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アカデミー賞の授賞式をライブで見た。この手のものに特に関心が高い訳ではないが、1年前から契約しているWOWOWの独占中継ということで、見ないと元が取れないといった貧乏根性も少しあった。主演男優賞はショーン・ペン(Sean Penn)が獲得した。2003年の‘ミスティック・リバー (Mystic River)’でも獲っているから2度目となる。今までは‘ミスティック・リバーのショーン・ペン’と紹介されていたのが今後は‘ミルクの・・・’或いは‘オスカーに2度輝いた・・・’になるのだろう。ただナリポン的には‘Sean Penn is always Sam.’なのだ。これは勿論2001年の作品‘アイ・アム・サム (I Am Sam)’のせいだ。知的障害を持つ父親役を演じているがこれが見事。娘役を演じた‘アメリカ版安達祐実’ダコタ・ファニングと交わす親子の姿は文句なしに感動的だ。知的障害者特有の言葉の発し方をするがそれが実に自然。そしてその言葉は単純だがそれ故にストレートで時に鋭い。その後彼の出演作をそれ以前の作品を含めて5,6本は観ているが、普通に話している姿がどうも馴染まないのだ。スタバで働きながら客全員に‘wonderful choice’と陽気に掛けている声が聞こえてきそうになってしまう。映画通や彼のファンからは私の狭さを叱られそうだが、私にとって彼はいつでも‘Sam’なのだ。実際に‘リチャード・ニクソン暗殺を企てた男 (The Assassination of Richard Nixon)’ではやはり‘Sam(uel)’を演じているし・・・。Sam役のショーン・ペンをベストとすることに異論のある人は沢山いるだろう。実際、私も今回の作品を観ていない訳で、観た後ではゲイ役の彼がサムに取って代わる可能性も否定できない。今日取り上げるもう一人の役者については異論はなさそうだ。‘蒲田行進曲’で‘ヤス’役を演じた平田満だ。シンガポール在住中に送ってもらったビデオで初めて観た。ソフトが少なかったせいもあって何度も観た。当時滅茶苦茶仲が良かった友人と台詞の覚えっこをした程だ。勿論、一番受けるのはヤスのパートだ。後で知ったが日本アカデミー賞で平田満が‘主演’男優賞、銀ちゃん役の風間杜夫が‘助演’男優賞というのは、中々よくわかっていらっしゃると思った。深作監督、風間杜夫、平田満、松坂慶子という同じメンツで作った‘上海バンスキング’には当然のことながら大いに期待したがこれが腹立たしい程の大外れ。単に蒲田行進曲の偉大さを再認識させるだけだった。役者としての平田満もそうだ。‘平田満はいつでもヤス’何とか好意的に見ようと努力しても‘ヤス’以外の彼は訴えるものに乏しい。役柄も嫌な人間を演ずることが多くなり、ますます気持ちが離れる。蒲田行進曲でいきなり150点なんて取ってしまったから、それが分母になってしまい、75点の演技でも50点にしか感じなくなってしまった。役者としては本人もその辺で悩むところだろうが、別に構わないじゃないか。年をとるとともに役者として成長するのが一般的だと考えたところで、だからと言って役者として輝くかどうかは別問題。平田満と言えば‘蒲田行進曲のヤス’と誰もが思い出せる作品で輝いていたことは映画史に残る。将来彼の訃報を伝えるテレビではあの階段落ちのシーンが使われることは間違いないだろう。訃報と言えば・・・。授賞式を見ていて最も感動したのは、日本の2作品が選ばれた瞬間でもなく、判官贔屓のナリポンとして‘スラムドッグ$ミリオネア’が‘ベンジャミン・バトン 数奇な人生’に圧勝したことでもない。‘I'll Be Seeing You’という私の大好きなスタンダード・ジャズの歌声が流れた追悼パフォーマンスで、最後に‘登場’したポール・ニューマンの姿を拝んだ時だった。因みにあの曲は数えきれない歌手が歌っているが私が一番好きなのは素直に‘Dinah Shore‘のやつだ。《追記》録画を再び見たら追悼シーンには‘KON ICHIKAWA’の名前もあった。但し映像は別人。‘ビルマの竪琴’?について語っている‘三國連太郎’だった。あれ、スーさんころされちゃったの?
2009.02.23
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世の中のオヤジ達は懐古主義が強すぎて自分の名画座通いには青春があったが、レンタル屋に通う昨今の若者には青春は無いとでも言いたげだ。いや、そんな暴論を吐きたがっているのは実はかれこれ10年以上映画館に足を運んでない私だけかもしれないが・・・。それでも病人の強みで、去年1年でも恐らく500本以上の映画を観ている。ソフトを自己調達するのもいいが、名作や旧作にはテレビもかなり使える。昨夜はNHKのBS2の黒澤特集‘用心棒’はマークしていたが、深夜にあった‘アメリカの夜’はノー・マークだった。正式な邦題ではその前に‘映画に愛をこめて’とあるのがやや押しつけがましい。30数年前に一度観たことがあるが鑑賞後ノートに何やら書いている。トリュフォー作品で期待したのにそれに裏切られたせいなのか、或いはまさに我が青春の蹉跌の中で何かに焦り苛立っていたのだろうか。アメリカの夜(DAY FOR NIGHT)女がアルフォンスと寝たのにあのロマンス・グレイのジェントルネスとテンダーネスはもはやひとつの偽善ではないか3日も絶食した猫はもう既にミルクの飲み方を忘れてしまったのだろうかよどみない愛情はまるで夜の急行列車だなんて気障なことを言ったって君は本当に夜汽車を見たことがあるのかい夜汽車なんて大嫌いさ闇の中にあんなに多くの忘れ物をして窓の外の存在を全く顧みない夜汽車なんて大嫌いさそれにどうして消防車から雪が降り弾丸も出ないのに音だけで人が死ぬのだバスが2秒遅れたからってあの街が生まれ変わる必要なんかどうしてあるんだ女に“あそこは俺のもんだ”と言ったところでどうにかなるとでもアルフォンスは信じていたのだろうか女が魔物か否かおまえが一番よく分かるのにどうして同じ質問を続けるんだどうでもいいけどジャクリーン・ビゼットの鼻が小川真由美のそれとそっくりでスクリプター役の無名の女が榎美沙子にあんなにも似ているのだろうか(昭和50年5月20日)内容も言葉も稚拙で晒すには恥ずかしいが、あの頃の迸る感じが自分には懐かしい。中ピ連の榎美沙子に時代を感じて‘あの人は今’風に調べてみたがどうやら消息不明らしい。
2009.02.05
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