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昨年の11月に愛知県犬山市にある 博物館 明治村 に行ったときの画像のご紹介です。明治村にはその外観や構造で、現代ではなかなか見ることがない建物が集まっています。建物や備品をアート的に楽しむ人、建物の工法が気になる人、あの時代の歴史を知りたい人、建物や備品や村全体の風景を写真の題材にしたい人、・・etc目的は本当にそれぞれです。自分なりにその空間を楽しむのもいいのですが、見るだけじゃなくもっと知りたい人のために、ほとんどの建物には説明をしてくれる無料のガイドさんがいます。 ⇒ ⇒ 各種ガイド 私も明治村に行きだして最初の数年間は、何を見ても目新しくて、写真を撮るのに夢中になっていました。でもここ数年は、撮りたい気持ちも落ち着いてきたので、時間が合えばガイドさんのお話を聞くようにしています。今回は2丁目にある 東松家住宅 をご紹介いたします。ただこれを撮ったのが約7カ月前なので、どの部屋の画像で、ガイドさんからどんな話があったのか、正直半分以上忘れてしまいました。ということで、画像の説明はホントざっくりです。東松家住宅に入ってすぐのところは商家の店先になっています。ガイドさんがまず、1階のいちばん奥にある座敷に案内してくれました。ここにはハレの日のごちそうが出ています。席に着くとこのような感じで食事になります。ハレの日のごちそうとして、ちらし寿司、蛤のうしお汁、野菜の煮しめなどがあります。住宅のいちばん奥にある庭です。ガラス窓に外から日が差し込んでいます。(11月終わりの午後2時半なので、太陽がかなり低い位置にあります。)ふすまの取っ手が洒落たつくりになっています。2階に上がってきました。上記リンクにある「路地に見立てた廊下」だと思われます。通り土間の3階まで吹き抜けになっているので、外からの光が差し込んで、昼間なら十分な明るさがあります。建物は角が直角になるほうが作りやすいのに、あえて斜めで作っているのですね。江戸末期は平屋だった家を明治半ばに曳家して2階と3階を増築しているため、この家では同じ階でも段差がいくつかあります。ここは廊下を進んだところにある茶室です。2階の奥の客間ですが、ガイドさんが面白いものを見せてくれました。一見するとただの墨蹟窓(ぼくせきまど)に見えるけど、・・・廊下の仕切りを引くと、墨蹟窓から半月が現れます。客人をもてなす趣向の一つだそうです。ここは3階まで吹き抜けになっている土間の上部なので、風通しの窓があります。採光と通気の良い、昔の日本家屋ですね。(次回の日記に続きます)
June 28, 2020
昨年の11月に愛知県犬山市にある 博物館 明治村 に行ったときの画像のご紹介です。この明治村は我が家からは車で行きやすい場所にあり、気が向けばすぐに行けることもあって、私はかれこれ10年以上、年間パスポートを更新しています。ここ数年は毎年、もう年パスはやめようかと思いつつ、でも急にまた何かで行きたくなると困るので、結局は更新を続けています。この11月のときも年パス更新のために行きました。11月の明治村はちょうど紅葉が綺麗なときで、空が晴れて青空なら、歴史的建造物と赤や黄の葉が最高のコラボを魅せてくれます。このときは残念ながら曇り空だったので、風景画像はまったく残念なものになりましたが、それでも建物の中をじっくり見ると、今まで気が付かなかったことの再認識があったりして面白いものです。今回は4丁目にある 半田東湯 をご紹介いたします。年パスがあると平日の駐車料金は無料になるのですが、北口側駐車場の指定があります。北口から入ったところは5丁目エリアになってて、5丁目の聖ザビエル天主堂の横の階段を下りてすぐのところに半田東湯があります。(隣は呉服座)のれんをくぐって中に入ると番台があります。特に何もないシンプルな台で、両脇には客の銭湯代を入れる箱があります。こちらは女湯側です。女湯側の湯屋です。上記リンクの説明によると、湯を張って身を沈めるのが「湯屋」で、湯気に身を包む蒸し風呂が「風呂」だそうです。この時代の決まり事が書いてありました。男湯と女湯にまたがるように、天井に湯気抜きが作られていました。仕切りの壁面に大きな鏡があります。このスタイルは、現代の町の銭湯でもよく見られます。こちらは男湯側です。この半田東湯は、脱衣スペースにしても風呂場にしても、本当にこじんまりした銭湯です。女湯側にあった決まり事の一部を抜粋して現代の口語で書いてあり、また風呂屋でどんな仕事があるかが書かれています。男湯側だけに設けられた、二階に上がる階段です。湯上りの男性客は二階で飲食や娯楽を楽しんでいました。(TVでは何か月か前に松方弘樹さんの『遠山の金さん』でこの光景がありました)
June 27, 2020
昨年10月に京都府舞鶴市を訪れた際、その帰り道に偶然見つけた常高寺に立ち寄ったときの画像です。舞鶴市にある 海上自衛隊 舞鶴地方隊 の施設を見学するために出かけたものの、初めての舞鶴訪問です。移動や見学に要する時間がわからないので、行きは高速道路で舞鶴東ICまで行きました。でも帰りは高速代を浮かしながらのんびり帰ろうと、国道27号を東に進み、琵琶湖の西の高島市を目指しました。(ここまでくればあとは道がわかるから)その途中で運転しながらでもパッと目に入った「浅井三姉妹、初のお墓、常高寺」みたいな看板。家からはなかなかこんなところまでは来られません。せっかくなので寄ってみました。案内板に従って細い道を進んだら、お寺の門のところにきました。門の前に駐車場があるので、そこに車を停めて中に入っていきました。大河ドラマ『江』は、世間的な評判はイマイチでしたが、私はけっこう好きでした。歴史上の人物やそれを演じた役者の名前が、今まで知らなかった人にも広まるから、1年かけてやる大河ドラマはやはりすごいですね。お寺の仲に入っていくと、左手のほうに案内が出ていました。国道27号線をまたぐ通路(=後瀬山トンネルの上)が、かなり高い位置にあります。国道の反対側にきて、やっと墓所に着いたかと思ったら・・・もうひと踏ん張り、上のところまで行かなければなりませんでした。やっと常高院(お初さま)の墓所に着きました。周囲は7人の侍女や常高寺に得度した尼僧たちのお墓に守られています。小浜市によるお墓の説明です。お寺のほうまで戻ってきました。たしか画面左手に庭園があって見学もできたのですが、ここから家まではまだまだ遠いので、この日はそのまま帰路につくことにしました。
June 22, 2020
今日は気持ちよく晴れ、この時期らしい気温になっていますが、昨日は最高気温がナント、21.7℃でした。もう長袖のものはいらないだろうとタンスにしまったのに、また引っ張り出して着ていました。気候によって日常生活にも影響が出るものです。今週初めの月曜日にドラッグストアに買い物に行ったとき、レジがありえないくらい長蛇の列でした。でも考えたら、その前の5日間ずっと雨でした。カートに紙類、食糧、洗剤とかいろいろ満載の人が多かったから、雨だと出かける気になれなかったのが、やっと晴れたから日用品の買い物をしようかと、人が集中したのでしょうね。多少の面倒はあれど、梅雨は大事な日本の水資源です。特に夏場の農業や街中の日常生活の中で、水を気持ちよく使えるよう、今の時期に適度に雨が降ってダムや森林に保水し、基本的に雨水が頼りの街路樹や公園の木などは水を吸っておいてほしいものです。そういえば昨年の5月末にも、異様なまでに暑い季節外れの気候がありました。北海道の東側の佐呂間や帯広のあたりで気温がグングン上昇していき、この日に全国で一番暑かった場所は、網走に近い佐呂間の39.5℃となりました。ちなみにこの日の佐呂間の朝の最低気温が13.5℃。いつものように北海道の朝を迎えたら、その後はありえない一日を迎えることになったのでした。これに関しては気象予報士の河津真人さんが、北海道の東側で起こったことを、時間を追ってUPされてました。 ⇒ ⇒ こちら (画像の下にある「このスレッドを表示」をクリックすると、 その後のスゴイ展開が見られます)そしてこの日のことは、 “令和ちゃん” なる女の子が登場して、異様な暑さを和ませてくれました。 ⇒ ⇒ #令和ちゃん 昨年5月は元号が令和に変わったばかりでした。この世にデビューしてまだ間がない “令和ちゃん” が、5月の設定温度がわからなくて設定を間違えた、ってことで気持ちを収める、この優しさがいいですね。ただこうして私たちが優しい心でいられる日常を送れるのも、陰で支える人々がいてくれるからです。例えば、部屋の中が暑かったらエアコンを使う、その電力はどこからきているのか。エネルギー資源の乏しい日本は原油の輸入を海外に頼り、そのほとんどは遠い異国のアラビア半島からきています。サウジアラビア:約38%、アラブ首長国連邦:約25%カタール:約8%、クウエート:約8%合計約88%もの原油を中東地域から輸入しています。平和な国、日本にいるとピンとこないのですが、原油を積んだタンカーがアラビア半島から日本に来るまでには、海賊が出没する地域を通らなければならないのです。その一つがアラビア半島の下にあるアデン湾で、そこを通る日本の船舶が安全に航海できるように海上自衛隊が守っているのです。どのように守っているのかは、こちらでご覧になれます。 ↓ ↓出典:統合幕僚監部ホームページ ソマリア沖・アデン湾における海賊対処 上記リンクの中ほどにある地図の下に説明がありますが、・まずアデン湾の東西に一か所ずつ定められた地点に、 護衛艦と護衛対象の民間船舶が集合します。 ・アデン湾を護衛船団が航行する際には、船団を護衛艦が 守るとともに、護衛艦に搭載された哨戒ヘリコプターも 上空から船団の周囲を監視しています。 ・このように昼夜を問わず船団の安全確保に万全を期しつつ、 アデン湾約900kmを2日ほどかけて通過していきます。 昼夜を問わず、海上保安庁と協力してアデン湾の警戒監視を行い、その活動は日本の国益を守り、さらに国際貢献もする重要な任務なのです。この活動のために自衛隊は、アデン湾の西の端にあるジブチ共和国に活動拠点を置いているのですが、ジブチという国は、北緯12°・東経43°にあり、世界一暑い国とも言われます。そんな過酷な環境で続く長期滞在だけど、隊員の皆様は自分の心身の管理に努め、日本食や日本の家族からの届くものに癒され励まされながら、任務に頑張っておられます。 ⇒ ⇒ こちら 私が日本で平和に暮らし、エアコンつけたりして快適な生活が送れるのも、この国を守り、様々な仕事でこの国を支えてくださる方々のおかげです。本当に、ありがとうございます。愛知県に住んでいると、陸上自衛隊と航空自衛隊は県内及び近隣の県で存在を感じることができるのですが、海上自衛隊だけは遠出が必要となります。舞鶴もまた行きたいし、いつか横須賀に行ってみたいし、あと12年前に行った呉もまた行ってみたいなあ。
June 20, 2020
新型コロナウイルス拡散防止のために、政府が4月に配布を発表した布マスク。なかなか届かなくて首が長くなっていましたが、昨日ようやく我が家に届きました。国内の全戸に向けて1戸あたり2枚ずつ配布するために、1億3千万枚を調達して配送するという事業です。この話がでた当初は、コロナ対策とはいえ布マスクを1戸にたった2枚配ってどうするのか?といった意見もよく見かけました。しかしこの布マスク配布のおかげで、世の中の流れが本当に大きく変わりました。それまではマスクといえば使い捨てが基本の紙マスクだったのが、国民の間で「マスクは洗える布でいい」という考えが定着したのです。まあ布マスクそのものは、紙マスクが品切れとなった2月頃から個人によるハンドメイドのものが出だしたのですが、政府による布マスクの配布決定でその流れが一気に加速したと思います。会社経営者である永山久徳氏が、我々にその意義の深い部分を教えてくださってます。 ⇒ ⇒ アベノマスクで起こった効果 さらに永山氏は、これの事業費260億円についても、経営者の視点で言及されてます。「不織布マスクの購入価格が80円から40円に下がり・・ (中略)・・中国への支払いもそれだけ減るのでアベノ マスクは高いどころか実質タダみたいなものです。」 ⇒ ⇒ こちら なるほど、こういう数字が出るのですね。政治経済が苦手な私には全く考えが及ばなかった視点であり、すごく勉強になりました。ありがとうございます。日本で暮らす日本が好きな外国人の方々も、この布マスクの配布をとても喜んでいて、「大切に使わせていただきます」と言ってくれてます。なおさら自国民として、粗末にはできませんよね。ただこの政府からの布マスクが、様々な理由で自分には必要ないという方も多々あるようです。そこで、このマスクが不要な人に寄付、または物々交換してもらって、仲介の人がコロナ第2波の到来に備えて、小中学校や自治体や福祉施設など予備を必要とする所に寄付をするという動きもあります。NPO法人に寄付したり、あるいは酒屋さんでビールと交換になったり、京阪神ではスーパー銭湯がで入浴料金の代わりになど、他にもいろいろあるようです。自分は必要ないという方は、未開封のままにしておいて、仲介の場所に持参または郵送くださいね。私は、せっかくの国からの頂き物だし、生地がガーゼなのでイザというときににはふつうにガーゼとしても使えるので、非常用の袋にこのまま保管しておこうと思っています。(明日まで天気がいいので、いったん洗おうかどうか、迷ってます)まだ本格的な暑さにはなってないけど、四つ足組はすっかり夏モードになってます。保冷剤を冷凍してタオルでくるんで使っていて、ちょっと置いておいたら小太郎が枕にして寝ていました。ひんやりして気持ちがいいみたいなので、そのまま小太郎に使ってもらいました。
June 16, 2020
今日は軽く、私の近況をネタにしました。先日やっと、車のドライブレコーダーを前後型にしました。5年前に今の車を買ったときに、何かあったときのためにと、そのとき前だけはドライブレコーダーをつけておきました。そのうち後ろも欲しいなあと思ってはいたものの、特に急を要することもなく、伸び伸びになっていました。ところが先日、いよいよドラレコ前後型をつけなければと思う事態が発生しました。私が名古屋に行って家に戻るときに、自分の目の前であおり運転をする車があって、その目撃者になったのです。後ろから突然猛スピードで走ってきたかと思ったら自分の目の前で蛇行運転を始め、どうやら私の前にいる車を止めようと右から左から幅寄せを繰り返し、助手席のガタイのいい男が窓を開けて半身を出して怒鳴っていて・・・こんなの見ているだけでも生きた心地がしませんでした。とりあえず全部のドアをロックし、車間距離を十分とって巻き添えをくわないようにし、信号で走る道を変えてその車から離れることができました。(ドラマみたいに次のどこかの交差点で、またこれに出くわしたらどうしようとハラハラドキドキ)ところがこの件で何日かしたら警察から電話がかかってきて、私の車がどこかのカメラに映っていて、ドラレコの画像を提供してほしいとありました。まだ上書きされていなければと思って画像を見たら、なぜかその日の数日前のデータが残っているのに、その日を含めた3日間が、記録からすっぽりと抜け落ちていたのです。この瞬間、ドラレコ買い替えを決めました。今回は私は目撃者だったから警察には事情を話してオシマイだったけど、もしこれが事件・事故の当事者だったら、私のような口下手は相手にいいように丸め込まれてしまいます。自分の言葉の代わりに機械に雄弁に語ってもらうためにも、機械を新しくしました。ちょうど6月は5年の車検だったので、ついでにドラレコの取りつけもやってもらいました。まあ少々トラブルがあって1週間くらい悶々としてたけど、それも解決したので今は安心して車に乗っています。UPした画像は、我が家の庭の花たちです。冬の間は枝だけだったアジサイが、春になって葉っぱが出てきて、葉っぱが大きくなってツボミができて、花を咲かせました。(1月に買ったカメラのピントの合わせ方が、まだマスターできてません)今年の春に初めて植えてみたホウレンソウ。なかなか背丈が伸びず、いったいいつになったら食べられるのだろうとずっと様子を見ていたら、ついには花が咲いてしまいました。ミョウガが恐ろしい勢いで成長しています。特に5月の後半からは、一晩で5センチくらい伸びていると思える日もありました。こちらも今年初めて植えてみて、どんな花が咲くのが待望だったユリです。鉢を適当に並べておいたら、赤と白が並んでいました。ユリの高さはこれぐらいです。(マロン君と柵を基準に)やがて白も開花し、赤と白が並びました。それ以降、連日雨が続いていて花の観察ができていないので、明日晴れたら他のツボミはどうなったのか確認します。
June 14, 2020
今年の春の名古屋城の画像をご紹介します。新型コロナウイルス感染拡大防止のために名古屋城は4月10日から入城できなくなっていましたが、今月6月1日より再開園していました。本丸御殿も昨日の6月12日より内部の観覧が再開となり、金シャチ横丁も通常営業に戻りました。 ⇒ ⇒ こちら 今年の3月の終わりから4月の上旬までですが、私は名古屋の実家の母が入院していたため、ホント毎日、名古屋城の前を行きも帰りも通過していました。外はちょうど桜の季節で、私は名古屋城の石垣の桜の咲き具合を、運転しながら車窓から眺めていました。そのころ世の中は、コロナの影響で多方面にわたって行動の自粛が呼びかけられ、不要不急の外出は控えるよう言われていました。東京などでは花見だけでも人が大勢集まる有名な公園では入場不可となっていまいした。なので、通るついでとはいえ私も名古屋城に行くのは控えたほうがいいのかと、桜が満開の最高の時期も車窓から眺めておしまいでした。とはいえ、この時の名古屋は、東山動植物園などの戸外の施設はまだ入ることができました。名古屋城も本丸御殿は入れないけど、城内の散策だけならOKでした。毎日目の前を通るのにこのまま見過ごしてしまうのもちょっと残念だったので、いよいよ入城不可となる前日の4月9日に、名古屋城へ行ってきました。正門前の駐車場に車を入れて、まずは加藤清正公の銅像があるほうへ。桜は半分ほど散っていたけど、まだ十分に鑑賞できました。名古屋城の正門前です。桜が満開になると、通路の上が桜のアーチのようになります。例年のこの時期ならここも人があふれているけど、今年はホントに人がいません。人間社会は新型コロナウイルスのために大変なことになっているけど、季節のままに生きる花は変わらず美しく咲いてました。内堀の外から見た名古屋城の天守です。耐震性の問題等で今は中に入ることはできないし再建も進まなくて、まだこのままです。不明門から内堀の中に入りました。正面に天守があって桜の大木があるこの本丸広場は、記念写真の人気スポットです。例年のこの時期なら、たとえ平日でも海外からの観光客を含め、名古屋城にはたくさんの人が桜とお城を楽しむためにやってきます。しかし今年は本当に、あり得ないくらい人がいなくて、城内はガラガラでした。閉鎖中の本丸御殿です。私、何度か本丸御殿を見ているけど、門が閉まっているのは初めて見ました。本丸御殿の南の面です。建物の外観をこんなにもスッキリと見たのも初めてのことです。表二の門から内堀の外に出て、西の丸広場(正門の前)に来ました。この桜並木の右手に石垣があり、石垣の上から見る対面の桜の大木が圧巻なのですが、この日は石垣に上がれませんでした。(この日から立ち入り禁止になってました)桜の季節に人がほとんどいない名古屋城を見たという、珍しい体験でした。ただこんなことは、今年限りにしたいものです。午後4時前でまだ明るかったので、水堀のほうも覗いてみました。例年なら視界を遮っていた植え込みが、今年は葉をカットしたとかで、急にすっきりと見やすくなっていました。ここでは桜と石垣と菜の花のコラボがあります。半分花びらが散ってしまっていたけど、今年も名古屋城の桜を堪能できました。見ごたえのある大木の桜並木を植えてくれた先人と、枯れないようにずっと管理してくださっている方々、本当にありがとうございます。
June 13, 2020
2020年NHK大河ドラマ 『麒麟がくる』 の感想です。この回は戦国ファンならきっと誰もが、この場面をどう描くのかが気になる、1560年の桶狭間の戦いでした。2万もの大軍で駿河を出た今川義元に、わずか3千の兵で勝利した織田信長。歴史家が想像するに、おそらく義元が桶狭間にいたときには5千ほどの兵力であっただろうと言われていますが、なぜ2万の兵が5千になったのか。また道中の途中で休息するにしても大将は周囲を見渡せる見晴らしのよい高台にいるのがふつうなのに、なぜ義元が丘から見下ろせるくぼ地にいたのか。こういったことが「引き算」と「雨宿り」という理由で状況が動いていったという、なかなか面白い展開でした。そして突然現れて帰蝶さまを激しく動揺させた奇妙丸くん。テロップで奇妙丸が出てきたとき、まさかこの時に帰蝶に会わせるのか?と思ったけど、やはりそうでした。突然、夫が別のところで設けた子が現れて、幼子と尾張の行く末を頼むと言われて、もうわけがわからない、自分の身に何が起こっているの?って感じで、帰蝶さまは涙すらできない大混乱でした。「天から降ってきた」、まさに青天の霹靂ですね。そして何よりすごかったのは、桶狭間で織田方が今川方に襲い掛かった合戦シーンでした。「狙うは今川義元ただ一人!」大将・織田信長(染谷将太さん)の檄を胸に刻み、義元に狙いを定めて一斉に攻撃開始です。毛利新介を演じた今井 翼さん、こういうときに魅せ場をつくれるのはジャニーズならではの華でしょうか。片岡愛之助さんの今川義元も他の戦国ドラマではなかなかない本気の殺陣だったし、義元の近習・朝比奈親徳を演じた山口馬木也さんの迫力ある殺陣はもう最高でした。ただ山口馬木也さんは今回はやられ役のため殺陣のシーンが短すぎて残念でした。個人的にはもっと欲しかったです。さて新型コロナウイルスによる緊急事態宣言が全面解除になったことを受け、各地の大河ドラマ館も再開されました。(それぞれにコロナ拡散防止のための注意事項はあります) ↓ ↓ ↓ 岐阜 大河ドラマ館 ぎふ恵那 大河ドラマ館 可児 大河ドラマ館 京都 大河ドラマ館 また『麒麟がくる』 の全国巡回展のほうは、このような予定が出ています。 ⇒ ⇒ 全国巡回展 そしてこちらも、興奮のさめやらぬ感動・感激の投稿がたくさん出ています。 ⇒ ⇒ #麒麟がくる 永禄3年(1560)駿河の今川義元が尾張に侵攻し、大高城と鳴海城はすでに今川方の手に落ちていて、義元が率いる本隊は沓掛城まで進軍していました。大高城に入った松平元康は密かに織田方の水野信元の間者である菊丸と会っていて、母の於大の方を通じて今川から離反するよう求められていました。しかし今の松平家には今川義元に逆らう力はなく、元康はやむなく義元の命に従って5月19日早朝、丸根砦を攻め落としました。物見の梁田政綱(内田健司さん)から松平元康が丸根砦を落としたと報告を受けた織田信長(染谷将太さん)は、一旦は籠城を決め家臣にもそう伝えました。しかしふと亡き父・信秀の教えや水野信元の話を思い出した信長は、2万で出陣したと言われる今川軍は、現段階ではもしや義元の本隊は7千ぐらいではと考えました。信長は梁田に急ぎ物見を命じ、後で善照寺砦で会うこと(=信長出陣)を決めました。今川の大軍に立ち向かう夫・信長が心配でたまらない帰蝶(川口春奈さん)ですが、信長は帰蝶に「そなたの親父殿(=斎藤道三)が生きておられたら、今川義元がのこのこ駿河から出てきた、討つなら今しかないと仰せであろう」と。さらに信長は帰蝶に「会わせたい者がおる」と言って別室にいる幼子を紹介しました。その子は帰蝶の知らぬ間にできていた信長の第一子の奇妙丸(加藤矢紘くん)で、信長は帰蝶に幼子と尾張の行く末を頼み、後顧の憂いなく密かに出陣の時を待ちました。丸根砦と鷲津砦が陥落したとにらんで善照寺砦に到着した信長は、自軍の兵力は3千、一方沓掛城を出て大高城を目指している今川義元の兵力は7千~8千と考えていました。義元が大高城に入ったら勝ち目はなく、その前に決着をつけるためにも義元の兵を分散させる手立てはないか、大高城にいる松平元康の動きはどうかと考えていました。そのころ中島砦では織田方の佐々隼人正(内浦純一さん)が率いる300の兵が攻撃を仕掛けていて、今川軍はそこへ千人以上の兵を出して応戦していました。梁田正綱から「義元本隊の兵は残るは5千余」と報告を聞いた信長はそれならやれると判断し、午後1時、激しい雨の中、善照寺砦にいる皆に出陣を命じました。「桶狭間に向かって走る、他の者には目もくれるな、狙うは今川義元ただ一人!」一方、松平元康がいる大高城では、先刻の到着直後に再度の出陣を命じられたものの松平勢は丸2日間、寝る間もなく働いていて兵たちも疲れ果てているため、湯漬けを食べながらしばし休憩をしていました。しかし元康たちのその態度に怒った鵜殿長照(佐藤 誓さん)が乗り込んできて、直ちに兵を率いて桶狭間に向かうよう命じました。休む暇すら与えず鳴海城へ行け、桶狭間に行けと松平勢をこき使う鵜殿に我慢ならなくなった元康は「本日はここを一歩も動かぬ」と、近習たちと共に激しく抵抗しました。午後2時、織田勢が桶狭間に着いたとき、義元本隊は雨を避けて初めにいた高台から下のくぼ地に下りてきていました。丘の上から今川勢を確認した毛利新介(今井 翼さん)は攻撃を開始し、織田勢は義元ただ一人を目指して一気に丘を駆け下りていきました。今川義元(片岡愛之助さん)は近習の朝比奈親徳に誘導されて逃げていましたが、義元の輿を確認した織田勢が怒涛の勢いで義元を追いかけてきました。義元を護衛していた朝比奈が毛利新介と戦って傍を離れたとき、織田の他の足軽たちが襲い掛かってきて、義元は膝に槍を受けて動けなくなりました。朝比奈親徳(山口馬木也さん)と一騎打ちしていた毛利新介が朝比奈に槍傷を負わせて動けなくなった隙に、この時を逃すまいと動けない義元に襲い掛かりました。毛利新介は台を足場にして飛び上がり、義元にとどめを刺しました。「毛利新介、今川義元、討ち取ったり!」ーー大軍の敵の大将を討ち取った触れが戦場に響きわたり、織田勢は皆、勝利の歓喜にわきました。(義元@愛之助さんの瞳に自分めがけて飛んでくる新介@翼さんの像がだんだん大きくなって映るなんて、すごい演出です)鵜殿の命令に抵抗した元康ら松平勢は、その日はそのまま大高城にとどまりました。惚れた大将の命令なら、無理をしてでも動いたかもしれません。しかし義元は自分を大事にしていると言っても義元の家臣たちは松平の家臣や領民に対して思いやりはなく、また義元自身が三河守となってますます自分たちが三河に戻る可能性がなくなったため、元康は心の隅にあった母の言葉に従ったと思います。(この後の三河勢の岡崎入城や、母・於大の方との涙の再会の場面を見たかったなあ)自分が何かの役に立てばと越前から馬を飛ばして尾張に来ていた明智十兵衛光秀(長谷川博己さん)は、織田方勝利の報を聞いて信長の凱旋を途中で出迎えました。亡き主君の斎藤道三が遺した「信長から目を離すな」という言葉が頭にある十兵衛は、信長に戦勝の祝いを述べた後「今川を倒し、次は何をなされます」と問いました。信長は迷うことなく答えます。「美濃の国を取る、美濃は帰蝶の里じゃ、帰蝶を喜ばせてやる(=妻であり母である帰蝶の喜ぶ顔が見たい)」と。「そのあとは」と十兵衛が問うと、まだそこまでの思案がなかったのか、信長は微笑を浮かべ、十兵衛に背を向けて帰蝶の待つ清州城に戻っていきました。
June 9, 2020
桃巌寺を拝観したときの画像のご紹介です。前回の日記の続きになります。いつの頃からか、私は “名古屋大仏” という名をネットでよく見るようになりました。愛知県内での大仏といえば私は、東海市にある聚楽園大仏ぐらいしか知らなかったのですが、名古屋にもちゃんとありました。 ⇒ ⇒ 名古屋大仏 名古屋の本山といっても名古屋市民でない方にはわかりにくいと思いますが、東山動植物園がある地下鉄の東山公園駅の1つ西の駅です。東山公園駅から桃巌寺までは、歩いて1km以内です。大河ドラマ『麒麟がくる』では織田信長が世に出る前の若き頃を(主役じゃないけど)丁寧に描いているので、父の織田信秀や弟の信勝(信之)もよく出てきました。名前を知って興味がわいた方は、城山八幡宮と桃巌寺をセットで拝観するのもよいかと思います。観音菩薩像の前の細い道は本堂につながります。中に入って、姿勢を正して御仏に向かうと、自然と心静かに祈る気持ちになるものです。『尊勝仏頂尊の宝幢』とありました。一生懸命にこの周りを3周すれば悪事災難を逃れ、願いが成就するとあります。石段があって下に下りていくと、動物たちを供養するお墓があります。墓地のほうに向かって進むと、名古屋大仏が鎮座していました。大仏さまの周りに弟子やゾウやシカがいるので、なんか賑やかな感じです。住宅街からお寺に入る通路のところに注意書きがありました。はい、たしかに大仏さまを見物するだけ、しかも騒々しいというのはいけませんよね。よくわからないのだけど、大きな手のオブジェが。これは住宅街の道路側(網の向こう)から撮った大仏さまの後姿です。大仏さまの周りを1周しています。インドの神話では、ゾウは世界を支える存在として描かれているそうです。なかなか興味深いお寺でした。他のサイトを見ると、今回いろいろ見落とした箇所があるので、また折を見てこの桃巌寺を訪れようと思ってます。
June 7, 2020
先日、名古屋の城山八幡宮(末盛城跡)に立ち寄った後、すぐ近くにもう1か所どうしても気になる場所があり、帰る前に立ち寄ってきました。向かった先は 桃巌寺 で、城山八幡宮から南東に直線距離で700mほど行ったところにあります。都会のお寺なのでもしかしたら駐車場がないかもと思い、念のため近くのコインパーキングを調べておきましたが、バス通り沿いに駐車場がありました。この桃巌寺は「名古屋大仏」のほうで有名なのですが、もう一つ、織田信長の父である織田信秀(大河ドラマ『麒麟がくる』では高橋克典さんが演じて第12回まで登場)の墓所でもあります。上記リンクにもあるように、桃巌寺は建立当初は城山八幡宮から南へ400mほど行ったところの、現在の千種区穂波町にありました。江戸時代中期に今の場所に移設されたそうです。駐車場からバス通り沿いに南のほうに歩いていくと、桃巌寺の門があります。小学校の社会の教科書にも出てくる織田信長の父である織田信秀の墓所なので、名古屋市教育委員会の案内板が立っています。このお寺を建立した織田信之とあるのは、大河ドラマでの織田信勝のことです。参道から見たバス通りです。(この道の真下は地下鉄の名城線です)参道をさらに進んで、バス通りを振り返ったところです。桃巌寺の沿革です。 末盛城、織田信秀、織田信之なんて名前を聞くと、戦国ファンや織田家のファンにはたまらない響きでしょうね。お寺の境内にあるもう一つの拝殿です。先代?のご住職が若き頃インドを旅して深い感銘を受けたらしく、窓ガラスのところにお祈りするときの仏教の真言が書いてあります。お香の香炉ではゾウさんたちが戯れていました。心が和みます。お寺の鐘楼です。 屋根はあまり張り出していないけど、周囲を壁でがっちり囲んだ落ち着いた感じだけど、緑の木々の中にある赤と白でちょっと洒落てます。境内のお庭には、観音菩薩像が参拝者を見つめてたたずんでおられます。(肝心の名古屋大仏の画像は、また次回にご紹介します)
June 6, 2020
2020年NHK大河ドラマ 『麒麟がくる』 の感想です。いよいよ今川の大軍が尾張に向けて出陣し、織田家の最大の危機となりました。しかしこのとき、越前にいる明智十兵衛光秀がこの戦の役に立てばと帰蝶に知恵を貸します。これは長良川の戦いの後で十兵衛が越前に落ち延びれるよう帰蝶が手をかしたお返しでもあり、この先十兵衛が織田信長に仕えるようになるときの伏線でしょうね。そして今回は、ラスト10分のシーンが最高でした。松平元康(風間俊介さん)に宛てた母・於大の方(松本若菜さん)の手紙は、おそらく手紙を読むナレーションだけでも十分に感動できたと思いますが、必死に思いを伝える松本さんの演技も素晴らしいものでした。そして元康に手紙を渡しに行った菊丸(岡村隆史さん)が、「今川ある限り、三河は百代の後も陽があたりませぬ」と今川に取られたままの三河の奪還を、主君の元康に必死に訴えるシーンは最高でした。今川義元は元康を大事にしていると言うものの、三河の領民にしたら戦のたびに三河勢は先鋒を命じられて男を失い、暮らし向きもいいものではなく、このまま今川の支配を領民は望んでいないのです。「三河を再び三河の者に」ーー長らく他国の支配に苦しんできた人々の心からの願いを、この支配から抜け出せるかもしれない千載一遇の好機だからなにとぞ!と元康に強く訴える岡村さんの演技は、目の離せない最高に感動の場面でした。(ここでの音楽が、またいいんですよね)さて新型コロナウイルスによる緊急事態宣言が全面解除になったことを受け、各地の大河ドラマ館も再開されました。(それぞれにコロナ拡散防止のための注意事項はあります) ↓ ↓ ↓ 岐阜 大河ドラマ館 ぎふ恵那 大河ドラマ館 可児 大河ドラマ館 京都 大河ドラマ館 また『麒麟がくる』 の全国巡回展のほうは、このような予定が出ています。 ⇒ ⇒ 全国巡回展 ※こちらも興味深い意見がいっぱいです。 ⇒ #麒麟がくる 永禄3年(1560)、越前に逃れた明智十兵衛光秀(長谷川博己さん)は称念寺で子供たちに手習いを教えるなどして、家族とともに暮らしていました。尾張の帰蝶(織田信長の正室)の元に使いに行った明智左馬助(間宮祥太朗さん)が戻ってきて、尾張の主だった城が駿河の今川にすでに取り込まれていると報告しました。戦が近い、今戦えば尾張は危ない、そして今川義元の元に人質として松平竹千代がいることを思い出した十兵衛は左馬助に、もう一度尾張に使いに行ってほしいと頼みました。今川軍の尾張への侵攻が決まり、松平元康(後の徳川家康;風間俊介さん)は三河勢を率いての先陣を命じられ、気晴らしに駒(門脇 麦さん)と外を歩いていました。今川義元から大切に扱われているとはいえ自分が人質なのは変わりなく、何もかも致し方がないとあきらめるしかない今の状況を駒に愚痴をこぼしていました。そんな元康は駒からお守り代わりになるという丸薬をもらい、生還を約束しました。今川義元(片岡愛之助さん)は鍼の治療で望月東庵(堺 正章さん)を呼んでいました。その折に東庵が松平元康やその祖母の源応尼らと交流があるのを知っている、元康は三河の棟梁にふさわしいと思っている、しかしもし元康が尾張へ寝返ればわが身が危ない、元康のことをどう思うか?と東庵に尋ねました。そして東庵は、元康に関してはその心配はないと答え、義元は出陣を決意しました。永禄3年(1560)5月、今川義元は2万5千の大軍を率いて尾張へ進軍を開始しました。その知らせが入った織田家では清州城で、重臣たちが今川と戦うのにどうしたら、あるいは和議をと喧々囂々と議論を重ねていますが、当主である織田信長(染谷将太さん)はどの意見も決めてに欠けるもので結論が出せず、一人退席してしまいました。信長が部屋に戻ると帰蝶(川口春奈さん)がちょうど馬で出かけようとしていました。帰蝶は「今から熱田の宮へ行く、熱田には松平竹千代の母と伯父が来ている、殿の名前を借りて呼んでしまった、殿も一緒に行ったほうがよい(意訳)」と言います。信長が「その知恵を付けたのは誰だ?」と訊いても帰蝶は答えませんが、信長はだいたいは察しがついていました。(有能な妻とその背後にニヤリ)そのころ越前では、十兵衛たちはいよいよ米を借りることもできない暮らしになり、皆に苦労をかけてすまないと思う十兵衛は考えを変えて仕官の道を探していました。宇野市兵(剣持直明さん)が口をきいてくれましたが、殿・朝倉義景は家臣を雇う話よりも京から招いた公家衆との遊び(蹴鞠)のほうが大事で、それのために自分は出直さなければいけなくなり、十兵衛は強く腹立ちました。そして帰宅して左馬助に「このような国に身をゆだねようとは思わぬ」と決意を伝えました。熱田の宮に着いた信長と帰蝶は、三河と尾張の国境となる緒川城を守る城主の水野信元(横田栄司さん)と竹千代の母の於大の方(松本若菜さん)に会いました。於大はもしや信長から竹千代との仲介を頼まれるのでは?と思い、文を用意していました。そして信元も、竹千代の身辺に送り込んである者に今川から離反するよう説得させる、と。ただし以後、尾張は三河に野心は持たないと約束してほしい、と信元は信長に念を押し、信長もそれを快諾しました。今川軍の先鋒の松平元康は5月17日に境川(現在の愛知県豊明市と刈谷市の境界)を越えて尾張に侵入し、大高城に食糧を運び込んでいました。その折に織田方の丸根砦の近くを通っているのにまったく攻撃されずに済んだので元康は奇妙に思っていましたが、実はそれは信長が家臣たちに命じていたことでした。また信長は、もし元康が丸根砦に攻め寄せてきたら、戦わず砦に火を放って逃げるよう家臣の梁田政綱(内田健司さん)に命じておきました。熱田の宮で於大の文を預かった菊丸(岡村隆史さん)は、松平元康が一人になるときを待って会いました。(このとき元康は菊丸を見て「春次」と言っています)そして母・於大の文をすぐに読むよう元康を促しました。そして母からの文にはーー「この戦は勝っても負けても良きことは何もない、互いが傷つくばかり、それゆえ戦から身を引きなされ、母はひたすら元康殿に会いたい!穏やかに…何事もなく…他に何も望まぬ…。」ーー幼き頃に別れて16年会えない母だけど、これが母上の心からの想いなのかと、元康は胸が熱くなり母を思い涙しました。松平と織田の戦を望まぬ思いは菊丸も同じでした。「今川を利する戦にお味方なされますな、(いくら義元公が殿を大事にしていると言っても戦の度に先鋒を命じられ)今川ある限り三河は百代の後も陽があたりませぬ」と。さらに菊丸は「この日のために殿にお仕えしてまいりました、(今が千載一遇の好機)なにとぞ今川をお討ちください! 織田に付き、今川勢を退け、三河を再び三河の者に戻していただきとうございます、どうか!」と元康に強く訴えました。
June 2, 2020
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