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投票に行こう!「私の一票未来をつくる」組織票で船頭が決まってしまう、自身の思いは行動で示そう。
2021.10.31
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以前掲載した江南市田代町郷中の「神明社」その中で「小折村には二つの神明社があり、それは外宮(南山神明社)と内宮(当神明社)でいづれも生駒家代々の氏神であった・・・・」としました。今回はその外宮「南山神明社」を取り上げます。生駒氏と所縁のある松杜天神社から県道157号線を南下、徒歩で10分もあれば県道沿いの社頭に到着する。内宮とされる郷中の「神明社」から細い路地を南に進めば5分もかからない。手前の県道157号線は岩倉街道(柳街道)でもあり、街道沿いに社標と常夜灯、神明鳥居が建つ。鳥居から続く長い参道の先にニノ鳥居と社殿が見える。参道を進みニノ鳥居の前まで来ると左右に細い小道が現れます。社標の立つ右手を眺めれば松杜天神社が見えている。社頭周辺には駐車場は見当たりませんでした、車の場合は久昌寺に停めて歩くことをお勧めします。社地は玉垣がなく、多くの常夜灯が社地を囲む。内宮にあたる郷中の「神明社」ではそれすら見かけなかっただけに、外宮は破格の扱いとみて取れる。ニノ鳥居と社標、境内左に手水舎があり鳥居の先には石の蕃塀があり、社地は杜で囲われている。ニノ鳥居から境内の眺め。社頭はほぼ東を向き、拝殿、祭文殿、本殿が連なる伽藍。瓦葺の手水舎と手水鉢。鉢には明治廿六年(1883)と刻まれていた。自分で境内を見渡したところ大正の年号が多い中、唯一明治の元号がこの鉢だった。手水舎から伽藍全景。右手に社務所(無人)と境内社が祀られている。切妻瓦葺の四方吹き抜けの妻入拝殿。大棟の鬼瓦には南山の文字が入る。拝殿の妻壁に施された彫飾、左右に翼を広げた龍?が施されている。あまり見た事がないデザインだ。彫り手の力の入れようが伝わってくる。境内右に無人の社務所と境内社。右から豊川稲荷、津島神社、津島社、稲荷社と祀られています。祭文殿・本殿域は玉垣で囲まれている。祭文殿全景。龍神社もそうであったように、こうした形の伽藍はこの辺りで良く見られ、変化のある屋根の形や左右対称の姿は個人的に好きな形。幣殿前の狛犬は大正生まれ。祭文殿から本殿の眺め。本殿両サイドの棟持ち柱がよく見え、高縁に小さな狛犬がいるようですがこれ以上は寄れない。南山神明社の創建時期は定かではない。生駒家広が領主としてこの地に居住するにあたり、守護神として勧請(かんじょう)した内宮が明応年間(1492~1501)と伝わることから、南山神明社の創建がこの年代より遡る事はないでしょう。何れにしても生駒家や氏子達により受け継がれてきた長い歴史を持つ神社。祭神は豊受大神。本殿域側面全景、神明造の本殿はよく見えますが、周囲は高い塀で囲われ、本殿域に他の社が祀られているのか定かではありません。鰹木は6本、千木はスパッと横に切られた内削ぎ。県道から少し入っていることもあり、通りの喧騒は杜が遮断し静かな境内が広がっています。役行者堂ニノ鳥居前の小路を松杜天神社方向に進んだ境内の東外れに祀られています。内部にはお堂建立のため寄付された方々の名が掲げられ、最後に1996年(平成8)と記されいた。比較的新しいもののようだ。内部には写真の役行者の石像が一体安置されていた。行者堂の右に玉垣で囲われた一画があり日露戦戦没者慰霊碑が建てられていた。生駒家の氏神として、内宮の郷中神明社に対し、外宮の位置づけとして祀られる南山神明社。内宮に比べ厚遇されているような気にさせる。南山神明社創建 / 不明祭神 / 豊受大神境内社 / 豊川稲荷、津島神社、津島社、稲荷社所在地 / 江南市田代町南出466関連記事 / 江南市田代町郷中の「神明社」、松杜天神社、 郷中神明社から松杜天神社経由徒歩約10分程
2021.10.31
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ずっと見送っていた全国一ノ宮巡り。10/24~26日にかけて岡山、鳥取、兵庫県に鎮座する一之宮を参拝してきました。今回は車での移動、ガソリン価格が高騰したこの時期、走行距離は1,000㌔になり、燃費の悪いおやじの車にはつらいものがある。今回、初日は車中泊で計画したので致し方ない。名古屋から5:30に高速に乗り、ひたすら高速を法定速度+10km/hで西に移動する行程。高速道路では久し振りに観光バスが連なって走る光景を見るようになった。ワクチン接種も進み世の中動き出した事を実感する。まずは初日最初の目的地、岡山県北部の津山盆地に鎮座する「中山神社」へ向かう。途中二か所で小休憩を取りながら、岡山県津山市一宮に鎮座する「美作國一ノ宮 中山神社」到着が10:45。鳥居前の樹齢800年とも云われる巨大なケヤキ「祝木」に迎えられ駐車場に車を乗り入れる。宣言下で帰省を見送っていたのだろう、七五三参りを兼ねて里帰りした他府県ナンバーの車も結構多かった。また、地元のウオーキングイベントも開催され境内は賑わいをみせていた。花崗岩で作られた大鳥居は1791年(寛政3)に造られ、木鼻のない「中山鳥居」と呼ぶもの。大きな狛犬の先にある神門は津山城二の丸にあった四脚薬医門を明治初頭に移築したもの。創建は707年(慶運4)の創祀とされ、美作國の一ノ宮で鍛金、冶工、採鑛の守護神で農耕・牛馬の守護神として崇められている。現在の社殿は1559年(永禄2)、出雲国富田城〃主の尼子晴久により18年の歳月をかけ再建されたものだと云う。社殿は中山造と呼ばれる檜皮葺で、入母屋妻入りの本殿に、入母屋造平入の向拝が施された拝殿が連なるもの。一ノ宮の風格漂う落ち着いた佇まいで国の重要文化財に指定されている。主祭神は鏡作神(かがみつくりのかみ)、相殿神は石凝姥神(いしこりどめのかみ)、天糠戸神(あめのぬかどのかみ)社殿左に末社の総神殿、国司社、御先社、猿神社が祀られています。美作國一ノ宮 中山神社創建 / 707年(慶運4)主祭神 / 鏡作神、相殿神 / 石凝姥神、天糠戸神末社 / 総神殿、国司社、御先社、猿神社所在地 / 岡山県津山市一宮695さあ次は鳥取方向を目指し国道53号線と中国横断自動車道で鳥取ICを目指し北上する。少し遅め(13:30)の昼食をとる為、道の駅「清流茶屋かわはら」に立ち寄る。千代川右岸の扇状地にある道の駅で鳥取自動車道とも繋がっている。対岸には河原城(復元された資料館)が望める。場内のすなばcoffeeでランチと考えていたが人も多く、屋台の軽食で済ませ再び走り出す。鳥取ICから国道9号線、29号線を経由し鳥取平野を東に横断し、因幡國一ノ宮宇倍神社へ。移動時間30分程で鳥取県鳥取市国府町に鎮座する「因幡國一ノ宮宇倍神社」駐車場に到着。時間は14:30ながら今一つ晴れきれない空模様、この時期は日暮れも早く境内の燈籠には既に明りが灯る。一ノ鳥居から続く石畳は杜に続き、狛犬が守護する石段を上る、参道は左に続きニノ鳥居から先に長い石段が境内に続いている。国府町を見下ろす山裾の境内、そこに648年(文化4)に創建された社殿が広がります。現在の社殿は1898年(明治31)に完成、その姿は当時の5円札にも載せられた程で、大正、昭和にも社殿が図柄として取り上げられ、お金に縁があり商売繁盛の神様、子供の神様、長寿の神様として崇敬されている。祭神は武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)檜皮葺きの本殿、幣殿、拝殿の伽藍は648年(大化4)の創建以降、幾度か再建され、切妻造妻入の幣殿と入母屋造妻入の向拝屋根持つ拝殿、その先の本殿は1898年のもので三間社流造の正面に縋破風向拝が付き、斜めからの姿は優美なものがある。本殿左奥には御祭神終焉の地とされる双履石、国府神社が鎮座する。参拝を終え時計を見れば15:20、そろそろ宿泊地に向かうのかと思いきやもう一社参拝する様だ。おやじの独り言「全国の東照宮が・・・」を覚えていてくれたようで、「鳥取東照宮」を計画に入れてくれていた。東照宮へはここから北東方向に車で20分の移動時間だ。「因幡國一ノ宮宇倍神社」創建 / 648年(文化4)主祭神 / 武内宿禰命境内社 / 国府神社所在地 / 鳥取県鳥取市国府町宮下1008鳥取市上町の市内中心地、県庁や鳥取県警が置かれる地域で、樗谿公園の東端に「鳥取東照宮」は鎮座する。鳥取市歴史博物館第二駐車場到着は15:20、そこから右手方向に歩いて行く、やがて正面に控え柱を持つ木造の鳥居が現れます、額には東照宮と記されている。園内のもみじは一部色付きはじめ秋本番の到来を告げていた。社殿はそこから左方向に進み、瓦葺で重厚な趣のある神門をくぐり、参道を進んだ左側に随神門、その先に社殿が広がっています。地方には徳川家への忠誠の証としてこうした東照宮が建てられ、鳥取藩の東照宮がここになります。鳥取東照宮は因幡東照宮(いなばとうしょうぐう)と呼ばれ、1874年(明治7)から2011年(平成23)までは樗谿神社(おうちだにじんじゃ)と称していた、 2011年(平成23)、本来の名称が「因幡東照宮」だった理由から現在の鳥取東照宮へ改称した。創建は1650年(慶安3)、鳥取藩初代藩主「池田光仲」により日光東照宮から勧請、因幡東照宮として建立されたもので祭神は、主神の東照大権現、配神は池田忠継、忠雄、光仲、慶徳を合祀する。社殿は権現造で東照宮の煌びやかなイメージとはかけ離れ、欅の白木の質感を生かしたもので簡素でありながらも飾り金具などには葵の紋が散りばめられ、本殿桁に左甚五郎の手による鷹の彫飾りがあるそうだ。本殿、拝殿・幣殿、唐門は国の重要文化財に指定されている。本陣山の南東の木立に囲まれた麓に静かに佇む素朴な社殿、家康が望んでいた姿なのかもしれない。「鳥取東照宮」創建 / 1650年(慶安3)主祭神 / 東照大権現、配神 / 池田忠継、忠雄、光仲、慶徳所在地 / 鳥取県鳥取市上町87さあ、いよいよ宿泊予定地に向かうと見た、なぜ?それは「地元スーパーに寄る」かみさんの一言で分かろうというものだ。地元スーパーで地元の酒にとうふちくわ、ハタハタの素揚げなど食材を買い求め冷蔵庫に放り込む。国道9号線を西進し「道の駅神話の里白うさぎ」へ、移動時間は30分程。鳥取市白兎、道の駅到着は17:00、既に夕闇が迫ったころだった。国道9号線沿いに建ち、目の前は因幡の白うさぎで知られる「白兎海岸」施設に隣接し白兎神社、徒歩で廻れる範囲に神話の舞台となった淤岐之島、白兎川下神社などがあり拠点にするには絶好かも知れない。既にキャンピングカーや車中泊の車が何台か駐車しており、国道から離れた山側に駐車、まずは車内を宿泊モードに切り替え。さあ宴会? いや〃、まだ〃足元が明るいので白兎神社参拝に向かう。道の駅の中心に石の明神鳥居を構える社頭があり、石畳と石段が山裾に続く、やがてニノ鳥居を過ぎ、手水舎を過ぎた左に「御身洗池」が現れる。神話では皮を剥かれ痛んでいた白兎神を見かけた大国主命、「水門へ行き水で傷口を洗い、ガマの花を下に敷き詰め、その上で養生すれば快復する」と導いたと云われる、その場所がここである。小さな池ですが、干ばつや豪雨があっても水位を変えない事から不増不滅の池とも呼ばれ、安山岩の上にできた池は、湧き水が地下に浸透する事がなく、岩盤の上に堆積した砂の層から抜けていくので水位が変わらない。昔の人が不思議な池だと感じるのも頷けるというものだ。白兎神社は白兔神が主祭神で、保食神を配祀する。白兔神(兎神)は大国主神と八上比売の縁を取り持ったことから、縁結びの神として訪れる参拝客が絶えないようです。神社の創建は定かではないようで、1669年(寛文9)に社殿が建立され、1773年(安永2)には社殿が再建されたようで、こうして見る社殿は1890年(明治29)に建立されたもの。伽藍は切妻造の拝殿に向拝が付き、大社造りの本殿が建つ。鳥取砂丘が望める身干山の丘に鎮座する静かな神社で、見つめる先は出雲大社の鎮座する西を向いている。白兎神社創建 / 不明祭神 / 白兔神、配祀 / 保食神所在地 / 鳥取県鳥取市白兎603参拝を終え車に戻るとすっかり陽は落ち、道の駅の店舗も既に店じまい、駐車場も閑散としていた。まずは冷たいビールで喉を潤し、晩御飯にするか。TVを見ながら食べたいところですが、残念ながら我家の装備では電波は拾えなかった。今日一日車も人も結構動いた、お腹も満たされDVDを見ているとついつい眠気が襲ってきます。横になるためロゴスのインフレーターマットと寝袋をセット、万一の寒さに備えて電気毛布も積んできたが今晩はなしでも大丈夫。インフレーターマットは今回のために購入したけれど、布団よりはコンパクトでシートの段差もさほど気にならず意外に快適だ。寝袋に潜り込めばもう寝るばっかりだ。道の駅「神話の里 白うさぎ」所在地 / 鳥取県鳥取市白兎603番地 2021/10/24
2021.10.28
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相変わらず与党の重鎮と云われる面々の発言には失望するばかり もういい加減に議員定数削減、上限年齢は実行段階に入るべきだこうした温度差を伴う本音と思われる発言が頻繁に起きる その火消しを首相が謝罪する必要も全くない任命責任に対して謝罪するならともかく、本人が謝罪するべきところ その機会がないという事はどこまでいっても考えは変わらない現れ地道に努力する事に縁もなく、それが分からない指導者に本当に任せて大丈夫なの既に勢いの失せた過去の日本の幻影をいつまでも追いかけている場合ではない 資源はない、金もない、今の現実と将来に向け、足元を診て舵を取ってほしい支援金? 与党も野党もいつまで撒き続けられる? 求めているのはそうした必要のない国、進路変更のチャンスは何度もあった高齢議員の方々には退場願い、若手に席を譲る機会としてこの選挙に一票を投じよう 進路変更に与党も野党もない泥船に乗っているのは国民でその燃料は国民の税金 三日ほど遠出する機会があった、まぁガソリン代の高い事、EVに舵を取る機会かもしれない選挙には必ず行こう
2021.10.27
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今朝、いつものように我家の家庭菜園に水やりをしていたら何やら綺麗な色合いの芋虫を見付ける。粗〃ほかりっぱなしの三つ葉とネギの群落、視力の落ちたおやじでも分かる大きな幼虫。近頃三つ葉の葉が何者かに喰われているなと思っていたが、犯人はこのカラフルな芋虫のようだ。とにかく彼らの食欲は旺盛だ、もうすぐ終わりを迎える三つ葉の葉が見事に茎だけになって行く。そのせいか良く肥えて、周囲の色に見事に同化して身を守っている。このカラフルな芋虫の正体は「キアゲハ」の幼虫、羽化するとあの綺麗な大きなアゲハになる。街中の僅かな緑の中から成虫は三つ葉を探し、産卵、芋虫は三つ葉を食べて成長する。そろそろ菜園も次の種まきに備えたいところなんだが・・・せめて蛹になって落ち着くまでは手が入れられない。カマキリ、パンジー大好きツマグロヒョウモン・・いろいろな生き物を育む小さな菜園。手入れが悪いと思われるかもしれないが、懸命に羽化していく姿を見ると無下には片付けられなくなる。それにしても目立つ。そして歩みはのろいように見えるが、結構移動速度は早い、時に駐車場を徘徊していたりする。その都度拾い上げて戻してやるけれど、鳥の餌食にならないように見守る事にしよう。グロテスクなその姿から刺す、噛むとか悪い印象を持たれるかもしれない。大丈夫、彼らは三つ葉があればそれでいい。身近で見かけたら摘まみ上げて邪魔にならない所に移してやろう、人に何も危害は与えないので、子供と一緒に巣立つまでの過程を見て行くと何か感じるものもあるかもしれない。
2021.10.25
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以前掲載した半田市亀崎町「秋葉社」からの続きです。秋葉社を後に仲間通り方向に向かいます。写真は鳥居前を横切る細い生活道路、亀崎の奥まったところは「せこ道」と呼ばれるこうした細い道が細血管の様に伸びている。車?、車体を擦る覚悟と人の飛び出しに恐れながら突っ込む事は出来るかもしれない、一方通行も進入禁止などの規制看板も無いようですが、それは必要ないからだと思います。亀崎の町のメインストリート仲間通りから秋葉社が鎮座する小高い丘を眺める。ここまで下りると、ここから海のある左には高い所はなく平坦な土地が続きます。亀崎町には古くから亀崎潮干祭が受け継がれ、ユネスコ無形文化財に指定されています。毎年5月、町内の各組が受け継いできた5両の山車が、干潮の海辺まで曳き回されそうだ。仲間通りにはその日の出番を待つ山車を保管する保管庫が点在しています。写真は神楽車の保管庫、現在の神楽車は1837年(天保8)のもので、古い山車は元禄~享保年間(1688~1736)に造られたという。普段は扉が閉ざされ実車が見れないのは残念だ。こちらは力神車の保管庫、中に保管されている力神車は1826年(文政9)に造られたものだそうだ。このほかに青龍、宮本、花王などの山車の保管庫がある。せこ道にこの保管庫を作れないわねぇ、せこ道に車で立ち入る冒険はやめた方がいい。そのおかげで民家が立ち並ぶ「せこ道」を歩いていてもとても静か、車の騒音からも解放され、玄関先で子供達が遊んでいても安心して見ていられる。仲間通りを東へ道なり進み、亀崎町のほぼ中央に位置する場所に地域のお地蔵さん「半七地蔵」が安置されてています。各家庭の外壁に祀り管理する鬼門地蔵に対し、こうした地域で世話をする地蔵地蔵もある、そうしたお堂は、せこ道や仲間通り沿いなどの公共の道に建てられているようです。それも片隅に追いやられ建てられているとかでなく、井戸の傍であったり、道路を塞ぐように建てられていたりする。地蔵信仰が厚いのだろうか、一帯で見かける石像の大半はお地蔵さんが多く安置されている。仲町地蔵。先の半七地蔵同様に仲町地蔵も地域の地蔵。里地蔵、半七地蔵、中町地蔵など地区管理の地蔵もあれば、個人宅の鬼門封じとして祀られた鬼門地蔵など、普段の生活とお地蔵様は身近に関わりあっている。それだけに鬼門地蔵を訪れる際はモラルを守らないといけない。旧師崎街道に沿って北東方向に伸びる通りの光景。黒壁の家屋が残る光景には街道の名残が漂い、一歩中に踏み入ると漁師町の風情が漂っている。老舗の料亭や古民家を改装したカフェなどがある。そうした町並みも、建て替え時期を迎えた家もあり、町の表情は少しずつ変わりつつある。それと共に鬼門地蔵の数も減少しているようで、やがては姿を消してしまうのかな。歴史ある山車や祭りを受け継いできた亀崎の町、そんなことはないだろう。写真は仲間通りから神前神社方向の眺め。関連記事 / 東光寺、秋葉社秋葉社から力神車保管庫までは5分程
2021.10.24
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春日井市稲口町 「津島神社」名鉄小牧線春日井駅から春日井町交差点を左に進み、県道102号線(稲置街道)を少し進むと、県道から斜め左側に続く細い路地が現れる、そちらに進み名鉄小牧線の踏切を越え、その先の交差点を左に進みます。道の両側に住宅や工場が建ち、東へ真っすぐに続いています、津島神社はその道沿いの左側に鎮座しています、住宅地の中のこんもりとした杜が目印。上は社頭全景。参道入口に「津島神社」の社標と常夜灯、石の神明鳥居が建ち、境内は濃い緑に包まれています。その昔は春日井原と呼ばれ、荒れた土地が一面に広がっていた。それでも朝宮神社周辺では和爾清水と呼ばれる泉の湧水を利用して水田が開かれていった。津島神社のあるこの一帯は、尾張名古屋藩(1610年~1871年)の藩領として稲口新田とあるように、万治年間(1658年~1661年)に美濃国加茂郡稲口村(現在の関市)から移り住んだ住民により開墾、稲口新田として開かれていったという。現在の稲口町の名もそこから来ているのかもしれない。関から移り住んだ住民の多くが黄葉宗信者であっと云われ、柏井村(現在の鳥居松)の慈眼寺を檀那寺としたそうです。写真は昭和(1932年頃)と右はほぼ現在の周辺の比較。つい最近の事ながら周囲から水田は消え、宅地や広大な飛行場へと姿を変え、春日井原と呼ばれた頃の名残は微塵も感じない。参道の先には石の蕃塀が木漏れ日に照らされ白く輝いていました。社標は1927年(昭和2)、鳥居は1921年(大正10)の健之と刻まれていた。鳥居右に小さな石標があるようです。その正体は庚申塔だった。村の氏神として鎮座する津島神社、鎮座地は稲口村の西外れにもあたり境内に建てられたのだろう。控え柱の付いた石の蕃塀は1936年(昭和11)に寄進されたもの。後方に拝殿、境内右に境内社のシルエットが見える。蕃塀の欄間には両側に龍が彫られた凝ったデザイン。正面下の両端に立派な鬣の獅子、中央には虎が描かれている。下は蕃塀裏側に施された波紋。薄暗い境内で白く輝く蕃塀は津島神社で印象に残る存在です。手水鉢。清水は龍口はなく、蛇口から注がれる。寄進年度は分からなかったが、結構風化しているようにも見える。社殿全景。拝殿は切妻の妻入りの銅板葺で、丸柱を用いた梁間・桁行三間の四方吹き抜けのシックな佇まい。石垣で一段高く積まれ、直線的な切妻平入の幣殿が建ち、透塀が本殿域を囲っている。津島神社の創建時期は定かではありません、残念ながら由緒書きがありません。境内で大正以前の元号を見かけていないので推測になりますが、稲口新田開墾として人が集まり、集落を作り生活を営み始めたのが万治年間(1658年~1661年)。人が増え集落の規模が大きくなれば神も必要になるものだ、創建時期は恐らく万治年間以降かと思います。 祭神は須佐之男命。拝殿前を守護する丸っこいフォルムの狛犬は1924年(大正13)。本殿右の境内社、木の下に祀られているのが「御嶽神社」祭神は大巳貴命、少彦名命。その奥の二社は左が「国府宮神社」で祭神は大国主命、右は「稲荷神社」で祭神は豊受比賣命。本殿域全景、本殿域の様子は透塀もあり詳細は分かりませんが本殿は神明造。拝殿後方から社頭の眺め、密度のある杜が外光を遮り、境内は程よい木陰に包まれている。「賴威靈」の額が拝殿後方に掛けられているが、裏側の小枝が気になるところ。蕃塀で遮られた陽光降り注ぐ嘗ての稲口新田、その景観は当時とは全く違う世界が広がっている。木陰に包まれ静まり返った津島神社の境内だけはゆったりとした時が流れ、今も稲口村の氏神として役割を果たし氏子達から崇敬されているようだ。 津島神社創建 / 不明祭神 / 須佐之男命境内社 / 御嶽神社、国府宮神社、稲荷神社所在地 / 春日井市稲口町1-7-7公共交通機関アクセス / 名鉄小牧線「春日井」駅降車、南東方向に徒歩20分程関連記事 / 朝宮神社、慈眼寺 両社宮神社
2021.10.23
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「安名稲荷大明神」過去に掲載した「姥ケ原の八幡社」から北東方向の廻間公園を経由、公園の大狭間池の東端から右に進み東海市立名和中学校方向へ向かいます。写真は狭間公園の大狭間池南端から対岸の斎山稲荷神社方向を眺める。ここから斎山稲荷神社へは徒歩で10分もあれば辿り着ける。訪れた時期には池の畔に咲くコスモスが目を楽しませてくれた。使いまわしの地図で恐縮ですが、上は大正時代(左)とほぼ現在の周辺を比較したもの。大正時代では北方向から西にかけて新田が広がり集落が点在し、現在の狭間公園周辺は道らしい道は見当たらない。現在は新田は工業地帯、丘陵地は切り開き、宅地化された自然が程よく残る高台の住宅地になっている。大狭間池の東端から右へ、道は地味な上りとなって名和中学校方向へ続いています。「安名稲荷大明神」は名和中学校に続く道路沿いの小高い山に鎮座します。写真の左方向は今も造成が行われているのか、山肌が露わになっています。つい最近まで緑豊かな丘陵地だったようだ。道路沿いに社頭があり、社標と赤い鳥居が目印となります、とは言ったものの。生い茂った木々が鳥居を包み込んでしまい、正面まで来ないと存在に気が付かないかもしれない。やや不自然な位置に建つ社標「安名稲荷大明神」、裏には健之「昭和26年」とあり、「南里企業組合」と彫られていた。社頭から見る神社の印象はあまり訪れる方はいないようで、この山の主だろうか参道入口には一匹の猫がくつろいでいた。人慣れしているのかと思いきや、参道に向け歩き出すと、猫はどんどん石段を上り姿を消した。参道入口には5つの鳥居があったようです、奥の二本は既に朽ち果て土台を残すのみ。伸び放題の杜に包まれた参道は薄暗く、別世界に迷い込んでしまった感がぬぐい切れない。先程の猫はとうに姿はなく、幻覚でも見ていたような気にさせる。木立の隙間からさす陽射しが妙に嬉しく感じるほど澱んだ空間。参道は山の稜線に付けられているようで、左は切り立った崖、右は緩やかに下っています。参道を登りつめると二つの鳥居が現れます。正面が本殿で右の窪地には石標と朽ちた社が祀られています。右の鳥居。左の倒木が行く手を阻むように参道を塞ぎ、今にも落下しそうな予感がする。とてもつい最近倒れた様には思えない、今にも落ちてきそうでこれより先に進む度胸がなかった。見るからに訪れる方は少ないようで、荒れてる感が漂う。倒木の手前から境内の全景。一つの社と三つの石標があり、左には手水鉢もあるようだ。社に小さな鳥居も立てかけられているが、これ以上寄り切れず詳細は分からなかった。ここは諦めて上に向かう事にする。本殿の全景、左に小さな小屋があり、鳥居から先は屋根が付けられている。本殿は屋根が途切れた先の覆屋の中に祀られ、そこに至る石段が設けられています。本殿には二つの鳥居が奉納されているが、どちらも昭和57年に寄進されたもので柴田町にお住まいの方の名が記されていた。本殿前の狛狐はごく普通のもので、狐らしいフォルムをしている。先ほどの猫はひょっとして・・・少し調べて見ると、東海市の民話によると、その昔この中首羅一帯は、京都伏見稲荷大社の使いの血を引いた狐の一族が住んでいたそうです。やがて中首羅一帯に人による開発の手が入ると、一族は周辺を荒らしまわり抵抗を試みたいう。困った地元の人達はここに安名稲荷大明神を建てたところ、それ以降は狐一族の抵抗はやんだという。この民話とは別に、ここに稲荷を創建したのは、一帯に広がる新田の開発に携わった方々が五穀豊穣を願い創建したとも聞くが、どこから勧請した等の詳細は定かにならない。参道左側の切り立った崖、フェンスは付いているものの崩壊は進んでいるようです。静寂に包まれた薄暗い境内を後に外光が降り注ぐ社頭に向かう。朽ちた鳥居は痛々しい。狐につままれたような不思議な空間を持った安名稲荷大明神だった。このまま朽ち果てていくのだろうか、それと共にここに稲荷を祀った思いも風化していくのかもしれない。安名稲荷大明神創建・祭神 / 不明所在地 / 東海市名和町中首羅1-13公共交通機関アクセス / 名鉄常滑線「名和」駅下車➡蓮池「秋葉神社」➡姥ケ原「八幡社」➡安名稲荷大明神 徒歩30分程関連記事 / 伏見稲荷大社 一番畑「秋葉神社 姥ケ原「八幡社」 齋山稲荷社
2021.10.21
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前回記載した亀崎鬼門地蔵の東にある小高い丘そのものが、半田市亀崎町4の「秋葉社」社頭へは一旦、仲間通りに出て潮の香り漂う通り沿いを東に進むと左手に神門が現れます。そこから参道が続き、鳥居から先は丘の頂に向け石段が続いています。海辺の町の神社そのものの趣がある。かみさんには次の札所へ向かってもらい、一人で目の前の石段を上って参拝することに。鳥居から参道の眺め、石の明神鳥居の右に社標があり、傍らに解説板があるようだ。鳥居をくぐった左が手水舎のようです。海辺に近い住宅の密集した一帯に、玉垣で囲われた参道がぽっかりと開けられている。鳥居右の解説板「秋葉社本殿 半田市指定有形文化財(建造物)寸法 間口110㌢、奥行き120㌢、高さ127㌢当社の祭神は火産霊命で、例祭は11月16日。勧請年月日は明和3年(1766年)3月と伝えられている。本殿は天保12年(1841年)に諏訪の立川和四郎富島によって造立された入母屋妻入総欅造りの小社殿。向拝、木鼻、組物など極めて細かい細工、彫刻が施され、富島の鋭敏な刀法を知る事が出来る。富島の彫刻は半田市内の山車彫刻にも多く残されている」半田市教育委員会の解説が整備されているのがありがたい。上は玉垣前のケースの中に掲示されている文献。細かい文字で一杯かかれたそれを少しだけ読んでみた。「勧請、文化12年3月 文化3年秋葉堂として建てしもの。祭日 11月16日 所在 大字亀崎字辻由緒 元秋葉堂海潮院の管理だったが、明治3年神仏分離の際神社となる。神社明細帳に文化12年(1815年)3月勧請とあるは非なり。燈籠に天明8年(1788年)12月藤吉丸善次郎の記あり、享和4年(1804年)11月拝殿成る。本殿を祀らずして燈籠拝殿ある理なし。明和3年(1776年)正月「おしま火事」で東西に延焼する大火に見舞われる。正月20日を以て秋葉堂に於て鎮火災を執行し、遠州秋葉神社に月参せり。考えうるに其の火災を機に勧請したとすれば、創建が明和3年(1766年)なのは疑なし・・・・・」と続き、更に稲荷社について記述がある。「稲荷社」祭神 倉稲魂、猿田彦命、大宮女命勧請年月不詳元は海潮院の管理だったが、神仏分離により明治3年、伏見稲荷の分霊を奉じ祭神とした」秋葉社の燈籠寄進年度から創建年度について考察がいろいろ書かれている。ここは教育委員会の由緒を引用しよう。亀崎は「お志ま火事」と「里火事」の二つの大火に見舞われているようだ。それを機に秋葉社を勧請し、以来この町から大火は起きていないという。正にこの地の火伏の神である。亀崎には複数の山車が受け継がれ、山車の保管庫をあちらこちらで見受けられる。80段ほどの石段は、気持ちいいくらいに真っすぐ上に続いています。下からではその先にある社殿の屋根の一部が見える程度。正に一直線。傾斜はさほどではないし、手摺もしっかり整備されている。漸く社殿が全貌を現す。境内全景。正面が秋葉社の拝殿、左が稲荷社の伽藍。瓦葺の切妻屋根の平入拝殿はさほど大きくないけれど、外観は唐破風により見た目より大きく立派な印象を感じる。大きな額は「正一位秋葉大権現」と記され、瓦にはもみじの紋が施されている。中の様子を窺うことは出来ない。勧請年月日は明和3年(1766年)と伝えられている。御祭神は火産霊命。例祭は11月16日。秋葉社左の稲荷社。切妻瓦葺で妻入りの堂は向拝が付く。鳥居前に一対の狛狐狐達の姿は健康的な容姿。痩せこけた悲壮感が漂うものではない。稲荷社拝殿内祭神 倉稲魂、猿田彦命、大宮女命勧請年月不詳稲荷社拝殿から境内を振り返る。鳥居は大正12年(1923年)奉納のものだった。この丘から海が望める南の眺めは下に港町亀崎の街並みとその先に海が広がる、なかのもの。津波や高潮が想定される時には、ここまで駆け上れば長い歴史を持つ秋葉さんが守ってくれそうだ。何を縁起でもないと思われるかもしれない、しかし仲間通りには上の写真の様に伊勢湾台風の時に浸水した水位を示す看板がたてられていた。都合の悪い事は忘れたいものだけれど、これは紛れもない事実として風化させてはならない指標だ。神社に戻ろう、社頭の解説にあった天明8年(1788年)の燈籠を探して見るも直ぐには見つけられなかった。写真は階段降り口左で見かけた石標。解説にある写真の形態で古びた燈籠、その視線で境内を見渡してみたが見落としてしまったようです。とはいえ、それほど長居もできない、そろそろ下りて先に進む事にする秋葉社境内から見下ろす。なかなかいい眺めです、眼下には火伏の願いを託された亀崎の街並みが広がっています。嘗ての海も埋め立てられ潮干町となり、ひと昔前に比べ、間近だった海は随分と視界から遠のいた。家々が寄り添うような亀崎の街並みも時代と共に移り変わってきたものの、一度禍が起れば今も昔も変わる事はない。亀崎の火伏を託された秋葉さん、これからもここから見守り続ける事だろう。2021/09/24「秋葉社」創建 / 1766年(明和3年)祭神 / 火産霊命例祭 / 11月16日「稲荷社」創建 / 不明祭神 / 倉稲魂、猿田彦命、大宮女命所在地 / 愛知県半田市亀崎町4-80関連記事 / 亀崎鬼門地蔵
2021.10.19
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名古屋市瑞穂区中根町3県道221号線弥冨通りの「弥冨通4交差点」から南方向に5分程下った閑静な住宅街に「東八幡社」の杜が見えてきます。以前掲載した西八幡社は中根城を守護する西の鎮守、西があれば対になる東の鎮守がここ東八幡社。中根城の中核ともいえる中根南城には北條八幡社が鎮座しています。静かな住宅街に鎮座する「東八幡社」傾斜地に建てられた「西八幡社」とは趣が違い、東八幡社の境内は石段のないフラットな社地。ほぼ南を向いて鳥居を構え、狛犬、社標が建つ主参道と社地東側に鳥居を構えた東参道があります。社頭から境内の眺め。大振りで筋肉隆々とした狛犬。その先に石の明神鳥居その先が拝殿。鳥居前の狛犬、子と毬を持ち上品な彩色が施されている。寄進年度は見ていないけれど、好感度は高い。石の明神鳥居、額は「東八幡社」とある。手入れされた綺麗な境内には石灯篭が多い印象がある。手水舎は鳥居左にあり、柄杓も置かれ、龍口からは絶え間なく清水が注がれている。つい最近まで庭の水やりにも気を遣っていたのに、久し振りに水に触れ、随分と水も冷たく感じられるようになってきた。昨今、憂いに満ちた龍の表情が多かっただけに、心なしか晴れ晴れとした龍と出会った。東八幡社社殿全景。左に社務所、正面の入母屋瓦葺の建物が拝殿、奥に入母屋平入の幣殿、本殿の伽藍のようです。拝殿全景。周囲は厳重に柵で囲われ、手前の拝所から参拝するようだ。拝殿前の狛犬、鳥居前の狛犬同様のフォルムで彩色が施されているが、子や毬は持っていない。正面に橘の紋が入った「祝 創建500年 東八幡社」の幟が立てられている。創建500年、1521年というと戦国時代の大永元年になる、武田信玄が生まれた年。拝殿右に東八幡社御由緒「当神社は本社に応神天皇を祭祀。末社金刀比羅社に大物主命、東山神社に大山祇命、秋葉社に軻遇突智神、白山社に菊理姫命、金峯神社に役行者を奉祀します。往古よりこの地に八幡宮が鎮座し、正徳3年(今から273年前以前の創建)、又字牛山に東山神社、字大根山に白山権現社が鎮座しましたが、明治10年(1877年)10月に東山神社、白山権現社を当神社境内に遷座。同時に当神社名を東八幡社に改称。昭和4年(1929年)に境内地を拡張、翌5年に社殿を新築整備し現在に至る」「西があれば東だろう」そんな安易なものではないかもしれないが。拝殿は四方吹き抜けで社殿全体に通じるけれど派手な光物を避けたシックな佇まい。拝殿内に立派な「東八幡社」の額が掲げられている。それにしても厳重に柵で囲われているもんだ。拝殿から屋根続きで幣殿に繋がっている。幣殿から渡廊で流造の本殿まで繋がっている。本殿の全容は掴めないけれど、擬宝珠の付く高縁が三方に施され両側面に脇障子を持つもの。脇障子に彫が施されているのですが詳細までは見て取れません。社殿後方から本殿の眺め。妻飾りの緑青の渋い色合いがシックな外観にあっている。本殿後方から拝殿方向の眺め。高く積まれた石垣と透塀もあり、本殿域の様子は窺うことはできません。透塀と社殿全体の佇まいは、落ち着いた趣でいかにも神社という感じです。拝殿から本殿方向。ここから見ると拝殿を囲う柵が神社らしい佇まいに水を差している感じがして残念な気がする。本殿左に由緒書きにあった境内末社が鎮座しています。右から金比羅社、秋葉社、東山神社、白山社、少し離れて金峯神社がある。一番右手の石碑は棒の手見当流の碑。棒の手は県内で農民の武術として発達し、その後神社への奉納を主として受け継がれている。各地域で様々な流派がある。金峯神社だけが少し離れてお堂の形で祀られている。境内末社と本殿。こちらの神社は社名札や各神社の祭神、御神徳がペライチで纏められ、参拝に訪れた者にとっては分かりやすく「とりあえず拝んでみた」という事はない。こうした事が風化していくと身近な存在から徐々に縁遠いものになっていくような気がしてならない。上境内東の脇参道、この左に神馬が安置されている。社標や神明鳥居ともに大正時代に寄進されたもの。下境内から正参道方向の手水舎、鳥居の眺め。東八幡社創建 / 不明祭神 / 応神天皇境内社 / 金比羅社、秋葉社、東山神社、白山社、金峯神社所在地 / 名古屋市瑞穂区中根町3-40北・中・南(北條八幡社)・東八幡・西八幡徒歩ルート / 市営地下鉄名城線「瑞穂運動場東」駅から南へ関連記事 / 西八幡社、「北條八幡社と中根南城」
2021.10.18
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秋を彩るケイトウとコスモスの花がピークを迎えています。岐阜県可児市の花のテーマパーク「ぎふワールド・ローズガーデン」、3万000株といわれるケイトウの花が見頃を迎えています。江南市の木曽川河川敷にあるフラワーパーク江南もコスモスが綺麗に咲き誇っています。どちらも見頃のピークを迎え、あと1週間ほどは目を楽しませてくれるのでは。関連記事 / 「138タワーパーク」 0528 part2
2021.10.15
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2021/10/9~10ポートメッセ名古屋1号館で開催された「名古屋キャンピングカーフェア2021秋」、今回はそちらの様子を掲載する事にします。あおなみ線金城ふ頭。当日は休日という事もあり、電車を降りると人波はポートメッセ方向とレゴランド方向に大きく2つに分かれました。キャンピングカーフェアに向かう人波が意外に多く、コロナ禍で需要が増えたアウトドアや車中泊に興味を持つ人が多いのがこの事でも分かる。久し振りに訪れた会場、キャンピングトレーラ―、キャンピングカー、軽キャンパー、自動車メーカー特注など場内に目移りするほど展示されていた。目的は現在の車のシートをフルフラットにした時の快適性向上と車内改造のヒント。それと数年後に一台にした場合の候補(市中の取り回しが楽、二人が快適に車中泊可、ランニングコストの安い物)を探すのが主目的。そもそもの目的を見失いそうな会場だ。 トレーラータイプ。相場価格は700万からか、自動車が付かない分、室内は広く、豪華そのもの。トイレあり、シャワーありの至れり尽くせりの仕様。軽で引いては行けまい。やはり主流なのは商用バンを改造したもののようだ。上は良く見るもので運転席後方を居住・就寝スペースとしたもの。相場は500万からか。但し、オプションは山ほどあり、贅沢すれば天井知らず、車重は増え放題。下はここ数年の流行、軽ワゴンを改造したもの。限られたスペースなので宿泊目的なのか、宿泊し滞在する用途なのかにより就寝スペースは変り、一人といってもいいだろう。ルーフに開閉式テントを設けたものは、一人当たりのスペースはゆとりがあるが、車外から梯子なり、室内天井の穴ポコからルーフの昇り降りとなる、それをどう捉えるか。若い頃ならありだろうが、かみさんは「絶対いや」という。軽だけに重量増加で走行に与えるストレスや燃費低下がどんなもんだかも想像できない。主流はターボ付きの四駆となるのも当然だろう。我家の足はターボの付かない、なんちゃってハイブリットの軽四駆で、カタログ燃費は1liter30kmだとか34だとか夢の様な現実離れした数値が書かれている。けれど、普通に走ってもカタログ値の6割位、liter18km程度が実情。こうした用途の車だけに、せめて燃料タンクが1.5倍くらいあれはいいのだが。やはり現実的なのは就寝スペースの快適性に特化した車種かも知れない。こうした車はマットなりパネルでフラットな室内を確保するもので過剰な装備は付かない。価格的にも買い替えに伴う予算は現実的なものとなる。軽にしてはどうなんだと思う金額たけど、近頃の軽は安い物ではないだけに、こんなもんかと納得できる範疇。結構軽を改造したものが多く、会場の一部にはキャンプコーナーもあった。テントに関して今年は色々問題があり、補修なりしたが、10年以上使い回したものの代替えを考えているけれど、就寝スペースでマットを敷いて寝るものから、近頃のものは地面剥き出しでベッドで寝るのが多いようで、サイトによっては蟻やダニなど不快な虫もいたりする。虫嫌いのかみさんの評価は低い、雨天など考えても同意見だ。やはりグランドシート付のものがいい、ゆっくり考えよう。こちらも軽ベースのもの。棚やシンク、レンジ付き(携帯バッテリー付き)で一見魅力的。寝相の悪いおやじはあっちこっちぶつけそうだ、果たしてどれだけ使うのか冷静に考える余地がある。セカンドシートに板を張りフラットな室内を作るもの。ルーフテントで4人まで就寝可とある。テーブルは良いかもしれない、オートキャンプだとこの大きさは物足りないか。既存のシートはそのままにマットを展開しフラットにしたもの。今の凸凹シートの打開策はこの方法かもしれない。敷布団やエアマットを膨らませて使用しているけれど、エアーマットは寝返りを打つたびに音がする、一枚だとそのたびにパートナーに揺れが伝わる。最近は一人用のエアマットを使用している。折りたたんだシートの上を板で覆っている。支えはヒンジなのね、マットは裏から見ると仕上げが気になるところ。板とクッション材と表皮を張ってタッカーで止めれば作れそうだ。これなら車体に穴あけは不要か。バックドアはベースとなる箱の組合わせでその上にボードを置くようだ。これも車体に穴あけは不要で行けそうだ。折り畳みのサードシートは取ってしまうか(違法車両となるが)。車検の際には戻せばいいか。メーカーオリジナルの車両も展示されている。新型のD5をベースにルーフテントが付いたもの。この車は運転席、助手席が回転可能。このシートは是非とも欲しい、スペースギアに付けれないか相談したいところ。前の二席が180度回転すると狭い空間にゆとりがもてるし、セカンドシートをテーブルにすることで軽食も摂り易い。これはいいよな。昔は電車の座席の様に前後反対にできたものだ、やがて単独になり、豪華になりボコボコしたものになって坐り心地はいいものだが、使い勝手は悪くなった気がする。この仕様にするために失うものもあるけれど、どれだけ必要か天秤にかけるとこちらの方がありがたい。車種によっては標準でもいいと思う。D5でこの値段かぁ。標準ルーフでいいのでもう少し装備が何とかならんものか。値段に含まれないオプションが多く、これもやりだすと高いものになりそうだ。比較的我が家で受けたのがこの形態。ほぼノーマルに近い姿で邪魔なものの出っ張りは少ない。これも普段はボードを外し荷室に収納するタイプ。これくらいが現実的でいい。荷室スペースがあれば携帯バッテリーも温水器や家電は収納すればいい。二人ならルーフテント不用、背面キャリア不用、少しは軽くなる。ハイブリットなので軽くらいは燃費は伸びるだろうし、タンクも少し大きいはず。冬はエアーヒーターがあるので助かるだろう、夏は冷風機かサーキュレータがあればいい。我家のニーズは現実味のある選択として先の1車とこれかもしれない、欲を言えばもう少し最低地上高が欲しいかな。ただ前記のものは外国製、外車は過去の事例からトラブルが多かった、二度と買いたいとは思わなかった。使いたいときに確実に動き、多少の悪路だろうが、雪が降ろうが戻ってこれるものが一番、車は道具としか見ていないので、妙な自動制御は要らないし、パワーなんちゃらも不具合要因が増えるだけ、個人的には余計なおせっかい的な存在かも知れない。トレーラータイプも昔から出ているけれど、比較的コンパクトなものとして一枚。車検や駐車スペースに余裕があればいいかもしれない。軽では牽引できないナ。これ面白い車、軽トラの荷台を改造したものでパッと目キッチンカー。荷台側面の扉を倒せばテーブル、その上に収納式のタープが付く。軽トラベースなのでセカンドシート等考える事無く限られた容積を使う事が出来ている。普通の軽乗用車の重量に対しどれだけ重量があるのか興味のあるところ。遊びに特化した用途であればありかも知れないが、日常使いでスーパーに買い出しするには面倒で歩いてしまいそうだ。これからもガソリンスタンドは減っていくだろう、やはり燃料タンクの容量は気になるところ。今回各ブースを見て、所有する車のリフォームの方向性が決まったように感じる。パイプフレームで作るベッドスペースには抵抗があっただけに、木をベースに寝台を作る。これでいこう、サードシートも重たいだけで、今は不要なのも同意は得られた。直ぐに脱着できる方法を考えてみようと思う。回転シートにしても三列目取り外しにしても改造申請は必要だろう、メーカーに一度相談だ。
2021.10.14
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江南市小折東町旭「松杜(まつもり)天神社。過去掲載した、嫩桂山 久昌寺から南の神明社を経由しても徒歩5分ほどの県道171号線沿いに社頭を構える。社頭前を東西に延びるのが県道171号線(小折一之宮線)。通りに鳥居が建っているわけではないので、車で走っていると通り過ぎるかもしれない。県道の南側に松杜天神社の駐車場があり、車の場合こちらに駐車すれば安心でしょう。古い町割りのこのあたりに、路上駐車する余地はありません。県道南側から松杜天神社全景。西角から松杜天神社と神明社方向を眺める。入母屋瓦葺社殿は神社というより寺の趣が強い外観です。社頭から境内の眺め。郊外の立派な個人宅に迷いこんでしまった錯覚になる。左が社務所。境内に入り左手に神明鳥居とその先に本殿。この姿を見て漸く安心できた。コンパクトな社殿で鳥居から短い参道が拝所まで続く、参道と境内の庭はとても手入れが行き届いている。右手に社号標「式外 松杜天神」とあり昭和21年寄進のもの。本殿は入母屋瓦葺の妻入りで向拝が付く。手前で狛犬一対が守護する。参道左の石は良くわからなかった、なんとなく石仏でも彫られていたような趣です。参道は左の手水鉢に続き、鉢には龍もいるのだがこちらも例によって休業中。本殿前の狛犬、奉納年度を見忘れ年代は分かりません。妙にこてこて塗りたくっていない姿は好みのもの。向拝から本殿の眺め。鬼瓦などには天神社らしい梅鉢の紋が入っています。向拝に掲げられた額、鈴紐は下ろされていました。松杜天神由緒より「松杜天神社は尾張国、江南市小折東町旭の里に鎮座する。御祭神はくすりの神様として知られる少名毘古那神を祀る神社で、創始年代は社伝によれば、壱千有余年前、第五十四代の仁明天皇(810年~850年)の御宇、承和年間と云われ「従三位松杜天神」として記載される由緒ある神社。往昔より武将の崇敬篤く、当地は内大臣織田信雄の出生地にして天正十二年小牧山合戦の際、徳川家康と共に織田氏が当神社に祈願したと伝わる。徳川氏の代に至っては領主生駒左京之進藤原家広氏を始め、因幡守利豊氏から篤く崇敬され、神殿造営に際して木材の寄進を受けていたという。現在の社殿は昭和二年三月改造され、平成五年三月に屋根等の修復を受け現在に至る。宮司山田家は二十余代の社家で神祇統領白川家より山田和泉守の称号を許された代々の神官として由緒ある家柄である。霊験 往昔より脱腸(ヘルニア)封じ、リュウマチ封じ、神経痛封じ、虫封じ、その他諸病に霊験あらたかで、祈願に訪れる人は多い。現在は諸病平癒はもとより学業成就、家内安全、交通安全などの祈願に訪れる人が多い。主な祭事 大祭(三月)、輪くぐり祭(七月)、月次祭(毎月二十五日) 交通 名鉄犬山線布袋駅下車南約1.5㎞ 松杜天神社社務所 愛知県江南市小折東町旭16番地」創建年代は随分古いようです、御神徳は今のおやじとかみさんにはとてもありがたいもので、ここは真剣にお願いしておこう。大正14年の奉納額「松杜天神宮」と平成に入ってから奉納された絵馬の額、躍動感のある綺麗なもの。拝所から本殿方向の眺め、無数の奉納提灯が吊るされている。天神という事で梅はあちらこちらで視界に入ってくるけれど、管原道真というより天神信仰が強いような雰囲気がする、境内では撫で牛も見られなかった。承和年間と云われる創建年に対し、後に天神様として神格化された道真は時間軸に少し違和感を感じる、古い記録を見て行く必要がありそうです。由緒にも祭神は少名毘古那神(一寸法師のモデルとか)とあるが道真の名は出てこない。本殿全景。手入れの行き届いた庭木は社殿を囲い、社殿と本殿の全容は掴みにくく、本殿はこの社殿の中かもしれない。参拝を終え、松杜天神社から県道の南を眺める、そこにもこんもりとした森が見えています。細い路地をそちらに向けて歩いて見ます。松杜天神社創建 / 不明祭神 / 少名毘古那神所在地 / 江南市小折東町旭16番地関連記事 / 嫩桂山 久昌寺、神明社 、龍神社、生駒屋敷跡久昌寺➡神明社➡松杜天神社 徒歩ルート / 南へ徒歩5分程
2021.10.13
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二日ほど前の事かみさんが「わさびふりかけ自主回収」の話題を持ち出した。それは某大国から原材料となるワサビの茎を輸入していた輸入元が、日本未承認の添加物を含んでいる事を検出した事から、その原材料を使用して作られたメーカーのわさびふりかけが自主回収に至っているという。ワサビふりかけは我が家では欠かせないアイテム、かみさんが在庫確認し当該品の在庫があり、某メーカーに回収方法をメールで問い合わせたところ、メーカーの電話対応者から「この情報はどちらでお知りになりましたか?」と問いかけられたそうな。某メーカーサイトにはそうした案内はなく、「消費者庁のリコールリストから・・・・」と話を始めた所で初めてリコールの内容、有毒性の有無、回収の段取りについての話に入っていったそうで、やまと運輸が回収、後日QUOカードで代金返却が流れのようだ。メーカーによってはサイトでそうした案内をしっかり出しているところもあり、温度差が現れている。また、販売店も同様で当該品を買ったスーパーに行ったところ、昨日時点でも販売されていたそうだ。かみさんが「これ自主回収入っていますよ・・・」と教えたらしいが、スーパーの窓口はその事を知らないようで、「担当者を呼んできますのでしばらくお待ちください・・・・」という対応だったから、そのままスーパーを後にしたらしい。その後店頭から当該品が姿を消したかどうかは知らない、けれど某大国産塩蔵茎わさびを使用して作られた製品は21社にもおよび、こうした大国の原材料を使った製品はしばらく目にすることはないかもしれない。日本の食品衛生法で認可されていないというヨウ素化塩、メーカー対応やスーパー対応含め、知らぬが仏的なレベルのもので大騒ぎするような話ではない。団塊の世代の自分たちはもっと〃すごい物を摂取してこんなに大きく育ってきた。今更驚くことはない。某大国の安価な原材料を使用して製品化された安価なワサビふりかけ、それがしばらく消える事の方が正直困る。ご自宅の在庫品が自主回収対象なのかは消費者庁リコール情報サイトで一杯でてくるので、対象ならばメーカーに問い合わせれば簡単です。一律どのメーカーも同じQUOカード対応のようですが、自主回収のインフォメーションは先に書いたように温度差を感じるものです。消費者庁リコール情報サイト自主回収輸入元コメント・・・・・どんだけ某国に依存して日常が成り立っている事やら。体への有害性より某大国への相変わらずの不信感の方がインパクトが大きい・・・・我が国もおんなじですが。メーカーも気の毒だけど一番気の毒なのは輸入元だろう。そもそも、このことを知るきっかけは全く別のところにあったのだが。2021/10/13メーカーから依頼された宅配業者の引き取りがあってから、そのことすら忘れていた今日、郵便配達で代金相当のQUOカードが送られてきた、購入価格以上にあたる300円のカード。カードともに以下の文書が同封されていた。数百円のふりかけの回収にしては宅配業者、QUOカードその他予算外の出費だろう。過去の事例から隠蔽すれば、何倍にもなって戻ってくる。「個別対応で行きましょう!」どこぞで聞いたことがあるが、家族の口に入ると思えば、これはあってはならない。危機管理の出来た組織は対応もしっかりできているものだ。当該品撤去の遅れていた店頭からはこっそり消え、国産原材料のものが並んでいた。
2021.10.10
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2021/10/9~10ポートメッセ名古屋1号館で開催されている「名古屋キャンピングカーフェア2021秋」に行ってきます。今年もコロナ禍で遠出が出来ず、年初にたてた年間計画は悉く見送り。そんななかでもキャンプや車中泊で行く事は行ったものの、行けば行ったでそれらに対する問題点は出てくる。昔から二人の中ではキャンピングトレーラやキャンピングカーの話題はブームになったり消えたりを繰り返してきた、今回も再燃したという事だろう。コロナ禍で需要拡大し、色々改良されたであろうキャンピングカーの実情、写真や動画では分からない事を実際に見てこようと思います。
2021.10.09
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ここんところ話題になっていた通知書が配送されてきた。普段見る事のない通知書、上半分だけめくって見た。間違いなく他人の振込先。そもそも機構発足の背景含め、国も機構も丸投げの他人事なんだろう。事あれば頭下げれば時間が解決するくらいなんだろう。マイナンバーとてどんなもんだか。多様なものに紐づけるなら信用に値する担保を見せて欲しいものだ。失墜した信用の回復は行動しかないのだが。取り敢えず、人様の情報を興味本位で開く必要はない、全開封することなく即刻人力シュレッダーへ。
2021.10.09
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東海市名和町姥ケ懐、「うばがふところ」と読めばいいのかな。県道55号線竜ノ脇交差点から左に入ると直ぐに大手ドラッグストアが左に見えてきます。東から続く台地の西の外れにあたり、住宅地の中に鎮座するのが「姥ケ懐の八幡社」傾斜地故に周囲は写真の様に石垣が積まれ、フェンスで囲われた社地が広がる。境内の一部が「上名和ちびっこ広場」になっていて、住宅が広がる一帯にあって、境内は子供たちにとって自由に走り回れる場所、姥ケ懐の由来は分からないが、この地、この場所はあたかも姥に見守られているような住みやすい場所を指しているのかもしれない。入口となる鳥居は右手方向になります。鳥居前から八幡社の全景、社標は見当たらなかった。木造の明神鳥居の先に玉垣で囲われた本殿域が見える。境内の大きな楠が本殿の覆屋のようでもある。境内に入って左に手水舎、手水鉢、右に遊んだ後の手洗い場が並ぶ。簡素な手水舎ですが鉢をみると結構年代物のようで、はっきりと読み取れないけれど宝永(1704年~1711年)の元号や、左に「中?村」と彫られている様に見える。明治に入り、当時の4村が町村合併で一つとなり名和村となったけれど、その中に「中?村」なる村は見つからなかった。大正、昭和の創建ではなさそうですが、境内に由緒書きがないので創建は不明。境内右に一社。入口に石標もありましたが、文字が刻まれているでもなく、こちらの詳細も分からない。八幡社本殿域。外周はフェンスで囲われ、中は石垣で一段高く盛られ、枝ぶりの良い大きな楠の下に鎮座する。この神社に狛犬はいませんが、後方の二本の松の古木と楠の巨木が本殿を守護している様に見えてくる。広場で遊ぶ子供たち、大きく伸びた枝は程よい木陰を提供している。玉垣で囲われた本殿域、板宮造りのシンプルなもの。祭神は応神天皇(誉田別命)本殿域右に小さな社が祀られているが詳細は不明。一部に手が施された玉垣には、「村中安全」、「修復工事 昭和五十九年九月」と刻まれていた。大部分のものは更に古いようだが年代までは分からなかった。氏子達の目も行き届いているようです。敷居の高い神社に対し、子供達の遊びの場に佇む八幡社。彼らが成長し子供の頃を振り返った時、この神社の事を思い出し我が子と共に訪れる時もあるだろう。それにしても昇り応えのある楠だ事、今は絶滅した「かみなりおやじ」に良く怒られたものだ。そんな場所も今はない。さて、ここ姥ケ懐の八幡社は八幡社貝塚として市指定史跡にもなっているようです。境内には写真の解説板がありそれを伝えています。八幡社の社地から見つかった貝塚、ここからは弥生時代中期(約2,000年前)の土器や石鏃をはじめ、室町時代(約500年前)にかけての土器や瓦などが出土したといいます。上は大正時代の八幡社(青地に赤文字)、靑マーカーは一番畑の秋葉神社。海岸線が目の前にあった当時の人々は、八幡社東部に続く丘陵地に定住し、南西の平地で稲作をしていたとされ、海では貝などの海の幸、野山で獣や山の幸を採り生活していたのだろう。住むには良い場所だったようです。やがて街道が整備され、村は町となり水田は工業地帯に様変わり、丘陵地には住宅が立ち並ぶ。今後も町は変貌していき、奥に入った古い町割もやがて消えていくのかもしれない。姥ケ懐の八幡社(八幡社貝塚)がそうした流れに飲まれない事が望まれる。2021/09/23姥ケ懐の八幡社(八幡社貝塚)創建 / 不明祭神 / 応神天皇(誉田別命)所在地 / 東海市名和町姥ケ懐82-5関連記事 / 一番畑の秋葉神社公共交通機関アクセス / 名鉄常滑線「名和」から南東方向へ徒歩で15分程 (駐車場なし)
2021.10.08
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知多四国巡りで亀崎を訪れた際の事、先回掲載した東光寺から次の札所に向かう道すがら、東光寺に続く坂「弘法坂」の手前に小さなお堂を見つけました。亀崎町内で多くの地蔵を安置した祠を見かけることになり、今回はこの地蔵について。亀崎は古くからの町で、漁業や回船、醸造などが発祥し、それらが町の発展に寄与した時代もありました。特に現在の海岸線を走る国道から一本中に入った仲町通りの道筋や街並みに昔の名残を感じます。こうした場所に普段見かけることない光景が目に入ってきます。それは少し古めの民家で見かけます、屋根神様のように、建物の壁面に小さなお堂が作られ、そこには地蔵が祀られている光景です。中には新築間もない民家でもお地蔵様のスペースが与えられていたりする。こうした地蔵は鬼門地蔵と呼ぶそうだ。自分自身鬼門や風水は気にしない方、鬼門とは鬼が出入りすると云われる北東の方角を指し、陰陽道では古来から忌み嫌う方角。この亀崎には家々に鬼門にあたる場所に祠やお堂が祀られている。それらは一部を除き公共の物ではなく個人所有のもの、ずか〃入り込んで写真を撮るのは少し違うかもしれない。そんな個人所有の地蔵ですが、町内各所や町内の井戸あたりに公共の地蔵が祀られています。今回は亀崎の鬼門地蔵を取り上げます。上は弘法坂の手前左に祀られた地蔵堂。これは公共の地蔵だと思われます。このお堂から左手の小高い高台にある秋葉社を目指し歩いていきます。路の右隅に井戸があり、その傍らにもお堂が建っていました。井戸は現在も生きていて、防災用としての役割を担っているようで、亀崎ではこうした道端に井戸を見かけます。この地蔵は恐らく地域の地蔵だと思います。こうした地蔵堂、JR亀崎駅から東光寺までの比較的区割りの進んだ地域では目にしませんでしたが、東光寺から弘法坂を下り、古い区割りの細い路地に入るにしたがって目につくようになります。車では通れない、人もすれ違うのに気を遣う細い路地、地元では「せこみち」と呼ばれることもあるそうです。地蔵さんのアップ。帽子や前掛けをかけられた地蔵さん、その表情はそれぞれ特徴があり、このお地蔵さんの表情はなんだかこちらを見てに「ニヤッ」とほほ笑んでいるように見える。井戸は日常使いとして利用されているのか分からないけれど、日常使われているとすれば井戸を中心とした交流の場となっているのかもしれない。これらのお地蔵さまに供えられている花を見ても、枯れたものはなく、日々世話をしてもらっているようだ、人の集う身近なところにお地蔵さまがいる、個人宅の鬼門地蔵はもっと身近な存在なんだろう。新しい住宅が増え街並みは変わろうとしているけれど、それでも黒壁の建物が残る街並みに鬼門地蔵の祠のある光景はなくしてしまったひと昔前の光景を見るようだ。なんとなく、道端で道祖神を見かける信州でも歩いている感覚になる。道草ばかりしてられない、かみさんは次の札所に向けどんどん先を行く。おやじは目の前の高みに鎮座する秋葉社に参拝しておきたい、こんどゆっくりみて回る事にして先に進もう。鬼門地蔵東光寺からの道筋 / 徒歩2~3分関連記事 / 知多新四国八十八箇所霊場 番外 西山浄土宗 亀宝山 東光寺
2021.10.06
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江南市小折町八竜地名からしてなにかを物語っている。久昌寺西側に広がる水田の先に見える杜が久昌寺と所縁のある「龍神社」の杜。水田に浮かぶ緑の小島の存在は、そこに神社がある事を物語っている。「龍神社」、尾張名所図会に描かれた久昌寺には左上に八代竜王社として記されている。生駒屋敷跡・小折城跡で記載したようにこの辺りは小折城西の丸にあたり、そこには吉乃御殿と記されている。社頭の前が信長の側室生駒吉乃の御殿で、正室との間に子宝に恵まれなかった信長に、吉乃は信忠、信雄、徳姫と時代の流れに名を残す三人の子を産むが、産後の肥立ちが悪く二十九歳の若さで他界する事になった。信長と吉乃の逢瀬の場でもある。上は尾張名所図会に描かれた久昌寺、黄色がやがて取り壊される久昌寺、赤が神明社、左上のピンクの部分が八代竜王社。周辺の景色は変わったけれど、それ以外は現在も当時の面影を留めている。竜神社社頭。明神鳥居の先に木造の蕃塀、拝殿の伽藍が連なる。社頭左に石碑と二つの解説板。上村瀬健次郎公碑下龍神社の由来生駒氏の氏神であり、信雄(信長側室吉乃の次男)の守護神でもある。祭神は八台龍王。境内社として知恵乃文殊社と源太夫社の二社がある。護国豊穣の祭りは、大幣を飾り付けた奉納馬を疾走させる勇壮なもので、太平洋戦争中頃まで盛大に続いた。埴原塚の由来埴原家は八条流馬術の名手「埴原加賀の守」の葬地であり、龍神社前にあったが、土地改良事業の実施に伴いここに移された。埴原加賀の守は諸国を武者修行中、鷹狩りに来ていた信長に召し抱えられ、後に清州の城代となる。岐阜城落城直後、信長に「天下布武」の朱印状を与えられている。慶長三年(1598)に没す。鳥居正面が吉乃御殿跡、現在社務所が建つあたり一帯が御殿だったという。そこには小さな池と御殿の解説、力石と呼ばれる石が置かれています。吉乃御殿跡夫、土田弥平治(源太夫)を、1556年明智城の戦いで亡くし、喪に服した吉乃の前に現れた尾張の荒武者、織田信長。二人は、ここ吉乃御殿で逢瀬を重ね、信忠、信雄、徳姫を授かるが、産後の肥立ちが悪く吉乃は二十九歳の若さで信長の願い空しく世を去ったといわれる。口軽な小者であった、木下藤吉郎の人材を見抜き、信長と秀吉の「絆」となった吉乃は、近世の扉へと時代をいざなった。力石の由来祭礼時、生駒氏が家臣の者にこの石を担がせ、力試しをさせて五穀豊穣を願ったと伝えられる。また、この地の門左衛門氏が音頭をとった事から、門左衛門石ともいう。御殿跡に残る小さな池「雨壺池」と呼ぶそうな。雨壺池の由来一面池であったこの地に農民が水田を作った折り、干ばつに備える雨壺として残された。厳しい干ばつの年、雨壺の水を運び、幼川(五条川)の水を入れ替え、持ち帰ると龍が暴れ狂って天に昇り、一転俄か雨を降らせたと伝えられる。禅喜寺(後の久昌寺)の池に八大龍王が現れたという。水神社の碑文と符合すれば至徳年間(1384~1387)足利義満(三代)時代以来の伝承である。下に出てくる解説によれば昭和30年頃まで清水が湧き出していたという、その沸き水も今は止まってしまったようだ。社頭から境内の眺め、右に社標「村社 龍神社」周囲は杜に包まれているが、境内は空が開けて陽光がふりそそぐ明るく、手入れされた境内と相まって身を置いていても心地がいい。控え柱の付く木造蕃塀は社殿とマッチした重厚感漂うもの。入母屋瓦葺のこれは、拝殿か神楽殿か。尾張名所図会に八大竜王社とあるように、『八大龍王』とは天竜八部衆に属する竜族の八体の竜王を(竜神)指し、難陀、跋難陀、娑迦羅、和修吉、徳叉伽、阿那婆達多、摩那斯、優鉢羅の各竜王のことです。仏法を守護するとされ、日本では「祈雨・止雨の神」ともされます。龍は蛇を想像させる想像の生物ですが、古来から「水の神」として信仰され、竜神に食べ物や生け贄を捧げたり、祈りを捧げる雨乞いが頻繁に行われてきた。幣殿前にはニノ鳥居と一対の狛犬が守護している。龍神社は江南市や氏子による解説が整備されていて、初めて訪れた者にはありがたいものです。境内清掃をされていた神職?の方の話によれば「吉乃が納めた棟札も残る」と伺った、そして是非とも知恵の文殊菩薩にも参拝くださいと勧められた。境内右に鎮座し拝殿方向を向いて石の祠が祀られ、左に絵馬掛けがある。【智恵の文殊菩薩】本尊の文殊菩薩は、釈迦如来の脇侍としてお釈迦様の傍にあって智恵を司る仏である。言い伝えによると、信長の家臣土田一族が屋敷に祭祀していたものである。昔より大願成就霊験あらたかで、願い事を三回となえ、望み紐に願い事を書いた紙を縛り、日参を重ねると文殊の智恵が授かり、学業成就出世間違いないと言い伝えられている。【由緒】本国帳には従三位小田天神とあります。現存する最古の棟札によれば、元和8年(1622年)岡崎城主徳川信康(家康の嫡男)の正室見星院(徳姫)と、生駒利豊(吉乃の甥)の再建となっています。生駒氏の氏神で織田信雄(信長の二男)の守護神でもある。往古より早ばつの時に村を上げて雨乞いをし、霊験が顕れ雨の恵みを受けた例もあるという。構築物【蕃塀】木造で貴重な建築物で、尾張地方でも北部で多く見かける。【燈籠】天正12年の燈籠8尺 1本元禄13年の燈籠8尺 1本吊灯籠六角鉄製1尺1寸 1個境内社【源太夫社】戦国時代、濃州可児郡土田村土田城主二代目親重の次男として生まれた「土田弥平次」が祭神。生駒家宗の娘「お類」=吉乃は弥平次に嫁いだが、明智城の戦いで夫の戦死後、織田信長の側室となりました。【智恵の文殊社】本尊の文殊菩薩は、釈迦如来の脇侍として智恵を司る仏である。言い伝えによると、信長の家臣土田一族が屋敷に祭祀していたものである【雨壺池】水神社(曽本)の龍の伝承と符合すれば、至徳年間(室町前期)に龍が雨を降らせ早ばつから村を救ったといわれ、恵みの雨が降るとお礼に花馬を奉納した。雨壺池は昭和30年頃まで清水が沸いていました。【力石(門左衛門石)】祭礼時、生駒家家臣にこの石を担がせ「ちから」を試し、五穀豊穣を願いました。近年、この石を悪さで近くの水田に投げ込む者があり、今は固定されました。【吉乃御殿跡】社務所は、ほぼ吉乃御殿跡に位置し、信長と吉乃が信忠・信雄・徳姫を授かり、短い家庭的な時期をこの場所で過ごした。【埴原塚】永禄の時代(桶狭間の戦いの頃)、埴原加賀守常安は、八条流馬術の達人で諸国を武者修行中に、織田信長に出会い召し抱えられ、忠動に励み清州城代になる。龍神社の近くに居住していましたが、昭和の土地改良事業で跡形もなく消え、今は由来を記す碑が残る。幣殿前の狛犬、奉納年までは見切れていないけれど、灯篭が天正、元禄の頃とあるので恐らく同年代だろうか。本殿域は近年建て替えられた瑞垣が際立って目立っている。木造社殿の落ち着いた温もりを感じる外観、瓦には龍の文字も誇らしげに入っている。個人的に好きな佇まいをしている。本殿は流造のようですが石垣と瑞垣の高さもあり全体が見て取れない。右手に赤い屋根の社が祀られている。源太夫社吉乃が嫁いだ夫、土田弥平次は明智城の戦いで討ち取られるが、祭神はその土田弥平次だという。いつ頃祭祀されたものか語られていないが、明智城の戦いは1574年(天正12年)とされる。幣殿前からの眺め。灯篭の姿は時代を感じさせるものがある。社務所(鳥居左)は吉乃御殿の跡に建つ、源太夫社は信長と吉乃の逢瀬の場となった吉乃御殿を見据えるように祀られている。その先には吉乃が眠る久昌寺が目の前だ。生駒家の氏神八大竜王を祀り、文殊菩薩を本尊とする智恵の文殊社など神仏習合の香りも漂う龍神社。久昌寺は時代の波に飲まれ消えゆくけれど、龍神社は氏子の手により支えられ、社殿も手が加えられているようです。参拝に訪れた自分ができる事と云えば、僅かばかりの賽銭で応援させてもらうしかない。龍神社(八大龍王社)創建 / 不明(元和8年・1622年再建)祭神 / 八大龍王境内社 / 智恵の文殊社、源太夫社神徳 / 五穀豊穣、村中安全、武運長久、産業興隆、開運招福、病魔除去所在地 / 江南市小折町八竜84番地久昌寺➡神明社➡生駒屋敷跡➡龍神社徒歩ルート / 約10分関連記事 / 嫩桂山久昌寺、生駒屋敷跡・小折城跡、神明社
2021.10.05
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名古屋市南区星崎1「市杵島社」先に掲載した若宮八幡社から旧東海道の国道1号線を北上する、星崎1丁目交差点を左折し、1本目を左に入り、一本目の細い路地を左に入る。この写真の場所までは徒歩で15分程か。市杵島社へは過去に二回ほど自分の車で目指した事がある、目印とする杜は見当たらずいつも素通りで見つけきれなかった。縁がないものと諦めていたが、若宮八幡社参拝の帰りに再チャレンジしてみた。表通りに市杵島社の看板はない、行き止まりポイ左に入る脇道を入ってみた。雨も降りだし直ぐに見つからなければ帰ろうと決め込んでいた。路は先で左に続き、今度こそ行き止まりポイ雰囲気が漂う。四駆だと来たはいいが、切り返しも出来やしない、バックで戻った方が早い、そんな道です。今回は歩きなので、細い道など気にしなくてもいい、進もう。左に見えていたのは星崎消防団の詰め所、ここまで来て前方に拝殿らしき姿が見えた。市杵島社、漸く訪れる事が出来た。周囲は住宅に囲まれ、境内の杜も表通りからは見えないかもしれない、しかも、表通りや境内入口に社標や鳥居がある訳でもないので尚更、撮り忘れたのか手水舎も見当たらなかった。市杵島社境内全景。境内左に境内社が二社、正面に切妻瓦葺の拝殿と本殿の伽藍のようです。境内社は右が加具土神社、左が竃(かま)神社。竃とは、その昔の星﨑は塩作りが盛んな土地だった、そうした事から竈の神様である伊奈突智老翁を祀っているのかもしれない。こちらの市杵島社の創建についてはいろいろあるようです。源頼朝の鎌倉幕府創設に伴い、山田重忠(平安時代末期~鎌倉時代初期の武将で1221年7月6日没)が尾張国山田荘(名古屋市北西部、瀬戸市、長久手市一帯)の地頭に任じられ、市杵島社はその山田重忠の建立とされる。だとすると相当な古社という事になる。江戸時代末期から明治時代初期にかけて刊行された尾張国の地誌尾張名所図会には下の様に描かれています。上は星崎の塩田風景で右が見下ろす様な高みに鎮座する星の宮。塩造りは安土桃山時代(1573年~ 1603年)から盛んになり、江戸時代初期は星崎、前浜では前濱塩と呼ばれる良質な塩が生産され、生産された塩は、塩付街道から足助を経由して信州方面にも運ばれた。市杵島社の鎮座する場所は恐らく左側の平坦地だろう、海は近く、高みもない天白川の扇状地が広がっていた。山田重忠の没年は1221年とされるので、彼が建立したとされるこの神社、その時代にこの地が社殿を作れる状況であったかは定かではないけれど、この絵に描かれている状況より海は近かったのではないだろうか。製塩はその後の新田開発により、塩から米に移り変わり塩造りは衰退しはじめて行った。創建に関しては一方で1523年(大永3)創建の喚續神社から分霊されたという話も聞く、鳥居や狛犬もないので奉納年度から想像もできない、どうやら定かにはならないようだ。こうした情報が途絶える前に、ぺラ1の由緒書きでも掲げられていると妙な想像を膨らませる事無く、素直に受け入れられるのだが、見落としているのだろう、境内にそれらしいものは見つけられなかった。社殿全景。四方吹き抜けの拝殿とその奥に神明造の本殿が祀られています。正面からの眺め。ポストのような賽銭箱が印象に残る、拝殿額はないようだ。拝殿から本殿の眺め。神明造の本殿は内削の千木と、鰹木が五本施されている。祭神の市杵島姫命は水の神として崇められ、神仏習合時の本地垂迹では仏教の守護神弁財天と同一と考えられ、弁天様というと池がつきもの(勝手な思い込み)ですが、境内にはそうした名残はない。この地が遠浅のあゆち潟に浮かんでいて、池はあゆち潟そのものだったりして(勝手な思い込み)。ご利益は金運・財運を高めるとされるが、神仏分離により弁才天の名は消える。本殿域は一段高く石垣が積まれ周囲は玉垣が囲む。玉垣にも目を通してみたが年号や文字などは見つけられなかった。通りすがりの参拝者に社地が分かりにくかったように、創建などの詳しいことがさっぱり分からなかった市杵島社。民家に囲まれひっそりと鎮座する姿は、あたかも氏子で囲っているようでもある。2021/09/11市杵島社創建 / 不明祭神 / 市杵島姫命境内社 / 加具土神社、竃神社関連記事 / 若宮八幡社、喚續神社、星宮社公共交通機関アクセス / 名鉄名古屋本線「本星﨑」駅降車、徒歩約12分名古屋市南区星崎1-51若宮八幡社から徒歩ルート / 国道1号線北上、星崎1丁目交差点左折、1本目を左に入る。所要時間15分程
2021.10.05
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北條八幡社の鎮座する瑞穂区丸根町。そこから緩やかに下っていく事2~3分程、右手の小高い丘陵地に緑豊かな一画が視界に入ってきます。この辺りは住宅地が広がる静かな環境、道路は一方通行が多く、車は直線的に高速で走れないよう、歩道が工夫されている。通学路、時間進入禁止、一旦停止や徐行無視の車が吹っ飛んでいく我が町から見ると羨ましく感じる道路事情だ。瑞穂区軍水町「西八幡社」はそうした環境の住宅地にあり、参拝者駐車場はありません。 社頭は天白川に向いて緩やかな傾斜が続く南側にあり、三つの鳥居を構え、社地北側に脇参道がある。社頭全景。右に社号標「村社 西八幡社」、一ノ鳥居から緩やかな石段が続く。狛犬が守護するニノ鳥居。「緩やかな石段」が続く参道は趣があって個人的に好きな光景の一つ。ニノ鳥居の守護担当。鳥居左に手水舎があり、境内は右にも広がりを持っている。手水舎、手水鉢。こちらの龍もお休みだ。全国一律の緊急事態宣言解除を受け、彼らが再び活躍するのはいつの事だろうか。三ノ鳥居は神明鳥。杜は楠木が主で大きく伸びた枝は上空を覆う、この町のシンボルツリーと云っても良いかもしれない。境内は鬱蒼とした暗い環境ではなく、日差しや風も通り明るく心地の良い境内。三ノ鳥居から拝殿全景。こちらにも狛犬が奉納されている。社殿域は左右に広がり、右奥の宝倉寺に境内が繋がっています。拝殿は瓦葺入母屋造の平入拝殿で額は掛けられていない。拝殿から幣殿、本殿方向の眺め。梁上部から大きな龍がこちらを睨んでいる。本殿前の狛犬は個性的なもの。鈍く光り輝く平滑な表面から陶器製と思われ、彫とは違う柔らかなフォルムで、奥の角付きの阿形の表情は凛々しく、視線はこちらを睨んでいるようである。一目ぼれだ。拝殿右の「西八幡社由緒」御祭神本社 応神天皇末社 秋葉神社 / 軻遇突智神、西山神社 / 大山祇命、金刀比羅社 / 大物主命、多賀神社 / 伊邪那岐神・伊邪那美神創建 創建年代不詳、文化三年(西暦一八〇八年)七月に本殿再建の棟札がある。棟札、最近の工場で作るような家に棟札が付くのか知らないけれど、子供の頃の事、天井裏を探検した時に文字の書かれた謎の木札が打ち付けられていたのを思い出す。上棟式の際に天井裏に取り付けられる家の履歴書みたいな木札。古いものは建て壊し、全てリセットしてしまえばいい、以前は補修や改築などの際にはその都度神事が行われ、こうした札が増えて行った。最近はそうした神事もハウスメーカーに一任だったり、場合によっては神事はしない事もあると聞く。寺であれば檀家減少、墓じまいなど、小さな寺社にとっては維持管理は厳しくなり荒廃していく。世の中の流れと云ってしまえばそれまでだけれど、そうした寺社の中にも新たな試みをするところもある。それも時流なのだ。本殿後方の中根山宝蔵寺、曹洞宗のお寺で、1534年(天文12)に創建された寺。熱田の円通寺の末寺で、境内には弘法大師を祀った弘法堂と西側には地蔵堂がある。境内に1829年(文政12)と刻まれた宝篋印塔がある。現在の伽藍と2015年(平成23)に改装されたものという。境内に車。本殿後方から社殿全景。流造の本殿両脇に複数の社があり、写真右手に秋葉神社、西山神社。左手に金刀比羅社、多賀神社。ここにも車。本殿後方の宝蔵寺本堂(上)と弘法堂、左に宝篋印塔。弘法堂左から社殿の眺め。これが北側の脇参道、こちらからだと石段を上ることなく拝殿に進めます。鳥居の手前はスロープになっていて社地北側の生活道路に接しています。境内の車はこちらから入ってきたようだが、参拝者が利用していいかはわかりません。北側道路から宝蔵寺の眺め、お城の様な石垣の上に建つ。下は道路から見る境内入口。道路右側が西八幡社社務所と仁所(にしょ)公民館がある。中根銅鐸発見地の解説板。「この銅鐸は明治三年(1870)二月、農業丹羽利吉が、この付近の道路改修工事中に発見したもので、高さ83.2センチ、袈裟襷文で六つに区画された中を、三段ずつの連続渦巻文で飾り、中央縦帯には凸線の両側に雷文を並べた施文が特色である。現在、兵庫県辰馬考古資料館が所蔵していて国の重要文化財に指定されている」この看板から200㍍程西で発見された様で、一点だけではなく複数発見されたようです。この高台は古くから人が住んでいた、地理的に安定した場所だったのが分かります。脇参道の鳥居から境内の本殿を眺める。橘が社紋の様です。三ノ鳥居から天白川方向の街並みの眺め。家並みが広がる現在ですが、遥か昔は海岸線が広がっていたとは。西八幡社、中根集落の発展に伴い、東と西に分かれ、西に祀られた氏神様がここ西八幡社。西があれば東もある、社頭から西の交差点から右に進み、東の氏神様に向かいます。2021/9/13「西八幡社」創建 / 不明祭神 / 応神天皇境内末社 / 秋葉神社・西山神社・金刀比羅社・多賀神社所在地 / 名古屋市瑞穂区軍水町3-1関連記事 / 「北條八幡社と中根南城」瑞穂区丸根町 北條八幡社から徒歩ルート / 道なりに2~3分程下った右側
2021.10.02
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いつ以来だろうこんなご時世になり知多新四国八十八箇所霊場巡りも随分とご無沙汰していた。夫婦共にワクチン接種も終え、感染防止に心がけながら久し振りに公共交通機関で巡る事にした。JR金山から電車を乗り継ぎ今回の目的地の入口となる亀崎駅に降り立つ。通勤・通学時間を避けきれず多少混んだりもしたがスムーズに到着できた。亀崎駅まで来ると人はまばら、開放された気分に浸れる。今回は久し振りながら10㎞越えの道中、訛った体にはきつい距離かもしれない、のんびりを心掛ける。亀崎駅前の案内板。まずは赤丸の 亀宝山 東光寺に向かう。知多四国八十八カ所巡りの起こり814年(弘仁5)、弘法大師が諸国行脚の途中、三河から舟路で知多半島を南下、南知多町大井聖崎から上陸し、同地医王寺と同町山海岩屋寺に滞在し、護摩修法された後、野間を経由し、陸路北上し伊勢路に向かったという。弘法大師は知多の風景が四国に似ていることに驚いて「西浦や 東浦あり 日間賀島 篠島かけて 四国なるらん 」と詠んだそうです。知多四国は1809年(文政7)に開創され、知多半島を一周する順路をとる弘法大師の88ヶ所霊場です。駅から真っすぐ東に進み亀崎相生交差点で左に進み、国道366号線を北上、上の写真の二股を右に進みます。その先の二股も右、緩い上り坂を上りきります。坂を上りきると二股になり、右の下り坂を下っていくと上の写真のように左にスロープが現れます。車の場合はここから境内に入れますが、運転に自信がなければ避けた方が無難かも。歩きの私たちはこのまま坂を少し下っていきます。左手に僅かばかりの石段が見えてきます、そこが東光院の参道。この坂は弘法坂と呼ばれ、坂は更に下へと延び、その先は亀崎相生交差点を直進した道に繋がります。石段を上ると境内が広がり、正面が本堂、右が庫裏。幟の経つ左の建物が遍照殿、その右手前に鐘楼の伽藍。立地は東が切り立った崖、南が緩やかに下る弘法坂、私たちの歩い来た西も緩やかに下っています。衣浦港に向かって伸びる台地の先端になるようです。境内右に控え柱が付いた手水舎、手水は休業中でした。四面の方型屋根の鐘楼とその手前に赤い前掛けと帽子を被せられた複数の地蔵が並ぶ。梵鐘、見た目に新しものに見える。池の間には左 「夕焼け小焼け」の歌詞が刻まれ。右 弘法大師御入廷1150年を記念し1984年(昭和59)に寄進されたのがこの梵鐘のようです。東光寺は 西山浄土宗のお寺で山号は亀宝山と称し、知多新四国八十八箇所霊場に所縁の深い番外札所。1903年(明治36)、和歌山県氷山東光寺より寺号と本尊を移し創建されたという。開山は実空誠感上人、開基は久田文七によるとされ、本尊は阿弥陀如来。 写真は遍照殿(弘法堂)全景、右の建物が三体大師堂。東光寺に訪れる前は古い建物を想像していたが、訪れて見ると比較的新しい建物でした。1945年(昭和20)の三河地震で被災、本堂や遍照殿は倒壊。1978年(昭和53)に本堂が再建され、1980年(昭和55)に遍照殿の再建。1995年(平成7)に三体大師堂再建。2007年(平成19)本堂、納経所を改修。古い伽藍の印象を受けないのも、地震後に再建された建物ばかりだから。この地震がもたらした深い傷跡は東光寺だけでは収まっていないだろう、その目線で見て行く事も必要なのかもしれない。では本堂でお参りを済ませ弘法堂へ。遍照殿。ガラス越しに内部に多くの像が安置されているのが分る。遍照殿内部。中央に厨子があり、その左右には弘法大師誕生から入定までの62年間の姿を、1年で一体に表現した62体の弘法様が鎮座している。「年弘法」とも呼ばれ、両手、両足、口にまで筆をくわえた書の名人弘法大師の姿がある。あの姿を見ると「弘法にも筆の誤り」と言うけれど、そりゃぁ間違えもするさと思えてくる。一体〃見ていくと空海の人生そのもののを垣間見ることができるかも。遍照殿右の三体大師堂内部。陶器製と思われる三体の大師像が安置されています。左から厄除大師(災難除け弘法)、五鈷杵と宝剣を持つ大師像です中央で宝珠を持つ像が日限大師(期限を区切って願う日限弘法)。右の五鈷杵を持つ像が招福大師(福を招く弘法)。既にかみさんはお経も唱え、納経印を手にして待ってくれています。なんとなく足手まとい?亀宝山 東光寺納経印この時期イチョウの樹の下は銀杏でいっぱい、参道は黄色に染まっている。境内入口の赤い灯篭、とても目立つ存在で東光寺のシンボルとでも言ってもいいかもしれない。銀杏を踏まない様に気を付けて次の目的地に向かいます。知多新四国八十八箇所霊場 番外西山浄土宗 亀宝山 東光寺宗派 / 西山浄土宗創建 / 1903年(明治36)本尊 / 阿弥陀如来所在地 / 半田市亀崎月見町三丁目十四番地関連記事 / 知多四国巡りと矢勝川の彼岸花(見頃は過ぎていた) 13.4㌔を歩く公共交通機関アクセス / JR金山➡東海道本線「大府」➡武豊線「亀崎」➡徒歩約10分
2021.10.01
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