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稲置街道沿いの神護山先聖寺と境内の外町天満宮を後に犬山城に方向へ。時間にして2~3分程歩く、街道左側に下の写真の様な建物を見かけ寄り道。稲置街道から一筋東に入ると切妻瓦葺二階建ての黒い板張りの外壁に白壁がシックな建物と玄関先に白い砂利が敷かれた箱庭が視線を引く。母屋の周りを見て廻ると庄屋さんの自宅の様に見えます。「旧堀部家住居」堀部家は代々犬山城主成瀬家に仕えた士族だそうな。この母屋は棟札に1883年(明治16)と記されているようで、当時の堀部勝四郎が施主だという。母屋の他に離れ座敷、渡廊、土蔵、作業室(蚕室)、高塀があり、2006年(平成18)に登録有形文化財に指定されているようです。当日は「冬季休館」の看板が置かれていたので中まで入っていませんが、HPの写真など見る限り庭園などもあり、農とは少し離れた武家屋敷の流れを受け継ぐ様式。坪庭人の頭ほどの小さな岩、それを取り囲む様に苔が植えられ、その周囲は白砂利が敷き詰められている。今頃は岩の周りの苔も瑞々しい緑に変っているでしょう。入口の解説この施設はNPO団体により管理運営され無料で内部を見て廻れ、解説などもしてくれるようです。冬季閉館、コロナ禍の影響で閉館する場合もあるようなので、訪れる場合は確認した方がいいかもしれません。木之下城伝承館・堀部邸所在地 / 犬山市南古券272堀部家住宅の北向いに猪ノ子町公民館があります。その裏に赤い鳥居を見付け立ち寄ってみた。公民館の右横から裏に回り込むと確かに赤い鳥居はあるけれど、鳥居をくぐるには公民館裏口の僅かな隙間から横入りして鳥居をくぐるような感じ。なんだか公民館裏口から直接鳥居をくぐるような鳥居の位置関係。公民館の正面には以前は燈籠の台座らしき跡があり、公民館が出来る以前は真っすぐに堀部家前まで参道があったような、そんな気にさせる。赤い鳥居と赤い玉垣で囲まれた小さな社、社号標はなく鳥居に額はない。個人的には赤と云えば稲荷か天王社だろうと勝手に推測するけれど、そうとも云えず自宅で調べて見てもすっきりする情報は見つからなかった、不明社としておこう。二段に盛られた本殿域に板宮造りの社が祀られていて、狛犬や狐は見かけなかった。この社を守護するのは公民館かもしれない。この後方はコイン駐車場になっていて、そこに駐車すると赤い鳥居と社は一目で分かるのでは。詳細は分からないが取り敢えず参拝させてもらいました。後日何か分かれば改めて追記させてもらいます。不明社所在地 / 犬山市南古券327(旧堀部家北側)旧堀部邸から数分も北に歩けば、街道の面影が僅かに残る街並みから一転し両サイドにビルが立ち並び、その先の本町交差点まで道幅は急に広くなります、交差点を横切る通りは県道183号線です。この本町交差点を越えると再び街道の香り漂う街並みに戻り、それと共に人波がみえてきます。遅い昼ご飯、時間は既に14時を回っている、お楽しみのビールと酒もあと少しの辛抱だ。徒歩ルート / 先聖寺門前から稲置街道を北へ2~3分程関連記事 / 稲置街道を行く『神護山先聖寺』 犬山市犬山南古券『外町天満宮』
2021.05.30
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「フラワーパーク江南」から国営木曽三川公園の13の公園の一つ「138タワーパーク」にも立ち寄ってみました。かみさんの実家のじいさんが写真を撮りがてら息子達を連れ、ここと「アクア・トトぎふ」をセットにして毎度散財させられていたが「花が豊富」と話は聞いていた。「フラワーパーク江南」から木曽川下流に向け県道183号線➡県道182号線光明寺交差点右折、道なりに移動時間20分程だ。「ツインアーチ138」いつも高速から眺めるこのタワー、初めて間近でみた。高さ138メートルの2つのアーチの中心に展望タワーがあり、タワーを目玉として四季折々の花が楽しめる。タワーの手前から左の南派川堤に出てみた。その昔は対岸との往来は舟で行き来し、この橋の袂には「木曽川わたり渡船跡」として石標がそれを伝えている。今は県道115号線の渡橋が架かり容易に南派川を渡り川島町に続く。対岸には「川島ハイウェイオアシス」の観覧車、少し左に視線を移すと岐阜城も見て取れる。つい最近までは「ネモフィラ」が綺麗に咲き誇っていたようですが、現在園内で今が盛りとばかり咲き誇る花は少なく、昨日もコキアを盛んに植えていた、植え替えの時期です。写真は「ローズストリーム」6種類のバラが植えられ一番の見所かもしれない、ここも花は今一つ。園内の様子綺麗に整備された公園は解放感で溢れている、それを求めて訪れる方もマスク着用はもちろん、距離を空ける等マナーが守られていました。ポピーはピークは過ぎたようだ一番勢いのあるバラとタワーせっかく来たのだから入場料500円を支払いタワーに上がってみた。エレベーターは我が家だけで利用、展望室も密も感じる事はなかった。360度のパノラマは濃尾平野を一望でき、500円の価値はあった。写真は岐阜城のある金華山、そこから眼下の川島の町には松倉城(跡)、ぐるりと見て廻ると、鵜沼城(跡)や犬山城に小牧城等が一望できる。これなら狼煙を上げればすぐに分かる、人の動きも分かる、山の頂に城を築く理由も頷ける。名古屋市内を横切るのにとんでもない時間をかけるけれど、こうして俯瞰して見ると濃尾平野意外と狭いか。園内もタワーも感染防止対策は整い、訪れる人のマナーもいい、花はこれから衣替えで少し寂しい時期だけど、外気を吸いに屋外に出て見よう。138タワーパークURL / https://www.kisosansenkoen.jp/~tower138/index.html所在地 / 一宮市光明寺字浦崎21-3江南フラワーパークから車アクセス / 県道183号線➡県道182号線光明寺交差点右折、道なり 移動時間20分程関連記事 / フラワーパーク江南 0528 余談ですが昼ご飯で立寄ったカレー屋さん、後から入店してきたグループの光景は余程covid19の存在を身近に感じた。「マスク外しの大声で会話、くしゃみ」、みんなで外せば怖くない、という事なんだろう。店も若者も幼い子供もみな我慢しこの時期を過ごしている。視線を外せば多くの客の視線を浴びている事に気が付くと思うのだが、きっと既にワクチン接種は終わったものと見た、あれ? そんな年齢でもないが。
2021.05.29
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好天に恵まれた今日、外気を吸いに江南市の「フラワーパーク江南」へ前日の予報は暑くなるという事だったけれど、意外に過ごしやすかった名古屋からだと車で1時間もあれば着くことが出来る。国営木曽三川公園、13の公園で構成され、フラーワーパーク江南はその中の一つ。平日という事もあり来園客は少なく、小さな子供を伸び伸びと自由に走らせてあげるには良い場所だ。来園客は100㌫マスクを着用、「2㍍離れましょう」の看板もあり、個々が静かに季節の花を楽しんでいる。公園の主要な建物「クリスタルフラワー」館内では様々なブースがあり、お茶も出来るようですがそこは避けることにした。ここから北側に木曽川(南派川)が流れ、園内はアスファルトも少なく体感温度は低く感じ快適な空間。色とりどりの花を期待して訪れたけれど丁度春から夏に向けて植え替えの時期。既に見頃を過ぎた花が多かった。園内には大小三つの水辺があり、それらは小さな小川で繋がっていて歩いていても心地が良い。クリスタルフラワー前の水辺花は植え替えの時期のようだ、華やかな色合いは少ないけれど、園内は鮮やかな緑にあふれている。この時期人目を引き付けるのが「アリウム」ネギ坊主みたいなやつだ。少ないとはいえ花が絶えることはない。水盤には睡蓮も植えられ丁度開花の時期を迎えています。そろそろ睡蓮の時期だねと思っていただけに、ここで見られたのは有難い。ここには蓮はないけれど今年は蓮の花を見に行きたいものだ。ここの水場には様々な生き物と出逢え、見付ける度におやじから童心に戻ります。ここにも映っています。オタマジャクシがいっぱい。かみさん「こやつらがみんな成長してゲロ〃やる訳?」そうだよね、カエルいっぱいという事は長いものも・・・いたりする。「スモークツリー」なだかなぁ、どうやって撮ればいいもんだか。陽時計のあるこの水辺には小魚ないっぱい泳いでいる、その横を外来種の亀が多数。誰か放すのか、定着したものなのかは分からないけれど、もはや在来種として認めてやらないといけないのかも。フラワーパーク江南URL / https://www.kisosansenkoen.jp/~konankaki/所在地 / 愛知県江南市小杁町一色入園料・駐車料無料
2021.05.29
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スーパームーンも見る事は出来ず早朝から降り出した雨もあがり雨後の紫陽花を見に茶屋ヶ坂公園に行ってきました地下鉄茶ヶ坂駅から南に進みコンビニ(7~11)角の交差点で信号待ちの間にコンビニ駐車場に祀られている「上野天満宮御旅所」を一枚。以前はこの敷地全面が杜に包まれ鳥居を構えた社があったが今は駐車場の片隅に。山口街道と民族史跡巡り 5 上野天満宮別宮交差点を渡り茶屋ヶ坂公園へ降り続いた雨も上がり、緑が綺麗だ園内を進むと紫陽花スポット、まだまだ紫陽花は葉ばかりですがユリが咲き始めています。園内東側に続く歩道、盛期は一面紫陽花の花で染まります、まだ〃緑の葉が主役の様です公園東側の歩道沿いが比較的花が揃っています。アップで撮るには良いかもしれませんが、全面紫陽花の写真を撮るにはやはり早いようです。あれから4日ではさほど劇的に開花は進んでいないようです。今週末では早いかもしれませんね。
2021.05.28
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2021/05/26気が早いのにも程があるか名古屋市千種区の千種公園近くに立ち寄ったので公園まで足を延ばしてみました。開花状況、全体的には上の写真が率直なところです、蕾ばかりですね。日射条件の良い所で一部開花していますが黄色ばかりが目につきます。緊急事態宣言下、一時の気分転換を求めユリを見に来られる方も見えます。ダメ〃〃で息が詰まる毎日、宣言の効果がダメ〃だから矛盾だらけのママ再延長?こんなに綺麗にユリは咲き始めたが、飲み屋のユリは咲いているのだろうか。煩悩捨てきれないおやじの本音は飲みに行きたいところ。盛期になると通りすがりに見える公園の中は艶やかな色で華やかになり、園内は甘い香りが漂う。今はまだそこまでではないようです。2021/5/26関連記事 / 2019年 千種公園ゆり園 、2017年 名古屋千種区千種公園『ゆり』を訪ねて
2021.05.27
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小竹薮駐車場から県道24号線、国道415号線と経由し富山湾方向へ。小矢部川を越え、矢田交差点で左折すると正面に小高い丘陵地が見えてきます、その道の突き当りが氣多神社。所在地で云うと富山県高岡市伏木一宮、地名に「一宮」と入るように、伏木はその昔国府や国分寺が存在した越中国の中心だったそうです。ここに到着する少し手前に国分寺跡、神社境内にも越中国総社跡の伝承地とされ解説板が建ち、越中国総社跡(伝承地)もあります。927年に編纂された『延喜式神名帳』には名神大社として記される古社で、越中國一之宮を称する4社(射水神社、気多神社、高瀬神社、雄山神社)の一つ。一之宮御朱印のコンプリートを目指すかみさん曰く「幾つあんのよ」と云いたくなる気持ちも分からんでもない。越中國一之宮 氣多神社社頭駐車場は左にあり、更に道路を右に進んで行けば一気に社殿近くの駐車場まで辿り着けます。社頭左に社号標そこから石段が続き、その先に鳥居が見えます。駐車場から走ってきた道を眺めて見ます。富山平野の先に富山湾、遥か先には残雪が残る立山連峰を望め、四季折々自然を移り変わりを目の当たりにできる羨ましい環境です。駐車場脇の手水舎苔むした山肌から龍が顔を出し、勢いよく清水が注がれています。手水舎の左に「気多神社の清泉」傾斜地の上に残る古い切株、その下の斜面に穴が開き、そこから絶える事無く湧き出る清泉。昭和61年「とやまの名水」に選定されたそうで、看板には「煮沸して飲用」とある。おかしなものは添加されていない、渓流の水とは違い地下から湧き出して来た自然からの恵み。自然と云えば手水舎の柱に「くま出没注意」の気になる貼り紙もあった。1分程坂を下ればそこは住宅街、そんなところに有難くない自然もいるようだ。蛇よりはましか。社頭の解説と下は境内で見かけた氣田神社略史。一部抜粋した内容は以下。734年(天平4)能登国気多大社から大己貴命(おおなむちのみこと)を分霊、勧請、氣田大神として越中國一之宮田神社となる。757年(天平宝字元年)越中国から能登国が分立し、越中国は射水、砺波、婦負、新川の四郡となり、能登・羽昨にある氣田大社を国府に近いこの地に勧請されたと云われ、一説には718年(養老2)に行基が開基したとも云われるようです。1182年(寿永年間)と1550年(天文年中)上杉謙信など二度にわたり兵火に見舞われ伽藍を焼失。1558~1570年(永禄年間)に現在の本殿が再建、1645年(天保2)に加越能大守「前田利常」が気多神社を崇敬し、本殿・拝殿などを修繕。そして1859年(明治2)廃仏棄釈の令により、本地仏を旧国分寺跡の薬師堂へ遷す。主祭神は大己貴命、奴奈加波比売命、配神は事代主命、菊理姫命を祀る。緩やかな石段を上りきると神明鳥居があり、石灯篭が続く参道は更に杜の中へ続きます。参道途中に神馬像、その後方が本殿に一番近い駐車場。苔むした境内はこの辺りから左右に広がり石碑などが建てられていました。拝殿が見えてきます、この石段が最後の石段。訪れたのが日没間近とゆうことで、木々の間から西陽が差し込み幻想的な雰囲気を漂わせている。参拝客はなく境内は静かさに包まれています、こんな時に後ろから音でもすると「出たか?」と考えたくもなる。 正体はかみさんなんですけどそれくらい静寂な空間でした。鬱蒼とした杜の樹々、根は苔むした地表にまで現れ、自然の逞しさを感じさせてくれる。参道左側の眺め、参道は二手に分かれ正面は拝殿へ、左手に進むと拝殿左側に回り込めるようです。石段を上り拝殿へ、狛犬がいますが逆光でシルエットになる。狛犬阿形後方の建物は「参集殿」参集殿全景狛犬の台座には1933年(昭和8)とある、大先輩だ。氣田神社拝殿瓦葺で妻入りの拝殿は左右に回廊が付き、内部は幣殿と一つになっている。拝殿に掛けられた額は「氣田神社」参拝拝殿内の内部はガラス張りで陽光が降り注ぎ明るい印象を受ける。社殿全景日陰にはまだ残雪も残る。本殿は三間流造の柿板葺で社殿は1558~1570年に再建され、国の重要文化財に指定されている。本殿緩やかな曲線を描く向拝は幣殿へ繋がり派手な飾りを廃したシンプルな外観。本殿の正面に掛けられた「一宮」の額が見て取れる、解説によればさらにこの奥に「氣田大社」の額が掛けられているという。藤原行成の真筆とされ、小野道風、藤原佐理と並んで三蹟の一人。残念ながら奥に額らしきものは見えますが、おやじのカメラではこれが精一杯。「一宮」の額力強さの中に柔らかさもあり優しさすら感じる。空海(弘法大師)の真筆とされ、豊富な知識と技量、優れた感性で文字を描く能書の達人で嵯峨天皇・橘逸勢と共に日本三筆と称される。後方に額は見えているのだが・・・・拝殿左の御興堂更に左の一段高い場所に玉垣で囲われた社があります。大伴神社社殿は流造で越中國国守だった大伴家持が祀られているという。創建は1985年(昭和60年)、地元有志により境内に創建されたもの。境内全景彫りの深い二対の狛犬が守護している。上の狛犬は鳥居をくぐって最初のもので、胸に鈴をつけた彫りの深い体格のいいもの。下は本殿前の狛犬。小柄な体ですが角が付いた愛嬌のある顔が印象に残る。大伴神社左から境内全景。西に杜があり、陽が陰るのは速い、静かな境内に神々しさが一層ましてくる。御朱印氣田神社、富山平野や富山湾、遠く立山連峰を望む山麓に鎮座し、静かに時が過ぎていく空間を持った閑静な一宮だ。さあ一路今夜の宿泊先を目指そう。2021/3/23越中国一之宮「氣田神社」創建 / 734年(天平4)祭神 / 大己貴命、奴奈加波比売命、配神 / 事代主命、菊理姫命、境内社 / 大伴神社創建 / 1985年(昭和60年)祭神 / 大伴家持所在地 / 富山県高岡市伏木一宮1-10-1関連記事 / 「越中國一之宮 射水神社」射水神社(小竹藪駐車場)から車でのルート / 県道24号線➡国道415号線➡矢田交差点で左折、移動時間20分程
2021.05.26
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以前掲載した「那智山参拝 熊野古道 大門坂から熊野那智大社」熊野那智大社の鳥居の手前で参道は二手に別れ右に向かうと「青岸渡寺」の仁王門へ続きます。「青岸渡寺」へは敢えて仁王門の石段を上ることなく、熊野那智大社境内の東門と繋がっていて容易に本堂に向かう事が出来ます。それもどうなの、という事で一旦かみさんと別行動、一旦熊野那智大社一ノ鳥居まで戻り仁王門から訪れる事にした。青岸渡寺仁王門那智山青岸渡寺石標。西国三十三所巡礼の一番札所。二人とも過去にこの地を訪れながら、巡拝をはじめたかみさんが今だ御朱印を頂けていない、念願とも言える一番札所。御詠歌碑「補陀洛や岸うつ波は三熊野の 那智のお山にひびく滝津瀬」那智の語源は梵語から由来し、音訳は那堤・難地と訳す様で、大いなる川をさし大滝を意味するようです。那智の滝、熊野川、ゴトビキ岩など自然そのものが象徴、熊野三山を参詣してみると音訳の難地が合っている事を実感します。仁徳天皇御代に裸行上人がこの地に観音像を祀り開基したことから始まり、以降、多くの高僧が参籠した霊場で往時は7寺36坊を有したという。御詠歌碑の後方に石段が続きその先に仁王門がある。後方の信徒会館があまりに大きいので門そのものは小さく見えてしまう。なちさん霊場の石標から石段が伸び仁王門に至る。もとは旧参道に建っていたが、明治政府の廃仏稀釈(1868年)により取り壊されてしまった。現在見る仁王門は1933年(昭和8)に新たにこの場所に復興されたもの。入母屋造りの木造の仁王門、彩色は適度に色褪せ落ち着いた佇まい。安置される仁王像は鎌倉時代の仏師で運慶の子、湛慶(たんけい)作と伝わるもの。高さは3㍍を越え、筋肉の盛り上がりや見開いた目など力強い像です。県指定文化財。門をくぐると仁王像と背中合わせに狛犬。寺の栞で狛犬の紹介はなく、県や町の文化財リストに上がっておらず、年代など詳細は不明。獅子頭の様な顔つきの木造の狛犬、胸を突き出し背筋を伸ばして手の込んだ台座の上から本堂を見上げているように見える。上狛犬達の見上げる先に本堂。下石段を上がり切ると下から狛犬の視線を感じる。なんだろう、熊野に来てからこの程度の石段は苦にならなくなった。石段を登り切りると左に那智大滝から導かれた清浄水、「延命の水」と呼ばれる。そして正面に本堂。如意輪堂とも呼ばれる高床の入母屋造で、大きな向拝を持ち堂内は外陣と内陣に分かれています。戦国の時代には兵火で焼失するも秀吉により再建され、栞によれば飛鳥時代から六度目の建物だという。桃山時代の建築物では県内最古とされ、こうして見る姿は廃仏稀釈の災難から免れ、1924年(大正13)に解体修理を受けたもの。西国第一番札所 那智山 青岸渡寺印度天竺の僧、裸形上人が那智大滝で修行を積みその暁に瀧壷で八寸の観音菩薩を感得し、ここに草庵を営んで安置したのが最初とされ、先に掲載した補陀洛山寺も裸形上人により開基された。本堂堂内外陣上部に掛けられた「鰐口」はかる日本最大、秀吉が本堂再建の際に寄進したもので直径1.4㍍、重さ450㎏の鰐口にはその趣旨が刻まれている。本尊の如意輪観音菩薩は秘仏。仁王門の横に聳えていた信徒会館、こうして見る姿は普通ですが、下から見上げた姿は近代工法を用いた舞台造りとでも云えばいいか、立派な建物だ。本堂右に水子堂、その右に建つ宝篋印塔は1322年(元亨二)のもので塔身四面に梵字が刻まれたもので重要文化財に指定されています。後方の屋根は鐘楼で更にその後方の高みには大黒堂(如法堂)と続く。鐘楼1903年(明治36)に復興され、梵鐘は1324年(元享4)鋳造のもので、高さは1.9㍍あるという。県指定文化財。大黒天堂鐘楼右手にあり、大黒天を本尊とする。もとは光明堂と称し回向(えこう)堂だったが1924年(大正13)現在の場所に移築された。本堂修理中には仮本堂として利用された。大黒天堂正面全景伝教大師の作とされる「蓮華の葉上大黒像」が祀られ、大黒天を中心に七福神が勢揃いする。大黒天堂は向拝飾りや木組みなど、彫り飾りに視線が行く。向拝側面木鼻や向拝等に施された彫飾りは手が込んでいる。額は大黒天。堂内は薄暗く、外陣と内陣に別れている。外陣の天井は一面朱色の提灯が吊るされていて、中央に本尊の大黒天、左右の厨子には六福神が祀られている、御真言は「おんまかきゃらやそわか」阿弥陀堂大黒天堂から更に右の参道を進んだ左に建ち、1994年(平成6)に新たに建立されたもの。信徒会館やこの辺りまで来ると、三重塔と那智の滝が一望できる。三重塔もともとは平安末期に建立され、その様子は「那智参拝曼荼羅」にも描かれていて、江戸時代に自然災害で倒壊、こうしてみる塔は1972年(昭和47)にこの地に復興したもの。内部に飛滝権現の本地仏千手観音を安置、内部は壁画が描かれ塔にも登る事が出来(有料)那智の滝や太平洋を一望できる。三重塔の脇にある那智山の石標と遥か前方の岩盤から流れ那智の滝。ここから次の目的地「飛滝神社」へは下りの石段(帰りは上り)と整備された歩道を進みます。那智の滝は更に大きく迫ってくる。御朱印と御詠歌、念願の一番札所。西国三十三所巡礼一番札所 那智山 青岸渡寺宗派 / 天台宗開基 / 仁徳天皇御代開山 / 裸行上人本尊 / 如意輪観音所在地 / 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山8番地 関連記事 / 補陀洛(ふだらく)山寺と熊野三所大神社、熊野那智大社
2021.05.25
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異常に速い梅雨入り今年の雨の降り方が少し心配になる久し振りにお日様も顔を出し、真夏日予想が出ていたけれど意外に過ごしやすかった梅雨となれば紫陽花いつもの茶屋ヶ坂公園へ様子伺いに緊急事態宣言下の愛知県、成績はさっばり上がってこない、解除も程遠い。遠出の計画も増えていくばかり、皆さん一緒だと思う。とはいえ家ばかりでは精神的におかしくなる、息抜きは必要。ましてや歩かないのは致命的で心の病以上に体の衰えを感じる。密を避けつつ季節の移ろいを探しに歩く。せめてもの心と体の健康管理だ。一足先に今年の紫陽花を見ようと訪れる方もちらほら恐らく1週間後には画面いっぱいに紫陽花が広がると思います。今年は紫陽花の開花も早い様な気がします。2021/5/23茶屋ヶ坂公園所在地 / 名古屋市千種区鍋屋上野字汁谷アクセス / 地下鉄名城線「自由ヶ丘」下車北へ徒歩10分程
2021.05.23
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2021/03/23~24日、車で越中、能登、加賀の一之宮を巡った際に立ち寄った「麺家いろは 射水店」こちらで食べた独特の黒いスープのラーメンが印象に残っているので掲載しておこう。高瀬神社の参拝を終えて射水神社に向かう途中の射水市内にあり、かみさんの昼食候補地に組み込まれていたお店。こちらを目指し歌の森運動公園の南付近でナビが方角を見失い道に迷う。おかげで黒河神社との出会いもあったりしたが、随分ナビも頑張っていたようで、黒河神社から5分程でいろはに到着する事が出来た。幹線道路に面して建つ「麺家いろは 射水店店舗」店舗前と後方に駐車場がある。入口付近の「白エビら―めん」の幟に魅かれるが目的は「富山ブラックらーめんを味わう」なのでここで白エビには惑わされない、初志貫徹。店舗入り口に貼られた「平穏な日々戻る事を祈ります!」のメッセージが目に止まる。思いは皆同じ、この張り紙が早くなくなる日が来ればいいのだが。店内は入口正面が厨房でその前にカウンター席と左右にテーブル席。以下のメニューは2021年3月時点でのものです。これが「白エビら―めん」・・・・・そそられる。右は拘りの味噌を使った「味噌ら―めん」とある、これ以外にもメニューは豊富です。これが目的の「富山ブラックらーめん」なんじゃこれ、スープ真っ黒だがね。これで決まりだ。かみさんはメニュー中央の味玉らーめん、相変わらず煮卵には弱いようです。おやじは下のランチをお願いした。店内は適感染対策も万全で客の誘導はテーブルを開ける配慮や、店員の迅速な対応もこのご時世ありがたい。店内は落ち着いた雰囲気、ランチ時という事で周辺の方が大半のようです。これランチセット。富山ブラックらーめんとライス、日替わりサイドメニューが付く、炭水化物+炭水化物やめられない。スープは見るからに黒く、さぞかし醤油辛いと思いきや、意外にそれほどでもない魚介系の出汁。大きなチャーシューも2枚添えられ食感はトロトロ、麺は多少太く黒いスープがよく絡む。東京ラーメンショーでグランプリ受賞も頷ける。最後の方は多少スープの魚醤の辛さが感じられるけれど、ライスやサイドメニューと合わせると気にならない。歳を考えると昼から食べ過ぎ、お腹一杯で満足感もタップリ。インパクトのある見た目だけで終わらない美味しいらーめんでした。麺家いろは 射水店営業時間 / 11:30~22:00(LO21:30) 土曜日及び祝日前日 / 11:00~22:00(LO21:30)年中無休所在地 / 富山県射水市戸破1555-1 関連記事 / 黒河神社黒河神社からルート / 車で5分程
2021.05.22
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矢田川の堤を超えて国道19号線の東側を歩いて街角の天王社を二社参拝して来ました。次は国道19号線の「瀬古中島」交差点から国道の西に向かい、下街道に向かいます。くねくねとした見通しの悪い細い道が南北に続いています、それが下街道。下街道に入り1~2分程で写真のように周囲に民家が立ち並び、細い道は縫うように伸びています。目的地『八尾稲荷』は前方左、この道を更に北へ進むと東春酒蔵を経て、庄内川に至ります。街道左に駐車スペース(確かではない)があり、小さな杜が見えます。携帯のグーグル先生は暑さの為か今一つ案内がおかしい、この場所は「八尾稲荷」と表示して見たり「秋葉堂」と表示したりしている、少し休ませてやろう。過去に東春酒蔵までは何度も歩き多少は方角は分かる。『八尾稲荷』全景右手に切妻瓦葺の建物があり、その左に石段がありその頂に社が祀られています。境内は鳥居や稲荷を守護する狐の姿などありません。過去歩いてきて存在に気付かなかったのはこうした外観もあるだろう。グーグル先生の言う「秋葉堂」は恐らく右の建物をさしているのかもしれない。石段の前にきて、社の前に白い陶器の狐の姿を見て漸く稲荷らしさを感じることができます。この時期、石段脇のサツキは盛期を過ぎ、風が通るたびに花びらが石段の上に舞い落ちています。正面から取りたいところですが、周囲は民家が迫り石段の下から見上げて撮ってみました。結構な高さがあります。石段を上り参拝。狐をアップで撮ってみると、手前の白い狐の後方にやや斜め上を見据える大きめの狐が祀られています。右の狐は鼻の部分が欠け落ち痛々しいものがある。この街道沿いにいつ頃から鎮座するのかよく分からない。この辺りは街道沿いの宿場として賑やかな頃もあった、また周囲には田園も広がっていました。そうした環境もあり商売繁盛、五穀豊穣の神さまが祀られているのかもしれない。また、宿や農家が集まる集落は火伏の神も必要だろう。右隣の秋葉堂?は建物の前までお邪魔するも、社は見当たらない。建物の中でお祀りされているのでしょう、中が見通せないのではっきりしませんが「秋葉堂」でいいのかもしれない。朱塗りの稲荷鳥居や玉垣がある訳ではなく、街道沿いの少し奥でひっそりと佇む感じです。何気に素通りしてしまう。『八尾稲荷』創建 / 不明祭神 / 宇迦之御魂大神所在地 / 名古屋市守山区瀬古東2新守西「天王社」から徒歩アクセス / 国道19号線「瀬古中島」交差点の西関連記事 / 名古屋市守山区新守西 「天王社」
2021.05.21
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『神護山先聖寺』の続きとなります。先聖寺大雄宝殿の右に南を向いて境内を構えた『外町天満宮』が鎮座しています。社地はもともとなのか、盛られたものか分からないけれど二段となっています。社頭右には石仏が並び、コロナ禍を乗り切るため思案に暮れる如意輪観音像や馬頭観等が安置されていて、何れも見てのとおり結構な歳月を重ねているようです。一番右側に最近ほとんどお目にかからなくなった二宮金治郎(尊徳)像があります。仕事をこなしつつ、学ぶその姿、少し古めの学校の校庭では出逢えるかもしれないが、直近で出会ったのは昨年四国に行った時以来か?こうして眺める『天満宮』、社地が盛られているのがよく分かる。鳥居正面からの全景右手に「天満宮」社標と一段上がって1911年(明治44)に建之された鳥居とその右には撫で牛。2段目が社殿域、小さな狛犬が社殿を守っている。拝殿は瓦葺切妻造の妻入りで四方吹き抜けのもの。軒下に架けられた木、良く目を凝らすと天幡宮と書かれているようです。本殿左右に末社があるようです。1920年(大正9)生まれで小さな体ながら社殿域を守護しています。拝殿から本殿方向の眺め。左は稲荷社のようで、右手には2社が祀られているようです。『外町天満宮』の詳細はよく分からなかった、犬山市の神社一覧でも創建不詳とある。祭神は菅原道真。鞘堂内の本殿は見て取れなかった。本殿後方に見えている寺院は祥雲寺。本殿右の末社右 浅間社 左 津島社本殿左に鳥居を構える稲荷社。境内社の詳細は不明。拝殿前から「先聖寺」境内の眺め。艶やかな大雄宝殿に対し、『外町天満宮』はひっそりと佇んでいます。そんな境内に梅が彩りを添えている。唐様式の大雄宝殿と外町天満宮、そして天井画や御朱印。時が過ぎるのが早く感じる。さて、街道に戻り先に進もう。2021/3/9外町天満宮創建 / 不明祭神 / 菅原道真境内社 / 稲荷社、浅間社、津島社住所 / 犬山市大字犬山南古券51 (先聖寺境内)関連記事 / 稲置街道を行く 『神護山先聖寺』
2021.05.19
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稲置街道を行く、以前掲載した南古券の「津島神社」、そこで掲載した秋葉神社から徒歩で1~2分程犬山城方向へ。街道の左手に「神護山先聖寺」の寺号標と参道が現れる。車1台通るのがやっとの狭い参道ですが、奥には駐車場もあります。参道の左には「外町天満宮」の社標があり、その奥には「梅梢戯」と書かれた大きな山車の保管庫とその脇に「犬山の唐寺」と書かれた案内板があります。視線の先に山門と特徴のある赤瓦の寺が見えています。保管庫に掲げられた解説には外町の由来と「梅梢戯」について記されている。「外町とは犬山城下町の外部の堀の外にできた町からきている。ここは下本町の南に続く町で、以前は八幡町・九軒町・天神町などといったが、犬山城主成瀬正虎の頃、名古屋街道が開設され下本町との境に木戸が設けられたそうです。町内には玉屋庄兵衛作のからくりで知られる犬山祭りの車山(やま)「梅梢戯」がある。」犬山祭りは針綱神社の祭礼として1635年(寛永12)から続く歴史ある祭り、2016年(平成28)に全国33件の「山・鉾・屋台行事」の一つとしてユネスコ無形文化遺産に登録されている。「ユネスコ無形文化遺産」犬山祭り、残念ながらこの歳になるまで縁がなく見た事がない、見ておくべきものかもしれない。参道から見る山門と摩伽羅の乗る本堂の眺め。山門左に境内駐車場があります。山門の趣は本堂の外観に比較すると見慣れたものです。「不許葷酒入山門」の石標臭いのある食べ物を食べたり、酒臭い者は修業の場に相応しくないからこれ以上は立ち入るな。そんな内容です、今はまだ大丈夫だ。山号額の先に境内が広がり、左手に解説板が見えます。コロナ禍に合ってどことなく響く教えだ。先聖寺沿革 「當寺は禅宗黄檗宗(本山宇治の萬福寺開山隠元大和尚)の末寺である。延宝四丙辰年(1676年)名古屋竹屋町より浄土真宗泉正寺という潰寺の号譲り受け、開山上州黒龍山不動寺潮音道海大和尚とし、開基はその弟子玉堂大和尚<没元禄七甲戌年(1694年)>を請け熊野山先聖寺と称した。(現在の熊野町熊野権現之社東)玉堂大和尚は博学大徳で城下はもとより近隣より参禅する者多く、町医鈴木玄察、内藤丈草など巨なる者あり蕉門四哲(其角、嵐由紀、去来、丈草)の一人丈草は玉堂大和尚より多大の影響を受け出家までした。その時の歌に「身をかくす 浮世の外は なけれども のがれしものは 心なりけり」があり、句碑(昭和28年建立)木曽川辺にて「ながれ木や 篝火の空の 不如帰」がある。享保御五乙未年年(1715年)来鳳和尚が現在の外町天神庵に移転し、神護山先聖寺に改め、諸堂を西向きに造立した。享保十三戊申年(1728年)より密傳和尚が大施餓鬼を始め、仏殿を東向きにし、大門口を町並へ替え現在の門是なり。昭和三十四年(1959年)の伊勢湾台風にて仏殿、鐘楼門等を倒壊した。平成十六年(2004年)二月、儒教、道教、仏教の三教一致の根拠地となるべく、黄檗風二層平屋建の本堂の建設に至った。「三級浪高魚化龍」より登り口、柱、天井(黄光琳画)と散弾の龍を配し、屋根には摩伽羅をのせているのが特徴である。納骨堂(宗派は問いません)写経(第三日曜日十時半から十二時)普茶料理(中国式精進料理)」右手に子授かり地蔵と石の祠があり、右手が寺務所。栞には本山萬福寺の創建として以下のようにも書かれている。「黄檗宗は隠元隆琦を開祖とし、京都府宇治市の黄檗山萬福寺を本山とする。隠元は1654年63歳で中国の黄檗山萬福寺から来日した。当初3年という年月を限っての来日であったが、江戸で将軍家綱と陰元を取り巻く状況が大きく変わり長く日本に留まることになった。宇治の地に黄檗山萬福寺が開創され我が国の禅宗は臨済宗、曹洞宗と黄檗宗の三派となった。」サラリーマンでもよくある事だね、行ったっきりとかは。祠の中には石像が安置されている。右手に錫杖、左手に巻物を持つこの姿、これは役行者だろうか。本堂全景大雄宝殿の一際大きな額が掛けられ、唐様式の彩色と外観は印象に残りますが、外観だけではなく他にも目を引くものが多々あります。本堂石段中央に球を持つ龍をモチーフにした彫物があり、桃扉の先の本堂には本尊の他にも複数の仏像が見て取れる。拝殿の軒を支える柱に施された龍の彫飾りは見事なものです、じっくりとひと回りして見るだけの価値はある。御朱印を書いて頂く間は本堂の中で待つ事になります。内部は写真撮影もOKという事です。寺号額本堂は外観から見ると二階建てのように見えますが、内部は天井まで吹き抜けになっています。魚梛檗宗の寺院特有の魚の形をした木製の鳴らしもので、時刻や食事の時を知らせるためのもの。隠元禅師が渡来した際、日本に伝えたものと云われます。木魚の原型ともいわれるようだ。京都の萬福寺がそうであるように、本堂には弥勒菩薩の化身とされる布袋さんが中央に安置されています。「さわり布袋」どうでしょう、元は金地のものが触られまくって地色が見えてきています。ふっくらとした顔立ちで表情はにこやかに笑みを浮かべています。金運や財産の保全にご利益があるようです。大雄宝殿の内部は中央とその左右の計三つの須弥壇が設けられています。左壇は開山者の玉堂和尚坐像。中央壇上は本尊の聖観世音菩薩坐像、左に達磨大師坐像、右に安置されているのは文殊菩薩のように見えます。右壇には関聖帝君が安置されている、商売繁盛、入試合格にご利益がある。その他にも小さな像が複数あります。黄檗宗で龍は仏法を守護する八つの神様の一つ(龍神)で、黄檗宗のお寺の天井には龍が描かれる事が多く、先聖寺の吹き抜け天井にも写真の見事な天井画が描かれています。こちらの住職は絵心があり、下絵を中国に送り、それを元に中国の画家により描かれたものだという。住職が御朱印を書き終えるまでの時間、この躍動感ある構図で描かれた龍を眺めていられる。蛇は大嫌いだがこうして綺麗描かれた龍を眺めるのは好きだ、ずっと見ていられる。大雄宝殿左からの斜景。右奥に見えているのは「外町天満宮」、こちらは日を改めて記載します。「神護山先聖寺」宗派 / 黄檗宗 建立 / 1676年(延宝4)、現大雄宝殿は平成16年再建本尊 / 聖観世音菩薩坐像所在地 / 犬山市大字犬山字南古券48秋葉神社からのルート / 秋葉神社から北へ1~2分関連記事 / 稲置街道 犬山市犬山南古券 「津島神社」時間をかけ書いて頂いた見開きの御朱印。初めての方は必ずこれになり、以降は月に応じて絵柄を変えているようです。
2021.05.18
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富山県高岡市大手町11-29高岡古城公園の『護国神社』を後に駐春橋を渡り、大仏前通りを300㍍程歩いて行きます。高岡大仏のある「大仏寺」は交差点の左角。交差点から左を見ると御覧の通り巨大な高岡大仏が目の前に。山門こそないながら参道両脇には大きな仁王像が安置されている。1968年に建立されたスタイリッシュな仁王像。比較的穏やかな表情ですが、仏敵は一切入り込ませない強い意思が伝わってる。本当に怒らせた時この表情はどう変わるのかそれが逆に怖い。境内の燈籠と左に大仏寺が見えてくる。燈籠の左に鐘楼があります。高岡市指定文化財の「時鐘」と呼ばれる素朴な鐘楼です。梵鐘。飾りのない素朴なもので、随分使い込まれた感じが漂う。1806年(文化3)に鋳造されたこの梵鐘、実は二代目なんだそうな。初代は1804年(文化元年)だという、僅か2年で改鋳が必要になったようですが理由までは分からない。初代も2代目も目的はひとつ、当時の高岡には時を知らせる時鐘がなかったという。当時の高岡町奉行の寺島蔵人は町民が秩序を保った規則正しい生活が送れる事を望み町民の為に時鐘を作りたかったようだ。以来この鐘は毎日午前6:00と午後6:00の2回毎日時を知らせ続け現在も現役で働き続けている。そんな梵鐘も1879年の大火で被災し梵鐘は櫓を失くし、場所を変えて時を告げ続けたそうだ。その後も1900年の高岡大火で再び被災、一時は時を告げる事はなかったようですが1931年大仏寺に移され再び高岡の町に時を告げるようになったそうだ。戦時中の供出に合う事もなく、幾度の大火から蘇ってきた梵鐘、なにか不思議な力を持っているようだ。時鐘の解説。大仏寺は昭和3年に開かれた高岡新西国三十三観音札所の二十九番札所で霊場御本尊の「馬頭観世音菩薩」の石仏が祀られ、その他にも複数の石仏が安置されています。「馬頭観世音菩薩」大仏寺扁額山号は風徳山、宗派は浄土宗。開基等詳細は分からないが梵鐘同様に大火で被災し、1745年に再興される以前は一時荒廃したようです。「高岡大仏」高さ約16メートルの阿弥陀如来坐像で、日本三大佛に数えられ幾度も造立され、現在の物は1933年(昭和8)の造立されたもの。1221年源義勝によって約4.8mの木造大仏が二上山の麓に建立された事から始まり、与謝野晶子は高岡を訪れた際に、「鎌倉大仏より一段と美男」と評したとも伝わる端正な顔立ちの大仏です。日本三大佛は奈良の大佛、鎌倉の大佛、残りは高岡大佛、岐阜大仏、東京大佛など諸説あるようです。三大佛だろうが、なかろうが、高岡大仏のこの優しい表情はそれだけで誇れるものだと思う。ここまで来るまで、見る角度によって大佛の表情が変わっていく様に見える。台座直下から見上げるその眼差しは、優しい穏やかな眼差しで見守られているような気になる。なんだか変なご時世のなか、日常生活ではついつい目は△になりがちだ。あるべき姿がこの表情なのかもしれない。高岡大佛仕様と文化庁解説。高岡市の指定文化財に指定されている。高岡大仏の台座の下は回廊になっていて自由に入る事が出来ます。回廊に内は阿弥陀三尊像や戦後の高岡在住画家の描いた仏画や、大火で類焼した2代目大仏の焼け残りとされるご尊顔が安置されています。現在の大佛は鋳造佛、想像図ではあるけれどその工程は大変な作業だったことは容易に理解できる。廻廊入口付近の様子、聖徳太子となで仏が安置されていた。1900年(明治33)の高岡の大火で 金箔の舟形光背に千体佛を配した木造の大佛は顔を残し焼け落ちてしまった。その焼け残りがこのご尊顔。顔を取巻くように配された掛け佛は十二の恩徳を表わし、1933年(昭和8)の再建の時に大佛の光背に掛ける予定で鋳造されたものですが、計画は中止となり、1981年(昭和56)の昭和大修理の時に周りに並べ祀ったもの。少し離れるとまた眼差しも変って見える。大佛寺山号 / 風徳山寺号 / 大佛寺本尊 / 阿弥陀如来宗派 / 浄土宗開基 / 不明札所 / 高岡新西国三十三ヶ所観音霊場 第29番所在地 / 富山県高岡市大手町11-29護国神社から徒歩アクセス / 大仏前通りを徒歩5分程関連記事 / 高岡古城公園 『護国神社』
2021.05.16
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大門坂から石畳の熊野古道を小一時間歩き「熊野那智大社」一ノ鳥居に到着。右手の「那智山青岸渡寺」は改めて掲載する事にします。まずは熊野那智大社参拝です。ここまで来ると参拝客は増えて来るけれど、やはり海外からの観光客やツアーバスの減少もあり、御一行様は皆無、静寂に包まれた世界が広がります。一ノ鳥居からニノ鳥居方向の眺め、比較的緩やかな石段が続きます。鳥居の左に手水舎、手水鉢。朝一番だと御日様の加減が逆光となりなかなか撮り辛い。流石に手水は注がれているが龍口から二手に分けられている。手水舎の対面に児宮(多冨気王子神社)が鎮座しています。授児安産、無事育成に神徳ががあり、祭神は彦火火出見尊。この二日間で石段は何段上ったのだろう、とはいえ神倉神社の事を思えば大したことはない。石段はこの先で右に折れニノ鳥居へ続きます。上の石段を上り切ると左側に神馬舎。ここから眼下に大門坂方向の眺望が開け、自分の足で登ってきた満足感が味わえる。最後の石段。両脇に逞しい姿の狛犬とニノ鳥居が間近に見えて来た。年代は見ていないけれど、苔むした台座の上に角付きで胸に鈴が付いた狛犬です。胸板の厚い事。最後の石段、ここを登り切れば社殿が見えてくる。石段の途中から見上げる額。熊野の山々を背景に建つニノ鳥居と手水舎。天空に建つ神社の趣がある。10:30手水舎から拝殿の眺め。鳥居左は社務所が建つが参拝時は新たに何か建つようで工事中。熊野那智大社。田辺市の熊野本宮大社、新宮市の熊野速玉大社とともに熊野三山の一社。街で見かける熊野神社の本社で、日本第一大霊験所根本熊野三所権現として崇敬が厚い。ご祭神「熊野夫須美大神(伊弉冉尊)」をお祀りし、夫須美が結びと同意であることから「結宮(むすびのみや)」と称され、人の縁に留まらず様々な願いを結ぶ宮として崇めらています。那智御瀧は自然を尊び延命息災を祈る人が多く、八咫烏の縁起から導きの神として、古くから交通・海上安全の守り神として崇められている。境内拝殿右には御神木の梛の木があり無事息災をあらわすものとして崇められています。正に熊野の自然と共に神の恵みを授かる事の出来る神社。熊野信仰は仏教伝来以降早くから神仏習合が進み、修験道の降盛とも相俟って熊野権現として崇められて来た。手水舎の向かいは宝物殿。那智経塚の出土品や熊野那智大社文書(国指定文化財)等、熊野信仰の歴史を伝える資料が展示されています。宝物殿右に八咫烏のモニュメントと御縣彦神社(ヤタガラス)、右は第六殿八社殿(天神地祗)。青い空と緑の山々を背景に建つ朱の社殿が一際映える、昔の印象そのままだ。神日本磐余彦命(神武天皇)の東征を起源とし、西暦紀元前662年、神日本磐余彦命の一行は丹敷浦(現在の那智の浜)に上陸した際、光り輝く山を見つけ、その山を目指し進んで行ったいう。那智御瀧(那智の滝)と出逢い、その瀧を大己貴命の現れた御神体としてお祀りしたとされる。一行は天照大神より使わされた八咫烏の先導により無事、大和の橿原へ辿り着くことが出来、初代天皇、神武天皇として即位したとされます。一行を導いた八咫烏は熊野の地へ戻り、石(鳥石)に姿を変えて休んでいるといわれています。その後、熊野の神々が光ヶ峯に降臨され、御滝本にお祀りしていたが、仁徳天皇5年(317年)に山の中腹にあらためて社殿を設けたのが「熊野那智大社」の始まりとされています。ここから少し下った所にある「飛瀧神社」は、熊野那智大社の別宮で「那智の滝」を御神体としています。拝殿右の授与所、後方の入母屋屋根は那智山青岸渡寺本堂、那智大社境内の東門を出ると目の前です。右側の巨木は楠木で熊野那智大社の御神木。御縣彦社八咫烏を祀る社で祭神は建角身命。八咫烏は熊野の神様の使いで三本足の烏で、より良い方向へ導く、導きの神とされる。本殿正式参拝をすると烏石を見ることが出来るらしく触れると八咫烏のパワーを授かれるそうな。御縣彦社から入母屋造で唐破風向拝の付く朱塗りの拝殿。拝殿から左右に瑞垣が繋がり本殿域を取り囲んでいますが、正面から本殿の姿を見る事は出来ません。拝殿 主祭神 / 熊野夫須美大神御神木から拝殿の眺め。香炉に火も入れられたようです。山の斜面に朱で彩られた社殿の建つ神社だった、今も以前の印象と何ら変わりはない。御神木の大楠。平重盛の御手植えと伝わり、樹齢約850年を超えるとも云われ、幹が空洞化している。「胎内くぐり」といって鳥居から御神木の空洞を通り抜けることができる。この辺りから東を眺めると、一ノ鳥居や観音堂、遥か下には那智の谷筋が一望できる。東門の先は「那智山青岸渡寺」に繋がります。左の玉垣あたりから本殿域を見通すことが出来ます。本殿域玉垣内には拝殿正面に五殿あり、左から二つ目の社殿が、熊野夫須美大神(伊弉冉尊)が祀られている。玉垣と鈴門があり社殿は熊野造りで殿内は外陣・内陣に区切られています。樹で隠れてしまったけれど、右から第一殿 滝宮(大己貴命)、第二殿 証誠殿(家都御子大神)、第三殿 中御前(御子速玉大神)、第四殿 西御前(熊野夫須美大神)、第五殿 若宮(天照大神)と朱の社が整然と並ぶ。実に綺麗だ。那智山青岸渡寺から東門。御神木の楠の枝は空を覆う様に枝を張り、そこから差し込む陽射しに神々しさを感じる。11:00さあ、次は「那智山青岸渡寺」です。2021/2/22熊野那智大社主祭神 / 熊野夫須美大神(伊弉冉尊)第一殿 / 滝宮(大己貴命)第二殿 / 証誠殿(家都御子大神)第三殿 / 中御前(御子速玉大神)第四殿 / 西御前(熊野夫須美大神)第五殿 / 若宮(天照大神)第六殿 / 八社殿(天神地祗)御縣彦神社 / 建角身命創建 / 仁徳天皇5年(317年)住所 / 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山1関連記事 / 那智山参拝 熊野古道 大門坂から熊野那智大社
2021.05.15
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富山県高岡市の中心部、高岡古城公園内に鎮座する高岡護国神社。先に掲載した射水神社の境外末社で、高岡出身の戦没者、空襲により亡くなられた方々の霊をお祀りしています。写真は射水神社のある本丸と二の丸を結ぶ土橋。高岡城は1615年廃城となりました、当時の城壁の名残はこの土橋が留めている。この素朴な石積みは乱積みと呼ばれ、使われる石にはいろいろな文字が刻まれているそうです。石を切り出した石工が付けた目印だと考えられていて、一説によれば キリシタンに関係があると云う話もあるようだ。その他の遺構は本丸と三の丸の井戸(民部之井戸)など一部残る。写真は民部之井戸。忠魂碑本丸から土橋を渡った左側の広場に建ち、広場中央に鶴の噴水がある。右には護国神社の社殿が見えている。城下からだと駐春橋を渡った右側に鎮座しています。高岡古城公園や射水神社を訪れた人々を傍らから見守る様に佇んでいる。1935年(昭和10)高岡市招魂社として創建され、後の1952年(昭和27)高岡市護国神社に改称されました。石段の先に2012年建立の明神鳥居。射水神社の境外末社。拝殿は平入の入母屋造。銅板葺の屋根で、低い重心のフォルムは安定感がある。周囲は木の折り戸が付けられ、黒の飾り金具と木の色合いは落ち着いた外観に調和している。国のため亡くなられた方が鎮まるには相応しいものだ。平和に慣れ、当たり前の様に感じるこの時代だからこそ、参拝したいものです。別の形の戦いを強いられている現在。さざ波としか捉えていない無能なお国や指導者ためではなく、最前線で活動されている方々への感謝と負担を掛けないため、自分と家族を守るため、今は積極的な孤の選択を惜しむべきではない。拝殿前の狛犬1933年建之のもので、角付きで突き出した胸には鈴の付いたもの。招魂社などで良く見かける勇猛な姿。拝殿内陣から本殿方向。本殿方向を除き周囲が折り戸なので、本殿からさしこむ陽光が額や本殿を浮き立てている。忠魂碑側から本殿の眺め。銅板葺の流造。駐春橋護国神社から左に進み、外掘りに架かる橋。ここから先に城下が続き次の目的地高岡大仏に向かいます。高岡市護国神社創建 / 1935年(昭和10)祭神 / 高岡出身の戦没者、空襲により亡くなられた方々、殉職者の霊を祀る。所在地 / 富山県高岡市古城1-3 (高岡古城公園内 二の丸)関連記事 / 「越中國一之宮 射水神社」
2021.05.12
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犬山市犬山南古券 「津島神社」稲置街道の秋葉教会・玉光稲荷大明神から犬山城方向に向かい2~3分の西に少し入った三叉路に鎮座していました。写真は了義山徳授禅寺の寺号標。臨済宗の寺で、室町時代中期に桃隠玄朔が草庵を結んだ所とされ、1476年(文明8)妙心寺紫衣再興を果たした柏庭宗松が、一寺を建立して了義山徳授院と名付けたのが始まり。前方に見える赤い山門や鐘楼など趣のある寺です。稲置街道沿いに門前があり、左には小さな堂があります。徳授寺の参道入口に建つ堂、その右の石標の側面に犬山焼の陶工「兼松所助(しょすけ)の墓」とあり、石標の正面には文久元年と刻まれている。石標自体は文久のものとは思えず没年を刻んで新たに建てられたものかもしれない。観音堂の様で、馬頭観音が安置され、1768年(明和5)、犬山馬付連中と刻まれています。その他に安置されているようですが顔は前掛で覆われよく分からなかった。今回の目的地「津島神社」は、この観音堂のある場所の向かいに延びる細い道の突き当りに鎮座します。観音堂から西側の筋に建つ赤い社の「津島神社」三叉路の間に三角形の社地があり、東角には大きな銀杏の樹が聳えています。周囲は住宅が取り囲み、どの方向から来ても「津島神社」に突き当たります。角の取れた丸い石を積み上げた台座の上に流造の社と板宮造りの小さな社が鎮座します。鳥居から二社の眺め、南を向いて祀られています。左の本殿は扉が開けられ内部が見通せ、中には小さな社があり津島神社の御札が見えます。木鼻など彫飾りも施され手が込んでいる、色褪せた赤い塗装はそろそろ手をかけてほしいと訴えている様に見える。右の2社相殿は残念ながら分かりません。「津島神社」創建 / 不明祭神 / 建速須佐之男命所在地 / 犬山市犬山南古券129秋葉三尺坊大権現から徒歩で2~3分関連記事 / 稲置街道 「秋葉教会・玉光稲荷大明神」観音堂の前に戻りそこから稲置街道の犬山城方面を眺める。目と鼻の先に小さな流造の社がある。城下町の名残が残る町内、棟続きの家も多いだけに火災は他人事ではすまない。一心同体と云える町内の火防、火伏の大役を担っている。2011年(平成23)外町組とあり、新しく整備されたようで境内も社も新しく綺麗だ。外町 「秋葉神社」創建 / 不明祭神 / 火之迦具土神所在地 / 犬山市犬山南古券
2021.05.11
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何と云うタイミングでの緊急事態宣言発出。普段のイベントは全てかみさんにお任せし、余り自分の我を主張しないけれど、この時期は山にキャンプに行きたくなる。独り身の頃は仕事が終わると相棒と一緒に原野に出かけ野宿し、釣りや山登り、カヌーを楽しんできた。それらは諦めたつもりだった。子育ても終わり、空気の読めない赤い会社も漸く卒業できる歳になると昔を辿りたくなる。時は巡りコロナ禍の今、キャンプが再び流行っているようです。目標を立てず雑音の入らない所でのんびり酒でも飲みたい、そう感じる。かみさんに久し振りにキャプは如何と聞いてみるとこれが結構好感触。かみさんは工程の作成にあたり、自分は用品の点検。物置のキャンプ用品を一つ〃店開き。昨日はビンテージ物のメッシュタープを広げ劣化具合をチェック。シームテープは劣化しているが少し補修すれば、どっしゃぷりでなければ使用可能とみた。今日は朝からドームテントを建てて見た。テントもビンテージものだ、何せ20年とは云わないが粗それに近い期間張ってはいない。まず最初に気付くのはポールのショックコード。40㌢近く伸びダラ~ン伸びきったコード、これは致し方あるまい。取り敢えずコードは切断し応急対応。何も難しい事はなく、端のポールに内径以下の棒でも差し込み先端方向に押し出して適度な長さに調整すればいい。仮に現地でポールの真ん中から切れても騒ぐことはない。切れた所から押し出し木の枝でも結んでポールの中に押し込めば1本物のポールは2本ものとして不便なく復活する。最悪コードがなくても支障はない。ショックなのは補修用のショックコードの劣化が激しく使い物にならない。新たに買う必要はありそうだ。ポールのコード調整も終えスリーブに通し建てて見た。ロゴが誇らしく風になびく。スリーブ(ポールを通す袋)は触れるとボロボロを覚悟していたけれど、素材の劣化もなくドームの形を問題なく支えている。入口のファスナーや縫製シームもしっかりしている。この上にフライシートが被る訳だから多少の撥水性の劣化も大きな問題はなさそうだ。メッシュ素材も生きていそうだ。内部はベンチレーターのメッシュも健在、縫製部分のシームテープも20年ぶりにしては綺麗なもの。昨日のメッシュタープのシームテープの劣化は想定以上だったがこれなら問題なさそうだ。ボトムのシートはそれなりに劣化していた。シームは浮き、素材は折り目の部分に劣化が見られる、もっともこれは当時からのもの、大雨には水が浸みてきたので内部にブルーシートを敷いてインナーマットを敷いていた。これとて長い(🐍)ものさえ入り込まなければ良しとしよう。シームテープの浮きで気になるところは補修し、ほぼ一日乾燥させることが出来た。これ以外のテントとタープは、天気のいい日を見計らって点検しようと思っている。取り敢えず一組が使えそうなので安心した、最悪の自然災害には働いてもらえそうだ。次はランタンにバーナー、エアーベット、これらも点検しておかなければ。カヤックも組んでみたいけれど、こちらの方が怖いものがある。当時の相棒はいないけれど、沈没覚悟で庄内川を下って見るか。キャンプやカヌー、昔を思い出して楽しみたい、安心して外に出かけたい。息子に会いに行きたい。緊急事態宣言? 彼の言葉は全く響かない。
2021.05.10
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同じ結果の繰り返し 同じ言葉の繰り返し大本営発表、最近とみにあやしい 誰しも思っている事、聞きたいことは理解できないのだろう若返り、議員定年制、議員数半減、「責任」・・・・・ 自ら手を挙げたんでしょう、「変えたらどうなんでしょう」マスクの人は結果はともかく思う事をやった、痛みの対価も支給した あなたは何するの? 誠意のない謝罪はいらない質問に回答したらどうか
2021.05.10
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前回掲載した新守山の天王社から北方向へ、幸心1丁目交差点を更に直進し右に入った所に鎮座する天王社ここまで10分、15分程だろうか。この手前に地蔵さんが祀られた小さな祠(宮地小祠(みやちしょうし)を過去に訪れた事がありますが、そこから少し東に入った場所が鎮座地です。瓦葺の四方吹き抜けの拝殿と朱塗りの覆屋、それらを取り囲む様に杜が作られています。この辺りは古い区割りのまま住宅が立ち並んでいて、天王社周辺の道幅は狭く、車で訪れても駐車スペースはありません。新守西の「天王社」はそうした細い路地の三叉路の角に鎮座しています。天王社正面全景守山で見かける天王社としては拝殿もあり規模は大きい部類。拝殿から眺める本殿コンクリート土台の上に妻入りの覆殿があり、その中に小さな平入の本殿が祀られ、新守山の天王社同様小まめに手入れが施されているようです。この辺りの地図を過去に遡ってみたが創建時期に繋がらなかった。上の地図は昭和7年頃の当地(左)、天王社のある場所は航空写真で見ると鎮守の杜の様にみられ、幸心集落の東外れに氏神さまとして祀られてきたように見えますが詳細は分かりません。当時の集落周辺は一面田畑が広がり、島の様に集落が点在する地域、それから短い期間で田畑から戸建住宅や集合住宅に変り、地域以外から新たに移り住む方が多いかもしれません。その中で現在もこうして大切に守られている姿を見ると、これから先もこの天王社は残っていきそうです。参拝を終え東の通りに出て次に向かいます。新守西 「天王社」創建 / 不明祭神 / 不明所在地 / 名古屋市守山区新守西1101新守山天王社から当地まで徒歩ルート関連記事 / 新守山天王社 善光寺街道と水屋巡り Vol 1 『宮地小祠(みやちしょうし)』
2021.05.08
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2021年2月21日~22日車中泊で巡る熊野詣、最終日は那智山参拝で今回の予定はコンプリート。「道の駅たいじ」の前を伸びる国道42号線、太地駅方向に向かい最終日が始まった。国道42号線「市屋」交差点を右折、ほどなく「市屋ランプ」で右折する、この交差点が逆走を誘発させかねない。片側二車線ある整備された道路ですが、上下線の分離帯がやたら広いので前方をよく見ていないと逆走しかねないので要注意かも知れません。信号待ちの車もないこうした場所、逆走は年齢以外の要因もあるように思う。立派な道路にパンダもいたり、余程有力な先生がいらっしゃるのだろう。那智勝浦ICで降り、県道46号線を左折し那智川左岸を走っていけば那智山の入口「大門坂駐車場」道の駅からゆっくり走って30分もかからない。那智山まで車でもバスでも容易に行ける、折角訪れたのだから、ここは少しだけでも熊野古道を歩いて行こう。という事で「大門坂駐車場」から那智大社までの高低差100㍍程を歩いて行きます。駐車場の案内板この時点で9:20(撮影時刻)大門坂へは駐車場から県道を右方向に進みます。直ぐに写真の「大門坂」の看板と石標があり、そこから左に進みます。この時点で県道に対し緩やかに傾斜が増しています。民家脇を通り過ぎると正面に石段と鳥居、その先に赤い欄干の橋は「振ヶ瀬橋」、ここから「大門坂」が始まります。案内板によれば那智大社まで1.2㌔とある、平坦ならともかくどれくらいかかるんだか。9:30鏡石「振ヶ瀬橋」を渡った先にあり、案内には「祈り石です」とある。9:34石畳の先に大きな杉が現れる。9:35夫婦杉と呼ばれ、嘗てはこの辺りに門があり、ここで通行税を徴収したという。ここから先は空を覆うように樹々が生い茂る。大門坂入口杉並木に包まれた古道は角が取れた石が敷き詰められ、上へ上へと延びています。9:36多冨気王子跡夫婦杉からすぐ先の右側にあり、この辺りから古道は勾配を増してゆきます。9:37熊野参詣道中辺路にある最後の王子社、峠の神仏に手向けをした場所。いつしか王子と呼ばれるようになった。王子の名は江戸時代の地誌類に現れ呼び方も様々だったようで、江戸時代は社殿も築かれ、1877年(明治10)に熊野夫須美神社(熊野那智大社)の境内に移され、跡地だけとなったようです。指定文化財 多冨気王子跡(県史跡)、那智山旧参道杉並木(県・天然記念物)案内板左にある「市野々王子」、駐車場からだと那智川を越えた山間にあり当然歩きとなります。右には庚申塔町内にはこうした庚申塔が73基あるそうだ9:40この辺りで1町石畳の角の減り方はどれだけの時間が必要なんだろうここまでは他の参拝客に出逢っていない、年輪を重ねた杉が見事9:42視界が開け右に県道が現れる。この辺りにバス停もあり小規模な駐車スペースもある。9:45今登ってきた道を振り返る、杖は置かれているが出払っているようです。2町石3町石9:51 時々こうした石が見られる明らかにこれは最近でしょうと思われる何かで削ったものが見受けられる相合傘も〇×参上は要らない4町石昨日の神倉神社に比べると大門坂から歩く古道は快適だ9:55 今しがた4町だったがもう町石が・・・と思ったがは違う唐斗石の石標右に唐斗石と呼ぶ石がありここで祈りを捧げるらしい9:56十一文関跡唐斗石の少し先にあり、以前はここで通行税を徴収した場所。現在は何もないけれど当時の名残だろうか石垣が見られた。5町石9:59前方が開けてくる。10:016町石石段を登り切ると広場に出る10:02ここで小休止、水分補給だそこには熊野古道大門坂と熊野山旧参道の杉並木の解説がある石段は267段で距離は600㍍程、両側にあった杉並木は132本、入口の夫婦杉はの幹回りは8.5㍍程、樹高は55㍍、樹齢約800年だそうだ、名の由来は門から付いたとある。ここでこの看板は下る方向けか、それとも上ってきた方向けの復習か。空が近く、山々の頂も随分と近く感じる。古道の雰囲気はここまでです。10:076町石から先は車も通る現代の世界になる。左手の参道入口の看板に向かう。ここは昔来たことがあるぞ、参道脇の店先に那智石がいっぱい並んでいたのは覚えている。10:08石段入口の案内板熊野那智大社までもうひと上り石段途中の左側に県指定史跡の実方院跡(上皇や法皇の宿泊所)と天然記念物木斛の樹10:14この木斛の樹は樹齢400年、樹高は10㍍で幹回り1.8㍍実方院跡の庭園前方に熊野那智大社の鳥居が見えて来た。あと少しで到着だ石段途中で見かけたが、石標なのか石仏なのかよく分からない10:16あの頃は参道脇のお店は賑わっていたけれど、コロナ禍で海外から客の途絶え人気はなく閉まった店も多い。右手に方型の堂が見えて来た平和観音堂と云われるようで観世音菩薩を安置するようです10:18内部には穏やかで優しい表情の観世音菩薩の立像が安置されている上には斜面に張り出した信徒会館と左に那智山青岸渡寺の仁王門も間近左手に熊野那智大社鳥居が見えてきた、漸く到着だ。10:20右手には那智山青岸渡寺石標、ここから先は仁王門に続く。大門坂駐車場から熊野古道の雰囲気を感じつつここまでほぼ1時間で辿り着きました。町石は途中から見失い写真に収めたのは6町石までとなりました。さあここから参拝だ大門坂駐車場所在地 / 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町市野々3009-5道の駅たいじから大門坂駐車場車ルート / 所要時間20~30分大門坂駐車場から大門坂入口徒歩ルート / 徒歩5分関連記事 / 道の駅たいじ
2021.05.07
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普段あまり見ることもない携帯。今朝のこんなメールがやってきた今話題のあのメールのようです下の写真の上の部分がタイトル「アマゾンプライム会費のお....」なんかやらかしたかい、と思わせる内容なので取り敢えず、開けて見た、それが下の写真。そのアドレスにアクセスせよとの事。早速会社の端末でアドレスを打って見ると、なんちゃってログイン画面が出てくる。ログインしないと内容は分からないようだ、取り敢えず何たら会員には入っていないので調べて見れば詐欺メールのようだ。アドレスのamazon.以降ドメインは明らかに変。独自ドメインを検討されている方であればすぐにわかると思いますが、ちゃんとした会社はなんちゃらcomとかco.jpだとかが入ります。このbuzzとかxyzとかは比較的安価に手に入るドメインなのでここに注目してください。こうしたドメイン全て怪しいものではなく、一部の悪意ある人たちがコストを掛けずamazonを騙り怪しいサイトに導き、あなたの情報を抜き取ろうとするために使われているものです。大半のものはこうした目的以外に安価な独自ドメインで健全なブログを作ろうとしている方ばかりです。脅迫まがいの文面や支払いや請求などのタイトルのメッセージはアドレスを一度よく見ましょう。そもそも該当しなければごみ箱で問題なしです。ログイン画面も良く作られていますが、日本語が変(人の事は言えないが)なので違和感を感じるはずです。いずれにせよ怪しい迷惑メールは「迷惑メール情報提供」警視庁迷惑メールに関する情報提供 警視庁 (metro.tokyo.jp)総務省|電気通信消費者情報コーナー|迷惑メール対策 (soumu.go.jp)などに通報したり、アドレスを検索掛けて見ましょう、何かヒットするはずです。当然amazon公式サイトからも警告としてアドレスなど公開されています。折角の便利ツールや安価なものも、こうして使いにくいものにされ、何が信用出来て、信用してはいけないのかさっぱり分からなくなる、困ったもんです。
2021.05.06
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前回掲載した「黒河神社」を後にして、そこからすぐ近くにある当初の目的地「麺屋いろは」で富山ブラックラーメンを食べ終え、お腹も満たされたところで、次の目的地「高岡古城公園」に鎮座する「越中國一之宮射水神社」を目指す。「麺屋いろは」から高岡城址まで県道348号線から県道44号線の「古城」交差点の左が「高岡古城公園小竹藪駐車場」約30分程で到着。高岡古城公園の北側に位置する「小竹藪駐車場」。入口に係員の方がいて「有料?」と思いきや実は無料、懐に優しい有難い駐車場だった。しかも他府県ナンバーなのに気付き御親切にも神社までのルートや高岡大仏までの道を教えてくれた。県外から訪れた者に対する心遣い、高岡の町は優しく歓迎してくれた。駐車場の南側に写真の石碑があり、ここから公園内にアクセスが可能。高岡古城公園は加賀藩初代藩主の前田利長が築いた高岡城の城址を明治時代より公園として開放したもので、富山県指定史跡、国指定史跡に指定されています。写真は石標から園内に入りしばらく歩くと、外堀に架かる赤い欄干の橋「朝陽橋」。橋を渡って右側から見る朝陽橋、周辺には桜が多く見られます。「日本さくら名所百選」にも選ばれる公園で園内には約2700本の桜が咲き誇るそうだ、しかし3月末では蕾は固い、それでも僅かにピンクに色付いてきていた、満開の時はさぞかし綺麗な事だろう。朝陽橋から石段を進むと視界は広がり広場が現れます。高岡城本丸広場と呼ばれ正に本丸があった所、ここも周囲は桜がいっぱいだ、ピンクの幕が広場を取り囲むに違いない。射水神社はこの本丸広場に鎮座します。江戸時代の城跡に社殿を構える一宮は全国でも珍しいと云われています。高岡城は1609年(慶長14)前田利長の隠居城としてが築かれたものだという。隠居城として使われたのは僅かな期間で、1614年(慶長19)に利長が死去、翌年の1615年(元和元年)の一国一城令により廃城の道を辿ったようです。現在、城の面影は堀と護国神社へ向かう途中の石垣が遺構として残っています。本丸広場の途中に鳥居が現れ境内が見えますが、これは脇参道、広場を更に南に進むと左に続く道が現れます、そちらが正参道へ続きます。越中國一之宮 射水神社全景。大鳥居の左に「国幣中社射水神社」と刻まれた社号標。そこには地元敬神家の名が刻まれています。境内右が参集殿、左に手水舎、社務所、中央に神明造の拝殿が見えます。桜には早いけれど参道両脇の紅梅と白梅が彩りを添えています。伽藍から古びた印象は感じません、現在の姿は1900年(明治33)に起きた高岡大火により社殿を焼失、1902年(明治35)に再建されたもの。この高岡大火は市街地の6割を焼き尽す大きな災害だったようです。参道の射水神社由緒祭神 二上神 例祭日 4月23日北西五㌔の二上山にこの神の降臨は悠久の古代に属し、詳らかでないが675年、天武天皇の三年(皇紀1335)正月奉幣に與られた傳承を以て鎮座の年と定めた、次いで慶雲3年初めて祈年奉幣の例に入り宝亀11年從五位下の神階に 叙せられ延喜の神名帳には越中唯一の名神大社に挙げられた。やがて戦国の世屡ゝ兵火に罹り頽廃したが前田利家・利長の保護により輪奐を改め明治四年國幣中社に列した。維新の神佛分離規則に從い且つは広く県民の崇敬に迎え られ寺坊所管の二上を離れて明治八年九月現在地に遷座せられた。境外摂末社日吉社 大山咋神 四月十八日 (二上山第一峯山頂 奥の御前)悪王子社 地主神 五月十三日 (二上山第二峯山頂 奥の御前)院内社 菊理媛神 五月三日 (二上山の前面北峯「院内の谷」)諏訪社 建御名方神 八月二十七日 (二上山前面西麓 上二上)高岡市護国神社 殉國諸神 十月一日 (高岡城址内)栞には以下のようにも書かれている。「創始は太古のことで、年代は詳かではないが、延喜式内名神大社であり、越中文化発祥にゆかり深い大守護神として崇敬せられている。社伝によれば、養老年間、僧行基二上山麓に養老寺を建て、この神を祀り、二上権現と称した。当時の領域は、二上荘六十七カ村、社寺は二上全山に亘り二十二万余坪に達したと云われ、越中全土の各戸より毎年初穂米一升奉納の制があり、盛大を極めた。その後、承平ら天正の両度兵火により悉く烏有に帰し一時衰頽したが、慶長年間、前田利家卿社殿再建の上、社領および一山を付し、国内に命じて初穂米奉納の制を復活し、明治維新まで続いた。明治四年、国幣中社に列格し、同八年、高岡城本丸跡の現在地に遷座され、同三十三年六月、高岡大火の折類焼、同三十五年復活。特に昭和の御代、五十年四月には「日本書紀」に天武天皇三年(紀元千三百三十五年)正月、奉幣に与ったことが見えることより起算して鎮座千三百年式年大祭を斎行。畏きあたりより奉幣の栄に浴した。また、昭和五十九年には新たに「参集殿」が竣工、輪奐に一層の光彩を加えた。幾歳の春風秋雨ありと云え、我が日本の神々は、徒に腕力や智力を以て秘と嚇し掠める逆賊を懲らし、朝夕に忠実な國民を援け、まごころ篭めて働く人々を庇い、而して、邪心無き老若男女や、寄る辺無き遺族に啓示垂れ給うなど、皇室を尊崇し、公私を違えず、最も大義名分を明らかにする處に光被し給うのであります。」射水神社から4㌔ほど北の古矢部川左岸の二上山が神体山で、往古より二上山の麓の二上という地に鎮座していたが、明治に入り、現在地に遷座するにあたり産土神をなくす二上の氏子の反対により、古社地にも分社が残され、1875年(明治8)に現在地の高岡城址に遷座した。こうなると二上山には行きたいところ、プランナーのかみさんの表情にはその余裕はなさそう。高岡の町は1821年(文政4)と1900年(明治33)に大火に見舞われ、なかでも明治の高岡大火では市街地の約6割を焼き尽す大きな被害をもたらしたようです。現在の姿は大火により社殿を焼失、二年後の1902年(明治35)に再建されたものです。日本海側はこうした大火は起きやすいけれど、地元のに住む人の英知で都度復興してきた。伽藍から古びた印象を感じないのはそうした経緯もあるのだろう。手水舎2015年(平成27)に斎行された遷座百四十年祭の記念事業の一環として竣工した新しいもの。この時期は梅が見頃を迎えるようだ。一ノ鳥居左右に梅。紅梅解説。遷座の際に二上の地より移されたもの、樹齢は400年を超えるようだ。手水舎脇の紅梅はこの梅の孫にあたるらしく、そうした事から子孫繁栄や不老長寿の象徴とされ、幹にできた空洞がハート形に見える?ことから縁結びの御神木として良縁を求める参拝客が多いそうだ。一ノ鳥居、木造の神明鳥居は2015年の伊勢神宮の豊受大神宮の北御門を移設したもの。外拝殿・拝殿全景直線的でシンプルな簡素な外観は伊勢神宮の「唯一神明造」に基づいているという。右斜めから、千木は4本、残念ながら本殿を垣間見ることは叶いませんでしたが、伊勢神宮を踏襲した造の様です。内削ぎの千木とシンプルな外観に相応しい上品な飾り金具。銅板葺の屋根ですが、もともとは杮葺きの屋根だったようです。拝殿正面に掲げられている扁額。第12代加賀藩主の前田斉泰の筆によるもの。拝殿から幣殿方向の眺め。もともとは内開きの扉が付けられた中門で注連縄の上方に「射水神社」と記された扁額が掲げられいますが有栖川宮熾仁親王のご真筆だそうです。拝殿から大鳥居方向の眺め、この先には摂社高岡市護国神社、外堀に架かる春駒橋を渡ると高岡大仏のある大仏前通りに続く。一ノ鳥居解説。この紅白の梅が印象に残る「越中國一之宮 射水神社」です。3月末の園内では春の妖精「カタクリ」が春の訪れを告げていました。2021/3/23「越中國一之宮 射水神社」創建 / 不明主祭神 / 瓊瓊杵尊住所 / 富山県高岡市古城1番1号関連記事 / 富山県「黒河神社」 03.23.24 越中國、能登國、加賀國一之宮巡り黒河神社から車アクセス / 黒河神社➡麺屋いろは➡小竹藪駐車場まで約30分程
2021.05.05
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3月に石川県の加賀國一之宮 白山比咩神社を訪れ、昼食をとるために立ち寄った、石臼手打蕎麦「草庵」、こちらがなかなか美味しくてお店の感じも良かった、その近くに「薬師寺跡」の史跡もあり記載する事にします。白山比咩(ひめ)神社の東側を伸びる県道103号線、「草庵」は神社から県道を北に5分ほど走った山間にあります。県道脇には小さく「石臼手打蕎麦 草庵」の看板がありますが、目印とするには目立たないかもしれません、現に自分達も一度見落として引き返しています。入口さえ間違えなければ草庵は真っすぐ進んだ右側に写真の様な姿で見えてくるはずです。外観は古民家をリノベした白壁と木の質感を生かし周囲の景観にマッチした落ち着いた外観。 店舗入り口に薪が置かれ雪深い土地柄を感じさせます。駐車場は突き当りを右に入った両側に用意されています。営業時間は11:30という事で開店まで10分程ありました。入口にはウェイティングボードがあり到着順に記名、記名順に呼び出してくれるようでした。大きな木々の木陰で開店まで待つも良し、周囲を散策するも良し、座って待つにはもったいないロケーション。突き当りの高台にお堂と解説板らしきものが目に留まり散策がてら寄ってみました。解説板には「白山市指定史跡 薬師寺跡」とある。訪れたのは3月24日、汗ばむ陽気ですが桜にはまだ早い。室町時代から戦国時代にかけてこの辺りには「薬師寺」があったようで、その寺跡のようです。薬師寺は京都にあった法勝寺の末寺、比叡山延暦寺根本中堂と同じ薬師の木彫仏を祀っていたとされるようです。この時代、清沢源得寺も建立されたが、享禄四年(1531年)に加賀・能登一帯で起きた大小一揆の争いでこの地は戦地となり金劔宮や清沢源得寺、そして薬師寺も戦塵と化した。後に小原薬師寺が比叡山延暦寺と関係があった事から、この地区では日吉社(神仏分離以前は滋賀県大津市の日吉大社と延暦寺は同じ団体であった)を祀り、昭和29年(1954)に旧鶴来町に編入された際に町名が現在の日吉町になった。日吉町の由来は社名からきているようです。境内には遺構らしきものは見当たりませんが、現在はこの薬師堂と呼ばれる小さな堂があるのみでした。この薬師堂について解説されていないのが残念で少し調べて見ました。白山市の薬師堂の解説が見つかり、以下のように紹介されていました。「石切小原といわれていた現鶴来日吉町にある寺跡です。薬師寺に関することは、室町時代の文明17年(1485)の「実隆公記」の記録に記されており、鶴来地区に残る数少ない確実な寺院跡で、現在は小さな祠が建立されております。」と云うのが見つかった。残念ながら知りたいことは分からなかった、それどころか「石切小原」なる興味深い地名まで出て来た。堂に掲げられた額は外観も同様に劣化もなく比較的新しそうです。薬師堂とあり、現在も薬師如来が祀られているようです。短い時間でしたが「薬師堂」はここまで、お店が開いたようなので「御飯」です。先程までは距離を保って静かに待っていたのに、開いた瞬間その秩序は吹き飛ぶ。お店側はコロナ禍に対応するためスタッフも減らし、席も間引き密を避ける配慮をしてくれています。呼ばれてもいないのに入口に詰め寄る姿はどうなんだろう。お国はこんな事に気を使わなくても安心できる世の中に「早く」してもらいたいものだ。適度な音量でジャズが流れる店内、少し照明を落としステンドグラスランプの明りが強調される。蕎麦やとは思えない落ち着いた空間です。かみさんはあらびき十割蕎麦、「限定」の文字には相変わらず弱い、自分は十割蕎麦を注文。お茶と共に出される「そばかりんとう」、これが結構素朴で面白い味でお茶に合う。十割蕎麦到着。ランプの優しい明りに照らされた蕎麦、いい雰囲気です。蕎麦は若干太めに思え、上品な盛り加減「大盛にすべきだったか?」かみさんの蕎麦が来ないので「待て」状態、何もつけずに蕎麦を少しだけ頂く。口に含むとほんのりと蕎麦の香りが広がり、もっちりした食感です。待つことしばし、かみさんの限定がやってきた。これかみさんストロボ焚くもんだから粗挽きの色合いが飛んでしまった。汁は出汁の風味が利いた上品な甘味のものです。薬味はおろしとわさび、そしてネギ。蕎麦にワサビは外せないが、こっち方面に来るとワサビには悪いが蕎麦はおろしが一番おいしいと感じる。何だろうね、越前蕎麦もそうだけど、大根の種類が違うのか理由は分からないが、蕎麦にはおろしがベストマッチ。蕎麦湯もなかなかおいしものでした。最初は盛が少ないなと感じていたが食べ始めると結構ボリュームがある。若い頃の幻影と現実には相当ギャップがあるようだ。足りないと感じるくらいが美味しい量なのかも。次にこちら方面に訪れる機会があれば覚えておきたい店。白山比咩神社参拝の折には寄ってみるのもいいかもしれない。2021/3/24「石臼手打蕎麦 草庵」定休日 / 毎週木曜日営業時間 / 11:30~16:00℡ / 076-273-1090所在地 / 石川県白山市鶴来日吉町ロ32「薬師堂」創建 / 不明本尊 / 不明所在地 / 石川県白山市鶴来日吉町2
2021.05.03
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今年も何処にも出かけられないGWとなりました。人の集まる場所を避け、自発的な個の選択、それも息苦しくなってくる。運動不足の解消と外気を吸いにJR中央線沿いを歩いている、前回は大曽根付近まで来て雨となり途中で引き返していました。心がけが悪い様で天気が安定しない。今日も晴れてはいるが黒い雲が漂う怪しい天気。今回は大曽根から山田天満宮を左に見て矢田川を渡った下街道と中央線の間に位置する新守山方向を歩いてきました。国道19号線沿いに矢田川に架かる天神橋を渡り右の堤防道路を進み、堤防下に下りて一筋目を左に進んだあたり、守山区新守山、旧町名だと馬場で見かけた光景。周辺は民家が立ち並ぶ一画、地域のお花畑ではないでしょうが、土が露出した殺風景な光景よりは色鮮やかな花が咲き誇るこの光景は癒しにもなる。その通りの先に花の色合いに劣らぬ程鮮やかな赤で塗られた覆屋が目に止まる。守山で赤と云えば津島社か天王社と勝手に想像してしまう。個人宅の間口の片隅に祀られているこの社、外観からは天王社か津島社なのか分かりません。先生によれば天王社で良さそうです。なんとなく以前は軒下で祀られていた屋根神さまの雰囲気が漂います。だとすると熱田社や秋葉さんなどの札が収められているような気がします。覆屋の手入れが良く、塗装が光り輝いている。恐らくこちらの民家の方や町内の方々によりまめに修繕され、町の氏神さまとして地域の結びつきに重要な役割しているのでしょう。左の枠にはフックが付けられている事から祭礼には提灯が掛けられるのだろう。詳細は分からないけれど、町内のこうした小さな神社が綺麗に維持されているのを見ると地域の結びつきの強さが伝わってくる。地域の守り神、通りすがりの者に由緒は不要かも知れない。しかしここを行き交う次の世代に繋ぐためにも、今伝えられることを掲げてもいいのかも知れない。2021/5/02天王社創建 / 不明祭神 / 不明所在地 / 名古屋市守山区新守山徒歩ルート / 市営地下鉄大曽根から徒歩30分程関連記事 / 東区大松町5 地蔵堂(仮称)それにしても怪しい空模様同様、コロナの暗雲から抜け出す見通しが付きにくい。片やカウントダウンだけは確実に進んでいく。
2021.05.02
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熊野三山を巡った際に車中泊で利用した「道の駅 たいじ」静かなロケーションと綺麗な設備は快適な車中泊を提供してくれました。昨日ここを通った時に山側に玉垣で囲われた、赤い屋根の神社を見かけていた、近ければ寄ってみようと思っていたが道の駅からこれ程近いとは。日の出と共に目覚め、道の駅から海岸沿いに延びる国道42号線を歩き出す。穏やかな森浦湾を眺めながら海岸線を歩く、道の駅から5分くらいです。「非核平和自治体宣言」、1980年にイギリスのマンチェスター市が核兵器の廃絶や軍縮を求める活動として「非核兵器地帯」を宣言し、その後世界的に広まり、国内でも9割近くの自治体が宣言しているという。ここ太地町も1988年にこの運動を宣言した。自治体により内容は様々ですが、3.11以降原発についても言及する内容が盛り込まれてきているようです。途轍もなく多くの非日常を引き起こし、日常に戻すには莫大な金が必要で、人の英知が自然を超越できなかった事を当事国として学んだ、はず・・・・・穏やかな森浦湾とこの宣言、学ぼうねと語っているようだ。小高い山を背に、森浦湾を望む様に鎮座する神社。訪れた時期が2月末、樹々の芽吹きが勢いを増す前という事もあり、あの赤い屋根は国道を走っていても目立つ存在です。苔むした境内、左に社務所、本殿と境内社が祀られているようです。鳥居左の石標には「蛭子神社」とあります。海を前にして佇む姿は鯛を持ち微笑む恵比須さまを連想します。後日、和歌山県神社庁の解説から主祭神は事代主神とされていました。蛭子神社の社殿棟札には「文化十三(1816)年寅九月」とあるそうで、文化年代以前より昔から、生産の神さま、漁業の神さまとして近隣の人々の信仰が厚かったという。現在「森浦地区住民の氏神さま」として祀られ、崇められている。神社庁解説の続きは以下『紀伊続風土記』によると、太地町森浦は那智荘の森浦村にあたり、「大田荘市屋村の東十九町許にあり、一小海湾なり、村の艮三町に元浦といふ所あり、村居旧其地にあり、元浦に糟森といふ山あり、村名是より起れり」とある。村内に「小祠一社」「小堂一宇」あり、この小祠1社が蛭子神社であろう。与根川河口の沖積地に位置し、森浦湾に面し、太地との境の旦那山(城山)に泰地氏の頼子城があったと伝える。近世の森浦村は、太田組に所属し、村高は『慶長検地高目録』で53石、『天保郷帳』『旧高旧領』とも62石、浅野忠吉領時代では高53石余、家数11軒であった。文政元(1818)年の『森浦村郷帳』によれば、村高53石余、田畑反別田3町4反余、畑6反余、家数20軒、人数132名、船数7、網数6であった。(『太地町史』より)半農半漁の性格を持ち、水主役を負担する浦方とされた。明治4年新宮縣を経て和歌山縣に所属、明治6年には、戸数38戸、男102名、女98名であった。明治12年東牟婁郡に属し、明治22年太地村の大字となった。明治24年には、東西16町、南北14町、戸数42戸、男120名、女127名、小船16であった。大正14年からは、太地町の大字となる。森浦の面する森浦湾は、湾口から湾央にかけてくびれ、湾奥の森浦は袋状になっており、湾底は粘土混じりの砂礫質で碇のかかり良い上に、三方を山に囲まれている為、天候の悪い時でも波が静かである。帆船時代には、太平洋における屈指の良港として、台風襲来時期には熊野灘を航行する大小の避難船が100隻を超えて湾内を埋め、帆柱が林立したという。「帆柱が林立」、確かにここから眺める湾はさもありなんだ。想像しただけでも壮観だっただろう。穏やかな湾に筏が浮き、気分的にはシーカヤックで繰り出したくなる。赤い玉垣で囲われた本殿域は赤い覆屋の中に流造の本殿と右に不明社鎮座し、右に赤い鳥居の稲荷社。拝所から本殿全景。切妻妻入りの赤い覆屋は良く目立つ、正面からは本殿は見通せない。いつものように僅かな賽銭大きな願い、早朝の締まった空気が漂う境内に拍手の音が普段より大きく聞こえる。本殿域の真紅の社、携帯では拡大も限度がある、詳細は不明です。稲荷社からだと本殿は流造なのが分かります。手前左が稲荷社。境内右の御神木。いかにも何か宿っていそうな趣だ。常夜灯には文政(1818~1831)と刻まれているが、下は・・・・上半分が読み取れない。境内から森浦湾が一望できる。薄暗い境内に差し込み始めた日差しは、苔むした参道を緑の絨毯の様に照らし始めました。蛭子神社のお弓神事は、海を清め航海の安全や大漁を願う神事だという。古くから伝わる神事で、宮司が社に向かい1本の矢を放つと、それを合図に人々が境内になだれ込み、セミクジラに似せて作られた「セミ」と呼ばれる木彫りの縁起物3体が取り付けられた的を壊し、セミや的の破片などを持ち帰るものだそうだ。古代捕鯨発祥の地ならではの神事かも知れない。2021/02/22森浦『蛭子神社』祭神 / 事代主神創建 / 不明境内社 / 稲荷神社,不明社祭礼 / 10月17日(10月第3日曜日)、特殊神事 お弓祭(1月8日)所在地 / 和歌山県東牟婁郡太地町森浦139関連記事 / 「道の駅たいじ」
2021.05.01
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