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2022年NHK大河ドラマ 『鎌倉殿の13人』 の感想です。この回は前半は、2代目の鎌倉殿となった源 頼家(金子大地さん)が、勢いと意地だけで稚拙な政をし、そして女性問題では無理を通して、さらに自分の権力を誇示するために安達親子を死なせるところでした。でも後半は梶原景時(中村獅童さん)に対して、疑いがなかったときは全体とのバランスを考えた処分を言い渡し、でも疑いを持った後は流罪という厳しい処罰を言い渡す、君主らしい器を見せました。まだ若いから振れ幅が大きいということなのか、あるいは前半で、今までまともに叱られたことがなかったであろう頼家が、母・政子(小池栄子さん)からは厳しく叱られ、北条義時(小栗 旬さん)からも強い口調で言われ、そして安達盛長(野添義弘さん)からは頼家が立派な鎌倉殿になって欲しいと願う命がけの進言を受けて、頼家なりに何かを学んだということなのでしょうか。そして後半の梶原景時は、自身の長年の過信や油断もあっただろうけど、御家人たちの景時に対する怒りや不満に乗じた三浦義村(山本耕史さん)やりく(宮沢りえさん)の策略もあって、失脚する方向に動いていきました。この先「13人」が一人、また一人と欠けていくようです。こちらではいろいろな感想で盛り上がっています。 ⇒ ⇒ #鎌倉殿の13人 大河ドラマ館、伊豆の国市でオープンしました。 ⇒ ⇒ こちら 大河ドラマ館、鎌倉市にオープンしました。 ⇒ ⇒ こちら 各地のNHK放送局で順次開催する 全国巡回展 が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 建久10年(1199)4月、鎌倉殿となった若い源頼家を補佐するために13人の有力御家人らが集まって合議制がしかれました。とろこがいざ話し合いが始まると、それぞれの訴えに対する下調べもないまま、対立する北条時政(坂東彌十郎さん)と比企能員(佐藤二朗さん)は双方とも自分が肩を持つ御家人を擁護して事を進めようとするだけで、感情的な言い合いになることも。また書記をするの中原親能(川島潤哉さん)は坂東武者たちの人物と名前を知らないことが多く、議事録をとるにも手間取っていました。全く要領を得ない評議に業を煮やした梶原景時(中村獅童さん)が評議を中断させ、時政と能員に意見し、評議のやり直しを求めて一人で退席していきました。景時の言っていることは正論なのですが、ただ言い方が強く、御家人たちの中には景時に対して不快な感情を持つ者もいました。13人の宿老たちのやり方が気に食わず、宿老たちを信用もしない頼家は、自分の傍にいる若い6人の側近だけを信用し、彼らを使って自分の政をしようとしました。そこでまず手始めに鎌倉内の見回りを命じましたが、今のところやってることはといえば他愛のないことばかりです。それでも北条義時(小栗 旬さん)は、頼家がいずれこの6人に大きな権限を与えるだろうと危惧してました。またこの6人の中には義時の息子の頼時と弟の時連がいて、まだ若い頼時は頼家のやり方に疑問を感じるとつい言葉にしていましたが、そこは時連が抑えていました。(あと頼家は時連のことを「この中で一番若い」と言ってますが、少し待て、時連は頼家の母・政子(小池栄子さん)の弟で、つまり頼家にとっては叔父なんですよね。そういった意識がまるでない頼家は、やはり比企に育てられた人のようです。)正治元年(1199)6月、政子の次女・三幡が病で死去し、三幡の乳母父で13人の中の一人あった中原親能はこれを機に出家し、鎌倉を離れていきました。頼家の弟・千幡の乳母ではあるものの、御所内で自分が重んじられていないことに不満に思い、また夫の阿野全成(新納慎也さん)も自分の話をちゃんと聞いてくれないことに不満を持っていた実衣(宮澤エマさん)は、枇杷の師匠である結城朝光(高橋 侃さん)に自分の思うところを愚痴を言ってました。その朝光は実衣に、先日頼家に対する不満をもらしたら翌日すぐに梶原景時に呼び出されて厳しく追及され、謹慎を言い渡されたことを話しました。そう聞いた実衣は、自分がなんとかすると朝光に言いました。ところがそんな頃、頼家は正室のつつじが身重だというのに新しい女に夢中になっていて、しかもその女は安達景盛(新名基浩さん)の妻のゆうでした。(頼家、この前は「鎌倉の風紀を乱す者を許してはならぬ。」って言ってたのにね)ゆうがどうしても欲しい頼家は景盛に直談判しますが、たとえ相手が頼家でも景盛にとってこれだけはどうしても譲れないことでした。父であり先代の源頼朝に仕えてきた安達盛長(野添義弘さん)は、無理を押し通して頼家の名に傷がつかぬようになんとかわかってもらおうと必死で「こればかりは承服できない。たとえ首をはねられても。」と強く進言しました。盛長の言葉を聞いた源 頼家(金子大地さん)はニヤリと笑って、安達親子の首をはねるよう、側近たちに言いました。しかしそう命じられてもそんなことはできない若者たちがどうしたらと思ったとき、物陰に義時の姿を確認した梶原景時(中村獅童さん)が「こんなことで安達親子を討てば必ず騒ぎになる。御家人たちが黙ってはいない。」と頼家に進言しました。そう言われた頼家が次に何かを言おうとしたとき、母・政子が姿を現しました。「自分のやっていることがわかっているのですか!」ーー母にそう叱られても頼家がまだ減らず口で言い返そうとすると、義時は「安達殿ほど忠義の方はいない。こんなことで・・許されることではない!」と強く諫めました。大人たちに真剣に叱られた頼家は悔し涙をこらえ、自室に戻っていきました。実は頼家の行動を止めたい頼時が密かに梶原景時に相談し、景時は義時に事の仔細を伝え、義時の姉で頼家を唯一厳しく叱れる政子を呼んでいたのでした。頼家のこの一件は御家人たちの信用を損ねてしまい、鎌倉が分裂することを恐れた景時は、不満を持つ御家人を一掃するために謀反の疑いがある結城朝光を見せしめに処刑すべきと考えました。ところが景時のそのやり方に正面から異を唱えることができない義時は、三浦義村(山本耕史さん)に相談し、景時を訴える訴状の人数を集めるよう頼みました。義村がまず北条時政(坂東彌十郎さん)のところに行くと、時政の妻のりく(宮沢りえさん)がこの機会に梶原を引きずり下ろそうと言い、さらに時政の名を訴状の初めではなく「御家人の重石になるように」と一番最後に書かせました。(私はこのときのりくの行動の意味が予想できましたが、やっぱりそうでした・笑)義村が次に比企能員(佐藤二朗さん)に行って署名を求めると、能員は時政の名が一番終わりにあることに疑問を感じました。でも義村は当たり前のように「一番は比企殿に譲られた。」と言い、それに納得した能員は、そのまま最初に名を入れました。(相手を瞬時に納得させる言い回しができるなんてすごいなあ)景時を訴える連判状を密かに数人集めてくれと義時は頼んだのに、義村と和田義盛は結局は侍所で大っぴらに署名を集めていました。宿老たちの中には千葉常胤のように戦になるやもと再び気力がわいてきた者もいれば、土肥実平のようにこういうやり方はよくないと異を唱える者もいました。そして侍所で大騒ぎになっていると八田知家から知らされた景時が来てみたら、そこには自分への不満や怒りをあらわにした御家人たちの姿がありました。計67名の署名が集まり、義村は大江広元(栗原英雄さん)に提出する前夜、報告のために北条時政のところに持っていって見せました。ところがそのとき、りくが剃刀で一番最後に書いた夫・時政の名だけ切ってしまい、時政はこの件には関わりがなかったことにしてしまいました。一方、訴状を受け取った大江広元でしたが、景時を不憫に思い、事を穏便に済ませる手立てはないのかと考えていて頼家に渡さずにいたのですが、和田義盛(横田栄司さん)に迫られて結局は頼家に訴状を渡しました。評定が始まり、景時は申し開きもなく判断を頼家に任せ、66名の御家人の思いを受けて景時を許すことも斬ることもできない頼家は、景時の役目を解任して謹慎を言い渡しました。鎌倉での景時の一件はすぐに、京の後鳥羽上皇(尾上松也さん)の耳に入りました。景時は自分の側近の土御門通親(関 智一さん)とよしみがあり有能であると聞いた後鳥羽上皇は、景時を自分の手元に置こうと考え、通親に文を書かせました。後日、景時を訪ねた義時が景時が早く復帰できるよう今動いていると言うと、景時は京の後鳥羽上皇から誘いの文が来たと言って、義時にそれを見せてくれました。鎌倉にいても仕方がないと京に行こうとしている景時を、義時はなんとか説得して止めようとするのですが、悔しさが溢れる景時の目からは涙がこぼれ落ちました。さて結城朝光ですが、謀反の確たる証拠がないということで訴えは取り下げられたのですが、実は梶原景時を落とすために義村と裏でつながっていたのでした。義村から「しばらく姿を隠せ。他言無用。実衣に相談をもちかけたのは自分の一存。」ーーそう念を押され、朝光は大金を受け取りました。そして景時は、後鳥羽上皇から誘いの文がきたことを頼家に知られてしまい、これは自分への忠誠心がないことだと頼家に責められました。「この鎌倉に忠義を誓わぬ者は要らぬ!」ーー頼家は怒りをこめて景時にそう告げ、景時に奥州の外が浜に流罪を命じました。正治2年(1200)正月、意を決した景時は奥州ではなく京に向かうために、頼家の子・一幡を人質にとって比企の館に立てこもりました。比企能員は密かに義時に助けを求め、頼家の耳には入らぬようにと念を押しました。義時が景時と対峙したとき、景時は上皇からの誘いの件を頼家に伝えた義時を責めたのですが、これは景時が京に行けば新たな戦が始まり、さらに朝廷との争いの火種になることを義時が危惧したからでした。「なまくらでは終わりたくなかった。」ーー景時はそう言うと人質にしていた一幡を母親のせつに返しました。一幡が比企の手に戻ると同時に、武器を持って隠れていた兵たちが一斉に景時らを囲みましたが、義時は「手をだすな!」と一喝、景時は「これより流罪先の外が浜に参る。」と言って出ていこうとし、義時も景時らをそのまま通すよう命じました。景時は去り際に、かつて義時が亡き上総広常に言った言葉「我らは坂東武者のために立ち上がった。源氏は飾りにすぎない。」を再び義時に念を押すように言い、義時も景時の目を見て深くうなずきました。それを見た景時は「己の道を突き進め。」と、そして置き土産として使用人の善児を義時に譲りました。景時が去った後、義時はすぐに息子の北条頼時(坂口健太郎さん)に、これから西に向かうであろう景時を討ち取るために兵を調えるよう命じました。(ところで善児は義時の兄・宗時を殺めた人物なんですよね。義時が知らないだけで。)
July 26, 2022
2022年NHK大河ドラマ 『鎌倉殿の13人』 の感想です。この回は、源頼朝の跡を継いだ源 頼家(金子大地さん)を補佐していく13人がこうして決まっていったという流れと、生い立ちによる頼家の人間的な未熟さが頼朝と比較する形でどうしても見えてきてしまった回でした。頼朝は少年の頃に処刑は免れたものの、その後は流人生活で敵方の監視下に置かれ、常に周りを気遣う生活でした。しかしその苦労を通じて、己を抑えて我慢するということや、ここぞというところで言葉や贈り物で人の心をつかむという術を身につけてきました。でも頼家は生まれながらにして最高権力者の子で、父が経験してきたような我慢をすることがなく、自分が何をしても周りは言葉を選んで自分が傷つかぬよう大事にしてくれてたので、自分が言葉を選ぶということを知りません。その意識が叔父の北条義時(小栗 旬さん)に出ています。頼朝は叔父の源行家に対しても、関わりたくない、役に立たないとわかっていてもある程度の礼節はありました。でも頼家は義時に対して叔父という敬意はまるで感じられず、御家人の一人にすぎない感じです。また頼家は父や宿老たちのように戦場で命をかけたことがないから、地位や領地を必死で守ろうとする御家人たちの思いが想像できないし、戦場でなくてもここで出方を間違えたら命がないという場面も経験してません。父・頼朝は人間関係を良くするために、心にないことでも相手に言ってきたけど、その必要もなかった頼家は自分が思ったままを口にしてしまいます。若さゆえの意気込みと万能感は誰にでもあるだろうけど、自分の思い通りにいかなかったときに、常に周りが配慮してくれて厳しく叱られることがほとんどなかっただろう頼家は、意地とプライドが先だってしまって忠言を素直に受け入れられず、反省もなく歪んだ方向に進んでしまうのかなと思いました。こちらではいろいろな感想で盛り上がっています。 ⇒ ⇒ #鎌倉殿の13人 大河ドラマ館、伊豆の国市でオープンしました。 ⇒ ⇒ こちら 大河ドラマ館、鎌倉市にオープンしました。 ⇒ ⇒ こちら 各地のNHK放送局で順次開催する 全国巡回展 が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 建久10年(1199)1月、源頼朝の亡き後は源 頼家(金子大地さん)が跡を継ぎ、頼家は母である尼御台の政子から、父・頼朝の挙兵のきっかけとなったという髑髏を「上に立つ者の証」として渡されました。頼家は宿老たちを前にして「父の跡を継ぎ、父を超える。」と宣言しました。この後で早速、頼家の乳母父である比企能員(佐藤二朗さん)と頼家の祖父である北条時政(坂東彌十郎さん)の勢力争いが始まりました。しかし頼家は「自分は家の名で人を選ぶことはしない。力のある者を登用していく。」と力強く宣言し、御家人たちを黙らせました。実は頼家は御家人たちにどう臨んだらいいのかを、あらかじめ梶原景時から助言を受けていて、所信表明の後でさらに「あの者たちを信じてはいけない。」と景時から念を押されていました。その様子を見ていた北条義時(小栗 旬さん)は姉で尼御台の政子(小池栄子さん)に報告、そして同時に頼家から若くて力のある者を集めて欲しいと頼まれたことも話し、嫡男の北条頼時(坂口健太郎さん)と弟の北条時連(瀬戸康史さん)に、頼家の側に行くよう、さらに時連には頼家の動きを自分に逐一知らせて欲しいと頼みました。そんな頃、京の御所では後鳥羽上皇の後見役である土御門通親の暗殺計画が露見し、かつて大姫との縁談もあった一条高能ゆかりの御家人たちが捕らえられました。鎌倉の宿老たちは京の御家人たちを守ってやるべきだと頼家に進言しましたが、三善康信(小林 隆さん)から「鎌倉が自ら罰せよと上皇からお達しがある。」と聞かされ、さらに梶原景時(中村獅童さん)は通親と対立してはいけないと進言を受けました。結果、頼家は中原親能(川島潤哉さん)に、京へ行って事件に関わった御家人たちを処罰してくるよう命じました。頼家は自分の手足となって働く有能な若武者を6名集め、政の勉強会や京で朝廷の公家たちと渡り合うときに役立つ蹴鞠の稽古始めました。しかしこの時、頼時は「我らがやるべきは蹴鞠ではなく弓と馬」と感じていて小声で時連に本音をもらし、またその後で時連の蹴鞠の上達で頼家が褒美を与えていたのを見て、頼家のやり方に疑問を感じていました。さて新たな鎌倉殿となった頼家の下には、頼朝のときに納得がいかない判決を受けた者たちのやり直しを始め、対立する御家人たちが頼家に判決を仰ぐ書状が山のように届いていました。和田義盛(横田栄司さん)と梶原景時の侍所別当の件でもそうなのですが、頼家にはわからない昔の話で両者が延々と主張を続けるだけです。話を聞くのも疲れた頼家は、黙って一人で退出してしまいました。頼家が正室にしたつつじ(北 香那さん)のところに安らぎを求めてきてみたら母の政子が来ていて、つつじに御台所としての心得を教えていました。頼家は母・政子につい愚痴を言うのですが、母からは当人たちにとっては大事なことだから耳を傾けるようにとたしなめられ、頼家はまた気が重くなりました。そんなところに前の正室のせつ(山谷花純さん)が遠慮なく入って来て、頼家との間にできた子・一幡のことを嬉しそうに自慢気に話し、あげくは頼家との間にまだ子がないつつじを見下すことまで言いました。場のうっとおしさに嫌気がさして、頼家はまた一人で退出していきました。(つつじのいないところで一幡のことを報告すれば頼家もふつうに喜んでくれるのに、正室の座を奪われての腹いせとはいえ、せつもやめとけばいいのになあ)対処できない仕事を抱えることになった頼家を案ずる義時は、妻の比奈の助言もあり、訴訟に関しては4名の文官が下準備をしてから頼家に判決してもらう形を取り、梶原景時には文官と頼家との間を取り持って欲しいと景時に相談しました。義時が根回しで宿老たちにそのことを話すと、比企能員がならば自分もそれに加わると言い出し、比企が入るなら自分もと北条時政(坂東彌十郎さん)が加わりました。そして能員と時政は互いに勢力を強めるために、一人、また一人と自分の味方になる有力御家人を引き入れていきました。畠山重忠(中川大志さん)の妻は時政の娘ですが、領地の地理的なことで比企との対立を避けるために辞退しました。何かと張り合う時政と比企能員(佐藤二朗さん)はどちらも、勢力維持のために鎌倉中の御家人に声をかける勢いでした。「頼朝という柱を失い今の鎌倉は崩れる寸前。頼家では柱になれない。」ーー重忠は本音ではそう考えていて、こっそり義時には打ち明けました。能員は八田知家(市原隼人さん)に声をかけて手土産の砂金を持たせ(でも知家は「これで比企についたわけではない」と言って、もらう者をもらって去りますが)、さらに文官4人を豪華に接待して味方に取り込もうとしていました。頼家を補佐する者が5人から12人になってしまい、義時は景時からも苦情を言われ、どうしたものかと思っていました。(土肥実平のように、まだ名乗り出る者もいた)ところがそのことを姉の政子に報告すると、政子は「もう一人加えて欲しい。」と言って、義時の顔をじっと見つめました。義時は辞退したのですが政子から「頼家はまだまだ若い。嫌なことがあるとすぐ逃げ出してしまう。叔父として傍にいてあげて欲しい。」と言われ、尼御台の強い推挙ということで13人目となる決意をしました。ところが宿老たちの動きは頼家の耳にも入っていて、宿老たちが勝手に動くことを頼家は快く思わず、自分はそんなにも頼りないのかと義時に当たりました。義時は頼家が少しでもやりやすい形を探っていると説明しますが頼家は納得せず、そして義時だけは別の形で自分の傍にいて欲しかったのに義時が13人の中に入っていて、それは母・尼御台の考えだと知ると頼家は「もう北条の者の言葉は信じぬ!」と怒りを義時にぶつけました。「お父上(頼朝)のこともそうやって支えてきた。頼朝様も最初から鎌倉殿だったわけではない。」と義時は頼家を説得しました。こうして頼家の補佐をする者が13人に決まり、当初より人数が増えたことに対して頼家は「誰か一人に力が集まらないので好都合だ。」と言い、それは「少ない者に力が集まればよからぬことが起こる。」と義時からの進言を受けてのことでした。しかしその後で頼家は居並ぶ御家人たちに向かって「私はだまされない。はなからお前たちを信じてはいない。父上は最後まで御家人に心を許していなかった。自分も同じだ。」と言い出し、今まで助言を聞いてきた梶原景時にもそうだと言いました。そして頼家は紹介したい者たちがいると言って、6人の若い側近を呼びました。頼家はこの6人を「わしが選んだ。手足となって働く者たちだ。信じられるのはこやつらだけ。」と言い、そして「これより、わしの政はわしとこの者たちで行う。」と13人を前にして言い切りました。さらに義時に向かって「新しい鎌倉を皆で築いてまいろうではないか。」と皮肉な笑みを向け、言いたいことを言ってさっさと退席していきました。命をかけて戦場で働いたこともない若い頼家が、自分の意地だけで政をしていこうとしている、そんな姿に宿老たちは先々を不安に思うばかりでした。
July 19, 2022
先週の金曜日の7月8日、安倍晋三先生が応援演説に入った奈良県で、卑劣な凶弾によって命を落としました。(享年67)安倍先生は第90・96・97・98代の、歴代最長となる8年と8ヶ月に渡り内閣総理大臣を務められ、その後も日本を守り、力強い日本を取り戻すために尽力してこられました。あまりにも突然の信じられない訃報でした。多くの人が涙し、悲しみに暮れ、そしてそれぞれの思いで安倍先生を偲びました。安倍先生が国際舞台で活躍されてたときの画像とか、国内で演説されていたときの画像とか、本当にいろいろありました。中でも日本にいる韓国人女性が事件の前日に街頭演説を見に行って撮ったという写真が「美しい」「空がまるでアニメのシーンみたい」と話題になりました。空の色と、選挙カーの上で聴衆全体に手を振る安倍先生たちの構図がステキです。 yoonさん には掲載許可をいただいてあります事件の後、命を落とした奈良の大和西大寺駅前には、献花を持って弔問に訪れる人が続々と集まりました。若い方々が多く、長い行列がずっと続きました。12日に行われた東京での葬儀には、沿道は安倍先生を一目見送りたい人で埋め尽くされました。東京の自民党本部に設けられた献花台には、大雨でも多くの人が献花と記帳に訪れ、2時間待ったという方もあったほど長い列を作りました。今日は献花台設置の最終日で土曜日ということもあり、全国から弔問に訪れる人が東京の党本部に集まったそうです。自民党愛知県連には、今週の月曜から金曜まで献花台が置かれました。私は週の前半が忙しかったので、昨日の金曜日に行ってきました。事務所の一部が献花台になっていて、この正面のテーブルと両脇のテーブルと、さらに廊下に置かれた2台のテーブルと、どれも花束が山積みになっていました。みなさん、思いは同じなのですね。安倍先生の訃報を受けて、世界の200以上の国と地域から弔問を希望する連絡が外務省にありました。中には「今から飛行機に乗っていいか」という国まで。岸田文雄首相は安倍先生の葬儀について、秋に「国葬として実施する」と発表しました。世界の数多の国家元首、またはそれに並ぶ方々が来日を希望されてて、その方々をお迎えするのですから、日本国として対応をするべきだと思ってます。9月に日本武道館で、との話もある安倍先生の国葬なので、一般席には希望者が殺到するでしょうね。遠方からの方はホテルの予約とかもあるから、いろいろ早く決まって欲しいですね。政治のことは正直よくわからない私ですが、昨年秋に安倍先生が名古屋に応援にいらしたときに拝聴して、話がとてもわかりやすくて感激しました。今年の5月にも名古屋(旧市民会館)にいらして、その時は有料の講演だったけど、聞きやすい声とわかりやすい話で、とても有意義な時間となりました。強い日本を取り戻す愛国心の種を全国にたくさんたくさん蒔いていってくださった安倍先生に心から感謝です。
July 16, 2022
5月の末ですが愛知県蒲郡市に行く用事があり、その折に前々から行ってみたいと思っていた 竹島水族館 に行ってきました。少し前に地元のTV番組で「今、大人気の」と紹介があり、たしかに蒲郡市に小さい水族館はあるけど、そんなにいい所だったかな?と最初は思いました。でも番組を見ていたら、水族館の生き物を紹介するPOPをスタッフの皆さんが自分たちで作っていて、それがとにかく可愛くて面白くてわかりやすい、とのことでした。なのでいつか愛知県東部に行くことがあったらと狙っていて、ちょうどいい機会だったので行ってきました。土曜日で午前中は仕事だったので、水族館に着いたのは午後2時頃で、入場券売り場の前にはけっこう長い行列があり、入るのに20分ほど待ちました。でも入場券売り場の少し手前から、あの評判のPOPが出ていました。そして中に入れば、POPの内容もパワーアップです。たしかに、これは楽しくてわかりやすい!これは真っ白で目が黒く見えるので、アリゲーターガーの白変種のほうでしょう。館内が混雑していたのでゆっくりの観賞はできませんでした。でも興味深い話がいっぱいで、俗名ウーパールーパーがいました。メキシコサラマンダー(ウーパールーパー)~~綺麗な色です。目の前でじっくり見ることができました。ところどころに「魚歴書」があります。プロトプテルスエチオピクスだけだとピンとこないけど、実はこの魚・・ハシビロコウの大好物だそうです。でもこのサイズだと、さすがのハシビロコウも食べられないとありました。ウツボです。水槽の蓋があいていると脱出をする子もいるとか。カサゴのマンションです。狭い場所が落ち着くそうです。これはクエだと思います。これのPOPはかなり笑えるので、この水族館で読んだほうがいいです。ゴンズイという魚で、集団で泳ぐみたいです。ぱっと見はストライプのラインが綺麗だけど、毒針があるそうです。ハナミノカサゴです。ひれを広げたら綺麗ですね。ここの魚たちには、「魚歴書」の他に「通信魚」があります。スタッフさんがつけたカワハギさんの通信魚です。模様があるほうは魚屋さんでも見るカワハギだけど、白いほうもカワハギなのかな?ちょっとわかりません。この竹島水族館には魚類の他にもカピバラとアシカがいるのですが、今回はお目にかかれませんでした。また次回、会えたらいいな~。順路の終わりのほうには、見た目にも美しい魚たちがいました。岩の配置とかもいい感じです。キンギョハナダイです。ピンク系オレンジ系など、住んでいる場所によって微妙に色が違うとありました。
July 11, 2022
2022年NHK大河ドラマ 『鎌倉殿の13人』 の感想です。この回は、大きな組織のトップが死を迎えると、組織を維持していくためにその下の者は感傷にふける間もなく、次々と準備をしていくのを見ました。現代なら公共施設として火葬場があるけど、あの時代は本人がまだあの世に旅立ってなくても、医者がもう長くないと判断すれば火葬場の準備が進められたのですね。そして源 頼朝(大泉 洋さん)の死によって、これまであれだけ一丸となってやってきた北条家が、四分五裂になってしまいました。新しい武家の世を作るために頼朝と共に最前線で戦ってきた北条義時(小栗 旬さん)と政子(小池栄子さん)は、ようやく安定した武家の世を守ることを第一としました。でも比企への対抗心と、手に入りそうな権力に浮かれてしまった北条家の他の人々はそうじゃなかったのでした。まあそれまでの流れで、その人がそう考えるようになってしまう下地はありましたが。妻・御家人という立場で頼朝に仕えてきた政子と義時は、常に言葉一つでも選びながら言い、思うことがあっても幾度も言葉をのみこんで、我慢を重ねてきました。一方、御台所の妹として厚遇され、でも表には出ない分わりと伸び伸びとやってきた実衣(宮澤エマさん)は、思うことをそのまま言える人でした。実衣は一歩下がった位置にいて、自分が姉や兄に守られていることがわからないのでしょう。(だから御台所は無理)また時政から見た頼家は、本来は可愛くて仕方がない孫のはずが、比企に取られたと思う存在でした。孫は自分の手元にあってこそ特別な情がわくと思います。ましてや時政には自分の子もいるから、仕方がないですね。さて次回からいよいよ鎌倉が混沌となっていくのですが、その予告ムービーが こちら です。「パワーゲーム」とか「権力闘争」とか、スゴイ言葉が並んでいるけど、うん、たしかこういう時代でした。こちらではいろいろな感想で盛り上がっています。 ⇒ ⇒ #鎌倉殿の13人 大河ドラマ館、伊豆の国市でオープンしました。 ⇒ ⇒ こちら 大河ドラマ館、鎌倉市にオープンしました。 ⇒ ⇒ こちら 各地のNHK放送局で順次開催する 全国巡回展 が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 建久10年(1199)1月、相模川橋の追善供養の帰り道に意識を失った源頼朝は、医者の見立てでもう長くはないと言われ、北条義時(小栗 旬さん)らの頼朝のごく身近な者たちは、当面の間どうすればいいのかと考えていました。義時は口の堅い畠山重忠(中川大志さん)と梶原景時(中村獅童さん)に「速やかに次の政の形を決めるから、それまではこのことを内密にしたい。落馬を見た者全てを捕らえて欲しい。」と頼み、医者は砂金と馬を渡して口封じをすることにしました。そして義時は頼家の乳母父の比企能員にも内密に伝えたのですが、父・北条時政が三浦義澄にこっそり漏らし、義澄は嫡男の義村に伝え、こうして頼朝のことは鎌倉の内部にじわじわと広がっていきました。一方、源頼家がこのまま次の鎌倉殿になれば比企の権威が強くなり、それが面白くない時政の妻のりくは、北条の権威を守るために夫・時政をたきつけ、頼朝の弟で時政の娘婿でもある全成を次の鎌倉殿になるよう説得を始めていました。そして頼朝の側近たちは頼家が跡を継ぐための朝廷への働きかけを始め、中原親能がそれを受け持ち、三善康信(小林 隆さん)が朝廷のしきたりで喪中の昇進はできないと言うので、頼朝が息を引き取る前に急ぎその許しをもらうことになりました。義時が矢場でひと息ついていたら三浦義村(山本耕史さん)が来て、頼朝の死が近いことを知っていると口にしました。あれだけ慎重に内密に事を進めていても、こうして話が漏れていることに義時は落胆しつつ、でもこの機会にと義時は義村に話しました。「頼家が寵愛している女性・つつじにもし男子が生まれたら、乳母父を三浦から出して欲しい。北条と比企のいさかいが大きくなったら三浦に間に立って欲しい。」と。義村は「乳母父の件は頼朝が考えたことにしてくれ。」と条件をつけて承諾し、御家人同士の地位争いでようやく自分たち三浦にも出番が回ってきたかと嬉しそうでした。意識がなく体も動かない頼朝の世話を、政子は下女にさせずに自分で付きっきりで看病して行っていました。姉の政子がさすがに心配になった義時は妻の比奈(堀田真由さん)に看病を交代させ、政子も頼朝の容態が変わらぬうちにと休息に入りました。しかし政子が退室したらすぐに八田知家が来て、意識のない頼朝のそばで頼朝の火葬の打ち合わせが行われ、これが現実でした。別室では父・北条時政と全成が待っていて義時に「全成を次の鎌倉殿にする。御台所を北条の家から出したい。」と強く主張し、義時を困らせました。「全成が鎌倉殿になったら鎌倉が二つに割れる。」ーーそれが義時の考えでした。そして義時は、北条と比企の争いで比企の出の妻・比奈のことを案じましたが、義時のことを一途に思う比奈は「私は北条の女子。」と義時に迷いなく言い笑いました。八田知家(市原隼人さん)の指揮の元、頼朝の火葬場は目隠しをした中で進められ、北条時連(瀬戸康史さん)、北条頼時(坂口健太郎さん)、鶴丸(きづき さん)らのごく少数の者たちで突貫工事で行われていました。その頃ようやく頼家が頼朝の元に帰ってきて、父の容態を見た頼家はもう助からないと判断し、そして父のことが噂で広まっているならもう公表すればよいと考え、御家人を集めて皆に知らしめるよう、義時に命じました。そんな折、義時は三善康信と大江広元から、都人の習わしである「臨終出家」という話を聞き、それはいよいよ死が近づいたとき極楽往生できるというものでした。阿弥陀如来像の手に5色の紐をかけて頼朝の手と結び、僧の読経が流れる中、頼朝の髷が落とされ、その時に頼朝の髪の中から小さな観音像が出てきました。それは6年前に範頼のことがあって比企尼と会ったときに、尼には捨てたと言って尼を激しく悲しませたあの像でした。御家人たちに自分を強く見せるために肩肘張っていた頼朝を思い、政子は涙しました。政子(小池栄子さん)が頼朝(大泉 洋さん)の看病に向かうときに妹の実衣が来て、夫の全成は鎌倉殿になる決意をした、自分も御台所になると言いました。そんな実衣に政子は「あなたに御台所は務まらない。」とはっきりと伝えました。政子は頼朝との思い出の木の実を折敷に乗せて、頼朝の枕元に置いておきました。疲れてうたた寝をした政子がふと目を覚ますと、頼朝は起きて木の実を持って縁側に出ていて、その姿を見た政子は嬉しくてすぐさま人を呼びに走りました。しかし政子が頼朝から目を離したその瞬間に頼朝は息絶えてしまい、政子はついに旅立ってしまった夫・頼朝にすがって、ただ泣くばかりでした。(起き上がった頼朝の姿は政子の夢かと思いましたが、よく「命の灯が消える前にほんの一瞬だけ力が出る」と言われることだったようです。)すでに用意してあった火葬場で頼朝の遺骸は荼毘に付されました。長年仕えてきた主・頼朝があの世に旅立ち、かつて主がいた場所を見つめる安達盛長(野添義弘さん)は、ただ寂しさと悲しさに暮れていました。そんな盛長に義時は頼朝の骨壺を運ぶ役目を頼み、一旦は断った盛長でしたが「生前最も繋がりの深かった者が。鎌倉殿も安達殿をお望みかと。」と義時に言われて心の救いになったのか、納骨の儀で持仏堂に骨壺を運ぶ役目を引き受けました。御家人たちの間では次の鎌倉殿は頼家と全成のどちらにすべきかで激しい口論が繰り返され、それを見かねた義時は「御台所の裁きで」と皆を収めました。義時からそう言われた政子は、初めは政治のことには自分は口をはさめないと断りましたが、義時から「姉上はそういう立場になった。悲しむのは先のことに。」と言われ、決心した政子は頼家の意志を確認しました。鎌倉殿になる自信がないと言う頼家に政子は、18年前に頼家の父・頼朝と初めてここに立ったときの思いを語り、「私と義時はあなたの才を信じる。鎌倉を混乱から守れるのはあなただけ。」と励まして、頼家は次の鎌倉殿になる決意を固めました。しかし!、頼家は実は事前に梶原景時に相談していて、御台所の母・政子から力強い推挙をもらうことを計算していたのでした。次の鎌倉殿は頼家に決まり、父・時政と義母・りくは激怒して政子と義時を激しくののしり、義時は「鎌倉あっての北条」と父を諫めますが時政は聞く耳持たずでした。そして政子が全成(新納慎也さん)に頼家を助けてやって欲しいと頼むと、妹の実衣(宮澤エマさん)から「騙されちゃ駄目よ。」と思いがけない言葉が。姉の政子は自分が御台所になるのが嫌だから反対したと考える実衣は、姉と兄に思い込みの嫌味をぶつけてその場から立ち去っていきました。(姉から御台所は無理だと言われ、なぜ自分はふさわしくないのかを深く考えることができない、感情的にすぐに言葉と態度を出す、そういう短絡的なところが実衣は御台所という頂上に立つ人にはふさわしくない、ということだと思います。)自分の娘の実衣を御台所にできず時政は不愉快でしたが、妻のりくがささやきました。「頼家は気性が荒く、女子癖は悪い。いずれボロを出すからその時が勝負。」と。(たしかに頼家は頼朝のような苦労がなくて己を抑えることをしてないですからね)義時は亡き頼朝を偲びつつも、自分の身内との関係までもがおかしくなってしまったことを思い、身も心も疲れ果ててしまいました。そこへ嫡男の頼時が来て、頼朝の死因は落馬による外傷ではなく、先に意識を失って落馬したのであって、皆が武家の恥だと言うような原因ではないと言いました。義時は頼時の観察眼を褒め、自身も少し安心できた思いでした。とはいえ、我が身を捧げてきた頼朝は他界し、そしてその後に起こった諸々ことで疲れ果ててしまった義時は政子に、自分はもう鎌倉を離れ伊豆に戻ると告げました。しかし政子にとって、まだ若くて耳ざわりの良いことを言う御家人に乗せられて流されかねない頼家は頼りなく、これからこそ義時の力を必要としていました。「私に全てを押し付けて自分だけ逃げるなんて卑怯よ!」ーー去ろうとした義時が姉の政子にそう言われて立ち止まったとき、政子は義時の手を取り「これからは私を支えて。お願い。」と言って、義時の手にあの小さな観音像を握らせました。「鎌倉を見捨てないで。」ーー政子の心からの訴えに義時は決心が揺らぎました。
July 5, 2022
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