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江南市小折町八反畑「生駒屋敷跡」生駒氏が大和より移住し、この地を拠点に大きな勢力を誇り、後に尾張藩の重臣となった生駒家の屋敷跡で小折城とも呼ばれましたが、今はその遺構は残っていません。現在は「生駒氏の邸址」として石碑が建立されているだけです。以前生駒家の菩提寺「嫩桂山久昌寺」と「神明社」江南市田代町郷中 を掲載しましたが、「生駒氏の邸址」はそこから徒歩で5分もかからず、久昌寺を訪れた際に併せて立ち寄るといいかもしれません。現地へは久昌寺から東に進み、県道172号線で左に進み左手の布袋東保育園を目指してください。保育園付近のフェンスに写真の「生駒屋敷跡ここ」の案内板があるのでこちらへ。写真中央の一際高い樹の聳えるところが久昌寺、裏手と云ってもいいかもしれない。因みに、この道を進むと生駒吉乃が収めた棟札が残る「龍神社」に至ります。「生駒氏の邸址」の石碑は保育園の一画の南西角に建てら、現況は石碑と解説板のみ。岩を組んだ基礎の上に建てられた石碑。裏側には「生駒氏の祖は藤原忠仁で、大和の生駒郷に山荘を建て子孫が住み姓を生駒と称した。家広にいたって丹羽郡小折村に移り住み家名をあげた。豊世豊政を経て、三世家宗の女久庵桂昌大禅定尼は織田信長の室となり信忠信雄岡崎信康の室を生んだ。四世家長五世利豊は戦国の武将として大いに功績を立て、のちに利豊は尾張藩主に厚遇された。六世利勝以後は、尾張藩に仕え四千石を領しこの地に邸を構え世々重臣であった。なお当所には、明治十三年から四十年まで、丹羽郡中心の高等小学校が設置されていた。いまこの地に保育園を建設するにあたり碑を建てて、その歴史を刻み由来を明らかにする。昭和五十年九月吉日 江南市」とある。生駒屋敷(小折城)の解説板生駒氏は、大和国(奈良県生駒市)藤原忠仁公の子孫で、生駒山麓谷口村に住んでいましたが、応仁の頃に戦乱が続いたので、尾張の小折に移り住みました。尾張へ移ったのは応仁・文明の頃、前野氏の祖先・宗安が承久の乱に敗れ、生駒氏に庇護された旧縁を頼ってきたといわれています。(前野氏由来記)生駒氏は灰(染め物の原料)と油を商う馬借(運送業)で財を蓄え、大きな勢力をもつようになりました。生駒氏三代家宗の娘・吉乃の方(幼名お類・久庵桂昌)は織田信長の室となり、信忠・信雄・五徳の二男一女を生み、織田家に対して重要な地位を占め、尾北の豪族として小折に城を構えました。・・・・・以下省略。小折城が築城されたのは定かではないけれど、生駒氏により築城されている、邸跡には生駒屋敷絵図がある。生駒屋敷絵図これを見る限り邸跡は二の丸に位置し、北は桜雲ふれあい公園付近、南は久昌寺東の本丸、西は龍神社付近に及船溜まりを有した大規模な城だったようだ。小牧・長久手の合戦以後、秀吉の頃に外曲輪の一部を崩し城としての姿を失い、以降は生駒屋敷として秀吉から引き続き居住する事が許された。時は過ぎ、そんな生駒屋敷(小折城)も、現在は田畑となり、住宅が建ち平城の名残はこの碑がなければ感じ取れない。吉乃あっての信忠、信雄、五徳だっただけに、吉乃と信長の出会いがなければそれも変わっていたのかもしれない。生駒屋敷跡・小折城跡所在地 / 江南市小折町八反畑147関連記事 / 嫩桂山久昌寺、「神明社」江南市田代町郷中 久昌寺から徒歩ルート / 県道172号線を北上、徒歩5分
2021.09.30
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「鹿島稲荷神社」から国道1号線を天白川方向へ、大慶橋北交差点で右に進むと左側に杜が見えてきます。ここまで約10分程で元鳴尾の「若宮八幡社」到着です。所在地で言えば南区元鳴尾町になります。社地西側の通りには市バス「大慶橋」のバス停があり、降車すると目の前が境内。社頭は写真のバス停で降り、右に進み左に続く細い路地を入って行くと鳥居が見えてきます。若宮八幡社には参拝駐車場はなく、鳥居までは幅員の狭い路地の先となり、車が邪魔になるかもしれません。路地を少し進むと左手に玉垣が現れ境内が広がり、手水舎の先に社殿が見えてきます。右手に若宮八幡社の社標、右手に細い路地が参道に真っすぐに続いています。参道は社殿に対し右にずれている?いや〃社標の右に更に路地が奥へ伸び、その先に鳥居が見えてきます、そちらから境内に。鳥居前の路地も写真のように狭いので、社頭までは車では辿り着けません。先程から見えている重厚な壁は、真宗大谷派の寺院「西来寺」のもので、ぐるっと周囲を囲っています。鳥居から続く参道の正面が社殿。切妻の妻入り拝殿と狛犬。マニキュアまで施され、随分とお洒落で可愛い小ぶりな狛犬。社殿全景。社殿右の境内には正面に二社、右手に一社祀られている。境内の右が社務所の様ですが扉は閉ざされていました。拝殿から本殿方向の眺め、「若宮八幡社」の額が掲げられている。本殿は高縁付きで脇障子が付く、立派な本殿です。こちらの神社、由緒書は享保年間(1716年~36)創建や宝暦年間(1751年~64)と定かではありません。いずれにせよ、江戸中期から続く由緒ある神社である事は確かだ。祭神は若宮八幡社とあるように、八幡神の応神天皇の皇子の仁徳天皇(大鷦鷯尊)を祀る。現在元鳴尾と呼ばれるこの地域、明治の頃は鳴尾村で元鳴尾はそこから来ているのかもしれないが、さらに遡れば牛毛荒井村で、それ以前は牛毛、荒井と別々の村で若宮八幡社は荒井村に鎮座する。先に掲載した同じ元鳴尾の牛毛神社は正に牛毛村の鎮守でどちらも塩田から新田開発により発展した。若宮八幡社の鎮座する星崎周辺は創建時期から更に遡った慶長(1596年~1615年)の頃、牛毛、荒井、南野、本地、笠寺、戸部、山崎を星崎七か村として記され、当時から星崎の名は定着していたようです。その星崎の星は・・・話がどんどん脱線していく、戻ろう。本殿を右側面から眺める、綺麗な曲線を描く流造で、手前に二社が並ぶ。本殿寄りが多度社。その右が秋葉神社。招魂社。一社のみ社殿方向を向いて祀られている。本殿左の一社は鳴尾社。招魂社を除き、これら三社は1877年(明治10)に近隣から境内に移されてきたという。上境内から鳥居方向の眺め、狛犬の視線の先は西来寺。下社殿左方向から境内全景、境内は綺麗に管理され、楠の杜は鬱蒼としたものではなく明るい印象を受ける。2021/09/11若宮八幡社(元鳴尾)創建 / 不明祭神 / 大鷦鷯尊 境内社 / 鳴尾社、招魂社、秋葉神社、多度社所在地 / 名古屋市南区元鳴尾町432関連記事 / 鹿島稲荷社、 牛毛神社鹿島稲荷社から徒歩ルート / 国道1号線を天白川方向の大慶橋北交差点で右へ、10分公共交通機関アクセス / 名鉄名古屋本線「本星﨑」駅から南へ徒歩約15分
2021.09.27
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名鉄常滑線「名和」駅から東方向の国道247号線を右に進みます。蓮池交差点で右に進み100㍍程進んだ左側に鎮座するのが一番畑の「秋葉社」。国道247号線沿いに石垣が積まれ、その高台に社殿。社号標は国道向きに建っていますが、社頭は国道から左に入った南西になります。後方に見える建物は緑陽市民館で、ここに駐車場はあるけれど参拝目的で駐車出来るかは分からない。国道247号線聚楽園(常滑街道)方向の眺め。流れの悪い道路の印象が強かったこの道も、県道55号線の整備により随分と表情を変えた。一番畑の「秋葉社」社頭全景。社頭に社標はなく、常夜灯は東向きに建っていて、拝殿は境内左側にある。不思議な配置だ。緑陽市民館側から社地の眺め。こちら側に社頭があった名残はないようだ。上は1920年頃の当地、左がほぼ現在。県道もなく、氷上姉子神社から続く半田街道もここから少し南で常滑街道にも繋がっている。秋葉神社鎮座地は新田の南外れで、名和村の北外れにあたり、当時の地図にも鳥居が記されている。一時期は一番畑と呼ばれていた事もあるが、随分と農地は姿を消し「畑」の印象は薄くなってきた。古くから村を守ってきた火伏の神なのだろう。境内へ右手の手水鉢の元号は文化二まで読み取れる、文化二十年はないので1805年(文化2)に奉納されたものと思われます。古くから鎮座するようです。尾張名所図会、尾張史など一通り目を通してみたが、創建や由緒に繋がる明確な記述は見つからなかった。参道は境内に入り直ぐに左に折れ、手前に常夜灯、その先に狛犬が一対、南西向きに拝殿が建つ。常夜灯は左が秋葉山、右が天満宮と刻まれている、どちらも元号は不明。狛犬も台座に刻まれた元号は〇〇4年としか読み取れなかった。狛犬は彩色されていないもので、垂れ耳の胸板が厚いフォルムのもの。入母屋瓦葺で妻入りの拝殿。正面と本殿側は格子扉。拝殿から本殿域の眺め、創建や由緒に繋がる額は見当たらなかった。格子の向こうに見える本殿域には複数の社が祀られているようです。本殿域を囲う板塀は拝殿と一体になっているようで、本殿域には神木と思われる二本の大きなイチョウの樹が聳えている。火伏にイチョウは外せない。境内右に地蔵堂が祀られている。海上安全を司る青峯山の観音像のようだ。拝殿奥の神殿域内。写真左から津島社、拝殿正面に向いて左から金刀毘羅社、秋葉神社、天満社と並び右側手前の小社は塩竈社。ここをお参りすれば、ほぼなんでも叶えてくれる村の守り神。国道沿いの社地に建つ頌徳碑。国道沿いから見る秋葉神社。社標の向きは神社の遍歴を語っているのだろうが、知らない事ばかりだ。2021/9/23一番畑 「秋葉神社」創建 / 不明主祭神 / 火之迦具土神境内社 / 津島社、金刀毘羅社、天満社、塩竈社所在地 / 東海市名和町蓮池44公共交通機関アクセス / 名鉄常滑線「名和」駅下車、南東へ徒歩5分
2021.09.26
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2021/09/24秋らしい快晴に恵まれた久し振りにかみさんが知多四国巡りを再開するというので出かけてきた。今回はJR亀崎駅から、周辺の54、18番札所、番外2カ所を巡り、そのルート上の神社を何社か参拝し矢勝川の彼岸花を見て、帰りに一杯飲んで帰るそんな行程。コロナ禍でこちら方向はずっと先延ばししてきた。漸くかみさん的に解禁としたようで、今回は矢勝川堤の彼岸花もどんな感じか興味もありお供した。JR金山駅から東海道本線「大府」、そこから武豊線に乗り換え「亀崎」までほぼ50分程で到着。JR亀崎駅と駅前の亀崎案内板久し振りの10㌔越え、訛った足腰には負担がかかる、のんびりに徹し歩きだす。上半田市亀崎月見町3西山浄土宗 亀宝山 東光寺知多新四国八十八箇所霊場番外弘法坂と呼ばれる短い坂の上にある寺下半田市亀崎4秋葉神社本殿は市指定文化財、鳥居の先から続く長い石段が印象的。半田市亀崎町2神前神社神武天皇が大和入国の際ここから上陸したとされ、天神洲と称し小さな祠を建て産土神として崇敬した事から始まる。背後の亀崎県社公園には亀崎城址や伊勢神宮遥拝所などがある。半田市乙川若宮町二十五番地「曹洞宗 清涼山 海蔵寺」神前神社から約40分程西に鎮座する。海蔵寺の創建は1489年(長享3)と云われ、開山は月洲用敦大和尚、開基は華草栄香大和尚とされます。本尊は釈迦如来。1909年(明治42)に高野山奥の院として番外に加えられました。半田市乙川若宮町38若宮神社海蔵寺参拝者駐車場の西側の道路を左に1~2分程歩いた住宅地の一画に鎮座。祭神は仁徳天皇(大雀命)を祀り、創建等の詳細は不明。3月の春の祭礼では浅井山宮本車、殿海道山源氏車、南山八幡車、西山神楽車の4輛が、若宮神社と南に鎮座する乙川八幡社を二日間にわたり巡行されるそうです。半田市乙川北側町2鹿取神社知多四国八十八番外奥之院の海蔵寺から南西の若宮神社を経て、社頭から右に進んだ左側に鎮座する。今回訪れた中で一番魅かれた神社かもしれない。小社ですが歴史は古く、明徳時代(1390年頃)毘沙門として創建、明治8年頃に現社名に改称された。半田市乙川殿町97乙川八幡社(入水上神社)香取神社から南に約10分程に鎮座。本殿はじめ、祭礼絵図や絵馬などの文化財や様々な歴史的資料が残ります。1522年(大永)に再建された棟札が残る。主祭神は応神天皇,神功皇后,厳島姫命,多岐理姫命,多岐都姫命速玉之男命,予母津事解之男命,菊理姫神,天照大神を合祀。3月の春の祭礼では浅井山宮本車、殿海道山源氏車、南山八幡車、西山神楽車の4輛が八幡社から若宮神社まで御神体を載せた神輿が移動する際の守護しながら巡行されるそうです。上半田市乙川高良町120開運山光照寺乙川八幡社から西に徒歩5分程の所に鎮座する知多四国八十八箇所霊場十八番札所。清水次郎長地蔵尊があり鐘楼門が印象に残る寺でした。下半田市榎下町8半田赤レンガ建物1890 年代末に建設され、カブトビール製造工場として使用されていた建物、内部は展示施設、ビアホールがあり、建物の一部には機銃掃射の跡も残る。残念ながらご褒美のビールは飲めないので今回は通り過ぎる。上半田市出口町1麺やさくら「特製しおそば1.5玉」以下は個人的な感想カウンター席のみで静かな店内、上品な塩味、チャーシューも美味しいが、麺が・・・・・。味変の香味油も今一つだった。スマホは触るな等注意書きがやたらと目に付く、そうした事も含め、並んで待って、1,500円の価格でラーメンを食べるのが妥当なのか疑問に残る。下県道264号線を北上し矢勝川堤を目指す。半田市岩滑西町5矢勝川堤既に満開を過ぎ、蕾も残ってはいません、ほぼ枯れかけていました。一週間は遅かったようです。それでも赤い絨毯を見に訪れる方は多く、一様に「遅かったね」の言葉が聞こえる。ごんぎつねの舞台となった矢勝川、彼岸花だけを楽しみにして訪れるとガッカリかもしれない。2021/09/24撮影半田市岩滑西町1新美南吉記念館半地下構造の展示施設、芝生の緑と童話の森から吹き込んでくる風がとても心地よかった。久し振りの長距離、アップダウンも少なくそれほど足にこないだろうと思っていた。かみさんは言葉には出さなかったが、ここまでの足取りはかなり来ていた。ここで靴を脱いで30分程休憩。周囲を見渡すと県道265号線から有料駐車場に入る車の多い事、人は動いている。さて帰路に付こう、目の前の県道265号線を20分程東に向かい、名鉄河和線の「半田口」へ。上名鉄河和線「半田口」これに乗れば終わったようなもの。どこかで冷たいビールで喉を潤したい。下名古屋市中区栄1丁目大甚本店創業100年以上を誇る名古屋を代表する老舗大衆居酒屋。自分でお気に入りのつまみを持ってきて食べるスタイルのお店。接客はほぼ大陸からこられた方ですが日本語がおやじよりうまいかもしれない。庶民的でリラックス出来る落ち着ける空間だ。本日初めての燃料補給。冷えたビールは最高だ「お疲れさん」コロナ禍が体に与える影響の大きい事に改めて実感させられた、疲れた。久し振りの外飲みもあってか、帰宅し写真を整理しながら寝てしまった。今朝は腰が重い、この疲れが足に出るのは何日後か?
2021.09.25
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瑞穂区丸根町「北條八幡社」東部丘陵地帯の南西端といっても過言ではないかもしれない。弥冨通りから南と西に緩やかに傾斜が続き、南は天白川、西は山崎川に続く。神社は弥冨通の南の緩やかな傾斜地の小高い丘に鎮座します。一方通行も多く車の往来はさほどではない。現在のこの辺りは閑静な住宅街が広がる静かな街並み。天白川方向の眺望が利くこの辺りは、戦国時代は戦略的拠点でもあり、近隣には複数の城が築かれました。「北條八幡社」は正にその城の一つ「中根南城」に鎮座する神社。南と付けば他もあるのでは?、中根城は現在の県道221号線の弥冨通を挟んで、北に中根北城(瑞穂区日向町4)と南に中の城(瑞穂区丸根町1)、そしてここ南城の三つの城があり、現在は遺構などは残っていない。この「中根南城跡」の現在は浄土宗鎮西派の北條山観音寺があり、八幡社はその境内の南西角の小高い場所に鎮座しています。北條八幡社の参道口は小高い丘の西側の通り沿いにある幼稚園の車庫が目印。そこまでくれば写真のような案内板が導いてくれるはず。因みに観音寺へはこの丘の南側の山門からになりますが、この参道を進むと観音寺に繋がっています。緩やかな上りの参道を上がりきれば視界が広がり、観音寺境内が見えてきます。今回は八幡社なのでさらっと流します。左に見える六角形の建物が観音堂。参道の先に山門と右手に進むと本堂の様です。むくり屋根の観音堂本堂。目的地の北條八幡社は参道を上がりきった左、杜に包まれた小高い丘の頂に鎮座します。北條八幡社社頭全景。右に社標があり、少し上った丘の頂を整地し社殿が建つ。拝殿は瓦葺の切妻で四方吹き抜けのもの。建立年代は不明ですが、素木造りで飾りを廃した落ち着いた佇まいのもの。八幡社の鎮座する「中根城」の城主は逸話の多い織田信照(1546~1610年)の居城とされ、城の鎮守として祀られたとすると長い歴史を持つ神社。廃城時期は定かではないけれど、城址に建つ観音寺の開基が慶長10年(1605)とされる。北城、中城ともに遺構はなく、ここ中根南城はこの高みが唯一それを感じさせるくらい。軒下には素木の札に「北條八幡」と記されている。拝殿から本殿の眺め。左には注連縄が張られた大きな切株が目に入る。樹齢400年を超す黒松の切株で、在城当時をしのばせるもので、名古屋市指定文化財にもなっていたという、昭和33年枯死によりそれも解除された。本殿は切妻瓦葺の覆屋の中に祀られている。本殿全景。観音寺でお世話をされているのだろうか、こまめに榊がお供えされている。覆屋横から拝殿方向を眺める、こうして見ると南側は随分見下ろす事ができ、天白川や更にその先も良く見通せたはずだ。田畑や森から閑静な住宅地に変貌した現在、その環境の中に残る貴重な杜かもしれない。枯死した黒松に代わり、今は大きな樹が聳えている、この木肌からみると楠かと思いますが、住宅街の高みに空を覆う様に枝を張り、嘗ての中根城はここにありと云わんばかりだ。2021/09/13北條八幡社創建 / 不明祭神 / 北条八幡大神所在地 / 名古屋市瑞穂区丸根町2-43中根南城元はこの地を収めていた中根氏の居城築城時期は定かではないが1561年(永禄4)~1590年(天正18)頃と云われるここ南城と中城(丸根町1)、北城(弥富小学校)に築城され、それらを総称して中根城という。天白川を見下ろす高台の南城、平針街道を固める中城と北城。公共交通機関アクセス / 地下鉄名城線「新瑞」から南東へ徒歩20分程
2021.09.21
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過ごしやすい天気だった今日心地よい風につられて江南市の尾北自然歩道を少し歩いてきました。尾北自然歩道犬山市から岩倉市まで、五条川に沿いに延長約27kmにおよび歩道が整備され、両岸には桜並木が続き桜の名所として知られます。この時期は周囲の稲の緑も鮮やかで、歩道沿いは彼岸花が咲き、鮮やかな赤が川面を彩ります。台風の影響もそれほどなかったようで稲穂は少しずつ垂れ始めている。正面の堤が五条川。こうした歩道が延々と整備されている。川沿いのそこかしこに彼岸花が咲き、季節の彩りにあふれています。大きな群落はないけれど、こうした小さな群落が多く見られます。桜で賑わう五条川ですが、彼岸花のこの時期は、秋風を感じながら家族でサイクリングする姿が多く見られました。彼岸花の見頃は意外に短い印象がありますが、来週くらいまでは鮮やかな赤い彼岸花が見られると思います。歩いた限りでは白い花はあまり見かけませんでした。2021/9/20尾北自然歩道撮影地 / 江南市曽本町幼川添
2021.09.20
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江南市田代町郷中の神明社以前掲載した「久昌寺」の南に鎮座する。神明社社頭。道は社頭で突き当る、正面には石の神明鳥居と蕃塀と拝殿が見通せる。ここまでの道の左右は民家が立ち並び、この道を南に進むと県道171号線が左右に伸び、左側に松社天神が鎮座する。県道を渡り、更に南へ進むと南山神明社へ真っすぐに続いている。門前町の趣が漂う道筋です。田代町の神明社境内全景。恐らく南北に長い社地で、東側は水田、西側と北側に住宅が点在するがまばらに水田が残っている。これは初めて見る、蕃塀なんだろう。神域を壁で見通せなくし、真っすぐに進ませない見慣れた蕃塀から見ると随分様式が違う。入母屋瓦葺の拝殿とその先に切妻瓦葺の覆屋が伽藍のようだ。四方吹き抜けの妻入りの拝殿。額は付かないシンプルなもので、ひょっとすると拝殿ではなく神楽殿かもしれない。ここでは拝殿として記載を続けます。拝殿から本殿方向の眺め。拝殿内には由緒らしき額は掲げられていなかった。手前に石灯籠と一段高く基礎が作られ、その上に覆屋が建てられ、正面は透塀、他は板垣に囲まれている。内部には朱塗りの本殿が見える。江南市の解説によると「神明社は小折の田代町郷中にあり、『神社明細書』によれば、明応年間(1492~1501)生駒家広が領主としてこの地に居住するにあたり、守護神として勧請(かんじょう)した社ということです。『尾張徇行記』によれば「当村五社祠官山田和泉書上ニ神明外宮社五畝歩、神明内宮社内九畝六・・・」と記されています。即ち小折村には二つの神明社があり、それは外宮(南山神明社)と内宮(当神明社)でいづれも生駒家代々の氏神であった訳です。勧請したのは明応のころというだけで年代は定かではありませんが、慶長15年(1610)第五代目生駒因幡守利豊の時に再建した古記録が残っています。また、当神社には宝暦3年(1753)及び文化10年(1813)の屋根葺き替え工事の際の棟札が残っています。平成17年には覆屋も含めた全体の修理を行い、かつての鮮やかな朱色がよみがえっています。一間社神明造りでこの種の古い建物が残っているのは珍しいといわれています。尾張名所図会久昌寺絵図。黄色の久昌寺の上には神明社を氏神として祀った生駒氏の屋敷(小折城)があった。内宮とされる赤く塗った郷中の神明社は確かに描かれ、外宮とされる南山神明社は切れて描かれていないが郷中の神明社の下に位置している。描かれた絵と現在を比べても昔の面影は今も色濃く残っている。檜皮の赤い本殿は神明造で内削ぎの千木が付く。右手に解説が掲げられています。「神明社本殿 江南市田代町郷中114番地 指定文化財 昭和59年3月21日指定 一間社神明造 檜皮葺 当地には、もと内宮と外宮があり、尾張徇行記には「此両社生駒家代々氏神、勧請の年歴は不伝、再建は慶長15年(1610)生駒因幡守利豊造営地也」とあって、これはそのうちの内宮にあたり、再建当時のものとみられます。 宝暦3年(1753)及び文化10年(1813)の屋根葺き替えの棟札があります。このように時代の古い神明造が残されているのは珍しく、保護のうえから、瓦葺きの覆屋に納められています。 平成4年5月江南市教育委員会」とある。本殿の全容は板垣もあり見る事はできませんが、平成17年(2005)に葺き替えられた屋根や朱塗りも色鮮やかな状態、覆屋はしっかり本殿を守っているようです。佇む姿からはそれほど歴史があるとは思えなかったが、一帯は生駒家と深いかかわりのある寺社が残っている。名古屋から少し時間はかかるけれど、田んぼが育む蛙やトンボ、見知らぬ花など街中から消えた光景がまだまだ残っている。2021/8/31「神明社」江南市田代町郷中創建 / 不明祭神 / 天照大神所在地 / 江南市田代町郷中114公共交通機関アクセス / 名鉄犬山線布袋駅から南東に徒歩22分程関連記事 / 嫩桂山久昌寺
2021.09.19
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名鉄本星崎駅から南へ徒歩十分ほど。国道1号線鳴尾交番北を左に進む、鹿島(かのしま)稲荷社はその通りの左側に鎮座します。国道から曲がると周辺は工場などが立ち並ぶ一帯となります。正面は名鉄名古屋本線。そうした環境の中に鹿島(かのしま)稲荷社がポツンと鎮座する。道路際に南区の史跡散策路の案内板と正面の鳥居から先に赤い稲荷鳥居が奥へと続いている。社標は鳥居左側にあるが木々に隠れ気味。鹿島(かのしま)稲荷社は別名「久太稲荷」と呼ばれ、創建は四百年ほど前、キツネの化身だった女性をかみさんとして娶った久太夫の子孫が社を建てたという。参道左の手水舎。手水鉢は古そうですが奉納年までは確認していません。南区史跡案内に鹿島稲荷社について以下のように紹介されていました。「天白川の砂州が発達して出来たというこの地は、かつて鹿の島と呼ばれていました。別名「久太稲荷」とも呼ばれ、「狐の化身だった久太夫の妻がその正体を子どもに見られ、姿を消す際に恩返しにと一晩で田植えをし、家を出ていった。その年久太夫の田だけ豊かに実った。」という民話が伝わっています」上は尾張名所図会に描かれた星崎周辺の眺め。この絵の中には海は間近に描かれ、当時は塩田が営まれていた。やがて新田開発により海岸線は沖に延び、塩田は水田と移り変わっていったのだろう。この昔話はそんな頃の話なのだろう、こうした物語は正体が知られると姿を消すのが定番。「働き者の狐の嫁さんと久太夫はその後も幸せに暮らしたとさ」とはいかないものだろうか。そんな民話が生まれた水田の広がる光景も、今は工場が立ち並び、長城のような河川堤防と国道を頻繁に車が行き交う。今の風景からは当時の面影は全く感じられない。鹿島(かのしま)稲荷社本殿。狐の化身だった久太夫の妻は一説によれば京都の伏見で倒れた女性という説があるといい、伏見稲荷から発祥した神社なのかもしれないという。高く積まれた石垣の上を赤い覆屋が建ち、その中に檜皮葺の本殿が祀られています。鹿島稲荷社本殿全景。屋根は多少傷みがあるものの、境内含め綺麗に維持管理され、今も熱心な信者により支えられている事が分かります。以前は稲荷講があり管理されていたようですが、それも20年ほど前に解散、以降は信者方々により維持されているという。事実、訪れた時も自転車が停められ境内の清掃活動をされている光景を見た。管理はそれまでの組織から鹿島稲荷を崇敬する個人に移り変わってきたようです。本殿は流造の檜皮葺で破損を進めないようにネットで養生されている。社名札は「鹿ノ島稲荷」の表記されている。屋根以外はしっかりしながら、屋根の痛み具合だけが残念だ、しかし見ての通り立派な覆屋が上を覆っているので吹きっ晒しに比べれば遥かにいい。トタンで包んでしまうと安価で早いだろう。反面。味気ないものになるだけに補修の手が入るといいが。補修技術がある訳でもないので僅かな賽銭を足しにしてもらうしかできる事がない。本殿前には二対の狛狐が守護しています、どちらも栄養状態は良さそうで、時に見かける痩せこけて体の細い悲壮感漂うものではない。後方には複数の境内社があるようです。本殿右の覆屋。中には二社祀られ、右は秋葉大神、左ら八幡大神が祀られています。有難いことに境内社は社名札が掲げられているものが多く考える事がない。更に奥は稲荷鳥居が続き、岩を組み上げた一画に祀られた二社を赤の玉垣が囲う、参道はこの二社の外周を周回するように伸びている。見えていた二社以外に隠れる様にもう一社祀られていた。小さな板宮造りの社でありながら、狐の数はこちらは本殿以上に多い。前掛けが付けられた四対の狛狐が確認できる。余談ですが、最近こうして低い視線から眺めるのがきつくなってきた。あわよくば三社を収めたかったがこれが限界、腰と膝が悲鳴を上げるようになってきた。この辺りだと本殿後方が良く見て取れる。本殿の石垣の左右に大量の白い小さな狐がいる。本殿左の二社全景。この趣は御嶽神社をイメージしてしまう。左の社は文字神社とある。聞いたことのない社名、拝み倒すと字が上達するとか?調べて見る価値がありそうです。右は住吉神社。本殿西側からの眺め。日没も早くなり、境内は周辺の建物の影が伸びてきた。本殿。大きなものではないけれど、素木の流造で脇障子と高欄が付く本殿は堂々とした佇まい。どうしてもネットに視線が行ってしまう。創建や再建等は定かではないけれど、言い伝えからすれば随分と古くから鎮座しているようで、祭神は倉稲魂命。両脇に子狐たちが寄り添う。本殿から社頭の眺め。稲荷鳥居は本殿に真っすぐに繋がる感じではなく、本殿後方へ導くように建てられている。水田が広がっていた当時と様変わりし、現在は工場が林立し周辺の景色は見通せなくなっている。そんな立地の鹿島(かのしま)稲荷社ではあるけれど、手入れされた境内や日々参拝に訪れる方がいるのを見るとまだまだ途絶えることはなさそうだ。境内で見かけた猫。途中で姿を見なくなったが、こんな場所でくつろいでいた。触らしてはくれないが、怪しいおやじは気になるみたいだ。後ろを走る電車には気を付けろ。鹿島(かのしま)稲荷社創建 / 不明祭神 / 倉稲魂命境内社 / 秋葉大神、八幡大神、文字神社、住吉神社所在地 / 名古屋市南区星崎2丁目 公共交通機関アクセス / 名鉄名古屋本線「本星崎」駅下車、南へ徒歩10分。関連記事 / 石神社
2021.09.17
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春日井市朝宮町朝宮神社。鳥居松3の神明社から徒歩で20分程北西に鎮座する。町名の朝宮の由来は朝宮神社から付いたとされます。朝宮神社全景。静かな住宅地の一画に東を向いて社頭があり、右手に春日井市朝宮地区集会施設がある。境内へはここの他に社地北側にも鳥居を構えた脇参道があります。左手に朝宮神社社標、一段上がって境内が広がります。鳥居の先右手に手水舎、その先に蕃塀と拝殿が見えます。石の神明鳥居の左に石碑が見える。朝宮神社由緒「朝宮神社祭神 阿太賀田須命 建手和爾命 菊理比売命 鎮座地 春日井市朝宮町7054由緒 創建不詳 延喜式神名帳(延喜5年927年)の式内社和爾良神社と伝えられるが定かではない。 建保6年1218年 加賀白山より菊理比売命を合祀し朝宮白山宮と称した。寛永19年1642年徳川源敬公により改造営され朝宮神社となる。 文禄4年1595年の「奉再建和爾良白山宮御本殿」の棟札が残る。今回、区画整理に伴い境内地の変更があり本殿・拝殿とも鉄筋コンクリート造りで再建し境内も整備し、 昭和63年1968年遷座祭を行う」和爾良神社ですかぁ、名東区の和示良神社や春日井市宮町の両社宮神社、上条町の和爾良神社の他に新たに候補が増えたようだ。正直な所どこが本家でも構わない、はっきりしなくてもいいものの様に思える。境内全景。由緒にもあるようにコンクリート造りの伽藍は全てが新しく、境内は良く手入れされ居心地のいい空間。手水舎後方に古い鉢と左に「和爾之井」と掘られた空井戸、江戸初期には「和爾清水」という湧き水が湧出していたという。蕃塀と拝殿正面全景。石造の蕃塀の下部には波が描かれ、波間を飛ぶ鳥が描かれている。銅板葺の平入拝殿、こうして屋根を見ると僅かにむくりが入っているように見える。拝殿左に注連縄の架けられた覆い屋がある。拝殿、幣殿、本殿が一体となり連なっている。新しく綺麗な社殿に対し、その脇の狛犬は同時期のものとは思えない風貌だ。年代までは確認していませんが、建て替える以前の面々か。東から見た社殿、全体的にシャープな印象を受ける。本殿は四本の鰹木と内削ぎの千木が付く。まずは朝宮神社参拝。拝殿の額と拝殿内から本殿方向の眺め。1968年にコンクリート造りに建て替えたとあったが、半世紀を経たとは思えない程綺麗な印象を受ける。拝殿左脇の覆屋には津島神社が祀られています。津島神社の左に朝宮神社由緒。一部抜粋「祭神の和爾命は当地と関係のある和爾族の祖神である。社殿によれば尾張藩祖徳川義直および二代目光友は当社の崇敬厚く義直は社殿の造営、光友は亡母貞松院の祈願所とされた。なお、神社の近くには源敬公の朝宮御殿跡の碑があり、これは春日井原においてお鷹狩りの折の休憩所の跡である」はて?それらしき碑は見つけられなかった、近くとはどこだろうか。家に帰りグーグル先生に聞けば、社頭左の道路を西に行けば玉垣の切れ目があり、そこから階段を上るとその碑があったようだ、少し悔やまれるが後の祭りだ。またの機会にしよう。上境内から北側参道の眺め、鳥居の先は参拝者駐車場ではなさそうでした。下社頭方向の眺め。、鳥居からセミの鳴き声が聞こえてくる。鳴き声の主はアブラゼミ。石の鳥居が好みなのか、ひと際大きく鳴きまくっていた。参拝を終え、車を停めさせてもらっている慈眼寺まで急いで戻るとする。2021/8/16朝宮神社創建 / 不明祭神 / 阿太賀田須命 建手和爾命 菊理比売命境内社 / 津島社所在地 / 春日井市朝宮町1-12徒歩ルート / 鳥居松3「神明社」から北へ徒歩20分関連記事 / 春日井市鳥居松町3「神明社」 『両社宮神社』春日井市宮町 和示良神社(名東区) 和爾良神社飛地末社「大日社」 「和爾良神社 / 大光寺」春日井市上条町
2021.09.16
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「鏡池」戸隠では知名度の高い絶景スポットとして知られている。鏡池へは以前記載した「戸隠 蕎麦処 そばの実」の前から県道36号線を左に進んで10分程の所にある。幅員の狭い対面通行の山道で、途中に一部すれ違いの難しい場所もあり、バックや幅寄せが苦手な向きには厄介な道かもしれません。そんな山道を抜けると前方が開け、右手に湖が見えてきます。鏡池到着。ここには「どんぐりハウス」というガレットを提供するレストハウスがあり、駐車はその前かもう少し奥に進んだ左側に広い駐車場があります。広々とした奥の駐車場から歩いても鏡池まではたかが知れています。写真は鏡池の湖畔に建つ周辺案内図。ここから眺める戸隠連峰はなかなか見ごたえがあり、紅葉の時期などは山々と周囲の紅葉が湖面に映りこみ絶景の写真スポットとして賑わうそうだ。この鏡池は天然の湖ではなく人造湖。この写真の左側は人工的な堰堤が築かれています。戸隠山を撮るなら堰堤側に進むと全景が入ると思いますが、そうしたところは人が集まります。この日も山を撮影しようと結構な人がカメラを構えていました。鏡池左側から見る戸隠連峰。尖った頂が続く山が西岳(標高2053㍍)で、左に見える標高1980㍍の第三峰から、標高1981㍍の第二峰、標高1989㍍第一峰と続き、中央の三角形のピークが標高2030㍍の本院岳で、そこから右に標高1900㍍の八方睨、同1904㍍の戸隠山、同1882㍍の九頭龍山と連なっています。少し右に視線を移すと八方睨から戸隠山、九頭龍山が望める。滞在中は今一つ快晴に恵まれなかったけれど、戸隠神社を参拝し、御神体の戸隠山をこうして眺められれは幸運なのかもしれない。朝や夕方はまた別の表情を見せてくれるのだろう。この鏡池、正式には「西原温水溜池」といい、聞きなれない温水が付いています。高冷地で水温の低い楠川の水は稲作には適さず、それを可能とするため、楠川源流のこの場所に堰堤を築き、一旦ここで流れを止め、水温を温めて田に引くことを目的とした人造湖。築堤されたのは意外に最近の事で1974年(昭和49)だという。堤を写さなければ自然の造形に見えるが、築堤は稲作に適した水源の確保とこの絶景をもたらしてくれました。周囲は散策路も整備され歩いて見たいところですが「クマ出没注意」はどうしても気になるところ。戸隠神社の御神体である戸隠山、昔から伝わる伝説に天の岩戸隠れの伝説があります。天照大神が、弟神の素戔鳴尊の乱暴振りに堪忍袋の緒が切れて、天の岩屋へ籠ってしまった。暗闇に閉ざされ困り果てた八百万の神々は、岩屋の前に集まり天照大神を岩屋から出てもらうための相談をする、天八意思兼命の提案で岩戸の前で鶏を沢山集めて鳴かせ、踊り上手な天鈿女命が舞を踊り、岩屋の中に籠ったままの天照大神の気を引き、岩戸をあけて外を覗いた時に天手力雄命が岩戸を開け放つこととした。策は見事に成功し天照大神が岩戸を少し開け外を窺った時に、天手力雄命は一気に岩戸を下界に向かって投げたという、その岩戸が飛んで戸隠山にあたり、今の戸隠山になったのだという。その立役者ともいえる天手力雄命を戸隠山の麓に祀ったのが戸隠神社奥社であり、策を提案した天八意思兼命を祀ったのが中社の始まり。高千穂からここまで岩戸を飛ばすとは、天手力雄命はなんという怪力。天照大神、なまめかしい踊りや外の騒ぎに釣られるとはなんとも人間味のある話だと思う。戸隠山はそんな伝説から誕生した山だ。その山の全貌を見るには、ここ鏡池が最適、風が無ければ湖面に写り込んだ戸隠山の姿も味がある。時間に余裕があれば立ち寄ってみて損はない。「どんぐりハウス」樹々に包まれ、鏡池を眺められるやや高い場所に建つ。ガレットが自慢のようで「おすすめ!」や「大人気!」の文字が躍る。先程蕎麦を食べて来たばかり、写真を見ていると食べたくなるがそんなに食べれるはずもなく。今回は見送る事にした。鏡池所在地 / 長野県長野市戸隠車アクセス / 上信越道長野ICより七曲経由、戸隠方面へ1時間10分、蕎麦処そばの実から約10分程関連記事 / キャンプしがてら戸隠神社五社巡り「奥社、九頭龍社」、戸隠 蕎麦処 そばの実
2021.09.15
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つい先日まで暑い日が続いていましたが 随分日暮れも早くなり、枯れ葉が舞い落ちる光景を見ると秋の深まりを感じるようになってきました 里山では僅かですが彼岸花も咲き始めていました栗の樹を見上げれば 重そうに立派な実を付けていますかみさんの言葉にも栗が良く出る様になってきた 食欲の秋到来
2021.09.12
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江南市田代町郷中名鉄犬山線の布袋駅から南東に徒歩20分程、そこは東に柳街道が南北に延び、西に名鉄犬山線の線路が続く、嫩桂山久昌寺はその中間に鎮座します。周囲は宅地化も進んでいますが、嫩桂山久昌寺の西側にかけては今も水田が多く残り、こうした昔ながらの長閑な風景が残っている。鮮やかな緑の稲田の先に、浮島の様にこんもりとした杜が残されています、久昌寺の杜です。その杜に包まれた境内に瓦葺で入母屋の屋根が見えてきます。嫩桂山久昌寺境内全景。寺号標の左に小さなお堂、右手に江南市教育委員会による久昌寺の解説板が置かれている。その奥に本堂と右手に庫裏がある。解説「久昌寺は嫩桂山と号し、曹洞宗で大本山総持寺の直末である。中興開基は、久庵桂昌大禅定尼(𠮷乃の方、信長室)で開山は雄山源英和尚(万松寺六世)です。久昌寺の縁起によると、至徳元年(1384)禅喜寺を草創、途中、嘉慶元年(1387)寺号を慈雲山龍徳寺と改めています。生駒氏が大和より移住したとき開営し、菩提寺としました。三代家宗の代になり、その娘お類(吉乃の方)が織田信長の室となり、信忠、信雄、五徳(徳姫)を生みましたが、永禄九年(1566)五月一三日病没、この時から現在の寺名に改められています。吉乃の方は小折村新野(今の田代墓地の南西)で荼毘に付され、久庵桂昌大禅定尼と号し、この寺に祀られています。この寺に嫩(どん)の桂があり、久しく昌えるという意味から、嫩桂山と名付けられたといわれています。信長は、信雄に命じて香華料として五明村六百六拾石を付したといわれ、図(尾張名所図会)の如く寺廓の整った寺の様子がうかがえます。久昌寺の本堂の西に墓地があり、生駒氏代々と一族、歴代住職の墓標が林立しています。その他、略図のごとく生駒氏に関る人々の墓地があります」戦国時代の流れを左右するひとつの舞台となった久昌寺、その寺が来年には取り壊されると聞き、姿を収めておきたくて訪れる事にしました。赤い屋根の小さな堂、内部に一体の石仏が安置されている。蓮華座の上にあぐらをかくこの石仏、由来や年代は明らかではない、角の取れた石に彫られた像の表情はよくわからない。こうして見る限り、荒れ果てた廃寺の印象はない。お堂の左から本堂へ続く参道は右側は綺麗に保たれているが、左側はお世辞にも手入れがいいとは言えない。それもそのはず、この寺の専属の住職は彼是60年前からおらず、檀家も数えるほどしかいないという。寺は既に精算業務を終えているというが、それでもこの状態で保たれているのはボランティアの方々によるもの。参道左側の木々と雑草が生い茂る中に赤い社があるが詳細は分からなかった。更に奥に進むと、草むらの中に赤い鳥居がありその先にも社がある、こちらも詳細は分からなかった。久昌寺は尾張七福神の「弁財天」のお寺としても知られている。本堂現在の本堂は1925年(大正14)に建て替えられたもので、建物としては特別古い物とは言えないかも知れない。入母屋瓦葺で向拝を持ち大棟には嫩桂と山号瓦が乗っている、解体が決まったいま、それが妙に寂しく見えてくる。解体の最大の要因は檀家の減小もあるだろうが、大正以降の維持管理が出来なかった様だ。近くで見ると下り棟の瓦などは無くなっていて、老朽化した部分が見えてくる、恐らく内部には雨も漏れているだろう。軒下にあるはずの額は既に取り外され、壁には白い額の跡が露わになっていた。向拝向拝を支える向拝柱や桁など躯体の木材はしっかりしているのだが。斗供や木鼻も綺麗なものです。手挟の飾りも老朽化は見られない。緑色に染まった軒下の梵鐘と使い込まれた突き棒。鐘の音が最後になったのはいつの事だろう。池の間に銘文が刻まれていたが読み取れなかった、唯一「久〇寺」とは読めるが、右側が読めない。いつ頃鋳造されたものか不明ですが、突き座は結構すり減っています。拝殿から庫裏方向の眺め。本堂は施錠され、中の様子までは見ることが出来なかった、境内整備をされていた方によれば「本尊や吉乃と信長の位牌などは既に他の寺に移され何も無いよ」と教えてもらう。秋めいてきた。本堂後方。久しく昌える嫩の桂とはどれだろう、丸い葉っぱは目に付かなかった。取り壊し後は公園となるようですが、過去を語り継ぐ掲示物が整備されるといいのだろう。本堂西側の生駒氏代々の墓碑と歴代住職の墓碑群。ここは文化財に指定されているので伽藍取り壊し後も保存されるようです。解説からの抜粋「生駒氏は、家譜によれば藤原氏の流れで、もとは大和國生駒郷(現在の奈良県)に住み、文明・明応(1469~1500)の頃に初代家広が小折村へ移り住んだと云われています。生駒家歴代の墓碑は平成二十五年に市の文化財に指定されました」一面草に覆われた墓碑群。この一画に久庵桂昌大禅定尼(吉乃の方)の墓碑がある。吉乃の方の墓碑(左から4基目)本堂から境内の眺め、庭木は今も綺麗に剪定されていました。庫裏から眺める本堂。庫裏全景。詳細は不明ですが一説には江戸末期のものとされています。越屋根。こちらの庫裏も施錠されているようで、境内全体は静まり返り物寂しさが漂う。こうして伽藍を眺められるのもそれほど長くはない。尾張名所図会「久昌寺」江南市の解説内容はほぼここから来ているようです。尾張名所図会「久昌寺」これによれば本堂の参道左に禅堂、庫裏の横に鐘楼、南に弁天(現存せず)、その先に表門を構えた様子が描かれ、現在目にする伽藍より規模は大きなものだったのが分かります。右下の神明社や左上の八大龍王社は現在も受け継がれています。当時の面影は薄れているけれど、稲田の中に佇む浮島様な風景のジグソーパズルから、大きなピースがなくなる。「久昌寺」山号 / 嫩桂(どけい)山寺号 / 久昌寺創建 / 至徳元年(1384年)宗派 / 曹洞宗本尊 / 木造釈迦如来所在地 / 江南市田代町郷中47公共交通機関アクセス / 名鉄犬山線布袋駅から南東に徒歩20分程関連記事 / 久昌寺(きゅうしょうじ)江南市田代町
2021.09.11
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名古屋市南区元鳴尾町「牛毛神社」天白川右岸堤防道路沿いに鎮座し、社頭正面には東海道新幹線と東海道本線が走り、天白川を渡る架橋の基礎が壁の様に聳える。堤防で見えませんが、その先には扇川が並行して流れ、二つの大きな河川の合流による水位を制御しているようだ。天白川上流の眺め、平時でこの水位なので左の元鳴尾町方向の海抜は高いとはいえない。神社の社地は天白川河川堤防の上にある。現在は元鳴尾ですが少し前は鳴尾村、更に遡ると牛毛村で尾張名所図解や尾張史にもその地名が見つかります。海岸線が近かったころは「海潮池」(うしおいけ)呼ばれたようで、時の経過によりいつからか「うしげ」と変わっていったようです。明治の頃の地図しか用意できなかったけれど、新田開発により海口は沖に伸びていきます。天白川の砂州が発達しその上にできた集落が牛毛と呼ばれていた頃は、海が迫りこの辺りは牛毛海岸と呼ばれたようです。赤い矢印が牛毛神社。新幹線の高架沿いを細い道が堤防に続き、社頭はその道沿いにあります。社頭前の道は車が通れる幅はなく、周辺には駐車余地がない事を予め書いておきます。社頭右に二つの石標があり、これが目印になるかも知れません。ここには「聖徳大師」、「庚申塚」が安置されていますが、年代や詳細は分かりません。造花とはいえ色鮮やかな花が供えられていました。この写真を撮っている時に一人の年配の女性の方が通り過ぎ、堤防の上がり際で立ち止まり手を合わせていく姿を見かける、早朝散歩の日課の様だ。堤防脇のその場には一体の石像が祀られていました。像は風化により姿はよく分からず、背後に回ってみてもげ元号らしきものも見当たらない。謂れを聞けばよかったが既に後の祭りだ。しかしこうしてお参りに訪れる姿を見ると、この神社が身近な存在なのがよく分かる。境内は左に社号標、常夜灯の先に神明鳥居が建ち、拝殿は更に奥にある。社号標後方に牛毛神社由緒。「宗教法人神社本庁十三級社名古屋市南区元鳴尾町二一八番地牛毛神社御祭神 須佐之男命創建 文政五年(西暦1823)御由緒 昔から傳わるには津島神社の御神符が毎年のように当時の牛毛海岸に流れ着きしを村人は之を神の御神意と解してこの地に奉遷して氏子の守護神として現在に至っている。例大祭 毎年十月の第二日曜日境内神社 伊勢神宮 祭神 / 天照皇大神、 創建 / 大正十三年、 祭礼日 / 十月第二日曜日津島神社 祭神 / 須佐之男命・大国主神、 創建 / 〃 、 祭礼日 / 七月第四土曜日金刀比羅宮 祭神 / 大国主神・崇徳天皇、 創建 / 〃 、 祭礼日 / 十月第二日曜日多度神社 祭神 / 天津彦根命、 創建 / 〃 、祭礼日 / 十月第二日曜日鳥居から境内の眺め。左に手水舎、社務所、正面に社殿の伽藍。手水舎と手水鉢。由緒には文政五年(西暦1823)の創建とあったが、手水鉢には「明和6年(1769年)、牛毛村若者」と刻まれ、多少年代に多少食い違いがあるようです。拝殿正面の眺め。瓦葺の切妻妻入り拝殿とその前を守護する狛犬は大正12年(1923)生まれ。巻き髪が強調され、肉付きの良いフォルム、思いっきり大きく口を開けている。拝殿内、正面に由緒書きと思われる額が掛けられている。起こりは牛毛海岸に幾度となく御神符が流れ着き、当時の村人が神の神意と捉え創建したとあるように、そうした事が繰り返し起これば、何かしら不思議な縁のような物を感じたのも無理はないかもしれない。それを形にするエネルギーと、それを守護神として崇め続けてきた牛毛村の人々の信仰心の厚さが、今もこうして神社として残っている。参拝。それにしても焚き上げもせず御神符を流す、その出所はどこだ?なんて考えてはいけないものかもしれない。拝殿左から牛毛神社本殿方向の全景。拝殿後方は透塀で囲まれ、見通せそうで見通せない。神門と吹き抜けの幣殿、本殿が祀られています。拝殿後方の一本の老木は御神木のムクノキ。本殿後方から本殿域を眺める。本殿は一間社流造で、後方を除き縁と脇障子が付く、高欄には金色に輝く擬宝珠が施されていた。本殿域後方の境内社。金刀比羅社、多度社、津島社、天照皇大神、一社だけ離れて御霊社が祀られています。境内社左には脇参道がある。南側から本殿域の眺め。南側は堤防沿いに歩道が整備されています。歩道側から社殿が良く見渡せるかというと、イチョウなどの杜が視界を遮り意外に見通せない。遥か昔は波打ち際で、自然に任せどからともなく流れ着いた御神符。今は穏やかに流れる天白川とその上を走り去る新幹線の速さの対比が面白い。出張で幾度となく利用はしたが、速攻爆睡で車窓の外など気にも留めなかった。牛毛神社、新幹線の車窓から意外に見えるのかもしれない。これがリニアになると寝る事も外の景色を楽しむことも出来なくなる、そこまでの速さで移動する事が必要なのか常に感じる。牛毛神社創建 / 由緒書 : 文政五年(西暦1823)、手水鉢 : 明和6年(1769年)祭神 / 天照皇大神境内社 / 金刀比羅社、多度社、津島社、天照大神宮、一社離れて御霊社所在地 / 名古屋市南区元鳴尾町218公共交通機関アクセス / 名鉄名古屋本線「本星﨑」駅から徒歩で南へ25分程
2021.09.10
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春日井市鳥居松町3「神明社」春日井市の西部に位置し春日井市役所などあり、春日井の中心といってもいいでしょう。南に下街道が東西に続き、北に平行して国道19号線が伸びる。鳥居松町3「神明社」は国道19号と下街道に挟まれた中央公園の道路を挟んだ南側に鎮座します。上の絵の左は1891年頃の当地、緑のラインは下街道で、現在の国道19号線はまだ整備されていない。この年代にして鳥居が描かれているので建立は古そうです。町名の「鳥居松」も何か意味深。由来は幾つかあるようで、その昔この辺りに権現さまの鳥居跡があり、その傍らに松があった事から「とりいまつ」とついたとか、街道沿いに松並木があった事から「とおり まつ」からきているとか諸説あるようですが、現在の鳥居松の街並みで松はお目にかかれない。訪れたのは8月16日、晴れたいのか雨を降らしたいのかよく分からない空模様。中央公園南側から「神明社」社地全景。車の場合駐車場に困るかもしれない、因みに慈眼寺を参拝しそのまま歩いて訪れました。社頭は下の写真右の細い路地にあり、境内は東西に長い社地。春日井の中心にあって豊かな杜が残されています。社頭から境内の眺め。神明鳥居から参道は真っすぐに伸び、狛犬が守護する拝殿が見通せます。鳥居右の社号標と由緒標。由緒標、石の模様が強く、刻まれた文字は見ずらいものがあります。當神社祭神由緒標には以下の様に刻まれていました。「 神社名 神明社祭神 天照大神・豊受比女命相殿 大山祇命(山神)、祭神 明治大帝(明治神宮)社格 旧村社建立 1562年(永禄5)清州神明社勧請1620年(寛永4)社殿再建1710年(寛政12)社殿再建1909年(明治42)字宮西村社祭神天照大神を合祀1965年(昭和40)都市計画事業に伴い社殿境内地整備例祭10/17春日井市鳥居松町3丁目 」とある、かれこれ5世紀に渡りこの地を見守り、人々の崇敬を受け続けて来た神社。境内全景。瓦葺の切妻、妻入りの四方吹き抜けの拝殿と右に手水舎、本殿左右に末社の姿が見える。手水舎から見る境内、右側にも小さな社がある。手水舎の先には右の末社に続く参道。鉢は大正12年のもの。手水舎右の社。残念ながら詳細は不明、境内社の事が由緒標に記されているとありがたいものです。妻飾りや鬼瓦には五三の桐紋が入る。境内は杜に囲まれているが風も通り、空気の淀みのような感じのない明るいもの。拝殿前の狛犬は目つきの鋭い精悍なもの。右の境内社。神明鳥居の先に、幣殿から続く石垣の上に並ぶように鎮座する。社名札ははなく詳細は不明。左の境内社。こちらも右と同様の造りで、詳細は分かりません。鳥居の建之は昭和40年とある、社殿整備時に建てられたようだ。拝殿額は賴威靈とある。伽藍全体に言える事ですが、人目を引き付ける派手さはないけれど、飾り金具などに拘りが感じられます。拝殿から幣殿、本殿の眺め。拝殿内右に由緒らしき額があるが今一つ読み取れなかった。幣殿前には玉取りと子取りの狛犬。こちらは拝殿の前の狛犬より一回り小さいが、全身は苔の緑に包まれようとしている。社殿の眺め。神明造の本殿と瓦葺切妻で平入の幣殿、その先の拝殿が見える。社頭の鳥居は明治41年の建之。こうして見る参道は以前はもっと西に延びていた様な印象を受けます。由緒標にある宮西の神明社もどこなのか定かではなかったが、明治24年の地図にはここから少し西に鳥居が記され、大正に入るとそれは消えていました、現在この辺りには神社は存在していません。ひょっとすると合祀した宮西村社とはここを指すのかもしれない。5世紀に渡り受け継がれてきた神社。その間、周囲の景観は目まぐるしく変貌し続けています。春日井市鳥居松町3「神明社」建立 / 1562年(永禄5)祭神 / 天照大神・豊受比女命相殿神 / 大山祇命(山神)、明治神宮境内社 / 三社(不明)所在地 / 春日井市鳥居松町3-26関連記事 / 紫金山 慈眼寺慈眼寺から徒歩ルート / 北東に10分程
2021.09.07
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「火之御子社」の夫婦杉から左に続く神道を宝光社に向かいます。神道は宝光社、火之御子社、中社の三社を結び、杉の古木と落葉樹の森に包まれた道。宝光社へは緩やかな下りが続き、過酷な道ではないですが雨後などは足元が滑りやすい場所もありサンダルとかは避けた方がいい。道標も整備され道に迷う心配もなさそうです。火之御子社からクマ除けの鈴の音とウグイスの鳴き声を聞きながら神道を5分程下ります。右手に大きな杉の大木、その根元には注連縄が巻かれ、手前に石碑が見えます。伏拝(ふしおがみ)「室町時代の古書に「御正体飛来の処、伏拝と称す」と記しています。950年頃(天歴年中)の祝部(神主)が、宝光社の御祭神・天表春命を奥社に合祀しました。1058年(康平元年)天表春命の御正体がこの地に飛来「奥社は女人禁制にして、冬は登拝が困難である。この地は四季を通して老若男女がお参りできる社を建て我を安置せよ」と申されました。里の人々は御神意によって宝光社を建立し、御正体をお祀りしたと伝えられている。」その昔はこの先から女人禁制、奥の院や御神体の戸隠山はここで拝みなさいという事。今は樹々が生い茂り拝み見る事は出来ない。根元の二つの石標。上「NHK小鳥の声放送記念碑」なんで?この戸隠の森は野鳥の宝庫のようで、NHK長野放送局が1933年(昭和8)に日本で初めて野鳥の鳴き声を全国に中継したそうで、 その場所がここだという事で、それを記念した建てられた碑のようです。下「伏拝所」石標角がとられた一枚の岩に梵字一字と伏拝所と記され、右にも何か彫られているように見えますが風化により定かではありません。伏拝から宝光社までは10分程の道のり。明るい森に続く神道ではすれ違う参拝客はなくとっても心細い、「熊出没注意」の看板はそれに拍車をかける、熊とご対面だけは勘弁願いたいと嫌でも感じる。「パン〃」柏手の音が森に響く。やがて神道は宝光社の神輿庫の横に出る。目の前には拝殿と神輿庫が視界に入ってくる。神輿庫中には新旧二基の神輿(しんよ)が保管されています。右の御神輿は1804年(文化元年)、奥社、九頭龍社、中社、宝光社に配すべく四基製作され、現存する唯一の一基で2015年に修復が施されたもの。左のものは1991年(平成3)に新たに作られた神輿です。ガラス張りの神輿庫、内部に置かれた解説と、右の神輿を撮ってみた。左の神輿は撮っては見たが周囲の人の映り込みが激しくお見せできる代物ではなかった。二基安置され、一基は新調とあるけれど、ぱっと見では派手〃のこちらが新調されたものに感じるけれど、色鮮やかな神輿が残存する結一の一基、修復技術には驚くばかりだ。神輿庫から眺める「宝光社」社殿と社務所。木材の色合いを生かすため、塗りが施されていない素木造りの社殿は、周囲の自然に溶け込み落ち着いた趣があり個人的にとても魅かれる。戸隠神社は1847年(弘化4)の善光寺地震により大きな被害に見舞われ、宝光社も被災しています。権現造りの社殿は戸隠五社に中では最古のものといわれ、被災後の1861年(文久元年)とされる。向拝から軒にかけて見事な宮彫りが施され目が奪われる。屋根は入母屋造りの妻入りで唐破風向拝を持つ。木鼻の獅子や象を始め、虹梁や蟇股には龍や麒麟、向拝懸魚の鳳凰など生き生きと描かれています。外観にマッチしたシンプルな額ですが、その周辺は見事な彫が溢れている。彩色され直球ど真ん中で勝負してくるものに対し、外角低め一杯に超スローカーブを投げ込むような味わいのあるものだ。拝殿内と社殿解説板。それによれば宮彫りは江戸末期から明治期に活躍した宮彫師の北村喜代松(1830~1906年)の作とされるようですが諸説あるようです。祭神は天表春命を祀る。式年大祭は7年に一度行われる戸隠神社最大の式典で、今年(2021年)がその年だったようです。大祭では、先に見た御神輿で中社に渡り、父神の天八意思兼命と対面し再び戻ってくるのだそうだ。参拝を終え再び上を仰ぐ。参拝時には気付かなかった虹梁下側に錫杖が彫られ、その錫杖に龍が巻き付いている。時間をかけ細部を見て行くと他にも気づきがあるやもしれない。拝殿左の社務所。社頭へは左の女坂か拝殿正面の男坂を下りていく事になります。社務所後方には境内社が祀られています。女坂沿いには苔むした手水鉢置かれ、山から湧き出た清水が鉢に注がれていました。ここから境内社に向かってみます。斜面に祀られた社と石灯籠?上いや、燈籠ではなくこれは石の社、〇に金の紋が入る事から金刀比羅神社。下奥の社は中には石像が安置されていますが、詳細は不明。拝殿前に戻り男坂から社頭に向かいます。男坂から下の眺め。ここから社頭前の県道36号線までは290段ほどの石段が続きます。石段中ほどの左側に境内社が祀られています。石段途中から本殿へ続く参道がありますが、もう少し降ると左に鳥居があり、そこから本殿に続いています。本殿左に社名札が掛けられ、二文字記されているようですが、青はなんとなく読めるけれど下が読み取れません。青龍? 詳細不明です。その鳥居です。神明鳥居と正面に石の社が三社見えています。石段を上がると傾斜地を切り開いた社地が広がり、そこには見えていた三社以外にも複数の石の社と石仏が安置されています。石仏のいくつかに頭部のない物もあり、神仏分離の影響?と勝手に想像してしまう。このエリア全く分かりませんでした。先程の不明社へは左側に参道が伸びています。男坂も間もなく終わり、鮮やかな緑のトンネルの先に狛犬と鳥居が見えてきました。宝光社の狛犬。年齢不詳ですがとても愛嬌のある顔つきです。手水舎。柄杓はなく、龍から注がれた清水は鉢の外に導かれています。男坂上り口から上を仰ぎます。一本の石段ではなく二カ所の踊り場があり、それ程きついものではありません。女坂は先に見える燈籠から左に拝殿まで伸びています。鳥居から見る男坂、真っすぐ続く石段の先に拝殿が見えています。宝光社鳥居と社標。「戸隠神社 宝光社御祭神 天表春命御由緒並びに御神徳御鎮座年代古く、第七十代後冷泉天皇の康平元年(1058年)に奥社遷祀奉斎されました。御祭神は中社御祭神の天八意思兼命の御子神様で技芸、裁縫、縁結、安産、厄除、家内安全などに御神徳があり、婦女子や子供の守り神として御霊験もあらたかで広く萬民に高大なるお恵みを給う大神様です」上県道から宝光社の社頭の眺め。石段はここから始まります。下戸隠神社信仰遺跡の解説。戸隠神社「宝光社」御朱印これで戸隠5社の御朱印はコンプリート。さて、ここから中社までどうやって戻るか?神道を戻るしかあるまい、再び神輿庫の脇から神道を上り中社に戻ります。火之御子社から先の神道。熊笹ぼうぼうは少し不気味ですが僅かな距離です、途中分岐には行先も表示されているので中社を目指せば大丈夫。やがて道は舗装になり戸隠道を進めば集落が現れ始めます、集落を流れる渓流に目をやれば、住民の方が大切に守っている岩魚が悠々と泳ぐ姿も見られます。写真の時間データで見ると宝光社鳥居から神道➡戸隠道を経て、三本杉が聳える中社鳥居までほぼ40分。森林の中を歩いたり、熊笹の生い茂る道を歩いたこの時間は、清々しくもあり、心細かったりと楽しい時間を過ごす事が出来ました。着いた頃は丁度蕎麦屋の開店時間に間に合いました。2021/6/24戸隠神社「宝光社」祭神 / 天表春命創建 / 1861年(文久元年)所在地 / 長野県長野市戸隠2110徒歩所要時間 / 火之御子社から10分、 宝光社社頭から中社約40分関連記事 / 戸隠神社 奥社と九頭龍社 、戸隠神社 中社 、戸隠神社 火之御子社
2021.09.04
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先日掲載した「笠寺天満宮東光院」の続きと云ってもいいかもしれません。今回は東光院山門から目と鼻の先にある秋葉神社です。笠寺観音として馴染みのある天林山笠覆寺(りゅうふくじ)、その仁王門前から南に延びる門前通り沿いに大門町の「秋葉神社」が鎮座します。写真は北を向いて笠覆寺仁王門方向を見ています。右手の幟が立つ一画が東光院で、手前左の石垣の上にブロック塀で囲われた一角が「秋葉神社」。こうして眺めると、神社の存在を示すのは白い石灯篭と本殿の屋根だろうか。瓦葺の御門は灯篭がなければ民家の玄関とも捉えられる。社地は東光院の南にある四つ角の南西角にあり、門や本殿は概ね東を向いている。さて、ではいつ頃の創建なのかとなると、これがさっぱり分からない。諸先輩たちが秋葉神社と云われるので、この記事ではそれを尊重させて頂きます。現地で根拠となるものを探してみましたが見つかりませんでした。ここから少し南の天満に鎮座する七所神社。その社地東側にも秋葉神社が鎮座するので、各町内の火伏に祀られた秋葉さんと想像するのは無理な話ではない。東光院から見た社地の全景、この細い通りの先に大門の公民館がありますが、ひょっとするとこちらで詳しいことが分るやもしれない。公民館や集会所と神社、結構セットの場所も見かける。御門から本殿域を眺める、板宮作りの社には社名札はなく、玉垣の御門にもシンボルマークは見当たらない。良く分からんが取り敢えず参拝、賽銭〃っと、あれ?見当たらない、ここは無銭参拝とさせてもらいました。本殿全景。いつ頃ここに祀られているのか、定かではないのですが、やはり気になる。上の左は1891年頃、右が現在の笠寺周辺。旧東海道と秋葉神社から七所神社方向にかけて集落が点在している、明治初期頃の創建だろうか。どちらの地図も神社は記されていないので創建時期には繋がらないけれど、笠寺大地とその周辺の変貌が分かるので載せる事にします。南区笠寺町大門「秋葉神社」創建・祭神 / 不明所在地 / 名古屋市南区笠寺町大門公共交通機関アクセス / 名鉄名古屋本線「本笠寺」駅降車徒歩10分関連記事 / 「笠寺天満宮東光院」、七所神社
2021.09.03
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2021.09.03
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瑞穂区河岸町秋葉神社久しく訪れていなかった。河川堤防の改修工事が行われていた事は知っていました、今日久し振りに通りかかると、長い事堤防に置かれていたバリケードは撤去され白い堤防が現れていました。さぞかし綺麗になった事だろうと寄り道してみた。上の写真は2018年当時の河岸町秋葉神社。山崎川の堤防脇の法面の僅かなスペースに秋葉神社が祀られていました。改修工事が終わった後の姿が下になります。河岸町の「秋葉神社」の姿は消え失せていました。山崎川左岸の呼続1丁目の秋葉神社から対岸の河岸町の秋葉神社が鎮座した場所の眺め。地盤沈降で痛んでいた堤防は白く綺麗に生まれ変わっています。以前はここから眺めると社の屋根が見え、川を挟んで二つの秋葉さんが互いの町に睨みを利かせていました。旧東海道の石標と旧山崎橋の親柱は以前のまま残っていました。山崎橋を渡り対岸に向かいます。山崎橋から下流方向の眺め、強固な真新しい白い堤防が伸びています。橋を渡って河岸町「秋葉神社」が鎮座していた一画の眺め。以前は右の道路から境内に繋がる階段があったが現状はそれが無くなっていました。右岸の親柱は今も残されていますが、以前とは様相が違って綺麗に整地されていました。堤防と擁壁の間のこの空間、ひょっとして新たに土が入り再び祀られるのだろうか。そうあってほしいものです。取り敢えず現状は河岸町「秋葉神社」はない。暫くたって再び訪れて見よう。2021/9/1左岸の呼続1丁目の秋葉神社は現在も健在だ。ただ山崎橋から上流は御覧の様に改修が進んでいて、下流側の整備も間近なのかもしれない。それによってはこの光景も様変わりするのかもしれない。それにしても立派な堤だ、この地域の平穏な日常はこの堤にかかっている。気が遠くなるようなプロジェクトかも知れない。所在地 / 名古屋市瑞穂区河岸町4丁目関連記事 / 瑞穂区§1 河岸町『秋葉神社』、南区呼続#1『秋葉神社』
2021.09.02
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早いもので今日から9月。コロナだ、蔓防防止だの、緊急事態宣言だので今年も振り回されて暮れていきそうだ。先月末、新聞やweb newsなどで以下の記事を見た。信長「最愛の女性」菩提寺取り壊しへ 630年以上の歴史に幕「630年の歴史に幕」妙に魅かれ、このまま訪れる事無く消えゆくのを見送るのも後悔しそうな気がするので車で訪れてきました。所在地は江南市田代町郷中、名古屋から下道で41号線と県道172号線を経由して50分程だ。周囲はまばらに住宅地が建ち、その中に青々とした稲が風になびく長閑な水田が広がる。久昌寺はそんな環境の中に鎮座する。以下は記事から久昌寺の抜粋になりますが。織田信長の最愛の女性、信長との間に後の岐阜城主となる信忠らをもうけたとされる側室、吉乃(きつの)の墓が本堂西側にあり、生駒家歴代当主の墓と共に市文化財に指定されている。「江南市史」などによると、吉乃は地元有力者だった生駒氏の娘。寺は1384年創立で生駒家の菩提(ぼだい)寺にあたる。吉乃は生駒家の屋敷で暮らしていた時に信長と出会い側室となり、長男信忠、次男信雄、後に徳川家康の長男信康の妻となった徳姫をもうけたとされる。信長は正室の濃姫との間に子どもが授からず、吉乃は織田家の中で存在感があったとされる。若くして亡くなったとされ、あの信長がその死に涙を流して惜しんだと伝わる。信長は香華料として660石を寺に与えたという。周辺には吉乃と所縁のある龍神社などがある。現在の久昌寺(2021/08/31)本堂や庫裏は遠目には大きな痛みもないように見えるが、瓦葺入母屋造りの屋根の一部は瓦がなくなり、それに伴い内部にも影響が出ているものと思われます。こうして見る本堂は1925年(大正14)に建て替えられたものという。庫裏は詳細が不明ですが、江戸末期のものではないかとされる。境内には二つの社と観音堂があるが、いずれも朽ち果てていた。既に精算業務を終え、本堂の額は取り外され、額の痕跡だけが残っている状態。今更遅いが僅かな賽銭を入れる賽銭箱もなく、本堂の扉も固く閉じられていました。そんな境内を一人清掃活動をされていた方に伺うと「既に堂内には何もなく、吉乃や信長の位牌も移された」とのこと。なので寺の伽藍外観と存続が決まった生駒家歴代当主の墓を見るだけになる。写真は本堂西側の生駒家歴代当主の墓。後方のこんもりは吉乃と所縁のある龍神社。檀家や氏子の減少は寺社の存続に大きく影響している。記事によれば檀家は10軒ほどという、これでは如何に歴史があろうが存続は難しい。建物の取り壊しを惜しむ声や存続を希望したとして、それらを維持する資金がなければ遅かれ早かれこの道を辿る事になるのだろう。もはや本業では維持できない、これが現実。あっちこっち寺社を巡ってみると上手に発信し参拝客を引き付ける小さな寺社も多い。資金難で喘ぐご時世、もう少し資金調達の策はあったのかもしれない。龍神社の神職の方と僅かながらお話を交わすと「解体がきまってから当神社に訪れる参拝客が増えた」そうな。現在の形で解体・廃棄されるようであれば、オークションを開いて貰えれば入札したいものもある。衰退していく寺社を見ていると、なんとなく将来の日本を見ているような気がしてならない。青々とした田んぼがひろがる長閑な光景から久昌寺は間もなくなくなる。山号 / 嫩桂山寺号 / 久昌寺創建 / 至徳元年(1384年)所在地 / 江南市田代町郷中47
2021.09.01
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