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笠寺観音として馴染みのある天林山笠覆寺(りゅうふくじ)。仁王門前を東西に延びる旧東海道を横切り、正面の細い路地を2~3分ほど南へ歩いて行きます。やがて左側に石垣で一段高く盛られ、濃い緑に包まれた一画が笠寺天満宮東光院。通りの白い幟がなければ、寺の存在は分かり難いかもしれない。通りから北を見ています。真正面に笠寺観音仁王門、左手前が秋葉神社。今回の目的地東光院は右側の白い幟の立つ一画。この道、道幅が狭く対面通行なので幅寄せや、進路を譲るのが苦手な向きにはお勧めしません。駐車場は寺の北方向の少し離れたところにあります。上は尾張名所図会から天林山笠覆寺の絵図に手を加えて見たもの。左が笠覆寺で右の黄色の丸部分が笠寺天満宮東光院にあたり、東光院の右下の水色が仁王池。こうして見ると東光院の通りが門前通りの様に見えてくる、そして仁王池(現在はない)の名も意味あり気だ。東光院が鎮座する当たりの現在の町名は上新町ですが、秋葉神社のあたりは大門に変わり、仁王と大門のワードからこの辺りに以前は門が存在していたのかも知れない。茶色に塗った街道沿いには笠覆寺の塔頭寺院や宿坊が建ちならぶ。笠覆寺の始まりは733年(天平5)の天林山小松寺から始まり、幾度も盛衰を繰り返し、930年(延長8)藤原兼平が再建、36坊をつくり名を笠覆寺と改めた。東光院も笠覆寺の坊の一つとして創建されています。笠覆寺はその後も盛衰を重ね、1238年(嘉禎4)に12坊を再興、江戸期には6坊となり、明治に入り独立した寺院として現在に至っている。神仏習合の名残が色濃く残り、目的の笠寺天満宮は東光院の本堂(庫裏)左に鎮座しています。東光院山門全景。出世神酒天満宮書かれた幟が目立つ。山門をくぐり、まっすく進むと方丈に至ります。東光院は山号を天林山と称し真言宗智山派の寺院で、不動明王を本尊とします。創建は定かではありませんが、笠覆寺の塔頭寺院という事からかなりの古刹。山門右の袖壁に案内板。「笠覆寺の塔頭として創立され1536年(天文5)に再興され今日に至る。本尊の不動明王は伝教大師の作と伝えられ、元々は紀州熊野新宮の本尊。縁あって1651年(慶安3)に東光院本尊として伝来、厄除け満願不動として崇敬される。境内に一堂あり、往古当地寺部の城主山口半左エ門所蔵されていたが、豊臣秀吉より東光院に授かる。お酒を供えると顔面紅くなる言い伝えから「出世神酒天神」として信仰が厚く、尾張徳川家代々崇敬特に厚く、葵紋の御札筥等を寄付されている。近年学問の神さまとして、学業上達・入試合格祈願の参詣が多い。また、宮本武蔵が当寺に一時滞在、天満宮に帰依する遺品が現存する、その為、武士道上達・技術上達祈願のご利益多し。他に源範頼の由緒あり」範頼の由緒とは源頼朝の父義朝と平家との戦い「平治の乱」で負け戦となり、義朝は討たれ、頼朝は伊豆國に流されます。戦に参戦しなかった範頼は縁故を辿って一時東光院に隠れ住んでいたとされる。東光院が所蔵する宮本武蔵の遺品とは「宮本武蔵自筆の書」、「武蔵画像」、「自作木刀」が所蔵されているようですが現在は一般公開されていないようです。公開されていないと逆に調べたいもの、「南区と宮本武蔵のかかわり」で画像付きで紹介されていました。山門をくぐり左に参道が続きその先に見える寄棟の堂が「笠寺天満宮」堂の右に見えている建物は東光院本堂で更に右に方丈。参道左に手水鉢自信はないけれど元号が天保と刻まれている様に見えます。笠寺天満宮全景笠寺天満宮の建立年代は定かではない、菅原道真自筆の肖像画を所蔵するとされる。由緒に星崎城(現在の笠寺小学校)城主、山口半左衛門重勝が所蔵していたものが秀吉、そして東光院に授かるとあるので、創建は室町後期から安土桃山時代なのだろう。堂の外観はシックな色合いで落ち着いた佇まいをしている、細部の劣化、特に縁などに随分傷みが来ている。笠寺天満宮。後方が東光院本堂。堂に掲げられた額は「天満宮」とある、額の形がひょうたんに見えなくもない。堂内、中央に「天満宮」の額が掛けられ、金色の厨子に豊臣秀吉から授かった菅原道真の肖像画「出世お神酒天神」を所蔵するようで、厨子の前には小さな狛犬(獅子?)が安置されている。左には弘法大師の姿もある。堂の右に石標がありますが文字は読めませんでした。左が笠寺天満宮社標(昭和3年健之) 。右は山門から真っすぐ参道を進んだ先に立つ石標(詳細不明)。本堂左と方丈入口。参拝時の境内は樹々に包まれ建物の全景は捉えにくい状態でした。恐らく切妻のようで、南区の案内には江戸中期(1650年頃~1750年)の建立とあった。こちらに範頼や武蔵が身を寄せた。寺号標は昭和9年と健之とあった。寺町の名残を感じる細い通り、今や住宅が立ち並び絵図の面影は皆無です。こんもりとした緑に包まれた一画だけは別世界のようにも感じる。通りに戻れば強烈な日差しと暑さが襲ってくる、目の前の秋葉神社を参拝して引き揚げよう。2021/8/27東光院山号 / 天林山宗派 / 真言宗智山派創建 / 不明本尊 / 不動明王笠寺天満宮創建 / 不明祭神 / 管原道真所在地 / 名古屋市南区笠寺町上新町47公共交通機関アクセス / 名鉄名古屋本線「本笠寺」降車、東へ徒歩10分程関連記事 / 天林山 笠覆寺 、 『熊野速玉大社』 、『訶愚突知社』、 星崎城址
2021.08.31
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戸隠神告げ温泉 湯行館キャンプしがてら二泊三日で戸隠神社五社巡りの際、滞在中にお世話になった日帰り入浴施設。「戸隠神告げ温泉 湯行館」全景戸隠中社の「蕎麦処うずら家」から車で数分、徒歩でも10分程の距離にあります。戸隠スキー場中社ゲレンデの麓にありスキーシーズンのアフタースキーには最高かもしれない。この時期だと神社参拝や登山の帰りなど疲れを癒すには絶好。駐車場もこれでもかと云わんばかりの広さがある。入口左側にマスコットのほっかいどう犬の「おたる」CMのおとうさんと同じ犬種。この子、とてもおとなしく、見知らぬ者が前を通っても全く動じることなく籠の中で眠っている。えっ、立ってるやんと思いますよね。これ、こちらの店主がたった丁度戻られ、ご主人のお出迎えのタイミング。北海道犬は狩猟犬、我家でも過去にはハスキーなどを飼っていたけれど、狩猟や作業などを目的とした犬種は肝が据わっていて、うまく躾ができるととても飼い主には従順、それ以外の事には動じない(なかった)。犬は飼い主の足音が分る、それまで丸くなって寝ていたものが、おたるの様にむくっと起き上がり遠吠えをして迎えてくれる。山に行ってもそうだった、戻ってくるまでじっと待っていたもんだ。そうした相棒に訪れる別れは辛すぎる。おたるは体格から見て若いけれど、いい育ち方をしているようだ。館内に入ると、これまた親父をくすぐるアイテムがさり気無く「さわらないで」の看板と共に置いてある。懐かしのモンキー(復刻版)、以下店主の了解を得て撮らしていただいた。館内には昭和生まれにはたまらないコレクションが飾ってある、全てオーナーの趣味。入って正面のくつろぎスペース。館内には食事処もあり、地粉十割の手打ちそばが食べられる食事処「安兵衛」もあります。入って左に進むとお風呂に続く、その通路にも懐かしいフィギア(マジンガーZ)や車の写真(ケンメリGTR)などが陳列してあったりとこの時代を知る物にはたまらない。オーナーはジープを乗り継いでいるようで四駆の話も盛り上がりそうです。その他にも古い清涼飲料のポスターなどがそこかしこに貼ってある。銭湯というよりプチ昭和博物館。本題の風呂へ。ロッカーは有料、先客一名。最近入浴施設に行って、マスクを外すのを忘れることがよくある。ボケが始まっている事は全く否定しないけれど、このマスク着用習慣はいつになれば解除されるのだろう。脱衣所もそうですが、施設は比較的新しく綺麗に保たれています。内湯。ここからは自主規制。こちらは内湯ひとつのみですが湯船も広く、ガラス窓の外には戸隠の木々か眺められ解放感がある。泉質は無色透明でいかにも温泉を主張する香りは感じられなかったけれど、その湯は肌がすべすべになり若返った気になる。湯温も長湯が可能な温度。効能は神経痛、関節痛、運動麻痺、関節のこわばり、うちみ、慢性消化器病、痔症、冷え性などに効能がある単純泉。長時間のドライブ、神社巡りにテント設営、一日の疲れが癒され長湯にもなる。窓から見える木々は今は緑が鮮やかですが、秋に訪れると紅葉が綺麗かもしれない。すっかりリラックスし、湯上りのビールはテントに戻ってからだ。晩御飯と酒盛りの準備せねば。神告げ温泉、名の由来を聞こうとして忘れてしまった、ボケは全く否定しない。戸隠神告げ温泉 湯行館所在地 / 長野市戸隠3182☎026-254-1126 営業時間 10:00~20:00 (食事処10:00〜17:30)料金 / 大人600円、3歳~小学生以下300円定休日 / 年中無休関連記事 / 戸隠神社中社前 「蕎麦処 うずら家」
2021.08.28
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名古屋市南区白水町「白水神社」上の地図、左は1938年(昭和13)頃の当地で周囲は現在ほど宅地整備が進んでいない。この辺りは二つの河川に挟まれ、新田開発により陸地を海に広げて誕生した町。当時はまだ西に少し行けば海岸線で大江川や天白川の河口も近く付近には貯木場も身近にあった。 この地が急速に変貌を遂げる要因になったのは、1937年(昭和12)大同特殊鋼星崎工場の誕生と共に始まったと云っても過言ではない。当時はまだ南区鳴尾町の一部で現在の白水町に変更になったのが1948年(昭和23)だという。白水神社から南の大同病院方向の眺め、その前を左右に伸びるのが県道36号線、ここから少し東には南北に国道247号線が伸びている。渋滞の要因だった名鉄常滑線も高架となり随分と道路事情が良くなり、新しい住宅も目立ち街並みも変わってきた。白水町の名の由来は当時この辺りには、きれいな用水や小川が流れていたことに由来するという。なんとも綺麗な町名だこと、そんな白水町は過去に大きな災害に見舞われ多くの人命が失われています。1959年(昭和34)9月26日にこの地域を襲った台風15号、全国に死者・行方不明者5098名出す大災害を引き起こし、「伊勢湾台風」と呼ばれています。台風の被害が特に激しかった南区白水地区では、死者・行方不明者1417人の方々が犠牲となり、その大きな引き金になったのは高潮により貯木場の木々が流され被害を拡大させた。現在の街並みや強固な河川堤防から、そうした事は想像もできないかもしれませんが、それを語り継ぐ慰霊碑や海抜標識が目に留まります。この白水町辺りでは海抜がマイナスの所も存在する。白水町となり住居も住民も増えるにつれ、地域の守り神として迎えたのが白水神社。伊勢湾台風では神社も当然被災しているはずです。上は白水町周辺のハザードマップ、赤丸で囲った部分が白水神社周辺、周囲に比べ水が集まる地域。当時に比べ強固な堤防や揚水施設も充実し環境は改善されているとは言え、近頃の気象は明らかに異常。こうしたハザードマップに目を通しても損はない。白水神社は大同病院から県道36号線を挟んだ北側の住宅街の中に鎮座します。この広場、遊具等見当たらないけれど「白住どんぐりひろば」という事です。柵に囲われた広場の西部分の一部を更に囲って本殿が祀られています。白住どんぐりひろば北側から白水神社の眺め。境内へはこの北側から入る事になります。西を背に板宮造りの本殿が鎮座し、左右に常夜灯はあるものの、狛犬や社標、由緒等の案内し見当たりません。小さな神門の先に白水神社本殿。本殿と木製の常夜灯、その前の小さな神門が良く合っている。参拝は終えたものの、どなたが祀られているのかが分かっていない。新たな町の神様と考えれば、秋葉社か熱田社、或いは津島社あたりかと思いますが、社名札、御神札が見えないのではっきりできない。本殿。木鼻には象、蟇股には龍の彫が施されている。どんぐり広場南側から見る本殿に朝陽が差し込む。過去に絶望的な自然災害を経験した白水町。ここに人々が寄り添い発展を続ける限り、心の拠り所として神様は絶えることはない。2021/08/22白水神社創建 / 不明祭神 / 不明所在地 / 名古屋市南区白水町36-196 公共交通機関アクセス / 名鉄常滑線「柴田」駅から北へ徒歩10分程
2021.08.27
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「明りは見えてきている」そうなホント????????????根拠を示して、ガースーそれ言わないなら、国民感情逆なでするような寝言は言わない、云わさせないもっと現実に目を向けて欲しい、が無理だろう。もう年寄りの時代ではない。リーダーシップを発揮できなかった首相として歴史に残るのでは選挙が楽しみです、総理も国民に選ばせてほしいものです。派閥・利権・忖度・中抜き・高齢化・・・・・「明りは全く見えない」
2021.08.26
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「佐屋護国神社・佐屋神社」愛西市中央図書館の区画西側に鎮座する、この近隣には愛西市役所、文化会館などの施設が集約され、愛西市の中心といっても過言ではない。車の場合は愛西市中央図書館の駐車場に駐車させてもらうのが良いかもしれない。図書館の西には公園やトイレもある。写真は駐車場から西の眺め、広々とした公園には遊具もあり子供達の絶好の遊び場かも知れない。佐屋護国神社・佐屋神社へは公園南から境内に繋がっていて、そのまま突き抜けると神社西側の正参道に続いています。ここから改めて境内へ。南側から境内の眺め。左に「佐屋護国神社」、右に「佐屋神社」の社標。その先に狛犬が守護し神明鳥居、本殿が望める。境内は一面玉砂利が敷き詰められ、陽光が降り注ぐ明るい境内です。指定護国神社と、村社に相当する指定外護国神社に分けられる護国神社はそれまで、招魂社として地域の英霊を祀っていたものを、1939年(昭和14)に施行された「招魂社ヲ護國神社ト改称スルノ件」(昭和14年内務省令)によって、招魂社から護国神社に改称して成立した神社。指定護国神社と、村社に相当する指定外護国神社に分けられるそうで、原則各県に指定護国神社は一社で愛知縣護國神社(名古屋市中区三の丸)がそれにあたります。広義では国の為に、狭義では間違いなく故郷であり家族の為だったと思う。ここはそうして亡くなられた多くの郷土の英霊が鎮まる場所。鳥居前の狛犬。台座には1938年(昭和13)とある。境内全景、真っすぐに伸びる参道の先に本殿。本殿手前の左右には複数の石標が建つ。参道左の手水鉢。本殿全景。手前に狛犬が守護し、一段高く積まれたその上に流造の本殿が建つ。本殿手前の狛犬。五本の鰹木と外削ぎの千木が付く。参拝。本殿西からの眺め、流造の拝殿と後方右の尖がり屋根は愛西市中央図書館。こちらの神社の由緒は分からなかった。境内の鳥居や社標、狛犬などの奉納時期は1938年(昭和13)。この年代以外の年号は見つけられなかった。以前から招魂社として鎮座していたものが、省令により新たに創建されたものなのか分からなかった。少し前の地図を見て見る。不思議な事に右のほぼ現在の地図には鳥居が無いが、左の地図には1944年以降鳥居の印が現れる。それ以前は周囲が田園地帯で鳥居の姿すら記されていない。佐屋神社として地図上から創建に繋がるものは確認できなかった。明るい境内に鎮まる英霊たち、故郷の移り変わりに驚き、これからも見守り続けてくれる事だろう。2021/07/21佐屋護国神社・佐屋神社創建 / 不明祭神 / 不明佐屋護国神社創建 / 不明祭神 / 郷土出身英霊所在地 / 愛知県愛西市須依町東田面4北一色町八幡社から徒歩ルート / 北東へ徒歩10分程関連記事 / 北一色 「八幡社」
2021.08.24
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早朝の中社参拝を済ませ、これで三社の参拝を終えました。これから中社大鳥居から県道36号線沿いに下り、四社目になる「火之御子社」に向かいます。早朝の県道36号線、本来は人や車が多く活気のある光景が広がるのだろう、コロナ禍の今はそうした賑わいはなく、道路沿いの宿坊は妙に静かだ。鳥居から2分程下った左の「親鸞聖人御旧跡」親鸞聖人が戸隠を訪れた際ここ行勝院(現武井旅館)に百日程滞在したという。院内にある親鸞堂には明治まで行勝院の本尊だった釈迦如来像や親鸞聖人の木像、その他の寺宝などがに安置されている。「戸隠三千坊」と呼ばれ、数多くの坊が立ち並び繁栄した「戸隠山勧修院顕光寺」も、神仏分離、廃仏毀釈以降姿を変え、それまで寺が守り続けた多くの仏像はこうした形で守り継がれています。中社から徒歩10分 某蕎麦屋の駐車場脇に丁石を見かける。これは五丁石。この五丁石から県道36号線(戸隠道)を更に5分程下っていき、アルピコ交通の駐車場を過ぎた先にヘアピンカーブが現れます。その右側に火之御子社へ続く細い人道と看板があるので、それに従い下っていきます。上は県道から分かれ数分下った先にある「西行桜」、そこから下ってきた道を眺めています。正面に見える高い擁壁が県道。西行桜、種類はオオヤマザクラらしい。この樹には西行法師にまつわる逸話があるようで、ここまで訪れた西行法師は火之御子社から戸隠山を遥拝し引き返したそうだ。その傍らで自生するグミ。色合いが鮮やかで見るからに美味しそう。子供の頃、自然からの恵みとしてよく口にしたものです。人工色素、香料、甘味料にどっぷり染まった今ではそれ程美味しいものではない。西行桜から先は火之御子社境内。ここから一旦左側に進み鳥居に向かいます。火之御子社の鳥居。県道のヘアピンカーブを下るとここに至り、鳥居左に数台分の駐車場もありました。鳥居から正面の石段を上れば拝殿。「火之御子社」由緒「創建 承徳2年(1098)、御祭神 主祭神 天鈿女命、配祀 高皇産霊命、栲幡千々姫命 、天忍穂耳命。由緒 社伝によれば「天岩戸前にて天鈿女命神楽を舞う」とある。戸隠が神仏習合の時代にあっても終始神社としての姿を保ってきた。古来より舞楽芸能の神、縁結びの神として尊崇され、その道を志す人達の信仰が篤い。境内には有名な西行桜がある。祭日 例祭8月18日」石段を上って境内全景の眺め。右に西行桜正面が社殿、左の石垣に手水鉢があり、社殿の後方から左にかけて杉の古木が密生しています。手水鉢。龍が注いだ清水は再び山に戻り、それをまた龍が注ぐ。社殿。素木の入母屋妻入で内削ぎの千木が施され、屋根は鉄板が葺かれている。高欄付きの縁が付きますが外周を囲むものではなく両側面の中ほどで途切れています。杜に溶け込んだ素朴な佇まい。戸隠神社にあって神仏分離以前から神社として今に続いています。創建は由緒にあった承徳2年(1098)、彼是1000年の歴史を持つ。現在の社殿は1884年(明治17)に建て替えられ、1994年(平成6)に屋根や基礎部分に補修の手が入れられたもの。外観と調和したシックな扁額は「火之御子神社」とある。あの札はどうやって貼っていくのかな。竿で貼るにしても器用にはれるものだ、千社札を見るといつも思う。社殿内、祭神は主祭神・天鈿女命、配祀・高皇産霊命、栲幡千々姫命 、天忍穂耳命を祀る。天鈿女命は天の岩屋に引き籠ってしまった天照大神を誘い出すため岩戸の前で舞を披露した神様。本殿左の結びの杉、夫婦杉とも呼ばれ、中社の三本杉も見事ですが、優劣つけがたい見事な姿。ねじれる様に上に伸びる二本の杉、地表に現れた根張りなど人の及ばない自然の力を感じ取れる。その前には注連縄が巻かれた石標と石の祠が祀られています。祠の詳細は分かりませんが、こうした自然の力を魅せつけられると、人はそこに何かの存在を感じるものだと思います。火之御子社は神職不在のため、御朱印は中社かこれから向かう宝光社で頂くことになります。これで戸隠五社巡りも四社の参拝を終えました。夫婦杉から左に続く神道を歩いて宝光社に向かいます。神道はこんな表示がいっぱい出てきます、熊除け鈴と足ごしらえは入念に。「火之御子社」創建 / 1098年(承徳2)御祭神 / 主祭神 天鈿女命配祀 / 高皇産霊命、栲幡千々姫命 、天忍穂耳命所在地 / 長野県長野市戸隠中社2412中社から所要時間・歩行ルート / 県道36号線を概ね20分程下る関連記事 / キャンプしがてら戸隠巡り「中社」
2021.08.23
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前回掲載「紫金山慈眼寺」の其の2柏井 稲荷神社は慈眼寺境内西側に鎮座します。県道508号線の北側に面した慈眼寺。その特徴のある山門の西側に赤い大きな鳥居が並んでいます。社頭西側からの眺め。県道から見えるのは真新しい赤い鳥居と社号標で境内は鬱蒼とした杜に包まれ、見通しが効かない。慈眼寺参拝者駐車場から柏井稲荷神社社殿の眺め。杜の中に妻入りの社殿が建つ。社殿右側は壁面がなく拝所になっています。社頭正面からの眺め。鳥居右に社標「柏井稲荷神社」、綺麗な赤い鳥居の扁額は「柏井稲荷社」。鳥居前には狛狐が守護しています、その先に赤い社殿が僅かに見えます。歩道際で参道を守護する狛狐。悲壮感のない健康的な容姿をしています。さて参拝と思いきや、歩道から参道へは狛狐とフェンスがガードして直接入れません。慈眼寺山門から左に回り込んで鳥居をくぐる事になります。慈眼寺境内から柏井稲荷神社の眺め。ここから鳥居をくぐり拝所に向かいます。この時期こうした杜はどうしても蚊は避けられない、虫除けは必需品。社殿全景。こちら側は鮮やかな赤で塗られています。拝所に掲げられていた写真。左は1994年(平成6)、いちょう並木通り発展会から鳥居を奉納した際の写真。社殿を包む杜は今とは随分様子が違うようだ。右は伏見稲荷。参拝を終え拝所から本殿域を眺める。幾つもの狛狐が安置され、右の柱に何か書かれた板があるがここからでは読み取れなかった。詳細は分からなそうだ。拝所に解説が掲げられいた、そこには以下の様に書かれています。柏井稲荷神社「 天保7年(1837年)仲春吉辰に慈眼寺鎮守として伏見稲荷より勧請し寺宇に奉安。大正13年(1924)3月31日に大々祀式に昇格する事を授与。翌年1月3日に昇格祭を行うと同時に現在の社殿に安置。後幾星露り間種々の霊験があり、近村は言うに及ばず遠方より多数参拝者あり。終戦と共に再び復興し、社殿の修復・景観整備をし平成6年(1994)初午祭に全国稲荷社の総本宮の伏見稲荷大社と同型の鳥居をいちょう並木通り発展会より奉建。柏井稲荷は福徳の霊験あらたかで衣食住の大祖神として五穀豊穣・商売繁盛・家内円満は申すまでもなく人々の生活が満ちたりて幸福であるようにお導き下さる。慈眼寺境内 柏井稲荷社 」伏見稲荷から勧請され、かれこれ2世紀この地に幸を授け続け、今も厚く崇敬されているようだ。ピカピカの鳥居もその表れだね。地誌から何か探れないものか目を通してみるも記述は見つけられなかった。因みに1938年(昭和13)頃の当地とほぼ現在の移り変わりを載せておこう。青いマーカーが慈眼寺でオレンジの線は下街道。随分強烈な速さで景色は様変わりしてきたものです、これからも町の移り変わりを見続けていく事だろう。2021/8/16柏井 稲荷神社創建 / 天保7年(1837年)祭神 / 稲荷大神所在地 / 春日井市鳥居松町1関連記事 / 「紫金山慈眼寺」春日井市鳥居松町、伏見稲荷、
2021.08.21
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戸隠蕎麦、日本三大蕎麦(岩手県のわんこ蕎麦、島根県の出雲蕎麦)の一つに数えられるようで、遠方から蕎麦を堪能しに訪れるようだ。戸隠神社中社周辺にお蕎麦屋さんはたくさんありますが、中でも中社五斎神社拝殿前の「うずらや家」はその立地の良さもあってか開店前から予約の客が絶えない人気店の様です。戸隠三本杉の脇に店舗を構え、営業時間は10:30~16:00。早朝から予約を受け付けているので、スタッフの方に伺えば概ねの時間は教えてくれます。因みに我が家は中社参拝後8:30に受付に記名、火之御子社と宝光社をゆっくり参拝し、うずら家に戻ってきたら開店時間の10:30頃になりました。丁度開店のタイミングでスタッフの方が店の前に出て「朝早くから来ていただきありがとうございます、美味しいお蕎麦でお迎えします」と声掛けしてから記名順に店に通してくれる。些細なことですが、店の前で開店を待つ側から見ると気持ちのいいもてなしです。店舗に掲げられた「唯一無二」の看板。それを感じた蕎麦屋は正直な所それほどない。しかも日本〇大蕎麦とか呼ばれる地方でもない、味音痴なのかもしれないな。「唯一無二」楽しみだ。通して頂いた席は戸隠三本杉が目の前に見える二階の窓側。店内はテーブル席、座敷で、室内は梁を露わにした落ち着いた内装。店の雰囲気やスタッフの対応は、妙にかしこまった雰囲気でないのがいい。門前の蕎麦屋そのもの。ガラス越しに中社の三本杉の一つが目の前に聳えている。うずら家の御品書き、酒も飲みたいところですが車だとそうもいかない。酒は我慢し、おやじの狙いは「大盛ざる蕎麦」できまり。かみさんはいつも決めれない、迷うのも楽しみの一つ、今回は「天ざる蕎麦」と「ざる蕎麦」で悩んだ、結果「ざる蕎麦」と「お野菜いろいろ天ぷら盛り合わせ」、これをシェアすることで決まった。「一期一会」開店の際の挨拶もここから来ているのだろう。最初に配膳される中に「漬物」が出されてきた、これが出たら摘んで酒が飲みたくなる、なんとも酒飲みには罪作りなもてなしだ事。やがてオーダーしたものがテーブルに揃う。奥が普通盛で五つの束が盛られた「ぼっち盛り」、定かではないが戸隠五社を現しているとも。手前が大盛、こちらは8ぼっち盛ということか。野菜の天ぷらも結構ボリュームがある。それでは、いた~だきます。まずはいかにも蕎麦らしい色合いの蕎麦を何もつけずに一口、主張は弱いけれどいかにも蕎麦の風味が鼻から抜けてくる。歯応え、喉越しも良く、つけ汁も甘すぎず、辛すぎずで好みの味。薬味は個人的に戸隠大根のすりおろしが合うような気がする。これで大盛1,050円ならお得だと思います。良く大盛なしの普通盛しかなく、講釈の割には高いなと感じるお店と比べれば良心的な価格だと思います。では、天ぷらを頂く。これがサクサク、カラット揚げられながら素材の風味も感じられ美味しい。薄めの衣なんですが、油が違うのか、それとも衣が違うのか絶妙の揚げ加減。うずら家は蕎麦もおいしいが、絶妙な揚げ加減の天ぷらがお勧めかも、中社門前の地の利もあり、うずら家を訪れる客が多いのも頷ける。戸隠蕎麦を食べ歩いた訳ではないけれど、「唯一無二」かと聞かれればどうなんだろう。立地がとんでもない辺鄙な場所にあったと仮定すると印象は変わるかもしれない。だとしても一期一会を重んじる店のもてなしは、そんな場所でも訪れたいと思わせるものがある。「一期一会」久しく聞いていなかった言葉だ。我家の5点満点評価 蕎麦 : 2.5 天ぷら : 3蕎麦処 うずら家所在地 / 長野県長野市戸隠3229営業時間 / 10:30~16:00 (品切れ次第閉店)☎ 026-254-2219 関連記事 / キャンプしがてら戸隠神社五社巡り 「中社」
2021.08.20
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名古屋市瑞穂区桃園町 「桃ノ木神社」(2025年廃社)町名といい社名といい、桃源郷をイメージさせるいいネーミングじゃないですか。その昔この辺り一帯は桃ノ木が密生していた事から町名の由来となったという。その町名を冠した桃ノ木神社が今回の目的地。名鉄堀田駅から南に少し下り、正面の大きな集合住宅の南が桃源郷である。残念ながら嘗て桃が密生した桃源郷も開発の波を受け面影は全くない。では少し前に戻ってみよう。上の左の地図は1932年(昭和7)の頃で右がほぼ現在のこの地の比較です。熱田神宮周辺は建物が密集していますが、桃ノ木神社周辺はそれほどではない。ここに桃密生の痕跡は見られない、桃源郷はいつ頃の話なんだろう。桃だけじゃなく、そもそも鳥居が見られない、ほぼ現在の地図にも鳥居はないので神社がいつ頃鎮座したものか推測も出来ない。桃ノ木神社全景。交差点の角に社地が与えられ東側に鳥居を構え、アルミ柵が社地を囲んでいます。社頭から境内の眺め。神明鳥居から先の境内は、木々が生い茂り本殿域の様子は見えない。街中にあってこの濃密な緑は、周囲とかけ離れた空間である事を醸し出している。鳥居から覗き込んでみて漸く灯篭や狛犬、奥は一段高くなり玉垣が見て取れる。そういえば社号標も見ていない。ありました、〇ノ木神社鳥居右側に、これは桜の葉だろうか。社号標を隠すように桜の葉が覆い、存在に気付かなかった。とはいえ、彫られている内容までは直視できない。・・・・・剪定してやりたいところだ。参道からの眺め。境内は夏草が生い茂り本殿周辺の木々も自由に伸びている。・・・・・下の枝は剪定してやりたいところだ。周囲はとても明るいが境内はどちらかと云えば薄暗い、なので蚊が寄ってくる。境内右手に手水鉢。本殿域も木々が生い茂り、ここまで来ても本殿の姿は見えない。本殿域を守護する狛犬も妙に元気がないように感じるのは気のせいか。吽形は木の葉が前を遮り横顔のみ。陽あたりが違うせいだろう、阿形とはずいぶん色合いが変わっている。本殿。こちらも木々が生い茂り全体が眺められない。取り敢えずこの場から参拝だけさせてもらい境内の外から本殿域を見る事にします。社地北側から見る本殿域。境内からは一社かと思っていたが、こうして見ると本殿右に小社が祀られている。更に回り込んで後方からの眺め、左にも一社ある。本殿は恐らく神明造で内削ぎの千木が施され、鰹木は二本を残し欠損し何本なのか良く分からない。左右の社は恐らく板宮作りかと思います。こんな事言っているくらいなので祭神等は不明。神明鳥居に神明造の本殿という事からイメージは沸くけれど確証がない。創建、祭神共に不明としておこう。但し、灯篭の台座には昭和14(1939)年5月と刻まれていました。推測になりますが、この街の開発に伴い守り神として鎮座されたものではないでしょうか。町内会により維持管理されているようですが、創建時と今では世代が変わってきたのかもしれない。何か、嘗て我が町にあった神社と似た境遇にあるように思える、家や人は増えていきながら、思いがあって祀られた神社がついには朽ち果て廃社の道を辿って行った。無くなったのは神社だけに止まらず、神社がもたらしていた近隣の結び付きも薄れていった。神社後方から社地の眺め、こうして見ると後方は陽当たりもいいようだ。桃ノ木神社、桃源郷とはかけ離れているけれど、いつまでも地元に鎮座していてほしいものです。・・・・・バッサリ間引いて明るく風通しを良くしてやりたいところだ。2021/08/07桃ノ木神社創建・祭神 / 不明所在地 / 名古屋市瑞穂区桃園町3-12公共交通機関アクセス / 名鉄名古屋本線・堀田駅から南に少し下り5分程※読者から寄せられた最新情報 2025/10/30 「桃ノ木神社は現在存在しません」
2021.08.18
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以前掲載した「柏井町の八幡社」、そこから県道508号線を1㌖程北東に進むと県道沿いの左側に趣のある山門が見えてきます。今回の目的地「紫金山 慈眼寺」が鎮座する。車の場合、西側に慈眼寺駐車場があります。慈眼寺山門と本堂。春日井市では珍しい黄檗宗(禅宗の一派)の寺。特徴のある山門は宗派独特の様式とされそうです。右に寺号標「黄檗宗 紫金山 慈眼寺」右に「不許葷酒入山門」の石標酔っぱらい、匂いを放つ者は修行の妨げになる、これから先は立ち入るな的な。「生きとし生けるものに 慈愛の心がない者は 賤しい人間である」全てのものを慈しむ・・・・・難しい目標かもしれない。山門左に地蔵堂。特徴のある山門の屋根。切妻の屋根の棟の中央を切り取り、嵩上げしたような造りで一階部分とでも呼べばいいのか、四方には壁を持たない。山門の額は「慈眼寺」境内から見る山門。屋根を支えるのは6本の柱、横梁の上に柱を立て二層部分の屋根を支え、一層の壁は中央左右に一面、上層は左右側面に1面と中央に一面あるのみ。築年度は不明ですが、とても印象に残る山門で、特に正面からの姿は風格がある。山門左の境内に境内社の柏井稲荷神社が鎮座。こちらは後日掲載とします。山門から境内伽藍の眺め。境内左に手水舎、そこから左に参道は鐘楼門に続く。山門右に弘法大師像。近くまで寄れなかったのでよくわからないが、コンクリート像だろうか。その左に弘法堂。更に左が寺務所のようだ。本堂全景。入母屋瓦葺のどっしりとして落ち着いた佇まい。寺紋は葵紋。本殿額は「選佛場」、修行僧の座禅の場。解説紫金山慈眼寺は、江戸時代、中国・明の僧、隠元が大陸から伝えた黄檗宗(禅宗の一派)に属す。もとは寛文12年(1672)に隠元の孫弟子・越伝が春日井郡三ツ淵村(現小牧市)に尾張藩主の招きで開創した寺でしたが、その後は衰え廃寺となり、宝永6年(1709)に越伝の弟子・単伝がこの地に同名の寺を中興したもの。慈眼寺の文化財紙本着色 越伝道付画像(上段左)江戸時代初期の作とされ、黄檗派の画僧、喜多元規によって描かれた越伝の画像です。顔以外は弟子たちが描いたとされていますが、線は力強く、表現は写実的です。木造 越伝道付坐像(上段右)江戸時代初期の作とされ、寄木造の等身大の頂相(肖像彫刻)です。越伝道付画像に酷似しており、この画像をもとに作られたと思われ、禅僧の鋭い眼光、厳しい表情、端然たる容姿が表現されています。木造 聖観世音菩薩像(下段)平安時代の作とされる一本造の彫刻で、由来は不明ですが、江戸時代に本寺に移され客仏となりました。ふっくらとしたなかにも目鼻立ちのはっきりした顔や体つきから、平安時代の特徴が感じられる。本堂から山門の眺め。中から見ると二層部分に白地に赤丸が描かれている、これは日の丸で良いんだろうか。本堂左に小さな地蔵堂、両脇に二体の石仏が安置されていますが年代は不明。本堂西側の鐘楼門を駐車場側から眺める、こちらの門もなかなか味がある。年代は不明。上層の梵鐘には橦木はある、しかし階段らしきものは見当たらない、これどうやって突くんだろう?駐車場から鐘楼門と柏井稲荷神社。紫金山慈眼寺(じげんじ)300年以上の歴史を持ち、二つの特徴のある門が印象に残る寺。2021/08/16慈眼寺宗派 / 黄檗宗山号 / 紫金山寺号 / 慈眼寺中興 / 宝永6年(1709)本尊 / 十一面観音菩薩境内社 / 柏井稲荷神社(別途掲載)所在地 / 春日井市鳥居松町1-40公共交通機関アクセス / JR中央線「勝川」駅降車、県道508号線を徒歩20分程。関連記事 / 柏井町「八幡社」
2021.08.16
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愛西市北一色町 「八幡社」森川花はす田を訪れた帰り道、モーニングを食べに喫茶店に立ち寄った近くの神社。ここまで来ると周囲の景観はそれまでの田園風景から住宅に変わる。八幡社の社頭は鳥居の更に南から始まります。右側の社号標「八幡社」の年号は読み取れなかったけれど、側面に「御大典記念」とある。石の風化具合は昭和天皇の御大典(1928年昭和3)に合わせて奉納されたものか。北一色町「八幡社」は住宅地の中に鎮座します。境内に公園が作られたのか、公園の敷地に鎮座したものか詳細は不明。明治31年頃の当地と現在の状況。周囲が田園だった頃から北一色集落の北側に既に鎮座している事が分かります。社地の一部を地域住民の公園にしたようです。八幡社鳥居から境内外周は玉垣で囲われ、鳥居の先に石の番塀がある。鳥居の扁額。蕃塀から境内。蕃塀の先に常夜灯、手水舎は左にある。蕃塀下部には獅子の堀が施され、その前には過去の扁額が置かれている。手水舎と常夜灯鉢の背面に年号らしき彫があるがこれも読み取れない、無理すれば文政(1818~1831)とも読めなくもないが、自信はありません。手水舎から社殿全景。瓦葺切妻の妻入り拝殿と渡廊を経て瓦葺切妻の平入幣殿に繋がり、その先に本殿。拝殿全景、手前に一対の狛犬が守護する。1934年(昭和9)奉納の狛犬。拝殿額と拝殿内から幣殿の眺め。額が掲げられ何か記されているが内容は不明。境内には由緒を記した掲示物は見当たらなかった。幣殿前の守護担当。吽形の台座には1927年(昭和2)とある、小さいながら風貌は貫禄がある。創建年代は不詳ですが、神社の棟札の最古のものが1781年(天明元年)まで遡れるようで、創建は更に遡るかもしれません。手水鉢の文政?も意外とありかもしれない。本殿は流造、小さいながら虹梁、木鼻等はしっかり彫りが施されている。祭神は応神天皇。本殿後方から拝殿方向の眺め。随分と高く石垣が積まれ、本殿域を玉垣が囲う。北一色児童遊園から神社の眺め。境内の杜は背も高く、適度に伽藍を隠しているが、鬱蒼としたものではなく風の通りも良い。遊び疲れた子供たちに心地いい木陰を提供している。社地に児童遊園をよく見かける、神社の税負担低減の施策の一部だろうかね。「八幡社」は神社庁に属しているようですが、社格などは調べてはいない。北一色町 「八幡社」創建 / 不明御祭神 / 応神天皇所在地 / 愛西市北一色町北田面253公共交通機関アクセス / 名鉄尾西線「佐屋」駅から北東へ徒歩10分程関連記事 / 森川花はす田
2021.08.15
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8/11~8/13二泊三日で岐阜県高山市高根町子ノ原高原の無印良品南乗鞍キャンプ場へ。前線の影響もあり雨中キャンプは避けられないのは承知の上での決行。こうした天候でこのキャンプ場に向かうにあたって心配されるのが、国道361号線から分岐しキャンプ場に向かう林道の土砂崩れによる通行不能。急登が続く谷沿いの林道は、一部山肌剥き出しの所もあり長期間の雨には弱い。一つ間違うとう回路はなく孤立も想定される場所、それに遭遇さえしなければ、標高1,600mの高原で自然豊かで静かなキャンプ場。1995年オープン、以前は会員専用で家族全員の顔写真入りのカードを発行し、ビジターは会員同伴でなければ利用できなかった。最近は敷居も下がりWEBで登録すれば簡単に利用できる。サマージャンボリーなど開催され、花火大会や屋外コンサートや乗鞍の自然と接するアクティビティーが豊富な時代もあった。2006年に子供が行方不明(無事に発見)以降はロープなど注意看板が増えた感がある。この時たまたま滞在していて、早朝から警察やムジのスタッフらが各サイトに聞き取りやヘリが飛び回っていたのを記憶している、この頃は我が家の息子達もそうした冒険をしたい時期、目が離せなかった。彼らも成長し何十年ぶりかで夫婦二人で訪れた。サイトも多彩で、平坦な草原から林の中まで、好みに合わせて選べる。今回予約したサイトはC4。尾根沿いの林道沿いに広がるサイトで、林道に近くサニタリー棟も近い。白樺や熊笹に包まれ、プライベート感は保たれている。こうした場所を好むことから、これまでの利用はAサイトかDサイトが多く、池の前に広がる平坦な草原エリアのBサイトはあまり利用した事がない。上はセンターハウス前の駐車場から乗鞍を望む。因みにキャンプ場から登山道もあるが荒れているものと思います。駐車場には関東、関西圏のナンバーが多く見られた、チェックインを済ませサイトに向かう。センターハウスからC4サイトまでは車で2~3分ほど。荒れた簡易舗装もドッグランまで、そこから先は未舗装となる。以前に比べて荒れた印象がある、道路寸断による閉鎖などもあり、その間の降雨で随分とサイトが荒れ利用していないサイトもある。ドッグランの柵や池にあった桟橋もなくなっていた。このCサイト辺りは最低地上高の低い車は底を打つかもしれない、サイトの入口が坂だったりするので降雨時は四駆が安心。今回は軽でと考えていたが天気のこともあり結局はデリカの出番。ルアーフライ専用池として運用され、静かな池の桟橋に椅子を構えてのんびりフライを振り食材を調達した。 ある時から印象も少し変わった。カヌー教室までやるようになり、池が鎮まる事がなくなった。以前はここから車で5分程下った専用池で開いていましたが、そこまでの人の移動、ツールの運搬など手間がかかっていただけに分からない事もない。釣りとカヌーは時間を分けているけれど、カヌーには手狭な池で持ち込みは出来ない。Cサイトは正面の尾根。Cサイトから望む御嶽。初日は曇天でこうした眺めも見ることが出来た。C4サイト右手の熊笹の反対側が林道でそこから右の狭い脇道を入ってすぐ右にサイト。なのでこの向きに車を入れるのは難儀する、しかも入口は下り、二駆では出れなかった。前回の戸隠での雨漏りと帰りの撤収もあり予めテントとメッシュタープの上にヘキサも張り終えた。どうせ濡れるんですけどね。スペース的には、車の奥にもうひと張りする魅力的な平坦なスペースはあるものの雨が降ると真っ先に池になる、平坦には水が集まる、因みにどれだけ降っても溝を掘るのは禁止です。取り敢えず、ビールで乾杯。サニタリー棟はDサイトとC4サイトから1~2分ほど下の二カ所。写真はDサイトのサニタリー棟。サイトから山に入る脇道はこんな感じ。チェックイン時クマ除けの鈴(ゴムバンドに可愛いい鈴)が漏れなく貸し出され、常時携行がルールですが、これが密着すると全く鳴らない。 結局は使わず自分のものを付けていた。場内は定期的にスタッフにより爆竹が鳴らされ、残飯や食材は寝る際には車に移動もルール。平穏な初日の夜。今回はガソリンランタンが一灯復活し入口に設置、大半の虫はそこを目指して飛び込んでいく。タープ内は赤玉が効いてそれ程虫は苦にならない、明るく快適。では晩御飯の準備という事で。初日メニュー、下ごしらえはかみさん、焼き担当はおやじ、必需品はビールカマンベールチーズのチーズフォンデュ簡単です、1.カマンベールチーズの外周5ミリほどを土手として内周に切込みを入れる。2.中央を放射状に切り込みを入れ、アルミ箔でチーズを囲う。 ブロッコリー、じゃがいも、ソーセージ、フランスパンなど適当に切る。3.中央が溶けてきたら白ワインで伸ばし、黒コショウアヒージョ1.スキレットに市販のシーフードミックス投入、ニンニク追加投入しオリーブオイル注ぐ。2.塩コショウと添付の調味料投入ローストビーフ1.前日に安い肉を串刺しで繊維をなるべく切る、塩コショウして下処理をしておく。2.忘れずに持参した肉をスキレツトで各面焼く。3.アルミ箔で包み余熱で火を通す、お好みでワサビと醤油を取り皿に用意。サラダ市販サラダミックス以上初日晩御飯ローストビーフも串刺し効果もあり、柔らかくて火の通りもよろしくて上出来の仕上がり。チーズフォンデュも結構トロトロ、固くなればワインと香辛料を追加する事で食材に絡んでくる。アヒージョはアヒージョだね、フランスパンとニンニクたっぷりのオリーブオイルは相性がいい。食も進めば飲みも進む、日常にないゆっくりとした食事の時間。蓬莱上撰飛騨古川の酒蔵で二人のお気に入りの蔵元。味? 飲みやすくて美味しいお酒。摘みは漬物とホタルイカを炙ったもの、氷見に言って以来欠かせない摘みになった。当日は流星群も見られる予定で、雲が切れると星空が広がるが生憎見つけられなかった。流星観察は空の開けたBサイトが向いているようです。明日は久し振りに釣券をかったので6時から釣り。フライとルアーどちらも用意して来た、フライラインが伸びていくのを見るのは気持ちがいいし確実に釣れる、けれど老眼にはライントラブルは難儀。今回はルアーにしよう。昨晩少し雨は降ったものの、二日目も天気は大きく崩れなかった、平穏な二日目。今日の予定はおやじは釣り、かみさんはスモーク作りと編み物。池に向かう歩道。ここはマツムシソウを始め花が多くみられるが、以前の印象に比べ花が減った気もする。6時予定が当に30分過ぎてしまった、その要因はガイドの糸通と2gのスプーンのアイにラインを通すのに時間を費やしたこともある、これは仕方がない。やがて皆同じ道を辿るのだょ。一時間程の成果。気の毒に金属片に二人前の虹鱒が釣れて来た。これ以上はリリースと決めていたが二人なのを知ってか、それ以上は遊ばせてくれなかった、美味しく頂こう。これが二日目晩御飯でこうなったマス君1 虹鱒のホイル焼き(二日目晩御飯)1.頭、鱗を取り、腹を出し、野菜、塩コショウ、バタータップリホイルで包む。蒸気が出てきたら3分程して過熱は終える2.マス君2 虹鱒の干物(最終日朝食用)1.頭、鱗を取り、背開き、中骨外す、塩を全体にふり浸透圧脱水シート(ピチット超吸収タイプで半日から一晩)クーラーへ。写真は訳ありで一番最後に。3.スモーク(二日目晩御飯)1.プロセスチーズ、ウズラ卵、サラダチキンを簡易スモーカーで桜チップで燻す。これも写真は訳ありで一番最後に。4.スンドゥブ(レトルト)に具たくさん投入+ホルモン因みに二日目朝食と昼食朝食 フレンチトースト+サラダ昼食 ペペロンチーノ+スモークサニタリー棟の熊出没情報、センターハウスではクマ除けのアイテムも販売されているのでお守り代わりに用意するのもありかもしれない。とは云っても、もともと彼らの生息地なんだから、大手を振って歩くわな。このキャンプ場はハサミムシとブユが多い印象があったが、今回は現地ではあまりお目にかからなかった。二日目は午後から雨は降るものの夕食までは雨漏りもなく平穏、夜間から本気で降り出した雨で写真を撮る余裕もなくなった、それは雨漏りではなく強烈な雨脚。林道沿いの小さな側溝から溢れた水がサイトに流れ込み、そうした場所には土嚢が積まれ、空きサイトには水が溜まりぬかるんできた。C11などは常に空き状況は×となっていたが、その理由は雨水の通り道で制御出来ず使用中止となっている。・・・・・帰りの道が心配になる。最終日はそんな中でも朝御飯を済ませ、早朝から車を移動し撤収作業に追われた。タープの下で撤収するも当然テント類はベタベタ、ブルーシートに包み、最後のヘキサは雨具を着てもずぶ濡れ。8:00チェックアウトを済ませ下り始める。既に一部山肌から湧き出た土砂交じりの雨水が川の様に道路を横切り始め、路面には小石が広がり、その水を集めた渓流も既に茶色に変わり高根ダムに流れ込んでいた。途中の一カ所で過去の被災により復旧工事中の所もあるが、そこも無事に通過、国道361号線に戻り一安心。しかしこの国道も一カ所片側交互通行の個所もあり気は抜けない。途中神社に寄ろうと企んでいたが、そんな気にすらなれない雨脚だった。41号線に戻ると飛騨川は既に茶色に変って、来る時の水位に比べ大きく増えていた。ここまで来れば何かあっても逃げ道はある。そんな事でマス君2朝食予定だったが、グリルの片付けもあり現地で食べれなかったが、しっかり水分も抜け、海の魚にはない油が滴るものではなく、あっさりとした干物が出来た。これはありだ。スモーク半分ほど現地で消費するも食べきれなかった。サラダチキン、チーズ、ウズラの卵、共にいい塩梅にスモークされ酒のつまみにベストマッチ。燻す事約一時間、キャンプの時間活用には面白い。帰り道、いつも寄る酒屋さんで蓬莱の「夏のにごり酒」ともう一本買い求めてきた。干物とスモークを摘みに久し振りのオンザロック。天気は予想通りとなったけれど、料理や釣り、自然散策など十分に楽しめた三日間。キャンプ場スタッフも獣や自然災害、衛生面共に目で見える形で最大限の安全確保に努めてくれている。残念なのは流星群が見えなかった事か。たった今、キャンプ用品を車から降ろす事が出来たけれど、これを乾かすのはいつになるのか。そうだ、見なかったハサミムシ、車の中で見つけた、涼しい高原から暑い名古屋は応えるだろう。線状降水帯が各地に被害をもたらしています、この地方はこれから河川水位も上がってきます、身の危険を感じたら即刻避難してください。無印良品南乗鞍キャンプ場所在地 / 岐阜県高山市高根町子ノ原高原車アクセス / 国道41号線、県道361号線経由名古屋から4時間程 無印良品キャンプ場URL / http://www.muji.net/camp/minaminorikura/about/
2021.08.14
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おはようございます戸隠キャンプで問題だったタープの雨漏りや不調だったガソリンランタンのメンテナンスを終え、今日から3日間、乗鞍に出かけてきます。向こうでは何もせず、山を徘徊しては飲んで寝る、夜は運が良ければ流星群をながめたい今回は寺社を巡る予定も入れていないし電波も届かない。ゆっくりとした一日を過ごしてこようと思います。恐らく今日の天気は持つとふんでいるが、明日以降は終日雨。帰りは雨中の撤収になりそうだ台風直撃でなかっただけでも幸運としなければ、どうなる事やら。
2021.08.11
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戸隠神社「中社」からの続きになります。今回は中社の境内社と右隣りの五斎神社、境内社を掲載します。中社の手水舎の奥に赤い覆屋が鎮座しています。手水舎の奥に建つ日吉社、その左に石段が山の斜面に延びています。日吉社(ひえしゃ)案内板より「御祭神 瀧津姫命宝永4年(1707年)戸隠山第52代別当子義比叡山の麓、日吉大社より勘請奉斎」とある。覆屋には日吉社の額、中には赤い板宮造りの本殿が祀られています。斜面に作られた石段。幅は狭く、石段は苔むし滑りやすい、その先に小さな石の社が見えます。苔むした石の社。案内板はなくその正体は不明。下の写真を拡大していくと社の中の神札に「大物・・・」の文字が現れてきました。手水舎のある中社境内から鳥居左方向の眺め。正面の入母屋造り茅葺屋根の重厚な建物は長野市景観大賞に指定されている「中社五斎神社拝殿」奥社の随神門同様に屋根は苔むし、そこから樹々が芽吹いている。日吉社から参道が繋がっていますが、一旦中社を出て拝殿に向かいます。拝殿は扉が閉じられ外観しか見ることが出来なかった。拝殿の前は車道で、通りは旅館が連なり、老舗の蕎麦屋もあることから人が集まる。蕎麦屋の右に三本松の一本が聳えている。五斎神社鳥居。鳥居から杉木立に覆われた境内の眺め。正面が五斎神社本殿のようですが、右に鳥居もあり他にも社殿があるようです。五斎神社全景石段前には小柄でカラフルな狛犬が見守っている。化粧までしてもらい愛嬌のある表情をしている。なにも鼻の穴まで化粧しなくともいいと思うのだが。本殿は流造。茅葺にトタンを被せた缶詰屋根。屋根材の保護が目的で、雪深い田舎に行くと良く見かける。五斎神社参拝、扁額は諏訪社とある、アレ?鳥居脇の由緒書きを見て納得。「中社 五斎神社 祭神 建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)、火産霊命(ほむすびのみこと)、大山祇命(おおやまづみのみこと)、椎産霊命(わくむすびのみこと)、宣澄霊命(せんちょうのみたまのみこと)由緒創建年は不明。江戸期、徳武源左衛門が諏訪御本社の分霊を受け創建された伝わる。善光寺道名所図解には「諏訪社」、江戸期の古絵図には「スハ社」として描かれている。石段下茅葺屋根の建物は拝殿で、古くは戸隠山顕光寺中院の法華堂、後の神楽殿である。国の重要伝統的建造物群保存地区を構成する重要な建造物。祭事 例祭9月10日、祈年祭5月14日、新嘗祭11月22日境内社 天神社境内には中世戸隠天台修験、中興の祖、宣澄を祀る宣澄社が西向きに鎮座する」最初に読んでおくべきだった。由緒書きにあった「宣澄社(せんちょうしゃ)」祭神は大先達宣澄阿闍梨。戸隠出身の宣澄は戸隠顕光寺の天台派、真言派との法論の最中に暗殺されます平成30年が創建から550年の節目だったようで、創建は1468年(応仁2)になる。その年は宣澄が望まぬ最期を迎えたその年。本殿全景確かに一社だけ向きが違う、西向き? 方向感覚を失っているようだ。怪無山山頂(戸隠スキー場)にあった「宣澄」の墓碑を「里宮」として建立したのが始まりのようです。毎年8月16日には宣澄法印を偲び、酒を飲みながら輪になって踊る「宣澄踊り」が行われるそうで、長野市の無形重要文化財に指定されているという。諏訪社の右に鎮座する「天神社」祭神は菅原道真。梅もない、牛もいない、らしくない佇まいかもしれない。右に小道が付けられ上に延びています。天神社から諏訪社本殿の眺め。天神社右の小道を上る、石段が作られていないので滑りやすいので気が抜けない。その先には石の社と石像が安置されている。石像は不動明王や馬頭観音、社の前に木札が置かれていたが読み取れなかった。庚申塔かもしれないが詳細は分からない。いずれも苔むし、緑の杜と同化しつつある。以上が中社の境内社と五斎神社に鎮座する境内社。中社の参拝者は多いけれど、こちらに参拝される方は少ないようです。杜に包まれ佇むこれらの社、時間があれば足を向けて見てはどうだろう。下は境内に掲げられた由緒書き。因みに御朱印は三本杉の三本目が聳える、バス停付近にある観光情報センターで頂けるようです。宣澄社由来。諏訪社玉垣に掲げられていた宣澄社由緒。中社 五斎神社由緒。日吉社創建 / 1707年(宝永4)祭神 / 御祭神 瀧津姫命五斎神社創建 / 不明祭神 / 建御名方富命、火産霊命、大山祇命、椎産霊命、宣澄霊命天神社創建 / 不明祭神 / 管原道真宣澄社創建 / 1468年(応仁2)祭神 / 大先達宣澄阿闍梨所在地 / 長野県長野市戸隠関連記事 / キャンプしがてら戸隠神社五社巡り 「中社」 諏訪大社本宮
2021.08.09
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戸隠神社「中社」キャンプ地の戸隠イースタンキャンプ場から奥社方面に県道36号線を走る事10分程。下り坂の途中左側に写真の鳥居が見えてきます、鳥居の前が戸隠神社中社西参道駐車場。中社に一番近い無料駐車場で、駐車台数は限られているけれど運試しにここまで走っても損はない。車を降りれば西参道の大鳥居から石段を上る事無く拝殿に繋がっています。お歳を召された方が見える場合はお勧めの駐車場。西参道の大鳥居の手水舎。手水舎脇の中社境内案内図。キャンプ場からは図の左から来たことになります。戸隠山の麓に鎮座する奥社、中社、宝光社、九頭龍社、火之御子社の五社を参拝する事を戸隠五社巡りと呼びます。先に参拝した奥社では奥社と九頭龍社の二社が参拝ができたので、ここ中社で三社目となります。ここから徒歩で一旦県道に出て坂を少し下り、図の下側にある大鳥居を目指します。県道から見る大鳥居。この辺りは大門通りと呼び、嘗ての宿坊や蕎麦屋、バス停などがあり、中社の門前町。鳥居の左右と鳥居の先に3本の大きな杉が72㍍の間隔で三角の配置で聳えています。年輪を重ねたこの杉は「三本杉」と呼ばれ、樹齢は800年とも云われます。鳥居右手の石垣の先には五斎神社が鎮座し、こちらには諏訪社や宣澄社などありますが後日掲載します。まずは中社参拝です。遠目にコンクリート造りの明神鳥居に見えていましたが、ここまできて木造である事が分かりました。立派な鳥居です、ここから拝殿までは二つの石段が続きます。狛犬が守護する石段の先に見える大きな杉は三本杉のひとつ。石段を上る参拝者を見下ろすように聳える杉の巨木、三本が寄り添うように聳えているのでこれが「三本杉」と思われるかもしれませんが、これはその中の一本。ご神木として崇められ、石段途中から見上げるこの巨木の姿は、人では計り知れない自然の不思議な力が宿っている、そう感じてしまう。最初の石段を上りきると視界は開け、神橋の先の右に手水舎があり、正面は拝殿に続く最後の石段。左には女坂があり、西参道に繋がっています。手水舎と左の赤い覆屋は日吉社、後方が五斎神社。ここから左の女坂を進むか、まっすぐに続く石段を上るか分かれ道です。拝殿が顔を見せています。最後の石段を上ると境内が広がり、その境内を守護するのが彼ら。手前の阿形は角が付き、吽形は宝珠を付け、特徴的な横長の顔と伏せ耳。たて髪は平面的に表し、尻尾は柔らかな曲線で彫られた素朴な容姿。拝殿、入母屋の唐破風向拝を持つ落ち着いた佇まい。右手にさざれ滝と境内右に青龍殿がある。茅の輪が置かれた光景、今年も一つの節目を迎えた事を実感させられる風物詩。流行病が広がり、強烈な暑さが続く夏、歳と共に夏を乗り切る体力に自信がなくなってくる。ここは回るしかあるまい、「祓え給へ、清め給へ、守り給へ、幸へ給え」朝もやに包まれた中社拝殿、訪れるなら早朝がいい。天手力雄命が投げ飛ばした戸の一部が山にあたり戸隠山になったと伝わり、戸隠神社は御神体の戸隠山を中心に発達し、創建以来二千年余りの歴史を刻む神社です。平安時代末は修験道の道場として都にまで知られた霊場で、神仏習合のころは「戸隠山顕光寺」と称し、当時は「戸隠十三谷三千坊」と呼ばれ、比叡山、高野山と共に「三千坊三山」と言われるほど栄えたという。大鳥居周辺の20軒ほどの宿は宿坊の名残を感じさせる。江戸時代には徳川家康から厚遇を受け、一千石の朱印状を賜り、東叡山寛永寺の末寺になるなど、修験道場の場から、農業、水の神として崇められてきました。やがて明治の神仏分離で寺は切り離され、宗僧は還俗して神官となり、戸隠神社に名前を変えて現在に至ります。神社の栞には下の様に書かれています。「古事記・日本書紀に次ぐ古典「旧事記」によると、第八代孝元天皇5年(前210年)に、天手力雄命が奥社の地に鎮まられました。その後、康平元年(1058年)宝光社に、さらに30年を経て中社に現在の御祭神が分祀奉斎されました。平安時代には既に天下に知られた修験の名所となっていた事が「染慶秘抄」(治承2年1178)に記されています。」祭神は天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)天の岩戸を開けるために神楽を創案したとされる知恵の神。拝所の奥では太々神楽が奉納されるようで、運が良ければ稽古する姿が見られるようです。社紋は鎌卍(かままんじ)で、この奥の天井に狩野派絵師、河鍋暁斎が描いた「龍の天井絵」があると聞いたが、ここからではその姿は拝めなかった。拝殿右奥の「さざれ滝」戸隠山から湧き出た水がここで小さな滝となり境内を流れ下っていきます。そんな姿から崇敬されるようになったのかも知れない、瀧がもたらす清涼感は有難い。正面に石垣が積まれ、その上段に幾つかの石塔があります、この一画は「さざれ滝」よりこちらのためにあるような気がしてならない、詳細は不明。拝殿左に社務所と授与所、写真の奥に向かえば女坂、西鳥居に続きます。これから向かう無人の宝光社、火之御子社の御朱印はこちらで頂くことになります。なので宝光社、火之御子社を参拝し、中社を参拝するといいかもしれない。かみさんは中社をスルーして既に神道を進み始めました。参拝客がいない早い時間だったので、人が写り込まない中社拝殿を写真に収め、追いつかなければ。クマ除けの鈴は自分がぶら下げ、彼女は持っていない。戸隠神社 中社創建 / 不明御祭神 天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)所在地 / 長野市戸隠中社公共交通機関アクセス / JR長野駅から戸隠キャンプ場行きバス(約1時間~1時間10分)、中社宮前バス停下車関連記事 / キャンプしがてら戸隠神社五社巡り「奥社、九頭龍社」 念佛池
2021.08.08
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感染者が上げ止まらならない中、どんどん下がる一方なのはガースーと与党の信頼。核や戦争のない「安全・安心」な世界平和と犠牲者への哀悼の意を世界向けて発信する「平和記念式典」見せてもらいました、原稿手にして朗読する姿も見慣れた光景。それももういい、本当にもういい、ガースー、これが日本のリーダーかと思うと悲しくなる。自分の気持ちがないから軌道修正も出来ない。きょろきょろ動向をみる情けない姿ももうけっこう、国益を損なうだけだ。早く選挙をやって欲しい、願わくば総理大臣は国民投票で選ばして欲しいものだ。憲法を変えるのが得意な政党なのだから、大統領制にでも改憲してほしい。党利党略、私利私欲、利権、忖度に無関係な若くて、活舌のいい、自分の考えチューのを持ったコウシタ人が国の代表でいてほしい。それが国民にとって将来の展望が開ける「安全安心」な国かもしれない。その際には議員定数削減、議員定年制、報酬削減などすでに終えていなければならない過去をしっかり清算して実行してもらいたい。今の事象は、個人として支持しない与党とそこから選出された総理により起きていることだけに尚更ガスが溜まる。同じ事を一回のみならず、「二カイ」、三回と繰り返し、感染が増えていようが「アソー」と他人事のように「ヘイゾウ」としていられる、セキニンすら取れない、話はモリ、真実は見えないとっても「アッベー」状態だ。とっとと解散、国民に意思表示させてほしい。野党もしっかりしろ。「日本をカエタインデス」という志ある若い集は一つになって結集したらどうかこのままでは尖閣も含め、やがては赤い大国に飲み込まれる。議事堂を造り、そこで改憲やら、将来のエネルギー政策やら好きなだけ議論すればいい。自衛隊の基地を作るとかの意見もあるようですが、自衛隊は国の為に重要な使命を果たしている。貢献している集団をきな臭いところに置くべきではない、総理や国会議員が適任だ。そこで遺憾の意とやらを世界に向け発信していればいい。次の選挙も絶対に棄権はしない。投じる先がなければ「大谷さん」と書くかもしれない。溜まっていたガスも抜けたようです
2021.08.07
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臨済宗東福寺派「法岑寺」前回掲載した「光春稲荷社・光春稲荷古墳」からの続きとなります。その際に過去の地図からこの場に寺院や鳥居の印が現れるのは昭和43年になってからのことでした。しばらく春日井の文化財、尾張史など調べて見ましたがよく分からなかった。なので伽藍の紹介となります。「法岑寺」、山号は「覚皇山」山門右の寺標は昭和52年寄進されたもののようです。南側から見る境内は左に鐘楼、山門、光春稲荷社(光春古墳)立派な四脚の山門、その先に本堂。上山門左側の境内鐘楼、組まれた石も新しいようだ。下境内左、鐘楼脇の覆屋に石仏が安置されている。鐘楼全景本堂、庫裡、右の白い建物は弘法堂だろうか。本堂全景、入母屋瓦葺のどっしりとした綺麗な外観、山号額も新しいようだ。臨済宗東福寺派の寺で開基、本尊は不明。境内東側の全景。右から弘法堂?、光春稲荷社(光春古墳)、山門。光春稲荷社の鳥居右に観音堂がある。観音堂、内部は四国巡礼の観音石仏などが安置されています。堂内左に仲睦まじく寄り添う姿の道祖神に目が止まる。広々とした境内は玉砂利が敷き詰められ、良く手入れされ訪れていても気持ちがいい。光春稲荷社(光春古墳)の杜や境内では、今が盛りとばかりに蝉の鳴き声が溢れている。山門左の掲示板の言葉そのままだ。近頃、羽が透明なセミばかり目にする。茶色のこれは子供の頃「あぶらぜみ」と呼んでいた、もう一種類小さな「にいにいぜみ」が身近な存在だったがほとんど見かけなくなった気がする。近年の異常な暑さは生態系も変えつつあるようだ。この暑さ、負けてなるものか 覚皇山 法岑寺宗派 / 臨済宗東福寺派開基・本尊 / 不明所在地 / 春日井市松新町3-113公共交通機関アクセス / JR中央線「勝川」下車東へ徒歩10分程関連記事 / 光春稲荷社・光春稲荷古墳
2021.08.06
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戸隠神社5社巡りの際に宿泊の拠点とした戸隠イースタンキャンプ場。そこから県道36号線を奥社方向へ5分程、鏡池方向に向かう道と県道の分岐にある「蕎麦処 そばの実」戸隠と云えば蕎麦が思い浮かびます、これまで戸隠では蕎麦を食べる機会がなく「ここの蕎麦が食べたい」と云う店の心当たりがなく、滞在中二軒立ち寄ったなかの一つ。キャンプ場から近いこともあり利用しました、人気店で駐車場はほぼ一杯。たまたま駐車もでき、待ちもない様なのでそのまま店内へ。山間に溶け合う様に作られたシックな外観。所謂少し敷居の高そうな店構え。店舗入口脇にシダや苔の緑の中につくばい。暑い日には清涼感を与えてくれる。梁を露わにして、ガラス窓の多い店内、「存分に戸隠の緑を味わってくださいね」的な作り。店内の空気清浄機もフル稼働、テーブル席は中央にシールドも置かれている。当然ながら食べる時以外はマスク着用は、もはや習慣として覚えていくしかない時代になってしまった。店内の照明は押さえてあり落ち着ける空間、窓を通して眺める緑の樹々は一枚の絵のようでもある。サイドメニュー。季節の素材を使いメニューを変えているようです。訪れた時期が6月23日、この時期のお勧めはアユのようです。旬の味くらべをオーダー。お目当ての蕎麦は数量限定の「十割そば」があったので、夫婦揃ってオーダーした。戸隠の植物を描いた箸袋。上は「とがくしそう」、下は「とがくしでんだ」上、旬の味比べ@900見た目はとても彩りが良く、蕎麦の実の入ったジュレが主役か。されど、さほど味の印象が残っていない、外の景色とセットで目で味わうものか。女性受けするだろう。上、数量限定の十割蕎麦@1,10010割蕎麦にしては細くて色白、「最初は塩で」と勧められます。個人的に最初は一番蕎麦の風味が感じられる「そのまま」が鉄板。意外に蕎麦の風味は弱い様な気がしました。美味しいかと問われると「喉越しも良く、普通に美味しい」周囲の景色と彩り豊かな盛り合わせを見ながら味わう事で普通から評価は上がっていく。我家評価は5段階で星3つ、店内、外の眺め、そして料理と見栄えの良さは味わいにも影響してくる。好みは人それぞれ、口コミなどの評価と実際に感じるものは常にギャップがつきもので、評価の良くない所が意外にマッチしたりする。蕎麦も随分と高くなったもの、ラーメンもそうだが「心して味わえ」的な傾向が強いのは妙にかしこまったりするのは性に合わない。やっぱり田舎蕎麦があっているのかな。店内にはこうした戸隠の植物を描いた額が幾つかあります。こうした絵が好きな方は足が止まる。「蕎麦処 そばの実」戸隠の自然を目と味覚で味わうにはいいかもしれない。所在地 / 長野県長野市戸隠3510-25営業時間は11時の様ですが、季節、状況により30分前に開店する事もあるようです。定休日は木曜、第二金曜日℡ / 026-254-2102URL / https://www.sobanomi.co.jp/
2021.08.06
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春日井市松新町、北にJR央線「勝川」駅があり、東に徒歩で10分も歩けば住宅地に囲まれた「覚皇山法岑寺」に辿り着きます。目的地の光春稲荷社は臨済宗東福寺派の寺院「覚皇山法岑寺」の境内に鎮座します。車の場合は山門前に参拝者駐車場もあり、駐車場の心配はなさそうです。山門右に幾つもの赤い鳥居が、こんもりと盛られた樹々が生い茂る一画に続いています。山門右に覚皇山法岑寺の寺号標と右に光春稲荷社の社号標(昭和10年健之)が建つ。通りからも鳥居の姿は良く目に付きます。上は1920年頃の当地、右がほぼ現在、北に中央本線、地図には入らなかったが下には庄内川が流れ、この辺りは小高い台地の上にあたります。光春稲荷社はマーカーで示してあります。この地図ではここに寺院や鳥居の印が現れるのは昭和43年になってからのことだった。色々調べて見るも光春稲荷社や法岑寺について詳細は調べきれなかった。法岑寺境内から山門と左に光春稲荷社の鳥居の眺め。法岑寺についてはもう少し調べてみて別途掲載する事にします。鳥居から光春稲荷全景。左の樹々に包まれた小高い部分の上に社殿が鎮座します。このこんもり感は古墳の雰囲気が漂いますが、まさしくここは古墳。この辺りは古くから人が居住し周辺では高御堂古墳や八事神明社古墳などがある。なんですが、古墳の案内板などはなく、古墳の形もよく分かりません。これから参拝しがてら古墳の面影が残っているか見ていきましょう。赤い明神鳥居と扁額は「光春稲荷」とある。この鳥居と、左の二カ所から拝殿に続くようです。奉納鳥居が続く参道は緩やかな弧を描き墳丘の上にある拝殿に続きます。この鳥居の数からみても地元から崇敬されているのが見て取れる。参道は二手に別れ、左に拝殿、真っすぐに進むと墳丘を周回できる。前方に小さな社があるようなので墳丘を周回してみます。見えていたのは覆屋で、内部には小さな狛狐、それと・・・白蛇、リアルだ。更に奥へ、拝殿の後方辺りにも一社。墳丘斜面に祀られているため参道からだと見上げる位置になる。こちらも稲荷社のようだ。本殿後方にも一社。本殿域は丸い石を積み上げ階段状になっています。こちらは狛狐と鳥居が安置されている。何れの社に社名札は見当たらなかった。ここから左に進み拝所に向かいます。拝所全景。切妻の平入でシンプルで落ち着いた佇まい、両側の妻の下には大きな白い貝が飾られているのら視線が行く。まさかここから見つかったもの・・・そんなことはないか。意図あっての事だろうが分からない。拝所正面にも狐が飛び跳ねている。ここ松新町の光春稲荷社の詳細は分からなかったけれど、郷土史かすがいで「伏見稲荷の眷族の分霊をお祀りしたのが始まりとされます」以下は「郷土史かすがい第21号」からの抜粋。「1896年(明治29)、中央線の開発工事が開始されたが、名古屋から玉野附近までは濃尾平野の平坦地を通るが、そこから先は庄内川左岸に沿って進み、丘陵地にトンネル14を貫き多治見に至る難工事だったという。この工事はいくつかの区域に分けられ、其々の請負い業者により工事が進められたようですが、業者間のトラブルが絶えなかったようで、ひと昔前の映画の様なダイナマイトや鉄砲まで使った諍いにまでなったたようです。当時ここ勝川地区を請け負っていた組頭の栗田武右ェ門は、諍いの多い事に頭を痛めていたそうだ。そんな中で線路脇の墳丘の下で狐の穴を見付け、ここにお稲荷さんを祀り信仰すればご利益があり諍いは収まるだろうと思ったそうだ。1896年(明治31)、京都の伏見稲荷から分霊を迎えたのが光春稲荷の原点とされる。その後も諍いは続き、武右ェ門はお稲荷さんへ日参したという、日参28日目に祈願の成果が表れ和解が成立したという。」墳丘は狐のお山だったようだ、後方にあった小さな社もひょっとして複数あった狐の穴の前に祀ったものだろうか。拝所から見る本殿、ここにも狐が。一間社流れ造りの本殿全景。小さいけれど木鼻や虹梁など手が掛けられたものです。今は想像できないけれど、諍いが絶えなかった当時、それを見かねた武右ェ門により祀られた光春稲荷社。創建は近年の様ですがいい方向へ導いてくれるようです。拝所前の参道口、こちらが正参道なのか定かではないが、同じ方角に二つの参道を持つ神社も珍しいか。墳丘の上に建つ光春稲荷社、武右ェ門と同じ悩みを抱える方は訪れて見てはいかがでしょうか。2021/07/27光春稲荷社創建 / 1896年(明治31)祭神 / 不明光春稲荷古墳年代・形状 / 不明所在地 / 春日井市松新町3-80公共交通機関アクセス / JR中央線「勝川」下車東へ徒歩10分程関連記事 / 高御堂古墳 / 八事神明社古墳
2021.08.03
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今年久し振り戸隠へキャンプに出掛け、以来ちょっとしたキャンプブームビンテージ物のテントや用品のメンテナンスに時間を費やす事が多い二人だけのキャンプ、子育て時代とは違い用品のダイエットが必要になっているなか、意に反して新たに追加されたのがスキレット。以前から家用としてかみさんが興味を持っていたが、ボンボンと机の上に並べられた黒いフライパン。我家のキャンプブームに乗じて決断したようだ。サイズは6.5インチ(16.5㌢)とやや小さめのものですが、家や二人のキャンプならこれで十分。既にダッジオーブンはあるけれど、鋳鉄の鍋はとても重い、なので出番は確実に少なくなる。スキレットも同様で6.5インチ(16.5㌢)なれど蓋を付け片手で持ち上げると結構手首の筋トレになる。総重量は約1.5㎏程と普通のフライパンと比べたらとても重い。見た目は味があって、そのまま食卓に出しても洒落ていて魅かれるかもしれないが重さは覚悟が必要。こうして現物を見ると既にシーズニングされている、これは助かる。シーズニングとは製品表面の酸化防止用のワックスを落として匂いを取り、オリーブオイルなどで新たに油膜を張りなおす作業。初めてのシーズニングはくず野菜などで野菜炒めをして済ませてもいい。使用後はお湯で洗い、熱をかけて乾かしたあと、オリーブオイルなどを塗って保管する事になる。結構手間のかかる代物なのも間違いない。その代わり蓄熱性がいいので、焼いたり、カバーを乗せて煮込みなどする時に食材に熱がむらなく伝わり、幅広く調理ができる。普通のテーブルにフライパンでドンと置かれていると「今日はご機嫌斜め?」と思いたくもなるが、スキレットで置かれていると料理も冷めにくく感じが違う。スキレットカバー内側のイボの様な突起は蓋をして調理をすると、素材の旨味を含んだ蒸気がカバー内面に沿って突起にぶつかり液化して再び素材の上に垂れて戻る仕組み。この手のものは直火しか駄目だろうと思っていたがIHにも対応した製品もある、となれば家での用途も増え、使い込めばさらに味わい深くなっていくだろう。さあ、これがテーブルの上に乗るのはいつなのか、楽しみだ。これを日常的に使いこなすようになると、かみさんには腕っぷしでは歯向かえまい。楽天市場「Zモール」スキレット・カバー付き
2021.08.02
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先に掲載した「森川花はす田」蓮田と田んぼが広がる光景の中に浮島の様に森があります。今回はこの森を取り上げて見ます。手前の川は鵜戸川、右岸には道の駅立田ふれあいの里があります。「森川花はす田」の南に見るからに神社か古墳を連想させる佇まいの森があります。蓮を見終えた後に足を向けて見るといいかもしれない。鵜戸川左岸にここだけこんもりと樹々が残されています。富岡神社(古木江城跡)の杜です。蓮田から見た杜は一つの山の様に見えていましたが、鵜戸川沿いの小道から眺めると社地の一部が盛られているだけでほぼ〃平坦と云ってもいいかもしれない。富岡神社(古木江城跡)について少し調べて見るも創建に繋がる記録は見つけられなかった。右の地図はこの地の移り変わりを1891年頃と現在で比較してみた。1891年の地図にも富岡神社の鳥居は記されており、尾張史( 1844年編纂)の中で左の記述を見付けました。そこには古くは富岡明神、神明宮と呼ばれ、この辺りの総社とある。随分と歴史のある神社のようです。南側の田んぼから眺める富岡神社(古木江城跡)の全景。緑の田んぼの中のこんもり茂った森は常夜灯と神明鳥居まで包みこんでいます。子供の頃を思い出させる光景が残っています。あぜ道から鳥居と境内の眺め、鳥居の目の前がすぐに田んぼ。生い茂る樹々が作る影は境内全体を覆い、強烈な夏の日差しを遮り境内は涼しいけれど、蚊が多いので虫よけがあるといいかも。社頭左に「古木江城跡」の石碑と解説板がある。案内は古木江城跡に関するもの。「室町時代の末期、織田氏の砦として築かれました。当時この地方には、一向宗が広がっていて、真宗門徒のその教義に対する信心は絶大なもので、信長の意向に反抗しました。信長は、長島の一向宗門徒を滅ぼすため、弟の信興にこの古木江に城を築かせ、門徒勢力の分断をはかりました。信興がこの城を守っているとき、弥富の服部党や近くの農民に囲まれ、六日間戦いました。しかし兵力が少なく城に攻め込まれ、やぐらに上がって自害したと「信長記」には書かれています。地元では城外で討ち死にしたと伝えられています。元亀元年(一五七〇)一一月ニ一日のことです。古木江城は小木江とも書き、地名にも「子消」「討レ」「頭倶前」などの名が残っていました。富岡神社は、この一角に城の鎮守としてあったと考えられています。」もう少し神社について書かれていると嬉しいが、ここは城が売りのようだ。それでも神社の歴史は1500年代まで遡ってしまった。城の鎮守としてどの程度の規模だったのか分からないし、城跡の碑が建っているものの城の規模もよく分からない。砦ならともかく、城とすると規模はもう少し広範囲だったのかも知れない。鳥居と常夜灯はあるものの、社標が見当たらない。手水鉢鳥居をくぐった参道左にあり、自然石をくり抜いた船形をしている。奉納年度未確認。境内から社頭方向の眺め。木陰の中から見える稲の緑が鮮やかだ。本殿全景。切妻の覆屋の中に本殿が祀られているが、拝殿は持たない。本殿域は自然石が二段で組まれ、その最上段に本殿が祀られている。城の遺構としては特に残っていないようで、この高みを痕跡とするならば、この広さで持久戦をしたとは到底思えない気がする。境内から見上げる本殿域。杮葺きの神明造の本殿、5本の鰹木と内削ぎの千木が付く。良く言われる女神が祀られている?本殿全景。尾張史の記述に「神明宮と称した」ともあり、天照大御神が祀られているのかもしれない。地元の方に尋ねれば一番早いだろうが、後方の蓮田には人が多く訪れているけれど、富岡神社(古木江城跡)を訪れる方は皆無だった。本殿域から西側境内の眺め。なんとなく空堀の雰囲気があるような・・・ないような。本殿域は下から見上げると、それほど高く感じられないが、参拝を済ませ本殿前から振り向くと結構なたかさを感じられる。境内西側からこんもり盛られた本殿域の眺め。手前の建物の用途はよく分からなかった。本殿域東側の眺め、樹々が生い茂り、本殿域の様相どころか、城をイメージする事は出来ない。樹々の隙間から僅かに見える覆屋に気が付いて初めて神社だと分かる。よく古墳の上に鎮座する神社がありますが、こうして見ると古墳と思いたくもなる。田園風景の中、緑の杜の中に佇む富岡神社は古木江城の鎮守として祀られた歴史のある神社。2021/07/20富岡神社(古木江城跡)創建 / 不明祭神 / 不明古木江城築城主 / 織田信興築城年 / 1567年(永禄10)廃城年 / 1571年(元亀2)所在地 / 愛知県愛西市森川町字村仲86関連記事 / 「森川花はす田」
2021.08.01
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