雨も上がり緑と桜を見ながら歩くには絶好かもしれない。駐車場西側の案内図竹の小径方向に向け南へ子供達が休みに入っているのをすっかり忘れていたここなら親も安心して子供を自由に飛び跳ねさせられる雨後の公園は帰ってから洗濯が大変かもしれないが、洗濯は洗濯機がやってくれる、好きにさせてやればいい。竹の小径筍採取禁止の看板の多い事そうだよなぁ、そんな時期だここは真昼間より、少し陽射しが弱い時間帯の方が緑も鮮やかで趣が増すかも知れないひと回りして西側の芝生広場へこれは山桜か? 鮮やかな緑の若葉が目に優しい芝生広場緑も勢いづいてきた、この時期の緑は鮮やかなものです森は一雨ごとに芽吹いている道端で見つけたスミレ既に終盤のようで、鮮やかな紫ではなく色は褪せてきている何かが出そうな鬱蒼とした山道に入る。粘土質の地面は昨日の雨で滑りやすい。10分かからないくらい歩いた頃、森は開け視界が広がる。白美龍神ゴルフコース建設のためこの森を拓いていた際、森の中にある池の水面を泳ぐ大きな白蛇を多くの方が目撃した、人々は恐怖に慄き白蛇を鎮めるために祀ったのがこの神社。神社から人気のない尾根沿いを北に向かい牧野ヶ池西側の「わいわい広場」方向に出る。こちら側は桜を楽しむ家族連れで賑わっている。駐車場に向かう途中で見かけた桜。高針JC東のループは無機質な美しさを持っているけど、それを背景に自然の美しさの対比が面白い。案内図に駐車場歩いたコースを落としてみました。歩くだけなら30分程か牧野ヶ池緑地所在地 / 名古屋市名東区猪高町大字高針山ノ中
2021.03.31
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我家の前の桜の古木が今年も見事に満開を迎えた この時期は家族揃ってこの桜を眺めながらバーベキューをやったものだ息子達もそれぞれの道を進む様になりそれなりに独り立ち? こうして桜が咲くと家族揃って花見を楽しんだのが懐かしく感じる子育て中は子供中心となり自由の効かない時期がえらく長く感じたもの 今思えばそれも早いもので、子の成長は意外に早いその分自分は老い、視力から始まり衰えは否応なしに実感する せっかく咲いた桜も、今日の風を伴う雨と明日吹くであろう風今年の見頃は短いような気がする、ひっそりと咲く桜を撮りに郊外に出かけたいものだ さてどこにしようかな 2021/03/28
2021.03.29
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追分から稲置街道を進み御日塚神社、三十三観音堂を経て10分程の場所に小さな観音堂を見かけ足を止める。写真は街道から東の入鹿池方向の眺め。田園の中を名鉄小牧線の車両が走り去る長閑な光景が見られる。この辺りの住所は犬山市羽黒新田起シ 、名が示す様に江戸時代の新田開発によりできた集落。この新田の灌漑用溜池として1633年(寛永10)に入鹿池が作られ、その水は麓の田畑を潤してきた。この一帯は過去に洪水が多くの人命を奪っていきました。洪水と聞くと木曽川と思うけれど、洪水の要因は入鹿池の堤が決壊した「入鹿切れ」によります。満々と湛えていた入鹿池の水は破堤により一気に流れ下り、麓の犬山市、江南市、扶桑町、大口町、一宮など広範囲に大きな被害をもたらした。上は「なごやコレクション」「入鹿池決壊図」より画像を引用させて頂いた入鹿池決壊時の周辺の被害を記録絵図。破堤は1868年(明治元年)に起ります。この年の長雨により破堤を回避する必死の応急対策も空しく破堤に至りました。青い線は灌漑用の水路で黄色の線は街道で中央で二手に別れている場所が先に歩いて来た「追分」。絵図には青く塗られた浸水域と各村毎の浸水水位、被害状況が記されています。この被災地には災害で犠牲となられた方々の慰霊を弔う慰霊碑が各地に残り、過去の災害を風化させないモニュメントととして存在しています。ここから近くの羽黒城屋敷にある「興禅寺」の境内には入鹿切れで流されてきた15tの巨岩が残され、碑とともに語り継がれています。古い地名はこじゃれた地名に変り、こうした先人の教えともいえる碑は忘れ去られがち。我家のある場所も古い地名から、ここがその昔とんでもない場所だったのか想像できる。地名は変り、景観は変っても危害は今も変わらない。 街道沿いに佇む小さな堂、その中には一体の如意輪観音像が祀られています。頬杖をつき人々を救う術を考えている、そんな姿だ。台座に明治、西國の文字が刻まれているが、そこから下は手前の板で遮られ読み取れない。西國は恐らく西国三十三と彫られていると思います、入鹿切れ以降に安置されたもののようです。街道沿いのこの場所から100年近くは行き交う人々を見守り続けています。自分の中の煩悩を打ち消してもらいたいもの、手を合わせて観音堂を後にする。観音堂から10分程北上すると五条川に架かる小さな橋に到着。次の目的地は五条川の左岸の「尾北自然歩道」を遡る。訪れたのは3月9日、桜は蕾も堅かった、今頃は桜も満開となり川沿いの光景もきっと華やいでいることでしょう。「羽黒新田の観音堂」徒歩ルート / 追分から稲置街道を約10分住所 / 犬山市羽黒新田起シ 関連記事 / 御日塚神社、三十三観音堂
2021.03.28
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かみさんの新知多四国八十八箇所霊場巡りの送迎でこちらを訪れ、地元の神社を徘徊。知多郡美浜町北方『十二神社・山之神社・北方稲荷社』から県道279号線を利用し南に15分程走り、待ち合わせ場所の二十七番札所 天竜山誓海寺に向かう。その手前の知多半島道路沿いに「津島社」を見かけ、こちらも参拝することにした。因みに待ち合わせ場所の誓海寺は知多半島道路をくぐればすぐだ。右手が知多半島道路、一ノ鳥居は側道入口に立ち、左に社号標とその後方に袴付きの常夜灯。参道には石の灯篭が続きます。入口の灯篭は1920年(大正9)のもの。知多半島道路の側道が参道、緩い上り坂の左が境内の様です。境内全景。左に手水舎、右の入母屋の建物はよくわからない。正面にニノ鳥居と拝殿と伽藍。龍は水が枯れてしまったようだ。社頭から西は南知多道路沿いで、通過する車が良く見渡せる小高い丘の上に鎮座しています。これは何だろうね、神楽殿なのかな。その先に妙に広い空間がある、公園か?後で寄ってみよう。参道(側道)から左に進むとニノ鳥居。その先が拝殿で本殿は見えないが左右に末社が祀られているようです。鳥居左に由緒碑がある。愛知県知多郡美浜町大字古布字九条一三番地ノ二十祭神 大国主命、櫛稲田姫命正殿 須佐之男命、足名椎命、手名椎命由緒創立は不詳なるも、大治2年(1127年)以前の創立という記録がある。張州府志に天王祠、尾張志に牛頭天王社の記載あり、明治以前は牛頭天王社と称していましたが、王政維新(明治維新)の際に津島神社と社号を訂正、同17年現社名訂正が許可された。元は河和町大字古布字北平井百番地に鎮座。昭和十九年十二月二十八日河和海軍航空隊設置によりこの地に遷座。神社は現在鎮座する場所から東方の小学校がある辺りから遷座されたようです。ここに航空隊、つまりは飛行場があったとは知らなかった。どんな規模だったか調べて見るも古い地図では地図として出てこなかった。伊勢湾、知多湾に突き出た知多半島、その丘に作られた航空隊はさながら航空母艦の飛行甲板。こうした施設は当然標的にされる、ある意味この神社は戦災から逃れる機会を得たのかもしれない。この碑は昭和63年健之、津島神社修復とある事から、この年に遷座後初の修復を受けたのだろう。大治2年(1127年)以前に先人達は牛頭天王社を祀る動機があったのだろう、何がそうさせたのか知りたいところ。創建時の先人の思いは今も大切に引き継がれているようだ。入母屋妻入りの拝殿、正面には狛犬もいる。拝殿前の狛犬は1920年(大正9)。遷座と共に来たんだね。それでは参拝。拝殿右の境内社、六社あり手前から御霞社(須佐之男神)、社宮司社(社宮司神)、山神社(大県神)。正面の三社は右から金刀比羅社(大物主神)、大國主神、神明社(天照皇神)。本殿は柱が・・・4本、間が三つある、なので三間流造、流造。祭神は須佐之男命、大国主命、櫛稲田姫命、足名椎命、手足名椎命。高欄に何かいるようだ。それは陶器で作られた小さな狛犬。やや姿勢が悪く背中が丸い、見方を変えれば前傾姿勢でいつでも飛び掛かれる態勢の精悍な顔つきをして本殿を守護しています。 拝殿左の境内社は七社。左手前から護国社(語国神)、御鍬社(御嶽大神)、井口社(弥都波能売神)、愛宕社(火産霊神)正面三社は左から稲荷社(稲倉魂神)、御鍬社(保食神)、山神社(大山祇神)参拝を終えて拝殿から境内を眺める。境内東側に妙な空間、白い標識が建っている。こうして書いている今、遷宮地と書いてあったような気がするが思い出せない。なんだったかなぁ・・・・・気持ち悪いなァ気を取り直して、参拝を終え参道を下り待ち合わせの誓海寺に向かう。反対側からやたら犬の吠える声が聞こえてくる、後で聞くと彼女はこの時点で既に誓海寺にいたそうだ。待っている間ずっと吠えられていたらしい、この時の鳴き声がそれだったのね。想定よりゴールは早かったようだ、すまん。漸く一ノ鳥居に戻る、そろそろ隣の誓海寺に行くか、久し振りの霊場巡り、ペースは遅いだろうから到着するまで寺を見るか。(既に到着し犬に吠えられてるちゅうの)。『津島神社』創建 / (伝)1127年(大治2)以前祭神 / 須佐之男命、大国主命、櫛稲田姫命、足名椎命、手足名椎命境内社 / 御霞社、社宮司社、山神社、金刀比羅社、大國主神、神明社、護国社、御鍬社、井口社、愛宕社住所 / 知多郡美浜町古布(コウ)九条13-20『十二神社・山之神社・北方稲荷社』から車アクセス / 県道279号線経由10分程関連記事 / 『十二神社・山之神社・北方稲荷社』
2021.03.27
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何も変わらない宣言解除を受け3/23~24先送りしてきた、越中、能登、加賀の一之宮を巡ってきました。名古屋発6:00高速に乗り東海北陸自動車道で一気に北上、南砺市を目指します。今回も一泊二日の車中泊、装備もあれから追加、ナビ付TVが加わり、電気ケトル・電気敷布団、それと相変わらず敷布団は外せない。・・・・・避難民か?そうだ、人の密集する街から避難と捉えてもいいのかも知れない。ひるがの高原SAのコンビニで調達した朝食、大日ヶ岳を眺めながら屋外で食べる。周囲はまだまたフキノトウの時期だ、日陰には大量雪が残る。朝食を済ませ再び高速を福光ICに向けひた走る。名古屋から約4時間で最初の目的地「越中國一宮 高瀬神社」到着。ここまで山ばかりだった景観が開け、広大な田畑が海のように広がる砺波平野が現れる。その海の中に小島のように見える杜が高瀬神社。雪が残る山々を背景に鎮座する。創建の年代は不明で、北陸平定を終えた大己貴命が出雲へ戻る時に、国魂神として自身の御魂をここに鎮めたのが始まりと伝えられ。越中國一宮の一つ・・・・・ひとつ?何と云うのかこの國には一之宮が複数ある、射水神社、気多神社、高瀬神社、雄山神社と一之宮の御朱印を集めるかみさんには納得できないものがあるようです。二宮・三宮ではいかんのかい。雄山はともかく残りの三つの越中國一之宮は巡る予定。「越中國一宮 高瀬神社」創建 / 不明(伝)景行天皇年間 主祭神 / 大己貴命 住所 / 富山県南砺市高瀬291これから桜も咲き、田植えも終わるとまた表情も変わる、今回巡った中では周囲の景観に佇む姿が一番印象に残る神社。さてお腹も空いた、車にはコストコ射水倉庫店でガソリン補給、身近な店の混雑状況と比較するとなんとも長閑だ、殺気立ったものはない。大食いの愛車にはコストコのガソリン価格が安いのは有難い。車は燃料腹一杯、次は人の番、かみさん希望の「麺屋いろは」で富山ブラックラーメンを食す。さぞかし醤油辛いと思いきや、意外にそれほどでもない魚介系の出汁、チャーシューもトロトロで麺は多少太くスープがよく絡む。おいしいですが最後の方は多少魚醤の辛さが気になる。写真はランチセット、ひたすら炭水化物だ。麺家いろは 射水店住所 / 富山県射水市戸破1555-1次の一之宮は高岡古城公園に鎮座する「越中國一之宮射水神社」を目指す。高岡古城公園は加賀藩初代藩主の前田利長公が築いた高岡城の城址を明治時代より公園として開放したもので、富山県指定史跡、国指定史跡に指定されています。その中心の本丸広場に鎮座する射水神社は四季を通じて地元にのみならず多くの方が参拝に訪れる。射水神社は、霊山である二上山そのものを祀る社であったと云われ、古記録に当社のご祭神は「二上神」と記されているそうだ。神仏混淆が主流だった江戸時代までは、「二上山大権現」として崇敬され、その後、明治の神仏分離令を受け、二上神は瓊瓊杵尊として祀られるようになりました。公園には護国神社や築城時の石垣も一部残り、今は膨らむ程度の桜の蕾も一斉に開いた時には見応えがある。「越中國一之宮射水神社」創建 / 不明主祭神 / 瓊瓊杵尊住所 / 富山県高岡市古城1番1号公園内の護国神社を左に見て南の城下街を5分程歩いていきます。やがて左手に大きな大仏が現れます。高岡大仏高さ約16メートルの阿弥陀如来坐像で、日本三大佛に数えられ幾度も造立され、現在の物は1933年(昭和8)の造立されたもの。1221年源義勝によって約4.8mの木造大仏が二上山の麓に建立され事から始まり、与謝野晶子が高岡を訪れた際に、「鎌倉大仏より一段と美男」と評したとも伝わり、端正な顔立ちの大仏さまです。「高岡大仏」住所 / 富山県高岡市大手町11-29曹洞宗高岡山瑞龍寺加賀藩2代藩主前田利長公の菩提をとむらうため三代藩主利常によって建立された寺。伽藍の多くが国宝に指定され、手前の山門もその一つ。こちらへは麒麟茶屋の「麒麟焼き」が目的で寺は拝観せず、山門から境内を眺めてきました。曹洞宗高岡山瑞龍寺創建 / 1614年(慶長19) 本尊 / 釈迦如来 住所 / 富山県高岡市関本町35まだ二社参拝する予定なので時間の都合で見送りましたが、余裕があれば見ておきたい寺です。越中國一之宮 氣多神社地名に「一宮」と言う銘号が入るように、伏木はその昔国府や国分寺が存在した越中国の中心だった。神社境内にも越中国総社跡の伝承地とする解説板が建つ。一宮を称する4社の一つ。気田神社一ノ鳥居付近の「気田神社の清泉」は地元の方が汲みに来るほどのもののようです。龍口の右の看板がとても気になる、コロナ禍で参拝客は減り境内は彼らの生活圏になったか。「越中國一之宮 氣多神社」創建 / 757年(天平宝字元年)祭神 / 大己貴命、奴奈加波比売命住所 / 富山県高岡市伏木一宮1-10義経社道の駅「雨晴」の前の海岸線の岩山に鎮座する神社。源義経が奥州へ落ち延びる際、にわか雨に見舞われ、この岩の下で待ったという。地名「雨晴」の由来となっています。岩の下は波で侵食された岩が柱のように残り、それ以外は広間のようになっいて、雨をやり過ごし晴れを待つにはいい空間が出来ている。この岩の頂に鎮座するのが義経社。鳥居を構え岩の頂に続く急な石段が付いている。この一帯の海岸は雨晴海岸と呼ばれ、岩礁が多く白砂青松の景勝の地で、万葉集に「渋谿(しぶたに)」と詠まれ、日本の渚百選の一つでもある。「おくのほそ道の風景地」「有磯海」として名勝に挙げられている。沖の小島は「女岩」と呼ばれ、周囲の小さな岩は母に連れそう子供のように見えることからこのように呼ばれるようです。天候が良ければ女岩と富山湾の先に立山連峰を望むことができる。手前の線路はJR氷見線で、国道415号線脇の道の駅からだと海岸線を走る電車に踏み切りと義経岩、女岩の先に夕陽に赤く染まる立山連峰の絶景が見られるチャンスもある。ここは人の出入りや行き交う車も多く車中泊には適さないかもしれない。「道の駅雨春」住所 / 富山県高岡市太田24番地74道の駅 氷見今夜の宿泊地到着、この道の駅はすぐ近くにスーパー銭湯「総湯」や老舗の酒蔵「高澤酒造場」もあり、何より立山連峰から上る朝陽が美しく見える場所。しかも無料の足湯もあるので云うことなし。ビール片手に車中を宴会兼宿泊モードに切り替え、散策がてら酒蔵に出向き土産用の酒を買い求める。コロナの影響から試飲は当然なく、満を持して歩いてきても寂しい限り。二日目も快晴、いつものように日の出前から目が覚める。富山湾の先の立山連峰が赤く染まり、ご来光を眺める、早起きのご褒美です。手前の小島は氷見港に浮かぶ唐島。朝食は魚市場食堂氷見魚市場の2階にある食堂で入口は分かりにくく、朝6:30から営業のはずなのだが「やってるよ」の看板も出ていない。扉を開け二階に通じる階段を上ると食堂。鮮度が売りの店として評判の店。朝っぱら海鮮丼、かみさんはやわゃわ盛、おやじはイワシ定食が朝食。氷見と云えばブリでしょうが時期は過ぎているのでブリ押しのメニューは避けてみた。これにもれなく漁師汁が付いてくるのでボリューム満点、食べきれない。イワシは鮮度も良く、久しぶりにおいしいイワシの刺身を食べた気がする。漁師汁はとてもおいしかったが、身は食べる気がしなかった、ブリの骨は避けて通れないにしても、鱗が皮に着いた状態というのはいただけない。せっかくの味も鱗が口に入る食感で一気に食べる気を失う。これは「つくねと汁」を味わうものと割り切った方がいい。決して安くはないけれど、下手な観光客目当ての店よりは鮮度もよく、漁港独特の香りと商売気のない入口さえ受け入れればお勧めできる。「魚市場食堂」住所 / 富山県氷見市比美町435さあここから二日目が始まる、今日は能登國一宮と加賀國一之宮を参拝します。能登國一之宮氣多大社石川県羽咋市寺家町にある神社で日本海の海岸に一ノ鳥居を構え、そこから陸に向かい真っすぐに参道が続く。上の写真はニノ鳥居横の駐車場から海岸方向の眺め、遥か先に一ノ鳥居が見える、あそこまでは行ってられない。中段がニノ鳥居から境内の眺め。下段、手水鉢に生けられた花々、遠くから訪れ、清めが出来ないご時世にこうした心遣いはありがたい。社伝によれば、第8代孝元天皇の御代に祭神の大己貴命が出雲から多くの神を率いて来降し、化鳥・大蛇を退治して海路を開いたという。創建 / (伝)第8代孝元天皇の御代、または第10代崇神天皇年間とも主祭神 / 大己貴命住所 / 石川県羽咋市寺家町ク1ここから次は千里浜なぎさドライブウェイ沿いに加賀國一之宮に向かいます。道の駅「のと千里浜」海岸沿いの綺麗な施設、足湯やEVパークなどあり、毘沙門天の砂像が出迎えてくれる。この辺りはイノシシ推しなのか。道の駅「のと千里浜」住所 / 石川県羽咋市千里浜町タ1番地62次は加賀國一之宮、加賀・越前・美濃3国それぞれから霊峰白山の山頂に至る登山道、三馬場のひとつ加賀馬場のある白山比咩神社に向かいます。加賀國一之宮白山比咩神社石川、福井、岐阜の3県にわたりそびえる白山、古くから霊山信仰の聖地として仰がれてきました。山は麓に暮らす人々や平野に住む人々にとって、白山は命の水を供給してくれる神々の鎮まる聖なる山として崇められてきました。主祭神 / 白山比咩大神、伊邪那岐尊、伊弉冉尊 創建 / (伝)第10代崇神天皇年間 住所 / 石川県白山市三宮町ニ105-1さてこれで今回の越中國、能登國、加賀國一之宮巡りはコンプリート。後は蕎麦を食べて名古屋を目指す事にします。白山比咩神社から車で、ものの2~3分のところにある「草庵」へ。営業時間が11:30という事で開店まで10分程周辺を散策し開店を待つ。粗挽きそばと十割蕎麦で腹ごしらえ、古民家を改装した店内はジャズが流れ、インテリアも落ち着いたもので、そんな雰囲気で味わう蕎麦は、歯応えもあり、汁も出汁の風味が利いたものでおいしい蕎麦。薬味はワサビよりおろしの方がベストマッチ。ただ、そば本来の香りについては今一つだった。 蕎麦湯はなかなかおいしいものでした。数量に限りがあるようですが、白山比咩神社参拝の折には寄ってみるのもいいかもしれない。「草庵」住所 / 石川県白山市鶴来日吉町ロ32お腹も満たされ一路九頭竜川を遡り、白鳥方向を目指し、途中で山菜とけいちゃんを買い求め名古屋に向かう。2021/3/23~24今回の走行ルート関連記事 / 苔を訪ねて白山の麓まで 「白山長瀧寺と長瀧白山神社」
2021.03.26
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熊野本宮大社を後に熊野川右岸を50分程河口に向かい、熊野速玉大社に向かいます。熊野本宮大社から国道168号➡国道311号線➡168号線➡国道42号線経由「速玉大社前」交差点で左折。 目の前に朱の大鳥居が見えてきたら右折、東門駐車場に向かいます、ここまでの移動時間約50minです。駐車場はそれほど広くはなく、到着した時には空きを待つ車で列が出来ていました。こちらの駐車場、神門前に直接入れるため混むようです、しかし駐車場入口から右方向に未舗装の細い道がありそちらへ進む。本殿後方にあたり、熊野川の堤防が目の前に迫る未舗装の駐車場ですが難なく駐車できました。熊野本宮大社辺りの熊野川の川幅は結構広かったけれど、河口に近いこの辺りに来ると更に川幅は広がります。写真は駐車場前の堤防道路から河口方向の眺め、手前に架かる橋は新熊野大橋。駐車場から正面の太鼓橋のある大鳥居に向かいます。写真はその途中にある川原屋横丁、参拝客向けの飲食店が連なります。朱の太鼓橋と大鳥居。左に「熊野大権現」、右に「熊野速玉大社」社号標。参道付近の世界遺産「熊野速玉大社」解説「熊野速玉大社は神倉山の霊石「ゴトビキ岩」を御神体とする自然崇拝を源として、「ゴトビキ岩」に降臨された熊野三神(熊野速玉大神、熊野夫須美大神、家津美御子)を西暦128年に神殿を建て祭祀した事から始まる。「日本第一大霊験所」の勅額を賜り、全国の熊野神社の総本宮として崇敬される。境内には椥の大樹や国宝古神宝類も奉納されている。」下は「熊野古道案内板」熊野本宮大社は地図の上端、熊野速玉大社は下端の位置関係。流長180㌔を超える熊野川も少し行けば熊野灘は近い。大鳥居コンクリート製の朱も鮮やかな両部鳥居。「熊野権現」の扁額。2004年にUNESCOから「紀伊山地の霊場と参道」として世界遺産に登録された。それを構成する一つが熊野速玉大社。「速玉」?、しぶきを表すとか諸説あるようですが、何れも生命の根源である水の動きを神格化したものの様です。鳥居から参道を進んだ右に赤い鳥居と春日造りの社が2社。右が八咫烏神社祭神は建角見命熊野速玉大社末社で丹鶴山麗に古くから奉祀されていた、神武帝の道案内をしたと古典に記され、熊野神の使者とも云われ、交通安全、招福の御神徳が高い。左が鑰宮 手力男神社祭神は天之手力男命延喜式神名帳に紀伊國牟婁群手力神社とある古い社、元は神門内に祀られていたが813年(弘仁4)に現在の社地近くへ遷り明治40年に新宮神社に合祀、武道、健康、開運の御神徳が高い。参道と奉八度の記念碑「日本第一大霊験所として古来各地からの参拝が多い、石碑は表に「奉八度参詣 奥州南部八戸領久茲八日町 吉田金右衛門」、右側面に「宝永5年(1507年)子7月日」と刻まれている。熊野信仰を物語る貴重な遺物である。」この時代に八回参拝とは、それ程に人を引き付けるものがあるようだ。樹齢1000年を超えると云われる御神木の椥(ナギ)の木。古来から熊野は祈りの聖地として憧れの異界。椥の葉は霊威ある御守りとして大切にされてきた。平重盛お手植えと云われ、左右対称の葉の形から夫婦円満のご利益があるとか。参詣曼荼羅世界遺産登録を記念し作られたもの。熊野速玉大社を中心に、右に本宮から熊野川を下る川船や熊野灘から船で訪れる人々、左上には神倉山のゴトビキ岩が描かれ甦りの熊野詣の様子が描かれています。自然信仰から神道へ移り変わっていく熊野信仰。六世紀に仏教が伝わると神仏習合が進み「熊野権現信仰」として全国に広まっていきました。「権現」とは、神が仏に姿を変え、人々を救うため現れるという意味で、過去・現在・未来を救済する霊場として熊野は広く人々に受け入れられ、強者弱者、地位や善悪、信不信にかかわらず、別け隔てなく救ってくれる神仏として民衆に崇敬されます。それ故に人々は難行を承知の上で滅罪と救いを求め熊野をめざし旅に出ます。「次左です、間もなく目的地周辺です」なんていう今の時代とは違い、命を懸けた旅立ちだったと思います。煩悩にまみれた自分を見つめ、清めるために訪れ、初期化してもらう、「甦りの地」と云われる由縁なのかもしれない。熊野古道はそうした人々により付けられた道。訪れた当時は改修中で全容は見れませんでしたか、神宝館では貴重な所蔵品が公開されています。参道は右に折れその先に神門が現れます。手前には高く積まれた台座の上に狛犬と右に手水舎。狛犬阿形の後方が東門駐車場、ここから参拝に訪れる方が大半を占めます。見あげる高さから遥か先を見据える狛犬。神門と手水舎龍口が個性的、象の鼻のように突き出た先端から清水が注がれ柄杓で受け清めるのでしょう。コロナ禍、柄杓もなく、清めも出来ないので龍も抜け殻となりお休みだ。手水舎の右奥に鳥居がある。熊野稲荷神社、こちらも春日造り。神門左の大禮殿コンクリートの入母屋造で綺麗なもの。神門長い歴史を持つ熊野速玉大社ですが現在見る伽藍は比較的新しいもの、1883年(明治16)に火災で社殿を焼失します。それが再建されたのは1967年(昭和42年)という、なので伽藍は全て新しく中にはコンクリート造りのものも多く、古い社殿をイメージして訪れると随分ギャップを感じる。とはいえ、朱で彩られた社殿は周囲の杜の中にあって荘厳な印象を与えてくれます。神門の大きな注連縄と「全国熊野神社 総本宮」の額。細かな装飾はないけれど優美な姿の門。神門内に飾られている素木の彫飾りも古さを感じない、過去の災いから蘇り、現在、未来に向かい味が深まっていく過程の姿でしょう。菊紋が輝く神門の先に社殿が広がります。正面に見えているのが上三殿。境内右からの朱に彩られた社殿全景。社殿は大きく七つに分かれ、手前から下四社、中四社、上三殿、速玉宮、結宮と連なっています。下四社は国狭槌尊、豊斟渟尊、泥土煮尊、大戸道尊、面足尊。中四社は天忍穂耳尊、瓊々杵尊、彦火火出見尊、鵜葺草葺不合命。上三殿は家都美御子命、国常立命を祀る「証誠殿」、第四殿は天照大神を祀る「若宮」と高倉下命を祀る「神倉宮」の3社相殿。速玉宮は熊野速玉大神 。結宮は熊野夫須実大神が祀られる。速玉宮拝殿、コンクリート造り建物。参拝の順番を待つ人の距離感に意識の高さを感じます。さて私達もここに加わり参拝。速玉宮、祭神は熊野速玉大神。蘇りの力を垂れ給う熊野の父神、病気、苦しみ、業を祓う過去世の守護神。左が結霊宮(結宮)、祭神は熊野夫須実大神。万物を生み成し給う熊野の母神、万物を生み成し給う熊野の母神。願望成就、現世の守護神。そして中央に「日本第一大霊験所、根本熊野権現拝殿」の額。下四社から上三殿社殿。朱塗の流れ造りの社殿は目にも鮮やかです。拝殿から下四社方向の眺め。境内左の参集殿。後方の山並みは神倉山に続きます。熊野速玉大社由緒と熊野御幸解説。907年から1303年にかけ上皇、女院、親王を含め140回の皇室の参詣があり、これを熊野御幸というそうです。御幸の道順は京都、住吉、和泉、紀伊半島海岸線沿いに南下し田部、中辺路、本宮を経て熊野速玉大社に参拝、那智山、雲取、本宮の往路を逆行して帰京される、およそ二十数日に及ぶ旅だった。熊野御幸により公卿武士、庶民の間に流布し、熊野水軍を持つ熊野三山の忠誠心の助長につながり京と熊野の交流に大きな影響を与えた。境内右手の東門の脇に二つの鳥居。左の石の鳥居のある社は新宮神社。白と朱のコントラストが綺麗な社殿。詳細は不明、境内にあった金刀比羅宮に新宮町内の末社を合祀したものだという。右の赤い鳥居は熊野恵比寿神社。詳細は不明。御朱印を手に満面の笑顔のかみさんと合流、さて次に向かいますか。目指すはこの先の神倉山です。熊野速玉大社主祭神/熊野速玉大神/熊野夫須美大神創建 / 伝 景行天皇58年 住所 / 和歌山県新宮市新宮1番地熊野本宮大社から車アクセス / 国道168号➡国道311号線➡168号線➡国道42号線経由「速玉大社前」交差点で左折 約50分程関連記事 / 車中泊で熊野三山巡り 熊野本宮大社「大斎原」 熊野本宮大社 『産田社』 熊野本宮大社
2021.03.23
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『御日塚神社』から稲置街道を北へ5分程歩く。今年初めて土筆の姿を見かける。しかも道路と側溝の僅かな隙間から立派に生えている。自然のたくましさを感じる。ここは犬山市羽黒新田上島。犬山と云えば犬山城、木曽川の鵜飼いで知られるところ、マンホールにもそれがデザインされています。地元を離れ地方に出かけると、こうして下を向いてマンホールのデザインを見て歩いているとその土地の誇りが良く分かって楽しいものです。随分コレクションも貯まってきた、それら纏めたい気持ちはあるのだが・・・・・歩いてみて初めて気付くものもあります。この堂もその一つかもしれない、車でささっと移動していると気付かないかもしれない。住所だと羽黒新田上島になるのかな、細い道が街道に交わる角地に大きな岩とその左に石像が安置され、奥には瓦で葺かれた堂の中に複数の石仏が安置されているようです。遠目から見ると庭石が置いてあるようにも見える。石標もなく名称は分かりません。この後方の建物は集会所だろうか、北野会館と書かれていた。集会所や公民館の一画に良く神社等祀られていたりしますが、ここもそうなのかな。右側に岩が積まれ、その頂に石像が安置されています、覚明行者の石像の様です。手前に解説もあり内容は以下。「御嶽信仰中興の祖、覚明行者石像 御嶽山黒沢口からの登山道を整備、御嶽登拝を容易にして御嶽信仰を一般民衆に広めた人物」とある。覚明行者の誕生の地は春日井市の牛山町とされます、ここからそれ程遠いとは言えない。今も御嶽講は受け継がれているようで、この一帯や小牧、春日井方向にかけて、こうした像や御嶽神社をよく見かけます。左の石標は「御嶽山大権現」、この一画そのものが霊峰御嶽という事です。この辺りなら空気が澄んでいれば東方向に山々の先に遠く御嶽の姿も拝めるはずです。堂内には西国三十三観音石仏が安置され、馬頭観音や如意輪観音、十一面観音の姿が見られます。それらの石仏には文字は刻まれていますが「番」以外はよく読み取れない。西国三十三所の札所の本尊は観音菩薩、十一面観音、不空羂索観音、千手観音、馬頭観音、准胝観音、如意輪観音のいずれかが本尊。観音菩薩は三十三の姿に変化し導きを与えてくれることから三十三の札所となるそうです。現存するかよく分かりませんが、この辺りを中心にした霊場巡りもあるようです。街道の道すがらには小さな堂に安置された石仏や、個人宅の敷地に埋没した道標など退屈する事はありません。区画整理された街ではこうしたものも寺の境内に移されたり、ある時突然消えていたりします。郊外に出てこうしたものが残っている姿を見ると、作り手や安置された個人の思いが尊重されているようで足は止まってしまう。稲置街道の三十三観音石仏住所 / 犬山市羽黒新田上島1アクセス / 『御日塚神社』から北へ徒歩5分 関連記事 / 名鉄小牧線沿線 春を探しに25,000歩 御日塚神社
2021.03.21
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犬山市追分「御日塚(おひづか)神社」名鉄小牧線「楽田」駅。踏切には大縣神社の社号標が建っていて、ここから東は大縣神社への参道です。ここから東に進む道路は県道大縣神社線と呼ばれ、この地方では結構知られた大縣神社に続きます。今回は稲置街道沿いを歩くのが目的なので参拝に訪れませんが、機会を見て訪れたい神社のひとつ。さて踏切を超えて稲置街道に向かいます。駅から西に出て細い路地を進んで行きます。ここが既に稲置街道。江戸時代、名古屋城下と犬山城下を結んだ脇街道で犬山街道とも呼ばれています。名古屋城東大手門から中山道鵜沼宿を終点とする街道で、稲置の由来は当時街道沿いにあった村の名称から付いたと云われています。この辺りの住所に追分と付くように、上の写真で正面の教会のところから道路は分岐し、右が上街道 (木曽街道)、左が稲置街道に分かれます。なので目的地へは左の稲置街道に進んで行きます。街道を歩く目的で訪れる方に出会うこともなく、距離感を意識する必要はありません。追分から歩いて5分もかからなかったと思います、街道沿いの住宅地の外れに神社が現れます。ここが「御日塚神社」街道沿いに神明鳥居と社標があり社地は玉垣で囲われています。大きな杜がないので境内の社殿はよく見通すことができます。街道から社殿側面の全景。境内は綺麗に手入れが行き届きとてもすっきりした印象。瓦葺の四方吹き抜けの拝殿と同じく瓦葺の覆殿というシンプルなもの。いかにも追分の氏神様という佇まい。境内全景。大きな杜がないので、それが開放的で風の通りのいい明るい神社の印象を受けます。鳥居から境内に入った左に手水鉢。当然清水は張られていない、随分と年期を重ねているようですが、この鉢から始まって鳥居など奉納年を見忘れました。拝殿正面全景。外観は飾りを廃した質実剛健ともいえるシンプルなもの。拝殿から本殿の眺め。覆殿の内に祀られた本殿まで見ていないので造りは分かりません。それでは参拝させてもらいます、僅かな賽銭大きな祈願。御日塚神社の創建は1598年(慶長3)と見た目以上に古くから鎮座しているようです。祭神は食物や家畜の神とされる保食神(うけもち神)を祀る。ここまでは分かったけれど、創建以来ずっとここで鎮座していたのかそれは定かにはなりません。稲置街道沿いで、街道筋の面影をとどめた周囲の状況から突拍子もない所から遷座してきたとは思えない。人や荷役の馬が行き交う街道の分岐、楽田追分という事を考えると、昔からここに鎮座し集落を見守ってきたのでは、そう思いたい。少し西に出れば県道27号線 南に下がれば県道177号線があり行き交う車も多い。東には名鉄小牧線が整備されてはいるけれど、神社周辺は至って静かで長閑な環境です。角の取れた丸い石を高く積み上げ、その上に覆殿が建てられている、近年補修の手が入っているようです。御日塚の意味までは分からないし根拠はないけれど、塚と付くとなんとなく古墳の香りが漂う。現況は塚をイメージする痕跡は見当たりません。稲置街道と上街道に分かれる追分に鎮座する御日塚神社、小さな神社ですが綺麗に手入れされ訪れて気持ちのいい神社でした。『御日塚神社』創建 / 1598年(慶長3)祭神 / 保食神(うけもち神)住所 / 愛知県犬山市追分61公共機関アクセス / 名鉄小牧線「楽田」駅降車、徒歩で北に15分程関連記事 / 名鉄小牧線沿線 春を探しに25,000歩
2021.03.20
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産田社から長閑な田園地帯の参道から右に5分程で目の前に国道168号線が現れる。国道沿いに『熊野本宮大社』の大鳥居が建っています。参拝客は大斎原や産田社に比べると当然ながら多い。鳥居左方向に本宮に一番近い駐車場があるけれど既に満車のようだ。本宮参道口。社号標、燈籠、狛犬、明神鳥居など本宮に相応しい大きなものだ。大斎原の日本一の鳥居を見てからだとそれもやや霞んで見えてくる。鳥居扁額「熊野大権現」鳥居左に三本足の八咫烏が描かれた大きな幟。八咫烏のマーク入りマスクを付けられた狛犬。緑に包まれた参道。両脇の奉納幟は途切れることなく上まで続く。参道はここから158段の石段となる。「功霊社」石段の途中にあり、過去の戦争における戦没者の霊が祀られています。「功霊社」から石段を更に上った左に「祓戸大神」。積もり積もった罪や穢れをここで清めてから上に進みます。158段の石段も間もなくゴール、右手の手水舎で再び清め・・・・・コロナ感染症対策でこちらの手水舎は使用中止。この先の社務所前に手水があるのでそちらで清める。上熊野神社は全国に4776社もあるのだそうだ、全国各地からこの本宮を訪れる。下旧本宮社殿絵図熊野川とそこに流れ込む音無川と岩田川の二本の支流が作り出した中洲「大斎原」は約1万1千坪の境内に5棟12社の社殿に楼門、神楽殿や能舞台など、現在の数倍の規模を誇っていた。それも1889年(明治22)の大洪水で旧本宮は被災、鎮座していた上、中、下社の各4社の内、上四社を除き甚大な被害を受けた。大斎原から約700㍍上流のこの高台にはもともと「祓戸天神社」が鎮座していたが、1891年(明治24)にここに上四社を遷座したのが現在の姿。宝物殿。「三角縁神獣鏡」や日本で二番目に古いとされる「鉄湯釜」、「熊野本宮八葉曼荼羅 」など展示されている。拝観料は300円。石段を上り切ると社殿域。正面に神門、左手に社務所、拝殿と続き、右手に授与所。上神門右手の由緒書き「東御前(若宮)天照大神。御本社(證誠殿)家津御子大神(素戔嗚尊)。西御前(速玉宮)速玉大神(伊邪那岐大神)、(結宮)夫須美大神(伊邪那美大神)当宮は熊野三山(本宮・新宮・那智)の首位を占め、全国の熊野神社の総本宮で熊野大権現として世に知られている。主神は素戔嗚尊、樹木を支配する神で紀国(木ノ國)の語源もここから起きています。植林を奨励、造船技術を教え、外国との交通を開かれ、人民の幸福を図られるとともに生命の育成を司られた霊神。第十代崇神天皇の御代に熊野連が当地に社殿を造営し鎮祭したと伝えられる。奈良朝の頃から修験の行者が頻繁に出入りし修行した事から更に神威が広まった。延㐂(喜)7年、宇多法皇の御幸をはじめ約300年に渡り法皇・上皇・女院の御幸は百数十回に及び熊野御幸と云われる。神仏習合によって御主神を阿弥陀如来として尊び、日本一と云われた霊験を仰ごうと全国各地から熊野の深山幽谷を訪れ「蟻の熊野詣」や「伊勢に七度、熊野に三度どちら欠けても片参り」とまでうたわれ、それと共に全国に分社が祀られ現在5000社を数える。戦乱の中でも人々の信仰は高まり、神威は熊野牛王(おからす様)の神符とともに伝播していった。現在の社殿は享和2年、徳川家斉により大斎原に建立されたが明治22年の大出水で現在地に修造、遷座されたもの。社殿の造りは熊野造り」下旧社号標と解説。「当社の社号は熊野本宮大社であるが、延喜式神名帳に「熊野坐神社」と記されている。その後「熊野本宮」という名称が定着したが、明治4年「熊野坐神社」を正式社号として登録、公表した。この社号標は昭和15年の建立で時の首相による揮毫」神門に掛けられた大きな幕や注連縄、その先に本殿が見えてくる。「前進」本殿全景。手前から入母屋檜皮葺平入の建物が西御前と中御前、その右の妻入りの建物が本殿、更に右が東御前と並び、写真では入っていないけれど一番東側に満山社が鎮座する。第四殿までが透塀で囲われ其々中門が付く。第一殿 祭神は夫須美大神(伊邪那美大神)第二殿 祭神は速玉大神(伊邪那岐大神)一つ屋根の下で夫婦神が鎮まる。1802年(享和2)の建立。第三殿 祭神は家津御子大神(素戔嗚尊)1810年(文化7)の建立。第四殿 祭神は天照大神。1802年(享和2)の建立。夫婦神の子がすぐ近くで鎮まる。満山社結びの神・八百萬の神を祀り、2007年(平成19)に115年ぶりに復興されたもので、お祀りされている玉石は人と人を結ぶ再生の玉石だそうだ。さあ賽銭を準備して参拝。まずは第三殿の素戔嗚尊、次に第二殿の伊邪那岐大神、そして第一殿の伊邪那美大神、次に第四殿で天照大神、最後にこの満山社に参拝するのが正しい参拝順です。拝殿後方から神門方向の眺め。境内左奥の「和泉式部祈願塔」苔むした小さな塔は大斎原に立っていたがこちらに移転されたもの。平安中期の歌人和泉式部がようやく本宮参拝を前にして「晴れやらぬ身に浮雲のたなびきて 月の障りとなるぞ かなしき」と悲しみを詠んだという。男には分からない自然現象だ。その夜、熊野権現が夢に現れ「もろともに塵にまじわる神なれば 月の障りの何かくるしき」と詠み返してきたという。「悲しむな、心苦しく思う事はない詣でなさい」そのお告げに導かれ和泉式部は参拝を果たしたという。熊野権現(阿弥陀如来)の慈悲深さを表すものかもしれない。 神門を出て社務所に向かいます。社務所前の手水鉢。入母屋平入で唐破風が施された拝殿、左右には丸い大きな石に八咫烏が描かれ、一方の対座には天・地・人と刻まれています。参道手前に大きな狛犬。白くて大きな狛犬は感染防止対策も完璧だね。早く顔が見たいものだ。八咫ポスト拝殿に向かう参道の左に置かれ、ここから絵馬を投函すると八咫のスタンプが押されて配達されるようで、結構投函される方を見かけました。上八咫ポストの上には神の使い八咫烏が羽を広げ飛び立つばかり、コロナ終息へ導いてくれるのでしょう。下八咫烏由来「熊野では八咫烏を神の使者と云われます。三本足は熊野三党(宇井・鈴木・榎本)を表すと云う。当社の主祭神家津御子大神(素戔嗚尊)の御神徳である智・仁・勇、また天・地・人の意を表している。烏は一般に不吉の鳥としてされてきているが、方角を知るので未知の地へ行く道の案内や、遠隔地へ送る使者の役目をする鳥。熊野の地へ神武天皇東征の砌、天皇が奥深い熊野の山野で迷った時に八咫烏が導いたとされる。また源平合戦では、那須与一出身地の烏山城は烏が金の御幣をこの地にもたらしたことから築城したとも云われる。人の道開きの開運、人生、目的達成、旅行安全、通学安全等を守護するとして仰がれています。そうしたことからJFAのシンボルとして採用されているようです」導く者がはっきりしないこのご時世、八咫烏が現れ今を導いてくれないだろうか。熊野本宮大社創建 / 崇神天皇65年祭神 / 素戔嗚尊、伊邪那岐大神、伊邪那美大神、天照大神境内社 / 満山社、功霊社、祓戸大神住所 / 和歌山県田辺市本宮町本宮1110産田社から徒歩アクセス / 北に5分程関連記事 / 車中泊で熊野三山巡り 熊野本宮大社「大斎原」 熊野本宮大社 『産田社』参拝を終え、御朱印も頂いた、158段の石段を再び戻るのも良し、右にある細い熊野古道で下まで下りるも良し、どちらを進もうか?私達は熊野古道で下まで降りる事を選択した、それとて楽な道ではありませんでした。下は相変わらず駐車場の空きを待つ車が見受けられました。少し歩けば熊野川の河川敷に広大な駐車場があります、そちらに回るのも一つの選択肢かと思います。尚、写真撮影は社務所に声掛けはお願いします。
2021.03.19
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緊急事態宣言延長の具体的成果はなんだったのか明確な説明もなく解除したいようだねこの延長に何の意味ががあったのかよく分からない時間ばかり無駄にして考えあぐねている間に、グラフの対象は既に別のステージに変貌している数値の対象が変わろうとしているなかで、のんびり議論ばかりに時間を費やしてきた相手の切替し知恵と速さが皆を導く一部の集団より上回っているそもそも意向表明が先なのも順序が違う、その辺のおっさんの独り言では済まない立場だ独り言を言う前に十分意見を収集し発言するのが筋ではないかと思ったりする。明日は専門家がその立場から忖度なしの見解を述べる事を期待したいその結果に対し施策を実施するのが導くもののすべきこと何をしたいのか、さっぱり見えないこの期に乗じて巨額の予算に群がり私腹を肥やすものもいるだろう宣言したり解除するのが唯一無二の施策なんだろうか?素直に非を認め改められない、平気で虚偽を押し通すこんなマインドの集団が感染症なり原発なり任せていて大丈夫なんだろうか時間を与えるだけ無駄で何が真実なのかさっぱりわからない、どんな国だ、こんな国なんですよ全国民PCR実施する時間くらいは十分あっただろう、今後もあるだろうグラフばかり眺めていてなにも始まらない。やります、やらせますは過去の話、成果が問われ、成果が出ない者は変るのが世の常コロナの方が賢いのかもしれないな
2021.03.17
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昨日(03/15)は日差しも温かく、陽気につられ郊外へつくしを摘みに出かけてきました つくしは随分大きくのびていましたが それでもひと掴みほどの小さなつくしを摘むことができました摘んだ土筆は卵でとじられ晩御飯の食卓に、今年の春を味わう野山には小さいけれど鮮やかな色合いも増えて来た 小川にはオイカワの姿も見られ、春が来てるのを実感するこんな光景を見るとフライが振りたくなる 川面を流れる小さなフライ・・・・・どこにあるか見えはしないのだが見えない事を実感しに行ってみようかナ そんな気にさせる陽気になってきた
2021.03.16
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西尾市平坂町熊野 『平坂熊野神社』三河一色諏訪神社から車で国道247号線を北上、県道383号線の平坂港東交差点を右折、200㍍程直進した左側の平坂熊野神社の参拝者駐車場に到着。諏訪神社から20分程の移動時間。熊野神社境内全景。この広い境内の一部が駐車場、パーキングの心配なしに安心して参拝が出来る。正参道の鳥居全景。石の明神鳥居と左に由緒書きがあります。鳥居に掲げられた「熊野神社」扁額。由緒書き熊野神社祭神 / 伊邪那美神命 速玉之男神 事解之男神由緒 / 弘治二年、当地開拓の際、羽塚村より遷座し鎮守神として祀る。明治五年10月村社に列し、同四十年十月神饌幣帛料供進社に指定。弘治二年は1556年にあたる、道三が長良川で討死、明智城が落城するなど目まぐるしく動いた戦国の時代にあった。その年に現在の鎮座地から少し東の羽塚村から遷座したという。創建が定かにならない歴史のある神社。境内は南北に広い社地を持ち、駐車場のある南側にニノ鳥居と手水舎がある。そこから一段上がって本殿域が広がります。ニノ鳥居、石造りで控え柱の付いた両部鳥居。そこから緩い石段を上った先が拝殿。正面に拝殿、右に神楽殿、拝殿左に末社が見える。境内右に玉垣で囲われた1本の木がある、若い木のようですが、これ御神木だろうか。石段を上がった右側に伊勢神宮遥拝所。石の神明鳥居と灯篭もあり、遥拝所としては立派じゃないだろうか。この先がお伊勢さん方向。境内右に高床で入母屋瓦葺の見るからに新しい神楽殿。2019年、津島社とともに建て替えられたもの。境内左に社務所とくまの会館。境内正面に目を向ける、こちらも綺麗な拝殿です。入母屋で破風が施された向拝の付く拝殿は重厚感のある佇まい。左に流造の末社、右にも切妻の社殿があります。拝殿斜景。2014年、約150年ぶりに本殿遷座祭が執り行われ、拝殿もそれに伴い建て替えられたもの。この拝殿、人目を引くオラオラ感満載の光輝く飾りはないけれど、棟瓦から始まり、向拝下の透かし彫りや木鼻等至る所に龍が描かれている。こうした拘り方の建物は見ていても楽しい。拝殿前の狛犬。リフレッシュされた伽藍の中、一番キャリアを持っているかもしれない。奉納年を見忘れたけれど、建て替えから7年程でこの貫禄はないだろう。向拝の龍達。木鼻の龍は迫力があり、斗供の手先構造や飾りにしてもコンクリートにはない作り手の拘りが伝わってきます。ここにも。熊野神社扁額。祭神は伊邪那美神命、速玉之男神、事解之男神伊邪那美神命は古事記・日本書紀の記述によれば、伊邪那岐命夫婦の契をかわし、日本で初めて男女の結婚の道を興された「むすびの神」として崇められ、親・兄弟・親類・友人・同僚・隣人等、全ての人達とも、仲良く結び合っていけるよう導いて頂ける神さまです。外観の飾りに見惚れていると神職の方が外から戻られ、「拝殿の天井絵も是非見てほしい」とわざわざ扉を開け中まで案内してくれました。写真撮影のお許しを頂き拝殿内と天井絵を撮らせて頂いた。木の香漂う新しい拝殿は当然ながらピカピカです。これから年を重ねるごとに木の表情は一層深みを増していきます。拝殿内の両脇に御神体を守護する木像の右大臣、左大臣が安置されています。格子天井の中央に雲竜図が描かれ、こちらを睨む龍の視線がある。荒々しい龍に見えますがタッチや彩色はとても繊細に描かれています。淡い色合いや線が出る様に写真は少し強調していますが、それでも実物の味わいとはかけ離れているようです。実物を是非ご覧ください。さて、この天井画には「八咫烏」の隠し絵が施されています。熊野神社の神紋「八咫烏」はどこに描かれているでしょう。一番最後に拡大写真を貼っておきます。拝殿右の切妻の社殿は津島社。2019年の神楽殿建て替えとともに新たに建て替えられたものです。木の色合いはまだ〃新しい。津島社の狛犬も2019年の新米という事はないだろう。阿形の表情はにこやかに笑ってないかい。津島社扁額。木の香が伝わってくるようだ。板宮造りで高欄が付いた津島社本殿。ここまで綺麗だと参拝していても気持ちがいいものです。拝殿左の末社。これらは近年の建て替えの対象ではなかったのかな、若干年季が入っているようです。流造の三社。右から神明社と御嶽社の相殿、中央が猿田彦社、左が秋葉社と多度社の相殿。末社から更に左に向かう参道があり、そこにも鳥居が建っていた。さて「八咫烏」見付けられたかな、神の使いはここに描かれています。2021/1/15平坂熊野神社創建 / 不明 1556年(弘治2)羽塚村より遷座祭神 / 伊邪那美神命、速玉之男神、事解之男神境内社 / 津島社、神明社、御嶽社、猿田彦社、秋葉社、多度社住所 / 愛知県西尾市平坂町熊野45三河一色諏訪神社から車アクセス / 国道247号線を北上、県道383号線「平坂港東」交差点を右折、200㍍程直進した左側、所要時間20分程関連記事 / 三河一色 諏訪神社
2021.03.15
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以前掲載した「吹上観音・白龍大神」を後に、「吹上ランプ北」から若宮大通りを横断する。一回の信号で渡り切れない100㍍道路を渡り切り、そのまま少し入ります。この辺りも当然ながら住宅やビルが建ち並び神社の存在を感じさせる趣ではないけれど、間もなくすると前方に「吹上八幡社」が見えてきます。若宮大通りから一本北に入っただけですが、周辺の建物が杜のように騒音を遮断し意外に静かな環境にある。随分と忙しない大通りに比べ趣はガラッと変わる。上は明治頃の吹上界隈、名古屋新田の開拓により田畑が広がり、そこに点々と集落が点在する。集落の外れに鎮座していた神社も変貌を遂げ、今や住宅地の中に埋没するように鎮座する。更に過去に遡るとこの地の少し南側まで海岸線が迫っていた。この吹上の町名由来が「千種区の町名由来」で以下のように記されていた。「古矢田川層の上にできた村落で、昔はこの辺りまで入海だったため、真砂が風で吹き上げた所といわれています。風を受けやすい地形に多い地名です」とあった。それも台地の移り変わりと人の地道な開拓により今や海岸線は臨むべくもない。「吹上八幡社」鳥居から境内全景。石の明神鳥居の右に社号標と石灯篭(大正4)、参道の先に拝殿、右が社務所。周囲の環境を考えると良くぞ社地として維持されてきたものだ。鳥居右の「吹上八幡社」由緒書き『祭神は応神天皇。創建は1858年(安政5)、御器所村字木市に祭祀されていた、1886年(明治19)崇敬者の勧請によりこの地に遷祀。住民の安全を守る守護神として崇敬が厚く、古来は弓矢の神として武人から崇敬された事から戦時中は召集された兵士たちが武運長久、災厄除けを祈った。御事跡には「田地の改正制定、農機具の改良、考案、商法の制定、堀井用水の開発等があり、家内安全、商売繁盛、健康長寿、授福の神様として信仰されている』元々は「吹上観音・白龍大神」の南西辺りに鎮座していたようですが、明治のこの時期の当該地には名古屋高等学校が建立されている事から、遷祀にはこの建設構想の影響があったのかも知れない。参道から境内の眺め。参道左に手水舎、拝殿前から左右に分かれ、右の社務所、左の境内社へと続く。手水鉢に清水を注ぐ龍。気の毒にその口には配管が繋がれ見るからに辛そうだ、しばらくの辛抱だ。味のある燈籠、明治の元号が刻まれている。拝殿全景。瓦葺で切妻、妻入り、四方吹き抜けの拝殿。手前の狛犬は1919年(大正8)に奉納されたようですが、台座に刻まれた「海上安全」がその昔のこの地を物語っているようだ。小ぶりで丸っこい狛犬。鼻の大きさは犬の鼻というより、これは豚を連想させる。シンプルな拝殿、鬼瓦には橘の紋が入る。拝殿の額は八幡宮。拝殿から幣殿の眺め、祭神は応神天皇。吹上の由来についてこの辺りの伝承に「応神天王の神霊、小舟に乗って漂着し給う。依りて「神、吹上給う里」から吹上という」そうした話もあるようです。吹上の由来、諸説あるようですが個人的にはこちらの方が夢がある。拝殿から本殿方向の全景。渡廊が拝殿と入母屋造りの幣殿を繋ぐ。拝殿左の鳥居の先には境内末社が纏められています。中央が皇大神宮、左に秋葉神社、右に津島神社と三社が祀られています。これらの末社も明治に入りこちらに遷座してきたものらしい。ここから八幡社の幣殿と流造の本殿が良く眺められます。境内社の鳥居は昭和4年刻まれています。末社から境内の眺め、街中にあるせいだろうか境内で見上げるような樹々は少ない。境内左から見た伽藍全景。杜の密度が低いのが良く見て取れると思います。周囲の状況では樹々が伸び〃生い茂るには適さない環境、枝が周囲の電線にかかり停電も懸念される。そうした事もあり、近年境内にあった保存樹のムクノキが伐採されたようです。その枝は輪切りにされ、疫病退散を祈願し「アマビエ」を描いてお守りにして販売したそうだ。今は全て完売し、伐採された切株にも「アマビエ」が描かれ今も残っています。境内末社の西側に「アマビエ」があり、やがて第四の末社になる可能性もあるかも。「吹上八幡社」祭神 / 応神天皇創建 / 1858年(安政5)境内社 / 皇大神宮、秋葉神社、津島神社住所 / 名古屋市千種区千種2-18-14吹上観音・白龍大神からアクセス / 北に徒歩5分程関連記事 / 吹上観音と白龍大神
2021.03.14
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以前掲載した知多四国霊場二十六番札所「弥勒寺」の右に隣接するように「十二神社」・「山之神社」・「北方稲荷社」が鎮座します。十二神社の鳥居から境内全景の眺め。正面が十二神社で左に北方稲荷社、山之神社は後方の山の頂に鎮座する。どちらも鳥居を構えていますが、十二神社境内から参道が繋がっています。境内は北方児童公園にもなっていて子供達の遊び場にもなっている。境内正面の建物は拝殿かと思いきやそうではないようです、用途はよくわかりません。拝殿は二段になった境内の上段にあります。拝殿に続く石段の傍らに手水舎と由緒書きがあります。祭神 / 木工理姫命、木花咲耶姫命創建 / 1470年(文明2)例祭 / 毎年4月3日記 / 以前の十二権現社は明治元年、号を廃せられ十二神社と改称された。開創が1596年(慶長元年)とされる「弥勒寺」よりさらに遡る歴史ある神社。この当時の知多半島は一色氏の被官であった佐治氏と田原城主の戸田氏で支配し、佐治氏は大野、内海を拠点に知多半島の西海岸を、戸田氏は半島の河和、富貴を領有し先端の師崎を佐治氏と共有し三河湾の制海権を握っていたとされ、この神社は当時の河和城主戸田孫八郎守光から崇敬されていたようです。拝殿。瓦葺の切妻平入拝殿で外観に人目を引き付ける派手な装飾は施されていません。拝殿前には狛犬もいるようです。狛犬。なんというか素朴で人を和ませる魅力を持った表情をしています。笑ってます、笑う狛犬。台座には1915年(大正4)と刻まれています。拝殿。五三の桐が神紋のようです。拝殿左の境内社。一・二・三・・・・・。合社の右から天御中主命、少彦名命、大日靈命、大名持命、国常主命、伊弉諾命、単独の小さな不明社、大きい社が春野社、その左に石神様だろうか。そこから更に左に進むと石灯篭の先にも台座の上に石神様らしき石が祀られている。そこから先は十二神社から北方稲荷社に続く脇参道。脇参道から拝殿方向の眺め。石垣は結構高く積まれその上に社殿が建っている。拝殿前の石灯篭に明治元年と刻まれている。号を廃し十二神社へ改称した際に奉献されたものか。ここから拝殿右側に向かいます。右側にも合社があり、左から天津神・国津神、猿田彦命、於止與命、大己貴命、高皇産霊命、軻遇突智命。 単独の社二つが御葦社、金比羅社で石標が明治神宮、橿原神宮と並ぶ。右の末社と本殿の眺め。整然と一列に祀られています。末社右にも石が祀られ、その右から本殿後方の山に続く参道がある。この参道の先に山之神社があります。上参道途中から十二神社本殿の眺め、結構上に登ります。下うす暗い杜をほどなく歩くと、視界も開けその先に山之神社の鳥居が見えてきます。山の頂に鎮座する山之神社。左手前に手水舎、少し上がって石の明神鳥居があります。鳥居の先に小さな本殿、狛犬はいないようです。山之神社の本殿は石造り。鳥居脇の山之神社の由緒書き。祭神 / 大山祇命由来 / 古来北方地区各所にあった富士社、浅間社、御嶽神社などの社を明治のころより山之神社に順次合祀したとされる。いわゆる子孫繁栄、五穀豊穣を見守る農耕の神である。残念ながら創建時期やここに記載されている北方地区の各地がどこなのかまでは分からない。この地の明治頃の地図でも結果は同様だった。この山の頂に山の神を纏めたかたち。鳥居から南の眺め、ここから海が良く見渡せる。空や海は色が少しづつ春の趣になってきたような気がする、山の頂きに差し込む暖かい日差しはしばらくここでのんびり景色でも眺めていたい、そんな気分にさせる陽気だ。残念ながら、かみさんとの待ち合わせ時間を考えるとそれほど時間に余裕もない、降りるとするか。参道を降り十二神社境内から左へ、その道は山之神社の鳥居を経て公道側に通じていました。道路際には神社案内板も掲げられていました。ここから再び十二神社の境内に戻り、北方稲荷社に向かいます。滑り台の左から赤い幟が連なる参道が伸びています。その先で参道は十二神社拝殿方向と北方稲荷社の二手に別れます。白い鳥居の先に赤の奉納鳥居が連なり本殿が見えています。狛狐もいるようです。本殿域全景。奥の記念碑から北方区177名の方々の寄付で1996年(平成8)に再建されたようです。石の本殿や狛狐、鳥居も含めてどれも新しくて綺麗。稀に悲壮感漂うお狐さんに出逢う、こちらの狐は痩せすぎず、太りすぎず、いいフォルムをしています。創建時期などの詳細は不明。十二神社境内から師崎街道の眺め。今は静かな境内も祭礼ともなれば山車が曳き回され多くの氏子で賑わうという。古くから氏子の住む北方の街と海を見守り続けて来た氏神様。「十二神社」創建 / 1470年(文明2)祭神 / 木工理姫命 木花咲耶姫命住所 / 愛知県知多郡美浜町北方東側43「山之神社」創建 / 不明祭神 / 大山祇命住所 / 愛知県知多郡美浜町北方平井下91-1「北方稲荷社」創建 / 不明祭神 / 不明住所 / 愛知県知多郡美浜町北方東側43公共交通機関アクセス / 名鉄知河和線「河和駅」下車 北へ徒歩5分程関連記事 / 知多四国霊場二十六番札所「弥勒寺」
2021.03.13
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2021.03.11
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以前から計画していた「上街道、稲置街道を歩いて犬山城下まで行ってみよう」天気状況を見ながら昨日(3月9日)歩いてきました。昨日は温かい一日、途中で曇が多くなるも雨よりまし。名鉄小牧線楽田駅で降車、そこから春を探しつつ、犬山城下にある昭和横丁でビールを飲むルート。10:30、楽殿駅から歩きはじめる、駅から少し西の筋に入り、そこから上街道を北上。途中の道端で今年初めてつくしを見ることができた。身近にあったつくしスポットもなくなり、春を感じるのがずいぶん遅れていたようだ。今年初めて見るつくしは随分と成長していた。これは期待できそうだ、帰りに摘んでいければいいが。上街道沿いは小さな神社や史跡が点在し、歩いていても退屈する事はありません。屋根神様も期待したが、残念ながらそれは叶わなかった。とはいえ田園風景の中、小島のように点在する杜とそこを走り抜ける電車。長閑な光景だ。何気に立ち寄った寺では色鮮やかな色彩で描かれた龍の天井画にも出会えました。いつもと違い、参拝後に時間をかけて見ていく余裕はなかったけれど、小さな神社を中心に何社か見てまわれました。・御日塚神社・旧賀茂郡銀行羽黒支店・先聖寺天井画・史跡五郎丸初生地13:30頃最大のお楽しみ、犬山城下町昭和横丁到着。通りは若者で溢れていた、卒業旅行なんだろうね。コロナ禍で節目を迎えた若者には気の毒。気持ちは分かるが三密解消を意識して楽しんでもらいたい。昭和横丁で遅い昼ご飯。犬山牛太郎の「飛騨牛にぎり」二貫600円ならば納得のお味です。本町の森のマルシェのビールと牡蠣三個セット、1,000円ならばこれも納得。良心的な価格設定が多く感じる。一つ〃はリーズナブルなんだけど酒と食べ歩きは高くつくものだ。地元の酒、小弓鶴の上撰を飲んでみたがとても個性的なものだった。(黒豆付きで400円)色といい、香りや口当たりは酒とは違い、みりんに通じる不思議な酒だった。あの若い衆は単に食べ歩きに訪れている訳ではなさそうです。食べ歩きのゴールに鎮座する三光稲荷神社へそのまま流れていく。境内の「姫亀神社」は恋愛成就や縁結びで知られるようで、それらを祈願しに訪れているようだ。三光稲荷神社の賑わいに対し、隣の針綱神社にはあまり訪れないようだ、随分と差を感じさせる。犬山城を背に活気のある三光稲荷神社から右手方向の木曽川河畔に進む、歩道のソメイヨシノは開花の気配もないが、河津桜は今がピーク、春が来たね。ここから犬山橋(以前は電車と車が同じ橋を通っていた恐怖の橋)を渡り、鵜沼駅を右手に見ながら、高山線を越えた左手に鎮座する村国真墨田神社で今回のゴールとした。かみさんはここから少し先の大島屋で菓子を買ってゴール。そういえば「つくし」、歩き始めに見かけてから摘めそうな場所もなく、春の味わいは先送りだ。ちょっと前までは薄暗くなる16:30、陽も長くなったものです。陽気も良く、ほろ酔い気分でのんびり歩いて楽しめた25,000歩。名鉄小牧線 楽田駅
2021.03.10
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『大斎原』の日本一の大きさを誇る大鳥居。そこから田園地帯に真っすぐ伸びる参道を北に進む。右(写真では左)に熊野川の二段堤防が延々と続く。訪れたのは2月21日でしたが、周囲は梅は咲き、河津桜も咲き誇る。今年まだ見ぬ土筆の姿を探しながら突き当りまでのんびり歩く。歩いていると春を通り越して上着がいらないくらいの陽気。突き当りは二手に別れ、左が熊野本宮大社、右が『産田社』に続きます。参拝順は一番最後の『大斎原』から参拝したので逆参りのまま『産田社』のある右に。本来の参拝順は本宮➡産田社➡大斎原です。『産田社』付近から『大斎原』全景。田植えも終われば苗の緑で一面染まり、枯れた光景は一変する事だろう。杜と田園風景、こうした光景はつい最近まで身近にあったものです。子供の頃に日が暮れるまで探検したのを思い出させてくれる、懐かしい風景。『産田社』は堤防突き当りの左側。目の前の二段堤防に上がるとその先には広い川原、その先に熊野川が流れている。『大斎原』の方向を向いて鳥居が建っています。『産田社』全景。右に『産守り』の解説があります。社名から想像できるように、こちらは女性の方とは縁が深いようで、解説には以下の様に書かれています。『八百万(やおよろず)の神々をはじめ、総てを産みだされた産土(うぶすな)の神と仰がれる。産田社(うぶたしゃ)に鎮まります伊弉冉尊(いざなみのみこと)の荒御魂(あらみたま)の御力(みちから)を受けられる「産守り」は、熊野本宮大社でお頒かちしております。』『産田社』は熊野本宮大社の末社で無人、御朱印は熊野本宮大社の授与所で頂くことが出来ます。伊邪那美命(伊弉冉尊)は迦具土神を生んだ後に亡くなります。諸説あるようですが亡くなったのがこの地で、葬ったとされるのが三重県の「花の窟神社」だと云われるようです。熊野本宮大社にはその伊邪那美命(伊弉冉尊)を2ヶ所で祀っています。ひとつが熊野本宮大社の第一殿に和魂、もうひとつは摂社の産田社に荒魂が祀られている。生みの神として知られ、子授け、安産などのご利益があるという。『産田社本殿』石の台座の上に小さな石の本殿が祀られ、『大斎原』を向いて迦具土神を見守るようでもある。『産田社』後方の堤防から手前に産田社と遥か先の『大斎原』の眺め。産田社創建 / 不明祭神 / 伊邪那美命(伊弉冉尊)住所 / 和歌山県田辺市本宮町本宮100大斎原から徒歩アクセス / 大鳥居から北に向かい突き当りを右へ、所要時間5分程関連記事 / 車中泊で熊野三山巡り 大斎原熊野本宮大社の大鳥居はすぐ先だ。
2021.03.08
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西尾市一色町「諏訪神社」三河一色と聞いて最初に思い浮ぶのが「うなぎ」、「抹茶」だろうか。夏の風物詩とも云える「三河一色大提灯まつり」、直接目にした事はなくても、耳にしたりTVで目にした事があると思います、この祭りが行われるのがここ「諏訪神社」。昔のままに和紙で作られた6組12張りの大提灯、目にも鮮やかな色彩で描かれた絵模様は美しいものがある。陽も落ち、大提灯に火が入れられると幻想的な光景が広がります。上は一色町一色東前新田の「一色まなびの館」に展示してある「三河一色大提灯」のレプリカ、右は祭が行われている「諏訪神社」のミニチュア。境内を埋める様に吊るされた提灯とその傍らの人からその大きさがイメージできると思います。提灯を吊るす覆屋根付きの柱を立てるのも、大きなものは5㍍×10㍍もある提灯を吊るすのも全て氏子たちの手により行われます。諏訪神社境内全景。こうして訪れるとあのミニチュアは良く出来ている。手前の道路は多少違いがあるようですが、これは2001年から始まった道路拡張工事によります。拡張は神社にも影響を与え、社殿等は境内奥に曳家されたようです。社地の縮小は反面で拝殿、本殿等の主要な建物以外の社務所や付随する建物の新築に繋がったようで、とても綺麗な印象を受ける。この石の明神鳥居はその工事後に新たに建てられたもの。それでも参道の先に見える拝殿までの距離は結構遠い、提灯を献灯するのにこの空間が必要なのだ。新しい中に歴史を語る古いものが点在する。黒ずんだ狛犬の台座に刻まれた年号は安政6年(1859)と刻まれています。彼らも影響を受けたのかナ、台座下の石積みなどは新しいものです。狛犬は角付きのもの。石工で有名な岡崎もそれほど遠くはないけれど、良く見かける岡崎現代型と呼ばれるものや某大国で作られたものに比べると、素朴な容姿は哀愁すら漂う。鳥居左に諏訪神社由緒書きと一色の大提灯の解説。手水舎。コロナ禍の今、龍はお休みのようだ、注いでいたとしても清水は鉢を満たす事はないのだろう。見慣れた光景になってしまった。境内右に大提灯の保管庫が立ち並んでいますが、その左に二つの社殿があります。右側の瓦葺入母屋造の落ち着いた外観の建物が「龍宮社」拝殿。祭神は市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命(航海安全・水難消除の神)、大綿津見神、大海神創建など詳細は不明、木質感漂う素朴な外観同様扁額もシックなもの。「龍宮社」本殿。神明造の本殿を守護する狛犬はいないようだ。いや、よく見るとちゃんといました、狛亀です。龍宮社の左の瀟洒な社殿は「三社拝殿」こちらも創建等は不明、祭神は以下。天満社菅原道真(文道・学業の神)下諏訪社八坂刀売命(主祭神建御名方命の妻神で安産の神)秋葉社火之迦具土神(鎮火・防火の神)「三社拝殿」の西側に社務所、諏訪神社拝殿が並ぶ。手前が新しくなった社務所。下は遥拝所この向きで拝むのだから右の幟も考えると伊勢神宮か橿原神宮の遥拝所かと思います。玉垣の紀元二千六百年記念は神武天皇即位から紀元2600年にあたったのが1940年(昭和15年)だったことから、それに伴いこちらにも建てられたのだろう。左にさざれ石がある。「諏訪神社拝殿」と「五社拝殿」全景。手前の玉垣で囲われた部分が旧本殿があった場所、随分と西に引いた事になります。銅燈籠の先に瓦葺入母屋造の「諏訪神社拝殿」創建は第106代正親天皇の御代、1558~1570(永録年間)とされる。当時、鎮守の神を持たなかった一色の地に守り神を祀りたいと村人たちが考えていたという、そんな折に日本の六十六ヵ所の霊場に法華経を納めていた行者が訪れ、信濃の諏訪大明神の御分霊を請け、捧持し祠を建て祀ったのが神社の始まりだいう。現在の拝殿がいつ頃改修されたのか不明ですが、平入の前面にガラスが多用され明るい印象を受けます。銅燈籠。なかなか立派で、印象に残ったのでクローズアップ写真を撮ったはずですが、データが見つからない。上は拝殿前の解説。大黒様で知られる大国主命の第二子神で豊葦原の中津国の弥栄を基礎づけられた建御名方命を祀る。天孫降臨に際し、瓊々杵尊に国土を譲り、信濃国諏訪の地に退き、八坂刀売命と共に諏訪の国土開発に力を尽くしたとされる。農耕・機織を奨めたと云う、武勇・力持ちの神、開拓、耕作・雨乞い・狩猟、海上航行、厄除け、商工業の神と言われています。下は僅かに開けられた引き戸の先に、金色の御幣と神紋の「梶葉紋」が見て取れます、諏訪大社の神紋が三本梶、神紋からも諏訪大社との所縁が見て取れます。拝殿の彫飾りは彩色はされていないけれど、龍や木鼻の獏など躍動感がある、宮大工のこだわりかな。拝殿側面からの眺め、神紋は軒丸瓦にも描かれています。下は「諏訪神社本殿」檜皮葺の流造で、擬宝珠が付いた高欄が施され拝殿から幣殿を経て繋がっている。本殿域の銅燈籠には金色の神紋が施されている。「五社拝殿」神明社 / 天照大御神 / 国民の総氏神 津島社 / 素盞嗚尊 / 疫病鎮護の神御鍬社 / 玉柱屋姫命・伊佐波止美命 / 農業の守護神 稲荷社 / 宇迦之御魂神 / 商売繁盛、福徳円満の神 琴平社 / 大物主神 / 海難防護・雨乞いの神 入母屋銅葺屋根の新しいもので遊びのないきっちり作られた建物。後方が本殿。傍らに「金的中」の奉納額、夏の祭礼ではここで奉納射会も行われるようです。矢場があるの?と見渡してみたが今一つ見付けられなかった。上は「三河一色大提灯まつり」で提灯を吊るす柱を保管する倉庫。下は「五社拝殿」から鳥居方向の境内を眺める。これら収蔵庫には「三河一色大提灯まつり」で吊るされる大提灯が保管され、この広い境内が狭く感じるほどに吊るされる。この祭りの始まりは450年前に遡るようです。発端は当時のこの地の海には人畜、農作物を荒らす悪魔がいて、諏訪神社の神前に篝火をたいて祈祷をしたところ、それ以降、悪魔は現れなくなったという。篝火は江戸時代初期の寛文年間(1661~1672)頃から提灯に変り献灯するようになり、江戸時代中期には提灯に鮮やかな彩色の絵模様が描かれ、大きさを競い合うようになっていったそうです。遂には西尾藩から「ほどほどに」と通達も出されるほどだったようです。現在の三河一色大提灯まつりはこの時期の姿を受け継いだもの。昨年はこのご時世で中止になったようです、今年はどうなんでしょう。今年の夏は自由な時間が取れそうなだけに、再び二人で訪れて見たいが。それまでに巷に潜む魔物が退散してくれればいいのですが。諏訪神社創建 / 1558~1570(永録年間)祭神 / 建御名方命境内社 / 神明社、津島社、御鍬社、稲荷社、琴平社、天満社、下諏訪社、秋葉社、龍宮社三河一色大提灯まつり / 毎年8月26日・27日住所 / 愛知県西尾市一色町一色宮添129関連記事 / 外気を吸いに幡豆郡へ 、蛭子社 、幡豆神社
2021.03.07
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龍華山 弥勒寺熊野神社から国道247号線を河和方向へ車で5分程南下、左側の薬局を過ぎてから細い道を左に入ります。そこは師崎街道。名古屋市緑区大高から、南知多町師崎を結ぶ街道です。写真は国道247号線方向を振り返って見ています。国道247号線から師崎街道を真っすぐ進むと写真の「十二神社」に突き当たり、そこで道が左右に分かれます。「左です!」、「目的地周辺に到着しました、目的地は右側です!、案内を終了します」ブチッ。・・・・・相変わらずの冷たい喋り方だ。なんとか『弥勒寺』まで案内はしてくれたようだ、右には白壁が続き、山門が現れる。龍華山弥勒寺は曹洞宗のお寺で「新四国第二十六番札所」であり、南知多33観音霊場の二番札所でもある。河和の全忠寺の末寺だという。道路の左側に「新四国第二十六番札所」の石標、1914年(大正3)に建てられたものです。知多半島をひと回りする知多四国は、1809年(文政7)に開創され、弘法大師所縁の88カ所霊場を巡拝していくものです。かみさんは現在ひと回り目を間もなく終えようとしています。今日はその御供でこちらに来ています。『弥勒寺』には少数台ですが駐車場もあり、参拝者用の表示もあるので近隣に迷惑をかける事はないでしょう。弥勒寺の周囲は、石垣に白壁が築かれ、周辺の海辺の住宅地とかけ離れた静かな空間。 小さいけれど重厚な趣の瓦葺の山門、そこには鯱瓦が飾られている。境内に入ると正面に瓦葺寄棟の本堂。弥勒寺本尊の「弥勒菩薩」が安置されています。1596年(慶長元年)、友林光益和尚により開創されたと云われます。その後1753年(宝暦3)、火災により伽藍を焼失、第八世祖春和尚により再建された。本堂は1907年(明治40)に、1928年(昭和3)に大師堂が再建され、平成に入り本堂など手が入れられたようです。白い幟が靡く境内、左に進むと大師堂。「新四国第二十六番札所」入母屋瓦葺の妻入りで唐破風向拝が付けられた重厚な建物。妻部分は腐食が進んでいるけれど、それが重厚さを増している様にも見える。近いうちに補修の手が入るといいのだが。波を模した瓦や軒下には三鈷杵、木鼻の象等、外見に派手さはないけれど、こまかな彫が施されています。向拝下の透かし彫も立派なものですが、何度見ても何を模しているのかよく分からなかった。大師堂。それでは拝ませてもらいます・・・・・一礼、合掌だね。開け放たれた扉から堂内を眺める。正面の厨子の中に弘法大師、左の厨子には金色の観音様?らしき姿が見える左手前に仏足、右端には像容は分かりませんが十王様の文字が見えます。弥勒寺の寺宝に十幅の「地獄絵図」があるらしい、コロナ禍で御開帳されるのか不明ですが、春と秋の彼岸には開帳されるようです。拝観出来なかったけれど、他にも「極楽図」「花鳥図」、位牌堂には天井画もあるようです。本堂右の納経所、納経印はこちらです。吹き込む風には潮の香りも感じられる、海に近いお寺です。青い空の下、山門の鯱瓦はなんとなく生きもよさそうな。火災を経験しているだけに、しっかりと守ってくれ。参拝を終え、次はお隣の「十二神社」に参拝していこう。つゆのみも けふはうれしくきたかたの みろくじそんのあかつきにある2021/2/8「弥勒寺」開創 / 1596年(慶長元年)宗派 / 曹洞宗本尊 / 弥勒菩薩札所 / 知多四国霊場二十六番札所、 南知多三十三観音霊場二番札所住所 / 知多郡美浜町北方字西側16車アクセス / 熊野神社から国道247号線で5分程関連記事 / 美浜町大字時志 熊野神社 、知多四国霊場番外札所『慈雲山影現寺』
2021.03.05
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名古屋から高速と国道を使い4時間程のドライブで総本宮「熊野本宮大社大斎原」に到着する。道路事情は30年前、釣りで訪れていた頃と比較すると飛躍的に良くなった。大斎原入口駐車場に車を停めて、ここから大斎原(おおゆのはら)を参拝する。導きの神八咫烏、太陽の化身とされる神の使い、、三本の足は天・地・人を表すと云う。天は神、地は自然、人は・・・・人、太陽の下で神と自然と人は血を分けた兄弟であるということを表現したもの。写真は駐車場脇にある八咫烏のモニュメントで「熊野本宮サッカーヤタガラス必勝祈願碑」八咫烏と日本サッカー協会は、勝利を導く守り神としてユニフォームにも描かれる様に繋がりがあり。このモニュメントは地元の方により平成に入り建立されたもので、左には必勝祈願の絵馬掛けまで用意されている。この後方は音無川が流れ、その先の杜がこれから向かう大斎原(おおゆのはら)。 この鳥居をくぐり、枯れ沢に架かる橋を渡ると大斎原(おおゆのはら)の杜です。音無川に架かる石橋の上から上流の大鳥居の眺め。この距離感でこの大きさ、間近で見る鳥居はさぞかし大きいのだろう。音無川の河原には流れはなく、一面川石が露出していました、この時期は水源が枯れるのかな。江戸時代まで中洲へ渡る橋はかけられる事がなく、参拝者はここで身を清め、歩いて川を渡り詣でるのがしきたりだったという。音無川の石橋を渡り中州に立ち入ると、左手に「しばらくは 花の下なる 御輿かな 稀山」と彫られた碑がある。稀山と云う方、調べて見るがよく分からなかった。大斎原(おおゆのはら)いま渡ってきた音無川とここから少し下流の岩田川の二本の支流が熊野川に流れ込む、その合流点にできた中州を大斎原と呼び、神が舞い降りた場所。この地に神が舞い降りて以降、ここに祀られてから2000年の長きにわたり、この中洲に鎮座する熊野本宮大社に詣でる熊野詣の聖地として、山深い辺境の地を目指した。しかし、1889年(明治22)の大洪水でここに鎮座していた上、中、下社の各4社の内、上四社を除き被災。後の1891年(明治24)、大斎原から約700㍍上流の熊野川右岸の高台に上四社を遷座し、大斎原には中4社、下4社と摂社の御神霊を二つの石の祠に祀り今の姿となる。大斎原には苔むした石組が残り、嘗ての伽藍の名残を留めている。先に書いたように大斎原には中4社と下4社、摂社の御神霊を祀る二つの石の祠が祀られ、広い境内に伽藍はない。中央に二つの石の祠とここを守護する狛犬だけがポツンと祀られている、本宮に比較すると訪れる方も減り、静かな空間が広がる様は、嘗ての賑わいからかけ離れ、侘しさのようなものが漂うとともに自然の計り知れない破壊力が伝わってくる。大斎原の杜は被災後伐採され、その後に植林されたものが多くを占めるらしいが、100年を経て杜は大きく育ち、春には桜が咲き誇る。「一遍上人神勅名号碑」一遍上人(智真)は、鎌倉中期から室町時代にかけて日本全土に広まった浄土系仏教、時宗の開祖で、それまで皇族や貴族など上流階級のものだった熊野信仰を庶民に広めたのが一遍上人だという。熊野と一遍上人の所縁は、修行僧として布教に悩んでいた頃、智真が熊野本宮大社の証誠殿を訪れた際、山伏の姿をした熊野権現が夢枕に現れ「布教は阿弥陀仏によって導かれたもの」とお告げを受けたと云う。それを機に悟りを開いたといいます。そうした事から時宗(じしゅう)が熊野を聖地とするようで、この碑は1971年(昭和46)に建立されたもの。二つの石の祠。石灯籠に文政3年と刻まれている、200年の年月を経たとは感じられない綺麗なものだ。左の祠に中四社、下四社の御神霊を祀る。中四社第5殿 忍穂耳命第6殿 瓊瓊杵尊第7殿 彦穂々出命第8殿 鸕鷀草葺不合命中四社第9殿 軻遇突智命(火の神)第10殿 埴山姫命(土の神)第11殿 弥都波能売命(水の神)第12殿 稚産霊命右の祠は境内にあった摂末社の御神霊を祀っています。・八咫烏神社 ・音無天神社 ・高倉下神社 ・海神社 他案内板に「仮に石祠に2殿を造営・・・・・」とあった、確かに大所帯ではあるけれど、ここ大斎原(古宮)はこのままでいい様な気がしてならない。なかなかお洒落なマスクを着けてもらって。被災前の本宮大社は、約11,000坪のこの境内に、楼門を構えて、上・中・下の十二社の社殿、多くの摂末社や神楽殿等が立ち並んでいた。現在の熊野本宮大社の8倍近い規模だったという。大斎原東側の石積み、ここから左に進むと禊場?に続く。境内東外れに被災前の社殿と被災時の痛々しい写真が掲示されている。あれから技術は進歩し、上流には巨大なダム、沢には堰堤等も作られ、流れを失った音無川は枯れ沢となり、人は血を分けた自然を制御できる大きな錯覚をしている気がしてならない。自然に挑み、作っては壊れ、復興と称し更に大きな物に作り替える、そこが人の持つ底力なのだろう。上4社が遷座した様に、潔く引くことも必要な気がする。血を分けた兄弟の闘いはどちらに軍配があがるものなのか。さて、境内東から大鳥居へ向かいます。大鳥居の前ある「紀伊山地の霊場と参詣道 熊野本宮大社 旧社地大斎原」の碑。2004年、熊野古道を含む紀伊山地の霊場と参詣道として世界遺産に登録された記念でしょう。手水鉢には「蘇」、玉には「魂」と彫られています、魂が蘇る。まさに大斎原のあの空間はそんな気にさせる。正面に見えているあの小高い山に熊野本宮大社が鎮座します。車を一番手前の大斎原入口駐車場に駐車した事もあり、参拝順序が逆になりますが、近くて便利はきっと混むはずです、ここから本宮まで歩いて向かいます。大斎原と云えば日本一の大鳥居で知られる。境内入口に掲げられた「日本第一大鳥居建立の意義」の解説板。鳥居の高さは34㍍、幅が42㍍もある巨大な鳥居。羽を広げて飛ぶ八咫烏のモニュメント、見上げる鳥居はその巨大さゆえにフレームに収まらないけれど、鳥居中央の金色の八咫烏はいやが上にも視界に入ってくる。田園地帯から大斎原とそそり立つ日本一の大鳥居。ここからでも八咫烏が見て取れる。熊野本宮大社・熊野信仰の原点となる大斎原に相応しい大きな鳥居だ。神がいて、自然があり、人が地を耕す、この光景が天・地・人なのかな、いい光景だ。ただ正直なところ、鳥居はでかすぎる気がしてならない。熊野本宮大社 大斎原(おおゆのはら)創建 / 伝承 崇神天皇六十五年大斎原 祭神 / 忍穂耳命、瓊瓊杵尊、彦穂々出命、鸕鷀草葺不合命、軻遇突智命、埴山姫命、弥都波能売命、稚産霊命摂末社 / 八咫烏神社、音無天神社、高倉下神社、海神社、他住所 / 和歌山県田辺市本宮町本宮1関連記事 / 車中泊で熊野三山巡り
2021.03.04
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千種区吹上1丁目通称100㍍道路と呼ばれ、市内を東西に走る若宮大通りの南にあたる。大規模火災の延焼を目的とし、戦後の復興都市計画から生まれたこの道路。車の行き来だけを思うと便利で快適だと思うが、歩く側からすると横断するのに厄介な道路。名古屋台地の東端にあたり、ひと昔前は原野が広がっていた。上は若宮大通りの「吹上ランプ南」交差点から西に一本入った通りからの眺め。「吹上観音と白龍大神」はここに鎮座しています。この辺りは名古屋新田として開発された田畑だった。そうした田畑を生業とした人が集まり、村や町が出来て行った。大きな河川がある訳でもないので、一帯には点々と灌漑用の溜池があったが悉く埋め立てられて行った。左の大正時代の地図では四角い大きな敷地がありますが、ここは1897年(明治30)から1965年(昭和40年)まで名古屋刑務所があったけれど若宮大通り建設に伴い三好市に移転した。もう少し前だとこの辺りには火葬場や古墳もあった。今ではこうして店舗や住居が立ち並び、立派な100㍍道路が走るけれど、この姿に至る以前から住む住民の住居や施設、遺構などの移転があってできた便利で先進的な風景です。逆の見方をすると面白みのない風景かもしれないけれど、この近くにイタリア産の牛がいるようで、時にいい鳴き声が聞こえてくるのが面白い。ビルの南隣にブロック積みの車庫の様に作られた覆屋が「吹上観音と白龍大神」左右に石標が立っていて、覆い屋の中には椅子も置かれ、ここを中心にしたコニュニティーになっているようです。左は「小塚氏名古屋新田開墾記念碑」名古屋新田の開拓は万治年間(1658~1660)新田頭の兼松源蔵と小塚源兵衛の二家により務められ、当初名古屋城下町に家を構えていたが、兼松家は天明年間(1781~1788)に現在の千種区高見町に居を移し、小塚源兵衛も1807年(文化4)に当時の古井村南吹上(若宮大通り辺り)に移ったらしい。右手の石標は昭和42年に建之と記された移転建設記念碑がある。覆屋内の眺め。正面に大小三つの堂があり、右手前の入口側に地蔵堂と白龍大神の本殿。香炉の上には複数の提灯が吊るされている。入口の地蔵堂と左の手水鉢詳細は分からないけれど、周辺の塩付街道沿いではこうした地蔵を見かける。もとからここで安置されていたものではない様な気がする。手水鉢は常に清水が満たされています。堂内は水がまかれとても綺麗に手が掛けられていて、線香の香りが漂い、日々拝みに来られているようで人の温もりが感じられる。白龍大神流造の様ですが、側面から見ると奥の軒はとても短く片流れと云ってもいい造りかも知れない。水を司る龍はひと昔前のこの地の土地柄を表しているのかもしれない。由来や創建時期等は不明。龍は好きだが、蛇は好きになれない。香炉を挟んで左右にも椅子が置かれている。適度な距離を保ちつつ井戸端会議が開かれるのかナ。ここに腰掛けていると観音様や地蔵さん、龍に見守られている感がある。千手観世菩薩、吹上観音、弘法大師阿弥陀如来など、年期の入った提灯が天井一杯に吊るされている。正面の三堂大きな堂の脇には地蔵菩薩、弘法大師像があり、中央にある一際大きな像が吹上観音と呼ばれる千手観音。吹上観音この千手観音はもともと若宮大通りができる以前に小塚家の屋敷に安置されていたものといい、1821年(文政4)の年号が刻まれたもので小塚村の守護仏だとされる。黒光りした像は一部欠け落ち痛々しいけれどなんでも話を聞いてくれそうだ。左の一刀彫の素朴な顔の表情は僅かに微笑んでいるようにも見える。縁起なのか色々書かれたものが幾つもあるのですが、見えない、読めない。お参りにこられた方に教えて頂きたいけれど、残念ながらお逢いする事はなかった。吹上観音や白龍大神など祀られている神仏の多くは、この地の変貌にともない周辺から集まって来たものだろう。誰もいないときには、この堂の中で世間話に花を咲かせているのかもしれない。2021/03/01吹上観音と白龍大神建立等 / 詳細不明住所 / 名古屋市千種区吹上1-5-7公共交通機関アクセス / 地下鉄桜通線「吹上」駅降車、西へ徒歩10分
2021.03.03
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見え見えの茶番劇、もうんざりだ虚偽で塗り固まってしまった今何が真実か、それすら見いだせなくなってきた議員定数削減、定年、議員報酬・特権見直し次の選挙はここではないなお断りさせて頂きます次の種を撒きその芽を育てよう選挙はお断りしません
2021.03.02
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知多四国霊場番外札「所慈雲山 影現寺」から国道247号線を北(河和口)方向へ車で走る事1~2分。左に小さな火の見櫓、右に水門が見えたら左手に入ります。左に曲がるとその先に名鉄道河和線の遮断機をくぐり、狭い地道を奥へと進んでいきます。まずは道の狭い事、自分の車では絶対に突っ込みたくない、軽でもすれ違いは大変だ。しかも蛇の様にうねうねと曲がりくねっている。目的地の目標は正面に見える山の左の麓。見通しの悪い狭い道むを走っていくと右手に鳥居と石灯籠が見えてきます。ここが今回の目的地の美浜町大字時志の「熊野神社」です。車は右手の境内入口に停めさせて頂きました。路上駐車は地元の方の迷惑になるので避けて下さい、生活道路なので交通量はそれなりにあります。熊野神社入口。僅かばかりの石段の先にとてもシックな木造の両部鳥居が建っています。神仏習合の神社で見かける機会が多いかもしれない。控え柱(稚児柱)と笠木に屋根が付くこの鳥居、笠木と島木が先端に向け反っていく姿はとても優雅だ。ここでこれに出逢えるとは。石段右に「村社 熊野神社」の社号標、境内右手に手水舎のようです。境内から鳥居と手水舎の眺め。冬場は陽が低い、鳥居の影が長く伸びているけれど、これで昼前です。手水鉢には清水は張られておらず、龍も一時帰休のようだ。さて困った、縄がかけられているこの建物、額はないが拝殿?それとも神楽殿?中も見通せないので分かりません。右から奥に回り込んでみました。建物の裏手から山の斜面につけられた石段が上に伸び、その先に建物があるようです。石段は狭く手摺はない、斜度があるのでやや怖い。どうやらこれが拝殿のようで、両脇に狛犬もいるようです。拝殿前の狛犬。拝殿に掲げられた額。祭神は熊野権現(伊邪那美神、速玉之男神、事解之男神)だと思われます。熊野神社について調べてみましたが、公開されている資料の中で、由緒に繋がる明確なものが見当たらなかった。この熊野神社の額から神仏分離により名を改め、創建は明治以前に遡るのではないか、そんな印象を受けます。拝殿から本殿方向の眺め、鮮やかな紫の紋幕に三つ巴の紋が入っています。拝殿の全景。周囲の杜に溶け込む様に素朴な切妻瓦葺の平入拝殿が佇んでいます。境内左の建物が社務所にだろうか?本殿域が見渡せそう。石垣が一段積まれた本殿域。本殿と板宮造りの境内社がありますが詳細は分かりません。本殿は内削の千木と5本の鰹木が施された神明造。後方は山の斜面が迫り、台風や大雨で被災しなければいいのだが。気付かなかった。下の境内から拝殿まで手摺も整備された参道が続いていました。短いとはいえ、手摺のない石段を登る事を思えばこちらが無難かもしれない。地元の方以外、滅多に参拝に訪れる方はいないように感じます。木造両部鳥居の背景に桜が咲く光景も間もなく。2021/2/8「熊野神社」創建 / 不明祭神 / 伊邪那美神、速玉之男神、事解之男神住所 / 知多郡美浜町大字時志字北郷中95番地関連記事 / 知多四国霊場 番外札所 慈雲山 影現寺
2021.03.01
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